しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

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 JR会津若松駅に着きました。念願の,一度は来たかった会津若松市です。思ったよりも大きな都市で,しかも,とてもきれいな町でした。まず,今晩の宿泊先である駅前の東横インに行ってカバンを預けました。さすがにこの町の東横イン付近には風俗街はありませんでした。そして,駅に戻って,歓呼案内所に入りました。「1日観光をしたいのですが」と言うと,とても親切に説明をしてもらえて,地図やパンフレットをくれました。
 会津若松観光は,「まちなか周遊バス」という1時間ごとに観光スポットを循環運行している右回りの「あかべぇ」と左回りの「ハイカラさん」があるので,これを利用するといい,ということでした。
また,主な見どころは,七日町,鶴ケ城,御薬園(おやくえん),会津武家屋敷,飯盛山だといわれました。 
 ちょうど10時発の「ハイカラさん」が3分後にあるというので,早速,1日乗り放題のチケットを購入してこれに乗りましたが,バスを利用しなくとも,レンタル自転車もあるとあとで知りました。会津若松市は平地なので,このほうがよかったかもしれませんが,今回,利用しなかったことが吉と出ました。その理由はあとでわかります。
 ちなみに,会津若松で「あかべぇ」はわかりますが,「ハイカラさん」は何? と思いました。1982年のNHK朝の連続テレビ小説に「ハイカラさん」がありましたが,このドラマの舞台は静岡県でした。また,「はいからさんが通る」というアニメもあるのですが,会津若松市とは無関係のようです。調べてみると,会津には「「はいからさん語り部」育成プロジェクト実行委員会」というのがあって「はいからさんに逢えるまち」というイベントを秋に行っているということです。主催するアネッサクラブでは「はいからさんというのは常に時代をリードし改革していく人と捉え」ているそうです。
 「ハイカラさん」は,七日町という歴史的建造物が並ぶ繁華街を通って,鶴ヶ城に向かいました。いい町だなあ,というのが第一印象でした。七日町は駅に近いので,最後に観光をすることにして,まず,有名な鶴ヶ城に行くことにして,最寄りのバス停で降りました。

 現在の福島県は江戸時代,会津藩の他に多くの藩がありました。そのうち,会津藩は,陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩で,居城が,現在,鶴ヶ城とよばれる若松城でした。
 蒲生氏郷が入るまでは「黒川」とよばれていましたが,蒲生氏郷が故郷の近江にあった「若松の杜」にちなんで町名を「若松」と改め,会津にあることから会津若松ともよばれるようになりました。
 鶴ヶ城の天守に入る前,ボランティアガイドさんの説明が聞けるというので,参加しました。ガイドさんの説明を聞いたのは,私と,説明がはじまったころに参加した横浜から来たという女性のふたりでした。
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 1934年(昭和9年)国の史跡に「若松城跡」として指定されたので,正式には若松城ですが,約400年前,藩主蒲生氏郷が幼名・鶴千代であったことと蒲生家の家紋に鶴が入っていたことで鶴ヶ城と名づけ,一般にはこの名前で知られています。
 豊臣秀吉が天下統一を達成すると,東北の地に信頼が厚く,かつ武勇に優れた武将を置く必要があったことで,旗下の武将・蒲生氏郷に異動を命じました。蒲生氏郷は,1592年(文禄元年),室町時代に蘆名氏が築いた黒川城を改修し,鶴ヶ城と名づけました。その翌年には,金箔を貼った鬼瓦を使用した七重の天守を築きました。
 1598年(慶長3年)に蒲生氏郷の子・蒲生秀行が家中騒動で宇都宮に移封となり,上杉景勝が入封しましたが,関ヶ原の戦いで西軍に荷担したため出羽30万石に移封され,1601年(慶長6年)に再び蒲生秀行が入封し,初代藩主となります。2代藩主は蒲生秀行の子・蒲生忠郷(たださと)には,嫡子がなかったため,本来なら蒲生氏は断絶するところでしたが,母が家康の娘であるということで,出羽の上山藩を領していた弟の蒲生忠知を後嗣として伊予の松山藩が与えられ,存続を許されました。そして,1627年(寛永4年)会津には加藤嘉明が40万石で入封します。しかし,重臣とのいさかいが原因で会津を去ると,1643年(寛永20年)徳川秀忠の子・保科正之が出羽から入部しました。
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 このように,私は,会津藩と先日行ったばかりの松山藩,そして,2022年に行った上山藩に藩主のつながりがあるのが,奇遇というか不思議な気がしました。日本は狭いです。

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 こうして,会津藩は,結局・保科家となりました。
 1696年(元禄9年)3代藩主・保科正容(まさかた)の時代に松平姓と葵紋が許され,御三家に続く御家門の地位を確立し,以降,保科は松平と改め,松平家が藩主となりました。

 1868年(慶応4年)松平容保(かたもり)が9代藩主となったあとに戊申戦争が勃発します。会津藩は、徳川家に忠誠を誓い鶴ヶ城に籠城し,新政府軍に徹底抗戦します。新政府軍の猛攻を耐え抜きますが,ついに開城します。ここで起きたのが会津の悲劇です。
 戊辰戦争後,鶴ヶ城は取り壊されましたが,1965年(昭和40年)に天守が復元されました。
 現在では,赤瓦が葺かれた五重五階の天守閣,干飯櫓,走長屋,鉄門が再建,郭を構成する高石垣などが残されています。
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 鉄門は本丸東側の入口の門で,名前通り門扉や柱が全て鉄で覆われています。
 鶴ヶ城で目につくのは石垣です。石垣の加工は時代の流れとともに進化しました。鎌倉後期の自然石をそのまま積み上げる野面積みはじまりました。関ケ原の合戦以降盛んに用いられたのは表面に出る石の角や面をたたき平たくする打込み接ぎ,江戸時代初期から多用された方形に整形した切込み接ぎです。鶴ヶ城は,それぞれの時代の石垣の変遷をみることができます。
 太鼓門近くの石垣に直径2メートル、奥行3メートルにもおよぶ大きな石があります。 大きな石を魔除けとしてあえて入れたのだそうですが, あまりの重さに石の運搬に遊女が石の上で踊って人足を励ましたとの言い伝えから「遊女石」とよばれているそうです。
 また,石垣の中に,ハート形をした石がふたつあります。大きなハートと小さなハート,2個見つけると願い事が倍かなうそうです。
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Wolf Moon 2024.

明け方西空の満月です。
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 JR西川口駅から京浜東北線に乗って,JR大宮駅に着きました。私が乗るのは,午前7時5分発の東北新幹線「やまびこ」203号でした。
 今回私が持っていたのは連続切符で,名古屋駅から大宮駅(連続1)と大宮駅から名古屋駅(連続2)でした。行き(連続1)の名古屋駅から大宮駅の切符には,経由:名古屋・新幹線・東京・大宮・新幹線・郡山・浦佐・新幹線と書かれてありましたが,JR大宮駅で新幹線に乗り換えるときに自動改札を通ったら切符が回収されてしまうのが心配だったので,窓口を通りました。果たして真相はどうなのでしょうか? 今でも謎です。
 さて,まだ私の乗る「やまびこ」がホームに到着するには30分以上あったのですが,ホームに行って,次から次にやってくる新幹線車両を見て楽しみました。となりのホームにやってきたのが,ディズニーランド仕様のE2系で,側面にドナルドダックやミッキーマウスの大きな絵が描いてありました。これは
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 東京ディズニーランドとして1983年に開業した東京ディズニーリゾートの40周年を祝おうと,JR東日本とオリエンタルランドが企画したもので,E2系車両の10両を黄やピンクのパステルカラーで彩り,ディズニーのキャラクターなどを配してあります。
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 ということだそうですが,2023年12月22日から2024年3月末ごろまで,仙台と東京を1日1往復しているようです。

 さて,そうこうするうちに,私の乗るE5系「やまびこ」がやってきました。座席はけっこう空いていました。この日はとても天気がよく,窓際西側の席がとってあったので,遠くに雪を被った美しい山々がよく見えました。これらの山々は,足尾山地で,男体山,女峰山,高尾山,そして,那須岳と続いていきます。そして,あっという間にJR郡山駅に到着しました。
 余談ですが,郡山市といえば,私には今は亡き藤井旭さんが美しい星空を求めてたどり着いた地という印象があります。懐かしい思い出です。以下,著書「白河天体観測所」から引用します。
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 全国から東京へ東京へ1極集中する人波をかけわけるようにして,いつまでも星空が残っていそうな逆方向の場所と目ぼしをつけておいた東北をめざし,日光から会津若松へと山道をぬけ,郡山市へとたどり着きました。
 郡山では,この町出身の同じ美術大学の寮暮らしだった友人から,よく土産にもらった大のお気に入りだった薄皮饅頭屋さんに立ち寄りました。そして「食いおさめかも知れんな」などと言いながら,店先で思いっきりパクついていましたら,なんと社長さんとおぼしき人からこう声をかけられてしまったのです。
 「…そんなに饅頭が好きとは…よし気に入った。うちで仕事をしないか…」
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 ここに出てくる薄皮饅頭屋さんはJR郡山駅前にある老舗「柏屋」さんです。

 今は,東京からは新幹線さえ使えば,どこもあっという間です。そこで,東京に住んでいればどこにでも簡単に行くことができる,といえるわけですが,反対に,どこからも東京へは簡単に行くことができるわけで,こうして,さらに,東京は人だらけになり,地方は過疎化が進むのです。ただし,新幹線は高く,贅沢な乗り物なので,お金のない若い人は,高速バスを利用するしかありません。
 今回,私は,会津若松市の観光をすることにしていたので,JR郡山駅で途中下車をすることもなく,10分後の午前8時29分に出発する会津若松行きの磐越西線に乗ることになります。次回があれば,ぜひ,郡山観光がしたいものです。
 すでに磐越西線のホームには列車がいたので,早々に乗り込みましたが,先客が予想以上に多く,座る席はかろうじてあったのですが,思ったより混雑していました。この日は日曜日だったので,子供たちが大勢いて,2人で4席を占領したりしていて,結構うるさい車内でした。
 途中,列車は,猪苗代湖の北側を通っていくので,右手には,安達太良山,そして,磐梯山が見え,あたりは銀世界となりました。この先どうなることかと心配しましたが,午前9時41分,定刻にJR会津若松駅に着いたときは,駅前には全く雪がありませんでした。

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 先日,JR東海管轄の東海道新幹線について書きましたが,私は,JR東日本管轄の新幹線については,JR東京駅で遠くのホームに見かけると,変わった新幹線があるものだと思う程度だったし,数年前に花巻から帰るときに東北新幹線に乗ったことがあるくらいで,ほとんど知りませんでした。
 今回,1月15日にJR会津若松駅からJR小出駅まで只見線全線に乗ろうと,JR郡山駅まで東北新幹線を利用するためにJR大宮駅に行きましたが,JR大宮駅では,私の乗る列車の出発時間まで30分以上あったので,ホームに行けばさまざまな新幹線を目の前にみることができるではないかと気づき,早々にホームに出てみました。
 そこで感動しました。ホームには,次から次へと,私が見たこともない新幹線が到着しては発車していったのです。JR大宮駅の新幹線ホームでは,北海道新幹線,東北新幹線,上越新幹線,秋田新幹線,山形新幹線,北陸新幹線がすべて見られるのです。

 奇しくも,その1週間ほどのちの1月23日,JR東京駅とJR大宮駅間の架線故障で,これらの新幹線はすべて運休になってしまったのですが,そうしたニュースも,北海道新幹線,東北新幹線,上越新幹線,秋田新幹線,山形新幹線,北陸新幹線のことを知らないとなかなか理解できないものに違いありません。
 そこで,私が写した写真をもとに,帰宅してから,どんな種類の新幹線があるのか大まかに調べてたので,ここにまとめてみました。
 新幹線の車両は,すでに運用をやめたE1系とE4系を除く,E2系からE7系までの5種類が走っています。そして,近々E8系が加わります。
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●E2系(上から4番目の写真)
 北陸新幹線,秋田新幹線と併結して走行する東北新幹線に使用する車両として開発されました。  
 現在はE7系への移行中で,近々姿を消すと思われます。
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●E3系(上から5番目と6番目の写真)
 新幹線と在来線を乗り換えなしで結ぶ「新在直通運転」として秋田新幹線開業に合わせて登場しました。秋田新幹線用のE3系は営業運転を終了し,現在は山形新幹線で運転していますが,E8系の導入が予定されています。
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●E5系(上から7番目の写真)
 新世代の新幹線車両で,国内営業最高速度300km/hで運転を開始し,現在は320km/hで運転している北海道新幹線と東北新幹線のメイン車両です。
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●E6系(上から8番目の写真)
 新幹線と在来線を乗り換えなしで結ぶ「新在直通運転」を行う秋田新幹線用の車両です。
 また,E5系とE6系は連結されてJR盛岡駅まで走ります(上から9番目の写真)。
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●E7系(上から1番目,10番目,12番目の写真)
 北陸新幹線金沢開業に向けて開発された新幹線最新車両で,現在は,上越新幹線でも営業を開始するなど,E2系からの置き換えが進行中です。
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●E1系,E4系
 2階建て車両ですが,現在は運行していません。
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 ということで,複雑そうで,一見理解不能すが,まとめて見ると結構単純で
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①北海道新幹線・東北新幹線
 北海道新幹線は東北新幹線の延長として「はやぶさ」に加え,盛岡駅-新函館北斗駅間のみ運行する「はやて」,東北新幹線は最速の「はやぶさ」,東京駅-仙台駅/盛岡駅の「やまびこ」,東京駅-那須塩原駅/郡山駅を結ぶ「なすの」があって,主にE5系で運行している。
②上越新幹線・北陸新幹線
 上越新幹線は「とき」に加え,東京駅/上野駅-高崎駅/越後湯沢駅の「たにがわ」,北陸新幹線は「はくたか」に加え,最速の「かがやき」,東京駅-長野駅間の「あさま」,富山駅-金沢駅間の「つるぎ」があってE7系で運行している。 

③秋田新幹線・山形新幹線
 秋田新幹線は「こまち」をE6系で,山形新幹線は「つばさ」をE3系(まもなくE8系に更新)で運行している。
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となります。
 なお,秋田新幹線と山形新幹線は「全国新幹線鉄道整備法に基づかない新在直通方式のミニ新幹線」で,法律上は在来線です。

 私は,東海道新幹線以外は無縁のものだと思っていたのですが,日本各地を列車で旅するようになって,今回,行きに東北新幹線「やまびこ」でE5系に,帰りに上越新幹線「とき」でE7系に乗車しました。

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 2024年1月13日土曜日。NHK交響楽団第2001回定期公演を聴きに東京へ出かけた私は,この日のお昼は,上野寛永寺から「モネ 連作の情景」展,そして,藤井聡太王将写真展,靖国神社と東京を散策しました。今回は,その翌々日に只見線に乗ろうと,1月14日,1月15日の2日間,東北旅行を計画しました。
 只見線は,福島県のJR会津若松駅と新潟県のJR小出駅を約4時間30分で結ぶ秘境のローカル線です。2011年の豪雨で橋が流され,不通になっていましたが,昨年全線開通しました。JR会津若松駅発午前6時8分,午後1時5分,午後5時という1日に3本しか全線を走る列車がありません。JR会津若松駅発午前6時8分に乗るには,前日に会津若松市に到着して,前泊する必要があります。そこで,せっかくなので,1月14日の朝,会津若松市に着いて,終日,これまで行ったことがなかった会津若松市を観光することにしました。
 NHK交響楽団の定期公演終了が午後8時なので,翌日の早朝に東北新幹線に乗り,JR郡山駅で磐越西線に乗り換えて,会津若松まで向かうことにしました。1月13日は東京都内に宿泊してもいいのですが,このごろは都心はホテルの宿泊代が高いので,JR 西川口駅前の東横インに宿泊することにしました。これなら,NHKホールのある渋谷から山手線,京浜東北線と乗り継げばさほど時間もかからず,翌日は京浜東北線で大宮駅まで行けば,東北新幹線に乗ることができます。

 ということで,夜9時30分ごろ西川口駅に到着しました。
 西川口なんて,何の縁もゆかりもないので,はじめて来ました。駅から東横インまではさほどの距離はないのですが,そこまで行く間が風俗街なのに驚きました。川崎駅前もそうだったし,大阪の天王寺駅前もそうだったし,日本全国どこにいっても東横インは風俗街にあるようだ,という話を後日友人にしたら,駅前だから当然だ,と言われました。いつも思うけれど,日本というのは,まことに不思議な国です。
 この日は,いつものように,NHK交響楽団の定期公演の前に夕食をとってあったので,そのまま東横インにチェックインして,翌日に備えて早々に寝ました。
 翌日は,早朝に大宮駅まで行って東北新幹線に乗るので,東横インで朝食をとる時間がなく,西川口駅前のコンビニで朝食を買おうと思ったのですが,西川口駅前に松屋があったので,そこで朝食をとることにしました。それにしても,夜の西川口は,駅前の交番の前の歩道で酔っ払いが寝ているわ,きらびやかなネオンにつつまれているわで,すごいところでした。国内,国外問わず,こういう場末の雰囲気は嫌いではありませんが…。
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 さて,翌日1月14日日曜日は午前5時起床。予定通り,松屋で朝食をとり,一旦,東横インに戻ってチェックアウトをして,早朝の京浜東北線に乗りました。
 ともかく心配だったのは天気でしたが,1月14日は快晴で暖か,ということでした。しかし,1月15日は寒波到来,東北地方は雪,ということだったのです。果たして只見線は動くのか? こうなったら私の運にかけるほかありません。
 実際,私が旅をした1週間ほど後の1月23日は,JR東京駅とJR大宮駅間の新幹線の架線故障があって,東北新幹線も上越新幹線も終日不通,しかも,1月24日は大雪で只見線も不通,JR郡山駅からJR会津若松駅まで乗った磐越西線も大雪で通常の運行に支障があったということで,ひとつ間違えば,私が行ったような旅は不可能でした。さて,今回の旅は,どうだったのでしょうか?

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 上野寛永寺で徳川将軍の墓を見て,上野の森美術館で「モネ 連作の情景」展に行って人の頭を見て,さらに,上野公園を散策した私は,NHK交響楽団の第2001回定期公演がはじまるまで,どこに行こうかと考えて,まず,日本橋の三越で開催されている藤井聡太王将写真展に行くことにしました。
 ちょうど今王将戦が行われているので,おそらく,それに合わせたPRの一環でしょう。これまで新聞紙上に掲載された多くの写真や王将位のトロフィーなどを見ることができました。
 以前書いたことがありますが,王将戦は異端の棋戦で,勝者の罰ゲームなど,主催がスポーツ紙ということもあって,娯楽が前面に出ています。元来,毎日新聞が将棋名人戦を朝日新聞に横取りされたことで,それに並ぶ棋戦として創設された経緯もあって,現在も,挑戦者を決めるためのリーグ戦が行われていたり,タイトル戦が2日制だったりするのですが,それにしては獲得賞金が安かったり,解説つきのライブ放送が有料だったりと,他の棋戦とは違う位置にいます。

 藤井聡太王将写真展を見て,三越の外に出たとき,江戸情緒の音が聞こえてきました。そちらの方を見ると,大相撲の触れ太鼓でした。そういえば,翌日1月14日が大相撲初場所の初日です。
 触れ太鼓とは,本場所初日の前日に呼び出しさんたちが太鼓をたたきながら相撲部屋や商店街を練り歩き,本場所の訪れを告げる伝統行事です。
 現在,日本相撲協会の呼び出しは45人。4班にわかれて,初日の訪れを知らせていきます。
 私が遭遇したのは,日本橋千疋屋総本店を皮切りに,日本橋,人形町,京橋,銀座の老舗22店舗と2町会を回るもので,高砂部屋,九重部屋,陸奥部屋,千賀ノ浦部屋,高砂部屋,九重部屋,陸奥部屋,千賀ノ浦部屋の呼び出しさんの担当でした。
 店の前で,「相撲は明日(みょうにち)から初日じゃぞ~い」と切り出して,代わる代わる初日の取組を呼び上げていきます。そして,最後に「ご油断で~は~,詰まりますぞ~」と早くしないとチケットなくなるよということを伝統的な言葉使いで告げていくものです。そして,最後にご祝儀をもらって,写真撮影をしたあと,見ている私たちに,明日からはじまるのでご贔屓に,という挨拶がありました。
 
 まだ時間があったので,思いついて,靖国神社に行ってみました。ニュースなどでよく耳にする靖国神社なのですが,私はどこにあるのかさえ知りませんでした。
 ということでどこにあるのかな? という興味だけで行ってみたのですが,鳥居の大きさに驚きました。私が見たかったのは,ここにある,と聞いていた,以前,大河ドラマ「花神」で主人公だった大村益次郎の銅像でした。
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 大村益次郎は,1825年(文政8)長州,現在の山口県の村医者の家に生まれました。1846年(弘化3年)大坂に出て緒方洪庵の適塾で学び,塾頭まで進みました。時代が彼の才能をほっておかず,戊辰戦争で東征大総督府補佐となり勝利の立役者となりました。太政官制において兵部省初代大輔を務め,日本陸軍の創始者,陸軍建設の祖とされます。
 1869年(明治2年)大阪で軍事施設視察後,京都三条木屋町上ルの旅館で,元長州藩士の団伸二郎,神代直人ら8人の刺客に襲われ,それが原因で死去しました。
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 ちょうどおやつの時間だったので,カフェを見つけて中に入って,大きなスポンジケーキと,この日は冬なのに暑かったので,アイスコーヒーを注文して一服してから,靖国神社に併設された「遊就館」(ゆうしゅうかん)を見学しました。
 遊就館は祭神ゆかりの資料を集めた宝物館で,幕末維新期の動乱から太平洋戦争に至る戦没者,国事殉難者を祭神とする靖国神社の施設として,戦没者や軍事関係の資料を収蔵・展示していて,1882年(明治15年)に開館した日本における「最初で最古の軍事博物館」だそうです。
 「遊就館」という名称は,中国戦国時代末の思想家・儒学者「荀子」(じゅんし)勧学篇の
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 故君子居必擇鄕,遊必就士,所以防邪僻而近中正也
 故に君子は居るに必ず郷をえらび,遊ぶに必ず士に就くは,邪僻を防ぎ中正に近づく所以なり
 君子がきまって環境の良い村里を選んで住み、すぐれた知識人についてきまって学ぶのは,よこしまで偏ることのない礼義にかなって,正しくなるためなのである。
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に拠るそうです。

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 2024年1月21日,愛知県稲沢市の稲沢市民会館で「NEWYEAR2024洋と和の弦楽CONCERT~新春ストリングスの祭典~」が開催されたので,聴いてきました。出演は,ゲストコンサートマスターとして石田泰尚さんを迎えた「Durare Chamber String Ensemble」という名古屋の弦楽合奏団と「べべん~BEBEN~」という国内トップクラスの9人の三味線奏者が新たな音楽シーンを創造する邦楽ユニットでした。
 第1部は「べべん~BEBEN~」による津軽三味線の演奏,第2部が「Durare Chamber String Ensemble」による弦楽器の演奏で,その中に1曲,クラリネットが加わりました。
 第1部の津軽三味線の演奏,私は,先日,弘前市に行ったときに津軽三味線の演奏を生で聴いて,その音色に感動したこともあって,とても楽しめました。津軽三味線は,弦楽器の要素に打楽器の要素が加わっていて,人間の鼓動に直接訴えます。いかにも日本の楽器です。
 また,第2部の弦楽器の演奏は,曲目がポピュラーなものだったこともあり,ゲストコンサートマスターが石田泰尚さんということもあり,石田泰尚さんのすばらしい高音の音色に,今回もまた,すっかり聴き惚れました。

 名古屋市内のプレイガイドなどでは,チケットは完売だったらしいのですが,当日の入りは半分くらいで空席が目立ちました。チケット,もっと卸さなないと…。
 私も偶然稲沢市のLINEで知っただけで,危うくこのコンサートを知らずに終わるところでした。これでは宣伝が下手です。おそらく,行きたいけれど知らなかった,という人も少なくないと思われます。これだけのすばらしい演奏,もっと多くの人に聴いてもらわないとちょっともったいないです。
 いずれにしても,今回のコンサートは少数の石田泰尚さんおっかけもいましたが,地方都市で行われる催しでは,こうしたコンサートにほとんどなじみのないという人も少なくなさそうでした。このような楽しく気軽に聴くことのできる演奏会に接する機会があるのは悪くないものだと思いました。
 「べべん~BEBEN~」の人たちはずいぶん工夫を凝らしていましたが,「Durare Chamber String Ensemble」も,もっと初心者向けの何かしらの解説やら何らかの楽しい趣向があってもいいのになあ,と思いました。せめて団員さんの紹介だけでも。せっかく石田泰尚さんが来ているのに…。
 クラシック音楽はいくらいい演奏でも,なじみのない人には敷居が高いです。NHK交響楽団でもそうしているのだし,せめてカーテンコールは写真撮影OKにするとか。今や,何事もイケイケの時代。コロナ禍以前のような殿様商売ではいけません。お客さん呼びたければ宣伝しなきゃ。SNSで口コミがかけるようにしなきゃ。

キャプチャ


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 上野寛永寺を見学し,上野公園にある寛永寺ゆかりの各所を散策したのち,最後に行ったのが上野東照宮でした。
 東照宮といえば,日光東照宮を思い浮かべますが,東照宮というのは徳川家康を「東照大権現」として,つまり神として祀る神社です。1616年(元和2年)に徳川家康が薨去したとき,柩は久能山に運ばれ,遺言に従って久能山に東照社が創建されました。朝廷は翌年,東照社に「東照大権現」の神号を宣下しました。また,幕府は日光にも東照社を建設し,遷座祭を挙行しました。その後,全国に東照社が造られ,宮号の宣下によって,「東照大権現」は東照宮と号するようになりました。
 危篤の徳川家康が,自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと藤堂高虎と南光坊天海に遺言したことから,1627年(寛永4年)に藤堂高虎が創建した上野東照宮は,日光東照宮,久能山東照宮に加え,三大東照宮のひとつに数えられ,徳川家康,徳川吉宗,徳川慶喜を祀っています。現在の社殿は1651年(慶安4年)に徳川家光が改築したものです。

 境内には社殿のほか,狸の木像をご神体とした栄誉権現社や,ぼたん苑があります。
 一見,拝殿の門が閉じられていて,社殿まで行くことができないように思えますが,有料ですが,門から中に入って,社殿まで行くことができて,社殿の立派な装飾を鑑賞できます。社殿内には「唐獅子の壁画」があるそうですが,これは非公開です。
 栄誉権現は,四国八百八狸の総師で,栄誉権現として狸の木像が社殿の左側の小社祠に祀られていて,「お狸さま」とよばれています。法衣を着て座わり,顔を真上に向け,鼻を突き上げて天井を仰ぎ見ている姿を垣間見ることができます。この狸の木像は,江戸時代は大奥に奉納されたものでしたが,そこで大暴れしたり災いをもたらしたので,大奥を追放されていくつかの大名や旗本の家に渡り,追放先でも,大名,旗本の諸家をお家断絶にまで追い込むなど数々の災いをなしたのですが,大正年間に上野東照宮に納められて,ようやく災いをもたらさなくなったといわれています。
 ぼたん苑では,元日から2月下旬に特別に冬に開花するよう促成栽培した冬牡丹を展示する「上野東照宮・冬ぼたん」が開催されていました。ぼたんには早春と初冬,二季咲きの性質をもつ寒ぼたんという品種があるのですが,着花率が低いので,これを正月の縁起花として抑制栽培の技術を駆使して開花させたものが冬ぼたんで,ぼたん苑には160株の冬ぼたんがあって,美しく咲き誇っていました。 
 また,遠くに見える五重塔は,もともとは上野東照宮のものでしたが,明治の神仏分離令で寛永寺の所属となりましたが,幕末の上野戦争で焼失しました。その後現在地に再建され,東京都に譲渡されたものです。

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 南光坊天海は,1643年(寛永20年)に亡くなった天台宗の大僧正ですが,徳川家康の側近として,江戸幕府初期の政策に深く関与しました。生まれは,将軍足利義澄落胤説やら,姿を変えて生き残った明智光秀やらという説があり,また,生年もはっきりしていませんが,100歳以上の長命であったそうです。
 前半生についてはわからず,福島県会津美里町の龍興寺にて出家した後,天台宗を学び,比叡山延暦寺や園城寺,興福寺などで学を深めたといいます。1588年(天正16年)に現在の川越市にあった無量寿寺北院に移り,天海を名乗ったあたりから,足跡が明瞭となっています。
 北条攻めの際,南光坊天海は徳川家康の陣幕にいたとし,その後,家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担いました。1616年(元和2年),危篤となった家康は遺言を天海託し,2代将軍・徳川秀忠の諮問によって,徳川家康の神号を「東照大権現」と決定し遺体を久能山から日光山に改葬,3代将軍・徳川家光に仕え,1624年(寛永元年)に寛永寺を創建しました。
 前回書いたように,寛永寺は,比叡山延暦寺が京都御所の鬼門に位置し,朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならい,山号を東の比叡山という意味で東叡山とし,清水寺に習った清水観音堂,琵琶湖を模した不忍池辯天堂, 五重塔,開山堂,大仏殿などの伽藍を作りました。
 と聞いたので,寛永寺の見学を終えたあと,私は,それらの史跡を訪ねました。

 まず,ほとんどの人は,この存在を意識していませんが,上野の森美術館の前に,天海僧正毛髪があります。南光坊天海が亡くなったのち,諡号(しごう)を慈眼大師とし,墓所は日光山輪王寺に造られ,1643年(寛永20年)に弟子の晃海(こうかい)によって本覚院伝来の毛髪を納めた塔が建てられ,毛髪塔とよばれるようになりました。お坊さんの毛髪…?
 次に,清水観音堂にのぼり,不忍の池を見下ろしました。清水観音堂は京都の清水寺を模した舞台造りのお堂で,1631年(寛永8年)に南光坊天海により建立されました。また,本尊も清水寺より恵心僧都(えしんそうず)作の千手観音像を迎えて秘仏としてお祀りしました。はじめは上野公園内の擂鉢山に建てられ,元禄初期,今の噴水広場の地に寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると,その工事に伴って1694年(元禄7年に現在地に移築されたもので,上野に現存する創建年時の明確な最古の建造物です。
 最後に上野大仏に行きました。1631年(寛永8年)に初建された上野大仏は,度々罹災し,その都度復興されましたが,関東大震災で首が落ち,第2次大戦で軍の供出令によって胴体が徴用され,顔のみが残されました。現在,大仏殿の跡地にはパゴダが建立され,本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られています。
  ・・・・・・
 大仏を埋めて白し花の雲
    子規
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  胴体を失った顔面は「これ以上落ちない」という意味に変化し,2000年代前半ごろから受験生が祈願するようになり「合格大仏」とよばれています。


 上野はよく行くのですが,これまで,こうした場所を歩いたことはなかったので,とても興味深く感じました。

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 2024年1月13日,JR東海ツアーズ主催の特別公開に参加して,上野の東叡山寛永寺に行って,徳川将軍の墓を見てきました。
 2023年10月14日に芝の増上寺と谷中霊園に行ったとき,次のように書きました。
  ・・・・・・
 徳川将軍の墓所は1か所にあるのではなく,日光東照宮,上野の寛永寺,芝の増上寺,そして,谷中霊園の4か所にわかれています。
 初代将軍・徳川家康と三代将軍・徳川家光の墓は日光東照宮にあります。
 そして,芝の増上寺に墓があるのが,2代将軍・徳川秀忠,6代将軍・ 徳川家宣,7代将軍・徳川家継,9代将軍・徳川家重,12代将軍・徳川家慶,14代将軍・徳川家茂であり,上野の寛永寺に墓があるのが,4代将軍・徳川家綱,5代将軍・徳川綱吉,8代将軍・ 徳川吉宗,10代将軍・徳川家治,11代将軍・徳川家斉,13代将軍・徳川家定。そして,谷中霊園に墓があるのが15代将軍・徳川慶喜です。
  ・・・・・・
 芝の増上寺にある徳川将軍の墓は公開されているので見学できますが,今回行くことができた寛永寺にある徳川将軍の墓は普段は未公開なので,やっと念願がかないました。

  ・・・・・・
 天台宗の別格大本山東叡山寛永寺は,1625年(寛永2年)に,徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため,江戸城の鬼門にあたる上野の台地に,南光坊天海によって建立されたものです。比叡山延暦寺が京都御所の鬼門に位置し,朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならい,山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となり,現在の上野公園の中央部分,噴水広場にあたる竹の台に,間口45メートル,奥行42メートル,高さ32メートルという壮大な根本中堂が建立され,現在東京国立博物館に当たる場所には本堂があって,小堀遠州による名園が作庭されました。また,清水寺に習った清水観音堂,琵琶湖を模した不忍池辯天堂, 五重塔,開山堂,大仏殿などの伽藍が競い立ち,子院も各大名の寄進により三十六坊を数えました。
  ・・
  幕末の戊辰戦争で,境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し,全山の伽藍の大部分が灰燼に帰してしまい,1885年(明治18年)に,輪王寺門跡の門室号が下賜され,天台宗の高僧を輪王寺門跡門主として再出発しました。
 根本中堂は,1879年(明治12年)に,川越喜多院より本地堂を移築し,再建されたもので,伝教大師作の本尊薬師如来や東山天皇御宸筆「瑠璃殿」の勅額は,戦争の中運び出され現在の根本中堂に安置されています。また,根本中堂正面側にある銅燈籠と銅鐘は,徳川家光(大猷院)霊廟に奉納されたものということです。
  ・・・・・・

 今回案内していただいたのは,5代将軍・徳川綱吉と8代将軍・徳川吉宗,13代将軍・徳川家定とその正室である天璋院篤姫の墓でしたが,これらの霊廟は,立派な勅額門の奥に広がっていました。建立当時は敷地内に拝殿や鐘楼,回廊などさまざまな建造物があったそうですが,現存するのは,宝塔を除いて,勅額門と水盤舎のみです。徳川綱吉の墓はとても立派ですが,徳川吉宗以降は,豪華な霊廟を新たに造ることが禁じられ,宝塔だけを造り合祀するようになったということです。生類憐みの令で有名な徳川綱吉は,巨大な犬小屋を建てるなどして,贅沢に徳川家の財産を食いつぶしてしまったのです。徳川将軍は,御宝塔の真下に江戸城を向いて公家装束をまとって座るように土葬されているそうです。
 今回案内していただいたのは,寛永寺の石田亮岳執事でしたが,奇しくも,この日の夜9時から放送された「世界ふしぎ発見」という番組に出演されていました。
  ・・
 特別公開で案内されて見ることができたのはこれだけでしたが,そこで,残りの4代将軍・徳川家綱,10代将軍・徳川家治,11代将軍・徳川家斉の墓はどこなのか疑問が残りました。そこで調べてみました。
 寛永寺には,4代将軍・徳川家綱の厳有院と5代将軍・徳川綱吉の常憲院の霊廟があります。以前は,現在のものよりも立派なものだったそうですが,1945年(昭和20年)の空襲で焼失し,現存するのは,その一部ということです。
 今回見ることができたのは,そのうちで,5代将軍・徳川綱吉の常憲院の霊廟で,その入口にあったのが勅額門,そしてそれをくぐると,水盤舎,奥院唐門がありました。さらに,霊廟の中には,併せて,奥院宝塔として,8代将軍・徳川吉宗の有徳院宝塔,13代将軍・徳川家定の温恭院宝塔、徳川家定夫人の天璋院宝塔,そして,明治以降,16代徳川家基の孝恭院宝塔と17代徳川家正の宝塔が建っていました。なお,18代徳川恒孝さんは御存命です。
 4代将軍・徳川家綱の厳有院霊廟は,道路を越えた寛永寺第二霊園にあって,道路に面して,勅額門だけは見ることができて,その奥に,水盤舎,奥院唐門があり,併せて奥院宝塔として,10代将軍・徳川家治の浚明院宝塔,11代将軍・徳川家斉の文恭院宝塔があるそうですが,厳有院霊廟は非公開です。

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 2024年1月13日,上野の森美術館で開催されている「モネ 連作の情景」(Claude Monet: Journey to Series Paintings)を見てきました。
 以前の私は,モネとマネの区別すらつかなかったのですが,このごろ,やっと,その違いがわかってきました。その違いは,すでに書いているように,1840年生まれのモネは印象派の巨匠,1832年生まれのマネは近代美術の巨匠で,曰く「モネがマネのまねをした」とか何とか…。
 2020年1月8日にコート―ルド美術館展に行って,マネの傑作「フェリー・ベルジェールのバー」(Un bar aux Folies Bergère)を見て痛く感動しましたが,これがマネです。一方,モネはなんといっても「睡蓮」(Les Nymphéas)で,モネの絵を模した「モネの池」なるものがいろいろな場所にあります。モネは「睡蓮」というブランドで客寄せができるのです。

 さて,今回の「モネ 連作の情景」は,「印象派」の誕生から150年目を迎えることを記念して開催され,国内外40館以上のクロード・モネ作品を厳選して展示するもので,期待して出かけました。
  ・・・・・・
●モネの連作絵画に焦点を当てた展覧会 
 モティーフの一瞬の表情や風の動き,時の移り変わりに着目したモネは,同じ場所やテーマを異なる天候,異なる時間,異なる季節を通して描き,「連作」という革新的な表現手法により発表しました。
 この「連作」に焦点を当てながら,時間と光とのたゆまぬ対話を続けた画家の生涯を辿ります。
●100%モネ!! 展示作品のすべてがモネ
 日本初公開となる人物画の大作「昼食」を中心にした「印象派以前」の作品から「積みわら」や「睡蓮」などの多彩なモティーフの「連作」まで,「100パーセントモネ」の贅沢な展覧会です。
  ・・・・・・
 ということだったのですが…。

 コロナ禍以前の美術展は,人だらけで,作品を見るよりも人の頭を見にいくようなものでしたが,ここ数年は,入館制限もあって,非常に落ち着いた中で鑑賞することができました。
 今回は,そこまではムリだとしても,人数制限もあるから,マシだろうと思ったのですが,さにあらず。作品を見るよりも,人の頭を見るだけのものでした。こんな状況では,「連作」を見比べることも能わず,モネの絵画に描かれた光を味わうこともできず,何も感じませんでした。土曜日の午後,というのが失敗でした。これは美術展ではありません。人数制限などあってないようなもので,たくさん人を入れて入場料で稼ごうとするだけの魂胆です。これでは,もう,東京で開催される美術展は,行く気が起きません。平日の早朝に大阪展へ行くほうが少しはマシか?

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 2024年1月13日に行われたNHK交響楽団第2001回定期公演Aプログラムは,指揮がトゥガン・ソヒエフ(Tugan Sokhiev)さんで,前半の曲目がビゼー(シチェドリン編)のバレエ音楽「カルメン組曲」(Georges Bizet / Rodion Shchedrin Carmen Suite, ballet)後半の曲目がラヴェル(Maurice Ravel)の組曲「マ・メール・ロワ」(Ma mère l’Oye,suite(Mother Goose))とバレエ音楽「ラ・ヴァルス」( La valse, ballet)でした。
 私は,フランス音楽は苦手ですが,指揮者がお気に入りのトゥガン・ソヒエフさんということと,これらの曲目なら大丈夫,ということで,期待して聴きにいきました。

  ・・・・・・
 トゥガン・ソヒエフさんは1977年にロシアのウラジカフカス(Vladikavkaz)に生まれました。2022年,愛する母国がウクライナに侵攻したことに心を痛めて,ボリショイ劇場(the Bolshoi Theatre)とトゥールーズ・キャピトル劇場管弦楽団 (the Orchestre national du Capitole de Toulouse)の両方のポストを辞任したことで,男を上げ,以後も世界中から引く手あまたの指揮者です。
  ・・・・・・
 今回の曲目は,近代フランス音楽の「バレエ上演された」管弦楽曲の特集です。
  ・・
 バレエ音楽「カルメン組曲」は,ロシアの作曲家ロディオン・シチェドリン(Rodion Shchedrin)が妻でバレリーナのマイヤ・プリセツカヤ(Maya Plisetskaya)のためにバレエ版へ編曲したものです。この曲は,弦楽と4群の打楽器から成っていて「カルメン」の「運命の動機」を要所に出現させて,それがまあ,とても子気味いいのです。
 ちょっと長いかな,とは思いましたが,打楽器奏者が多くの打楽器を手を変え品を変え,弦楽奏者の後ろを動き回るのが愉快というか,大変というか。これは一見に値します。後日放送されるテレビでの映像が興味深いです。また,多くの打楽器がすべて弦楽器奏者の後ろ管楽器の前に配置されていたために,この曲の終了後のわずか20分の休憩でステージの配置を変更するのがかなり大変そうでした。
  ・・
 組曲「マ・メール・ロワ」はピアノ連弾組曲をバレエ化したものです。シャルル・ペロー(Charles Perrault)の「教訓付き昔話-マザーグース(マ・メール・ロワ) の話」から「眠りの森の美女」をバレエの筋書の中心に据えて,そこに前奏曲や間奏曲などを挿入し生まれた作品です。定期公演でたびたびこの曲は取り上げられていて,私は何度も聴いたことがあるのですが,この曲もまた,とても新鮮に聴こえました。
  ・・
 そして最後がロシア・バレエ団の興行主ディアギレフ(Sergei Diaghilev)から委嘱され作られた「ラ・ヴァルス」。
 「1855年ごろのウィーンの皇帝の宮殿」から「うずまく雲の切れ目からワルツを踊る男女たちの姿がときおり垣間見える。雲が少しずつ晴れてきて,輪を描きながら踊る人々であふれかえる広間が見える。次第に舞台は明るくなり,シャンデリアの光が燦然と煌めく」(Through rents in swirling clouds, couples are glimpsed waltzing. The clouds disperse little by little: one sees an immense hall peppered with a whirling crowd. The scene is gradually illuminated. The light of the chandeliers bursts forth at fortissimo.)という想定です。
 ラヴェルがワルツに見出していたのは,根源的な「生きる喜び」ということだそうで,トゥガン・ソヒエフさんは,うってつけの指揮者でした。

 トゥガン・ソヒエフさんの指揮は,音楽を体で表現するというもので,体の動きに従って魔法のようにオーケストラから音楽が紡ぎ出されるので,まさに,バレイ音楽には適任。第2000回の「一千人の交響曲」の次の第2001回がバレー音楽なんて粋な組み合わせでした。
 楽しかった。

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 2024年はふたつの明るくなる彗星が接近するようです。
 そのひとつは,「紫金山・アトラス彗星」(C/2023A3 Tsuchinshan-ATLAS)で,この彗星についてはすでに書きました。もうひとつがポンス・ブルックス彗星(12P/Pons-Brooks)。今日はそのお話です。
  ・・・・・・
 ポンス・ブルックス彗星は周期70.06年の周期彗星です。有名なハレー彗星は周期75.32年なので,同じような周期で,しかも,ともに明るくなるのですが,ハレー彗星ほど知られていません。
 近日点通過,つまり太陽に最も近づくのは2024年4月20日で,その距離は0.7780天文単位,近地点通過,つまり地球に最も近づくのは2024年6月2日から3日で,その距離は1.546天文単位です。1天文単位は地球と太陽の平均距離をいい,約1億5千万キロメートル,正確には149,597,870,700メートルです。
  ・・
 ポンス・ブルックス彗星は,1812年7月21日にジャン・ルイ・ポン(Jean-Louis Pons),8月1日にヴィンセント・ウィズニフスキー(Vincent Wisniewski),8月2日にアレクシス・ブヴァール(Alexis Bouvard)によって発見され,それらは同じ彗星として,エンケ彗星(2P/Encke)で有名なヨハン・フランツ・エンケ(Johann Franz Encke)が70.68年の周期を持つ軌道を計算しました。
 その70年後の1883年,ウィリアム・ロバート・ブルックス(William Robert Brooks)によって再発見されたことで,ポンス・ブルックス彗星となりました。
  ・・・・・・

 今回の接近は,2020年6月10日にアメリカ・ローウェル天文台(Lowell Observatory)のディスカバリーチャンネル望遠鏡により,23等星で太陽から11.89天文単位離れていたときに検出されました。
 その後,順調に太陽に近づき,光度を上げ,春に4.5等星まで明るくなるといわれていますが,昨年2023年7月20日に5等級の爆発現象(アウトバースト)を起こして11.5等まで急増光,11月15日には再びアウトバーストを起こして,9.4等まで急増光したということです。
 彗星は,惑星を作った構成物質(planetesimals)の生き残りで,太陽系形成以降46億年間,太陽系の果てで冷凍保存されてきたものが何かのきっかけで太陽系の内側に入り込み,太陽の熱による氷の昇華で物質を巻き散らかしているものです。こうしたアウトバーストでは,放出されたエネルギーはマグニチュード7.0に匹敵し,彗星核の地下にあるエネルギーが爆発していると考えられますが,彗星は一旦アウトバーストを起こすと表面の不活性層が剥ぎ取られて活発に活動し,数年のうちに枯渇するといわれているので,ポンス・ブルックス彗星の将来が心配されますが,次の回帰は70年も先のことです。

 さて,ポンス・ブルックス彗星は現在ははくちょう座にあって,夕方の西北西の空に午後8時30分ごろに沈むまで8等星程度で見えます。今日の1番目の写真は,2024年1月11日午後7時35分に写したものです。
 1か月ほどははくちょう座を北に向かって進むので,彗星としては地平線からほぼ同じ高度を保ち続けながら西の方向に動いていき,それとともに明るくなっていきます。4月10日くらいが最も明るく4等星ほどになります。その後は日没が早くなって,見えなくなります。つまり,太陽に近づきます。

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ISS.

2024年1月15日午後6時15分。
国際宇宙ステーションが月の横を通過しました。


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 今日の写真は,オーストリア・バーデンのベートーヴェンが第九の構想を練った散歩道です。
 ベートーヴェン作曲交響曲第9番ニ短調作品125「合唱つき」。これを聴かずして年が越せない,という人もあり,お祭り好きの国民性もあり,必ず集客が見込めるのでオーケストラのお金儲けもあり,毎年暮れ,日本中でこの曲が鳴り響きます。
 私が「第九」を聴き通したのは,紅白歌合戦とやらが午後9時からはじまっていた子供のころ,その前に午後7時45分から午後9時まで,当時は教育テレビといった現在のEテレで岩城宏之指揮のものを見たのがはじめてでした。そのときは,1時間も越すような曲があることにまず驚きました。
 その後,若いころは,毎年,地元名古屋フィルハーモニー交響楽団の第九演奏会に毎年のように行っていたのですが,ある年の第九があまりに退屈で,単にオーケストラがノルマを果たしているだけのコンサートのように思えて,それ以来,行くのをやめました。今は,実際に聴きにいくことはまれです。しかし,NHKFMとNHKEテレで放送される「N響第九」は,かれこれ50年以上必ず見ています。

 このごろは,よほど行きたいと思う指揮者のときにNHK交響楽団の第9演奏会に行こうと毎年思っているのですが,なかなかそういう気になることもなく,最近私が第9演奏会に行ったのは,2015年のパーヴォ・ヤルヴィ指揮と2016年のヘルベルト・ブロムシュテッド指揮でした。
 昨年は,井上道義指揮で,行こうかどうしようか迷った結果,都合がつかなくてやめました。
 今年の指揮は下野竜也さんでした。ホームページには
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 正攻法のアプローチで音楽に無類の生気や躍動感をもたらす日本屈指の実力者。年末のN響第9初出演となる意欲と楽団の厚き信頼度を反映した清新かつ濃密な名演が期待される。
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とありました。N響正指揮者となったことを記念しての抜擢だと思いますが,私は今年もまたその気にならず,足を運びませんでした。ところが…。

 下野竜也さんは,去る11月26日に名古屋フィルハーモニー交響楽団と第九を指揮したのですが,そのときのXに「下野マエストロの「第九」解釈はとてもユニーク!(でも思いつきではなくしっかりとした根拠があります)」とあったことで少し興味をもちはじめました。
 そして,12月31日のEテレでの放送。
 毎年のように,はじめは何となく見ていたのですが,そのうちに,引き込まれていきました。すべてが特別な策を講じるわけでもなくあえて奇をてらうわけでなく,きちんとしているのです。これがとても小気味いい。そして,第4楽章でソリストがうたいはじめたとき,私は度肝をぬかれました。
 特に,ソプラノとメゾ・ソプラノ。
 こりゃ,オペラのアリアだ,と思いました。第九でこれほどの独唱を聴いたことがありませんでした。そこで,調べてみると
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●ソプラノ・中村恵理
 新国立劇場オペラ研修所を経て,2008年英国ロイヤル・オペラにデビューし注目を浴びる。
 2010年から2016年にはバイエルン国立歌劇場のソリストとして専属契約を結び,多くの作品で主要キャストを務める。(中略)様々な公演で絶賛を博している。
●メゾ・ソプラノ・脇園彩
 東京藝術大学を経てイタリアに留学し,ミラノ・スカラ座研修所などで研鑽を積む。
 2014年ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバルで,イタリアでのオペラ・デビューを果たし,以後イタリアを中心に活動。
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とありました。私は,はじめて知る名前でしたが,そういえば,脇田彩さんは,少し前のNHKラジオ深夜便に出演されていました。
 それ以来,私は「下野竜也の第九」にハマってしまい,毎日のように何度も録画を見ているのですが,こんなことははじめてです。2011年にスクロヴァチェフスキー指揮の第九をよほど聴きにいこうと思ったけれどやめたことを今も後悔していますが,2023年の第九もまた,聴きにいかなかったことを,今になって後悔することになりました。

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 大河ドラマ「平清盛」を続けます。
 第15回「嵐の中の一門」で,常盤御前が登場しました。常盤御前は源義経の母です。
 私は,子供のころ,よく京都の鞍馬寺に連れていってもらったので,そこで,「義経背比べ石」というものを身近に見ていました。また,市バスが五条大橋を渡るので,「京の五条の橋の上,大のおとこの弁慶は長い薙刀ふりあげて,牛若めがけて切りかかる。牛若丸は飛び退のいて...」という歌があることを聞いて,牛若丸と弁慶という名を知りました。しかし,そうした知識は童話的であり断片的でした。1993年に放送された大河ドラマ「炎立つ」で,源義経が東北の藤原三代に匿われたことが取り上げられていて,どうしてこの地に源義経が関わっているのか? と驚いたことすらありました。
 また,旧中山道を関ヶ原宿から柏原宿まで歩いていたとき,途中に「常盤御前の墓」があって,これもまた驚きました。どうしてここに常盤御前?
  ・・・・・・
 1138年(保延4年)生まれの常盤御前は, 近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女でした。
 雑仕女の採用にあたり,藤原伊通の命令によって都の美女千人を集められ,その百名の中から十名を選んだ中で,聡明で一番の美女であったといいますが,これもまた,「平清盛」で描かれました。
 やがて,源義朝の側室になり,今若,乙若,牛若を産みました。
  ・・・・・・

 第28回「友の子,友の妻」では,源頼朝の助命と常盤御前について描かれています。
  ・・・・・・
 平治の乱で捕らえられた源頼朝が平家盛の幼いころに姿が似ていたことから,母の池禅尼が哀れんで清盛に頼朝の助命を訴えたとありますが,ドラマでは,これをもとにしています。
 また,常盤御前は子供たちを連れて雪中を逃亡したのち,平清盛の元に出頭し,子供たちが殺されるのは仕方がないことだけれども,子供たちが殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいと懇願しましが,その様子と常盤御前の美しさに心を動かされた平清盛は源頼朝の助命が決定していたことを理由に,今若,乙若,牛若を助命しました。「義経記」や「平治物語」では,平清盛が常盤御前によしなき心を抱き,子供の命を盾に返答を強要したという内容が記されています。
 その後については、侍女と共に源義経を追いかけたという伝承があり,常盤御前の墓とされるものは岐阜県関ケ原町をはじめ,各所にあります。 
  ・・・・・・
 源頼朝や常盤御前の生んだ子供たちの命が救われたことが,やがて,平家滅亡につながるので,このあたりをうまく描く必要があります。でないと,ドラマは成立しません。「平清盛」では,こうした資料をもとにして,うまく物語が作られています。

 さて,平清盛に助命を認められた今若,乙若,牛若は,それぞれ別の寺院に送られました。
 今若はのちの阿野全成,乙若はのちの義円,そして,牛若がのちの源義経ですが,彼らの姿は「鎌倉殿の13人」にうまく描かれています。
 無知な私は,源義経については知っていましたが,阿野全成と義円が源義経の実の兄弟ということすら知りませんでした。
 このように,「平清盛」を見てから,改めて「鎌倉殿の13人」を見ると,まさに,伏線回収。その奥深さにのめり込むことになりました。これでまた,日本各地を旅する楽しみが増えたというものです。

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 今日2024年1月13日と翌日の1月14日は大学入試共通テストだそうです。
 今年は,元日から大きな地震があって,被災した地方の受験生は気の毒です。このような状況で,全国の高校生を一律に点数を比べるのはどうかと思いますが,このことに限らず,私は,日本各地を旅してみて,様々なことが全国一律に課せられていることに,疑問をもつようになりました。受験の場合でも,東京に比べて離島などに住む高校生は,受験会場に行くだけでも大変だし,学習環境が違い過ぎて,そのハンディが大きいのです。
 首都だけが発展している国は独裁国家と発展途上国の特徴だと聞いたことがあります。

 さて,ここからが今日の話題です。
 来年度の大学入試共通テストから,「情報」という教科も必須科目として課せられることになったようです。そこで,これまでは冷遇され,相手にもされていなかった「情報」という教科がにわかに話題となり,「情報」ではプログラムを学習しているから,これを身につける必要があるということで,受験産業はこれもまたビジネスチャンスだとばかりにプログラム塾を作ったり,また,コピュータに疎い親たちはパニックになったりしました。
 「情報」ではどんな問題が出題されるのか調べてみると,「情報」の大学入試共通テストの試行問題というものがネット上にあることを知りました。そして,私がそこで知ったのが「DNCL」なるものの存在でした。
 ・・・・・・
 「DNCL」とは,大学入試共通テストの問題で出題されるアルゴリ ズムを記述するために考案された仮想言語です,仕様や構文がシンプルで,C言語などを理解している生徒はプログラムを読めるように設計されています。「DNCL」は動的型つけ言語で,変数には型がありません。
  ・・・・・・
だそうです。
 コンピュータ言語といってもいろいろあるから,どれかの言語に特化してしまうとハンディができるので,大学入試共通テストのみで通用する独自のコンピュータ言語を考案したというわけです。 
 「DNCL」とは「大学入試センターランゲージ」の頭文字なのです。
 しかし,「DNCL」では,実際のコンピュータは動きません。他の言語を知っていれば大丈夫というふれこみで,実際,確かにそうなのですが,プログラミングの得意な生徒ならともかく,不得手な生徒にそのような理想的な考えは通用しません。
 そこで,テストで点数を取るためだけに,「DNCL」の特訓が企てられるのです。高等学校で使用する「情報」の問題集にはすでに「DNCL準拠」と書かれてあるし,予備校では「DNCL」がコンピュータ上で動くコンパイラが開発されるし,高等学校では「DNCL」を意識した受験英語ならぬ,受験プログラミング指導がはじまるのです。
 それは,どういうことかというと,たとえば,外国語という入試科目において,世界には様々な言語があるから,何かひとつの言語に特化していしまうと他の言語を学んだ人が不利になるから「大学入試センター外国語」を作っちゃえ,というようなものと同じです。
 英語の試験に資格試験を導入しようとして頓挫したように,数学の試験に記述問題を導入しようとして失敗したように,一体全体,この国は,いつも,何がしたいのでしょう? 結局は,受験産業の金儲けに利用されているだけで,犠牲者はいつも受験生です。

 現在,受験英語とか受験数学と揶揄されてはいても,一応は役に立ちます。しかし,「DNCL」はそうではありません。プログラミングをマスターした生徒は「DNCL」が理解できても,「DNCL」をマスターした生徒はプログラミングができません。紙の鍵盤でいくら練習してもピアノが弾けるようにはならないのと同じです。
 これでまた,受験英語とか受験数学に加え,受験情報という教科が誕生したことになります。コンピュータ嫌いが加速することでしょう。
 今や,AGIの発達とChatGPTの時代。学校教育では,これらの使用や指導を禁止するのではなく,これらを有効に使えるようにしなければ,社会に出てから役に立ちません。
 「情報」という教科でそんな使えもしない言語をごちゃごちゃ指導しているくらいなら,将来,コンピュータを仕事で使う必要のある若者は,Pythonひとつきちんとマスターするほうがずっと有益でしょう。しかし,車の運転ができないと困るといっても,ミッション車で車の運手ができなければならない必要はない,というのと同じで,すべての高校生がコンピュータプログラミングができるようにと課す必要が果たしてあるのか,ということが先に議論されるべきでしょう。「情報」で何を教えるのか,技術の発達の方が早すぎて,すでに迷走状態に入っています。


◇◇◇
 以下は,大学入試共通テスト試行問題で出題されたプログラミング問題とそれにかかわる「DNCL」,そして,最後に,私が「DNCL」をVBAで書き直したものです。

aaaa vvvvv nnnn


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 東海道新幹線は,第2次世界大戦以前に構想された弾丸列車が元となっているので,造られた当時は夢のような速さであった時速210キロメートルで設計されまた。
 しかし,今となっては,かなりカーブやアップダウンが多いので,いくら車両を工夫しても東海道新幹線は時速270キロメートルが限度でした。その後,さらに工夫を凝らして若干の速度向上を果たし,N700A系,N700S系では,時速285キロメートルでの安全走行が可能になりました。
 今日は,現行の新幹線をまとめますが,このごろの私は,東海道新幹線を利用することも多くなって,そうなると,さらに快適さを求めて,もっぱらグリーン車に乗るようになりました。名古屋から東京などあっという間で,高速バスの夜行を利用していたころが夢のようです。

  ・・・・・・
●N700A(2013年から現行)
 N700系の改良型で,ブレーキ設備や照明などが改良されて,N700系よりも快適性が増しました。また,最高速度が時速285キロメートルになりました。
 N700系を改造してN700Aにした車両はN700の下に小さくAと書かれていますが,最初からN700Aとして作られた車両は大きくAと書かれていて,スモールA,ラージAなどとよばれています。スモールAとラージAとでは乗り心地が違うようです。
 そういえば,近ごろはスモールAを見かけなくなりました。現役引退かな?
  ・・
●N700S(2020年から現行)
 コンセントがすべての席で対応するようになったほか,座席をリクライニングさせたときに座面も少し沈み込むようになるなど、より快適な座席へと進化しました。また,車内の温度が均一になるよう空調の通風孔を広げました。さらに,バッテリー走行も可能になって,突然停電が発生しても駅まで移動できるようになったり,車いすスペースがある車両では自動ドアの開口部をずらし、不用意にデッキから丸見えにならない工夫がされています。
 乗ってすぐにわかるのは,N700Sでは,飛行機のような間接照明になっていることで,高級感があります。今日の3番目の写真が700Aの車内で4番目の写真が700Sの車内です。
  ・・
●923系(ドクターイエロー)
 番外編です。
 700系をベースに開発された新幹線電気軌道総合試験車923系は「ドクターイエロー」とよばれています。ドクターイエローは7両編成,その全てに測定機器などを詰め込んだ検査専門の車両です。
 珍しいため,偶然「ドクターイエロー」を見ると幸せになれるといわれています。
 JR側から運行日や時刻は公開されていませんが,これまでの運行パターンから運行日や時刻を予測することが可能で,私は,それを利用して,ずいぶんと写真や動画を写しました。「ドクターイエロー」が走ると予測された時間には,線路沿いにカメラを持った愛好者が集まります。
 700系が引退して,東海道線の最高速度が時速285キロメートルへと引き上げられたため,時速270キロメートルのドクターイエローは存続が危ぶまれていますが, 少なくともしばらくは活躍することが見込まれているそうです。
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新幹線


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 子供のころ住んでいたのがJR名古屋駅の近くだったので,60年前の私は,東海道新幹線の建設の様子を毎日見ていました。
 線路の敷設には,大型構造物を支える基礎杭を地中に施工することが必要です。基礎杭を地面に打つためには,パイルドライバといわれる杭打機が使われますが,当時のパイルドライバは,本体にディーゼルハンマといわれる数トンの鉄の固まりを燃料を爆発させたエネルギで跳ね上げてコンクリートの杭を打ち込むものでした。いつの間にか見られなくなったなあ,と思っていたのですが,1977年(昭和52年)の振動規制法によって,このような施工を市街地で行うことは出来なくなったそうです。
 カシャーン,カシャーンと,メトロノームのように規則正しく聞こえてくる騒音,そして,ときおり硬い岩盤にぶち当たると,ディーゼルハンマーが頼りなさそうに止まってしまうのです。子供にとっては騒音公害ではなく興味深く,これを見ているのは楽しいもので,見飽きませんでした。
 こうして,1964年(昭和39年)の東京オリンピックの開催に合わせて作られた東海道新幹線は,「時速200キロの弾丸列車」とよばれる夢いっぱいのものでした。世界一,という言葉にわくわくしました。そして,開通と同時に走ったのが0系といわれるものです。今でも,私のイメージでは「新幹線=0形」です。

 このように,新幹線はあまりに身近なものだったので,あまり興味がありませんでした。また,若いころはほとんど乗ったこともなく,東京や京都に行くときも大概は高速バスを使っていました。そこで,たまに乗ると,新幹線のスタイルがかわったなあと思う程度でした。
 時は過ぎ,最近になって,鉄道の好きな将棋の藤井聡太八冠が「N700Sに乗ったことがないから乗ってみたい」というような発言をしたのを聞いて,「今は,新幹線はN700Sという新型車があるのか。でも乗るのはレアなことか」と思って以来,新幹線を意識するようになりました。
 優雅な老人生活をするようになって,体にこたえる長距離バスよりも新幹線を利用するようになると,さらにN700Sを意識するようになってきました。
 こうして,新幹線の種類もわかるようになり,利用するときや散歩をしていて新幹線が通ると,それがN700Sであれば,今日は縁起がいいなあ,と思ったりします。
 今日の1番目の写真は,2024年1月1日の日の出前,今年はじめて見た新幹線ですが,これがN700Sだったのに気をよくしました。そして,2番目の写真は,日の出後に,別の角度から太陽とともに写したものですが,これもまた,N700Sでした。

 ということで,「鉄ちゃん」は知っていて当然の知識でしょうが,無知な私自身が知識を整理するために,今日はこれまでに運用された東海道新幹線の種類についてまとめておくことにします。
  ・・・・・・
●0系(1964年から2008年)
 東海道新幹線の初代の車両で,ビュッフェ車や食堂車が設けられていました。当時子供だった私は,新幹線に乗るときには,父親にせがんで食堂車を利用するのが夢だったのですが,ビュッフェ車を利用するのが精いっぱいの贅沢でした。食堂車は1車両全体を使っていましたが,立ち席のビュッフェは1車両の半分を使っていて,残りは普通車の座席でした。食堂車にビュッフェ,普通車両には車内販売すらない今から考えると,夢のような話です。
  ・・
●100系(1985年から2012年)
 0系が「こだま」になり,新しく開発された100系が「ひかり」として運用されるようになりました。
 100系には,2階建ての車両があったり個室が設定されていたりしました。確か,食堂車は2階にあったように記憶します。このころはもう就職していたので,ときどき名古屋から京都に遊びに行くときに乗りましたが,乗ってすぐに食堂車に行って朝食を食べ終わると京都に着くということで,普通車の座席にすわることすらありませんでした。
  ・・
●300系(1992年から2012年)
 最高速度が時速270キロメートルになって,「のぞみ」の登場とともにデビューした車両です。
 当時は,「ひかり」と「のぞみ」の特急料金が違っていました。私は100系に乗り,高値の花だった300系にはほとんど乗ったことがないように思います。
  ・・
●500系(1997年から2010年)
 異端児の新幹線で,スタイルが異なっています。最高速度hが時速300キロメートルまで出せるのですが,最高速度が時速270キロメートルと決められていた東海道新幹線では,その速度は出せませんでした。
 独特の円形フォルムは高速化による騒音対策でしたが,居住性に難があったそうです。京都に行ったときに,ときどき,ホームで見たくらいで,私はおそらく乗ったことがありません。
 私は,新幹線界のコンコルドだと思っています。
  ・・
●700系(199年から2020年)
 カモノハシ型のスタイルは,当時,カッコ悪いなあ,と思いましたが,現在の新幹線の基本形となるものです。今ではすべてこの形なので見慣れました。
 700系が走りはじめたころは仕事が忙しく,必要にせまられてたびたび乗ったことはあるのですが,どんな車両なのかと考える余裕もありませんでした。
  ・・
● N700系(2007年から2020年)
 東海道新幹線の主力車両となりました。
 その後,N700Aが用いられるようになって, N700は順次N700Aに改良されました。改良されたN700Aは,N700の下に小さくAとかかれてありましたが,近ごろは見かけません。
  ・・・・・・
 以下,次回に続きます。

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 冬は空気が澄んでいるので空が美しく,特に,かわたれどきといわれる明け方の東の空は絶品です。一方,別の方向を見ると,雪を被った御嶽山,伊吹山などの山々も美しく輝いていて,神秘的に見えます。
 今年1月は,東の空に,月,金星,水星が揃い踏みです。また,さそり座が横たわっていて,さそり座の1等星であるアンタレスも明るく輝いています。月の位置が少しずつ変わるので,毎朝見ても飽きるものではありません。
 今日の写真は,上から順に,2024年1月7日,1月8日,1月9日,1月10日に写したものです。特に,1月10日は月齢が27.9という,見えたらもっけものの月の姿です。
  ・・
 明るく輝いている金星の西方最大離角は昨年2023年10月24日で,今は,次第に高度が低くなってきています。一方,水星は2024年1月12日に西方最大離角となるので,次第に高度が高くなってきています。この日まで金星と水星は近づいていくのですが,それを過ぎると,共に,ほぼ同じ間隔を取ながら,高度を下げ,太陽に近づいていって,1か月後には,明け方の空に見ることはできなくなります。
 また,月は2024年1月10日に新月となります。
  ・・・・・・  
 地球よりも太陽の内側にある水星や金星は,地球からは見かけ上太陽からある角度以上離れることはありません。その角度が最大のときを最大離角といい,夕方の空に見えるとき,つまり,太陽の東側にもっとも離れるのが「東方最大離角」,明け方の空に見える,つまり,西側にもっとも離れるのが「西方最大離角」です。
  ・・・・・・
 水星の下には火星があって,火星,水星,金星がほぼ等間隔に並んでいるということなので,昇ってくる火星を見ようと工夫をしてみたのですが,火星が地平線から昇ってくるころには夜が白んできて,見ることができませんでした。

 以前載せたことがある歌ですが 
  ・・・・・・
 阿加等伎乃 加波多例等枳尓 之麻加枳乎 己枳尓之布祢乃 他都枳之良須母
 暁の かはたれ時に 島蔭を 漕ぎ去し船の たづき知らずも
 暁の薄明かりの時に島陰を漕ぎ去った船がなんとも心細く思えることよ
  「万葉集」巻20・4384 他田日奉得大理(おさだのひまつりのとこたり)
  ・・・・・・
 街灯もなく,空が暗いので,今よりも明け方の空は美しかったと思うのですが,「万葉集」には,夜が明ける前について,あまり詠んだ歌がありません。この歌を詠んだ他田日奉得大理は,奈良時代の防人にして下総海上郡の国造ということです。

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 今回の旅も,帰りに駅弁を買って列車の中で食べることにしていたのですが,JR尾鷲駅にあったのは自動販売機だけで,売店すらなく,当てが外れました。時刻は午後4時過ぎ。尾鷲市街地の見どころはすべて見終えました。そこで,地図には街歩きを楽しもう,と書かれてあったので,夕食を取る場所をさがしながら,市街地をまわることにしました。
 ところがどうでしょう。食事をする場所もありません。「海の見えるこじゃれたレストラン」はとうの昔にあきらめ,どこでもいいやと,グルメ案内の地図ももらったので,それを頼りに街中を歩いてみたのですが,地元の人しか行かないような喫茶店,小さな居酒屋やカラオケと書かれたスナック,あるいは,高級そうなお寿司屋さんが2,3軒,くらいあるだけでした。しかも,そのほとんどは閉まっていました。それよりも目についたのは,廃墟化した空き家や,昔は店だった,と思わせる看板があるだけで今は人が住んでいないあばら家ばかりでした。

 お寿司屋さんは午後5時になれば開くようだったので,待っていればよかったのでしょうが,お昼に魚を食べてしまったので気が進まず,何とか見つけたのが1軒だけあった中華料理店だったので,そこで夕食を取りました。そして,JR尾鷲駅に戻りました。
 駅の時刻表を見てもわかるように,JR尾鷲駅を発着する列車は,1時間に1本もありません。次に来る列車を待っていたのは,車を持たない高校生ばかりのようでした。
 名古屋から尾鷲まで,今は,高速道路ができているので,車で行くなら2時間程度です。また,尾鷲市にも,国道42号線沿いには,全国チェーンの牛丼屋とかスーパーマーケットが1軒ずつあるので,車を利用する限り,不自由はありませんが,国道42号線を利用する車のほとんどは尾鷲市に寄ることもなく,目的地をめざして通り過ぎていきます。
 しかし,こうした姿は,尾鷲市だけのことではありません。日本という国は,大都会以外は,どこもこのような感じです。私は,こんな侘しい旅は嫌いでないのですが,もし,尾鷲市に住んでいたなら,3日で飽きるだろうなあ,と思いました。これでは,ますます,若い人は大都会に出て行ってしまいます。
 帰りの特急「南紀」8号は2両編成でした。

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CSS.

2024年1月8日午後6時10分。
中国宇宙ステーション「天空」が南の空を通りました。
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 第10回「義清散る」では,佐藤義清なる人物が詳しく語られるのですが,「佐藤義清=西行法師」だなんて,私には「何だ,そうならはじめにそう解説してくれよ」という感じでした。そう知っていればずいぶんと想い入れもできるのですが,知らずに見ていてもそれがわかりません。
 旅をしていると,吉野山の西行庵をはじめとして,西行法師ゆかりの場所がいろいろなところにあるのですが,私は,これまで,西行法師は和歌の達人,というイメージしかありませんでした。これを機会に調べてみると,もっともっとドラマのある人物でした。
 佐藤義清以外にも,「平清盛」では,明子,時子といった平清盛の妻や,鳥羽天皇の中宮皇后・待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ),美福門院得子(びふくもんいんなりこ)といった女性が出てきますが,もともと女性の顔の違いが認識できず,みな同じ顔に見えてしまう私にはすぐには区別がつきません。また,待賢門院璋子の子である崇徳天皇は顕仁(あきひと)という名だし,後白河天皇も雅仁(まさひと)だし,美福門院得子の子である近衛天皇は躰仁(なりひと)ですが,幼名だけで語られても,一度では理解不能です。せめて「後の〇〇天皇」といった字幕でもあればいいのですが…。

  ・・・・・・
  ながからむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ
    待賢門院堀河
  身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ
    西行法師
  ・・・・・・
というような,佐藤義清と待賢門院璋子の関係を暗示して,効果的に取り上げられている和歌も,この和歌を知ってはいても,こんなシチュエーションで詠まれたのか! と驚きました。いや,実際は,そんなシチュエーションで詠まれたものではないでしょうが,そんなシチュエーションを思い起させる歌だということでしょう。
  ・・
 「ながからむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ」は百人一首にある歌ですが,これは待賢門院璋子が詠んだものではなく,待賢門院璋子に出仕した待賢門院堀河が詠んだものですが,いずれにしても,関わりがあるのです。そう学べば,学生時代,百人一首の勉強にもう少し身が入ったものを,高等学校で習う百人一首は,参考書には文法については必要以上に詳しく書かれているのに,それを詠んだ人物や時代背景にはほとんど記述がありません。もし,その時代や人と人との関りを知っていれば,さぞかしおもしろかったのになあ,と悔しい思いをしました。
 このように,「平清盛」は,一度見るだけではわからないことが多いので理解不能ですが,時間のある今,何度も見直したり,わからないところは徹底的に調べながら見ていると,それがまあ,奥が深いドラマだ! ということがわかり,とても興味深いのです。また,真実かどうかは別として,その時代の逸話をさまざまな古文書から探し出して,それらをドラマの中にこれだけ多くちりばめられているのもすごいものだと感服しました。

 将棋の棋力がない人が難解な藤井聡太八冠の将棋の本当のおもしろさが理解できないように,このドラマを評価するには,ものすごく多くの知識が必要なのでしょう。そうでないのに,容易に批判するのは,自分が無知であるということを吹聴し,天に向かって唾を吐くようなものです。脚本家はそれをすべて計算づくで,浅学のあなたにはわからないんでしょう,とほくそ笑み,批判する人を値踏みしながら優越感に浸っていたのかもしれません。
 一方,現在は過保護な時代で,また,視聴率を気にするあまり大衆に媚びを売っています。大河ドラマでは,さまざまな関連番組が放送されたり,解説本が出版されたり,ドラマの冒頭でもていねいなあらすじの説明がありと,無知な私が見ても,理解不能ということはないのですが,以前は,そうではありませんでした。
  ・・
 話は飛躍します。
 こうしたドラマに限らず,リヒャルト・ワーグナーのオペラや,シェイクスピアの劇など,人類の財産ともいえる多くの芸術は,「平清盛」とは比べられないほど,もっと難解で,多くの知識がなければ,理解できません。それでも,それを評価し,楽しんでいる人がいるわけです。私はそれがとてもうらやましいです。せっかく生まれてきて,人類の財産である芸術作品のよさを味わえる能力さえ身についていないて,人生はなんと短いこと!

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 昨年,隠岐諸島に行ったとき,知夫里島で,文覚上人の墓,というものを見て以来,文覚上人なる人物に興味が湧いたことから,NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で市川猿之助さんが演じた文覚上人をまた見たくなりました。そこで,保存していた総集編を見直してみのですが,まったく出てきませんでした。そこで,「鎌倉殿の13人」の全話を見るにはどうしたらいいか,と思っていたら,NHKオンデマンドで見ることができるということがわかったので契約して,やっと見ることができました。
 文覚上人を登場させなくても,「鎌倉殿の13人」という物語は成り立つのでしょうが,脚本を書いた三谷幸喜さんが,その時代について調べているうちに,文覚上人は非常に興味をもった人物であるらしく,また,大河ドラマは真実を描いていない,などという学者気取りの人をあざ笑っているかのように,それをおもしろおかしくドラマに取り入れていたのが,脚本家の矜持というものでしょう。大河ドラマは歴史を題材としたあくまでドラマであって,でないと,単に受験勉強用の学校の歴史教材になってしまいます。
 せっかく契約したのだからと,NHKオンデマンドに存在する他の番組を調べていたら,「鎌倉殿の13人」以外にも過去の大河ドラマが多数存在していました。そこで,今日は,そんな過去に放送された大河ドラマのお話です。

 私がはじめてNHK大河ドラマにはまったのは,1973年に放送された「国盗り物語」でした。
 それ以来現在まで,最後まで見たもののあれば,途中で断念してしまったものもあります。途中で断念してしまったものには,つまらなかったものと,本当は興味があったけれど難しくてわけがわからなくなってしまった,というものがあります。そうしたもので,私がずっと気になっていたのが「勝海舟」「平清盛」「義経」の3作でした。
 「勝海舟」は,総集編だけ存在していてそれを見ることができました。総集編では物足りなかったのですが,とにかく,流れはわかりました。「義経」は,現在,NHKオンデマンドでは見ることができません。現在,すべてを見ることができるのは「平清盛」でした。
 私は,日本の歴史で,戦国時代と幕末にはすごく興味があったのですが,平安時代末期のことはそれほど興味もなく,大学受験で必要だった知識以外,ほとんど知りませんでした。「鎌倉殿の13人」も,放送する前はまったく興味がなかったのですが,見ているうちに引き込まれて,この時代に興味がわいてきました。
 「平清盛」は,主役が「どうする家康」でユニークな演技をしていた松山ケンイチさんということもあり,「鎌倉殿の13人」と今年放送される「光る君へ」の間の時代を描いたものということもあり,「平清盛」をきちんと見てみることにしたのですが,それがまあ,おもしろいこと!

  ・・・・・・
 「平清盛」は,2012年に放送された51作目のNHK大河ドラマです。
 平清盛の生涯を中心に、壇ノ浦の戦いまでの平家一門の栄枯盛衰を,源頼朝の視点を通して描いたものです。
 第1回から父・平忠盛が亡くなる第16回までが第1部,平清盛が平氏一門の棟梁となった第17回から保元の乱と平治の乱を経て公卿となった平清盛が嚴島に経典を納める第30回までが第2部,その後の第31回からが第3部です。内容豊富,ボリューム満点のドラマです。
  ・・・・・・
 このドラマは,放送当時,かなり不人気でした。その一方で,一部の人たちにはものすごく評価の高いドラマでした。私は,視聴率,などというものはどうでもよく,他人が見ようと見まいと,人気があろうとなかろうと,人は人で,どうでもいいのですが,それよりも,自分が興味があるのにわからない,ということが悔しかったのです。
 改めて見ると,このドラマが不人気だったのは,画面が汚いなどということを言った人がいるとかいないとかですが,実は,難しすぎたから,ということを再認識しました。このドラマを理解するには,山川出版社の「詳説日本史」なる高等学校の教科書程度の知識では不十分であり,書かれていないことばかりなのです。そもそも,この時代は,教科書程度の知識でも,保元の乱,平治の乱が,源と平の対決といった単純なものではなく,利害関係が複雑に入り交じっているし,人物の名前も似たようなものばかりだったので,受験勉強をしていたころの私は,さっぱりわかりませんでした。

 このドラマは,院政といって,白河天皇が幼少の子供に皇位を譲り法皇となって権力をほしいままにしているところからはじまります。次の堀河天皇は若くして亡くなったのでドラマ「平清盛」には出てこず,次のその鳥羽天皇がその不安定な地位に格闘しているというのが第1部です。
 第1部では,平清盛は白河法皇の落胤だった? とか,鳥羽天皇の本当の父は白河法皇だった? とか,崇徳天皇の父も鳥羽天皇ではなく白河法皇だった? とか,そのように伝わっている逸話などが取り入れられています。
  ・・・・・・
 「平家物語」の語り本系の諸本は,白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御が忠盛に下賜されて,平清盛が生まれたとしています(=白河院落胤説)。また,読み本系の延慶本では,平清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったというように書いています。
 崇徳天皇は鳥羽天皇と中宮・待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)の第1皇子ですが,「古事談」には,崇徳天皇は白河法皇と待賢門院璋子が密通して生まれた子であり,鳥羽天皇も実父は祖父・白河法皇で,崇徳天皇を「叔父子」とよんで忌み嫌っていたという逸話が記されています。
  ・・・・・・
 こういう逸話を取り入れてドラマが作られているので,大河ドラマは史実に忠実でない,と批判する人がいたわけのですが,それが真実であろうとなかろうと,歴史の授業であるまいし,歴史を題材とした作り話,でいいじゃないか,と私は思います。このほうがおもしろいし,人間の本音を露骨に描くことができます。
 以下,次回に続きます。

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◇◇◇
ISS.

2024年1月6日午前5時39分。
月齢23.9の月と金星の間を横切る国際宇宙ステーションです。
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 「三重県立熊野古道センター」から尾鷲市街地に戻ります。観光案内所でもらった地図に「正面に通称ムーミン島が見えるで」と書かれてあったので,どんなものかと,尾鷲港に行ってみました。
  ・・・・・・
 尾鷲湾の湾頭にある佐波留島(さばるじま)は,尾鷲市の行野浦から1キロメートル弱の距離に位置し,広さは4.65ヘクタールというから,46,500平方メートルなので,縦横200メートル強の広さです。
 島全域が暖帯性の常緑樹林に覆われていて,アオサギ,ゴイサギ,クロサギ,シロサギなどが数多く生息しています。
 佐波留島は,ムーミンが仰向けに寝ているように見えることから「ムーミン島」ともよばれています。
  ・・・・・・
ということですが,思ったよりも大きな島で,すぐにわかりました。
 しかし,私には,ムーミンというより,うつぶせに寝たスヌーピーのように見えました。

 次に行ってみたのは,尾鷲市天文科学館でした。場所は,標高50メートルの中村山の山頂にあって,「ふるさと創生事業」の1億円で作ったそうです。「ふるさと創生事業」というのは,1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)にかけて,国が各市区町村に地域振興と称して1億円をばらまいたバブル期の政策で,正式名称を「自ら考え自ら行う地域づくり事業」といいます。この国は無節操に税金を集めることにも熱心ながら,哲学もなくお金をばらまくことにも熱心です。昔から。
 このお金で金の延べ棒を買って顰蹙をかったところもあるそうですが,尾鷲市は市民からアイデアを募り,天文科学館を作り,口径80センチメートルのアスコ(旭精光研究所)製の反射望遠鏡を納入しました。しかし,こういう施設は,作ることはいいのですが,維持し続けることが大変です。実際,現在,天文台は週末だけ公開しているということですし,管理運営をしている人も次第に高齢となっているということです。特に,反射望遠鏡というのは,再メッキなどのメンテナンスが必要ですが,そうした費用は市の予算からは捻出できないと思います。また,今はアスコは望遠鏡事業から撤退してしまいました。
 天文科学館の中に入ることはできませんでしたが,高台にあるので,尾鷲市街地と尾鷲港が一望できました。

 最後に行ったのが,尾鷲神社でした。
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 尾鷲神社は,伝承では,701年から703年の大宝年間に,播磨国広峰山の広峯社より須佐之男命(すさのお)を勧請したのが創祀としています。また,紀伊続風土記では,伊勢神宮の神領で,、遷宮の際に豊受大神宮(=外宮)の神職が神事を執り行ったとあります。
 1707年(宝永4年)の宝永地震にともなう津波で尾鷲神社の本殿が流出したのですが,本殿の脇に立っていた大楠は生き残り,1966年(昭和41年)には腐った大樟の幹の空洞に火が入り、3日間燃え続けたのですが大樟は無事だったとあります。
  ・・
 尾鷲神社の樹齢100年以上の大樟は三重県屈指の巨樹で,夫婦楠とよばれ,幹回り10メートルの雄樟と幹回り9メートルの雌樟の巨木が5メートルほどの間隔で並んでいて,枝が重なり合ってひとつの樹冠を形成しています。
 雌楠の瘤こぶに触ると子を授かるという言い伝えがあって子宝授けなどの神木として親しまれています。
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 また,尾鷲神社本殿内の獅子殿には,総高33センチメートル,面長46センチメートルの木彫の獅子頭が安置されていて,「ヤーヤ祭」の最終日に御獅子出御の儀式で使用されるとありました。
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 「ヤーヤ祭」というのは,白装束の男衆が狭い通りで激しくぶつかり合う「奇祭」として知られる例祭で,豊漁と豊作を祈願するものです。300年以上前から続くといわれるこの例祭は2月1日から5日にかけて開催されます。
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 神の国日本では,こうした奇祭がいたるところにありますが,それぞれ少しずつ違うのが興味深いです。旅に出たとき,その土地に根づく祭りを調べるのも一興かもしれません。

 ところで,私が地方都市を旅するときにいつも興味があるのが,江戸時代にその町を治めていた殿様のことです。しかし,尾鷲市にはそれらしい形跡すらなく,殿様がだれなのかもわからず,城跡もありませんでした。そこで「三重県立熊野古道センター」に行ったときに聞いてみたら,この場所は紀州藩,ということでした。「あの和歌山城を居城とする徳川御三家の紀州藩だって!」紀州藩ってえらく広いのだなあ,と驚きました。「広いといっても山ばかりですからね」と言われました。
 紀州藩,侮れず。

ムーミンスヌーピー

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 「土井竹林」を見終えて,次は昼食です。尾鷲市は港町だから,おいしい魚が食べられると期待しました。イメージしていたのは,海岸沿いにあるこじゃれたレストランだったので,私は,そんな,空想上のレストランをめざして,国道42号線沿いを信号のある交差点まで歩いていました。信号を渡って,尾鷲市の市街地に行くつもりでした。が,信号の手前に「お魚いちば・おとと」という店を見つけました。
 「お魚いちば・おとと」は,いわゆる道の駅のようなところで
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 2013年(平成25年)の紀勢自動車道の延伸を見据え,2011年(平成23年)に名称に変更し店舗の改装を果たした尾鷲の玄関口にある「おわせお魚いちば・おとと」は,「地場の産品を提供し地域の皆さんに気軽に立ち寄ってもらえるお店」「地元に根ざしたものづくりを強く願う生産者を応援」「地元の観光・物産スポットと連携して情報を発信」の3つのコンセプトを掲げます。
 「おわせお魚いちば・おとと」は,水産会社「尾鷲物産」の直売所で,鮮度抜群の魚介類がお値打ち価格で並んでいます。「売り場に並ぶ魚はその日の海の気分しだいです」ということです。また,店内奥にある「おわせ魚食堂」もオススメ! で,とれたて地物魚介類や季節の日替わり惣菜,尾鷲物産自慢の魚が食べられるセルフスタイルの食堂が人気です。
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だったのですが,この時点では,そんなことはまったく知りませんでした。
 尾鷲市内には,もっとすてきなレストランがあるのでは? ここでいいのかな? という迷いがありましたが,これまでの旅の経験から,こういう機会を逃すとあとで後悔すると思ったので,食事ができるのならここですまそうと,海岸沿いにある(かもしれない)こじゃれたレストランのイメージを頭から消して,中に入りました。そして,「お魚いちば・おとと」の建物の一角にあった「おわせ魚食堂」で,一番いいものをと「地魚どんDX(デラックス)」を注文していただきました。
 これだけのものを,もし,お寿司屋さんで食べたら,かなりの値段です。こうして,新鮮な魚の食事を,今回もまた,期せずして食べることができたのですが,この選択は大正解でした。というのは,尾鷲市内には,海岸沿いのこじゃれたレストランどころか,このような昼食が食べられる店すら1軒もなかったのでした。

 昼食を終えて,尾鷲市街地に向かいました。市街地の中心に観光案内所があって,そこでレンタサイクルを借りることができることだけは調べてありました。観光案内所までは結構な距離がありましたが,歩いて向かい,中に入ると,私と同年代の女性の係員がいました。電動レンタサイクルを借り,地図をもらい,見どころを教えてもらいました。
 尾鷲市内には何もないけれど,ということで,すすめられたのが「三重県立熊野古道センター」でした。尾鷲市街地からは自転車で10分くらいかかりました。県立の施設ということもあって,立派でした。
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 木造建築等断面集積木材構造という世界初の技術で建築されたセンターの常設展示室には,熊野古道と周辺の歴史,自然,文化などの特徴や概要がわかりやすく展示されています。
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 私は,野本宮大社,熊野速玉大社,熊野那智大社の熊野三山はすべて車で訪れたことがありますが,熊野古道というのは,名前だけは知っていても,旧東海道や旧中山道,また,四国霊場八十八箇所のようなわかりやすさとは異なって,漠然としていて,あまり興味がありませんでした。また,ものすごく距離が遠く,しかも,坂道や登山道のようで,歩いてみようと思ったこともありませんでしたし,今もそうです。

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 古代から中世にかけて,熊野本宮大社,熊野速玉大社,熊野那智大社の熊野三山の信仰が高まり,多くの人々が熊野を参詣しました。現在では,田辺から熊野本宮大社に向かう「中辺路」(なかへち),田辺から海岸線沿いに熊野那智大社,熊野速玉大社へ向かう「大辺路」(おおへち),高野山から熊野本宮大社へ向かう「小辺路」(こへち)が「熊野参詣道」として世界遺産に登録されています。
 それ以外の熊野古道である「伊勢路」(いせじ)は,伊勢神宮から熊野三山へ通じる参詣道です。伊勢神宮から熊野速玉大社までの総距離は170キロメートルあります。
  ・・・・・・
というように,一概に熊野古道といっても多くの道があり,それらは,和歌山県,奈良県,三重県にまたがっていることから,それぞれの県が独自に自分の県にある熊野古道の案内をしていることもあって,私は,これまで,なかかなその全貌がつかめないのでした。
 今回訪れた「三重県立熊野古道センター」も,熊野古道センターとはいえ,ほとんどは,三重県に属する「伊勢路」に関する情報だけを提供している施設でした。そして,尾鷲市は「伊勢路」を歩く際の中継地点となっている町でした。しかし,「三重県立熊野古道センター」で解説映像や展示を見て,熊野古道全体についてもかなり理解ができたし,短い距離なら歩いてもいいかな,と思いはじめました。さらによかったのは,係の女性がとても親切だったことです。たくさん質問をしたのですが,わかりやすく教えてもらうことができました。

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 「土井竹林」は,JR尾鷲駅から直線距離ではほど近い国道42号沿いの西側にあります。
 紀勢本線は単線で非電化ですが,JR尾鷲駅のところは複線になっていて,駅舎は駅の東側,つまり,海側のみにあります。また,線路の西側,つまり山側には,線路に平行に国道42号線が走っています。そこで,「土井竹林」に行くには,まず,紀勢本線の線路を渡り,さらに,国道42号線を渡らなければなりません。しかし,線路を渡る踏み切りは駅舎から結構な距離があり,また,国道42号線を渡る信号もさらに遠い場所にあるので,かなり遠回りすることになります。
 おまけに,近くまで来ても,「土井竹林」へは,国道42号線に面した巨大なパチンコ屋の駐車場の奥にある狭い道に沿って行くことになるのですが,その道がきわめてわかりずらいものでした。なお,GoogleMapsで表示される近道は間違いで,通行止めになっていて行くことができません。
 パチンコ屋の駐車場を歩いて横切って,やっとのことで道を見つけて,その狭い道をしばらく進んでいくと,その先に手掘りのトンネルがありました。トンネルをくぐると,ついに「土井竹林」が出現しました。

  ・・・・・・
 「土井竹林」は,江戸時代からの林業家「土井家」が薩摩から移植した孟宗竹などの見事な竹林です。約4,000平方メートルにも広がる竹林には,直径30センチメートルはある大きな竹が林立し,静寂に包まれて,厳かな雰囲気を感じることができます。
  ・・・・・・
と,尾鷲市のホームページにあります。
 私には,子供のころの思い出の伏線回収。とはいえ,せっかく行ったのに,これ以上の感想をもち合わせませんでした。感動した,わけでもなければ,そこで感慨にふける,でもなかったのです。推理小説を読んで,犯人がわかったわけでもなければ,謎が解けたわけでもない,という感じなのです。というのも,尾鷲市には数少ない観光資源なのに,行き方が難しく,せっかく着いたこの場所は,荒れるに任せて…,という感じがしたことと,柵があるので,竹林を外から眺めることはできても,ドラマ「旅路」のように,中に入ることができなかったことで,寂しく,侘しくなってしまったからです。
 先日,偶然行った愛媛県大洲市の「おはなはん」のロケ地とは雲泥の差でした。当時,「旅路」は前作の「おはなはん」と同じくらいの人気を誇った朝の連続テレビ小説だったのですが,なぜか,いろいろな意味で冷遇されています。これでは,主役の日色ともゑさんがかわいそうです。

 ともかく,この旅の目的は達成できました。
 さて,この後は,帰りの特急「南紀」の出発時間まで6時間余りをきままに過ごすだけですが,はじめて来た尾鷲市がどういうところだろうかと,この時点では期待しました。
  ・・
 ところで,国道42号線を渡るときに通った十字路のもうひとつの道は私がトラウマになっている国道425号線でした。
 国道425号線といえば,通称「死にゴー」といわれる道です。国道425号線は,「ヨサク」といって親しまれて? いる国道439号線,国道418号線とともに,「日本三大酷道」とよばれているものです。国道439号線は四国地方にあって,私は,祖谷のかずら橋に行ったときに覚悟して走りましたが,思ったほどではありませんでした。また,国道418号線は頻繁に通るのですが,この道のほとんどは一般の舗装道路にすぎず,酷道とよばれるのは八百津あたりだけのことです。しかし,国道425号線は違います。全線が酷道なのです。
 私は,国道425号線が酷道といわれているとはつゆ知らず,以前,十津川村に行ったとき,地図上で見ると,近畿地方の山の中から海岸に出る近道と誤解して,何と,雨の日の夜にこの道を走り,恐怖におののいたことがあります。そのときは,結局,途中の下北山村で断念して国道169号線に進路を変えたので事なきを得たのですが,もし,そのまま走っていたら,無事に尾鷲市のこの場所に着いていたのならいいのですが,途中でどうかなっていたかわかりません。
 このくちゃくちゃこそが,海外旅行では決して味わえない日本を旅する底知れぬおもしろさだと,今の私は思っていますけれど,やはり,山奥を走るには下調べが必要だと痛感しました。

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 もう,一昨年のことになりますが,2022年10月20日から10月22日まで四国へ旅行をしたとき,高知市で開催されていたさくらサーカスを見損ねた,ということで,昨年2023年1月10日に,日帰りで再び高知市に行って,さくらサーカスを見てきました。
 そして,その1年後,今度は,2023年12月7日から12月9日まで紀伊半島1周の旅をしたのですが
  ・・・・・・
 すべてがうまくいった2泊3日紀伊半島1周の旅でした。しかし,ただひとつ,やり残したことができました。それは…。
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ということになりました。やり残したこと,それは尾鷲市で途中下車をしなかったことなのです。
 尾鷲市で行きたかったのは竹林でした。
 1967年に放送された,平岩弓枝作のNHK朝の連続テレビ小説「旅路」のロケ地であった竹林が長年私には強く印象に残っていて,「尾鷲=竹林」という伏線ができていたのですが,これまで行ったことがありませんでした。ロケ地であった竹林が「土井竹林」というところであることを知ったのは,最近のことでした。そこで,このところ,人生の伏線回収の旅を続けている私は,こりゃできるだけ早く行くしかない,という思いが募り,2023年12月27日水曜日に日帰りで行ってきました。
 なるべく早く,と思いながら日程と天候を調べていて,年末最後のジパング倶楽部が有効である平日で,しかも,予報では晴れてとても暖かな1日,というこの日に決めたのでした。

 紀伊半島1周をする前は全く無知であった列車事情にも,めっぽう詳しくなりました。
 今回は特急「南紀」で往復するのですが,特急「南紀」は通常1日に4往復しか運行しないので,行きは,JR名古屋駅午前8時2分発,JR尾鷲駅10時46分着の特急「南紀」1号,帰りは,JR尾鷲駅18時18分発,JR名古屋駅着20時49分の特急「南紀」8号の一択になります。この予定だと,尾鷲市滞在が7時間30分とたっぷりあるのですが,私の目的地は「土井竹林」だけだったので,あとは,予定も立てず,着いたら考えよう,というのんびりしたものでした。旅はこうでなきゃ。こういう旅は楽しいものです。
 数日前に家の近くのJTBに出かけて,ジパング倶楽部を利用して切符を買いました。特急の座席を指定するときわかったのですが,この日の特急「南紀」は,行きは4両編成,帰りは2両編成でした。2両編成でも空席だらけなのに,4両編成にして乗る人がいるのかな? と私は思いました。

 早朝,JR稲沢駅からJR名古屋駅まで向かいました。JR稲沢駅のホームで日の出を見ました。天気予報どおり,いい天気になりそうでした。
 JR名古屋駅で特急「南紀」1号に乗り込みました。前回同様,ほとんど乗客のいない車内は快適でした。特急「南紀」は,JR四日市駅までは関西本線を走り,そこから第3セクターの伊勢鉄道に入り,JR津駅でJR紀勢本線につながります。伊勢鉄道を借りて走らなければ,線路は「く」の字になって,「く」の字の頂点にあるJR亀山駅で進行方向を変えて走る必要があるので,ショートカットをする伊勢鉄道を間借りしているのです。私は通しの切符を持っているので問題ないのですが,そうでない場合,この区間だけ料金体系が複雑なので,車内で車掌さんが検札にきます。また,JR津駅から南はICカードも使えないというように,昭和時代のままの世界があります。
 東京や大阪などの大都会がどんどん発展しているのとは雲泥の差があります。日本は,都市圏を離れると,突如,発展途上国以下になります。
 やがて,定刻にJR尾鷲駅に着きました。尾鷲市は,想像以上に寂れたところでした。

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 当初の予定では,仁和寺だけを拝観して帰るつもりだったのですが,人の少ない京都という,うれしい誤算で,すっかりやる気になった私でした。そして,思い出したことがありました。それは「俵屋吉富」(たわらやよしとみ)です。
 2015年から2017年にかけて5回NHKBSPで放送された「京都人の密かな愉しみ」という番組で,常盤貴子さんが主役として「久楽屋」の若女将・三八子を演じたのですが,「久楽屋」のモチーフだった創業260年を超える老舗の京菓子屋「俵屋吉富」がどこにあるか,一度見てみたい,ということでした。
 「俵屋吉富」は,京都御所の北西の室町,つまり,室町幕府のあった場所にあります。仁和寺からは,御室仁和寺駅から嵐電に乗って,終点の北野白梅町で降りて,バスに乗り換え,上京区総合庁舎前で降りて北に歩けばいい,ということがわかったので,そのようにしました。
 今回は,単に場所がわかればいいということで,お店の前を通っただけでしたが,これで納得したので,次回来ることがあれば,お店に入って和菓子でも買おうと思いました。

 こうして,期せずして,京都御所の近くまで来たので,次に,京都御所を横切って蘆山寺に行くことにしました。蘆山寺を思い出したのは,来年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の主役・紫式部ゆかりの寺だということからです。蘆山寺は以前にも行ったことがありますが,あまり記憶にありません。また,宮中で元三大師の修法を妨害する悪鬼を退散させた故事にちなむ節分行事「鬼法楽」でも行ったことがありますが,すごい人で拝観するどころではありませんでした。
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 広い京都御所もまた,ほとんど観光客がいませんでした。ただし,清所門(せいしょもん)に差しかかると,まばらに人がいて,みな門から中に入っていくのが見えました。門にいた守衛さんに聞いてみると,京都御所の中に入ることができるというではないですか。以前は,事前に予約をして,やっと見学ができたのですが,今は,一般公開されていて,予約なしでだれでも入ることができるということでした。私は,全く知りませんでした。ということで,これもまた,期せずして,京都御所の見学ができました。
 京都語御所の見どころとしては,襖絵が印象的な「諸大夫の間」,即位式などの重要な儀式が行われる伝統技法で作られた屋根の「紫宸殿」,天皇の日常生活の場で獅子と狛犬の2匹の「守り神」がいる「清涼殿」,四季折々の表情が楽しめる「御池庭」,明治天皇が過ごした「御常御殿」とあるのですが,これらもまた,NHK大河ドラマ「光る君へ」の舞台となるから,おそらく,2024年は脚光を浴び,多くの観光客が押し寄せることでしょう。

 京都御所の見学を終えて,蘆山寺に向かいました。
 廬山寺は天台圓淨宗の寺院で,紫式部の邸宅跡として知られ,源氏の庭やお土居などが残ります。
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 938年(天慶元年)に船岡山の南麓に建てられた與願金剛院,1245年(寛元3年)に出雲路に建てられた廬山寺,このふたつの寺の住持を兼務していた明導照源が,1368年(応安元年)に與願金剛院が廬山寺を吸収合併し,廬山天台講寺となりました。
  豊臣秀吉の寺町建設によって,天正年間に現在地に移りました。たびたびの火災で,現在の本堂は1794年(寛政6年)に仙洞御所の一部を移築して作られたものです。1872年(明治5年)に天台宗の寺院となり,1948年(昭和23年)に天台圓淨宗として独立しましたた。
 1965年(昭和40年)に歴史学者の角田文衞によって,蘆山寺のある場所が紫式部邸跡とされました。
  ・・・・・・

 こうして,予想していた以上に人が少なかった京都を十分に楽しんで,地下鉄に乗ってJR京都駅に着き,コインロッカーに預けてあった荷物を取り出して,途中下車扱いになっていた乗車券と新幹線の自由席特急券で「ひかり」に乗り込みました。ジパング倶楽部では「のぞみ」には乗ることができない,いや,厳密にいえば,「のぞみ」に乗ることはできますが特急料金が安くならないのです。しかし,京都駅から名古屋駅は「のぞみ」でも「ひかり」でも「こだま」でも,何に乗ってもほとんど所要時間に大差ありません。また,何に乗っても空いているので,JR名古屋駅からJR東京駅に行くときのように,グリーン車にこだわることもないので助かります。むしろ,「こだま」はがらがらなので快適です。
 JR名古屋駅に着いて,駅弁を購入して,自宅まで持って帰りました。家で夕食として,買ってきた駅弁を食べながら,旅の余韻に浸りました。
 すべてがうまくいった2泊3日紀伊半島1周の旅でした。しかし,ただひとつ,やり残したことができました。それは…。

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Happy New Year 2024.
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 2024年になりました。今年はどんな1年になるでしょうか。
 1年前の今日,「おわりのはじまり」と書きました。
  ・・・・・・
 テレビもほとんど見なくなったし,新聞や雑誌の類も,恥ずかしいような内容ばかりなので,読む気にならなくなりました。
  ・・・・・・
 そうした生活にすっかりなじんできたので,かなり世情には疎くなったのですが,それで,何の問題もなかったし,精神的にも健全になりました。現役でない私には,自分に関わりのない情報や自分にはどうしようもできない情報を知ったところで,それは不安になるだけのことで,意味がないのです。そこで,余生は,わずらわしいことは現役世代に任せて,悠々自適,好きなことだけを楽しむのです。
 現代はSNSの時代ですが,SNSとつき合うにもコツが要ります。
 TwitterがXというなじまぬ名前に変わったのですが,それはともかくとして,Xは「おすすめ」は無視して,「フォロー中」だけを見るのがコツです。こうすれば,不快なものを見ることがなくなります。YouTubeもまた,「ホーム」は無視して「登録チャンネル」だけを見ればいいのです。そしてまた,コメントには無礼なものも少なくないので,これもまた,見ないに限ります。いずれにせよ,長年つき合ってきたおかげで,自分にふさわしいものだけがフォローされたり登録されたりしているおかげです。
 それにしても,YouTubeには「外国に比べて日本はすばらしい」という番組がやたらと目につくのですが,そんなことはないですよ。どの国にも,いいところもあれば悪いところもあります。本当にこの国を愛するのなら,自画自賛して,他国を批判して浮かれているよりも,冷静に現状を捉えて,もっとよくしようと考えた方がいいと,私は思います。

  ・・・・・・
 今もっともやりたいことは,人の少ないどこかに出かけて,時間を忘れ,ゆったりと過ごすことです。今年は,まず,水戸へ行って梅が見たい,そして,佐渡島で飛んでいるトキを見たい,と思って,計画を立て,予約をしました。
 海外は,私がまた行きたいと思うのは,オーストリアとニュージーランドだということが確信できるようになりました。オーストリアでは鉄道で旅したい,そして,ニュージーランドでは車で走りたいのです。
 次に,良質のクラシック音楽をコンサート会場でたくさん聴きたい,ということです。クラシック音楽はとてもこころが休まります。
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と昨年書いたことは,今年も変わりません。
 水戸へ行って梅が見たい,佐渡島で飛んでいるトキが見たい,は実現しました。それに伴って,さらに,行きたいところがどんどんと湧き出てきたのは,うれしい誤算でした。そこで,その後,ずいぶんと多くの場所に行くことができました。日本国内には知らないところがたくさんありました。
 ただし,昨年は海外に行くことはできませんでした。それは,まとまった時間がなかったからです。2023年は,頼まれ仕事をすべて引き受けたことで,ちょっと働き過ぎました。そこで,2024年は,もっと自由な時間を増やして,海外旅行しまくるぞ! と思っています。
 多くのコンサートには行くことができました。2024年で引退する井上道義さんが指揮する演奏会に足繁く通うようになったことで,NHK交響楽団の定期公演に加えて,読売日本交響楽団や東京都交響楽団も聴くことができました。そしてまた,何と,「弓よりも刀が似合う」という石田泰尚さん率いる石田組のコンサートの追っかけもはじめてしまいました。
 コンサートは,そのどれもが上質ですばらしいものでした。2024年も,引きつづき,というより,さらにエスカレートしそうです。もうすでに,多くのチケットを購入してあります。
  ・・・・・・
 そして,最後に,もっと星を見たい,そして,宇宙に溶け込みたい,ということです。だれもいない深夜に宇宙と会話をするのはすばらしいことです。
  ・・・・・・
 これもまた,働き過ぎたのが原因で,2023年はほとんど宇宙と会話ができませんでした。これが2023年で最もよくないことでした。今は,再始動に向けて準備中です。

 2023年に悟ったのは,私のような年寄りは時間に追われて生活をしてはいけない,ということでした。仕事であれば,しないと他人が困りますから,たとえ気が乗らないことがあってもすることになります。しかし,仕事から離れて,自分の意思で好きなことをするのは,しなくても他人が困ることはないので,しなくても他人が困ることはないことをするのは,結構たいへんなのです。おっくうになって,しなくてもいいや,と思ってしまうのです。だから,「しなくても困らないこと」をするのは気力がいるのです。その気力こそが,若さの源となるのです。2023年の猛暑にやられてへばってしまった私は,やっとそんなことがわかりました。
 だから,「しなくても困らないこと」をいかに楽しく行うかが,2024年を過ごすためにもっとも大切なことなのです。


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 「国内旅行の最大の問題は,天候です。とにかく,天気が悪ければ,すべてが台なしですが,これは,自分の運を信じることにしましょう」と書きましたが,毎日とてもよい天気,しかも,冬とも思えない暖かな日々でした。今回も晴れ男の面目躍如です。
  ・・
 2023年12月9日土曜日。旅の最終日です。
 JR名古屋駅からJR名古屋駅の紀伊半島1周片道の旅は,今回のように2泊しなくとも,1泊でできるのですが,私が天王寺でもう1泊したのは,最終日に大阪か京都を観光しようと思ったからです。そして,JR京都駅からJR名古屋駅へは新幹線自由席で帰ろうと,切符を持っていました。ただし,大阪か京都のどこに行くかは全く白紙でした。というか,迷っていました。
 大阪を観光してもいいのですが,強いて行きたいところもありません。また,京都は,あまりの人混みで行く気が失せていました。ただし,先日行った将棋の竜王戦第2局の前夜祭のお土産で,対局場となった仁和寺の拝観券をもらったので,これを持参していました。そこで,いろいろと考えたあげく,混雑覚悟で,仁和寺に行ってみることにしました。

 まず,東横インの朝食を取るか取らぬか迷っていたのですが,とにかく1階に降りてみると,人がほとんどいなかったので,東横インで朝食を取ることになりました。天王寺に泊るような人は,前日の夜遅くまで出歩いていたのでしょう。朝が遅いのです。これもまた,うれしい誤算でした。朝食後,早々にチェックアウトして,JR天王寺駅に行きました。京都へは,JR天王寺駅から大阪環状線,東海道線と乗り継ぎます。
 しかし,JR天王寺駅が複雑でわからないこと! 近鉄の難波駅もそうでしたが,大阪は案内板がわかりにくいです。駅員さんに聞いて,何とか大阪環状線のホームにたどり着きました。この国で,東京や大阪を列車で旅することは,海外旅行をすることよりもずっと難解なのです。
 それにしても,JR西日本は,京都線,琵琶湖線,神戸線,嵯峨野線など,どうしてこんな名前をつけるのでしょう。これでは,この地に住んでいない人には理解不能です。東海道線上り・下り,山陰線でいいではないですか。そんな話をすると,東海道線ではわからない,琵琶湖線でなきゃ,と地元の人はいいます。私には,琵琶湖線というと何だか,私鉄やローカル線のように思います。どうやら,頭の中の地図のスケールが違うようです。関西の人は,関西地方だけをイメージし,私は,日本地図をイメージしているのだと,このごろ気づきました。
 ともかく,大阪環状線に乗って,JR大阪駅に着きました。ここで京都線とやらの東海道線上りに乗り換えです。私は,先に来た快速に乗ったのですが,途中で新快速に追い越されました。ほんとうにこれもまた,訳がわかりません。快速がどの駅に停まり,新快速がどの駅に停まるかという経路図が見あたらないのです。ともかく,このようにして,まがりなりにもJR京都駅に着きました。
 これでは,ヨーロッパを鉄道で旅するほうがずっと簡単です。

 JR京都駅で一旦途中下車して,コインロッカーに荷物を預けて,今度はSuicaで改札を入り,嵯峨野線とやらの山陰線に乗ってJR花園駅で降りました。仁和寺はここから北に歩くつもりでした。JR京都駅で降りて,京都市内を混雑するバスやら地下鉄に乗るよりマシだと思ったのです。私は歩くことは苦になりません。
 JR花園駅から北に向かって歩いていったのですが,観光客がほとんど見当たりませんでした。街中だからかな,と思ったのですが,やがて,仁和寺の二王門が見えてきても,やはり,ほとんど観光客はいませんでした。これもまた,うれしい誤算でした。
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 知恩院の三門,南禅寺の三門とともに京都三大門のひとつに数えられる仁和寺の二王門は,3代将軍徳川家光の寄進によって,1641年(寛永18年)から1645年(正保2年)ごろに建立されました。
 知恩院三門,南禅寺三門が禅宗様であるのに対し,仁和寺の二王門は平安時代の伝統を引き継ぐ純和様で建てられています。門正面の左右に金剛力士像,後面には唐獅子像が安置されています。
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 御室の仁和寺には久しぶりに来ました。仁和寺はさすが門跡寺院,立派です。門跡寺院とは皇族や公家が住職を務めたお寺のことです。
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 仁和寺は平安時代の886年(仁和2年)に58代光孝天皇によって発願され,888年(仁和4年)59代宇多天皇によって完成しました。897年(寛平9年)譲位した宇多天皇が出家し,仁和寺1世宇多法皇となりました。以降,皇室出身者が仁和寺の代々門跡を務めました。
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 12月だというのに,まだ,紅葉がきれいだったし,竜王戦で対局場となった「宸殿」(しんでん)も見ることができました。さらに,国宝の金堂北側部分に当たる空間「裏堂」の公開を見ることもできました。これもまた,ツイていました。2018年(平成30年)に372年ぶりに公開されて以来,5年ぶりの公開だそうです。
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 金堂内の本尊阿弥陀三尊の後壁裏に描かれた五大明王像の公開は,寛永年間に御所・紫宸殿を下賜移築されたものです。
 長期間光を受けず人の呼気にもあたらなかったので,輪郭は細部まではっきりしていて,朱が大変鮮やか,ということです。左から大威徳明王,降三世明王,不動明王,軍荼利明王,金剛薬叉明王と並んだ5人の明王は,恐ろしささえ感じます。
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 人が少なかったのが幸いして,久々に京都らしさを堪能しました。
 ゆっくりと仁和寺を鑑賞してから,二王門の前にある「松風」というおそば屋さんで昼食をとりました。紅葉のライトアップが終わって,急に観光客が減った,ということでした。
 京都はこうでなくちゃ。

 ところで,御室の仁和寺といえば,御室桜とともに有名なのは徒然草です。
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 仁和寺にある法師,年寄るまで石清水を拝まざりければ,心うく覚えて,ある時思ひ立ちて,たゞひとり,徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて,かばかりと心得て帰りにけり。
 さて,かたへの人にあひて,「年比思ひつること,果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも,参りたる人ごとに山へ登りしは,何事かありけん,ゆかしかりしかど,神へ参るこそ本意なれと思ひて,山までは見ず」とぞ言ひける。
 少しのことにも,先達はあらまほしき事なり。
  「徒然草」第52段
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 学生のころ知った「徒然草」でその名前を知ったのが,仁和寺とともに石清水八幡宮でした。そこで,石清水八幡宮へも一度は行ってみたいと思っていたのですが,なかなかかないませんでした。
 やっと,2016年になって,「仁和寺の法師」の教訓を得て,石清水八幡宮参道ケーブルで男山へ登って,石清水八幡宮を拝んでくることができました。

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☆☆☆☆☆☆
 12月の満月は「コールドムーン」。とはいえ,暖かい年の瀬です。
 月を見ていて思い出すのは,JAXAが2023年9月7日に打ち上げた無人月面探査機・着陸機「スリム」(SLIM=Smart Lander for Investigating Moon)です。
 高さ約2.4メートル,燃料を除いた重さは約200キログラムの小さな「スリム」は,H-IIAロケット47号機で鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げられました。画像照合航法を利用して月面のクレーターを認識し,「かぐや」が収集した情報を活用しながら現在地を特定し,誤差100メートルを目標に「神酒の海」(Mare Nectaris)付近の「しおり」(Shioli)と名づけられたクレーター近傍への着陸をめざしています。成功すれば日本初の月面着陸機となります。

 当初は2018年度にイプシロンロケットで打ち上げる計画が示されたのですが,2019年度の打ち上げに変更されました。しかし,2016年のX線天文衛星「ひとみ」の喪失事故によって,再び変更されて,2021年にH-IIAロケットで打ち上げ予定のX線分光撮像衛星「クリズム」(XRISM=X-Ray Imaging and Spectroscopy Mission)との相乗りで打ち上げられることになったのですが,今度は,「クリズム」の開発が難航して,2023年の前半に再変更されました。 
 しかし,H3ロケットの打ち上げに失敗した影響からさらに延期され,8月26日に打ち上げ日が設定されたものの,天候の悪化で28日へと延期されたのですが,この日も強風のため打ち上げが中止となり,9月7日にようやく打ち上げられました。
 打ち上げ後は順調で,9月14日に地球周回運用期間に移行し,10月4日には地球を公転する月の重力を利用して軌道を変更する月スイングバイを実施し,12月25日に月周回軌道への投入に成功しました。

 現在のところ,2024年1月20日午前0時ごろに,月の高度15キロメートルから降下を開始し,約20分後に着陸をめざしています。
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 「スリム」にはLEV-1,LEV-2の2機の月面探査ロボットが搭載されています。
 LEV-1は, 月面をジャンプするように移動する月面探査ロボットで,2台の広角カメラを搭載し,直接地球にデータを送信することができます。また,LEV-2は,変形機構や動物の動きなどの玩具技術を応用した小型月面探査ロボットで,2台の広角カメラを搭載し,LEV-1を経由してデータを地球に送信します。
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 成功するといいなあと思います。

 ところで,着陸地点は,アポロ11号が1969年7月20日に月に着陸した「静かの海」(Mare Tranquillitatis)に近く,私は,このことのほうに想いがあります。1969年といえば,早いもので,今から54年も前のことになります。 アポロ17号が1972年12月19日に月に着陸して以来,人類は月の地を踏んでいませんが,アメリカは,2025年に再び人類を月に送ろうとしています。

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 JR天王寺駅に着きました。もう列車の中で駅弁の夕食を終えたので,天王寺で食い倒れをする必要もなく,ホテルに行って寝るだけでした。
 以前,大阪に行ったとき,東横イン大阪通天閣に泊ると言ったら,よくそんな治安の悪いところに…,と大阪に住む女性に驚かれたことがあるのですが,地元の女性は天王寺にそういう印象があるのでしょう。私にはそういう印象はなく,車で大阪に行ったときも,駐車料金が安いから,天王寺付近の駐車場に車を停めます。
 今回のホテルは,東横インあべの天王寺にしました。東横イン大阪通天閣でも東横インあべの天王寺でもどちらでもよかったのですが,強いていれば,あべの天王寺のほうがJR天王寺駅に近いかな? というのが理由でした。

 このあたりはよく知っているはずなのに,JR天王寺駅を出て,道を間違えました。西に行かねばならぬのに東に向かってずっと歩いていたのです。ということで,上町筋まで来てやっと気がついて引き返し,なんとかホテルに着いてチェックをしました。30分ほどロスをしました。あべの天王寺のほうがJR天王寺駅に近いかな? には何の意味もなくなってしまいました。
 東横インの3大欠点は,エレベータと朝食と部屋の壁がうすいことです。エレベータに関しては,東横インあべの天王寺は2基あったのでよかったのですが,1基しかないところはずいぶんと待たされます。朝食については今までに何度も書いているので,今回は書きません。壁のうすいのは致命的で,隣の部屋の人のいびきに悩まされます。私の身内にはいびきのうるさい人がいないので,よくもまあ,こんなにいびきのうるさい人がいるものだ,といつも感心します。
 部屋にいても,テレビを見るわけでもないし,ほかにすることもないので,外に出て,散策することにしました。私は,普段でも,友人に飲みに誘われない限り,夜の繁華街に出ることはまれです。こんな機会でもなければ,天王寺界隈なんて,夜に歩くこともありません。

 東横インあべの天王寺は国道17号線に面しています。北側が通天閣とジャンジャン横丁のある通称・新世界で,道路を渡った南側をずっと下っていくと,飛田新地です。好奇心が手伝って,まずは,飛田新地を歩いてみることにしました。このあたり,近ごろは,外国人の観光地のようになってしまっていて,多くの外国人が興味本位で闊歩していました。Trip.com という外国人対象のサイトに次のようなクチコミがありました。原語を機械翻訳したものらしいです。
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 飛田新地は日本政府観光局で,百年以上にわたる特色ある歴史文化を保存するために,わざわざ開拓した特区的な街区です。地元住民の歴史文化に対する畏敬と保護のほかに,また,日本は歴史を尊重し,多文化の国家特性を守っていることを世界中から観光客に伝えています。
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 各店の前には,露出した服を着た叔母と女の子がいて,通行人に笑顔を浮かべています。インターネットで調べて,これが合法的な歓楽街だと確信しました。ここを通って,大正期に残された日本の古い建物も見ることができます。
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 ちょっとなあ,という感じですが,外国人はこの場所をこのように捉えているのでしょうか。
 青春通り,メイン通りというところは多くの人が歩いていましたが,その南にある通称・妖怪通りとかいうところは,ほとんど人もおらず,さびれ感満載で,そんな通りでさびしげに客をひいてる女性を見ると,人生の悲哀を感じてしまいます。

 チャップリンが「ひとり殺せば殺人者で百万人殺せば英雄となる」といったように,私のような年寄りになると,是とか非,道徳とかいうことは,人間,その中でも権力者が勝手に決めたルールや倫理に過ぎない,ということがわかってきます。自分たちで,理性があるとか英知だとか,そんな自画自賛をしている傲慢な人類ですが,実際は,早かれ遅かれ,たったひとりの暴発すら止められず,殺し合いをして滅ぶ,それだけのおろかな生命体です。
 そこで,こうした場所を歩いていても,私は,ここがあの有名な飛田新地なのか,有史以来人間はこういうことをくり返してきたのだなあ,生きるのは大変だなあ,悲しいなあ,という,そういう気持ちになるだけでした。
 というわけで,早々に退散して,国道17号線を渡って,今度は新天地に行きました。
 こちらは性欲ではなく食欲を満たす場です。すごい人が飲んだり食べたり,あるいは,騒いだりしていました。驚いたのは,その昔はカラオケ屋台ばかりだったのに,近ごろは,やたらと遊技場があったことです。「実弾禁止」とかかれた看板が大阪らしいというか…。私は,こうしたことにも全く興味がなく,何が楽しいんだろう? と理解不能でした。

 東京では,旧吉原遊郭であった千束4丁目界隈から浅草まで歩いていくと,大阪の天王寺と同じように,性欲と食欲の入り混じった人間社会の姿を垣間見ることができるわけですが,雰囲気がまったく違うのが,東京と大阪の違いなのでしょう。日本は不思議な神の国です。表向きは法治国家となっていても,そんなものは都合のいいようにどうにでも解釈する,これが,日本という国の本当の姿です。
 年寄りの私は,性欲でも食欲でもなく睡眠欲です。人混みの中を歩き疲れたので,早々にホテルに戻って寝ました。

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 「アドベンチャーワールド」を出て,バスに乗って午後3時30分ごろにJR白浜駅に戻ってきました。午後4時20分発の特急「くろしお」28号に乗って大阪に向かいます。この日宿泊するのは天王寺の東横インなので,JR天王寺駅で降りることになります。もともとは天王寺で食い倒れることにしていたのですが,人混みが嫌いので,夕飯は駅弁で済ますことにして,JR白浜駅で駅弁を買いました。
 午後4時ころに,私の乗る「くろしお」がホームに来ました。「くろしお」28号はJR白浜駅始発です。
ホームに行くと,停車していたのは,パンダのデコレーションをした列車でした。また,座席のヘッドカバーもパンダでした。
 私は,さすが白浜,特急「くろしお」はパンダ仕様なんだ,とそのときは思いましたが,家に帰って調べてみて驚きました。それは「くろしお」がパンダ仕様なのはレアだったのです。しかも,パンダ仕様の「くろしお」は,通常「くろしお」26号なのです。どうして私の乗る28号がそうだったのかは今もってわからないのですが,私は,こうして,何も知らず,また,それまで興味もなかったのですが,「鉄ちゃん」なら憧れるパンダ仕様の「くろしお」に偶然乗ることができる,という幸運に恵まれました。
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 パンダ「くろしお」は「Smileアドベンチャートレイン」といいます。
 JR西日本が2017年で発足30周年,「アドベンチャーワールド」が2018年で開園40周年を迎えたことをきっかけに,パークのさまざまなシーンをデザインしたラッピング列車・パンダ仕様の「くろしお」「Smileアドベンチャートレイン」が運行中です。
 ラッピングコンセプトを「旅に「ときめき」を」とし,車体前頭部をパンダフェイス,車体にはパークで躍動する動物たちのさまざまなシーンをデザインしています。見る人、乗る人全てが旅することに「ときめき」を感じ,スマイル広がるラッピング列車を運行しています。
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 こうして,私は,白浜へ来るときはハイブリッド仕様の2両連結の特急「南紀」,白浜からはパンダ仕様の特急「くろしお」に乗って,紀伊半島を1周することができたのです。
 紀伊半島1周では,海岸をながめながら旅をしようと,海側の座席をとってあったのですが,誤算は,特急「南紀」では,ずっと太陽が当たる席だったということです。当たり前の話ですが…。そして,白浜から先は,線路のほとんどは海岸沿いでないので海が見えず,また,思ったよりも日が沈むのが早いので,暗闇で景色も見られない,ということでした。
 これは失敗したなあと思ったのです。ところが…。
 JR白浜駅を出て,しばらくすると,わずかな間だけ,海岸に沿って列車が進むのです。そして,なんという偶然か,その時間に太陽が海に沈んでいったのです。これまた,あり得ぬ幸運でした。ということで,すばらしい夕日を堪能することができました。
 JR天王寺着は午後6時32分なので,私は,午後5時30分をすぎたころに,車内で駅弁の夕食をとりました。
 特急「くろしお」は,JR和歌山駅を出るころには乗客が増えてきて,空席がほとんどなくなり,和歌山市は大阪の通勤圏だということを自覚しました。が,幸いなことに,私のとなりの席は,JR天王寺駅で降りるまで空席でした。

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