しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

June 2018

滞在3日目。
今日はデスバレー国立公園に行こうと考えていたのですが,日中の気温が50度になるという予報だったので,体に加えて車が心配でした。しかし,ここまできて断念するのも後で後悔するので,早朝に出かけて40度を超える10時までには退散するつもりで決行することにしました。
ホテルを出たのは,世も明けやらぬ午前4時過ぎでしたが,月明かりで結構明るいので安心しました。途中,東の空には太陽が昇りはじめ,西の空には月が沈むという感動的な景色のなかを運転して,予定通り午前8時には到着しました。来る前は,ビジターセンターまで行って,行ったという証だけを残して引き上げるつもりでしたが,来てみたら多くの人がなんの憂いもなく観光しているので,私も見どころをすべて見てまわることができました。それにしても風景も広さも半端でなくすごいところでした。
帰りに国道395を通りました。ここは知る人ぞ知るシエラネバダ山脈を美しく眺められる道路です。
途中,マンザナール収容所跡を見学しました。第二次世界大戦で日系人が収容されていたところが復元されているのです。アメリカに多くあるこういう施設を見学すると,過去に対して真摯に向き合うアメリカを感じます。
シエラネバダ山脈で最も高いマウント・ホイットニーを眺めながらホテルに戻りました。デスバレーにはアメリカ最低地点があり,そのお隣のシエラネバダ山脈にはアラスカを除いてアメリカ最高地点があるなんて不思議な気持ちでした。

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滞在2日目。
今日はキングスキャニオン国立公園とそれに隣接するセコイア国立公園に行くことにしました。
宿泊していたのはベーカーズフィールドで,そこから北に2時間30分ほど北上して北のゲートから国立公園に入って南のゲートに抜けるコースを取ることにしました。
キングスキャニオン国立公園が隣接していることは知りませんでしたが,私はセコイア国立公園は子供のころからずっと行きたかったところなので,ついに念願がかないました。
それは小学何年生だったか忘れましたが,国語の教科書に,この国立公園のことが書かれてありました。セコイアの広い幹をくり抜いてそこに車が走っているという衝撃的な写真でした。アメリカは途方もない国だとそのとき思いました。
ちょうどそれを習った年の夏,クラスに本間さんという女の子がいて,彼女は父親がアメリカに赴任中だということで,数カ月間学校をお休みしてアメリカへ行くことになったのです。帰国してから,その体験報告と質問会がありました。そのときの質問で今でも記憶に残っているのは,何か英語で話してみてください,というのと,セコイア国立公園へは行きましたか,というものです。彼女は流暢そうな英語でひとこと話しましたが,当時の私はすごいなあと感心しました。そして,彼女はセコイア国立公園には行けなかったとも言いました。私はアメリカといったって広いから,そりゃ無理ないなあと思いました。しかし,セコイア国立公園がどこにあるかなんていうことはまったくわかりませんでした。
その後,車が通れたというセコイアが枯れてしまったというニュースを聞きました。あんな穴を開けられたからに違いない,かわいそうにと思いました。そしてあれから50年以上して,私はついにセコイア国立公園に行くことができました。あのときのセコイアは今も横たわったまま風化していました。ふたたび,かわいそうにと思いました。

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搭乗を待っていたら名前が呼ばれて座席がコンフォートにアップグレードになりました。コンフォートの最前列は足を伸ばしても届かないほど広いのです。やがて出発となりました。
アメリカへの旅の問題は時差なのです。ロサンゼルス到着が午前9時というのは時差が16時間あるので,日本では深夜の1時です。到着1日目は地獄です。
定刻より30分も早くロサンゼルスに着いてしまったのですが,空いている到着ゲートがなく,空くまで機内待機となってしまいました。久しぶりに来たロサンゼルス空港は随分ときれいになっていました。ここはレンタカーのオフィスまでが遠く,シャトルバスで随分とかかります。日本の通勤ラッシュのように混み合ったバスでレンタカーオフィスに着きました。レンタカーは車指定ではなくて決められたパーキングエリアにあった車から好きなのを選ぶという方法だったので,カローラ -といってもアメリカ仕様は日本のものとは大きさもデザインも違いますが- を選び出口でカーナビを受け取って出発です。
今日決めた予定は,カリフォルニアサイエンスセンターという科学館でスペースシャトル・エンデバーを見ることだけにしました。現存する退役したスペースシャトルはニューヨークにある実験機1機とワシントンDC,フロリダ,ロサンゼルスにある実際に地球を周回した3機の合計4機ですが,私はこれまでにそのうちの3機をすでに見たので,今回見られればこれで制覇ということになるのです。サイエンスセンターは行ってみてわかったにですが,ロスアンゼルスオリンピックのメイン会場のあった場所でした。
シャトルの展示室は狭くがっかりしました。将来はブースターをつけて打ち上げの姿にして展示するそうなので,そのときを期待したいものです。
スペースシャトルを見終えてから車でインターステイツ5を3時間北上して,今晩の宿泊先であるベーカーズフィールドに向かいました。大都会ロスアンゼルスは車も人も多く私は早く郊外に出たかったのです。インターステイツ5はこのまま北上するとシアトルなので,感慨深いものがありました。ロサンゼルスを抜けると峠道となってコンボイが苦しそうに登っていきます。それを過ぎると雄大な大地が広がりました。それにしても暑いです。

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アライアンスが違うので、デルタ航空で東京からアメリカへ行くのに東京までのフライトに苦労していたのに,デルタ航空のサイトで,セントレアからロサンゼルスという無謀な検索をしていたら,なんとセントレアから羽田経由でロサンゼルスというフライトが見つかったので購入してしまったというのが今回の成り行きです。
羽田までは全日空です。マイレージも全日空につくのだそうです。しかしセントレアの便が朝の7時55分で羽田には午前9時に着いてしまうのに,羽田出発が午後3時15分なので待ち時間多すぎなのが難点でした。まあ,それでも成田と違って羽田ならいくらでも時間はつぶせそうです。とこのときは思っていたのですが。
セントレアの朝が早いので常滑の民間パーキングを予約しました。朝4時に起床して車で向かいました。朝5時40分に予約したパーキングに着いたのに6時からだと言われるし,はじめてのことは日本でもよくわかりません。
送迎してもらって朝6時過ぎにセントレアに着いてとりあえずチェックインしました。しかしお店はどこも7時開店,ラウンジも7時からではすることもなく,ダラダラと時間を潰すはめとなりました。7時前にオープンしたハンバーガー屋さんで朝食をとりました。この先ハンバーガーばかりだというのに行く前からハンバーガーです。
セントレアからは定刻に離陸しました。となりに座った女性と語らっていたらあっという間に予定より早く羽田に着きました。羽田空港はなんとはじめてですが,成田以上にわかりにくい空港でした。これもまた日本らしいと感激?しました。
チェックイン開始まで3時間,搭乗時間まで5時間待ちです。はじめて来た羽田空港は空港ではなくアミューズメントパークでした。航空機利用者の利便性よりも金儲けが優先,デルタ航空のラウンジもないし。でもプラネタリウムがあったのでそこで時間つぶしです。
そんなわけで今回もまた,なかなか出国できません。旅というのはひたすら待つことだと改めて実感した旅たちとなりました。

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アメリカ合衆国50州を制覇して以来,アメリカ以外の国を旅行しはじめたのですが,それがまたアメリカよりもずっと居心地がよくて,それに従ってアメリカに対する情熱も以前のようにはなくなりました。しかし,考えてみれば,それでも,昨年2017年の8月には皆既日食を見るためにアイダホ州に出かけ,そのついでにオーロラを見るためにアラスカに出かけたし,同じ年の秋にはハワイ・カウアイ島にも行ったし,けっこうアメリカの地を踏んでいるのです。
そして今回私が出かけるのはロサンゼルスです。目的は一度は行ってみたかったパロマ天文台とウィルソン山天文台へ行くこと。それ以外は未定で,行ってから考えます。

今回,私はESTAという電子渡航認証の期限が切れていて再登録をする必要がありました。日本人が海外旅行をするときにこうした電子渡航認証が必要な国はアメリカとカナダとオーストラリアです。特にアメリカのESTA登録は年々面倒になってきていて,今回はなんと,登録を済ませても保留中という表示がでてびっくりしましたが,これが今では一般的ということで安心しました。幸い数分後に承認されました。
なお,ESTAで渡航ができるのは,アンドラ,オーストラリア,オーストリア,ベルギー,ブルネイ,チリ,チェコ,デンマーク,エストニア,フィンランド,フランス,ドイツ,ギリシャ,ハンガリー,アイスランド,アイルランド,イタリア,日本,ラトビア,リヒテンシュタイン,リトアニア,ルクセンブルグ,モナコ,オランダ,ニュージーランド,ノルウェー,ポルトガル,マルタ,サン・マリノ,シンガポール,スロバキア,スロベニア,大韓民国,スペイン,スウェーデン,スイス,台湾、イギリスの人たちだそうです。意外と少ないものです。
電子渡航認証はアメリカではESTA(Electric System for Travel Authorization)と呼ばれ,カナダではeTA(Electronic Travel Authorizations),オーストラリアではETA(Electronic Travel Authority)と呼ばれています。アメリカは有効期限が2年,オーストラリアは1年です。カナダは5年です。

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カレリア――。
それはフィンランド民族の魂の土地,民族詩カレワラが歌われた伝説の地。
シベリウスの音楽はカレリアへの愛からうまれた。
霧と沼,白樺と岩肌,冷たく暗い北の国。でも,そこが本当の私たちの故郷。
私たちは二千年も前からカレリアに生きてきた。
第二次世界大戦の時フィンランドはドイツと組んでソ連と戦いそして敗けた。
沢山の若者が死に,敗戦の後に残ったのは三億ドルの賠償金の支払いと,国土の割譲だった。
フィンランド人は戦後八年かかって必死でそれを払った。
国民は歯を食いしばってそれに耐え,最後の賠償船がヘルシンキ港からソ連へ出ていった時――
それを見送って或る人は泣いた。
でも,それだけじゃなかった。
ソ連とフィンランドの国境地帯,カレリアという土地は戦争に敗けたために,ソ連側に割譲された。
カレリア地方には沢山のフィンランド人が住んでいた。
彼らは,自分の国を選ぶことと迫られ,カレリアの人々は一人残らず祖国を選んだ。
彼らは全てを捨て,裸でフィンランドへ引揚げてきた。
 (五木寛之「霧のカレリア」より)
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 私はこれまで「フィンランド」という国について興味もなかったし,ほとんど何も知りませんでした。知っていたことといえば,サウナに入ってそのあとに極寒の湖に飛び込む人たち…くらいのイメージでした。
 いやそれだけではなくて,子供のころに読んだ本で,この国は隣国ロシア(当時のソビエト連邦)とうまく関係を気づかないとつぶれてしまうと書かれていたことが強く印象に残っていました。その時代の大統領は「ウルホ・カレヴァ・ケッコネン」(Urho Kaleva Kekkonen)で,この大統領がそれをきわめてうまくやっているとも書かれてありました。それ以外には作曲家シベリウスの音楽でした。シベリウスの音楽は暗く,精神的に深く,欧米ではあまり人気がなく,日本に愛好家が多いそうです。このシベリウスの音楽については,また別の機会に書きたいと思います。
 私は2018年2月,フィンランドにはじめて出かけて,この国のすばらしさに魅了されてしまいました。そこで,再び訪れる日のために,これまでほとんど知らなかったこの国について調べてみました。

 フィンランド共和国(Suomen tasavalta=Republiken Finland)は北欧諸国のひとつであり,西はスウェーデン,北はノルウェー,東はロシアと隣接し,南はフィンランド湾を挟んでエストニアが位置しています。首都のヘルシンキはロシアの主要都市・サンクトペテルブルクへ西側諸国が投資や往来をするための前線基地となっています。このように,フィンランドは,ロシアとヨーロッパ諸国の両方からの地政学的重要性から,歴史上何度も勢力争いの舞台や戦場になってきました。
 現在は,豊かで自由な民主主義国として知られていて,「世界で最も競争的であり,かつ市民は人生に満足している国のひとつである」とされています。フィンランドは,収入,雇用,所得,住居,保健,教育,技能などすべての面でOECD加盟国の平均を上回っています。

 では,このフィランドの歴史についてまとめておきましょう。
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 フィンランドの歴史は,先史時代(〜1155年),スウェーデン時代(1155年〜1809年),ロシアによる大公国時代(1809年〜1917年),独立後の時代(1917年〜)の四つの区分に分かれます。
 *先史時代*
 フィンランドには旧石器時代から,南には農業や航海を生業とするフィン人が,北にはトナカイの放牧をするサーミ人が居住していました。400年代になると,ノルマン人のスヴェーア人がフィンランド沿岸に移住を開始し,次第に居住域を拡大していきました。
 *スウェーデン時代* 
 1155年,スウェーデン王エーリク9世が北方十字軍の名のもとフィンランドを征服し,キリスト教(カトリック)を広めました。1323年までにスウェーデンによる支配が完了しスウェーデン領になりました。1581年,フィンランドの独立が模索された結果,ヨハン3世が「フィンランドおよびカレリア大公」となり,フィンランド公国建国が宣言されましたが,フィンランドに植民したスウェーデン人が中心の国家で,長くは続きませんでした。
 1700年からはじまった大北方戦争の結果,1721年のニスタット条約でフィンランドの一部であるカレリアがロシア帝国に割譲され,ナポレオン戦争の最中にスウェーデンが敗北すると,1809年にアレクサンドル1世はフィンランド大公国を建国しました。その後スウェーデンは戦勝国となったのですが,フィンランドはスウェーデンには戻らずロシアに留め置かれました。
 *ロシアによる大公国時代*
 19世紀のナショナリズムの高まりはフィンランドにも波及し,ロシア帝国によるロシア語の強制などでフィンランド人の不満は高まりました。1899年,ニコライ2世が署名した二月詔書に,高揚するロシア・ナショナリズムに配慮してフィンランドの自治権廃止宣言が含まれていることがフィンランド人に発覚したため,フィンランドで暴動が発生。1904年にはフィンランド民族主義者オイゲン・シャウマンによるロシア総督ニコライ・ボブリコフ暗殺の惨事にいたり,ついに1905年には「自治権廃止」は撤回されました。
 *独立後の時代*
 1917年,ロシア革命の混乱に乗じてフィンランド領邦議会は独立を宣言,1918年に共産化し,オットー・クーシネンらを首班としたフィンランド社会主義労働者共和国が成立しました。その後,ドイツ軍など外国の介入もあり,フィンランド南部で優勢だった赤軍は白軍のマンネルヘイムにより鎮圧され,1919年,フィンランド共和国憲法が制定されました。しかし,独立後のフィンランドの政情や国際情勢は不安定で,1921年にスウェーデンとオーランド諸島の領土問題で争い,さらに1939年から1940年のソ連との冬戦争では国土の10分の1を失いました。
 第二次世界大戦(継続戦争)では,ソ連と対抗するために枢軸国側について戦い,一時は冬戦争前の領土を回復しましたが,ソ連軍の反攻によって押し戻され,1944年にソ連と休戦,休戦の条件として国内駐留ドイツ軍を駆逐するために戦うこととなりました。
 敗戦国になったものの,フィンランド軍はソ連軍に大損害を与えて進撃を遅らせ,ナチス・ドイツ降伏前に休戦へ漕ぎ着けたので,フィンランドはソ連へ併合されたり,ソ連に占領された東ヨーロッパ諸国のように完全な衛星国化や社会主義化をされたりすることがなく現在に至っています。
 戦後はソ連の影響下に置かれ,ソ連の意向によりマーシャル・プランを受けられず,北大西洋条約機構(NATO)にもECにも加盟しませんでした。このように,自由民主政体を維持し資本主義経済圏に属するかたわらで,外交・国防の面では共産圏に近かったのですが,ワルシャワ条約機構には加盟しませんでした。これらをフィンランド化といいます。この微妙な舵取りのもと,現在に至るまで独立と平和を維持することができました。
 ソ連崩壊後は西側陣営に接近し,1994年にはEUに加盟,2000年には欧州共通通貨ユーロを導入し,現在の繁栄に至っています。
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●大金持ちの作った博物館●
 パイプラインを見終わった。
 フェアバンクスに戻る途中に「ファウンテンヘッド・アンティーク・オート博物館」(Fountainhead Antique Auto Museum)というクラシックカーの博物館があるということだったので行ってみることにした。
 ところが場所がよくわからないのだった。近くまで行ってもよくわからない。散々迷ったすえ見つけたのは,私の思っていた場所とは違っていた。 
 「ベアー・ロッジ・アット・ウェッジウッド・リゾート」(Bear Lodge at Wedgewood Resort)というホテルの駐車場を抜けた向こうにその博物館はあった。それもそのはずで,ここはウェッジウッド・リゾートのオーナーが長い年月をかけて収集したという車が展示されている博物館であった。

 アメリカ人は飛行機と車が大好きである。日本でも車マニアは多いが飛行機マニア,特に飛行機所有マニアというのはそれほど多くない。自家用飛行機を買ったところで活用する方法がないからである。再三書いているように,車だって走る道すらないような狭い国で,飛行機など論外である。この日本という国しか知らない人にとっては世界の大きさは全く想像の範囲を越えているだろう。
 ともあれ,これもまたいつも書いているように,博物館というのは実質はガラクタ置き場である。こうした大金持ちさんはこうでもしてお金を使わないとお金の使い道がないのだから,博物館でも作って多くの人に夢を与えて社会貢献をしてもらったほうがいいだろう。日本でも私設の美術館などを作って自分がコレクションしたものを公開している大金持ちさんがいる。

 この博物館はとても興味のもてるものであった。
 アメリカ本土でもよく似た博物館はあるが,これほど充実した,そしてきちんと展示されたところはそうはない。そしてまた,ここアラスカという地の特性上,冬の寒さに打ち勝つような工夫がされた車なども展示されていておもしろく見学できた。
 展示されていた車には,180年代古きよき時代の蒸気車やゴールドラッシュ時代に実際にアラスカで走っていた車,さらには,1931年製のCord,1920年製のArgonneなど,さまざまな種類のアンティークカー,はたまた,女性が運転するために作られた対面式に座れる車から電気自動車までがずらりと並んでいた。
 また,車だけでなく,当時の服装も展示されていて,車の前では記念撮影もできるし,展示されている車を整備するための工場もガラス張りになっていて見ることができるようになっていた。
 博物館の自動車はすべて今でも使用可能で,夏の夕方には,ドライバーが敷地のまわりで騒々しい回転音を立てて車が走り回るのを見ることができるということであった。

 こうして,滞在2日目のこの日は,たった1日でフェアバンクスの見どころのほとんどを見ることができて,私はすっかり満足した。この日の夕食は博物館の近くのモールにあったフードコートでとることにした。

 これまでに買ったもののうち一番高かったのが140万円の中古の自動車だと書いたことがありますが,そんな感じで,私にはお金の使い道がわかりません。そんな生活をしてきた結果,歳をとった今になって,チリも積もれば山となるみたいに,けっこう自由になるお金があることに気づきました。しかし,依然として欲しいものがないのです。
 家を買おうと思っても,周囲を見回してもあの家なら欲しいなあ,あそこなら住んでみたいなあ,と思うところが全くありません。アメリカやオーストラリアの住宅と比べたら,この日本という国では住みたい場所すらないのです。日本では賃貸マンションで十分です。固定資産税もかからないし,リフォームの必要もありません。ご近所付き合いも楽です。
 大きな車を買ったところでこの国では走る道すらありません。車がかわいそうです。日本の高速道路をものすごいスピードを出して走っている恥ずかしい車を見ると,憐れみさえ感じます。車で思う存分走りたいのなら,アメリカやオーストラリアへ行けばいいのです。
 そんな,物質欲のない私が唯一興味のあるモノはカメラと望遠鏡なのですが,だからといって,重いカメラを使う気にもなりません。そんなものをもっては旅にも出られませんから今の持ち物で十分です。大きな望遠鏡を買っても星が見られる空すらありません。
 さまざまに購買欲を煽るような商法がありますが,そのほとんどは不要のものです。携帯電話は格安SIMカードで十分ですし,教育産業もしろうとがドリルの答え合わせをしているだけだから無意味です。そもそも日本の学校教育自体が時代遅れです。
 だからといって他にお金の使い道もありません。おいしいものを食べにいっても使うお金なんてたかがしれていますし,それほど食べられるわけでもありません。お酒を呑みにいっても分煙でないお店が未だに多く,そもそもわざわざ出かけていって他人のタバコの煙を吸うなんてまったく馬鹿げています。国内を旅行してもどこもすごく混雑しているだけです。観光地に出かけても,観光客からいかにしてお金をおとさせるかしか考えていなのでしらけます。日本旅館に泊まっても他人と一緒に,特にこのごろはマナーの悪い外国人と一緒に温泉に入る気にもなりません。
 ということで,私は国外に旅に出るのですが,海外旅行といったって,ツアー旅行でもしなければ,これもまた,それほどお金が要るわけでもないのです。10万円も出せば往復の航空券は大概手に入るし,現地に着いてしまえば,国内を旅行するのとなんら変わりません。

 この日本という国に住んでいると,誠にお金が要らないのです。
 新学期になると,有名な〇〇大学に何人入ったとか,そういうバカげた記事をたくさん見かけますが,たとえそうした〇〇大学に入って,そのあげく官僚になって高給をもらったって忖度に明け暮れる毎日,近頃かまびすしい「あの様」です。大きな組織に入って管理職になって巨額の収入を得たところで,もらったお金の使い道がないどころか,むしろ責任という重しを背負うだけのなさけない人生です。
 たった一度の貴重な人生,お金よりも自由であることが一番です。
 人は望んで生まれたわけではないのですが,生まれてきた以上は生きる価値があります。ならば,神様がお迎えに来るまで,少しでも楽しく生きられればいいのです。それは,自分に対しても他人に対してもです。だから,他人が楽しく生きられるような存在であるような生き方をすることもまた,大切な勤めです。
 なのに,なにか勘違いしている輩がいるのです。
 それは,他人には厳しければいい,というバカな輩です。その「厳しさ」にはふたつの側面があるのです。そのひとつは自分の優位さを誇示するために他人に厳しくするという面と,もうひとつは他人を育てるためと称して他人に厳しくするという面です。そのなかで,自分の優位さを誇張するために他人に厳しくるような輩には騙されてはいけません。そうした輩とは関わらず距離を置くべきです。もうひとつの,他人を育てるための厳しさなど,その育てられる標的にされた人にとってみればいい迷惑だし,いらぬお世話です。そんなおせっかい焼きの輩とも距離を置くべきです。
 どっちみち一度の人生,暇つぶし。自分に対しても他人に対しても楽しく生きることがもっとも大切な「不良老人」の生き方です。

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●世界第2位を誇る人工建造物●
 パイオニアパークを出た。
 次に私は,フェアバンクスから北へ16キロメートル北上したところで,アラスカ横断原油パイプライン(Trans-Alaska Pipeline)を見ることができるというので行ってみることにした。

 ノース・スロープ(North Slope)はアラスカ州北部,つまり北極海に面した油田地帯である。ここはブルックス山脈と北極海にはさまれて東西にのびるツンドラ地帯にあり,コールビル川が北流している。
 このノース・スロープにあるプルドーベイ油田(Prudhoe Bay Oil Field)がアメリカ最大の油田で,アンカレッジから650マイル(1,000キロメートル),北極点から1,200マイル(2,000キロメートル)のところにある。この地は1960年代に石油探査が開始され,1968年にARCOが石油を発見,1977年に採掘がはじまった。
 原始埋蔵量は推定250億バレルで残存埋蔵量は20億バレルと見込まれる。

 石油の発見により,冬場には凍ってしまう北極海から南部のアンカレッジ付近まで原油を輸送するパイプラインが必要となった。そこで作られたのが,この全長 1,300キロメートルに達するアラスカ縦断原油パイプラインである。
 人工の建造物としては万里の長城に次ぐ世界第2位の長さを誇るこのパイプラインは北部のプルドーベイ油田と南部の港バルディーズを結んでいる。1974年に工事が始まり1977年に完成,建設費総額 77億ドルであった。

 パイプラインには11のポンプステーションがあり,それぞれが4台のポンプで構成されている。電動式のポンプはディーゼル若しくは天然ガスで発電された電気で作動する。計画時には12のポンプステーションが予定されていたが実際に建設されたのは11であった。
  一部の地域では永久凍土上にパイプラインが敷設されており,パイプラインの熱で永久凍土が融けないように杭にはヒートパイプが採用されている。地中の温度が大気温より高い場合は伝導して地中の温度を放熱器から放熱することにより地中の温度を冷やし,大気の温度の方が地中の温度よりも高い場合には熱を遮断する構造になっていて,永久凍土が溶け出すことを防ぐ構造になっている。
 パイプの直径は48インチ(1,219ミリメートル)ですべて日本製(当時の新日本製鐵)。厳しい温度変化による金属の伸び縮みを考慮した結果,ジグザグに配置されている。パイプラインは生態系保護,永久凍土の保護のために地表から浮かして通っている。
 1日の最大輸送能力は200万バーレルである。

 ダウンタウンの東を北に走るSteese Hwy 6 に乗って車を走らせていくと右手にまず広い駐車場が見えた。そこには他に1台ほどの車が停まっていた。私もそこに車を停めて外に出てみた。その先に,延々と続くパイプラインを見ることができたが,ただそれだけのものであった。ガイドブックにはビジターセンターがオープンし,土産物屋もあると書かれてあったが,そんなものはどこになかった。
 しかし,この日本製のパイプラインのなかをアラスカの北部から南部に石油が流れていると思うと,なにか不思議な気がした。人間はえらいものをつくる生き物だ。

 このごろ何かと話題の財務省の官僚というのは,ものすごく頭がいい人たちなのだそうです。
 しかし,私がふと思ったのは,頭がいいというのは,本当に幸せなのか? ということです。
 昔,美人は,それを(美人を長所として)生かす仕事はタレント(と風俗?)くらいしかない,ということを聞いたことがあります。むしろ,それがデメリットとなる場合すらあります。おそらく,頭がいいというのもそれと同じようなことなのでしょう。超一流の〇〇大学卒業というのもまた,それがデメリットとなる場合も少なくないものです。

 私は「幸せとは?」という問いには答えがあります。その答えというのは,生まれたときにもってきた自分の才能が生かせる生き方ができることが最高の幸せであるということです。たとえば,組織のなかで仕事をしていても,ジグソーパズルのピースのように,きちんと自分に当てはまる居場所があるということが最高の幸せだということです。
 であるのに,自分の点数と順位ばかりを気にして,人と比べることだけを目的とするこの国の教育は,それとは真逆の目的を追い求めているようです。新聞の広告や雑誌の記事にも,〇〇大学に入学するための〇〇,だとか,偏差値〇〇で〇〇大学に入った,とか,そういう題名の本やら雑誌の特集やらが並んでいます。そうしたものがあるのは,それが売れるからなのでしょう。つまり,この国の人はそんなことしか興味がないのでしょう。

 将棋の棋士で一流になれる頭脳があるなら物理学を極めたほうが社会にとって有益だと言う人がいます。私も,若いころは,同じ頭脳を使うのなら,将棋の神秘を追求するよりも物理学を極めたほうが価値があるのになあ,と思ったことがあります。しかし,それは間違っているということに気づきました。
 つまり,どちらにせよ,結局は人間の頭脳の遊びなのです。
 こういうことを言うと,今度は,物理学は人類を幸せにするが,将棋は娯楽に過ぎない,という人が現れるのです。しかし,物理学は人類を幸せにもすれば,人類を滅亡もさせるわけです。将棋は人類を滅亡させません。さらに言えば,人は精神性で生きているので,人のこころをやすらかにすることができるというのは最高の才能であるわけです。東北で大地震があったとき,ミュージシャンが何の力にもなれないと嘆いた,という話がありますが,彼らの音楽こそが,被害に遭った人たちを勇気づけるのに最も大きな力があったのです。

 このように,頭がいいというのは,背が高く生まれたとか,足が速く生まれた,と同じような,単なる個性に過ぎないわけです。そして,そう生まれた人がそれをどう生かすかどうかというのは,まさにその人次第なわけです。人と比べたときにその人のほうがすぐれているということとはまったく違うのです。
 最大の不幸は,そうであることを勘違いして,自分の得た地位を利用して人を不幸にすることなのです。
 私は,これまで生きてきて,そんな勘違いをした輩をたくさん見てきました。

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●アラスカで唯一の歴史公園●
 フェアバンクスにはパイオニアパーク(Pioneer Park)というテーマパークがある。このテーマパークはフェアバンクスの中央,チナリバーのほとりにあって,アラスカで唯一の歴史公園である。
 この歴史公園は,1967年,アラスカがロシア領からアメリカ領になって100年目を祝う「アラスカ100年祭」の際に建設された。アラスカ開拓のなかでフェアバンクスが果たしてきた重要な歴史を表現した公園となっている。

 アラスカを訪れる日本人で,私のように個人で来る人はどのくらいいるのだろう。しかも,この季節に来る人はどのくらいなのだろう。
 私はたった3日の滞在だったが,それでも車が利用できたので,フェアバンクス近郊の観光施設を見て回るのには十分であったが,パイオニアパークのアトラクションをはじめとして,こうした施設のほとんどは夏季しか営業していないから,オーロラ目的で冬場にこの地を観光する人はお昼間にすることがほとんどない。
 私はまた,この夏の旅の目的はアラスカではなくアイダホで見る皆既日食だったから,アラスカについては到着するまでほとんど何も知らなかったし思い入れもなかった。けれど,今こうしてこのブログを書いていて改めて調べてみると,アラスカは奥が深い。そしてまた,限りなく深く,厳しいところである。

 さて,パイオニアパークに到着して,やたらと広い駐車場に車を停めて園内に入った。この公園は入るだけなら無料である。
 園内は広々としていたが,観光客も特に多い,というわけではなかった。これでもこの日は日曜日なのである。というよりも,フェアバンクスを訪れる観光客自体が決定的に少ないのである。そこで,この公園を維持するのが一杯一杯という感じであったし,老朽化も否めなかった。それでもこの公園は,ここに住む人,特に子供たちの遊び場として貴重な存在であった。
 
 ゲートをくぐるとまずあったのがゴールドラッシュ・タウン(Gold Rush Town)であった。これはゴールドラッシュ当時のフェアバンクスの街並みを再現したもので,当時のキャビン(小屋=家屋)をそのまま移築したものである。今はギフトショップやらレストランになっているというからずいぶんと期待したが,たいしたものはなかった。
 このだだっ広い園内を周回していたのがディーゼルエンジンで動くクルックド・クリーク・アンド・ウィスキー・アイランド鉄道(Crooked Creek & Whiskey Island Railroad)であった。
また,公園の一角に大きな船が展示されていた。この外輪船「ネナナ」号(River Boat Nenana)は現存するなかで2番目に大きな木造の外輪船で,外輪船時代の末期1933年に建造されたものである。
 この船のなかには入ることができて,内部には昔のフェアバンクスを再現したジオラマがたくさん展示されていた。

 パイオニアパークはその程度のものであったが,それなりに時間を潰すのにはよい施設であった。
 近頃私は思うのだが,観光地というのはいざ出かけても特にすることがない。昔の街並み,と言われたところでそれだけのことであるし,土産物なんて買ったこともない。レストラン,と言われても高いだけである。そこで,こうした観光施設に行っても時間を持て余してしまう。このことに対して自分が情けなくなる。これでは旅に出る資格すらないのかもしれない。

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●カナダヅル●
 この日は日曜日。アメリカでは週末だけファーマーズマーケットが開催されている,ということが珍しくなく,そういうチャンスはぜひマーケットに足を運びたいものだ。とにかく旅というのはその土地に住んでいる人がどういう生活をしているかということを実感するものだからである。また,こういう体験はツアー旅行では絶対に味わえない。
 フェアバンクスでもタナナバレーでファーマーズマーケットをやっているというので行ってみた。しかし,予想に反して,2,3件のお店が出ていただけで閑散としていた。売っているものも花とか野菜とか,そういったものが少しだけであった。アラスカという地は,決定的に何かをするには人が少ないのだろう。

 アラスカをはじめ,フィンランドでもそうだったが,私はこうした極北の地がなぜか懐かしい。こういう土地に住んでゆっくり室内で学問をしたり音楽を聴くという生活は悪くない。そしてまた,幼年期よりアウトドアに慣れ親しんでいたら,無限の楽しみが生れるに違いないと思うのである。
 しかし,実際にそういう生活をしてみると,信じられないほどの困難が待ち受けているかもしれない。それはともかく,歳をとるにつけて,私は,この,異常に人が多く,何を求めているのかわからねどみんなで崖をよじ登っているだけの日本という国の姿にやりきれなくなる。

 予想に反して何もなかったマーケットを後に,クリーマーズフィールドという野鳥公園へ行った。幸運にもちょうどこの時期だけカナダヅルが渡ってきているということだった。また,その期間を利用してこの3日間だけフェスティバルが行われているということなのだが,ここもまた,数件の屋台があるだけで静まり返っていた。
 カナダヅル(Grus canadensis)はツル目ツル科に分類される鳥類の一種である。北アメリカとシベリア北東部極地で繁殖し,冬季はアメリカ南西部に渡る。日本でも稀な冬鳥としてほぼ毎年数羽が記録されているという。
 成鳥は灰色で,翼には褐色みを帯びた羽が混ざっている。前頭部は赤く頬が白く暗色の長く尖った口ばしをもつ。足は暗色で長く飛行の際には後に長く延びた足とまっすぐ保った長い首が特徴的である。
 繁殖地ではツンドラや草原地帯の沼や湿地に生息し,つがいで広い縄張りを持っている。枯れ草を積み上げて巣を作り,2卵を産む。
 カナダヅルの繁殖地はカナダ中部及び北部,アラスカ,アメリカ合衆国中西部と南東部,シベリア,キューバなどの沼地及び湿原である。浅い水場や湿原で歩き回り,時折その嘴も使って餌を探す。雑食性で昆虫類や水辺の動植物,齧歯類,植物の種や実を食べる。

 私はこれまでさまざまな旅をしてきましたが,思い起こせば,奇跡的にうまく行ったことが数々あります。その一方で,心残りなこともまたいろいろあります。そうしたことすべてを含めて旅というのでしょう。
 しかし,何事も「塞翁が馬」,今となってはそれはそれですべてが思い出なのです。
 そのなかでも,海外旅行でいまでもつくづく残念だと思うことがあります。それは「ボストンの雨」です。
 私は,ボストンのフェンウェイパークでベースボールを見るのが長年の夢でした。そして入手困難と言われるチケットをなんとか手に入れて見にいったのですが,あいにく,そのゲームが雨で流れたのです。
 その前日にボストンに到着した私は,予定を変更して,チケットを買ったゲームが行われる,いや,雨で流れたその前日に,現地の金券ショップでチケットを入手してゲームを見ることができたので,奇跡的にフェンウェイパークでゲームを見るという夢はかないました。しかし,そのゲームは負けゲームだったので,当時,ボストンのクローザーだった上原投手を見損ねたというわけです。このことが今でも心残りなのです。
 蛇足ですが,今シーズン上原投手は日本の野球に復帰しました。そこで見ようと思えば日本で簡単に見られるのですが,私はメジャーリーガーの上原浩司だから見たいので,日本で投げる上原投手には全く興味がありません。それはほかのメジャーリーガーだった日本の選手も同様です。

 これまでに,国内もずいぶんと旅しましたが,こちらには心残りなことがふたつあります。
 そのひとつは「京都・貴船のホタル」,もうひとつは「2001年のしし座流星群」。その両方を見逃したことです。
 京都貴船のホタルは空高く舞うといわれます。ホタルが乱舞する最盛期は意外と短いのですが,ちょうどその最盛期に私はホタルを見にいく計画を立てました。しかし,一緒に出かけようとしていた友人たちの都合が悪いということで1週間延ばし。私はそんな馬鹿な,と思いましたがやむを得ません。そして,思った通り,その時期を逸してしまったのです。
 しし流星群のほうは,ホタルとは別の話ですが,これもまた京都へ行こうと友人たちに誘われて,ちょうど出かけた時期が流星群の日と重なり,流星群のほうを見損ねてしまったということなのです。
 この今では心残りになってしまったふたつのトラウマによって,残念ながら,旅は友人の都合を聞いていると大切な機会を逸するものだというのが教訓となってしまいました。
 星といえば,しし座流星群とともに「ウェスト彗星を見逃した」ことも私には思い出されます。

 しかし,考えてみれば,見逃したこと以上に奇跡的に見ることができたことの方がずっと多いわけで,こうした後悔は贅沢な後悔なのでしょう。けれど,逃がした魚は大きいということわざどおり,そうした残念は一生のトラウマになってしまうのです。
 こうした経験から,運は自らつかみにいくことだ,思い立ったことはそのときに実行しなければ,と私は思うようになったのです。まさに,
  「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」(人生において人はしなかったことだけを後悔する。)
です。

◇◇◇
「不良老人」の日常⑨-コクトー「しなかったことだけを…」

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●ジャコウウシやらトナカイやら●
 フェアバンクスのダウアンタウンから西に6キロメートルのところにあるアラスカ大学フェアバンクス校(University of Alaska Fairbanks = UAF)は広大な敷地のなかに50を超える建物がある。なかにはテレビ局,消防署,病院まであるし,学生会館の1階にはボウリング場やビリアード,パブ,そしてカフェテリアがある。

 前回書いたように,この日まず私が行ったのはアラスカ大学博物館(University of Alaska Museum of the North)であった。アラスカの自然と文化,歴史に関する展示で有名な博物館で,永久凍土から見つかった36,000年前のステップ・バイソンも展示されていた。
 また,第2次世界大戦当時の日系人に関する展示も充実していた。ハワイでもそうであるが,日本ではこうした日系人についてあまりに知らなさすぎて恥ずかしくなる。そもそも,日本の歴史教育はあまりに的がはずれているのではないだろうか。歴史は権力者の権力闘争や年号をを暗記することではなく,その国で生まれた人たちの生きざまを知ることであるはずで,そうなっていないのは,要するに人をリスペクトしていない,という根本的な問題がその根底にあるのだろう。

 大学の構内には,博物館のほかには,国際北極圏研究所(International Arctic Research Center = IARC)というオーロラ研究施設や,ポーカー・フラット・リサーチ・レンジ(Poker Flat Research Range)というロケット打ち上げ施設もあって,希望すれば見学もできるそうだ。また,ジョージソン植物園(Georgeson Botanic Garden)という植物園や大型動物研究所(Robert G. White Large Animal Research Station)といった動物園もあった。
 私は動物園が面白そうだったので行ってみることにした。大学の構内とはいえ,博物館から原野に続く道を延々と北に6キロメートルも走ったところにそれはあった。

 広い駐車場だったが,駐車していたのは1,2台の車であった。雨が降ってきたが,車を降りて,ともかくなかに入った。アウトドア・ウォーキングツアーというものがあるそうだが,めんどうだったのでそれには参加せず,歩いて構内をまわることにした。
 まず私が対面したのはジャコウウシであった。ジャコウウシ(Ovibos moschatus)はウシ科ジャコウウシ属に分類される偶蹄類であるが,現生種では本種のみでジャコウウシ属を構成する。全身は長く硬い上毛と柔らかい下毛で被われていて,雌雄共に基部から下方へ先端が外側上方へ向かう角があるのが有名である。夏季はツンドラ内の水辺や湿原に生息し,冬季になると積雪の少ない斜面などへ移動する。食性は植物食で、草、木の葉(カバノキ、ヤナギ)などを食べる。
 次に私はトナカイと出会って感動した。トナカイは後にオーロラを見にいったとき深夜の道路をのそのそと歩いているのを目撃した,というより,目の前で出会ってびっくりしたが,その6か月後,私がフィンランドでトナカイの悲しい生態を知ることとなったのを,このときはまだ知らない。

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●充実した博物館とアラスカの歴史●
 朝食を終えて,アラスカ大学フェアバンクス校のなかにある博物館に行った。大学はフェアバンクスの北西の高台にあり,広大な敷地のなかを進んで行くと博物館の建物と駐車場があった。
 駐車場は有料だったので料金を入れようと説明書きを読んでいたら,ちょうど車を停めて降りてきた別の観光客に,今日は休日だから駐車場は無料だよ,と言われた。
 館内に入ると,広い展示室に興味深い様々な展示品があって,アラスカに来たんだということを認識させられた。私この旅の半年後,今度はフィンランドのロヴァニエミで同じような博物館に行ったので,今ではこのふたつの博物館の展示が記憶のなかに混在している。本質的によく似ているのだ。

 展示室を出てから,オーロラのビデオが上映されていたので,次にそれを見た。この博物館は展示も説明も非常に充実していて,何時間いても退屈しなかったのだが,この大学はオーロラ研究で有名なこともあり,もっとオーロラに関する展示があるものだと思っていたので,それだけが不満であった。
 しかし,アラスカに来るまでアラスカではもっとオーロラに関する観光の機運があるものだと思っていたのにそうでなかったことを意外に思っていたが,この博物館ではビデオを見て,やはり,この地ではオーロラは身近な存在だということを再認識することが出来たのだった。
 この博物館にはカフェテラスが併設されていて非常におすすめであるということだったが,なにせまだお昼には時間が早すぎて,ここで昼食をとることができなかったのが残念だった。
 私もアラスカに来るまでこの土地の歴史についてほとんど知らなかったので,ここで簡単にまとめておくことにしよう。

  ・・・・・・ 
 アラスカの歴史は紀元前12,000年頃の旧石器時代に遡るという。一番早く住み着いたのはベーリング地峡を渡りアラスカ西部に辿り着いたアジア人のグループである。
 ロシアの探検家を通じてヨーロッパとの接触がはじまるころには,この地域にはイヌイット等の様々な先住民が住んでいた。
 ロシア海軍の聖ピョートル号に乗ったデンマークの探検家 ヴィトゥス・ベーリングがアラスカを「発見」したと記録されているが,先に発見したのは1741年,聖パーヴェル号に乗ったアレクセイ・チリコフであった。ロシア・アメリカ会社はすぐにカワウソの狩りを開始し,アラスカ沿岸の殖民の支援を始めたが,乱獲によるラッコの減少,イギリスのハドソン湾会社との毛皮交易競争,アラスカからロシアまでの毛皮の輸送経費がかかることなどにより経営は悪化していった。
  ・・
 一方,イギリス人移住者の多くは海路でこの地にやってきて,交易のための居留地を点々と作っていた。1778年には,「北西航路」を捜索する最後の冒険航海の途上にあったジェームス・クックは北アメリカの西海岸沿いを北上した。
 北西航路調査のためにアラスカを訪れているクックに対して,ロシア側は自分たちのアラスカにおける支配力を印象づけようとしたが,ロシア国内の財政事情の悪化,アラスカがクリミア戦争を戦ったイギリスの手に落ちることへの恐れ,居留地が大して利益を上げないことといった要因がロシアをアラスカ売却へと駆り立てた。
  ・・
 1867年,アメリカ国務長官のウィリアム・スワード(William Henry Seward, Sr.)が720万ドル(約9,000万ドル)でアラスカを購入した。この買収は「スワードの愚行」「スワードの冷蔵庫」といわれ,当時は評判がよくなかった。しかし,金が発見されたことでこの買収が無駄ではないことがわかった。
 1896年,隣接するカナダ・ユーコン準州で金が発見された。この事件は,大勢の鉱夫をユーコン準州のとなりのアラスカへも引きつけた。1899年,アラスカでも金が発見されゴールドラッシュが起こり,フェアバンクスやルビー等の町が作られるようになった。
 そしてアラスカ鉄道の建設がはじまった。また,銅鉱,漁業,缶詰製造業が盛んになり,大きな町々で合わせて10の缶詰工場が作られた。
  ・・
 1912年,アラスカはアラスカ準州となった。20世紀になる前からアラスカを州に格上げしようとする動きはあったが,アラスカの人口が少なすぎること,遠く離れていて孤立していること,合衆国に加える価値があるほどには経済が安定していないことが障害となっていた。しかし,第二次世界大戦と日本軍の侵略がアラスカの戦略的な重要性を浮き彫りにした。そして,石油の発見がアラスカのイメージを変えた。
 1958年,大統領ドワイト・D・アイゼンハワーはアラスカ州法に調印してこれを合衆国法に加え連邦加入への道筋をつけた。ついに,アラスカは連邦の49番目の州となったのだ。準州都だったジュノーはそのまま州都になった。石油の発見があってからひとり当たりの収入は上昇し,すべての地域が恩恵を受けた。
 1977年,トランス・アラスカ・パイプラインが完成すると,原油生産による収入で人口が増加に転じ,インフラ整備が進んだ。 現在,州の半分以上は連邦政府によって所有されている。
  ・・・・・・

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 国内・海外問わずこれまでいろいろな場所を旅して,私が行きたい場所や旅先でやりたいことがわかってきました。それは,人の少ないところであって自然が残っているところ,そして過ごしやすい気候であること,そうした場所で時間を忘れて落ち着けるところなのです。
 海外にはそうした場所がたくさんあるのですが,日本国内となると,ほとんどありません。なにせ,国が狭く山ばかりなのに人が多く,どこに行っても昔から人が住んでいて,しかも過疎化のために不便なところは廃墟となっているし,現在観光地となっているところは人だらけだからです。
 このごろ,海外からの観光客が非常に多いのですが,それは何も日本だけのことではありません。そのなかで日本を選んで来るのは,日本の古さと混雑さが珍しいのだと私は思います。

 木曽谷は中津川を過ぎて中央自動車道が伊那谷に別れを告げたあたりからが魅力的です。そこに続く旧中山道の宿場は国道19号線が走っていて,車中からは眺めても,私はこれまで降りて歩いたことがありませんでした。当然,木曽福島の町も歩いたことがなかったので,とても楽しみでした。
 木曽福島の第一印象は郡上八幡と似ているなあ,ということでした。とても落ち着いたよい町並みです。
 江戸時代の福島宿はJRの木曽福島駅よりも北側で,関所から続く上の段と呼ばれているあたりには今も宿場町の風情が残っていてびっくりしました。この宿場にもまた,宿場のシンボルである高札場が復元されていました。
 観光客が少なかったのも私には魅力的でした。
 アメリカの町でいう,いわゆるダウンタウン,つまり現在の繁華街は国道19号前がバイパスとなっていて町と離れていることもあって,そのままの道幅で町屋が続いているのも好感がもてました。私はこうした町を夕暮れにのんびりと散策するのが好きなのです。

 町は木曽川の南東にあって,木曽川を越えた北西にあるのが山村代官屋敷と興福寺です。
 関所跡に行ったあと,私が行ったのはまずこの山村代官屋敷でした。山村氏は戦国大名木曽氏の旧臣で関ケ原の戦いでの功労によって木曽代官を命じられ福島関所を預かったのだそうです。当時の屋敷は壮大で,その一角が現存して公開されているのです。
 昔,代官家を守る「山村いなり」に「おまっしゃ」という木やりを歌うキツネが住んでいて,町の人はその歌で吉凶を占ったのだそうです。この屋敷を解体修理した折にこの屋敷からキツネのミイラがでてきて,現在それがお祭りされていて,お願いすると見ることができました。

 次に行ったのが萬松山・興禅寺でした。このお寺さんは先ほどの山村家の菩提寺です。宝物殿をはじめとして,多くの庭があるのです。
 極めつけは看雲庭という石庭でした。この石庭は一木一草をも用いない枯山水の庭として東洋一の広さを誇るものだそうです。この庭は外からはまったく見ることができないので,突然現れたこの壮大な庭に入ってびっくりしました。
 紅葉の時期になると素晴らしい景色が見られるということなので,ぜひまた来てみたいものだと思いました。

 何が素晴らしいかといえば,ほどんど人がいないということで,京都のお庭ではこういう経験は決してできません。
 このお寺には木曽義仲公の墓もあります。源義仲(みなもとのよしなか)は平安時代末期の信濃源氏の武将です。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたります。木曽義仲の名で知られていて,「平家物語」においては朝日将軍と呼ばれています。
 以仁王の令旨によって挙兵し都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護,倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京します。荒廃した都の治安回復を期待されましたが,治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化,皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となり,源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により,粟津の戦いで討たれました。31歳でした。
 護衛わずか13騎,そのなかには巴御前の姿がありました。墓には、「義仲死に臨み女を従うは後世の恥なり。汝はこれより木曽に去るべし」と遺髪を巴に託した…という遺髪が収められています。
 さらに,寺の隣には御料館という旧帝室林野局木曽支局庁舎があって,公開されていたので見ることができました。
 最後に開田高原に足を延ばして御岳山を見てから帰宅しました。もっと歳をとって車に乗ることができなくなったとき,JRに乗ってこの地に行ってきままに観光するのもいいかな,と思ったことでした。

 木曽谷を走っていると「地酒・中乗りさん」の看板が目につきます。そういえば,子供のころよく聞いた木曽節で唄われる「木曽のナア~なかのりさん」って何だろうと思いました。御岳信仰のことを聞いてなんか薄気味悪い気がしたのがこの地方を知ったはじめでしたが,今回調べてみてその意味がやっとわかりました。
  ・・・・・・
 ひとつめの説は,その昔木材を木曽川で運搬した際に木材の真ん中に乗った人のことで,木材の先頭を「へ乗り」,後ろを「とも乗り」そして真ん中を「なか乗り」といったというものです。ふたつめの説は,馬の鞍の中央に乗った人を真ん中に乗るという意味で「中乗りさん」といったというものです。そして最後は,木曽御嶽山の信仰宗教である御嶽教の神様のお告げを神様に代わって信者に伝える人の事を「中のりさん」といったというものです。
 そのなかで有力なのが,ひとつめの,木材の真ん中に乗った「いかだ乗り」の説なのだそうです。
  ・・・・・・

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 前日の夜は雷まで光る雨で星が見られなかったのは残念でしたが,朝目覚めたときはすでに晴れていました。起床したのがまだ午前5時まえだったというのに,空がもう明るかったのにはびっくりしました。しかし,考えてみれば今は6月なのです。私は冬の南半球オーストラリアで星を見たばかりなので季節を錯覚していたようです。
 二度寝をしたあと,午前8時,ゆっくりと朝食をとってチェックアウト,予定通りに木曽福島の町に出ました。梅雨の合間,この日だけが晴天ということでツイていました。

 福島宿は旧中山道37番目の宿場で,現在の地名は木曽郡木曽町福島です。天保14年(1843年)の「中山道宿村大概帳」によれば,福島宿の宿内家数は158軒で,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠14軒で,宿内人口は972人ということでした。
 この宿には関所がありました。歌川広重の描いた福島宿もこの関所が描かれています。
 江戸時代,幕府は江戸防衛のために五街道の各所には50にのぼる関所を設けたのですが,この福島の関所は東海道箱根や新居,中山道碓氷と並ぶ「天下の四大関所」のひとつでした。
 福島の関所は宿場の北入口にあって,断崖絶壁の木曽川に面しているので立地としては理にかなっています。関所は明治2年に取り壊されましたが,昭和50年に復元されて関所資料館になっています。
 私はこの関所跡を見学する人のための駐車場に車を停めて町のほうから歩いてきたので,高台にある関所あとまでかなりの坂を上る必要がありました。北から来れば道路沿いにそのまま関所にたどり着くことができたようです。

 現在は川に沿って道路ができているので,知らないと高台にある関所跡を見逃してしまいます。私はこれまで箱根の関所跡も新居の関所跡も行ったことがあるのですが,ここの関所跡もそれと同様に,あるいはそれ以上にきちんと管理されていました。そして,充実した資料の展示がされていました。
 残念だったのは,到着したときはほかにはほどんと見学者がいかなかったので落ち着いた時間が過ごせたのに,突然,50人もの騒がしい団体のおじさんやおばさんたちがやってきて静寂は破られ,そうした雰囲気が台なしになってしまったことでした。

 関所跡には太田瑞穂の歌碑がありました。
  ・・・・・・
 山蒼く暮れて夜霧に灯をともす
  木曽福島は谷底の町
  ・・・・・・
 歌人・太田瑞穂は1876年(明治9年)長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)に生まれた人です。長野県師範学校(現・信州大学教育学部)に進学し,在学中に詩歌に興味を持ち,文芸雑誌「文学界」に新体詩の投稿を始め,信濃毎日新聞に「和歌日抄」を掲載。卒業後は松本高等女学校(現・長野県松本蟻ヶ崎高等学校)の教師となったそうです。
 確かに,この関所跡から木曽福島の町を眺めるとこの町が谷底にあるように感じられました。

◇◇◇
東海道を歩く-石畳の箱根峠を越える①
東海道を歩く-晩秋の浜名湖沿いの街道を行く③

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 これまでずっと探していたのは,なるべく近場で過ごしやすい宿でした。
 私は海外ではずいぶんと宿泊経験があるのに,日本ではあまり泊りがけの旅をしたことがありません。海外にはモーテルという気軽な宿泊施設がどこにでもあるのですが,日本の宿というのはやたら高級なホテルや「おもてなし」の好きな日本旅館,あるいはその逆に古く小汚い小さな旅館といったものばかりです。都会には便利なビジネスホテルがありますが,それでも駐車場が狭かったり一旦駐車すると途中で出入りが大変だったりして,案外と外出がままならない場合が多いものです。
 さらに私が理想とするのは,ホテルの庭から満天の星空がみられるような,あるいは早朝になると小鳥の鳴き声が聞こえるような,そんな緑の美しいところです。私はそんなところに泊まって1日中音楽を聴きながら本を読んでいたり,気が向けばふらっと出かけてコーヒーでも飲んで帰ってきたりと,そんな過ごし方のできる宿を探しているのです。

 昔,別荘を持っている人に招かれたことがありました。そのとき,別荘というのは何と不便で面倒なモノかということが身に染みました。
 到着してまずしなくてはならないのが掃除であったり,冬場であれば水道が凍ってしまっていたりと,まるで別荘を維持管理するために出かけるようなものでした。今はそういったことを管理をしてくれるという別荘もあるようですが,それでも,別荘があれば休日はそこへしか行かなくなります。そんなめんどうなモノをもつお金があれば,そのお金で自由にいろんなところに行くほうがずっと理にかなっています。それは個人天文台を作っても同様で,一旦そんなモノをもつと,盗難が心配であったり維持が大変だったりと,決して楽しいものではありません。
 要するに,モノというのはなるべくは所有しないほうがずっと幸せになれるのです。
 そう考えると,私の理想とする宿を見つけるためには,まずはいろんなところに出かけてみて実際に宿泊してみて探すのが一番なのでしょう。目的は人それぞれなので,口コミ情報だけではわかりません。

 今回泊まったペンションは昔スキー場があった山の中腹でしたが,スキー場はすでに閉鎖されてしまったので,あたりは寂れていました。このペンションに来る途中は別荘地でしたが,先に書いたように,別荘というのは結局は維持がたいへんなので,次第にその数が減っているそうです。
 別荘の多くは大きな会社の保養所ですが,そもそも,お休みのときまで会社の保養所ですごすというのは,仕事を忘れたいのに会社にいるときと同じ人たちと顔を合わせるわけで,そんなものは楽しくないでしょう。また,なかには勘違いをして,そういう場でも仕事の話しか話題のない人もいるというのが日本という国です。そこで,会社の保養所のようのような社員福利厚生施設は時代遅れとなって,こうした保養所も減っているのです。

 それにしても,この国はリゾートを作ってもどこも中途半端で,ハワイにあるような徹底的に豪華なリゾートでもなければ,自然保護を徹底して普段都会に住んでいては接することができない満天の星空が見られたり花が咲き魚が泳ぐといった自然と一体となったようなそんな場所でもなく,頭で考えただけの「便利さ」を追求してその場限りの予算を取って開発をして,その後の維持をしないものだから,その結果老朽化して潰れたマーケットがあったり,錆だらけの手すりに草ぼうぼうの散策道があったりと,とてもリゾート気分になれるような場所がありません。

 私の泊まったところはそうした別荘地からは少し離れていたので人も少なく静かで落ち着いた場所でした。
 あいにく天気が悪く,この晩は星は見られませんでしたが,晴れていたら日本でも比較的マシな星空が見られそうでした。ただし,周りは山が迫っていて視野が狭いのが難点でした。それを承知なら問題ないでしょう。
 さらに,車で10分も行けは木曽福島町に行くことができるので,町を散策したり食事をしたりするにも便利な場所でした。
 自宅からそれほど遠くないのに,遠くに来た気持ちになれるのも最高でした。

 木曽路はJRの中央本線が長野まで走るので名古屋に住む人には身近な存在です。道路は国道19号線が木曽路の谷間を走っています。
 中央自動車道ができたとき,そのルートが中津川市を過ぎると恵那山トンネルを通って伊那谷に行ってしまうように作られた結果,木曽谷は寂れていきましたが,逆にその結果,今になって昔からの中山道の雰囲気が残ったのが幸いでした。
 少し以前は,国道19号線が中津川を過ぎたあたりで慢性的に大渋滞をしてなかなな抜けられず,これが木曽谷にいくのを敬遠する理由になっていました。今もけっこう混んでいるので,さらに改良する余地があると思うのですが,それでもバイパスができて2車線になったので,以前ほどは渋滞しないのも救いです。
 私はこれを機会に,これからは木曽谷に出かけてみようと思ったことでした。

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☆☆☆☆☆☆
 私のきままかつ軟弱な中山道歩き。
 今回は,いつもと違って宿場間の街道歩きではなく福島宿の散策だけですが,そのまえに,木曽にある天文台の紹介からはじめます。
 私はこの先,中山道歩きを楽しむために,木曽谷にある宿場をどのように行こうか思案していました。それと同時に,日本でも星のきれいな場所がないものかとずっと考えていました。さらにもうひとつ,木曽にある天文台にまた行ってみたくなりました。
 木曽には105センチシュミットカメラ望遠鏡がある東京大学の木曽観測所という天文台があって,望遠鏡をガラス越しに見ることができます。これまで2度ほどすでに見にいったことがあるのですが,それをまた見にいきたくなったのです。

 そんなことを考えながらいろいろと調べていくうちに,木曽駒高原に1件のペンションを見つけました。どうやらそこは夜になると空には満天の星空が見られるようでした。
 名古屋から木曽福島までは車で2時間半ほどで,1か月前に私が行ったオーストラリアのブリスベンから星を見るために宿泊した町バランディーンまでの所要時間とだいたい同じです。そこで,とりあえず行ってみて,条件がよけれはこれからは何度も出かけてみようかなと思い,予約をしてみました。
 今回は途中で天文台に寄ってから,予約したペンションに行って宿泊,もし晴れたら星を見て,次の日に木曽の福島宿を歩いてみる,という計画でした。
 出発したのは6月8日金曜日の午後1時でしたが,天文台の公開は午後5時までということだったので,この時間で十分に間に合います。

 木曽観測所は長野県木曽郡の標高1,130メートルの山の上にあります。1970年に発行された「月刊天文ガイド」の別冊「日本の天文台」には木曽観測所は載っていません。それは,この天文台が作られたのが1974年だからです。それでもすでに44年になります。この施設を舞台としたドラマ「木曽オリオン」が2014年に放送されました。
 この天文台は,東京天文台の5番目の観測所として開設され,1988年に東京大学大学院理学系研究科附属天文学教育研究センターの観測施設となりました。主力の望遠鏡は口径105センチのシュミットカメラ望遠鏡で日本光学(現在のニコン)が作ったものです。

 シュミットカメラ望遠鏡(Schmidt telescope )というのは屈折・反射望遠鏡です。まず,4次関数で表される非球面の薄いレンズで光を屈折させて球面収差を除去したのちに球面鏡の主鏡で反射させて,収差がほとんどないシャープな像を結ばせるものです。明るく広い写野を得られ,かつ,中心部から周辺部までピントが合うという特徴をもっていますが,像面が凸球面になるので像を記録する焦点板を湾曲させなければならないことが欠点です。
 世界にある口径が100センチメートルを超える大きなシュミットカメラ望遠鏡は,1960年に完成したドイツ・タウテンブルクのカール・シュヴァルツシルト天文台(Karl Schwarzschild Observatory )の口径134センチメートル,1949年完成のアメリカ・パロマー天文台の口径126センチメートル「サミュエル・オシン」望遠鏡(the Samuel Oschin telescope),1973年完成のオーストラリア・サイディング・スプリング天文台(Siding Spring Observatory)にある口径124センチメートルのUKシュミット式望遠鏡(UK Schmidt Telescope ),そして,1974年に完成した東京大学木曽観測所にある口径105センチメートルと4台しかありません。
 
 木曽観測所のシュミットカメラ望遠鏡は,完成した当時は焦点板に甲板を設置して写真撮影をしていましたが,2018年現在は,超高視野(9度)のCMOS動画カメラとなっているそうです。9度といえば私の使っている視野の広い双眼鏡と同じです。 
 私はこの望遠鏡が大好きなのですが,実際のところ,現在ではかなり冷遇されているように感じてしまいます。大口径の望遠鏡がつくれないシュミットカメラは今では時代遅れなのでしょう。それにまた,星を見るのに適した場所がほどんどない日本にあって,木曽というのはまだマシな場所だと思うのですが,開設以来,この望遠鏡の他には30センチという今ではアマチュアの使っている望遠鏡ほどの小さな望遠鏡しかない,というのも不思議な気がします。今や,日本国内にはこうした施設を作る意味がないのでしょう。ただし,敷地には新しく名古屋大学宇宙地球環境研究所のパラボラアンテナが4基設置されていました。
 久しぶりに行ってみて思ったのは,ドームも錆びが出てきて,ずいぶんと老朽化してしまったなあということでした。望遠鏡を見学するスペースも古びてしまっていて,訪問者も数日にひとりくらいのものでした。展示スペースもありましたが,訪問者が少ないので寂しそうでした。アメリカやオーストラリアに比べて,日本にあるこうした施設はどこも見学用の設備が非常にお粗末で,お金がないんだなあと実感しました。
 外に出るとあいにく天気が悪くなって少し雨が降ってきたので,帰ることにしました。この私の大好きな望遠鏡がいつまでも活躍して学問の発達に貢献するのを祈って,天文台を後にしました。

☆ミミミ
星を見るのも大変だ-ドラマ「木曽オリオン」に捧ぐ

羊と鋼の森

 宮下奈都(みやしたなお)さんが書いた「羊と鋼の森」を読みました。
 「羊と鋼の森」は「別册文藝春秋」に連載され,のちに単行本化,2016年に第13回本屋大賞に選ばれました。現在,映画化され話題になっています。

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 外村は高校2年の2学期のある日の放課後,体育館に置かれているグランドピアノを調律師が調律するのを偶然目の当たりにする。そのことがきっかけとなり,外村は生まれてはじめて北海道を出て,本州にある調律師養成のための専門学校で2年間調律の技術を学んだ。そして北海道に戻り,江藤楽器という楽器店に就職する。入社して5か月が過ぎた秋のある日,ふたごの姉妹の住む家で柳が行う調律に同行する。入社2年目のある日,板鳥が行う一流ピアニストのコンサートの調律に同行する。
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 著者の宮下奈都さんは「静かな雨」で小説家デビュー。2013年より1年間,北海道新得町に家族5人で山村留学を経験したのだそうです。この本では「師がいてそこに弟子入りする男の子の話を書きたかった」と語っています。
 なお,本屋大賞というのは本屋大賞実行委員会が運営する文学賞で,一般に日本国内の文学賞は主催が出版社であったり選考委員が作家や文学者であることが多いのですが,本屋大賞は「新刊を扱う書店(オンライン書店含む)の書店員」の投票によってノミネート作品および受賞作が決定されるものです。
 私は本屋大賞を受賞した「謎解きはディナーのあとで」を読んで以来,この大賞を受賞した作品の「でき」を信用しなくなってしまったので,むしろ大賞受賞と銘打つとその本を読む意欲をなくしてしまっていたのですが…。
 この本はその予想に反して,とてもすばらしい作品でした。この本のよさは,読んていると,その背後に品のよいこころの音楽が響いてくる,ということです。そうしたさわやな空気を感じながらはじめからさいごまで読み通すことができます。私は好きな音楽を聴きながら読書をすればそれで満ち足りるのですが,まさにそうした大切な時間を費やすのにふさわしい小説でした。
 調律師という仕事は,ピアノを調律して一定の正しい音が出るようにする,というだけではありません。他の楽器と違って自分の楽器を持ち運びできないプロのピアニストにとって,会場にあるピアノを自分好みの音にしてくれる存在こそが調律師です。つまり,演奏家にとってみれば調律師というのは自分の楽器に等しい存在なのです。そうした知識をもってこの本を読むとさらに深みが増すことでしょう。

 それとともにこの本で感じたのは,私がいつも考えている「プロとアマの違い」というのは何だろう,ということでした。私は常々「プロとアマ」には,物質の運動が光の速度が越えられないのと同じような,決定的な壁があると感じています。ここでいう「プロ」というのはその仕事でお金をもらっているということではありません。「ホンモノ」の仕事師という意味です。
 世の中には,私を含めて「偽の仕事のプロ」,つまり「マガイモノ」があふれています。マガイモノの政治家,マガイモノの教育者,マガイモノの学者,などなどですが,彼らには自分が「マガイモノ」であるという自覚ががないのが問題なのです。それだけでなく,そうした「マガイモノ」がプライドだけは「ホンモノ」であるから余計にたちが悪いわけです。
 一方で「ホンモノのプロ」というのはものすごいものです。「ホンモノのプロ」のこだわりというのは,凡人には到底たどり着けない世界です。それは才能に裏打ちされていて,「マガイモノ」が決してもちえない技を授かった人たちです。この小説で描かれる調律師は,この「ホンモノのプロ」になっていく人の情熱とその姿を描いているのでしょう。だから私は,そこに羨ましさと眩しさを感じるのです。
 読後感もすばらしいまさに「ホンモノ」の小説でした。

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●素晴らしい朝食●
☆12日目 2017年8月27日(日)
 この日は日曜日であった。旅に出ていると曜日の感覚がなくなってくる。曜日によって博物館が休館だったりすることもあるから,もっときちんと計画を立てるべきなのだが,出たとこ勝負の私にはそれができないのだ。しかし,今回は,この日が日曜日だったことで恩恵を受けることになる。

 昨日は到着したばかりで土地勘もなかったのに深夜にドライブをして方向感覚が余計におかしくなってしまったために,朝にはさらにどこに何があるのか混乱状態であった。ともかく,夏にやって来て,しかも無計画なのにもかかわらすてオーロラを見ようとすることにかなり無理があることを理解した。
 朝早く,私の泊まっているB&Bには朝食を作るために若い女性がやってきて,キッチンで料理をはじめた。やがて朝食の時間になった。
 昨晩は私を含めて3組が宿泊をしていた。それはフロリダからきた夫婦とニューヨークから来た夫婦であった。彼らも1階の大広間に用意された朝食を食べるために集まってきた。
 私は,以前から泊まりたいと思っていたがその機会が今までなく,今回もまた,B&Bに泊まろうと思ったわけでもなかったが,結果として,B&Bに泊まるという体験をすることができた。

 用意されたのは写真のような豪華な朝食であった。一緒になった人たちと楽しく語らいながらの朝食はたいへん楽しかったが,この程度の日常英語もできないと,こうした集まっての朝食もたいそうストレスのたまる時間になってしまうかもしれない。
 日本で受けた教育は,人生を楽しむためには,障害となることはあっても利になるようなことはほとんどない,と私は断言できる。これは私の体験から出てきた考えである。もし,その意見に反対する人がいるのなら,私は逆に,ではそういう人は,学校で学んだことで今楽しい人生を過ごしているかを反対に質問したいものだ。
 
 食事を終えて,今日はまず,フェアバンクスの見どころをすべて制覇しようと,私は車で外に出た。まず目指したのはアラスカ大学の博物館であった。

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 私は40年以上前の「幻想」のなかで趣味を楽しんでいるのです。つまり,時代遅れです。しかし,当時発行されたこうした雑誌やその別冊を今にして面白く読んでいます。
 やっと手に入れた「月刊天文ガイド」の別冊「日本の天文台」には,40年以上前の,国立天文台のような研究施設,学校天文台や公立天文台のような公開施設,そして,アマチュアの個人天文台が載っています。
 そのなかで,国立天文台のさまざまな施設は,老朽化して現役を退き,今は歴史的保存物の対象となりました。現在,日本の天文学を支える最新の研究施設は,ハワイにあるすばる望遠鏡と南米チリにあるアルマ望遠鏡が主砲となっていて,空の明るい国内の非力な望遠鏡は使い物になりません。当時最大だった岡山の188センチ反射望遠鏡もまた,昨年その使命を終えたようです。

 「日本の天文台」に載っていた個人天文台もまた,40年も前のことだからその所有者が歳をとり,あるいは他界したので,その使命を終えたものがほとんどです。どんな機材を使っていたかというのは個人の趣味の問題なので,ここでそれを話題にするものではなさそうですが,今の私の知識でそれらを見ると,本当に自分が何をしたいかがわかっていた人は,あの時代であってもそれに応じた素晴らしい機材を工夫して作りそれを使っていたということがわかって感心します。こうしたことはなにも望遠鏡に限るものではありません。観光地などに出かけたときにカメラ好きが使っているカメラでも,自分がなにを撮りたいかがわかっている人の持ち物はそれなりに理があります。それは「ブランド」や「見栄」ではありません。
 現在のアマチュアの天文ファンは,超新星を探すとかいった特別な目的をもって楽しんでいる人は別として,単に美しい星を楽しみたい,写真を写してみたという人は,空の明るい日本で写した写真をコンピュータ処理をしてなんとかサマになるようにさまざまな工夫をして楽しんでいます。しかし,それもわびしい話で,いくら高額の機材を手に入れようと,空の暗いオーストラリアにでも出かけて安価な機材で適当に写したほうがよほど素晴らしい写真が写せてしまう,というのが現実です。

 それより切実なのは,研究を対象とした天文台ではなく,一般の人を対象とした公開用の施設です。
 「日本の天文台」に載っているこうした施設にあった望遠鏡の多くは日本光学(現在のニコン)と五藤光学の屈折望遠鏡や西村製作所,あるいは旭精光研究所の反射望遠鏡でした。当時の私は自分では手に入らないそうした機材に深くあこがれました。それらのほとんともまた老朽化しましたが,幸いにも破棄されなかったものの多くは,現在,四国にできた「望遠鏡博物館」で余生を送っています。私もそれを見にいったことがありますが,この本に載っていたまさにその「本物」を目にして感激しました。
 実際に話を聞いてみると,日本光学の望遠鏡よりも安価だった五藤光学の望遠鏡のほうが赤道儀の精度がよかっただとか,しかし,光学系は劣っていただとか,そういった生の声をきくことができました。それは本からではわからないものでした。
 現在,こうした公共の天文台には当時よりも大きな反射望遠鏡があって,週末ともなると公開観望会を実施していたりするので,私もときどき見にいきます。そして,惑星を実際に眺めると感動します。しかし,これだけ立派な機材があっても空が明るいからなかなか有効に活用できていないことを残念に思うことが少なくありません。
 確かにドームがあって,そのなかに立派な望遠鏡があるというのが,一般の人の「天文学」に対する印象でしょう。それはまさにお城の天守閣のようなものかもしれません。しかし,一般の人が星の美しさを知り感動するためには,実際の満天の星空を見るのが一番なのです。
 今,日本では「日本一星空の美しいところ」という触れ込みで多くの観光客を集めている場所があります。あるいは,ニュージーランドのテカポ湖やボリビアのウユニ塩湖のように星空目当てのツアーもあります。こうしたところに足を運ぶ人が少なくないのだから,人は満天の星空を見たいのです。そうしたことを考えたとき,望遠鏡という機材以上に,満天の星空という40年前の日本が持っていた貴重なものを失ってしまったことが私には残念でなりません。

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●さまよった夜の記憶●
 旅の思い出というのは不思議なもので,ずいぶんと思入れのあった場所に行ってその時点では感動しても,あとになるとほとんど忘れ去ってしまうものもあれば,その逆に,この夜の出来事のように,完全なる敗北であっても,いつまでも印象に残っているものもある。
 私の泊まっているB&Bはとても美しい建物で,またカワイイ部屋であったが,狭く寝るためのベッドとテレビがあるだけだったので,寝転んでテレビを見るくらいしか部屋ではすることがなかった。バスとトイレは隣の部屋との共有だったが,使用しているときに相手方の部屋の鍵を外からかけるようになっていたので全く問題はなかった。
 若いころは日本国内のユースホステルを泊まり歩いたものだが,その程度の宿泊施設で何のストレスも感じないで旅ができる「才能」が,楽しく旅をするためには最も重要な才能であろう。

 オーロラを見ることも諦め,失意? のなかで今日1日がすぎた。そして,明日から何をしようかと思って夜を迎えた。
 夜11時過ぎ。それまで小雨が降っていたが,この時間になるとそれも止み,窓から少し星が見えたので,まだあきらめきれずオーロラが見えるのではないかとわずかな期待をもって外に出てみたのだが,フェアバンクスが小さな町とはいえ,市街地は明るく星すら見えるという雰囲気ではなかった。
 オーロラというのは天の川と同じで,天の川が見える程度の暗い夜空のある場所でないと,たとえオーロラが出ていても見ることができないのである。それは,南半球に出かけてマゼラン雲を見ようと思っても,明るい市街地では見ることができないのと同様である。
 日本でも暗い夜空のあるところに住んでいなければ生まれてから一度も天の川を見たことのない人がほどんどであるのとそれは同じだが,勝手のわかる日本であっても,深夜,空の暗い場所に出かけることはたやすいものではないのだから,外国ではなおさらのことである。最低限,車を運転できなければならないし,治安の問題もある。私のように,日本で夜星を見るために暗い夜道をドライブすることに慣れていても,海外で同じことをしてよいのかどうかはかなりの問題であった。

 フェアバンクスは治安もよさそうだったし,さすがにクマは出そうになかったので,ともかく,ためしに車に乗って市街地を抜けて空の暗いところまで行こうと,あてもなく走り出したはよいのだが,走っているうちに位置関係がさっぱりわからなくなった。後で知ったことには,北に向かって走っていたつもりだったのが,道なりに西に曲がって,フェアバンクスの西に進んでいたようであった。私がもっとも恐れたのは,帰ることができなくなったらどうしよう,ということで,しだいに恐怖を感じるようになった。
 この晩,私が走っていったのは,フェアバンクスの北西にあったアラスカ大学の構内を抜けた森のなかの一本路であった。さすがにそのあたりにまで行くと周囲は真っ暗だった。車を道路際に停めて外に出ると,満天の星空が輝いていた。しかし,樹林に囲まれていて視野がせまく,しかも,オーロラというものがどのように出現するかも皆目見当がつかなかったから,こんなところであてもなく空を眺めていたところでどうにもなるものではないなあと感じた。そのうちににわかに天気が急変して空が一面雲ってしまったので,帰ることにした。
 これではオーロラなんてやはり絶望的だなあと思ったが,無事,もどれるかどうかのほうが心配であった。迷った挙句,とにかく町の明かりのあるほうに走っていって,なんとかB&Bにたどり着いて,失望感の中で就寝することになった。
 この晩走った車の中から見た景色は,フェアバンクスの郊外にはぽつんと灯りのついた家や,まったく車の通らない道路が果てしなくずっと続いていたというものであった。たったそれだけのことであったが,ドライブをしながら眺めたそうした風景が,今でも私の記憶に鮮明によみがえってくる。

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 内館牧子さんの書いた「終わった人」という本が話題になっているそうです。映画化もされました。
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 定年って生前葬だな。衝撃的なこの一文から本書は始まる。大手銀行の出世コースから子会社に出向させられ,そのまま定年を迎えた主人公・田代壮介。
 仕事一筋だった彼は途方に暮れる。年下でまだ仕事をしている妻は旅行などにも乗り気ではない。図書館通いやジムで体を鍛えることはいかにも年寄りじみていて抵抗がある。
 どんな仕事でもいいから働きたいと職探しをしてみると,高学歴や立派な職歴がかえって邪魔をしてうまくいかない。妻や娘は「恋でもしたら」などとけしかけるが,気になる女性がいたところでそう思い通りになるものでもない。これからどうする? 惑い,あがき続ける田代に安息の時は訪れるのか?
 ある人物との出会いが彼の運命の歯車を回す。
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だそうです。

 世の中には私も含めてこの年代の人が溢れていて,時間をもてあましているものだから,こういう人をターゲットにした本やら映画やらグッズがたくましく商戦を繰り広げていますが,そもそもそうした商戦に乗せられている人こそが,その主人公のような生き方をしている人たちでしょう。
 私はこの本も映画も見たわけではないのでその感想を書くつもりはないのですが,興味があったのは「仕事を辞める=終わる」という考え方です。組織で働くということは「自分の貴重な時間を売ってその対価をもらう」ということで,それこそが仕事なのです。しかし,農耕民族であるこの国の人々は「生きること=仕事」だったので,そう簡単に割り切れないわけです。そこにブラック企業が生まれる要因が根深く存在します。そしてまた,学生は,子供のころから自分の自由な時間も与えられず,教育という名目でドリル学習と「部活」という強制労働に明け暮れ,人生すべてが仕事という洗脳を終えて社会に出ていくのです。
 そうした,「人生すべてが仕事」に就くために学歴を手に入れようとし,学歴を手に入れるために入試で少しでも多くの点数の取れる訓練をする,というのがこの国の教育です。その結果,この巧みな企ての着地点が,仕事を辞めたあとは何もすることがない,つまり何かしたいこともなければ,するするための素養もない,ということにつながっているのです。

 私は若いころからそうした考えをまったくもっていなくて,将来一日でも早く時間と自由を得るために,仕事をしその対価としてお金を得ようと思って生きてきました。そして,それを手に入れ,早期退職をし,待望の「はじまり」をむかえました。しかし,たとえ早期退職をしなくても,退職がたとえ主体的なものでなくとも,定年というのは仕事という呪縛から解き放たれて自由を手に入れることができることだから,それは「終わり」ではなくむしろ「はじまり」だと思うのです。
 では,そうして手に入れた,あるいは入ってしまった自由をどう使うのか?
 私自身は今,やりたいことが多すぎて困っているのですが,そうしたやりたいことをしようとするとき,それをなすための知恵であるとか知識であるとか能力であるとか,そういうことをこれまでにどれだけ身につけてきたか,ということが,実は大問題なのです。それはたとえば,旅行をするときにその土地の歴史を知っているか? 言葉が話せるか? とか,コンサートに出かけたときに音楽を聴きこむための楽典を理解しているか? 作曲家や作品についてどれだけ知っているか? 楽しみで楽器が演奏できるか? とか,天文学を勉強したいと思ったときに学術書を読むための数学力があるか? 物理学の知識がどれだけあるか? などなどのことです。あるいはまた,生活を楽しむために料理を作る技術があるか? 機械がこわれたとき直せるか? コンピュータが自由に操れるか? といったことです。
 だから,本来,勉強というのはそのときのためにしてくるべきだったと思うし,そういうことを身につけるための本来の教育の機会が若いころにもっと与えられるべきだったと,今になって強く感じるのです。勉強と称した点数比べなどくそ食らえです。若いころに貴重な時間をそんなことに浪費してはいけなかったのです。

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●タイ料理でライスのお代わりは?●
 オーロラどころか雨さえ降ってきた。
 アラスカの大地を歩きたい,というのが第一の目的で,あわよくばオーロラを見てみたいというのが第二の目的でやってきたのだが,事前の研究もしていないものだから,オーロラを見る方法すらわからず,私はすっかりあきらめぎみであった。
 特にすることもないし,フェアバンクスのダウンタウンは歩いて回れるくらい狭いし,雨は降ってくるし…。せめて夕食くらいは満足に食べようとお店をさがした。

 驚いたことに,フェアバンクスにはタイ料理のレストランが目についたのだった。どうしてアラスカにタイ料理なのか,私にはさっぱりわからなかった。後で調べても一向にわからない。
 そのときは,こうなったらタイ料理に挑戦してみようと思った。「タイ・ハウス」とかいう名の老舗があるということだったので,行ってみることにした。
 私は,弟がタイに住んでいることもあって,タイなんて隣町のような身近な存在で,その気になれば明日にでも行けるのだけれど,まったくタイには興味がない。したがってタイ料理も食べたこともないので,これもまたまったくわからない。
 私はタイどころか,中国にも韓国にも,当然インドにも,まったく興味がない。それは人が多いという理由からである。日本のような人だらけの国に住んでいて,外国に行ってまで人混みに出会うなんて懲り懲りなのである。そうした国だけでなく,私の好きなアメリカやオーストラリアであっても,大都会には興味がない。私が行きたい外国というのは,人が少なく自然が多い,そんな場所なのだ。

 そんなわけで,タイ料理を食べたいというわけではなかったが,店に入った。
 タイ料理の魅力というのは辛さなのだということを後で知った。私は辛いものが苦手である。もともとは好きだったのだが,いつのころからか,辛いものを食べると頭のてっぺんから汗が噴き出すようになって食べられなくなった。辛いものを食べると汗まみれになってしまうのだ。幸いメニューを見ると辛いものは印がついていた。そこで辛くないものを選んだのが今日の写真の食べ物である。
 お店はよい雰囲気であった。アメリカなどによくある中国料理店の小汚さもなく,清潔感と,そしてちょっぴり高級感があった。店員は女性で,タイの民族衣装を着ていた。食事はおいしかったけれど,タイ料理についてはまったくわからないのでこれくらいのコメントしか書けない。
 それより,私がとまどったのはライスであった。アラビアンナイトの壺のような入れ物にライスが入ってきて,料理より先にこれが運ばれて来た。それを自分で皿によそうのかよそってくれるのか,といったマナーがわからないのだった。そのままにして待っていると,店員が皿によそってくれた。このライス,食べ終わったら自分でお代わりをよそっていいものかどうか今でもわかりかねている。そうだ,今度弟が帰国したら聞いてみよう。

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 「超ひも理論をパパに習ってみた 天才物理学者・浪速阪教授の70分講義 」 を読んでみました。
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 平凡な女子高生・美咲のパパはなんと超ひも理論が専門の天才物理学者(そして関西人)。「理解のカギは『異次元空間』や!」と最先端物理学を嬉々として語りだすパパに,美咲は最初辟易するが…!? 物理ファン垂涎の名講義,堂々開講!
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だそうです。
 この本の著者である橋本幸士教授はNHKBSプレミアムの番組「コズミックフロントNEXT」で「宇宙が“真空崩壊”!?宇宙の未来をパパに習ってみた」に出演されて,私はその番組で知りました。この番組は
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 ある日突然宇宙が真空へと崩壊する。そんなSF映画のような可能性を物理学者たちが指摘している。果たして未来の宇宙は私たちが気づく間もなく真空崩壊で一瞬にして消え去る運命なのか? それとも超対称性粒子が発見され,宇宙の壊滅的な真空崩壊など起きないことを人類の英知が証明するのか? 「超ひも理論をパパに習ってみた」の著者橋本幸士教授を監修役にドラマ仕立てで描きながら素粒子物理学が予測する宇宙の未来の姿に迫る!
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という内容でした。

 橋本幸士教授は京都大学理学部卒業後,京都大学大学院理学研究科を修了した人で,現在は大阪大学大学院理学研究科の教授をされています。専門のひとつである弦理論をわかりやすく書いたのがこの本というわけです。
 「超弦理論」(Superstring Theory)というのは物理学の仮説のひとつです。物質の基本的単位を大きさが無限に小さな0次元の点粒子ではなく,1次元の拡がりをもつ弦であると考える弦理論に超対称性という考えを加えて拡張したものです。宇宙の姿やその誕生のメカニズムを解き明かし,同時に,原子,素粒子,クォークといった微小な物のさらにその先の世界を説明する理論の候補として,世界の先端物理学で活発に研究されている理論です。

 もともと,物理学の理論を数式抜きで説明するということが無理なことなので,この種の啓蒙書には限界があるのです。それは「1+1=2」を言葉で説明しようとすることだからです。そのためには何かたとえ話を持ち出さなくてはならず,そうすると別のイメージが生れてしまいます。あるいは,駒の動かし方を知らずに将棋を説明しようという試みに似ているかもしれません。
 そもそも,物理学の理論というものは自然現象を人間の創った数式で書き表すということです。そうして書き表された数式を使って,過去に起きた事象も,これから起きる事象も矛盾なく説明できれば,その数式は正しいとされる,雑に言えばそういう感じです。物質の基本的単位を大きさが無限に小さな0次元の点粒子と考えると計算の過程でうまくいかなくなるから,それを点ではなく1次元の拡がりをもつ弦としてみよう,というアイデアが超弦理論で,そうすると計算がうまくいく,かもしれない… という感じです。
 だから,物理学の理論は,はじめに数式ありき,なのです。

 物理学を勉強すると宇宙の謎や物質の根源がわかる,というのは誤解です。物理学というのは物事の神秘を語るものでもその謎を説明するものでもないのです。物理学は数式を使って,これまでに起きたことやこれから起きることを正確に説明できる,そうした理論を創ることをめざすものです。
 そもそも,日本の高校の数学教育ではいくら勉強してもこうした数式を理解できるようにはならない,というのが問題なのです。英語教育が受験英語と批判されるのですが,それは数学も同じです。だから,私は数式を使わない啓蒙書よりも,むしろフリードマン方程式

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のような数式を高校生でもわかりやすくものすごくていねいに解説したような本があったらいいなあ,と思っています。そうすれば,数学というのは学校でやっているような受験数学ではないということがよく理解できるからです。「ひとりで学べる一般相対性理論」という本がありますが,それでも高校生には難しすぎます。

 そんなわけで,こうした数式を使わない啓蒙書を読んでも理論は理解できません。それよりも,そうした理論を考える上でのアイデアがおもしろい,とか,そういう考え方をするんだなあ,とか,そういうことを読者が納得すれば,それでこの種の本の目的は達成されるのです。その点では,この本は十分にその目的を達成することに成功しているといえるでしょう。そして,この本を若い人が読んで,物理学に興味をもてば,素敵な動機づけになるのです。
 なお,続編に「「宇宙のすべてを支配する数式」をパパに習ってみた 天才物理学者・浪速阪教授の70分講義」もあります。

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●オーロラを見る夢はどんどんと遠くに●
 宿泊先のチェックイを終えて,私はフェアバンクスのダウンタウンへ車で出かけた。
 このとき私がアラスカに来た理由はふたつあった。
 そのひとつはアメリカ合衆国50州制覇のけじめをつけるためであった。それまで50州を制覇したと公言していても,実際はアラスカはトランジットでアンカレッジの空港に降り立っただけだったからである。
 ふたつめは夏でもオーロラが見られると知ったからであった。チェックインをするときまで,私はアラスカの地では当たり前にオーロラを見ることができると思っていた。しかし,B&Bでチェックインをしたとき,オーロラについて尋ねたらまったくもっていい返事が聞けなかった。オーロラ? それなあに? みたいな反応であった。私はその反応で落胆したのだった。それ以来,オーロラを見にきたと言うこと自体恥ずかしい気がしてきた。
 しかし,オーロラが見られないのなら,この地で他にしたいことがない,というか,他に何があるのか全く調べていなかったので,3日間をどうやって過ごそうかと思った。

 フェアバンクスのダウンタウンは閑散としていた。道路は広く駐車帯もあるから車なんてどこにでも停められるし,歩道を歩いている人もほどんどいなかった。ただし,年配の日本人らしき女性がふたり,地図を見ながら歩いているのを見つけてたときはびっくりした。いったい彼女たちは何をしにきたのだろうと思った。あれは幻想だったのだろうか?
 少しだけ町を走り回ってから適当なところに車を停めてダウタウンを歩いてみたが,寂れた田舎町にすぎなかった。レストランもあるにはあったけれど,特に食べたいというものもなかった。土産物を買う気もないというのはハワイに行ったときと同様であった。しかも,行く前に私が予測していたような「日帰りオーロラツアー」なる看板を掲げた旅行社の1件も見つけられなかった。
 そこで,ともかく,ビジターセンターがあるのでそこに行ってみることにした。

 先に書いたオーロラの件だが,私は,フェアバンクスのダウンタウンにも,ハワイのように旅行者用の現地ツアーを扱うような店舗がどこにでもごろごろあって,そこでオーロラツアーを申し込んでそれに参加すればいいや,くらいに思っていたから,オーロラがどこで見られるか,ということすらまったく知らなかった。そこで,ビジターセンターに行けば手がかりくらいは掴めるかもしれないと思った。
 ビジターセンターにも広い駐車場があって,私は車を停めてなかに入った。ビジターセンターは充実していて,アラスカに関する展示や,さまざまなパンフレットが並んでいた。私はまずフェアバンクスの見どころを教えてもらって地図も手に入れた。しかし,オーロラツアーのパンフレットもかろうじてあるにはあったのだが,実施時期が9月からということであった。私はすっかり落胆した。オーロラを見る夢はどんどん遠くなっていくのであった。
 そんなこんなでビジターセンターの展示を見学をしていたら,雨が降ってきた。この時期のフェアバンクスは天気が悪く,これではオーロラどころではないということも行ってみてわかった。
 私のテンションは限りなく低くなっていくのだった。

DSC_0069 (2)DSC_0039 (2)DSC_0041 (3)DSC_0027 (2)DSC_0032 (2) 犬山市は愛知県の北西部にあって,地元では昔から明治村,リトルワールド,モンキーセンター,鵜飼といったレジャーパークとして知られたところです。ウィキペディアでは「尾張の小京都」と称されると書かれていますが,そんなことを聞いたことは私はありません。
 「犬山」という地名の語源は,犬を使った狩りに最適だった場所だったとか,平安時代の丹羽郡小野郷が山間部であるということから小野山から転じて「いぬやま」になったとか,大縣神社の祭神「大荒田命」が犬山の針綱神社の祭神の一人玉姫命の父にあたり,大縣神社から見て犬山が戌亥の方角に当ることから「いぬいやま」が転じて「いぬやま」になったとかいう説があるそうです。

 その犬山ですが,私には地元過ぎて,ほとんど行ったことがありません。犬山城なんて一度も登ったことがありませんでした。第一,かつてはお城に続く道筋は古びた家並みがあるだけでとても観光地とは程遠い状況だったからです。
 近頃,この犬山,家並みに多くのお店ができ,話題になっているので,暇に任せて行ってみました。お城の駐車場に車を停めると,平日だというのに観光バスまで来ていてびっくりしました。

 犬山城というのは豊臣秀吉が生まれた天文6年(1537年),織田信長の叔父である織田信康によって創建されたものですが,現存する日本最古の木造天守,そして,個人の持ち物としても知られています。
 城下を歩くと,話題になっていることもあって,以前に比べてずいぶんと活気がありました。まあ,太秦の映画村のようなものですが,日本人の好む町並みではあります。
 私は,犬山は城下町であるけれど,旧街道の宿場ということでもなく,この地に今もこうした家並みが残るのが不思議な気がしますが,逆に言えばこれまで発展する余地がなかったがために,古いままずっと残ってしまったといえなくもありません。それがここにきて脚光を浴びたわけです。

 城下には有楽苑という信長の実弟が建てた国宝茶室もあって,ここもまた,はじめて行ってみました。
 有楽苑には国宝の茶室・如庵,重要文化財の旧正伝院書院,古図により復元された茶室元庵などがあります。なかでも如庵は茶の湯の創世期に尾張の国が生んだ大茶匠・織田有楽斎が建てた茶室で,京都山崎妙喜庵内の待庵,大徳寺龍光院内の密庵とともに現存する国宝茶席3名席のひとつということです。しかし,この茶室はもともとここに作られたものではなく,各地を点々としたのち昭和47年に犬山城下の佳境の地に移築されたもので,名鉄の持ち物です。

 城下のメインストリート(本町筋)には旧磯部家住宅があります。旧磯部家住宅は江戸期の建築様式を持つ木造家屋で,主屋は幕末に建てられたと伝わっています。緩やかなふくらみのある「起り屋根(むくりやね)」は犬山市内の町家で唯一現存しているもので,正面は2階建て裏は平屋の「バンコ二階」と呼ばれる造りになっています。江戸期から呉服商を営んでいた家だそうです。敷地は間口が狭く,奥行きが広い「ウナギの寝床」で,中庭,裏座敷,土蔵などもあります。江戸時代の町屋が「ウナギの寝床」であったのは,当時の税金がが口の広さで決まっていたからです。
 犬山には寂光院(じゃっこういん)という紅葉で有名なお寺があるのですが,ここもまた行ったことがなかったので足を運んでみました。しかし,行ってみてびっくりしたのですが,このお寺,駐車場から泣くほど坂を上らないと本殿まで行くことができないのです。幸い無人運転をしていた乗り物があったので,それに乗ってやっと本殿に到着しました。もみじの本数は約1,000本。特に巨木が多く,秋には葉が細かく色鮮やかに染まるので見ごたえ十分なのだそうです。

 犬山は,ここもまた愛知の観光施設らしく,まあ,規模も小さく整備された場所とも言えませんでしたけれど,のんびりと散策を楽しむには近いからよいところだと改めて思ったことでした。

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●はじめてB&Bに泊まった。●
 私が予約をしたのは「アラスカ・ヘリテッジ・ハウス」(Alaska Heritage House)という名前のB&B であった。ここを予約した理由は,単に安かったというだけであったが,結果的にとてもよい選択であった。ちなみに,B&Bとは主に英語圏の国における小規模な宿泊施設のことで,宿泊と朝食の提供を料金に含み低価格で利用できるもののことをいう。多くのB&Bは家族経営による小規模な宿泊施設である。

 私は旅というのは現地行くための航空券と宿泊先,それに現地での移動手段さえあればあとはなんとかなると思っているので,旅行社でパック旅行を購入することはないが,一番の問題は宿泊先なのである。これまで私も数多くの失敗をしてきた。
 以前は,現地で飛び込みでホテルを探した。その当時はマクドナルドなどにクーポンがあって,それを頼りにして当日の夕方に直接フロントに行ったものだが,ホテルが見つからず苦労したこともあった。そのうち,エクスぺディアなどで予約ができるようになったので,逆にホテルを見ないで予約するリスクが生れた。
 おそらく今でも直接現地に着いてからホテルを探せばよいのだろうが,予約をしておいた方がホテル探しをしなくてよいので安心だからである。しかし,このエクスペディアの口コミというのもあまりあてにならないものなのである。それよりも,やはり,安いホテルにはどこもそれなりのリスクがある,と思った方がいい。

 私は,今回予約したところがB&Bだという認識すらなかったが,事前にメールが来て,そのメールに,到着時にスタッフが誰もおらず玄関が締まっていたときに家に入るキーナンバーが書かれていた。
 幸い私が到着したときはスタッフがいたので何の問題もなかったが,後でわかったことに,このスタッフというのは単なるバイトであってこのB&Bの経営者ではなく連日人が変わった。そして,朝になると,朝食を作ってくれる別のスタッフが来たが,その人たちも日替わりであった。そんなわけで,一応玄関にキーがあるにはあったがけっこう不用心で,だれでも自由に入ることもできるので,部屋のキーだけが支えであった。

 私のあてがわれた部屋はとても狭くベッドと椅子だけで,ほとんど残りのスペースがなかったが,寝るだけなのでそれで充分であった。それよりも,部屋の調度品がとても素敵だった。
 部屋にはバス・トイレがなく,これは部屋を出たところにあって,隣の部屋と共有であった。使うときだけ隣の部屋のキーをかけるのである。これもまた,それで実用上は十分であった。
 建物には1階と2階があって,さらに地下にも部屋があった。私の部屋は1階であった。
 1階の中央に大きな部屋があって,そこが食堂になっていた。

 この家のは100年以上も前に作られた,いわば欧米のペンション,つまり「大邸宅」だった。要するにB&Bは朝食付きの「民泊」のようなものだが,こんな大邸宅に泊まれるというのもかななか貴重な体験であった。外には3台ほど車が駐車できるスペースがあったが,あたりの道路も路上駐車が可であった。また,このB&Bの付近は清楚な住宅街であったが,フェアバンクスのダウンタウンには徒歩でも行くことができるくらいの距離であった。

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 「月刊天文ガイド」を創刊号のころから知る私たちにとって「三種の神器」にあたる本はおそらく「イケヤ・セキ彗星写真集」「広角レンズによる星野写真集」「日本の天文台」であろうと思われます。
 私が星に興味をもったときはすでに「イケヤ・セキ彗星写真集」はその数年まえに発行されてしまっていましたが,「広角レンズによる星野写真集」と「日本の天文台」は購入することができたので,毎日のように飽きもせずこれらの本を眺めて育ちました。
 実は,私が興味をもったころはまだ「イケヤ・セキ彗星写真集」は出版社に在庫があったのですが,子供の知恵ではそんなことは気づかなかったので,それが手に入らないことが残念でした。しかし,いつも眺めていた本というのは知らないうちに薄汚れたり,いつの間にかどこかにいってしまうものであり,どうでもよいようなものはいつまでも手元にあるものです。そんなわけで,私の愛読していた「広角レンズによる星野写真集」と「日本の天文台」もそのうち行方不明となってしまいました。

 歳をとると子供のころの原風景が懐かしくなるもので,私はこの3冊の本が無性に手元に欲しくなりました。いくら本棚をさがしても,昔絶対に手元にあったはずの本は見つからず,見つからなければより一層欲しくなるのでした。近年はネットオークションや古書のウェブページがあるので,それをこまめに探しました。そして,まず「イケヤ・セキ彗星写真集」を手に入れました。その後,「広角レンズによる星野写真集」も見つけました。同時に,生まれてはじめて買った「月刊天文ガイド」の1968年3月号も見つけました。「月刊天文ガイド」はこの号をはじめとして10年以上は買い続けたのですが,その置き場所に困ってすべて手放してしまいました。しかし,このはじめの1冊だけはどうしてもまた欲しかったのです。
 どうしてもなかなか手に入らなかったのが「日本の天文台」でした。あるときは3万円近くの値がついているものもありましたが,それではあまりに高価です。
 今回,それを私はずいぶんと安くやっと手に入れたのです。この本は1976年当時に日本にあった公設・私設の天文台を写真とともにまとめたものですが,やっと手元に戻ったこの本を改めて見ると,当時の記憶がだんだんと蘇ってきました。そのうち,手に取ったときに同じような感慨を覚えた本があるのを思い出しました。それは,やはり今から40年ほど前に出版されたアメリカ大リーグのボールパークをまとめた写真集でした。それはともに,当時の,今となっては古臭い施設をまとめた写真集なのでした。こういうものを「古きよき時代」というのです。 

 今から40年以上も昔,この本に載っていた天文台に,私は憧れました。その後,実際足を運んだところも少なくありません。この当時の日本の天文台のうちで,いまでも現役なのはどれくらいあるのでしょうか? おそらく1割もありますまい。現実は,こうした当時の望遠鏡が今役に立つようなときは限られているのです。というよりも,完全に時代おくれなのです。それは,ひとつには機材が古いということにあり,もうひとつは日本の空が絶望的に星が見えないくらい悪くなったということにあるのです。
 天文台がアマチュア天文ファンの「聖地」でありえた時代,天文台は,当時の青少年のドリームランドでした。なにかこうした施設にはものすごい夢とロマンが満ち溢れていたように思えました。そうした想いが動機付けとなって,当時の青少年は夢や知識が増したのです。そう考えると,単に「時代遅れ」といって,今,こういう施設を葬り去ってはいけないように思います。この本に再び巡り合って,私も,再び,こうした「聖地」の巡礼をしたいものだと,改めて思ったことでした。

日本の天文台池谷関彗星写真集広角レンズによる星野写真集

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