しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

October 2014

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 龍安寺の後は,仁和寺に行きました。仁和寺といえば,徒然草ですがどうしてでしょう?
 有名な徒然草の第52段。高校で習います。
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 仁和寺にある法師,年寄るまで石清水を拝まざりければ,心憂くおぼえて,あるとき思ひ立ちて, ただ一人徒歩よりまうでけり。極楽寺,高良などを拝みて,かばかりと心得て,帰りにけり。さて,かたへの人に会ひて,「年ごろ思ひつること,果たしはべりぬ。聞きしにも過ぎて,尊くこそおはしけれ。そも,参りたる人ごとに,山へ登りしは,何事かありけむ。 ゆかしかりしかど,神へ参るこそ本意なれと思ひて,山までは見ず。」とぞ言ひける。少しのことにも,先達はあらまほしきことなり。
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 この徒然草で,「仁和寺」を私も覚えました。徒然草は,ドナルド・キーンさんによって英訳もされています。
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 Between 1330 and 1332 the Buddhist priest Kenko, having, as he put it, "nothing better to do," turned to his ink stone and brushes. He jotted own his thoughts, observations, and opinions; anecdotes that he found interesting, amusing, or instructive; accounts of customs and ceremonies--everything that seemed to him worthy of preservation.
 The little essays--none of them more than a few pages in length, and some consisting of but two or three sentences--give us the self-portrait of a most engaging gentleman. He is consistent in his statement of the peculiarly Japanese aesthetic principle: beauty is intrinsically bound to its perishability.
 The imperfect, the irregular, the understated, beginnings and endings--these have a charm of their own which surpasses that of completion.
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 仁和寺は右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院で,山号を大内山と称します。本尊は阿弥陀如来,開基は宇多天皇です。世界遺産に登録されています。ここは門跡寺院で,出家後の宇多法皇が住したことから「御室御所」と称されました。そして,明治維新以降は「旧御室御所」と称するようになりました。
 御室桜の名所としても知られています。また,宇多天皇を流祖とする華道御室流の家元でもあります。
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 私たちが行ったときに遭遇した珍しい出来事というのは,この仁和寺に神主さんがご挨拶に見えたということでした。神主さんとお寺⁉ 私はちょうど神主さんが山門を入られるのに遭遇してびっくりしたのですが,それを見ていた地元の人がいたので,どういうことか聞いてみました。
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 仁和寺の隣にある福王子神社は,第58代光孝天皇の皇后である班子女王(桓武天皇の孫娘・宇多天皇の母)を祭神としてお祀りしてあるということです。宇多天皇が仁和寺を開かれたことから,福王子神社は仁和寺の鎮守神とされていて,仁和寺から譲渡された神輿の巡行が大祭の10月の第三日曜日に行われて,福王子神社から出たお神輿が仁和寺の仁王門駆け上がるのだそうです。
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 その10月の第三日曜日というのが,私たちが行った日の翌日でした。そこで,あすこちらへ伺います,というご挨拶だったというわけです。
 このめずらしい行事は,京都の観光タクシーの運転手さんでも知らない人が多いという話でした。
 このような格式高き仁和寺の法師さんだからこそ,徒然草の寓話が意味を持つというものです。

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 なんとか来た道を戻って,インターステイツ10にたどりついた。インターステイツに戻る途中で,一般道でサンアントニオに行くことができる道を見つけたが,不安だったので,その道を行くことはやめた。
 この調子で行くと,約束の午前10時はぎりぎりであったが,私は,懲りもせず,アメリカの都会を走ることがいかに大変であるかをすっかり忘れていた。
 次第にサンアントニオの市街地に入ってきて,道路は車線も増えて車があふれていた。
 空港は市街地の北にあって,そこへ行くには,インターステイツ10から環状道路に乗り換えて一旦東に向かい,次の北に行く道とのジャンクションで一般道路に降りることになるのだが,地図で見たようには簡単にいかないのであった。

 まず,インターステイツ10から環状道路インターステイツ410に乗り換えた。これはうまくいった。この道は,通称コナリー・ループという。北東角に空港があるところのジャンクションで北向きに進むと国道281になって,左側にめざすホテル「スーパー8アントニオエアポート」がある。
 しかし,国道281に入ってしまうと出口がなく,ホテルに行くことができないのだった。
 そこで,一般道に下りるのであるが,地図で見れば簡単そうなのだけれど,なにせ,広いアメリカ,一般道に降りてしまったら,空港といっても,どこに空港があるのかさっぱりわからない有様であった。
 しかも約束の午前10時には,あと15分くらいであった。

 一般道に降りると,どこにいるのかわからなくなった。周りには大きなホテルだの倉庫だのが建ち並び,この先どう走ればいいのか見当がつかなくなった。
 そこで私は,慎重に方角だけを頼りに北に進んでいった。
 こういうとき,いつものように私には幸運が訪れる。何と,私の目の前に私の泊るホテルがあった。
 ホテルの前には広い駐車場があって,そこに車を停めることができた。

 思った通り,友人の車はなかった。遅れるのは想定内であった。しばらくホテルのロビーで待っていたが,現れる予兆すらなかった。
 私は,今回は,自分の借りた車があるから,余裕があった。たとえ,友人と会えなくても,なんの問題もなかった。フロントでは,スタッフがなにやらしきりに電話でだれかと話をしていた。
 とりあえず,ホテルのチェックインをしようと思ってフロントで聞いてみたのだが,チェックインの時間にはまだ早いので,今チェックインをすると余分な料金が必要である,ということあった。大概は,チェックインの時間より早くてもチェックインできるのであるが,ここはそういうわけにはいかなかった。そこで,ロビーでWifiがつながるかと聞くと,パスワードは「フォーンナンバー」だと言った。うまく聞き取れなかったのだが,こそっと教えてくれたものを聞き返すのもどうかと思っていると宿泊客が降りてきたので,彼にこそっと聞いてみると,「テレフォーンナンバー」だと言ったので,やっと理解できた。
 そこでロビーのソファに腰掛けてiPod-touchをネットに繋いで,友人と連絡を取ることができたのだった。

 彼女は,まだ,自宅にいるようであった。今から行くからと言ったので,しばらく待っていると,やっと,駐車場に現れた。家を出てからも,カーナビ任せで走ってきたが,道がわからずなかなかホテルに到着できなかった,と言った。
 あとでわかったことには,彼女は,私が昨晩からこのホテルに宿泊していると勘違いをしていた。そして,私がホテルのロビーにいたときに,スタッフが電話で話をしていた相手は,実は彼女であった。
 日本人が宿泊しているはずだが電話をつないでくれ,と言ったのに,日本人など泊まっていない,というやり取りをしていたらしかった。お前は頭が変だと言われたらしく怒っていた。
 そこで,友人は,私がこのホテルにいないと思いこみ,ホテルまで来なかったのだと言った。
 まあ,こんな感じで,今回もまた,はじめっから歯車が狂いっぱなしなのであったが,ともかく,私は借りたレンタカーはホテルの駐車場に停めて,彼女の車に乗り込んで,今日の観光に出発したのだった。

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カンザスシティ・ロイヤルズが3-3に追いついた昨日,2回裏の青木宣親選手のヒットには感動しました。それはそうと,この日も「謎の人物」Laurence Leavyさんは,マーリンズのユニフォームを着て,しっかりとテレビに映っていました。
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 龍安寺を過ぎてきぬかけの路を仁和寺に向かって歩いていくと,右手に小さな「アルボ」という喫茶店がありました。
 外にメニュー表が張ってあって,そばが食べられるらしかったので,お昼ごはんは,ここで済ませることにしました。
 中に入ると,狭い店内は20人くらい入れる感じでしたが,店内では,真ん中でお店の人がちょうどそばをそば粉からそば打ちするところでした。
 ここは喫茶店なのかそば屋なのか? 思っていたのとまったく違う展開にびっくりしました。どうやら,このお店は,こういう風に,凝った手打ちのおそばを食べることができるところでした。
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 京都というのは,本当に不思議なところです。こうした何気ないお店が,何気ないわけでなくて,めったに見られない,あるいは体験できないことに遭遇することができるのです。
 ちょっとした食堂も,少しもちっとしてなかった経験はたくさんあります。

 先客さんが2人いましたが,メニューを出して,今ちょうどおそばを打つところだから,同じにしていだけると助かる,と言われました。さらに,このお店で注文されるのはほとんどがこれです,とにしんそばを示されました。特にこだわりもなかったので,というか,お店の人のほうがずいぶんこだわりがあったので,そのにしんそばを注文しました。
 急ぐ旅でもなかったので,のんびりと待っていると,そば粉がだんだんとソフトボール大の丸い塊になって,それを平らにして,細く切って,30分ほどでおそばが出来上がりました。
 こんなの日本人でもみたことないから,感激しました。残念ながら,写真撮影禁止だったので,お見せすることができません。興味のある方は行ってみてください。
 出来上がったおそばは大変においしく食しました。 

 今回の旅では,このおそば屋さん以外に,日本刀のお店とか,昔のお菓子を売るお店とか,とても興味深いお店を見ることができました。それらは,どこも,チェーン店とかそういうものでないことが,これもまた,京都らしいというか,すてきな経験でした。
 この町は,どうして,こうも底が深いのでしょうか。これが歴史の重みというものでしょうか。
 私も,アメリカ旅行をすると,ガイドブックにあるようなお店とか風景とか名所よりも,こうしたお店だとか,体験のほうが魅力を感じます。
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 おそば屋さんのあとは仁和寺に向かいました。仁和寺でもまた,珍しい出来事に遭遇しましたが,このお話は,また,次回。

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 道路標示にしたがって,バンデラに向けて走っていった。途中で道路が分かれるところは,入念にチェックして,帰りに戸惑わないようにした。戻るときに道を間違えると,広いアメリカのこと,もうどうにもならなくなる。
 車の量もさほど多くなく,快調に進んで,30分くらい過ぎて,バンデラの町が見えてきた。
 ここは日本でいう,宿場町のようなところであった。

 サンアントニオから北西に車で1時間ほどに位置するバンデラ(Bandera)は,ゲスト・ランチと呼ばれる観光牧場が多くあることで有名な町。人口は,約900人である。ゴルフコースを備えたリゾート牧場から,投げ縄やカントリーダンスを教えてくれる本格的な観光牧場まで,好みに合わせた滞在先を選ぶことができるということであった。

 バンデラよりも規模が大きいのだが,ダラスから西に行ったところには,フォートワースというカーボーイの町もあって,ここへは以前行ったことがある。
 フォートワースはダラスの西にあり,カウボーイたちによる西部開拓が始まったところで,1896年からアメリカ最大級の家畜取引所があったことでも知られている。現在は,家畜取引所のあった一帯は街並みが当時そのままの様子に復元されていて,ストックヤーズ国立歴史地区となっている。
 また,ストックヤーズにある世界初の屋内ロデオ競技場「カウタウン・コロシアム」では,カウボーイハットにウェスタンブーツできめたカウボーイ・カウガールによる白熱の競技を見ることができる。
 このように,ここテキサス州には今でも西部劇の世界が体感できる町が存在する。

 バンテラの町の端に車を停めて,バンテラの町を少しだけ歩いた。とても素敵なところであった。ジャーマンタウンに何度も行くくらいなら,この町に来た方がよいと思った。
 残念ながら,時間がなかったので,これくらいにして,バンテラの町を後にすることにした。ともかく,この町を見ることができてよかった。
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 あとで,友人に,サンアントニオに戻る途中でバンテラという町に行ってきたと言ったら,いい町だったでしょう! と言われた。
 それなら,少しの時間でもいいから,その町に連れて行ってくれてもよかったのに,と思ったことだった。

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 金閣寺から歩いて龍安寺まで行きました。この道を「きぬかけの路」といいます。
 あまり京都を知らなかった若いころのことです。
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 この道を車を気にしながら狭い歩道を歩いて行くと,右手に堂本印象美術館,左手に立命館大学があって,それを越えると龍安寺,そして,仁和寺がありました。それを知って,有名なお寺がこんなに近くにあるなんて,と驚きました。仁和寺に着いたのはまだ午後2時過ぎだというのに,秋の夕暮れはとても早く,すでにもの悲しい感じだったのですが,それが最高にすてきでした。
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 この道を歩いていて,そんなことを思い出しました。何年経っても,人の気持ちは同じです。

 龍安寺といえば,石庭です。
 英国のエリザベス女王が龍安寺を訪れて,この有名な石庭を絶賛したことから,英国放送協会が大々的に取り上げ,「Rock Garden」として世界中にその名前が知れ渡ったということらしいのですが,エリザベス女王自身は,この石庭の前に座ってひとこと「わたしにはわからない…」と言ったらしいということが伝わっています。
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 この地は,もともとは,969年から984年に在位した円融天皇の勅願寺である円融寺があったところです。平安時代末期に藤原実能がここに山荘を造り,敷地内に寺を建て徳大寺と称し,姓を徳大寺としました。
 1450年に,細川勝元がこの徳大寺家の山荘を譲り受けて,妙心寺の義天玄承(ぎてんげんしょう)を招いて建立したといわれるのが現在の龍安寺です。
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 有名な石庭は方丈南側にある枯山水庭園です。
 私は,これまで多くの枯山水庭園に行ったことがあります。特に、京都には大徳寺の塔頭に枯山水庭園がたくさんあります。枯山水庭園は,水のある池のかわりに白砂を引き,木々は島や蓬莱山を表すもの,といった意味を聞けば,それなりに理解ができます。
 竜安寺の石庭は,そうした枯山水庭園のもっとも単純化した姿ではないかと思います。それならそれでとてもよくわかります。それは,金閣寺の回遊式庭園のように庭が多くを語れば,見る人は想像しなくても理解ができます。しかし,龍安寺の石庭のように庭がほとんど何も語らなければ,逆に,自分の心が語りかけるということです。だから,自分の内面に多くの心情がある人にはそこに響くものがあり,薄っぺらな人にはそれが響かない…。これは,音楽も同じです。

 竜安寺の石庭の作者は不明で,造られた年代も詳細不明らしいのですが,応仁の乱の後であろうといわれています。
 以前,「花の乱」という全く不人気だった大河ドラマで,応仁の乱で焼け果てた京の町を思い返して,細川勝元がこの庭にたたずむシーンがありました。史実は別にして,あのドラマでは,五山の送り火も日野富子がはじめたように描かれていましたが,ドラマとしてなら,それはそれで説得力がありました。つまり,世は無常ということです。私は,あのドラマの無常観が好きでした。
 竜安寺の石庭は,東西30メートル,南北10メートル余りの長方形の白砂の庭に15個の石を5・2・3・2・3に配置したもので,これは「虎の子渡し」の名で知られています。母虎が3頭の子を連れて川を渡ろうとするとき,1頭のヒョウが現れ母虎が目を離すと子の虎が食べられる。川を渡るにはどうすればよいか。その答えがこの石組みの中にある…。そんなことなのだそうです。しかし,私は,こういう話は,先に書いたように,ある人が庭を見て,庭が自分の心に語りかけられたことを,もっともらしく表現した,ただそれだけのことだと思います。

 どの位置からもすべての石を一度に見ることができないという話は有名です。この話をすると,みんな,一生懸命にそれを数え始めます。さも,この石を数えることがこの庭の目的であるように…。でも,この庭はパズルではありません。だから,それが,この庭を造った人の思惑,ではないと思いますが。


 方丈の北側の軒下に徳川光圀の寄進といわれている「つくばい」が置かれています。本物は方丈の東北側にある非公開の茶室「蔵六庵」に置かれてあり,方丈の北側にあるものは精確に作られた複製品だという話です。
 このつくばいの表面に書かれた字は,銭形の中心の「口」を共用すれば,「吾唯足知(われただたるをしる)」と読むことができます。意訳すると,自分はこれで十分だということを知る,なのかな? それとも,分相応であることを知ることこそ大切,なのかな? 私は,身の丈ということばが好きですが,そう理解していいのかな? 要するに,精神的な豊かさが大切だということです。だから,英訳すると,I learn only to be contente. かな? でも,こんなんでわかるんかいな?
 金閣寺と龍安寺の真逆な価値観がまた,おもしろいところです。音楽でいえば,オペラと弦楽四重奏といったところでしょうか。

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☆8日目 3月20日(木)
 モーテルのフロントに食堂が併設されているのだが,まだ,朝早く,フロントには鍵がかかっていた。
 しばらくすると,ホテルのスタッフらしき人物が車でやってきたが,彼は,なにかの用事で来ただけらしく,もうすぐ準備ができるから,と言って,鍵をかけて出て行ってしまった。少し待っていると,別のスタッフが現れて,フロントが開いたので,中に入って食事をした。
 途中で,ふたりのひげを生やした男が入ってきた。どうやら私の部屋の隣に宿泊したオートバイの2人連れであった。昨日,彼らがホテルに到着したときに,声をかけたのだが,聞こえなかったのか,無視されたような気がしたので,いい気持ちはしていなかったのだが,それは誤解だったようで,食事をしていたら,向こうから声をかけてきた。
 気ままにこうしてオートバイで旅行を楽しんでいるということであった。
 悠々自適な身分になったとき,こうして,友達同志でオートバイで旅する人たち,夫婦でキャンピングカーでめぐる人たち… アメリカは広く,魅力にあふれ,すばらしいところだ。
 日本でも,道の駅の駐車場に小さなキャンピングカーを停めて旅をしている人たちもいるにはいるが,そのスケールが違いすぎる。

 私は,今日は,ジャンクションを出て,朝の10時までにサンアントニオに着けばいい。
 今日泊まるホテル「スーパー8・アントニオエアポート」はすでに予約してあって,朝10時にそのホテルの駐車場にいるということをサンアントニオで私の帰りを待つ友人に連絡してあった。
 ここジャンクションからサンアントニオには2時間もすれば行くことができるから,朝7時頃,私はホテルを出発した。
 あとは,のんびりと走ってサンアントニオに着けばよかった。
 インターステイツを走っていると,道路の東側から太陽が昇る途中であった。夜明けが美しかった。

 実は,私には,この旅で,ジャンクションからサンアントニオに向かう途中に,一か所,気になる場所があった。それは,パンテラという名の町であった。
 日本を出発する前に,このあたりのことをテレビでやっていた。
 その番組で,サンアントニオから北西に車で30分くらいのところに「パンテラ」といかいう,いまでもカーボーイの住む町があるという話であった。しかし,それを見た頃には詳しい地図もなく,あえて調べもしなかったので,こちらに来てから,そこはいったいどこなのだろうかとずっと気になっていた。
 昨日,観光案内所でもらった地図を昨晩ホテルで見いていて探していたら,どうやらここではないか,という場所を見つけることができた。それは,パンテラではなく,「バンデラ」(Bandera)であった。サンアントニオに帰る途中,少し遠回りしたところにその町はあった。しかし,これからそこへ行くには時間もないので,どうしようかとずっと迷っていた。

 インターステイツ10をずっと走って行くと,「バンデラ」という道路標示が見えた。その道路標示のあったところでインターステイツを降りて,さらに,40キロメートルくらい北に行くらしいことはわかった。頭の中で計算すると,午前10時にサンアントニオに着くには,ここからバンデラに寄り道するとぎりぎりであった。しかも,道を間違えなければ,という条件つきであった。
 ずいぶんと迷ったのだが,ここで行かなければ,おそらく一生行くこともないであろうと思った。
 これまで,サンアントニオで待ち合わせをしたときに,時間通りに来たことのない友人の性格を考えると,少しくらい遅れてもどうっていうこともないように思えた。しかも,私は,借りた車を返すのは,帰国する日の朝だったから,たとえ友人に会えなくとも移動手段に困ることもないのであった。 

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 大垣から国道303号線を北に向かい,途中の横山ダムで国道417号線にに右折してそのまま走っていくと,現在は揖斐郡揖斐川町鶴見,以前は藤橋村というところにお城が見えてくるの。
 ここには,南北朝時代にお城があったということなんだけど,正式な名は「杉原砦」というそうなので,城郭というよりも砦だったんでしょう。
 この地に,1989年にできたのが「西美濃プラネタリウム」なんだって。外見を天守閣風に仕上げて,藤橋城と名づけたんだそうよ。
 そんなわけで,このお城は,実は,博物館だったの。

 中に入ってみると,1階がプラネタリウム,2階が星の展示室,3階が旧藤橋村の歴史と民俗の展示,4階が展望室だったわ。
 私が行ったときは,平日だったし,ほかに誰もいない中で,プラネタリウムの上映を見ることができたの。
 解説はテープではなく,非常にわかりやすいものだったし,プラネタリウムの星像もクリアですばらしくて,とっても満足したわ。

 同じ敷地には,西美濃天文台もあって,観望会の日には,望遠鏡で星空を見ることができるそうよ。
 また,近くには,宿泊研修施設の「ふじはし星の家」っていう施設もあるそうよ。きっと晴れていれば,すごくきれいな星空が見られると思うわ。

 ここを過ぎて,さらに,国道417号線をしばらく北上すると,徳山ダムに着くの。
 ここは,揖斐川最上流部に建設されたダムで,堤高が161メートルなんだって。
 総貯水容量6億6,000万立方メートルは日本最大規模で多目的ダムとしては日本最大,全ての日本のダムにおいても最大級の規模を誇っているそうよ。

 このダムは,ダムを作ることで水没してしまった徳山村に住んでいた増山たづ子さんというおばちゃんがたくさんの写真を残したことですっかり有名になったわね。
 私は,これまでずっと一度は徳山ダムに行ってみたかったんだけど,なかなかその機会がなかったの。
 日本では,こうした建築物は,実際,建設をはじめてしまえば,それが既成事実となってしまって,後戻りもできないし,問題が起きても,その責任の所在さえ曖昧で,だれも責任をとらないから,いってみれば,やったもの勝ち。そして,いつも書いているように,国民は従順だから,それに従う人が正義であり,反対する人は悪人になるっていう構図があるから,このダムを見て,いろいろと考えさせられたの。
 このダムの経緯は不勉強でよくわからないのだけれど,このダムに沈んだ村を生まれ故郷とした人の気持ちだけは痛いほどわかったわ。
 周りの風景は,なんとなくアイダホの景色に似ているなあ,と思ったけれど,こちらは道路がやたらと狭く,工事中で片側一車線のところが多くて,来るのにものすごく時間がかかったことが違う点ね。
 だから,美しいお星様が見られるからっていっても,なかなか来ることはできないのが残念だわ。
 
 この日は,一度は行きたいと思ったところへ行けたし,クマさんのことも勉強できたし,結局,皆既月食の写真も写せたから,お月見三昧とまではいかなかったけど,おもしろい1日になったわ。

 数年前の春,NHKの番組改編は,それはひどいものでした。視聴者を低能と決めつけたかののように,それまでのレベルの高い,こころに沁みる,NHKらしい,NHKの良心といわれた番組がすべて突然姿を消して,低俗な,あるいは,初心者相手の番組に入れ替わりました。
 私が見ていたのは,たとえば,「N響アワー」「週刊ブックレビュー」「囲碁将棋ジャーナル」などでした。「クローズアップ現代」もなくなりそうだったという話です。
 それはまるで,視聴者などバカばかりだろう,難しい番組はわからないだろう,だから視聴率がとれないだろうと,その結果,民放のような軽薄なものばかりにリニューアルされました。
 しかも,予告もほとんどなく…。
 視聴者はバカではありませんでした。ずいぶん多くの苦情が舞い込みました。その苦情に対して慇懃無礼な返事が届きました。それがまた怒りを買いました。そんなことがブログを賑わしていました。
 そこまでされてしまっては,私も愛情が憎悪に替わり,そのとき,N響の定期会員を辞めました。
 やがて,日曜日の夜9時、「N響アワー」に変わって放送された「ららら…」なんとかとかいう見るに堪えない番組は,すぐにどこぞやの時間帯に移され,「クラシック音楽館」という番組が始まりました。
 この番組は,単に,昔からBSで放送されていたN響演奏会を移しただけのものでしたが,それでも,少しはマシになりました。この番組の冒頭には,指揮者や独奏者のインタビューもありました。
 この10月の放送からは,そのインタビューがさらに充実して,指揮者だけでなく団員さんのインタビューも加わって,とても地上波とは思えない番組に生まれ変わりました。やっと,待ち望んでいた番組が戻ってきた感じです。特に,コンサートに足を運べず,BSもみられないといった年配の人たちには朗報でしょう。

 このように,数年前のあのとき何が起こったのかわかりませんが,大衆に迎合するという意味をはき違えた改編いや改悪が行われ、NHKには大いに失望したものでした。
 BSでは「コズミックフロント」など,内容のある番組が,その改編期にもなくなることなく今も放送されています。また,私が見るに値する番組も少しずつ戻ってきたようで,嬉しく思います。
 しかし,今でも,そのころにはじまった訳のわからぬお笑いタレントを起用して,意味のないクイズをやったり,不勉強丸出しのコメントで時間をつぶす番組がないとはいえません。しかし,Youtubeなどのマスメディアが一般的になった今,時間つぶしのためだけの番組などやっていては,テレビの将来はないでしょう。

 新聞や雑誌も同様です。
 新聞や雑誌は,自分たちだけで他社を非難し合っていても仕方がないのです。これを世の中では「内輪もめ」といいます。どこも同じような人に記事を依頼して,情けない限りです。
 もっと報道すべきものがあるのです。読者はおろかではありません。みんな,自分のことを棚に上げて他人の非難をしている場合か? と思っています。新聞や雑誌全体が存亡の危機をむかえているのに,足の引っ張り合いですから。そんなことをしていても,だれもそんなメディアにはお金を払いません。いくら見出しが過激でも何の取材力もなく机上で書いているだけの記事は読んでいてすぐにわかります。立ち読みで十分です。

 これからの時代,お金をとっても視聴したり購読する気になるような,手間暇をかけた本物だけが生き残っていくのでしょう。それよりも,先行きの暗い業界には優秀な若者は入っていかないから,そのことのほうが私は心配です。

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DSCN6904 DSCN6905 Amy Franz2 (2)Amy Franz2 (1) 相撲

 2014年のMLBワールドシリーズがはじまりました。惜しくも,ミズーリ州対決にはなりませんでした。
 圧倒的にサンフランシスコ・ジャイアンツが有利ですが,勢いのあるカンザスシティ・ロイヤルズがどこまで健闘するか? が見どころです。
 ところで,朝日新聞の夕刊に宇宙飛行士・向井千秋さんのだんなさん・向井万起男さんが「大リーグが大好き!」という連載をしています。彼は,大の大リーグファンとして有名です。私もこの記事に教えられることが多々あります。
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 この連載の最近の話題は,MLBをいつもバックネット裏で観戦している「謎の人物」です。
 この記事によると,テレビのMLB中継で,バックネット裏で,派手なオレンジ色のマーリンズのユニフォームを着て,マーリンズに関係あろうとなかろうといつも観戦してる人物がいるのだそうです。昨日のワールドシリーズ第1戦でも,バックネット裏の一番前の席に座っていました。
 実は,この人は, Laurence Leavy という名前の人物で,50代の弁護士です。

 MLB中継といえば,イチローがシアトル・マリナーズに在籍していたときに,ライト側のスタンドで,いつイチローのヒット数を掲示した「イチメーター」を掲げて応援していた Amy Franz さんという女性がいました。
 この人もあまりに有名で,NHKのBSベストスポーツでも自宅を訪問した特集をしていました。詳しくお知りになりたい人は,ネットで探してみてください。
 Laurence Leavy さん,Amy Franz さんとも,ツィッターにアカウントを持っていますので,興味のある人はチェックしてみるといいでしょう。

 そういえば,大相撲中継でも,金色のシルクハットをかぶって,日の丸の扇子を振っている山田直稔さんという人がとても有名です。
 この日の丸おじさん,国技館に来るときに,かなり脚光をあびて両国駅から歩いてきます。私も一度目撃しました。
 この人については,ちょっと派手すぎて賛否両論がネット上をにぎわしていますが,ともかく,毎日のように応援に出かけられるのはうらやましい限りです。
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 大相撲といえば,近頃のテレビはハイビジョンでとてもクリアーだから,観客の顔がとてもよく見えます。
 私は,大相撲中継は,お相撲よりも,むしろ有名人が見ているのを探すほうが面白いのですが,よく見かけるのは,中村玉緒さん,大村崑さん,研ナオコさん,林家ペー・パー子夫妻,ちばてつやさんなどです。

 私も,以前,シアトルで野球を見たときに,帰国して録画をみたら,しっかりと映っていました。
 スポーツ中継に限らず,N響定期公演でも1階席に座ると,まず,映ります。
 映っていいか悪いかはその人の事情次第ですが,ともかく,今はテレビの画質もいいことだから,スポーツ観戦やコンサートに行くときは,テレビに映っちゃうことをちょっぴり気にしたほうがいいかもしれません。まあ,映ったにしても,他人はほとんど気がつきませんけれど。

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 チェックインを済ませて,カバンを部屋に置いた後,再び車に乗って,夕食を兼ねて、あたりをドライブすることにした。
 この町のパンフレットによると,ジャンクションは「Land of Living Water」ということがウリであるらしく,町の南にはサウスリャノリバー(South Liano River)という州立公園があるということだった。
 私は,まず,その公園へ行こうと思った。町からずいぶんと南に行ったところに,大きな川が流れていて,その周りは広い公園になっていた。標示にしたがって,公園の中に入っていったが,どこまで行っても,人影はなかった。
 ずっと奥には,公園の管理所のようなところがあった。
 きっと夏などには,キャンプやバーベキューをする人で大いに賑わうのであろう。

 再び,ダウンタウンに戻ると,メインストリート沿いに,古きよき時代に栄えたであろうダウンタウンがあった。
 また、この小さな町には,学校やら,スーパーマーケットやら,ガンショップ!,飲み屋,葬儀屋,ポルノショップなどなど,生活するのに必要な(あるいは必要でない?)すべてがそろっていた。
 メインストリートのまわりには住民の家々があって,それらはアメリカのこうした町によくあるこじんまりとした一軒家が並んでいた。ちなみに,この町は「city-data.com」によると,きわめて治安のよい町であった。
 私は,こうした町を見るたびに,何か,我々日本人とは,生きている,生活しているという根本から,全く違うもののように思えてくる。
 我々は彼らのような生活を知らない。そしてまた,彼らには,我々のような生活は全く想像がつかないであろう。
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 早朝に起き,あわただしく朝食をとって,満員電車に揺られて,ずいぶんと遠い職場に行って,遅くまで仕事をして…。そんな生活を当たり前の日常だと思っている人って,世界中にどれほどいるのだろう?

 宿泊するモーテルをさらに越えて,インターステイツ10をも越えてさらに行くと,町の北側に小さな飛行場があった。そして,その向こうは,もう,市街地ではなく,平原が広がっていた。この先をずっと行っても,もう,何もなさそうであったから,引き返すことにして,インターステイツと交差する手前に,ちょうどそこにあった「Cooper's」 という名のレストランに入った。

 この町で唯一というほどのレストランには,ほどほどの客がいた。
 大学の食堂のように,トレイを持って,食べたい品を注文するようになっていたが,私にはどのように注文するのかよくわからなかった。前に並んでいた人の注文するのをよく聞いて,私も同じように注文した。
 まず,飲み物、そして,いくつかの品から好きなものを頼む,といった感じであった。
 この町の住民になったような気がして,とても楽しかった。
 アメリカの小さな町を観光する楽しさは,こんなところにある。
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 食事を終えて,一度ホテルにもどった。まだ,日が暮れておらず,外が明るかったので,再びホテルを出て,近くをのんびりと散歩した。静かな夕暮れだった。
 こうした旅は悪くない。

DSC_3238DSC_3242DSC_3243 茶室焼失まえの金閣2

 久しぶりに、京都へ行ってきました。
 私は今は日本国内の旅行はほとんどしないのですが,京都だけは別格です。以前にも書いた気がしますが,11月になると紅葉の季節で,ものすごい人混みになってしまうのですが,10月という季節の京都は,やがてくるそんな季節を控えて,落ち着いた雰囲気で最高です。私は,この季節が最も好きです。

 近ごろは,特に,海外からの旅行者が増えて,紅葉シーズンに備え冬眠している日本の観光客がほとんどいないのに比べて,どこも外国人だらけです。
 今回は,私も,アメリカ人の友人と一緒に来たので,定番の観光地をめぐることにしました。
 私がアメリカに行って,いろんな感想をもつように,今回訪れたところについて,彼らはどういった感想をもったか…,これが,今回の小旅行のテーマのひとつです。単なる旅行案内はいくらでもありますし。
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 京都の定番といえば,そう,一に清水寺,二に金閣寺,そして,三に二条城ですね。「二」に「二」条城かな?それはともかく,それぞれ,個性があります。だから人気なのでしょう。
 今回は,そんな定番の中から,金閣寺を選んで,そこから出発して,龍安寺,仁和寺と散策することにしました。私は,これまで,ずいぶんとここに来ていますが,私がアメリカを旅行して何がしたいか何を見たいか,を考えてみれば、外国の人が日本に来て何がしたいか何を見たいか,は自ずからわかります。

 まずは,金閣寺。
 金閣寺といえば,中学校のときに,社会科のテストで「金閣寺」と書くと間違い,と習ったことがあります。正しくは「鹿苑寺金閣」だということです。同じように,「銀閣寺」も「慈照寺銀閣」だと,そのとき覚えました。
 こういうことをしっかり覚えることがこの国で一般によくいわれる「偏差値の高い」学生になるコツです。実にくだらないことです。
 ここでは,あえてこの通称の金閣寺と書くことにします。それは,金閣寺に行くと山門のまえに「通称金閣寺」と書かれているからです。
 金閣寺のホームページには,次のようにあります。
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 正式名称を鹿苑寺といい,相国寺の塔頭寺院の一つ。舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺とよばれています。元は鎌倉時代の公卿,西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け,山荘北山殿を造ったのがはじまりとされています。
 金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたといわれ,有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり,中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で,この時代の文化を特に北山文化といいます。
 義満の死後,遺言によりお寺となり,夢窓国師を開山とし,義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。
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 ならば,足利義満の創建したのは,「鹿苑寺金閣」ではなく,「山荘北山殿」なのではないでしょうか。その庭園の中に,舎利殿として建てたのが金閣。だから,私は,「金閣寺」が間違いなら,「鹿苑寺金閣」だって正しくないように思います。この国の教育は,こうした,正しくもないことを正しいとするような,その世界だけで通用するよくわからない決まりがたくさんあります。
 私は,きちんと覚えることも大切でしょうが,そんなことよりも勉強しなくてはいけない大切なことがほかにたくさんあるように思うのですが…。学生は「舎利殿」ということばも知らないでしょ?
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 ところで,足利義満という「天皇になりたかった将軍」は,どういう存在だったのでしょうか。
 この時代に生きていて,都の周りにはその日を生きることすら大変な人たちが暮らしている中で,金閣のような建物や庭を造園する,そして,天皇を足蹴にするような行動をする,というのは,どういう精神状態だったのか,と,私は,この広い庭に行くと,いつも考えます。晩年の秀吉に共通する権力バカなのかな? それとも,こういう行動は,そうしたまずしい人たちを「救おう」とするために行われていたことなのでしょうか。
 私にはそのことがよくわかりません。
 いずれにしても,それから600年以上も経って,今もなお,この地に多くの人が訪れ,この建物を見て感動する,そして,救われるということならば,決してこの造園が意味をもたなかったということではない,ということだから,それはそれで意味のあることだったのでしょうか…。
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 ただいえるのは,生きている人は,今も昔も,だれしも,将来のことが不安で,特に,医学も発達していなかったこの時代には,それは,現代人には想像を絶するものだったに違いがないのです。だからこそ,宗教が意味を持ち,こうしたお寺の存在が大きかったのでしょう。
 人は,結局は,精神的に生きているのです。しかし,精神的に生きるために,こうした贅沢な物質が必要だということもまた,皮肉なことです。

 はじめてここを訪れただれしも,このきらびやかな姿に驚くのですが,それは,日本人でも変わりません。特に,名ばかりの「銀」閣を先に訪れた人には,正真正銘の「金」閣にびっくりするでしょう。しかし,これは,ある意味,観光客用の「やらせ」です。私は,むしろ,この金閣が,もし,放火されていなかったら,どれほど古びた姿だったのか,ということの方が興味があるのですが…。今ほどの人気があるのでしょうか?
 それよりも,外国の人が疑問に思うのは,金閣というのは何のためにあるのか? ということです。
 確かに,金箔でつつまれているから,権威の象徴なのですが,もともとは舎利殿ですから,五重の塔と同じです。このことは,金閣の内部を考えればよく理解できます。そう考えると,いくら天皇になろうとした将軍・足利義満が偉大であろうとしても,釈迦には勝てないということだったのです。
 庭園を歩いていくと,小高い丘の上に,後水尾天皇が贈った茶室があります。 
 足利義満が御所の北に御所を見下ろすようにこの金閣という建物を建てたにせよ,後年(江戸時代),この金閣を見下ろす場所に茶室を贈った後水尾天皇は,大した人物,あるいは,とんだ食わせ者だと,今回,私ははじめて気づきました。

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 「ONCE ダブリンの街角で」(Once)は、2007年公開のアイルランド映画です。
 制作費はわずか1,500万円でしたが,映画は成功をおさめ,同名のミュージカルとして2011年12月に舞台化されて,2012年2月ブロードウエイへ進出,トニー賞を作品賞,演出賞,脚本賞,主演男優賞を含8部門で受賞しました。
 2012年のトニー賞は日本でもテレビで放送されたので,このミュージカルの一部は見ることができました。
 このとき,この映画のことを詳しく知らなかった私は,ダブリンというよりも,アメリカの片田舎の酒場で演じられる音楽のような気がしたものです。
 このミュージカルは,11月27日から日本でも上演されます。

 日本でのキャッチコピーは,
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 ふたりをつなぐ,愛より強いメロディ
 人生でたった一度,心が通じる相手に出会えたら
 ストリートから始まるラブストーリー
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だそうで,うまいこと作るものです。

 舞台は,アイルランドの首都ダブリン。ストリート・ミュージシャンの男とチェコからの移民である花売りの女が音楽を通して心を通わせていくラブストーリーです。
 映画の内容は,キャッチコピーにあるように,「マジソン郡の橋」とかと同じ,現実と愛情の狭間揺れ動く人間像を物語にしたものですが,何より,いい意味で垢抜けしていないことがこの物語を身近なものにして,見ている人の感情移入を容易にしていることと,ダブリンの街角が望遠レンズを通して描かれていることで,映画全体に流れる,何ともいえない貧しさや暗さが心を打ちます。そして,何より,音楽の素晴らしさが,この物語に深みを与えています。
 たとえば,「赤ちょうちん」「妹」「神田川」とかいった,そんな1970年代の日本のような感じといえばわかりやすいでしょうか。だから,この時代の日本に生きた人なら,このせつなさとちっぽけな希望がとてもよくわかるように思います。
 また,今の,効率主義に毒され,競うことばかりを強いられてしまっている気の毒な現代の日本の若者が見失わされてしまった人間の生の心の葛藤の大切さを思い出させてくれます。
 若者は,もっと生きることに精神的に物質的に葛藤する時を過ごす必要があるのです。机に向かって勉強したり,スマホをいじるよりも。

 私は,この映画をもとにしたミュージカルを見ていないのですが,映画の雰囲気がどれだけミューミュージカルに再現されているのかがとても気になります。なんとかブロードウェイで見てみたいものです。
 人が人として生きるという一番大切なことを忘れていたなあ,そんなことを思い出させてくれる作品です。

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 やがて,フォートストックトンに着いた。きょうの宿泊地であるジャンクション(紛らわしいが,このジャンクションはインターチェンジではなく,地名である)に向かって,インターステイツ10を,さらに東に走った。来たときと同じ道なので,まわりの景色を見る余裕があった。
 時には,道遠くに大きな湖があったり,風力発電用の風車があったりするが,それ以外は,相変わらず,単調な道が延々と続いていた。

 切り通しのようになっていたりするところもあったが,いかにも,広い大地に道を平坦に走らせるためにえぐっただけのように思えた。
 遠くに円すい形の山が見えた。
 近づくと,これは山というよりも,モニュメントバレーと同じく,小高い大地が風化によってけずられた跡地のようであった。

 アメリカに移り住んだ日本の人が言っていたが,モニュメントバレーとかグランドキャニオンなんて,アメリカ中にいくらでもあるんだよ,ということであった。まさに,こうした大地の風化した景色はロッキー山脈のふもとにはいくらでも存在するのである。
 今年の夏,つまり,この旅行記の後に行ったユタ州なんて,まさに,こうした景色だらけであった。ここテキサス州は,その地層の最南端であった。

 途中,売店もないパーキングエリア(そう,インターステイツには,時折,こうしたパーキングエリアがあるが,決してガソリンスタンドなどない。あっても自動販売機くらいのものだ)に車を停めて小休止しながら,さらに延々と退屈な道を何時間も走った。
 次第に,私は,サンアントニオに近づいて行った。
 今晩泊まるのは,サンアントニオまであと2時間ほどのところにある小さなジャンクションという名の町であるが,ジャンクションのひとつ手前に,ソノラという町があった。
 そこで一度休憩をしようと,インターステイツ10を降りた。
 降りたところに,偶然,広い駐車場と。観光案内所があった。
 中に入ったら,スタッフがいて,テキサス州の地図をもらうことができた。

 テキサス州の地図は,旅の間,ずっと手に入れたかったものだった。ここに観光案内所があることを,行く途中で知っていればよかったのになあ,と思った。
 アメリカでは,このように,どの州も,観光案内所が充実していて,観光館内所には親切なスタッフがいて,さまざまなパンフレットやら地図を無料でもらうことができるのである。
 こうした観光案内所は,たいていは,インターステイツを走っていると,州境を過ぎたあたりに見つけることができるのだが,州を越えたりしないときは,逆に,なかなか案内所を見つけることができないのだ。

 地図を手に入れて,再び,インターステイツ10に戻った。さあ,いよいよ,目指す町ジャンクションである。
 インターステイツ10は,ジャンクションにさしかかって,道路標示がその地名を指し示していた。この町は,往路ですでにチェック済みである。ここでインターステイツを降りると、すぐ右手にRV車用のキャンピングエリアがあった。
 ジャンクションはキンブル郡の郡庁所在地で人口約2,500人。キンブル郡はアラモの戦いで戦死したジョージ・C・キンブルに因んで名付けられたという。1920年代後半には,毛糸とモヘアの生産,さらに様々な農産物が経済を支え続けたという。このように,ジャンクションは古くから栄えた町であった。
 そのキャンピングエリアを過ぎて,1本しかない,町のメインストリート沿いを走って行った。
 この町はちょっとしたリゾートのような,しかし,単なる町のような,そんなところであった。近くには他に町はないから,ここが宿場町のようになったのであろう。
 メインストリート沿いには,スーパーマーケットやら,レストランやら,モーテルやらがあった。
 どこのモーテルも小さなものであったが,駐車場にはほとんど車が停まっておらず,空部屋がけっこうあるようだった。

 私が予約したモーテル「サンバレー・モーテル」も問題なく見つけることができた。
 ここにも駐車場にはほとんど車が停まっておらず,今日の宿泊客は,私だけなのかな,と思った。さっそくチェックインして,部屋に入った。安価な,小さなモーテルであったが,インド人らしき人の個人経営で,こぎれいなモーテルであった。
 きょうの選択は悪くなかったな,と思った。

ツキノワグマクマ注意

 藤橋村と徳山ダムはとってもいいところだったので,いろいろ書きたいけど,それはまた来週以降にして,きょうは,「クマ」さんについて書くわ。

 皆既月食のあった日,私は,お昼間,藤橋村と徳山ダムへ遊びに行って,予定通り,夕日が沈むころに,いつもの観測地に行ったの。月を写すだけなら赤道儀は必要ないんだけど,皆既中に天王星も写そうと思ったから,赤道儀で追尾しようと思ったのね。
 それで,望遠鏡を設置していたら,ツキノワグマが出たから気をつけて,っていう村の有線放送が流れてきたのね。それでも,ここは関係ないわ,と思ってそのまま欠けはじめた月を見ていたら,村役場の人がやってきて,ここが一番危ないっていうの。さすがにビビッて,撤退を余儀なくされちゃったのね。
 見ていたところがミツバチ畑なんて,冗談じゃないわ。

 この日は,さすがにショックで,家に帰ってから,いろいろと調べてみたら,それはそれは怖くなってきたの。
 私の認識がかなり甘かったみたいね。これじゃあ,天体観測どころじゃないわね。一度,天文雑誌も,真剣にクマ対策を取り上げたほうがいいと思うよ。
 県立の群馬天文台でも,駐車場から天文台までの歩道にクマが出没するそうよ。だから,鈴が用意してあって,みんなチリンチリン鳴らして歩くの。

 私が調べたところでは,どうやら,私が今までお星さまを見ていたところには,頻繁にツキノワグマが出没していたみたいなのね。これまで食べられなくて本当によかったわ。
 でも,クマさん対策にはいろんな情報があるんだけど,どれが本当か,よくわからないわけ。
 たとえば,クマさんは夜行性じゃない,とか。でも,本当は夜中にも活動するそうよ。
 出会ったら死んだふり… そんなのウソよ。
 鈴を鳴らすといい… だって,山歩きじゃないんだよ。じっと星をみていて歩いているわけじゃないから,鈴持っていても鳴らないじゃないの。
 ラジカセをかける… うるさいじゃないの。近くに住んでいる人に迷惑よ。
 クマよけスプレーだの,鉈だの,っていうのもあるそうだけれど,戦うの怖いわ。

 今年は,クマさんのえさのどんぐりが不作で,目撃されるクマさんが例年の8倍以上なんだって。だから,天体観測だけじゃなくて,ハイキングで山歩きなんて,実は,問題外なのね。
 愛知県にはブナの木がないからクマはいないらしい,危ないのは岐阜県とか長野県とか,
 北海道はヒグマさんもいるし,本州はまずだめね。四国にも少しいるらしい。でも九州にはいないんだって。じゃあ,どうして熊本県っていうんだろう?
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 さすがに冬眠するから真冬は大丈夫そうだけど,夏から秋なんて最悪よ。
 私は怖いから,冬までは,見に行くところを変更するわ。
 ともかく,人が自然を破壊するからろくなことないんだわ。クマさんだって迷惑よ。
 それにしても,アイダホ州ならともかく,日本でこんなにクマさんがいるなんて,本当に知らなかったわ。
 皆さんも気をつけてね。

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 カンザスシティはカンザス州にあると思っていましたが,地図で見ると,カンザス州とミズーリ州の州境にあるのです。そして、カンザスシティ・ロイヤルズの本拠地「カウフマンスタジアム」は,ミズーリ州の東の端にあるのです。
 セントルイスもミズーリ州の西の端にあるのだから,もし,カンザスシティ・ロイヤルズとセントルイス・カージナルスのワールドシリーズが実現したら,これは,なんと,ミズーリ州東西対決ということになるわけです。移動に飛行機は必要ありません。

 このブログで書いているように,私の目標は,アメリカ50州制覇とMLB30球団制覇。そのうち残った州を制覇し,かつ,MLBを見にいくために,来年は,カンザスシティを足場にして,オクラホマ州,アーカンソー州,テネシー州とドライブしようと思っていたのですが,まさか,今年,カンザスシティ・ロイヤルズが優勝するなんて夢にも思わず,遅れをとってしまいました。
 昨年の夏は,ボストン・レッドソックスを見にいくことができたのに…。
 デンバーまで行けたのだから,もう一歩。惜しいことをしました。

 カンザスシティ・ロイヤルズといえば,1985年までは,強豪だったのです。カウフマンスタジアムは,1973年オープンなので,古い方で,そのころ流行りのクッキーカッター型の,アメリカンフットボールと共有する人工芝の球場とは一線を画し,カンザスシティ・チーフスが使用するアローヘッドスタジアムと,このカウフマンスタジアムが並んでいるという,当時としては,最高の環境でした。私は写真でそれを見て感動したものです。
 今となっては,外見がコンクリートむき出しでいささか古びてしまっていたのですが,2009年に改装なって,超モダンボールパークに生まれ変わり,2012年にはオールスターゲームも開催されました。
 いわば,上り調子の球団というわけです。

 少し前までは,夏は蒸し暑く,ロイヤルズにトレードされたら最後,とまで噂され,日本人になじみがあったことといえば,日本のプロ野球を経験しないで大リーガーとなったマック鈴木が所属したチームというだけでした。
 今年,青木宣親選手がトレードされた時は,望まれて入団したとはいえ,かわいそうに,と私は思いました。それに,日本人になじみの浅い都市では生活するのも大変なのです。それが,まさかまさかの,野茂英雄投手やイチロー選手が夢見てかなわぬリーグ優勝です。

 実は,ユタ州から東に走るインターステイツ70に沿って,デンバー,カンザスシティ,セントルイス,シンシナチ,ピッツバーグ,ボルチモアと六つも大リーグの球団があるのです。私は,この道を走って,デンバー,セントルイス,シンシナチ,ピッツバーグには行ったとこがあります。
 このことは,また,後日,旅行記に書きますが,このインターステイツ70はユタ州からコロラド州にかけては,360度グランキャニオンのような景観の中を駆け抜けるのです。 
 私も,また,このインターステイツ70を西から東に大陸横断をして,今度は,六つの球団をすべて観戦したいものだと思います。
 本拠地でのゲームは,観客席がチームカラーの真っ青に染まり,すごいムードでした。青木も「青」木。ロイヤルズのファンも青がブルーを意味することは知っているのだそうです。
 さて,夢の実現まであと4勝。
 Royals know October. So does Aoki.

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 やっと,フォートストックトンに着いた。空は,やっとかすみがなくなってきた。
 ここは,インターステイツ10を西からずっと走ってみるととてもよくわかるが,交通の要所なのである。ここを過ぎると大きな町はなく,人間も車も,ここで栄養補給をする必要があるのだ。
 誇りっぽいところであった。給油機はどれも砂にまみれていた。
 この巨大な給油所はすべてディーゼル用であった。ガソリン用のポンプは,使用できなくなっていた。私はそれがわからず,ガソリンを入れようと車を停めて,操作をしていたら,少し向こうでディーゼルを入れていたRV車のガイに,大きな声で,ガソリンじゃない,と叫ばれた。

 アメリカ人は,私が思っているよりもずっと世話焼きで親切だったりする。
 ディーゼルなんて入れてしまったら,えらいことになるところであった。
 その向こうにあった別のスタンドに行って,ガソリンを入れ,事なきを得た。ついでにここで昼食をとった。
 ここまでくれば,あとはニューメキシコ州に向かうときに通ったインターステイツ10を今度は,一路,東に戻るだけだった。
 こうして,私は,たった4日ではあったが,ニューメキシコ州を往復することができた。

 何度も書くように,ニューメキシコ州は,はてしなく広い所であった。まさか,来ることができるなんて,思わなかった。
 今,これを書きながら地図を見ても,やはり,このニューメキシコ州は行くのに大変なところである。
 ロッキー山脈というと,なにかとても険しい山道を思い浮かべるのであろうが,日本とは違って,山深いところを狭い道路が通っているとか,日本の中央自動車道のように,橋や高架が続いていたりトンネルが続いていたり,というものでは全くなくて,ただ,広々とした荒野が延々と続いているだけなのである。
 むしろ,モンタナ州のビュートからヘレナに行くインターステイツ15や,ウェストヴァージニアをピッツバーグに向かうインターステイツ70の方が,山の中を走っているという気がする。

 ニューメキシコ州には,他に,映画「コンタクト」に出ていたLVA(Very Large Array)とよばれる電波望遠鏡群や第2次世界大戦中にマンハッタン計画の中で原子爆弾の開発を目的として創設されたロスアラモス国立研究所LANL(Los Alamos National Laboratory)など,途方もないものがあるそうだが,実際にニューメキシコ州に行ってみると,さもありなん,という感じであった。ここは宇宙に一番近い所,かもしれない。
 私は,この広くて遠いニューメキシコ州にもう一度行くことができるとはとても思えないことが残念であるけれども,もし,また行くことができるのあれば,この広さをのんびりと味わってみたいものだと思った。
 映画「コンタクト」の最後のシーンのように。

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 私は間に合ったのです。
 それは,2004年11月13日でした。N響名誉指揮者ウォルフガング・サヴァリッシュさんの最後のコンサートで,ベートーヴェンの交響曲第7番をライブで聴くことができました。それは,本当に幸せな時間でした。
 このころまでのN響は,毎年秋になると,サヴァリッシュさんが1年に1度,N響の定期にやってくるのが当然のことのようになっていました。
 この年の1年前だったか2年前だったかのサヴァリッシュさんの演奏会は最高でした。きっと,そのときの演奏会が生涯最高傑作だったと,私は思います。演奏されたのは,確か,R・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」だったでしょうか。それはまるで,サヴァリッシュさんの生涯を奏でているかのようでした。

 この最後の演奏会のときは,もはや,イスに座らなければ指揮ができないほど痛々しく,顔もむくんで,往年の活気はすでになくなっていました。それでも,この特別な意味を持つ演奏会は,なんというか,これが何十年にもわたるN響とのコンサートの最後ではないかという哀愁が会場内一杯に満ちていて,まるで,神が音楽を奏でているかのようでありました。
 楽団の人たちは,音楽が進むにつれて,この音もこれが最後,この音もこれが最後,と感じながら演奏していたという話でした。胸がいっぱいになって,演奏するのが辛かったというお話でした。曲が終わったとき,サヴァリッシュさんは大きくため息をつきました。そして,場内から割れんばかりの拍手がいつ終わるでもなく,続いたのでした。
 楽屋に戻ったとき,サヴァリッシュさんは,これが最後,と言われたとか聞きます。ただし,語り継がれている「この演奏会が最後」というのは本当は間違いで,その翌年,一度は来日決定の連絡があったのです。私は,そのチケットを買いましたが,残念ながら,それは実現することなく,直前にキャンセルされてしまいました。

 今から40年近く前のこと,私が大学生のころのN響の演奏会の指揮者といえば,ウォルフガング・サヴァリッシュさんとオトマール・スウィートナーさんでした。それは,ヨーロッパで,へルベルト・フォン・カラヤンがベルリンフィルに君臨し,カール・ベームがウィーンフィルを振っていたような2大巨匠が林立するよき時代のことでした。
 若かった私には,今のような時代が来るなんて,想像もできませんでした。当時は,偉大な人は偉大なままずっと生きていて,私が歳をとっても,不死身であるような気がしていました。しかし,カラヤンもベームもすでに亡く,スィートナーもサヴァリッシュも鬼籍に入られました。
 人は,みな老いるのです。

 10月13日,台風19号が日本列島を横断した日,NHKFMでは,1日中「今日は一日”N響”三昧」という番組が放送されていました。私は,いつ台風情報で番組が中断するかと気になりながら,この放送を聞き続けていました。
 番組の夜の部になって,これまでN響と共演した大指揮者の歴史的な演奏会が次々と流れはじめました。私は,感動を超えて,だんだんと胸がいっぱいになってきました。台風のために締め切った室内に,この演奏会の音楽が部屋中を覆いました。これほど満ちた時間があったでしょうか。私の耳に聴こえてくる音は,神がかりというか,むしろ,神の演じる音そのものでした。
 ふと,われに返って,こうした大指揮者たちは,自らの晩年にどういった気持ちで演奏していたのかな,と思いました。
 私は,晩年の朝比奈隆さんと大阪フィルのブルックナーを聴いたこともありますが,その演奏を聴いたときも,どうすれば,あれだけの神々しい音が出てくるのかと思いました。若いころの私はそこまで気づきませんでしたが,きっと,2時間近くのコンサートを指揮するというのは,80歳を越える高齢の指揮者にとっては途方もないことだったに違いありません。ところが,そうしたことはすべて超越して,音楽に神が宿るのです。
 このハイテク全盛の時代にあっても,本当に人の心に響くのは,こうした人生をかけた職人の技なのです。一芸に人生を捧げたとき,人は神になるのです。この番組の最後に読まれた高齢の方の「こうしたすばらしい音楽のおかげで,私も長生きができました」という投稿が,私の胸を打ちました。

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 エルパソを過ぎて,やがてテキサスの大平原を快調に走りだした。時折,車が路肩に放置してあったりするのを見るのだが,あれはどう考えても居眠り運転で車が通行帯から飛び出て走行不能になったものだと思った。
 これだけ単調でガスっていれば眠たくもなるだろう。

 そのうち,検問に出会って,私のけだるい雰囲気が吹っ飛んだ。
 はじめに見た道路標示には,大型車だけの検問所のように見えたのだが,あとで写真をみると,大型車は重量を測るためのよくあるターミナルであって,検問所はその0.5マイル先で,すべての車が対象であった。
 そのまま走って行くと,道路にラバーコーンが設置してあって,すべての車が検問所に導かれるようになっていた。

 「地球の歩き方」に,エルパソの付近には検問所があると書いてあったので,一応,心の準備はできていたが,やはり緊張した。
 いつもいろいろと不満を持っていながら,こういうときだけ,日本人であることに感謝する。
 検問所は大きな屋根で覆われていた。前の車がすぐに発進したので,私もやり過ごそうとしたら,停止させられた。
 警官? がパスポートの提示を要求した。
 検問があると思っていたので,パスポートはすぐに取り出せるようにしておいたので助かった。それにしても,ここで,運転免許証の提示を要求しないことのほうが私には興味深かった。

 パスポートを見ながら,いつ来たのか? いつまでいるのか? これはレンタカーか? といった質問があって,やがて,気をつけて!といわれて,放免になった。
 何か因縁でもつけられたらどうしようと思って,内心ドキドキしていたので,本当にほっとした。
 このように,インターステイツ10は,エルパソを40キロメートルくらい過ぎたところには,常時,検問があると考えた方がよいと思う。もし,行かれる方があれば,ご留意を。それだけ違法滞在者が多いということだろう。
 先日,テレビで違法入国のドキュメンタリーが放送されていたが,メキシコに限らず中南米から若者が家計を助けるためにリオ・グランデ川を泳いでわたり,国境を越えるのだという。悲惨な現状だ。

 エルパソからずっとガスっていて,景色もほとんど見えなかったが,検問所を過ぎても,相変わらず,空気はガスっていて,見通しがよくなかった。
 以前書いたように,私とは逆方向に,インターステイツ10を西に走りエルパソまで行った人のブログに「な~んもないテキサス州の荒野を退屈に走った」とか書いてあったのだが,その風景を,今日は写真で載せることにする。
 百聞は一見にしかずである。

 私が4日前,ニューメキシコ州に向かったときの往路は,インターステイツ10を,途中のフォートストックトンという町で離れて,北西に国道285を走ったことはすでに書いたが,復路は,エルパソから,正真正銘,インターステイツ10を東に東にサンアントニオに向かって走っていった。
 行きには通らなかったフォートストックトンまでの途中にあったのは,シエブランカとバンフォーンというふたつの町だけであった。
 石油を採掘する井戸すらなかった。

 では,写真をご覧ください。
 私は,こんなガスった,な~んにもない風景の道を,何時間も,サンアントニオに向かって走ったのだった。時折目にするのは,併走して走る,長い長い貨物列車だけであった。

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 先日,NHKBSプレミアムで「ミスター・ベースボール」という映画をやっていました。ニューヨーク・ヤンキースをお払い箱になって,日本の中日ドラゴンズにトレードされたメジャーリーガーを描いた映画です。舞台はナゴヤドームならぬナゴヤ球場なので,この映画が上映されたのはずいぶん昔の話,正確にいうと1992年です。
 私は,上映されたころに見たことがあります。

 今は,むしろ,この映画の主人公の元メジャーリーガーのほうの目線に近いので,なんて日本の野球は田舎臭いのか,とか,日本流のいわば武士道野球とベースボールの決定的な違いというものがとてもよくわかります。
 だって,きょうの写真の一番上のヤンキースタジアムから2番目のナゴヤ球場に来るんですよ。
 さらに,日本では,監督が「選手に根性論に基づく非科学的で過酷なトレーニングを課し、徹底的な管理野球も推している」んですから。同じゲームじゃありません。これは。日本の中等教育は今も同じようなものですが…。

 現在,NHKBS1では,午前中はメジャーリーグのポストシーズンが中継されていて,午後は,日本の野球のクライマックスシリーズが中継されているようですが,メジャーリーグと日本の野球は,試合はともかく,あの,球場の美的感覚の違いとファンの応援の違いがすべてを物語っているように,私は思います。
 その話をはじめるときりがないので,ここではやめにして,今日は,ナゴヤ球場の思い出話をしたいと思います。

 今からかれこれ40年近く前のこと,私が大学生だったころのはなしです。
 この季節になると,その年も優勝できなかった中日ドラゴンズの最終戦は,デー・ゲームで客席を無料解放にして行われるのが常でした。私も,今とは違って,メジャーリーグベースボールなんて知らなかったから,大学をさぼっては見にいったものです。
 無料であっても,客席はガラガラで,高校生のアルバイトが「冷たくなった焼きそばいかがですか」とか言って売り歩いていたりと,退廃的なムード満載でした。
 ナゴヤの下町にあって,アメリカのマイナーリーグ以下の設備しかない球場は,座席に背もたれもなく,売店といっても,外野席はバックスクリーンの裏にお祭りの夜店のようなものがあるくらいで,まあ,それが,貧しい国日本そのものでした。でも,当時は,そんなにひどいとは思いもしませんでした。

 試合は日程消化試合以外の何物でもなく,でも,見どころはしっかりと用意されていました。それは,この試合の結果次第で首位打者だとか,新人投手のプロ入り初勝利をかけて,だとか,そんなものでした。
 星野仙一投手の引退の年の最終戦,ブルペンで,することもなく所在なさげに寂しそうにぼっとゲームを見ていたのを目撃したこともあります。
  ・・
 ある年のことでした。当時の中日の4番打者だった谷沢という選手が,2打数1安打ならば首位打者,ということがありました。
 私のような素人でもわかるんです。
 相手チームの新人投手は,まるでフリーバッテイングの投手のように棒玉をほおるんです。すると,好打者谷沢選手はそれを真っ芯にとらえて,鮮やかにライトに(谷沢選手は左打ちです)ライナーを飛ばすのですが,勢いがよすぎて,ライトの正面に行っちゃうんです。それをライトがわざわざバックして,ヒットにするんです。
 そうして,しっかりと首位打者を獲得して,お客さんは満足して家路についたものです。
  ・・
 また,別のある年のことです。
 この年は,甲子園優勝投手で,銚子商業高校からドラフト1位で入団した土屋という投手がプロ入り初勝利をかけて登板しました。相手チームは阪神タイガースで,先発は,20年連続10勝だったか,10年連続20勝だったか忘れたけれど,これも記録がかかった米田という投手でした。そして,中日ドラゴンズの3番打者井上という選手は,1打数1安打か3打数2安打だと首位打者になれるという,これもまた,記録がかかっていました。
 井上選手は1打席目は凡退,2打席目はヒットを打ち,勝負をかけた3打席目のことでした。
 なんと,米田投手は,井上選手にぶつけちゃったんです。
 思いもよらぬデットボールでした。
 彼は,猛然と抗議します。当たっていないと。私は,この逆は知っているけど,当たったのを当たっていないと抗議するのははじめて見ました。でも,そのとき思ったんです。デッドボールで出塁というのは,義務なのかな,って。権利じゃないかって。
 その試合は,結局,土屋投手は勝てず,井上選手にぶつけちゃった米田投手は記録を達成しました。
 これには,腹の虫がおさまらないドラゴンズファン,帰りの阪神選手の乗るバスを取り囲み,騒然とした雰囲気になってしまったのです。ずいぶんと後味の悪い試合でした。
 後年,就職した職場でその話をしたら,その時バスを取り囲んでいたのは俺だ,という職場の仲間がいたのにはびっくりしました。

 今の日本の球場は,どこも屋根の開かないドーム球場に人口芝という,1980年代の全く不人気だったメジャーリーグのバームクーヘン型の野球場を彷彿とさせていて,私は,まったく見に行く気になりません。
 そういった,中途半端にデラックスになっちゃった日本よりも,あの,貧しい,なにか,アメリカの南部のマイナーリーグのような,けだるい感じのあのころの野球の方が,ずっと楽しかったなあと思うのです。ふうせん飛ばしたりラッパ鳴らしたりもしなかったし。
 まさに,思い出は美しすぎて,なんでしょうか。

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 展望台から降りて,しばらくエルパソのダウンタウンをドライブした。きれいな街であった。私が読んだブログには,「治安の悪そうな…」と書いてあったが,私がそれを読んだときのイメージとは全く違っていた。ダウンタウンからは,南向きに,サウスエルパソストリートという道とその東の国道85がリオ・グランデ川を越えていて,つまり,国境を越えていて,メキシコと行き来できるようになっていた。そして,川にそってセザー・E・チャベス・ボーダー・ハイウェイが東西に走っていた。

 サウスエルパソストリートは徒歩で国境を行き来できるようで,橋を覆う外壁から中の歩いている人影が眺められた。
 道の両側にあったのは,メキシコから国境を越えて買い出しにやってくるメキシコ人相手の店だという。決して品質のいいものはないが,安価なものがそろっているらしい。そこから南に歩いて15分くらいで国境を越えることができるということだ。
 ここで日本人が国境を越えるときは,ツーリストカードが必要で,メキシコへの入国・出国には税金を払わなければならないと書かれてあった。
 国道85のほうは車で国境を越えられるようで,国境を越えたアメリカ側には,民間の駐車場がたくさんあって,客引きをしていた。
 私のようにアメリカでレンタカーを借りたときには,メキシコに車で行くことはできないということなので,この駐車場に車を停めて,歩いて国境を越えることになる。カナダ国境は車で越えられるのだが…。
  ・・
 私は,この風景をみて,とても不思議な気がした。
 私は,車から降りたわけでないので,車窓から見た風景はそれくらいであったが,ものすごい異国に来たような気がした。

 これ以上エルパソにいても,それほどおもしろそうなところもなさそうだなあと思いながら,セザー・E・チャベス・ボーダー・ハイウェイを走っていくと,ジャンクションがあって,そこでインターステイツ10に乗り換えると,すぐにエルパソの郊外に出てしまった。
 もう少し,国境の街を見たいとも思ったけれど,インターステイツ10を多くの車とともに走っていたら,そんなことは,もう,どうでもよくなってしまった。
 インターステイツからはリオ・グランデ川をもっと眺められるかとも思ったが,インターステイツ10はどんどんと国境から離れていってしまい,もう,川を見ることもできなくなった。
 しかも,残念ながら,空はスモッグでどんより曇っていて,景色も悪く,視界も効かなかった。

 「エルパソという町はほこりっぽく、貧しげで、スモッグに包み込まれたあまり、住みたいとは思えない町でしたねぇ…」と書かれたブログを読んだことがあるので,この町はいつもそうであるらしかった。
 石油の精製工場があるためとかいわれているが,この町は,そんなことも含めていろんなことを感じさせてくれたところであった。正直言って,私も,住みたいとも,のんびりと観光したいとも思わなかった。でも,一度は行ってみたい町ではあった。
 エルパソから40キロメートル近く過ぎると,再び,テキサス州の大平原のドライブになった。右手は,ずっと向こうはメキシコとの国境であって,ときおりあるジャンクションでインターステイツを降りて,そこにある必要もないような道路を南に走って行っても,川で行き止まりになるだけだと思うのだけど…,というような感想をもちつつ走っていくと,大きなドライブインがあったので,そこに駐車して,昼食のパンを買った。

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 今週は十三夜と皆既月食と,お月見三昧だった,と言いたいんだけれど,いろんなことを考えさせられたわ。

 まず,月曜日の十三夜。
 都会でもお月様を見るだけだからお天気だけの問題だったんだけど,なんと台風が来ちゃったの。どんなときも台風というのは一番心配で,お月見は別にしても,アメリカ旅行をするときは,台風が一番心配ね。
 私は,ロスアンゼルスから帰国するときに,日本が台風だからって,出発が4時間遅れたことがあるけれど,それもで,到着したときにちょうど台風が来て,関西空港が閉鎖されて,空港内に足止めされたことがあるわ。
 ともかく,今回の台風は夜は日本列島から行ってしまったので,素敵な十三夜のお月見を楽しむことができて,ほっとしたわ。
 特に,星を見るための天気予報っていうのは,雨じゃなくて雲が出るかどうか,だから,私は,曇るかどうかの予報にかけては気象予報士よりも正確なのよ。
 次は,11月5日の後の十三夜ね。ここまで見たら,ぜひ,171年ぶりの名月を見てみたいものね。

 水曜日の皆既月食。
 こちらの方が問題だったわ。
 天気もよかったし,夜も大丈夫だとは思ったけれど,住んでいるとことは曇りの予報だったし,皆既の間に天王星も一緒に写真を撮りたいなあと思ったので,少し暗い山まで行くことにしたの。で,時間があったので,その前に岐阜県の徳山ダム,っていうところまでドライブしたの。一度行ってみたかったし。途中には藤橋村というところがあって,お城の形をした建物の中がプラネタリウムになっていて,その隣に天文台があるんで,ついでにそこへも行ってみようと思ったわけね。
 徳山ダムへ行くには,国道417号線を通っていくんだけど,こういうカントリーロードを走ると,なんだか,アメリカへ行った気になってくるのね。で,頭の中が混乱してくるわけ。
 だって,アメリカなら,道はもっと広いし,インターステイツとか国道って,どこへ行くかという道路標示が万全だから道に迷うこともないし,どこへ行ってもクレジットカードが使えるし,ガソリンスタンドへ行けばコンビニが併設されているし,なにもかも便利だからストレスがないわけね。
 それに比べて,日本ってどうしようもない。だから,私には,ちょっとしたことが,すごいストレスになってしまう。どうやら,もはや,日本でほとんど車で遠出しなくなった私には,アメリカのドライブの方が慣れてしまったようなわけなのね。でも,そんなことを抜きにすると,なんか,こうしたところまで来ると,景色がどことなくアイダホ州に似ているのね。
 似ているといえば,とんでもないことが問題になってしまったの。この日。

 この先のお話は,また,来週くわしく書くからお楽しみに。 

 シーニックドライブの中腹の展望台からは,美しいエルパソの町が眺められた。その向こうはメキシコであった。
  ・・
 メキシコといえば,私は,生まれてはじめてアメリカを旅行した34年前に,ロサンゼルスから南下して,アメリカ国境を越え,ティワナという町に行ったことがある。ちょっと見のメキシコツアーであった。私は当時のことしかわからないが,アメリカからメキシコへ出国するのは簡単だが,日本人観光客ならともかく,戻ってくるときが大変だといわれた。
 サンディエゴに住んでいる人はティワナなど行かないというし,そりゃもっともだと,私も思う。だって,旅行者の私は,ティワナでは,土産物店で,片言の日本語で値切って買い物をしたり,飲み物を飲んだりしたが,値切って買い物をするのも店員が片言の日本語を話すのも,すべて観光用のコースなのだ。今の私にはこうした物見遊山の観光旅行には興味はないが,そのときに飲んだソーダ水の衝撃は,未だに忘れられない。それに,軟弱な私は,このときに,発展途上国に旅行はできないというトラウマができてしまった。

 ティワナの治安を調べてみると,特に悪いということもなく,私の調べたサイトには,悪名名高き,ロサンゼルスのリトル東京からバスティーボに歩いて行く道のほうがよほど危険だと書かれてあった。その一方,メキシコ側のシウダーファレスは,かなり治安が悪いようだ。「地球の歩き方」には必要がなければ行くなと書かれてあった。しかし,行った人のブログには,「町は凄い人だかりでホテルの窓には鍵ないし…,しかし,夜は居酒屋に行きテキーラを飲んだりもしたが,客引きもいないし,ぼったくりもないし」と,書かれてあった。
 私は,今回,国境を越える予定はなかったが,なんとなくアメリカとメキシコの違いには興味があって,展望台からメキシコ側を感慨深く見た。あいにくガスがすごくて,ほとんど向こうは見えなかった。それが下の写真であるが,写真の中央上部に書き込んだ赤丸の中,ガスっていたので画像処理がしてあるが,国旗らしきものが写っているのがおわかりだろう。このように,巨大なメキシコ国旗が国境の向こうにたなびいているのが肉眼でも確認できた。日本では体験できない陸続きの国境というものは,人にさまざまな感慨を抱かせるものである。

 私は行ったことがないが,戸井十月さんのアジア大陸横断のテレビ番組をみても,西アジアの国々では、国境と国境の間には非常に広い緩衝地帯があるのが常で,どうして,人間というのは,こうした柵やら塀やらで,そこに線を引く必要があるのか,などと深く考えてしまったのだった。

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 車は,朝のラッシュ時のエルパソ市内に入ってきた。
 ダウンタウンの北にあるフランクリン山脈は,ロッキー山脈の最南端で,その山脈の南側面を走る道路・シーニックドライブの中腹にはアメリカとメキシコ,ふたつの国が同時に見渡せる展望台がある,ということだったので,まず,この展望台へ行ってみようと思った。
 はじめは軽いノリであったが,大した地図も持たず,エルパソの街中を走るのは,無謀なことであった。どれだけこんな経験をしても,私は懲りていないのだった。

 ここエルパソも,また,想像以上に大きな都会であった。シーニックドライブへはどう行けばよいのか,さっぱりわからない。
 「地球の歩き方」には,エルパソ周辺の小さな地図があって,国道54を走っていけば,エルパソのダウンタウンへ行けるように書いてあったのだが,先に書いたように,国道10すら道が2本あったり,工事中であったりして,しかもやらたと交通量が多くて,走るだけでもたいへんであった。
 それでも,なんとか国道54を見つけて走っていくと,ジャンクションがあって,そこからインターステイツ10に入ることができた。
 インターステイツ10を右側に,つまり西方向に向かって走っていくと,今度は,エルパソを通り過ぎてしまって,道は北上を開始しはじめた。このまま走っていくとアリゾナ州に行ってしまう。しかし,その時は,すでにエルパソをとおり過ぎてしまったことに,しばらく気がつかなかった。
 インターステイツ10の左手は,線路と並行して走っていて,その向こうは鉄柵が張り巡らされていた。さらにその向こうには川が流れていて,川の対岸には,古びた家やら工場やらが見えてきた。反対の右手は高い山になっていた。

 私は,ようやく,エルパソを通り過ぎたことに気がついた。道を戻るためには,インターステイツ10を降りて,どこかでUターンをしなくてはいけなかったのだが,いつものように,これが容易ではなかった。それでも,何とかそうして,再び,今度は進路方向を逆に見て,インターステイツ10を南に走って行った。
 そのころには,なんとなく街の大きさや様子がわかってきたのだった。鉄柵は国境であり,川はリオグランデ川,そして,川の向こうの町はメキシコのシウダーファレスだったのだ。そして,反対側の山の上が,めざす展望台であった。

 インターステイツ10を走って,再びダウンタウンにもどったころに,インターステイツを降りる道があって,その道をおりて,やっとダウンタウンに入ることができた。
 ダウンタウンは,まだ,朝早く閑散としていたが,とてもきれいであった。
 道路の名前を見ていると,ここの町の道路の名前は,カンザスストリートとかオレゴンストリートとか,アメリカの州の名前になっていた。
 町の北西が丘になっていて,そこには,テキサス大学エルパソ校があった。
 ダウンタウンからメサストリートを走って,テキサス大学エルパソ校にさしかかったあたりを右折すると,高台の高級住宅地になって,その先がシーニックドライブで,そして,山の中腹に目指す展望台が見つかった。

☆ミミミ
皆既月食,ご覧になりましたか? 私は,いつもの観測地にツキノワグマが出没して,退散を余儀なくされ,時間と勝負しながら車でさまよい,なんとか見つけた観測地で,やっとのこと,薄曇りのなか,皆既月食と天王星(右上の星)を写すことができました。
それにしても,星を見るにも,クマ対策が必要とは,頭の痛い問題発生です。

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 今晩は皆既月食が見られます。
 子供のころ,皆既日食というものをはじめて知ったとき,一度は見ていたいものだと思いました。しかし,日本で皆既日食を見ることができるのは遠い先のことで,落胆しました。
 恐竜やマンモスの化石,オーロラ…。どうして,日本ではそういうものに無縁なのか,子供ごころに日本に失望した思いがたくさんありました。
 そのとき,皆既月食のことも同時に知ったのですが,皆既月食は皆既日食に比べて日本でも頻繁に見られるから,それはそれほど珍しい現象でもないし,皆既日食で見られるダイヤモンドリングもないし,私は,あまり興味がわきませんでした。

 それに,子供のころに,私は皆既月食をはじめからおしまいまで見てがっかりした記憶がありました。
 それは,15歳まで住んでいた家の近くの公園でブランコを漕ぎながら見たのだから,おそらく1960年代のことだと思うのですが,皆既月食といっても,日食とは違って,月が見えなくなるわけでもなく,やたら赤っぽい月が浮かんでいただけでした。なんだ,赤いだけじゃないか,と失望したことや,あまりに,皆既の時間が長く飽きちゃったことが,がっかりの原因でした。
  ・・
 やがて,月日が流れ,私は,1999年には念願の皆既日食をハンガリーで見ることもできたし,オーロラも見たし,マンモスの化石も見たし,恐竜の化石もたくさんアメリカで見ました。それは,子供ころの失望が反骨精神となって外国に行ってこれらを見てみたいと思っていたからこそ実現したのかもしれません。そして,今でも失っていない星への興味が,歳をとるにつれてさらに深まって,月も素敵なものだという気持ちに変わってきました。

 日食は,太陽と地球の間を月が通過するとき,つまり,ちょうど新月である月が,太陽の前を通過することで起きるわけだから,皆既日食というのは,実は太陽の前の月を見ているということになります。見かけ上の大きさがほぼ同じという偶然から,それが皆既日食になるわけです。だから,地球上で見ることのできる範囲は狭く,皆既になる時間もわずか数分です。
 それに,地球をまわる月の軌道は楕円だから,地球から月が遠いときには月の方が太陽よりも見かけ上小さくなるから,太陽をすべて隠すことができず,このときは残念ながら皆既日食にはならず,金環日食になってしまいます。これは2年前に日本でも見られました。私もしっかりと観測しました。
 それに対して,月食は,夜,月を輝かせている太陽の光を地球が邪魔して起こるので,地球上の非常に広範囲で見ることができるし,皆既の時間も1時間程度にもなるので,それほど珍しい現象でもないわけです。そして,私が子供のころに見たように,皆既月食では,地球の大気によって太陽の光のうち波長の長い赤系の光が屈折・散乱されて本影の中に入るために,月は真っ暗にはならず,暗い赤色(赤銅色)に見えるのです。
 しかし,火山爆発などで大気中に多量の微粒子が浮遊している場合には,月が非常に暗くなって灰色かほとんど見えなくなることもあるらしいです。今回の皆既月食は,赤銅色だと言われているのですが,実際はどうなのでしょうか。御嶽山の噴火は影響があるのでしょうか?
 それよりも,実は,今回の皆既月食で私が興味があるのは,皆既中に月の光が弱くなることで,満月の夜空には消えてしまう星々が皆既中には見られるということなのです。特に,今回の皆既月食では,月のわずか右側に天王星がいるので,これが見られるかどうか,ということが最大の楽しみなのですが…。

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☆7日目 3月19日(水)
 きょうは,1日かけて,サンアントニオにもどる日だった。私が泊まっているのはアラモゴードのダウンタウン,ここから国道54を南南西に走っていくと,ニューメキシコ州からテキサス州の西の端に入る。そこがエルパソである。エルパソからは東にインターステイツ10を走っていけばそのままサンアントニオにもどることができるのだ。

 早朝,朝食もとらずにホテルを出た。
 ホテルを出て,早朝の国道54を走った。すぐに国道70と分岐する陸橋があった。ここを右折して国道70に入ると昨日行ったホワイトサンズ国定公園に向かう。きょうは,そのまま南下して,国道54を南に走っていくことになる。
 交差するところにガソリンスタンドがあったので,ガソリンを入れ,ボトルに入ったコーラと簡単な菓子パンの朝食を買った。
 長距離をドライブするときに必要なのは水なのである。眠気防止には水なのである。それと,気の利いた音楽。アメリカを何時間も走るときは,このふたつが必須なのである。

 ガソリンスタンドを出て,私は国道54をどんどんとエルパソに向かって走っていった。
 右手には,大地が広がっていたが,そこはアメリカ軍の基地であるらしかった。大地というのは,広大な飛行場であった。
 そのままずっと,ほとんど車の走らない道が続いていた。左手に線路が並走していて,貨物列車が見えた。何両もある機関車がなんと2階建てのコンテナを運んでいた。何を見てもスケールが大きすぎる。
 ずっとそんな感じで進んでいた。

 やがて,ニューメキシコ州からテキサス州に入るあたりになると,次第に周りには住宅が増えてきた。エルパソ郊外の新興住宅地であった。道路も建設中だったりして,道路標示もあいまいで,同じ国道54なのに,どこを走っていけばいいのかよくわからず,迂回をしてしまったりと,とにかく,ずっと向こうにはエルパソの町が見えるから,そちらを目指せばいいのだけれど,車線は多く,朝のラッシュ時で車も多く,と,私は,久しぶりの都会のドライブに戸惑っていた。
 エルパソも,また,想像以上に広い大都会であった。

 エルパソは,メキシコとの国境に接した都会で,メキシコ人が多く移住している。そのために,事実上,スペイン語と英語が公用語となっている。近くには銀,銅,原油など鉱産資源が豊富で,銅精錬所や石油精製工場があるという。
 リオ・グランデ川を挟んでメキシコのシウダー・フアレスと隣接していて,エルパソから南に,橋を渡ると国境を歩いて越えることもできる。シウダー・フアレスは非常に治安が悪い町だということだが,一方,エルパソの治安はとてもよい。しかし,エルパソの人口の22パーセントは貧困線以下の生活をおくっているということだ。

◇◇◇
嬉しいほうに予想が外れて,カンザスシティ・ロイヤルズがリーグ優勝決定戦に進出を決めました。

☆ミミミ
昨晩は十三夜。台風一過で,素晴らしい月を見ることができました。昨日載せた写真は,昨年の十三夜。きょうは,昨日写した今年の十三夜をご覧ください。

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 地球のたったひとつの衛星である月。旧暦とよばれる天保暦8月5日の月は中秋の名月です。

 2014年は9月9日が中秋の名月でした。そして,10月6日,旧暦の9月13日は十三夜です。後の月,豆名月,栗名月ともいいます。
 十三夜の月は十五夜の月についで美しい月とされていて,宮中では古くから宴を催すなど,月を鑑賞する風習がありました。十五夜の月だけ観賞するのは片月見といって忌まれていて,十五夜に月見をしたら,必ず同じ場所で十三夜にも月見をするものとされています。
  ・・
 旧暦では,月が欠けて満ちそして再び欠けるまでを1月とし、それを12回繰り返すことで1年としています。
 月の満ち欠けによる1年は約354日なので,太陽暦の1年とくらべて約11日ほど短くなるので,約3年間で1月ほど短くなります。そこで,旧暦では3年に1度閏月を加えるのです。
 閏月の月名は、その前月の月名の前に「閏」を置きます。例えば「4月」の次に挿入される閏月は「閏4月」となります。うるう年のように29日ができたり,13月ができたりするのではありません。
 何月が閏月になるかは,二十四節気と旧暦を比較して決めますが,今年は,なんと旧暦の9月に閏月があるのです。したがって,十三夜が2回あるということになります。
  ・・
 二度目の十三夜は「後の十三夜」とよばれます。今年の11月5日がその日に当たります。前回,後の十三夜があったのは1843年(天保14年)でしたから,なんと171年ぶりということになります。そして,今世紀中にはもうありません。
 ぜひ,後の十三夜を鑑賞したいものです。

  ・・・・・・
 二十四節気のひとつである春分の直前の新月の日を旧暦2月の1日とします。こうして,二十四節気の直前の新月の日を旧暦の1日としていくと,二十四節気は太陽の公転周期を24等分しているので,ひとつ置きに節とします。すると,節と節の間の1節気が約30.4日となります。しかし,旧暦は月の満ち欠けの周期だから29.5日なので,すこしずつ差ができてきて,1節気の中に,新月が2回ある場合が起こります。このときは,旧暦の同じ月が2回できるので,その後の方を閏とするわけです。
 そのように決めていくので,閏月が何月になるかは,その年次第ということになるのです。
  ・・・・・・ 

 では,ここで,月の話題をひとつ紹介しましょう。
 月はどのようにして生まれたのでしょうか?
 人間を乗せたアポロ宇宙船が初めて月に着陸した1969年には,月がどのようにうまれたかはわかりませんでした。アポロ宇宙船が地球に持ち帰った月の岩石を調べると,月の岩石は地球そっくりだったのです。しかも,かなりの高温にさらされた形跡がありました。そこで,月はほかの星が地球に接近して回り始めたというものではなくて,地球の岩石の残骸だという説が有力になってきたのです。
 現在,いわれているのは,月は惑星の衝突から生まれたというものです。
  ・・・・・・
 今から約46億年前,太陽の周りには,今より多くの惑星が回っていました。地球の軌道とほぼ同じ場所にも,テイア(Theia)と名付けられた原始惑星があったのです。そして,地球とテイラは時速3,000キロで衝突しました。これをジャイアント・インパクト(Giant Impact)といいます。
 もし,その衝突した角度が実際と少しでも違っていたら,地球は粉々になっていたかもしれません。その微妙な角度のおかげで,テイアだけが粉々に砕け,地球も一部が破損して,それらの破片が地球の周りを回り始めて,やがてひとつになったのが月というわけです。
  ・・・・・・
 現在は,月は地球と約38万キロメートル離れていますが,月の誕生した5億年後には,その距離はわずか20,000キロメートルでした。そして,地球の自転速度は1日に6時間という早いものでした。
 月の引力が地球の自転速度にブレーキをかけたことによって,現在の速度になったというわけです。しかも,月は,地球の海の潮の満ち引きにも影響を与えて,海には多くの栄養素が生まれ,その結果,地球に生命が誕生するきっかけになったともいわれています。
 こんなことを考えながら,月を眺めると,何かかいとおしくなってきます。

 今,別に景気がいいとは思わないけど,数年前の日本は不景気のどん底に苦しんでいたわ。
 日本は,失われた10年とか20年とかいわれて,バブル景気がはじけてしまった1990年ころからずっと不景気だったのに,アメリカのリーマンショックで,火に油を注いだ感じになってしまったわけ。
 リーマンショックが起こったころ,日本は大丈夫,っていわれていたのよ。覚えてる? いつもそうだけど,経済評論家とか,経済の予想って,一番あてにならないわ。
 経済素人の私が,そのどん底のときに思ったのは,景気をよくするには,お金をどんどんと印刷して世の中に配ればいい,ということだったの。でも,そんなことをすれば,インフレになるってみんなが言ったわ。でも,あふれ過ぎたら,お金を回収しちゃえばいいのよ。水道の蛇口と同じ理屈ね。そんなことは,中学校で勉強したわ。
 そういうふうにしてお金が溢れれば,株価は上がるし,そうすれば,別にほかに何もしなくてもお金が増えるっていう理屈よね。みんなそうして見せかけだけ裕福になるわけね。

 でも,そんな素人が考えるような危険なことを実際にやっちゃったのが,「アベノミクス」ということなのね。
 実際はお金は配れない。だから,そうする代わりに,日銀がお金をじゃんじゃん刷って,銀行の持っている国債と交換したわけね。つまり,巷というより銀行にお金を流したわけ。そのお金の使い場所がないから株を買って,だから,株価が上がり,その結果,株を持っている人の資産が増えたのだから,それはお金を配ったと同じことだったのね。
 当然,株を持っていない人は,お金は増えないの。
 今,少し景気が回復したように見えるのは,単に,お金持ちと大企業さんの見せかけの資産が増えたというだけのことなのね。
 もう一度ことわっておくけれど,貧しい庶民には関係ない。
 庶民に関係するのは,インフレになって,ものの値段が上がり,わずかな貯金の価値が下がったということだけ。裕福になったのは,大企業と投資家。つまり,政府が何もせずとも,彼らにお金を配ったということと実際は同じなのね。

 今の政権がしたたかなのは,こうして,実力や発言力のある人たちを裕福にしたから,少しくらいの横暴をしても,彼らは政権を支持するっていうからくりにしたってことなのね。
 そして,いつもこのブログに書いているように,この国の人たちはおとなしく従順だから,自分たちは損をするのに,なぜか御上の言うことを聞き,それを支持するというわけなのね。
 若者は,きょうを生きるのに忙しくて,しかも力もないから,そういうからくりがわかっていてもどうしようもない。実は一番被害を被っているのに…。
 お年寄りは,年金と貯金が目減りするだけだから,アベノミクスなんて何もいいことはないけれど,もう,世の中のことなんてほとんどどうでもよくなっているから,何もしないしする力もない。
 そして,働き盛りの人たちは,みんな企業人間にさせられてしまっているから,自分の生活と会社の経営を混乱して考えている。というよりも,会社がつぶれれば自分の生活が成り立たないから,企業の考え方を支持するのね。
  ・・
 これが,現在の日本の姿なのね。
 だけど,国の財政の赤字が減ったわけでも,少子高齢化が解決されたわけでもないから,こんな政策はすぐに破綻して,残るのは,余計ひどい赤字と,そして,インフレだけだわ。
 一番の問題は,日本は世界一高齢者人口が多い国だから,インフレにしてその代わりに賃金を多少上げても,年金生活者には関係がないということ。だから,老人はお金をますます使わない。
 日本の根本的な問題は何ひとつ解決していないのに,アベノミクスで回復したように見せかけているだけだから,私はこれが逆に致命傷になるような気がするわ。そうならないことを祈っているけど…。

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 みつはしちかこさんは1941年生まれの漫画家です。
 代表作「小さな恋のものがたり」は,4コマ漫画です。第1集の第1話に132センチとある,背が低いことを気にしている女の子チッチこと小川チイコと,背が高くハンサムなサリーこと村上聡の恋愛模様というより,片思いを描いた作品です。随所に主人公チッチの目線から書かれた詩が挿入されていて,恋の喜びや切なさといった叙情的な心情が綴られています。


 今から50年以上前の1962年,「美しい十代」という雑誌の6月号から連載を開始して,その後いくつかの雑誌で連載し,最後は,「まんがタイムファミリー」という雑誌に2008年4月号まで連載を続けたのち,休載していました。
 単行本としては,第1集が1967年に発売されました。そして,1970年以降は毎年5月に新刊が刊行されていました。
 2007年の第41集の発行後は中断されていましたが,4年後の2011年12月に,ようやく待ちに待った第42集が発売されました。その後,しばらく発行されていなかったのですが,ついに,2014年9月に発売された第43集で完結しました。

 「小さな恋のものがたり」は,1972年にはテレビドラマ化されて,7月から全13回,土曜日の午後7時30分から30分間,日本テレビ系列で放送されました。主演は,当時のアイドルタレント岡崎友紀さんと沖雅也さんで,ほとんどの年配の人はこのドラマを知っていると思われます。私も見ました。最終回のシーンは今でも覚えています。
 また,1980年代には,年間に発行される漫画単行本の売り上げのトップをずっと記録していました。
  ・・
 実は,我が家には,この43冊の単行本がすべてそろっているのですが,毎年5月になると発売されて,それを楽しみに購入していたものが,2008年には発売されず,私も含め,多くの人がずいぶんと心配をしたものです。
 そして,今回,ついに,最終刊をむかえてしまって,今や,当時を知る人たちの中でずいぶんと話題になっています。

 最終刊も,いつもと変わらぬ装丁で,内容もいつもと変わらぬもので,一見すると時がとまったかのように思われました。また,新聞広告にも,これが最後というようなPRはなく,きわめてあっさりとしたものでした。でも,たったひとつ,この集の最後に,これで終わりを迎える出来事が起きてしまうのです。
 第1集から読み直してみると,集が進むにつれて,あとがきに,だんだんと著者に悩みがみられるようになり,来年も発行できるのだろうか,というようなことが書かれていたりもするのですが,それを乗り越えたころには,このものがたりは著者のライフワークとして,燦然と輝く存在になったように思います。
 内容は,偉大なるマンネリというか,はじめっから,何もかも進展せず,それはサザエさん以上のものですが,それこそが安心感であり,時代が変わっても人の心は変わらないということを実感させられます。
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 人は,将来を予定して生きているわけではないし,若いころはそんなことを考える余裕もないので,結果として,何かを一生かけて成し遂げられたというのは,とても幸せなことに相違ありません。
 人はだれもが老いるのです。永遠はありません。だから,終わりがあるのです。
 そういう意味でも,第43集が発行されて,ちゃんとおしまいにすることができたことは,寂しくもあり,喜ばしいことでもあると思います。

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 サンセット・ストロールの夕焼けはたいしたことはなかったが,それでも,真っ白い大地の日暮れを楽しむことができた。太陽が沈んで,このツアーも流れ解散になった。
 私は,車に戻って,ホテルを目指して,車を走らせた。
 
 帰りの国道70は,周りは真っ暗で,時折通る車のライトと,遠くにアラモゴードの光が少し見えるだけであった。
 アメリカの大地は,お昼間はその雄大さに見とれながらドライブを楽しむことができるが,日が暮れて暗くなると,本当に真っ暗になってしまって,道路の左側の黄色いラインだけがライトに照らされて,これだけを頼りに走っていくことになる。
 たいした距離でもないのに,ホワイトサンズ国定公園からアラモゴードまでがずいぶんと遠く感じられた。
 夏時間なので,日本の感覚とは1時間違って,日が沈んだばかりなのに,もう,夜の9時近くであった。
 ホテルの場所は調べてあったが,まだ,チェックインをしていなかったので,フロントに行ってチェックインをした。
 チェックインが終わって,夕食をとるために,再び外に出た。近くにデニーズがあったので,そこで食事をした。
 ホテルに帰って,あすのホテルを予約した。

 いよいよ,明日は,テキサス州にもどることになる。
 きょう1日で,カールズバッド洞穴群国立公園とホワイトサンズ国定公園に行くことができた。なんとかニューメキシコ州で行きたかったところはこれで制覇することができたわけだ。
 ここまで来たからには,明日の朝は,エルパソまで行って,そこからインターステイツ10をもどろうと思った。ホテルは,来るときに調べてあったジャンクションという名の町に決めて,一番安価なホテルを予約した。
 すでに書いたことだが,なぜか,この日のアラモゴードのホテルについては,ほどんど記憶がないのである。写真を見ても,なかなか実感がわかない。どうしてだろうか?

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 アラモゴード (Alamogordo) は人口約35,000人。
 ホロマン空軍基地とホワイトサンズ・ミサイル実験場という二つの主要な軍事基地がある。
 この軍事基地では,史上初の原子爆弾が1945年7月16日に起爆された。また,最初の宇宙飛行チンパンジー・ハム (Ham) の生誕地である。彼は1961年1月31日,フロリダ州ケープ・キャナヴェラルから打ち上げられ,大西洋へ無事に着水した。ハムは1983年にに死亡し,遺体はアラモゴードにあるニューメキシコ宇宙歴史博物館前の芝生に埋葬されたという。
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 そうした事も,今回,この旅をするまで,私はよく知らなかった。

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ひそかに期待していたピッツバーグ・パイレーツは,サンフランシスコ・ジャイアンツに完敗して,ポストシーズンから姿を消しました。残念です。
ピッツバーグ・パイレーツは,チームカラーが黒なので,黒い服をきた観客でスタンドが真っ黒に染まって,異常な状態になります。MLBでは,ポストシーズンともなると,どこも客席の雰囲気がすごいことになるので,興味のない方もこれだけでもご覧になるとおもしろいと思います。
ピッツバーグは,ペンシルべニア州にあって,アルゲイニー川とマノンガヘイラ川とオハイオ川に囲まれた美しい都会です。本拠地PNCパークはアルゲイニー川を6番ストリート橋で渡ったところにあって,ホームランを打つと,ボールが海ポチャならぬ川ポチャになります。また,アンディ・ウォーホール美術館もあります。
私は,この街で道に迷った挙句,偶然,カーネギー博物館にたどりついた思い出があります。

USA2002 (50)

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 サンセット・ストロールでは,ボランティアのレインジャーが,ホワイトサンズについていろと説明をするのを聞きながら,白い砂地を歩いた。
 まだ日没には1時間くらいあったのだが,雲が多く,私は,夕日が見られるかどうかとても心配であった。
 どうしてこの地がこのように白い世界になったのかとか,所々に生えている植物の生態とかの詳しい説明があった。ビジターセンターで見たのと同じような内容であったが,やはり,実物を見ながらだから,それなりに説得力があった。
 アメリカのこうしたツアーガイドは,どれも内容が詳しく,しかも,参加者が積極的に質問をしたり,時にはジョークを交えたり,と国民性の違いといってしまえばそれだけのことかもしれないが,いつも,すごいなあ,と思う。しかも,どこも無料である。

 デューンズ・ドライブから離れ,どんどんと奥まで歩いて行くので,自分ひとりだったら迷子になってしまったであろう。そうした意味でも,このツアーは参加した甲斐があった。
 海岸の砂丘だと,スニーカーで歩くと,靴の中まで砂が入ってしまうが,そうした砂丘や砂漠とは違って,ここの白い砂は,その表面だけが砂地なので,歩いても足が砂の中にめり込む,ということはない。底は堅い石膏なのだ。だから,強い風が吹いても,それほど砂が舞い上がることもないのであろう。
 しかし,いくら詳しい説明があっても,それほど説明するようなものもないし,この国定公園は他にはない信じられない風景とはいっても,それだけのところである,というのが私の正直なところであった。
 ツアーの参加者も,はじめのうちはレインジャーの説明を一生懸命に聞いていたが,だんだん飽きてきて,それぞれが勝手に写真を写したり,少し離れて歩いたりしはじめた。
 やがて,日没の時間になった。雲の間から太陽が沈むのが見えたり見えなかったりしたけれど,特に夕焼けになるようなこともなく,少し西の空が赤くなった程度であった。
 一緒に参加していた日本人が,思ったほどきれいじゃなかったね,といっているのが聞こえた。

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 お昼間,波長の長い赤色の光は,大気中を直線的に通過するので,観察者の視野には,光源である太陽の見た目の大きさの範囲に収まってしまうが,波長の短い青色の光は,大気の熱的ゆらぎにより散乱するために空は青く見える。
 夕方になると,光線の入射角が浅くなるので,大気層を通過する距離が伸びるから,青色の光は障害物に衝突する頻度が増すことで吸収されるから,地表に到達しにくくなる。その代わり,赤色の光など波長の長い光線は散乱されて,太陽が沈む方向の空が赤く見えることになる。
 夕焼けがきれいに見える条件は,赤い波長の光線を散乱させる水蒸気などが大気にあること,適当な量の雲がありその雲より低い高度,つまり,雲の下から太陽光線が当たることである。このふたつの条件が達成されるためには,昼と夕の気温差が大きくて,湿度が高く,上空には雲があるが,西の方には雲がないことである。
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 私がホワイトサンズ国定公園に行ったときは,この条件を満たしていなかったというわけだった。

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カンザスシティ・ロイヤルズが劇的なサヨナラ勝ちをして,地区シリーズ優勝決定戦進出を手に入れました。今年もおもしろくなりそうです。

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 MLB,アメリカ大リーグはレギュラーシーズンがすべて終了しました。今年は,最終戦まで優勝が決まらなかったり,ワイルドカード決定戦への進出チームが決まらなかったりと,異常なほどに盛り上がりました。
 おまけに,ニューヨーク・ヤンキースのデレック・ジーター選手は,本拠地ヤンキースタジアムの最終戦でサヨナラヒットを打つなど,ドラマにしてもでき過ぎの劇的な結末で,本当におもしろいシーズンでした。
 いよいよ,現地時間で9月30日から,ポストシーズンがはじまります。

 今年は,29年ぶりにカンザスシティ・ロイヤルズがポスト・シーズンに登場という,昨年のピッツバーグ・パイレーツのような弱小球団の復活があって,ますます興味深いのですが,結局は,ナショナルリーグでは,セントルイス・カージナルスやロサンゼルス・ドジャース,アメリカンリーグでは,デトロイト・タイガースやカリフォルニア・エンジェルスといった常連チームが勝ちあがっていくのでは,と思います。
 ただし,昨年のボストン・レッドソックスの例にもあるように、何が起きるかわからないので,意外性に期待したいところです。
 個人的には,青木宣親選手のいるカンザスシティ・ロイヤルズの応援ですが,ちょっと無理っぽいので,常連チームではないボルチモア・オリオールズ対ワシントン・ナショナルズのワールドシリーズになるといいなあ,と思っています。

 それにしても,ワシントン・ナショナルズなんて,数年前には,カナダのモントリオールに本拠地を持つ,モントリオール・エクスポスというお荷物球団でした。
 なにがお荷物かって,まったくお客さんが入らないし,球場自体,モントリオールオリンピックが行われた陸上競技場を改造したものだったし,第一,モントリオールなんて,カナダでは英語じゃなくてフランス語圏であって,場内放送がフランス語なんて,野球の雰囲気ではありませんでした。だって,ピッチャーを lanceur、ショートストップを arret-court などというのですよ。
 それが,2004年,首都ワシントンに移転して,立派な野球専用球場ができて,瞬く間に強豪の仲間入りなんて,大相撲の逸ノ城みたいです。

 余談ですが,モントリオール・エクスポスのマスコット,セサミストリートの人形を製作したことで知られるハリソン・エリクソン社で作られたユッピーは,ガラガラのスタンドを元気よく走り回り人気者でした。ところが,エクスポスがワシントンに移転し,新しいマスコットが誕生したので,ユッピーは「失業」してしまったのです。
 でも,幸い,引き取り手はすぐに決まり,現在は,NHLモントリオール・カナディアンズに移籍して活躍をしています。
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 日本では,予選はトーナメントで決勝はリーグ戦というほうが普通でしょうが,オリンピックでもそうですが,予選はリーグ戦で,決勝はトーナメントというのが世界の趨勢なのです。だから,MLBでも,レギュラーシーズンは,ポストシーズンに進出できればいいという感じの長丁場。だから,これに出られるかどうかというのが,天と地ほどの違いになるわけです。
 これからがいよいよ本番ということです。昨年のワールドシリーズのように,最後まですばらしい試合が続くことを期待します。

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