しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

September 2013

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 この町の最盛期は19世紀の終わりから1920年代までで,その当時は銅鉱山ブームに沸き,ビュートには酒場や妓楼が立ち並んでいたといいます。
 初期は銀や金を産出し,のちに豊富にあった銅の採掘で「世界一豊かな丘」と呼ばれました。
 現在でも,この町の公式観光案内には,「世界一豊かな丘」と書かれています。
 そんな歴史もあるので,ビュートは,西部開拓時代の雰囲気も残し,数々の名所もあり,しかも, 雄大なロッキー山脈を望みながら,現代の普通のアメリカを味わうことができる素敵な町なのです。

 町の一番北に小高い山がひとつあって,町のシンボル「M」の字が,京都大文字さながら遠くからも眺めることができます。
 この「M」は「mine」を意味しているそうです。この山は車で簡単に登ることができます。
 この山に登ると,美しいビュートの町並みを眺めることができます。
 トロリーバスで町を巡った後は,まず,車でこの山に登ってみましょう。また,その東には,「グラナイト・マウンテイン・マイン・メモリアル」という広場があって,大きなアメリカ国旗がはためいています。ここからも,眼下に町並みが広がっています。
 山の上からはダウンタウンに向かってまっすぐな道がつながっています。

 山から下っていく途中,このあたりには,1ダース以上の巻き上げやぐらが坑道に立っています。その周辺は住宅街なのですが,転々とならぶ住居は,当時の繁栄をしのばせる雰囲気があります。
 また,ところどころに,レンガ造りの廃墟となった建物の跡があります。一部、ゴーストタウンの様相を見せているとこともありますが,それらも,哀愁があります。
 車を停めて,少し歩いてみてもよいでしょう。
 山から降りたところは,「ブロードウェイ」と名付けられたストリートが東西に走っています。
 この道の角に「コッパー・キング・マンション」という名の豪邸があります。時間があれば中を見学することができます。
 このあたりは,図書館や博物館,銀行,劇場,レストランなども立ち並び,落ち着いた繁華街になっています。
 このように,ダウンタウンは再開発されていて,今も、町の中心部として機能しています。
 のんびりと歩いてみると,ところどころに歴史的名所の説明板もあるので,いろんな発見ができるかもしれません。
 
 このストリートから西側をみると,坂道になっています。そして,小高い丘にはモンタナ大学のキャンパスがあります。
 さすがにこの大学には鉱山学部があります。大学内にある鉱石博物館は,一般の人も見ることができます。
 私も,大学のキャンパスに車を停めてこの博物館ヘ行きゆっくりと見学したのですが,戻ってみると,車に無断駐車の張り紙がしてありました。数十分のことでも容赦のないのがアメリカ流ですが,もどって博物館のスタッフに話すと,ノープロブレムと言われました。これもまた,アメリカ流でした。
 アメリカの大学らしく,この大学も広いキャンパスや競技場があります。
 私の訪れたときは,9月で,ちょうど新学期がはじまったところだったようで,学生がサークルの勧誘などをしている姿は,日本と同じでした。
 生協では,中古の教科書をたくさん売っていました。
 日本人のいない町なので,逆にこういった環境を求めて,目的は鉱山でなく英語だと思うのですが,それを学ぶ日本からの留学生が数人在籍しているようです。私が入院していたときも,そのうちのひとりの留学生が私を助けてくれましたが,聞いてみると,勉強は非常に大変そうでした。
 こういうところに留学して勉強をするのもよいと思うのですが,学生の身では,あまり遊びに行くところもないし,車をもっていないと移動にはどうにもならないところだろうと思います。

 この大学をさらに西へ行ったところに,「ワールド・ミュージーアム・オブ・マイニング」というテーマパークがあります。
 このテーマパークには,この町が繁栄していたゴールドラッシュ時代の町並みを再現した建物群や,博物館などがありました。坑道の中を案内してくれるツアーもあったのですが,時間が合わず,私は参加することができませんでした。
 そして,ここからもう少し南側に行くと,私が入院していた病院があります。

 町の北東には,銅を掘った跡地で大きな水たまりになった「バークレービット」があります。
 ここは,1950年代,地下採掘から露天掘りに切り替えて,それを放置した跡で,有害な重金属を含む酸性水の水たまりです。ここに降り立った渡り鳥が,一夜にして死んでしまったとか。この猛毒の水たまりは,水位が上昇しているようで,いつの日か,この水がしみ出し,有害物質が近隣地域や川に入り込んだらえらいことになるという懸念があるそうです。大丈夫なのでしょうか?
 「バークレービット」の入口に大きな駐車場があります。
 私は,「バークレービット」は,トロリーバスで市内観光をしたときにここで時間をとって見学をすることができました。
 入口からトンネルを入っていくのですが,結構長いトンネルで,それを抜けると,展望広場があって、水のたまった巨大なビットを見学することができました。最後に,「グラナイト・マウンテイン・マイン・メモリアル」からの展望をお楽しみください。

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 モンタナ州は、西海岸に面したシアトルのあるワシントン州から,東にアイダホ州を通過したその次の州です。
 このブログの入院体験記で,ビュートはどんなところだろうと思われた人もあるかと思うので,今回は,私が9年前に6日間入院した町ビュートについて,詳しく紹介したいと思います。

 すでに書いたように,私も,帰国して以来,ビュートという町はどんなところだったのだろうか,とずっと気にかかっていたのですが,その2年後,つまり,今から7年前に,再び,この町へ行くことができました。
 そして,この町を自分の足で歩き回ってみて,改めて,とても素晴らしいところだと実感しました。
 ビュートは小さな町ですが,とてものんびりとして,美しく,さまざまな歴史的な名所もある所なで,アメリカの小さな町を知りたい人は,一度は訪れてみるとよいと,私は思います。わざわざ行くのもたいへんですけれど。
 もし,イエローストーン国立公園へ行く機会があれば,せひ,さらに1日予定を増やして,この町まで足をのばしてみてはいかがでしょうか?

 ビュートは,モンタナ州の南西に位置します。
 私の9年前の旅行では,シアトルからレンタカーでモンタナ州に入り,そのままイエローストーン国立公園へ行き,帰りにシアトルへ立ち寄って,イチローを見る予定でした。
 もし,私も,予定通りに旅行を終えたのであれば,ビュートという町のことなんて通り過ぎるだけで何も知らなかったことでしょう。その行く途中で事故に会ってしまって,偶然にも,この町の病院に入院したことで,ビュートという町を知ったのでした。
 
 そして,その2年後,今から7年前の旅行では,日本からデトロイト経由でミネアポリスまで行って,そこからボーズマンまで乗りついで,ボーズマンから現地在住の日本の方の案内でウェストイエローストーンまで行き,そこで宿泊して、ガイドツアーに参加して,念願だったイエローストーン国立公園を巡りました。
 そして、再びボーズマンに戻って,そこからレンタカーでビュートへ入り,帰りは,ビュートから空路シアトルへ戻るというルートで旅をしました。
 このように,7年前には,シアトルとビュートとボーズマンを三角形に結んだプロペラ機が飛んでいたので,ビュートから空路シアトルへ行くことができたのです。
 しかし,調べてみたところ,現在は,この飛行機は飛んでいません。
 ユタ州のソルトレイクシティと,モンタナ州ビリングスとヘレナからのみ,空路でビュートに行くことができるようなので,日本からビュートに行くとすれば,ソルトレイクシティーから空路ビュートへ行くか,ボーズマンから車で行くか,少し遠いけれど,シアトルから車で行くことになるのだと思います。
 したがって,イエローストーン国立公園から行こうとすれば,ウェストイエローストーンから北上してボーズマンを経由して,ビュートへ行くという経路になります。約2時間のドライブです。

 空路でビュートに降り立ったときは,バートムーニー空港でレンタカーを借りることができます。
 この空港からビュートのダウンタウンに行くには,レンタカーとタクシーしか方法はありません。
 車でビュートに向かったときは,インターステイツ90のマイルマーカー126地点のインターチェンジで降りると,ビュートのダウンタウンのちょうど南に出ることができます。

 このインターステイツ90を,マイルマーカー126からさらに5分くらい東に走ると,インターステイツ90と15のジャンクションに差し掛かります。そこで左折して15に入ると,道は大きくカーブして北上して行きます。そして,そこから30分くらいロッキー山脈を走ると,モンタナ州の州都ヘレナへ行くことができます。
 ビュートからヘレナまでは,非常に展望のよい道路で,途中,高台からビュートが一望できる展望台駐車スペースもあります。そして,その展望台を過ぎると,山並みと牧草地帯が延々と果てしなく続くようになります。
 このまま走っても道路以外もう何もないのでないか,と思うほどこうした道が続いていって,やがて、忽然と,ヘレナの雄大な町並みが高台から開けてくるのです。これは一見の価値があります。
 ヘレナも美しい町で,7年前にビュートへ行ったときに,数時間だけ足をのばして訪れたことがあります。ここは,一度,ゆっくり訪ねたい町のひとつです。
 また,ジャンクションを,そのままインターステイツ90で東に走ると,イエローストーン国立公園の玄関ボーズマンに行くことができます。

 では,ビュートの市内観光にご案内しましょう。
 インターチェンジ126を降りたところに観光案内所があって,ここには広い駐車場があって,車を停めることができます。まず、この観光案内所で町の情報を手に入れましょう。
 この場所からは市内観光用のトロリーバスが1日に4便出ています。約2時間のコースで,町の名所を運転手さんの案内でまわることができます。
 わたしも,7年前,この町で,まずはじめに,このトロリーバスに乗って,市内観光を楽しみました。利用していた人は,観光でアメリカ各地を旅行しているという感じの年配の夫婦が多かったのですが,トロリーバスを利用すると,この町の見どころをすべて見てまわることができました。
 このように,アメリカでは,こうした小さな町でも,何らかのアトラクションがあって,観光名所を楽しく巡ることができます。また,こうしたところを観光で旅をしている人がいるというのも驚きです。どこも混雑していないので、とても気持ちのよい旅ができるのです。

◇◇◇
ヤンキースのマリアノ・リべラが今シーズン最後のヤンキースタジアムの試合で見納めの登板をしました。9回2アウトで交代したのですが,交代を告げられた時に,今年限りで引退を宣言したアンディ・ペティット投手,故障者入りをしているデレック・ジーター内野手とマウンドで抱きあったシーン(先に引退したホヘイ・ポサダ捕手とともに彼らは,ヤンキース黄金時代を作った立役者でした)と,試合終了後に,甲子園の土を集める甲子園球児のように,ヤンキースタジアムのマウンドの土を集めていたシーンは印象的でした。
その前日に行われた引退セレモニーで,先着2万人にリベラ投手のバブルヘッド人形が配られたのですが,実は,この人形,到着が2時間ほど遅れて,詰めかけた観客でちょっとした騒ぎになったそうです。これを手に入れるために何時間も前から並んだ人たちには大変だったことでしょう。

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 バーモント州の紅葉は絶品であるという。この州は,ニューハンプシャー州ほど山深くなく,でも,やはり森と湖が多く,冬はスキーリゾートが有名だそうだ。
 私は,これまでの経緯のように,国道2をひたすら走ってバーモント州に入ったので,さらにそのまま国道2を西に100キロメートル以上走って,バーモント州の中央部にあるモントビリアという町まで来た。
 この町は,人口がわずか8,000人なのであるが,バーモント州の州都である。遠くに見える金色のドームが州議事堂である。
 州都なのに空港がなく,ここにアクセスするには,私がこれから向かうバーリントンから60キロメートル以上走ってこなければならないということだ。
 ここでトリビアをひとつ。
 この町は,全米50州の州都の中で最も人口が少なく,唯一マクドナルドの店舗がない!

 町にはウィノースキー川が流れており,その川に沿って,鉄道の線路があった。
 昨年訪れたノースダコタ州の州都ビスマルクもそうであったが,このくらいの規模の都市は,人が暮らすのにもっともストレスがないのである。緑に囲まれ,文化的な香りがあって,移動するのにも広すぎず,車を停める苦労をすることもない。そして,生活をするのに必要なものはそろっている…。

 この町で,国道2から,インターステイツ89に入るのだが,アメリカで車を運転してもっとも難しいのは,こういう町で道をさがすことなのである。
 ストリート名なんて聞いたことがないものばかりなので,さっぱりどこにいるかわからない。まずは,道路標示を見失わないように注意して,その標示に従って車を走らせる。ところが,車が橋に差し掛かった時,その橋が工事中で,通行止めであった。
 こういったときのう回路がきわめていい加減なのが,またこれも,アメリカなのである。GPSは役に立たない。GPSは,通行止めの道をなぜ行かないかと泣き叫んでいるばかりであった。
 次の橋を渡ろうとしたが,次の橋ははるかに遠く,渡ってはみたもののなんかの工場の駐車場に入ってしまい,結局,う回できなかった。仕方なく元に戻って,通行止めだったもうひとつ手前の橋を渡った。
 渡った先には鉄道の踏切があり,その先に信号のない交差点があり,しかも,その道の手前右手に大きなモールがあって,その駐車場の出口があるものだから,右に行きたい車やら直進したい車やら,左折したい車やら,はたまた,モールに入りたい車やら,モールからでてきた車やらで,ぐちゃぐちゃであった。車線もいい加減で1車線なの2車線なのか対向車線なのか,わかったものではなかった。

 普段日本で運転している身には,こういうのは,われ先に車の鼻を突っ込んで強行突破するか,あるいは,ちゃんと係が交通整理をしているか,信号があって交差点はちゃんと右折帯やら左折帯やらがあるか,そのように思うものだが,こちらでは,これくらいの渋滞は自然の成り行き任せなのである。
 しかも,だれもあせることがない。
 だらだらと時間をかけて,順番に譲り合い,なのである。だから,ちっとも進まない。
 こちらとしては,ともかく,今日の宿泊地まで,まだ100キロメートルも残し,こんなことしている場合でないのであるが,郷は郷に従わなくてはならない。
 というわけで,ずいぶんとこの町で時間を費やし,でも,なんとか元来た通行止めの橋のう回先まで行って,やっと,インターステイツ89に入ることができたのであった。
 こういうことが起こるから,時間の予測はできないのである。

 ところで,きょうの写真にもあるように,アメリカには,信号の代わりに,ロータリーのある交差点もけっこうたくさんあった。ロータリーを反時計まわりに,自分の行く方向まで回って行くのだが,これが結構難しかった。
 回っているうちに方向がわからなくなってくるのだ。GPSは「ロータリーに入って2つ目を右に」とか言うのであるが,その2つ目というのがよくわからないのである。
 日本でも交差点の信号をなくすためにロータリーの導入を図るという話を聞いたこともある。
 私は,交差点の信号待ちもきらいだが,ロータリーはロータリーで道が分からなくなるというのが欠点だということが,実際にロータリーを経験してみて身に染みたのであった。

◇◇◇
きょうは,いよいよ「あまちゃん」最終回です。それにしても,結局,薬師丸ひろ子が全部いいところをもっていってしまいました。近年あまり歌っていないと思うのに,本当に歌がうまかったです。小泉今日子よりも。私は,若いころに見た映画「Wの悲劇」を思い出しました。
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 戸井十月さんの遺作「道,果てるまで」を読みました。
 内容は,このブログでも書いた,NHKBSプレミアムで放送した番組「戸井十月 ユーラシア横断3万キロの旅」を本にしたものでした。活字で読んで,改めて,世界とは,人間とは,という答えのない疑問がより深くなってきました。そして,これまで以上に,私がこれまでの人生で教えられた価値観や人生観など,根底から崩れてしまう衝撃を受けました。
 本当に,人が生きるということは,生きるために必要な食事や家を手に入れるための営みすら何の常識も決まりもないということを,改めて感じました。
 そして,人が生きるのにもっとも大切なことは,人の心の温かさ,そして,やさしさ。これだけは言葉が違っても文化が違っても共通なのだということが,この本を読み進めていくとよくわかりました。
 また,私には戸井さんのような旅はできないけれども,彼が旅で経験し感じたこともとてもよくわかるような気がしました。
 とにかく,すごい本です。

 トルクメニスタンとウズベキスタンの緩衝地帯での出来事は,心を厚くしました。陸続きの国境のない日本人は「国境緩衝地帯」という言葉さえ知りませんし,学校でも学びません。
 賄賂をねだり,機転のきかない小役人,生きるために現れる得体の知れない物売り…,やさしさと退廃と。
 また,テレビの「戸井十月 ユーラシア横断3万キロの旅」には取り上げられていなかった中国の内情が,本には詳しく書かれていました。「この社会は個人の命より利益をもたらす施設や設備やシステムの方が大切なのである」。
 しかし,自ら先進国と自負する日本の中にも,これと同じような人たちや社会システムが存在することを,私はこれまでにたくさん見てきましたし,経験しました。

 また,この本の中に次のように書かれています。
  ・・・・・・
 モロッコで出会ったジャガタクという男が言いました。「この頃の日本の男の子は駄目やね。何も知らんし,ごっつう弱い。新聞も読まへんし,好奇心も行動力もない。これからの日本は大変とちがうか?」
  ・・・・・・
 実際,日本では,この国がいい世界に出たくない,という若者がどんどん増えています。
 きっと,それは時には厳しくとも人を暖かく包む自然を全く知らず,温室の中で,毎日,暖かな日光と水を与えられて育つ植物や,あるいは,日々餌を与えられて,食べる苦労を知らない種族の継続が目的だけの動物園の動物と同じやすらぎなのでしょう。
 彼らは,野に咲く花はすべて平等だけれど,温室の植物は,その完成度と美しさでたえず序列をつけられていることを,動物園の動物は,外形だけはその動物だけど,神から与えられたその動物が持つ本能を無くしてしまっていることを,知っているのでしょうか。それとも,それを知ってしまって冷めているのでしょうか。
 このような若者がどんどんと増えていく,そのような社会を作ってしまったのは,我々おとなの責任なのかもしれません。

 でもね,欲張りな私は思うのです。
 この地球上に生まれて,こうして生きているのなら,いや,生かされているのならば,たとえ吹きすさぶ寒さが身にしみても,一度は外に出てみたいとは思いませんか。外敵がいても,動物園の檻から外に出て,思う存分草原を駆け回りたくはなりませんか?
 私は,知りたいのです。世界中の名もなき人々の今を生きる姿を。感動したいのです。人間が作り出した精神を高揚させる芸術を。そして,理解したいのです。人類の英知で,もう少しで解明しつつあるといわれる11次元あるという宇宙のカラクリを。
 しかし,それには,人の一生はあまりに短いのです。
  ・・・・・・
 この世界には,人の力ではどうしようもない摂理があることを知るのは決して悪いことではない。そんな体験を通して,人は素直にも謙虚にもなれる。
    戸井十月
  ・・・・・・

◇◇◇
昨日,楽天イーグルスが優勝しました。私がずっと気になっていたのが,アンドリュー・ジョーンズ選手だったのですが,嬉しそうに選手の輪に加わっていたのが印象的でした。彼は,アトランタ・ブレーブズでもニューヨーク・ヤンキースでも優勝しているので,日本でのアメリカとは違った優勝後のアクション,たとえば,胴上げとかビールかけをどのように感じたのかなあと思いました。
ひとつ残念なのは,彼は,打撃もさることながら,守備力が天下一品で,いくら歳をとったからといっても,指名打者ではもったいないのです。星野さんわかっているかなあ。クライマックスシリーズを制覇したあかつきは,日本シリーズでセンター守らせてください!

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 気づいたら,車は,バーモント州に入っていた。
 ニューハンプシャー州が不案内であったことのもうひとつの理由は,道路標示が少なかったということもある。
 アメリカでは,名所・旧跡は,茶色の道路標示があって,不案内なところでも,その表示に従って針路をとれば,そこへ行くことができると思っていた。当然,ニューハンプシャー州でも,「ワシントン山」や「コモ鉄道」といった標示があるものだと思っていた。
 ニューハンプシャー州に入ったとき,「ホワイトマウンテンズ」という標示はあった。当然,そのあとに,いろんな標示があるものだと思っていたが,それだけだった。
 国道2が観光道路でなかったということもあっただろうが,標示過多の日本になれてしまっていると,こういう点を十分に調べておかなかったことは反省である。
 実は,コモ鉄道のパンフレットは印刷して持っていた。地図も持っていた。でも,パンフレットの字が小さ過ぎて,見えなかった!
 それにしても思うに,日本の広告看板と道路わきのごみの多さには本当にげんなりするのである。

 メイン州からニューハンプシャー州に入った時と同様に,ニューハンプシャー州からバーモント州に入ったら,急に景色が変わった。
 そして,親切な背景が黒色!の案内標示がやたらと目につくようになった。
 バーモント州独特の観光案内標示板であった。これを見てもバーモント州が観光に力を入れているというのが実感できた。それにくらべれば,ニューハンプシャー州は,知っている人だけが来てくれればいい,というような大人の対応というべきか…。
 案内所を見つけたので,車を停めた。そこは,無料の「メイプルミュージアム」であった。メイプルシロップを作る過程が展示してあった。土産物店もあった。
 奥隣には大きなメイプルシロップの工場があった。
 案内所に地図があったのでそれをもらうと,それは,もちろんニューハンプシャーの道路地図ではなく,バーモント州のものだった。

 その時はじめて,すでにバーモント州に入ってしまったのを知った。
 ワシントン山もコモ鉄道もどこに行ってしまったの?
 もう一度,ニューハンプシャー州に戻ろう思ったけれど,もう,すでに午後2時近くなっていて,あきらめた。めざすバーリントンはまだこの先80マイル(140キロメートル)も先なのであった。
 とにかく,先を急ぐことにした。
 今日の目的地バーリントンへ向かうその途中には,サウンド・オブ・ミュージックで有名な町ストウがあるので,とりあえず,そこまで行こうと思った。

◇◇◇
帰国してしばらくしたとき,NHKBSで,「アメリカ・トレッキング紀行」という番組の再放送をやっていて,アパラチアン・トレイルを取り扱っていました。10年ほど前に見たことがある番組です。その番組の中で,コンコードの「オールドノースブリッジ」とワシントン山,コモ鉄道,メイン州カタリン山をやっていました。もう,くやしくてくやしくて…。絶対もう一度行くぞと,誓ったものでした。

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 道は,予告もなく,ニューハンプシャー州に入った。
 メイン州が高原なら,ニューハンプシャー州は山,そして,次に行くバーモント州は森であった。
 州の境を過ぎると,突然景色が変わるのだ。これが興味深かった。

 この旅で心残りだったのは,このニューハンプシャー州の中をずいぶんと走ったのにもかかわらず,結局,この州について,なにもわからなかったということである。たとえれば,地図も持たず,わずか数時間で長野県を観光する,という感じであろうか。きっと,安曇野の景色も,伊那谷も,馬篭も,そういう魅力のある観光地も知らずに,単に国道19号をかけぬけたようなものだった。

 どうしてこうなってしまったか。理由は,くわしい地図がなかったことだ。
 車につけたGPSは,簡単な地図しか表示しないので,行き先を検索しない限り,全く頼りにならなかった。
 事前に日本で見つけてプリントアウトして持って行った地図は,観光をするには,あまりに大まか過ぎた。
 ニューハンプシャー州も思った以上に広く,どこかへ行くには,数時間かかるような気がした。どこかへ行けば,今日中に宿泊先バーリントンに着くことができないように思えた。 
 地図は,ふつう,その州に入ったあたりにある案内所で手に入れることができるから,そのようにして手に入れようと思っていた。しかし,走っていた国道2には,そうした案内所がなかった。これも,帰国後にわかったことだが,国道2の20マイル(32キロメートル)南を走る国道302には案内所があった。
 ニューハンプシャー州の国道2を駆け抜けて,やっと案内所を見つけたとき,そこは,すでに,バーモント州であった。

 「地球の歩き方」によると,ニューハンプシャー州の見どころは,ホワイトマウンテンズと湖水地方であるという。地図さえあれば,簡単なことであったのに…。
 私が走っていた国道2ではなく国道302にそって,ホワイトマウンテンズがあった。国道2から南に見えていた小高い山が,探し求めていた正真正銘のワシントン山で,そのふもとに,乗りたかったコグ鉄道があった。本当に惜しいことをした。
 そして,国道302はインターステイツ93と名を変え,そのまま南下すれば,湖水地方を巡る国道109につながっているのだった。
 この地方は9月の紅葉が絶品であるという。
  ・・
 これまでもそうだった。思い続けた夢は必ず実現した。
 私は,いつかきっともう一度,この地を訪れることであろう。そして,そのときは,ニューハンプシャー州を心いくまで堪能することであろう。

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 国際線の飛行機は大きく,車いすで座席まで移動することができました。
 年配の親切な客室乗務員が至れり尽くせりのサービスをしてくれました。
 ファーストクラスはとても豪華で,まるでベッドにいるようでした。いつもアルコールが注がれていました。食事も豪華でした。いつもなら飽き飽きするほどの時間なのに,あっというまの12時間のフライトでした。ずっと映画「トロイ」を見ていました。

 やがて,成田に到着し,日本の空港では車いすのままでは通路が通れなかったので,他の乗客が降りたあと専用のリフトに乗ることになりました。
 空港では,連絡がしてあって,係の人が親切に車いすを引いたり世話をしてくれましたが,アメリカと違い,無駄口ひとつできませんでした。日本だなあ,と思いました。
 そして,国内線に乗り換え,そのあと,日本の小さなタクシーに乗り換え,翌日の未明に日本の病院に到着しました。
 
 病院では当直のドクターが待っていて,カルテなどを手渡し,ナースと一緒に情報の交換をしてから,ナースはタクシーでホテルへ帰っていきました。
 日本で1泊して翌日エコノミーで帰国するということでした。
 彼女は,片道だけでもファーストクラスで旅行ができるし,困っている人を助けることができるので,よい仕事だと言っていました。それに,今回は,特に何も世話をすることもなかったので,とても楽だったと言っていました。

 日本に帰国して,すべてが本当に小さいなあと感じました。
 まず,日本人のドクターやナースが子供のように思えました。
 病室も個室でしたが,アメリカの病室に比べてとても狭く感じましたし,ベッドもアメリカの病室のもののようなデラックスなものではありませんでした。
 カーテンや部屋の色彩も地味でした。食事もすごく質素でした。付き添いの人が座るイスもアメリカでは応接椅子のようなものでしたが,日本ではパイプ椅子でした。
 まるでガリバー旅行記のガリバーか浦島太郎のようでした。
 薬も痛み止めのドロップのような錠剤から「頓服」と書かれた効き目の弱い粉薬になりました。
 病院では,「アメリカ帰りの患者さん」として有名でした。
 帰国当日は,帰国するのにかかった23時間,その間,一睡もしていませんでした。この夜,睡眠薬をもらって,初めて熟睡しました。

 不思議な体験をしました。
 頭の中の意識が,まるで,タイムマシンに乗っているかのようぐるぐると渦を巻いて回りました。
 言葉が,テレビの二か国語放送で言語を変えたときのように,頭の中の回路が切り替わり,英語で考えていたのが日本語に戻ってきました。
 アメリカでの出来事は,すべてが夢であったような気がしました。
 日本で入院した病院は,その外形がビュートの病院とそっくりだったのも驚きでした。
 私は,いまでも,その病院を見るたびに,この病院がアメリカにつながっている「どこでもドア」のような気がするのです。

 日本で再び入院して数日,時折襲う不快な痛みでもう二度と歩けないのかなあ,と悲観したこともあったし,それでもこれだけの夢を実現したのだし後悔しないと思っていたけれど,幸いにも,その後,約1か月して,なんとか,松葉づえで不自由なく歩くことができるようになったので,青空が美しいある秋の日,退院しました。
 その後,腓骨が元に戻るのに1年かかりました。
 月に1度の通院でX線写真を見るたびに,無残に脛骨を突き抜けるチタン棒に唖然としていました。
 アメリカでの手術では,この棒は一生抜かなくてもよいように治療がしてあると言われましたが,死ぬまで異物を入れていることがいやだったことと,この棒を自分の目で見たかったので,抜釘をしてもらうことにしました。
 そこで,1年後,日本の病院に再入院して,抜釘し,やっと完治しました。抜いたチタンの棒はいまも手元にあります。
 抜釘をしたドクターによると,ものすごく丁寧に治療がしてあったということでした。

 そうして2年後,再びこの地に行き,病院を訪れ,スタッフと再会しました。
 さらに,このときの旅でできなかったこと -イエローストーン国立公園へ行くこと,シアトルでイチローを見ること- は,すべて実現しました。そのときのことは,また,後日,書きたいと思います。
 帰国以来,テレビドラマ「ER」の大ファンになりました。
 さわやかな季節になって秋の風が吹いてくると,毎年,モンタナ州の雄大な風景を思い出します。
 これが,私の9月13日なのです。そして,この日以来,私は,おまけの人生を思いっきり楽しく生きようと決めたのです。

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 リムジンの3時間はあっという間でした。インターツテイツ90をボーズマンに向かって走っている中,窓から見た夜明けのアメリカの大地は本当に雄大で幻想的でした。
 ここで事故に会ったんだなあ,という場所も通りました。
 やがて,ボーズマンの広い町にさしかかりました。大きな家が続いていました。
 ものすごく感動しました。アメリカにはこんな世界があるのか,と思いました。
 それは夢だったのか,2年後に行ったとき,そのときに見た景色を探したのだけれど,どうしても同じ場所に行くことができませんでした。

 モンタナ州ボーズマンは人口約27,000人。景勝地としても知られ,イエローストーン国立公園の玄関です。
 ギャラティンフィールド空港は町の北西にあって,山小屋のような感じの建物でした。
 空港は,私が行くことができなかったイエローストーン国立公園をめざす楽しそうな観光客で一杯でした。なんだか,ものすごく,自分がみじめに思えました。
 空港のカウンタでナースが搭乗の手続きをしました。そのあと,「ふじ」というリンゴを食べるかと言われ,それをもらって食べたのが,思い出として残っています。とてもおいしかった…。
 親切なナースでした。
 リムジンを降りてからは,ずっと車いすで,ナースに引いてもらっていました。出国手続きをして,そのあとのセキュリティのチェックが結構大変でした。空港で借りた車いすなのに,それ自体を念入りにチェックしました。立てるかと言われ,松葉づえを渡して,係員に支えられてやっとX線のゲートを通りました。まだ,9・11のテロから間もないころでした。
 車いすで偽装して,松葉づえの中に武器でも隠し持っていたら…,などという映画のような不謹慎なことを想像しました。梶井基次郎の「檸檬」でもあるまいし,檸檬は爆弾にはなりえない。

 アメリカの空港では,セキュリティ以外はすべて車いすで行くことができました。
 帰国便は,ずっと,窓際にしてもらいました。国内線にはファーストクラスがなかったのでビジネスクラス,そして,国際線はファーストクラスに乗りましたが,こんな経験ができたのは,この事故のおかげでした。 
 離陸して,空から,雄大なロッキー山脈が眺められました。
 やがて到着したものすごく広いミネアポリス・セントポール空港では,空港内の移動は電気自動車でした。
 移動する間,陽気なアメリカ人のドライバーと,ミネソタツインズの話で盛り上がりました。
 ミネアポリス・セントポール空港に来たのはこの時が初めてでしたが,その後,この空港に何度も来ることになるとは,夢にも思いませんでした。
 ミネアポリス・セントポール空港は広くきれいな空港です。その後,この空港に来て,電気自動車を見るたびに,この時のことを懐かしく思い出します。
 日本への搭乗ゲートに到着しました。電気自動車を降りて,ひとまず椅子に座りました。
 ナースがマクドナルドでお昼を買ってきました。そして,それを食べながら,日本までの帰国便の搭乗時間が来るまで,ナースと待合所で日本語と英語を代わる代わる教えあっていました。いつもは退屈なこの時間があっという間に過ぎました。

 2年後に,再び,この空港に行ったとき,その時の搭乗ゲートが懐かしくて,この時の場所を一生懸命探したのですが,空港は改装されてしまったらしくよくわかりませんでした。マクドナルドはどこにもありませんでした。
 こうしたこともあって,今となっては,そうしたすべてが,とても懐かしい思い出ではあるのですが,なにか,夢のことだったような気がするのです。

◇◇◇
WELCOME TO CHOPTOBER !!!

例年以上の猛暑。もう秋は来ないのではないか,とさえ思えましたが,自然は約束を守りました。風がやさしいこの季節,花が美しく咲きます。
私は,晩秋も好きですが,この初秋も大好きです。
雑誌「TIME」の先週号によると,海を覆っている氷が昨年より60パーセント増えたとか。実は,地球はこれから寒くなっていくと信じている科学者もいるのだそうです。
マジック1で足踏みを続けていたアトランタ・ブレーブスのナショナルリーグ東地区の優勝が決まりました。
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 加害者の男の人が見舞いに来ました。心配そうに病室をのぞきました。イエローストーン国立公園の大きな写真集とグリズリーベアの物語を持ってきてくれました。本当に彼には同情しました。あなたは不運だった,と心から言いました。そのあとは,MLBの話で盛り上がりました。保険(ステイツ・ファーム)に入っているということだったので,安心しました。
 彼の消息は今もわかりますが,元気に活躍しています。
 
 数日後,ソーシャルワーカーから退院です,と言われました。そして,退院後は,このような施設に入って,そこから通院します,と言われて,「ポール・クラーク・ホーム マクドナルド・ファミリー・プレイス」というチラシをくれました。
 「築100年のエレガントなビルで,病院から徒歩5分のところにある,家族から離れている人の施設。1日10ドル」
と書いてありました。
 病室ではプライバシーがないから,退院するのです,と言われました。
 急にそんなこと言われても,困ります。自分ひとりでは何もできないではないですか。第一,どうやって通院するのか,さっぱりわかりませんでした。
 こういうのがアメリカの考え方なんだなあ,と思いました。
 ともかく,そんなことは無理なので,お金は払えるから,帰国まで入院させてくださいとお願いしました。
 
 そんなこんなで,毎日が過ぎていきました。暇なときはテレビを見ていたので,アメリカのテレビに詳しくなりました。
 やがて,すべてを任せてあった旅行保険会社から帰国便の手配ができたので,ドクターの許可があれば帰国できます,という連絡がありました。
 はじめに連絡した時,保険会社の対応した女性は,「ビュート」という場所に唖然としました。ビュートなんてものすごく辺鄙なところなのです。ビュートにも空港はあるのですが,その空港からはプロペラ機とか,小型機が1日に2便くらい発着するだけの,まるでJRのローカル線の駅そのもので,骨折している人は乗ることができませんでした。
 そのときは,帰る方法を考えますと言われました。
 以前,ブログに書きましたが,この女性はすごく適切に仕事をしてくれました。きっと,様々な交渉が必要だったのでしょうが,すべてきちんとやってくれました。

 帰国の方法は,まず,ビュートから最寄りの空港があるモンタナ州のボーズマンまで3時間車(リムジン)で行き,ボーズマンからビジネスでミネアポリスへ行き,そこから成田までファーストクラスで行き,その後,国内線をビジネスで乗り継いで,タクシーで自宅に戻るということでした。自宅ではなく日本で入院するときは,自分で入院先を探してくださいと言われました。日本まで,ナースが付き添うということでした。
 自宅に国際電話をして,帰国後の病院の手配をしてもらいました。日本帰国後はそのまま,その病院に転院することになりました。

 入院5日目,ドクターから許可が出て,帰国便の手配もでき,ついに帰国することになりました。
 はじめに連絡があったフライトよりも1日早い便があったので,変更になり,はやく帰国できることになりました。
 病室のホワイトボードに「9月18日朝6時,ボーズマンに向け出発。血栓防止薬を忘れないこと」と書かれました。
 帰国をあすに控えた日の午後,ソーシャルワーカーの2人の女性が相談して,私を車いすで病室から出して,病院の周りを案内してくれる,と言われました。病院の周りがどのようになっているかも知りませんでしたから,涙が出るほどうれしかったのを覚えています。
 多忙な中,時間を割いてくれたようでした。
 ソーシャルワーカーさんのうちのひとりの人は,旦那さんが大学の先生で,日本人をホームステイさせたことがあるという話でした。
 
 私は,この時の旅行は,9月12日に出国して,2日目の13日に事故に会って,18日に帰国に着くことになったので,6泊8日,このうち5泊が入院で,入院をするためにアメリカに来たようなものでした。
 ひとつ間違えば死んでいました。あるいは,片足がなくなっていました。こんな立派な病院で治療ができて,幸せでした。
 病院から外に出ました。広い公園でした。大きな病院でした。病院の周りには,ドクターの診療所があったり,幼稚園があったりしました。おとぎの国のようなところでした。
 車いすを引いてもらって,病院の周りを一周しました。青空のきれいな初秋の日でした。

 やがて,18日になりました。朝5時すぎ,日本まで付き添ってくれる,すごい背が高いナースが到着しました。こうして患者さんを送り届ける専門の仕事のようでしたが,それでも,日本までというのははじめてだといっていました。息子さんがいて,きょうはサッカーの試合だと言っていました。
 彼女はサンフランシスコからきたそうです。寒い寒いと言っていました。途中で服を買ったと言っていました。
 アメリカに住んでいるからといっても,モンタナ州は初めてのようでした。この国にはいろんな仕事があるんだなあ,と思いました。本当にアメリカはおもしろいところです。
 病室から車いすでエレベータに乗りこみました。いよいよ,この病院ともお別れです。
 カバンを詰め込み,カルテやらX線フィルムやら薬をもらって,松葉づえを持って,そして,使っていた枕を付き添いのナースが持たせてくれました。車いすでリムジンまで行き,乗り込みました。
 いろいろと世話をしてもらった人たちがみんなで見送ってくれて,早朝の病院を後にしました。
 本当に,多くの人に親切にしてもらいました。
 さあ,帰国まで,あと23時間です。

◇◇◇
REDSOX OWN THE EAST !!!!! 

ボストン・レッドソックス,地区優勝です。
上原投手は,満員の観客のスタンディングオベイションの中,8回1アウトから登板しました。8回裏の「スウィート・キャロライン」,それに続く9回の3アウト,そして,ゲームセット。
泣けました。
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 国道2は西へ西へ,私は,町を過ぎるごとにいろんなことを考えて,さらに進む。
 ガソリンは,半分以上なくなったら早めに補給をしなければ,次の町がどれくらい先かわからない。ということで,ある町に近づいたときにガソリンスタンドがあったので,給油をかねて休憩をすることにした。ついでに,朝食もとることにした。
 ところが,入ろうとしたガソリンスタンドは,地元の人たちの車で一杯であった。町の社交場のようであった。

 ホテルには朝食がついているときと,ついていないときがある。今日のように,早朝,ホテルをチェックアウトしてしまうと,朝食を食べ損ねてしまうことも,ままある。
 今回の旅行は,食事をする間も惜しんで動き回っていたこともあり,また,歳をとって,食べることに執着しなくなってしまったこともあり,また,食事の量が半端でなかったこともあり,1日2食が当たり前になってしまった。
 これまで,いろいろな場所を旅行したが,はじめのころは,アメリカの食事はすごく量が多いなあと思った。でも,中西部やらを旅行するようになると,それほど多いと感じることはなくなっていた。
 ところが今回,また,量が多いと思うようになった。
 東海岸の食事の量が多いのだろうか。

 アメリカのガソリンスタンドは,日本でいうところのコンビニとガソリンスタンドが一緒になったものと考えればよい。トイレもあるので,走っていて,ガソリンスタンドがあれば,車を停めて,すべての用が足りる。
 写真をご覧になればわかるが,ここのコンビニは「サークルK」であった。
 コンピニの店内は,日本のものよりも鷹揚な感じだが,まあ,同じようなものだと考えればよい。コーヒーもあればファーストフードが出るところもある。お菓子もパンも飲み物も新聞も,なんでもそろう。
 違いと言ったら,すべてが大きくて,パンひとつ買おうにも,日本のものの2倍はある,ということであろうか。
 町に入るときのガソリンスタンドは,車が一杯で断念したが,町はずれにもっと大きなガソリンスタンドが見つかったので,そこに入った。  
 買ったのは菓子パンとバナナ,そして,ドクターペッパーであった。そういえば,日本では製造中止となったダイエットコークはアメリカでは今でも売っている。
 ガソリンを満タンにして,私のおなかも満タンにした。

 国道2は,片側1車線の広々とした道で,時に2車線になった。一定の間隔で町があって,町に近づくと制限速度が遅くなり,どの車も,ちゃんとその速度を守って同じように減速し,それぞれの町は,墓地・教会・ガソリンスタンド・学校・ダウンタウン… と,同じようなリズムで続いて,町はずれには橋があったり,交差点があったりして,まるで,江戸時代の東海道の宿場町のようであった。
 ある町には気の利いた美術館があったり,美しい渓谷があったりと,少しの個性があって,のんびりと散策したいなあ,と思いながらドライブした。
 しかし,この道は,くねくねとまがっていたり,坂があったり,なかなか距離が稼げない。
 帰国してから地図を見るに,国道2よりも20マイル南の国道302,この道を走れば,きっと,もっと早くメイン州を過ぎ,次の,ニューハンプシャー州で見どころを巡ることができたのだなあ,と思うのだが,それは過ぎてしまったことだ。
 いずれにしても,塞翁が馬。国道2を走ったおかげで,アメリカの素朴な町の風景を十二分に味わうことができた。
 この旅は,あと2日,日程の余裕があるとよかったのかもしれない。
 やがて,思っていたよりもずっと時間がかかって,やっと,メイン州と別れを告げることとなった。

◇◇◇
このブログでも書いたことがありますが,野茂投手が始球式を行うことで「NOMO CURSE」が解けたロサンゼルス・ドジャースが,地区優勝一番乗りを果たしました。4月は最下位だったのに,プイーグが加わって以来快進撃を続け,「ミラクル・ドジャース」と呼ばれました。さて,ディビジョンシリーズはいかに…?
なお,優勝を決めたのは,アリゾナ・ダイヤモンドバックスの本拠地チェイス・フィールドで,シャンパン・ファイトのあと,ドジャースの選手たちが,この球場の外野席にあるプールに飛び込びました。ダイヤモンドバックスの選手はこれを無礼だと怒ったそうですが,球団の社長は,確かに無礼だが彼らの古い球場にはプールがないからどんなものか見たかったのだろう,と言って大目に見たということです。
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 日本で報道されるアメリカは金融の中心,世界の政治の中心という位置づけだ。日本からの企業もたくさん進出して,ニューヨーク,ロサンゼルス,サンフランシスコ,シカゴ,アトランタは,特に日本人がたくさん暮らしている。ニューヨークには20万人以上の日本人が住んでいるという。
 でも,アメリカの広大な大地を旅していると,そんな表向きの姿でなく,本当は,アメリカは,実は,農業大国なのだ,ということをしみじみと感じる。

 さらに小さな町について。
 人口数百人の小さな町は,それだけは完結しない。
 彼らは,用があれば,数十キロメートルも離れた町まで,巨大な車で出かけていく。
 道沿いに,自分のもつ農場や牧場の大きな看板を掲げて,見渡す限りのひろい土地と一体となって暮らしている。
 巨大なトラクター,スプリンクラー。果てしなく続くトウモロコシ畑,牧場…。
 そんな土地に住む彼らには,ウォール街の金融危機も,M&Aも,全く関係がないのではないか,と思えてくる。
 そうして,ものすごく広い土地に,車が3台も4台も入るガレージと白い広い家。庭には公園くらいの広さの子供の遊び場があって…。 ちょっと隣町まで買い物に,20キロメートル走ったりする。
 そう,ひげをはやしてカーボーイハットかぶって…。
  ・・
 そういえば,子供の時にテレビで見た,豊かなアメリカの家族の姿って,大都会の喧騒のなかで日々マネーゲームをする姿ではなくて,こうした,日本では考えられない,広い広い… 空の下で,自然とともに暮らす人々の姿じゃなかったっけ,という気がする。
 そのような世界に生まれた人にとって,人生って,どういうものなのだろうか。

 そういった姿を目の前にして,私の住む日本について,改めて考える。
 日々の塾通い,偏差値・偏差値… の受験戦争,早朝からの通勤ラッシュ。
 終電まで仕事をして,週末は飲みに行って仕事の話題で盛り上がって,いつも老後が心配で貯金をして,走れもしない狭い道なのに高級車を精一杯無理して買って,ちいさな家のローンを一生払い続けて,数少ない休みは子供のために大渋滞の中を混雑したテーマパークへ出かけて,親の介護をして,雑誌で評判のお店でたまに贅沢に食事をして,団体でバス旅行して,お土産買って…。
 そんなわれわれのパック旅行のような人生って,いったい何なのだろうか。


☆ミミミ
地球から一番近いところにある身近な天体,月。特に天保暦(旧暦)8月5日の月は「中秋の名月」として有名で,供え物をしてお月見をする習慣があります。
2013年は9月19日が「中秋の名月」でした。実は,暦の関係で,中秋の名月は必ずしも満月になるとは限らないのですが,今年は2011年,2012年に続いて中秋の名月は正真正銘の満月でした。残念ながら,中秋の名月当夜が満月であるのは,今年を最後に2021年まで見られません。
正確には,正真正銘の満月は,9月19日の20時13分でした。この時間に撮影した満月の写真です。
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 血栓防止のための注射を6時間ごとにおなかに打つ必要がありました。日本に帰ってから聞いたことには,人種によって,こういう治療をしないといけないということで,日本人には必要がないらしかったのですが。
 この注射は,患者が自分でやるものだから,ビデオを見て練習しましょうと言われました。日本では,資格のない人が注射をしてはいけないことになっている,と言ったら,糖尿病患者の人は,自分でインシュリンを打つとか言うし,よ~知っとるなあ,と思いました。後で,せっかくだからこういうのも経験だと思い直して,覚悟を決めたら,逆に,しなくてもいいということになって,なんだかがっかりしました。

 決められた時間になるとナースが検診に来るのですが,ナースによって持っている器械が違うのも面白いことでした。血圧を測るにも,若いナースは最新式の器械をもってくるし,年配のナースは,昔ながらの手動式のポンプを使うのです。その人その人プライドがあるみたいでした。ナースの言ったことを別のナースに聞いても,それはそのナースに聞いてください,と言われました。アメリカのレストランで担当スタッフが決まっているのと同じことでした。
 空き時間に,ひとりのナースが来て,日本の病院について興味があるようで,いろいろと聞いてきました。日本の健康保険制度についても聞いてきました。ここモンタナ州は共和党の牙城です。日本の6人病棟を信じられないと言いました。そのようなところでは働けないなあと言っていました。

 3日目くらいに,理学療法士が来ました。1,2回松葉づえの使い方を教え,あとは,自分の努力次第だよ,と言われました。 今思うに,わからなければ,その時に自分で聞かなくてはならなかったわけなのです。それがアメリカの流儀です。
 それ以来,点滴をつけて,病棟の廊下や階段を松葉づえで歩き回るようになったのですが,階下に降りるわけでもなく,病院の様子も自分のいるところ以外はよくわかりませんでした。なにせ,自分流のいい加減な方法で歩くのだから,うまくいきません。
 というわけで,松葉づえについては,帰国後に,新たに使い方を教えてもらうことになってしまいました。

 廊下の一角にコンピュータがあって,使っていいといわれたので,暇なときはインターネットをしていました。
 隣の病室に昨日手術をして足を切断した人がいるので,元気づけてほしいといわれ,見舞いました。
 自分もひとつ間違えば,こんな状況だったのかなあと,その時思いました。

 悲観的に考えたら,大変な状況だったのでしょうが,その時は,はじめて体験することだらけ,ほとんどの旅行者が経験できないアメリカを知ることの好奇心のほうが強くて,毎日が,ある意味,楽しくて仕方がありませんでした。おかしな話ですが…。

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 病室は8畳くらいほどの広い個室でした。バストイレ完備でした。
 ベッドのわきにはベッドの位置を調節することとテレビを操作できるリモコンがあって,ベッドのリクライニングは何段階にも調節できるし,テレビも100チャンネルくらい自由に選べました。スピーカーもあって,イヤホンなして楽しめました。
 食事はあらかじめメニューが配られて,自分の好きなものを食べることができました。メニューになくても取り寄せてくれると言っていました。ただし,日本料理店はなく,中華料理ならあるけれど,と言いました。
 ベッドのわきにはいつも大きな水の入った入れ物が置いてあって,なくなると補充してくれました。アイスクリームが食べたいなら買ってくるよ,と言われました。毎朝,新聞が届けられました。
 まるで一流のホテルのようでした。

 朝,まず,かっこいいドクターがスーツとネクタイ姿で現れました。わたしは大したことなかったと思い込んでいたので,5日後のマリナースの試合のチケットを持っているのだけれど行けないかなどとノー天気なことを聞いていました。
 そのあとで病室に現れたのは,なんと,神父さんでした。この病院にはチャペルがあるのです。
 彼は,この病院で,片言ではあるけれど日本語がわかるらしい唯一の人だったようですが,残念ながら,彼の日本語は私にはわからなかったので,英語でお願いしました。何かしてほしいことがあるか,というので,日本語のできる人はいないか,と言ったら,のちに,この町に3人だけいる日本からの留学生のうちのひとりの女性を連れてきてくれました。
 そのあとで,ケースワーカーの女性が来ました。入れ代わり立ち代わりいろいろな人が来て,何を信じていいのかどういう人なのかさっぱりわからない状況でした。アメリカでは,それぞれの人が独立しているので,話をしてもそれが別の人の伝わるということは期待してはいけないのです。だから,どの人にどの話をするのかはちゃんと区別しないと意味がないのです。
 身に着けていた貴重品のなかに,連絡先をまとめたものがありました。それが必要でした。
 貴重品は厳重に管理されて病院に保管されているということだったのですが,自分のものであるのにそれを金庫から出してもらうのに,ものすごく苦労しました。ずいぶんと交渉して,やっと,連絡先のかかれたメモを手に入れることができました。

 午後になって,日本からの留学生の女性が来たので,お願いして旅行保険会社に電話をしてもらいました。動けないので,電話もできず,非常に困っていました。
 レンタカー会社から連絡があって,道路に乗り捨ててきたレンタカーの返却をしなければならないとか,警察からの事情聴取とか,書類の記入とか,次から次へいろいろなことがあって,そのときそのときに,ケースワーカーに助けてもらってそれをこなしました。入院しているというよりも仕事をしているかのようでした。
 そうしているうちに病室に電話機があることがわかりました。再び牧師さんがきたので,その電話機で外線がかけられるかと聞くと,可能だということで,かけ方を教えてもらいました。電話がかけられるようになって,ずいぶんと助かりました。
 このあと,毎日私が病室でやっていたのは,電話を使って帰国のための交渉ばかりでした。

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 まず,人口数万から10万人程度の都会,これまでにも書いた,メイン州のバンゴーとかポートランド,バーモント州の州都モントビリアのような,日本人にはなじみのない都会についてである。
 日本人が思っているよりも,こういう都会は大きい。ダウンタウンには広い通りがあって,ショッピング街やらオフィスビルが立ち並んでいる。そして,公園があり,美術館や博物館がある。うまくいけば,マイナーリーグの野球場やらコンサートホールもあるかもしれない。
 車で,インターステイツを走っていて,このような町に来たときに,まず,気をつけなくてはならないのは,こうした町で別の方向に向かうインターステイツが交差して複雑なジャンクションになっていることが多く,道路標示を注意して走らないと自分の行きたい方向を見失ってしまうことだ。
 次に気をつけなくてはならないことは,この町で降りようとしたときには,町の北側や西側や南側のように出口が複数あって,結局はどこで降りてもさして変わりはないのだが,運転をしていて戸惑わないようにしなくてはならないことだ。どこで降りようかと迷っていると,下手をすると,その町を通り過ぎてしまうこともよくある。
  ・・
 そして,市街地に降りたときは,とりあえず躊躇しないで,駐車場を見つけて車を停めて,ひととおり町を歩いてみよう。30分も歩けば,たいていは,どんな町なのかわかってくる。そして,半日も滞在すれば,ほぼ,見どころはすべて訪れることはできるのだけれど,きっと,どの町も,予想以上に素敵なところだと気に入ることであろう。
 このくらいの規模の町には,幼稚園から高校,そして,大学まであって,教会やらモールやら役所やら,人が快適に暮らす施設は完全にそろっている。
 日本との違いは,ゴルフ場まで備えた広い公園やら文化施設やらといった,人が豊かに暮らす施設が非常に多く充実しているということか。逆にわけのわからぬ盛り場やらパチンコ店はない。
 こうした町を通るときにいつも面白いなあと思うのは,町は,たいてい,川に沿って存在していて,町に入るには,橋を渡り,渡り終わると道がカーブして,そうしてダウンタウンに入り込む… という感じになっていること。町によっては,川に並走して鉄道が走っていることもよくある。
 そうした地形のところだから町ができたのだとも考えられる。

 次に,もう少し小さな町について。このくらいの町が私の一番好きな町である。こうした町は,インターステイツ沿いよりも一般道にそって存在する。
 一般道を走っていて町にさしかかると,制限速度が55マイルの表示になる。そこが町の入口だ。
 町のはずれにはお地蔵様ではなく,たいていはじめに墓地がある。そして,次に,教会がある。そして,町はずれの交差点にガソリンスタンドがある。
 それを過ぎると,制限速度が一段と遅くなって,今度は小学校がある。
 そうして,道に沿って,商業施設やらレストランやら博物館やら普通の民家やらが木立の中にのんびりと存在するようになる。
 町によってはかわいい図書館があったりする。
 これらの施設は,道に沿ってはいても,軒を並べているわけではないので,やたらのびのびとしていて,木々の緑に深く覆われている。
  ・・
 こういう町を通ると,いつも,これで人生が完結しているんだなあ,と思う。
 人の生と死が身近にくっついた町。
 楽しみは週に1度行われるハイスクール対抗のアメリカンフットボールの試合。なのだそうだ。
 こういう町にある学校は,日本人には想像ができないくらいものすごく広いのだ。高校の校庭なんて,あまりにも広すぎて,ゴルフ場と間違えるほどなのである。もちろん,ちゃんとしたスタンド付きの競技場やら野球場があったりする。
 こうした町に生まれ,外へ出たこともなく,一生を終える人がいる,という話をよく聞く。

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 国道2は,メイン州の中央部の山岳地帯を西へ走る。大きな地図を見ないと,ここに道があるようには思われない。
 日本で計画を立てたとき,メイン,ニューハンプシャー,バーモントを横断をするためには,この方向に進まなくてはならないが,果たして,ここに道があるのかいな? と思っていた。この3州を横断する理由は,どこかへ行きたいということよりも「めざせ50州!」のためなのであって,そもそも,私の動機がいい加減なのだ。
 実際には,国道2は,ほぼ片側1車線の道路が,うねうねと西に西に続いていた。かといって,昨年行ったサウスダコタからノースダコタへ北へ一直線に進む国道85のような360度「何もない」という,感動的な道でもない。単なるカントリーロードなのだった。

 特筆すべきことも名所もないので,ここで,アメリカの「町」について書くことにする。こういうことに興味をもたれる人も多いのではなかろか。実際,こういう町を見ることは,ツアー旅行では不可能だからである。

 読んでいる皆さんは,アメリカの町について,どのような印象をおもちだろうか?
 私は,はじめてアメリカへ行ったとき,ロサンゼルスやサンフランシスコで,これは,アメリカじゃない! アメリカの普通に人が暮らす町はどういったところなのだろうか,と思った。
 ニューヨークへ行っても,マンハッタン以外に足を運ぶ観光客はほとんどいないのではなかろうか。ブリックリンの下町を歩いた人がどれほどいるだろうか?
 私は,その時,学校や,スーパーマーケットや,人々が暮らす生活のある,そういった,普通の町はどのようになっているのだろうか,と興味が湧いた。いわば,日本に来た外国人が,東京と京都のお寺を観光バスで巡っても,日本の本当の人々の暮らす町が分からないのと同様である。
 だからといって,日本に住んでいても,自分の住んでいる町以外の町の本当の姿が語れないように,ほんの数日アメリカのカントリーロードを走っても,アメリカの町について語る資格などはないであろう。そんな無理を承知で,ほんのわずかな経験だけで,無謀にも,私の感じたアメリカの町について,主観的に書いてみたいと思う。
 この旅で走った国道2に沿った多くの町は,そんな私の好奇心を満たすには,十分すぎるものであった。もし,時間があれば,いつか,こうした町のいくつかに実際にゆっくりと滞在して,そこに住む人たちに接してみたいものだと思っている。

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 入れ替わり立ち替わりドクターが来ては診察しました。
 あるドクターは,お腹を切るぞ,と冗談を言って脅かしました。それだけはかんべんしてくださいよ~,と言いました。
 X線を撮るからと,別の部屋に連れていかれました。運ばれながら,ナースが,いろいろと聞いてきます。日本で子供が待っているというと,子供の名前は何というか,とか,その名前はどういう意味かとか。患者というよりも,これでは,英会話スクールでした。
 旅行保険があるので,ということで,何の心配もなく治療は受けれられました。
 早く手術して直してよ,と思っていたのですが,聞くところによると,ドクターがためらっている,ということでした。そりゃそうです。突然現れた日本人をどうしていいかわからなかったのでしょう。この病院で初めての日本人患者だったそうです。
 ドクターは日本の家族に電話をするからと言って,電話番号を聞きました。電話をしても,英語じゃあどうにもならないのに,と思いましたが,とにかく,処置室の中で電話をかけました。
 帰国してから知った話では,はじめドクターは英語で話していたのですが,家では,何やら事故にあったということだけはわかったらしく,「Is he OK?」と聞いたら,ドクターは嬉しそうに,「OK.OK.」と答えたそうです。そのあとは,私が電話を代わって,説明をして,手術の同意をとりました。
 そんなこともあって,やっと手術をすることに決まりました。
 そのあと,麻酔をかけられたようで,私は,意識をなくしました。覚えているのはここまでです。

 意識が戻った時は,病室にいました。深夜のことでした。
 男性の看護師が付き添っていました。
 治療をした方の足は大きくはれ上がっていて,頭よりも上にしていないと苦痛でした。なにやらマッサージをする機械を足に当てがってもらって,その看護師が,どうだ,気持ちいいだろう,と嬉しそうに言ったのを覚えています。
 広い個室でした。窓から,真っ暗になった町のほのかな灯りが見えました。ここはどこなんだろう,とそのとき思いました。
 なんだか,ものすごく幻想的な景色だったことを今でも思い出します。 このときの気持ちは,一生の宝物です。
 何の苦痛もなく手術が終わって,痛みもなく,なんだ,大したことなかったんだ,と思いました。
 しかし,実際は,左足の腓骨と脛骨が完全に折れて,脛骨のまんなかにひざから足首に長さ30センチくらいのチタンの棒が入れられていました。
  ・・
 やがて,14日の朝が来ました。
 窓からは,町並みがきれいに輝いていました。
 どうやって帰国するのかなあ,と思いました。

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 2年後怪我が完治して,事故にあった現場「インターステイツ90・マイルマーカー246」をどうしてももう一度見たいという思いから,再び,行ってくることができました。
 事故証明書にかかれたその場所を2度ほど車で走ってみたのですが,本当にこの場所だったかなあ,と思ったくらいで,その時の状況は覚えていても,場所は思い出せませんでした。その場所が,今日の動画と写真です。
 それにしても,なんでこんなところで,と思ったくらい,全く危険性のない場所でした。

 この時は,雹が降って,道が凍結していたということでした。
 オートクルーズで運転をしていると,アクセルを踏んでいないので,道路の様子が体で感知できなかったことが状況を把握できなかった原因であったと思いました。病院でナースが話していたことには,当日,同じ場所で7台ほどの車が同じようにスリップしたというニュースが流れていたという話でした。
 私を轢いたドライバーは,たまたま私がいたということで人身事故になってしまい,本当に気の毒でした。
 彼は,車から降りて,携帯電話でパトカーを呼びました。そして,そのあとで,走っていた車を停め,助けを求めました。
 私は,全く動けないので,道端で寝ころんだ状態になっていましたが,集まった人たちから毛布をもらって体が冷えないようにしてもらいました。
 やがて,パトカーが来て,警官は,状況を調べ,連絡をしていました。「不自由のない英語を話す日本人が車に惹かれて…」という連絡が聞こえました。
 やがて,救急車が来ました。寝台が降りてきました。私は,その担架に乗せられました。担架に乗せられるとき,「ワン」,「トゥー」,「スリー」という掛け声が聞こえました。映画みたいだ,と思いました。
 貴重品は身に着けていたので,持ってきたボストンバッグ1個を忘れずに救急車に乗せてほしいと言いました。乗っていた車のキーは加害者のドライバーに渡しました。

 私は,救急車に運ばれ,口に酸素マスクをつけられました。そのあとは,サイレンの音と救急車の天井しかわからなくなりました。
 どこの病院へ行くのだろうか,と思いました。日本の感覚で,どこかの整形外科みたいなところを想像しました。生まれてからこの日まで,入院をしたことは一度もなかったので,こういったときにどういう状況になるのかは,全く無知でした。人生入院初体験がアメリカでした。
 やがて,病院に着いたようで,そのまま,救急車から降ろされて,処置室の明るいライトの下に横たわっていました。履いていたお気に入りのジーパンをはさみで無残にも切っているのがわかりました。着替えがなかったので,これには参りました。 
 入れ替わりドクターやナースが来て,名前を名乗るのですが(テレビドラマの「ER」みたいだ!),何が起こっているのかさっぱりわかりませんでした。
 あとで,ここはどこなのですが,と聞いたのですが,その時は,「ビュート」という名前の町を知らなかったので,何度聞いてもその町の名前が記憶できませんでした。
 入院したのは,モンタナ州ビュート・シルバーボウ市郡の「セント・ジェームズ・ヘルスケア」という美しい大きな病院でした。

 入院したときは,病室の窓と,ナースステーションの奥の大きな窓からの景色しかわからなかったので,その後,帰国してからも,自分の入院していた町はどういったところだったのだろうと,ずっと,気になっていました。
 ナースステーションの窓からは,雄大なロッキー山脈が見えました。なんて美しいところなのだろうと思いました。 
 ウィキぺディアによると,モンタナ州ビュート・シルバーボウ市郡は人口約34,000人。西部で名高い銅鉱山ブームに沸いた町で,当時は「世界一豊かな丘」と呼ばれたそうです。
 この出来事以来,この町は,私の第二のふるさとなのです。

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 9年前の9月13」日,私は,モンタナ州のインターステイツ90のマイルマーカー246で死んでいてもおかしくない交通事故に遭いました。
  ・・

 この年,私は,9月12日から約1週間のアメリカ旅行に出かけました。日本を出発して,エアカナダでカナダのバンク―バーに到着して,乗り継ぎ便でシアトルに着き,そこからレンタカーで,アイダホ州を経由して,モンタナ州に向かいました。
 目的地は,イエローストーン国立公園,帰りにシアトルでマリナーズの試合を見て帰るという予定でした。
 当時は忙しく,短い期間で欲張った旅でした。しかも無計画でした。

 バンクーバーまでの機内に乗り合わせたのは,仕事を辞めてワーキングホリデーでカナダに行くという若い女性でした。彼女は,今,どうしているのだろう…。
 バンクーバーでアメリカに行く乗客は,なぜか,ここカナダの空港でアメリカの入国をして,そのまま国内線? でシアトルに行くというシステムでした。
 バンクーバーからシアトルまではプロペラ機でした。空からはシアトマリナーズの本拠地セイフコフィールドがきれいに見えました。何事もない旅行であったのならば,これだけでも,懐かしい思い出になったはずでした。
 日程に余裕がなかったので,強行軍でした。
 シアトルからはからはできるだけ早くモンタナ州に着こうと考えていたのですが,さすがに夜遅くなりました。インターステイツ90はアイダホ州に入ると山道になって,大きな車を追い越すのも危なくなってきました。
 そこで,アイダホ州のカー・ダレーンという町でホテルを探して見つけた「フェアフィールド・イン」で1泊しました。
 手元にホテルの領収書が残っているので,どこに泊まったのかはわかるのですが,今となっては,湖のほとりの素敵な場所だという思い出だけはかすかにあるのだけれど,不思議なことに,全く記憶にも写真にも残っていないのです。
 翌日は,雨交じりの天気が回復して,一面の平原の遠くに虹が見えました。
 ちょうどお昼,車は,モンタナ州ビュートという町を通り過ぎました。小高い山に「M」の字がきざんであるのが見えました。印象深い景色でしたが,まさか,この町が,私にとって生涯の思い出の地になるとは,この時は思いもよらないことでした。

 そこから30分くらい過ぎたところでした。
 100メートルくらい前を走っていたキャンピングカーが,突然,道から路肩に放り出されたように見えました。何してるんだろうと思いました。そのあとのことです。
 オートクルーズで走っていた私の車も,突然,制御不能になりました。ハンドルが無抵抗になり,ブレーキを踏んだ瞬間,車は大きくカーブをしました。目の前で車が180度回転したように感じました。ローラーコースターに乗っているかのようでした。その時は何が起こったか全くわかりませんでした。そして,車は高速道路の路肩に乗り上げて停止しました。
 車を降りて,車のまわりを歩きながら,どうしたものか,とパニックになりました。
 車は,泥だらけの路肩に乗り上げて,動くことができなくなりました。
 携帯電話も持っていない時代でした。そして,ほとんど車が通っていない場所でした。

 5分ぐらい,いや,もっと短かったかもしれませんが,後続車が来たようでした。
 その時です。
 その車は私と同じような状況で大きくスリップして,外にいた私めがけて降ってきました。
 ドライバーの悲鳴が聞こえました。確かに聞こえました。そして,私に激突したのです。
 この時の様子を,なぜか,とてもよく覚えているのです。自分が当事者であるにも関わらず,まるで,スローモーションか何かを見ているかのようでした。
 私は,「死ぬ」と思いました。どういうわけか,「死んでしまう」ではなくて,「死ねる」と思いました。「死ぬんだ」とも思いました。そして,「アメリカの土になるんだ」,いや,「なれるんだ」と思いました。
 このときの気持ちは,どういうわけか,とても清らかですがすがしいものでした。人が死ぬということは,これほど清らかな気持ちになることなんだ,と,本当にそう思いました。

 車にはね飛ばされて,一瞬のことだったのでしょうが,私は,ゆっくりと大きく飛んだような気がしました。そして,道に倒れました。そして,我に返りました。
 生きていました。まったくは痛みは感じませんでした。でも,なぜかはわからないけれど,左足が折れているという確信がありました。全く歩けませんでいた。
 ところが,そんな状況のなかで思ったことは,「これで,帰れる」ということでした。そして,どういうわけか,ほっとしました。
 それが,その時の偽らざる気持ちでした。

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 朝から,雄大な景色に感動した私は,まだ,迷っていた。
 メイン州とカナダ国境との境にある町ルーベックへ行きたい。往復250キロメートル。3時間。今,朝の8時…。
 今日の目的地は,バーモント州バーリントン。500キロメートル,6時間。これは移動だけの時間である。しかも,このあたりは,インターステイツがなく,片側1車線,街中を通る国道だから,これ以上に時間がかかるかもしれないし,初めてで全く予想がつかない。悩んだ挙句,結局ルーベックへ行くことはあきらめて,アカディア国立公園から道を西にとって,一路,バーリントンを目指すことにした。
 これは,結果的に正解であった。

 今回の旅では,後半の6日間は,大都会ボストンとニューヨーク,イベントが目白押しであった。それと全く対照的に,前半の4日間は,広い広い自然の中,どこへ行ってなにをするか,皆目見当もつかない状態だった。当初は,2日目から4日目までの3泊は泊まるところも,当日考えようと思っていた。
 きっとそれでも何とかなったであろう。ただし,滞在型ならともかく,移動して,夜,その土地に着いて,そこで宿泊するホテルを探すというのは,経験上,結構めんどうなことであると思った。
 そこで,すでに書いたようように,2日目はバーハーバーのホテルを予約した。これは,正解であった。3日目も,結局,バーリントンのホテルを予約した。したがって,4日目のみが未定であった。
 もし,3日目のホテルを予約していなかったら,この日はルーベックへ行ったかもしれない。その結果,ニューハンプシャー州もバーモント州も行くことができなかったかもしれない。それはそれで,楽しい旅であったとは思うけれど,今晩のバーリントンのナイトクルーズは体験できなかったことであろう。 
 旅は,経験をすればするほど,よくばりになって,その結果優柔不断になる。悲しいことである。
 夢を食べると,感動の敷居がどんどんと高くなっていく…。
  ・・
 そんなわけで,ルーベックに行くことはあきらめて,アカディア国立公園の雄大な景色をあとに,来た道・国道1を引き返し,エルズワースの交差点で,泊まったホテルのある方向と反対の方向に国道1をバンガ―まで戻り,そこで西に進路をとる国道2に乗った。

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 2001年9月11日火曜日の晴れた朝,イスラム過激組織「アルカイダ」のテロリスト19人が民間航空機4機を乗っ取り,ニューヨーク市のWTC(世界貿易センター)に2機,バージニア州アーリントンのペンタゴンに1機を激突させました。もう1機は,ペンシルベニア州の原野に墜落しました。
 このテロ攻撃で2,977人の犠牲者が出ました。
 それは,日本では9月11日の夜のことでした。
 私は,CNNの画面で,何か映画のシーンでも見るように,飛行機が2機激突して,ビルが崩壊するところをずっと見ていました。不気味な静けさが恐怖を誘いましたが,実は,現地では,大変な騒ぎになっていたことはいうまでもありません。
 その後,アメリカはテロへの報復を進め,泥沼の戦争へと突き進んでいってしまったのです。
 その当時,アメリカを旅行すると,民家の家の大木にリボンが結ばれ,その家に派兵された人がいることがわかったり,We must be proud of American.という標示を見たり,MLBを見にいくと,7回裏の前に「Take me out to the ball game.」ではなく,「God bless America.」が流れるなど,アメリカは戦争中だと思い知らされることが多くありました。

 現在,このテロで施設全体が破壊されたWTC跡は,「グランド・ゼロ」と呼ばれています。
 再開発がすすんでいて,すべてが完成すると,記念碑と博物館,そしてその周りをらせん状にタワーが建ち並びます。
 地下鉄の貿易センター駅を降りて地上に出ると,この跡地に,アメリカ一の高さ1,776フィートとなるタワー1を含む建設現場を見ることができます。そして,その建設現場の西側にあるは,一般に公開されている記念広場があって,厳しいセキュリテイののち,この記念広場に入ることができます。
 記念広場には,ノースプールとサウスプールと名付けらたふたつの記念碑があります。これらは,WTCの崩壊したツインタワー跡地にふたつのプールが配されているものです。それぞれのプールには30フィートの滝が流れ落ち,水は中央の空洞に注ぎ込まれるようになっています。プールを取り囲む青銅の胸壁には犠牲者の名前が刻まれています。
 また,記念広場には1本の例外を除き,スワンプ・ホワイトオークが植えられています。
 1本の例外はマメナシの木で,この木は,WTCの広場に植えられていたものです。グランドゼロの残骸に埋もれた切り株として発見されましたが,木は回復し,30フィートの高さまで成長しました。
 この木は「サバイバーツリー」と呼ばれています。

 私が訪れた夏の暑い日,観光客で,この記念広場はごった返していました。
 どう表現していいかわかりませんでした。言葉が浮かびませんでした。
 人はどうして,こうも愚かなのだろう,といつも思います。
 世界史を学ぶと,人は,有史以来,戦争ばかりをしていることに驚きと怒りを覚えます。それは,過去のことではなのです。きょうも,3,000年前も同じなのです。そして,犠牲になるのは罪のない普通の人たちです。
 いかなる理由があっても,罪のない人を犠牲にしてはいけない…。
 どうして,いつまでも人間は愚かなままなのだろうかと,悲しくなります。

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 アカディア国立公園は,アカディア・マウント・デザート島と周囲の小さな島々,本土のスクーディック半島の一部からなる。
 全体で,約150平方キロメートルにわたり,ニューイングランド地方唯一の国立公園である。
 公園を訪れる人は,年間200万人にのぼる。 
 公園には周回道路が完備されていて,17の御影石の橋がかかっている。
 何マイルにもわたる景色のよい周回道路は,木々と土地の外観に多大な配慮がなされたうえで建設されたもので,ハイカーや自転車に乗る人に海,島の湖,松の森の眺めで楽しませてくれる。
 バーハーバーは,この国立公園の入口にあるハーバーである。

 アカディア国立公園は,1947年,本土のクランベリーの湿地帯で起こった火事によって焼けた。
 火事は数日間にわたって続いたが,再生が自然に起きた。
 火事は,木々の多様性を高め,風景に深みを与えることにより,公園の美を実際は強化したと言われているというから,イエローストーン国立公園同様,自然界で起きることは,ちゃんと自然界が解決するものであるらしい。
 キャディラック山は,島の東側にあり,そのピンクの花崗岩の頂上は米国で最初に日の出が見られる場所の一つであるため,有名な観光地となっている。

 国立公園の入口は,ほかの国立公園同様,ビジターセンターやロッジがあり,国立公園内は,当然,ごみひとつなく,その広さと雄大さは,ここ,アカディア国立公園も同様であった。
 キャデラック山での日の出は間に合わなかったが,それでも,遅れて到着した国立公園からの景色は,やはり,絶景であった。
 大西洋から昇る太陽をしばらくじっと眺めていた。
 日の出を見た多くの観光客の帰路で,けっこう車は多かったが,この国立公園の雄大さが,そんなことをすべて消し去って,ここでも,自然の偉大さを深く味わうことができた。
 私の先を走っていた車の人は,日の出に間に合ったのかしら,と思った。

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 忘れてしまえなった本の最後は,有川浩さんの「阪急電車」です。
 「その出会いは偶然なんかじゃ……ない。終着駅は,きっと笑顔。」というキャッチコピーで「阪急電車―片道15分の奇跡―」として映画化もされました。
 兵庫県宝塚市の阪急宝塚駅から兵庫県西宮市の西宮北口駅を経て阪急今津駅までを結ぶ阪急今津線の西宮北口駅から宝塚駅までは,所要わずか14分のミニ路線だそうです。
 この作品はその宝塚から西宮北口間の8つの駅を舞台とし,その乗客が織り成す様々なエピソードを,1往復に当たる全16話で描写したものです。
 作者は,大学時代に今津線の沿線に下宿していたので,一番思い入れのある路線である今津線を舞台にしたということです。
 これも,すばらしい小説です。読んでいて,スカッとします。何といっても登場人物のだれもがすべて素敵なことがこの小説の魅力です。特に,時江という女性がとりわけ素敵です。きっと,若い人が読んだら,ときめきも感じます。物語に裏切りがないので,安心して読めます。若い人には一押しの小説です。何といっても元気が出ます。
 などと書いているうちに,忘れていたあることを,ふと,思い出しました。

 今から32年前の夏,はじめてひとり旅でニューヨークへ行った時のことです。
 機内に乗り合わせた若いひとり旅の女性は,ニューヨークへミュージカルを見に行くということでした。いまでこそ,ミュージカルは日本でも一般に知られるものですが,当時はそれほどでもなかったのです。そのミュージカルについていろいろと聞かされて,その挙句,ニューヨークへ着いたら,一緒に「コーラスライン」を見にいこうと誘われたのでした。そんなわけで,ブロードウェイで一緒に夕食を食べてミュージカルを見たのでした。
 それだけのことです。名も聞かず,写真の1枚も残っていない,というのも今となっては不思議なことです。でも,どうしてこの本を読んで,こんなことを思い出したのだろう? そんな記憶を呼び覚ましてくれるのも読書の良さなのかもれません。
 そんな12時間の旅客機でなくとも,わずか14分の電車の中であっても,素敵な出来事が起こることもあって,それが時としてすばらしい結末になるなんて,実に楽しいではありませんか。
 人生は捨てたものではありません。これからは,電車の中では,時には,本を読まないで,人を眺めることにしようと思います。

◇◇◇
9月7日(土)朝日新聞be版「逆風満帆-人生を狂わせた悲恋の結末・瀬戸内寂聴-」より
  ・・・・・・
たどりついたのは「人の愛は,無償とみえ,無私をよそおうものほど自己愛の満足にすぎない」という疑念だった。「じつは自分の欲望が損ねられると,たちまち憎悪に転ずる」ものなのだと。
  ・・・・・・
すごい言葉です。

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☆3日目 7月22日(月)
 こうして旅をしていると,今日が何日で何曜日か,さっぱりわからなくなってくる。
 夜も,寝たのか寝なかったのか,よくわからない。よって,逆に時差ぼけも感じない。車で走っていても,眠気も感じない。歳をとるとは,このように,自分でも不可解なことである。

 朝になった。午前4時には目覚めていた。
 もう一度眠るか,どうしようか。と思った。
 外は晴れている。
 夏時間なので,夜明けはまだ先のことだと気づいて,せっかくなので,アカディア国立公園の日の出を見に行くことにした。
 日の出をみてから,一旦,ホテルに戻ってこようかと考えたが,このまま出発したほうが時間に無駄がないので,チェックアウトをすることにした。
 急いで支度をして,荷物を車に積んで,ホテルのフロントにルームキー(カード)を返却しに行った。
 昨年のノースダコタ州マンダンのモーテルを思い出す。あのときも,夜明け前に満天の星空を見に行ったっけ。そうして,早朝にチェックアウトをしたっけ。もう,あれから1年になる…。
 ホテルのフロントは朝8時まで閉まっていて,何か用がある人はポストの手紙を,と書いてあった。ポストには手紙が1通入っていた。私は特に用はないが,ポストにルームキー(カード)を返して,自主的にチェックアウトした。

 昨晩,このモーテルに来るとき,「バーハーバー」と書かれた道路標示を見かけたので,そちらの方向へ行けばいいと思っていた。確かに国道1に沿って少し走ると,道路標示があったので,そこで左折した。やがて,道は州道3,通称バーハーバーロードへ出た。片側1車線の気持ちの良い道が続いていた。
 前に1台車が快調に走っていて,どうやら,同じことを考えているらしい。車は,どんどんとバーハーバーを目指して走っていく。
 思ったよりも,バーハーバーは遠く,なかなか海岸線が見えない。GPSの道路標示を見ると,もうしばらく走ると,島に続く道は橋にさしかかって,その辺りで,海岸が見られるように思われた。
 空はどんどんと白んできて,まもなく夜明けのようだ。急がなければならない。

 まだ,バーハーバーには少し距離があったが,左手に海が見えた。海は,朝焼けに輝き,幻想的であった。
 そこを過ぎて,でも,思い直して,Uターンをしたのが正解だった。先ほど海の見えたところは,シーフードレストランの駐車場であった。そこに戻って車を停めて,手前の海岸にむかった。
 日の出はそのほんの数分後のことであった。
 やがて,海が黄金色に輝き,大西洋から太陽が上がってきた。神々しい風景であった。気づくと,日の出を見ている海岸のとなりにあった民家のベランダで,住民が同じように日の出を見ていた。
 お互い,思わず,美しいと声を出した。
 生まれてはじめて,大西洋からの日の出を見た。

◇◇◇
ヘンリー・デイビッド・ソローは,1817年7月21日に生まれたマサチューセッツ州コンコード出身の作家です。自然と人間を愛し,メイン州を旅し,「メインの森」という作品を残しました。
  ・・・・・・
 Life isn't about finding yourself; it's about creating yourself. So live the life you imagined.
  ・・
 人生は,自分を見つけようとすることではなく,自分を創造しようとすることだ。だから,自分の描く人生を生きなさい。
  ・・・・・・

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 メイン州の大西洋岸に面したちょうど中央あたりに,アカディア・マウント・デザート島という丸い島があって,その島の東側の山一帯がアカディア国立公園である。その島の東側の,ちょうど中央あたりにある港がバーハーバーというリゾート地で,その島に渡る橋のたもとにある町がエルズワースである。

 宿泊した「ナイト・イン・エルズワース・バーハーバー」は,エクスペディアで予約をしておいたところである。
 日本で iPad のマップの航空写真で見たときの印象とおよそ同じホテルであった。
 小高い丘の上にあって,きわめて景色がよく,気持ちがよい。このホテルの部屋には,バスタブもあった。
 チックインをするフロントは別棟にあって,感じのよいスタッフが対応してくれた。
 夕暮れの景色がきれいだった。

 こうして,観光地から車で30分も離れたホテルは,もちろん駐車場もあり,きれいでしかも安価に宿泊できる。
 部屋に荷物を入れて,さっそく夕食をとるためにエルズワースのダウンタウンへ向かった。
 ダウンタウンに沿った道路は工事中で車線の規制があった。夕暮れで見通しが悪いので慎重に運転する。日本の道路規制を思い浮かべる人が誤解するが,こちらの道は,車線ひとつひとつが日本よりも広いので,車で混み合うということはないのだが,こういう時の運転の慎重さは,日本の比でなない。
 フリーウェイやターンパイクはきわめて快速に,そして,市内では,きわめて慎重に,というわけである。
 交差点でも,信号のないことが多く,こういう時は,優先通行という概念ではなくて両方一旦停車で,交代に左の車から通行するという暗黙のルールがある。
 ちなみに,信号のある交差点も,例外を除いて,右折は赤でもできる。左から車が来ないことを確認して,ゆっくりと右折するわけだ。これが,まあ,気持ちがよい。また,左折は,直進より前に左折信号が青になる。

 夕食は,来るときに見つけたデニーズに入ることにした。
 お店はガラガラであったが,感じのよい店員さんが対応してくれた。
 アメリカでも,デニーズはメニューに写真が載っているので,注文しやすくていい。アメリカでは,お任せというのはなくて,たとえば,卵料理の方法一つについてもこちらで指定する必要があるので,英語に抵抗がある人は,やはり,ちょっぴり大変だろうと想像する。
 いつものように,とりあえずのコーヒーを注文して,のんびりとメニューをみて,肉と野菜を炒めたものを注文した。
 パンはついていないというので,トーストを追加した。
 食事をしている途中に,別のお客さんが入ってきた。
 なかなかおいしい夕食であった。
 食事を終えて,ホテルに戻った。
 部屋の前には椅子が用意してあって,夜風が気持ちよかった。晴れわたった夜空には星が美しかった。
  ・・
 旅行2日目。きょうは,予定していたよりもどこへ行くにも時間がかかってしまった。長い一日だった。 メイン州自体は素朴なところでちいさな町が多いのだけれど,昨年行ったノースダコタ州とは違って大都会から近い避暑地であるので,思った以上に人と車が多かった。
 短い夏を精一杯楽しもうと,人々が太陽の下を走り回っているようであった。
 うまく計画して,行くところを決めてその地を訪れないと,車を停めるだけでも大変なのであった。
 冬はとても寒いところだと聞いているが,冬に来たらどういった様子なのだろう,と思った。

◇◇◇
ほとんど地上波民放をみないと書きましたが,「世界の村で発見!こんなところに日本人」という番組がおもしろく,はまってしまいました。昨日は,オーストラリア・アボリジニの村に暮らす日本人女性を岡田奈々さんが訪ねるという内容でした。それぞれの人にそれぞれの人生あり,一般論では語れないところですが,人生たった一度,作られたレールの上を無事に終着駅にむかって走るだけが生き方でないととつくづく感じます。

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 ポートランドを過ぎ,インターステイツ295を経由して,再び,リッチフィールドという町でインターステイツ95に戻った。このターンパイクは,そのままメイン州の中央部を北東に走り,カナダ国境を過ぎ,カナダの国道2になる。
 私は,インターステイツ95を200キロメートル行ったバンゴーという町で,この道に別れを告げ,東方向に国道1に入って50キロ,エルズワースという町があるバーハーバー方向に向かう。
 インターステイツ95の途中で,ビジターセンターがあったので立ち寄ることにした。

 インターステイツ95を走っていると,州の境を過ぎたあたりにビジターセンターがあって,案内所では,いろいろとその州の見どころを教えてくれたり,ハイウェイマップをくれる。
 ものすごくたくさんの資料やパンフレットがあって,そのどれもが無料である。
 常に必要なのは,州のパンフレット(小冊子)とハイウェイマップで,これらの資料は,インターネットをしらべるよりも,グーグルマップを見るよりも役立つものであり,現地でなければなかなか手に入らないものなので,アメリカをドライブする人は,ぜひ,立ち寄って手に入れたい。
 特に,ハイウェイマップは,出口の番号が記されているので,運転をするときに非常に便利である。
 メイン州では,州に入った時にインターステイツを通らなかったこともあって,この地図を入手できず,困っていた。どうにかここで手に入れたので,これで安心してドライブができるようになった。

 快調に車は目的地を目指して進んでいるが,なにせ,非常な距離であって,どうにか午後6時を過ぎたころに,目的地エルズワースのダウンタウンが見えてきた。
 昨年行ったノースダコタ州のボーマンという町に似た国道1の周囲にレストランやらガソリンスタンドやらモーテルやらモールやらが立ち並ぶ典型的な国道の中継地点であった。
 中華料理店やデニーズやらマクドナルドやらがあって,きょうの夕飯は確保できるのでほっとする。
 そういえば,今年行ったニューイングランド地方にはどこにもダンキンドーナッツと中華料理店があって,どの中華料理店にも,私には意味のよくわからない漢字の店名がついているのが,興味深かった。
 事前に調べてあったように,「ナイトイン・エルズワース・バーハーバー」はこのダウンタウンを過ぎて,町の灯りがなくなって暗くなったころに,国道1沿いの小高い丘の上にあるホテルだ。
 すでに日が傾き,あたりが見えにくくなる中,なんとかホテルの表示を見つけることができた。

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 忘れてしまえなった本の2冊目は,窪美澄さんの「ふがいない僕は空を見た」です。
 川沿いの小さな町に住む高校1年の卓巳,彼と不倫に陥る人妻の里美,卓巳に恋を告白した同級生の七菜,彼の親友・良太,そして助産師として生きる卓巳の母という5人の人物の視点から描かれた連作短編集です。
 それぞれの作品が交互に入り組みながら,性,家族の葛藤,妊娠と不妊,貧困,老人問題,宗教など現代に生きる人間の,愚かさをも伴った主題が次々と現れます。そして,最後に生へのかすかな希求が現れ、感動の涙と共に幕が下ろされる…。
 登場人物それぞれの視点から語られる物語は,深刻であっても常に肯定的で,欲望に振り回される人間という生き物の哀しみと,愛おしさが湧き上がってきます。

 書評によると「醜いものも美しいものもすべて飲み込み,生きることを力強く肯定する物語」ということです。所詮,人間は本音で泥臭くしか生きられないのだなあ,本当の悲しみや苦しみを味わった人だけが人の心を知ることができるのだなあと感じるのですが,こうした真実をうまく表現できていることがこの小説のすばらしい点であると思います。うまく歳を重ねた人は人にやさしくなれるものだからです。
 少し刺激が強すぎる小説かもしれないと,初めのあたりはそのように思うかもしれませんが,もっと重い内容の,そして,深みのある真摯な小説です。

◇◇◇
このブログでも紹介した,先週まで再放送をしていた「戸井十月・ユーラシア横断3万キロの旅」の最後に戸井さんが語った言葉が非常に印象的であったので,紹介します。
  ・・・・・・
世界の北から南の果てまで,西から東の端まで,距離にしておよそ13万キロの道行く旅を続けてきた。それでいったい何が得られれたのかと聞かれても,正直,明確には答えれられない。それは,無駄な12年だったかもしれないし,徒労の13万キロだったかもしれない。だた,私は,確かに人風に体をさらして道を走り,そこに広がる風景と道端に生きる人々とに出会ってきた。その記憶こそが,旅人が得ることのできる,ささやかだが,しかし,他の何物にも代えることの出来ない財産なのではないだろうか。
荒んだ風景から目をそらしたことも,人の悪意に言葉を亡くしたこともある。正直に言って,五つの大陸で目にした風景のすべてが美しく光輝き,出会ったであった人のすべてが明日への希望に満ちていたわけではない。
しかし,いま,私は改めて思う。それでも,世界は美しく,人間は捨てたものではないと。
  ・・・・・・
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 これまでに読んだ本はどの本もそれなりに面白いのですが,読み終わるとほとんど忘れてしまいます。図書館で借りた本を読んでいると,この本,前に読んだことあるぞ,と思うこともまれではありません。そんなことのほうが多いのですが,それでも,忘れてしまえなかった(「忘れ去ることができなかった」という意味です)本がいくつかあります。
 その中から3冊,紹介したいと思います。3冊とも女性の作家の作品です。男性の作家には,こういう小説は書けないなあと思います。

 1冊目は,川上未映子さん初の恋愛長編小説「すべて真夜中の恋人たち」です。
 主人公・入江冬子は34歳。以前は小さな出版社の校閲部で働いていましたが,職場の雰囲気になじめず,今はフリーの校閲者として自宅でひとり働いています。
 ある日,冬子はふとカルチャーセンターに通うことを思い立ち,出かけたそこで,58歳高校の物理教員という三束と知り合います。やがて,週に1度喫茶店で会うようになり,そして,いつしか冬子は三束に恋をしていることに気付くのです。
 小川洋子さんの「博士の愛した数式」といい,東野圭吾さんの「容疑者Xの献身」といい,高校教師やら数学教師やら物理教師やら,そういう男性が,たぶん世間からはそのように見られているだろうという人格で小説にでてくることが多いのは近頃の「理系男子ブーム」の反映でしょうか? 喜ばしいのやらかなしいのやら・・・。
 58歳というのが微妙なのですが,著者によると,この歳の設定が大切なのだそうです。60歳すぎだと恋愛の対象になれない,若すぎてもこの小説の展開ができないのだそうです。
 でも58歳というのは少し歳をとりすぎだと,この年齢に近い私は個人的に思いますけれど。
 「繊細に語られていく冬子の心情が,読者の胸を切なく締め付ける長編恋愛小説」との書評を読みましたが,女性の心理描写に比べ,男性の心理描写はちょっと甘いなあ、と感じました。
 著者は,まだ,若いのですね。もっと人生経験を積みなさい,と。でも、読後感は最高です。
 川上未映子さんは,2011年10月に再婚されたということなので,10年後くらいに,また,このような小説を期待したいなあ,その時は,どんな結末になるのかなあ,というのが気になるところです。

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 フォート・ウィリアムズ・パークは広大な公園で,入口を入ったところにあった広い駐車場はほぼ満杯だったが2,3台空きがあったので,車を停めて外に出た。
 ここは砂浜になっていて,家族連れやグループでハイキングをしたり,ゲームをしたり,好きなことをして楽しんでいた。
 市民パークのようであった。
 どこへ行っても人が多いし車も多かった。でも,公園はさらに広くて,混雑しているという感じではなかった。
 しかし,ポートランド灯台が見つからない。ポートランド灯台へ行くにはここに駐車するのではなく,もっと公園の道,そう,その先の坂道を車で登っていくとその先に灯台があるようだった。

 坂道を登っていくと,下からは見えなかったが,さらに広い駐車場があった。車を停めて,みんなが歩いている方向へついていくと,やがて,絶景が広がった。
 大西洋に面して,白く美しいポートランド灯台があった。その先は広いきれいな海だった。海の青と灯台の白色がとても印象的であった。海にはヨットが浮かんでいた。その向こうに,小さくポートランドのダウンタウンが見えた。

 ポートランド灯台は,カスコ湾に突き出たエリザベス岬に建つ灯台で,メイン州を代表する景色として有名である。英国軍の侵入を見張る目的で18世紀末に作られたもので,1989年までは灯台守がいたということだ。
 砦になっている,こうした広い一帯がハイキングトレイルとなっているので,家族連れでにぎわっているというわけだった。
 青空のまぶしい1日だった。
 天気がよかったので,雄大な景色を堪能することができた。
 ここまで来てよかったなあ,と思った。
 この海は大西洋で,その向こうは日本ではなく,ヨーロッパとアフリカ大陸だということが,信じられなかった。

◇◇◇
9月2日,日本も異常気象ですが,アメリカでもいろいろな災害が起きています。ボストンでは鉄砲水,ノースダコタでは竜巻,サウスダコタでは雹が降りました。カリフォルニアでは山火事です。事故がなければいいのですが。

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 インターステイツは楽だ。
 インターステイツ95を快調に走って,道路標示に従ってポートランドに迂回するインターステイツ295に入ると,やがて,ポートランドのダウンタウンの高層ビルが遠くに見えてきた。
 アメリカをドライブしていて,もっとも感動するときである。
 事前に調べておいたので,ポートランドの市内に入る手前に,公園があって,そこが,ポートランドシードッグスの本拠地であることは知っていた。インターステイツ295を走っていたら,実際,右手に森があって,「ボールパーク」の道路標示があり,森の中にボールパークのナイター設備と客席の屋根が見えてきた。
 到着予定時間をはるかに越えて,もう3時少し前だった。
 少し迷ったけれど,ポートランドにはほかにも見どころがあるし,マイナーリーグの野球を見ることは面白いが,ここでベースボールを見て3時間も使うことがどうでもよくなってしまったので,降りるのをやめて,そのままポートランドの市街地を目指した。
 
 ポートランドは人口6万人あまりの美しい都会である。
 「地球の歩き方」に,見どころは,レンガ造りの家並みが郷愁をそそるオールドポートと,絶景スポット・ポートランド灯台,とある。 
 道路標示にしたがってインターツテイツ295を降り,一般道を西に進むと,ポートランドのダウンタウンに入った。大きなビルが立ち並ぶ,街路樹のきれいな町であった。
 私は,ポートランドは,ロブスターの採れる寂れた漁港と灯台というイメージを持っていたが,それは昔見た北海道の思い出なのであって,ここポートランドはそれとはまったく異なる,近代的で美しい,横浜の赤レンガ倉庫のようなところであった。
 車でそのままダウンタウンを右折すると,そこがポートランドの見どころのひとつオールドポートであった。
 もうひとつの見どころで,メイン州を紹介するガイドブックには必ず載っている有名な「ポートランド灯台」は,ポートランド市内から南に7キロメートルくらい行ったところにあるらしい。「地球の歩き方」には地図外とあって,どこにあるのかわからない。州道77を南に行けということだけがかろうじて書かれてあった。
 この本の「地図外」には,いつも悩まされる。ピッツバーグへ行ったとき,カーネギー・メロン大学を目指してわけがわからなくなったときもそうであった。
 今回はGPSをつけていたにもかかわらず,ポートランド灯台の検索方法がわからず,どこをどう走っていくのかと運転しながら思案した。持っていた地図を見ると,このままオールドポート沿いのコマーシャルストリートを「しばらく」走っていくと州道77に突き当たることがわかった。そして,そこを左折すれば南に行くからポートランド灯台へ行くことができるらしいとわかった。
 だんだんと土地勘ができてきたので,「しばらく」という距離が日本で思うしばらくより「はるかに遠い」ことが感覚的にわかってきた。そうして,本当に「しばらく」走っていったら,予想通り州道77に出ることができたので,交差点で左折してこの道に沿って走っていくと,やがて,大きな橋があった。その橋を渡り,さらに道なりに州道77を進んでいくと,州道77は右に曲がっていくが,まっすくに進む方の道にポートランド灯台の標示があったので,その指示に従ってその道に入った。そうして,さらに4キロメートル進んでいくと,無事,ようやく,ポートランド灯台のあるフォート・ウィリアムズ・パークに到着することができた。

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 ガソリンといえば,さすがに,カムリは日本と同じように,給油口のふたが,運転席のノブで開くようになっていたが,アメリカ車であると,日本車と違って,ロックがかかっていなくて外から開く。これでガソリン泥棒が横行しないのが不思議である。また,給油口を開けるとキャップにプラスチックの紐がついている。これはアメリカで売っている日本車も同様で,このほうが給油をしたときに置き忘れないのでたいへん便利だと思うのだが,どうして,日本ではそうなっていないのだろうと,昔から不思議に思っている。

 ともかく,車も,私も,給油(食事)が終わって,ポートランドまでの道を急ぐ。
 インターツテイツに入ると,快調に車は進むようになった。時速制限は州によって違うが,ニューイングランド地方はほぼ65マイル(104キロメートル)であった。

 写真のように,車にはたいてい「オートクルーズ」のボタンが四つハンドルのわきについていて(昨年借りたヒュンダイはどこを探しても見つからなかったが),まず,中央のオートクルーズをONにするボタンを押して,アクセルを踏み,目的の速度になったときにオートクルーズをセットするボタンを押す。すると,この速度を保って車は走るのである。先ほど押したONボタンの左の大きなボタンを押したり,ブレーキを踏むと,オートクルーズが解除され,3つ目のリセットボタンを押すと,解除されていたオートクルーズは再びONになって,先にセットした速度に戻る,というものである。
 ほとんどの車はこのオートクルーズによって同じ速度で走っているから,同じ間隔を保っている。後続車にあおられるということもない。だから,運転といっても左手でハンドルを道に沿って操作する以外なにもすることはなく,ラジオもFM局が0.2メガヘルツごとにあって,場所が変わると自動的に新しい局を選局してくれる。日本の番組はやたらとしゃべくりばかりで疲れるが,音楽だけを流しているものが多いのも爽快である。
 そういうわけで,インターステイツでの運転は想像以上に楽なのである。
 まれに,ものすごく運転の下手な人やらハーレーバイクの集団やらがいて,彼らがその秩序を乱すので,それに遭遇してしまうと,その時だけは,それを抜けるのに,悪戦苦闘するという感じである。
 それでも,時折,ハイウェイパトロールに速度違反で捕まっているのを見かけるから不思議である。

 こういった運転に慣れると,本当に,日本で運転することが怖くなる。
 日本では,高速道でもいつも渋滞し,速度を大幅に違反した車が,かき分けかけ分け追い抜いていくし,路肩や分離帯は狭い。
 一般道では,左車線を安全運転していても,自転車が車道を走っていたり,やたらと路上駐車をしていたり(そういえば,アメリカでは,駐車スペース以外に違法駐車をしているのを見たことがない)するので,しょっちゅう右側車線を気にして,車線変更をしなくてはならないし,やたらと信号ばかり多いし,双方一旦停車の交差点では,なんとかして先に突っ込まないと,いつまでも横断できないし(アメリカでは,左側の車から順番というルールがある),運転マナーは悪いし,交差点はゴミだらけだし,スピード制限はあってないようなものだし,制限速度を守っていると後ろからあおられるし,見通しがよく,晴れていて,まったく事故の心配のないところで,意味のない取締りを,多くの警官を動員して行っているし(それよりも,それだけの人員がいたら,それぞれ別の交差点に立たせたほうがいいと思う)。
 私は,しかたなく,日本でも運転をしているけれども,こんな国で,車に凝って,高級車に乗る人の気持ちが,全く理解できない。
 車好きな人は,気持ちよく高級車に乗りたければ,一度,アメリカの大地で思う存分に走ってみましょう。きっと日本のせっかちでマナーの悪い運転が,情けなく,しかもかっこ悪いことだということが身に染みることだろう。

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