しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タンペレからの帰り,駅のベンチで電車を待っていると,隣に日本語を勉強しているフィンランド人の若い男性がいました。話しかけると,日本語は難しいから挑戦しているのだとか。彼の持っていた本から,外国人の日本語能力検定というものがあるということを知りました。日本で行われている英語検定のようなものでしょう。1級から5級まであって,彼が持っていたのは3級でした。
私は漢字に書き順というものがあるとか,日本人でも,というか,私は,漢字は読めるけど意外と書けないものだとか,そういうたわいもない話をしました。
やがて電車が来たので彼と別れて,ヘルシンキに戻りました。

ヘルシンキに着いて,駅のあたりで何か夕食を食べようとレストランを探しました。
ヘルシンキにもマクドナルドも日本食のレストランもありますが,アメリカを旅行しているのとは違って,この国ではそうしたものを食べたいと思わないのも不思議なことですが,おそらく,それ以外の選択肢がたくさんあるからでしょう。
フィンランドといえば有名なロバーツコーヒーというチェーン店がありますが,今回の旅では入る機会がありませんでした。次回来るときは,それはおそらく遠い将来ではないでしょうが,ぜひロバーツコーヒーでシナモンロールを食べたいものだと思いました。
ロバーツコーヒーの創業者はロバート・パウリグという人です。7代前の先祖であるビュールストロムはフィンランドで初めてコーヒーを焙煎した人物で,ヘルシンキの市長も務めました。
ロバートの祖父にあたるエドワード・パウリグは「ニッセン」というコーヒーショップを100店舗以上経営し「フィンランドのコーヒー王」と呼ばれました。ロバート・パウリグは祖父のもとで修行を積み,ブラジルでコーヒーに関する基礎を身につけました。アメリカを旅していたロバート・パウリグはアメリカのカフェ文化に感銘を受けてフィンランドでカフェをはじめることを決意し,1987年にヘルシンキの海沿いにある「ヴァンハ・サタマ」でロバーツコーヒーの1号店をオープンさせました。現在は日本にも数店舗進出しています。
この晩は,駅の近くのカフェジャバという名のカフェに入って,写真のようなサラダとコーヒーの夕食にしました。フィンランドではこれが一番です。
こうして私のフィンランド旅行の4日目が終わりました。

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 台風15号に続いて台風19号と,また,自然災害が日本を襲いました。台風に地震,火山の噴火…,いつどこでそうした自然災害が襲うかわかりません。毎回毎回,日本のどこか,それも,いつも別の場所で,そうした被害に見舞われます。だれしも無縁ではありません。
 テレビのニュースを見ていると,いつも新しい家がこれで台無しになっています。この国で家を建てたところで,いつそうした自然災害に見舞われて,全財産を無にするかわかりません。自然災害の頻発する日本では家を持つことは最大のリスクなのです。

 私は,若いころから,もしお金持ちだったら,大きな家を建てたりするのではなく,理想はホテル住まいだと思っていましたが,調べてみると,それは決して空論ではなく,それを実践している,あるいは,していた人が少なくないことを知りました。これまででもそうして生きていた人がいるのですが,特に現代は,スマホさえあれば事足ります。そこで,持ち物は最小限にして,それでも必要なものがあれば,トランクルームを借りてそこに保存すればいいのです。
 ホテル住まいなら,光熱費もいらず,掃除も必要がありません。コインランドリーさえあれば洗濯も大丈夫です。固定資産税も要りません。ホテルにWifiが完備されていて,おまけに朝食もついているのなら申し分ありません。その部屋がいやになれば出ていくだけだし,自然災害で自分の家が壊れる心配もありません。
 究極の断捨離とは,ホテルに住んで,できる限りモノを持たないで,身軽に,そして,身の丈で分相応に生きること,でしょう。難しいことですが。

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 プロのカメラマンでもない私は,単に趣味として写真楽しんでいるだけですが,それでも,昔からカメラというものにたいそう興味がありました。
 家には山ほどカメラがありますし,ずいぶんと長く人間をやっていると,カメラの歴史についても詳しくなります。
  ・・・・・・
 カメラは,昔,ドイツのライカに代表される距離計連動式のものでしたが,家1軒買えるほどの値段でした。やがて,1960年ごろ,日本で一眼レフカメラが実用化されて以来,それがカメラの標準形となって,ドイツに変わって日本のメーカーが世界を君臨するようになりました。
 やがて,オートフォーカスという技術が開発されました。今となっては当たり前ですが,カメラがピントを自由に合わせてくれるようになったのは,その当時は驚きでした。そして,その次がディジタルカメラで,フィルムというものがほとんど姿を消しました。
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 こうした新しい技術が開発されるたびに,それぞれのメーカーは,それに見合う製品の開発が急務となり,失敗したメーカーは生き残れず姿を消していきました。生き残ったメーカーは,それそれ,どのようにして新しい技術を採り入れた製品を開発して生き残って来たかを思い起こすと,その会社ごとの遺伝子のようなものがよくわかって興味深いものです。

 そんな経緯をたどって進化したカメラですが,現在は,ソニーが先頭を走るミラーレス一眼の人気が,今までの一眼レフカメラに変わろうとしています。そこで,今回もまた,それに乗り遅れんと,ニコンやキヤノンといったメーカーも新製品の開発をはじめました。
 ただし,これまでの技術革新と決定的に違うのは,スマホの台頭で,カメラ自身の存在が脅かされているということです。つまり,これまでと同じような方法で新しい技術を採りいれた新製品を開発しても,そもそもカメラ自体の存在が危うくなってしまっているので,今までと同じような方法で新製品を開発していてもこれから生き残れるかどうかはわからないということです。
 ミラーレス一眼というのは,車でいえば,これまでのガソリンエンジンの車から電気自動車に変わるようなものと同じでしょう。しかし,車の場合は車という存在自体は今はまだ脅かされていません。
 
 そんな折,ニコンから新しいミラーレス一眼カメラ「Z50」が発表されました。Z6,Z7といったミラーレス一眼を発売したころにはまだ定かでなかったこの会社の将来展望が,この製品で明らかになってきました。おそらくは,フィルムからディジタルに変わったときと同じように,この会社は,これまでの一眼レフカメラを,プロ用の高級機以外は潔く切り捨てて,製品のほとんどをミラーレス一眼に切り変えようとしているのでしょう。しかし,カメラ本体もレンズも一眼レフカメラと比べるとかなり割高な価格設定ですし,価格の割に期待したほどでもないようです。こんなんで,果たしてうまくいくでしょうか? 
 私は,あと10歳若かったら,この状況に熱くなって,新しい製品に買い替えることを考えたかもしれません。しかし,今は,これまでに手に入れた機材を売り払ってまで新しいカメラに買い変える気持ちにはまったくならないのです。それは,歳をとったせいもありますが,そうまでして価格の高いミラーレス一眼カメラのシステムに変えるほどの魅力を感じないからです。
 そもそも,これまでの一眼レフカメラも新しいミラーレス一眼カメラも,旅行に持っていくには大きく重すぎます。性能の進化した現在のスマホで十分なのです。その一方,従来のように,写真を楽しむ目的で外出したり小旅行をするのなら,今使っているカメラで何の不満もないからです。特に,星の写真を写すには,どんな高性能のカメラであっても,私が使っている天体用にIR改造されたカメラに比べたら使いモノにならないから,食指が動きません。

 私は,Z50が発表された奇しくもその日に,新しいカメラを手に入れました。それは,天体撮影用にIR改造されたキヤノンの小型一眼レフカメラX9です。これまでに使っていた天体撮影用にIR改造されたキヤノンのX8iが古くなったのでその後継として購入したものです。
 通常,ディジタルカメラは撮像センサーのカラーバランスを調整するために色調整フィルターを内蔵させていますが,この色調整フィルターを赤外域まで透過するクリアフィルターに交換することで,赤く輝く散光星雲などから放たれるスペクトル領域(Hα領域)の感度がアップし,色彩豊かな美しい天体写真が撮れるようになります。これがIR改造です。改造カメラといっても,ホワイトバランスを調整すれば一般の撮影にも十分に使えます。X9なら小さく軽いので海外に持っていくにも小型の赤道儀に載せるにも便利だし,それに安価だし,私には,このカメラのほうがZ50よりずっと魅力的です。
 Z50の発表された次の日,ニコンのサービスセンターに立ち寄ったので,はやばやとZ50に触れる機会がありました。Z50は,私の求める[モバイルバッテリーで充電しながら使用できてBluetoothで簡単にスマホと連動できる]といった機能がついた魅力的なカメラではありました。しかし,これだけでは使えません。こうした機能に加えて,さらに[三脚座のない現行よりも小さなマウントアダプターnewFTZ]と,発表されたレンズのロードマップにも記載されている[18ミリから140ミリのズームレンズ]ができるだけ小さくて軽いものであること,そして,これがもっとも私には重要ですが,[天体撮影用にIR改造されたもの]が条件です。そうした条件を満たす,いわゆる「Z50A」が発売されるなら,そのときにやっと,私はこのカメラを欲しいと思うのになあと残念に思ったことでした。

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 「地球温暖化」の影響がいわれています。近年はさらに深刻な状況になっているようにも思われます。
 46億歳を迎える地球は,これまで,今より気温が高かったことも低かったこともあるので,現在の温暖化が人類のせいだけなのかどうかは私にはよくわかりませんが,いずれにしても,人類がその一因となっていることは確かでしょう。この状況が続くと,地球上から人類が滅亡するものそう遠い未来ではないかもしれません。
 地球の温暖化で,日本の四季も昔とはずいぶんと変わってしまいました。「衣替え」という言葉さえ死語と化し,10月の半ばだというのに,夏服で生活できます。台風も,頻繁に日本列島を直撃したのが9月から10月に変わってしまい,また,台風の規模も昔より大きくなっているように感じます。
 昨年の今ごろ,私はニュージーランド旅行をしていましたが,出かける日に台風が来るのではないかとひやひやしたのを思い出します。そのとき,最も役に立ったのが「気象予報士Kasayanのお天気放談」というブログでした。

 ところで,今日の話題は台風情報などの気象番組で頻繁に出てくる「東海」ということばです。特に,東京からの気象番組で「東海」ということばが多く使われます。しかし,東海地方に住む私には,この「東海」ということばの指す地方がどこなのかよくわからないのです。いや,知ってはいるのですが,いまいち納得がいかないのです。
 実は,愛知県に住む人,特に尾張地方に住む人は,「東海地方」というのは,愛知県・岐阜県・三重県のことだと思っています。学校でもそう習いました。しかし,気象番組で出てくる「東海」ということばの指す地方は,愛知県・岐阜県・三重県に静岡県を加えたものだと気象庁のホームページにはあります。台風19号のときのニュースでは,「東海地方,特に静岡県では…」などといういい方をしていたほどです。
 しかし,愛知県に住む人,特に尾張地方に住む人にとって,感覚的に,静岡県というのは中部地方であっても,むしろ関東地方のような感じです。それに,実際には,気象番組で「東海」といったときにその気象情報が起きる場所は愛知県・岐阜県・三重県・静岡県ではなくて,「中部地方の太平洋岸」,そのなかでも,特に,静岡県の海岸沿いを指しているように感じます。
 調べてみると,東海地方というのは「静岡県・愛知県・三重県・岐阜県のことであるけれど,静岡県を除いた3県を指す場合もある」と書かれています。しかし,愛知県の学校では「愛知県・三重県・岐阜県」だと習うのです。

 子どものころ,テレビの気象番組で,福井県だけ「福井県嶺南地方」というのが謎でした。近ごろは,富山県だけ「高岡伏木」とかいっています。天気予報は,一般の人のだれにでもわからなければならない重要な情報なのに,こうした地方の名前がどこを指しているのか定かでないというのは問題でしょう。
 気象番組で使われる地方のいい方がどこを指しているのかは,気象庁のホームページには「東海」に限らず,きちんと分類をした定義があるようで,今でこそそれを見ればわかるのですが,おそらく多くの人はそんなことすら知らないでしょうし,学校でも教えません。
 というより,こうした地方の呼び方に限らず,学校で教えることと実際に使われていることが遊離している場合が結構あるのです。先日「チコちゃんに叱られる」で,三重県は近畿地方かというような話題を取り上げていましたが,学校では三重県は近畿地方だとしっかり習います。地図の教科書にもそう書いてあります。「デジタルカメラ」は「ディジタルカメラ」です。高校の「情報」でそう習います。土地の売買では今も「坪」といういい方をしますが,学校では習いません。
 それが問題にならないのは,おそらく,学校で習ったことなんてみんな忘れているのです。あるいは,テストで点をとること以外に学校で習うことなんて何の意味もない,実生活には役立たないと思っているのでしょう。学校で習ったことを大人になっても覚えていて,それにこだわっているなんていうのはおろかな私だけなのでしょうか?
 しかし,社会で必要なことは,きちんと学校で教えることが必要でしょうし,教育は現実に合わせることが大切でしょう。

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昼食を終えて,ムーミン美術館に向かいました。
ムーミン美術館は,タンペレホールという大きな建物のなかにあるようでした。タンペレホールというのは,タンペレの中心にあるソルサプイストの南端に位置する北欧諸国で最大のコンサートおよび会議センターで,タンペレホールの向かいにはタンペレ大学の本館があり,タンペレ駅からわずか0.5キロメートルの距離にあって,このホールのメインの講堂の収容人数は1,756席あります。
ムーミン美術館のきっかけは,トーベ・ヤンソンのムーミン作品や原画が,1986年タンペレ美術館に寄贈されたことに遡ります。コレクションはタンペレ美術館ムーミン谷博物館で1987年から2016年まで展示されていましたが,とても小さくて,来た人をがっかりさせていたようです。 で,どこかに大きな美術館を,という話があったそうですが,なかなか適当なところがなかったそうで,それが,このタンペレホールが作られるということで,この場所に移動することができた,というはなしでした。
そんなわけで,オープンしたのが2017年6月。つまり,まだ2年目を迎えたばかりで,ここでも私はツイていました。 
フィンランドに興味を持ち,はるばるやってきても,シベリウスに関する「アイノラ」や博物館が休館だった,とか,ムーミンワールドがお休みだった,そういう人が少なくないのです。私は,そういうことも調べないでのこのことやってきて,昨年の冬にはロヴァニエミでオーロラを目撃し,今回は,見たい,行きたいという場所にはすべて行くことができました。このムーミン美術館は,数年前に興味を持っていたら来ることすらできなかったわけです。
おまけに,フィンランドにはムーミン美術館とムーミンワールドがあるという,その区別もしらず,当然,ムーミン美術館が何を展示されているのかもわからず,という程度でした。これでは,ムーミンが大好き,でもフィンランドに行きたくても行けない,という人には怒られてしまいます。

入口を入ると,チケット売り場ではムーミン美術館に入るチケットを買う人でごった返していました。チケットを購入するのは並ぶのではなく,チケットを購入する順番の番号の書かれた紙を機械で発券して,自分の番号が来るのを待つ,というシステムでした。ここはムーミン美術館のチケットだけでなく,この日は別の展示室で行われていて,この日が最終日だというアンディ・ウォーホール展を見に来た人が多いらしく,それで混雑してるということでした。私はアメリカピッツバーグのアンディ・ウォーホール美術館に行ったことがあるので,なにもフィンランドで見ることもなかったので,特に関心もなかったのですが,外国に来てこういうものに出会うと不思議な気がします。この数か月前にもオーストラリアのブリスベンの科学博物館でアメリカのロケット開発に関する企画展をやっていて,そんなものはアメリカで嫌になるほどホンモノを見たことがあるなあ,と思ったばかりです。
この,世界でひとつのムーミン美術館は,ムーミン本や挿絵でおなじみの人生の知恵,ユーモア,元気いっぱいの冒険心,人の温もりや友情など,世界中のムーミンファンたちに語られている世界を体感することができる,というのがウリでした。
ムーミンの作者トーベ・ヤンソンが手がけたムーミンの物語を,洪水や夏まつりの水上劇場,灯台の島の謎,十一月のムーミン一家失踪ミステリーなど,12冊のムーミン本のとおりに作られたミニチュアの模型とともに見ることができるようになっていました。説明員のなかに日本人の女性がいて,いろんな話を聞くことができました。

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タンペレの町は南北にタンメルコスキ川が通っていて,というよりも,実際はその川が陸地を分断していて,その西側に「◁」形で陸地,というより,実際は川で分断されているのだから,「島」があって,周りが湖で囲まれています。そして,川の東側に南北で鉄道が走っています。
私は朝鉄道の駅を降りて,西に向かって「◁」の南側を歩いてその先端にあるビューニッキ展望台まで行きました。そして,今度は「◁」の北側を歩いて,川まで戻ってきました。
川のほとりにあったのが,旧フィンレイン工場です。この赤レンガで作られた工場は,ジェームズ・フィンレインが1820年に作った綿織物の工場で,1990年に移転しました。今はその跡地が,レストランや映画館,労働者博物館,パブなどになっていて,ここに住む人のショッピングモールのようになっていて,けっこうな賑わいをみせていました。
私も歩いてみましたが,このような場所はどこの国にもあるので,特に興味もわきませんでした。とにかく,日本も外国も,都会というのはどこもそう違いがなく,そこに住む人には便利なショッピング街ですが,観光客にはつまらない場所と化してしまいました。ニューヨークの五番街へ行って,ユニクロに入ってみたところで,売っているものは同じです。

どこかで昼食でも,と思ってそのまま川に沿って駅のほうに歩いて行きました。川を渡って駅を越えると,今日の本来の目的地であるムーミン美術館にたどり着くので,その途中で,というわけでした。
駅前は,日本の中都市の駅前とそう違うものではなかったのですが,そこに一軒の感じのよさげなカフェがありました。そのカフェの雰囲気がとてもよかったので,中に入ることにしました。そして,サラダとコーヒーを注文しました。
このごろ,私はアメリカだけでなく,さまざまな場所を旅行するようになって,ヨーロッパやオセアニアはこうしたカジュアルなすてきなカフェがどこにでもあって,気楽に食事を楽しめることを実感するようになりました。その逆に,こうした気の利いたカフェがないのは,日本とアメリカだと思うようにもなりました。日本は,個人営業の店は高級店で,それ以外はチェーン店ばかりです。あるいは,どこも混雑していて,気が休まりりません。アメリカもまた同様だし,アメリカはチップがいるので,私は,アメリカに行くときはバーガーチェーン店ばかりを利用しているし,日本では,ひとりで入るのは,マクドナルドと吉野家とココ壱番屋ばかりになってしまいました。

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ビューニッキ展望台をあとにして,タンペレの市街にもどりました。この街は,いかにもフィンランドの「森と湖の国」にふさわしいところでした。このあとは街中にある多くの見どころを順に周って,最後にムーミン美術館に行くことにしました。
そこで,まず向かったのがレーニン博物館でした。
私はロシア(ソビエト連邦)の歴史をほとんど知りません。知っていることとはスターリンの粛清でショスタコービッチなどの作曲家が苦労したことくらいです。
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ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин)はロシアの革命家です。ロシア社会民主労働党(=ボリシェヴィキ,のちにロシア共産党と改名)の指導者として活動し,十月革命を成功させ,革命政府の人民委員会議議長として史上初の社会主義国家であるソビエト連邦の初代指導者を務めました。その次の指導者がスターリンです。ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин)はソビエト連邦の第2代最高指導者で,1930年代の大粛清(Большой террор)とよばれる大規模な政治弾圧を行いました。
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レーニン博物館は,フィンランドとソ連の和睦の証として1946年に設立された博物館で,労働会館の3階のフロアにありました。労働会館のビルの入口を入ると,ホールのようなものがあって,この日は何も催しがなかったので,閑散としていて,上に博物館があるとも思えない感じでしたが,ためらいながら階段を昇っていくと,博物館の入口に着きました。
入館料を払って中に入りました。けっこう多くの入場者がいました。この博物館は,ロシア革命からペレストロイカまで,ロシア(ソビエト連邦)の歴史が細かく展示されていましたが,私には勉強不足でよく理解できない博物館でもありました。

次に行ったのがアムリ労働住宅博物館でした。ここは1880年代から1970年代までの労働者たちが住んでいた住宅を(おそらく)移築して保存,公開してある博物館でした。あまざまな年代の多くの住居が一か所に集められていて,それらの中に入ることができます。そして,当時住んでいた人の名前や職業がこと細かく書かれてあって,フィンランドの人々の生活の歴史がとてもよくわかりました。
日本でも古い時代の住居跡が博物館となっているところがありますが,こうして,さまざまな時代の住居が一か所にまとめられているというのは,私はしりません。
私にはなかなか興味深いところでした。どの国も,こうした人々の歴史があって,今の便利な生活があるのだなあ,としみじみと思いました。ここはゆっくり見る価値がありました。

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タンペレはヘルシンキの北,約150キロメートルに位置する湖の半島にあたる場所に開けた町です。フィンランド第2の都市で,歴史ある建物が多く,多くの観光客でにぎわう町でした。とはいえ,ごったがえずほどではなく,ほどよく快適に観光をすることができるところでした。
それにしても,この程度の町がフィンランド第2の都市,というのですから,フィンランドというのは,本当にすてきな国です。ここタンペレは住んでみたいと思うようなところでもありました。
この日は,街歩きの最後にムーミン美術館に行くことにして,そのまえに,タンペレの見どころをすべて順番に訪れることにしました。この街もまた徒歩で十分に歩き回ることができるくらいの広さでした。

マーケットホールからさらに西に,半島の先端が高台となっていて,ここにビューニッキ展望台というのがあるそうなので,行ってみることにしました。その途中に日本料理店があって,ちょっとびっくりしました。展望台までは結構遠く,途中で道に迷いながら,なんとか到着することができました。
展望台はかなり古びた建物でした。まず,エレベータに乗って展望台に登ることにしました。エレベータもかなりの年代ものでした。展望台について,エレベータを降りて,外に出ました。ここは湖に囲まれた半島の先端に位置していて,東側にタンベレの市街地が見える以外はすべて湖。とても美しい景色を見ることができました。
この町の北に公園があって,そこには新しい展望台があるので,この展望台は高さにしても完全に負けているのですが,それでも,この街にはるばるやってきたら,ぜったいこちらのほうがお勧めです。
展望台を降りると1階にカフェがありました。なんでもこのカフェのドーナッツは有名で,フィンランドで一番おいしいという評判だそうです。であれば,これは食するしかありません。
私はドーナッツとコーヒーを頼みました。実際,ここのドーナッツはものすごくおいしくて評判どおりでした。これを食べるだけでも,タンペレを訪れる価値があるというものです。

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☆☆☆☆☆☆
 以前書いたことがありますが,日本は空が明るく水蒸気が多く,満足な星空は望めません。そこで,多くの愛好家はお金と時間をかけて,高級な機材を使いコンピュータを駆使して写真を仕上げます。
 私は,所詮,趣味というのは自己満足と割り切って,お金をかけて高い機材を買う気にもならず,30年前に買った古い望遠鏡で満足しています。そのお金でオーストラリアに出かけて美しい星空を見るほうがいいと思っているからです。コンピュータを使った画像処理も凝ったことがあるのですが,時間ばかりがかかるので,そんなことに手間暇かけるなら,旅行をしたほうがいいと思っているので,それもしません。
 晴れた晩に,往復約2時間,そして現地で2時間ほど,つまり合計4時間ほどかけて出かけて,10等星より明るい彗星を2分の露出で写したり,満天の星空とはいえなくても,双眼鏡で星雲や星団を眺めることに楽しみを絞っています。

 しかし,そんな明るい夜空でも,私が思っているよりも暗い彗星が写せるようです。便利な時代になったものです。
 今日の1番目の写真はこの日に写した散開星団「プレアデス」(Open cluster ”Pleiades” M45)ですが,この写真でも14等星くらいまで写っています。そこで,これからはどのくらい暗い彗星まで写せるかを試してみようかなと思うようになりました。
 そんなわけで,この晩は,アフリカーノ彗星以外に,10等星よりも少し暗い彗星がいくつか地平線上にあったので,それらを順に写してみることにしました。
 2番目写真がアサシン彗星(C/2018N2 ASASSN)です。アサシン彗星は,2018年7月11日,All-Sky Automated Survey for Supernovae (=ASASSN)プロジェクトで,南アメリカ・チリのセロロ・トロロ(Cerro Tololo)天文台にあるカシアス(Cassius)16センチの探査ユニット=3番目の写真 で発見したものです。
 4番目の写真がシュワッスマンワハマン第1彗星(29P Schwassman-Wachmann)です。シュワスマン・ワハマン第1彗星は1927年11月15日にドイツ・ベルゲドルフ(Bergedorf)のハンブルク天文台(Hamburger Sternwarte)のアルノルト・シュヴァスマン(Arnold Schwassmann) とアルノ・ヴァハマン (Arno Arthur Wachmann)が発見した公転周期14.7年の周期彗星です。 シュワスマン・ワハマン第1彗星は,ふだんは16等星ほどの暗い彗星ですが,突然アウトバーストを起こして12等星くらいまで明るくなることで知られています。アウトバーストは頻繁に起きて,1,2週間で16等星に戻ります。これまで,最大で19等級から9等級まで変化したことがあるといいます。アウトバーストは揮発性物質が爆発的に蒸発して起こると推測されていますが詳しいことは不明です。
 そして,5番目の写真がパンスターズ彗星(C/2017T2 PanSTARRS)です。パンスターズ彗星は2017年10月2日,ハワイ・マウイ島のハレアカラ(Haleakala)にある1.8メートルPan-STARRS1望遠鏡で写したCCDの画像から発見されたものです。

 パンスターズ彗星はおうし座にあるので昇ってくるのが遅く,写すことができるまで少し時間があったので,その時間を利用して,みずがめ座とくじら座のふたつの惑星状星雲 NGC7293=6番目の写真 と NGC246=7番目の写真 を写しました。
 惑星状星雲は美しいのですが,小さいので,私の持っているような小さな望遠鏡ではなかなかうまく写りませんが,この写真のように,けっこうマシに写すことができました。
 NGC7293 通称らせん星雲(The Helix Nebula)は,みずがめ座にある有名な惑星状星雲です。距離は約700光年で,太陽系に最も近い惑星状星雲のひとつです。猫のような目の形をしている中心部が「らせん」の名前の由来ですが,最近の研究ではその周囲に淡い環状のガスが広がっていることがわかっています。全体の大きさは満月の約半分くらいまで広がっているという大きなもので,中心部に白色矮星が存在します。
 NGC246は,くじら座にある淡い惑星状星雲です。こちらは地球から約1,600光年離れています。星雲の中心の恒星は12等級の白色矮星です。中心の恒星とその周囲の配置から,この星雲はカシオペヤ座にある NGC 281 とともに, Pac-Man Nebula というニックネームがあります。
 「パックマン」(Pac-Man)というのは,ナムコ(後のバンダイナムコ)より1980年に発表されたアーケードゲームのタイトルでキャラクターのことです。

  ・・・・・・
 ずっと天気がよくなくて,半年以上,日本では満足のいく星空を見る機会がなかったのですが,この晩はめずらしくずっと晴れていて,しかも,寒くも暑くもなく,最高の晩になりました。
 それにしても,こんな晩も1日だけ,また次の日からは曇り空,しかも,10月だというのに台風が接近するとあっては,またしばらく星空を見ることもできません。そのうちに冬になってしまうことでしょう。冬もまた,以前は太平洋岸は快晴の日が続いたものですが,今は,日本海側のような天候が多く,満足のいく星空を見る機会が少なくなってしまいました。

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☆☆☆☆☆☆
 2019年は本当に晴れません。お昼間に太陽が雲の間からのぞいていることはあるから,一般の人に実感はないでしょうが,これほど星の見えない年を私は知りません。わずかばかり雲のない夜もあったのですが,そうした日に限って月が明るかったりで,月明かりのない夜に晴れ渡ったことがまったくないのです。これでは,日本にある天文台は仕事ができないでしょう。日本しか知らなかったころはこんなものかと思っていたのですが,ハワイやオーストラリアに出かけるようになると,日本の条件の悪さを実感します。
 そんな日本でも秋は唯一,気候が安定して,空が晴れ渡る季節です。しかし,今年は秋になっても,空が晴れ渡る要因となる移動性の高気圧が日本列島を横切る,その通り道が通常よりも少し北側なので,高気圧の南側には雲がでてきてしまうのです。
 そんな晩が続き,10月もついに新月が終わり,せっかく,久々に10等星よりも明るい新彗星アフリカーノが地球に接近したというのにその最盛期も過ぎてしまい,ついに,これを見ることもないのかなあとあきらめていた10月4日,ついに晴れました。私は,この晩を逃せばもう見る機会がないと,ひさびさに星見に出かけました。

 私の住むところは,もう,星は2等星までしか見えません。何時間もかけて遠出をすればそれでもマシな星空が見られるのでしょうが,そんな時間をかける気にもなりません。そこで,北の空の星空が見たければ1時間ほど北に,南の空の星空が見たければ1時間ほど南に走って,街灯のない,なんとかかろじて天の川が見られる場所に出かけることにしています。
 アフリカーノ彗星はほんの少し前は北東の空に見ることができたのですが,出かけるまえに調べてみると,どんどんと位置を変えて,今はもう南西の空! これにはびっくりしましたが,そこで,南に向かって走りました。
 到着して望遠鏡を構え,ファインダーをのぞくと彗星の位置はすぐにわかりましたが,もう月齢が6まで達してしまっているので,明るい夜空はさらに明るく,月が沈むのは午後10時ころ,それまで待って,写真を撮りました。

 アフリカーノ彗星(C/2019W2 Africano)は,2018年年11月27日,アメリカのグレーラー(H. Groeller)さんが Catalina スカイサーベイプロジェクトで,アリゾナ州のレモン山のすぐ東にあるビゲロー山にある68センチメートルシュミット望遠鏡=2番目の写真 を使って18.2等星として,また,アメリカのアフリカーノ(B.M.Africano)さんがレモン山天文台にある1.5メートルの反射望遠鏡=3番目の写真 で18.3等星としてCCD画像から独立して発見した彗星です。レモン山天文台(Mount Lemmon Infrared Observatory )はサンタ・カタリーナ山地のコロナド国立森林内,アリゾナ大学の北約73キロメートル,海抜2,800メートルのレモン山の頂上にあります。アメリカ航空宇宙防衛司令部のレーダー基地であったのをハイテク赤外線天文台に変換したものです。こうしたプロジェクトで利用する望遠鏡は天文学の研究というよりもむしろ地球に接近する天体を探すという目的で運用するものなので,根本的な性格が異なります。
 NASAのJPLは組織的な地球接近天体捜索を行っていて,これまでにも多数の小惑星や彗星を発見しています。彗星は発見された人の名前をつけるのですが,この頃はスカイサーベイプロジェクトで発見されたものはプロジェクト名がつけられることが多くなりました。しかし,このプロジェクトでは,クレジットは原則として観測者に与えるというアリゾナ大学チームの方針から,自動捜索で小惑星として初期報告された天体を除き,天文台内で発見した個人名がつけられています。
 今回の発見は,グレーラーさんが最初に発見したのですが,アフリカーノさんの方が21分ほど早く天体を通報し,グレーラーさんの通報が到着する前にこの天体が小惑星センターの NEOCP ウェブページに掲載したので,アフリカーノさんの名まえだけが彗星につきました。

 現在,アフリカーノ彗星は太陽に接近していて,これまではちょうど地球も彗星に向かって軌道を進んできたので,地球から見た彗星はあまり位置を変えず太陽と反対側に見れらたのですが,数日前,彗星が地球軌道を越え,さらに,地球も彗星とすれ違うような形で遠ざかる位置になったので,急に見かけ上の移動が速くなりました。この先,彗星は太陽に接近するのですが,地球からは遠ざかり,彗星が太陽の方向になるので見えなくなります=4番目の写真。先週くらいが最も明るく見ることができたようですが,今後は暗くなります。ということで,何とかラストチャンスでとらえることができました。
 家に帰ってから写した写真を見てみると,今日の4番目から6番目写真のようにわずか数十分で星の間を縫うように動いている様を見ることができて,大変おどろきました。

  ・・・・・・
 この晩は,ほかにも暗い彗星をいくつか写すことができました。その話題はまた後日書きます。

ホテルに3泊して,4日目となりました。海外に出かける多くの旅では,到着は夕方になるので,3泊しても観光できるのは2日ということが多いのですが,ヘルシンキは到着した日の午後から行動できたので,すでに3日たっぷり観光をしました。そしてまた,なんと3日で10万歩も歩きました。
昨日は,列車に乗ったので,ヘルシンキから郊外に遠出することにも抵抗がなくなりました。今回の旅では,こうして,1日1日,次第に遠くに出かけることができるようになってきました。しかし,それでも,さすがに,まだ,ヘルシンキから列車とバスを乗り継いで4時間近くもかかるムーミンワールドに行こうとは思っていませんでしたが…(結局行くことができました)。そこで,今日は,せめてと思って,列車で2時間ちょっとのタンペレという町にあるムーミン美術館まで行ってみることにしました。

昨日同様,駅に行って,まずチケットを購入しました。やがて指定された列車が来たので乗り込みました。
私はこれまでずっとアメリカを車で旅行していたので,海外で列車に乗って旅をすることはほとんどありませんでした。ヨーロッパには,若いころ一度だけ行ったフランスでTGVに乗ったっきりでした。でありながら,なんとなく,歳をとったら車でアメリカを旅することを卒業して,ヨーロッパを列車で旅したいものだと思っていたのですが,どうやらそれがかなってきました。昨年行ったオーストリアでも,ウィーンからザルツブルグまでの列車の旅をしましたが,なかなか快適でした。海外では,車中から外の風景を見て,そこに住んでいる人を想像するだけで楽しいのです。
今回の旅でも,ヘルシンキから郊外へ行く列車に乗るのもまた,それと同様にとても興味のあるものでした。フィンランドの郊外の風景を見ていると,ほんとうにいい国だということを再認識しました。列車の旅はとてもすばらしいものでした。
やがて,タンペレの町に到着しました。

タンペレには,駅の東出口を出て,線路沿いに南に少し行ったところにムーミン美術館があるのですが,この日は土曜日,平日は9時に開館するムーミン美術館は週末は11時の開館ということだったので,美術館が開館するまで市内観光です。そこで,駅の西口を出て,まず,タンペレの町を歩くことにしました。この日は1日かけて,タンペレを堪能する予定でした。
まず向かったのが,朝早くからやっているというタンペレ・マーケットホールでした。駅を出ると,駅前のメインストリートは工事中でした。工事を何となく見ていると,どうやらトラムの線路を牽いているようでした。この時期に市電を設置するというもの,日本と違ってなかなかのものです。フィンランドという国は日本とは比べものにならないくらいハイテクな国ですが,駅といい,公共交通機関といい,そうしたものの外観は30年前の日本を思い出すようなところがあって,とても落ち着きます。
朝は寒く,半袖の私は少し心配になりましたが,次第に気温が上がったので,これで十分でした。
やがて,タンペレ・マーケットホールに到着しました。お土産を買わない私は,時間的にカフェに入るのも中途半端な時間だったので,ぶらりとウィンドウショッピングをしました。このマーケットホールのとなりに,日本の今風のマーケット,というかデパートがあったのが意外でした。これではおそらく,このマーケットも潰れてしまうのではないかなあと思ったことでした。

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私はヘルシンキカードというものを持ってヘルシンキの観光をしていましたが,このカードは市バス,トラム,メトロなどが乗り放題になるばかりでなく,博物館や美術館などにも無料で入ることができてとても便利でした。ヘルシンキカードには24時間,48時間,72時間のものがあるのですが,値段があまり違わないので,最大の72時間のものを購入して,有効に利用しました。
ヘルシンキ市内では「Hop On Hop Off」という2階建ての観光バスが走っていて,これも乗り放題だということを私ははじめ気づかなかったのですが,ガイドブックを見直してそれを知ったので,機会があれば利用しようと思っていました。
ちょうどヘルシンキ大聖堂の前の広場にこのバスが停まっていたので,大した距離でもないのですが,最後にこれに乗って中央駅まで行ってホテルに戻ろうと思いました。そこで,停まっていたバスに乗ろうと,ヘルシンキカードを見せて,これで乗れるかと聞いたのですが,私の聞き方が悪かったのか,このカードで無料でのれる湾岸クルーズの乗り場はこの近くのマーケット広場のところで黄色いのぼりが立っているからすぐわかると言われました。

なんだかよくわからなかったのですが,ともかく,湾岸クルーズに無料で乗れるなんて思ってもみなかったので,行ってみることにしました。急いでマーケット広場に行ってみると,確かに黄色いのぼりが目立っていました。しかも,クルーズ船はちょうど出発間際でした。ということで,偶然,なんと1時間30分もの湾岸クルーズ「Sightseeing by Boat」というものに乗ることができました。
この船には,1階の船室と2階の観望席がありました。実はこのあと雨になるという天気予報を私は知っていて,確かにすでに雲行きがおかしくなっていました。乗り込んだ人たちはみな観望デッキに急いだのですが,私は雨になるとわかっていたので,1階の客席の窓側に座りました。船は予想以上に遠くまでクルーズをしていきました。私の予想通り途中で大雨になって,デッキにいた人が大挙して客席に避難してきました。
ずっと雨だったので,船室から出ることができませんでしが,船室の窓からも,ヘルシンキ湾が十分に堪能できました。このクルーズ最大の見せ場が船の幅ぎりぎりの運河を通るときで,船が脇をこすりながらすり抜けていきました。

クルーズは乗り甲斐があって非常にお得でした。
今回のフィンランドの旅は6泊8日でしたが,天気が悪かったのはこの日だけ,しかも,朝方の大雨とこのあとに降ってきた雨だけで,幸いお昼間は大丈夫だったので,シベリウスの住んでいた家「アイノラ」まで遠出することができました。残念なことに,この湾岸クルーズは雨になってしまいましたが,まあ,このクルーズはおまけだったということで,やむをないことでした。
船を降りたときは雨はすでにやんでいました。ヘルシンキでは雨になっても,日本と違って,1日中降るというようなことはないそうです。港からホテルまでは,結局歩いて戻ることになりました。ついに,「Hop On Hop Off」バスに乗る機会はありませんでした。今日もまた,ホテルの近くのモールの食べ放題で夕食を済ませました。

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行った場所に住んでいる人の生活を知るには,マーケットに行くのが一番です。というわけで,私は,旅行をするとマーケットに行ってみることにしています。料理もしないので,何も買わないのですが,見て歩いているだけで楽しいものです。マーケットに行ってみると,生きるのに一番必要な知恵は調理ができることだと痛感します。
私が学生時代は,男子は家庭科すらなく,本当にどうしようもない時代でした。という言い訳はさておいて,とにかく若いころに身につけなくてはならない最も大切なことは,食べる手段を身につけることとコミュニケーション能力だと,歳をとって実感するようになりました。

ヘルシンキでマーケットといえば,まずはマーケット広場です。大統領官邸の真ん前にこうしたマーケットがあるというものすてきなことです。マーケット広場のほかにも,さまざまなマーケットがあるので,トラムに乗って行ってみることにしました。
まず行ったのがハカニエミ・マーケットホールでしたが,ここは現在改装中だったのが残念でした。とはいえ,改装中の建物の前の広場に臨時のプレハブ小屋が作られていて,そこで営業をしていました。このなかに,老舗の肉屋さん「レイニン・ニーハ」がありました。感じのよい女性の店員さんがいて,目が合ったので,日本で映画に出てきたお店ですよね,と話しかけたら笑っていました。
次に行ったのが,ヒエタラハティ・マーケットホールでした。ここは,行った時間が悪かったのか,閑散としていました。
そして最後に,オールド・マーケットホールに行きました。ここは改装が終わったばかりで,充実した店内に多くの店がありました。食事をするには時間が中途半場だったのが残念でした。
いずれにしても,ヘルシンキはさすがに野菜は小ぶりのものが多いのですが,魚や肉はいろんな種類のものがたくさんあって,行ってみた甲斐があったというものでした。

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 消費税が8%から10%になって消費が落ち込むことを懸念し,また,電子マネーを促進するという狙いから,ポイント還元とかいうわけのわからない施策を打ちだして,それがニュースでも取り上げられています。そうしたすべては「日本人の知恵と発想の限界」。オリンピックのチケットのときもそうだったし,携帯電話の料金の引き下げや,それ以外にも,これまで政府が何かをしようとして,その結果起きたさまざまなトラブルは,すべて,もう,あほらしさを超えて,逆に,私は,何かが起きたときのドタバタ劇を傍観すると楽しくて仕方がありません。
 私は数年前からずっとキャッシュレスで生きてきて,めったに現金を使わないし,ここ数年 ATM さえ使ったことがなく,現金といえば何かで必要なときのために財布の奥深くに1万円札を1枚忍ばせているだけなので,もはや戸惑いませんが,そうでない人にとっては,ポイントからはじまって,やたらと種類の多いクレジットカード,そして,〇〇Pay と,これまで放任しておいてめっちゃくちゃになっておきながら,今さら政府主導でキャッシュレスといわれても右往左往するだけです。しかも,そうしたことに対する報道もまたすべて,なんらかの利害と絡んでいるので,何を信じていいのかわかりません。そこで,結局,そうした人はそんなめんどうなら現金でいいや,という結論になるわけです。

 世界を旅行していると,日本ほどモノを買うのが面倒な国はほかに知りません。決済方法多すぎ,そして店によって違いすぎです。クレジットカードですら店ごとに使えるものが限られていたりします。中国や韓国,さらに東南アジアや南アメリカ,アフリカ,中東には行かないから,それらの地域のことは知りませんが,私が出かけるアメリカ,オセアニア,ヨーロッパなどでは,モノを買うとき,その 99%は1枚のクレジットカードで事足ります。現地通貨など,まず,使ったことがありません。それが,日本では,現金しか使えない,特定のカードしか使えないということがあまりに多く,そしてまた,札は大きく,コインもかさばるので大迷惑をしています。
 そもそも,ポイントとかいうくだらないものが諸悪の根源。飛行機を利用したときのマイレッジとか家電製品を購入したときのような高額な金額に対するポイントは貯める価値もあろうというものですが,牛丼1杯食べて1ポイントもらっても,たかが1円でしかありません。コンビニなど,スーパーマーケットなら76円で売っているペットボトルが143円もして,そこで1ポイントもらったところで,しょ~もないだけです。さらに,マイナンバーカードを普及させるために,マイナンバーカードで買い物をしてポイントを与えるとかいうことも考えられているそうですが,クレジットカードも持たない人がマイナンバーカードなどという個人情報満載のカードを買い物で使うわけもなく,しかも,そんなものを使えば,個人が何を買ったかという情報を国がすべて把握できてしまうわけだから,普及するわけがありません。
 かくいう私は,実はポイント貯めています。いや,貯めているのではなくて単に使用しています。それは,レジでポイントカード持っていますか,と聞かれたとき,持っていなければ持っていないで作りますか,といわれるのがウザったいので,言われる前にポイントカードを登録した iPhone を差し出すのです。それだけの理由です。しかしこのポイント,有効期限があったり,Tポイントは吉野家のようにカードでなければ使えないとかいう店があったりするすので,さらにウザったいのです。また,ポイントは貯めるものではなく,1ポイントでもあればさっさと使ってしまうに限ります。

 こうした日本のわけのわからないキャッシュレス社会でストレスなく生きぬくには,普段決済手段として持ち歩くのは Suica とクレジットカードを登録した iPhone と非接触型決済が使えないときのためのクレジットカード1枚だけにすることです。これで事足ります。普段は Suica を ApplePay として使用し,Suica にチャージするクレジットカードを紐付けておけばよいのです。Suica なら公共交通機関にも対応できます。私は,使えない店には行きませんし,食料品以外のモノのほとんどは通信販売で買います。
 ○○Pay とかいうのはクレジットカードが使えない店でキャッシュレスをするために導入しはじめたものです。私は LinePay と楽天Pay を2,3回使ってみたのですが,店によって使えるものが違うので不便なだけで必要性を感じなかったので,しばらくは静観です。現在は PayPay が最強のようですが,私は SoftBank をまったく信用していない(前身である日本テレコムに騙されたことがある)ので,使いません。コンビニといえば,数年前はセブンイレブンの nanaco カードが便利で最強でしたが,ApplePay にも登録できずチャージも現金を持って店に行かないとできないので,時代が進んだ今はすっかり取り残され見る影もなくなり,縁を切りました。
 私は,未だに現金を使っている人を見ると気の毒に思います。現金を使う人にも2タイプあって,そのひとつは,いつも1万円を出す時代遅れの人,もうひとつは端数分のコインを必死に探しておつりがないようにして出す人です。いずれにしても,そのどちらのタイプの人も,レジで精算に時間がかかるのは変わりなく,後ろに並んでいる人には非常に迷惑です。
 しかし,これまで現金しか使ったことのないお年寄りには,この国のわけのわからない,かつ,不親切極まりないキャッシュレスシステムは過酷でしかありません。また,海外でも,日本でクレジットカードを使いなれていない多くの人は,日本にいるときと同じように,現金を不慣れな外貨(現金)でたどたどしく使っていたりします。日本で1万円札を出すように,アメリカで大きなブランド品の財布から100ドル紙幣など出して買い物をしょうとするのを見るとはらはらします。
 おそらく,こうして,この国は,この国の人は,さらに世界から遅れていくのでしょう。くわばらくわばら。

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今日はシベリウスの生涯について書きます。
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1865年シベリウス(Johan Julius Christian Sibelius)は医師クリスティアン・グスタフ・シベリウス(Christian Gustaf Sibelius)を父,マリア・カルロッタ・シベリウス(Maria Charlotta Sibelius),旧姓ボーリ(Borg)を母としてハメーンリンナ(Hämeenlinna)に生まれました。高校卒業後,ヘルシンキ大学に進学して法学を学びはじめましたが,音楽への興味の方が圧倒的に大きかったのでヘルシンキ音楽院(現在のシベリウス音楽院)に転入,在学中の1888年当時17歳のアイノと恋に落ち4年後に結婚しました。
1892年「クレルヴォ交響曲」(the choral symphony ”Kullervo””)をきっかけとしてシベリウスは管弦楽に意識を向けるようになり,本格的に作曲家の道を歩みはじめ,1899年交響曲第1番を作曲,初演で各方面から好評を博しました。このときの公演プログラムでは,少年と男声合唱のための「アテネ人の歌」(Song of the Athenians)も演奏され,この曲の最後「フィンランドは目覚める」(Finland Awakens)がとりわけ高い人気を獲得したのですが,これがのちに広く知られる「フィンランディア」(Finlandia)です。

1901年から1902年にかけて作曲された交響曲第2番はフィンランドの人々の間に熱狂の渦を巻き起こしました。交響曲の完成後,シベリウスはトゥースラ湖(Lake Tuusula)のほとりに「アイノラ」(Ainola=Aino's Place)と名づけた邸宅を建築し,移り住みました。しかし,1907年のはじめごろからシベリウスは暴飲暴食に耽るようになり,この生活習慣がアイノの健康状態に深刻な影響を与えることとなって,療養施設への入居に至らしめてしまいました。妻が不在の間にシベリウスは禁酒を決意し,交響曲第3番の作曲へと意識を集中させることになりましたが,完成した交響曲は否定的な論評を浴びることとなってしまいました。また,喉の癌の疑いにより大きな手術を受けましたが,この手術が成功したことにより,再びシベリウスとアイノは自宅での幸福を新たなものにすることができました。
1910年のはじめに着手した交響曲第4番は,その内省的な作風があまり前向きに評価されず、賛否両論を巻き起こすことになりました。1915年には交響曲第5番,続いて1919年の暮れには交響曲第6番を作曲し,ともに初演で称賛されました。さらに,1924年のはじめには交響曲第7番が完成,公開演奏は好評を博し,ダンネブロ勲章のナイトに叙される栄誉に与りました。

しかし,交響曲第7番を最後に,シベリウスの創作活動は急激に落ち込み,残りの生涯で規模の大きな楽曲はわずかしか生み出すことはありませんでした。残りの30年の人生をシベリウスは音楽について公に語ることすら避けながら過ごすようになりました。 これが「ヤルヴェンパーの沈黙」(the Silence of Järvenpää)とよばれるもので,シベリウスの存在は神話のようなものとなっていったのです。
1955年,90歳の誕生日を迎えたシベリウスは盛大に祝われたのですが,その2年後の1957年,アイノラにて91年の生涯を閉じました。シベリウスは国葬によって葬られ,アイノラの庭へ埋葬されました。アイノ・シベリウスはその後の12年間を同じ家で暮らし,1969年97歳で夫の後を追いました。彼女も夫の側に眠っています。
1972年,存命のシベリウスの娘たちがアイノラをフィンランド政府へと売却,それ以降アイノアは博物館として公開されているのです。

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フィンランドが独立の機運に湧き始めた19世紀後半から20世紀半ばに,祖国フィンランドの自然や伝承神話などをモチーフに美しく神秘的な作品を数多く残したのが作曲家ジャン・シベリウス(Jean Sibelius)ですが,シベリウスが妻アイノ(Aino Sibelius)とともに30代後半から死去するまで住み続けていた自邸が,妻の名前にちなんでつけられた「アイノラ」(Ainora)です。
1904年,その当時創作活動が停滞し精神的に追い詰められていたシベリウスを救うため,妻のアイノはヘルシンキから郊外への移住をシベリウスに提案し,ヘルシンキから北へ30キロメートルほど離れたヤルヴェンパー(Järvenpää)という美しい田舎町に5千平方メートルの土地を購入し,丸太造りの2階建ての家屋を建てて移住しました。この家の家具や棚,階段,サウナ小屋などの設計は,建築を勉強していた妻アイノが行いました。また,ピアノの置かれたリビングには,親友であった芸術仲間ガッレン・カッレラによる肖像画や風景画などが掛けられ,イタリア製のシャンデリアやオランダ製の暖炉なども設置されました。

現在,シベリウスが暮らしていた自邸はそのまま保管されていて,毎年夏にのみ公開されています。冬のフィンランドもオーロラなど魅力的ですが,ムーミンワールドをはじめとして,夏でなければ訪れることができないところも多いのです。
敷地内の入口に小さな建物がありました。そこがカフェを併設したミュージアムショップで,そこにまず立ち寄りって入場料を払いました。カフェでは女性がひとり食事をしていました。
広い敷地に出ました。そこには美しい花の咲く庭園があって,私が訪れたとき,ちょうど1組の日本人の家族連れが来ていましたが,それ以外には誰もおらず,静かで落ち着く場所でした。そのまま歩いて行くと,シベリウスと妻アイノが眠っている墓がありました。そこを上がっていくと,自邸に着きました。
自邸には係の女性がふたりいました。挨拶をして中を見学しました。内部は往時のままに保存してあって,リビングやキッチン,書斎,寝室など各部屋に置かれていた家具や日用品,ピアノや絵画が残されていました。まるでその部屋にはシベリウスが座っているような気がしました。この部屋で作曲をしていたんだなあと思うと胸が熱くなってきました。私の頭の中にはシベリウスの作曲した曲が鳴っていました。満ち足りた気持ちになりました。
部屋を自分で見てまわることができるように,解説書が用意されていて,それには日本語版もありました。
一旦外に出ると,自邸には地下室があって,そこではシベリウスの生涯をビデオで見ることができました。
自邸を出ました。自邸の周りはまるでひとつの森のような広大な敷地になっていました。
アイノが手入れを欠かさなかったという美しい花園が今もしっかりと手入れされて広がっていました。そこにはアイノが好きだったリンゴの木もありました。また,自邸の奥にはサウナ小屋が残っていて,その内部も見学できました。
敷地を歩き終えました。ミュージアムショップに戻って,昼食をとることにしました。おいしいサラダとコーヒーの昼食は,この旅で,もっとも落ち着くことができた時間になりました。

私はこれで駅に戻りましたが,アイノラから少し西に歩いた場所にはトゥースラ湖(Lake Tuusula)があって,そこはシベリウスがよく散策をしていたところだったといいます。また,この湖周辺には,小説家ユハニ・アホの自邸やアールトが設計を担当した作曲家ヨーナス・コッコネンの自邸などこの美しい景色に見せられた芸術家たちの住まいがいくつも残っているそうです。この旅ではそうした場所に行くことができなかったのを今にして後悔しています。実際は,この湖畔に立ち寄りながら北上して,ひと駅先のヤルヴェンパー駅から帰るべきでした。
このように,ヤルヴァンパーはすてきな町だったので,また来る機会があれば,今度はここに1泊してみたいものだと思いましたが,それもそう遠いことではないように思えます。

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一般の旅行ガイドブックにはフィンランドについて詳しいものがほとんどありません。私が持参してきたのは「地球の歩き方Plat」というものですが,昨年行ったアイスランドもまた,旅行ガイドブックはこのシリーズしかありませんでした。このことは,日本から訪れる観光客が少ないということを意味するのだから,観光客の多いところが嫌いな私にはそれはそれで好ましいのですが,この本には,フィンランドといっても,載っているのはヘルシンキのほかにはムーミンワールドに近いナータリンとトゥルク,ムーミン美術館のあるタンペレ,そして,北極圏の町ロヴァニエミとサーリセリカのみです。そこで,フィンランドのこれ以外の町の情報は日本ではほとんど手に入らないということになります。
私が抱くフィンランドのイメージはムーミンやサンタクロースよりもむしろシベリウスなのです。しかし,シベリウスというのは,モーツアルトなどと比べるとずいぶんと地味で,かつ,渋く,シベリウスに関する場所がどこにあるのかというのがよくわかりませんでした。私のうっすらとした記憶にあるのが,昔,LPレコードの解説にあった,ヘルシンキから郊外に行ったところにあるシベリウスの住んでいた森の中の一軒家の写真で,すごい田舎に住んでいたんだなあ,こんな場所に行くことはないだろうなあ,と思ったことくらいのものでした。

今回,フィンランドに来るまえに,ネットで,シベリウスの関連スポットという情報を見つけてプリントして,たいして読みもせずに持ってきました。しかし,まさかこの旅でそこに行けるとも思っていませんでした。こちらに来てから読んでみると,ヘルシンキから北に30キロメートルほど行った場所にあるヤルヴェンパー(Järvenpää)という田舎町にシベリウスの自邸だった「アイノラ」があると書かれていて,そこに行くにはヘルシンキ中央駅から近距離電車に乗ってアイノラ駅で降りてそこから歩けば行くことができると書かれていました。しかも,公開しているのは夏の間だけでした。
メトロでマリメッコの本社まで行った帰り,ヘルシンキ中央駅に戻った私は,このあとそこに行ってみようと,電車のチケットを買うことにしました。チケットは大きな液晶パネルの機械を操作すると,想像以上に簡単に購入できました。こうして私は,フィンランドに来てから,日々徐々に遠くに行くことができるようになってきたのです。
電車は日本のものとそう変わったこともなく,違いといえば日本と違って人が少なく席が空いているということでした。席は指定で,座って外を眺めていると,ヘルシンキ郊外の景色が旅情を誘いました。朝あれほど降っていた雨も止んで,ずぶぬれで不快だった足元も次第に乾いてきました。
こちらの電車は改札がなく,ホームに行って乗り込むだけです。チケットも検札が来ることがあるらしいのですが,この近距離電車には来ませんでした。約30分でアイノラ駅に到着しました。無人駅でした。駅に大きなシベリウスの看板があって,その看板に書かれた方向に至るあぜ道のようなせまい道路を歩いて行きました。やがて森の向こうにシベリウスの自邸が見えてきました。

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 マーラーの交響曲だけでもゆうに70分を越えるのに,その前に,R・シュトラウスのそれもそれほど有名でない曲をもってくるのも,指揮者パーヴォ・ヤルヴィらしい選曲でした。
 しかも,ただでさえ長いのに,開演が10分以上遅れました。その理由はわからないのですが,おそらくは,R・シュトラウスを歌ったソプラノのヴァレンティーナ・ファルカシュ(Valentina Farcas)さんにゆかりのある国の偉い人が会場に聴きに来る予定が遅れたためではないかと想像します。それは,そんな感じの人がNHKホールの中央の座席に着くのを待って演奏会がはじまったからです。ということで,途中の休憩を5分短くしてもコンサートが終わったのがなんど午後9時30分ごろという,異例の遅い時間となりました。

 いつも書いているように,R・シュトラウスは単独で曲だけを聴いても私にはさっぱりわかりません。この歌劇の主題は「言葉と音楽とどちらが重要か」で,これは作曲者自身がこの歌劇の登場人物のフラマンに投影されているのだそうです。
 歌劇「カプリッチョ」や私が R・シュトラウスの作曲した音楽のなかで最も好む「4つの最後の歌」 (Vier letzte Lieder)のような作品で,R・シュトラウスは自身の音楽こそが世界のすべてであるといったその主張が浮かび上がるようになっているそうですが,その究極が交響詩「英雄の生涯」(Ein Heldenleben)ではないかと思われます。この交響詩の「英雄」というのは R・シュトラウス自身です。

 マーラーの交響曲第5番嬰ハ短調は,これまで何度かライブで聴いたことがあります。私はマーラーは好みの作曲家ですが,マーラーの音楽を聴くのはほとんどコンサートであって,家で録音を聴くことはめったにありません。それがブルックナーとの違いです。その理由は自分でもよくわかりませんが,おそらく気楽に聴くには「重たすぎる」音楽だからなのでしょう。
 9曲と未完が1曲ある交響曲のなかで,第5番はグスタフ・マーラーが1902年に完成した5楽章からなる中期を代表する作品です。ハープと弦楽器だけによる第4楽章アダージェットが,ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)監督による1971年の映画「ベニスに死す」で使われたことで有名ですが,マーラー愛好家の中には,この曲がつねに「ベニスに死す」として語られることを嫌う人も少なくありません。それは,ホルストの「惑星」が平原綾香さんの「Jupiter」として語られるのと同じようなものでしょうか。
 トーマス・マン(Paul Thomas Mann)の原作を映画化した「ベニスに死す」(Death in Venice)は,静養のためベニスを訪れた老作曲家が出会ったポーランド貴族の美少年タジオに理想の美を見い出し,疫病が流行する死臭漂うベニスでタジオの姿を追い求め歩き続け,ついに彼は倒れ込み,波光がきらめく中かなたを指差すタジオの姿を見つめながら死んでゆく,という作品です。映画と交響曲の関連はともかく,映画の醸し出す雰囲気もまた,この交響曲と同じように私は感じます。

 グスタフ・マーラーは,第5番以降,声楽入りだった第2番から第4番までの「角笛交響曲」から一転して,純器楽のための交響曲を作曲しました。第5番は第4番の余韻を漂いながらの葬送行進曲ではじまるのですが,そのリズムはベートーヴェンの同じく第5番の交響曲を連想させます。それにしても暗く,そして長い交響曲です。しかも,ベートーヴェンやブルックナーの交響曲ではかなり早いテンポで演奏をするパーヴォ・ヤルヴィが,異常なまでのおそいテンポで演奏をはじめたのに私は驚きました。この曲の暗さと重さ,そして,テンポの遅さは第3楽章まで続き,このまま終わってしまったら本当に救いのない音楽になってしまうなあと思って聴いていたのですが,ものすごく美しい第4楽章と快活でダイナミックな第5楽章がそれをすべて超越しました。
 この交響曲は,人間の生きることの苦悩,存在の苦しみ,そうした感情のすべてを,はじめの3楽章でこれでもかこれでもかと描いたうえで,第4楽章で安らぎを与え,第5楽章でそうした感情からの完全解放が描き出されていることが共感を呼ぶのでしょう。しかし,この完全開放というのは,生きることの勝利の宣言ではなく,むしろ「ヨブ記」に共通する苦しみを超越してはじめて到達できる喘ぎだと私は思います。これまで何度か書いたように,人が生きるということは苦しく不条理で,救いなどないのです。そうした真実の重さが,マーラーがそれまでに書いた,第2番や第3番の交響曲のような大げさな勝利やら,第4番の交響曲のようなおちゃらけの幸福感,そうした強がりを越えたところにある人間の生の本質を描いているのでしょう。だからこそすばらしい曲なのですが,重すぎます。
 よい演奏会でしたが,マーラーの交響曲第5番は,ショスタコービッチの交響曲第15番とともに,人生の経験の浅い若い人には曲が終わったとき「ブラボー」と叫べても,私にはやはり気楽に聴ける音楽ではないなあ,ということを改めて思い知らされるものとなりました。

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 国技館のある両国というところはとても雰囲気のよいところです。大相撲のチケットをもっていなくても,このあたりを散策するだけで異次元空間に入ったような錯覚を覚えます。今回大相撲を見る前に少しこの辺りを散策してみました。
 このあたりには相撲部屋も多くあって,歩いていると意識しなくてもいくつか目にすることができます。今日の1番目の写真が八角部屋で,2番目の写真がそのお隣にある錦戸部屋です。八角部屋というのは現在解説者の北の富士さんが九重親方だったときに育てた横綱北勝海が八角親方として起こした部屋ですが,むしろこちらのほうが北の富士さんが九重親方だったときの直系です。そして,横綱千代の富士が名前としては九重親方として部屋を継いだ形となっていますが,むしろ分家のような感じです。ちなみに九重部屋もこの近くにあります。
 現在両国に部屋を構えるのは結構大変で,よほど昔からの伝統がある部屋かまたは後援会が強くお金があってこのあたりに土地を手に入れることができた部屋に限られてしまっているのが残念なことです。

 3番目の写真は葛飾北斎生誕の地という立て札で,この場所には葛飾北斎美術館もあります。江戸情緒一杯です。
 そして4番目から6番目の写真がその近くにある野見宿禰(のみのすくね)神社です。野見宿禰神社というのは相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る神社で,兵庫県たつの市にも同名の神社があります。
 1884年(明治17年),この神社の東側に部屋があった初代高砂浦五郎によって元津軽家の屋敷跡に創建されたものです。境内はさほど広くないのですが,ここには歴代横綱之碑というのが二基あります。そのひとつは1952年(昭和27年)に建立されたもので,初代明石志賀之助から46代朝潮太郎までの名が刻まれています。もうひとつは47代柏戸剛以降の歴代の横綱の名前が刻銘されていて,最後が稀勢の里です。新しく横綱が誕生した際にはこの神社の神前で土俵入りを披露する慣例があります。

 野見宿禰というのは土師氏の祖として「日本書紀」に登場する人物で,天穂日命の14世の子孫で,第12代の出雲国造である鵜濡渟の子であると伝えられています。 
 相撲の最古の記録は「古事記」にあり,そこには,葦原中国平定で建御雷神(たけみかづち)の派遣に対して出雲の建御名方神(たけみなかた)が「然欲爲力競」と言ったのちに建御雷神の腕を摑んで投げようとした描写があります。これが相撲の起源とされていますが,これは神々の世界のこと。
人間同士の相撲で最古のものは「日本書紀」にあり,紀元前23年(垂仁天皇7年)に,垂仁天皇の命により,野見宿禰が当麻蹴速と角力(=相撲)をとるために出雲国より召喚され当麻蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ったと言い伝えられているものです。
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 朕聞當麻蹶速者天下之力士也,各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之
  ・・
 蹴り技の応酬ののち,最後に宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り,更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り絶命させた
  ・・・・・・
と書かれています。こうしたことから,野見宿禰は相撲の始祖として祭られているというわけです。 

 時代は進み,奈良時代から平安時代にかけて,宮中行事のひとつとして相撲節会が行われるようになり,毎年40人ほどの強者が選抜されて宮中で天覧相撲をとりました。要するに宮中のお祭りのひとつだったのでしょう。力自慢がそれを競い合い,それを見て楽しもうという考えは自然なものです。
 その最初の記録は734年(天平6年)にありますが,時代が下るにしたがって次第に重要な宮中行事となっていきました。しかし,都の政情が不安定になっていくとともに相撲節会は滞るようになり,1174年(承安4年)を最後に廃絶になりました。
 その一方で,神社における祭事として相撲をとる風習が生まれ,これは,農作物の豊凶を占い五穀豊穣を祈り神々の加護に感謝するための農耕儀礼として,現代も地方で続いています。
 相撲はまた,組み打ちの鍛錬として武士の間で広まっていきました。源頼朝は特に相撲を好み,鎌倉を中心に相撲が盛んに行われました。江戸時代に入るとそうした武家相撲は存在意義を失いましたが,土地相撲が興行化して民衆一般に広がり,興行主はこれを神事相撲の「勧進」にことよせて勧進相撲と称した見世物と化し,庶民の娯楽としてさらに隆盛するようになっていきました。そして,職業相撲としての営利的興行へと変化し,スター力士が登場,江戸相撲は黄金期を迎えることとなって,1833年(天保4年)には勧進大相撲が一大歓楽地であった両国を定場所としたのです。

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 9月26日,将棋の木村一基九段が第60期王位戦七番勝負の第7局に勝ち,4勝3敗でタイトルを獲得されました。私もうれしくて泣けました。「将棋の強いおじさん」とファンに親しまれる「いい人」は,精神的にも人間らしい弱さが勝負師としては仇となっていたのですが,無欲となったことで勝負の神様がほほえんだようです。
 若いころはものすごく強く,タイトルも間近だったのに何度挑戦しても跳ね返され,このごろはタイトル挑戦者よりも解説者としての存在となっていて,今回もまただめなのかな,と思っていただけに,この結果には驚きました。
 しばらく低迷していた木村一基九段でしたが,一念発起,新たに将棋の研究により多くの時間打ち込むようになって往年の強さを取り戻し,今年は,第60期王位戦挑戦者決定戦で羽生善治九段に勝利し,豊島将之王位への挑戦権を獲得,また,第32期竜王戦では本戦トーナメントを勝ち抜いた結果,挑戦者決定三番勝負を同じく豊島将之王位と対戦することとなって,同時期に行われる王位戦七番勝負と合わせて「十番勝負」を行っていました。
 竜王戦挑戦者決定三番勝負は惜しくも1勝2敗敗で敗退したものの,王位戦では4勝3敗で勝ち,十番勝負は5勝5敗という結果に終わりましたが,ついに初のタイトル王位を獲得しました。これまで初タイトル獲得の年長記録は有吉道夫九段の37歳6か月でしたが,木村一基新王位は46歳3か月とこの記録を9歳あまりも更新しました。
 
 木村一基新王位は居飛車党の棋士で,受けが得意であり,守りと粘りの棋風。柴田ヨクサル作の漫画「ハチワンダイバー」の登場人物である中静そよの異名「アキバの受け師」をもじって「千駄ヶ谷の受け師」という異名があります。棋士仲間の間で「勝率君」と呼ばれていたほどプロになってからの勝率が非常に高く,通算500局以上対局している棋士の中で通算勝率が7割を超えていたのが羽生善治九段との2人だけという状態が長く続いていました。しかし,タイトルにはなかなか手が届きませんでした。
 はじめて挑戦をしたのが2005年の竜王戦。決定したときには盤の前にひとり残り涙を流したといいます。しかしタイトル戦は1勝もできず敗退しました。さらに,2008年,王座戦で挑戦権を獲得しましたが,やはり1勝もできず敗退しました。また,2009年は棋聖戦と王位戦の挑戦権を獲得しましたが,棋聖戦は第3局まで2勝1敗とリードしたものの敗退,王位戦は第3局まで3連勝したもののそれ以後4連敗を喫しました。
 2014年王位戦の挑戦権を獲得しましたが,2勝4敗1持将棋でまたしてもタイトルの獲得はならず,2016年にも王位戦で挑戦権を獲得し第5局の時点で3勝2敗と先行しましたが,結果は3勝4敗でした。
 私は2018年の朝日杯将棋オープンを観戦したときに,解説者として登場した木村一基新王位を真近で見たことがあります。これだけ強くて人柄がよくてファン思いで,それでいながら,何度もタイトル戦に挑戦したのに一度も夢がかなわないなんて,将棋の神様はいないのかと思っていたのですが,やっと夢がかないました。
 インタビューで泣いていたその姿に私も泣けて泣けて仕方がありませんでした。
 「将棋の強いおじさん」タイトル獲得おめでとうございます!

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 大相撲を見にいく楽しみは,アメリカMLBと同様に,テレビでは映らないさまざまな風景をみることができることです。そして,そうした風景を写真に撮ることです。テレビで見ていると結果ばかりが気になるのですが,実際に見にいくとそれほど結果にはこだわらなくなるの不思議なことです。
 今一番の人気は,1番目の写真の炎鵬関です。以前,金沢巡業ではじめて見たときは,あんな小さな体でこれから強くなるのかしらンと思ったのですが,幕内で活躍をしています。この日に勝って勝ち越しましたが,歳をとった私は,そういうのを見るだけで泣けてきます。
 宇良という人気があった小兵力士はその後ケガをしてしまい,今場所も休場をしています。一度ケガが癒えて復帰したのですが,また同じ場所をケガしてしまい,なかなか再起ができません。どうしても小さな力士はこうしたケガが致命傷になってしまいます。
炎鵬関はなんとかケガをしないでこれからも活躍してほしいものです。

 2番目の写真は照強関の塩まき,3番目の写真は阿炎関の四股です。こうしたその力士独特のパフォーマンスも魅力のひとつです。前回名古屋場所を見たときも同じようにこうしたパフォーマンスの写真を撮っていたのですが,照強関の塩まきはすっかり頭から抜けていたので,今回はぜひ写そうと狙っていました。
 こうして高らかに塩をまく力士は,昔の水戸泉関,それに続く北桜関といたのですが,現在は照強関です。

 水戸泉関は水戸市出身で高砂部屋所属。最高位は東関脇で現在の錦戸親方です。新十両の場所の8日目から,付人の奄美富士の「勝ち星に恵まれないときはせめて塩だけでも景気よくまいたらどうですか」という進言により大量の塩を撒くようになったといいます。はじめの頃は1回目から大きく撒いていたということですが,後に制限時間いっぱいの時にのみ大きく撒くようになりました。1回にとる塩の量は何と600グラムでした。
 ロンドン公演で「ソルトシェイカー」と紹介されたというのは有名な話で,私はそのときにシェイカー(shaker=振る人)という英単語を覚えました。それ以降,日本でも「水戸泉といえば豪快な塩まき」として定着しました。
 北桜関は広島市出身で北の湖部屋所属。最高位は西前頭9枚目で現在の式守親方です。 制限時間一杯のとき大量の塩を撒くパフォーマンスで有名になりましたが,そのパフォーマンスをはじめたきっかけは,2000年の名古屋場所14日目の対水戸泉戦でした。初対戦時に負けていたため気迫で負けぬようにと対抗して多くの塩を撒いて勝ったことによります。翌秋場所で引退した水戸泉関は北桜関を「ソルトシェーカー」の後継に指名し,観客に喜ばれる塩撒き法を伝授したといいます。
 塩を撒く前にはゆっくりと大きな深呼吸し,塩を撒いた後には雲龍型のポーズをとって土俵内に入る事でも知られていました。

 四股というのは,両足を開いた状態で膝に手を添え,そのまま片方の足を高く上げて踏み下ろすといった動作を繰り返すものです。力士の足腰を鍛える基本動作で,相撲界では,もっぱら四股を踏まずして強くなることはないといわれています。逆にいえば,強い力士はそれだけよく四股を踏んでいるともいい換えられます。
 四股の語源は「醜(しこ)」という言葉にいきつくとされています。これは四股が大地を踏んで邪鬼払い的な意味があることを示唆していて,その「醜」という言葉を嫌い当て字として用いられたのが「四股」となります。つまり,足で地を踏むことで邪鬼,すなわち醜を払っている神事ともいえます。取組前に力士が土俵で行う四股は,単に準備運動を行っているだけでなく,土俵の邪鬼を払い清めているということにもなるのです。

 今,阿炎関の四股がキレイ! と話題になっています。そんなことを知らずとも,その姿を見ればそれだけでほれぼれします。私は話題になっていることは知りませんでしたが,見ていて思わずこうして写真に収めました。
 お相撲見物のおもしろさは勝ち負けだけに限らず,というよりも,むしろ勝ち負けなどどうでもよいくらい,力士が土俵に上がってから相撲を取るまでの様々な動き=所作にもあるのです。
 阿炎関の四股は,最初は少し膝を曲げながらゆっくりと片足を上げ,その足をピンとまっすぐ伸ばしますが,その状態でも身体がふらつくことがないのです。そして,その上げた足をつま先から土俵にのめりこむように下ろしていきます。

  ・・・・・・
 服部桜という力士がいます。
 通算3勝164敗1休みというこれまでの成績は,相撲史上最弱という名をほしいままにしています。
 服部桜が勝つところをみるのは,横綱白鵬が負けるのを見るよりも大変です。そもそも15日のうち7番しか取組はなく,しかも登場は一番はじめとなれば,取組を見ることすら困難なのです。
 私はなぜか,いつかはそうしたい,いつかは見てみたい,いつかは行ってみたいと思い続けていたことは奇跡的に実現してきたのですが,今回,この服部桜の取組を見ることができました。いつも13日目までに取組を終えるので期待していなかったのですが,なぜか,14日目に取組がありました。しかも,取組開始の30分ほど前,国技館の建物の外にふと出た時,偶然にもその場所入りに遭遇しました。これを奇跡といわずなんというのでしょう!
 しかし,4勝目は実現せず,順当に165敗目となってしまいました。

 服部桜は神奈川県茅ヶ崎市の出身で式秀部屋,つまり北桜関の起こした部屋所属の力士です。
 身長177センチメートル,体重85.1キログラムで,これまでの最高位は西序ノ口15枚目です。
 小学校時代にテレビで幕下の取組を見て相撲に興味をもち,中学卒業後高校に進学せず陸上競技の活動を継続すべく独自の筋力トレーニングを研究している最中,四股や摺り足が陸上競技に必要な筋肉の鍛錬に最適であることを知り入門を決意しました。
 式秀部屋に単身で訪問し入門志願を直訴,両親の承諾を得たことで正式に入門が認められ,2015年秋場所で初土俵を踏みました。つまり,これでまる4年となります。
 次の九州場所に序ノ口として番付に四股名が掲載されて以降全く勝てない場所が続いていましたが,2016年夏場所6日目の澤ノ富士戦において通算23戦目にして初白星を挙げました。
 皮肉にも服部桜が有名になったのは2016年秋場所3日目,錦城を前に立ち合いで相手に触れる前に転ぶという敗退行為で,これがマスメディアや相撲愛好家に取沙汰された上,師匠の式秀親方が事情聴取及び口頭注意を受けたことによります。これは,稽古で首を痛め立ち合いで恐怖心を感じていたゆえに行為に及んだということでした。
 このとき引退も考えたのですが「今逃げると負け犬になるぞ」と式秀親方から叱咤されて続投を決意したということです。  
 2018年初場所6日目に敗れた時点で70連敗達成,双葉山の連勝記録69を上回る事態となりましたが,2018年名古屋場所3日目颯雅に腰砕けがあったため勝利し,2勝目を挙げ,ついに連敗を89で止めました。そして,2019年初場所9日目に峰雲に寄り倒しで勝利し,3勝目をあげました。
 現在はこの日負けて31連敗中です。

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 今日の1番目の写真のように,両国国技館のチケット売り場は,開場前このような人だかりになっていました。これはわずかな枚数の当日に売り出される自由席券を手に入れて,だれよりも先に会場に入り,よい席に座ろうとする人たちでした。それにしても,よい席といったところで,国技館の最上段の一列でしかありえません。どこに座ろうとたいして差がなさそうに私には思えるのですが,これはこれでこの人たちは一生懸命です。話しかけてみると,並んでいる人には常連さんが多く,私は入り込めますが,一元さんには入れないムードいっぱいでした。
 こうした人たちがいる一方で,午後4時過ぎに観光バスで現れる団体さんもいます。私は,せっかくチケットがあるのに,午後4時から見るのではもったいないなあと思うのですけれど…。はじめの一番から見てこその相撲見物です。

 2番目の写真は先の夏場所の千秋楽でアメリカ合衆国トランプ大統領が優勝者に手渡した優勝杯,通称トランプ杯です。夏場所後は相撲博物館に展示されてありましたが,場所がはじまって,優勝杯などとともに並べてありました。ただし,これが優勝力士に贈られるのは初場所だけだそうです。
 あの騒動は夏場所千秋楽ことだったのですが,今にして思うといったいなんだったのでしょう? 大統領はMLBのボールパークのイメージしかなかったのでしょう。しかも,あれだけ準備して忖度して,来た本人は少しも楽しそうでありませんでした。それにしても,このトロフィーが優勝賜杯よりも大きいというのもなんだか複雑な気持ちです。

 そして,3番目が国技館名物の焼き鳥です。国技館といえば焼き鳥でしょう,というわけで,これを食べ,ビールを飲んで相撲見物をするのが定番となっています。ついでにみつ豆というのもまた国技館名物だったりします。私はビールはめっぽう強いけれどめったに飲まないので,この日もまた焼き鳥とお茶でしたけれど…。
 この焼き鳥は国技館の土俵の下にある秘密? 工場で作られているというのは知る人ぞ知るトリビアなのですが,もっと暖かければいいのに,それが残念なことでもありました。
 国技館というのは,日本の昔から延々と続く「芝居小屋」が今に残る建物で,およそ海外の,特にアメリカのスポーツ施設とは根本的に発想が異なります。それはそれでその国の個性だからいいのですが,升席がせまく4人も座ればぎゅうぎゅう詰め,しかも4人集まらないとチケットも買えないのが難点です。それでもまだ,国技館には2階のイス席がたくさんあり,そのイスも座り心地が悪くないので許せますが,地方場所ではイス席が少なく,しかも,そのイス席というのも駅のベンチのような固いものなので,そんなところに何千円も出して何時間も座らされるのは耐えられません。

 4番目はちゃんこです。
 お相撲は一時人気がなくなったころに結構さまざまな企業努力をして相撲以外にさまざまな企画をはじめたことで,今もそれが続いていていろいろと楽しめるようになりました。託児所もあるようですが,アメリカのMLBのボールパークのように,子どもがもっと楽しめるような遊び場があればいいのになあと思います。一度相撲関係者はアメリカのスポーツ施設を見学に行って研究するといいと私は思います。
 このちゃんこは人気で列ができるのですが,お客さんの回転が早いのでけっこうすぐに食べられます。この企画がはじまったころは相撲教習所でやっていて,なかなか入ることのできない相撲教習所に入ることができたのですが,今は,国技館の地下の会議室,といっても豪華な場所ですが,そこでやっています。せっかくやっているので,会場に大きなテレビでも設置すればいいのに,ここには何もないから,せっかくお相撲を見にきたのに,ちゃんこを食べている間は相撲が見られないというのはかなり残念なことです。
 1杯300円で量はそれほど多くないのですが,それがよくて,これだけでおなかが一杯になってしまったら,ほかのものが食べられなくなってしまうからこれで十分でしょう。私の隣に並んでいた若者はおなかが減ったと2杯頼んでいましたが。

 そして,5番目の写真は力士の入り待ちを待っている人たちです。せっかく相撲を見に来て,土俵を見ず,こうして力士が来るのを待っている人が多いので,午後3時くらいまでは館内が空いてるというわけですが,国技館では,大関以上は車で駐車場に入ってしまうので,ここに立っていても見ることができません。それ以外の力士は待っていると間近に見ることができます。本当は来る力士を待つ「入り待ち」よりも帰るときの「出待ち」のほうが力士がリラックスをしているので,一緒に写真を写したりサインをもらえるのでよかったりします。
 こうした方法は,以前は国技館だけで,地方場所ではやっていなかったのですが,これもまた,人気回復のために地方場所でもはじめました。しかし,昨年の名古屋場所が暑すぎで熱中症で見ていた人が倒れるということが起きてから,名古屋場所では中止となりました。一番見やすいのは大阪場所です。大関や横綱も見ることができるし,入口が狭く,力士とお客さんの入口が同じ場所です。
 私はこの日,ここにいる予定もなかったのですが,ちゃんこを食べて席に戻る途中でふと立ち寄ったまま,3時過ぎまでここにいることになってしまい,そんなわけで結局今回もまた,ほとんど取組を見ないで終わってしまいました。お相撲を楽しむにはどうやら体がふたつ必要なようです。

 東京へ行くと,この国はどうして首都だけが繁栄しているのだろうと,いつも疑問を感じます。行くたびにどこかかしかの工事をしています。交通網も文字通り網の目のように完備され安価でどこにも簡単にいくことができますし,Suica を持っていれば電車にも乗れるだけてなく売店でモノも買えるのでストレスフリーです。東京に住んでいる人は,この国の地方の廃退と過疎化を思い浮かべることもないでしょう。
 東北地方,九州地方など,自然災害でどこも大きなダメージを受けているにもかかわらず,その復興よりもオリンピックのための様々な建設が優先されているようにも感じます。そこで,先日のオリンピック日本代表を決めるマラソンをテレビで放送していたときに見た新国立競技場に行ってみました。アメリカのMLBのボールパークの豪華さには遠く及びませんが,それでもこんなに巨大なものを作っちゃっているんだなあと思いました。周りの道路もまた,尋常でない夏の暑さを少しでも緩和しようと,再舗装されていました。しかし,オリンピックが終わったら,オリンピック関連で作られた多くの施設は,おそらくその維持だけでも莫大な費用が発生し,その負担を今の若い人たちがずっと背負っていくのだろうと思うと,開催を素直に喜ぶこともできません。

 大相撲秋場所を見にいったとき,隣に座っていた人が言っていました。
 先日の台風で被害を受けた南房総には,定年を迎えて,全財産を投資して家を建て移り住んだ友人が多く住んでいるのだそうです。残りの人生を悠々自適に過ごそうと手に入れた土地と新居と夢でした。ところが,そうした人達は,この台風で新しく建てた家は破壊され,再び作り直す財産もなく,将来が真っ暗になって立ち直ることもできず困っているのだそうです。その一方で,これまでは高くて手が届かなったこの地方の物件が,この被害で暴落したのを絶好の機会とみて,それを買いあさろうと虎視眈々と狙っている人がいるのだそうです。
 これではハゲタカです。
 一体,この国はどうなっているのでしょう?
 この話を聞いて,やはり,モノというのは持たないに限る,この国ではモノを手に入れるということのリスクは,凡人の想定をはるかに超えているのだなあと,改めて実感したことでした。

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 9月20日金曜日から21日土曜日,東京へ出かけて,20日はNHK交響楽団の第1919回定期公演を聴き,21日は大相撲秋場所を見ました。どちらもすばらしく,とてもよい週末になりました。NHK交響楽団のことは後日書くことにして,今日は,私の見にいった翌日22日に御嶽海の優勝で終わった大相撲のことを書きます。
  ・・・・・・

 一時よりはチケットが購入しやすくなった大相撲ですが,今回は,14日目と千秋楽の抽選の申し込みをして,14日目が当選しました。大相撲に限らず,1日を楽しく過ごすことができればいいので,とても楽しみに両国の国技館に行きました。
 晴れ男の私なのに,どういうわけか両国に足を運ぶときはなぜか天気が悪く,いつも,両国界隈を散策しようとする目的が果たせません。この日もまた,雨こそ降らねど,なんとなくはっきりしない天気でした。しかも,早朝しJRの両国駅を降りたら,何となく小雨が…。しかし,雨はそれ以上は降ることもなかったので,開場まえに,やっと両国界隈を散策することができました。
 このあたり,たくさんの相撲部屋があったり,葛飾北斎や芥川龍之介の住居跡があったりと,なかなかよいところなのです。ちいさな家々がが多いのですが,駐車してある車が高級車ばかりなのがまたおかしなところで,そのアンバランスがまた興味深いところでもあります。
 
 大相撲は14日目と千秋楽は開始時時間がおそく,この日は取組のはじまるのは午前10時45分でした。
 8時の開場時間には,わずかだけ販売される自由席の当日券を買い求めた人たちが列を作り,我先に少しでもよい席をとるために競争を繰り広げていました。
 お相撲を見に来たお客さんのおもしろいところは,こうした自由席を買って毎日のように見に来る人やら,土俵溜まりで毎日観戦している人やら,チケットは持たず国技館の外で力士の場所入りを追っかけている人やら,いろんな人がいることです。しかし,共通するのは,そのどのタイプの人でも,お相撲の話をするとすぐに意気投合してしまうことにあります。
 私は,いつものこと,開始時間から最後までを楽しむために,一番はじめに会場に入って,相撲を見たり,力士の場所入りを見たり,ちゃんこを食べたり,などなど,快適な1日を過ごしました。いつも書いているように,横綱白鵬が出ないときの大相撲はおもしろいのです。それに加えて,この場所は優勝争いが最後までもつれて,一層おもしろい場所になりました。
 では,今日は私がこの日に写した,千秋楽に3敗で並んだ御嶽海関,貴景勝関,隠岐の海関の写真をご覧ください。

3日目の朝になりました。外は大雨でした。これでは外を歩けません。
朝食を終えてフロントにいた男性に聞くと,フィンランドは7月ごろは天気が悪いんだよ,でも,この時期はまだましでねえ,と言っていました。まあ,雨の日は部屋にいるほうがいいんじゃないの,だそうです。といっても,1日を無駄にもできません。予定通り,今日は,マリメッコの本社にメトロで行くことにしました。
それにしても,ものすごい雨でした。救いはお昼過ぎには上がりそうだということでした。メトロの駅までさほどの距離はないのですが,歩道は水びたし,スニーカーにも水が入ってきて,気持ちがわるいことこの上ない状態でしたが,なんとか駅に着きました。
はじめてメトロに乗ったのですが,何の問題もなく,最寄りの駅までいくことができました。最寄りの駅はヘルシンキの郊外にあって,日本と同様に地下鉄も地上を走るようになっていたので,駅は地上にありました。ところが駅に着くと,先ほど以上の雨,これでは,駅から徒歩10分ほどのマリメッコの本社までとても歩けません。
駅でしばらく雨宿りをすることにしました。

雨宿りをしていると,初老の男の人が私に話しかけてきました。彼はフィンランド語しかできないようでした。フィンランドの語学教育が日本の英語教育とは比べ物にならないとはいえ,やはり,この時代の人は日本と変わらないなあ,と思ったのですが,私が何度英語でフィンランド語はわからないといっても,話をやめません。そんなわけで,私が英語,彼がフィンランド語というように,わけのわからない会話が続き,疲れました。
雰囲気でわかったことに,彼は金持ちでした。ブランドモノの腕時計をして,多額の年金をもらっているようでした。ただし,彼は酔っぱらっていました。どの国も,年寄りは人恋しいように思いました。
雨が少し小ぶりになって来たので,彼と別れて,マリメッコの本社まで歩いて行きました。
ショールームが開くにはまだ10分程度時間があったのですが,社員食堂ではコーヒーが飲めるようでした。そこで,コーヒーを飲みながら体が乾くのを待っていると,そのうちに徐々に来客が増えてきました。みな日本人の女性でした。
やがて,ショールームが開いたので,ウィンドウショッピングです。私は買う気もないので,単に見に来ただけ。そのうちに多くの日本人女性客でいっぱいになってきました。
マリメッコからの帰り道,メトロの駅までの間にも,どれだけの日本人女性とすれ違ったことか!

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 日本では海外からの旅行者が急激に増えているという報道がありますが,それは決して日本だけのことではなりません。世界的に旅行者が増えているのです,と前回書きました。
 その結果,有名な観光地は,どこも人がひしめき合っています。東京ディズニーランドやハワイのワイキキビーチはレジャーセンターだからともかくして,富士山さらにはエベレスト山まで,人であふれかえっています。地球上にひとつしかないところに世界中から人が押しかけ,しかも観光客の絶対数がふえているのだからどうしようもありません。裕福になった人が増えて,その結果旅行をする人たちが増大して,世界の名だたるところにだれもが行きたいと思うからこういうことになるわけです。
 こうした「オーバーツーリズム」のおかげで,これまでの観光地は,秩序もへったくれもなくなってしまいました。

 観光地としては,多くのお客さんに来てもらえれば潤うからよいのですが,それも度を越すと,それまでのよさがなくなってしまい,常連さんの足が遠のき,その先見捨てられることにもなりかねません。短期的な利益を追い求めることで,長期的には不利益になることは歴史が証明しています。
 また,行く側としても,何の知識も持たずに興味半分に出かける人は,観光地にとって,一時の利益をもたらしても,所詮リピーターにもなりえないのだから,迷惑な存在です。たとえば,天体観察ツアーで懐中電灯をふりまわす輩とか,コンサートホールで私語を辞めない輩とか,立ち入り禁止の場所にも入り込んだり,植物を無断で採集したりと,およびでない人たちが多すぎます。

 私が若いころは,たとえばニューヨークの自由の女神といえども,当日チケットを購入して入ることができました。しかし,今や,事前にネットで予約しておかないとどうにもならないようなありさまです。しかもたちが悪いのは,これまで穴場とされていたところさえ,情報網の発達で穴場でなくなり,どこかしこもが観光客だらけになってしまったことです。「アンダーツーリズム」を追い求めても,そのうち,というか今でもすでに「オーバーツーリズム」を避けて,そうした人の行かないところを追い求める人が増えてきつつあるから,そうなると今度はそうした場所までもまた観光客で一杯になってしまったら,もはや,地球上には出かけたい場所はどこにもなくなってしまうのでしょう。本当に若い人は気の毒です。

私がヘルシンキ発ロヴァニエミ行きの夜行電車のことを知ったのは,「世界の村で発見!こんなところに日本人」というテレビ番組で,榊原郁恵さんがフィンランドの最北部の町ウツヨキに住む女性を訪ねるときに利用したのを見たときでした。ちょうどその番組が放送された数日後にロヴァニエミに行ったこともあって,とても身近に感じたものでした。私はヘルシンキからロヴァニエミまで飛行機を利用しましたが,こんな電車があるんだ,と思いました。そしてまた,その当時はフィンランドといえばロヴァニエミしか知らなかったので,ヘルシンキという町,そして,ヘルシンキの中央駅に興味をもちました。
私がロヴァニエミに行ったとき,オーロラ鑑賞ツアーに参加したその帰り道で,幸運にも,ちょうどロヴァニエミ発ヘルシンキ行きのこの電車が走っていくのに出会いました。
そんなこともあって,おそらく実現はしないでしょうが,いつかこの電車に乗ってフィンランドを旅したいという想いができました。私が宿泊しているホテルが中央駅に近いこともあって,私は,ぜひ,この電車を見てみようと思い立ちました。そこで,夜10時過ぎにホテルを出て,電車を見るためにホームに行ってみました。

この電車を通称「サンタクロース・エキスプレス」(Santa Claus Express)といいます。フィンランドVRグループが運行する夜行列車です。ヘルシンキ、トゥルクとサンタクロースの故郷とされるロヴァニエミを結ぶことからこの愛称があります。「大人のためのファンタジー列車」と紹介されているものです。ヘルシンキ中央駅とロヴァニエミを1日2往復しています。電車は14両から18両編成です。54号車とかいうので,そんなに長いのかと思うのですが,車両番号は1からつけられているのではありません。
車両は,デラックス寝台車と普通寝台車の指定席,そして,リクライニング2等座席車の自由席,さらに食堂車があります。
定刻の30分ほど前にホームに電車がバックでゆっくりと入ってきました。ホームには大きな荷物を持った乗客がたくさん待っていました。先頭まで行ってホームで写真を撮っていると,ホームに列車を牽いてきた機関士さんが降りてきたので,この電車に憧れて見にきたと話したらうれしそうでした。
やがて時間になって,電車が出発しました。これから800キロメートル,12時間をかけての旅の開始です。
なんだか,とても胸が熱くなりました。
こうして,私のヘルシンキでの長い,そして,楽しい1日が終わりました。

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ヘルシンキ到着2日目の夕方になりました。昨日到着して午後から街歩きをはじめて2日足らずで,私は,ヘルシンキの見どころのそのほとんどに行きました。今回の旅もいつもと同様に,きちんと何をするのかも決めず,とりあえず,絶対に行ってみたいところとできれば行きたいところくらいの場所だけを予定して旅をしているのですが,残るはまだ6日もあるので,これなら思ったよりもいろんなところへ行けそうだと思うようになってきました。今日はこのあとはホテルに帰るつもりでいましたが,その途中に,カンビ礼拝堂というところに寄ってみることにしました。
この教会は,東京・有楽町の数寄屋橋交番のあるようなところに位置している変わった形の建物です。この小さな建物のなかに礼拝堂があるのですが,内部は撮影ができません。ここはだれしも入ることができる静かな空間で,私語は厳禁,人々が祈りをささげるためだけのところです。一旦外に出ると都会のど真ん中の喧騒なのに,中はとても静かでそれがおどろきでした。建物は曲げた木を何層にも重ねられて作られたものです。入ってきた人がみな戸惑い,ある人はイスに腰かけてしばし沈黙し,ある人は場違いな雰囲気を感じ,すぐに出て行ってしまいました。私は旅歩きの疲れもあって,しばらくの間座っていました。
ホテルから5分くらいの場所にヘルシンキ中央駅があって,その近くのビルの中にフードコートがありました。夕食はおなかが満たされればいいと思ったので,そのフードコートで中華料理と日本料理のビュッフェがあったので,そこで食べました。1,200円程度で食べ放題でした。フィンランドは物価が高いと思われがちですが,それほどのこともなく,しかも,私が旅をしていたころは異常な円高だったので,より安く思えました。とにかく,昨年の夏に行ったアイスランドの物価が異常に高かったので,それと比べればどこへ行っても安く感じます。

これでこの日の予定は終えてホテルに戻ることにしていたのですが,なにせ日が沈むのが遅く,まだ明るく,部屋に戻ってもやることもありません。そこで,再び夕方に行ったシベリウス公園に行って,夕日を見ることにしました。この日はとても天気がよく,こういう機会は逃してはいけません。天気予報では明日は残念ながら雨。旅行中に雨の予報というのも,昨年の,いつも天気が悪いアイスランドを除けばほとんどないことで,ちょっとショックでしたが,この晩の天気から,明日雨になるとは信じられませんでした。
シベリウス公園についても,まだ太陽は地平線の上にあって,夕日を眺めることができました。しかし,海に沈むという期待は外れて,海の向こうの陸地に沈んでいくので,少しがっかりしました。
公園に「レガッタ」というテラスカフェがありました。結構人が並んでいたのですが,ここでドーナッツを食べることにして並びました。ここは「都会の真ん中に田舎の風景を残したい」というのが願いだとかで,なかなかいい雰囲気でした。
フィンランドでは,どこでもこうした感じのよいオープンカフェがあって,くつろぐことができます。

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テンペリアウキオ教会を出て,次に向かったのがヘルシンキ市立美術館でした。入口に大きな鳥のモニュメントがあって,象徴的でした。この美術館はテンニスパラッチという大きな建物になかにあります。テンニスパラッチ(Tennispalatsi)というのは1940年に行わる予定だったオリンピックのテニス競技場として建造されたものです。
ヘルシンキに行くと,市内の北に,オリンピックで使われたという競技場の広い公園があります。そのオリンピックというのは,第二次世界大戦後の1952年7月に行われた夏季オリンピックです。ヘルシンキでのオリンピックは,現在,NHKテレビの大河ドラマ「いだてん」でとりあげられている1940年に東京で予定されていたオリンピックが日中戦争激化を理由に中止となり,その代替として繰り上げ開催される予定になっていました。しかし,第二次世界大戦の勃発により開催が返上され,12年後の1952年に開催されたものです。なお,この大会で日本が第二次世界大戦後初の,16年ぶり夏季オリンピックの参加となりました。また,1952年の開催では,テニス競技は行われませんでした。

この美術館での見ものはムーミンを描いたトーベヤンソンの原画です。
病院の壁にかかれたという絵は,ムーミンの挿絵を思い起こしました。また,「都会のパーティ」「田舎のパーティ」というふたつの大きな壁画はもともとは市役所のホールに描かれ,それが現在この美術館にあるものですが,この絵には,ムーミンが密かに描かれています。そのときのホールの照明もそのままここに移されました。
私は,この美術館で,ひとりの若い日本人の女性に会いました。彼女は会社の夏休みを利用して,1週間ほど,ふたり旅で来ていて,友達は買い物出かけたそうです。フィンランドでは,日本人の女性のひとり旅,ふたり旅によく出会いました。日本よりずっと治安がよいことと,北欧デザインなど,女性の興味をひくものがたくさんあることなどが理由です。話をしていると,フィンランドに来てみて,やはり,日本の鬱積した社会に不安や疑問を感じるようになったそうです。

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升田幸三

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 2016年7月10日のブログに「53歳の名人誕生か?-升田幸三・生涯最後の大勝負」を次のように書きました。
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 今日では将棋など人がコンピュータに勝つか負けるかくらいしか話題にならなくなりました。
 簡単にいうとおもしろくないのです。
 そもそも将棋というのは中盤のねじり合いが一番面白いのに,現代の将棋はほとんどの指し手が体系化されて,一部の熱狂的なマニアとプロ以外にはまるで量子力学の講義を聞くような難解なものになってしまいました。しかも,棋士も勝負師ではなく学者のようになってしまったから,そこには人間ドラマが介入しないので,これでは素人が見て楽しむものではありません。
 スポーツを楽しむようなわくわく感などまるでないのです。
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 ところが,あれからわずか3年とは思えないのに,V字回復を遂げた将棋。その立役者はいうまでもなく藤井聡太七段の活躍ですが,それとともに,人工知能を装備した将棋ソフトととてもうまく融合して,将棋の魅力が増しました。一時は,人間がコンピュータに勝てない将棋なんて,といわれかけていましたが,今や,コンピュータあっての将棋観戦となったのです。すごい時代です。ということで,私も自分のコンピュータにコンピュータ将棋のプログラムとして思考エンジン「dolphin1」に評価関数「Kristallweizen」を実装した「やねうら王」を使って将棋の観戦をしています。

 そこで思いついたのが,升田幸三実力制第四代名人が晩年に指したかずかずの将棋を,この「やねうら王」を使って検討してみようということでした。そして,その結果を参考にして,当時の観戦記を味わってみたのですが,それが,予想以上におもしろいものでした。
 おそらく,今の若い棋士はご存じないと思われる今から40年以上前,第30期将棋名人戦で「升田式石田流」を引っ提げて戦い,惜しくも敗北した升田幸三実力制第四代名人が,その名人戦とその後引退するまでの数年,つまり,1970年から1975年まで,途中1972年と1973年の病気休場をはさんだわずか4年間にA級順位戦で戦った将棋はとても魅力に富んだものでした。特に,2回の中原誠十六世名人,大山康晴十五世名人との対局,そして,1972年の加藤一二三九段との対局などは,今コンピュータ将棋のプログラムで検討しながら鑑賞すると,いかに当時の将棋がすごかったかが,改めてとてもよくわかります。
 観戦記を担当したのは「紅」というペンネームで朝日新聞に執筆していた東公平さんでしたが,今検討してみると,その勝因となった,あるいは,敗因となった指し手が,観戦記で指摘したものと同じであったり,あるいは,まったく異なっていたりして,それがまた読んいて人間臭くておもしろいのです。
 しかし,一番感動するのは,今のような精密にコンピュータで分析された将棋とは違って,人間の頭脳を振り絞って考えぬいたあか抜けしない将棋だったのにもかかわらず,両者の指し手に微妙に均衡が保たれていて,ずっとほぼ互角のまま終盤戦に突入していたり,あるいは,不利になっても容易に差が開かない指し手を続けていたということなのです。要するに,升田幸三,大山康晴,中原誠,加藤一二三という棋士はとてつもなく強かったのです。
 私にとって,40年以上も前の将棋が,今の時代の人工知能の力を借りて新たによみがえり,その魅力が再発見できたことが驚きでもあり,感動でもありました。

  ・・・・・・
e92e1cba (2) ところで,月刊誌「将棋世界」に連載されているアマチュアに段位を与えるという企画「昇段コース」のなかの最も難しい四・五・六段コースに掲載された第389回の問題の第4問を試しに「やねうら王」で検討してみました。
 この問題の正解はなんと「2一飛不成」なのですが,これを「やねうら王」は解くことができませんでした。「やねうら王」がひねり出した答えは「2一飛成」だったのですが,これでは勝てません。
 しかし,「2一飛不成」の後の指し手をこの雑誌に書かれた解答の解説のとおりに入力していっても,いつまでたっても有利にならず,それどころか評価値がどんどん開いていって,-2,000点を越えて後手勝勢になってしまうのです。ところが,さらにその先まで進めていくと,「やねうら王」の気づかないある一手で後手玉に即詰みが発生し大逆転してしまいました。
 私はこれを見て,人工知能もまだ人間の能力にはかなわない「こともあるんだ」なあと大変驚きました。この問題の作者は人工知能に挑戦しているのかもしれません。しかし,こうでなければいけません。
 コンピュータの力を借りてカンニングすれば,だれだって六段が認定されてしまうようではいけないのですから,今や出題される問題はこうでなくちゃあねえ! それにしてもよくこんな問題が作れたものです。駒の配置の不自然さにも苦労がしのばれます。いったい作問にどれほどの時間がかかったことやら…。雑誌を作る人にとってもまた大変な時代になったものです。

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