しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

October 2016

三鷹65センチ堂平91センチhsc-02IMG_0866img_0911

 日本では満足に星の見られるところもありませんが,それでも秋になって星がきれいに見られる季節がきたので,これからは時間があれば星見を楽しみたいと思うようになってきました。
 そこできょうはピントのお話です。
  ・・
 望遠鏡で一番大切なのはピントです。
 カメラでも,ピント合わせが一番重要ですが,その一番大切な部分も今では「オートフォーカス」になって,自動化されました。一眼レフカメラがオートフォーカスになった始めのころはカメラに内蔵されたモーターが「ジージー」と音を立てながらピント合わせをしていて人間が目で合わせるほうが早いくらいだったのですが,どんどん進化を遂げて,動いている物体にピントを合わせて追っかけるまでになりました。
 このように,ピントはカメラが自動で合わせることが当たり前になってしまったので,それがいかに大変なことかを特に意識もしなくなりましたが,自動でピントが合うということ自体,考えてみれば不思議なことです。

 星の写真を写すときは,今でもピント合わせにとても苦労します。無限でいい,と思われるでしょうが,レンズも高性能になって,温度によって無限の位置さえ一定でなくなったのです。
 では,超高性能の一眼レフなら星さえもオートフォーカスでピントが合うのでしょうか? 調べてみても本当のことがなかなかなわかりません。
 木星ならオートでピントが合う,と書かれたものもあります。確かに木星は明るいから十分にピントを合わせられそうです。月は明るすぎて逆にうまくピントが自動で合うのがむずかしそうですが,でも,何とかなりそうです。

 私は,月も木星もともに遠いので同じように無限とみなせるから,月でピントが合うのなら星を写すときも同じ位置でピントを決定すればいいと思っていたら,厳密にはピントの位置が違うと書かれてありました。私のような年寄りには現代の技術を理解するのはたいへんです。
 それでもまだ,カメラのレンズなら自動でピントが合うのかもしれませんが,望遠鏡に直接カメラのボディーを接続して写真を写すとなると,今でも手動でピントを合わせる必要があって,それが大変なのです。
 デジタルカメラは写した像がすぐに確かめられるから,それでも,焦点をすこしずつずらしながらピントを追い込んでいけばいいので,まだなんとかなります。

 では,フィルムの時代はどうしていたのでしょう。しかも,天文台の大型の望遠鏡となれば,その苦労は並み大抵のものではなかったのでは? と疑問に思っていたので,三鷹の国立天文台を見学したときに,昔活躍した65センチメートル屈折望遠鏡の案内をしていた人にそのことを聞いてみたことがありますが,そんなこと考えもしなかったと答えられました。
 私はそことがそのままずっと気になっていたのですが,1979年に発行された季刊雑誌「星の手帖」の冬号を読み返していたらその話題が載っていて,びっくりするとともに,やっとその疑問が解決しました。

 1番目の写真の三鷹の天文台で使われていた65センチメートルの屈折望遠鏡はFが暗くて焦点深度が3.1ミリメートルもあったので,季節やシンチレーションによる温度差で焦点が変わったとしても,それはわずか2.5ミリメートル程度だったので焦点深度の範囲内に収まるのだそうです。だから,一度焦点を決めてしまえば,あとはその状態を固定しておけば大丈夫だったという話でした。
 要するに固定焦点で写していた,ということです。
 しかし,2番目の写真の埼玉県の堂平山にあった91センチメートルの反射望遠鏡はFが明るかったのでピントの変化が大きくて,観測する度に初めに焦点を合わせるために,0.2ミリメートルずつ動かしては10秒露出して写真を写して… を繰り返して,写し終わったところですぐに現像してその日のピントを決めていたのだそうです。
 たいへんな苦労をしていたのですね。
 そうした天文台の大きな望遠鏡も,現在はすべてデジタル化されています。ハワイ島マウナケア山にあるすばる望遠鏡では,3番目の写真のような「Suprime-Cam(SC)」と名付けられた主焦点カメラに「主焦点補正光学系」と呼ばれる複雑なレンズユニットを搭載していて,主鏡からの光の収差補正だけでなく,大気による星の光のにじみをも補正して焦点を自動で検出する機能が備えられているのだそうです。
 まさに,時代が違うという感じです。
  ・・
 かくいう私は,これまでは,月や惑星を写すときは少しずつピントをずらしながら何枚も写しておいてあとで一番ピントがあっているものを選んでいましたし,長時間露出の必要な星を写すときは,カメラのプレビュー画面を拡大して明るい1等星でピント合わせをしていましたが,これがなかなか大変でした。
 今は,4番目の写真のような「バーティノフマスク」というものを知ったので,それを自作して使っています。
 このマスクを対物レンズの前に取り付けてカメラのプレビュー画面で明るい星を使ってピント合わせをすると,5番目の写真のように,星の光がこのスリットを通ったときに焦点が合った状態だと左右対称に回折光がでるので,簡単でとても正確にピントを合わせることができるのです。
 どんなに苦労をして写そうが,写真はピントが合っていないと意味がない… 何事も「ピンボケ」ではいけないのです。

◇◇◇
I wish you are a Happy Halloween 2016.

DSC_0144DSC_0145DSC_0149DSC_0156

●国道1(US-1)を走ろう●
 もし,ロケットの打ち上げがもっと遅いかったらこのあたりで打ち上げを見ようと思っていたが,もう済んでしまったので,このままインターステイツ95をマイアミまで行くことにした。このままインターステイツ95を南下していけば、問題なくマイアミまで到着するのだ。
 フロリダ州はものすごい発展を続けていて,そのために車の台数も半端じゃあない。はじめてアメリカに行ってこんな道路を走ったらかなり驚くであろう。車線も3車線から4車線,それでも渋滞するから5車線… と増え,おまけに,中央の1車線だけはさまざまな条件をつけて通行を制限したり,有料化したりしている。それでもさばけないから,別に有料道路を作ってそのバイパス化を図る,というようにである。

 私はしばらくインターステイツ95を走っていたが,そこで,このインターステイツに沿った形で一般道の国道1が海岸沿いを走っていることを思い出した。
 今日はマイアミでMLBのナイトゲームを見ることだけが決まっていた予定だったのでマイアミまで急いでいく必要もなく,インターステイツを降りて国道1を走ることにした。
 フロリダ州に限らず,アメリカをドライブするとき,できればインターステイツよりも国道あるいは州道などを走るほうがその町の様子や歴史が感じられるのでずっと楽しい。しかし,国道や州道は,郊外に出れば制限速度はインターステイツと変わらないが,住宅地に入ると極端に遅くなりしかも信号があったりするから,かなりの時間がかかることを覚悟する必要がある。

 今回の旅で私がたどった東海岸は終始インターステイツ95に沿っていて,ということは国道1にも沿っていて,この先も何度か国道1に出会うことになったが,そのどこでもインタースイツ95よりも国道1のほうがずっと旅愁を感じた。
 アメリカを車で走るときに,シカゴからロスアンゼルスに至るマザーロードであるオールドルート66と並び,フロリダ州の最南端キーウェストからメイン州の最北端フォーケントに至る国道1,つまり「US-1」を走破するのもまた,多くの人にとっては夢なのだ。
 「US-1」は別名「アメリカ建国の大動脈」という。そしてまた,この道はオールド・ルート66と違って,今も「US-1」として現役で機能している道路なのだ。
  ・・
 インターステイツ95を降りた私は,大西洋を左手に見ながら国道1を走っていった。
 途中,マクドナルドがあったので昼食をとることにした。入口ではなにやら署名運動をしているようであった。しかし,それは署名運動ではなく,来たる大統領選挙の有権者登録であった。私も勧められたが,したくてもできない。この旅では,この後も私は何度か同じように登録を勧められたが,本当に登録できればどんなに素晴らしいのに,と思ったことだった。

DSC_0371turnpike-mapimg004

●フロリダ州のターンパークは面倒●
 今日はフロリダ州のターンパイク,つまり有料道路の話である。
 アメリカのガソリンスタンドはすべてセルフだと思っている人も多いだろうが,オレゴン州とニュージャージー州はセルフではない。同様に,アメリカの高速道路はフリーウェイだと思っている人もまた多いだろうが,特に東海岸にはターンパイクと呼ばれる有料道路もたくさんある。アメリカ人でも知らない人がいるのだが,中部のカンザス州とオクラホマ州にもターンパイクがある。
 ターンパイクといっても通行料は日本のように高価ではない。また,多くのターンパイクでは,料金所ではクレジットカードも使えるし日本のETCのようなものもあるから,レンタカーでの通行でも特段の問題は生じない。

 しかし,フロリダ州だけは実に困ったところで,ターンパイクにも料金所が存在しないのだ。しかも,フロリダ州には非常に多くの道路がターンパイクになっていて,しかも,同じ道路でも車線によってターンパークであったり,ある場所だけがターンパイクだっとりと,どこがターンパイクなのが区別がつきにくく日本人がレンタカーで楽しくドライブできるような感じではないのである。
 今日の1番目の写真はマイアミのマーリンズパークの近くの道路にあったものだが,ここで「TOLL」と書かれた州道836がターンパークである。そして,「SUN PASS」とあるのが日本でいうところのETCであり,「NO CASH」というのは,ここでは現金で支払いができないということである。 

 ここを走るには事前に車を登録しておいて,ターンパイクにあるレーダーが車両番号を読み取って通行料金を口座から引き落とすというシステムになっている「らしい」のだ。
 こういったシステムはそこに住んでいる場合は問題がないのだが,レンタカーだと,どういったシステムであるのか皆目見当がつかないわけである。
 調べてみても,どの情報が正しいのかどうかもわからず,また,情報が古かったりするから,実際に行ってみるとまったくちがうということもあるわけだ。
 それでもお金で解決できるのならまだしも,違反にでもなればめんどうなことにもなりかねない。

 私はハーツのレンタカーを借りるときにそのことが気にかかっていたのでタウンタで聞いてみると,そのまま走ればいいといわれて,1枚の説明書をくれた。
 それが今日の写真のものである。
 ここには,ターンパイクを走ると正規の通行料に「加えて」1日あたり4.95ドルが必要であると書かれてある。わずか500円くらいのもの,といえば,そういえなくもない。しかし,1度でもターンパイクを走ると,借りた日数分すべて,利用しようがしまいが毎日それだけ必要になる。ただし,上限があって,それが24.75ドルだということだ。つまり,私のように,1週間以上レンタカーを借りると,その期間で1回でもターンパイクを走ると正規の通行料に加えて24.75ドルが必要であるということであった。

 大した金額でないともいえるが,私のフロリダ滞在はわずか2日,それなのに車を返すまでの日数掛けた分お金が必要だなんてなんだかバカらしかったので,私はカーナビに有料道路は走らないという設定をしてそれに従って走ったのだが,マイアミビーチにつながる橋はみなターンパイクだったし便利な道路もみなターンパイクだったし,不便この上なかった。
 私はカーナビがあったからまだよかったが,カーナビがなく,注意して走っていたのにふと数キロメートルだけターンパイクを走ってしまったために24.75ドル余分に払うことになってしまった,という人も結構いるらしい。
 様々な情報が入り混じっているが,ここに書いたことが現在のフロリダのターンパイクの現状である。

DSC_0130DSC_0131DSC_0133DSC_0141

●「できる」のと「無料」は違う。●
 ホテルのシャトルバスはインターステイツも通らずすぐにオーランドの空港に到着した。昨日のタクシーは何だったのかと思った。
 旅慣れていなかったころは,アメリカのものすごく広い空港に感動したものだったが,いまでは,こういう広い空港よりも中小都市の小さな空港のほうがずっと便利であると思うようになった。ここオーランドも広すぎてどこに何があるかさっぱりわからなかった。事前に調べておいたのだがそんなものは意味がないのだ。これではまるではじめて行った大学の構内である。

 レンタカー会社のカウンタは,空港からシャトルバスに乗って別の建物に行かなくてはならないところもあれば空港と同じビルの中にあるところもあり空港によって様々で,行ってみなくてはわからない。これもまた必ず空港内にカウンタが並んでいる地方の小さな空港のほうがずっと便利である。
 広いオーランドの空港であったが,幸い空港内に各社のカウンタが並んでいた。私の場合,ハーツのワンクラブゴールドだからカウンタで受付をしなくても直接ガレージに行けばすでにメールで知らさせた番号の車庫に車が用意されているのだが,ひとつ聞きたいことがあったのでカウンタに寄ってみたのだが,これがいけなかった。カウンタの女性が商売熱心でしきりに車のグレードアップを迫ってきたのだ。数年前なら何が何だかわからす,それに応じてしまったことであろう。
 アメリカのビジネスはつねに「できる」ことと「無料」であることは全く違うから注意が必要である。たとえば,国際線の機内でもWifiが「できる」と書いてあるがこれも「無料」ではない。こうして人の好い平和ボケの日本人は絶好の餌食になっていくわけである。

 私がカウンタで聞きたかったのは,フロリダ州は有料道路が多く,しかも,有料道路とはいえゲートがなくレーダーを使って通行料を徴収している,と聞いたからである。
 このとき,自分の車なら予め登録した口座から引き落とされるのだが,レンタカーの場合にどういうシステムになっているのかがよくわからなかったから,それを聞こうと思ったのであった。
 そのことを尋ねるとこれを読めと言って1枚の紙をくれた。
 要するに(後からレンタカー料金に含めて徴収するから)通ればいいという話だった。ここでもまた「できる」ことと「無料」であることは違うから注意が必要なのである。
  ・・
 カウンタでのおしゃべりもそこそこに,私は道を隔てた建物のガレージに行って自分の借りる車を見つけ,さっそく運転してガレージから外に出た。
 有料道路を通って余分なお金があとで追加されるのも面倒だったので,カーナビに有料道路は走らない,という設定をしてそれに従って走ることにした。
 オーランドからマイアミまで最も近いのは「\」のように南東に走る有料道路の「フロリダターンパイク」だが,私はまず「―」のように東に向かって無料の州道50を走って海岸沿いまで行き,そこで直角に南につまり「|」に向きをかえてインターステイツ95を走ることになった。東向きには州道50に平行に車線の多いより便利な州道528という道路も走っているのだが,それもまた有料道路である。
 州道50に出るには少し不便だが,空港からまずしばらく北上していくことになる。北上する道路が通っているのはオーランドで危険だといわれるダウンタウンではなく,新興住宅街の中で,そこはアメリカによくある壮大な風景が広がっていた。しばらく北に走ると,片側1車線の一般道・州道50に出たので,そこで右折して東に向きを変えて州道50を走った。
 やがて海岸沿いのインターステイツ95に着いた。インターステイツ95はフリーウェイ(無料道路)である。インターステイツ95に入って少し走ると,州道407の案内標示があったが,ここで州道407に進路を変えるとケネディ宇宙センターに行くことができる。
 私は明後日,マイアミから戻るときに,このケネディ宇宙センターに行くのを楽しみにしていたのだ。

DSC_0120DSC_0122DSC_0126DSC_0129 ●今日はロケットの打ち上げ●
☆2日目 7月28日(木)
 いろんなことが起きた初日だったが,ホテル自体はとても快適であった。
 2日目は,早朝再びホテルからオーランドの空港にシャトルバスで戻って,空港でレンタカーを借りてそのままマイアミまで行って,MLBを見る予定であった。
 この旅で私がわざわざマイアミまで行くのは,MLBマイアミ・マーリンズのゲームを見たいというだけの理由であった。

 きっとこれまでこのブログを読んでおられる方はバカじゃないの? と思っておられるだろう。そうなのだ。自分でも呆れるくらいこの旅はひどい日程なのだ。
 そもそも,今回の旅は私の目標であった「アメリカ合衆国50州制覇」で最後まで残ってしまった2州であるサウスカロライナとノースカロライナに行くということだけが目的であった。
 しかし,これまで行けなかったということは行く動機がなかったということにつながるから,私はこの2州にはまったく思い入れがないし,それだけにわざわざこの2州にだけ行くという気にもならなかった。
 そこで,南のフロリダ州と北のバージニア州を組み合わせようと思ったのだった。

 フロリダ州はすでに18年前に行っているが,そのときはマイアミの空港に降りたが市内観光はしなかったし,マイアミに新しくできたマーリンズのボールパークにももちろん行っていないから,そこにぜひ行ってみたいということで,この旅の日程につけ加えたのだった。
 地図を見ていただくとわかると思うが,マイアミというのはフロリダ州のなかでもかなり南に位置するからサウスカロライナからはかなり遠く,どうしようかとずいぶん迷ったのだが,今回行かねばマイアミなど行く機会は2度と訪れないだろうなと思ったので,思い切って行くことにしたのだった。


 ホテルで朝食を済ませ,毎時0分と30分にホテルを出るというシャトルバスを待って,空港に戻った。空港でレンタカーを借りるのである。
 結局,昨夜遅く空港から高いお金を出してタクシーで到着したホテルは単に寝て翌朝朝食をとっただけで,滞在わずか5時間で再び空港に戻ってきたのであった。
 ここから2時間以上かけてマイアミに行くのである。こんなことならはじめっからオーランドなどに来なくてもマイアミにすればよかったのだ。
 しかし,マイアミについてはさまざまなサイトによいことが書かれていない。レンタカーの盗難被害が続出しているだとか,空港でレンタカーを借りたら近くのホテルまでの一般道すら危険だとか…。私はこれを読んですっかり怖気づいてしまっていた。そこで,マイアミをやめてオーランドに着いたのだが,オーランドだってダウンタウンは同じようにかなり危ないらしいことを飛行機のチケットを買ったあとで知った。先日も乱射事件があったばかりだった。
 私はずいぶんとアメリカに行ったけれども,このごろはロッキー山脈あたりの大自然をめぐることが多く,それはそれはのどかなところばかりだったので,すっかり「田舎者」になってしまっていたから,こんな物騒な東海岸へ行くこと自体に怯えていたのだった。
 実際,アメリカ人といってもいろいろで,東海岸は危険なだけだと思っている人も多く,今回の旅のコースを話すと,アメリカ人の友人たちも危険だと私を脅かすのだった。

 この日は,偶然にもフロリダ州のケープカナベラル基地からロケットの打ち上げがあった。
 ロケットの打ち上げなんてそう簡単に見られるものではない。若いころアポロやスペースシャトルの打ち上げをマナで見たかったが,こうして旅行をするようになったときはアポロはもちろんスペースシャトルも退役してしまっていたから,その夢はかなわなかった。
 聞くところによれば,フロリダに来てもアポロやスペースシャトルの打ち上げを実際に見るのはたやすいことではなかったらしい。打ち上げを見ることができる場所にあるモーテルは,打ち上げの日の宿泊代がものすごく高騰したらしいし,そもそも予約をするのも大変だったらしい。
 この日のロケットの打ち上げは,調べても打ち上げの時間がよくわからなかった。私は朝はまだレンタカーを借りていなかったから,打ち上げが朝であったら見たくても身動きがとれない。運がよければ,レンタカーを借りてマイアミに向かう途中,ケープカナベラルの近くを通るときに,ひょっとして打ち上げが見られるかもしれないなあ,といった程度に考えていた。
  ・・
 ところが,ロケットの打ち上げは朝であった。
 この日は朝からテレビのニュースではこの話題でもちきりだった。私はフロリダではロケットの打ち上げなんて日常茶飯事のことだから珍しくもないことだろうと考えていたが,実際はそうではなかった。そんなわけで,打ち上げを見る機会を逸してしまったのだが,ホテルのシャトルバスに乗り込んで走り出したとき,ふと窓から空を見上げると,空高く飛んでいくロケットの煙が舞っているのが見えたのには本当にびっくりした。
 こんなことなら,昨晩レンタカーを借りて,打ち上げ基地の近くのホテルに泊まればどんなにこの日程が正当化されたものか,と思ったが,そんなことは後でわかったことだった。やることなすことがすべてちぐはぐな旅のはじまりであった。


IMG_1182IMG_1183IMG_1185IMG_1186IMG_1190IMG_1191IMG_1192

●何かなら何までもまともじゃない●
 ともあれ,出発時間は予定通りで,行き先がデトロイトかシアトルに変わっただけであった。
 セントレアからアメリカに行くには,現在はデトロイト便しかない。以前は,小牧の名古屋空港(現・県営名古屋空港)からロサンゼルスやバンクーバー,オレゴン州のポートランドなどに行く便があった,あるいは,成田までの乗り継ぎ便もあったのだから,そのころよりもかなり不便になった。小さな名古屋空港だったが今より便利で,新しくセントレア・中部国際空港ができてその機能が移ってからよくなったことなどひとつもない。
 近々,エアカナダがバンクーバー便を復活させるということなので少しはマシになるのだろうか。

 9時間ほどのフライトでシアトルに到着した。私にとってここ2年で4回目のシアトルということになる。とはいっても,今回はクルーが全員交代するだけで,客はそのまま機内で待機であった。
 できることなら,シアトルでオーランド行きに乗り替えたほうがずっと早く行けるのに,と思った。
 しばらくして新しいクルーが機内に揃ったが,空港が混んでいてなかなか離陸できない。私(だけ?)は内心焦っていた。デトロイト到着が遅れたら乗り継ぎができなくなる。どうしたらよいのであろうか?
 ずいぶんしてやっと離陸する順番になった。シアトルからは3時間ほどでデトロイトに到着した。
 さあ,ここからが勝負である。

 機内の座席は,国際線ともなるとエコノミーでは狭くてかなり辛い。ファーストクラスとはいわぬが,せめてデルタコンフォートくらいに座らないとたまらないなあと,今回しみじみ思ったことであった。
 去る6月にシアトルに行ったときの帰りのフライトはファーストクラスにアップグレードされた。多くの場合コンフォートくらいにはグレードアップされるのだが,今回は混んでいてコンフォートへの座席変更はできなかったが,座席はデルタコンフォートのわずか1列後ろのエコノミーであった。しかし,それでも飛行機の出口に近い席であることは間違いないから,私は到着後,いち早く飛行機を降りて入国審査場まで急ぎ足で向かっていった。なにせ,時間がないのだった。
 デトロイトでの入国は完全ペーパーレスになっているので,キオスクという機械にパスポートを読み取らせて入国の手続きをするだけだから非常に便利である。私はすぐに入国手続きを終えて,一旦受け取ったカバンをすぐに預けなおし,次の便の搭乗ゲートに向かった。運悪くゲートは一番遠いところだったが,空港内のモノレールに乗るのも走るのも時間的に変わらないので,私は,走りに走ることになった。

 勝手知ったデトロイト空港とはいえ,これではラッシュ時の東京駅と変わらない。海外旅行の優雅さとは完全に無縁であった。
 やっとのことで搭乗ゲートに着いたら,すでに,他の客は機内にいて,私が乗り込んだらまもなく飛行機は出発したのだった。
 無事,私の預けたカバンが積み込まれているのだろうか??? という心配は,今はiPhoneのアプリでカバンが今どこにあるかがわかるので大丈夫なのである。すごい時代になったものだ。
 そんな次第で,かなりのドタバタ劇であったが,なんとか乗継便に間に合って,今度は,快適なファーストクラスの座席に身を沈めたのであった。

 やがて,オーランドに到着した。外は真っ暗であった。
 私が前回オーランドに来たのは18年も前のことであった。そのころは今ほどアメリカに行ったこともなく,シカゴ,アトランタ,フロリダと多くの場所を旅行して,最終日はオーランドの空港内にあるホテルに1泊して帰国したのだった。
 到着した空港のターミナルからはまず空港内を巡回する鉄道に乗り込んで,空港のターミナルビルに行く必要があった。さっぱり要領を得なかったが,ほかの乗客について行ったらそのままターミナルビルに出た。ターミナルには,前回来たときに宿泊したホテルがあった。その時の記憶が蘇ってきて,とても懐かしかった。
 結局,今回もそのホテルに宿泊すればよかったものを宿泊代をケチって空港の近くのホテルを予約したのがケチのつきはじめであった。
 空港からホテルに行く方法がわからなかった。ホテルのシャトルバスサービスがあるはずなのだが,連絡する方法がわからない。私の持っていたアメリカのSIMの入った電話機がどいうわけかつながらない。空港にはホテルの案内板と電話機あるはずなのだがそれも見当たらない。事前にホテルまで行くことのできる公共交通機関も調べておいたのだが,到着が遅れたのでこれもまた意味をなさなくなってしまった。
 もう夜も遅かったので,タクシーに乗ることにしてターミナルから外に出た。こんなことなら,この時点でレンタカーを借りるのが一番賢い方法であった。

 現在のアメリカではウーバー(Uber)が全盛で,タクシーなどという斜陽の乗物は客もほとんどいないから,タクシー乗り場は閑散としていた。
 ともかくタクシーに乗り込んでホテルの名を告げて出発した。
 運転手は調子よく走り出したのだが,ホテルに近い最寄りのインターステイツの出口は運悪く閉鎖されていた。こういうことはアメリカではよくあることなのだが,このタクシーの運転手が悪質? だったのは,ホテルに行くのになにもインターステイツなどに乗る必要がなかったことだった。しかし,単に道を知らなかっただけなのかもしれない。
 ともかく,次のインターステイツの出口までが異常に遠く,かなりの遠回りをしてやっとのことでホテルに到着した。東京駅で銀座まで行くのにタクシーに乗ったら,首都高で横浜まで行って引き返してきたような感じであった。
 そんなわけで,タクシー代が日本円にして5,000円くらいかかってしまった。これには文句を言ってみる必要があったのだろうが,疲れていて面倒になったからそのまま支払って車を降りた。
 何から何までバカげた初日がこうして終わった。初日からこれだけいろんなことが起きればこれですべての災いは終わったことであろう。このあとの旅はすべて順調にすすむだろうと,私はなぜか逆にホッとしたのだった。

20161023_cubs21885_Chicago_White_Stockingscubs-billy-goatbf210506_14454336005069e288e77

 2016年,シカゴ・カブスがナショナルリーグを制覇しました。これは何と76年ぶりのことです。そこで,ついに「ヤギの呪い」が解けたと騒がれているのですが,本当に呪いは解けたのでしょうか? というのが今日の話題です。

 「ヤギの呪い」というのは次のお話です。
  ・・・・・・
 1945年,当時16回目となるリーグ優勝を果たしたシカゴ・カブスは,タイガースとのワールドシリーズに3勝4敗で敗退しましたが,2勝1敗とカブスがリードして迎えた第4戦のことです。
 地元バーの店主であったビリー・サイアニス(William "Billy" Sianis)は,カブスの熱狂的なファン。可愛がっていたヤギ・マーフィーとともに試合観戦に訪れていました。しかし,この試合に限って球団側はヤギの入場を禁止し,サイアニスとヤギは球場から連れ出されてしまったのです。理由はヤギの臭いでした。
 これに激怒したサイアニスは「リグレー・フィールドにヤギの入場が許されるまでカブスは2度とワールドシリーズに勝てない」と言い放って球場を後にしたというのです。
 その後チームは本当にワールドチャンピオンはおろかリーグ優勝さえ遠ざかることとなってしまったのです。
 それが日本では,「今後2度と(本拠地の)リグレーフィールドではワールドシリーズができなくしてやるぞ」と言ったと伝わっているので,それが「呪いが解けた」という根拠になっているらしいのです。
 しかし,私が調べた限りでは,正しくは「2度とカブスは勝利を得ることはないだろう」(The Cubs, they ain't gonna win no more.) と言ったそうなので,もしそのとおりであれば,ワールドシリーズに勝たなければ呪いは解けたことになりません。
  ・・・・・・

 そもそも人の噂なんて,曲折して伝わるのです。
 有名なのは,横井庄一さんと長嶋茂雄さん,そして,有森裕子さんの言葉です。
 太平洋戦争終結から28年後の1972年のこと。残留日本兵としてグアム島にいた横井庄一さんが発見されて日本に帰国しました。帰国の際,羽田空港に出迎えに来た厚生大臣に「何かのお役に立つと思って恥をしのんで帰ってまいりました」と伝え,その後の記者会見では「恥ずかしながら生きながらえておりましたけど」と発言したのが,後世「横井庄一,恥ずかしながら帰って参りました」と伝わりました。
 読売巨人軍の三塁手だった長嶋茂雄さんは,1974年現役を引退するときに,「我が巨人軍は永久に不滅です」と言ったのですが,これが後世「永遠に不滅です」と伝わりました。
 また,有森裕子さんは1996年のアトランタオリンピックの女子マラソンで3位になったとき,直後の取材で「初めて自分で自分を褒めたいと思います」と言ったのですが,それが「自分を褒めてあげたい」と伝わりました。

 では,シカゴ・カブスの歴史を振り返ってみましょう。
  ・・・・・・
 シカゴ・カブスの前身はシカゴ・レッドストッキングスといいました。1871年の発足というのだから日本の明治維新のころで,MLBで最も古い球団のひとつです。1902年に現在のシカゴ・カブスという名前になりました。
 1906年,シーズン最多記録となる116勝をあげてリーグ優勝しましたが,ワールドシリーズはシカゴ・ホワイトソックスと対戦し破れました。続く1907年は107勝をあげて2連覇。ワールドシリーズもデトロイト・タイガースと対戦し勝利し,初のワールドチャンピオンに輝きました。1908年はプレーオフの末にリーグ3連覇。2年連続でタイガースとの対戦となったワールドシリーズも制し,2年連続のワールドチャンピオンに輝きました。
 しかし,現在のところこれが最後のワールドチャンピオンなのです。
  ・・
 1910年はリーグ優勝しましたが,ワールドシリーズはフィラデルフィア・アスレチックスに敗退。1916年に現在のリグレー・フィールドに移転し,1918年リーグ優勝を果たしましたが,ボストン・レッドソックスとのワールドシリーズは敗退しました。
 それからしばらく経って,1929年久々のリーグ優勝を果たしましたが,フィラデルフィア・アスレチックスに敗退しました。1932年はリーグ優勝を果たしましたがワールドシリーズではヤンキースと対戦し4連敗を喫しました。
 1935年にもリーグ優勝を果たすもののワールドシリーズではタイガースに破れ,1938年は首位だったパイレーツを猛追し,シーズン最後の直接対決で2連勝しリーグ優勝を決めましたが,ヤンキースに敗退しました。
 そして問題の1945年。
 リーグ優勝を果たしたのですが,タイガースとのワールドシリーズの第4戦で「ヤギの呪い」の元となった出来事が起こったのです。
  ・・
 その後の長い長い低迷ののち,1984年,ついに久々に地区優勝を果たしました。リーグチャンピオンシップシリーズはサンディエゴ・パドレスと対戦し,第1戦,第2戦と2連勝したのですが,その後2連敗。最終戦は6回まで3対0とリードしていたのですが,7回に1塁を守っていたレオン・ダーラム(Leon "Bull" Durham)が致命的なエラーを犯し逆転負けを喫しました。
 1989年に再び地区優勝を果たし,リーグチャンピオンシップシリーズではジャイアンツと対戦しましたが,リーグ優勝はなりませんでした。1998年はワイルドカードを獲得しプレーオフに進出したのですが,アトランタ・ブレーブスに手も足も出ず3連敗を喫しました。
 そして,再び問題の2003年です。
 この年14年ぶりに地区優勝を果たし,ディビジョンシリーズでブレーブスを下しリーグチャンピオンシップシリーズでフロリダ・マーリンズと対戦しました。第1戦は敗れたものの第2戦から3連勝し悲願のリーグ優勝は目前と思われた第6戦のことです。リードして迎えた8回にファウルボールの捕球をなんとカブスファンであるスティーブ・バートマンに妨害されてアウトがとれず(これを「スティーブ・バートマン事件」(The Steve Bartman Incident)といいます),ここから逆転負けを喫し,第7戦も落としたことでワールドシリーズに進出できませんでした。私はこれをテレビで見ていました。
 なお,この事件後,バートマンが座っていた「セクション4,8列シート113」はリグレー・フィールドの名所のひとつになり,バートマンは仕事も住所も変え公の場には一切姿を現していないということです。
  ・・
 2007年は4年ぶりに地区優勝したのですが,ディビジョンシリーズでアリゾナ・ダイヤモンドバックスに3連敗し敗退しました。翌2008年はナ・リーグ最高勝率で2年連続の地区優勝。しかし,ディビジョンシリーズではロサンゼルス・ドジャースと対戦し3連敗で敗退しました。
 その後再び低迷が続きました。
 2015年は中部地区3位という成績に終わったものの勝率が高く7年ぶりにポストシーズンに進出しました。ワイルドカードゲームでピッツバーグ・パイレーツを下して地区シリーズに進出すると,セントルイス・カージナルスを相手にリーグ優勝決定シリーズ進出を果たしました。この年は映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」でカブスがワールドシリーズで勝利することになっており,映画の再現かと大いに盛り上がりましたが,ニューヨーク・メッツとの対戦となったリーグチャンピオンシップシリーズで,なんと奇しくも「ヤギの呪い」のヤギと同じ名前をもつ「ダニエル・マーフィー」(Daniel Murphy)に4試合すべてホームランを打たれ,勢いづいたメッツを止められず,またしてもワールドシリーズ出場は果たせなかったのです。
 そして2016年。
 8年ぶりの地区優勝を果たし,サンフランシスコ・ジャイアンツとのディビジョンシリーズに勝利し2連続のリーグ優勝決定シリーズ進出を決めました。そしてロサンゼルス・ドジャースとの顔合わせとなったリーグチャンピオンシップシリーズも制し,71年ぶり17回目のリーグ優勝を果たし,ついにワールドシリーズへの出場を成し遂げたのです。この試合,観客に「ファールボールに手を出すな」という注意がされたとかされなかったとか?
  ・・・・・・

 このように歴史を紐解いてみると,呪いがかけられてからはワールドシリーズにも出場できなくなったわけで,もし,この呪いがワールドシリーズ制覇ができないということなら,呪いは1918年にかけられていなくてはなりませんから,私は,出場できただけで呪いが解けたという考えもあながち間違いとはいえないのかなあ,と思うようにもなりました。いずれにしても,ワールドシリーズでカブスが勝てば何の問題もないのですが,もし勝てなかったときに,今年で呪いが解けたのかあるいはまだ解けていないのか,今後も跡を引きそうな…。まあ,どっちでもいい話ではありますが。
 これでは結論が出ないので,アメリカのニュースも調べてみました。そこには「drought」という表現はでてきますが,「呪いが解けた」といって騒いではいないようです。「drought=干ばつ」というのは長い間ワールドシリーズで優勝していないといった意味で,この第1位がシカゴ・カブスの107年,第2位がクリーブランド・インディアンズの67年なのです。 
 2004年に「バンビーノの呪い」の解けたボストン・レッドソックスは85年間,2005年に「ブラックソックスの呪い」の解けたシカゴ・ホワイトソックスは87年間の「drought」でした。つまり,日本と違って,アメリカではどうやら長い間「drought」であるのは「呪い」のせいだといっているようなのです。だから,ワールドシリーズに勝利しなければ呪いは解けていないというのが正解,というのが私の結論です。
 今年のワールドシリーズは,くしくもシカゴ・カブスとインディアンズの対戦。
 クリーブランド・インディアンズは映画「メジャーリーグ」で弱小球団としてあまりにも有名ですが,このチームがワールドシリーズに最後に勝利したのは1948年のこと。つまり,今年は「1908年以来108年ぶり」対「1948年以来68年ぶり」の最長「drought」対決なのです。

◇◇◇
「ヤギの呪い」は解けるのか-2015MLBポストシーズン
「ヤギの呪い」は解けなかった。-2015MLB佳境②


IMG_1159IMG_1170IMG_1172IMG_1176IMG_1161IMG_1177

 「2016春アメリカ旅行記」では,はじめて行ったハワイのことを書きました。
 その前年2015年の夏,私はワシントン州,オレゴン州,アイダホ州,モンタナ州を旅しましたが,このときのことを書いた「2015夏アメリカ旅行記2」は前半だけで中断をしています。
 その翌年2016年に,私は再びワシントン州,アイダホ州,モンタナ州へ出かけました。また,来年2017年の夏もワシントン州,アイダホ州へ出かける予定なので,これらの旅行記は後日まとめて書くことにします。
 そこで,今日からは,この夏に行ったアメリカ東海岸縦断の旅をお届けします。
  ・・

●機長結膜炎のため飛行経路変更●
☆1日目 7月27日(水)
 この旅の出発は7月27日だった。今回は東海岸だったので,セントレア・中部国際空港からデトロイト経由で行くことにして飛行機のチケットを購入した。
 いつものことだが,私はまったくもっていい加減で,この旅も,フロリダから東海岸沿いにフィラデルフィアまでかなりの長距離をドライブすることだけを決めて,往路は「セントレアからマイアミ」,帰路は「フィラデルフィアからセントレア」というフライトを探しはじめたのだった。
 帰りのフライトは容易に見つかったのだが,行きのフライトが大変だった。いろいろ探してもマイアミ着午後10時過ぎという遅い便しか見つからないのだった。
 マイアミは治安が悪いという書きこみがたくさんあって,そんなところに夜10時過ぎに着くのはいやだあと思って,改めて「セントレアからオーランド」を探してみたら,到着が午後9時頃のものが見つかったので,このほうがまだマシかと,その場でチケットを買ってしまったのだった。

 これもまたいつものことだが,私は飛行機のチケットを買ってから旅行の計画を立てる。
 そこではじめて,オーランドに行くことがまったく無意味であることに気づいたのだった。しかも,オーランドからマイアミなんてすぐ近くだと思っていたのだから困ったものだ。結局私は,オーランドに到着した日はホテルに泊まるだけで翌日早朝2時間かけてマイアミに向かうという,とてもバカげた話になってしまった。
 帰りもまた,フィラデルフィアから帰国しなくてもワシントンDCから帰国するほうがずっと計画が立てやすいことがわかった。

 散々であった。
 しかも,当初考えていたように,マイアミでレンタカーを借りてフィラデルフィアまで走ってそこで乗り捨てると,乗り捨て料金のほうがレンタカーの使用料金よりも高いという,これもまたバカげたことになるのだった。
 しかし,これだけは,昔からの夢を実現するためだったから容認することにした。
  ・・
 そんなわけで,自分でもさっぱり容量の得ない旅の計画を立てることになってしまったが,ともかく,東海岸を縦断するという,きっとこんな機会はもうないだろうという旅を決行することになったのだった。

 出発当日は,これもまたいつものように,先にカバンだけを空港に送ったので,サンダル履きに小さなバックパックという,まるで近所に買い物にいくような格好で,家を出ることになった。
 それが…?????
 行きのフライトは,セントレア・中部国際空港からデトロイトへ行って国内線に乗り換え,デトロイトからオーランドという予定だったのだが,出発前日の晩,それも遅くに,私の乗るデトロイトからオーランドへの便の座席が変更になったという知らせが舞い込んだのだった。そのときの連絡では,座席のアップグレードという話であったが,実際は利用するフライトも変更になっていて,デトロイトからアトランタ,そこで乗り換えて,アトランタからオーランド,しかも,オーランド到着は深夜1時過ぎ,というではないか!
 アメリカの国内線の座席がファーストクラスになったというのは許せるとして,どうしてそんな深夜の到着に変更になったのかまったく納得がいかなかった。さらに,その連絡には私の利用するはずのセントレアからデトロイト便の表示が消えてしまっていたのだった。これでは太平洋を渡ることもできないでいではないか!

 不安になったので,そのままネットでチェックインをして航空券をプリントアウトしてしまうことにしたら,なんと,セントレアからシアトル,シアトルからデトロイトなとどいうわけのわかないチケットが印刷されて出てきた。
 ともかく,デトロイトまで行くことができるのがわかったのは安心したが,どうしてシアトルで一旦降りる必要があるのかさっぱりわからなかった。そのためにデトロイトの到着が3時間遅れるので,はじめに予定した乗り継ぎ便に間に合わないのでオーランドの到着が深夜になる,ということらしかった。しかし,シアトルで降りることができるのなら何もデトロイトまで行く必要などないではないか。もともとセントレアからデトロイト便などを運行させなくとも,シアトル便のほうが便利だと私はかねがね思っていたくらいだからである。
 考えていてもらちがあかないので,当日は少しはやくセントレアに着いてデルタ航空のカウンタでその理由を聞いてみようと思った。
  ・・
 出発当日,午前10時18分にセントレアに到着する名鉄に乗った。ところがセントレアに着いてもデルタ航空のカウンタには人ひとりいなかった。このカウンタが開くのは出発2時間前だという話であった。突然予定が変わったのなら,もう少し便宜をはかってくれよ,と思ったが,これもまた万事いいかげんなアメリカ企業の常識だから,私は,時間までラウンジで待つことにした。
 ラウンジのテレフォンブースでデルタ航空に電話をした。
 電話は混み合っていたけれど,私のステータスはゴールドエリートだから優先的に電話はつながった。しかし,予定が変わったというだけで,何の情報も得られず,むなしく電話を切ったのだった。

 毎度のこととはいえ,毎度フライトはスケジュール通りに飛んだことがほとんどない。ブログのネタには事欠かないけれど,実に困ったものだった。することもないので,とりあえずセントレアにあるレストランで「オリエンタルカレー」を食べて,カウンタが開くのを待つことにした。私はアメリカに行くと,いつもカレーライスが食べたくなるから,これがしばらくの食べ収めであった。
 やがてカウンタが開いたのでさっそく交渉を開始した。
 なぜこんな変更になってしまったかは不明だったが,ともかく,今回のフライトは,直接デトロイトに行くのではなく,一旦シアトルに着陸してからデトロイトに行くという変更になったということだった。その結果,デトロイト到着がおくれるから,私が予約してあった乗り継ぎ便には間に合わないということであった。調べてもらうと,アトランタ経由ではなく,デトロイトから直接オーランドへの直行便があって,それならオーランドの到着は夜の10時30分過ぎになるということであった。そこで,そのフライトに変更してもらった。しかし,その便だと,デトロイトでの乗換え時間はわずか1時間30分しかないのだそうだ。果たしてその短時間で乗り換えができるのだろうか? またまた別の心配が出てきたが,これだけば行ってみなければわからなかったから,ここで心配していても仕方がない。
  ・・
 ともかく,チェックインを済ませた。
 セントレアには本物? のくまモンが,これまた本物のくまモン隊のお姉さんと熊本から来ていたのでそれを見ていたが,それが終わってもまだ暇だったので「ピカチュウかくれんぼチュウ」というのをやりながら時間をつぶした。
 やがて出発の時間が近づいたのでセキュリティを通り搭乗ゲートに行くと,ちょうど,私が乗るフライトの客室乗務員がいたので事情を聞いてみた。彼女たちも深夜に突然起こされて変更を聞いたのだという。シアトルで降りてクルーはそこで交代するから今回の担当はシアトルまで,その先のことは知らないという気の毒な話であった。そして,シアトルで降りることになったのは,機長が結膜炎になって,長距離の操縦が不可能になったから,規則でシアトルで交代しなければならないというのが理由である,ということだった。

◇◇◇
Congrats! Cubs Calendar to be "0000000".

この意味は明日。
14708232_632941380226037_101957573009436058_n

DSC_5180DSC_5242DSC_5239DSC_5253

 まず徳島市の東横インにチェックインをしてから,再びホテルを出て,あてもなく四国の東海岸を南に向かって走ってみることにしました。阿南を抜けて阿波橘まで行くと,そこにはこの夏に来たときに宿泊したホテルがありました。夏に来たときはJRだったのでよくわからなかったそのロケーションがやっと理解できました。さらに進んで行くと日和佐海岸に出ました。
 そういえば日和佐海岸はウミガメがやってくるということで有名なところです。ならばハワイ島と同じではないですか。しかし,それにしては違いすぎです。気の毒にもハワイと比べてしまったのでは相手が悪すぎます。
 残念ながら,四国は私が思っていたほどではなく,山が海まで迫っていて海岸沿いも海が眺められるという場所はほどんどなく,星がきれいに見られそうな場所には,やはりここもまた無粋な街灯が空を照らしていて,私にはほとんど魅力のないところでした。

 このところ,特に意識しているわけでもないのですが,旅に出ると,結果的に昔からずっと気になっていたところをひとつずつ訪れている感じになっています。
 そこで,今回はせっかくここまで来たので,帰りは淡路島は高速道路を降りて海岸線を走ってみることにしました。今回は北側だけを走ったのですが,ここもまた,私が想像していたのとは全く違い,ひどく落胆することになりました。
 どうやら私は,この淡路島にのどかな漁村の風景を期待していたようなのです。そして,そういったところにある(と思われた)民宿にでも泊まれば,波の音を聞きながらおいしいお魚が食べられる,みたいなそんな感じを思い浮かべていたのです。
 しかし実際は,淡路島の北岸もまたほとんど山が迫っていて,進行方向の左手に時折みられる海岸は,砂浜というよりもまさにゴミの山でした。
 一方,右手の山には淡路城というお城がありましたが,そこにあったのはつぶれたテーマパークの廃墟のようなところでした。
 そういえは,近江・滋賀県の佐和山にも,佐和山遊園とかいう同じような廃墟がありますが,それと同じようなものでした。また,琵琶湖大橋を京都方面に渡ったところにも朽ちた観覧車の残骸がそびえています。こうして,この国は,そういったものをほったらかしにして,国全体がどんどんとゴミだめになっていくのです。

 淡路島の北海岸を走って,島の北東の端にたどり着きました。そこには道の駅がありました。そこから見えた淡路大橋は確かに巨大なものではありましたが,この橋は車でしか通ることができず,せっかくこれだけのものを作ってもただ走り抜けるだけの道路です。
 ここまで立派なものを作ったのだから,せめてもう少しだけ道幅を広げて,歩いて渡れるようにでもすればランドマークにもなるし,本当にこの国の人は知恵も遊び心もなさすぎます。
 私はサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジもニューヨークのブルックリンビレッジも歩いて渡ったことがあります。それと比べてはいけないけれど,歩いてあるいは自転車で渡れるのならすばらしい観光スポットだったのに残念なことです。
 去る10月11日にNHKBSプレミアム「にっぽん横断こころ旅」で,ちょうど淡路島から眺めた「人類の作った化け物のような」と火野正平さんが表現していた明石大橋を放送していました。この番組では,対岸の本州側の景色を見せようとしていたのですが,霧っていて全く見えませんでした。また,実際は海岸はゴミだらけなのに,テレビではさも美しい所のように見えました。
 私はもちろん晴れ男なので,私が行った日は鮮やかに対岸の風景が見られましたが,きっと夜になると対岸にある町並みにも明るく夜景が照り輝くことでしょう。つまり,ここからも美しい星空は見られないのでしょう。

 瀬戸内海を渡り,再び一般道に降りて,神戸から大阪,そして,生駒山を経由して私は帰途につきました。途中で寄った生駒山にはおなじみのネコバスのようなロープウェイがありましたが,ほとんど人影もなく,ガードレールはさび付き,どこもかもが日本の斜陽を象徴しているかのようで,だんだん情けなくなってきました。
 生駒山を過ぎて奈良市に出たら,途端に観光客だらけになって活気が出てきました。そこに見たのは早秋の美しい奈良の景色で,こんなことなら徳島に泊まらず淡路島もさっと通過して奈良で1泊すればよかったと後悔したことでした。しかし,そこにいた観光客はほとんどが外国人で,私はすっかり現実に戻されました。
 その昔,奈良の東大寺から西に広がるのどかな日本の風景とそこに溶け込むように沈む夕日に私は魅了されました。しかし,私の見たかったそのころの原風景など,今の日本にはどこにも残っていなかったのです。

DSC_4313 (1024x683)DSC_4314 (1024x683)IMG_0703 (1024x768)IMG_0706IMG_0707

●来春もハワイに行くのである。●
☆8日目 4月5日(火)
 このホテルはホノルル国際空港の滑走路に面してはいるが,空港から歩くには遠すぎる。ホテルにはプールやレストランやカラオケバーもあって,一見豪華そうに見えるが実は古臭いところであった。そしてまた寝るだけの私には,それらはまったく関係のない設備であった。
 それにしては値段の高いホテルだったから,実につまらないお金を使ったものである。

 朝の7時にチェックアウトをして,ちょうど空港に出発するところだったホテルのシャトルバンに乗って,午前7時10分過ぎには空港に到着した。
 空港に着いてしまえばこちらのもの,これまではハワイアン航空だったが,ここからは勝手知ったデルタ航空の領域である。急にお金持ち気分になってすべてがプライオリティ扱いである。
 まず,チェクインをして荷物を預けて,プライオリティセキュリティで通り抜けて,デルタワンラウンジへ行った。
 ホテルには朝食がついていなかったが,このラウンジで朝食をとることもできればWifiも使えるので,搭乗手続きの時間までを快適に過ごすことができるのだ。

 私が飛行機を利用するときはこれまで毎回なんらかの遅れやらトラブル続きであったが,今回は予定通りに出発して,8時間ほどで日本に帰国できた。帰りの機内はずっと起きていて映画を見て過ごした。
 乗客のほとんどは日本人であった。私がこの時期にハワイに行ったのは,このこともすでに書いたが,星を見るために月明かりの時期を避けたからである。もし月明かりがなければ,3月の学校が休みになる以前に出かけていたであろう。しかし,3月の下旬に出発して月を「マタギ」4月に帰国すれば少しは空いているであろうという私の期待はまったくの幻想であった。
 考えてみれば,ハワイなどという四国よりも狭い島にこれだけの観光客が世界中から押し寄せて,しかもその多くはリピーターなのだから,いつだって混雑するはずである。

 日本では新しい新幹線ができて北海道も北陸も観光客が増えたといっているが,所詮数年だけのことであろう。そして,そのあとに控えるのは,新幹線の開業でむしろ在来線がなくなって不便になった地元民の苦境と観光客目当てに投資をした観光業界の不況であろう。
 まったくもって懲りない国民だ。同じことがこれまで何度繰り返されたことであろう。そんなことははじめっからわかっているはずなのに,目先のことしか見えない。観光地はリピーターなくして成り立たないのだが,この国でリピーターが期待できるのはディズニーランドと京都くらいのものであろう。
 なにせ数日滞在すればそのほとんどがわかってしまうくらい,どこもかも狭いだけだからである。
 日本に外国人観光客が増えたのは日本が素晴らしいというのではなく,円が異常に安いというのが本当の理由だということを忘れてはいけない。

  成田に着いた私は東京までバスで戻ろうと思ったが乗り場がわからず,一刻も早く帰宅したくなったので,成田エクスプレスで品川へ行ってそのまま新幹線に乗って帰宅した。
 この時期は桜が満開であった。
 後で考えると,せっかく桜が満開だったから,千鳥ヶ淵あたりで夜桜見物でもすればよかったと後悔したが,このときの私にはそんな余裕はなかった。
 ハワイはとても楽しいところであった。ここに住みたいと思う人も多いだろうし,本当に別荘を建てた日本人もいるらしいが,その気持ちがわからないこともなかった。ただし,私は,ショッピングにも食べ物にも興味がなく,泳ぐわけでもなく,単に満天の星空が見たいだけなのだけれど。
  ・・
 今回の旅行で私はすっかりハワイの虜になってしまった。
 そこで,すでに,来春3月,今度はマウイ島にホテルを予約し,航空券も手配を済ませてしまったのである。

DSC_5217DSC_5220DSC_5233DSC_5247DSC_5251

 「天体望遠鏡博物館」からの帰り道,私は,四国八十八箇所霊場の最後の札所である「医王山遍照光院大窪寺」に立ち寄りました。
 結願の霊場「大窪寺」は徳島県の県境に近い矢筈山(標高782メートル)の東側中腹に位置します。
 私は,別に四国八十八箇所霊場巡りをするために来たのではありません。というよりも,まったく関心がありませんでした。
 この寺が偶然「天体望遠鏡博物館」の近くにあったから寄ってみただけなのですが,私がそこで見たのは,テレビなどで見るお遍路さんの姿でした。たとえが悪いかもしれませんが,東京両国へ行ってお相撲さんの姿を見たとか,京都祇園に行って舞妓さんを見たとか,はたまた,バージニア州ランカスターへ行ってアーミッシュを見たとか,私にはそういうたぐいのものと同じで,ああ,本物だ! みたいな感じでした。

 私はこの日どこかに泊まって翌日家に帰ることにしていたのですが,その行程がまったく定まりません。
 いっそのこと四国を1周しようかとも思ったのですが,来てみたら四国は山ばかりで道も細く,まったく気乗りがしませんでした。比べては悪いいけれど,ハワイ島のほうがずっと楽しいのです。
 そんなわけで,帰る途中の徳島市の東横インに泊まることにしました。
 この夏に生まれてはじめて徳島市に来て,また,数か月後に来るとは夢にも思いませんでした。あれだけそれまでは行きたくても行けなかったのに,すぐまた来るとは不思議なものです。
  ・・
 その翌日,だらだと家に帰るつもりだったのですが,鳴門市まで走っていくと,今度は,1番札所「竺和山一乗院霊山寺」という道路標示を見つけました。で,結願の寺だけではあまりに申し訳ないので,そこにも立ち寄ることにしました。
 四国八十八箇所霊場の全行程はおよそ1,460キロメートルに及びますが,ここは札所番号の順に巡拝すると遍路の「発願の寺」,つまり「同行二人」のはじめの寺です。弘法大師はこの寺に天竺の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景を感じとって,天竺の霊山を日本に移す意味で「竺和山霊山寺」と名づけられたということです。
 それにしても,順打ちでもなく逆打ちでもなく,88番札所の後に1番札所に寄るなんてキセルです。
 お詫びに,88歳になったら,残りをすべて巡ることにします。

 そのあと,私は淡路島を通過して,大阪に入り,ずっと気になっていた生駒山の宝山寺に寄ってから,家に帰りました。
 宝山寺は,奈良県の生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院で生駒聖天とも呼ばれる寺です。昨年,私はこれもまたずっと気になっていた京都府八幡市にある男山石清水八幡宮へやっと行くことができたのですが,ここはそこととてもよく似ていて,縁日でもないからえらく寂れていました。
 近鉄のケーブルカーがあるのですが,お客さんがいるのやらいないのやら…。日本にはこうしたある意味場末の原風景が結構残っていて,そこには場の雰囲気を台なしにする中国人団体観光客がいないのが幸いで,私にはむしろ旅情をそそるのです。実は,この寺の門前は「宝山寺参道」という「最後の桃源郷」とよばれるディープなところなのですが,興味のある方はそれがどういうものかはご自分でお調べください。
 関西は,いや,日本というのは,学校では習わない,あるいは,ガイドブックには載っていないことだけがめっぽうおもしろいという,本当に不思議な国なのです。

◇◇◇
浪速の春の大相撲観戦⑥-今も残るディープな大阪
早春の京都②-先達はあらまほしき事なり。

DSC_4293 (1024x683)DSC_4295 (1024x683)DSC_4297 (1024x683)DSC_4312 (1024x683)DSC_4308 (1024x683)

●ボーイング717●
 やっと出発の時間になって,私は飛行機に乗り込んだ。
 飛行機好きの人には有名な話かも知れないが,ハワイアン航空の主要機種はなんとボーイング717 (Boeing 717)であった。 私はずいぶんとたくさんの飛行機に乗ったが,ボーイング717ははじめてであった。というよりも,ボーイング717などという機種があることすら知らなかった。
  ・・・・・・
 ボーイング717は,ボーイング社が製造した100席級のナローボディの双発ジェット旅客機である。
 当初はマクドネル・ダグラスによりMD-95として開発が進められていたが,マクドネル・ダグラスがボーイングに吸収合併されたことでボーイング717の名前が付けられた。つまり,ボーイング717はもともとはダグラスが開発したDC-9の発展型で,DC-9由来の胴体断面,低翼配置の主翼,T字型の尾翼を備え,胴体尾部の左右に1発ずつターボファンエンジンを備えている。1995年にMD-95の正式開発が決定されたが,途中でマクドネル・ダグラスがボーイングに吸収合併され,合併後も唯一開発・生産が継続されたのである。
 ボーイング717は1999年にエアトラン航空によって初就航した。ボーイングはボーイング737との売り分けを考えていたが受注は伸び悩み,2006年に最終機の引き渡しが行われて生産が終了した。717の総生産数は156機であった。
  ・・・・・・
 
 もう外は暗く,行きと違ってほとんど地上の景色を見ることはできなかったが,やがてオアフ島が近づくにつれて,ホノルルの明るい夜景が見えてきた。
 アメリカの夜景は日本と違ってそのほとんどが黄色い光である。それに比べて日本は宝石をちりばめたような色彩に満ち満ちているが,私にはそんな光よりも星空のほうがずっと美しいと感じられる。
 ホノルルに到着したのはすでに夜の9時であった。明日の朝10時10分発の便で私は成田に帰る。そこで,寝るだけのために決して安くもないホノルルのホテルに1泊する必要があった。しかもこの帰りの日程については,再三再四変更があった。
 私はずいぶんと早く予約を入れたのだが,どうも団体客か何かの都合で,私の予約が適当に変えられているかのようであった。あるときは最終日の成田便の出発が夕刻になったり,また,朝に戻ったりしたが,結局最後に決定したのは,はじめに予約した時間とほとんど同じであった。

 この晩予約を入れたのはホノルルの空港に接した格安のホテルだったのだが,空港から近いといっても歩いていける距離でもなく,ホテルのシャトルバンによる送迎があるということだったが,それに乗るのにどうすればいいかわからなかった。これはかなり迂闊であった。
 空港はものすごく混雑していてシャトルバスの受付コーナーには大勢の人が並んでいた。私の目当てはこうした一般のシャトルバスでなくホテルの送迎用のものだったのだが,その予約の手立てがわからないのであった。
 一般のシャトルバス乗り場の列を整理していた係員がいたのでともかく聞いてみると,なんと親切にホテルのシャトルバスを電話で呼んでくれるではないか。こんな親切はアメリカ本土では考えられないことであった。
 係員が言うには,空港から外に出たところにある喫煙コーナーの横の空地に星条旗をつけた赤いバンが20分後に来るということだった。本当に来るのかなあと不安に思いながら待っていると,ひとりの女性が空港ビルから歩いてきて,声をかけてみると,どうやら私の待っているのと同じ赤いバンを待つように指示されたということだったので気を強くした。
 20分も経たずバンが来た。運転手の話す英語はかなり訛りが強くてさっぱり要領をえなかったのだが,なんでもオーストラリア生まれで大学で数学を専攻したということだった。
 こうしてなんとか無事にホテルにチェクインすることができたのだった。

DSC_4285 (1024x683)DSC_4287 (1024x683)DSC_4290 (1024x683)DSC_4292 (1024x683)IMG_0697 (1024x768)IMG_0699 (768x1024)

●レイと激辛カップ麺と●
 ハワイといえばレイである。
 いや,これは,私が子供のころに放送されていた「アップダウンクイズ」の影響であろう。
  ・・・・・・
 「アップダウンクイズ」は,1963年10月から1985年10月まで毎週日曜日に放送されていた視聴者参加型クイズ番組で,ロート製薬の提供,日本航空の協賛で放送されていた。
 6人の参加者がクイズに参加し,早押しで正解すると乗っていたゴンドラが1段ずつ上がっていって,10問正解して頂点に上がるとファンファーレが鳴り,天井に吊るされていたくす玉が割られて,「日航で行く夢のハワイ旅行」と賞金10万円獲得となった。
 最上段から降りてくるのは飛行機のタラップを模した階段であった。そして,解答者がタラップを降りてくると客室乗務員に扮した女性からレイをかけられて航空会社のショルダーバッグが贈られるのである。
  ・・・・・・
 多くの日本人にとってハワイ旅行なんて夢のような時代に,この番組によってハワイも日航=日本航空も航空機のタラップもレイも知ったのである。そして,ハワイは日本人の憧れとなった。
 私は飛行機に乗れば航空会社のショルダーバッグがもらえてハワイに到着してタラップを降りるとレイがかけられるものだと思っていた。

 レイ(lei)は,頭・首・肩などにかける装飾品で,主にハワイにおいて用いられる。観光用に用いられる花のレイが一般的に知られているが,その種類はシダ,海草,貝殻,羽毛,果実,鮫の歯など多岐にわたる。
 観光用としてだけでなく,誕生日,結婚式,卒業式,葬式など日常の様々なシーンでも用いられるという。
 5月1日はレイ・デイとしてレイ作りコンテストなどが開催され,古き文化の継承に努めてあいるのだそうだ。また,6月11日のカメハメハ大王の日には,カメハメハ大王の像に多数のレイが掲げられる。
  ・・・・・・
 ハワイにおけるレイの文化は,12世紀頃にやってきたポリネシア人たちによってもたらされたと考えられており,古来より魔除や供物,社会的地位の象徴として用いられた。その後,19世紀頃に旅行者や移住者によって持ち込まれた植物(カーネーション,クチナシ,ジャスミン,マリーゴールド,パンジー,プルメリア,バラ,スミレなど)を利用することで大きな進化を遂げた。
  ・・・・・・
 空港のレイ売り場で,私は,そういえばレイというのがわれわれの子供のころのハワイのイメージだったのだということを思い出したのだった。

 まだ出発にはずいぶんと時間があったが,空港内でコーヒーでも飲むことにしてセキュリティを通った。
 ハワイの空港で私が最も不自由したのがフリーWifiがないということであった。ずいぶん昔からWifiに不自由しなかったアメリカ本土に比べて,ここは一昔前の日本と同じであった。アメリカ本土に行くときは不要だがハワイにいくときは「いもとのWifi」の契約が必要であろう。
 空港内のレストランはお客さんがひとりもいなかったが営業はしていて,私はそこでハンバーカーとジュースを所望した。
 食べ終わってもまだずいぶんと時間があって,空港のロビーに行ったが特にすることもなかった。
 なにせ,私の乗る便の出発がかなり遅くて,それよりも前に頻繁にホノルル便が出発していくのである。ぜったいに何かがおかしいと思った。実は,ハワイアン航空の便のうちのいくつかの不便な時間のものだけがデルタ航空のコードシェアになっているようで,デルタのマイレッジに加算されるそうした便が限られているというのがどうやら真相らしい。しかし,ホノルルからヒロまでのマイルなんてたかが知れているから,そんなものにこだわらず,ハワイアン航空のチケットは別に買うほうがよかったのであった。

 というわけで,ずいぶんと待ち時間があったので再びお腹がへってきて,空港のロビーの端にあった売店でカップヌードル(らしきもの)を買って,お湯を入れてもらった。カップヌードルというのは「農心」という会社の辛(シン)ラーメンであった。これしか選択肢がなかった。
 「農心」(ノンシム)は大韓民国の製麺,インスタント食品,スナック菓子会社である。1965年に設立され当時の社名はロッテ工業株式会社といった。設立当初製造していたラーメンのブランド名はロッテラーメンだった。 同社の商品のひとつである「辛(シン)ラーメン」は高いシェアを持っている。日本にも農心ジャパンという会社があったが,2010年に業務提携は終了したという。
 私は残念ながら辛いものがからっきしだめで,せっかく買ったのに,このカップ麺を食べることはほぼ不可能であった。

DSC_5210DSC_5205DSCN0149DSC_5192

 一時期騒がれた3Dテレビはどこへいってしまったのでしょう?
 もう3Dテレビ向けの番組すらないそうです。今ではそんなものはなかったかのように,盛んに4Kやら8Kやらのテレビが売り出されて,家電量販店には大きなディスプレイが所狭しと並んでいますが,そもそも視聴者がそんなものを求めているわけでもなく,あんな大きなもの買ったって見る場所もなく,見たい番組すらないでしょう。
 テレビは老人が使いやすいものでなくてはならないのに,やたらとチャンネルばかりが多くてもそんな配慮のかけらもないし,数年後にはこれもまたなかったかのように姿を消していくのでしょう。
 テレビに限らず,コンピュータも車もまたしかり。
 日本のPCは富士通もNECもみんな「レノボ」になってしまいました。最後の日本の砦である車さえ,スズキもダイハツもみんなトヨタになってしまうし,トヨタだって現在は世界一であっても電気自動車が普及すればその先はわからず… といった様相を呈してきつつあるこのごろです。

 日本の家電メーカーはすでに見る影もなくなり,それに後追いするかように日本の工業製品はすべてが斜陽になってきたのに,今もなお,日銀は金融緩和をすれば景気が上向くとバカみたいに信じています。
 学校で教師が語るようなことはわざわざ学校など行かなくてもインターネットで手に入るし,紙媒体の新聞などお金を出して読む必要もなく,欲しいものは即座に家に届くというように時代が変わってしまったのに,それに頭がついていけないおじさまたちが形骸化し硬直した組織や社会の仕組みのなかで昔の価値観でやっているから,その結果は目に見えているのです。しかも,何もしないほうがまだましなのに,さらに火に油を注いでいるのだから,それでは産業界の斜陽と人々の社会不安が加速されるだけなのです。

 さて,今日のお話は「天体望遠鏡博物館」の続編ですが,天体望遠鏡こそ,そうした斜陽をいち早く迎えた工業製品そのものなのです。
 そもそも学者さんでもない一般の人にとって天体望遠鏡とはいったい何をするものなのでしょう? 惑星を見たいのならば公開天文台へ出かけて見せてもらえば事足ります。星雲や星団を見たいのならば双眼鏡のほうがずっと綺麗に見えます。
 日本では「天体写真ブーム」が起きたせい(おかげ?)でアマチュア向けの望遠鏡は写真を写す道具として高精度になりました。そして,ブームになればいつもの常でそれにのっかかる愛好家が出てきて,その一部が暴徒化? し,いや,マニアックな道を走り,彼らは,PCを使った画像処理の方向に突き進みました。それを「天文学」とよべるのかどうかば別として,好きモノの道楽であることは間違いなく,そうした人たちは散財して望遠鏡やカメラを買い替えては,車で山野を駆け巡っています。
 しかし,この国には星が満足に見られる場所すらありませんし,若い人にはおいそれと手の出せるような安いものではないから,後継者は育ちません。
 そんなわけで,今や,マニアックな世界は「高橋製作所」の高価な望遠鏡と一部の愛好家にお任せするということになり,その一方で学者さん御用達の望遠鏡は京都の老舗「西村製作所」が一手に引き受けて,最先端の研究は日本の夜空に見切りをつけてハワイやチリに脱出していまい,かつて学校に設置されていたような望遠鏡を作っていたメーカーは望遠鏡を作ることをやめてしまったり会社がなくなってしまいました。

 では,学校に設置されていた口径15センチメートル程度の屈折望遠鏡で,当時は一体何をしていたというのでしょう?
 学校で夜間に集まって天体観察をする,ということ自体がかなり不自然なことだし,そこに,空が明るくてよく見えないという現実と高等学校では地学という科目すら教えなくなったという状況が加われば,それらがゴミと化すのも時間の問題にすぎませんでした。だから,そのほとんどは満足に使われなくなり,不運な晩節を過ごしていたわけです。
 そうした望遠鏡を作っていたメーカーのひとつが1番目の写真にある「五藤光学研究所」のものであり,もうひとつが2番目の写真にある「日本工学工業=現・ニコン」のものでした。
 そうした望遠鏡もまた,余生を過ごすためにこの天体望遠鏡博物館にはたくさん集められました。

 かつて「日本の天文台」という「月刊天文ガイド」の別冊が発行されました,今や入手困難なこの本のなかには,日本中にあった多くのこれらの望遠鏡が載っていたのですが,写真で見た限りでは,オーソドックスなスタイルの五藤光学のものに比べて,ニコンのほうがあか抜けたかっこよさで,いかにも性能がよさげに見えたので天文少年少女たちの憧れでした。実際,値段もこちらのほうがかなり高価であったようです。
 この会社でかつて作られたもののなかでは岐阜天文台の口径25センチメートルの屈折赤道儀が今も現役として公開されていますから,実際にこの望遠鏡で星が見たければ足を運ばれるとよいでしょう。それが今日の3番目の写真のものです。
 しかし,実際は,ニコンの望遠鏡にはさまざまな短所があったそうです。そうした欠点は,ここにある屈折望遠鏡に限るものではなく,これまでニコンの作った天文台向けの大型望遠鏡も,アマチュア向きの小型望遠鏡も,「実はこれね…」と使っていた人からいろいろ漏れ聞こえてきます。期待が大きいからこそなのでしょう。

 ニコンという会社は三菱グループだから権威主義の権化のようなところなのですが,三菱といえば,今や,車もダメだし,造船もダメ,航空機を作ってもなかなかうまくゆかず,人工衛星は打ち上げに失敗し… ということで,いかにも現在の日本の工業を象徴している会社のように思えます。
 私もニコンのカメラを長年愛用しているのでとても愛着があるのですが,確かに使ってみるといろいろ欠点が目につくし,最近の新製品の相次ぐ発売延期など...  本当は,この会社って商売が下手なだけではなく,「高性能=高価格=高級品」と一般にいわれているのは単にイメージだけのことなのかなあ,と近頃思うようになってきました。私の思い過ごしならいいのですが…。

DSC_5379DSC_5386DSC_5357DSC_5367DSC_5390

######
 今年は夏が長く,しかも天気がずっと悪かったのですが,10月の声を聞くと,急に秋らしくなってきました。
 そんな季節に天気に誘われて散歩をしていたとき,フジバカマの花に舞う美しい蝶に魅せられました。私は蝶には全く疎く,モンシロチョウやアゲハチョウしかわからないのですが,聞いてみると,この蝶はアサギマダラというのだそうです。
  ・・
 アサギマダラは,秋になると日本本土から南西諸島や台湾まで渡り,また,初夏から夏にはその逆のコースで北上するものもあるという,長い距離を飛ぶことで知られる蝶です。
 そうした知識をもって改めてこの蝶を観察すると,どことなく羽根も胴体も私が思い描いているきゃしゃな蝶に比べたらかなり丈夫そうにできていて,貫禄があります。そしてまた,なんと堂々としていて美しいことでしょう。
 私ははじめて蝶に魅せられてしまったのでした。

 古来,日本には「万葉集」にも「古今和歌集」にも蝶を詠んだ歌はほとんどなかったということですが,「源氏物語」だけは「胡蝶」という帖があります。
 その中に,
  ・・・・・・
 花園の胡蝶をさへや下草に
  秋まつ虫はうとく見るらむ
  ・
 美しい花園に舞う胡蝶をみても
 下草に隠れて秋をまつ松虫はまだ春をきらいなのだろうか
  ・・・・・・
 胡蝶にもさそはれなまし心ありて
  八重山吹を隔てざりせば
  ・
 来いという胡蝶の名に誘われて思わずついて行ったことでしょう
 もし八重山吹の垣でお隔てにならなければ 
  ・・・・・・
とあります。

 「胡蝶」という帖の名は,紫の上と秋好中宮が贈答したこれらの和歌に因むものだそうです。
  ・・・・・・
 光源氏36歳の晩春から初夏の話。
 春たけなわのころ,源氏は船楽を催し,秋好中宮の女房たちを招きました。夜になり,管弦や舞が行われました。源氏の弟である兵部卿宮は玉鬘に求婚し,源氏にぜひにも姫君をと熱心に請うのでした。
 翌日,こんどは秋好中宮による季の御読経が催され,船楽に訪れた公卿たちも引き続いて参列しました。紫の上は美々しく装った童たちに持たせた供養の花を贈り,中宮とこの和歌を贈答しました。
 やがて夏になり,玉鬘のもとへは兵部卿宮や髭黒右大将,さらには柏木から次々と求婚の文が寄せられました。源氏はそれらの品定めをしていたのですが,いつか玉鬘への思慕を押さえがたくなってしまい,ある夕暮れに,とうとう想いを打ち明け側に添い臥してしまうのでした。世慣れぬ玉鬘は思わぬ懸想に困惑するばかり…。 
  ・・・・・・

 この帖の花園の胡蝶の歌は,「乙女」の帖にある
  ・・・・・・
 心から春待つ園はわが宿の
  紅葉を風のつてにだに見よ
  ・
 春がお好きなばかりにまだ遠い春をお待ちかねのその庭に
 せめてこちらの秋の庭の紅葉を風の便りにごらん下さい
  ・・・・・・
に対する返歌だということです。春の御殿の美しさはそれほどすばらしいのだという歌です。
 「源氏物語」には,このように蝶が歌に取り上げられているのですが,残念ながら,ここで詠われているのは春の蝶,いや女童が蝶の姿で踊る様です。それでもまだ「源氏物語」は例外で,繊細な日本の古人に蝶の美しさがわからなかったというのが,私には不思議な気がします。
 秋になると,まず彼岸花が咲きます。そして,秋桜が花を咲かせ,薄がその穂をたらすようになると,すっかり秋も深まってきます。やがて,紅葉の時期になればもう晩秋ですが,私は,その紅葉のころよりも,今のこの初秋の時期のほうがずっと好きです。

DSC_4278 (1024x683)DSC_4279 (1024x683)DSC_4280 (1024x683)DSC_4281 (1024x683)DSC_4288 (1024x683)

●「missing children」●
 ハワイ島のすべての観光を終えて,私はヒロ国際空港にむかった。
 空港のとなりにあるのがエディスカナカオレスタジアム(Edith Kanakaole Stadium)であった。ここはメリーモナークフェスティバル(Merrie Monarch Festival)の行われる会場としても有名である。
 メリーモナークフェスティバルとはフラダンスの競技会として最も権威のあるもので,毎年イースターの翌週に行われるが,私はそんな競技会自体あることも知らなかったが,ちょうど私がハワイ島に行った時期に行われていて,そのライブ中継を現地のテレビで見てすっかりはまってしまった。そして,私はそれ以来,フラダンスの虜になってしまったのだった。

 ハワイ島には空港がふたつある。そのひとつはコナ国際空港(Kona International Airport)である。以前はその地名に由来し,ケアホレ空港と呼ばれていたが,1996年日本航空が成田空港からの直行便を就航させたのを機に,現在の名称になったという。
 国際線は日本航空の他にエアカナダがバンクーバーから乗り入れている。国際空港という名がついているが,ポリネシア風の平屋の建物でハワイらしい素朴な感じをいまだ色濃く残しており,リゾート感いっぱいである。ホノルル空港からはハワイアン航空,GO!航空,アイランドエアーの3社が乗り入れている。
  コナ空港からコナ市内へは,レンタカー,タクシー,シャトルバスサービスといった移動手段がある。
 もうひとつがヒロ国際空港(Hilo International Airport)である。
 ホノルル空港からはハワイアン航空,GO!航空が乗り入れ,アメリカ本土からの直行便も乗り入れている。  
 コナ空港がリゾート客で賑わっているのと比べると,こちらはひっそりとした生活者向け路線といった趣きで空港内に日本庭園を模したスペースなどもあり,日本の田舎に来たような,そんなほっとした雰囲気を醸し出している。
 ヒロ空港から市内へはここもまたレンタカー,タクシー,シャトルバスサービスの3つの移動手段がある。 

 私は今回,ホノルルとの行きも帰りもヒロ国際空港を利用することになった。
 このこともすでに書いたが,ホノルルの国際空港が中途半端に広くもなく狭くもなく,新しくもなく古くもなく,つまりそれは,ホノルルが昔からの観光地であるから今さら新たに空港を建設するにも場所がなく,そのまま年月が経ってしまったという感じであった。私ははじめてハワイに来た! というときめきよりも,少し落胆した,という気持ちのほうが強かったのだが,それは,これまでアメリカ本土のとてつもなく広く大きく新しい空港をたくさん見過ぎたせいであろう。
 それにくらべて,ここヒロ国際空港の素朴さは素晴らしかった。

 空港を出たところに広い駐車場があって,その端に平屋建てのレンタカー会社のオフィスが並んでいる。今回の旅もまたいろんなことがあったが,ともかく無事にレンタカーを返却することができた。
 私の乗る便まではまだずいぶんと時間があったので,空港に入るには早かったから,空港の周りをぐるりと1周してみた。そこにはレイを売る店や観光案内所があったが,人っこひとりいなかった。
 掲示板があったので凝視してみると,あいにく写真をとるのを忘れてしまったが,その掲示板に貼ってあったのが「missing children」のポスター,つまり,ここ数年の間にハワイで行方不明になった子供たちのリストであった。
 私はその数の多さにびっくりしたのだった。

DSC_4271 (1024x683)DSC_4270 (1024x683)DSC_4273 (1024x683)DSC_4274 (1024x683)DSC_4276 (1024x683)

●天文台の基地とウミガメの繁殖地と●
 ヒロのダウンタウンで昼食をとり,ヒロがどういうところなのかを納得した私は,国際空港にむかうことにした。いよいよこの旅も終わりである。
 空港まではわずかな距離なので,まず,ハワイ大学へ寄り道して,その次に,ヒロに来た日に泊まったコテッジのあたりまでドライブすることにした。
 ハワイ大学に行ってみたかったのは,残念ながらこの日は休館日だったので行くことのできなかったイミロアアストロノミーセンターがどういうところかを見ておきたかったからだし,コテッジに行ってみたかったのは,そこがどういう場所にあったのかを納得したかったからである。
 どうやら,私にとっての旅というのは,名所旧跡を見たりおいしいものを食べたりショッピングをするためではなく,自分に沸き起こる疑問を解決するためのもので,それがわかれば満足する,というものであるらしい。

 ハワイ大学ヒロ校(University of Hawaiʻi at Hilo)は,ヒロに本部を置く州立大学で,1941年に「Hawaii College」として設立され,1970年に「University of Hawaiʻi at Hilo」に改名された。ここはハワイ大学システム(University of Hawaiʻi System)に所属する大学のひとつで,約3,500人の学部生と約600人の院生が在籍している。
 多様性と国際性に富み,近年では全米で6番目の「最も多様な民族が集まる大学」としてランクづけされている。また,海洋学,生物学,運動学,政治学,社会学,心理学,コミュニケーション学が学生の人気が高い専攻となっている。

 この大学の構内にあるのが「イミロアアストロノミーセンター」(Imiloa Astronomy Center of Hawaii)で,マウナケア山頂にある天文台の基地となる研究所のある場所に併設された一般向けの博物館である。
 円錐形の形をした建物で,つくづくここに来ることができなかったのを残念に思った。きっと,私は数年のうちにはここに来ることになるであろう。私の人生いつもそんなものだ。

 ハワイ大学の構内をドライブしてすっかり学生気分に浸った私は,次にヒロの町を東に越えて,海岸沿いを進んでいった。
 私が泊まったコテッジは,もっと辺境にあったような気がしていたのだが,改めて訪れてみると海岸沿いの素晴らしいリゾートだった。そして,そこからさらに先に進んでいくとそこにあったのは,リチャードソンオーシャンパーク(Richardson Ocean Park)であった。
 この公園はハワイ島が溶岩の島であることを実感させるところのひとつで,別名を「黒砂海岸」という通り,黒い溶岩と砂のビーチであった。
 ここがウミガメが来ることで有名だということを知ったのは帰ってからのことであった。
 ウミガメが来る場所といえば,つい先日行ってきた四国の日和佐だって同じではないか。地球は狭いものである。いかん。こんなことを書いていたら,今度はウミガメが見たくなってきた!?
  ・・
 ウミガメは15フィート以内に近づいてはいけないということだが,実際には真横で子供が遊んでいたりしているのだという。また,天気がよければ甲羅干しいている亀がゴロゴロいるのだともいう。
 また,ここは地元では人気のシュノーケリングスポットで,岩場で水の透明度が高く,沖合ではパドルサーフィンも盛んに行わている場所であった。

DSC_5214DSC_5213DSC_5188DSC_5200

 今回の小旅行の目的地は「天体望遠鏡博物館」でした。
 「天体望遠鏡博物館」は,日本各地に私蔵あるいは死蔵されていた望遠鏡を集め,香川県さぬき市多和にあった旧多和小学校をリユースした建物に展示したもので,2016年3月開館されました。
  ・・
 1965年に発刊された「月刊天文ガイド」は,その時代の子供たちにとって夢の一杯詰まった雑誌でした。当時は今と違ってパソコンがあるわけでなし,そうしたなかで,なんだかメカのいっぱい詰まったようにみえる天体望遠鏡はロマンの塊でした。その雑誌には多くの望遠鏡の広告が載っていたので,それを飽きずに眺めていたものです。
 その中にはもちろんきちんと星を見ているマニアもいたのでしょうが,多くの人は,今ほどではないにせよやはり都会の夜空は明るくて星など見えず,それよりも,望遠鏡のほうにもっと興味があったのです。しかし,それを買えるかといえばそれはまた別の話で,だから,本の上での知識しかなかったわけです。
 また,今と違って多くの高等学校にはドームがあって,それが使われていたかどうかは別として,そのなかには口径が15センチメートルほどの屈折赤道儀が存在していました。

 中小望遠鏡メーカーはハレー彗星が去る頃にほとんど姿を消し,また,高等学校の望遠鏡も使われないまま放置されるようになってきました。このようにして,そうしたころの望遠鏡は,今まさに屑鉄同然となりつつあったのですが,それらを一挙にまとめて,しかも,星が見られるように現役の望遠鏡に再生して展示しよう,というのがこの望遠鏡博物館です。
 だから,当時の「天キチ」(天文マニアをこう呼びました)たちにとって,ここは聖地,まさに憧れの望遠鏡の実物そのものに出会える場となったのです。もし,あと数年こういう企てがなかったらそれらは散逸しこの世から姿を消してしまったであろう貴重な財産が保存されたというのは非常に意義深いことです。
 というわけで,私は開館以来,ずっと行ってみたかったのですが,遠いということに加え,週末の土,日曜日と祝日のみの開館ということでなかなかその機会もなく,やっと10月10日に行くことができました。

 行くまで知らなかったのですが,博物館前の道は四国八十八箇所霊場結願の寺「大窪寺」に向かう遍路道でした。
 廃校になった小学校を利用した建物の中にはアマチュアが使うものから天文台で使われていた憧れのモデルまで200基以上が展示されていました。
 そのなかで私が特に興味深かったのが「カルバー望遠鏡」でした。以前倉敷天文台を訪れたときのことをこのブログに書きましたが,その中で話題にした「数奇な運命をたどることになったカルバー望遠鏡」,まさにその実物がこの博物館にあったのです。私はブログに「望遠鏡は再び花山天文台に戻ってきた」と書いたのですが,どういうわけかこの博物館にその実物があったのです。
 この望遠鏡の数奇な運命に関わるお話はとても面白いので,ぜひブログをお読みください。下記にリンクが張ってあります。
  ・・・・・・
 この天体望遠鏡博物館の目的は次の3つだそうです。
  文化遺産としての天体望遠鏡を残すこと。
  青少年たちの教育。
  人口が減りつつある多和地区の再生。
  ・・・・・・
 この博物館がいつまでも発展しますように。
 天体望遠博物館のお話はまだ続きます。

◇◇◇
岡山から宇宙を見た-倉敷天文台と本田實②
岡山から宇宙を見た-倉敷天文台と本田實③
岡山から宇宙を見た-倉敷天文台と本田實④

画像 001DSC_5183DSC_5255DSC_5257DSC_5259DSC_0742DSC_0751DSC_0553DSC_0271

 私は子供のころから暑いのが苦手だったので夏が嫌いで,毎年秋が来るのを待ち焦がれていました。
 今でも放送されているのかどうか知りませんが,当時テレビで「みんなのうた」という番組があって,秋になると「ちいさい秋見つけた」が流れるはじめます。それを聴くと本当にうれしかったことを思い出します。あの歌の何ともいえない哀愁と,子どものころに出かけたときに見た秋の里山の夕暮れ,その想いが私の原風景なのです。
 「ちいさい秋みつけた」は,サトウハチロー作詞・中田喜直作曲による日本の童謡です。サトウハチローが住んでいた文京区弥生の自宅の庭にはぜの木が植えられていて,この木の紅葉する情景を見たのが作詞のきっかけということです。NHKの「みんなのうた」に1962年10月にボニージャックスの歌で初登場しました。
 私はずっと秋が大好きだったのですが,今から9年ほど前の秋に私の人生に最大の悲劇が襲い,そのつらさを思い出すので,秋は耐え難い季節になりました。
  ・・
 しかし,それももう過去のこと,今は,やはり秋が一番の季節です。
 春もまたよい季節のような気がするでしょうが,思い出してみてください。春になると,黄砂やらPM2.5やらで空は濁り,花粉が飛び交い,まったくもってよくないのです。しかし,過ぎてしまうと,多くの人はそんなことをもう忘れているでしょうか。

 私は春先から夏にかけて海外旅行をするので,秋はひと休みの時期です。アメリカは秋の訪れが早く,もう今の時期は寒いので,旅をするには適しません。
 今年もそんな秋がどうやら忘れずに来たようですが,思えば私はこの季節は毎年なんとなく無計画に国内旅行をします,というか,してしまいます。今年は10日から11日まで,やはりなんとなく四国に行ってきました。目的は香川県さぬき市にある「天体望遠鏡博物館」に行くことでした。「天体望遠鏡博物館」のことはまた後日書くことにします。
 いつも書いているように,日本国内を旅行するには電車に限ります。しかし,私は9月に車を買い替えたのでその試乗も兼ねてということと,けっこう不便なところだったので,今回は車で行ってきました。
 この夏に徳島へ阿波踊りを見に行って,そのときに淡路島を経由すれば四国も近いものだと感じたので,気楽に構えていたのですが,実際に車で行ってみると,アメリカをドライブするのに比べて,運転していてもまったく楽しくありません。やたらと防音壁があって景色も満足に見られないし,道路はゴミばかり,そして,運転マナーは最悪だし,がっかりした,というのが正直なところです。
 今日はそのお話です。

 私は長距離をドライブすることは日本よりもむしろアメリカのほうが慣れているので,日本の高速道路を走ると,とても違和感を覚えます。
 その理由のひとつは,必要もない道路標示や道路に書かれた意味のない線やら色がいっぱいで,ものすごく疲れるということです。
 道路交通法に書いてあるのやらないのやらそれさえよくわからないのですが,ある場所ではスピードを抑えさせようとやたらと破線が車線の両側に引かれていたり,あるいは別のあるところは車線が青色で塗りたくられていたり,そして,インターチェンジ付近の地名を示す道路標示に統一性もなく,また分岐点にはわけのわからないランプが点滅していたりと,ドライバーの注意を向けたいという意志だけが空回りをしてます。だから注意力が散漫になって,何が重要かそうでないかさっぱりわからず,目も疲れるし非常に危ないのです。

 この夏にアメリカ東海岸を3,900キロメートル走ったのですが,アメリカでこうした長距離を走るのには,氷を入れた冷たい水を用意して(眠気防止のため),片側2車線道路の右車線(日本の左車線のこと)を制限速度でペースを守りながら,左側の中央分離帯に必ず引かれたイエローライン(アメリカの道路のイエローラインは日本のように追い越し禁止を示すものではなく道路の中央に必ず引かれていて進行方向を区別するものです)を確認しながら右側のホワイトラインを基準にして走るというのがコツです。ほかの車もそうしているから,いつも同じ車間距離で走れます。
 ところが,日本の高速道路ではそれができないわけです。それがふたつ目の違和感です。その理由は,引かれたラインに規則がないこととドライバーの運転がまことに乱暴である,という点にあります。後ろから煽ってくるのはあたりまえ,車と車の間を縫うようにして追い越したり,日本人の運転はめちゃくちゃなのです。
 今回,行きは名神高速道路から中国自動車道,そして,神戸淡路鳴門自動車道と高速度道路を走って四国に渡り,帰りは鳴門から淡路島までと淡路島から明石までだけ有料道路を通り,あとはすべて一般道で帰ってきました。帰りに走った東名阪道は無料道路だけど道路状は高速道路なので,アメリカのインターステイツに似ているのですが,この道路はほぼ無法地帯なのです。スピード制限などなんのその,トラックがまるでカーチェイスをしているみたいな感じで走り合っています。こんな乱暴な運転はアメリカのコンボイでは考えられません。

 さらに,日本の道路は,夜になると,そこが走行車線なのか路肩なのか段差のある歩道なのか,あるいは中央分離帯なのかさえさっぱりわからず,本当に危険なのです。交差点では道路の中にポールさえ立っていますが,それが暗くて見えないのです。これが三番目の違和感です。
 とにかく,やたらと標示があるのにもかかわらず,道路に引かれた中央線が消えかけていたり,路肩に白線が引いてあったりなかったり,暗くて見えないのだから道路に色塗るようなお金があるなら歩道の段差に色くらい塗れよと思うのですがそれがなかったりと,何を見て何を信じて走ればいいのかさっぱりわからないのです。しかも,左折をすると入る道路がどこなのかさえ不明だったり,車の内輪差をまったく考慮しない交差点だったりします。

 日本でしか走ったことのない人は,私が何を書いているのか理解できないでしょう。こんなもんだと思っているでしょう。しかし,日本は,まことにもってなっさけない国です。日本人が車の運転を難しいと思っているのは,あえて難しく道路を危険に作ってあるだけで,これは自動車学校が金儲けをするために国策でわざとそうしているに違いありません。学校の英語教育とまさしく同じです。
 こんなふざけた国で走るのなら軽自動車で十分,老後の蓄えもない人が車なんかに浪費して高価なものを買うのは本当にやめたほうがいいです。車線の狭い日本の道路では路肩に車をぶつけるか,狭い駐車場では当て逃げされるのが関の山です。車好きの方は日本で気張って高級車など買わずに,好きな車種を借りて思いっきりドイツのアウトバーンを走るかアメリカの果てなきインターステイツを心置きなく走りましょう。
 今日の下の4つの写真はアメリカの道路です。上の4つの写真と比べてみてください。
 私は,日本の道路を走ってみて,アメリカで走る数十倍も疲れました。

◇◇◇
愛しきアメリカ-道路のイエローライン

画像 173DSCN2830DSCN3720DSC_2772

 昨年のポストシーズンは日本人プレイヤーの出場がなくさびしい幕切れになりましたが,今年は多くのプレイヤーが所属するチームがポストシーズンに進出したので,より楽しみな10月になりました。
 それにしても,人生には運不運があって,たとえばイチロー選手はあれだけの実績がありながらほとんどポストシーズンの経験がありません。弱小マリナーズにずっと在籍していたのもその原因ですが,もう数年早くヤンキースにトレードされていれば思いが遂げられたの残念なことです。というよりも,ヤンキースが斜陽になったのでそのメンバーになれたのかもしれません。

 その反対に,在籍するチームがいつも優勝するという幸運に恵まれた選手もいます。
 田口壮選手もそのひとりです。
 田口選手は2002年にセントルイス・カージナルスと3年契約をして入団しました。
 入団した年はメジャーリーグとマイナーリーグを行ったりきたりをしてわずか19試合の出場でした。翌2003年は43試合の出場でしたが得点圏打率.357を残しました。次第に力をつけて,2004年は開幕からメジャーリーグに定着。109試合に出場して,打率.291,得点圏打率.341を記録しました。ワールドシリーズにも進出を果たし,第1戦で先発出場しましたがレッドソックスに敗退。残念ながらチャンピオンリングを獲得することはできませんでした。
 2005年は143試合に出場,打率.288,8本塁打,53打点,11盗塁を残し,得点圏打率.407を記録しました。
 2006年はプレストン・ウィルソンの加入以降は控え外野手となりましたが,134試合に出場。ポストシーズンにも進出し,デトロイト・タイガースとのワールドシリーズでは第5戦で8番レフトで先発出場し,勝利を収め世界一が決まった瞬間フィールドに立っていた初の日本人選手となりました。
 2007年は打率.290,代打打率.406を記録しカージナルスを後にしました。
 2008年はフィラデルフィア・フィリーズと契約しました。代走や守備固めでの出場が多くなってしまったのですが,チームはワールドシリーズに進出して28年ぶりのワールドチャンピオンに輝きました。
 だから,田口選手はチャンピオンリングを2個も持っているのです。

 以前,このブログに,現在ヤンキースに所属する田中将大投手がMLBと契約するときに,私はドジャースに入ったほうがいいと書きましたが,彼は斜陽のヤンキースに入団してしまったためにポストシーズンを経験することができずにいます。その一方で,前田健太投手は全盛期を迎えているドジャースに入団したために,入団1年目からポストシーズンに出場します。
 ベースボールもひとりでするものでないから,いくら実力があってもひとりでは限度があります。だから,チームの力とそのプレイヤーの力の相乗効果が最も発揮できるのが理想ですが,そこにも運不運があるのが,また,これも実社会と同じです。しかし,不思議なことに,何かを「モッている」強運の人というのはどこにもいるものです。

DSC_4233 (1024x683)DSC_4257 (1024x683)DSC_4259 (1024x683)DSC_4254 (1024x683)

●「逃れの地」●
 ヒロはゆっくりと散歩をするととても快適なところのようだった。それは私が子供のころの日本の町を思い出すような場所であった。
 しかし,私の訪れた季節でさえこの暑さだったし,1年中気温はそれほど違わないそうだから,もう少し涼しければいいのに… と思う。
 ヒロのダウンタウンから北に美しい海が眺めれる。そして,その手前には広い公園が続いているが,暑くてそこまで歩いていく気力がなくなったので,私はダウンタウンに停めた車まで一旦戻って,車で公園まで行ってみることにした。

 どの駐車場に車を停めたらいいのかよくわからなかったが,とりあえず適当な広い駐車場に車を停めて外に出た。やはり,ネットにも同じようなことが書かれてあった。曰く「最初,地図を見た時にはここの駐車場がどこにあるかわかりませんでした。公園の中とはわかるのですが,公園がとても広く駐車場の位置が書いてなかったからです。でも,現地に行ってみたらちゃんと案内版が出ており無事に到着する事が出来ました」。
 その公園というのは,モオヘアウ郡立公園(Mo'oheau County Park)であったが,そこは,単に広い芝生広場があるだけのところだった。
 その東隣がワイロアリバー州立公園(Wailoa River State Park)であった。ここはハワイに三体あるカメハメハ大王の銅像のひとつがある公園である。また,緑がとてもきれいで大きな木もありここに住む人たちの朝の散歩コースとなっているようだった。
 さらにその東がリリウオカラニガーデン(Liliuokalani Park and Gardens)で,ハワイ王朝の女王様の名前がついた海沿いの公園である。ここには,日本庭園があって,確かに 石灯籠や鳥居がそれを象徴していた。この石灯籠は約100年前にヒロ在住の日本人が建てたということだ。
 そのさらに東にワイホヌ池(Waihonu Pond),その北にはココナッツアイランド(Coconut Island Park)があった。
 ハワイには「プウホヌア=逃れの地」(pu'uhonua)とよばれるばれる聖域がいくつかあるが,そのなかで最も知られているのはカイルアコナにあったプウホヌア・オ・ホナウナウである。
 かつてハワイの人々はカプとよばれるタブーを守り生活していた。カプを破った者は必ず死をもって償わなくてはならなかった。ただし,カプを破っても生き伸びる方法がひとつだけあった。それはだれにも捕まらずにプウホヌアへ逃げ込むことであった。命がけでたどり着くことができれば,カフナ(司祭)から禊の儀式を受け家に戻りやり直すことが出来たのだ。
 そんなプウホヌアと呼ばれた場所がヒロにもあって,それこそがこの小さな島ココナッツアイランドだったのである。
  ・・
 そこからまたさらに東に行ったところがリーズベイビーチパーク(Reeds Bay Beach Co Park)で,そこはちょっと奥にあるため人が少ない公園であった。面した海は波がほとんどないから公園は静かで,のんびりと読書をしている人たちがいた。

DSC_4263 (1024x683)

DSC_4234 (1024x683)DSC_4236 (1024x683)DSC_4247 (1024x683)DSC_4250 (1024x683)DSC_4246 (1024x683)

●ファーマーズマーケット●
 私はハワイ島に来る前「ヒロは雨が多くコナは雨が少ない」と聞いていたが,実際に来てみるとそういう印象は全くなかった。それよりも,ハワイ島は四国よりも狭い島なのに,あまりに場所や標高によって天気がコロコロと変わることに驚いた。

 しかし,実際ヒロは降水量が多いということである。ただし,午前中は雲が切れて晴れることがよくあるという。
 人口4万人余りのヒロの町は北側がヒロ湾に面していて,そこには広いワイロア州立公園がある。その西側に1キロメートル四方ほどのダウンタウン,東にはヒロ国際空港がある。
 私がハワイ島に到着したのはヒロ国際空港であったが,到着した日に泊ったのは空港からさらに海岸線を東に行ったところであり,次の日にはダウンタウン手前の州道11を南に走ってヒロのせまいダウンタウンを迂回する形で西に方向を変えて島の西側に走っていったので,これまでダウンタウンを通る機会がなかったのだった。

 ヒロのダウンタウンのメインストリートはケアヴァ通り(Keawe Street)である。
 そこは高いビルがなく,古い映画館,カフェ,昭和初期の映画にでてくるような小さな店が立て込んでいた。
 私はこうした町の雰囲気は大好きなのだが,そうした町を楽しむための歩き方を知らない。それはヒロに限らず,日本でもそうである。だから,たとえば渋谷の道玄坂を歩いてもすることがない。
 アクセサリーショップなど入ったこともないし,どこかのコーヒーショップに入って休憩をするということもしないから,私にはどうしてこういった店がたくさんあって,どこも商売繁盛しているのかさえ理解できない。
  ・・
 旅に出ても,町では何を楽しめばいいのか? 私にはそれがわからないのである。それはここヒロでも同様であった。だから,私は寿司を食べてからはこのダウンタウンをなんとなく歩いただけであった。
 ヒロのメインストリートに並行して海岸に沿ってカメハメハアベニューという広い道路があった。
 ダウンタウンとは好対照にこのカメハメハアベニューに面したところにはしゃれた店が並んでいるのだが,私はそこにも何の用事もないのだった。

 この島に来た日に参加したマウナケア星空観察ツアーで一緒になった人が「ヒロに比べてカイルアコナには何もない」と言ったのが私はずっと私は気になっていたのだが,私にはその逆で,カイルアコナならどれだけ滞在してもいいけれど,ヒロにいてもすることがない。
 ただし,「コナには何もない」と言った人の意味するコナは私の宿泊したカイルアコナのことではなく,彼が宿泊したサウスコハラコーストのリゾートタウンの中だけのことなのである。
  ・・
 それよりも私にとっておもしろかったのはファーマーズマーケットであった。
 ヒロではファーマーズマーケットはダウンタウンの一角の広場で開かれていて,それは観光客のためのものではなく,住んでいる人向けのものである。私は,どこでも,ファーマーズマーケットが開かれているとそこに行くのを楽しみにしているのだが,それは売っているものや集まっている人を見るためであって,決してそれを買うことはない。マーケットで売られているものを見ると,そこに住んでいる人たちの生活が垣間見られるのがおもしろいのである。

IMG_1818 (2)DSC_2085DSC_1101

 MLBは10月が本当のはじまり…だそうです。ヤンキースが強かったころは「Yankees know October.」というTシャツが売られてましたが,弱かった今年は,いっそ「Yankees forgot October.」なるTシャツでも売り出したらどうでしょう。
 さて,2016年のポストシーズン出場チームはナショナルリーグがジャイアンツ,メッツ,ナショナルズ,カブス,ドジャース,アメリカンリーグがオリオールズ,ブルージェイズ,レッドソックス,インディアンズ,レンジャーズと,私の好きなチームばかりなので,平和な年です。マリナーズは最終戦まで可能性があったのですが,残念でした。
 そのなかでは私はレッドソックスが一番好きですが,もう数年前にワールドシリーズも制覇して「バンビーノの呪い」も解けたので,今年こそはカブスに優勝してもらって,ついに「ヤギの呪い」が解ければいいなあ,と思っています。
 MLBに伝わる3つの呪い,つまり,「バンビーノの呪い」「ブラックソックスの呪い」「ヤギの呪い」のうち,解けていないのはこの「ヤギの呪い」だけなのですから。

 MLBでは,30チームあるなかで10月のポストシーズンに進出できるのは10チームもあるのだから,レギュラーシーズンの終盤まで多くのチームに可能性があるわけで,最後まで盛り上がります。そこで,多くのMLBファンは10月も楽しむことができるから,これはよく考えられたシステムです。
 逆にいえば,レギュラーシーズンで優勝する必要もないわけです。
 レギュラーシーズンで1位でないのに日本一になることに納得がいかないという日本人には到底理解しがたい制度でしょう。
 長年MLBを見ていると,どのチームにも浮き沈みの周期があって,数年前まであれだけ強かったヤンキースやブレーブスは今や見る影もないし,その代わりに,今年はインディアンズが復活してきました。このように強いチームが変わっていくのはとてもよいことです。日本の大相撲だって,だれかがいつも優勝,ではまったくおもしろくないのです。だから今年の秋場所くらいが一番いいのです。

 ところで,レンジャーズとブルージェイズのゲームのテレビ中継を見ていたら,またいつもの「謎の人物」がバックネット裏で観戦していました。この姿をみると,また秋が来たなあ,と思います。
 私にとってみれば,今年は30球団すべてのボールパークめぐりを達成した記念すべき年です,当然,今回のポストシーズンの出場チームの本拠地にもすべて行ったことがありますが,テレビ画面でそうしたボールパークを見るのもまた懐かしいものです。
 レギュラーシーズンでもテレビで見るとの実際に行って観戦するのとではずいぶんと違います。私はポストシーズンを生で見たことはないのでほんとうのところはわかりませんが,おそらく,ポストシーズンはテレビで見ていてもレギュラーシーズンとはずいぶんとまた熱気が違うのだから,生でみたらすごいものだろうと思います。平日であろうとデーゲームであろうとあれだけの観客が詰めかけて,すべての観客が童心に戻って熱狂するのですから,それもまた日本では考えられないことです。

◇◇◇
「ヤギの呪い」は解けるのか-2015MLBポストシーズン
「謎の人物」今年も現る。-2015MLB佳境①
「ヤギの呪い」は解けなかった。-2015MLB佳境②

DSC_4251 (1024x683)DSC_4245 (1024x683)DSC_4240 (1024x683)DSC_4244 (1024x683)

●おいしいお寿司を食べた。●
 ヒロはさほど広い町でないから,徒歩で観光することができる。
 アメリカ本土にも,昨年の夏に行ったワシントン州のセクイム(Sequim)や今年の春に行ったアイダホ州のカーダレーン(Coeur d'Alene)のように,ちょうどこんな感じの小さな町がたくさんあるが,私は,この程度の町が大好きである。
 ハワイ島にあるヒロがアメリカ本土の同じような規模の町と様子が違うのは町全体が古臭くて日本語が見られて観光客が多いということだ。
 また,ハワイ島では東にヒロ,西にカイルアコナというふたつの町があるとガイドブックには書かれてあるが,ヒロは確かにこじんまりとした町であるが,カイルアコナというこじんまりとした町はない。
 私がずっと宿泊していたのはカイルアコナであったが,その場所がいわゆる「コナ」のことを意味しているのかどうかも,私には今もってよくわからない。いわゆる現地の人が住む住宅街を「コナ」というのなら,それはカイルアコナからすこし高台に行った場所のことになるであろう。

 ヒロのダウンタウンの道路は駐車禁止ではなくどこでも車を停めることができたので,私は空いていた場所を探して車を停めてヒロの町を散策することにした。
 とりあえずは昼食である。
 ハワイはとても日本的なところだが,日本と違うのは,お休みをしっかりととるということで,この日は月曜日だったからほとんどのレストランは終日休みであった。また,休みでなくとも,午後1時を過ぎると閉店してしまう。
 日本だって,数十年前までは今のように休日返上でさらに終夜営業なんていう店はほとんどなかったし,店員は意味もなく頭ばかり下げていなかったし,学生のリクルートスーツだって葬式のように黒づくめでもなかったのだが,思えばバブルの崩壊がこの国の労働条件を崩壊させ,激悪にした。
 そういう意味でも,ここはバブル崩壊以前の数十年前の日本が残っているようなところで,今の日本よりもずっと居心地のよい町であった。

 私は昼食にお寿司が食べたくなった。
 ヒロの町を歩いていると「BENTO」と書かれた店もあったし,日本食が食べられるところはいくらでもありそうだったが,私が目をつけたのは「Ebisuya(戎屋)」という一軒の小さなお寿司やさんであった。中に入ると,カウンタで寿司を握っている日本人が笑顔で迎えてくれた。そして日本人の女性が注文を取りに来たので,私はカリフォルニアロールを注文した。
 アメリカ本土の日本食のレストランは,およそ日本食とは程遠いものがあったりするが,さすがにここはハワイであった。

 近頃「で,それが何だ?」と思うことばかりになりました。それは,私が歳をとったからなのでしょうか? 新聞だけではなく,雑誌も単行本もテレビの番組も,読んだり見たりしたときにそんなように思うことが多くなりました,というお話です。
  ・・
 その前に,別の話を書きます。
 私は,本も雑誌も新聞も,読み終わったものの始末に困るので,できるだけ電子媒体で読むようになりました。そこで困るのは,日本の本や雑誌などは電子媒体がまだまだ少ないということです。で,私はどうしたかというと,しかたなく紙媒体のものを買うのではなく,紙媒体のものしかないものは読まない,という選択をしたのです。だったら本も雑誌も電子媒体のものだけでいいや,と思ったのです。
 ところで,日本の新聞ですが,電子媒体になっても,今だ,昔の新聞然としたものも電子媒体に表示されます。私も出はじめのころはそのほうが読みやすそうに思いました。ところが,慣れてくると,横書きのテキスト形式のほうがずっと読みやすいのです。いや違う,と思われる方も多いと思うのですが,食わず嫌いでなくだまされたと思って一度横書きのテキスト形式のものを読んでみてください。このほうがずっと早く読めるし頭に入ることを実感することでしょう。そして,1行がたった10数字で改行されてしまう現在の新聞の縦書きが,いかに日本語として正しいものではなく,読みにくいだけのものだということを認識することでしょう。さらに,紙媒体で見慣れていたひとつの記事が実はものすごく分量が少ないものだと知って驚くことでしょう。例えば,「天声人語」など,横書きのテキスト形式にするとiPadの画面の半分ほどの分量でしかないのです。私のこのブログの1日の分量よりもずっと少ないのです。

 話が逸れました。今日のお話は新聞の「で,それが何だ?」でした。ここからがやっとその本題です。
 そもそも,「1+1=2」は,言葉で説明をしようがしまいがそれが真理である,というのが「学問」です。それに反して,「1+1=3」であると(いう当然正しくないことを),いかなる屁理屈を捏ねようと詭弁を弄しようと,そうすることで相手にそれが正しいと納得させられればそれこそが正しいのだ,というのが「政治」です。
 だから,「1+1=3」は正しくない,と相手が言ったときに,それを屁理屈だ詭弁だと相手と同じように言葉だけで反論しても仕方がないのです。それを水掛け論といいます。そうではなく,それが間違いだと正すための指摘をするには,そう指摘するだけの根拠とかデータを提示することが必要なのです。そうすることこそが,ジャーナリズムの仕事なのです。 
 ところが,新聞に載っているのは,賛成意見と反対意見を差しさわりがないように並列して書いたり,「有識者」とかいう(何をもって「有識者」というのか私には理解できませんが)得体のしれない人たちに意見を頼んで書いてもらったり -そのこと自体は否定しませんが- しているだけなのです。そしてさらに,記者の書くものは,そのほとんどが人から聞いたことを取材してまとめるだけなので,記事は「~と思われる」とか「~かもしれない」とか「~であるという」などいった無責任な語尾で終わらせるものがほとんどなのです。一言でいえば,要するにこれは記者自身が不勉強なのです。
  ・・
 先日の「スーパーマーズ」のときもそうでした。私がブログに紹介したのはテレビのニュースでしたが,新聞もまた同じようなものでした。火星の大接近という話題を「その程度の」記事でしか書けないのなら,他の話題の記事だってやはり「その程度の」レベルでしか書かれていないのでしょう。だから,ネット社会になってSNSに素人が書き込む程度のものをプロである新聞記者が書いていては,新聞など誰もお金を出してまで読まなくなるのは当然の成り行きです。

 このように,新聞がきちんとデータを示して踏み込んだ解説記事が書けないほど質が低いのなら,結局そんなものはもう読む必要がないと私は思うようになりました。数値化したデータで根拠を示しながら意見を書いたり主張をするアメリカの雑誌「TIME」でも読んでみてはいかがでしょうか。
 たとえば,消費税を上げないと将来どのように日本の財政が悪くなるか,とか,現状はどういう状態なのか,とかいうことを,様々な条件のもとでグラフ化して見せる,とかしないと,私にはさっぱりわかりません。わからないままに「有識者」と称する人が自分の憶測でモノを言い,憶測で記者が記事を書き,それを読んだ人は,自分の考えもなく,その人たちの意見や新聞記事を元に単なる「感想」で世論調査に答えているだけなのです。
  ・・
 すでに現在は,新聞が主な情報源だった時代とは違います。いくらでも情報は無料で手に入ります。そんな時代になってもこの程度のことしか載っていない新聞だとしたら,そんなものに毎月数千円も払う価値なんてもうないのでは,と私は思いはじめているのでした。
 だから新聞を読むたびに思うのです。「で,それが何だ?」 。

◇◇◇
火星最接近-誰が「スーパーマーズ」などと言い始めたのか?

DSC_8656


DSC_4231 (1024x683)DSC_4237 (1024x683)DSC_4238 (1024x683)

●ハワイ島における津波の被害●
 今日の1番目の写真は私がヒロのダウンタウンに行くときに通った道路に面したところにあった「ヒロユニオンエレメンタリースクール」つまり小学校である。
 さほど広くないヒロの町なのだが,走っているとそこらじゅうに学校が目につく。それは住宅に比べて学校の敷地がえらく広いことによるのだろう。

 ヒロにはふたつの高等学校とハワイ大学ヒロ校,そして,ハワイ・コミュニティーカレッジを含む,多数の教育施設がある。このふたつの高等学校とはヒロ高等学校とワイアケア(Waiakea)高等学校である。
 ヒロ高等学校は1909年に最初の卒業生を出している。ヒロ高等学校ができるまでのヒロは,30マイルも南に行ったところにカウ(Kau)高等学校とパハラ(Pahala)小学校,同じくらい北に行ったところにホノカア(Honokaa)高等学校と中学校しかなかった。
 1906年に設立されたヒロ高等学校はその後2回目の移転ののち現在の場所に移った。通りの向かいにはヒロ中学校もある。
 そして,ヒロにできた2番目の公立高校であるワイアケア高等学校は1980年にはじめての卒業生を出した。
 ハワイ大学ヒロ校のことについてはまた後日書くことにしよう。

 また,ヒロは湾の構造と南米沖からの地理的関係のために,たびたび津波の被害に遭っている。民間伝承としてだが,過去には津波が山の上を越したというものも残っている。
 1960年に起きたチリ地震では,本震の15時間後に10.5メートルの津波を観測し61人が死亡した。そのときは,到達予定時刻の5時間前に警報が出されていたが,津波は震源地のチリがある南東方向からやって来るから自らの場所は安全だと思い込んだ見物人に多くの犠牲者が出た。それはチリ地震の津波の波長が極めて長かったために,津波がうしろからも回り込んだためだった。
 また,東日本大震災による津波は太平洋の反対側まで広がったが,その途中にあるハワイの被害は3,000万ドル相当にも達し,州政府が連邦政府に支援を求めるまでになった。なかでも一番被害がひどかったのはヒロではなくコナコーストで,コナビレッジとリゾートは閉鎖となり,200人の従業員は職を失い,多くのバンガローやレストランが破壊されてしまった。
 ヒロの町を歩いていると,写真のような津波博物館や津波が起きたときの避難経路をしめす看板があってハワイでも津波による被害が身近な脅威として存在することを実感させられた。

 私はすでに「プリ・リタイヤメント」。こうして悠々自適に暮らしていると,次第にやりたいことが泉のように湧いてくるのですが,それはそれで贅沢な悩みです。人生で大切なものは「夢と勇気と知恵」だという結論にいち早くたどり着いた私は,こうして今日も夢を追い続けているのです。
 会社をやっと退職しても暇を持て余す人が多いそうだし,その逆に,60歳を過ぎても,ほかに何もすることもないからという理由で働き続ける人もまた,私には信じられません。
  ・・
 結婚して子供ができても働き続けたい女性が多い,とか,定年を過ぎても働きたい人が多い,という報道を真に受けてはいけません。その多くは働かなくては生きていけない(収入がない)というのが理由であって,働きたいということでありません。働くことは「生きがい」ということとは別のものです。それは,働いている人に「無償でも(賃金がもらえなくても)働きますか?」と問うてみれば明白だと思います。
  ・・
 先日,テレビで竹中平蔵とかいう大金もちの学者が,萩原博子さんの「働かなくては食べていけない女性がいるんですよ」という質問に対して,「私だって働かなくては食べていけないから同じだ」などと見下したように語っていたのを聞いて本当に頭にきました。ああいった庶民のことをまったくわかっていない人間がかつてこの国の政治をやっていたことから考えても,そんなものを信頼する気にならないことは容易にわかるでしょう。
 生きがいというのは,「働く」ということが目的ではなく,自分という存在の居場所を見つけることができるか,ということなのです。私は,将来は定年制がなくなるぞ,とかねてから予想していましたが,実際,そういう話が現実味を帯びてきたし,この先,人は死ぬまで滅私奉公を続けていかなくてはならないのでしょう。

 さて,ここからが本題です。
 かくいう私も,忙しかったころは,まれに見つけたわずかな自由な時間に細々と旅をしたり星を見たりしていたころは,それでも,それができるというだけで十分に満足でした。そしてまた,それはそれで非常に楽しい瞬間でした。
 ところが,自由な時間が十分にできるようになると,次第にそれだけでは満足ができなくなってくるのです。旅に出れば出たで,人の行かなかったところに行きたいとか,さまざまな珍しい情報が欲しい,ということになってきます。たとえば,オーロラが見たい,とか皆既日食が見たい… となっていくと,それはお金を出せば実現するというものでもないし,実現できなければできないでトラウマになり,ますますやってみたくなる。そうなると,それは,楽しさというよりも悔しさのほうが多くなっていくのです。
 星を見たり写真を撮ったりするのも,はじめのうちは写っただけで満足だったのに,もっと上手にできないかと思いはじめるのですが,こうなると,仕事をしているよりも大変です。
 所詮,趣味なんて自己満足の世界なのに,それを越えてしまうわけです。

 目の前に山があれば登りたくなる,美味しいものがあれば食べたくなる,というようなことが,人の生きがいにつながるのは勿論なのですが,その反対に,そうしたことをはじめた途端に,楽しみを越えて苦しみがはじまっていくわけです。
 そうした苦しみというのは,実はかなり贅沢な苦しみなのですが,そうしたことをひとつでもはじめると,今度は,何かをするには人生はかくも短いということに気づくのです。
 そんなことなら,贅沢な愉しみなど知らず,死ぬまで働き続ける方が,実は幸せなのかもしれません。

M52

DSC_4227 (1024x683)DSC_4228 (1024x683)DSC_4230 (1024x683)DSC_4232 (1024x683)

●ついにヒロのダウンタウンを見た●
 この日私が乗っていたのは車高の高いジープであったが,日頃乗りなれていない車高の高い車で急な坂を走るのは大変であった。降りていくときも同じであったが,登るときは,特に,ものすごい急坂だから前に見えるのは空だけで,道路が見えないのである。
 しかし,こんな急坂にも人が住んでいるのだから,ハワイ島で生きるのも過酷で険しい。
 先人たちはこうした海岸からハワイ島に上陸して,苦労してコーヒー農園を開拓し栽培して生きてきたのだ。
 そんなことも知らずして現在の整備されたコーヒー農園だけを見学して,そこでコーヒーを試飲してコナコーヒーをお土産に買って家に帰り,コーヒーを飲みながらハワイ島のウンチクをブログに書いていてはいけないのだろう。
 そんなことをするのは,行ったことも見たこともないのにその土地の地理を知ったかぶりで語る学校の教師と同じになってしまうではないか。

 こうして海岸沿いの謎が解けた私は,ヒロに行くのに州道11を北上して,途中にあるY字路を,カイルアコナにむかう左側の道路は通らずに,右側の州道180をはじめて通ることになった。
 州道180は両側にコーヒー農園が広がる「コーヒーロード」で,ここには日本のUCCの農園や土産物屋などが並んでいた。私は農園や土産物屋は特に見学をせずに単に見るだけで走りすぎていった。
 やがて州道180はいつも走っていたカイルアコナから来る州道190と合流した。そして,いつものように州道190をT字路まで北上していって,これもまたいつものようにT字路で右折して,州道200をマウナケア山を左手に見ながらヒロをめざして走っていった。

 思えば,ハワイ島に来てこの島のことなどなにも知らずはじめてこの道を西に向かって走ったとき,右手に見えたマウナケア山の山頂に光るドームを見つけて感激したのはまだ数日前のことだ。
 こうしたほんの些細な感動を味わうことすら,実際は「いつかは…」とずっと思い続けていながらもなかなか実現せずに終わってしまう人がなんと多いことか!
 私はこの旅でそれを実現させたのだ。
 それ以来,この旅では何度かこの道を通ったのだが,いつも天気が悪く,山頂に光るドームを再び見ることはできなかった。ところがどうであろう。私が帰るこの日は再び快晴であった。初日にこの山の山頂にあるドームが見られたのはかなり幸運なことだったのだ。そしてまた,最終日にそれと同じ幸運を味わうことができたのだった。
 私は,左手の山頂に輝くドームを見ながら感慨にふけっていた。この旅では,長年の憧れだったマウナケア山の山頂まで行き,ケック望遠鏡を見ることもできた。帰国した今,マウナケア山のことがニュースなどで出てくるたびに,私はこのときのことを思い出しては幸せな気持ちになるのである。

 さて,これからめざすのは,ヒロのダウンタウンである。
 ヒロ(Hilo) はハワイ島で最大の地方自治体地域である。人口は約4万人。ホノルルに次ぐハワイ諸島第二の港湾都市であり,ハワイ島では西海岸のコナと共にリゾート地としても知られている。地名についての定説はないが,「新月の最初の夜」か,あるいは「ポリネシア人の航海者」にちなんで命名されたものであろうといわれる。
 ここはまた,数千種類のランの栽培地としても知られ,「果樹園の町」または「ハワイのランの中心地」の異名がある。日系人も多く居住し,市内には日本庭園で知られるリリウオカラニガーデンがある。
 私は地図でしっかり確認しながら,はじめてヒロのダウンタウンに車を進めて,いつものように,ともかく近かろうが遠かろうが,空いていた駐車のできる適当な場所に車を停めて,様子見に少し歩いてみることにした。

1380169101445

 人も企業も,時間やお金に限りがあるので,当然,同じメーカーの製品であっても,手間や予算が十分にかけられたものとそうでないものがあります。だからといって,手間や予算がかけらればそれがよい製品とは限らないのが難しいところです。
 だれでもよいものを手に入れたいという気持ちは同じですが,必要である以上に手間や予算をかけたものを手に入れるのは意味のないお金を使うことになるし身分不相応ということにもなります。
 そこが人の価値観にもつながります。今日は,そんなお話です。

 私はカメラが好きなので,カメラに関する情報を見ることが多いのですが,他の製品同様,日本の企業は他社と張り合うあまり,どの会社も同じような品揃えをしています。そして,高級品から普及品までを取り揃えています。
 そうした製品のなかには,当然,他社にそういう製品があるからそれに対抗するために,間に合わせで作ったようなものがあります。つまり,同じ「メーカー=ブランド」から発売される製品であっても,しっかりとお金をかけて社運をかけて作られたものとそうでないものがあるわけです。
 私はニコンF3/Tというカメラを持っています。
 今はデジタルカメラしか使わないので,せっかくこうした優れた製品を持っていてもまったく出番がないのが悲しい現実ですが,30年以上も前に作られたものなのに未だにピカピカです。金属部分とかが全く劣化しないのです。
 同じころにニコンFMという普及品の位置づけであったカメラも購入して持っているのですが,それの劣化と比べたら一目瞭然です。
 それは使われている部品ひとつひとつがまったく違うからなのでしょうが,そうした違いが価格に現れているのです。しかし,その違いは「スペック=機能」ではなく,長く使ってこそわかるのです。だから,短期間しか使わないものなら,逆にそうした投資はオーバースペックということなので,それは「手に余る大きすぎる服」ということになります。

 日本人はすぐにスペックを比べたがる風潮があります。多くの人は「ツウ」気取りでそういうことを論じます。しかし,このように,本物というのはそうしたスペックには表れないところにあるのです。だから,モノを手に入れるとは,スペックにない本物を見わける能力とともに,自分に相応の製品を選ぶという能力が必要です。それこそが,自分の生き様と同様に一番難しいことなのです。
 ところがスペックばかりが評価されるので,そうした自分には必要のない機能満載で,しかし,耐久性の劣るものがあふれています。そしてまた,機能満載であっても,本当に必要なちょっとした機能がないものも多いのです。だから,これだけ多くのものがあふれているのに,自分の欲しいものがめったになかったりします。不思議な話です。
  ・・
 例えば,私は旅行に手軽に持っていくことのできるちょっぴり性能のよいカメラが欲しいのですが,それがないのです。カメラといえば,スマホで写真をとる人がほとんどになってしまって売れ行きが芳しくないので,メーカーはやたらと高級なものを発売するようになりました。しかし,旅行にもっていったり,普段でも重いものを持つ気にならなくなった年配の人にとって,近頃発売される高価で高性能なものが魅力的だとはとても思えません。
 以前,私はニコン1を使っていると書きました。今も使い続けていて,このブログの写真も星の写真以外はほとんどそれで写したものです。いろんな書き込みを見ると,画像が今ひとつだとか酷評されていますが,写真を大伸ばしするわけでもないので,私にはそれがわかりません。そして,大きさや手ごろさの面では,今でもそれに勝るものがないのです。
 大きければいい性能がよければいい,というものではないのです。
 カメラに限らず,私は身の丈にあったものをスマートに使いこなせるようになりたいといつも思っているですが,この国の工業製品には,使わない機能が満載であったり,やらたと高性能であったりして,必要十分な,そういうものがほとんどないのです。

◇◇◇
ニコン1を語る。-実は使いやすくかわいいカメラなんです。

DSC_5152 (2)

DSC_4224 (1024x683)DSC_4225 (1024x683)DSC_4226 (1024x683)DSC_3840 (1024x683)

●最終日の謎解き●
 まったく下調べもせず期待もせずやってきたハワイ島だったが,ハワイ島は魅惑に満ちた島であった。そして,たとえ内容が不十分であろうと「地球の歩き方」(この本の「ハワイ編Ⅱ」に載っているハワイ島の情報はずいぶんと片手落ちである)すら当時は持っていなかったので,私はまさに手さぐりでこの島を観光していたわけだ。だから,実際に行った場所の正確な位置関係もわからず,私には,最終日まで謎に包まれていたことがたくさんあった。
 一昨日に乗船したサンセットクルーズも,ハワイ島のコナコーストを南下して航海していたことはわかっていてもいったいどこまで行ったのか,そして,どの湾に停泊したのかも知らなかったし,ハワイ島に到着した日の晩に泊まったヒロ郊外のコテッジだって,それがヒロのどのあたりにあったのか,そこがどういうところなのかもよく知らなかったのである。
 さらに,ヒロという町自体,いつもダウンタウンは迂回して走っていたから,その市街地を見たことがなかった。
 今考えてみてもかなりめちゃめちゃな旅だった。

 十数年前にインターステイツ90を走行中に交通事故にあって入院したモンタナ州のビュートという町も,当時は同じことだった。
 いきなり救急車に乗せられて病院に担ぎこまれ,夜の病室の窓から見えたのは黄色い街灯がところどころに光るだけの小さな町だったし,後日,どうにか病室を出て廊下を歩けたときに,ナースステーションの背後にあった大きな窓から見た雄大なロッキー山脈はまさにおとぎの国の風景だった。ここはいったいどこなのだろうと思った。
 私はこのときに見た不思議な景色とそのときの記憶を生涯忘れないだろう。
 こうした謎が思い入れの原点になって,それこそがその後の行動の動機となるのだ。そうして,そういった思い出こそが人生そのものを形作るのである。
 地位だの名誉だの財産だのというものをいくら手に入れても,生きることは,そういったことを経験することに比べたら,まったく無意味なものに思われる。謎があればそれを解きたいと思う。だから,謎をもたないうちに答えなど用意しないほうがいい。
 私は,この旅の最終日に,こうしたハワイ島の謎解きを楽しんでいるのだった。

 コーヒー農園を見学したのち,私はヒロに向かってハワイ島を横断するのにのどかな田舎町を走っていこうと思っていたが,結局この島にはそんな道路はなく,カイルアコナのある西海岸から東海岸のヒロにもどるには,はじめてヒロからカイルアコナに来たときと同じ道を逆にたどるしか選択肢がなかった。
 しかし,西海岸のコナコーストのまわりには私がいまだ謎だった場所が残っていたので,コーヒー農園からカイルアコナに戻る前にそれを解決しようと思ったのだった。その謎だった場所とは,コナコーストの沿岸の高台を通る州道11から見おろしたところから広がる海岸沿いの場所であった。
 コーヒー農園を過ぎて少し南に行った交差点を,私は「意を決して」右折した。「意を決して」とは大げさな表現だが,どの交差点も日本の田舎道のような狭い道路で,どの交差点を右折すれば海岸まで降りられるのかわからなかったからだ。
 結論からいうと,私が右折した交差点は正しい選択で,そこから海岸まで降りていくことができた。しかし,高台を走る州道11は,私が思い描いていた以上の高台で,そこから海岸まで降りていくにはものすごい急坂をくねくねと走っていく必要があったのだ。これではまるで広島県の尾道… いや,尾道とは違ってかろうじて車がすれ違えるほどの車幅はあったが,まあ,似たようなところであった。

 道を降りていく途中には,リゾートホテルやらコテッジなどがところどころにあったから,この場所を深く研究すれば,とても素晴らしい自分だけの隠れ家的な宿泊場所を見つけることができるかもしれない。このように,ハワイ島はかくも奥が深いのである。だから,旅行社のオプションツアーなどでオアフ島から2泊3日でハワイ島に来て,豪華なリゾートホテルに宿泊するような旅をしていては,ハワイ島の魅力のほとんどはわからないわけだ。
 私はやっとのことで海岸まで降りることができた。道路はさらに海岸線に沿ってずっとつながっていたので走っていくと,その先端にあったのが,なんとケアラケクア湾州立歴史公園だった。その場所こそ,私が一昨日サンセットクルーズで船が停泊した場所だったのである。
 「déjà vu」そこに数日前のサンセットクルーズで海の上から見たのと同じクック記念碑を見つけたときは,ほんとうにびっくりした。

DSC_4220 (1024x683)DSC_4218 (1024x683)DSC_4212 (1024x683)DSC_4215 (1024x683)DSC_4209 (1024x683)

●バナナの木に咲くグロテスクな花●
 私がこの旅までハワイに行きたくなかった理由は,日本人にとってあまりにポピュラーな観光地であることだった。それは日本人観光客が嫌いということではなく,私が「非日常」を楽しみたいという気持ちでからであった。
 それでもさすがにハワイ島まで足をのばすと日本人の観光客も少なくなって,非日常を楽しむ旅ができた。さらにまた,私が宿泊したのは日本資本の入っているようなリゾートではなかったから,ほとんど日本人に出会うこともなく毎日を過ごすことができた。しかし,キラウエア火山やヒロのダウンタウンのような日本でもよく知られたところに行くと,それまでどこにいたのか,というくらい日本人が「湧いて出てくる」のだ。
 それはアメリカ本土でも同じことで,この夏に行った東海岸でも,ランカスターとかゲティスバーグ,ウィリアムズバーグ,モンティチェロなど,日本からのツアーもなく車でなければアクセスが困難な場所を訪れるとまったくといっていいほど日本人はいないのだが,フロリダ州のケネディ宇宙センターやワシントンDCにあるスミソニアン博物館などへ行くと,ここもまた同様にそれまでどこにいたのかというくらい日本人が「湧いて出てくる」のだった。

 そのことに問題はないのだが,観光客のなかに「私は旅のツーよ」みたいな,でも本当は単なる「ミーハー」的な,そういった -特に若い女性に多いのだが- 人がまれにいるのだ。そして彼女たちに共通するのは「私は英語できるわよ。あなたとは違うわよ」的な,およそ日本人のもつアイデンティティとは正反対の横柄さなのである。
 海外で活躍する日本人の女性たちはみな謙虚でありながら実はものすごく優秀で,肩に余分な力が入っていないきわめてスマートで素敵な人たちが多いと,これは私の率直な感想だが,私が鼻につくのはそういう人たちとは真逆の人種なのである。
 私はそういうタイプの女性のひとりにニューヨークのヤンキースタジアムで出会ったが,同じ匂いのする女性にこの農園で遭遇した。
 私がこのコーヒー農園のことを書こうと思ったときにまず思いだたしたのは,このことであった。

 それはともかくとして,私が見学に来た「グリーンウェルファーム」はハワイ島で最も有名な農園のひとつだということだ。おそらく私がここで書かなくてもいくらでも情報は見つかるだろうから,ここへ行きたい人はそれをご覧いただくとして,私は行ってみた感想だけを書くことにする。
 この農園が有名であるのは「商売上手」ということなのであろう。つまり「やり手」なのである。大手旅行社と上手にタイアップして,ツアーバスが来るように手配してあるからみんなが来るし,宣伝が上手で日本語が通じる,とまあ,そういうことだ。
 また,ここの農園のコナコーヒーの品質はナンバーワンだという評判だ。私は今回のハワイ島への旅で「コナコーヒー」というものをはじめて知って,酸味の強い値段の高いコーヒーだという認識をもったが,私はグルメではないから,それがおいしいと表現するものかどうかはよくわからない。要するにこれが「ブランド」というものなのだろう。

 私はこの農園を教えてくれたコナコーストの観光案内所のおじさんから聞いたまま州道11を走ってきたが,右手に広い駐車場があって,この農園の看板が見えたところで車を停めた。
 建物まで歩いていくとすでに多くの観光客が集まっていた。そこには試飲コーナーがあって,ストロングコーヒーからウィークコーヒーまでが順にポットに入っていて試し飲みができるようになっていた。
 京都伏見にある月桂冠・大倉酒造の工場見学と同じようなものだと思えばいい。
 そして,ここにはダニエルさんという有名人がいて(私はなんせ日本の民放は見ないのでこの人が有名人だということも知らなかった),外見はまったくのアメリカ人だっから私が英語で話しかけると,私より上手な日本語で説明を始めたのだった。彼が自己紹介するには,和歌山県の出身で長く日本に住んでいて,アメリカンスクールで宇多田ヒカルや西田ひかるを教えた事もあるとかいう話であった。

 私も試飲のあとはそのダニエルさんの勧めにしたがってコーヒー農園見学ツアーに参加した。
 ハワイ島西海岸のコーヒーは収穫は手摘みであり,コーヒーの木も低く保たれているという。というのもハワイ島の西側は乾燥地帯で,豆に栄養が十分に行き渡るように低く伐採しているのだそうだ。ホシダナも木を低く保つのも日本人移民の知恵なのだそうだ。
 ここでは、コーヒー畑や豆の処理施設などをガイドさんの説明を聞きながら見学することができたのだが,私の参加したツアーのガイドさんはやる気がなく,というか,自分の長っが~~い話だけに夢中で,その次の,女性がガイドをしていたツアーのほうがずっと楽しそうであったのがかなり残念だった。
 そんなわけで,ここで私の印象に残っているのはコーヒーでははく,バナナの花であった。
 長いだけでつまらないガイドさんの説明に飽き飽きしていたのは私だけではなくとなりにいた人もどうやら同じだったらしく,一緒に指をさして興味深げにバナナのへんちくりんな花を眺めて雑談をしたものであった。
 今日の写真にあるバナナのグロテスクな花,見たことありますか?
 吉本ばななさんはこの花がお好きなんですよ。

このページのトップヘ