しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

June 2013

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 今日の朝のフライトでノースダコタを後にするのだが,その前に,昨日行くことができなかったノースダコタ・ヘリテッジ・センターに行ってみようと思った。
 そこで,まずはじめに,一度空港へ行って,空港からノースダコタ・ヘリテッジ・センターへ行って,何分あれば空港に戻れるかを確認してみようということで,早朝モーテルをチェックアウトして空港へ向かった。空港に着くと,夜明けがとてもきれいだった。
  ・・
 空港からノースダコタ・ヘリテッジ・センターに向かったら,わずか10分で着いた。
 このように,車で走れば,ビスマルクはほんとうに小さな都会だった。これなら午前8時40分にノースダコタ・ヘリテッジ・センターを出発すれば午前9時には空港に十分着くであろう。
 ノースダコタ・ヘリテッジ・センターに着いたときはまだ午前7時前だったので,再び午前8時に来ることにして,その前に,ミズーリ川からの景色を眺めに行った。川べりにはずっと道路が続いて,川畔に公園があった。公園の駐車場に車を停めて,しばしミズーリ川を眺めた。
 そこには,ビスマルクのホームページに載っていた風景が広がっていた。鉄道の橋脚とミズーリ川の水面がマッチして,とてもきれいだった。クルーズができるボートも停泊していた。

 公園を出て,マクドナルドで朝食をとってから,再びノースダコタ・ヘリテッジ・センターへ行った。着いたのは,午前8時より少し早かったけれど,センターはすでに開いていて,のんびりと展示を見ることができた。アメリカはテロ対策で大変そうに思うだろうが,ノースダコタ州ともなると無防備なくらいのどかであった。
 ノースダコタ・ヘリテッジ・センターは,ノースダコタ州の歴史を4つの時代に分けて展示してある施設で,無料だがかなり豪華で広い博物館だった。
 見終わったとき,受付には,入ったときにはいなかった初老の男の人が座っていた。話しかけると,ノースダコタ州についていろいろと教えてくれた。やはり日本人は珍しいらしい。
 結局,早朝の2時間ほどで,心残りだったビスマルク・ヘリテッジ・センターも見学することができて,ビスマルク市内の観光をすべて終えることができた。
  ・・
 ノースダコタ・ヘイテッジ・センターを午前8時40分に出て,空港に到着した。
 レンタカーを専用の駐車場に停めて,空港の中のカウンタに向かった。空港は閑散としていて,レンタカーのカウンタにも誰もいなかった。9時になって係りの人が来たのでキーを返却した。
 走行距離は950マイル(1,520キロメートル)だった。

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☆7日目 7月27日(金)
 早朝,午前3時に目が覚めた。せっかく目が覚めたのだから星を見ようと思った。きっと10分も郊外にでれば,真っ暗であろう。
 車を,きのう,知らずに走って郊外に出てしまったメインストリートを,きのうと同じように西の方向へ走らせていった。やがて,周りは本当に真っ暗になった。道端に車を止めて外に出ると,そこに広がるのは,まさに,満天の星だった。
 天の川が走り,時々,星が流れた。空と一体となった。
 そうこうしているうちに,ビスマルク方向の東の空がだんだんと白んできて,やがて,夜明けが近づいた。
 日本では,何時間も走って,やっとのことで星空を見ることができるところまで来ても,そこでも大都市の光が地平線付近を照らしている。こんな星空を見ると,もう,日本で星を見に行くことがなさけなくバカらしくなった。

 きょうは,朝9時にレンタカーを返却して,ミネアポリスへ向かうことになっている。いよいよ,ノースダコタ州ともお別れである。
 ただ,心残りがあった。
 「地球の歩き方」には,以前は,ノースダコタ州に関する情報はまったく掲載されていなかったが,2012年のものには,ビスマルクについてわずか2ページではあるが載っていて,観光名所として,ノースダコタ州議事堂とノースダコタ・ヘリテッジ・センターが載っていた。私はまだ,その,ノースダコタ・ヘリテッジ・センターへ行っていない。また,ビスマルクのホームページには,ミズーリ川岸に公園があって,橋をのぞむすばらしい景色の写真があったのだが,そこへも行っていないのだ。
 これでは,なんのためにビスマルクへ来たのかわからないではないか。しかも,もう2度とこの地にこられるとも思えない。
 昨日,夜7時までやっている動物園に5時前に入って時間を使ってしまったことを後悔するが,今となっては時すでに遅い。

 そこで思いついたことがある。
 まだツキが残っているかなと,「地球の歩き方」を見てみると,ノースダコタ・ヘリテッジ・センターは朝8時からやっていると書いてある。9時に空港へ着けばよいのなら,なんとか今日の朝行くことが可能なのではないか?
 ということで,朝6時前にモーテルをチェックアウトして,早速出発することにした。
 が,フロントが開いていない。ルームキーをいれるポストすらない。そこで,部屋が自動ロックでなかったので,部屋のベッドの上にキーを置いて,そのまま出発することにした。
 ここに泊まったことで,マンダンのカントリーミュージックの野外コンサートや,満天の星を見ることができたのだから,これはこれでよかった。
 今回の旅行もずっと幸運続きだった。

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 世界最大のアトランタ国際空港を降り立ち,レッドラインで北へむかうと,やがて,右手に巨大なターナー・フィールド,その向こうに摩天楼が見えてきます。
 ターナー・フィールドは,1996年にこの地で開催されたオリンピックのメイン会場だったところで,オリンピック後に改装されて,アトランタ・ブレーブスの本拠地となりました。
 ニューオリンズがアメリカらしくないアメリカであるとすれば,アトランタは南部らしくないアメリカのようにいわれているらしいのですが,私には,もっとも南部の香りのする,すてきな大好きな都会です。
 アトランタのあるジョージア州は,1776年に独立宣言をした13州のうちのひとつです。

 四半世紀くらい前のことです。
 ラジオNHK第二放送の英会話講座で夏の特集としてジョージア州を取り上げていました。普段と違いテーマソングとして「わが心のジョージア」が流れました。粋な計らいでした。講師の先生が,このまま講座をしないで,ずっとこの曲を聴いていたいですね,と言ったのを今でも覚えています。わたしもそう思いました。こころに染みました。
 オリンピックをきっかけに,あちこちで演奏され歌われたのが,この「わが心のジョージア」でした。この曲はルイ・アームストロングを始め,多くのカバーがありますが,特に,レイ・チャールズの歌でよく知られるようになりました。

 レイ・チャールズはこの歌を,8分の12拍子の,いわゆるリズム&ブルーズ色の濃いもので歌ってヒットしたために,以後このスタイルが定着しました。この歌の「ジョージア,ジョージア,私はあなただけを慕う,懐かしく甘い歌は私にジョージアを思い出させる」という部分を聴いてみると,ジョージアは州ではなく女性の名とも考えられます。
 レイ・チャールズは1930年ジョージア州で生まれました。「私たちの下には地面しかなかった」と語った極貧生活,そして,7歳で失明,15歳で孤児となりましたが,彼の周りには,いつも歌があったそうです。

 1961年,オーガスタのコンサートでのこと。客席が黒人と白人に分けられていることに抗議してキャンセル,このことが原因で州から追放されました。やがて,1963年8月,ワシントンDCに向けての20万人行進で有名なキング牧師の公民権運動があり,1979年にはカータ―大統領がこの歌を選挙の応援歌に採用しました。そうした機運から,1979年にジョージア州は,彼の追放を撤廃,州議事堂にレイ・チャールズを迎えました。その場で彼は,満場の喝采の中ピアノに向かってこの歌を歌いあげました。
 こうして,この曲はジョージア州の州歌となったのです。
 レイ・チャールズの生涯は,映画「Ray/レイ」に詳しく描かれています。
 やはり,この地は,正真正銘のディープサウスです。

  ・・・・・・
 I'll go back to Georgia
 'Cause that's where I belong
 Georgia, Georgia, the whole day through
 Just and old sweet song
  keeps Georgia on my mind
  ・・
 私はジョージアへ帰ろう
 なぜなら,そこは,僕が本当にいるべきところだから
 ジョージア,ジョージア,一日中ずっと
 ただ,懐かしく優しいこの歌がわたしの心に
  ジョージアのことを思い出させるのさ
  ・・・・・・

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 モールは,ラピッドシティにあったモールと同じようなものだったが,ここも人が少なく,閉店している店も多かった。
 その中で,ただ1軒,人が大勢集まっていた店があった。税込7.48ドルで食べ放題・飲み放題の中華料理店だった。
 そこに入ると,フォークとナイフを渡され,あとは,自分で食べたいだけ,飲みたいだけ,という具合であった。
 食べ物をとって,箸があったのでそれを使って食べていると,隣にいた家族の中の初老の人が,箸に興味があって,不器用に動かそうとしていたので,思わず声をかけて,箸の持ち方を教えることになった。おもしろかった。「あとは練習だよ。日本の子供もはじめは親にしかられながらうまくなるんだから」などと。
 時折入ってくる子供連れの客,子供はみんな箸を手にする。アメリカの子供は箸が好きなようだ。
 夕食を終えて,モーテルに戻った。

 まだ,早かったし,気候がさわやかでとても気持ちがよかったので,モーテルから出て,マンダンの,それほど広くないダウンタウンを散歩することにした。
 少し歩いて図書館のある芝生広場に来てみると,野外のステージでカントリーミュージックのライブ演奏をやっていた。みんな,イス持参で聞きに来ていた。老人たちが多かった。
 後ろのほうにベンチがあったので,私も座って聞くことにした。

 芝生が風に揺れ,夕空の下,カントリーミュージックが心地よい。
 何て満ち足りた気持ちなのだろう。
 この国の豊かさ,というのは,こういう精神的なことなのではないだろうか,そう思った。
 コンサートはしっかりと午後9時に終了し,老人たちは,それぞれ,自分たちの車に,座っていたパイプ椅子を片付けて,お互いにあいさつ交わしながら家に戻っていった。

 私は,夜風に吹かれながら,のんびりと歩いて,モーテルに戻った。きっとこの夜のことは,ずっと思い出として残るだろうなあ,ふと,そんなことを感じた。

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 かつて,ニューオリンズはフランス領でした。
 フランスがフレンチ・インディアン戦争でイギリスに敗れたことにより、これらの領土はミシシッピ川を境としてイギリスとスペインに割譲されたのですが,フランスは,秘密の条約でスペインから一旦は領土を取り戻しました。
 その後ナポレオン・ボナパルトが全ルイジアナを破格の1,500万ドルでアメリカ合衆国への譲渡を決めたことによって、フランスの支配は終わりを告げました。
  ・・
 そんなこともあってか,ナポレオンのデスマスク,世界に4個あるうちの1つがガビルド(ルイジアナ州立博物館の一部)に展示されています。ガビルドはナポレオンがジェファーソンにルイジアナを売却する調印を行った議会場です。
 ナポレオンは,ニューオリンズと縁もゆかりもあるわけです。

 ニューオリンズがディープなのは,深南部ということ以上に,このような複雑な歴史や文化が絡み合っているからです。
 知れば知るほど,ディープなこの地の名物のひとつは,ケイジャン料理です。
 アメリカの料理は,どこもそれほど代わり映えがしないのですが,ニューオリンズの料理は異彩を放っています。それは,歴史的にフランス・スペインの植民地時代を経ていること,そして,奴隷制度。そのため,いろんな国の食文化とアフリカ系アメリカ人が持ち込んだスパイス類,それらがメキシコ湾やミシシッピ川でふんだんに捕獲される海産物を材料として融合され入り混じっていることが理由です。

 ケイジャン料理は,香辛料の効いた田舎風の濃い味付けが特徴です。代表的な料理は、ザリガニの濃厚なスープであるクローフィッシュ・ビスク、ザリガニの姿蒸しグローフィッシュ・エトゥフェ、豚肉の腸詰アンドゥイーユなどです。
 ケイジャンとは,17世紀にフランスからカナダの南東部に入植し、アケイディアンと呼ばれていた人々が,その後ニューオリンズの地へ移り住みケイジャン(アケイディアンの訛ったもの)と呼ばれるようになったのが語源だそうです。
 グローフィッシュ・エトゥフェはかなりスパイシーです。味は,ロブスターに似ているのですが少し独特のクセがあります。そのクセを消すために,強いスパイスで茹でられているのです。でも,思ったよりも美味しいです。私は,そう思いました。

 もうひとつの名物は墓地です。ニューオリンズの墓地は美しいのです。
 この街は,海抜マイナス2メートルの土地に形成されていて,その地理的な理由から,水害に悩まされて来ました。近年のハリケーンカトリーナのように,浸水は頻繁に起こるので,遺体を地下に埋めると動いてしまうのです。
 その昔,土に埋めた死体が洪水などで流れ,街を泳いでいるような状態になったそうです。そこで,ここでは土葬でなく,地上に葬るのです。お墓がそれぞれ建物になっていて,その中に棺が納められているのです。
 墓地の多くは街から近い所にあるのですが,治安がとても悪い所だそうです。私も,見たいといったら当地に住む人に反対されました。ガイドブックにも「ひとりで行くな。ツアーで行け」と書いてあるようです。でも,行ってきました。
 そんなこともあってかどうかはは知りませんが,ニューオリンズはアメリカで最もスピリチュアルな街としても有名で,ブードゥー教も盛んだったそうです。バーボンストリートにはそんな怪しげなお店もあるし,その女教祖のお墓や,幽霊が出ると言われるお屋敷を訪ねるミステリーツアーも多くあります。

 そして,3つ目の名物はスワンプです。
 ミシシッピ川の河口の南ルイジアナには,広大なスワンプと呼ばれる湿地帯があって,かつては先住民の交通路,海賊の隠れ場所として使われていたそうです。インターステイツ10も,ニューオリンズの近郊はこうした沼地の上を延々と走っていて,すばらしい景観を味わうことができます。
 網の目の様に広がった水路を小さなボートで探検するスワンプツアーもたくさんありますが,ツアーに参加しなくても,車で少し郊外まで走るとスワンプを散策するコースがあります。スワンプを歩いていると,運がよければ(悪ければ?)ワニに遭遇することもできます。私も,しっかりと子ワニを観察してきました。

 こんな,一見アメリカらしくないアメリカ,でも,ここも確かにアメリカ。これも,アメリカを旅するの魅力のひとつです。
 やはり,この地を訪れることなしに,アメリカを語ることはできないのです。
  ・・・・・・
 とにもかくにも,アメリカのどこを探してもニューオリンズのような街はない。いや,ニューオリンズこそ,アメリカではないのかもしれない。 
  「わが心のディープサウス」(ジェームス・M・バーダマン・森本豊富訳)より
  ・・・・・・

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 ディープサウス,どこか心に響くこの言葉。
 陽気だけれど,どことなく哀愁のただようアメリカの深南部は,重い歴史と蒸し暑い空気が相まって,旅人に,生きていることの大切さと意義を改めて考えさせてくれます。
 テキサス州からIインターステイツ10を東に車を走らせ,ニューオリンズにむかうと,バトンルージュを過ぎたあたりはリバーロードと呼ばれる地域で,多くのプランテーションが現存しています。プランテーションは,かつて,サトウキビの栽培で財を成した地主たちの豪邸で,そのいくつかは現在も保存されて,往年の栄華を今に伝えています。
 南部の独特の雰囲気は,こうした地主たちの栄華とアフリカ系アメリカ人の悲哀が絡み合って作られています。
 こうした人たちの人生は,映画「Driving Miss Daisy」や,98歳にして初めて文字を習ったアフリカ系アメリカ人の自伝「Life Is So Good」を読むと深く感じ入ることができます。

 「Driving Miss Daisy」は,アメリカ南部を舞台に、老齢のユダヤ系未亡人とアフリカ系運転手の交流をユーモラスに描いています。
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 未亡人デイジーと彼女の専用の運転手ホークの奇妙で不思議な関係は、1台の車の中で、しだいに何物にも代えがたい友情の絆を生み出していきます。やがて,いつしか頭がボケ始めたデイジーは施設で暮らすようになるのですが,デイジーとホークの友情は、変わることなく続くのでした。
 ある朝,デイジーの家を訪れたホークは、錯乱しているデイジーを発見します。デイジーを優しく宥めるホーク。そんな彼に対し、デイジーは,
  "You are my best friend."
 「貴方は一番のお友達よ」
と告げるのです。
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 「Life Is So Good」(George Dawson and Richard Glaubman著 日本語の翻訳は「101歳,人生っていいもんだ」忠平美幸訳)のジョージ・ドーソンは,101歳,株なし・銀行預金なし・カード類なし,持っているものは何枚かのシャツとスーツ1着・帽子1個。
 その彼が,シンプルで幸せな人生を語るのです。
 彼は,100歳を過ぎてもユーモアと楽観主義を忘れません。
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  "People worry too much. Life is good, just the way it is."
 「みんなあれこれ心配しすぎなんだよ。人生っていいもんだよ、今のこのままでね」
 10歳のとき,「黒んぼ」なるがゆえに無実の身で幼なじみがリンチを受けたことから,それ以後、権力者としての白人には慎重に接し,白人社会が押しつけた規範をはみ出さないよう注意し,低賃金にも苦情を漏らさず生きていきます。
 勤勉な庭師として引く手あまただった頃,ある大邸宅で昼食が出ました。犬と同じ場所で,犬と同じ食事が提供されたのです。彼はいつもどおり仕事を片づけ,昼食には一切手をつけませんでした。そして,別れしなに雇用主に言ったのです。
 「わしは人間なんです」
  ・・・・・・

 彼の人生哲学であるシンプル・ライフ,楽天性,勤勉,矜持…。
 これは,米国の開拓期の精神と重なります。
 たとえ人生が不条理だとしても,その中でしたたかに生き抜いたこうしたひとりひとりの人生の重さが,南部を訪れる旅人の心を打つのです。

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  ミシシッピ川に浮かぶ蒸気船は「わが心のディープサウス」(ジェームス・M・バーダマン 森本豊富訳)を思い起こします。陽気だけれど,どことなく哀愁のただよう南部の空気に触れると,生きていることの意味を改めて考えさせられます。

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 They told me to take a streetcar named “Desire”, transfer to one called “Cemeteries” and ride six blocks and get off at “Elysian Fields”!
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 「欲望」という名の電車に乗って「墓場」という駅で乗り換えて「極楽」という駅で降りたいの。
  ・・・・・・
 そんなシーンではじまる映画「欲望という名の電車」は,第二次世界大戦の戦勝国アメリカ中の誰しもが,アメリカン・ドリームを夢みた時代の物語です。
 時代の片隅に追いやられた者たち。現実との葛藤,逃避,心の闇、渦巻く欲望と暴力…。
 ニューオリンズ,この街にやってきた一人の女 性。都会の雑踏の中で生きていくにはあまりにも痛々しく繊細な風情のその女性に,ひとりの青年が近づいてきます。そして,彼女はこう道を尋ねたのです。

 ニューオリンズという地をはじめて訪れたとき,この地を知らずに,アメリカを語ってはいけないなあ,としみじみ思いました。
 カフェ・デュ・モンドで出されるベニエの甘い香り,リバーウォークマーケットのケイジャン料理のスパイスの匂い,ライブハウス「プリザベーションホール」のトランペットやジャクソン広場で流れるバンジョーの音,そして,バーボンストリートのどこか退廃した賑わい。そうした華やかな世界のすべてに横たわっているこの街の栄光と苦悩が,旅をする私たちの心を揺さぶるのです。

 ルイ・アームストロングが生まれ育ったのは,そんなニューオリンズの比較的貧しい居住区でした。
 子供の頃にピストルを発砲して送られた少年院のブラスバンドでコルネットを演奏することになったのが,彼の楽器との最初の出会いでした。次第に町のパレードなどで演奏するようになって,彼は人気者となっていったのです。
 彼は,「この素晴らしき世界」で,次のように歌います。
 ・・・・・・
 I see trees of green, red roses too
 I see them bloom for me and you
 And I think to myself,
 what a wonderful world
  ・・ 
 木々は緑色に,赤いバラもまた
 わたしやあなたのために花を咲かせ
 そして,わたしの心に沁みてゆく。
 何と素晴らしい世界でしょう。
  ・・・・・・
 人の強さと悲しさがこの街の歴史と繁栄を支えているのです。
 本当に,世界はなんと素晴らしいのでしょう。

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 動物園に行ったのは,きっと動物園にはレスランくらいあるだろう,そこで夕食をとろうと考えたからだった。
 今日は時差を越えたので1日が23時間だったということと,ビスマルクで道に迷ったことでの時間のロス,このふたつがこの日の計画の妨げになってしまって,すでに夕方になっていた。
  ・・
 ビスマルクの西の一角に広大な公園があって,その中にスポーツ施設やら遊園地やらとともにノースダコタ動物園はあった。
 行ってみると,そこは田舎の小さな動物園だった。一応,トラやラマはいたが,それ以外には,豚や七面鳥,めずらしいけど,家畜のような,そんな動物たちが,やたらと広いオリの中で退屈そうにしていた。
 園内を一周する子供の乗り物のような機関車の形をしたバスがあったので,乗り込んで一周した。しかし,動物園には期待したレストランもなく,まあ,子供の遊び場をすこし大きくした感じだった。
 私はこういう場末の雰囲気は嫌いではない。が,遠い旅をしてきた私が,そうそう時間を費やせるところでもなかったので,午後5時半ごろには動物園を出た。

 こうして,結局,動物園では夕食をとることもできず,他に行くところもすでに遅くどこも閉まってしまっていていた。しかし,まだ明るかったので,ビスマルクというところはどういう都会なのだろうかと,町を地図を見ながらドライブすることにした。
 実際に地図を片手に運転してみると,ビスマルクは落ち着いたこぢんまりとした町であった。
 ノースダコタ州議事堂から西に2ブロック行ったところには,ビスマルクハイスクールという建物と体育館,そして,全面芝生が張られた運動場と野球場があって,高校生用の駐車場には,頻繁に人が出入りしていた。
 また,ノースダコタ州議事堂のすぐ横から,すぐに,木々に覆われた,芝生の庭のある,典型的な普通のアメリカの住宅地になった。
 町の南側のダウンタウンには,病院や商店があった。

 ビスマルクはインターステイツ94が町の北側を迂回するように走り,街を南北に走るステートストリートとインターステイツ94が交差する場所に数多くのホテルとモールがあって,インターステイツ94をそこで降りてステートストリートをそのまま南下すれば,すぐにノースダコタ州議会議事堂とその南のノースダコタ・ヘイテッジ・センターへ行くことができるということがやっとわかった。

 この日,はじめからインターステイツ94をインターステイツ94BUSINESSなどで間違えて降りずに,もっと進んで,次のステートストリートで降りていれば,1時間は早くホテルをとって,そのままノースダコタ州議事堂とその南のノースダコタ・ヘイテッジ・センターへ行くこともできたであろうと思うと残念だった。
 やっとのことでたどりついたのは,ステートストリートとインターステイツ94が交差するところにあったモールだった。そこで夕食をとることにした。

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 次に,ビスマルクへ行き,ノースダコタ州議事堂をめざした。適当に車を止めようと思って場所をさがしたが,この町は,土地にずいぶん余裕があって,議事堂もまわりの駐車場は,どこも自由に車を停めることができた。
 ビスマルクは,町の大きさが手ごろなのである。ノースダコタ州の州都とはいえ,議事堂のすぐ隣から住宅地が広がっているのである。
 渋滞もなく,道も広い。都市として人が暮らすには,これがストレスのない精一杯の大きさなのである。問題は,冬の寒さだろうと思ったが,私が来たのは夏なので,実際のところはよくわからない。

 車を止めた北西側から州議事堂へ入ると,ノースダコタ州の有名人たちの肖像画の飾られた厳粛な廊下に出た。
 案内所があって,聞いてみると,午後3時からガイドツアーがあるという。ガイドツアーの開始には,まだ少し時間があったので,先に一度,セルフツアーのパンフレットをもらって,そこに書いてあったように,州議事堂を自分で回ってみることにした。
  ・・
 案内所のあった廊下は地下の1階で,1階上がると,正面にから左手に下院議会場 -ちょうど,議会をやっている最中だった- 右手に州知事室,その奥に,最高裁判所があった。廊下では,なにがしかのテレビ中継の最中だった。18階の展望台に上がると,ノースダコタ州の大地が遠くまで見渡せた。
 このノースダコタ州議事堂は,大恐慌時代に立てられたので,資金不足からドームがないことで有名なのだそうだが,それでも外観の印象よりずっと内部は豪華だった。アメリカの豊かさと民主主義に対する思い,それと,ある種の権威主義を感じた。

 1階に戻ると,すでにガイドツアーがはじまっていて,数人の人がガイドさんの説明を聞いていた。合流して歩いていくと,最高裁判所の法廷の中にまで入ることができた。
 最後に,また,18階の展望台に上がったところで,ツアーは終了となった。
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 ノースダコタ州議事堂を出て,次に,ノースダコタ・ヘイテッジ・センターへ行こうと思ったが,駐車をしたところがノースダコタ州議事堂の北西側で,その場所はそこからもっと南東へかなり歩く必要があるようで,遠くなっ てしまうし,もう4時30分。とりあえず,車に戻り,動物園へ行ってみることにした。

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 若いころ,吉田ルイ子さんというフォトジャーナリストを知りました。当時,あるテレビ番組で,吉田ルイ子さんがコロンビア大学の留学生として住んでいたニューヨーク・ハーレムでの生活体験を語っていました。しばらくして,同じことを,今度は英語で語っている番組を見ました。なんてすごい人がいるのだろうと感銘をうけました。
 図書館で「写真集ハーレム 黒い天使たち」(写真・吉田ルイ子,文・木島始)という吉田ルイ子さんの出世作を見つけました。この本が欲しくてしかたなかったのですが,そのときはすでに絶版で,出版社にも在庫はありませんでした。同じころに出版された「ハーレムの熱い日々」という本は手に入れることができました。この本を読み,ハーレムに思いを寄せ,なんとか,自分もその地を訪れてみたいと思いました。

 そして10年以上の歳月が過ぎ,ついに,当地を訪れる機会に恵まれました。それは,今から20年以上も前の夏のことでした。
 私が訪れたときは,すでに,黒人暴動の時代は遠く,ハーレムは再開発の真只中でありました。それでも,過去の黒人の苦悩を多くの場所で体感することができました。
 ハーレムの最北端からアポロシアターのある繁華街125丁目まで歩いて南下しながら,遠くにかすんだマンハッタンの摩天楼を眺めると,ハーレムに暮らす人たちにはアメリカの繁栄はとても手に入らない別の世界のように思えました。
 ビリー・ジョエルは「ニューヨークの想い」の中で次のように歌っています。
  ・・・・・・
 I'm just taking a Greyhound on the Hudson River Line.
 ‘Cause I'm in a New York state of mind.
 私は今,グレイハウンドのハドソンリバー線に乗っている
 なぜなら私は心にニューヨークがあるのだから
  ・・・・・・
 ニューヨークに憧れて,グレイハウンドに乗って,マンハッタンに向かうとき、左手に巨大なヤンキースタジアムを眺めながらハーレム川を越え,ハーレムの街並み過ぎて,やがてセントラルパークに差し掛かると,旅人は,星条旗たなびくビル街を目にして、アメリカ合衆国の繁栄と自信を強く実感することになります。

 私は,10年ほど前,写真集「写真集ハーレム 黒い天使たち」を古書として手に入れました。しかも,吉田ルイ子さん直筆のはがきが入っていました。そして,この本は,2010年7月10日,36年ぶりに復刻されました。
 この本を眺めていると,今でも、はじめてアメリカを一人で旅したときのニューヨークのグレイハウンドのバスティーボ(長距離バス乗場)や,ブルックリン橋から眺めたマンハッタンの紫色の夜景を思い出します。
  ・・
 私は,この夏,15年ぶりに,若き日の想いをもう一度確かめるために,ニューヨークへ行きます。でも,あの時登った貿易センタービルは,もうそこにはありません。

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 そこは「TPモーテル」という名のモーテルだった。
 車を止めてフロントに入ると,さきほど洗濯物を運んでいたオーナーらしき気さくなおばさんがいた。「泊まれますか?」と聞くと,「シングルはないけどツインでいいか,それなら高くなるけどなんとかなるよ」というような会話が成立した。
 そんなことを言いながら,そのおばさんは部屋番号と宿泊者の一覧の書かれたノートを見ながら,鉛筆と消しゴムで名前を書き入れては消して,を繰り返していた。
 要するに,このモーテルはコンピュータではなく,最も原始的な方法で部屋割りをしているのだ。「スモーキングかノンスモーキングか」と聞くので,「できれば,ノンスモーキングがいい」というと,困った顔をして,再び部屋割りをはじめた。
 そうこう作業を繰り返すうちに,どうにか部屋が決まったようで,ようやく部屋のキーを渡された。
  ・・
 1階建てのモーテルで私に与えられた部屋は,中に入ってみると,外観とは異なり,なかなか快適であり,ちゃんとバスタブもあってお湯も出て,値段以上に快適なところだった。
 モーテルには空室なしのネオンサインが灯った。

 時間もどんどんとなくなっていくので,とりあえず荷物だけ部屋に入れて,観光に出かけることにした。
 マンダンには,フォート・アブラハム・リンカーン州立公園があるということだった。
 場所を確認すると,モーテルからミズーリ川に沿って南に少し行くだけではないか。
 しかし,走っていくと思っていたよりも遠かった。緑に覆われた川の堤防をずっと走っていくと,やがて,州立公園の馬鹿でかい敷地の入口に到着した。

 この州立公園は,南北戦争で立身出世してインディアンと戦ったジョージ・アームストロング・カスター将軍が最後に住んでいた家やら軍隊の宿舎やらを再建したもので,ものすごく広いところだった。
 ツアーに参加すると,カスター将軍の家の中を案内してくれた。
 参加したツアーには,小学生が5,6人,先生とともに参加していた。アメリカの小学生の姿を垣間見ることができて興味深いものだった。彼らの自由気ままさと積極さから,日本とはまったく別物の教育を受けていることを再認識した。

 この公園の奥にはオン・ア・スランド・インディアンの村というのがあった。これはカスター将軍とは関係ないだろう。偶然,この場所に,昔,インディアンの村があったのに違いない。
 ドーム型の住居が5つ再現されていて,そこでも,ツアーがあった。
 ツアーといっても参加者は私ひとりだったが,ちゃんと説明を受けることができた。
 ツアーの途中,突如,雨模様となったが,すぐに雨はやみ,再び,青空にもどった。

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 その後,再びインターステイツ94にもどり,いよいよビスマルクをめざした。インターステイツ94がビスマルク市街地にさしかかったとき,ここでも,また,ここでもだまされてしまったのが「インターステイツ94BUSINESS」だった。
 要するに,このインターを降りてはいけなかったのだ。インターステイツ94とインターステイツ94BUSINESSはまったく別の道だ。しかも,インターステイツ94からインターステイツ94BUSINESSに入ったとたんに,道路に,EXITの表示があって,この表示にしたがって進むと,インターステイツ94を出ることを意味するのか,入ったばかりのインターステイツ94BUSINESSをなぜまた出るのか,あるいは,このEXITを出ると,再び,インターステイツ94に入るのかなど,わけがわからなくなって,混乱に陥ったのだった。

 そのときは,そういうことであるとも知らず,私はビスマルクに入ったところでインターステイツ94からインターステイツ94BUSINESSに進路を変更してしまったので,道なりに走っていったら,車は,メモリアルハイウエイという名のついたインターステイツ94BUSINESSに沿ってミズーリ川を越えて,やがて,道はビスマルク市内のメインストリートとなって,ダウンタウンへ出てしまった。
 ビスマルクではインターステイツ94に沿ってホテルがあるので,ともかく,ビスマルクに着いたら,まずホテルをさがそうと思っていたのだが,まちがえてインターステイツ94を降りてしまったので,ホテルがなかなかみつからない。
 以前,インディアナポリスで同じ経験をしたことがあるので,事前に調べたり,たくさん地図をプリント遭うとしたりして注意していたのに,そして,こういう状態を避けなくてはいけないことはよくわかっていたのに,まったくもって,今回も同じ失敗のくりかえしである。

 こういうときに,右折は信号が赤でもしてよいというこの国の道路法規が,逆に迷惑な話になる。中央車線をのんびりと走るわけにもいかず,だからといって右側車線を走っていれば今度は信号が赤でも右折できるから,信号で停車して周りを見て場所を確認する,という作業ができないのだ。もう,どこをどう走っているのか,だんだんとわけがわからなくなる。交差点で停止することができず,いつまでも走っていなくてはならなくなってしまう。

 こうなれば,とりあえず,空港をめざそう,と思った。普通,空港の近くにはホテルがあるものだからだ。そこで今度は,空港という表示にそって道を進む。ダウンタウンから数分もすると,空港にたどり着いた。しかし,ここビスマルクでは,空港の周りには一軒のホテルもない。せっかくビスマルクに着いたのに,ホテルも見つからず,ますます,どこを走ればホテルがあるのかわからなくなって来て,だんだんあせってきた。
 やがて,空港の周りの道を一周して,道なりに進んでいくと,はじめと逆の方向となって,ビスマルクのダウンタウンを過ぎ -今にして思えは,はじめに来たインターステイツ94BUSINESSを引き返したことになるのだが- さらに,インターステイツ94に入るインターチェンジもよくわからずとおり過ぎてしまい,ついに,ビスマルク市を抜けてしまった。インターステイツ94BUSINESSは,マンダンのメインストリートと名を変えた。どうやら,ビスマルクの西となりの町マンダンに来てしまったようなのだった。
 そうしたら,そこに一軒,モーテルが見えた。一瞬,ここにしようかどうしようかと迷っているうちに,それも通りすぎてしまい,さらに進むと,さらにもう1軒,モーテルがあった。それも気が進まず迷っているうちにまた通りすぎてしまい,やがて,マンダンのダウンタウンも通り過ぎてしまって,道路は,西へ西へとインターステイツ94に併走する旧道となって,あたり一面牧草地だけの郊外に出てしまった。

 周りに併走する車のいなくなった郊外の道路の端に車を止めて,冷静に考えてみる。
 今どこにいるか,どこを走ったのか。はじめから仕切りなおしである。
 マンダンの2つ目のモーテルに泊まることとする。そこに泊まれば,ビスマルクのダウンタウンは遠くなく,だから,空港も遠くないはずである。もし,そこのモーテルがどのようなものであったとしても,鍵さえかかれば,明日まで無事であろう。
 それにしても,旅行に行く前に調べておいたビスマルクのホテルたちはどこにいってしまったのだろう。狐につままれた気持ちだった。
 調べておいたつもりだったが,もっとしっかり調べておけばよかった。ここはアメリカ,たとえ人口が少ない小さな町であろうとも,道は広く車は多く…。

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 とても素晴らしい本を読みました。「左京区恋月橋渡ル」です。
 家の近くの図書館で予約をしても,待ちがほとんどないし,この小説があまり話題にならないのは,きっと,本の内容ではなくて,本の題名と作者の名前・瀧羽麻子(たきわあさこ)が覚えられないせいなのだと思います。
 私は,この本を,新聞の広告で「恋愛小説の王道」というキャッチフレーズを見て以来気になっていたのですが,実際に読んでみたら,ものすごく,素敵な本でした。おもしろさは保証します。
  ・・
 内容は,著者の出身である京都大学らしき大学に在籍する理系男子、工業化学科の大学院生山根くんの切なくってちょっとホロ苦な恋愛小説です。作品のいたるところに京都の地名や行事が出てきて,京都に詳しい人には,それが,映像となって,浮かんできます。京都をあまり知らない人には,憧れになります。そして,この本に出てくる寮は,なにか,京都大学のあの有名な「吉田寮」のような,そうでないような気がします。

  ・・・・・・
 雨降る糺の森で出会った女性に恋した山根くんは、友人の「花」ちゃんのアドバイスを受けて、恋した「姫」に不器用ながらも自分の想いをぶつけていくのです。山根くんの不器用なのだけれど、その想いと必死さが微笑ましく、ついつい応援したくなります。山根くんの後姿に向かって「がんばれ、がんばれ。」と拳を握り締めて声援を送ってあげたい、そんな気持ちになります。
 私は,もし,18歳にもどれるのなら,京都で,思う存分大学生活を楽しみたい,という欲張りな気持ちが今もあるのですが,その叶えられない夢は,この本を読めば,すっかり実現して満ち足りた気持ちになってしまうのです。
  ・・・・・・

 この本が気に入った人には,さらに,この本に脇役で出てくる「花」ちゃんを主人公にした「左京区七夕通東入ル」という小説もあります。こちらの小説は,大学の合コンに数合わせで参加した花ちゃんが,その合コンで,運命の?恋人「瀧彦」ことたっくん -彼は,4回生理学部数学科出身でおんぼろ寮住まい、数学に哲学するストイックな面をもち合わせている純情な男子なのですが- と出会い,この二人を中心に進められるお話。まさに、純情恋愛小説のなかの恋愛小説です。
 大学生活にあこがれている人も,恋に恋している人も,昔大学生だった人も,せひ,この本を読んで,大学生活と,そして,(なぜか)数学を愛することができますようにと,心から願っています。

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 6月は静かな季節です。そんな京都が好きなのでよく出かけます。幕末の英雄たちを思いながら,河原町から高瀬川沿いに木屋町通を歩くのです。
 梶井基次郎「檸檬」には,河原町にあった丸善京都店が描かれています。この書店にはレモンを置き去る人があとを絶たなかったといわれています。
 丸善京都店は,惜しくも2005年10月に閉店しましたが,2015年の春に再出店が決まったそうです。
 この「檸檬」という作品,「何,つまらん話だよ。青白きインテリが,レモンをひとつ本屋に置いて出て来る。それだけの話だ。」と言った人がいたとかいう話ですが,実際のあらすじは,主人公が買ったばかりの檸檬を爆弾に見立てて,京都のとある書店(丸善京都店)の美術の棚に置いて爆破するという幻想を描いたものです。

 さだまさしは,「檸檬」という曲で
  ・・・・・・
 喰べかけの夢を聖橋から放る
 各駅停車の檸檬色がそれをかみくだく
  ・・・・・・
と歌いました。
 さだまさしは,あの梶井基次郎の「檸檬」の行く末を書きたかったのでしょう。
 聖橋は,東京御茶ノ水にある神田川にかかる橋で,その下を中央線の黄色の電車(今は、黄色と言うより,黄色い線のある電車になってしまいましたけれど)が通っています。そして,この橋を渡ると,巨大な孔子像のある湯島聖堂にたどり着きます。

 孤独な青年の陰鬱な気分を明るくした1個の檸檬は,今,梶井基次郎とさだまさし,ふたりの物語を紡いで聖橋から放られるのです。だから,さだまさしの「檸檬」を聞いてから梶井基次郎を読むと,小説の中に梶井が巧妙に仕掛けた小物たちの映像としての美しさを,たぶんそのまま読んでいたら見逃していたかもしれない絵画としての美しさを,からくりを解くように新鮮に感じることが出来るというわけです。
 その「檸檬」の思いが一杯積もった丸善跡から木屋町通を歩いていくと土佐藩邸跡があり,その付近には坂本龍馬と中岡慎太郎が遭難した近江屋跡,そこを北に三条通に向かって,坂本龍馬寓居の跡にちなんで名づけられた龍馬通を越えると,池田屋騒動の跡や大村益次郎遭難の碑などを見つけることができます。
 わずか150年ほど前,この場所は,そうした若者たちの悲劇の地であったわけです。
 幕末の群像は,司馬遼太郎「竜馬がゆく」や「世に棲む日日」,そして「花神」にいきいきと描かれています。

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☆6日目 7月26日(木)
 きょうは,ビスマルクの観光である。早朝,ディキンソンのセレクトインで軽い朝食(コーヒーとドナッツ)をとり,チェックアウトをして,インターステイツ94を一路東へ,ビスマルクをめざした。
  ・・
 今にして思えば,この旅行は,もう1日日程に余裕があって,ノースダコタ州の東端にある都会ファーゴでもう1泊して,陸路,ミネアポリスへ行けば,完璧だった。そうすれば,ノースダコタ州の他の名所も訪れることができたに違いない。
 他の名所というのは,ファーゴにあるファーゴエア博物館,ダンセスというノースダコタ州のカナダ国境の近くにある町のインターナショナルガーデン,ビスマルクから北に行ったウォッシュバーンという町にあるルルイスとクラーク案内センター,州の北にあるミントにあるスカンジナビアン・ヘイテッジ・パーク,ピックシティにあるサカカウェア湖州立公園,ディキンソンにあるダコタ恐竜博物館などである。
 そして,現地で手に入れたパンフレットによれば,ノースダコタ州には,これらの名所にくわえて,州立公園や野生保護区がたくさんあるらしい。きっと,どこも,のんびりとした雄大なところに違いない。
 出発するときは,ノースダコタに3日もいて,面白いところが何もなかったらどうしようか,と考えていたくらいだったが,結果的には残念なことをした。

 ディキンソンを少し過ぎたら,タイムゾーンの変更の看板があった。つまり,1時間すすめるのである。だから,きょうは1日が23時間しかない。
 インターステイツ94を走り続けていると,ビスマルクへ着く少し前,右手前方の小高い山の中腹に大きな牛の影が見えた。ここノースダコタ州には,巨大モニュメントがたくさんあるということを思い出した。こちらにきたら,それらを探そうと思っていたけれど,実際にフリーウェイを走っていると,あまりに広すぎてそれどころじゃないなあ,と思うようになっていた,その矢先のことであった。

 なにはともあれインターステイツ94を一旦降りて,この巨大な牛の像を目指す。そこはニューセイソンという町であった。
 砂利道を右手の小高い丘に登ると,そこに,その巨大な牛の像はあった。
 家族連れが1組いた。その小高い山の上からの景色もなかなかのものであった。
 ニューセイソンの町には,モーテルが1軒と博物館,それと学校などがあった。

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 やがてツアーが終わり自分の席に着いた。平日にもかかわらず,9割くらいの座席が埋まっていた。
 開始時間までも飽きないようにと,さまざまな趣向があり,やがて時間になったので,国歌の演奏がありそれをみんなで歌って,いよいよミュージカルがはじまった。
  ・・
 ミュージカルの内容は,この地の歴史を劇にしたもので,難しい内容でなく,きっと,英語がまったくわからない人にも十分に楽しめたであろうというものだった。
 本物の馬やらムースも出てきた。日が沈み,だんだんと空が暗くなって,舞台はさらに感動を深めていく。途中に休憩があって,後半には,有名(であろうとおもわれる)コメディアンのジョージ・ケーシーの漫談もあった。
 出演した歌手は12人,それと,主役の女性と年配の男性だった。
 ステージの右手には,6人のメンバーからなるバンドがいて,特に,バイオリンを弾くアンベリー・ローゼンという名の女性がきわめてすてきだった。ずっと踊りながらバイオリンを弾き続けていた。
 最後に花火も上がり,ミュージカルは午後10時30分に終わった。
  ・・
 終演後は,本当に真っ暗なインターステイツ94を30分くらい東に走って,どうにかディキンソンのホテルに戻った。
 アメリカのフリーウェイというのは,郊外では,街灯もなく,本当に真っ暗なのだと思った。

 メドラに2泊すれば,そして,天候に恵まれれば,これら全てを十分に楽しめると思った。とてもすばらしいところだ。観光客はほどほどいるので,閑散としているわけではないし,かといって,ごった返しているということもない。全くストレスを感じないのだ。
 しかし,ここまでたどり着くには,ビスマルクから車で2時間走ってくるか,さもなければ,ラピッドシティから延々と車で3時間北上するか,それしか方法はないから,日本人が観光に来るには,えらく大変なところだ。

 しかし,もし,ラピッドシティを観光した人が,さらにディープなアメリカを知りたいのなら,日本では決して見ることができない,そして,アメリカでもほとんど見ることができない延々と続く大平原をながめながら3時間北上してメドラに行き,ここで2泊して,テオドア・ルーズベルト国立公園とサカカウェア湖とメドラミュージカルを堪能することをお勧めしたい。
 あるいは,2時間のドライブでビスマルクから来ることもできる。
 そうすれば,そして,幸いにも天候に恵まれるのなら,他の人が経験できない,そして,他のどこでも体験できない一生の思い出となる最高の旅が実現することになるであろう。そして,この旅は,人生感をも変えてしまうであろう。
 私がそうであったように。

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 やっとのことで,決心をして,山を下り,再び車に戻った。今だ興奮冷めやらぬ,という状況であった。
 国立公園のループドライブを走って,インターステイツ94を眼下に眺められるスカイラインビスタという展望台からの景色を楽しんでから,サウスユニットのゲートに戻った。ここにはビジターセンターがあって,展示やら少しだけだか土産やらを売っていた。
 結局2時間半以上を国立公園で過ごすことになった。
 国立公園のゲートを出ると,すでに午後6時を過ぎていたので,そろそろミュージカルを見るために,野外劇場にいくことにした。
 劇場は,メドラの町の西はずれにあった。チケットを購入したみやげ物店を過ぎたところを南に曲がると,町に沿って南側に鉄道が走っているので,その踏み切りをわたり,小高い山を登っていくと,広い駐車場に出た。
 そこの先がスキー場のゲレンデのように坂になっていてそこに客席があり,谷を見下ろすような形に野外劇場があった。
 その向こうには,国立公園で見たものと同じ景色が広がっているという,すばらしいロケーションであった。

 駐車場の反対側には,バーベキューをする一角があって,そこがピッチフォースステーキフォンデューの会場であった。
 すでに,肉が大きな棒に差されて焼かれており,準備万端であった。
 客は,フォークとナイフをもらって,自分で好きな付け合せをプレートによそって,最後に肉をもらい,好きな席で食事をする,という按配だった。 
 場内にはステージがあって,そこではカントリーの演奏が行われていた。すずしいこともあり,しかも,景色も美しく,最高の雰囲気だった。
 当日は,老人会の団体が来ていて,思い思いに食事を楽しんでいた。
 100歳になるというお年寄りが紹介されて,みんなで祝福した。
 アメリカでは,こういうことが頻繁に行われている。退役した軍人さんをたたえる,ということも頻繁に行われている。
 こういうのはとてもアメリカらしい。
 この国の人は,どうして,こうも人生を楽しんだり,人生の苦労をねぎらったりすることが上手にできるのだろうかと,いつも思う。

 午後7時30分になって,ステージツアーがはじまった。
 ステージツアーの参加者は20人くらいだっただろうか。
 ミュージカルがはじまる前の客席に集まって,まず,このミュージカルがはじまった歴史やら演目やらといったことの説明を受けた。そしていよいよステージツアーが開始された。
 ステージに案内されて,様々な舞台層装置やらを見ることができた。
 楽屋にも入ることができた。
 楽屋裏には,大道具とともに,当日登場する馬が数頭,おいしそうにえさを食べていた。ステージのあるか向こうの山の頂には,このミュージカルで重要な役割をする生きたムースが1頭いた。

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 貴船神社の奥宮には,次のような話もあります。
  ・・・・・・
 平安初期、嵯峨天皇のときのこと,大変に嫉妬深い公家の娘がいました。その娘は、契りを結んだ男の心変わりに嫉妬し、浮気男とその相手の女を怨んでいました。嫉妬の末、娘は貴船神社に詣でて、七日間籠もり、次のように祈り続けました。
 「貴船大明神、我を生きながら鬼神に成し給え。妬ましいと思う女を取り殺さん」
 すると貴船大明神から次のような示現があったのです。「真に鬼に成りたくば、姿を改め宇治の河瀬に行き三十七日浸れ」そのお告げを聞いた娘は悦んで都へ帰りました。
  ・・
 娘は人気のない場所に籠り、長い髪を五つに分けて五つの角を造り、顔には朱を指し、身には丹を塗りました。さらに頭には鉄輪(かなわ)を戴き、鉄輪の三つの足には松を燃やし、松明を拵へて両方に火をつけ、口に銜えました。そして娘は夜更けの大和大路へ走り出て、南の宇治の河瀬を目指すのでした。
 娘の頭からは五つの火が燃え上がり,顔も身も赤く,さながら鬼の形相でした。
 娘は,三十七日のあいだ宇治の河瀬に行って浸り,ついに生きながらにして鬼となったのです。そして妬ましい女とその縁者,妬ましい男とその縁者のことごとくを殺してしまったのです。
  ・・・・・・
 「宇治の橋姫」と呼ばれるのは,この娘のことなのです。
 これが「丑の刻参り」です。

 貴船神社の奥の宮には,こうした「丑の刻参り」で打ち付けられた藁人形を打った痕跡が,今も,いくつも見つかるということです。
 それゆえ,一般に,丑の刻参りとは,白い着物を着け,髪は乱し,顔に白粉,歯には鉄漿,口紅は濃くつけ,頭には鉄輪をかぶり,その三つの足にローソクを立てて灯し,胸には鏡を掛け,口には櫛をくわえ,履き物は歯の高い足駄とされます。そして寺社の古い神木に憎むべき相手をかたどったワラ人形に五寸釘を金槌で打ち込む姿が典型的な作法とされていて,人に見られる事なく七日間丑の刻参りを行い帰る途中に黒い大きな牛が行く手に寝そべっていると,それを恐れることなく乗り越えて帰るとみごと呪いが成就するといいます。
  ・・
 そんな,知れば知るほど不思議な魅力に溢れた貴船ですが,貴船口から100メートルもを上っていくと「蛍岩」と呼ばれる岩があって,その蛍岩から貴船神社境内にかけて、7月上旬,京都市内よりも1か月ほど遅れて,和泉式部の歌にあったように,源氏蛍、平家蛍、姫蛍…,数えられないほどの蛍が乱舞します。
 ここの蛍は,まるで,和泉式部の願いが天に届けと祈るかのように,高く高く,幽玄に舞い上がって,いつまでもいつまでも飛んでいくのです。

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 子供のころ,連れられて,京都・出町柳から京福電鉄に乗って,よく,鞍馬に行ったものです。京福電鉄は速度が遅く,退屈だった思い出があります。やっとのことで,鞍馬に着くと,今度は,茶店できつねうどんを食べて,そのあと,けっこうな距離を歩いて,山頂の鞍馬寺を詣でるのがいつものコースでした。
 ようやく登った鞍馬寺の本堂の左手には目立たないように奥の院の入口があって,その入口から木の根っこが複雑に絡み合った山道を下ると,やがて,奥の院の大杉にたどりつきます。牛若丸の背比べ石よりも背が低かったころ,大杉は老木が威厳を保っていたのですが,あるとき,この老木が雷だか火災だかで朽ち落ちた姿を見たときは,子供心にかなりのショックだったことを覚えています。
 その奥の院まで行くと,そこから引き返したものでした。その向こうには,なにがあるのだろう。いつもそう思っていました。
 ある日,その向こうには貴船という京の奥座敷があるのだと聞いていて,貴船という不思議な響きとともに,どんな素敵なところなのだろううかと空想するようになりました。

 やがて,齢を重ねると,山々が連なっていて広い道を作ることができないのでいつまでも同じ風景をみせている京福電鉄の車窓からの景色が,とても,贅沢なものに思えるようになりました。京福電鉄は,叡山電車と名を変え,展望電車が走るようになりましたが,そのころから,時折,貴船に足を運ぶようになりました。
 京都の奥座敷・貴船には,貴船神社があります。その周りの川沿いには多くの料理屋さんがあって,夏場には,涼を求めて,川床料理に観光客が足を運びます。
  ・・
 「川床」は桃山時代に京都のほぼ真ん中を流れる鴨川に桟敷を設け、客をもてなしたのが始まりといわれています。貴船の川床は「かわどこ」と読みます。貴船は「京の奥座敷」と言われることから「床(とこ)の間」と同じ感覚で「川床(かわどこ)」と呼ばれるようになったということです。
 夏の休日は,静かな山里も,すれ違うことのできないほどの狭い道に,車が溢れます。そうした雑踏を避けて川床料理を愛でるのであれば,6月下旬の,梅雨時の晴れ間を狙うのが一番です。

 貴船神社は縁結びの神社です。
 「恋を祈る神社」として知られるようになったのは,今から千年もの昔、宮廷の女流歌人として名高い和泉式部が,夫の心変わりに悩んだ末に貴船神社に参詣し,夫との復縁を祈願したところ,願いが叶えられたという話に始まります。
  ・・・・・・
 もの思へば沢のほたるもわが身より
  あくがれ出づる魂かとぞみる
    「後捨遺和歌集」
  ・・・・・・
 詞書に「男に忘れられてはべりへるころ貴船に参りて御手洗川にほたるの飛びはべりけるを見て詠める。」とあります。
 (男に忘れられたことを)思い悩みながら,沢のほたるが点滅し無数にとびちがっているのを眺めていたとき,ふと気がつくと,一匹のほたるがふらふらと身の内からさまよい出たように思われて,はっとわが身に帰って,いま光りながら飛びさっていったのはほたるではなくはわたしの魂だったのだろうかと思った,というこの歌は,和泉式部の作品の中でも傑作中の傑作とも評されています。

 切ない思いをこの歌に詠んで貴船の神様に捧げたところ,御社の中から男の声で次のような返し歌がありました。
  ・・・・・・
 おく山にたぞりて落つる滝つ瀬の
  玉ちるばかりものな思ひそ
  ・・・・・・
 それは,飛び散る奥山の滝の水玉のようにはかなく消えていく(=死んでしまう)みたいに,そんなに深く考えなさるなよ,という貴船の神様のお告げだったのです。その願いが叶って,その後,ほどなくして,再び夫婦円満にもどったと,そのように伝えられています。
 かすかな川の音が響く沢。そして闇の中に飛びちがうほたるの景の美しさ。
 静まりかえった闇の中に立ちつくしている和泉式部の深い憂いとほたるへの幻覚が,幻想の世界を生み出しているのです。

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 ブラームスの最高傑作交響曲第4番の第4楽章パッサカリアが流れる部屋で,音楽評論家・吉田秀和の「音楽展望」(単行本として「たとえ世界が不条理だったとしても 新・音楽展望2000-2004」。「音楽展望」は吉田秀和氏が亡くなるまで,朝日新聞文化欄に連載していました)を読むのは,私にとって至福な時間です。
 私の最も尊敬する吉田秀和という音楽批評家は
  ・・・・・・
 音楽というものはその原点では叫びや感動のうめき声や原初的な肉体と結びついた生動から生まれるものであり,そして,そのことを忘れてはならない。
  ・・・・・・
ということをよく知っていた人で,その人が敢えて「理」について説いているから尊いのです。

  ・・・・・・
 「諦念に満ちた霊妙の世界」が精神と信仰の深遠に至れば,われわれ各自がわれとわが胸にその答えを求めるしかないのであろう。その音楽の残していった沈黙は「およそ音楽から生まれた沈黙の中でも最も深いもの」である。それこそ,われわれが日々聞かされて,感性を鈍らされている,世上の文化的乱痴気騒ぎからは最も遠いものであるにちがいない。
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 こうした本を読むと,俗世の何もかもが,もう,どうでもよくなります。そして,私はパッサカリアに身をゆだねてしまうのです。

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 大学生のとき,図書館で「木村伊兵衛写真集・中国の旅」を見つけ,写真に魅せられました。写真のなかで人が呼吸をしていました。人が生きていました。
 特にすごいなあと思ったのは,北京の動物園で写した写真でした。木村伊兵衛は,パンダを写すのではなく,パンダを見ている人々を写しているのです。しかも,人たちの目はカメラを見ていない。こんな写真がとれるんだなあと,とても驚きました。
 その時の写真集は,出版社にあった最後の数冊の在庫からやっとのことで手に入れて手元にありますが,今でも何度見てもすごいなあ,と思います。

 「木村伊兵衛写真集・中国の旅」を図書館で見つけるより前のことだったか後のことだったか,真夏のとても暑い日のこと,名古屋駅前のデパートで,木村伊兵衛写真展をやっていました(昔の夏は暑くなかったというのは間違いです!)。展示されていた写真はもちろんのこと,それよりも私が印象に残っているのは,本人が使用していたライカが数台展示されていたこと。それらのカメラに,私は魅せられました。とにかく綺麗なのです。まるで,宝石のようなのです。
 木村伊兵衛は1901年に浅草で生まれ1974年に亡くなった日本を代表する写真家です。亡くなるまで,ずっと,雑誌「アサヒカメラ」で「街角から」という連載をやっていました。
 木村伊兵衛は演出のない自然な写真を撮ることで知られていました。ライカを使ったスナップショットは絶品で,東京の下町や銀座とそこに生きる人々の日常をさりげなく写していました。とても感度の低いフィルムを使い,明るいレンズを開放にして浅い被写界深度でソフトに写すので,背景のボケが抜群で、女性ポートレートの名手とうたわれました。
 写真を写すときは何度もシャッターをきらず,さっと近づいて,知らない間にそっと写したということです。
  ・・・・・・
 街をとっているといっても,興味があるのは人間なんですよ。
  ・・・・・・

 今,木村伊兵衛の残した写真を見ても,あのときこの場所でこの写真が写されていて本当によかった,というものばかりです。写真が生きているからなのでしょう。
 私もあこがれて一度ライカを手にしたのですが,むずかしくて断念しました。やはり,人まねはだめです。といいながら,きょうの写真は,伊兵衛さんに敬意を表してモノクロにしてみました。
 もし,木村伊兵衛が今日生きていたら,デジタルカメラをどのように使いこなしたのでしょうか? ライカもデジタル化してしまったとがっかりしていたのでしょうか。いや,新し物好きだったそうですから,「デジカメなんかカメラじゃあねえよ」などという粋でないことはおっしゃらず,人よりはやく手に入れて使いこなしていたことでしょう。「やっぱりデジタルカメラもライカじゃねえといけねえなあ」とか言いながら。

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 ループドライブを少しはなれて,別の道を少し進み,この先までいけるのかな,というような山を登ると,広い駐車場に出た。そこに車を止めると,近くに山道があって,人がふたり降りてくるのが見えたので,彼らの下ったその道を5分くらい登ってみると,この国立公園のもっとも高い地点へ出た。
 突如,360度の絶景が広がった。
 ここが,この旅のクライマックスだった。
 自分がこの公園のなかで一番高いところにいるのだ。
 風が強く,飛ばされそうになりながら,夢中で写真を撮った。
 最高の景色だった。こんな絶景は今まで見たことがなかった。本当に360度の展望,なのだ。地球のてっぺん,なのだ。しかも,この景色は,あるところは地球創世記を思わせるような岩山が続いていて,また,あるところは渓谷がつらなり,また,別のあるところは,侵食した山々がつらなっており,人の創造物はまったく見えないのだ。
 この景色を知らずして,何を語ることができようか。
 この先も,これほどの絶景をみることはないであろう。
 地球が丸いことも実感する。
 以前,グランドキャニオンを見たとき,人間の作ったものは,これに比べれば,なんと情けないものか,と思ったが,ここは,それ以上だった。グランドキャニオンですら360度の絶景ではないし,人が多すぎる。
 どんな山でも,登れば,山頂で360度の絶景をみることはできるが,眼下に人工物のない,それも,これほど変化にとんだ,地球創世記のような,そんな風景は見られないであろう。
 もし,この場所で満点の星空を眺めたら,どんなにすごいことだろうか,とも思った。
 そうして,しばらくこの絶景に浸りきっていたけれども,最後まで他の人はだれも来なかった。
 本当に,地球を独り占めしていた。
 この景色を,いつまでもいつまでも見ていたかった。

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 メドラのダウンタウンを目指し,インターステイツ94を降りる。
 メドラの町は,ちょっとした高原のリゾートタウンのようで,町の端に予想以上にたくさんロッジが立ち並んでいたから,予約をしておけばここに宿泊できたのだ。そういえば,インターネットのメドラのサイトにここの宿泊施設が載っていて,結構手ごろな値段で予約できたので,日本でそうしようか迷ったことを思い出した。
 適当に車を止めて,まず,カーボーイ博物館へ入った。結構大きな博物館で面白かったが,時間がないので,早々に後にする。
 次に,近くに観光案内所があったので,中に入る。午後2時ごろだった。
 メドラの地図をもらい,メドラ野外ミュージカルと国立公園のことを聞く。
 まず,メインストリートの西端にあるチケットを売っているみやげ物店でチケットを入手して,その後,国立公園へ行き,夜,ミュージカルを見ればいい,と言われた。ミュージカルは夜8時半から。国立公園のサウスユニットは1周するのに2時間くらいだということだった。

 みやげ物店へ行って,チケットを購入する。すごく親切にいろいろと説明をしてくれて,ミュージカルは夜8時30分からで,終了するのが10時半。 -きょうのホテルが決まっていてよかった- その前の午後6時半から,ピッチフォースステーキフォンデュー,12オンス(340グラム)のステーキが食べられるのだという。そして,午後7時半からはステージの裏手に上がって,楽屋裏のツアーがある。そのセットを薦められたので,せっかく来たのでそれらをすべて予約することにした。全部で70ドルくらいだった。安い!
 ステーキを食べるのはいいけれど,レストランでひとりだけというのもどうかなあ,と日本で調べていたときに躊躇していたのだけれど,実際に来てみると,そういうものではなく,これは最高の選択だった。

 チケットを入手して,まだ,昼食をとっていなかったのを思い出して,メドラの街中にあった売店でハンバーガーを買って,急いで食べながら,国立公園を目指した。
 国立公園のサウスユニットは,ノースユニット以上にすばらしいところだった。
 ゲートを越えると,はじめにインターステイツ94をまたぐ橋を通る。インターステイツ94自体が国立公園の南端を駆け抜けているのだ。その後しばらく走ると道は二股に分かれてループになる。どちらから進んでも1周できるループドライブだ。道からはどこも見ても360度の絶景で,バッドランド国立公園と双璧だった。
 テオドア・ルーズベル国立公園のよいところは,なんといっても,ほとんど観光客がいないことだ。まさに,国立公園を独り占めにできる状態なのだった。
 途中に,バッファローの群れが住む平原があった。さらに,別のところでは,野生の馬に出会った。また,別のところでは野生の鹿に出会った。挙句の果ては,バッファローの親子連れが目の前に居座り,車が通過できなくなり,しばらくそれがとおり過ぎるのを待つという状況になった。
このときは,さすがに恐怖すら覚えた。いくら高速でバックしても,バッファローの速さにはかなわないであろうから。
 そうして,極めつけは,バックヒルというところだった。

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 東京から鎌倉を訪れるのなら,横須賀線に乗って,北鎌倉で降りて,のんびりと散策するのがお勧めです。この辺りには,多くの文人や文化人の住む静かな住宅街があって,その空気に触れるだけで,多くの名作を読んだり,名曲を聴いたりしたときに感じるのと同じ満ちたりた気持ちになります。
 駅を降りて円覚寺のある通りを横須賀線の線路に沿ってまっすぐ歩いていくと,北鎌倉の谷戸といわれる,明月院にたどり着きます。
 明月院は,鎌倉時代に,八代執権北条時宗が建てた禅興寺というお寺の塔頭の ひとつに過ぎなかったのですが,その後,禅興寺の方が衰退して明治期に廃絶し,明月院のみが残ったということです。 とりわけこの時期は,お寺の境内は青色の紫陽花でいっぱいになります。
 明月院は紫陽花寺とよばれています。 明月院には,青色の「姫紫陽花」とよばれる種類の紫陽花しかありませんが,このことが,むしろ,このお寺の潔さを引き立たせます。紫陽花咲き誇る明月院を訪れると、この鎌倉に住み紫陽花咲くころに亡くなった吉田秀和を想い出します。

 吉田秀和について,丸谷才一は「袖のボタン」というエッセイ集で次のように書いています。(以下,( )内は私の補足です。)
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 前まえから,(私=丸谷才一は)現存する日本の批評家で最高の人は吉田さんだと評価している。…… 
 この数十年間の日本の批評は,小林秀雄の悪影響がはなはだしかった。…… 文芸の実技を抜きにして,いきなり倫理とか政治とか人生とかを扱いがちだったのである。……
 吉田さんの方法はまるで違う。いつも音楽の実技と実際とがそばにある。…… 
 二人の批評家(吉田秀和と小林秀雄のこと)は鎌倉で住いが近かった。そのつきあいの様子が(吉田秀和さんの著書に,次のように)書いてある。
 私(=吉田秀和)の知る小林さんは実に親切で情に篤い人だったが,反面,何とも潔い人でもあった。…… (小林秀雄の)最後の大著は「本居宣長」で,ある日何の前ぶれもなく風のようにわが家(=吉田邸)を訪れた小林さんは「君,出たよ」と言いながら,真新しい本を置いていった。それからしばらくして,お宅に上がった折「やっぱり私にはこの本はわかりません」と申し上げた。せっかくの好意に,正直にいうよりほかないのが悲しかったが。
 そして私(=丸谷才一)は,吉田さんが,「本居宣長」を賞揚する多くの人と違って,宣長をずいぶんよく読んでいることを知っている。
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 この本は,私の知る限り,エッセイの最高傑作のひとつだと思います。はじめてこの文章を読んだときの感動と戦慄を昨日のように覚えています。 吉田秀和を追うように,丸谷才一も亡くなりました。きっと,今,おふたりは,仲よく,音楽談義をしていることでしょう。

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 安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都々思努波牟
  「万葉集」巻2・4448 橘諸兄
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 紫陽花 八重咲く如く 弥つ代にを いませ我が背子 見つつ偲はむ
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 紫陽花の花が八重に咲く様に何代も健勝でいらしてください
 花を見ては貴方様をお慕い致しましょう
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 テオドア・ルーズベルト国立公園は「地球の歩き方」のアメリカの国立公園編にも掲載されておらず,情報のほとんどなかったし,たいして期待もしていなかったが,実際は予想を絶する雄大さとすばらしい景観だった。
 テオドア・ルーズベルト国立公園は,ノースユニットとサウスユニットに分かれている。
 どちらのユニットもビジターセンターのあるゲートから,15マイルほど道が伸びていてドライブすることができる。
 ノースユニットに行くには,インターステイツ94を通るベルフィールドから北に国道85を数時間どんどんと走るか,私がそうしたように,ワットフォードシティから国道85を南に下るしかない。

 ノースユニットのビジターセンターに着いたが,道路ががけ崩れで,ノースユニットの道路はキャプロッククーリートレイルから先が閉鎖されているという。でもそこまでは行けるので,行って引き返してくればいい,とレンジャーに言われた。
 そこで,ともかく行ってみることにした。

 しばらく走っていくと,デイキャンプができるピクニックエリアがあって,それを過ぎると,今度は,ロングホーンという野生の牛の群れがいる平原があった。そのはるか向こうにはバッファローの姿もあった。そこで,望遠レンズでロングホーンの写真を撮っていたバイクに乗った2人組に出会ったので,私はこの地ではめずらしい日本人の観光客で,日本からわざわざノースダコタ州に観光で来たのだけれど,君たちの使っているキヤノンは私の国日本のカメラではないか,といったくだらない話をした。
 その後にすれ違ったのはわずかに数台だった。ここには,人がほとんど来ない。したがって,絶景を独り占めにできることになるのだ。
 これは限りなく贅沢なことに違いない。

 やがて,レインジャーに言われたとおり,道はクローズされ,途中までしかたどりつけなかった。
 ここの駐車場に1台だけ車が止まっていて,キャプロッククーリートレイルを歩いている人がいた。
 途中から先に行くことができなかったのは残念であったけれど,人がいない絶景を堪能したことに満足して,ノースユニットをあとにする。
 今度は,サウスユニットをめざして,国道85を南下した。
 国道85を走っていくと,右手には国立公園の壮大なバッドランド,左手には雄大な牧草地帯と真っ黒い牛の群れ,そして,ところどこに石油を掘る井戸が見えてきた。
 何度も思うが,なんというすごい景色だろうか。

 そんな状態が,この先もこの先も,延々と続いて,そうして,ついにインターステイツ94を通るベルフィールドに到着した。
 インターステイツ94に入ってしばらく西に進むと,メドラという小さな町に着いた。
 この町こそが,ノースダコタ州最大観光地であり,サウスユニットの入り口である。

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 6月初旬,蛍のもっとも美しい季節です。
 蛍のなまめかしい光の乱舞を眺めていると
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 声はせで身を飲み焦がす蛍こそ
 言ふよりまさる思ひなるらめ
    「源氏物語」二十五帖「蛍」
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という玉鬘の歌を思い出します。

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 光源氏は,玉鬘に心が動いている光源氏の弟である兵部卿の宮を迎える玉鬘のいるそばの几帳の一枚を上げ,夕方からひそかに集めて隠していた蛍をいきなり放ちました。
 兵部卿の宮はおびただしい蛍の光に飛びかう中に見てしまった玉鬘の横顔の美しさに魂を奪われてしまったのです。
    瀬戸内寂聴訳「源氏物語」
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 これは,私が,源氏物語の中で,もっとも美しいと感じるところです。
 思った以上の美しさに心を奪われてしまった兵部卿宮は,その想いをこの和歌で訴えるのですが,玉鬘はつれなくあしらうだけなのでした。以来,こうした有様から,兵部卿宮は蛍宮と呼ばれることになるのです。
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 瀬戸内寂聴さんが源氏物語を訳したとき,私は,とても原文では読めないから,これを機会に,一度,それをすべて読んでみようと決意しました。五十四帖を読み通すのには,ずいぶんと時間がかかりましたが,今にして思うにとても満ち足りた贅沢な時間でした。

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