しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

June 2017

今日も晴れました。明日から天気が悪いということなので今日は心置きなく満天の星空を楽しみました。昨日の成果で極軸も難なく正確に設定できて星空の位置もよくわかります。月齢2の月がまだ西空に残っているのにすごい数の星が天の川とともに見えます。これまで南天の星空を見たくてハワイ,ニュージーランドと四苦八苦してきましたがここオーストラリアがベスト。ついにたどりついた感じです。
星空の美しさは筆舌に尽くしがたいので今日はこの日に写した写真をお楽しみください。
1番目の写真が天頂にのびる天の川です。上が北で下が南,天頂にさそり座,北にはわし座,南には南十字座がいます。2番目が南の地平線付近の天の川です。マゼラン雲も見えます。この付近の星空が日本では見えないのです。3番目が南十字星からηカリーナ星雲にかけての最も魅力的な場所を写したもので,宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の世界です。4番目はηカリーナ星雲です。ηカリーナ星雲は地球から6,500光年から1万光年離れているいくつかの散開星団に囲まれた大きく明るい星雲です。天の川銀河で最大級の重さと光度を持つふたつの恒星が星雲の中にあります。
5番目はさそり座,そして6番目はいて座のあたりを写したものですが,天の川が見事過ぎて星の並びがわかりません。宝石のような散光星雲がきれいです。そして最後の7番目は天の南極を中心とした日周運動を20分露出して写したものです。生まれてはじめて日周運動を写しましたがそれが南天とは! 中央のほとんど動いていない台形型の4つの星の並びを見つけることが南天の極軸あわせのコツですが,暗いので慣れが必要です。

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滞在しているゲストハウスの近くにはギラウィーン,ボールズロック,ブノブノ,サンダウンという4つの国立公園があります。今日はそのうちでギラウィーン国立公園に行ってみました。車で20分くらいの距離です。この国立公園は奇妙な岩が点在しているのが売りですが,それらを見るにはトレイルをずいぶんと歩く必要がありました。こちらは初冬だというのに汗をかきました。
オーストラリアの国立公園はアメリカの国立公園に比べたら未だ手つかずといった感じで観光地化されていません。何といってもオーストラリアの魅力は国立公園にも増して手つかずの日本では見ることができない星空なのです。
国立公園に3時間くらい滞在してゲストハウスのあるバランデーンに戻ってきました。ここにはタバーンというレストランが1軒あるのでそこで試しに昼食をとりました。ハンバーガーを注文したのですが,出てきたのはとんでもないビッグサイズでした。
その後,近くのスタンソープという街まで行ってみました。ここはとても素敵な街で住みたくなりました。こうした美しい街でゆったりとした時間の中で生きている人はとても幸せです。日本の人混みや満員電車なんて信じられないことでしょう。

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到着したときは晴れていたのですが夕方になったら一面の曇り空になりました。天気予報では今日明日は晴れて明後日からは曇りまたは雨。来るまでは連日晴れていたということなので最悪の展開です。どうしても今晩は晴れてもらう必要があります。でないと来た意味がありません。
ということだったのですが,願いが通じて陽が沈むころから快晴になりました。今晩晴れてくれれば,明日から天気が悪くてもあきらめがつきます。
そんなわけで夕方西の空に薄い月が沈むのを見届けてから開始です。しかし星の並びがさっぱりわかりません。それを承知で来たのですが,私がニュージーランドで覚えた南の空とは季節が違うので正反対,マゼラン雲は地平線ギリギリにあるし,天頂には天の川と南十字星が輝いています。天の南極がわからず極軸あわせに苦労しました。
空が暗くなってきて次第に星座もわかってきて,なんと天頂にさそり座が見え,そこから北に向かっていて座の凄まじい銀河を肉眼で見たときは興奮しました。やはり星は写真でなくこの目で見なくては! 大型の双眼鏡を借りて片っ端から星団や星雲を見ました。40センチの望遠鏡で木星と土星も見ました。
こうして,生涯最高の星空を深夜まで満喫しました。

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オーストラリアは2度目です。昨年はブリスベンに降りましたがそのままニュージーランドに行ったのでオーストラリアへの入国はしませんでした。今回オーストラリアに行くことになってから調べてみると,オーストラリア入国にもアメリカのようにESTA登録が必要なことを知ってびっくりしました。危うく忘れるところでした。ニュージーランドは要らないのに…。
成田空港の第2ターミナルを歩いていて,さな ざまな行き先の待合所を見ると,ホノルル行きだけは雰囲気がまるで違います。華やいでいます。アメリカのシカゴ行きもあったのですが,何だかピリピリしています。私はこれまであれだけ何度もアメリカ本土に行ったのに,ハワイやオセアニアに行くようになると,だんだんとアメリカ本土のピリピリ感に怯えてアメリカ本土が遠く感じられるようになってきました。
いよいよ搭乗の時間になりました。少し遅い夕食を食べてなんとなく映画を見ていたら眠くなって,そのうちに早い朝食が出て,8時間あまりでブリスベンに到着しました。初冬ですが日本の10月のようなとても過ごしやすい気候です。
昨年はここの空港で時間待ちをしてニュージーランドに行ったのですが,今回はここが最終目的地です。手際よく入国を済ませ,レンタカーを借りて,私の宿泊するゲストハウスまでは3時間,なぁ〜んにもない道路を100キロで走り抜けて午前11時ころには着いてしまいました。ここに5日間滞在します。

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海外旅行は国際線に乗るまでがとにかくひと苦労です。特に日本からの出国が面倒な気がします。アメリカだと空港まで行けばそこで自動チェックインを済ませてセキュリティを抜ければあとは航空会社のラウンジで食事でもしながら搭乗時間を待てばよいのですが,日本ではセキュリティ以前にレストランなども多く,またチェックインカウンタもやたらと混んでいるし,空港も狭いうえにさらにテーマパーク化しているからです。ただし,実際は第2ターミナルはセキュリティを通ってしまったほうが広々としています。
すべてが定刻で運行するのならもっと時間ギリギリでもよいのですが,国際線に間に合わなければ話にならないから,どうしてもずいぶんと前に到着することになるのです。おまけに私の搭乗したANAの成田行きは定刻よりも早く離陸して定刻よりも早く成田に着いてしまったから,待ち時間が5時間以上もできてしまいました。私の搭乗したANAはフラワージェットで,外装はずいぶん派手な花柄でした。恐らくはこれに乗りたくとも乗れない人もいるに違いないでしょう。
チェックインまでも2時間以上あってすることもないのでカード会社のラウンジでだらだらと過ごすことになってしまったから,暇に任せてこれを書いています。カード会社のラウンジはセキュリティを過ぎてから存在する航空会社のラウンジほど居心地がよくありません。搭乗時間まであと少し。いまだ出国できずにいるわけです。
ところでセントレアから成田までは進行方向左側の窓際に座れば離陸からずっと富士山が眺められます。あいにく今日は雲が多かったけれど,それでもほどほど富士山を眺めることができました。機内誌「翼の王国」を読んでいたら,昨年行ったハワイ島に住む日系人のやっている店の特集があってとても面白く読めました。私はこれからオーストラリアに行くのにも関わらず,どうやら気持ちはハワイ島に飛んでしまったようでした。

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昨年の11月下旬にニュージーランドに行ってから,南天の星空の虜になりました。南半球は四季が反対なので,初冬であれば初夏です。このときは何も知らずに出かけたのですが,現地はすでに夏休みの行楽シーズンがはじまっていました。
私は,ニュージーランドのクライストチャーチまで,直行便ではなく,オーストラリアのブリスベンで乗り換えましたが,そのときまでブリスベンもクライストチャーチも知りませんでした。
帰国後,オーストラリアに日本の人が経営している天文台つきのゲストハウスがオーストラリアにあるという話をききましたが,その場所のが,ブリスベンの郊外ということ。それならば,南天の星空を見るためにブリスベンからさらに3時間もかけてニュージーランドまで行かなくてもブリスベンでいいじゃあないか,ということで,一度そこへ行ってみようと思い立ちました。
11月下旬の南天は天頂にマゼラン雲が輝いていて,銀河は地平線付近にありました。そこで,今回は銀河が天頂にある季節にしようと,6月に行くことにしました。
日本は梅雨なので,どっちみち星も見られない季節なので,海外に星見に出かけるのには好都合ですが,なにせ,現地は冬。どれだけ寒いかということと,晴れるかな? ということが不安材料ですが,ともかく,出発します。
セントレア・中部国際空港から午後2時25分発のANAに乗ってまずは成田まで。成田からはカンタス航空でブリスベンまでひとっ飛びです。時差はわずか1時間なので深夜バスで名古屋から東京に行くようなものです。
トランクはすでに成田まで送ったので小さなバックパックひとつで家を出ました。セントレアまでは名鉄ですが,毎度延着の心配があるので,お昼の12時過ぎに到着する特急に乗りましたが何事もなく予定通り到着しました。今日のセントレアはことのほか混雑しています。お昼のカレーを食べてからラウンジで時間待ちです。
では行ってきます。

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●ナショナルモールのメリーゴーランド●
☆12日目 8月7日(日)
 今日のイベントはMLBワシントン・ナショナルズのゲーム観戦であった。
 私はアメリカ合衆国50州制覇もメジャーリーグ30球団のボールパーク制覇も,そもそもそんな目的はなかったのだが,さまざまなところを旅するうちに,結果としてそうなった。はじめっからその気なら,もっとやり方もあっただろうし,何らかの記念品を集めるとか,そうしたことをしておけばよかったが,遅きに失すであった。
 いずれにしても,このワシントン・ナショナルズをもって30球場のボールパーク制覇を達成する,今日は記念の日である。

 今日はデーゲームで開始時刻が午後1時35分であった。試合開始の2時間前が開場時間なので11時35分に行けばよいから,それまでは気が向いたところへ行くことにした。
 まずは2日前にも行ったこの旅2度目のホワイトハウスである。北側の裏口は建物の近くまでいくことができるので,地下鉄で最寄りの駅まで行って,すずしい朝だったからそこからぶらぶらと歩くことにした。
 ホワイトハウスの近くにはあの「トランプホテル」もあったが,写真を写すのを忘れた。というよりも,この時期,だれも彼がアメリカの大統領になるなど思ってもいなかった。
 ホワイトハウスの前には写真のようなテントがあって,核兵器反対といった運動をしているようであった。こういうものがホワイトハウスの前に公然と存在するものまたアメリカらしいものだ。そしてまた,3番目の写真のような土産物トラックがたくさん停まっていた。トラックのオーナーはほとんどが中国人や韓国人であった。
 東京の皇居周辺あたりを考えてみれば,この違いがとてもよくわかることであろう。よくも悪くもアメリカはおもしろいところだ。

 ホワイトハウスの次に私がナショナルモールで絶対に見たかったが,4番目の写真のメリーゴーランドであった。
 この有名なメリーゴーランドがモールのどこにあるのか私は知らなかったが,探す間もなくすぐに目についた。この古びたメリーゴーランドは未だ現役なのである。
 今から54年前の1963年8月28日,すべての人々が皮膚の色や出身などに関係なく平等に保護されることを求め,25万人の人々がワシントンDCに集結してワシントン記念塔からリンカーン記念堂まで有名な「ワシントン大行進」が行われた。そして,リンカーン記念堂で行われた演説の最後を飾ったのが,マーティン・ルーサー・キング・ジュニア博士(Martin Luther King, Jr.)だった。
 大行進とキング牧師の演説を機に,1964年アメリカ連邦議会は「公民権法」を成立させ,また,公共の場における人種分離を禁止し公立学校や公立施設における人種統合を求め,さらに,人種や民族に基づく雇用を違法とした。
 大行進の行われた1963年当時,黒人差別の激しいことで知られたボルチモア州の遊園地にこのメリーゴーランドはあったのだが,黒人の子供達は乗ることが許されていなかった。このキング牧師が演説を行ったまさにその日,このメリーゴーランドに初めて黒人の女の子がひとり乗ることを許されたのだった。
 こうして公民権運動と人種差別撤廃の象徴となったメリーゴーランドは,その後,時代を映す記念的存在としてワシントンDCに移されたという記念碑なのである。

  ・・・・・・
I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident: that all men are created equal."
I have a dream that one day on the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.
I have a dream that one day even the state of Mississippi, a state sweltering with the heat of injustice, sweltering with the heat of oppression, will be transformed into an oasis of freedom and justice.
I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.
I have a dream today.
I have a dream that one day, down in Alabama, with its vicious racists, with its governor having his lips dripping with the words of interposition and nullification; one day right there in Alabama, little black boys and black girls will be able to join hands with little white boys and white girls as sisters and brothers.
I have a dream today.
I have a dream that one day every valley shall be exalted, every hill and mountain shall be made low, the rough places will be made plain, and the crooked places will be made straight, and the glory of the Lord shall be revealed, and all flesh shall see it together.
  ・・・・・・

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●ナショナルギャラリー●
 ワシントンDCの中心部にあり,多くの観光客が訪れるのが「ナショナルモール」(National Mall)である。その東側に国会議事堂があり,西側にポトマック川が流れ,橋を渡るとアーリントン国立墓地である。その間に4キロにわたる芝生広場があって,南北には芝生広場を挟むようにして,スミソニアンの博物館や様々なモニュメント群が林立する。
 35年前にここを訪れたときに,この広大さに驚いた。そのとき,スミソニアンの博物館の建物は,すべて,地下道でつながっていると記憶していたのだが,それは今回行ってみて誤解であると気がついた。
 スミソニアンの博物館は全部で19もあるのだというが入場は無料である。この日,私は,そのうちの国立アメリカ歴史博物館に行こうとして迷い,結局,ナショナルギャラリーに行くことになったわけだ。
 35年前にはなかった厳しいセキュリティをくぐり,館内に入った。

 ナショナルギャラリー(Natikonal Gallery of Art)は13世紀から現代までの絵画や彫像を中心とした西洋美術のコレクションが13万点以上あって,その質の高さと量はパリのルーブル美術館に匹敵するといわれている。しかし,私が思うに,それほど有名なものはないように感じる。
 そんななかで1番の「見物」は,レオナルド・ダ・ビンチ(Leonardo da Vinci)の絵画「ジネブラ・デ・ベンチの肖像」(Madonna del Garofano)だということであったので,まずは,それを見にいった。
 「ジネブラ・デ・ベンチの肖像」は,レオナルド・ダ・ヴィンチが1474年から1478年頃にフィレンツェ貴族ジネーヴラ・デ・ベンチを描いた肖像画でアメリカ大陸で一般公開されている唯一のレオナルドの作品である。

 近頃日本で話題のフェルメール(Johannes Vermeer)の作品が3点もあるというので,その次に見にいった。それらは「はかりを持つ女」(Woman Holding a Balance),「手紙を書く女」(A Lady Writing a Letter)そして「フルートを持つ少女」(Girl with a Flute)である。
 フェルメールの作品は、疑問作も含め30数点しか現存しない。これらをすべて見ようとする愛好家も多く,日本でもフェルメール作品を目玉商品とした展覧会が頻繁に開かれている。だから,どこかの町を旅行してその町の美術館にフェルメール作品があったのにそれを見逃すと,あとあと後悔することになる。
 「はかりを持つ女」に描かれている女性はフェルメールの妻カタリーナとされる。モチーフは「さまざまな聖なる真理あるいは神の裁きとしてのヴァニタスであり宗教的救済と平衡で内省的な暮らしをもたらすものである」としている。
 「手紙を書く女」では,手紙を書いていた女性が何かに気を取られ,優雅に振り向く情景が描かれている。女性が身につけている首飾りには10個の,イヤリングには2個の真珠がそれぞれあしらわれている。描かれている人物はフェルメールの近親者だった可能性が指摘されている。フェルメール自身はモデルを雇いたかったが財政が逼迫しており,妻子に平穏で豊かな生活を与えるだけの金銭的余裕もなかったということがその作品に暗示されているとする説もある。
 「フルートを持つ少女」は保存状態が悪い上に出来映えも他のフェルメール作品に比べて劣ると評価され,フェルメールの真作とは見なさない研究者が多い。フェルメールの描いた未完成作を彼の死後に他の画家が補筆したものだという説もある。

 ところが「地球の歩き方」に書かれたギャラリーに行ってみてもそれらの作品が見つからないのだった。そこで私は散々探しまわることになった。
 ようやく見つけたこれらの作品のまわりにはほとんど観光客がいなかった。ナショナルギャラリーには日本人観光客もずいぶんと見かけたが,彼らもまた,フェルメールがあることを知らなかったのか,あるいは見つからなかったのか…。なにせ「Vermeer」をあの有名なフェルメールだと気づかないということも要因かもしれない。しかし,もし日本でこれらが公開されたとしたら,ものすごい待ち時間になることだろう。
 フェルメールに限らず,スミソニアンのどこも観光客で溢れる博物館のなかでナショナルギャラリーはずいぶんと空いている博物館であった。

 ほかにも様々な作品を見たが,閉館の時間になってしまったので,ナショナルギャラリーを後にした。
 昨日はホテルの近くで夕食をとったが,ホテルの近くには適当なところがなかったから,今日は,ホテルに帰るまえにワシントンDCのダウンタウンで適当に夕食をとることにしていた。しかし,何度も書いているように,暑くて退廃的になっていた私は,すべてがどうでもよくなり,チャイナタウン近くにあったマクドナルドでサラダを食べることにした。
 ワシントンDCの治安は悪くないということであったが,私の入ったマクドナルドの店内には常に警官が立っていて,食事をしている客のなかにも,あやしげな感じの人も少なくなかった。

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●ナショナルジオグラフィック●
 アレキサンドリアから戻って,次にどこに行こうか考えた。35年前に行くことができなかったところに行ってみようと思ったが,この暑さと人混みにめげてしまい,それもどうでもよくなりつつもあった。そこで,私のiPhoneに入れてあった電子版の「地球の歩き方」で探していくと…
 そうそう,ここで話が脱線する。
 私は,今回,この「地球の歩き方」の電子版を使っているのだが,これがたいへん便利なのである。以前は,重くて大きいこの本に難渋したのだが,電子版になって,その悩みが解決した。ただし,すべての「地球の歩き方」が電子版になっていないのだけが残念である。

 さて,本題にもどって…。
 ワシントンのナショナルモールから北に行くと,デュポンサークル(Dupont Circle)地区がある。ここはビジネス街の北側に属しているワシントンの繁華街ということである。特に観光地というわけではないので,観光客は少ないのだが,そこにある見どころは,ナショナルジオグラフィック協会(National Geographic Society)の1階にある博物館tと,動物園であった。
 本当は動物園にも行きたかったのだが,歩いて行くには遠くて,しかも,園内は広すぎたので断念して,ナショナルジオグラフィック協会の博物館に行くことにした。
 35年前にワシントンDCへ行ったときに宿泊したホテルについてはほとんど記憶にないが,その場所がデュポンサークルの東側,ロードアイランドアベニュー(Rhode Island Ave. N.W.)にあった「ラマダイン」(Ramada Inn)であったことを帰国してはじめて知った。現在,その地には同じホテルは存在しない。

 「ナショナルジオグラフィック」という雑誌は,日本でもその日本語版が出版されているが,ここはその本部である。雑誌が発行されているのは,ナショナルジオグラフィック協会(アメリカ地理学協会)で,2013年に125周年を迎えた世界最大の非営利学術研究団体組織である。この本部ビルの1階に博物館があって,ワシントンDCの見どころのひとつだということだったので,ぜひ,行ってみたいと思ったわけだった。
 アレクサンドリアからの帰路,地下鉄のブルーラインに乗って,Farragut West 駅で下車して北に3ブロックと書かれていたので,広い歩道を歩いて行ったのだが,なかなか目的地に到着しない。どうやら道を1本間違えていたようであった。それにしてもアメリカの都会は広い。広すぎて,アメリカには老体は歩くのが大変である。
 どうにか場所がわかり,私は,やっと博物館に到着した。
 入場料を払って入ると,「Summer of the Greeks」といったギリシア時代の特別展をやっていた。様々なギリシア時代のものが所狭しと展示してあって,それらは非常に貴重なものらしいのだが,高校で世界史を勉強しなかった私にはさっぱりわからず,豚に真珠状態であった。
 私は,特別展とともに常設展があって,そこにはナショナルジオグラフィックが所蔵する写真などが展示してあると思っていたが,あったのはほとんどがこの特別展だけであった。
 アメリカの博物館にしては規模が小さく,いささか拍子抜けであった。

 私は,早々に引き上げることにした。そして思ったのは,やはり,ワシントンDCはスミソニアンの博物館を見て回ることこそ,一番の見どころだということであった。そこで,次に,前回行くことができなかったナショナルモールにある国立アメリカ歴史博物館に行ってみることにした。
 再び地下鉄にのって,ナショナルモール駅で降りた。ところが,何をどうまちがえたのか,国立アメリカ歴史博物館がみつからない。というか,建物を間違えて,その隣の工事中のビルがそうだと勘違いをしてしまったのだった。
 そこで,その近くにあったナショナルギャラリーに行ってみることにした。すでに35年前に行ったことがあるのだが,ここにはフェルメールの絵画が3点もあるのだという。今回,それをはじめて知った。35年前はそんなものを見た記憶がなかったから,今回はぜひ,それを見たいものだと思った。
 ナショナルモールを歩いていると,ナショナギャラリーの外庭にはリスが戯れていた。

◇◇◇
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 ツアー旅行というのは「安心・安全・快適」なのだそうです。
 私は今から37年前にはじめて海外旅行でサンフランシスコとロスアンゼルスに行ったときは,何もわからずツアー旅行に参加しました。ツアー旅行に参加した人のなかにも旅慣れた人はいましたが,ほとんどの人ははじめての海外旅行でした。日本の空港にはツアー会社のカウンタがあって,そこで受付をすればあとは団体行動で現地のホテルまで連れていってくれましたし,何か問題があれば,現地のホテルに設置されたツアー会社のカウンタに出向けば解決できました。まさに「安心・安全・快適」な旅でした。
 しかし,なにか物足りなかったというのが正直な気持ちでした。そして,自分で航空会社のカウンタでチェックインをして旅をしている人たちを眩しく感じていました。私もいつかはそうした旅がしたいものだと思いました。そして今ではそれが憧れから現実となりました。

 先日「最後の秘境 東京藝大」をこのブログに書いたとき「人が最も幸せに生きることができる究極の姿というのは,限りない自由を手に入れることだ」と書きました。このことを旅に当てはめると,ツアー旅行というのは「安心・安全・快適」を保証する代わりに「限りない自由」を手放すことだと気づきました。
 しかし,自由な個人旅行というのは確かに多くのよさはありますが,それとともに多くのリスクが伴うものです。私も,これまで数限りないアクシデントに遭遇しました。
 こうした旅をしていると,自由な個人旅行をうらやむ人もいるとみえます。しかし,そうした人に限って,こうした旅のもちあわせているリスクには思いもよらないというのも事実です。長年生きていると,そうした人の「未熟さ」がとてもよくわかります。
 さて,そう考えると,今度は,生きていることすべてが旅のようなものだと気づきます。「安心・安全・快適」で生きるために何事をもパック旅行のような生き方をしている人もいれば,自由を求め,そこにリスクを背負っている人がいるわけです。

 私も,個人旅行の途中でときには現地ツアーに参加したりして,パック旅行の真似事をしてみたりするのですが,そうしたときには,ああこれが「安心・安全・快適」だったのか,と思い出すとともに,やはり,結局はがっかりする結末を迎えるのです。
 たとえば星空観察ツアー。参加者はほとんど知識がありません。説明はプラネタリウムでもできることばかりだし,ツアーガイドさんも特に知識が豊富というわけでもなさそうです。しかし,参加者は自由に写真をとることができるような時間もほとんどありません。しかもものすごく高価です。きっと,ほかのさまざまなツアーも同じようなものでしょう。海外旅行というのは,言葉の壁と自由に行動できる手段がない,ということが,そうしたビジネスを生んでるわけです。そしてまた,そうした不自由さと代償は,日常生活でかかわりのあるサービス,たとえば学習塾とかファミリーレストランなども同じようなのなのでしょう。
 どうやら,私は,旅にせよ,生き方にせよ,いつもリスクを背負った自由を追い求めることしかできないようです。しかし「不良老人」を目指すなら「安心・安全・快適」を追い求めてはいけません。

◇◇◇
「最後の秘境 東京藝大」-今も残る自由の「聖地」とは?
「不良老人」の勧め①-自分を探しに放浪の旅に出よう。
「不良老人」の勧め②-不規則な生活をしよう。
「不良老人」の勧め③-「主体性なき右往左往」にはならない
「不良老人」の勧め④-50歳を過ぎたらルビコン川を渡れ。
「不良老人」の勧め⑤-私の実践するライフファイナス
「不良老人」の勧め⑥-めざせ!「プリタイヤメント」
「不良老人」の勧め⑦-「ときめき」こそが生きる糧

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●マザーロード国道1●
 アメリカ合衆国の首都であるワシントンD.C.(Washington, D.C.の正式名称は「コロンビア特別区」(District of Columbia)である。ワシントンDCの面積はわずか176平方キロメートルで,名古屋市の約半分,世田谷区の約3倍である。北はメリーランド州,南はヴァージニア州に挟まれたポトマック川河畔に位置し,首都としての機能を果たすべく設計された計画都市である。
 1790年に「コロンビア特別領」 (territory of Columbia) として創設され,1801年の旧コロンビア特別区自治法により「コロンビア特別区」となったが,特別区内にあった自治体のひとつがワシントン市だった。そして,1871年の新コロンビア特別区自治法により特別区内の全ての自治体がワシントン市に統合された。
 このような経緯から今でもワシントンDCといわれているのである。

 今日の1番目の写真は,ポトマック川クルーズ船から見上げたものである。この橋は国道1であるが,国道1はポトマック川にかかるこの橋を通ってワシントンDCに達する,この国道1こそ,私がこの旅で最南端キーウェストから走ってきた道そのものなのである。
 キーウェストからは1,200マイル,約2,000キロもの距離で,これは鹿児島・青森間の距離に相当する。
 はじめてニューヨークに来た35年前に,ニューヨークからフロリダまでドライブするという在米の日本人の話を聞いてうらやましく思ったものだったが,私もいつかはそうした旅ができようとは,そのときは思いもよらなかった。感無量であった。

 ポトマック川クルーズは,ほかの観光船とは違って,いたって地味なものであったが,景色もよく,なかなか素晴らしいものであった。なんといっても暑さがしのげたことと,ワシントンDCをポトマック川から見ることができたのがよかった。
 クルーズを終えて,再び,「魚雷工場美術センター」に戻ってきた。この波止場でバンドがパフォーマンスをしていた。写真では暑さがわからないので,このアレキサンドリアは美しく楽しそうな町に見えることであろう。
 東海岸は夏に行ってはいけないのだ。
 お昼になってさらに暑くなってきたので,暑さに弱い私はまったく観光をする気がなくなった。おいしいものを食べる意欲すら失われた。そこで適当に昼食を済ませて帰ることにした。「魚雷工場美術センター」に一軒の店があったので,そこで私はサンドウィッチとジュースを買って,店の前のテーブルと椅子に座って,ともかく,腹ごしらえをした。

 このアレキサンドリアからマウントバーノンまではさらに南に10マイルである。「魚雷工場美術センター」を出ると,ちょうど,地下鉄の駅まで行く無料シャトルバスが来たので,それに乗り込んだ。

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●ウオーター・シーボート・クルーズ●
 アレキサンドリアには面白そうな店もたくさんあった。そのうちの1軒で大統領選挙のグッズを売っていた。
 私がこの旅をしていた時期はまだオバマ政権で,ちょうど民主党の大統領候補が選ばれたころである。すでに書いたが,私は,マイアミのコンドミニアムで民主党の党大会の様子をテレビで見ていたが,その党大会が行われていた場所というのが,数日前に行ったフィラデルフィアであった。
 それにしても,この時期,まさかトランプ大統領が誕生するなど夢にも思わなかった。
 
 私は土産物をほとんど買わないが, 大統領選挙グッズとならば,希少価値があろうというものである。そこで,店に入っていった。
 私が探していたのは「クリントン・トランプ」というものであった。日本人にこれを話すと結構受けた。しかし,日本語の「トランプ」というのはトランプゲームのカードのことだから英語では「カード」という。だから決して共和党候補の「トランプ」と掛け合わせたものではないのだが,みな,そうは思わないらしい。しかし,残念ながら私が探していたものはここでは見つからなかった。そこで私が買いこんだのはそれぞれに次にように書かれたくだらない2個のバッジであった。
  DUMP TRUMP 2016
  HELL NO HILLARY 2016

 トランプ,クリントン両候補のバブルヘッド人形があったので欲しかったのだが,あまりに巨大で,持って帰ることができずあきらめざるを得なかったのは残念であった。
 また,この町には,日本人の経営する日本料理のレストランもあったし,ショッピングをしたり散策をするにはもってこいのところであったから,もっと時間をとってゆっくりと観光をすればよかったとこれを書きながら思う。しかし,現実は,この日の異常な暑さが私を怠惰にした。
 この町での見どころは私が行った「ギャッツビーズタバーン」の他には「魚雷工場美術センター」と「アレキサンドリア・ウオーター・シーボート・クルーズ」であった。暑さから逃げ出すために,私は,ポトマック川を40分かけて航行するというこのクルーズに乗りたくなった。ちょうど乗り場のある場所が「魚雷工場美術センター」だったから,とりあえず,この建物に入って涼をとった。

 「魚雷工場美術センター」(Torpedo Factory Art Center)は第2次世界大戦時に魚雷の製造工場だったところで,現在は有名アーティストのギャラリーとなっている。とはいえ,私はほとんど興味がなかった。
 クルーズはアドミラル・ティルプ号(The Admiral Tilp)という小さな船に乗ってガイドがアレキサンドリアやポトマック川の歴史などを説明してくれるものであった。乗り場はわかったのだが,そこにはウオータータクシーの乗り場などの表示はあれど,私の乗りたいクルーズの乗り場の表示がない。大概はどこのハーバーも客引きがいるのだが,そうしたやる気すら感じられなかった。目の前に停泊していた船に船員がいたので聞いてみると,クルーズはこの船だと言うではないか。そこで,チケットを購入してさっそく乗り込んだわけだった。
 船が港から離れてポトマック川に出ると,遠くにワシントンンDCの景色がきれいで,最高の船旅になった。また,空には,レーガン空港を離着陸する航空機が絶えず飛んでいてそれを眺められた。

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 明るい彗星も次第に地球から遠ざかり,次第に夜空が寂しくなってきました。6月3日の明け方の東の空にパンスターズ彗星(2015ER61 PanSTARRS)を写したことはすでに書きました。
 私は日本の天文雑誌は物質欲をあおるだけなので購読していませんが,「星ナビ」の6月号と7月号が創刊200号記念で「宇宙写真200」という特集があったので保存版ということで購入して何気なく見ていたら,クラーク彗星(71P Clark)が見られると書かれてあったのでびっくりしました。こそで改めてステラナビゲータで検索すると,なんと,私が星見に行った6月3日はさそり座のアンタレスの近くにいたということがわかってずいぶんと後悔しました。
 こんなことなら写しておけばよかったと…。

 しかし,考えてみれば,この時期のさそり座やいて座の星野が美しかったので,アンタレス付近を写してあったのを思い出して改めて6月3日の写真を探してみることにしました。それが今日の1番目の写真です。アンタレスがあまりに明るくて光害防止のためにつけているフィルタのゴーストがひどい写真なのですが,この写真の右下に,ちゃんと彗星が写っているではないですか!
 これは奇跡的なことです。画角はわずか3度ほど,しかも狙って写したわけでもないのに10等星よりも暗い彗星がぎりぎりに入っていたなんて,まさに奇跡でした。

 クラーク彗星は1973年6月9日にマイケル・クラーク(Michael Clark)さんが13等星で発見した周期5.5年の彗星なのですが,発見された場所がニュージーランドのマウントジョン天文台ということでした。
 これにもまた驚きました。
 マウントジョン天文台(Mount John University Observatory)というのは,ニュージーランドのテカポの丘の上にある天文台です。私が昨年の秋に行ったところです。この天文台のある場所は2番目から4番目の写真にあるように,風光明媚なところで,世界一星空が美しいということで売り出し中のテカポ湖の西にあります。
 お昼間は天文台まで車で登ることができて山頂には喫茶店があります。また,夜は星空観察ツアーに参加すれば登れます。

 マウントジョン天文台には5台の望遠鏡があります。
 もともとは1960年にアメリカペンシルベニア大学の研究者が南半球での天体観測を目的としてニュージーランドのカンタベリー大学と共同で設置したものですが,ペンシルベニア大学の研究者が定年退職を迎えたことによって共同研究は終わりを遂げて,1975年からはカンタベリー大学の付属研究施設となりました。1986年2月にMcLellan社製の口径1メートル望遠鏡を設置しましたが,これがこの天文台で最大のものです。いわば個人天文台を少し大きくした程度のものです。

 行ってみて思ったのですが,この場所は確かに観光客が星を見るには最適の場所でしょうが,天文台を作るとなると気象条件などでずいぶんと劣るのです。そこで,専門家の使用する望遠鏡を設置する場所としては,セロ・トロロ(Cerro Tololo Inter-American Observatory),チャナントール(Llano de Chajnantor Observatory),パラナル(Paranal Observatory),ラ・シヤ(La Silla Observatory),ラスカンパナス(Las Campanas Observatory)など,世界有数の天文台が林立する南米・チリにその役割を譲ってしまうようです。

DSC_3768IMG_2875 私は日本の道路の表示で非常にわかりにくいことがふたつあると書きました。そのひとつがセンターライン,もうひとつは交差点です。前回センターラインを取り上げたので,今日は交差点について書いてみましょう。

 1番目の写真がアメリカの交差点,2番目が日本の交差点の写真です。車の量が圧倒的に違うので単純には比較はできませんが,私が問題にしたいのはどの車線を走ればよいのかということがわかりやすいか,という点です。
 アメリカの道路では,それぞれの車線ごとにきちんと標示がされているので,自分の走っている車線に疑念を抱かないので,交差点直前で車線を変更せざるを得ないという状況が生まれません。それに対して,日本の道路は,この写真では4車線あるのですが,この先交差点に差し掛かったときに,一番左の車線がそのままなのかあるいは左折帯ができるのか,一番右の車線が右折帯だけなのか,そういった情報が皆無なので,結局車は中央の2車線に集まってしまいます。この先には信号機があるのですが,それも見づらく,よくわかりません。アメリカでは,交差点に車線ごとに信号機があるので,自分の走っている車線の信号機をみるだけでよいのです。たとえば5車線あれば信号は5つあります。

 ちなみに,アメリカの交差点は直進の前に左折(日本では右折)信号が青になります。日本のように,右折時に交差点の真ん中で直進車が過ぎるのを待つといったアクロバティックな状況は生まれません。さらに,日本の運転はかなり乱暴で,信号が赤になってからも直進車が猛スピードで交差点に突っ込んでくることがあって,そうなると右折車は曲がることすら危険な状況になります。先に右折させるべきだと私は思います。 
 このように,わずかばかりの道路標示の工夫だけで走りやすさに格段の違いが生じるわけです。私は,日本の交差点は事故を誘発するように作られているとしか思えないことすらあります。

◇◇◇
愛しきアメリカ-道路のイエローライン
愛しきアメリカ-続・道路のイエローライン

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●ギャッツビーズタバーン●
 アレキサンドリアにある歴史的建造物で1番の見ものは「ギャッツビーズタバーン」(Gadsby's Tavern)ということであった。タバーンというのは英語で居酒屋のことであり,日本でも気取った居酒屋ではこの名がある。
 この「ギャッツビーズタバーン」の公開は10時からということであったが,私が着いたときは,すでにはじめのツアーがはじまっていて,次のツアーは30分後と入口に掲げてあった。
 この建物もまたアメリカのそうした観光地同様に,派手な看板などまったくなく,単に入口にそうした掲示があるだけで,入るのもはばかられる感じであった。

 入口にはもうひとり,私のようにこの建物を目当てに来た若い女性が立っていた。どこからお見えですか,などというたわいのない話から親しくなったが,ではまた30分後に来ます,と言って,私は一旦前回書いた市場へ行った。
 30分後に戻ってきたらそのときの女性がいた。彼女に招かれて建物に入ったら,実は,その彼女が今回のツアーのガイドであった。
 ツアーは人が集まり次第開始,ということであったが,参加者は私ともうひとり別の女性のふたりであった。彼女の案内で,建物のなかを存分に見学した。
 アメリカでは,見学というのは大概こうした親切なそして博学なガイドさんと一緒で,日本の寺院のように自由に見学するというのはまれであるから,旅慣れていない,かつ,英語の苦手な人だと居心地が悪く困ってしまうであろう。いわば,京都へ観光に来た外国人が伏見の寺田屋を観光しようとなかに入って日本語のガイドさんに連れられて見学コースをまわるようなものである。

 このタバーンという歴史的建造物はアメリカ初期のもので,1785年に建てられたジョージアスタイルの居酒屋と1792年に建てられたフィラデルスタイルのホテルからなっている。 
 「ギャッツビー」というのはこの居酒屋の最盛期に経営をしていたイギリス人の名前「ジョン・ギャッツビー」(John Gatsby)にちなんだものである。
 当時,この居酒屋はアレキサンドリアの政治,ビジネス,文化の中心となっていた。1階は居酒屋とレストランであった。2階にはベッドのある居間と,その隣がホールになっていた。このホールでは結婚式,舞踏会,演劇会,集会などが開かれていて,トーマス・ジェファソン(Thomas Jefferson),ジョン・アダムス(John Adams),ジョージ・ワシントン(George Washington)もここをよく訪れていたという。
 19世紀の終わりごろまで栄えていたが,その後は荒廃し1972年に市へ寄贈され1976年に博物館としてオープンしたというものであった。

◇◇◇
私の訪れたアレキサンドリアで,6月14日午前7時ごろ,共和党の連邦下院議員スティーヴ・スカリス(Steve Scalise)らが男に銃撃されるという痛ましい事件が起きました。現場はユージーン・シンプソン・スタジアム・パーク(Eugene Simpson Stadium Park)で,スカリス氏は共和党議員らでつくる野球チームの練習中だったということです。事件が起きた場所はアレキサンドリアと報道されていますが,このブログに書かれているアレキサンドリアのダウンタウンからは北に2マイル(3.2キロ)ほど離れた場所です。

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 日本で車を運転すると,本当にハッとすることが多々あります。その理由は,道路の表示が非常にわかりにくいことにあります。特に,アメリカで運転をするのに慣れてしまった今,そのわかりにくさが理解しがたくなってきました。しかし,そんなことを友人に話しても,だれも理解してくれません。アメリカで走ったことがないからです。
 
 私がこだわっているのは次のふたつのことです。そのひとつはイエローのセンターライン,もうひとつは交差点の信号機の数ですが,今日はイエローのセンターラインを取り上げます。
 日本の道路のイエローラインが私には理解不能です。ときにはセンターラインが黄色であったり,また,ときには交差点の車線変更禁止であったりします。
 アメリカでは,イエローラインはセンターラインのことです。

 今日の1番目の写真をご覧ください。これは日本の道路ですが,この道路,片側1車線の道路なのか,それとも,片側2車線道路なのかわかります? 右側の車線は通行帯なのか,あるいは対向車線なのかわかりますか?
 日本の道路はこういうのがものすごく多いのです。これでは高速道路で逆走をするもの無理はありません。
 2番目の写真はアメリカの道路ですが,この道路は,片側2車線の道路だと容易にわかります。なぜなら,左側,アメリカは右側通行ですから左に中央分離帯があるのですが,一番左のラインだけがイエローラインだからです。

 私が言いたいのは,たったこれだけのことなのです。
 ちなみに,日本で交差点で使われている車線変更禁止のイエローラインは,アメリカでは白の実線ですが,アメリカのさらに優れているのは,左折(日本でいうことろの右折)の場合,左折ラインが2本以上あれば,曲がった先の道路までこの実線が続けて書かれていて,交差点の途中で車線変更をするという危険が回避されるようにさえなっているということです。
 道路に意味のもたない矢印を引いたり,逆走防止用の注意書き設置したり,やたらと道路にポールを立てたりと,工夫して何かをするたびに余計わかりにくく危なくなるだけなのに,どうしてそんなことが理解できないのでしょう。もっと単純でいいのです。日本の道路は,日本人の無意味で非効率な労働時間の長い日本の会社と同じ類のものであると,私は思っています。
 勉強時間も労働時間も,長けりゃいいってもんじゃないのです。道路だって,やたらと線が引いてありゃいいってもんじゃないのです。

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愛しきアメリカ-道路のイエローライン

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●古都アレキサンドリアへ行く。●
☆11日目 8月6日(土)
 この日私は1日かけてスミソニアン航空宇宙博物館の別館であるウドバーハジーセンターに行くつもりであった。
 ウドバ―ハジーセンターはワシントンDCのダウンタウンから遠い。しかし,これはまったくの偶然であったが,私の宿泊したホテルの最寄り駅イーストフォールスチャーチ駅からならば,そのままシルバーラインの西向きに乗って終点のウィウハルレストンイースト(Wiehle-Reston East)駅で降りてバスに乗り替えれば行くことができるのだった。
 このシルバーラインはウドバ―ハジーセンターのあるダレス国際空港まで延長する予定なのだが,まだ完成していない。
 しかし,すでに書いたように,私は4日前にウドバーハジーセンターに行くことができたので,この日の予定が空いてしまった。そこで35年前には行くことができなかったワシントンDCの郊外にまで足をのばすことにした。いろいろ調べた結果,そのなかで最も魅力的であったアレキサンドリア(Alexandria)へ行くことにした。

 アレキサンドリアまではイースフォールスチャーチ駅からワシントンDCのダウンタウン方向である東向きに5駅行って,昨日,アーリントン国立墓地に行くときに下車したロズリン駅でブルーラインに乗り換えて南へ7駅,キングストリート・オールドタウン(King Street - Old Town)駅で降りればよいのだった。
 その途中,地下鉄は,ロナルドレーガンワシントンナショナルエアポート駅に停車した。空港はこの駅の目の前だから非常にアクセスがよい場所にある。しかし,この空港が手狭になったのでその役割をダレス国際空港に譲って国内線専用の空港になったのである。それに対してダレス国際空港は非常にアクセスが悪く,日本から空路ワシントンDCに行くのは結構大変である。
 ちなみに空港からダウンタウンに鉄道でアクセスのよいアメリカの大都市はオレゴン州のポートランド,サンフランシスコ,ミネアポリス,フィラデルフィア,シカゴ,アトランタ,ニューヨークといったところであろうか。アメリカでもこれらの都市なら車を借りなくても観光ができるところだ。

 30分ほどの乗車で私はキングストリート・オールドタウン駅に到着した。アレキサンドリアはこの駅からポトマック川に向かってキングストリート沿いにダウンタウンが続いている。
 無料のトロリーバスがあるということだったがまだ朝早く走っていなかった。
 アレキサンドリアはアメリカ合衆国の建国前の1749年に港町としてスコットランドの商人によって造られた町である。今でも当時のままの石畳にレンガ造りの建物が続き歴史保存地区に指定されている。いわば,アメリカ版の高山市である。
 それにしてもこの日は暑かった。早朝とはいえ,すでに歩くと汗が噴き出してきた。しかし,私の強烈な運の強さがこの日もまた発揮された。キングストリートを歩いていくと,市庁舎前の中庭に到着した。ここでは260年以上も続くアメリカで最も古い市場が今も毎週土曜日の7時から12時まで開かれているのだが,今日がまさに土曜日だったのだ。私はそんなことはまったく知らなかった。
 ここではとれたての野菜や果物,ホームメイドのパン屋スイーツ,花などの露天が所狭しと100以上立ち並んでいた。アメリカでこうしたマーケットに出会って歩きまわるのは本当に楽しいものである。

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●ワシントンDCの便利な地下鉄●
 ホワイトハウスまで行ったので,私はホテルに戻ることにした。どこも観光客が多いことに加え,とても暑くて,しかも歩く距離が長いので,年寄りには堪えるの だった。
 ワシントンDCの移動は地下鉄が便利で,ほとんどの場所に行くことができる。地下鉄は東西を横断するオレジラインとシルバーライン,南北を縦断するイエローラインとブルーライン,そして,北側をUの字に走るレッドラインと東からダウンタウンを通って南に行くブルーラインがある。ただし,車両が色分けされているわけではないから,駅の案内板で行き先を確認して乗り,車内放送などで乗換駅を聞いて降りる必要がある。車内放送はわかりにくいので路線図を片手に駅を見ながら自分の降りる駅を確認したほうが無難だ。
 私の泊まっているホテルはオレンジラインとシルバーラインを使えば,最寄り駅であるイーストフォールスチャーチ駅に行くことができるのでとても便利であった。

 ワシントンDCの治安は,ダウンタウンの北を東西に横断するUストリートやUストリートを越えた北西のアダムス・モーガン地区,ダウンタウンの南を流れるアナコスティア川より南が悪いと書かれているのだが,それ以外は大丈夫である。つまり,中心街は問題ないということだ。また,観光客が殺人事件に巻き込まれたケースは長い間一件もないということであるが,私はチャイナタウン近くのマクドナルドでさえ,やばそうだ,と感じたから,スリなどはどこでも気を付けたほうがいいと思う。

 私は地下鉄に乗ってイーストフォールスチャーチ駅で降り,ホテルまで少し遠回りして,ホテル周辺の町を散策することにした。
 郊外の住宅地であるこのあたりは,気の利いたレストランもたくさんありそうだったので期待したのだが,ちょっぴり高級そうなレストランばかりで,どこに入ればよいかかわからなくなってしまった。
 ひとり旅をしているときに一番困るのが夕食である。一般に旅慣れている人は複数で旅をすることを嫌う。それは,興味も行動のペースも違うからである。ただし,夕食だけは一緒がいいというのが,ほぼ共通した意見である。
 アメリカには,日本と同様にファミリーレストランがたくさんあって,ひとりならファミリーレストランが最も無難である。中華料理店も安くてボリュームがあるが,中華料理店のなかにはテイクアウトを主にしているところも多い。また「パンダエクスプレス」(Panda Express)という中華のファーストフード店もあって,これは,客層はあまりよくないけれど,おなかは満たされる。西海岸には日本料理店もたくさんあるが,日本料理店は中華料理店よりもすこし高級のイメージがある。
 ホテルの近くにもそうした店があるのを期待したが,どこも少し金持ち相手のレストランばかりであった。おまけにこの日は金曜日であった。

 困ってしまって,結局入ったのはシーフードレストランであった。名前を「チェイスン・テイルズ」(Chasin'Tails)という。ここはバケツ一杯入った生ガキが食べられるというのが売りの店であった。こちらではかなりの評判店なのであろう。
 しかし,ひとり客の私が食べられそうなものはなく,結局迷った結果,手羽先もどきのものとパンを食べるはめになった。
 面白かったのが座席で,私が案内されたのが夕日の眩しい席であったから,私はその席を変えてもらったら,次に来た客もまた,同じ席を案内されて,その客もまたそれに気づいて席を変更し,また,その次の客が同じようにその席に案内されて,また,変更し… を繰り返していたのだった。なんとアホな店員であろうことか。
 手羽先もどきは非常に美味ではあったが,私には,そんなものよりも吉野家の牛丼のほうご馳走に感じられた。
 
 食事を終えて,ホテルに戻ったが,このホテル,私がチェックイン時間以前にあてがわれた部屋に,別の客が,今まさに案内されようとしていたところであった。もし,もう少し遅く帰っていたら,部屋にはカバンがあったからどうなっていたことであろうか? フロントにいた係の女性は,私のチェックインしたのとき係とは別人で,係の女性は私がチェックインしたときに担当した女性の無能さに腹を立てているようであった。なんだか毎度繰り返されているミスのような感じであった。
 なお,今日の最後の写真は,前回書いたホテルの廊下にあったスターバックスコーヒーのマシンである。

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 沓掛坂を下りていくと,国道1号線のバイパスの橋梁がそびえていて,その下には国道1号線が走っていました。ガードをくぐり,少し迂回して国道1号線の横断歩道を渡ると,その先が日坂の宿場跡でした。
 日坂は,古くは入坂,西坂,新坂など様々な字で書かれていたそうで,もともとは小夜の中山峠の西に在ったので西坂と呼ばれていたという話です。
 この,今もほとんど江戸時代そのままに残る日坂宿も,旧東海道の宿場町が明治以降に国道1号線が離れたところを通ったためにそのままの形で残っているいくつかの宿場跡のひとつです。このような町並みこそ日本人の心の原点です。
 町の道路はどこも車がすれ違うのがやっとという道幅であり,道路の両側にある家並みは江戸時代の雰囲気を残しています。

 私が住む町もそうなのですが,このような形で残った町が今もなお,いたるところにあります。もし,太平洋戦争で空襲を受けなかったら,もっと多くそうした町が残っていたことでしょう。
 しかし,そのほとんどは,そのまま残すなら残す,あるいは道路を拡張して再開発するなら徹底的にそうすればよかったものの,生きることだけで精一杯でそうした余裕のない時代に,家を建て替えてしまっていたりするので,今になっては道路を広げようとしてもなかなか家が立ち退かなかったりして,小学生の乳歯のはえ代わりのようにずいぶんと居心地の悪い形になっているところが多いものです。
 車の通る広い道路はそうした町の道路を広げるのではなく別の場所にバイパス化して,できるだけこうした道幅のまま自然に発展させた方がよかったのでしょうが,それもまたままならないことです。

 しかし,旧東海道の宿場はどこもプライドがあるようで,その堂々とした雰囲気を残そうとする機運が強く,多くは今でも訪れる価値があります。
 この日坂宿もまた,きちんと古い史跡が保存復元されています。また,町ぐるみで当時の屋号を掲示したり,古い立派な神社や旅籠を残したりしています。
 日坂宿は,宿場の東口から西口までの距離はおよそ700メートルで,町並みの形態は今も同じ形を保っています。1843年の記録によると,家数が168軒,人口が750人,本陣1軒と脇本陣1軒,旅籠屋が33軒あったということです。大井川の川止めや参勤交代で,当時はかなりの賑わいだったそうです。
 この町はいまでも江戸時代の格好をした人々が歩いて出てきそうな雰囲気です。私が歩いたのは平日だったので,保存されている旅籠は残念ながらなかに入ることができませんでした。

 宿場町の出口には治安維持のために木戸,つまり門が作られていたのですが,小さな日坂宿の場合,川にかかる橋が木戸の代わりをしていたという説明がありました。その場所はまた高札場であり,これも復元されていました。
 さて,こうして私は金谷宿から日坂宿までの難所を歩くことができました。しかし,日坂宿を出て,その先旧東海道は国道1号線に合流したり,また離れたりしながら,平坦な道路が延々と8キロも続き,そこを歩かないとJRの掛川駅に行くことができません。路線バスもあるのですが,2時間に1本程度の運行です。
 このように,今回の私が歩いたJRの金谷駅から小夜の中山峠を越えて日坂宿へ行くというコースは,結構たいへんなものです。日坂宿からJRの掛川駅までのつまらない8キロを歩きたくないのなら,バスの時刻を調べてから出かける必要があるでしょう。
 その間の史跡といえば,伊達方,葛川といった一里塚跡くらいのものです。一里塚をふたつも越すわけですからゆうに8キロあるわけです。

 掛川まで歩き通して,やっと市街地に入ったところに,敵軍の殺到を防ぐために作られたというややこしい七曲がりがあって,それをすぎて,JRの掛川駅の到着しました。金谷駅を9時30分に出発して,午後1時30分でしたから,4時間の歩きでした。
 掛川の駅で,少し遅いおそばの昼食を食べました。
 私は,この退屈な8キロの間,なぜか,この時代に限らず,人が生きるということの困難さを思い巡らせてしまって気が滅入ってきて,すごく憂鬱になりました。やりきれない気持ちでした。そんなわけで,まったく楽しくない1日になってしまいました。

 これで,私は静岡県の旧東海道のその面影をのこした宿場のほとんどを歩くことができました。調べてみても,これ以外は,都会のなかをとおる旧東海道ばかりなので,魅力を感じません。そこで,この次は,もうひとつの難所といわれる三重県から滋賀県にかけての鈴鹿峠をめざすことにしようと思っています。JR関西本線の「関」駅から近江鉄道本線の「土山」駅まで宿場としては関,阪の下,土山と3つあって,その間は30キロ,6時間のコースらしいです。

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 「小夜の中山峠」を越えると緩やかな下り坂が続いていきます。
 私は,ここまで登ったのだから,あとは降るしかないだろうと,そう確信することにしましたが,実際,そうでした。それでもなおこのときは,歌川広重が描いた東海道五十三次の「日坂」宿の険しい坂道が気になっていました。
 このあたり,旧跡や歌碑が多くあったので,今日はそれを紹介します。

 久延寺の前には接待茶屋跡があり,少し行くと扇屋という茶店がありました。扇屋は江戸時代創業の茶屋で,夜泣き石伝説にちなんだ「子育て飴」が名物です。残念ながらこの茶店は土日と祝日のみの開館でした。
 その先には西行法師歌碑がありました。焼失した東大寺再建のためにみちのくへ砂金勧進の旅をし,二度目の峠越えをした折に,若き日にこの峠を越えたことを思い出した69歳の西行が
  ・・・・・・
 年たけてまた越ゆべしと
  おもひきや
   命なりけりさやの中山
  ・・・・・・
と詠ったものです。

 その次にあったのが佐夜鹿一里塚で,ここは日本橋から数えて54里ですが,言い伝えによると56番目の一里塚ということでした。
 一里塚のあとに
  ・・・・・・
 東路のさやの中山なかなかに
  なにしか人を思ひそめけむ
  ・・・・・・
という紀友則が古今和歌集で詠んだ歌碑がありました。
 次いで白山神社,そして馬頭観音がありました。馬頭観音は蛇身鳥退治に京の都より下向して来た三位良政卿が乗ってきた愛馬を葬ったところという説明がありました。
 その先が妊婦の墓でした。妊婦の墓は松の根元で自害した妊婦小石姫を葬ったところです。
 そして,涼み松がありました。かつて夜泣石のあった路の傍らに大きな松があり,芭蕉がこの地で休み
  ・・・・・・
 命なりわずかの笠の下涼み
  ・・・・・・
と詠んだことに因み,この松を涼み松というようになったといういわれがあります。
 その先に夜泣石跡がありました。夜泣石伝説はすでに書いたものです。この夜泣き石は高さが約90センチ,直径60センチの丸石で「南無阿弥陀仏」と彫ってあります。1881年に東京で開催された内国勧業博覧会に出品され,その後,小泉屋の脇に移されたということです。
 さらに,芭蕉の句碑がありました。
  ・・・・・・
 馬にねて残夢月遠し茶のけぶり 
  ・・・・・・

 このあたりでなだらかな坂が終わり,ここから道も狭くなり,急な下り坂が延々と続くようになりました。これこそが,まさに,歌川広重の描いた東海道五十三次の日坂の絵図にある「沓掛坂」でした。私は,この坂を下りながら,反対にこの坂を登らなくてよかったものだと思ったことでした。

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●35年前の軌跡をたどる。●
 私には2度目のワシントンDCであった。前回来たのが1981年のことだから35年前であったが,そのときに行くことができなかったアーリントン国立墓地の海兵隊戦争記念碑(硫黄島記念碑)に行くことができたから,今日の目的は達成した。
 国立墓地を出てメモリアルアベニューを歩くと地下鉄の駅に着いた。このまま地下鉄でホテルに戻ってもよかったのだが,まだ帰るには早かったことと,目の前に1番目の写真のポトマック川を渡るアーリントンメモリアルブリッジがあり,その川の向こうにはワシントン記念塔が見えたものだから,その意外な近さに驚いて,ワシントン記念塔の向こうのナショナルモールに行くことを決めたのだった。

 結局,この日,私はナショナルモールをさらに歩いて,ホワイトハウスまで行った。この場所は,ワシントンDC観光の定番コースであり35年前にも同じように歩いたが今回再び歩いた印象は,ずいぶんと古びたなあ,ということであった。これが歳月ということであろうか。
 はじめてここに来た時は,この広大なアメリカ合衆国の首都を見て,よくもまあこんな国と戦争をしたものだ,と思った。その印象があまりに強かったものだから,私のワシントンDCの思い出は35年前のままであった。
 その時代,アメリカでは大都市の中心部はどこもスラム化が進んでいて治安が悪く,それにもまた驚いたものだった。その後の好景気で,いくつかの都市を除いて,アメリカの大都市は再開発が進み,新しい高層ビルが立ち並ぶようになったが,ワシントンDCのナショナルモールの周辺は35年前そのままの姿であった。ただし,美しかった芝生も枯かけていたり,あるいは修復の工事中だったりした。そしてまた,観光客が異常に多かった。

 奈良時代からすでに,日本は大陸の脅威におびえ,それは今も相変わらず同じだが,それに対抗するために,庶民は弥生時代同然の暮らしをしていたのにもかかわらず,巨大な平城京,そして,平安京を作り上げた。今,東京の皇居から霞が関あたりに行くと,やはり,その広大な敷地に驚く。こうした「大きさ」というものこそが「権威」なのであろう。その大きさに人々はひれ伏すのだ。そしてまた,ある人は何か勘違いをし,そうした権威を手に入れようとして一生を棒に振るのだ。
 しかし,歴史を学べば容易にわかるように,幸せな人生をおくった権力者などいないわけで,人として最も幸せな生き方というのは,自由をいかに手にいれるか,ということなのだが,そのことが最も難しい。
 私は,こうした「権威」を目の前にすると,いつもそうしたことを思う。

 さて,今日は,どこにでもある写真であるが,この日に私の写したワシントンDCの観光の定番をご覧ください。
 2番目の写真がリンカーン記念館(Lincoln Memorial)である。古代ギリシアの神殿を模した白亜の記念館には椅子に腰かけた5.8メートルのリンカーンの座像がある。この座像には
  ・・・・・・
 IN THIS TEMPLE
 AS IN THE HEARTS OF THE PEOPLE
 FOR WHOM HE SAVED THE UNION
 THE MEMORY OF ABRAHAM LINCOLN
 IS ENSHRINED FOREVER
  ・・
 エイブラハム・リンカーンの名声は
 彼に合衆国を救われた国民の心と同様
 この神殿に永遠に秘められる
  ・・・・・・
と刻まれている。

 そして,3番目の写真がワシントン記念塔(Washington Monument)である。高さが169メートルあり,最上階には展望台がある。以前は並べば容易に昇ることができたが,今は事前にインターネットで予約しないととてもでないが人が多すぎて昇ることが不可能になってしまった。
 アメリカの観光地には,馬に乗った警官の姿をよく見かけるが,これが4番目の写真である。考えてみれば,車なら渋滞して動かないところでも馬なら移動が容易なのであろう。
 そして,5番目と6番目の写真がホワイトハウス(White House)である。5番目のものが南側,6番目のものが北側で,南側は遥か遠くまでしか近づくことができない。非常にガードが厳しいのである。それに対して,北側はほぼ正面まで行くことができる。よくテレビに出てくるのは北側からのもので,ここで,プラカードをもって座り込んでいたりする姿も見ることができる。

 35年前に行ったときは,この北側からイーストウィングの見学コースに入ることができた。朝早く行ってワシントンDCの観光コースをまわる前に並んで,入館する時間の決められたチケットを入手するのがコツであった。現在は国会議員の紹介があれば入れるとか,いや,外国人は大使館の斡旋が必要だとか日本大使館では斡旋をしていないとか,さまざまな情報があるが,いずれにしても,日本からの観光客が入るのは不可能であろう。
 私は再びここに来ることができた興奮から,まわりの観光客たちに「私は昔ホワイトハウスのなかに入ったことがあるよ」と自慢げに話しかけていたのだった。

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●若いというのはすごいことだ。●
 チェックインを済ませ荷物を部屋に入れてから,私は再び外に出た。今度はインターステイツの側道を歩いていったら,思いのほかすぐに地下鉄の駅に出た。ただし,日差しを遮るものがないのて大変だった。それにまた,ここはサイクリング道路を兼ねていたので,多くの自転車が行き交っていた。
 短い滞在日程のなかで,まず,どこに行こうか考えたが,35年前に行くことができなかったところを優先することにした。
 若い人が旅行をするときには,これが最後だとは思わないほうがいい。この先,その気になればいくらだって行くことができるから,そうした将来を考えて,旅行の計画を立てるといいと思う。若いときこそ行ってみたほうがいいと思われる場所もあれば,歳をとってからのほうが有意義なところもある。

 などと書いてはいるが,そんなことを35年前私は夢にも思わなかった。そのときに来たワシントンDCで行ったのは,アーリントンの国立墓地にあるケネディ大統領の墓,ワシントン記念塔,ホワイトハウス,スミソニアン博物館,国会議事堂,造幣局,FBI,さらには,ウォーターゲートビルであった。当時は,観光客も今ほど多くはなかったし,セキュリティも今のようなことはなかったから,ワシントン記念塔も少し並んだだだけで昇れたし,ホワイトハウスの内部を見学することもできたし,さらには,国会議事堂の見学コースに行くつもりが,間違えて?! 国会の傍聴をすることになってしまった。
 その代り,私は,国立墓地では有名な海兵隊戦争記念碑(硫黄島記念碑)の存在を知らず行かなかったし,ポトマック川の存在を意識することもなかったし,ワシントンのダウンタウンなども歩くことができなかった。

 ホテルから最も近いのがアーリントンの国立墓地だったから,私は,まず,海兵隊戦争記念碑(硫黄島記念碑)へ行くことにした。
 数年前にニューヨーク行ったときにも思ったが,若いというのすごいものである。それほど語学力もなかったし,世のなかのことも知らなかったが,35年前の私が行ったところは,その多くが,今ではもう公開していないので入ることすらできない場所だったり,混雑していて入ることが困難なところで,今やろうとしても夢のようなことばかりなのである。こんなことができたのが,今の自分でも信じららないのだ。

 私はもうすでに乗り慣れたワシントンDCの地下鉄に乗って,アーリントン国立墓地(Arlington National Cemetery)を目指した。,アーリントン国立墓地へ行くには,地下鉄のブリーラインのアーリントンセメトリー(Arlington Cemetry)駅で降りるのだが,海兵隊戦争記念碑(硫黄島記念碑)は国立墓地の北にあるので,地図を見て,私はロズリン(Rosslyn)駅で降りることにした。ロズリン駅まではイーストフォールズチャーチ駅からはわずか5駅で,乗り換える必要もなかった。
 ロズリン駅を出ると,非常にきれいなビジネス街で,まさに,日本でいう副都心のようなところであった。

 なにせ,ものすごく暑い日で,そのなかをこのあとは歩いて行かなければいけないのだが,道案内があるわけでもないし,どこをどう歩けばいいのか,さっぱりわからない。
 後で知ったことには,アーリントン墓地へ行くにはアーリントンセメトリー駅で降りるべきなのだ。そうすれば,正門ゲートからなかに入ることができるし,循環バスにのって,園内を回ることができるわけだ。
 それを私はひとつ前のロズリン駅で降りたものだから,裏口入学のようになってしまった。こちらの方向だろうと見当をつけて歩いていくと,やがて私のめざす海兵隊戦争記念碑(硫黄島記念碑)(Marine Corps War Memorial (Iwo Jima Memorial))が見えてきた。思っていたより,はるかに巨大なものであった。

 1945年2月23日,太平洋戦争でアメリカ軍の日本侵攻のため,硫黄島上陸作戦が行われた。約1か月の激戦でアメリカ軍が勝利し,占領した証に兵士たちがアメリカ国旗を立てた。その姿をジョー・ロウゼンタール(Joe Rosenthal)がカメラに収め発表した。海兵隊戦争記念碑(硫黄島記念碑)は,写真を見た彫刻家のデ・ウェルダン(W.de.Weldom)がそれをブロンズ像に表現したものである。高さが10メートル,幅が20メートルで,たなびく星条旗は本物である。
 この場所は治安が悪く,日没後は行かないほうがよいらしい。

 私は,海兵隊戦争記念碑(硫黄島記念碑)を見てから,墓地に沿って南に歩き,ジョン・F・ケネディの墓,無名戦士の墓と回った。
 無名戦士の墓は1948年以降,陸軍第3歩兵隊(The Old Guard)の衛兵によって雨の日も風の日も24時間警護されている。衛兵はライフルを片手に墓地を21歩,21秒で往復し,方向転換をする。そして,30分おきに交替式を行い,その姿は見ることができる。21というのは国際的な儀典礼式にならい「敬意」を表すものである。
 アメリカでは国を守るということに対してこれだけのリスペクトをはらっているのである。

 国立墓地はすでに来たことがあるとはいえ,思ったよりもずっと広く大変であったが,なんとか逆回りにして国立墓地のビジターセンターに行き,そこから正門をくぐって外に出た。
 海兵隊戦争記念碑(硫黄島記念碑)にはほとん観光客がいなかったが,正門のあたりにはバスもたくさん停まっていて,すごい観光客であった。有名な海兵隊戦争記念碑(硫黄島記念碑)であるが,墓地からはかなり遠いので,35年前に行くことができなかったのも無理のないことだったなあと,このとき知った。

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 今日紹介するのは「最後の秘境 東京藝大」という本です。
 NHKホールで行われているN響定期公演では,以前「開演前の室内楽」がロビーで行われていました。N響団員さんたちの超一流の演奏を身近に聴くことができるので,とても楽しみでした。それとともに,ステージ上では味わえない,ときにはアクロバティカルな,そして常に心にしみる,そういう演奏を目の当たりにして,この人たちはものすごい才能を持った人たちなんだと,深く感動しました。
 そうした「天才」たちの集まる大学こそ,東京上野にある東京藝術大学,つまり東京藝大です。私は一度,ほかの大学のようにキャンパスを歩いてみようと音楽学部の門をくぐった瞬間にガードマンに制止させられて,なんだこの大学は? と思ったことがありましたが,このこともまた,この本を読んでその謎が解けました。
 私はこの面白そうな本を本屋さんで見つけてずっと気になっていたのですが,今回,図書館にあったので,借りて読んでみました。そして,予想以上だった内容に,ものすごく元気が出ました。

 東京藝大は上野駅を背にして左側にあるのが美術学部で右側にあるのが音楽学部ですが,どうやら,このふたつは「藝術」という名でくくりこそすれ,その性格は全く異なるようです。
 この本によると「まるで町工場のような美校の校舎と厳格なセキュリティに管理された音校の校舎。ほぼ全員遅刻の美校と時間厳守の音校」なのだそうです。
 本を書いた二宮敦人という人は現役の藝大生を奥さんにもつことから,この大学に興味をもって取材をはじめたということですが,その取材力と文章力で大学の実態が生々しくよみがえります。私は,はじめのうちかなり興味本位に読みはめたのですが,それがそれが,この地こそ,この国が効率と成果主義という名のもとで葬り去った古きよき大学のアカデミックさが今も残る最後の殿堂,ということがとてもよくわかりました。
 「最後の秘境」というよりも,まさに,人が人としてありうるための「文化」の根源である「学問」に浸れる最後の総本山と思われるれる東京藝大。この本は,この学門の「聖地」に潜入し,全学部・全学科を完全踏破した貴重な探訪記なのです。

 藝大生の多くに知られる仮面のヒーロー「ブラジャー・ウーマン」は,まさに,この大学の姿を象徴する姿として描かれています。「ブラジャー・ウーマン」とは,ブラジャーを仮面のように顔をつけて上半身はトップレス。乳首の部分だけ赤いハートマークで隠して下半身は黒いタイツというヒーローで,そうした姿で大学内に出没するのだそうです。そしてまた,藝大の卒業生の半分くらいは行方不明だとか。
 これぞまさしく真の「自由人」の姿ではないですか。
 私は,人が最も幸せに生きることができる究極の姿というのは,限りない自由を手に入れることだと思っています。自由というのは,地位とか名誉とは真逆の世界です。地位を手に入れるというのは最も愚か者の生き方で,そこにはもれなく責任という重しがついてきて,それは,自由とはまったく正反対の不自由な世界に向かうわけだから,そういう地位を手に入れることを目的として入学する「東京大学」と,自由を手に入れるために入学する「東京藝術大学」というのは,まさに,似て異なるものなのです。
 私が通っていたころの古きよき大学は,教授は傘を持っていないから雨が降れば休講,といったことが当たり前に行われていたし,社会のどこかしこにもこうした良心的な狂気があって,その洗礼を受けて子供は大人になったものです。今ではそんな狂気もすっかりなくなって,「大人になれない子供のままの大人が大人になりたい子供を大人にしない」教育が,社会全体を幼稚園にしてしまっているこの国ですが,依然として,こうした「聖地」が残っている以上,まだまだ捨てたものではないなあと,私はすっかり気を強くし感激したのでした。
 どうか政府軍の圧力に屈して,自由の最後の砦である「上野」が陥落しませんように…。

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●クレジットカードがスキミングされた!●
 ワシントンDCの地下鉄も,日本の郊外と全く同じで,私の降りたイーストフォールチャー駅は地上の高架にある駅だった。グーグルマップで調べてあったから,私は,日本にいるときから,この駅付近の様子はわかっていた。
 すでに書いたことだが,私はニューヨークへ行ったときもサンフランシスコへ行ったときも,ダウンタウンまで15分から30分程度の郊外の地下鉄の駅近くにホテルをとったが,このワシントンDCで私が予約した場所は,そのなかでも特に想像以上に便利なところであった。この場所は治安も全く問題がなく,郊外の静寂な住宅地であった。ひとつ問題があるとすれば,ホテルの近くには「適当な」レストランがなかったということだけであった。

 ここで,少し話題がずれる。
 この旅で,私はワシントンDCを予想以上に楽しむことができた。ホテルも申し分なかった。
 ただし,クレジットカードをワシントンDCで使用したときにスキミングにあったらしく,日本に帰国して3か月ほどしたあとで,アメリカのアマゾンコムと,もうひとつ,私のまったく知らないファッショングッズの通信販売で使われたのが発覚したのだった。
 ネットで支払いの詳細をチェックしていたときにそれを見つけカード会社に連絡した。幸い銀行で引き落とされる前だったので引き落としを中止してもらい,クレジットカードは即座に番号を変更して再発行してもらった。その後,不正利用が証明されるのにさらに数か月を要したが,結果として私に損害はなかった。
 カードがスキミングにあったのは,おそらく,ワシントンDCのレストランでクレジットカードを利用したときであろう。アメリカでは,レストランの精算ではクレジットカードを店員に渡すからである。
 私は,カードを用途ごとに使い分けているからよかったが,もし,公共料金などの引き落としにも同じカードを利用していれば,カードの番号を変えればさらに多くの手続きが必要になっていたことだろう。

 こういうことが起きても,私は,クレジットカードは現金よりもはるかに安全だと思っている。日本では,未だ,現金しか使わない人も多いが,ずいぶんと危険でかつ無駄なことをしているものだと,私は思う。ただし,クレジットカードは使い方次第であるし,その危険性を理解していなければならない。私は用途ごとに使うカードを分けているのだが,これもひとつの方法であろう。
 そうしたこともあって,せっかく楽しかったワシントンDCの思い出が,このクレジットカードのスキミング事件で台なしとなってしまった。

 さて,話をもとに戻そう。
 駅からホテルまでは,写真にあるような清楚な住宅街で思ったよりも時間がかかった。暑いのでカバンを転がして歩くのは結構大変であった。しかし,このあとわかったことだが,高速道路の側道を歩けば5分くらいの距離であった。
 歩いてたいへんな距離ではなかったが,坂があることや,日差しが強く,真夏の炎天下が体に堪えた。アメリカの東海岸は日本と同じような高温多湿な気候なので,夏にわざわざ観光旅行で行くようなところではないのかもしれない。
 やがて,予約してあったホテルに到着した。まだチェックインの時間よりは早かったが,部屋に入ることができた。部屋は写真のように広く,私ひとりではもったいないほどであった。このホテル,廊下にスターバックスコーヒーの器械があって,自由にできたてのコーヒーを飲むことができたのがとてもよかったし,ちゃんとした朝食もついていた。

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●ワシントンDCの地下鉄●
 私はこの旅でワシントンDCを観光するにあたって,一番大変だったのはホテルを探すことであった。これは,アメリカの大都市を旅するとき共通の悩みである。
 シアトルのようなよく知っている都会ならともかく,どこに宿泊すればよいのかがわからないのである。私のような一人旅ではダウンタウンのホテルの宿泊代は異常に高いのでなるべく郊外に泊まりたいのだが,車を使わないならば,フィラデルフィアでもそうであったが,公共交通機関の最寄りの駅に近くでなければならないというのがホテル探しの最大のポイントである。

 ワシントンDCの地下鉄の路線図を見ながらホテル探しをして,私がようやく見つけたのは「イーストフォールチャーチ駅」(East Fall Church Metor Station)から歩いて5分ほどのところにあるエコノロッジメトロ(Econo Lodge Metro)という名のホテルであった。この「イーストフォールチャーチ駅」というのは,ワシントンDCのダウンタウンから西にポトマック川を渡ったバージニア州アーリントン地区にあって,地下鉄のオレンジラインとシルバーラインの駅である。ダウンタウンまでは15分程度で行けるので,理想的なものであった。
 問題は,夜,駅から歩いてホテルに戻るときの治安だけであったが,この場所なら特に問題はなかろうと思った。

 ワシントンDCのユニオン駅はさすがアメリカ合衆国の首都だけのことはあって,かなり立派な総合駅であった。とはいえ,新装なった東京駅のような豪華さを期待してはいけない。
 思うに,アメリカで豪華なのは空港である。これは日本とは全く比較にならない。成田空港など,せまく古く汚いし,レストランもたいしたところがない。これが天下の! 日本の首都の空港かという感じである。鉄道の駅はその正反対であろう。
 私は,まず,ユニオン駅で昼食をとることにした。適当な店を選んでなかに入ってみたが,私には,東京同様,アメリカの首都の人々の行動の速度に全くついていけないのだった。なにせ,どんどんと注文をして,人が流れていくのである。一体私は何を注文すればよいのであろうか? 私が東京駅でとまどうのと同じシチュエーションであった。わけがわからず,前にいた客と同じようなものを適当に注文した。ともかく,グルメでない私はおなかが満たされて,野菜が取れればそれでよいのである。

 その後,地下鉄の駅に行った。
 チケットの自動販売機が並んでいて,親切な係員もいた。ワシントンDCでは,日本の「Suica」のようなシステムの「Smartrip」カードがあって,とても便利であった。このカードは発券時にカード代が2ドル必要(この2ドルは戻らない)で,はじめにこのカード代の2ドルとさらに乗車用の数ドルをチャージするわけである。もちろん日本とは違ってクレジットカードで購入ができる。これを購入して,数ドル分をチャージした。
 ワシントンDCの地下鉄に乗るのは,前回35年前に来たとき以来であった。核シェルターになるといわれる広い地下道を走る地下鉄は,35年前にはずいぶんときれいな地下鉄だと思ったが,今回は古びて汚い地下鉄だなあと思ったことだった。

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 関宿菊川宿を通り過ぎて左折すると,いよいよ「小夜の中山峠」へと続いていきます。私は「金谷坂石畳」を越え,次に「菊川坂石畳」を越えて,坂などないと完全に誤解をしていただけに,改めてiPhoneで地図を確認してびっくりしました。実は,旧東海道歩きをしている人たちのブログで「地獄の登り坂 」と書いている場所こそが,この先の「小夜の中山峠」なのでした。
 歌川広重の東海道五十三次に描かれた「日坂」の宿の絵に描かれた坂は,この「小夜の中山峠」から日坂宿に至るところにある「沓掛坂」です。私はそんなことすら知りませんでした。
 私が「日坂峠」と呼んでいたのは「小夜の中山峠」のことですが,当然,峠なので,上りと下りがあります。私のように金谷宿から日坂宿まで東から西に歩いていくと,まず「金谷坂石畳」の上り坂があって,次に「菊川坂石畳」の下り坂があります。そして,間宿の菊川宿に出ます。そこからが「小夜の中山峠」への上り坂である「青木坂(箭置坂=やおきさか)」で,これを登り切ったところが「中山峠」,そこには久延寺や茶屋,そして,多くの歌碑があります。そこからさらに西に進むと今度は下り坂の「沓掛坂」があって,それを降りきると,晴れて日坂宿にたどり着くということになるわけです。このすべてを私は何も知らずに「日坂峠」と呼んでいたわけです。

 さて「小夜の中山峠 」の「小夜」は現在は「さよ」と読むのですが昔は「さや」と読んだそうです。しかし,知らなかった私の強がりではないのですが,実際に歩いてみて,多くのブログに書いてあることはかなり大げさだと思いました。確かに「難所」にはちがいないのでしょうが,恐れるほどのことはありません。だらだらと坂道が続いているだけです。所詮は東海道の街道,山登りではありません。
 それよりも覚えておかないといけないのは,ここもまた食事をするお店どころか自動販売機すらほどんどないということです。そしてもうひとつ,というよりもこのことが最も問題なのですが,日坂宿には最寄りのJRの駅がありません。JRの駅がある次の掛川宿までは日坂宿からさらに8キロもあって,そこは単に国道にそった平坦な歩道をだらだらと歩くだけで,旧東海道の面影もほとんどありません。日坂宿から掛川駅まではバスが走っているのですが,2時間に1本程度だということです。
 このように,私が呼ぶ「日坂峠」というのはかなり不便な場所だということです。私が歩いたのは平日だったので,中山峠にあった唯一の茶屋も営業しておらず,さらに,日坂から掛川までもほとんど食事をする場所がありませんでした。

 そんな現実もこのときは知らず「青木坂(箭置坂)」をだらだらとお茶畑を横に見ながら歩いていくと,向うからひと組の老夫婦がやってきました。お話をすると,彼らは彼らで,この先は下りだと思い込んでいたのがおかしかったです。私の場合は逆にこの先は「沓掛坂」を下るだけなのですが,彼らは険しい「沓掛坂」を上ってきたわけなのですね。
 この人たち,東海道を歩いているらしいのですが,きちんと全コースを歩くと決めているようでした。しかし,付き合わされている奥さんは嫌そうでした。それにしても,どうして日本人というのはこうもストイックなのでしょう。こんなストイックな道歩きに奥さんまで巻き込んではいけません。

 鎌倉時代の中期に書かれた「十六夜日記」は,藤原為家の側室・阿仏尼の紀行文日記です。実子藤原為相と為相の異母兄藤原為氏との間の,京都では解決出来ない所領紛争を鎌倉幕府に訴えるために,京都から鎌倉へ下った際の道中および鎌倉滞在の間の出来事をつづっています。
 …と簡単に書かれているのですが,この時代に,こうした難所を女性が越えるのはとんでもなく大変なことだったでしょう。この 「 十六夜日記」に中山峠を詠んで
  ・・・・・・
 雲かかる
  さやの中山越えぬとは
   都に告げよ有明の月
  ・・・・・・
という歌があります。

 この峠で島田市から掛川市に入ります。私はこうして,やっと「小夜の中山峠」に着きました。この峠は標高252メートルで,箱根峠,鈴鹿峠などとならぶ東海道の難所,たびたび合戦などがありました。
 ここに「久延寺」があります。久延寺は奈良時代,行基によって開かれたということです。夜泣き石ゆかりの寺としても有名で,また,お掛川城主の山内一豊が家康を接待する為に茶室を設置した古刹でもあります。
 夜泣石というのはふたつあって,そのひとつがこの久延寺にあって,もうひとつがこの先の沓掛坂にあります。「夜泣石伝説」は「遠州七不思議」のひとつですが,この伝説というのは次のものです。
 昔,妊婦が峠で山賊に襲われ,お腹の子だけが助かりました。母親の霊は丸石に乗り移り,夜ごと泣き声が聞こえたということです。やがて,久延寺の和尚に飴で育てられた子は成長し,母親の仇を討ちました。この話に同情した弘法大師が「南無阿弥陀」と石に刻んだのが夜泣石と伝えられているのです。

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☆☆☆☆☆☆
 5月18日にジョンソン彗星(2015V2 Johnson),タットル・ジャコビニ・クレサック彗星(41P Tuttle-Giacobini-Kresak)を写してから早くも2週間が過ぎました。
 新月を過ぎて月明かりの影響がなくなったら明け方の東の空低く見えているパンスターズ彗星(2015ER61 PanSTARRS)を写そうと思っていたのですが,なかなか天気のよい晩がなく行くことができないまま月齢が8を越えました。しかも,もうすぐ梅雨入りということで,ラストチャンスの6月3日,どうにか天気もよさそうだったので出かけることにしました。

 夏至に近いこの時期は日の出が4時30分と早く,3時過ぎには夜が明けてしまうのです。このように夜が異常に短く,冬のように一度仮眠をしてから出かけるというわけにもいかないので,夜明け前の星空をみるのは結構大変なのです。
 この日,私は,まだ月が沈んでいない午前12時過ぎに観測場所に着きました。快晴の南の空にはさそり座といて座,そして,天の川が美しく輝いていました。考えてみれば,私はこれほど高くいて座の昇っている星空を見たことがほとんどありません。

 この日の目標はパンスターズ彗星とともに「トラピスト1」のあるみずがめ座の写真を写すことでした。もちろん「トラピスト1」は暗くて写すことはできませんが,幸い,近くに海王星があるので,青く光る海王星も写すことにしました。
 まだみずがめ座が昇ってくるには時間があったので,それまで,いて座あたりの星野写真(1番目の写真)と明るい散光星雲M8(2番目の写真)を写すことにしました。
 それにしても,いて座あたりの天の川はなんと美しいことでしょう。そして,銀河にうずもれることなくひときわ明るく輝く散光星雲や散開星団,球状星団はまさに宝石箱です。 
 南半球では南十字星のあたりの星空が際立って美しいのですが,北半球では,このいて座のあたりの星空の美しさに勝るものはありません。

 やがて,みずがめ座が空高く昇ってきました。みずがめ座のψ星付近にある「トラピスト1」あたりの写真(3番目の写真の+の位置)と海王星(4番目の写真)を写しました。海王星はきれいな青色をしています。
 そして,いよいよパンスターズ彗星です。パンスターズ彗星は東の空低くうお座にあります。すぐに空が白んでくるので時間との勝負ですが,あたりに目印になる明るい星もなく,うお座の暗い星からたどっていく必要があるのですが,地平線に近く星もよく見えないので,どうしても見つかりません。どうやら,私は,やっとファインダーにとらえたうお座のδ星をε星と間違えていたようでした。そのことに気づいて,やっと彗星像(5番目の写真)をとらえることができたのは,もう午前3時近くでした。この彗星とは2か月ぶりの再会,すでに8等星まで暗くなったとはいえ,尾もしっかりとした美しい彗星像でした。
 午前3時を過ぎると,次第に空が明るくなってきて,東の空には西方最大離角をむかえてひときわ明るく輝く金星がその姿を現しました。こうして短い初夏の夜が終わりました。

◇◇◇
初夏の星空は宝石箱①-今年の前半は彗星がいっぱい
初夏の星空は宝石箱②-ケンタウルス座の魅力的な星雲星団
「トラピスト1」惑星系-太陽系外に生命のいる可能性とは?

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●定刻,ワシントンDCに着いた。●
 憧れだった2時間余りのアムトラックの旅を終えて,私は,定刻,ワシントンDCに到着した。日本でいう在来線の特急列車の旅を終えたような感じであった。

 日本は近年新幹線網が出来上がって,どこにも新幹線で行くことができるようになった。それは確かに便利だが,旅情という点では非常に物足りないものがある。時間と勝負をしているようなビジネスマンならともなくも,旅自体が楽しみである人たちにとれば,新幹線には全く魅力を感じない。この先リニア新幹線ができて,トンネルばかりのなかを走ったところで,さらに何も楽しくない。
 それとは逆に,100万円もする超豪華列車も走るようになった。お金が余っていて,しかし,海外旅行などには無縁のシニア世代の人たちがそれを利用するのだろうが,それもまた,庶民とは無縁のものでしかない。
 庶民が,例えば,東京から名古屋まで在来線で行こうとすると,何度も乗り換える必要があり,その都度,せっかくそれまで座っていたのに座れなくなったり,ホームで次の列車が来るのを並んで待つというストレスの多い旅をする必要がある。まるで,長距離は在来線には乗るな,新幹線に乗れ,と言わんばかりである。
 そんなことよりも,私は,時間がかかっても構わないから長距離を走る座席指定の普通列車を走らせてほしいものだと思う。この国は,効率だけを求めていて,人の心の幸せなど考えてもいない「おもてなし」のだ。

 さて,アムトラックは,ワシントンDCのユニオン駅(Union Station)に到着した。ユニオン駅はワシントンの東,国会議事堂のあるキャピトルヒルとよばれる場所の北側にあって,新しく整備された建物であった。
 ボルチモアとは違って,大勢の人でにぎわっていた。ここはアメリカ合衆国の首都なのである。
 乗客はここで降りて,広いコンコースを歩いてホームから駅の構内に出た。このユニオン駅からは地下鉄でワシントンDCのおおよその場所に便利に行くことができるのである。

 私がワシントンDCに来たのは,今回が2度目である。初めて来たのは35年前のことであった。このときは人生初のアメリカへのひとり旅で,ニューヨークとワシントンDCとボストンに行った。移動は長距離バスの「グレイハウンド」を使った。
 私の手元に,1980年版の「地球の歩き方」という本がある。これは,天下の「地球の歩き方」のなんと初版本なのである。この時代,こんな旅行ガイドブックは他にはなく画期的なものであった。1980年代は,今よりもはるかに治安は悪かったが,今のような国際テロとは無縁のアメリカであった。しかし,この本の表紙に書かれていた「アメリカを1か月以上の期間1日3,000円以内でホテルなどの予約なしでバスを使って旅するための徹底ガイド」を実践できた勇気ある人がどれぼどいたことであろうか。
 そのときの私は,確かに一人旅ではあったが,ホテルは出発前に予約してあったし,1か月以上もも期間を旅しなかった。それでも,私にはかなり勇気の必要なことであった。

 そのときの旅で降り立ったワシントンDCはグレイハウンドのバスティボウ(長距離バスの発着するバスセンター)であった。当時の場所は現在とは違ってホワイトハウスの裏手であった。私は大胆にも数日間ワシントンDCでの宿泊に必要な着替えだけを別のバッグに詰め替えて,以外の荷物は旅行バッグに入れてバスティボウのコインロッカーに預けて,タクシーに乗ってホテルに行こうした。
 しかし,私の乗り込んだタクシーの運転手は,私と同じ方向に行く別の客が来るまで待っていて,相乗りを強要されたことを今でも覚えている。私はそれに対して何の抵抗もできなかった。そのときの心細さったら!
 現在は,グレイハウンドもまた,このユニオン駅から発着する。

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●アムトラックから見たボルチモアもまた●
 アムトラックは定刻よりもどれだけ遅れるだろうかという私の心配をよそに,時間どおりフィラデルフィアを出発して順調に走っていった。
 窓の位置が高いこととガラスが汚くて見晴らしがあまりよくないことを除けば,日本の私鉄とそう変わらなかった。ただし,日本の新幹線は別格で,あれほど清潔で快適な乗り物は他にはないであろう。アムトラックを新幹線と比べてはいけない。
 私が乗ったアムトラックがフィラデルフィアを出発したのは午前9時35分でワシントンDC到着予定時間は午前11時37分,およそ2時間の旅である。距離としては140マイル,つまり約225キロメートルなので,アムトラックの時速は100キロ強というところか。

 アムトラックはやがてサスクエハナ川(Susquehanna River)を渡り,ボルチモアにさしかかった。この時点でもまだ,私には「ボルチモア=危険なところ」という印象しかなかったが,その根拠は,私のアメリカ人の友人たちが口をそろえて危ない危ないと言っていたことと,実際に私が行ったボルチモアのダウンタウンの雰囲気があまりにも悪かったこと,これだけであった。
 アムトラックが到着するのはボルチモアの北側にあるペンシルバニア駅(Pennsylvania Station)であった。この駅からダウンタウンに行くにはライトレール(Light Rail)という市電に乗ることになる「らしい」のだが,私は乗っていないのでわからない。

 しかし,今これを書きながら思うのだが,この旅で私のボルチモア滞在は半日と1泊でしかない。もっと他に行きたいところが多かったからである。しかし,2日くらいはボルチモアに滞在して,もっと時間をかけて,本当のボルチモアを実際に見て歩き知る必要があったかもしれない。 
 いずれにしても,アムトラックがボルチモアのペンシルバニア駅に近づくにつれて,線路にかかる道路の陸橋は落書きだらけになってきたし,車内から見える駅の近くのビルも,古いレンガ造りのものやら破壊されたものやら落書きばかりのものになってきた。
 これを見ても,やはりこの街は友人たちがいうように本当に危険なところに違いがないのであろう。
 アムトラックはボルチモアのペンシルバニア駅に到着した。ホームにはほとんど人がおらず,日本のローカル線のホールのようであった。若干の乗客が私の乗っていた列車から降りていった。
 やがて,アムトラックは出発した。次に停車するのは終点ワシントンDCである。

 ワシントンDCとボルチモアの間は非常に近く,わずか40マイル,つまり64キロメートルだから,東京から鎌倉ほどであろうか。
 ワシントンDCとボルチモアの間は,アムトラックのほかに「マーク」(Marc)という名前の通勤列車の Penn Line 線が走っていて,マークはボルチモアではペンシルバニア駅ではなく,ボルチモア・オリオールズのホームグランドであるカムデンヤーズに隣接する場所にあるカムデン駅に到着する。つまり,ワシントンDCに住んでいるのなら,マークを利用すれば1時間もかからずボルチモアに行ってメジャーリーグを楽しんで当日帰ることができるわけだ。東京都民が西武ライオンズを見にいくようなものである。

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 私の購読しているアメリカの天文雑誌「SKY & TELESCOPE」(電子版)の6月号に「7 Earth-Size Planets Orbit Dim Star.」という記事がありました。そしてまた,先日のNHKEテレの番組「サイエンスZERO」でもこの話題が取り上げらていました。
 記事にある「Dim Star」とは「赤色矮星」のことです。「矮星」というのは小さい星ということですが「赤色矮星」のほかにも「白色矮星」や「褐色矮星」というものがあるので間違いやすいのです。「白色矮星」(white dwarf)とは主系列星(main sequence star =恒星の一生において壮年期にあたる星)ではなく恒星の終末期にとりうる形態のひとつです。一方「褐色矮星」(brown dwarf)は、質量が木星のような惑星よりは大きく「赤色矮星」よりは小さな天体で,質量が小さすぎるために恒星になることができなかったものです。それに対して「赤色矮星」(red dwarf)は、太陽のような主系列星だけれども特に小さい恒星を指します。恒星は大きいほど寿命が短いので,太陽は100億年程度であるのに対して赤色矮星は数百億年以上と考えられています。

 もともとは,太陽系外に地球のような惑星を探すときに,太陽のような大きさの恒星のまわりをまわる惑星系を対象としていました。赤色矮星のまわりをまわる惑星系を探すという発想自体がなかったのです。それが,今回,やはり赤色矮星のまわりをまわる約4光年先の「プロキシマ・ケンタウリb」同様,約40光年先,みずがめ座(1番目の写真のなかの「+」の場所)にある「トラピスト1」という18.8等星の「赤色矮星」のまわりに7つの岩石でできた惑星が公転しているということがわかったのです。7つの惑星は,内側から b,c, d, e, f,g と呼ばれていて,大きさは地球くらいのサイズで岩石でできていると思われるのです。
 惑星に生命が存在する可能性のある恒星のまわりの領域を「ハビタブルゾーン」というのですが,太陽系では地球と火星がその領域にあります。今回発見された7つの惑星のうちでは e,f,g がそうです。
 「トラピスト」(TRAPPIST)とは「Transiting Planets and Planetesimals Small Telescope–South」という望遠鏡の頭文字からとったものです。「トラピスト」は,ベルギーのリエージュ大学とスイスのジュネーブ天文台が合同で南米チリにあるラ・シーヤ天文台(La Silla Observatory)に設置した彗星や太陽系外惑星の調査を目的とするリモートコントロールの望遠鏡です。函館に「トラピスト修道院」という施設がありますが,この「トラピスト」という呼び名は,フランス起源のカトリック修道会である「トラピスト会」へのオマージュでもあります。

 この「トラピスト1」をまわる惑星の発見は,地球と同じような大きさの岩石惑星がはじめて,それも同時に7つも発見されて,生命体の存在を確認できるかもしれないということで大きな話題となっているのです。
 しかし,私がずっと最も疑問に思っていて,しかも,ほどんど誰も指摘していないことがあります。
 このことを書く前に,地球上の生命について考えてみます。
 地球が誕生したのは45億6,700万年前といわれています。そして,はじめての「生命」である「マンガンカルシウムクラスター」が誕生したのが38億年前で,「シアノバクテリア」の発生は27億年前のできごとです。はじめて多細胞生命の誕生したのが6億3.000年前で,先カンブリア時代が始まったのが5億2,000万年前です。恐竜が2億年前から地球上に君臨して,6,600万年前に小惑星の衝突で絶滅しました。地球は誕生以来これだけの歴史のなかで何度かの全球凍結と生命の大絶滅期を経験しました。こうしたのち,人類の先祖が1億年前あたりに発生し,500万年前ごろに二足歩行を開始しました。原人はわずか60万年前,クロマニヨン人に至っては20万年前です。人類文化の発生などわずか5,000年前,地球の歴史の 1,000,000分の1 のできごとなのです。
 傲慢な人類のことだから,未来永劫人類は生き続けると思っていますが,実は,人類の歴史など恐竜の繁栄した期間とも比べものにならないほど短く,有史以来相も変わらず戦ごっこに精をだしているので,核戦争でまもなく自滅し放射能汚染で生命の存在できない惑星にしてしまうか,あるいは,そうでなくとも小惑星が衝突して,近々,といっても数千年から数万年後でしょうが,恐竜のようにあっという間に絶滅してしまうことでしょう。
 そう考えると,地球上に知的生命が存在している期間どころか,多細胞生物よりも高等な生命が存在している期間など,地球の寿命のうちのほんのわずかの間に過ぎないわけです。だから,もし,太陽系外に知的生命がいて,地球を観察していたとしても,その地球に高等な生命が存在しているほんのわずかな期間に遭遇することのほうがまれであると考えれらます。
 このように,太陽系外に生命がいたとして -おそらくいるでしょうが- 「シアノバクテリア」程度の生命の存在が確認できる可能性はあるでしょうが,その天体に知的生命の存在する期間に,同じように地球上のわずかの期間生息している知的生命である人類が偶然それを観察できることのほうが奇跡であるのではないか,と私は思うわけです。知的生命がずっと存在しているわけではないからです。
 地球外生命の発見といっても,そうした指摘がほとんどされないことを,私はいつも不思議に思うのです。もし,ある天体に,かつて知的生命が生存しそれが滅んだ残骸が見つかれば,傲慢な人類の未来への警鐘となることでしょう。

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地球は6回目の絶滅期に突入か?-生命の起源が面白い①
人類の生存期間はたかだかそれだけ-生命の起源が面白い②
小惑星衝突が人類の繁栄を作った-生命の起源が面白い③
映画「アバター」-「プロキシマ・ケンタウリb」に生命が?

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