しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

August 2013

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 人生に終わりがある以上,救いはありません。だれしもが老いるということを知るにつれて,あるいは,それに気づきはじめたり,受け入れなくてはならなくなったとき,これを避ける方法はないのです。
 そういうことを認識したとき,はじめて,この映画のラストのシーンがもつ大切な意味を知って共感し,人生の本当の大切さがわかるようになるのです。
  ・・
 この小説は,人が老いたその時に,どれだけ自分が自分らしく,そして,自分の夢を大切持ち続けてこられたか,そして,そのことがどんなに大切なことだったかということをテーマにしたものなのです。

 フランチェスカは,自分の抱いていた夢はかなえられなかったけれど,永遠の愛を手に入れることでそれを実現することができたのです。だからこそ,この小説は人の心を捕えたのです。人の心をこれほど深く描いた小説はほかにないのです。
 映画のラストシーンでフランチェスカが子供たちに残した
  ・・・・・・
 I love you both with all my heart.
 There is so much beauty.
 Go well my children.
 Do what you have to (do),
 be happy in your life.
  ・・
 心から愛しているわ。
 人生には美しいものがたくさんあるの。
 子供たちよ,幸せに。
 人生を幸せに生きるために,勇気をもって。
  ・・・・・・
 この言葉が,フランチェスカの人生をすべて語っているのでしょう。

 当時,日本には「失楽園」という小説がブームになり,映画も作られました。この小説は,不倫をしたカップルが心中をしてしまうというものです。
 私は,この2作の違いは,日本人とアメリカ人の宗教観の違いだと思いました。そして,「マジソン郡の橋」のほうが,はるかに人生を大切に,真摯に,そして前向きに,「生きる」という意味を深く捕えていると思いました。
 だからこそ美しいと思いました。
  ・・
 この映画の撮影は「フランチェスカハウス」を中心に延べわずか42日間で行われたそうです。

◇◇◇
私の訪れた「フランチェスカハウス」は,現在も世界中から観光客が訪れているという話が紹介されていたりします。先日もこの映画がテレビで放映されていて,そういった説明がありました。しかし,実際は,2003年に放火にあい,それ以後,家は残ってはいるものの,残念ながら公開されていないそうです。

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 「マジソン郡の橋」はロマンチックな大人の恋愛を描いたものです。私は,小説の舞台となったこの地を訪れた当時,その最後が,小説ではとても衝撃的だったこと,映画ではとても美しかったこと,そして,ロバート・キンケードが使っていたカメラが日本製の「ニコン」だったこと,そういったことがとても印象に残りました。
  ・・

 この小説が出版されたころ,多くの人が,いろいろな批評をしました。単なる不倫小説だという意見もありました。
 あれからずいぶん年月を経た今,再び,映画を見てみると,この小説は,そういった単なる恋愛映画ではないんだなあ,と思うようになりました。
 当時の批評の多くは,私にはとても薄っぺらいものに思えます。自分が歳をとっていくにつれて,この小説の描こうとしていたことが,だんだんとよくわかってきました。

 夢を抱いた若いころ。いつしかそういった時代を過ぎて,幸せだけど平凡で,日常に追われ,子育てに追われ,自分の夢がかなわなかったと気づくころ。そんなころに突然訪れた出会いと別れ。そして,老いを迎えて自分の人生を振り返るころ。
  ・・・・・・
 女なら結婚して子供を生もうという選択をするわ。そこから人生ははじまり,同時に止まってしまうの。日常生活に追われて,子供たちがひとり立ちできるまで立ち止まって見守る。子供が巣立っていき,さて愈々自分の人生を歩もうとしても歩き方を忘れてしまっている。そういう女にこんな恋が訪れるなんて…
  ・・・・・・
 フランチェスカは,ロバート・キンケードとの別れを決意します。
  ・・・・・・
 だから,一生大事にしたいの。ここを捨てたら,この愛は失われる。心の中の私たちを支えに生きていくわ。
  ・・・・・・
 やっとのことで,彼女は踏みとどまりました。
 彼女の夫は,きっと,妻の満ち足りない思いに気づいていたのです。でも,それを詫びる優しさがあった…。
 これが救いです。フランチェスカが老いを迎えたとき,若き日の自分のかなえられなかった夢は,あの時の4日間の出会いを大切な思い出として心に持ち続けたことで,逆にはかないものではなくなって,永遠に心の中に生き続けられたのです。

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 海岸沿いの道を離れ,インターステイツ95に戻った。
 メイン州では,インターステイツ95は,通称「ニュー・ハンプシャー・ターンパイク」,つまり,有料道路なのだ。その時は,さすが,メイン州,通る車が少ないから有料だ,と思ったが,そういうものでもなく,東海岸では,やたらとターンパイクが多い。
 これまで,ずいぶんとアメリカを走ってきたが,有料道路なんて,フロリダでしか目にしたことはなく,アメリカの高速道路は無料だと信じていた。ただし,有料道路とはいっても1ドルくらいの料金で,料金所の巨大な機械にお金を投げ入れるみたいな,そんな印象しかなかった。
 メイン州で出会ったターンパイクの料金所は,日本と同じようにゲートがあって,日本と同じように係の人がいた。通行料金は,ここは2ドルだった。
 ゲートで係の女性にお金を払おうとしたら,この車は,トールパスをつけているからこのまま行けと言われた。
 そういえば「EZPass」というゲートと係のいるゲートがあった。そうか,トールパスというのは料金所で「EZPass」のほうのゲートを通ればいいらしいのだなあ,これからはそうしよう,と思った。
 レンタカーを借りたときに一緒に借りた「トールパス」というものの使い方をその時初めて理解したのだが,どうしてそれでよいのか,そのシステムが今もってよくわからない。当然レンタカー料金にプリペイドで含まれていると思うのだけれど,どれだけ有料道路を使えば得なのかもよくわからない。非常に便利なことと通行料金が日本に比べれば非常に安価であることだけは確かではあるが。
 帰国してから,ネットで調べているのだけれど,納得いく答えがみつからない。本当に,だれか詳しく教えてください!

 そろそろ,今回の旅で初めてガソリンがなくなってきた。スタンドが何キロもないということがあるので,半分以上なくなったらガソリンを満タンにしないといけない。
 ガソリンスタンドを探して,ガソリンを入れる。
 それにしても,アメリカでもガソリンは高くなったものだ。シェール石油革命とやらは,あれからどうなっているのだろう。
 今年は,1ガロン3.75ドル~4.00ドルであった(写真のスタンドは3.87ドル)。1ガロンは3.78541178リットルなので, 日本円にして1リットル約100円である。昔は30円くらいのものだった。
 それでも,たとえ東海岸が有料道路が多かろうと,ガソリンが高かろうとも,日本で移動するよりもはるかに安価である。そこで思ったのだが,アメリカ人が1人,人生で移動する総距離は,日本人に比べれば,10倍以上多いと思われる。国が広いこともあるが,彼らは,よく動くし,よく食べるし,よく遊ぶ。

 ガソリンスタンドの機械は,料金を支払うのにクレジットカードを通せばよいのだが,これが曲者なのだ。
 機械によって,というか,ガソリンスタンドによって,というか,どちらかわからないのだが,クレジットカードを何度通してもカードを認知してくれないのだ。ほぼ6割は駄目である。違うカードに変えてもだめである。自分のやり方がわるいのかと現地の店員にやってもらっても同じなのだから,私の方法がおかしいというわけでもなさそうだ。
 そうしたときは,お店の中に入って,あらかじめ〇〇ドル,とか言ってクレジットカードで前払いでお金を払って(このときお店の中にある機械はなんの問題もなく作動するから不思議なのだ)からガソリンを入れることになる。支払った料金までガソリンが入らなかったときは,再び店内に入ってお金を戻してもらうことになる。
 トールパスもよくわからないが,このクレジットカードのことも,どうも,よくわからない。インターネットにもつまらない情報やら同じような情報は氾濫しているのに,こういうことはどこにも書かれていない。
 世の中についていけなくなった老人の気持ちがよくわかる。

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 セーラムで魔女博物館を見てから,朝食を抜いたことを思い出し,マックがあったので,朝昼兼用で食事をとった。
 セットを頼んだが,フライドポテトやアップルスライスなどを選べとか言われて,そんなん日本にないし… とわけわからなくなった。いい加減注文した自分も店員もいやになって,でも,なんとか食事にありついた。
 そうして,一応,おなかを満たして,いよいよ,北上を開始した。

 はじめは,ここから100キロメートルくらい大西洋岸をインターステイツ95ではなく,海岸線沿いに風光明媚な州道1を北上して行くと,メイン州ポートランド(オレゴン州のポートランドはここメイン州ポートランドから名前をとったもの)に着くので,ここで,2時から,マイナーリーグ「ポートランド・シードックス」の野球を見る予定であった。
 そして,その後,300キロメートル先のバーハーバーへ行けば,午後7時には今日の宿泊地に到着する,そんな計画であった。

 セーラムで駐車に戸惑って,予定より時間が1時間遅れている。しかも,それならそれで,朝,間違えて北上しかかったインターステイツ95に乗ってどんどんと北上してポートランドへ行けばよいものを,州道1に未練があって,インターステイツを降りたあたりから,どんどんと予定が狂ってきた。

 優柔不断なのだった。しかも,すでにメイン州に入って州道1を進んでいると思っていたのだが,走っているところはそれよりも南で,まだ,マサチューセッツ州とメイン州の間のニューハンプシャー州だった。そして,それからもうしばらく走って,やっとメイン州に入ったころに到着した海岸の町はそれよりもはるかに北のジョージ・ブッシュ元大統領の別荘のあるケネバンクポートだと思いこんでいた。
 実際は,この町はそれよりも南のヨークハーバーであった。
 このように,州道1に沿って走る海岸道路は,予想以上に車が多く,自分の予定した時間では距離が稼げないのであった。しかも,あせっても,海岸は海水浴場で,路上駐車だらけ,人だらけ,で,なかなか前に進まない。こちらの人はせっかちでないので,一般道路では非常な安全運転で,対向車やら歩行やらに気をつかってのろのろと進む。
 これでは雄大な大西洋を眺めながら快調にドライブ,などという話ではない。こうなったら,いっそアメリカの海水浴場を見てみよう,ということになって,やっと見つけた駐車スペースに車を停めて,海へ向かった。海水浴場では,海岸線に沿って,片側のみ,車が停められるようになっていたのだが,ほとんど車が停まっていて停める場所がなかなか見つからない。駐車できない陸地側は,立派なホテルやらレストランやらが並んでいる夏のリゾート地であった。
 まあ,雄大なことと芋を洗うみたいに人がいないことをのぞけば,江の島と大差ない景色なのだけれど,その,雄大さと人が少ないということが,日本では手に入らない。このような場所で,日本人がひとり,水着を着ているわけでもなく,カメラを片手に海岸を散歩している図なんて,ありゃしない。

 日本でも,海水浴場は子供のころ以外行ったことがないので,今はどうなっているか皆目わからないが,こちらでは,ほとんどの人は,巨大なパラソルの下,ごろりと横になって,のんびりと海を眺めているだけのようだ。私には,わざわざ裸になって有害な紫外線を浴びにくる意味が,お金を出して有害な煙草を吹かす以上に,よくわからない。でも,何もしないでのんびりするということの素晴らしさはよくわかる。
 最近知ったことだが,フランスでは,バカンスをとることが人間としての権利だということで,1年で5週間のバカンス休暇を取ることが法律で決められている。その間,家族でリゾート地へ出かけてのんびり何もしないで過ごすのだそうだ。こういうことを書くと,日本人は,だから遊んでばかりいるのでフランスの経済は… などと言い出すのだろうが,海外では,日本人は,死ぬまで働き続けて,車やカメラを作っている仕事中毒の気の毒な国民とうわさされている。いや,噂ではない。アメリカを旅行していると,直接,そのように言われる。

 そんなこんなで,ひとりで,雄大な大西洋の景色をのんびりと眺めるという夢はあきらめ -この夢はあとで思いがけず実現する- 気を取り直して,混雑する海岸道路をやっとのことで脱出して,なんとかインターステイツ95に戻って,ようやく,一路ポートランドに向かうことになった。

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 小説の中でロバート・キンケードが撮影をするために訪れたという有名なマジソン郡の屋根付き橋は,インターセットの周りを取り囲むように約40キロメートルに渡って6個散在しています。
 フランチェスカハウスから未舗装の道をまわりの平原を眺めながら走っていくと少し起伏が現れ,やがて小川と木々に囲まれたところに来ると,「シーダーブリッジ」が見えてきます。
 「マジソン郡の橋」でロバート・キンケードがフランチェスカに花を贈ったという一番有名なローズマンブリッジは,フランチェスカハウスからは40キロメートルも離れていて,小説で想像するよりも距離があります。

  ・・・・・・
 If you’d like supper again
 when ‘white moths are on the wing’ come
 by tonight after you’re finished.
 Anytime is fine.
  ・・ 
 白い蛾が羽を広げるとき,
 もう一度夕食においでください…。
 いつでもお待ちしています。
  ・・・・・・

 そう,フランチェスカがもう一度ロバート・キンケードに会いたいという思いで手紙を貼った橋です。
 この橋には結構多くの観光客がいました。年をとった女性が何を思ってか懐かしそうにじっとながめていました。
 「カトラードナヒューブリッジ」は,インターセットの公園の中にセットのようにありました。「ホリウェルブリッジ」はその向こう,そして,「アイメスブリッジ」は舗装された道からも見ることができました。もうひとつ「ホッグバックブリッジ」があるのですが,は少し離れていたので,行くのを断念しました。
 インターセットは,映画の中で一番美しい,思い出に残るシーン,一度はロバート・キンケードと別れたフランチェスカが,再び姿を見かけたロバート・キンケードが車で立ち去るのを,涙を流しながら見送るシーンで出てくるガソリンスタンドのある小さな町(映画の中では雨がふっているのですが,あの雨は晴れている日の撮影で演出上降らせたものです。)です。ガソリンスタンドは実在します。
 インターセットには,映画「駅馬車」などに出演した名優ジョン・ウェインの生家もありました。
 それにしても,日本人の感覚からは,小説を読んだときに想像していたよりもずっと広いところだなあと思いました。

◇◇◇
このブログで何度か取り上げた吉田秀和さんの「名曲のたのしみ」の過去の録音から再構成した「吉田秀和が語った世界のピアニスト」という番組が,8月26日月曜日から30日金曜日の午前10時から午前11時にNHKFMで放送されています。これを聴くと,自分の精神が引き締まります。やっぱりいいなあ。

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 今から20年前,ひとつの小説が世界中で話題になりました。「マジソン郡の橋」(「The Bridges of Madison County」 ロバート・ジェームズ・ウォラー著)。映画も作られ,世界的に大ヒットしました。
 この小説の舞台は,アイオワ州マジソン郡ウインターセットでした。
  ・・
 「マジソン郡の橋」は,単調な生活を送っていた専業主婦フランチェスカが,夫と2人の子供が4日間の旅行に出かけたとき,マジソン郡の屋根付き橋の写真を撮りに来たロバート・キンケードに道案内をしたことがきっかけで恋に落ち,家を捨て,キンケードのもとに走るかとどまるかという葛藤の末,4日間の出会いを永遠の思い出に別離の道を選ぶ,という物語です。
 小説は,フランチェスカの葬儀で子供たちが母の日記を見つけ,自分たちの知らなかった母親の一面を知るところから始まります。
「私が死んだら,灰にして,ローズマンブリッジから空に撒いてほしい…」
 意外な遺書に戸惑う子供たち。でも,母親の私記を読んで,母親の人生に理解を示すようになっていきます。そして,自分たちの人生をもう一度やり直そうと決意する…。

 1998年のことです。
 シカゴからミルウォーキーを経由してアイオワ州の州都デモインまでドライブをしました。そのとき,デモインの近くに「マジソン郡の橋」のロケ地で話題になったウインターセットという町があることを知って,立ち寄ることにしました。
  ・・
 デモインを通過してインターステイツ35を南下すると, EXIT35の手前で,「ウインターセット」の表示がありました。地図を見ると,ウインターセットはもっと南なんだけれど… と思いながらも,そこで,インターステイツを降りました。
 このことが幸運を呼びました。
 しばらく走って行くと,偶然「フランチェスカハウス」という表示を見つけたのです。
 マジソン郡の橋の小説は読んでいたものの,ロケをしたフランチェスカハウスの場所は知りませんでした。きっと,何かの偶然が私をここに導いたのでしょう。
 アメリカを旅行しているとこういう不思議なことがしばしばあります。
 表示に従って道路を曲がると,未舗装の道がまっすぐに続きました。「ああ,これこれ,映画で出てきた道だ。」そう思いました。すると,道の左手にあの,映画で見た家がありました。
 外に高校生くらいの男の子がいたので挨拶をすると,「家の中にも入れますよ」。そこで,5ドルの入場料を払って見学しました。
 高校生くらいの男の子はこの家のオーナーであるおじさんの息子さんらしいことがわかりました。オーナーである丸顔のおじさんがゆっくりと丁寧に説明をしながら,家の中を案内してくれました。
 「マジソン郡の橋」の映画をクリントイーストウッドが作ったとき,ここにあった古い家を改装して映画のセットにしたということです。煙突はフェイク,部屋の暖炉も急ごしらえだけれどわざとペンキをはがして古く見せて,などなど,映画のあのシーンはこのところでこうして,と,ジェスチャーたっぷりの説明でした。私は,そのときまで,本を2回読んで,さらに原書で1回読んで,映画館とビデオで映画を2回も見てきたから,あの映画に出てきた食堂を見ては感激,あのバスタブに実際に入ってみては感激,感激… でした。
 出演者や筆者のサイン,世界中から寄せられた手紙もありました。

 アイオワ州は「ハートランド」と呼ばれます。一面のトウモロコシ畑に,まっすぐに続く道。そのちょうど中央に州都デモインがあり,その南西50キロメートルくらいのところにインターセットという小さな町があります。そして,フランチェスカハウスはインターセットの町の北東20キロメートルくらいのところの、のどかな場所にありました。

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 セーラムの魔女裁判とは,この地で,1692年3月から始まった一連の裁判のことである。
  ・・・・・・
 当時の女の子の生活には何の楽しみもなかった。そこで,楽しみを求め牧師の娘ベティと従妹のアビゲイルは親に隠れて降霊(亡者の霊を呼び寄せる魔術)会に参加した。
 その最中に,アビゲイルが悪魔憑きという奇妙な行動をとるようになった。降霊会の参加者であった他の女性たちも次第に床をのたうちまわり悲鳴をあげるという異常な行動をとるようになった。大人たちはこれを「魔術にかけられた」と考えたのだった。
 ベティの父である牧師は黒人の使用人ティチューバを犯人として疑い,彼女を拷問し,彼女からブードゥーの妖術を使ったことを自白させた。次に,参加した娘たちを詰問したところ,娘たちは,立場の弱い3人の女性の名前を上げた。
 ティチューバも罪の軽減をえようと悪魔からの契約を認め,「他にも悪魔と契約をした人間がいる」と,求められるままに証言をしたのだった。そのためにさらに100人を超える5歳の少女から80人の老婆まで村人が次々と魔女として告発され投獄され,有罪を宣言された被告は順次絞首刑に処せられた。
 やがて,周囲から裁判に疑問の声が高まり,この騒動が終わったのは1年後のことであった…。
 これは集団心理の暴走の例として,現代でも著名なできごととして有名である。
  ・・・・・・
 この様子をモニュメントの中で再現しているのがセーラムの魔女博物館である。

 受付で,日本から来たが以前来たことがある人に薦められたと言ったら,うれしそうだった。
 ショーは30分おきに始まる。まず,受付で入場料を払い,ショーの予約をした。時間になると,隣の入口から中に入る。そこは広い会場になっていて,中央の広場の好きなところに座ると,やがて,会場が暗くなって,壁の周りの高いところに作られたいくつかのシーンに順々にライトがあてられて,上記のようなナレーションが流れる中,魔女裁判の様子が説明されていく。中央に座った我々は見上げる形でそれらを見まわしていく。私は,日本語の流れるカセットのウォークマンを貸してくれたので,それを聞きながらショーを見ることができた。撮影禁止なので私の写した写真はありません。
 そのショーが終了すると,次の会場に移った。そこでは,魔女に関した様々な展示があって,ガイドさんの説明付き(英語)でそれらを見学することができた。日本のパールハーバーも魔女狩りと同様に集団心理の暴走の例として扱われていた。最後の部屋は,土産物売り場であった。
 午前11時からショーが始まって,すべてを見終わるのに約40分くらいかかった。
 伊賀上野へ行って忍者屋敷へ行くようなもので,セーラムへ行けば,この博物館を訪れるのが定番なのであろう。魔女とか忍者とか,みんな興味あるからね。
 例えは悪いが,魔女博物館は高校や大学の文化祭の展示をおおげさにしたようなものであった。感想は,まあ,そんなところだ。結構面白かったけれど。私は,劇でもやるのかと思っていたが,そうではなかった。
 セーラムは,このように,当時この地で起こった魔女裁判を売り物にした観光地で,他に,魔女の地下牢博物館,魔女裁判の裁判官が住んでいた大邸宅などが公開されていた。夏休みで,ボストンからも近いので,家族連れや団体客など,多くの観光客でにぎわっていた。

 ここも,ゆっくりまわればたっぷり1日過ごすことができるところであったが,私には時間がなかった。魔女博物館だけを見て,セーラムを離れたのは12時過ぎであった。
 さて,これから400キロメートル以上走って,きょうの宿泊地であるバーハーバー近郊のエルズワースまでたどり着かなくてはならない。
 いよいよ北上開始である。天気の良い蒸し暑い日であった。

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 ボストンを周回するインターステイツ95はちょうど時計の12時のあたりにあるジャンクションで北上していく。したがって,セーラムへ行くために東に向かうには,このジャンクションでボストンの周回を受け継ぐ州道128に乗り換えることになる。この道は通称「ヤンキーディビジョンハイウェイ」という。
 地図を見るとこういうことは明白なのだが,実際に運転してみると,よく注意して道路標示を見ていないと(とはいっても,標示が指し示す地名など,よくわからないことが多い),ジャンクションで「自然に」走ってインターステイツ95を北上していってしまう。
 きっと,日本からの旅行者がアメリカで初めて車を運転するとき,こういうことがもっともむずかしいであろう。なにせ,一旦間違えて別の道に入ってしまうと,戻るのがものすごく難しいのだ。当然,次のジャンクションまでインターステイツではUターンはできず,また,次のジャンクションははるかに遠く,たとえそのシャンクションで降りても,今度は逆向きの道の入口を探すのが難しかったりするのだ。要するに,すべてが広すぎるのだ。
 ということで,まあ,いつものことではあるが,私はここで間違えた。

 州道128に乗り換えず,インターステイツ95をそのまま北に進んでしまったのだ。かなり行ってから気づいた。インターステイツ95でいいと思い込んでいた。
 次のジャンクションまで行って,そこで降りて,95を南に戻ろうとした。ジャンクションを出て流入する道に入るとき,今度は方角を間違えた。南に行くはずが北に行ってしまった。Uターンができないものだから,仕方なく巨大なトヨタの販売店に入り込んでその中をくるりと回ったりしながら,なんとか正しい方向にたどりついた。このように,わけのわからない状況の中,半分パニックになりながら,それでも何とか車を停めて地図を見ながら考えるに,別に95をもどらなくとも,今走っている州道114(「アンドバー・ストリート」)を南東にそのまま下れば,そのままセーラムに行けることが分かった。
 いつものことではあるが,そうこうしているうちに,どうにか,目的地をめざして進むことができた。
 やがて,セーラムのダウンタウンが見えてきた。道は州道107に名前が変わった。このようにして,私は,州道107を北西から南東にセーラムのダウンタウンに向かって入って行った。そして,セーラムに差しかかると州道107は進路を北東に変えて進んで行く。しかし,そのまま州道107を走っていくとセーラムのダウンタウンが右手眼下にあるのにそれをバイパスして過ぎてしまうので,ダンバースリバーという川に架かる橋を渡らずにその手前で右折して,ダウンタウンに下っていく必要があった。そのまま直進すると,セーラムのダウンタウンを通りすぎて北上していってしまうのだ。
 アメリカをドライブした経験のない人が読んでもなかなかイメージがわかないと思うが,こちらの都市は,たとえ人口が数万人くらいの小さな都市であっても,ばかに広く,道も広く,路上駐車もできないので,道路を間違えると,車を停めて調べることすら大変なのだ。
 橋の手前に「セーラムコモン右」という標示があったことは気がついていたが,めざす魔女博物館がセーラムコモンにあることを知らなかった。なさけない。
 一度,そこを行き過ぎ橋を渡ってしまい,ダウンタウンを通り過ぎたことをその後で知って,なんとかUターンをして,今度は,橋の手前まで戻ってきたのに,左折(戻ってきたので今度は右折でなくて左折)する道に気づかず,また行き過ぎてしまい,あわてて車線を変更しようとして,後続車にクラクションをならされ(カムリは左斜め後ろが死角になって非常に危ない),まあ,そんなこんなで,何度か同じ道を行ったり来たりしながら,なんとか,セーラムコモンという広い公園に到着した(スゴイ!)。そうしたら,すぐ目の前に,魔女博物館が見えてきた。
 このように書くと,いい加減に旅をしているように思われるかもしれないが,これでも事前にずいぶんと調べてたくさんの資料と地図を持って旅をしている。それでもはじめはよくわからない。 

 やっと魔女博物館に着いてはみたものの,予想とは違って,ここもすごい人と車で,路上の駐車スペースは一杯,車を停める場所を探すことすら大変であった。魔女博物館の正面の駐車スペースには大型バスがドカンと駐車していた。どこか駐車できるとことがないかと何回もセーラムコモンの周りを走ったが,停めることができる場所は皆無だった。そこで,一旦離れて,閑静な住宅地に入ったら,急に静かになって,今度は,いくらでも路上駐車ができる場所に出た。ところが,そこに車を停めて,周りを見渡すと,住居者以外の駐車は禁止という標示があった。そして,駐車してあったすべての車を見ると,すべての車には駐車許可証が貼ってあった。アメリカでは,駐車違反はすぐに取り締まられる。
 そのように,車を駐車することさえできず,車一台の処遇にほとほと困り果てて,魔女博物館へ行くのをあきらめかけた。そして,もう,セーラムから出ようと少し先まで走って行くと,ダウンタウンから少し離れたところにビジターセンターがあって,その横に,やっと,公営の駐車場ビルを見つけることができたのだった。
 駐車料金は1時間1ドル程度のものだった。

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 私は,地上波の民放のテレビ番組を,ほとんど見ません。よって,コマーシャルもまず見たことがありません。
 まれに,何かの番組を見ると,コマーシャルの洪水の中に,わずかに番組があるようで,見る気を無くしてしまいます。たとえ報道番組であっても,実は,内容なんでどうでもよくて,コマーシャルを見てもうらうのが目的だということが見透かされてしまうような気がします。
 今の時代,不特定多数にコマーシャルを見せても効果ないんじゃあないか,残念ながら,こうした形態のメディアは,もう,限界なのではないかと思います。
  ・・
 ところで,昨年の3月,私の見ていた数少ない番組が,これでもかこれでもかと終了しました。
 見ていた番組というのは,「N響アワー」「週刊ブックレビュー」「日めくり万葉集」,これはNHKFMの番組ですが「気ままにクラシック」です。
 特に「N響アワー」は,その終了について,あまりに多くの批判があって,この4月に,また,別の形になって事実上番組が復活しました。私は,この番組の終了については,NHKの読み誤りに原因があると思います。
 まず,終了の仕方がまずかったのです。数週間前の予告だけで,突然,終了してしまいました。よって,声なき人の心を踏みにじりました。しかも,後続番組がよくなかったのです。
 「ららら…」という番組は,12月に一度特番があって,それを少し見た私は,なんだこりゃ,と思い,最後まで見る気をなくしました。司会の石田衣良という人は,好き嫌いがあるでしょうが,私は,はじめ,好感を持っていました。ところが,「週刊ブックレビュー」の終了少し前にゲストで登場したとき,彼は,自説を延々と披露し,他のゲストを不快にし,場をしらけさせてしまったのです。見るに堪えないという状況でした。私は,一度に嫌いになってしまいました。そのあとすぐの起用です。
 改編するならば,まずは,「N響アワー」と「ららら…」を1週間交代くらいでやればよかったのだと思います。そうすれば,あんな騒ぎにはならなかったと思います。あの終了の仕方は,NHKの良心といわれた番組の終わり方ではありませんでした。これまでこの番組を心を込めて育ててきた人たちの気持ちを土足で踏みにじるものでした。
 がっかりした私は,N響の定期会員を辞めました。
 その時,その陰に隠れて,でもありませんけれど,ひっそりと,しかも突然「週刊ブックレビュー」という番組が終わりました。あの番組は,児玉清さんあっての番組だったから,児玉さんが亡くなったのが番組終了の理由なのでしょうが,番組のすぐれていたところは,作家さんがゲストで出演して,自作について語るということでした。
 この番組がなくなって,作家さんの生の声を聞くことができる番組がなくなってしまいました。そのことがとても残念でした。
 最近,BS11で金曜日の夜10時から放映している「宮崎美子のすずらん本屋堂」というすばらしい番組を見つけました。
 この番組の魅力は,何といっても,さまざまな作家さんが毎週登場して,いろいろな話を聞かせてくれることです。自作についてそれを書いた人の生の声が聞けるというのは,なんという贅沢なことなのでしょう。
 この番組には,主張があります。媚びていないところがとても素敵です。
 きっと,視聴率なんてほんのわずかなのでしょうが,あるいは,あまり有名になってしまっては,今のようには番組が続けられなくなってしまうかもしれませんが,ずっと,放映を続けてほしいものだと願っています。
 番組がどんどんと民放化して視聴率を重視し始めたNHKが失った良心が,この番組にはあります。

◇◇◇
暑い毎日にさわやかな話題です。
イチロー,待望の日米通算4,000本安打をエイミーさんの目の前で達成。おめでとうございます(写真は3,980本目の三塁内野安打です)。DSC_1769s

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 レキシントンは,レキシントンコモンという公園を中心に歴史的名所があるのだけれど,レキシントンという町に着いても,レキシントンコモンがどこにあるのか見当がつかない。GPSにもレキシントン〇〇という表示は山ほどあって,そのどれもがレキシントンには違いがないが,私の目的とする場所がそのうちのどれなのかわからなかったのだ。見晴らしが良ければいいが,町が狭ければよいが,どこかしこも高い緑に覆われ,高級住宅地で,車のほとんど通らない清楚な道路は美しくカーブを描き,道路標示もない。
 日本のように,とりあえず都心に走っていけばなんとかなる,というものでもない。
 もう一度車を停止させて,GPSにレキシントンコモンと入力したら,かなり時間がかかって,やっとレキシントンコモンを探り当てた。その場所は,そこからほんの数キロ先にあった。
 レキシントンコモンは,アメリカ独立戦争の第1発めの銃砲が発せられたところである。
 レキシントンコモンにさしかかると,「地球の歩き方」で見たことがある写真と同じ景色が広がっていた。やたらと広い公園では,子供たちが球技に興じていた。そこは歴史の重みというより,きれいに整地された一角であった。
 ここで有名なのは,レキシントンコモンの周りにあるミットマンの像,独立軍の本部として使われた居酒屋(バックマンタバーン),独立戦争の英雄ポール・リビアが駆け込んできたハンコッククラーク邸などで,それらを見学するにはそれぞれガイドツアーがあるのだが,まだ,朝早く,ツアーは始まっていないので参加できなかった。ここを見学するだけで,1日たっぷり過ごせそうだったが,私は先を急がなくてはならなかった。
 レキシントンコモンの周りは観光用に2時間は駐車無料のスペースになっていたので,車を停めて公園を1周した。素敵なところだった。
 きっと,アメリカの歴史をよく知っていれば,兵士の躍動する姿が浮かぶのであろう。
 旅をして,同じ景色を見ても,感動できるかどうか,それが,人生の豊かさというものであろう。私も,いつも感動できるような勉強がしたいと思った。

 レキシントンはこれくらいにして,次に,コンコードに向かうことにした。
 GPSにコンコードを検索させて,言われたままに車を走らせた。
 コンコードにつながる道路は,片側1車線の森林の中を通り抜ける道路であった。この道路は歴史的に有名な独立戦争につながる道だということで,右手はずっと広大なミニットマン国立歴史公園であった。数十分でコンコードのダウンタウンに到着した。
 コンコードは,規模が小さい原宿の表参道のようなところだった。というか,ダウンタウンは,レストランやしゃれたアクセサリー店が立ち並び,道路は路上駐車でいっぱいだった。
 そういえば,きょうは日曜日であった。だから,レストランは,家族連れで朝食を楽しむ人たちでいっぱいだったのだ。私も,まだ,朝食を食べていなかったことを思い出したが,レストランが混んでいたことと,ここでゆっくり食事をする予定ではなかったので,我慢することにした。
 レストランを外から眺めた風景は,幸せそうな一家が,日曜日の朝食を楽しんでいる様子であった。ここは,観光地ではなくて,日常のショッピング街だった。だから車を停めるのも大変な混雑だったのだ。
 少し行ったところに博物館があって,その横が広い駐車場になっていたので,そこに車を停め,町を散歩した。
 そうして少し歩いただけでも,町の中心部には大きな教会やら歴史のある墓地(スリーピーホロー共同墓地)があって興味深かった。その奥のミニットマン国立歴史公園にはレキシントンの挙兵を知らず,独立戦争の別の最初の銃声が轟いた橋(オールドノース橋)であるとか,ポール・リビアが馬に乗って駆け付けた道であるとか… そういった史跡があるということだったが,よくわからず,広く,残念ながら行くことができなかった。

  ・・・・・・
 Shot heard 'round the world 
 一発の銃声が世界を変えた
   ラルフ・ワルド・エマーソン「コンコード賛歌」
  ・・・・・・

 さらに,南北戦争の時代,ルイーザ・メイ・オルコットの「若草物語」が書かれたオーチャードハウス(「果樹園」の意)もあった。ここでも,詳しく歴史をよく知っていれば,もっと感動できたことであろう。私はもっと知恵がほしい。
 ふと,京都を訪れる外国人は,いろいろな史跡を見てどういうふうに感じるのだろうか,と思った。
 二条城とか金閣寺(鹿苑寺金閣)とか,外観を見るだけで,大きいなあ,とか美しいなあと納得できるものはそれでもよいが,たとえば,伏見の寺田屋へ行って,坂本龍馬の姿が浮かばなければ,ただの古い家に過ぎないわけで,そうしたものを見て何を思うのだろう…。それと同じことだったのかもしれない。
 まあ,私は,こんなところなのか,と納得しただけで,というより,この混雑にちょっといやになったこともあって,早々にコンコードを後にすることにした。歴史的名所という自分が抱いたイメージとは少しちがった(というより,自分の無知が原因なのだが…)ことにがっかりしたことも理由であった。

 次に絶対に行かなくてはならなかったのが,セーラムの「魔女博物館」であった。
 知人が行ったときに,ここが(いろんな意味で)面白かったらしいので,行く前に薦めてくれた場所だった。何がどう面白いのかは,行ってみなくてはわからない。
 ただし問題があった。
 セーラムは,実は,昨晩宿泊したホテルの前の州道をそのまま北上すれば,わずか20分くらいで着く場所にあったのだ。それなのに,なぜ,わざわざ遠回りしてレキシントンとコンコードに立ち寄ったのかといえば,そこに興味があったことはもちろんだけれど,魔女博物館の開館が10時であって,それまでの時間をどうするか,ということも理由のひとつだった。
 だから,レキシントンとコンコードへ来たのはそのための時間つぶしでもあった。
 したがって,セーラムに行くには,朝来た道を戻るような形になる。

 レキシントンへ行ったときのGPSの誘導に疑いを持った私は,土地勘が目覚めてきたこともあり,ホテルでもらった小さな地図と,GPSの地図表示をもとに,場所の検索をかけず,セーラムへ行くことにした。
 コンコードを州道2に沿って10キロメートルくらい東にボストンのほうに戻ってくると,インターステイツ95に入ることができる。これはボストンを外周しているフリーウェイで,この道を時計回りにボストンの外周を走ると,ボストンから北に延びる州道1Aと交わるところまで行くことができる。この95が1Aと交わるジャンクションで降りて,1Aを少し戻れば,セーラムに着くことになる。地図を見るとそのように思えた。
 そこでインターステイツ95を時計回りに快調に走っていったのだが,途中で道を間違えた。

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 32年前,私と同じようにアメリカにあこがれていたひとりの女性歌手がいました。彼女の名前は,八神純子。
 「パープルタウン」という歌がヒットして,JALPAKという日本航空が主催したパック旅行の「I love New York」キャンペーンがテレビのコマーシャルに流れました。
 彼女が自転車に乗ってブルックリンブリッジを走りながら,バックに「パープルタウン」が流れるのです。 
 そのテレビコマーシャルを見ながら,どうしても,そこへ行きたくて仕方がありませんでした。

 当時のニューヨークは治安があまり良いとはいえず,ブロードウェイも,道を一本外れるとポルノショップが林立し,ハーレムには立ち入ることができず,それぞれの道路も,1本道を間違えると,安全の保障がないほどでした。
 地下鉄は落書きだらけ,ハドソン川には死体が浮かび,ブロンクスのヤンキースタジアムの客席では,次にどの家を放火しようとかいう話をしていると言われました。イニングの合間には客が乱入してグランドを駆け巡りました。
 サウスブロンクスは警察さえ立ち寄れず,性病と結核が蔓延しているともうわさされていました。
 外を歩くときは,ホールドアップにそなえ,必ず20ドルをポケットに入れておけ,と当時のガイドブックに書かれていました。

 そうであっても,やはり,ニューヨークは,世界のニューヨークでした。
 ブロードウェイのミュージカルを見ることは夢でした。エンパイアステイトビルから眺めた雄大な景色は,この世のものとは思えないほどでした。
 自由の女神の台座に書かれたエンマ・レイザラスの言葉は,人が自由に生きるこの国の素晴らしさを教えてくれました。

 そうして,私も一人でニューヨークへ行きました。自由の女神にも上りました。ミュージカルも見ました。地下鉄にも乗りました。
 でも,勇気がなかったので,ハーレムにも行けなかったし,ブルックリンブリッジにも行くことができませんでした。

 あれからずいぶんと年月が過ぎて,ブロードウェイには深夜まで観光客があふれ,ハーレムの125丁目は銀座と変わぬにぎわいを見せ,新しく生まれ変わったヤンキースタジアムでは,連日日本人選手が活躍するようになりました。
 そうした長い月日を経て,私も,ようやく,念願のブルックリンブリッジを渡ることができたのです。

  ・・・・・・
 Give me your tired, your poor,
 Your huddled masses
  yearning to breathe free,
 The wretched refuse of your teeming shore.
 Send these, the homeless,
  tempest-tossed to me,
 I lift my lamp beside the golden door!
  ・・
 疲れたる貧しき者よ
 自由の空気を吸わんとする者よ
  身をよせあう人々よ
 豊かな海辺に集まる
  うちひしがれた人々よ
 家なき嵐に弄ばれたる人々よ
  この国においで。
 黄金のとびらのかたわらで
  ともしびを高くかかげて
   私は待っている。
    Emma Lazarus
  ・・・・・・

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 ボストンからそのまま大西洋岸に沿って北上を始めればよいのだが,事前に調べてみた「地球の歩き方」のボストン編に,ボストン近郊のレキシントン,コンコードといった町が紹介されていた。これを読んでみて,ここ数年,少し興味があってアメリカ史を勉強したことと合わせて,この地に惹かれてしまった。そこで,北上を開始する前に,レキシントンとコンコードへ立ち寄ることにした。

 ここで,アメリカ史についてかいつまんで簡単に書く。退屈かもしれないが,これを知らないと,今回の旅の見どころの意味がわからないので,がまんしてくださいね。

 コロンブスが1492年アメリカ大陸を,いわゆる「発見」して以来,ヨーロッパはアメリカ大陸に進出したが,冬の寒さを越すことができず,悲惨な状況が続いていた。
 今のアメリカ合衆国に植民地の建設をともかく成功させたのは,1607年のヴァージニアと1620年のプリマスであった。
 プリマスは,宗教の自由を求めてメイフラワー号でやってきたピルグリム・ファーザーズ(清教徒)が入植した地で,はじめのうちは,ここもたいへんだったらしい。19世帯の家族が定住したが,生き残ったのはわずか50人ほどだった。その中で,夫に死なれたスザンナ・ホワイトという女性と妻に死なれたエドワード・ウィンスローが結婚して5人の子供をもうけたのだが,現在のアメリカ人の10パーセント以上はその末裔であるといわれている。
 その後,アメリカ東海岸沿いには次第に入植者が増えて,150年後には,13の植民地ができるまでになった。
 そうなると,イギリス本国の増税政策にがまんならず,自治を訴えるようになるのは当然の流れで,1768年ごろにはボストンを中心に暴動が起こるようになった。
 1770年には,いわゆるボストン大虐殺が起き,印刷職人だったポール・リビアはその風刺画を描き,フランクリンの作った郵便制度でその事件は植民地中が知ることとなった。

 このように,アメリカの歴史は,その広い国土にいかに情報をはやく伝達するかが,つねにポイントなのである。
 その後も,電信電話,大陸横断鉄道,インターツテイツ,インターネット… という具合である。
 やがて,1773年に茶に対する課税に反発し,イギリス船を襲い,100万ドルの茶をボストン湾に投げ入れる「ボストン茶会船事件」が起き,1774年には,フィラデルフィアで議会が設置され,1775年には独立戦争が勃発した。独立戦争のきっかけとなったのが,レキシントン・コンコードの戦い,というわけである。そして,ポール・リビアの活躍など,アメリカ植民地の民兵は,イギリス軍と対等以上の戦いをしたのである。
 そういうわけで,今回の旅でこの後に訪れることになるプリマスが,日本で言うなら,明日香遺跡(その国の源流として)であり,いまから行くレキシントンとコンコードは時代こそ違うが,鳥羽伏見の戦い(歴史のターニングポイントとして)のようなところとも考えられる。

 朝5時30分に起きた。6時30分にモーニングコールを頼んであったことを思い出したが,結局かかってこなかった。 
 朝6時50分,ホテルをチェックアウトして,GPSにレキシントンと入力して,車を出発させた。
 GPSが言うことには,やれ右に回れだの,左車線を走れだの,次のロータリーの2番目を右に行けだの,だんだんとボストンの街中に入っていって,訳が分からなくなった。ボストン市内に入らなくても,ぐるりと外周のフリーウェイを走ればいいと思うのだけれど,距離が長いので採用しないのか,まったくGPSの言うことが理解不能であった。
 環状道路を走らずに市内を突っ切る感じなのだ。
 レキシントンは,ボストンから西に50キロメートルくらい行ったところ,さらに,コンコードはそこから10キロメートルくらい西にある。
 それでも,GPSに従って,時々道を間違えたり,そうこうしているうちに,やがて,ものすごくきれいな高級住宅地と森ばかりの場所になった。そこが,レキシントンであった。
 朝8時過ぎだった。
 このあたりに,やたらと,ダンキンドーナッツの店舗があった(本社がマサチューセッツ州にあるのだ。)。そこで朝食をと思ったが,なにか気が進まず,躊躇しているうちに,朝食をとる機会を逸してしまった。
 日本に店舗がないファーストフード店はなんだか入りくい。でも,旅に出たらこういうことはチャレンジしなくてはならないと,帰国後深く反省するのである。

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☆2日目 7月21日(日)
 ことしの旅は,悩み多きものだった。行きたいところがいろいろあって,それぞれが距離が離れていて,どのように移動すればよいか,こちらに着いてもうまく決まらないのだ。
 日本で計画を立てていたときは,きょう7月21日にボストンを出発して,7月24日の夜ボストンに到着する,この間の3泊4日は空白であった。
 この4日間で,ニューイングランド地方と呼ばれるアメリカ北東部6州(コネチカット,ニューハンプシャー,バーモント,マサチューセッツ,メイン,ロードアイランド)の見どころを無計画に巡ろうと考えた。(結局,コネチカット州とロードアイランド州は行くことができなかった。)
 さらに,ぜひ,行きたかったのは,マサチューセッツ州の西部,ニューヨーク州との境にあるタングルウッドというボストン交響楽団夏の避暑地とそこから西へ行ったニューヨーク州中央部のクーパーズタウン,ここは,MLBファンの聖地,野球殿堂のあるところだった。この2つは,この4日間ではなく,7月26日から27日にかけて,ボストンからニューヨークへ移動するときに立ち寄ることにした。
 したがって,当初はボストンからニューヨーク間はバスやアムトラックという列車で移動するという計画であったが,この移動も車に変更した。

 日程をまとめてみよう。
 7月20日夜ボストン着。レンタカーを借りる。
 1泊して,21日から24日まで,レンタカーで,ニューイングランドを巡り,24日夜ボストンに戻る。
 ボストンで24日と25日同じホテルに連泊する。25日はボストンの市内観光をして,夜はボストン・レットソックスの野球を見る。ボストンでの観光は車を使わないで車は駐車場に入れる。
 26日朝,ボストンを車で出発して,タングルウッドとクーパーズタウンを巡り,27日夜,ニューヨークに到着する。そこでレンタカーを返却してからホテルに入る。
 27日と28日はマンハッタンの近くの同じホテルに連泊して,28日はニューヨークヤンキースのデーゲームの試合を見る。29日はニューヨークの観光をする。
 30日の帰国便の出発が7時45分と早いので29日の夜は,空港近くのホテルに宿泊する。
 以上のように決めた。

 問題は,このニューイングランド地方の巡り方だった。
 まずはじめに行きたかったのは,メイン州のカナダ国境に接するルーベックという小さな町だった。この町のホテルを予約しようとしたけれど,どこも満室だった(きっと行けば何とかなったと思うが…)。
 そのうち,わざわざいくほどのところなのかという気もしてきた。
 たしかに,全米でもっとも夜明けが早い町に行くというのは魅力的だが,晴れるかどうかもわからないし,なにせ,遠いのだ。メイン州の中央に位置するバンガーという町まではインターステイツがあるが,さらにそこから200キロ以上の道を往復するだけなのだ。しかも,フリーウェイ(無料の高速道路)やターンパイク(有料の高速道路)でない。
 いろいろと調べているうちに,ルーベックより150キロメートルくらい近い大西洋に面したところに,海に突き出た島があって,ここに,東海岸唯一の国立公園であるアカディア国立公園(写真)があり,その入口にバーハーバーという町があることを知った。きっとこの国立公園の高台から,雄大な大西洋が見られるであろう。うまくいけば美しい日の出が見られるかもしれない。そして,きっと,バーハーバーはのどかな港町だろう。
 そのように思ったら,この町がとても魅力的に思えてきた。そこで,この町のホテルを予約することにした。

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 アメリカを代表するシンガー&ソングライターであるニール・ダイヤモンドのヒットシングル「スウィート・キャロライン」は,近頃,駐日大使に内定した,故ジョン・F・ケネディ アメリカ元大統領の長女であるキャロライン・ケネディさんを歌ったものです。
 ホワイトハウスで楽しそうに遊ぶ少女,キャロラインさんの姿は,たびたび雑誌などに紹介されました。ニール・ダイヤモンドはその愛くるしい姿に触発されて,この曲を作ったといわれています。
 ちなみに,ボストンは,ジョン・F・ケネディゆかりの地です。

 1912年に作られた大リーグ最古の球場フェンウェイパークは,左翼が異常に狭く,ホームランが出やすいので,それを防ぐために作られた11メートル強の巨大フェンス「グリーンモンスター」で有名です。大リーグファンにとって,最もあこがれる球場のひとつです。
 大リーグでは,どの球団も,7回裏の攻撃の前に,「私をボールパークに連れてって」を歌います。ボストンでも同様なのですが,実は,ここの見ものは,それよりも,この「グリーンモンスター」(「ウォーリー・ザ・グリーンモンスター」というゆるきゃらもいます。)と8回裏の攻撃の前に観客総立ちで歌う「スウィート・キャロライン」なのです。1998年,音楽をかける係の人が自分の好きなこの曲を流したのが定着してしまったものです。

 ボストンマラソンで多くの死傷者が出て傷ついたボストンで事件後初めて行われた試合,ニール・ダイヤモンドが実際にグランドで,この歌を歌いました。その日,ヤンキースタジアムでも,「スウィート・キャロライン」が流されました。そして,今年初めてボストンで対ヤンキースの試合があったとき,その返礼として,フェンウェイパークに,「ニューヨーク・ニューヨーク」が流されました。さらに,ニューヨーク・メッツの本拠地「シティ・フィールド」で行われた今年のオールスター・ゲームでも,8回裏が始まる前に,ニール・ダイヤモンドが,グランドでこの歌を歌い,歌い終わった時に,ヤンキースのマリアノ・リベラがマウンドにむかうといった,ファンにはたまらないシーンがありました。
 今年,絶好調のレッド・ソックスは,「スウィート・キャロライン」の流れたあとの9回,日本人投手・上原浩冶のクロウズで今日もまた,勝利の美酒に酔うのです。
 こうした姿を実際に体験することも,大リーグ観戦の魅力なのです。
  ・・・・・・
 Sweet Caroline
 Good times never seemed so good
 I've been inclined to believe
 They never would
  ・・
 かわいいキャロライン
 こんなにも素晴らしいひとときを一緒に過ごせるのを
 僕は信じるようになってきたよ
 みんなは信じていなかったけれど
  ・・・・・・



◇◇◇
イチローがシアトルで活躍していたころ,セーフコフィールドのライトスタンドの最前列でイチローのヒット数を表示した「イチメーター」を掲げて応援していたエイミー・フランツさんが,この夏はニューヨークとボストンを旅行しているようで,ここ数日,連日,イチメーターを持って応援している姿をMLBの中継で見ることができます。ところがイチローが不振で4日間でヒットわずか1本。彼女の目の前で,日米通算4,000本安打が達成できるとよいのですが…。あと5本です。

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 ホテルに面した道(州道60,通称「アメリカン・リージョン・ハイウェイ」)は,片側2車線のアメリカではきわめて普通の道路だ。車の前方右側に予約をしたホテルが見えてきた。前を走っていた車もそのホテルに入ろうと右折(アメリカは車は右側通行であることに注意!)して,うまく入れずバックをしているところだった。どういうことかというと,ホテルの手前に駐車場があるのだが,そこに入るのに普通に右折をするとカーブの広さが足りないのだ。私も同じようになって,少しバックをして駐車場に入り2台ほどの空きがあったのでそこのひとつに車を停めた。
 場所は,ボストン郊外の普通の住宅地のようななところだった。
 入口の階段を上がって右手にフロントがあった。先客がいて,チェックインをしているところだった。日本人の若者2人だった。2人の日本語の会話が聞こえる。私はわからないふりをする。
 彼らのチェックインが終わり,私の番になった。フロントの感じのよい女性が,手際よく手続きをする。必要なものは,パスポートとクレジットカードの提示だけだ。昨年行ったサウスダコタとかノースダコタだとパスポートの提示すら必要なくて,クレジットカードだけだった。田舎はおおらかだった。
 明日のモーニングコールは必要ですか?と聞かれたので「6時30分でお願いします」と答えたが,こんなことを聞かれたのははじめてだった。
 このホテルは,日本で,あらかじめ「ブッキング・コム」というサイトで予約をしておいたものだ。今回は,この「ブッキング・コム」と「エクスペディア」で大部分のホテルをあらかじめ予約して行った。当日探してもいいのだけれど,今回の旅行は移動が多いことと大都市が多いことで,当日のホテル探しの時間が惜しかったからである。
 アメリカの東海岸は異常に暑い(連日35度以上!)という報道が日本でされていたけれど,どうなのか,と聞くと,雨が降ったので今日からは涼しくなるからでよかったですね,と言われた。でも,先週も暑かったけれども蒸し暑くはなかったですが… と言ったが,東海岸は日本の気候と似ているので,そりゃへんだ,と思った。
 実際,私が行ったときは暑くはなかったが,けっこう湿度が高かった。テレビの天気予報では,クールナイスウィークエンドだと言っていた。来週は連日涼しくて晴れるとも言っていた。

 部屋は想定内というか,アメリカのいつも泊まる普通のホテルと同様広くきれいな部屋だった。バスタブはなく,シャワーだった。
 シャンプーは用意されていた。
 不思議なことに,アメリカでは,場所によってこういうのが違う。モンタナあたりだとシャンプーの小瓶があるホテルのほうが珍しい(私の泊まる安いホテルの話です)。バスタブはないところが結構ある。
 部屋に入って,カバンを片付け,さっそく,夕食に出かけることにした。
 部屋から出ると廊下で先ほどチェックインした日本人の若者が,なにやら騒いでいる。男2人が大きなダブルベットの部屋になったようだった。
 アメリカでは,ひとり旅かカップルでの旅行が普通で,男が2人で旅行をするというのは「訳あり」だと読んだことがある。あくる朝,彼らの部屋の前にエキストラベッドが置いてあるのを目撃した。「訳あり」ではなかったようだった。
 先ほどのフロントで,近くにレストランはないかと聞くと,よく聞かれることであるらしく,手際よく説明してくれた。そして,説明の書いた紙をくれた。

 ホテルから出て,車で行こうか少し迷ったが,散歩ついでにのんびりと歩いて行くことにした。
 先ほどもらった紙の通りにいくと一方通行の道を逆方向に行くことになるので,車で行くことは想定されていない説明書きのようだった。
 ホテルの北側に大きな美しい教会があって,その教会に沿って東側の道(リビーアストリート)沿いに行くと交差点に差し掛かり,道なりにカーブして坂をのぼって行くと小学校があって,その向こうにイタリア料理やら中国料理やらのレストラン街とデリカテッセンがある,という話だった。
 東京の渋谷から青山あたりの住宅地の暗い夜道を歩くような,そんな感じの道をしばらく歩いていくと,なるほど,イタリアンレストランとその少し向こうに中華料理店(アジア料理とあった)の明かりが見つかった。
 女性がひとりで歩いているから治安の悪いところでもなさそうだった。
 レストラン街といったってこの小さな2軒だけではないか。
 中華料理店に入って,メニューの英語を解読して,牛肉入り炒めごはんなるものを注文した。メニューにはベトナム風炒めごはんやらタイ風炒めごはんやらがあったが,いったいどんなものだったのだろう…。
 やがて現れた料理はすごい量だった。周りには,家族連れやら,ひとりの近所のおっさんやらがいたが,日本のふつうの中華料理店みたいなものだった。
 飲んだくれたおじさんがいないのだけがちがいだった。
 中華料理店なのにクレジットカードが使えた(アメリカではマックでもクレジットカードが使えるが,中華料理店では使えないことが多い)。食事を終えて,ホテルに戻った。
 明日は,早朝出発してメイン州のバーハーバーというところの近くにホテルが予約してあるので,そこまでの500キロメートルのドライブである。モーニングコールを頼んであったが,どうせ,2時間ごとに目が覚めるであろう。
 シャワーをして,テレビを見ながら,眠りについた。

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 8月16日は京都五山の送り火です。
 送り火は京都の山々に東から西に順に灯ります。午後8時に大文字,10分後に妙法,その5分後に船形と左大文字,最後に鳥居形が8時20分に点火されるのです。 

 それぞれの点火はその方法が全く違います。
 大文字は,75か所の薪で積み上げられた火床があって,燃やされるのは護摩木です。ふもとにある弘法大師堂から運び出された灯明から火がともされるのです。
 妙法は,ふもとにある日蓮衆の檀家がそれぞれの火床を担当して同時に点火します。点火の合図はふもとから行います。
 巨大な船形は,先祖の魂を西方浄土におくるという意味で,ひとりがリーダーとなって,18人の若者が79か所の火床に一斉に走って行って同時に点火をします。
 左大文字は,50キログラムある大松明から分けられた火が山全体に灯されるのです。
 そして,鳥居形は,親火床が数か所あって,丸い皿のような火床に,20キログラムの薪の束「そく」をその親火床に突っ込んで火をつけて,これを担ぎ上げて突き刺す,つまり,山の中を火が走るという独特な点火の方法をとるのです。

 亡くなった御霊が移動するには,闇の中を篝火のもとで行われると,日本では信じらています。京都では,北の山々があの世,京都市内がこの世といわれ,この世からあの世に向かって,送り火が点火されるのです。

 この日,京都市内は,すごい人ですが,遠くに住む人が五山の送り火を目にしたいとするならば,少し早めに山のよく見える川べりへ出かければ大丈夫です。五山の送り火は午後8時から午後9時前の1時間足らずの時間です。
 その後,京都の町をのんびりと歩いて地下鉄に乗れば,京都駅まで簡単に戻ることができますし,新幹線も空席があります。

 私は,出町柳を高野川の方向に少し上った高野橋の手前の川べりに,夕暮れよりもずいぶん前から座って,じっと大文字の送り火が点火されるのを見るのが好きです。
 やがて,空が暗くなってくると,大文字の送り火が灯りはじめ,次第にくっきりと夜空にしっかりと「大」の字が浮かび上がるのです。
 今年も生きた証として,大文字を見るのです。
 そして,暑かった日本の夏に終わりを告げるのです。

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 やがて,シャトルバスはレンタカーの営業所に到着した。あれだけの人が乗っていたのに,アラモのレンタカーを借りるのは3人くらいだった。
 小さな営業所のカウンタには,窓口が3つあったが,係はひとりしかおらず,そこには先客がいて,いつものアメリカペース,なにやらいろいろ問い合わせをしていて,いっこうに終わる気配がなかった。我々が到着したので,ふたつ目の窓口におばさんが出てきた。一緒にシャトルバスを降りた別の人に先を越されてしまったので,しばらく待つことになった。やがて,到着した時にいた先客が手続きを終わり,自分の番になった。
 日本で予約した時にプリントアウトした用紙を見せると,非常に機嫌よさそうに対応する。ボストンに野球を見にきたと言ったら,さらに,上機嫌になる。今年はレッドソックスは強いね,と言ったら,さらにさらに上機嫌になる。
 車種もなにもかもちゃんと予約をしてあった(保険も全部込みのセットにした)のに,もっと大きな車種がいいとか,いろんなことを言う。
 ともかく,今回は結構長距離を運転する予定なので,カローラクラスよりカムリクラスにしたが,日本から来たから車種は日本車のカムリがいいと言ったら,あれこれコンピュータを操作して,ちょうど1台あるからそれにしようということになって,今回はカムリを運転することになった。日本車は久しぶりである。
 そこまではいいのだが,さらに,話が続いて,「GPS」をつけたほうがいいという。さらに,「トールパス」もつけたほうがいいという。行き先がニューヨークなら,有料道路が多いから役に立つという。役に立つかどうかよくわからないのだが,そして,それをつけるとどのくらい料金が高くなるのかもすぐに理解できないのだが,そして,話の展開が早すぎて,頭がついていかないのだが,まあ,言われたとおりにしようと思い,契約した。
 提示するのは,日本の免許証と国際免許証とクレジットカード。いつも,この国際免許証を珍しそうに見る。そして,提示された書類の×の打たれた箇所にイニシャルやサインをする。
 この,国際免許証の大きさは何とかならないものかと思う。昔,パスポートはもっと大きかった。その時のサイズのままなのである。パスポートが小さくなっても,国際免許証のサイズが変わらないって,とてもお役人的じゃないか?
 「GPS」は日本のカーナビなのだが,アメリカでは,カセットテープ大ほどの小さなもので,吸盤で車の窓に固定する。なんと,日本語仕様になるのであって(日本語を話す),レンタカーのカウンタで,なにならごちゃごちゃ操作して,日本語仕様にセットして,これでOKだ,とにんまりした。実際,これは,本当に役に立った。
 「トールパス」というのは,ETCみたいなものだが,カードを入れるわけでもなく,ただ,これも吸盤で窓に貼るだけで,おもちゃみたいだった。どのように使うのか,いったいなんなのかさっぱりわからない代物だったが,これも,本当に役に立った。
 あと,請求して地図をもらう。ついでに,きょう泊まるホテルの場所を聞く。
 「そこへ行くのは,非常に簡単だ。空港を出て,この道(州道1A)をまっすぐに走って,ここがY字の交差点だから左に回って(州道60),約4マイル(6.4キロメートル)かな」ということだった。
 確かに,今,これを書きながら地図を見ていると,簡単だ。だが,実際,着いたばかりで車を運転すると土地勘がまったくないので,そうはいかない。

 アメリカで車を運転するとき,右側通行とか,そういったことよりも,道がわからないということのほうが重大な問題なのだ。
 ちなみに,一番多い操作ミスはウインカで,日本ではハンドルの右側,アメリカでは左側にあるので,ウインカを出すつもりでワイパーが回ってしまうというのは,誰しも経験することである。私は,アメリカですっかり左側に慣れてしまって,今だ,日本で戸惑っている。不意に左手で操作をしようとしてしまうのだ。
 また,アメリカの道路にはほとんどゴミがない。日本の道路の交差点は悲惨なぐらいゴミだらけである。理由は… アメリカで不法なゴミの投棄の罰金が100,000ドル!!!だからである。
 カウンタで対応してくれた2人のうちの一人が,車まで案内してくれた。洗車仕立てで水が滴り落ちるカムリであった。どうだ,いい車だろうといって,わざわざGPSとトールパスをセットしてくれた。アメリカらしくない。
 それにしても,吸盤でくっつけたGPSとトールパス,よくはがれるのだ。走っていて突然落ちるから,危ないったらありゃしない。日本ならあり得ない。

 いよいよ出発だ。
 試しにGPSに今晩予約をしたホテル名を入力したら,しばらく検索して,行き先が表示された。 
 座席とバックミラーを慎重にあわせて,のろりのろりと動き出す。
 非常に広いレンタカーの駐車場を出るときにいつものように係がいるボックスがあって,書類を見せ,駐車場から外に出る。一般道はなにやら工事中で,GPSが回れといったところを回ったら行き止まりだったりして,なかなかうまくいかない。それでもなんとか空港の周回道路から外に出ることができた。
 ボストンの北東にある空港からさらに北へ,夕方のラッシュの中をGPSに言われるまま,どこをどう走っているのかさっぱりわからぬまま(要は州道1Aに沿って走っていただけだけれど。)しばらく運転すると,一度道を間違え,とは,さきほどのY字交差点が広すぎて,どこを行けばどこへ行かれるのかわからなかったことで(GPSの指示した道のひとつ前を右折してしまったらしい),わけのわからない住宅地に迷い込んだりもしたが,ちゃんとGPSが責任とって道を教えてくれた。偉い!
 このGPS,生意気に日本語で「車線は右です」とか「0.2マイル先,右です」とか言うのだが,やがてわかったことだが,「0.2マイル」の「0.」が聞こえない。つまり,「2マイル」に聞こえるのだ。で,はじめのうち,道を間違えることがあったわけだ。それと,アメリカは道路標示がしっかりしているので,次右折というよりも,「インターツテイツ90を東に」と言ってもらったほうがわかりやすいのだ。まあ,そんな欠点も,知ってしまえば便利な機械だった。弱点といえば,検索に時間がかかったり表示されなかったりすることで,これには弱ったこともあった。
 やがて,20分もしないうちに,ちゃんと,車は,ホテル「ロードウェイ・イン」に到着した。

◇◇◇
アラモのレンタカーをネットで予約するとき,JCBのカードだと割引があるとか書いてあったので,そのサイトからアラモのサイトにリンクしたのですが,JCBの割引なんて,どうかなってしまって,アラモのサイトにはそんな記述はみあたらないのです。
JCBからリンクしたので支払いもJCBカードで登録したのですが,現地ではどの種類のカードで登録したかなどということはどうでもよくて,違うカードで支払っても問題ありません。カードの種類が大切なのは,インターネットで前払いをして,現地でチケットを受け取るときだけです。
こういう「いいかげんさ」はアメリカらしいなあ,と思います。お金をもらうほうはもらえればそれでいいわけです。私は,せっかくJCBで登録したので,現地のカウンタでそのカードを提示したら,「JCB? エッー使えるかなあ」とか言い出しました。実は,JCBカードは,アメリカではDISCOVERカードとして通用するのです。このときのカウンタのスタッフはそれを知っていましたが,アメリカでは日本のようにすべてのスタッフがそれを知っているということを期待してはいけません。だから,知らなければ,説明してあげなくてはなりません。私はJCBカードの表面にDISCOVERという表記も併用して記入すればいいと思うのですが…。最も,前にも書いたように,私は,アメリカでは,JCBカードは予備として持っているだけで,普通はオリコのマスターカードを使っています。

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 戸井十月(といじゅうがつ)さんが7月28日に亡くなったというニュースには,びっくりしました。享年64歳でした。
 彼は,作家でルポライターでした。私は,その作品を読んだことはないのですが,NHKBSで放映していた「戸井十月 ユーラシア横断3万キロの旅」という番組で知りました。
 戸井さんは,この2009年のユーラシア大陸をはじめ,1997年に北米大陸一周,1998年にオーストラリア大陸一周,2001年にアフリカ大陸縦断,2005年には南米大陸横断と,五大陸をバイクで走破しました。
 私は,ほぼ,アメリカ合衆国しか知らず,無謀な旅行はせず,というあまちゃんで,彼のように,日程を決めず,宿泊先を決めず,バイクで大陸を走破するということとは,ほど遠いのですが,旅を愛する者の端くれとして,テレビ番組の中で,彼が語るような,旅に対する思いには,たいへん共感するところがありました。

 私は,歳をとるにつれて,若いころに,人生はこうでなくてはならないとか,社会で生きるにはこういうことが大切だ,と教えられた多くのことに,疑問を持つようになってきました。そうしなければならない,というその理由も知らず,それを強制する人もたくさんいますが,そういう人たちこそ,自分の行っている行為が矛盾に満ちていたり,昔はそうでなくてはならなかったのに,今では,全く逆の価値観がまかり通っている多くのことを知るにつけ,素直になれなくなってきたのです。
 もちろん,大切なことはたくさんありますが,それにも増して,世界には多くの異なる考えや価値観があって,それらを理解したり尊重することのほうがずっと大切だと思うのですが,いかがでしょうか。

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 悪戦苦闘の挙げ句にささやかな,しかし確かな真実と希望とに出会う体験こそが旅である。
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 彼は,バイクで世界の空気に直に触れようとしたのだと思います。そして,一人でも多くの世界の人と接したかったのだと思います。こういう行為を好ましく思わない人もいるとは思いますが,私は,こうした価値観を支持します。
 彼は,若くし逝ってしまったけれど,心の中は,満足で一杯であったことでしょう。幸せな人生だったと思います。

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 ボストン行きのDL1722便,私の乗ったボーイング737は,現地時間夜6時過ぎ,ボストン・ジェネラル・エドワード・ローレンス・ローガン国際空港に到着した。この空港にははじめて来たが,きれいな空港だった。
 心配がひとつあった。
 今回の旅では,レンタカーとホテルは,ほとんど,事前に日本で予約をした。
 1日目のホテルは,空港に近いという条件で選んだが,それでも,空港からはかなりの距離がありそうだった。空港までシャトルバスサービスがあるということだったが,シャトルバスでホテルに行っても,次の日に再び空港まで戻ってレンタカーを借りる手間がある。そこで,空港到着後の午後6時30分ごろにレンタカーを借りて,返すのを数日後の午後6時30分にすれば料金は次の日の朝借りても同じことなので,到着後すぐ,レンタカーを借リることにした。いろいろと調べてみたが,ボストンの空港にはレンタカー会社のカウンターがなく,シャトルバスで,最寄りの営業所まで行かなくてはならないようだった。ロスアンゼルスと同様だ。
 ということで,うまく,レンタカーが借りられるか,ということが,この日のもっとも重要な課題だったのである。

 飛行機を降りて,降り口は2階で,バッゲジクレイムまではずいぶんと歩いた。エスカレーターがあって,バッゲジクレイムと出口の表示が同じ方向にあるので,戸惑ったが,バッゲジクレイムは,マイアミの空港のような感じで,空港の1階のほぼ出口にほど近いところにあった。荷物はなぜか2か所のコンベアから出てくるらしく,そのどちらかよくわからないので,両方をきょろきょろする必要があった。同じ飛行機に乗り合わせた多くの人が同じように2つのコンベアを行ったり来たりしていた。なかなか自分のカバンが出てこないので,少しあせったが,ともかく,無事に荷物を受け取ることができた(荷物がちゃんと出てくるかは結構心配だ)。
 空港の出口近くに案内所があったので,レンタカーの営業所へどのようにアクセスするかを聞いてみた。表示に日本語OKとあったので,そこにいた日本語ができるとは思えない外観の女性に日本語ができるかと英語で聞くと,ちゃんとした日本で,しかも,ものすごくうれしそうに返事があって,レンタカーは,外に出たところでシャトルバスが運行しているので,自分の借りる会社のものに乗ればいいと教えてくれた。アラモのシャトルは3社(アラモとナショナルともうひとつなんだったっけ?)の共同運行だとも言った。このあとの数日は,日本語を話す機会がなかった。

 今回は「アラモ」を借りた。アラモのサイトで直接予約した。
 もともとは,ネットの「レンタルカーズ・コム」で安価にレンタカーを予約したのだが,レンタカー料金だけがさっそくカード払いで引き落とされたのに,予約の確約がとれない。予約のとれる期日が表示されるが,その日になると確約の期日が延長になる。これが何度も何度も繰り返される。メールで本当に確約がとれるのかと問い合わせても,今しばらくお待ちください,という回答があるだけで,知りたい情報がかえってこない。知りたいのはそんな型通りの回答ではない。これでは信用がない,ということでキャンセルした。お金はちゃんと戻ってきたが,新規のネット商売でこれではだめである。帰国後も,ダイレクトメールだけは頻繁に来る。そりゃ違うだろう…。もう,私は利用しない。
 そこで,レンタカー会社のサイトで直接予約をした。これまで,ハーツとエイビスは利用したことがあるので,ちょっと,新規開拓をしてみたのだった。
 ハーツやエイビスはそれぞれのシャトルバスが来たが,実際,言われたようにアラモは他の2社との共有のシャトルバスだった。しばらく待っているとシャトルバスが来た。シャトルバスの中には,環境に配慮して,共同運行をしているとかいったことが書かれてあったが,そんなのは強がりで,まあ,規模が小さいだけのことであろう。
 空港の出口は,日本人の私であろうと,アメリカ人であろうと,訳が分からずうろうろしている人だらけであって,その人たちに道を聞いてもどうせわからないのではあるが,私にも結構いろいろ聞かれたりするのがとてもおかしい。よそもの同志の連帯感みたいな雰囲気になる。空港にある案内所で,納得いくまで聞くのが一番いいし,いい加減に行動すると,本当に命取りになる。

 乗った時には,シャトルバスの車内は私ひとりだったが,空港の複数のターミナルで停まるうちに,どんどんと人が増えて,しかも,それぞれがすごくたくさんの荷物をのせるものだから,満員になった。かわいい女の子を連れた夫婦連れもいた。いくつ?って聞くと,2年しか生きていないのにちゃんと英語わかるから偉い!
 ものすごく親切な運転手が荷物を載せるのを手伝っていて,なかなか営業所に到着しない。きわめてアメリカペースなのである(ちなみに,レンタカー会社のシャトルバスはチップは必要ありません)。
 車内では,みんな初対面であるが,どこから来たとか,どこへ行くとか,楽しく話に花が咲く。こういう時に,日本から来たというのは,会話の糸口として,非常に役に立つのである。だれも,あせっていないのも,また,アメリカである。
 そんなわけで,今回も,無事に第一課題を乗り越えたわけだった。

☆ミミミ
きょうは,ペルセウス座流星群の極大期でした。空の明るい日本では,星を見ることすら大変ですが,足をのばして山へ入ると,少しは流れ星を見ることができました。
写真は,深夜午前2時に写したものです。星が線状になっているのは日周運動のせいです。右上のペルセウス座2重星団を少し暗めの流星が横切っています。
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 定刻通り,7月20日午後0時25分,デトロイト・メトロポリタン・ウェイン・カウンティ空港に到着した。
 国内線に乗り継ぐ場合でも,ここで,入国審査を受けなければならない。
 降りたところから狭いエスカレータを登って,一旦,預けた荷物を受け取り,税関を通過する。といっても,機内で書いた書類を手渡すだけだ。その後,再び,荷物を預け,入国の審査を受ける。列が複数あって,どこもそれほど人がいなかったが,前にいた人が,何やら複雑な話になっているようで,手続きが終わらない,たまりかねて,隣の列に変わったら,間もなく自分の番になった。

 いつもの通りのやり取りが始まった。
 「目的は何か?」「観光です」
 「何日間いるのか?」「約2週間です」
 「どこへ行くのか?」「ボストンとニューヨークです」
 これだけで,あとは,手を広げて指紋を照合して,顔の写真を撮って,それで終わりだ。
 再びセキュリティを通る。アメリカのセキュリティは,靴を脱がなければならないので,サンダルのほうが便利だ。ベルトもだめである。腕時計も忘れずに外してね! あとは,手を上で交差して機械がなにやら1周して終わりだ。
 
 空港のコンコースに出た。次に乗るボストン便が,1時遅れとある。きょうは,到着後,特に予定はないし,当初の予定はボストンへの到着が比較的早いので困るわけではないが,デトロイトの空港で,また,数時間費やしなくてはならない。この空港も,特に何もないので,だらだらと時間をつぶすことにする。
 外に出ても,デトロイトのダウンタウンは遠く,行くところもない。
 そういえば,デトロイト市って,破産したんだっけ。この町はすごい。アメリカ人も行きたがらない。どうすごいのか,私は知らずに行ってみてわかった。そんなこの町のことは,いつか書きたいと思うのでお楽しみに。

 ちょっと,雑談。
 いつか,知人のある小学校の先生に,デトロイトってね,と問いかけたことがあった。彼女は出世街道まっしぐらのプライドの高い女性だった。彼女は「車の町でしょう」と答えた。
 そうだけどねえ…。でもねえ。その程度の認識だけで教育していていいのかなあ,と思った。まあ,彼女のほとんどの知識は本の上の受け売りだ。そんなもの,今の時代,だれでもネットでできる。
  ・・
 あとから思えば,定刻遅れなので,ミールクーポンがもらえたはずなのだが,その時は思いつかず,といっても,もらってもこれ以上食べても困るし…。
 いずれにしても,また,この空港に来てしまったなあ,と思った。もう何回目だろう? 日本料理店「空」も健在である。
 デトロイトの空港内を走る電車に久しぶりに乗ってみたり,ネットにつなごうとしてみたり,まあ,くだらないことをして時間をつぶした。 もう書いたことだが,ネットは「オンラインカフェ」というレストランの付近なら無料でつながる(このころはそれも知らなかった)が,それ以外では,有料になる。アメリカの空港はすべて無料だと思っていたのは,かなしい誤解だった。
 これも,以前書いたことだが,この国では,新聞は,もう,伝説のメディアである。売店に「USA TODAY」が数部売られてはいるのだが,読んでいる人を見ない。雑誌も,ほぼ同様である。ほとんどの人は,iPad を手にしている。
 そうこうしていたら,時間になったので,ボストン行の便に搭乗した。
 現地時間午後4時20分,約1時間遅れであった。

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 7月28日の松井の引退セレモニーのあったヤンキースの試合を見たあと,私は興奮しきっていました。
 帰りの161ストリート駅から乗った満員の地下鉄4番線の車内に,日本から観光旅行で来たという日本人の家族連れがいて,思わず,話しかけました。「すばらしい試合でしたね。」
 彼らには,松井はわかっても,イチローはわかっても,何がどうすばらしかったか皆目わからなかったようでした。私は,説明を続けました。

 この試合が私にとって「すばらしかった」のは,松井の引退セレモニーでも,イチローが4打数4安打だったことでも,サヨナラ勝ちだったことだけでもなく,別の理由によるのでした。
 そのひとつは,デレック・ジーターの復帰第1打席1球目のホームランでした。
 15年前。念願のヤンキースタジアムへ初めて行きました。当時のヤンキースタジアムでも,若き4年目のジーターは,すでに英雄でした。周りの若者たちがジーター,ジーターと応援するのを見て,私はこの名前を知りました。その後の彼の活躍はすさまじいものでした。神がかりで逆転サヨナラホームランは打つし,まさに,彼は,往年の巨人の長嶋のような存在でした。そのジーターも,すでに39歳。昨年の最後の試合で左足を骨折し,再起が危ぶまれました。そのジーターが,まさに,この日復活したのです。そして,いきなりホームランを打ったのです。
 彼は,将来の野球殿堂入りが確実視されています。そして,おそらくは,ヤンキースに2つだけ残る一桁背番号2と6のうちの一つ「2」を永久欠番にしてしまうことでしょう。

 ふたつめは,マリアノ・リベラです。
 大リーグ最後の背番号「42」(42は全球団でジャッキー・ロビンソンの永久欠番)をつけたこのクローザーは,すでに43歳になります。カッター(カットファーストボール)を武器に,1996年から通算600セーブ以上をあげた史上最高のクローザーです。今年で引退を表明して,オールスターにも出場しました。そして,MVPを獲得しました。
 今や,彼が投げる試合は,さながらサヨナラ公演と化していて,敵も味方もなく,彼を見たさに観客だけでなく選手も声援をおくるのです。

 私が,リベラを見損ねたのは,11年前にさかのぼります。
  ・・・・・・
 当時,クリーブランドは新球場ができて,455試合チケット完売という記録を作っていました。そんなクリーブランドで野球を見たのが,クリーブランド・インデアンズとニューヨーク・ヤンキース戦でした。
 試合は,ヤンキースの圧倒的な勝利間近でした。夜が遅くなって,泊まっていたホテルが遠かったこともあって,8回にして,私は,球場を後にしました。ところが,帰る途中で聞いていたラジオから,どんどんと点差が縮まり,ヤンキースはピンチになって,温存していたクローザ―・リベラを登板させざるをえなくなってしまったのを聴いたのです。
  ・・・・・・
 今年,また,リベラを見る機会を逸したと思いました。試合は8回裏まで同点でした。
 ところが,9回,彼は投げたのです。当然,満員の客席は,興奮のるつぼと化しました。ここで彼を見損ねれば,一生,もう,彼を見る機会はなかったことでしょう。
 試合は,ヤンキースがサヨナラ勝ちをしました。しかも,昔,日本の広島カープにいて,その後,大リーグの多くの球団で活躍したアルフォンソ・ソリアーノが,7月26日に古巣ヤンキースにトレードされた,その復帰3日目の試合でのサヨナラヒットでした。リベラは勝ち投手となりました。

 試合後,いつものように,フランク・シナトラの歌う「ニューヨーク・ニューヨーク」の流れるヤンキースタジアムのスタンドで,私は泣いていました。泣けて泣けて仕方がありませんでした。
 試合が素晴らしかったこともありました。でも,それより,15年前のこと,11年前のことを思い出して,泣けてきました。再び,ここに来られたことがうれしかったのです。

◇◇◇
その後,再び,ジーターは故障者リスト入りをしました。リベラも3回連続救援を失敗しました。イチロー念願のワールドシリーズ出場の夢は遠のくばかりです。私の見た試合が,本当に彼らの見納めになってしまうのでしょうか。

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 DL630便は,日本時間2013年7月20日午後1時25分に,中部国際空港を旅立った。デトロイト到着は,アメリカ東部標準時夏時間7月20日午後0時25分である。時差は11時間あって,日本の午後1時は現地時間でその日の午前0時になる。つまり,日本で離陸した時に,現地は午前0時25分。つまり,12時間の旅になる。
 機内では,3回の食事が出る。
 1回目は,夕食にあたるもので牛肉と鶏肉を選ぶことができる。
 2回目は軽食。軽いサンドウィッチ。それとバナナ。このバナナ,新鮮なのはいいのだけれど,固くて皮を剥くのに苦労するのだ。
 そして,3回目は現地での昼食にあたるもので,卵料理とそばを選択できる。
 飲み物は,ビールやワインは無料,そして,もちろんソフトドリンクが選択できる。私の好みはアップルジュース。英語の苦手な人が頼むのにひと苦労するのが,水(water)!(まず,通じません)。
 そういえば,食事の前に,手拭きが配られるのだが,その昔は,客室乗務員がピンセットにつまんで配っていたのがなにかおかしかった。現在は,アルミの袋に入っている。その袋は,あるところに小さな切り口があって,その部分しか切ることができない。老眼の私には,暗い機内でその場所を見つけることがほぼ不可能で,あちこち切ろうとしては失敗し… を繰り返してしまう。

 それぞれの座席には,液晶のモニターがあってテレビ番組,映画,ゲームなどを選択することができる。
 昔のように,大きなスクリーンで映画を見たころが懐かしい。
 座席は,満員であった。

 現在,アメリカへの入国は,通常の観光旅行の場合,ESTAと呼ばれる渡航認証許可手続きを事前にインターネットで行う。ESTAは2年間有効。私の場合,昨年行っているので,今年は手続きが不要であった。
 この手続きは,日本語でも行える。手数料14ドルはクレジットカードで支払う。これがうまくいかず,入国で大変な目にあったといった人がいて,アメリカのせいにしていたが,おそらく,その本人の手続きミスだろう。自分でうまくできなかったことをアメリカのせいにして,だからアメリカはいい加減だと吹聴する人々がたまにいる。自分の操作ミスをコンピュータのせいにするのと同じ類の人たちだ。
 ESTAの登録は,自分でもインターネットで確認できるし,修正ができる。同じサーバー上のデータを入国管理官も確認するわけだから,確認してから出発するといいかもしれない。
 ESTAのおかげで,アメリカ入出国カードの記入が不要となって,税関申告書を書くだけになった。用紙は機内で配られる。日本語のものもある。
 
 機内では,数独のゲームをしてみたが,1回で飽きてしまい,あとは,ウォークマンで音楽を聴いて過ごした。こういうときに,クラシック音楽ファンは助かるのだ。ブルックナーの交響曲を聴いていれば,あっというまに10時間くらいは過ぎてしまう。
 若いころは,時差に悩まされたりもした。いろんなことをやってみた。機内では現地時間を意識して寝ないこと,とか,「メラトニン」という時差ぼけ防止薬など…。
 今は,なにもしないことにしている。まあ,着いた日に熟睡できないくらいで,なんとかなる。
 8時間くらいはあっという間に過ぎるのだが,そのあとの4時間がつらいと,皆が言う(だから9時間で到着するシアトル便にあこがれるのだ)。
 地球は回転しているので,行きは,地球の回転方向に向かって飛んでいるから,実際は300度くらい地球を回ることになる。窓が閉まってわからないのだが,実際は,昼夜が地上の倍の速さで変わることになる。逆に,帰りは太陽はいつもほとんど同じ位置にいるというわけだ。だから,お昼に出発すればずっとお昼!
 やがて,着陸まで1時間となって,最後の食事が出て,その片付けがあわただしく終わるころ,着陸態勢に入った。現地・デトロイトの気温は33度だといっていたが,機内が寒いので,実感が伴わない。アメリカに着くのがうれしい。ちなみに,飛行機に乗るときは,かならず上着を一枚持っていくこと。でないと,寒くて凍えることになるかもしれない。薄い真っ赤なブランケットはあるけれど。
 あっという間の12時間が過ぎた。いよいよアメリカ到着だ。

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☆1日目 7月20日(土)
 デトロイト便は昨年と同じ午後1時25分発である。
 昨年は,最寄りのバス停まで行く途中に車に轢かれかけたので,名鉄の駅まではタクシーを使うことにした。
 早めに駅に着いたので,事前に購入しておいた名鉄特急「ミュースカイ」が駅に到着するのにずいぶん待った。やっと電車が来たので乗車して,車中を楽しみながら,午前11時前にセントレア中部国際空港に到着した。
 そういえば,昨年はせっかく行ったセントレアでチケットが関空に変更になったのであわただしくこの電車で往復したっけ,などということを思い出した。
 さすがに終業式の翌日では,学生の団体もほとんどなく,空港は空いていた。さっそくデルタ航空のカウンタでチェックインをした。
 チェックインは,1日前からネットでもできるのだが,失敗を恐れチャレンジできなかったので,ここではその様子は書けない。
 今年は,対応したデルタのカウンタの女性は昨年とは違いあまり愛想がよくなかった(態度が悪かったという意味ではない)。
 旅をすると,空港やらホテルやらチケットカウンタやらレストランやらでさまざまな人と接する機会がある。その度に,日本でもアメリカでもいい意味で仕事に「遊び」とか「余裕」が感じられる人と,そうでない人がいる。
 余裕のある人はすてきである。相手を幸せにする。ビジネスクラスに変更にならないかという淡い期待とはうらはらに,今年は何事も起きなかった。
 もし,ダブルブッキングがあったとしても,今回はどう考えても予約した便が最短時間の飛行機なので,別の便にされては到着が遅れるだけだ。
 予定通り変更なしであることにほっとした。荷物を預け,あとは,出発を待つのみになった。
  
 ひとつ問題が起きた。
 伸縮自在のばねでズボンと固定してあった財布のばねがちぎれてしまったのだ。別のものでしのいだが,こういう小物を探しても空港の売店に置いていない。
 毎年のように海外を旅行して,これまでにさまざまなトラブルと戦って,いや,対処して,自分の身を守る方法はだんだんと確立しつつあるのだけれど,そういうときに必要な小物は,こういう場所でなかなか手に入らない。

 時間はお昼少し前だけれど,ここの空港で昼食をとってしまっても機内食がすぐに出る。
 時間をもてあまし,空港内をウィンドウショッピングしたり,散歩したりした。さして広くない空港の2階は,知多地方の特産品をゆるきゃらやらハワイアンダンスやらで宣伝をしていたので混み合っていて,結構時間つぶしになった。
 フリーで wifi が使える場所があったが,重くて接続できなかった。これでは名ばかりのサービスだ。

 ここで愚痴を書く。
 近頃の日本の商売はどこかおかしい。店員の言葉づかいと態度だけは「度を越えて」教育というか訓練されているので,外面的には親切なのだが,彼らは形だけ教育されていて本質的に何がサービスかわかっていない。
 たとえば,先月,数年間1度も使っていなかった「セゾンカード」の更新が,何の予告もなく打ち切られた。使用期限が過ぎても新しいカードが来なかったのだ。ブラックリストに載ったわけでもないのに「お前は客ではない」と言われたようなものだ。問い合わせの電話をしたが,その電話は,応答までさんざん待たされた。そして,さんざん待たされたあとで,やっと電話に出た女性に,(カードが無効になるという)そんなことがどこに書かれているのかと言うと,「〈書かれていないが〉カードの期限を決めるの(=権利)はこちらのほう(=会社)だ」と彼女は電話口で言い放った。
 実は,カードは使っていないわけではなく,別のサービスのポイントがセゾンカードに溜まっていくようにしてあった。よって,相当数のポイントがあった。しかも,セゾンカードは「永久不滅」のポイントを謳っている。ポイントが残っているカードを,契約には〈書かれていない〉のに事前に何の連絡もなく勝手に反故にするというのは,ポイントは金銭に相当するのだから,これは詐欺ではないか。しかも,電話がなかなかつながらないと,カードを紛失したときなどの緊急事態にとても困ることなのだから,この会社のもしもときの対応がまったくなっていないのだ。こんなカードはもっていてはいけない。こういうことが,ユーザーの信用を無くしていることをわかっていない。
 要するに,経費節減とは何をすべきか,この会社の上司は頭が回らないだけなのだ。
 利用しないとカードが無効になる程度の連絡はメールでも事前にできる。
 電話口の女性にくどくど言っても始まらない。彼女には何の権限もない。
 そういえば,このカード会社,ずっと以前にも,アメリカで使ったとき,カードの番号が盗まれた可能性があるので,カードを変更します,という連絡があって,別の番号のカードに変更されたことがある。その際も,大量のポイントが何の説明もなく反故にされた。

 生命保険の対応でも同じようなことを思ったことがある。
 まさかの時の手続きの方法が会社によってものすごく違う。ある社では,1枚の書類と診断書のコピーでよいのに,別の社では,書くのに大変なほどの書類と5,000円の保険金をもらうための書類に3,000円の自社の様式の診断書が必要だったりする。
 生命保険は,まさかの時にちゃんとした対応ができるものを選ぶこと。そういうことができることをサービスという。それが最も大切なことなのだ。
 サービスとは会社の信用とは頭を深く垂れてお辞儀をすることではない。マスコミの前で頭を下げて管理職が陳謝する日本独特のなさけない習慣でもない。
 関連して,旅行保険について書く。 
 以前,現地で事故にあった時,AIUの旅行保険の現地での職員の対応は最高であった。日本に帰国したあとの日本の職員の対応は最低であった。こちらのしてほしいことに対して,対応できないのだ。そのとき,保険会社の対応は会社の能力というよりも,対応する社員の能力によるところが大きいと思われた。
 今回契約した旅行保険は,「t@biho(たびほ)」というもので,ネットで契約した。幸い利用しなくて帰国したので,まさかの時の対応がどうかはわからないが,帰国後,御無事でお帰りなさいというメールが来たのには良い意味でびっくりした。

 閑話休題。
 解約された「セゾンカード」とは違って,私は,実は,オリコの「ゴールドカード」を持っている。そのカードで空港ラウンジサービスを利用できることを思い出した。そこで,ラウンジに行った。ラウンジにはほかに1組の家族連れしかおらず閑散としていた。のんびりとコーヒーを飲んでいたら,やがて,搭乗開始の時間になった。
 セキュリティを通って出国の手続きをした。列ができないほど空いていたのに,自分の前の外国人の女性がなにやら戸惑っていっこうに終わらず,ずいぶんと待つことになってしまった。やっと自分の番になった。簡単に手続きは終わり,パスポートに出国のスタンプが押された。そして,搭乗口へ行った。
 この飛行機を利用するだけの人は待合所にいるのだろうけれど,なぜだかとても閑散としていた。
 やがて,搭乗手続きが開始され,いつものように,ハンディのある人と高いお金で航空券を買った人から順に機内の人となった。
 機種はジャンボだったが,狭い機内で10時間以上…,早く着いてほしいなあ,と思った。

◇◇◇
8月10日,ドジャースタジアムで野茂の Bobble Head が観客にプレゼントされると以前書きましたが,この日,野茂が始球式をするということです。テレビ中継もあります。

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 このようにして,ボストンとニューヨークに滞在する日を決めてしまったので,これをもとに日程を立てなくてはならなくなった。
 そんなわけで帰りは必然的にニューヨークからになった。
 地図を眺めながら,今回の旅行のルートをどうするかを考えた。メイン州,ニューハンプシャー州,バーモント州といった,小さな州に何があるか,その時は全く知らなかったけれど,ともかく,周回ルートができないかを考えた。
 ボストンでの日程が旅の途中にあたるので,ボストンからニューヨークへはバスか鉄道で移動しようと思った。そこで,行きはボストンか,メイン州のポートランドで旅を始めて,ボストンまでレンタカーで周回することにした。
 昨年の旅行でオーバーブッキングになったときにもらった20,000円相当のクーポンを利用するために,インターネットのデルタ航空のサイトで,航空便を探した。
 関空からはシアトル便しかなく,東海岸へ行くのだから,直行便のある成田か,デトロイト乗り換えの名古屋からの便を調べていくと,ポートランド便は乗り換え時間が長く値段が高いので,ボストン便で行くことにした。つまり,名古屋-デトロイト-ボストン,帰りはニューヨーク-デトロイト-名古屋で,17万円あまり,20,000円を割り引いて,15万円あまりだったので,さっそくこの便を予約した。
 このようにして,今回の旅行は,レンタカーもホテルも旅行保険も,すべて,インターネットで予約した。
 6月末までにはすべき予約はすべて終えたのだが,ここで行く前の準備をくどくど書いてもおもしろくないので,旅の途中でだんだんと書いていこうと思う。

 旅行の荷物はなるべく少なく小さいほうがいい。
 ここでは,今回の旅の三つの必需品について書く。
 ひとつ目は,カメラである。カメラはニコンのクールピクスP300(現行機種はP330)というのが絶対に便利だ。カメラ雑誌には,いろんな機種について,性能やら操作性やらうんちくが書かれているが,机上で書かれているだけで実際の操作性や使い勝手とは無関係なことが多い。
 このカメラは小さくて片手でズームも含めて楽に操作できる(スマホは片手で写真が撮れない。)。レンズが明るいので暗いところでもフラッシュなしにきれいに映るから,夜景も大丈夫。接写モードにすると食事もきれいに撮れる。アメリカの旅行で絶対に必要なのは望遠でなく広角レンズで,この点でも24ミリ相当からのズームなので,適している。このブログの写真は,ほとんどこのカメラで写したものである(「LIVE・特別編」で掲載したものはiPod-touchで写した写真)。
 ただひとつの欠点は,電池ボッスクの留め金が軽くすぐに開いてしまうことだ。
 これまでに望遠レンズが必要だと感じることはまずなかった。ただし,今回は,大リーグをアップで写すためだけに,さらに,ニコン1J3というカメラに270ミリ相当まで拡大できるズームレンズをつけて持って行った。このカメラにしたのは,市販のレンズ交換カメラで望遠レンズがもっとも小さいことによる。さらに,1秒60コマとかの連写ができる。使って分かった欠点は,撮り終わったあとの写真の読み込みが遅いので,次の写真を写すまでにタイムラグができることだった。

 ふたつ目は,iPod-touchである。ネット環境があれば,これで,メールもインターネットもできる。目覚ましにもなる。少し調べてみたところ特別な契約をしなくても,アメリカでは空港やホテル,街中のマクドナルドなどは,Wifiが無料で使えるらしい。でも定かでない。実際はどうであるか,これも,今回の旅の興味のひとつであった。電話は「ブラステルカード」があれば,日本に電話をするときはホテルの電話や公衆電話から安価にかけられる。現地で電話が必要なことはまずないが,必要があれば,ホテルや街中の公衆電話で十分である。緊急事態での連絡のためだけに携帯電話(スマホではない)を持って行ったが,海外で使うからとって特別な契約は不要である(携帯会社の金儲けに乗る必要はない)。iPod-touchで写真も写せるが,いろいろと写してみて思ったが,やはり,「それだけ」のものであった。

 三つ目はウォークマンである。iPod-touchでもいいのだが,こちらのほうがノイズリダクションがついていることと,電池の持ちがいい。機内での暇つぶしに最適である。ただし,現地では必要なく,機内だけでの必需品である。
 ちなみに,アメリカの電圧は120ボルトで,クールピクスP300に付属のUSBと電源のコネクタ(充電ACアダプター)が他の電源供給用のUSBケーブルと接続できる。また,空港の待合所は,USBケーブルのまま充電できるようになっている。
 また,カメラは予備のバッテリーを持っていくことをお勧めしたい。

 これ以外に必要なものは,着替えが少々,スニーカー1足。水着。歯ブラシとシェーバー。老眼鏡!
 命より大切なパスポートとクレジットカード2枚。デルタ航空のマイレッジカード。運転免許証と国際免許証。
 ホテルなどの予約確認書など必要な書類。
 それに,娘からもらったお守り。

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 今年の旅でさまざまなところを訪れました。そのどこもがとても素晴らしいところでした。アメリカの豊かさを感じました。
 その中で,もっとも思い出に残っているのは,フェンウェイパークでもヤンキースタジアムでもクーパーズタウンでもブロードウェイミュージカルでもバーハーバーの日の出でもなく,実は,タングルウッドなのです。
 まだ旅立ったばかりの旅行記なので,ダングルウッドが出てくるのはずっとあとのことですが,思い出が新しいうちに,その空気を少しだけ。
 タングルウッドは地名ではなく,ボストン交響楽団が夏の音楽祭を行う場所の名前です。
 日本の誇る世界の大指揮者で,30年以上ボストン交響楽団の常任指揮者だった小澤征爾さんの娘さん小澤征良さんの書いた「おわらない夏」というエッセイ集があります。 このエッセイ集は,彼女がその少女時代に過ごしたタングルウッドの様子を語ったものなのですが,この本の中から,タングルウッドに関するところを要約して紹介してみましょう。

  ・・・・・・
 1850年頃,アメリカ人作家ホーソーンはこの地の小さな家に住んでいました。ここで彼は,近くの森の名前をとって,"Tanglewood Tales for Girls and Boys"  を書きました。その後,この土地を所有した人物がこの名前をすっかり気にいて,自分の土地をタングルウッドとよぶようになったのです。
 月日は流れて,1936年,当時のこの土地の所有者,ウィリアムズ・タッペンは妻キャロラインとともにこの広くて美しい土地をボストン交響楽団と指揮者クーセヴィツキーに贈ることにしました。
 1938年8月4日に作らてたシェッド(掘立小屋)と呼ばれるメインコンサートホールは,まわりに壁のない扇形の巨大な白い建物で,音楽の合間に小鳥がさえずり木々にそよぐ風の音が聞こえます。外の芝生にも,人たちがテーブルやいすを並べ,音楽を楽しむことができます。
 1994年7月7日には,セイジオザワホールも作られて,木製のイスや床の美しい音響のホールとして,音楽を楽しむことができます。
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 タングルウッドがあるのは,ボストンからインターステイツ90を西に2時間30分ほど行ったニューヨーク州との境のレノックスという町で,約350エーカー(=1.4平方キロ,1エーカーは約1,224坪)の広大な土地は,湖や森に囲まれて,全面芝生張りのとても美しいところです。
 夕方5時頃になると,こんな山の中のどこにいたのだろうかとおもえるほど大勢の人たちが,のんびりと,この地に集まってきます。
 ゲートをくぐると,めいめいが森の木陰に,机やイスを広げて,ピクニックを始めます。
 やがて,午後6時,セイジオザワホールでは,フリーの演奏会が始まり,ボストン交響楽団のメンバーが室内楽を演奏します。ホールは開け放されて,外からも音楽を楽しむことができます。
 それが終了すると,コンサートの時間まで,散歩をしたり,食事を楽しんだり,語らったり,のんびりとした時間をすごします。
 定刻の午後8時30分,日が暮れて,まわりがすっかり暗くなったころ,シェッドでは,コンサートが開始されます。
 私は,自然の中,空気の音と楽器の響きが溶け合って,これほどモーツアルトの音楽を魅力的だと思ったのははじめてのことでした。音楽は,このように楽しむものなのだなあ,と思いました。
 音楽が終わるころには,夜空には満点の星たちが輝いていました。
 まさに,おとぎの国でした。
 音楽家を志す若い人は,ぜひ,一度,ここを訪れてください。人生観も音楽に対する気持ちも変わります。

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 ほほに風が心地よくあたるのを感じながら突然,その瞬間にわかった。
 私の一部分は確実にこの風のふく,小鳥の鳴くタングルウッドでできているのだと。
      小澤征良 「おわらない夏」
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1986年,このタングルウッドで起きた「奇跡」はあまりにも有名です。それは,当時14歳だった天才ヴァイオリニスト・五嶋みどりが,演奏中に2度もヴァイオリンの弦(E線)を切るという事故にもかかわらず,コンサートマスター,アシスタントコンサートマスターからヴァイオリンを借りて演奏を完遂したという出来事です。翌日のニューヨークタイムズの一面には「14歳の少女,タングルウッドを3台のヴァイオリンで征服」と報道しました。この話は,アメリカの小学校の教科書に取り上げられ,日本の高校の英語の教科書にも載っていました(1995年発行の「Genius English Readings」)。

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 イチローを見ることが今回の旅の目的のひとつであったが,ニューヨークよりも,むしろ,ボストンで野球が見たかった。
 憧れのボストンレッドソックスの本拠地フェンウェイパークはもともと収容人数が少ない上,超人気球団で,チケットはずっと売り切れが続いている。さすがに,昨年は成績が不振で,秋口には満員にならなかったこともあったが,なにせ,旅行は夏休み真っ盛りの7月である。
 旅行は,7月20日に出発して,10泊12日を考えた。昨年の7泊9日では,少しあわただしいのだ。

 3月,旅行を予定している期間の中で,ボストンが本拠地で試合をしている日をネットで調べて,チケットが入手できるかを操作していたら,何の問題もなく,7月25日のタンパベイレイズ戦のチケットが3,000円くらいで入手できてしまった。
 いつも売り切れのボストンの試合のチケットがこんなに簡単に入手できるとは思わなかった。それならと,もう少し調べたら,7月21日にニューヨークヤンキース戦があったのでこちらも簡単に入手できるのでは,と思ったが,当然,すでに売り切れであった。

 次に,ニューヨークでのチケットを探した。
 ニューヨークにはヤンキースとメッツの2つの球団がある。
 ヤンキースはもちろんのこと,メッツの試合もできれば見たかったが,メッツは,7月26日以降はずっと遠征で,試合がなかった。
 旅行を予定している期間の中で,ヤンキースは7月26日~28日のタンパベイレイズ戦しか試合がなかった。こちらもレイズか,と気が進まなかったが,ボストンからの移動を考えて最終の28日のチケットを買うことにした。
 それがなかなかうまく進まない。まず,チケットが異常に高価なのだ。次に,ボストンでは,予約をした日のチケットは家庭のプリンタで印刷をすればいいのだが,どうやら,ヤンキースは,予約したのち改めて現地の窓口まで行って(「willcall」という)チケットを入手するという従来の方法をとらなくてはならないらしい。チームよって方法がちがう。
 ともかく,なんとか工夫して,28日のチケットを10,000円くらいもしたが予約することができた。
 それにしても,チケットは高くなった。昔の5倍くらいもする!

 そんなわけで,往復の航空券を購入する前に,現地のMLBのチケットを(かなり勇気がいったけれど,最後は勢いで)購入してしまったわけだ。4か月先のこと,行けるかどうかも分からないのに,こんなに気軽にアメリカのMLBのチケットが家のコンピュータで購入できてしまうというネット時代は驚きである。
 この時点では,購入したニューヨークの試合が松井の引退セレモニーになったことは当然知らなかった。それは全くの偶然であった。

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 数年前に行ったとき,置き引きにあってとんでもない状況を経験して以来,私はロサンゼルスという都会が嫌いです。このことは,いずれ書こうと思っていますが,今回は,プイーグという選手が話題で,ナショナルリーグ西地区首位の「今年こそは」の期待が高いロサンゼルス・ドジャースについてです。
 はじめてアメリカへ行った遠い昔,あこがれだった大リーグをはじめて見たのが,ロサンゼルス・ドジャースでした。
 当時のロサンゼルス・ドジャースの本拠地ドジャースジアムは,広告が一切なく,カリフォルニアの大地にそびえる美しい球場の姿に,さすがアメリカだ,と感動したのを覚えています。場所ごとに色分けされた客席では,遠く離れたお客さんにビーナッツ売りが正確に商品を投球し,お金をバケツリレーさながらにお客さんの間を手渡しで回しているのを見て,妙に感心したり,7回裏の攻撃の前に,総立ちで何かしら有名であろうと思われた歌(この歌が「私を野球場に連れてって」だと知ったのははるか後のこと)を歌い,チャンスになればオルガンが響き渡る,日本にはない洗練された姿に心が躍りました。

 あれから33年経ちました。
 ロスアンゼルスの国際空港は古くなり,汚く,空港内にも物売りがいて,それでも不思議とそれがアメリカらしいというべきか,しかし,およそ西海岸という陽気さや明るさが感じられないように感じます。しかも,他の多くの空港と違い,レンタカーを借りるのにも空港内にはそれぞれの会社のカウンターがなく,見過ごしてしまいそうな表示にしたがって,レンタカー会社の送迎バスターミナルまで足を運ばなければならないので,初めてこの地に降り立った不案内の旅人にとっては,きわめて不安なところだと思います。
 それでも,そうした困難を乗り越えて,一旦車を手に入れて,サンタモニカブルバードをダウンタウンに向かって走っていくと,ラジオからはドジャースの中継放送が聞こえはじめて,心がうきうきしてくることが,はるばる遠くから旅をしてきたときにだけ感じることのできる魅力のひとつであることは,昔も今も変わりがありません。「Wait Till Next Year」(Doris Kearns Goodwin著)には,ニューヨーク・ブルックリンの下町に本拠地を構えていたドジャースが,惜しまれつつ,西部開拓時代の人々と同じように夢を求めてロサンゼルスにフランチャイズを移したころのアメリカの姿が生き生きと描かれています。

 毎年,今年こそ,という希望の中でシーズンが始まります。そして,やがて秋になり,いつもつぶやくのです。
  "Wait Till Next Year"
 そして,球場には,
  "We Believe Next Year."
という,ボードが掲げられるのです。
 スタンドに座ると,カリフォルニアの青い空,ドジャースタジアムのはるかかなたの山の中腹に,次のサインを見ることができます。
  "THINK BLUE."
  チームのことをいつも想っているんだよ。
 今年は夢が破れても,それでも,いつも,ロサンゼルスの人たちは,ドジャースを信じているのです。
 ドジャースジアムを訪れると,いつも「上を向いて歩こう」のテーマでマウンドに向かい,孤軍奮闘する野茂英雄の勇士を思い出し,涙がでてきます。
 ロサンゼルス・ドジャースは,人気も伝統もあって,日本人にもなじみが深く魅力的なチームだと思うのですが,なせか,毎年,いろんなことがチグハグで,力を発揮できないでいるのは残念なことです。せめて,野茂の引退セレモニーくらいしてあげたらよかったのに…。
 きっとこの低迷は,すべての日本の野茂マニアの"NOMO CURSE"のせいなのでしょう。ああ。
 ところで,8月10日,ドジャースタジアムの試合では,野茂の Bobblehead が観客にプレゼントされます。これは,野茂の引退セレモニーとは無関係なのでしょうか?

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 若い頃,アメリカ合衆国西海岸を旅行してから,今度は,東海岸にひとりで行きたいと思うようになった。地球儀を眺めながら,ちっぽけな日本を見て,自分はこんなちっぽけな国から外に出ることもできないような人間じゃあいけないという思いが強く強くなっていった。そうして,英語を勉強して,はじめてアメリカ合衆国の東海岸をひとり旅した。
 ここに,その時のアルバムがある。
 それから32年の歳月が過ぎた。そして,今年,再び,東海岸をひとりで旅した。
 
 32年というのは,社会人になった人が,人生を仕事に費やす年月と同じくらいの長さである。
 この32年を長いと感じるかあっという間と感じるか,いずれにしても,そういった年月に起きたさまざまなことを思い出したり,人生の長さは,たったこれだけのものだったのか,という不思議な感覚に襲われたり,あるいは,32年過ぎても成長していない自分を情けなく思ったり,または,32年という年月で,自分はこれだけのことができるようになったという喜びを感じたり,そうした複雑な気持ちになった旅だった。
 そしてまた,32年という年月は,自分が変わった以上にアメリカが変わったようにも感じた。
 インターネットの発達は,世界をどんどんと狭く,そして,共通化する。都会を歩いていると,東京もニューヨークもさほどの違いを感じない。このことは,旅をどんどんと便利にする反面,非日常という旅の魅力を半減させることにもなった。そのことが,寂しい。

 32年前のひとり旅からしばらくして,今度は,アメリカ合衆国50州を制覇したいなあ,できれば,MLB30球団を見てみたいなあ,という自分の興味から,毎年のように旅をし始めた。それから20年近くになる。
 残るのは,コロラド,ニューメキシコ,カンザス,ネブラスカ,ノースカロライナ,サウスカロライナといった中央部と,メイン,バーモント,ニューハンプシャーといったニューイングランドの北部だけになった。MLBも20球団以上のボールパークで見た。野茂も見た。新庄も見た。シアトルでイチローも見た。
 今年は,コロラド,ニューメキシコ州あたりをのんびりとドライブしようと考えていた。都会にはほとんと興味がなくなっていた。ニューヨークは15年前に訪れたきりだった。
 それが,昨年の7月に,イチローがシアトルからニューヨークにトレードされてから,もし,今年,イチローがニューヨークと再契約するのなら,ニューヨークへ行こうと決めた。イチローが見られる時間もそれほど多くは残されていないと思った。そして,実際,イチローはヤンキースと2年間の契約を交わした。そうなった日から,ニューヨークへ行く計画を具体化していった。その過程で,今回の旅で訪れる地では,これまでにやろうとしてやり残したこと,そう,ブルックリンブリッジを歩いて渡ることやグランドゼロへ行くこと,タングルウッドで音楽を聴くこと,フェンウェイパークで野球を見ること,クーパーズタウンの野球殿堂へ行くこと,などなど… をすべて実現しようと考えた。そのころから,この地に行くことがすごく楽しく,興味深く思えるようになった。このことが,自分にとって一番の驚きだった。

 今回の旅行記は,ガイドブックに載っているようなことではなく,実際に,車と公共交通を使い,できるだけ自分の力でアメリカを旅したい,と考えている人たちに参考になるように,あるいは,自分の記憶にとどめるために,また,読むだけで旅をしているような気持ちになるように書いてみたいと思う。ものすごくたくさんの写真も写したので,それとともに楽しんでいただけたらと思う。
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 まず3月に,この旅の計画は,MLBのチケットを入手することからはじまった。

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 名古屋でマニラ行きに乗り換えることができるので,名古屋便の搭乗口は,多くのフィルピン人がいた。日本人はほとんどいなかった。
 やがて,やっと搭乗の時間になって,飛行機は3時間以上遅れて,デトロイトを出発した。
 フィルピン人で溢れかえる機内は,少しの空席があって,幸い空席のとなりの席を手に入れた人は,2つの座席を独占して倒れるように眠っていた。私の隣の席も空いていたが,そういうすることをなさけないと思った。
 機内には,もう,「Hi!」といって気さくに話しかけるアメリカの香りはどこにもなかった。客室乗務員も,アメリカの国内便のような気さくさや明るさはこれっぽっちもなかった。みんなが不機嫌そうだった。
 これからの13時間を越す退屈なだけのフライトが憂鬱だったので,空いた隣のその向こうに座ったフィリピン人の老夫婦が何か語りかけたけれども,返事をしなかった。空いた席を使いたいということだった。私は,勝手にしろ,と心の中でつぶやいた。

 やがて,機内にいるのがさんざんいやになったころ,夏の熱気でむせかえる中部国際空港に到着した。夜9時だった。マニラ乗換え便は夜12時発なのだそうだ。
 まだ,せめて日本に生まれたのは幸運なことだったかもしれないな,と思った。
 バゲッジクレイムにはデトロイトからの到着便の荷物を待つ人は少なく,隣の香港,その隣の韓国からの帰国便は,お土産を一杯抱えた家族連れで,ごった返していた。
 空港からの名鉄特急の指定席は満員だった。隣に乗り合わせた,私と歳の近い女性は,韓国からの観光旅行の帰りだった。韓国に行って,日本が韓国でした歴史を嘆かわしいと感じたと話した。とても気が合って,楽しく話をしていたら,あっという間に,名古屋に着いた。
 また,ひとつの夢が実現した。そして,またひとつ,夢を失った。今度は,どんな夢を実現しようか?

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 自己を高めてくれるものはあくまでも能動的な愛だけである。たとえそれが完璧な片思いであろうとも。
    北杜夫「どくとるマンボウ青春記」より 
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 やがて,フライトの時間になって,時間通り,ミネアポリスからデトロイトへ向かった。
 この旅行では,はじめのうちは,座席がいつも1番前だったのに,ビスマルクのときと,今回は,1番後ろの座席になった。機内サービスのソフトドリンクが来る頃には,もう,着陸態勢に入っていた。アップルジュースを頼むと,グッドアイデアねと言われて -残っている飲み物の種類が限られていたのだろう- 缶からジュースを注いだ残りの入った缶も全て渡された。
 デトロイトの空港には「空」という名の寿司屋があって,アメリカ人が上手に箸で寿司を食べていた。

 今回の旅行の最後のフライトは出発が3時間遅れなので,20ドルのミールクーポンをくれた。それでマクドナルドへ行って,ハンバーガーをテイクアウトした。以前,このマクドナルドで,セットだったのに,英語が聞き取れずもうひとつサラダを頼んで,2つ抱えて困ったことを思い出した。あれはもう10年も昔のことだ。
 さして広くないデトロイトの空港で,本を読んだり音楽を聴いたりして,怠惰に時間を過ごした。時折,日本語の放送「こちらデトロイトはアメリカ東部標準時です。時間をお確かめください」が聞こえる。

 この旅では,シアトル,ソルトレイクシティ,ラピッドシティ,ビスマルク,ミネアポリス,デトロイトと,いろいろな空港に降り立った。時差も4回変わった。
 この旅は,ノースダコタ州に行こうという動機からはじまったが,結果的に,アメリカを横断することになった。ノースダコタ州はそれほどまでに遠かった。そして,想像した以上にすばらしいところだった。
 デトロイトの空港にも日本人はほとんどいなくて,東京便の搭乗口には中国人があふれていた。
 名古屋便の表示を見たとき,ああ,帰国するんだなあ,と思った。今回の旅は終わりなんだなあ,と思った。

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☆9日目 7月29日(日)
 いよいよ,帰国である。
 きょうは雨。これまで,1日目にラピッドシティに着いたときだけ雨。旅行中は,夕立でこそあったけれど,いつも晴れていた。国立公園に行ったときは,ほとんど快晴で,暑いくらいだった。
 この地域は,1日中雨ということはないという話だったけれども,もし,この旅行中,雨天だったら,印象はまったくちがったものだったろう。その意味でも,非常に幸運だった。

 早朝,ホテルのロビーに下りてみたけれど,まだ,パンが届いていなかったので,何も買わず,空港で朝食をとることにして,部屋でコーヒーだけを飲んだ。
 少し早めにホテルをチェックアウトして ―結局,追加料金なんて1ドルも要らなかった― 傘をさして,電車の駅に向かった。早朝のトラムの駅は,食べかけの食料が散在していて不愉快だった。反対側のホームに,女性がひとり,ターゲット・フィールド行きのトラムを,ぼーっと待っているように見えた。やがてトラムが来たのに,彼女はそれに乗るでもなく,まだ,ホームにいた。
 空港経由のモール・オブ・アメリカ行きは,前のトラムが出たばかりだったので,かなりの時間待つ必要があった。やがて,次のトラムがきた。

 空港へ向かう車窓からの景色は,自宅から空港へ向かうときの日本の景色とさほど変わらなかったように感じた。やがて雨はあがり,今日もミネアポリスには真っ青な空が広がっていた。
 今回の旅で,自分にとって,アメリカも特別な存在でなくなってしまった。少しさびしい気持ちだった。
 やがて,トラムはミネアポリスの空港に着いた。
  デルタ空港のカウンタに着いて自動チェックインをすると,ミネアポリス-デトロイト便は予定通りだが,デトロイトからのフライトが3時間遅れという表示があって,いやになった。

 荷物を預けようと係の女性と英語で話をしていたら,途中で,彼女は,日本の方ですが?と言って,お互い日本語になった。めったに日本語で話ができないのでうれしいということだった。だれも何を言っているかわかりませんから,と言って,雑談になった。アメリカで仕事をしている日本人もアメリカにいるとこちらの文化に同化して,明るく気さくになる。仕事なんて,こういうふうにすればいい,と思う。アメリカでは,組織の中で自分に任された仕事をこなすのに,つねに上司にお伺いを立てたり報告をしたりする必要はなく,自分の責任で決断してやればいいのだそうだ。失敗したときはきびしいけれど,それは仕事だから当然だ。

 ノースダコタに行ってきたんですよ,と言ったら,彼女は,ノースダコタがどういうところか知らないと言ったので,ここに住んでいるのなら,空路ビスマルクまで行って,そこからドライブしてメドナに行けば,3日は十分に楽しめますよ,なにせ,アジア人の団体客がいないから最高ですよ,といった話をした。現地在住の,しかも,ノースダコタ州の隣のミネソタ州に住んでいる人にすら,ノースダコタ州は馴染みのない場所なのだろうか。であればなおさら,今回行った価値があると思った。
 荷物を預け,ミネアポリスの空港で,さしておいしくもないサンドイッチの朝食をとった。

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