しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

September 2018

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●絶品・黄金色に輝く泥●
 デスバレー全体を見渡すには展望台に登らなければならない。他の,例えばグランドキャニオン国立公園とかキャニオンライズ国立公園のようなもともとバレー(谷)を見渡すことができる国立公園は,展望台からの雄大な風景を見ることが主な見どころになるのに対して,デスバレー国立公園がそれらと違うのは,バッドウォーターをはじめとして,まず,谷底に容易に行くことができるという点にある,と気づいた。
 グランドキャニオン国立公園であれば,逆に,展望台から雄大な風景を眺めるのは容易であるが,コロラド川の谷底まで下るのは容易でない。グランドキャニオンの谷底に降りるには,ミュールツアーというものに参加する必要がある。ミュールというのはラバのことだが,そのミュールにまたがって日帰り,あるいは1泊2日で険しい道のりを行くのだという。そう考えると,むしろデスバレー国立公園のほうが楽な気もしてきた。
 いろいろと調べてみると国立公園というのも奥が深いものだ。 

 デスバレー国立公園では,全体を見下ろすことができるのは,ザブリスキーポイント(Zabriskie Point)とダンテスビュー(Dantes View)まで登らなければならない。しかし,これらは車でアクセスできる。
 バッドウォーターからビジターセンターに戻って,そこから南東に走る州道190を走っていけばいいということなので,私はデスバレー国立公園観光の最後に,このふたつの展望台に行くことにした。
 とにかく,来る前は暑い暑いという話だけでたじろいで,行くことすらためらいがちだったデスバレー国立公園だったが,そのなかでも最も暑いバッドウォーターに暑くならないうちに行くことができたから,お昼に近くなりさらに気温が上がっても,展望台は標高が高いだけ大丈夫だと,私はすっかり安心気分になっていた。

 アーティスツパレットに迂回してから,私は再び州道178に戻った。そこにあったのがゴールデンキャニオントレイル(Golden Canyon Trail)の入口で,駐車場に車が1台停まっていた。このトレイルがどんなところだろうかと,私もその車の横に停めてトレイルの入口まで行ってみた。それがそれが今日の1番目の写真である。
 この入口から1周4マイルほどの周回トレイルがはじまっているという標示があった。そしてまた,夏季は午前10時以降は禁止ということであった。
 それにしても,この暑い時期にまだ10時前とはいえ,トレイルを歩こうとする人がいるというのもまた,すごいものだと思った。当然,軟弱な私はそんなことはしない。

 再び車にもどって,ビジターセンターまでの道を走った。そのときの風景が今日の2番目の写真である。
 ビジターセンターを通り過ぎたところで右折して,まず,ザブリスキーポイントに行った。3マイル走ったら右手に広い駐車場があって,多くの車が停まっていた
 駐車場からはかなりの距離の坂を登る必要があった。すでにこの時間でもこれだけ歩くと暑さでバテぎみであったが,それでも,展望台に登りきると,そこから見ることができたのは,絶品・黄金の山ひだであった。黄金色をした泥が1,000万年前に湖底に沈殿してできたものだという。

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●宇宙旅行をしているようなもの●
バッドウォーターに行く途中にナチュラルブリッジと書かれた道路標示があったが,そこに行く道もまた,未舗装であった。
 このデスバレー国立公園はロサンゼルスから近いということもあって,多くの日本人が訪れている。デスバレー国立公園にはこうした未舗装道路がけっこうあって,ネット上にはこうした道路を走ったという内容のブログもけっこうあるし,その未舗装道路を走っていてパンクをして,50度の屋外でパンクの修理をしたというものさえあった。私は若いころならいざ知らず,今はそういう行動はしない。まして,デスバレー国立公園に来ることさえ躊躇してたくらいだから,私はビジターセンターまでたどりついただけで充分満足していたし,おまけに,デスバレー国立公園で最も過酷だというバッドウォーターまで行くことができた。

 バッドウォーターに行った帰り,あとはビジターセンターにもどるだけだと思っていたが,途中にアーティスツパレット(Artists Palette)という場所に行く脇道があった。ここもまた未舗装道路だろうと思ったが,見える範囲では道路幅は狭かったが舗装されているようだった。
 この道路は北向きの一方通行だから,デスバレー国立公園の南側にあるバッドウォーターへ行った帰りに迂回する方が無駄がないわけだ。
 この道路を走っていくと,その先どうなっているのかまったく知らなかったが,せっかく来たのだから行ってみようと,私はその道路に右折した。
 前にも後にも他に車は走っていなかったが,美しく舗装され,ゴミひとつない道路が延々と続いていた。やがて,岩山が現れてきた。そこから先はくねくね道であった。
 以前,サウスダコタ州のバッドランド国立公園へ行ったことがあるが,その時の感じに似ていた。当然行ったことはないが,それは,火星のような,というか,地球でないような,そんな雰囲気の場所であった。

 アーティスツパレットというのは,浸食され,崩壊した崖の斜面の岩肌に色彩豊かな鉱物が露出している場所である。
 遠くの岩山を眺めていると,黄色,赤色,茶色,さらには緑色,紫色と,岩に人工的に絵の具を塗ったような鮮やかな色彩が見えてきた。だれかが落書きでもしたかのような感じであった。
 有色鉱物(colored mineral)というのは,広義には色のついた鉱物を総称する語である。具体的には,黒雲母や角閃石類,輝石類,カンラン石類,磁鉄鉱などである。ケイ素(Si)が少なく鉄(Fe)やマグネシウム(Mg)に富むため,苦鉄質鉱物(mafic mineral)ということもある。
 鉱物の色は,金属イオンによるものや原子欠陥によるものなどによる。こうした色は,多くの場合鉱物中の遷移金属元素の種類によって決まる。たとえば,コランダムという無色の鉱物にクロムが入ると赤いルビーになり,チタンと鉄が含まれると青,つまりサファイアになるというようにである。また,含まれるもので色が決まっているかといえばそうでなく,含まれるものが同じでも元の鉱物が異なれば色も違う。たとえばクロムは,コランダムに入れば赤いルビーになるが,ひすい輝石に入ると緑色のひすいになる。
 むずかしいことはよく知らないが,いずれにしても,このデスバレー国立公園は地球とは思えない場所で,地球にいながら宇宙旅行をしているようなものであった。

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 東京の地名には「谷」が多いのです。四谷,渋谷,世田谷,千駄ヶ谷,谷中なんていうものもあります。このことからも,今でこそ東京は世界一人口の多い首都ですが,その昔徳川家康がこの地を踏んだころは,平地ではなく,かなり起伏に富んだあまり立地のよくない場所であったことが想像できます。

 千駄ヶ谷は,現在では住宅地やオフィスビルのほかに,東京体育館,津田ホール,能楽堂などの文化施設が多くありますが,かつてこの地は徳川宗家が住し,天璋院も居住したところです。その後,東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町という地名になったこの場所は,1932年(昭和7年)に東京市に編入されました。新宿御苑内を水源とした渋谷川の上流に位置していて,たくさんの萱が生えていたことと,それを1日に「千駄の萱」を積む事から千駄ヶ谷となったといいます。
 千駄ヶ谷一丁目の鳩森八幡神社前交差点から西に北参道交差点に続く「千駄ヶ谷大通り」は,千駄ヶ谷と代々木を結ぶ主要道で戦前は大いに賑わい,1960年代前半までは東京都内でも有数の「連れ込み宿」街であったそうです。

 そうした環境だったからそこに将棋連盟ができたのか,そんなことはまったく関係がなかったのかは知りませんが,日本将棋連盟ビルのあるあたりは市街地の碁盤の目が明治通りと平行になっていないので,私のように普段通らない人は道に迷ってしまいます。
 私の目的は将棋メシの聖地を探すことだったので,迷いながらも,まずは「ほそ島や」さんを目指して歩いていました。するとそこに鈴木大介九段が向こうから歩いてきました。
 先日,名古屋で将棋名人戦があったとき,その前夜祭に出席するために大須の商店街を歩いていたら,やはり,そのときも私は鈴木大介九段とすれちがいました。こうした偶然が重なるとなにか不思議で気がしますが,いずれにしても,私と一緒にツーショットで写した写真はあるものの,当然,鈴木大介九段は私のことはまったくご存知ないだろうから,そのまますれ違いました。そんなことをしながら,やがて,ビルの1階にあった「ほそ島や」さんににたどり着きました。

 次に探したのが「千寿司」さんでした。私の持っていた簡単な地図には,それはセブンイレブンの隣とあったのですが,それとは別のセブンイレブンを見つけてしまい,その隣にはめざす「千寿司」さんがないのでずいぶんと迷いました。
 改めて調べ直して,無事に「千寿司」さんを見つけると,その道の反対側にうなぎの「ふじもと」さんもあって驚きました。
 最後に,中華料理の「紫金飯店」を探しましたが,それはこの場所からは少し離れていました。千駄ヶ谷小学校南の大通りまで行って,道沿いを西に,明治通りの交差点まで行った角にやっと見つけましたが,坂が険しくてたいへんでした。

 こういう,冷静に考えてみるとバカみたいなことをするのは,けっこう楽しいものです。これまで数多く世界中を旅をしてくると,名所旧跡などほとんど興味もなくなり,このようなバカみたいなことこそが,最も楽しい街歩きとなってきます。
 以前,赤瀬川源平さんという前衛美術家で随筆家で作家だった素敵なおじ様が,「トマソン」とかいう路上観察を楽しみにしていたのが理解できるようになってきました。
 「トマソン」というのは,赤瀬川源平さんが南伸坊さんや松田哲夫さんと四谷を歩行中に,ただ昇って降りるだけの意味不明な階段を発見したとき,それを階段としてきわめて純粋であると興奮したことに由来します。当時,読売ジャイアンツに高額の契約金で雇われたゲーリー・トマソン(Gary Leah Thomasson)選手が役に立たなかったことにちなんで,彼らはこれを「超芸術トマソン」と命名しました。

 それは,凡人である私がこの歳になってはじめて,こうした天才に生まれた人たちが,この実社会をあるときは揶揄しまたあるときは賛美し,究極的には生きるという行為を人間の最大の芸術ととらえていた様が,少しずつやっと理解できるようになったということなのです。
 こういう精神状態に近づいてくると,日本を歩こうが,あるいは海外のどこを歩こうが,どこだって興味深々の対象ばかりになってきます。これはとても素敵な「時間つぶし」つまり生きるという積極的な行為なのです。

 そうそう,この日,私は六本木で昼食をとる予定があったので,こうして将棋メシの聖地を歩きまわっていていたのは,昼食時間より早い午前中でした。そんなわけで,残念ながら,どの店もなかに入って食することはできませんでしたが,今回,こうしてすべてのお店の場所を確認することができたので,ぜひ次回来るときは,このお店たちで食事をしてこようと固く決意したことでした。

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 私は将棋ブームだからといって迎合してるわけではなくて,50年以上にわたる将棋ファンです。名古屋に住みながら,これまでに何度も東京・千駄ヶ谷の将棋会館に行ったことがあります。しかし,今はやりの「将棋メシ」などというのはこれまでまったく知らなかったので,先週末,N響定期公演を聴きに東京に行ったついでに,話題の「将棋メシ」の聖地を歩いて巡ってくることにしました。そのほうが将棋の放送を見るときに話についていけるのでより楽しくなるからです。

 今から43年前なので,もうそんなに年が経ってしまったかと感慨深いのですが,昭和50年2月14日に行われたA級順位戦のことです。当時の肩書では「升田幸三九段対大山康晴九段」という対局がありました。その対局は名人を失冠した棋士・大山康晴九段がA級順位戦で久々に升田幸三九段と対局したものでした。生涯に164戦戦った両者ですが,それは,升田幸三実力制第3代名人が大山康晴十五世名人に最後の64勝目をあげた対局だったのです。
 実は,この対局が行われたのが,今の将棋会館に建て替えられる前の古い将棋会館での最後の対局でした。このときの観戦記には次のように書かれてありました。
  ・・・・・・
 この将棋会館での対局はこの日が最後という話だった。次の升田・米長戦の通知には「高輪」と書いてある。計画通りに運べば,1年後に,地上5階,地下1階の新会館ができて,また千駄ヶ谷に戻ってくる…
  ・・・・・・

 高輪というのは,囲碁の日本棋院のあった場所で,確か,日本棋院も市ヶ谷に新しい会館ができたばかりで,それ以前の会館のあった場所が空き家となっていて,そこを間借りしたというのが私の記憶です。
 だから,私には,現在の将棋会館というのは新しいという認識があるのですが,考えてみればもう50年近くなるわけで,新しい会館を作ろうという計画が立ちあがるのも無理のないことです。
 それ以前の将棋会館というのは2階建ての単なる民家のようなところだったそうです。この時期に,東京,そして,関西に将棋会館を相次いで建設したというのは,今考えるとものすごい努力の結果なのだと思います。

 その1年後,新しく作られたのが現在の将棋会館ですが,当時,地下1階には確か「歩」という名前のレストランがありました。今も関西の将棋会館の1階には「イレブン」という名前のレストランがあるのですが,大通りに面している関西と違って,東京の将棋会館にレストランがあっても,経営が成り立たなかったのだと思います。
 私もそのレストランがあったころに将棋会館に行ったことがありますが,1階ならともかく地下にあって入りづらい感じがして,行くことができませんでした。そしてまた,当時は棋士も対局中に外出自由だったので,自前の建物のなかにレストランがあろうと,そこで食事をとることも少なかったのでしょう。

 このごろは外出ができなくなって,しかし,東京の将棋会館にはレストランがないから出前を頼む必要ができて,千駄ヶ谷界隈で出前をしてくれる食事処,ということで「将棋メシ」が登場しました。期を同じくして「ニコニコ生放送」や「AbemaTV」で将棋の生中継をするようになったことで,出前をしてくれる食事処という普通のお店の名前が愛好家の間で有名になったわけです。
 JR中央線の代々木駅から千駄ヶ谷の将棋会館を目指してとぼとぼを歩いてきた私は,日本共産党の本部のあるビルを通り過ぎ首都高速道の高架下の道路を横断して南側の歩道を西に歩いて国立能楽堂を過ぎたころ,突然そこに名前をよく聞く「みろく庵」を見つけてびっくりしました。

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●午前10時までは湖面を歩ける。●
 バッドウォーター(Badwater)はファーニスクリークから南へ約27キロメート行った地点にあって,車で30分ほどかかる。途中にはほとんど車が通っていなかったが,バッドウォーターの駐車場に着くと,すでに結構多くの車が停まっていて安心した。
 駐車場に車を停めて,観光客はめいめい楽しそうに付近を散策をしていた。まだ早朝で太陽の高度は低く,高い山(この山に後ほど行くことになるとはそのときは思ってもいなかった)のおかげで,この時間は展望台の付近は日陰となっていたので助かった。
 この場所こそがデスバレー国立公園の中で最も気温が高いところということだったので,私はデスバレー国立公園を観光することに次第に妙な自信ができてきた。
 しかし,ここまで走って来る途中にいくつかあった脇道のほとんどはダート道だったが,ダート道はレンタカーでは走行できないから,私がデスバレーを本気隅から隅まで観光するのは準備不足で場違いのようにも思われたから,この場所さえ見られればもういいや,とも思った。このバッドウォーターこそがデスバレー国立公園最大の見どころなのである。

 バッドウォーターは先の悪魔のゴルフコースの海抜マイナス85.9メートルに次いで標高が低く,海抜マイナス85.2メートルである。バッドウォーターからわずか220キロメートル北に,アラスカを除くアメリカでの最高峰標高4,421メートルのホイットニー山があって,その差はなんと5,300メートル近くにもなる。
 アメリカ人という,いつまでも子供で何でも世界一が好きな人たちなら,こうした状況を見れば,この(ほぼ)最低地点をスタートにして最高地点のホイットニー山の山頂までマラソン大会をやろうと思うのは当然であろう。そんなわけで,実際に「バッドウォーター・ウルトラマラソン」という世界で最も過酷なマラソンがあって,この場所はそのスタート地点となっているのだ。

 このあたりの地域の自然環境は長い時間をかけて形成されたものである。最も古い岩石は少なくとも17億年前のもので,その後変成した。
 かつて,ここは温暖な浅瀬だった。泥や砂が長い年月をかけて堆積し,堆積はその後沈み込み,それは帯が海岸沖に形成されるまで続いた。その後,この地域は海底から隆起し,直線状の火山群が形成された。さらにその後,地殻の東西方向への伸張運動が開始され,現在のような地形になった。
 谷にも堆積物が堆積し,氷期には湿潤な気候となり,デスバレーを満たすマンリー湖のような巨大な湖がいくつも出現したが,氷期の終了に伴い,約1万年前から劇的に河川の供給が減少するとともに,それらの湖は乾燥しはじめた。
 現在,バッドウォーターはバッドウォーター盆地の中にどうにか存在し,かたわらには湧水を源泉とする小さな池があるが,かつては,バッドウォーター盆地は塩水湖であった。
 バッドウォーターには,ピックルウィードというサボテンやバッドウォーター・スネイルというカタツムリ,さらに,水生の昆虫が生息しているという。
 バッドウォーターの表面が白くなっているのは塩で,手に取って舐めてみると確かに塩辛かった。
 展望台から先のカラカラになった水面は乾燥していて,沈み込むこともなく歩くことができるので,ここに来た人たちは私も含めて,みな恐る恐る歩いていた。しかし,まだ早かったからよいものの,写真にあるように,午前10時以降になると灼熱地獄と化し,歩くことは危険である。

 デスバレー国立公園にもまた,他の国立公園同様にトレイルがあるのだが,それらのトレイルも,このバッドウォーターの水面と同様に,10時以降に歩くのは危険だからやめるようにという表示があった。アメリカでは何事も自己責任だが,無理するなよ,というのがこの国の流儀である。
 それに対して,真夏の炎天下で多くの批判があろうと,根性とかいう時代錯誤の発想で何の改善もせず,これが青春だとかいって高校野球をやるのが日本の流儀である。いや,実際は辞めるという決断ができない,というか,決断をする責任者がいない,というだけのことであろう。ただし,もしそこで死人のひとりでも出れば,たちどころに180度その方針が転換されるのは目に見えている。それもまた,だれも責任をとりたくない,というだけの理由からである。どんなに立派な意見を言おうときちんとした裏付けを提示して説得しようと聞く耳をもたないのに,人が命を落とすという現実に直面すると,それまでの意固地さが突然消滅して,責任回避のために180度方針が変更される。これが日本である。

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 今回の定期公演では「クレルヴォ」以外にも,シベリウスの書いた興味深い作品が取り上げられました。
 そのひとつは「レンミンケイネンの歌」です。シベリウスの初期の作品を代表する交響詩「4つの伝説」と同じ年に発表されたもので,この作品もまた「カレワラ」を題材とします。「カレワラ」に登場する英雄レンミンケイネンを題材とするレンミンケイネン賛歌です。とても小気味のよい音楽で,この演奏会のはじめを飾るにはもってこいの曲でした。オールシベリウスプログラムとはいえ,「フィンランディア」以外にはなじみのない曲ばかりだったので心配したのですが,この曲を聴いてその心配も吹き飛びました。
 その次は「サンデルス」です。これは即興曲で,作曲コンクールの応募作です。テクストはフィンランド戦争におけるスウェーデンの名将ヨハン・サンデルスの活躍を描いたヨハン・ルートヴィグ・ルネベルィの名作「旗手ストールの物語」ということです。地味な曲でしたが,この次の「フィンランディア」への橋渡しとして適切な曲でした。
 そして,有名な交響詩「フィンランディア」。1900年に初演されたこの作品は,舞台劇「歴史的情景」の最後を飾る「フィンランドは目覚める」の付随音楽を原曲としています。19世紀フィンランドの苦難に満ちた時代を壮大な活人画で描いた「フィンランドは目覚める」は「ロシア帝国の理不尽な圧政に対抗するフィンランド,その輝かしい未来」を主要なコンセプトとしていて,フィンランドの独立のその力となりました。「フィンランディア」はよく演奏されますが,男性合唱がついているのはめずらしいものです。詩は後で作られたもので,シベリウス自身が編曲して詩を入れたということです。
 抑圧されていたフィンランドという国の人たちを奮い立たせたというこの曲を聴くと,泣けてきます。
 これらの曲のあとで「クレルヴォ」が演奏されました。
 いい演奏会でした。そして,私はますますフィンランドという国,そして,シベリウスが大好きになりました。

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 Harvest Moon 2018 

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 私が前回N響定期公を聴いたのは2016年のシーズン2017年5月13日の第1860回だから,かれこれ1年以上も前のことになります。
 時は流れ,早くも2018年の新シーズンがはじまりました。9月のCプログラム・第1892回は私の大好きなオールシベリウスプログラム。であれば,聴きにいかねば,ということで足を運びました。
 定期会員のころはS席で聴いていたのですが,その後,いろいろな席で試した結果,2階席の最後尾で聴くのが最もストレスがないということがわかったので,最近聴きにいくときはそこが定席です。今回は金曜日ということもあり,私の座ったあたりは空席が多く,よりゆったりと楽しめました。ステージもフルに見渡すことができました。音も1階席のように上に抜けて行ってしまうこともなく,決して悪くありません。

 オールシベリウスプログラムのメインはN響初演の「クレルヴォ」でした。この「クレルヴォ」というのはN響どころか,日本ではあまりなじみのない曲です。
 シベリウスのふるさとフィンランドは,私も1年前まではシベリウスの生まれた国という印象しかなかったのですが,この2月にフィンランドに行って以来興味をもち,親しみがわいてきました。そして大好きになりました。
 この国の歴史を調べていくうちに,つねに隣国の脅威にさらされたその境遇や国民の矜持が日本と似ているところがあって,さらに,親しみが増しました。フィンランドでは,シベリウスは国民の誇りなのです。

 日本に「古事記」があるように,フィンランドには民族叙事詩「カレワラ」(Kalevala) があります。
 フィンランドに独特の伝説や伝承が多数存在することは17世紀ころから知られていましたが,1809年,フィンランドがロシア帝国に編入されたことを契機に民族意識が高まり,民族に特有の伝承が固有の文化として認識されるようになりました。
 19世紀,医師であったエリアス・リョンロート(Elias Lönnrot)によって,民間説話からまとめられた「カレワラ」は,フィンランド語の文学のうち最も重要なもののひとつで,1917年,フィンランドをロシア帝国から独立に導くのに多大な刺激を与えたとされています。「カレワラ」というのは「英雄の地」の意味です。
 リョンロートははじめ,「カレワラ」を2巻32章からなる叙事詩として出版,その後増補し,最終版では50章となりました。
 1891年,シベリウスは愛国的な題材による大規模な管弦楽曲を作曲をしようと思い立ちました。そして,この「カレワラ」に基づく管弦楽曲の作曲に取り掛かり,これが「クレルヴォ」となりました。「クレルヴォ」の物語は「カレワラ」の第31章から第36章に当たるものです。

 シベリウスは7曲の交響曲を作曲しました。なかでも有名なのは第2番です。このいかにも北欧らしい交響曲は,特に日本人には感性が合うらしく,人気があります。私ももちろん第2番が好きですが,あまり演奏される機会のない第6番,第7番といったより暗い曲も大好きです。
 今回演奏された「クレルヴォ」はシベリウスの7曲の金字塔に先立つ,いわば第0番とでもいうべき交響曲です。ベートーヴェンの第9交響曲よりも長く,しかも,もちろんはじめて聴く曲なので,私はしっかり予習をしていきました。今回は,指揮者パーヴォ・ヤルヴィさんの故郷エストニアの独立100周年ということもあり,エストニアから国立男性合唱団が来日,さらに,フィンランドからふたりの独唱者を招き,特別な演奏会となりました。客席にも,フィンランドやエストニアの人たちが大勢聴きにきていました。

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●悪魔だけがゴルフをするところ●
 砂丘を過ぎてしばらく走ると,すぐにビジターセンターに到着して驚いた。私はもっと先だと思っていたから,拍子抜けした。このビジターセンターのある場所をファーニスクリーク(Furnace Creek)という。
 しかし,まだ早朝だったので,ビジターセンターは閉まっていてがっかりした。私はここまで来て,デスバレー国立公園に来たという足跡を残して帰ろうとさえ思っていたし,酷暑のなか,この先も観光ができるのかそれとも引き返したらいいのかという情報をビジターセンターで仕入れようと考えていたからだった。
 ここはビジターセンターがあるだけのところかと思っていたが,なんと,周囲には集落もあり,ガソリンスタンドもあった。何でこんなところに人が住んでいのかと思った。

 このデスバレーの中央を南北に貫く州道190の中間地点に位置するファーニスクリークビレッジの広い敷地には,ビジターセンターのほかに,3軒のレストランと2つの宿泊施設があり,人も20人ほど住んでいるそうだ。何が楽しくてこんなところに住んでいるのだろう? と私は思った。 
 そしてまた,この集落には,なんと本格的なゴルフコースまであったのだ。それは,1931年に「ファーニス・クリーク・イン」の宿泊客のために作られたものだという。この地は海抜マイナス65.2メートルで,世界で最も低い場所にあるゴルフコースである。
 少し東の景観のよい高台には高級リゾート・ホテル「ファーニス・クリーク・イン」がそびえていた。私の持っている「地球の歩きかた」には,このホテルは冬期のみの営業と書かれてあったが,駐車場には数多くの車が停まっていて営業しているように思えた。また,その近くには「ファーニス・クリーク・ランチ」というモーテルもある。
 このように,デスバレー国立公園もまた他の国立公園と変わるものではなかったので,私はデスバレーというところがだんだんわわからなくなってきた。

 ともあれ,このように,デスバレー国立公園は恐れたほどのこともなく,多くの人が車が来て観光をしていたので,まだ朝早く気温もさほどのこともなかったから,私もそうした人たちと同じように,これからデスバレー国立公園の見どころを可能な限りまわってみることにした。
 まずは,このビジターセンターの南にあるバッドウォーターを目指すことにした。ビジターセンターで道路は二股に分かれていて,南に州道178,南東に州道190となる。バッドウォーターはビジターセンターから南に州道178を30分程度走ったところにある。この国立公園はこんなにも広いのだ。
 その道路が今日の1番目の写真である。車は私の他に1台も見かけなかったから,何かとんでもないところに来てしまったような気がした。しかし,アメリカの国立公園のすごいのは,こうしたほとんど車が通らないように思える道路なのに,立派に整備されていることで,日本では考えられない。そしてまた,まったく無駄な標示や看板がない。

 バッドウォーターに向かう途中,右手に悪魔のゴルフコース(Devil's Golf Course)というものがあった。ここは,名前はゴルフコースだが,先ほどのファーニスクリークにあった本当のゴルフコースではなく,単にそういう名前のついた荒地である。しかし,ここはダート道だったのでレンタカーでの走行は禁止されているから行くのを敬遠して,舗装された悪魔のゴルフコースの入口のところで写真を撮った。
 悪魔のゴルフコースは,塩の結晶と泥が混じり合い固まって凹凸を作り上げていて,悪魔でなければゴルフもできないということで名づけられた場所である。この地点が北アメリカ大陸の最低地点で,海抜マイナス85.9メートルを記録するのだそうだ。
 なお,南北アメリカ大陸で最も海抜の低い地点というのはアルゼンチンのカルボン湖の湖面で,マイナス105メートルである。また,地球上で海水に覆われていない最も海抜の低い地点は南極のベントリー氷河底地溝で,マイナス2,555メートルである。

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●デスバレーの由来●
 入園料を機械で支払うため車を停めてはじめてデスバレー国立公園で外に出た。すでに気温は35度を超えていたが,車内のクーラーで体が冷えていたことと湿度が低かったことから,それほど暑いとは思わなかった。しかし,まだ朝の7時である。
 今年の日本は異常に暑かったが,それは,私がデスバレーから熱波をもってきたような気がする。日本が異常な高温になったとき,私は帰国したばかりだったので,40度といわれても驚かなかったが,考えてみると,人間の体温が37度ということは,人類は37度を超えるような場所で生きるのは困難であるというようなものである。
 ただし,日本という国が毎度のことおかしいのは,これだけ異常な高温でも,お昼間に相変わらず仕事をしたり遊園地が営業していたりすることだ。さらに,最もばかげていたのは,炎天下で高校野球をやっていたことであり,それを朝日新聞が相変わらず後援していることであった。私は,死者がでなければこれほどの愚でも変わらないだろうと思った。
 アリゾナの夏は40度を超えるが,動物園の営業は涼しくなった午後5時からである。

 しばらく進むと砂丘(Sand Dunes)があった。そこには広い駐車場があったが,1台も車は停まっていなかった。砂丘の全長は約225キロメートルで,カリフォルニア州とネバダ州の境界に沿って伸びているということだ。また,ここの周辺は悪魔のコーン畑(Devils Cornfield)とよばれていて,アローウィード(Arrow weed)という植物が異様な姿をさらしていた。私はアフリカに行ったことはないが,アフリカの砂漠はこんな感じなのかもしれないと思った。
 以前,ホワイトサンズ国定公園(White Sands National Monument)というところに行ったことがある。そこはニューメキシコ州にあって,白い砂漠が延々と続いていた。ここの砂漠は,それとは色が白色か茶色かの違いはあるが,雰囲気はホワイトサンズに似ていた。
 いずれにしても,地球の大自然というのはすごいものである。しかし,アメリカにはこうした風景がざらにあるから,私はもう慣れっこで,こういったた景色をみても感動しなくなってきた。
 贅沢な話だ。

 国立公園のあるデスバレー(Death Valley)はモハーべ砂漠(Mojave Desert)の北に位置する深く乾燥した盆地である。
 モハーべ砂漠はカリフォルニア州,ユタ州,ネバダ州,アリゾナ州にまたがる面積35,000平方キロメートルにおよぶ 砂漠である。 標高は1,000メートルから2,000メートル程度で,年間降水量は150ミリメートル以下である。 また,モハーベ砂漠には多くのゴーストタウンがある。
 ここは映画「バグダッド・カフェ」(Out of Rosenheim あるいは Bagdad Café) の舞台としても知られる。「バグダッド・カフェ」は1987年制作の西ドイツ映画で,モハーべ砂漠のうらぶれたカフェに集う人々とそこに現れたドイツ人旅行者ヤスミンの交流を描く作品である。
  ・・・・・・
 旅行者ヤスミンはアメリカ旅行中に夫と喧嘩をし車を降りてしまうが,彼女はモハーべ砂漠の中にあるさびれたモーテル「バグダッド・カフェ」にたどり着く。変わり者ばかりが集う「バグダッド・カフェ」だったが,ヤスミンが現れてから皆の心は癒されはじめる。いつも不機嫌な女主人のブレンダはヤスミンと離れがたい思いに結ばれていく。
  ・・・・・・

 デスバレーはデスバレー国立公園の中核をなしていて,世界最高の気温摂氏56.7度(華氏134.0度)を記録したこともある場所だ。
 デスバレーはシエラネバダ山脈の南東に位置し,東側の境界はグレイプヴェイン山地,フューネラル山地,アマルゴーサ山脈であり,西側の境界はコットンウッド山地とパナミント山脈である。
 デスバレーと呼ばれるようになったのは,かつて,デスバレーに迷い込んだ金鉱採掘団が何日もたって脱出に成功したとき,その中のひとりが「さらば死の谷よ!」(Good Bye, Death Vallley!)と言ったことから名づけられたといわれる。 しかし,このとき大勢が亡くなったというのはデマで,実際に命を落としたのは老人ひとりであったという。

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2014春アメリカ旅行記-ホワイトサンズをめざせ③
2014春アメリカ旅行記-ホワイトサンズをめざせ④
2014春アメリカ旅行記-ホワイトサンズをめざせ⑤
2014春アメリカ旅行記-ホワイトサンズをめざせ⑥

 予想通り,ニコンが新しいミラーレス一眼カメラを発売するのだそうです。そして,次いで,キヤノンも同じ時期に同じようなミラーレス一眼カメラを発売しますが,両者を比べたとき,どう考えてもキヤノンのほうが売れそうです。相変わらずニコンは商売が下手です。私はカメラ好きですが,私が必要なカメラは星を撮るための特別なものと旅に出かけたときに使う小さいものだけです。だから,今回発売されるカメラは残念ながらまったく必要がありません。買ったところでゴミとなるだけです。
 しかし,これまで50年来,カメラ業界の変遷を見てくると,今回もまた,相変わらず同じようなことを繰り返しているんだなあとつくづく感心させられます。それは,今から32年ほど前のオートフォーカスの一眼レフカメラの発売による変革期,そして,その次に起きた今から18年ほど前のデジタルカメラの発売による変革期,そして今回のミラーレス一眼です。こうしたことを考えてみると,今回もまた,今後もこれまでと同じことが繰り返されるのが容易に予想できます。
 それにしても,このミラーレス一眼という製品,とうの昔にドイツのライカが発売したものを今となって日本のメーカーが追随しているだけです。一眼レフカメラでドイツのライカを追い越した日本のカメラは,今度はドイツのカメラを模倣することになったのが皮肉なことです。これが今の日本の限界でしょう。

 このように,半世紀以上も生きていると,会社にも人間と同じように性格があるということがわかります。組織にいる人(社員)は変わっても,会社の遺伝子というのは変わらないもののようです。
 まずは,これまでの変革期を振り返ってみましょう。
 現在はキヤノン,ニコン,ソニー,オリンパス,フジ,ペンタックスというようなカメラを製造している企業がありますが,40年前もまた,ソニーの代わりがミノルタでしたが,それ以外は今と同じようなものでした。そのなかで,ミノルタ(ソニー)とニコン,そしてキヤノンが三つ巴の競争をしています。
 ミノルタが先行し,あわててニコンが不完全な製品を出して後を追い,それに次いでがキヤノンが画期的に新製品を出して追い抜いたのが一眼レフカメラのオートフォーカスへの変換期でした。デジタル化のときは,ニコンが先行し,これもまたキヤノンが満を持して新製品を出して追い越しました。ミノルタは変革に失敗して結局ソニーに会社ごと売られることになりましたが,その結果,苦し紛れに出したミラーレス一眼が結果的にニコンとキヤノンに先行することとなりました。そして,今回のミラーレス一眼カメラでは,オートフォーカス一眼レフカメラのときと同じように,ソニーが先行し,ニコン,そしてキヤノンが続いているわけです。
 その裏で,オリンパス,フジ,ペンタックスはいつも独自の路線を貫いています。というよりも,同じ土俵で戦うだけの体力がないのでしょう。

 私はニコンとキヤノンのカメラを使っていますが,両方を使ってみると,その両者の製品の長所と短所がよくわかります。簡単にいえば,ニコンは金と手間をかけて作り品質はダントツによいのですが,なぜか一見ヤワそうなキヤノンのカメラのほうが,地味な色を出すニコンに比べて,色彩鮮やかという意味でシロウト受けする写真が撮れます。天体写真用の改造カメラのほどんどがキヤノンのカメラであるのは作りがヤワいので改造がしやすいからだそうです。
 私が長年使っているニコンの不器用な製品作りを振り返ってみると,ひと言でいえば考えすぎということになります。そして受け入れられずよさが理解されずいつも失敗するのです。
 この会社はこれまでにもさざざまな新しい規格の製品を発売しては「常に」うまくいかず,その結果,ユーザーを無視して何の説明もなく撤退ということを何度も繰り返しています。このメーカーはずっと「Fマウント」以外の新製品はすべてうまくいっていないのです。にもかかわらず,未だに,ニコンという企業にブランドイメージがあってそれを信用している愛好者がたくさんいることの方が私には不思議です。

 しかし,プロカメラマンと一部のカメラマニア以外,写真を写す道具はすでにカメラからスマホに変わってしまった今,こんなことをこれからもやっていては会社の将来はないでしょう。私も普段はスマホで写真を写すようになってしまいました。そんな時代に,果たして,これからのカメラは生き残れるのでしょうか?
 いずれにしても,単なるユーザーである一庶民が,何の義理もないのに,どのメーカーであれ,その特定のメーカーをひいきにしたところで,その会社が製品を出しても採算がとれなければさっさと撤退をして裏切られるだけだ,ということだけは時代が私に教えてくれた真実です。
 もう,やれニコンだのやれキヤノンだのといったくだらない議論はやめにしましょう。新聞業界同様,カメラ業界の存続さえ危うい今,そんな会社同士のライバル争いなどといった古きよき時代は遠い昔のことなのです。

◇◇◇
「ニコンミュージアム」-この会社はどこへ向かうのか?①
「ニコンDL」発売中止-この会社はどこへ向かうのか?③

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●宗教観の違いなのだろうか?●
 さらに私は州道190の果てしない道を延々と進んでいったが,次第に絶望的な気持ちになってきた。
 人混みの嫌いな私は日本の観光地にはほとんど魅力を感じないが,このごろはいくら日本とはスケールが違うといっても,やはり車と人があふれんばかりアメリカの有数な観光地もまた,負担に感じるようになった。
 とはいえ,デスバレーという地はそれとは全く別で,有名であってもほとんど人も車もなかったが,それはそれでまた何かあったときどうなるのだろうと不安にもなってきた。
 こういった感情こそがデスバレー国立公園のもっとも有名なものなのだろうか。そしてまた,この先どこまでこうした道が続ているのだろうか。この国立公園は,そうした気分を味わうことができるだけでも来た価値があるということだろう。

 やがて,遠くに数件の集落らしきものが見えてきた。到着してみると,それは集落というよりも,国立公園のゲート,つまり事務所「レインジャーステーション」であった。ガソリンスタンドもあったのでびっくりした。
 この場所をストーブパイプウェルズ(Stovepipe Wells)という。私はデスバレーというのはもっと不毛の地であると思っていたが少し拍子抜けした。
 アメリカの国立公園は有料で,たいていはゲートで料金を払ってなかに入る。この料金は複雑で,たとえば1年間有効のパスだとか,アメリカ中の国立公園で有効なものとか,様々なものがあるらしい。らしいというのは,私は常に一見さんで,普通乗用車で1日観光するだけだからよく知らないからだ。いつもゲートで言われるままにクレジットカードでお金を払っているだけだ。
 しかし,デスバレー国立公園ではそうしたゲートはなく,入園料は自分で機械にお金を払うようになっていた。 …という事情は来るまでに知っていたので,私は機械の設置してある場所の駐車場に車を停めてクレジットカードでお金を払った。

 実は,私が海外に行ったとき,つねづねよく理解できないのが,こういう仕組みなのである。正直言って,ここでお金を支払わなくても何も起きない。私はこのときお金を払ったレシートを所持していたが,それを見せることもなかった。
 アメリカではキャンプ場などでもこうしたことになっていて,係員もいないし,それをチェックにくることもがあるのだろうが,それにお目にかかったこともない。
 都会では,道路沿いにある駐車スペースに2時間限定と表示されてあったりするが,これもまた,どういう仕組みで2時間を計っているのやら,時間をオーバーしてしまったらどうなるのやらさっぱりわからない。
 住んでいる人に聞いてみたことがあるが,やはりよく知らない。だた言えるのは,だれがチェックをしようとしまいと,こういうことはこちらの多くの人は正直にやっているだという。
 それは,見ていなければやらない,という日本人の根本的な姿勢と正反対のものである。
 私が一番恐れるのは,調べに来ないのならそれを故意にしないということではなくて,支払う用意はあるのに,支払わなくてはならないということを知らなかったり,あるいは,表示を見逃したりしたばかりに,あとでお咎めを受けるということなのである。だから,常々後味が悪いのだ。
 アメリカでは有料道路はレーダーで監視していて自動的に違反を取り締まっているというし,ニューヨークのマンハッタンに車で入ると橋の入口にレーダーがあって自動的にお金を徴収しているというけれど,そこには日本のようにゲートすらない。だから常に何をされているのか,監視されているのかということが不気味なのである。

 考えてみれば,日本という国で行っている仕組みというのもまた不思議なシステムである。駅には改札があって,お金を払わないと決してホームに入れない。これは,改札のないヨーロッパやアメリカとは違う。高速道路の料金所も立派なお金をかけたゲートがあるし,有料駐車場もまた同様で,絶対に見逃さないぞ,絶対にお金をとるぞ,という意志まんまんなのである。
 であるにもかかわらず,たとえそこが駐車禁止であってもそれを承知で車を停めてチェックされたら運が悪かったという人や,路上喫煙禁止の場所であってもタバコを吸って見つかったら運がわるかったという人など,きわめてルールを順守する気持ちがないことである。日本では,視られていなかったらルールなんて守らなくていいという気持ちが一部の人に存在しているから,それを力づくで阻止するわけだ。
 ある人は,このヨーロッパやアメリカと日本のシステムの違いは宗教観の違いではないだろうかと言っていた。

21P_Giacobini-Zinner_20180917M45 (2)二重星団

 昨年もそうだったのですが,今年も天気が悪い日が多く,しかも,猛暑に台風と,まるで天が怒っているかのような気候が続いています。それでも,昨年は中秋の名月をはじめとして,天気悪くてもなにかイベントのあるときだけは晴れ,という状況だったので救いがあったのですが,今年はその逆で,好条件のペルセウス座流星群も,明け方の西空に沈みゆく皆既月食と火星という待ちに待ったイベントも,ともに天気が悪く,見ることがかないませんでした。
 彗星も,久しぶりに肉眼彗星となったパンスターズ(2017S3 PanSTARRS)は,もっとも好条件のころには月明かりがあり,そしてまた,ジャコビニ・ジンナー彗星(21PGiacobini-Zinner)は最も明るくなった時期はずっと天気が悪く見ることができませんでした。
 ジャコビニ・ジンナー彗星についてはすでに書いたブログをご覧ください。

 晴れそうな日をずっと待ちわびていたのですが,天気予報だとどうにか9月17日の深夜からの数時間晴れということだったので,彗星を写しに行くことにしました。
 現在ふたご座にいるジャコビニ・ジンナー彗星が北東の空に昇ってくるのが午後11時30分ごろだったので,夜の9時過ぎに家を出ることにしていたのですが,午後7時を過ぎても空一面に雲が広がっていて,本当に晴れるのかいな? と思いました。
 ところが天気予報は的中し,次第に雲が切れ,私が観測場所に着いたときは快晴で,天の川を美しく見ることができました。

 月が沈み,北東の空にはすばる(M45)が輝いていました。そこで,彗星が昇るまでの時間,いくつかの星団をを写しながら待ちました。
 やがて午後11時30分を過ぎ,地平線近くにふたご座が昇ってきました。
 予報では6.9等星ということだったので,場所を適当に決めて写真を写すと,尾を引いた明るい彗星を簡単に写すことができました。また,双眼鏡でも見ることができました。
 周期彗星はエッジワース・カイパーベルトと呼ばれる太陽系の領域がその住処で,オールトの雲から一度っきりやってくる新彗星とは素性が違います。このジャコビニ・ジンナー彗もまた,周期彗星らしい尾を引いた落ち着いた風貌の美しい彗星でした。この日は彗星の北側にモンキー星雲とよばれるNGC2174があって,その両方を一枚の写真に収めることができて,私は満足しました。
 この晩は,まだ初秋とはいえ夜も暑かったのですが,夜露で参考にしていた私の星図を収めたファイルが濡れていました。毎年,この時期はそんな感じになります。それにしても,この時期の里山はシカやクマが出没したりと,星を見るのも大変です。この晩は時折サルの鳴き声が聞こえ,何匹かのサルが周りで追いかけっこをしていました。
 
☆ミミミ
やっと晴れたか?夏2018①-ジャコビニ・ジンナー彗星

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 社会が最も未熟なときは力(腕力)がものをいいました。狩りで食料を得ていたので,力(腕力)のないものは力(腕力)のあるものを頼らないと生きられませんでした。だから,社会は力(腕力)のある者とない者の格差社会でした。農耕社会になったとき,協力しないと収穫ができないから,同じ集団に属している人はある程度,みんなが平等に豊かになっていきました。そして,社会制度を作って弱者を守るしくみができました。
 それが成熟して貨幣経済がはじまると,今度はお金をもっている人と持っていない人で,再び二分化しはじめました。これが貧富の差というものです。たとえば,同じ飛行機に乗っても,ファーストクラスとエコノミークラスというように,お金をどれだけ出すかによって,待遇が異なるわけです。
 その次にやって来たのはIT格差です。ITが使いこなせるか使いこなせないかということのほうがお金をもっているかどうかよりもずっと大きな格差になってしまいました。

 このように,今では格差もまた,二重構造と化しました。それは,今もなお昔の価値観で生きているITとは無縁の人たちと,ITを使いこなして生きているまったく別の価値観をもつ人たちです。それは,どんな御殿に住んでいても,その御殿に Wifi がつながっていないなら,Wifi の完備したワンルームマンションに住んでいるほうがずっと居心地がよいといった人たちです。
 大都会の繁華街にはブランド品を扱うお店がならんていて,そこにはブランド品に身を包んだ人たちが集まっています。海外旅行をしても,同じようにそうしたお店で買い物を楽しんでいる人たちを見かけます。方や,そんなことにはまったく関心なく,電気もない大自然のもとでキャンプをして楽しんでいる人たちもいます。
 あるいは,偉くなることに未だに価値をもつ人たちとそんなことよりも自由に生きることに価値をもつ人たちです。
 このように,今や,もつ者ともたざる者ではなく,もつことに価値をもつ者ともつことに価値をもたざる者の二極化に変化しているのです。社会の二分化は格差から価値観の違いに変化したのです。

 そうした社会では,ブランド品というものもまた,そこに絶対的な価値を見い出す人たちとそのことにはまったく価値をもたない人がいるわけですし,地位や名誉も,そこに絶対的な価値をもつ人とそんなことにはまったく興味を示さない人がいるわけです。愉快な時代になったものです。
 それなのに,未だに「学歴」やら「名品」とレッテルを張ったモノやらに価値があるというような,従来の価値感で出版物やらテレビ番組が数作られているから,本は売れないしテレビも見られなくなるし,いかに金融緩和をしてもモノは売れないのです。

◇◇◇
ブランド品とはそういうもの①-魚の釣り方を教えることが
ブランド品とはそういうもの②-ミッキーマウスの人?格

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●デスバレーは本当に「死の谷」なのか?●
 道路は下り坂になって,あたりは渓谷の様相を呈してきた。到着するのに,あとどれだけ距離があるのか,私には全く想像がつかなかった。
 すでに書いたことだが,地図では標高がわからないので,この先のようすが想像できなかった。それに,この日の私はかなり弱気であった。
 数年前にハワイ島に行ったときときはマウナケア山の山頂までためらいもなく登っていたのを思い起こせば,そのときとは精神状態がえらく違っていた。
 つくづく人はこころで生きているのだと思った。だから,同じ状況にいても,そのときの精神状態で,見えている景色がえらく違うのだ。しかし,それが物理的に解決できることでないのが難しいわけだ。

 デスバレー国立公園の中心はファーニスクリーク(Furnace Creek)という場所で,ここにビジターセンターがあるという。ファーニスクリークヘはこのまま州道190を走って行けば到達する。そしてそこを過ぎてさらに進むと,その先がデスバレーで最も標高が低い,つまり,最も暑いバッドウォーター(Bad Water)という地点であるが,この日私がこんな地獄のようなところまで行くことができるとは思えなかったから,ともかくビジターセンターまで行くことができれば,そこで,デスバレー国立公園に行ってきたという足跡だけ残して,さっさと帰るつもりでいた。

 私は,デスバレー国立公園の「見もの」というのがいまひとつよくわからなかった。
 たとえば,グランドキャニオン国立公園とかモニュメントバレー国立公園とか,行ったことはないがエジプトのピラミッドだとか,そういった場所ならば,これを見れば行った証拠になる,という有名なところがある。しかし,デスバレー国立公園というのは,名前こそよく聞くが,これこそがデスバレー国立公園のシンボルだというのは何だろうかと思った。だから,デスバレー国立公園で何を見ればそこで引き返しても後悔しないのか,さっぱりわからなかった。
 「クローレイ神父展望台」を過ぎてから走っていたまわりの風景は単調だった。だから,これがデスバレー国立公園の典型的な風景なのだろうか? こんな何もない景色が続いているだけの場所なのだろうか? と不安になった。さらにまた,他の国立公園なら,ビジターセンターに行けばレストランがあったりガソリンスタンドがあったりと観光地の高揚とした気分に浸れるが,デスバレー国立公園のような地獄の場所にはそんなものがあるとも思えなかった。
 このように,私は,デスバレー国立公園には特別,かつ,異常な恐怖を描いているのであった。

 今日の3番目の写真は,私が使っていたGPS,つまりカーナビである。カーナビというよりも大柄なスマホという感じであったが,使いにくいものではなかった。私の使い方がわるかったのかもしれないが,このカーナビは使用しているときは充電ができないのだった。USBケーブルで車に接続ができるのだが,カーナビの電源を切っているときには充電するのだが,道案内をさせているときは充電しない。そこで,前の晩にカーナビをホテルの部屋に持ち込んでしっかり充電しておかないと,次の日に使えないのであった。
 機械の大好きなアメリカ人なのに,アメリカの機械はこんな感じのものが多すぎる。ホテルのクーラーだって,未だに「グアングアン」と騒音を出すうるさいものしかない。ホテルの部屋にあるテレビは,いまや日本製は皆無で,そのほとんどは韓国のサムソン製だが,そのテレビに「DirecTV」のチューナーが接続されていることが多い。しかし,たいていは設定がむちゃくちゃで,うまく写らなかったりする。こんないい加減なことばかりなのに,そんな国が,日本ではできないような,飛行機を作ったり宇宙に人を送り込んだりしているのが不思議でならない。

 走り続けているうちに,私の運転している車の外気温の標示が華氏100度になった。
 以前書いたことがあるが,摂氏と華氏の変換は,華氏から32をひいて9で割って5倍すればいい。しかし,こんな大変な計算をしなくても,30引いて2で割ればおおよその数字はわかる。こうして計算をすると約35度になる。  厳密に計算すると華氏110度というのは摂氏37.8度であるから,すでに40度近いわけだ。しかし,時刻はまだ早朝の7時16分であった。お昼にかけてさらに気温がぐんぐんと高くなっていくのだ。
 私が向かっているデスバレーは本当に「死の谷」なのだろうか? と心配になってきた。

 若いころは何ともなかったのですが,このごろ,ひとりで旅に出ると人恋しくなってきました。これはいけません。これでは旅に出られません。と思っていたら,私は忘れていた大事なことがあったのを思い出しました。それは,「夢と勇気と知恵」という言葉だったのです。これからもこの言葉を忘れずに,旅に出たいと思います。
 ところで,私が不思議なのは,海外からどうして日本にこれほどたくさんの人がやってくるのか,ということでした。狭い日本,わざわざやってきてまで特に見るべき場所もないのに,と私は思いました。確かに,日本の観光地は無防備に歩いていても,なんの気兼ねも必要ありません。狭いことが逆に利点となって,どこに行くにも便利だし,食べるところも事欠きません。珍しい食べ物もたくさんあります。しかし,どこも「異常に」混んでいます。
 そこで,海外に出かけるたびに,その理由を聞いてみるのですが,その答えとして,日本に出かけるのは「お得感」なのだそうです。安い。そして,対価が大きい。ということでした。そりゃそうです。自分の国の半分ほどの値段でお腹いっぱい食べられて,店員さんは親切ですから。
 そんなわけで,この国はゲストとして来るにはとてもよい国のようです。

 日本に住む私は,これまでに,白川郷も鹿児島も四国も,一度は行ってみたいと思っていたところには,ここ数年ですべて行くことができました。どこもそれなりに思った通りでしたけれど,また行きたいと思うようなところはまったくありませんでした。私が日本に期待するのは自然と古き日本の持っていたのどかさです。しかし,そんな自然など,いまやどこに行ってもありません。のどかさもどこかに消え失せました。これまではいいなあと思っていたところも少なからずあったのですが,そうした場所は開発され,破壊されていきました。
 そこに,観光というお墨付きが付くともういけません。すべては金儲けの媒体と化してしまうのです。恐らくそれでいいのでしょう,観光立国としては。国がお金を稼ぐには車1台売るよりも,外国人に来てもらってお金を落としてもらうほうがずっと効率がいいのですから。そしてまた,過疎地は投資をせずとも潤うわけですから。国はしたたかなものです。
 こうして,星がきれいな場所だといえば1泊2日で5万円もするツアーが組まれます。とにかく人が来てお金を落としてくれればいいのです。しかし,客の側は天候が悪ければそれで終わりです。星を見るのに5万円はないでしょう,と私は思うのでそんなものには興味が向きません。

 そこで私は海外に目を向けるのです。しかし,いつまでも今のように海外に出かけて車に乗って旅をすることは,歳をとればできなくなることでしょう。そこで困っているのです。
 おそらく,この先も私ができることといえば,海外であるなら,現地まではひとりで行ってそこで現地ツアーに参加することでしょう。国内旅行なら,それでもひとり旅ができるうちは,鉄道に乗ってどこかに定宿を見つけて,そこでゆっくりと過ごすような旅が理想です。
 そろそろ,人恋しいというのを利点として,新たな楽しみ方を考えたいと思っているこのごろです。

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●オーバーヒートの可能性大?●
 朝日を見ながら州道190を走っていくと,次第に道路は上り坂になってきた。この峠を越えて再び降りていったところがデスバレーである。
 それまでは走っていても全く車とすれ違わなかったが,このあたりになると,ポツポツ車とすれ違ったり,あるいは後ろから車に追い越されたりするようになった。こんな過酷な季節にデスバレーに行く人がいるのだろうかと思っていたが,私以外にもデスバレーから帰ってきたりデスバレーをめざす車があるのがわかって安心した。
 いつものことだが,案ずるより産むがやすし,という感じであろうか。
 私はカーナビと地図を見ながら走っているからおおよそどこを走っているのか見当はついているものの,地図だけでは標高についてはよよくわからなかったが,峠を登りきったら展望台があった。この展望台は休憩するのにもってこいであったので広い駐車場に車を停めた。

 この展望台は「クローレイ神父展望台」(Father Crowley Overlook)というところであった。
 クローレイ神父というのは砂漠の開発に尽くした神父だそうだ。この展望台からは視界が開けていて,ちょうど太陽が昇ったばかりだったので,太陽の光が山々に影を作り,とても景色がよかった。
 アメリカでドライブしていて快適なのは,景色のよい場所には必ずこうした展望台があることだ。そもそもドライブをするというのはこうした景色を楽しみにしてくるわけだから,道路と駐車場を一体として作るのは当然のことであろう。
 日本ではせっかく絶景が見られる場所なのに駐停車禁止であったりすることも多く,運転をしているとそうした景色を見損ねることがままある。しかも,まれに展望台があっても駐車場が狭かったり,あるいは,土産物屋が幅を利かせていたりして,楽しめないことが多い。
 口コミによると,この展望台では運がよければ戦闘機が飛んでいるのを見ることができると書いてあったが,こんな朝早くでは当然戦闘機なんて飛んでいなかった。
 家族連れやらカップルできている人たちの車が数台停まっていたので,私のようにこれからデスバレーに行く人がいることを知って,決して無謀なことをしているのではないと確信した。
 展望台を出発してさらに進んでいくと,道路は下り坂になってきた。デスバレーまではここからさらに1時間ほど走らなければならなかった。

 「地球の歩き方」の「アメリカの国立公園」編にはデスバレーへのアクセス方法がいろいろ書かれていたが,行く前は土地感がないので,読んでいてもよくわからなかった。帰国してから復習をして,やっと私はそこに書いてあった方法が把握できたのでここに簡単に書いておこう。
 デスバレーというのは名前のごとく谷底で,そこには南西から北東へと,北西から南東へとふたつの舗装道路が通っていて,中央で交差している。私の走ってきた州道190は南西から中央に向かって進み,途中の交差しているところで今度は右折して南東に進む道路である。つまり「Λ」の形になっている。だから,私のようにロサンゼルスからアクセスするときは,州道190を南西からデスバレーに向かって行けばいいし,ラスベガスからアクセスするなら,今度は反対に南東から州道190をデスバレーに向かって進めばばいい。これが一番簡単である。
 このように,私の走ったルートは最もわかりやすかったが,「地球の歩き方」には,
  ・・・・・・
 この間(「州道190をデスバレーに向かって行く間」の意味),峠をふたつ越えるのだが,これがけっこう険しく,春から秋にかけての日中はオーバーヒートの可能性大。水を忘れずに。狭いカーブで路肩もなないので,夜の走行も危険だ。ハードなルートだが,風景はすばらしい。
  ・・・・・・
と書かれてあった。確かに風景はすばらしかったけれど,本に書かれているのを読んで想像したほど道は険しくなかった。アメリカの道路の道幅は日本の山道よりもずっと広い。なお,2004年8月の豪雨でデスバレーはかなりの被害を受けて,その多くが閉鎖されていたが,今は復興していて,どこも問題なく観光することができた。

 さまざまな事情で中断していた「断捨離」を再開しました。
 はじめてみると,不要なモノがなくなるというのはやはりとても気持ちがよいものです。そのおかげで要らないモノが邪魔していて隠れていたいつも使うモノが目立つようになって,逆に使いやすくなったという利点もありました。モノがあふれている今の時代,モノは買うよりも要らないモノを捨てるほうがむしろ喜びがあるのです。
 しかし,モノを捨てることは買う以上に難しいのです。

 私が一番困っているのが,昔のビデオとかDVD,CDなどです。今ならこんな量のある保存媒体でなく,ハードディスクに保存できるのですが,当時はデータの保存というのはそれぞれ用途によって別のメディアだったので,メディアの量が膨大になっていました。
 しかし,結局,これまで保存してもあとで必要になったことなんてほとんどありません。それに,今改めて再生しようとしても,ファイル形式が異なってしまっていたり,再生する機械がなくなっていたりで結局使えないものさえたくさんあります。
 写真のフィルムも同様です。このブログに載せているほとんどの写真のように,今はデジタルカメラで写したものがハードディスクに保存してあるから,単にそこから取り出せばよいのですが,フィルムだと大変です。かといって,プリントした写真は劣化しています。
 このように,ディジタル時代になって,ずいぶんといろんなことが容易になりましたが,昔保存した媒体を維持するのは大変なのです。かといってむやみに捨てることもできないし,何を捨てていいのかを調べるだけでもずいぶんと時間がかかります。

 これまで「断捨離」をしてみて,最もむなしかったのが書籍です。そのなかには今となっては貴重な本もあったのでしょうが,それを仕分けるのも手間がかかるので,一挙に処分してしまいました。そのようにして売ってみてわかったのですが,それらはほとんどただ同然でした。その割に重く量がありました。
 そんなことを経験した結果,私は,本はよほど必要でなければ買わなくなりました。買っても読み終わったあとが困るからです。今は,どうしても読みたいものがあったとき,電子書籍がないかを探します。そして,なければ買うこともあきらめます。紙媒体の本を売りたのなら,本屋さんのカウンタの横に読み終わった本を引き取ってくれるような場所があればいいなあと思ったりします。

 モノが売れない時代,といわれます。必要なモノすら手に入らなかった時代ならともかく,今のようにモノがあふれている時代では,買うことよりも買ったモノを捨てることのほうが大変なのです。これではモノが売れるわけがありません。
 モノを売りたければ,簡単に処分できるシステムを充実することのほうが必要でしょう。

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●行くべきか行かざるべきか?●
☆3日目 2018年6月27日(水)
 前日(2日目)の晩。
 部屋で食事をしながら,デスバレーに行くべきか行かざるべきか? ずいぶんと悩んだことだった。 
 それは,私が思っていた以上に過酷なところだということを知ったからである。インターネットで気温を調べてみると,ここ数日の最高気温は50度を超えていた。そしてまた,明日からは幾分涼しくなるということであったが,それでも,2度や3度低くてもそう違いはないであろうと思った。
 こちらに来る前,友人にデスバレーに行きたいのだが暑さが心配だと言ったら,いくら暑くても車から外に出なければ大丈夫だだろう,と気楽に答えたのだが,調べていくうちに,オーバーヒートしたらクーラーを切れとか,パンクでもしたらえらいことになるとか,そんな悲観的なことばかりが書かれてあった。

 歳をとるとやたらと心配性になるというのは事実であるから,「悠々自適」というのは嘘である。憂いもなく「悠々自適」に暮らせばいいのに,若いころは考えもしなかった事がいろいろと心配になってくるのだ。
 それは,知識と経験がありすぎて最悪の事態を予測できすぎるからなのだ。歳をとるとうつ病になったりする人が多いのは,おそらくそうした心配と不安のせいであろう。しかし,これはとてもよくないことだ。
 おそらく数年前の私であったらなら,何も考えずにデスバレーを目指して走っていったことであろう。
 話は少し横道にそれるが,このこところ,藤井七段の将棋に切れがなくなってきたように思う。特に持ち時間の多い将棋にそれが顕著である。それは,知識と経験が増したことで手が見えすぎて,相手もその次元で読んでいると錯覚して相手の実力以上の読みをしてしまうからだ,と書かれたものがあった。だから踏み込みを躊躇して苦戦する。
 先週の週末にAmebaTVで放送された早指しの対局では深く読めないので逆に踏み込みがよくなって,昨年の切れのよさが戻っていたから,おそらくそうなのであろう。
 藤井七段は若いから,これを克服するだろう。これはもうひとつ上のステージに上がるためのステップに違いない。しかし,私のような年寄り場合は,その反対で成長しないから,知識と経験がさらに邪魔をしていくわけだから悲観的なのである。
 今回の旅で行くことをやめたら二度とその機会はないであろうと思って,ともかく行ってみようと決意した。何事も「夢と勇気と知恵」。これまでそう思って旅をしてきたのに,この様は何事であろうか。改めて1日の気温を調べてみると,朝10時までなら40度は越えない。そこで,10時過ぎには引き返すことにして,早朝出発することにしたのだった。この日泊まっているモーテルからデスバレーまでは約100マイル,2時間で行くことができるから,朝5時くらいに出発すればいいであろう。

 さて,3日目。 
 予定どおり,朝の5時にデスバレーを目指して,私は国道395を北に向かって走り出した。国道395はこの先ずっと町らしい町もなく,そのままオランチャ(Olancha)というところまで来た。地名があるから人が住んでいるのだろうが,見た限りでは,単に交差点があるだけだった。グーグルマップに載っているこの町の写真を載せておこう。それが2番目の写真である。このように,国道395には,私の泊まったモーテルのあるイニョカーンからデスバレーまで,泊ることができるような町はどこにもなかったのだ。
 帰路にはじめて私は知ったのだが,国道395をオランチャよりもさらに北に行くと,ローン・パイン(Lone Pine)という大きな町があって,そこにはホテルもあった。デスバレーに行くつもりなら,ローン・パインで泊まるのがベストなのだろう。しかし,私は,こちらに来るまで,いや,来てからも,デスバレーに行こうかやめようかと考えていたくらいだったから,そういう選択肢ははじめっからなかったのだった。
 オランチャで国道395を右折して州道190に入った。この州道190がデスバレーへのアクセス道路であるから,この州道190に入るジャンクションにデスバレーに向かう道路標示があった。まだこの先デスバレーは遠いが,迷うところはまったくなかった。州道190は原野をまっすぐに進み,やがてT字路になった。州道190はこのT字路を右折する。左からきた道は国道136という別の名前で,このT字路がその道の終点であった。T字路を左折して国道136を走っていくとどこへ出るのか,このときは知らなかったが,実はローン・パインに着く。
 夜明け前からずっと走ってきたが,やがて夜が白み,陽が昇ってきた。

 日本人の大好きな「おもてなし」。
 多くの店で未だにクレジットカードが使えない。公共トイレにハンドウォッシャーとペーパータオルがない。このふたつだけでも,日本が世界からずっと遅れてしまっていることに,海外に出たことのない人は気づいていません。これが日本の「おもてなし」です。
 今年の台風と地震で,大阪と札幌の空港が被害を受け,空の便の多くが欠航しています。なかでも,関西空港を使っていた国際線の多くが利用でなきなくなったことで,中部国際空港に到着する海外からの人が増えています。そこで,セントレア・中部国際空港から名古屋市内へのアクセス手段としての唯一の公共交通機関である名鉄電車に,これまで以上にそういった乗客が見られるようになりました。
 しかし,この名鉄,「広い視点の欠如」から,はじめてこの空港を使う海外から来た人にはかなり不便な鉄道なのです。おそらく,運営をしている人は一生懸命,精一杯のことをしているのでしょうが,どういう点が不便なのかという実態を知らないのでどうにもなりません。知らなことはできません。

 生まれてはじめて海外へ行く,たとえばニューヨークの空港に降り立った状況を想像してみてください。空港からマンハッタンに向かう鉄道の利用の仕方がわからなけらば不安になることでしょう。しかし,そこには親切な係り員が常駐しクレジットカードが使えます。それに対して,このセントレアからの鉄道はどうでしょうか。
 まず問題なのが,名鉄の乗車券がクレジットカードでは買えない,ということなのです。そこで,クレジットカードを使うにはわざわざ到着ロビーのトラベルセンターへ行く必要があるというのですが,はじめて日本に来た外国の人にとってこれほどバカげた話はありません。こんなことは,クレジットカードでマナカ(スイカの名鉄版)が購入出来るような自動販売機(もちろん外国語の表示がされるもの)を改札口に設置するだけで問題が解決するのですが…。
 さらに。名鉄の特急には座席指定のある車両があって,この車両を利用するには「ミューチケット」というものが必要です。おそらく,そういうシステムすら知らないと思うのですが,知ったとしても,そのミューチケットも当然クレジットカードでは買えないし,インターネットでも事前に購入(予約)できません。私が自宅から海外旅行に出かけて帰るまでに,唯一インターネットで予約できないのがミューチケットだった,という冗談のような本当の話があるのです。

 もうひとつは,河和線やら常滑線やらといった,その地方に住んでいる人でなければわからないような路線名です。これもまた,イエローラインとかグリーンラインとか,そういった名称をつけて,それと同時にそのラインを走る電車が区別できるような外観のデザインにすればいいのです。これに加えて,特急以外の電車に乗ると,まったく英語の放送がないことも問題です。名古屋駅からセントレアに向かうとき,途中の太田川という駅で途方にくれている外国から来た人の何と多いことでしょうか。たとえば,名古屋駅からセントレアに行く8両編成の急行に乗ると,太田川の駅で前4両だけがセントレアに行き,後ろ4両は切り離されて太田川止まりというものがあります。あるいは,セントレアのある常滑線ではなく河和線に向かう電車があります。しかし,そのようなことを日本語では放送しても英語で知らせる放送がまったくないのです。私はこれまでずいぶんと太田川で戸惑っている外国人を「救出」しました。こんなことは,車内で空港に向かうであろう外国人を見つけたら車掌が英語で書かれたちらしを配るだけでずいぶんと解決します。
 このように,セキュリティ第一の空港という場で,空港利用者以外の人を集めるようなイベントをすることに知恵を絞るよりも,もっと空港利用の旅行者に対してしなければならない重要なことがたくさんあるのです。こういった実態こそが,日本の精一杯の「おもてなし」ではできない,つまり「日本人の知恵と発想の限界」なのでしょうか。

◇◇◇
この国の空港の不便さ-広い視点の欠如①
成田は東京より福岡のほうが近い-広い視点の欠如②

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●めざすイニョカーンへたどり着けない!●
 やっと町の灯りが見えてきたので,私はついにイニョカーンに到着したと思った。アメリカの夕暮れの風景は筆舌に尽くしがたきよきものである。日本でも,小京都といわれる小さな町のそれまた小さな宿に泊まって,夕暮れの町を散策するのは何ものにも代えがたい最高の贅沢である。
 私はこうした楽しみを味わいたいために旅に出るのかもしれない。

 ところが,夕暮れ迫るアメリカの大地の遠くにイニョカーンの町の灯りは見えても,一向にそこに行く道路も,降りるジャンクションも見つからないのだった。そのうちに,カーナビがここで降りるように案内した。その場所にはジャンクションは確かに存在したが,そこは工事で閉鎖されていた。
 こうなるとカーナビ頼りの私は手に負えなくなった。しかも,次第に辺りは暗くなってきて,それまでの哀愁はどこへやら,急に不安になってきた。
 その先どこまで走っていっても次のジャンクションがない。こうして,私の予約したモーテルのあるイニョカーンの町は遠くなっていき,それとともに,時間だけがどんどんと過ぎていった。
 私の不安な気持ちは心をさらに暗くした。まさかこんな事態に陥るとは夢にも思わなかった。

 帰国後に調べてみると,私がカーナビで案内されたのは,走ってきた州道14からジャンクションを降りて州道178に入るとそのままイニョカーンにたどり着くというものであったらしい。しかし,そのジャンクションが閉鎖されていたのであった。そして,その先にはずっとジャンクションはなく,州道178へアクセスできないから,工事中だったジャンクションを過ぎると,もはやイニョカーンへ行く方法はないのだった。しかし,このときはそんなことは全くわからない。
 どうしていいかわらず,仕方なくそのままさらに進んでいった。この時点で私はパニックに陥っていたからほとんど覚えがないのだが,どうやら,私が走っていた州道14はブレイディズ(Bradys)という町で自然と国道395と合流していたようで,結局,私は国道395を北上していたのだった。
 国道395はインターステイツとは違い中央分離帯にUターンゾーンがあって,そこでUターンををすることができた。しかし,たとえUターンをしたところで,再び今走ってきた道を戻るのなら,結局ジャンクションが閉鎖されているのだからどうにもならないなあと思ったが,これ以上先に進んでもそれこそさらにどうにもならないから,私はUターンを決意した。

 しかし,今度はブレイディズまで戻ったところで意識をしなかったが道なりに走っていって,今来た州道14ではなく,国道395をそのまま南に進んだらしい。そして,イニョカーンへつながる道路に降りるジャンクションに出た。このジャンクションは工事をしていなかったから,無事にイニョカーンへ向かう道路に降りることができたのだった。
 そういったことがわかったのは帰国後のことであって,走っている時点では,私は来るときは工事中だったはずのジャンクションに,不思議なことに今度は降りることができたと思ったから,キツネに騙されたようで,何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。
 ともかく,無事にイニョカーンにつながる道路を,イニョカーン空港と書かれた道路標示にしたがって進んで行くことになった。
 私が予約したのは空港近くのモーテルであった。期待したのは新しく小ぎれいな立派なモーテルだった。以前にも書いたように,私の経験では地方都市の空港の近くにはそうした安価で掘り出し物のモーテルが多いのだ。
 ついにイニョカーンのダウンタウンに着いた。イニョカーンはメインストリートが1本あるだけの,本当に小さな町であったが,その道路に沿って,レストランとハンバーカーショップと,それに,スーパーマーケットがあったから,今晩は空腹で困ることはないだろうと思った。

 カーナビからモーテルに着いたという案内があったが,その場所にはそれらしきモーテルが見当たらなかった。仕方なくさらに進んでいくと,右手にイニョカーン空港があった。しかし,私の予想に反して,イニョカーン空港は定期便の着く空港ではなく,プライベートセスナが離着陸するような場所でしかなかった。そして,空港を過ぎさらに進むと,ついに町が終わってしまった。
 こうして,私は泊まるモーテルが見つからず,町はずれまで来てしまったが,改めて地図を調べると,予約したモーテルは確かに空港の手前にあるようなので,私は町はずれでUターンをして,元来た道を目を凝らしながら注意深く戻っていった。すると,空港を過ぎたあたりの右手に,私の予約したらしきモーテルの目立たない看板が暗闇に浮かんだ。これこそが私が期待した? 今日の宿泊先だった。

 ところで,私の愛するホームページのひとつに「city-data.com」というのがある。このホームページには,アメリカの大から小までのあらゆる町のデータが投稿写真とともに掲載されている。そのなかで,私は人口が1,000人に満たない小さな町の投稿写真を見るのが好きで,それらを見ながら,いつかこうした町に一度は泊ってみたいものだと思っていたが,この町こそ,私が夢見ていたそのような町なのであった。ただし,この町の人口は1,000人を数人だけ越えていたけれど…。
 期待が裏切らた失望感とともに,念願の小さな町に泊るという夢が期せずして実現した私は,複雑な気持ちでこのモーテルのチェックインをした。一旦部屋に入って荷物を片付けて,再び車に乗って,近くのハンバーガーショップまで行って夕食を買ってきて,部屋で食べた。私は,この期待はずれの,いや,夢にまでみた「しがない」モーテルに,なんと今日から2泊もすることになるのだった。

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●この先どこに人が住んでるのだろう。●
 地図で見た限り,ベーカーズフィールドからは東に進む州道178のほうがイニョカーンには最短距離のように思えるのだが,私が使っていたカーナビは,州道58を通るように案内していたから,私はそれに従って走っていった。おそらく州道178は峠越えのくねくね道なのであろう。
 州道58を南東に進んでいくと国道395にぶつかりT字路となって,そこで北向きに進路を変えてもいいのだが,それでは遠回りになるので,途中でショートカットとなる州道14を北東に進むようにカーナビが指示した。
 今日の1番目の写真は,その州道14である。こうした場所まで来るとアメリカもオーストラリアも,右側通行か左側通行かの違いだけで,それ以外はそう違ったものではなく,どちらも果てしなく大地が広がっているだけだ。ただ,私にはオーストラリアのほうが流れている風が優しく思える。
 まだ太陽が沈むには少し時間があったから,私は余裕をもって走っていたが,太陽が沈んでしまうと急に暗くなるので要注意である。そうなると知らない土地は急に心細くなってくる。

 今日の写真のような,まっすぐに続く1本の道を走ることに憧れる日本人は多い。こんな風景は,アメリカでもオーストラリアでも,郊外に出れはどこにでも見られるから珍しくもないが,日本には皆無である。たとえ北海道といえども,これだけの風景はない。
 こういう道路を走っていると,この先どこに人が住んでるのだろうと不安になってくるのだが,不思議なことに,ちゃんとその先にも人が住んでいる集落が訪れる。そうした町のほとんどは,昔は宿場町だったようなところで,それが価値を失ってしまうとゴーストタウンとなってしまった場所も多くあるが,車社会アメリカでは給油地としてかろうじて残っている場合も多い。

 国土が狭く,狭いだけでなく山ばかりの日本では,「国道」ならぬ「酷道」と呼ばれるような山の中のくねくね道があって,そうした道路は車がすれ違うことさえできないほどだが,そんな「酷道」でも,その先に少しでも平地があれば人家が存在する。要するに,日本には決定的に人が住める土地が少ないのだ。昔は獣道だったところを人が徒歩で行き来するようになり,やがて車の時代が急に来てしまって,大した計画もなくそうした道を単に舗装して名ばかりの「国道」としたのだろう。交通量が少なければ今もなおそうした「国道」が「酷道」として存在し,さらに交通量が増した場合,日本ではそうした道路をそのまま置き去りにして山にトンネルをぶち抜き新しいバイパスを作る。そして,忘れ去られた道路はそのまま廃道として,単に通行止めにし荒れるにまかせるわけだ。
 新しい道路を作ったらそれまでの道路は少なくともコンクリートは破壊してもとの土に戻すくらいのことをすれば自然の生態系は守られるのに,そうしたことをしないので,この夏のような豪雨でもあれば,山は崩れ,被害が及ぶ。そして,それを守ろうと,さらに斜面をコンクリートで固めるが,そもそも土に水が滲み,その土を木の根が守っているからこそ自然体系が守られているのに,それをコンクリートで固めて水の行き場をなくしてしまっていいわけがない。そうして,この国はどこもかしこもが破壊されていくわけだ。

 次第に陽が傾いて,西の空には夕日が,そして東の空には満月が昇ってきて,あたりは幻想的になってきた。
 そして陽が沈み少しずつ暗くなってきたころ,やっと遠くに町の灯りが見えてきた。そこがイニョカーンであった。

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 2018年9月6日にBSプレミアムで「世界わが心の旅」の再放送がありました。旅人は指揮者小澤征爾さん。題して「ボストン・家族のぬくもりの中で」。今から22年前の1996年に放送されたものです。
 このころのアメリカは本当にいい時代でした。おそらく,アメリカ建国以来,最高の時代だったと思います。すでに日本はバブル経済が崩壊して「空白の10年」がはじまり,街中には失業者があふれていましたが,アメリカは逆に,ITバブル経済と呼ばれる時代の幕開けのころでした。私はそのころに訪れたニューヨークの5番街で,星条旗がいたるところにはためいているのを見て,アメリカの強固な自信と誇りを感じて身震いした思い出があります。
 日本が誇る指揮者の小澤征爾さんがボストン交響楽団の音楽監督として活躍していたのもまた,そんな時代のアメリカでした。そして,この番組が収録されたころの小澤征爾さんは,ちょうど今の私の歳のころのことでした。
 そんなアメリカも,2001年に起きた,いわゆる「911」,アメリカ同時多発テロ事件ですっかりだめになってしまい,今は当時の面影もなく,殺伐としたとげとげしい国と化しました。

 私はこの番組を見て,いろんな感慨にふけりました。
 そのひとつは,人の老いです。
 私は昨年と今年,年老いた両親をあいついで亡くし,人の老いを目のあたりにしました。そして,この先,自分もこんなふうにして老いてゆくのだろうということを知りました。
 小澤征爾さんもまた,この番組の当時からはずいぶんと歳をとられて,今も指揮者として活躍はされていますが,当時の才気あふれる姿とは遠いものとなってしまいました。
 どんなに才能があろと,名声があろうと,人はだれしも老いるのです。そして,そのときに,過去の自分をどう感じるか,というのはひとそれぞれでしょうが,おそらく,自分は若き日に何かを成しえた,という充実感があればこそ,その先もまた生きていく勇気と力と希望をを与えてくれるものなのでしょう。

 ふたつめは,私のアメリカへの想いです。
 私は2013年,長年想いを募らせていた2度目のボストンにも,そしてはじめてのタングルウッドにも行くことができました。この番組を機に,再び,このときの旅を思い出して,そのときの旅が自分にはどんなに素晴らしいものであったかということを再確認しました。
 おそらく,このときの旅の経験があったからこそ,22年前に作られたこの番組を,深く,そして,いとおしく見ることができたのだと思います。
 1996年にこの番組が放送されたときに私がそれを見たかどうかは記憶にありませんが,おそらく,そのときに見ていても,行ってみたい,うらやましいという願望が強すぎて,今回見たときのような哀愁を私は感じることができなかっただろうと思います。

 いずれにしても,こうした気持ちを抱くようになれたことが,私の大きな財産なのかな,と思いました。やはり,人はこころで生きているものなのです。この番組の題名である「心の旅」というのは言いえて妙です。
 私が再びボストンの地を踏むことがあるかどうか今はわかりませんが,どちらにしても,こののち再びボストンに行っても,私が2013年に訪れたときのようなボストンへの想いを感じることはできないでしょう。そういった意味でも,そのとき,私もよい旅をし,よい思い出を残すことができたということを,この番組を通して再認識することができました。
 私は,その旅で感じた夢のようなタングルウッドの風の音と空気の香りを決して忘れることはないでしょう。私の心にも,ボストンは永遠に生き続けているのです。

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「おわらない夏」-おとぎの国タングルウッド
2013アメリカ旅行記-愛しのフェンウェイ①
2013アメリカ旅行記-雨のボストン⑤
春樹さんは「小澤征爾さんと,音楽について話をする」①
春樹さんは「小澤征爾さんと,音楽について話をする」②
春樹さんは「小澤征爾さんと,音楽について話をする」③
「おわらない音楽」-世界のオザワと途方もない人脈

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●デスバレーは遠く暑い。●
 私はこの旅の航空券を予約したときには,ロサンゼルスから北に行けば間単にセコイア国立公園とデスバレー国立公園に行くことができると気楽に考えていた。
 すでに書いたように,セコイア国立公園は子供のころに知って行ってみたいものだと漠然と思い続けていた場所であった。デスバレーは友人が若いころに行ってここはすごいところだったと言っていたのを聞いて,私も一度は,と思っていたところだった。
 しかし,このふたつの国立公園がどこにあるのか,そしてこのふたつの国立公園が距離的にはさほど遠くないところにあるということすら知らなかった。なんとなくロサンゼルスの北にあるという認識だけがあった。

 実際,この旅の具体的な計画を立てていて,ロサンゼルスからは思ったよりも遠いのに驚いた。そして,セコイア国立公園からデスバレー国立公園に行くのも地図上の直線距離は近けれど,シエラネバダ山脈がその行く手を阻んでいた。
 それにも増して,セコイア国立公園はまだしも,デスバレー国立公園の暑さに対して全く認識がなかったのは自分でも愚かなことであった。というよりも,真夏ならともかく6月なら大丈夫などと誤解をしていた。まったくもって自分でもあきれるほどだ。しかし,この機会を逃したら再び行く機会はなかろうとも思った。
 今から10年ほど前,私がアメリカに憧れていたころはいつでも行けると思っていたアメリカだが,このところアメリカ以外に興味が移ってしまった私にとって,精神的にアメリカはオセアニアやヨーロッパに比べてずっと遠い国になってしまったのだ。

 私は,セコイア国立公園もデスバレー国立公園も,行くかやめるかは同日決めるとしても,行く気になれば行くことができる程度の場所に宿泊先を探して予約した。そうしたわけで,1日目はロサンゼルスに到着してスペースシャトルを見てから走っても夕刻には着くであろうとベーカーズフィールドに宿泊することになったのだった。
 ベーカーズフィールドは思ったよりも大きな都会であったが,その先のバイゼリアまでさらに1時間だったので,バイゼリアで宿泊してもよかったと,それは行ってみて思ったことだった。それはともかく,私は次の日,予定通りキングスキャニオン国立公園とセコイア国立公園に行くことができた。

 問題は翌日,つまりこの日の晩であった。
 デスバレー国立公園の近くにはめぼしい町がなかった。町の大きさというのは地図だけでは把握できず,行ってみなくてはわからない。それに,デスバレー国立公園に行くかどうかもわからなかったので,行くにつけやめるにつけ,どちらになってもかまわないあたりに泊ろうと思って探し出したのがイニョカーン(Inyokern)という奇妙な名前の町であった。
 イニョカーンからもう少し東にリッジクレスト(Ridgecrest)という町があった。実は,リッジクレストに泊ればよかったのだが,リッジクレストにあるホテルを探していて,宿泊代が安いというのに惹かれてその隣の町イニョカーンのホテル,というかモーテルを予約したのだった。イニョカーンには空港があった。経験上,空港の近くには新しくて安価なホテルがあることが多いから,私はイニョカーンもそうに違いないと思い込んだわけだったが,それは大いなる誤解であった。

 翌日,イニョカーンからデスバレー国立公園に行くには国道395を北に向けて走ることになるのだが,この間にほとんど町らしい町がない。あとで知ったことだが,国道395から右に折れるデスバレー国立公園へのアクセス道路を曲がらずにさらに国道395を進みローン・パイン(Lone Pine)という町まで行けばそこは結構大きな町でいいホテルがあったのだが,そんなことは知る由もなかった。
 国道395を「パノラマ街道」という。北はヨセミテ国立公園から南はロサンゼルスまで続く。インターステイツ5や州道99といった太平洋岸の主要道路などを走らなくとも,シエラネバダ山脈を越えた東の盆地を走るこの国道395は風光明媚で知られているが,私はそんなことさえも知らなかった。
 ともかく,そうした状況をまったく知らず,この晩はイニョカーンのモーテルを予約してあったから,そのモーテルを目指して,遅い昼食を「Jack in the box」でとってから,カーナビの案内に従って,まず州道99を南下し昨晩泊まったベーカーズフィールドまで戻り,そこを左折して州道58に入って南東に走り,さらに途中で州道14に入り北東に走っていった。
 道路のまわりはカリフォルニアの大地が広がっていて,きわめて爽快であった。
 はたして明日デスバレー国立公園へ行くことができるのだろうか? と思いながら,夕日の沈みゆくカリフォルニアの青い空の下をイニョカーン目指したのだった。

 今から50年くらい昔,私が将棋に凝っていたころは,後に十六世名人となる棋士・中原誠さんの若き時代でした。当時無敵を誇っていた大山康晴十五世名人をバッタバッタとなぎ倒して,タイトルをどんどんと奪取していきました。その経緯は雑誌「将棋世界」の今月号に詳しく載っています。棋士中原の将棋の指し手はまさに教科書通りで単純明快そのものでした。私は子供心に「そうか一番強い人のやっていることは単純なものなのだなあ」と驚き,感銘を受けたものです。
 おそらく,その「単純であること」が最も難しいのでしょう。
 それは将棋に限りません。何事も,このように「単純であること」が理想なのでしょう。単純であるということはよくわかりかつ明確なので,だれにでも理解しやすいのです。それは,こうした勝負の世界では勝ちにつながり,学問の世界では美しい学説となります。しかし,商売の世界では,そこに他人に罠を仕掛けることができないので,お金がもうからないのです。そこで,商売では,わざわざ工夫を凝らして,あえてわかりにくくするのです。それが資本主義の社会の仕組みというものです。

 たとえば,税金ひとつとってみても,その仕組みを理解している人は多くないでしょう。会社員の場合など,年末調整でいわれた通りに書類を出しているだけなので,そのからくりをまったくわかっていない人がほとんどです。様々な商品もまた同じです。それは携帯電話の料金しかり,電気料金しかり。日常不可欠なインフラでさえもそうした現状なのです。
 たとえば「健康祝い金付き生命保険」というものがあります。満期まで一度も保険を使わなければお祝い金として50,000円差し上げます,とかいうものです。しかし,「健康祝い金」というのは,実際は免責金額が書いてあることなのです。もし,保険で30,000円もらえるような事態が起きたとします。しかし,使わなければ50,000円戻るという保険なら,その時点であえて保険は使わないでしょう。要するに50,000円以下の保証は求めないということになる,そういうからくりなのです。ことばは悪いですがインチキです。このように,あえておかしな条件をつけて複雑にして,消費者からお金を集めているというだけなのです。
 「奨学金」という名の実情は「学生ローン」があります,これは奨学金などではなく単なるローンなのです。それを奨学金という言葉にしてだましているだけなのです。第二次世界大戦の昔から,「撤退」を「転進」と言い換えるのがこの国なのです。今でも,「一億総活躍」という甘い言葉に言い換えて,実際は国民に死ぬまで労働を押し付けようとしているのがいい例です。

 おそらく,こうした複雑さのなかその根本にある単純なたくらみを見抜く力こそが,すぐれた「不良老人」となるために必要な知恵なのでしょう。DSC_1685

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●私がセコイア国立公園を知った木●
 「シャーマン将軍の木」を見るにはずっと離れたところに駐車場があって,そこから走っている無料シャトルバスは,「シャーマン将軍の木」のあるジャイアントフォレストとジャイアントフォレスト博物館を結んでいた。「シャーマン将軍の木」はシャトルバスに乗らなくてもトレイルを歩けば行くことができる。ジャイアント博物館はそれよりかなり下ったところにあるが,博物館には別の駐車場があるので車で行くことができる。
 このあたりがセコイア国立公園のメインルートで,多くの観光客が集まる場所であった。

 「シャーマン将軍の木」の駐車場から車を出してそのまま帰路である南の方向に走っていくと,そこにジャイアントフォレスト博物館があったので,再び車を停めて博物館を見学した。
 私はこの時点ではまだクレセントミドウ・ロードの存在を知らなかったので,博物館を見終わったらそのまま帰るつもりでいたが,ここで知ったのがこのクレセントミドウ・ロードであった。博物館の右手にその道路の入口があったがわかりにくく見逃すところであった。
 クレセントミドウ・ロード(Crescent Meadow Road)は,1番目の写真のように,車がやっとすれ違えるほどの幅しかなかった。この道路を道なりに走っていくとくるりと一周してまたこの場所に戻ってくることができる。このセコイアの樹木のなかを走る狭い道路こそがセコイア国立公園最大の見どころであった。

 それは私が小学校のころのことだったが,今となっては学年を思い出せない。ずっと国語の教科書だと思っていたが,帰国後,昔の教科書が閲覧できる,とある図書館に出かけてそのころの教科書を探したのだが,見つけ出すことができななかったから,私の勘違いで,国語の教科書ではなく,何かの学習雑誌か補助教材だったのかもしれない。
 ともあれ,そこに載っていて知ったのが,巨大な木の幹をトンネルのようにくり抜いてその中を車が走っている1枚の写真であった。
 私は,それを見てアメリカというのはエライ国だと思った。そして,子供心に,ぜひセコイア国立公園に行ってみたいものだと思った。しかし,本当にそこに行けるとは思っていなかったから,その幸運が訪れたことに私は感謝した。

 車が通れるセコイアの木が倒れたというニュースをしばらくして知ったことは今も覚えているが,今回,帰国してから調べていくうちに,その木が倒れたという当時のニュース記事をインターネットで見つけた。その記事によると,木が倒れたのは2003年ということだった。
 そのころはもう,私は,アメリカはエライ国だ,というよりも,そんな客寄せのために木をくり抜いてしまうような愚を犯すから木が倒れてしまったではないか,かわいそうに,と思ったことだった。
 今回,セコイア国立公園に来て,倒れてしまった以上,その木はもはやこの国立公園には存在しないだろうけれど,当時その木があったのははたして国立公園のなかのどこだったのだろうと思った。しかし,それを探そうという気持ちは特になかった。

 現在,クレセントミドウ・ロードにはトンネルログ(Tunnel Log)といって,自然に倒れて道を塞いだセコイアの幹にトンネルをくり抜いて車が走れるようになっている箇所がある。そういう場所があることは来る前から知っていたが,それもまた,国立公園のどこにあるのかは知らなかった。
 それがこのクレセントミドウ・ロードにあった。しかし,それは私がこの国立公園を知った幹をくり抜いたセコイアの木とは全く違うものだから,偶然,私がその場所に行くことができて,しかも,私も車で通り抜けてみたが,特に感動もなかった。
 クレセントミドウ・ロードを一周し終わって帰ろうと思ったとき,オートログ(Auto Log)という立て札とその横に小さな道があるのを見つけた。実は,クレセントミドウ・ロードに入ったときにもこの立札を一瞬見つけたのだが,気にもせず通り過ぎていた。帰りもまた,同じように気にせず一旦は通り過ぎたのだが,その後で,ひょっとしたらあれこそが私がこの国立公園を知った幹をくり抜かれたセコイア木のあった場所ではないのだろうかと思い直して,引き返すことにした。

 立て札のあった場所まで戻って横の道を少し登ると駐車場があったので車を停めて外に出た。そこには説明書きがあって,その説明書きには,この場所は,昔,セコイア国立公園を紹介するときによく使われた有名な木のあった場所だということが書かれてあった。
 この場所こそが,私がセコイア国立公園を知った幹をくり抜かれたセコイアの木のあった場所なのであった。
 現在,木は倒れたまま半分土と同化していた。私は,この木と出会えた偶然に驚いた。そしてそしてまた,月日の流れを感じるとともに,人の愚かさに再び悲しくなった。
 しかし,木の幹をくり抜いて車を走らせるなどという愚行をしたことで私はこの国立公園の存在を知ったわけだから,もし,その写真を見なかったら私はこの国立公園に来ることもなかったということもまた事実なのである。

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 徳島の阿波おどり,京都の大文字の送り火など,一度は見てみたいと思っても,その方法がわからない,あるいは実際はどういう状況なのかわからない人は多いものと思います。パック旅行にでも参加するなら別ですが,個人で旅行をするとなるとなおさらです。そこで,実際に私が旅してみて,私ならこう旅をするという方法を書いてみたいと思います。
 今日は徳島の阿波おどりです。
  ・・・・・・ 
 今年はいろんなもめごとがあったので,毎年NHKBSで放送される日本の夏祭り,阿波おどりはやらないのかと思っていましたが,9月3日に例年どおり放送がありました。
 私は,この阿波おどりが見たくて,2年前の夏に徳島まで行ってきました。そのときのことはすでに何度かこのブログに書きました。そのときに訪れた阿波おどり会館で,職員の人が,実はいろいろ問題があってね,と言っていたのを聞いていたので,昨年から今年にかけての出来事を知って,やっぱりなあ,と思いました。
 2年前,私は,阿波おどりを見にいくに際して,どのくらい混雑するのだろうか,とか,泊るところはあるのだろうか,とか,桟敷席のチケットは購入できるのだろうか,とか,わからないことがたくさんありました。旅というのはいつもそうで,「安心・安全・快適」を旨とするパック旅行にでも参加すれば,そのすべては何の問題もなくクリアできるのでしょうが,そこには自由も生まれず,実際に行ってみても,それはテレビ画面で見ているのと変わらないと私は思うので,自分で行動できるうちは自分で旅行をしてみようとしているのですが,そうしたときにいつもこうした壁にぶち当たります。そこで私は,とりあえずは行ってみて,そこから自分なりの方法やら結論を見つけて,もし二度目の旅をするときがあれば,そのときはそのようにしようと考えています。つまり,どこに行くにも一度目はお試しです。
 そうした考えで出かけた阿波おどりでしたが,インターネットの販売ではとっくに売り切れだった桟敷席なんて,当日現地ではいくらでも売っているし,早朝に徳島市内内へ車で到着すれば,駐車場なんていくらでもあるしで,いろいろ工夫して宿舎を抑えたり,チケットをなんとか入手して行ったのに,たいへんがっかりしました。
 そもそも阿波おどりというのは,有名連という「見せる芸術」まで完成されたおどりと,そうでない一般の連の人たちの「自己満足」のおどりとの差が大きすぎて,自分も参加するという楽しみで出かける人は別として,桟敷席でお金を払っておどりを見にいくという私のような目的の場合,正直言ってがっかりした,というのが結論でした。「みせる芸術」としての阿波おどりはすばらしいので,何度でも見たいのですが,でありながら,そこに参加している人たちはプロではなく,出演料ももらっていないものなのです。そして,そうした金のとれる有名連を分散することで会場を増やして,足りない分は一般の連を参加させて少しでもお金をたくさん取ろうというシステム自体に矛盾があると感じたので,こうしたシステムがこの先ずっと維持できるわけではないだろうと,私はそのとき思いました。
 私にはそれ以上のことはわかりませんが,やはり,私が感じたような問題があったわけです。なにはともあれ,今年も阿波おどりが中止されることなく行われたことは喜ばしいことです。
 この阿波おどりに行ってみて,私がもっともたいへんだったのはその暑さでした。私の行った2年前でもたいへんだったのに今年はさらに暑かったから,もし,私がそんな夏に徳島市まで行ったとして,夜になるまで人混みのすごい街中で過ごすなんていうことをしたとすれば限界だったことでしょう。
 この先,私が再び阿波おどりを見にいくことがあるとすれば,今度は,長距離バスで行くか,あるいは,車で出かけて早めに駐車場を確保してから当日の桟敷席のチケットを手に入れます。そして,夜になるまでは電車に乗ってどこか郊外に行ってのんびりと観光をして,夕方に徳島市に戻り,阿波おどりを見終わったら,現地では宿泊せず,郊外の空いたビジネスホテルで宿泊する,あるいは長距離バスで行った場合はレンタカーでも借りて四国一周の旅でもするという方法をとることになると思います。
 そういった方法を思いつくことすら,一度は行ってみないとわからないことなのです。だからこそ,自分で旅をすることはおもしろいのです。

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私は「高等遊民」になりたい-私が行きたい日本
特別編の特別編・2016徳島阿波おどりを見にきました①
特別編の特別編・2016徳島阿波おどりを見にきました②
私が行きたかった日本-阿波徳島へ行ってきました①
私が行きたかった日本-阿波徳島へ行ってきました②

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●不思議なもので…●
 私は若いころからアメリカに憧れてはいたが,アメリカの国立公園のほとんどにこうして訪れることになろうとは夢にも思わなかった。国立公園に特に興味があるわけでもなかった。
 私のような世代は子供のころからアメリカにコンプレックスをいだき育ったから,一度はニューヨークに行ってみたい,サンフランシスコに行ってみたい… などとだれしも思っていた。私はそれを実現して,その次のステージとして,今度は,グランドキャニオンを見てみたい,アメリカには日本にない大自然があるぞということになって,国立公園に足を延ばしはじめたというだけことだったのだ。
 しかし,アメリカの多くの国立公園に行くには車がないとどうにもならないから,行きたくても行けない人も多いことだろう。私がそれを実現できてしまった幸運を不思議に思う。

 私の手元にある「地球の歩き方」の「アメリカの国立公園」編は2005年版の古いものである。常々書いているように,私はいい加減でずぼらだから,旅行に行く前にほとんど何も調べない。新しくガイドブックを買ったりもしない。つまり,行き当たりばったりである。というよりもむしろ,行く前に調べる気が起きない。それにしても不思議なのは,実際に行ってみてから後で積極的にガイドブックを読む気になることで,読んでからこんなところがあったのかと知って後悔するわけだ。
 毎回そんなことを繰り返しているわけだが,この「アメリカの国立公園」編を改めて読み返してみると,私はこの本に載っている国立公園のほとんどにすでに行ったことがあって,それもまた驚きである。さらには,私はアメリカでキャンプをするなんていうことがきるなんて当然思っていなかったが,この数年でそれさえ実現してしまったが,これもまた不思議なことである。

 多くの,というかほとんどの日本人には理解できないことであろうが,大都会を除くアメリカに暮らす人にとって,大自然というのは,それが無縁な日本人とは違って身近な存在でもあり脅威でもある。しかし,その大自然と友達にならなけらば,毎日が退屈で仕方がないと思う。日本のようにほんの数分外出すれば巨大モールがあるというのとはわけが違う。
 本当の大自然なんてまったくない日本なのに,自然に憧れて小さなキャンピングカーを手に入れて夏になればオートキャンプ場に行く人たちもいるようだが,アメリカのオートキャンプ場を知ってしまうと,日本のキャンプ場なんてままごと以下だということに気づいてしまうから,そういうことをしている人をとても気の毒に思う。
 どうやら私は知らなくてもいいことまで知り過ぎてしまったようだ。

 さて,シャーマン将軍の木を過ぎて,私が次に向かったのはクセントミドウ・ロード(Crescent Meadow Road)であった。ここがこの国立公園での一番の見どころなのである。この片道3マイル,約5キロのセコイアの樹林のなかを走る狭い道路はジャイアントフォレスト博物館(Giant Forest Museum)の南側から続いているのだが,その入口がわかりにくかった。
 私は,クセントミドウ・ロードに行く前に,ジャイアントフォレスト博物館の前にあった駐車場に車を停めて博物館に行った。博物館のなかには多くのセコイアに関する展示があった。国立公園でこういうお勉強ができるのも,また,アメリカらしいことである。展示を見てから,博物館の裏手にあったトレイルを歩いて,ラウンドミドウ(Round Meadow)という草原に行ってみた。この国立公園はセコイアの森ばかりなのに,突然,目の前に草原が広がってきて驚いた。

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●遠かった「シャーマン将軍の木」●
 キングスキャニオン国立公園でトレイルを歩きながらグラント将軍の木を見た後で,私は再び車に乗ってシーダーグローブ(Cedar Grove)を目指して細い山岳道路を走っていった。山岳道路になると,それまではセコイアの森に囲まれていたのが急に景色が変わって山並みの美しい風景になった。しかし,どこまで行っても先があるので,途中の展望台まで行って引き返すことにして,次にキングスキャニオン国立公園の南にあるセコイア国立公園に向けて再び走り出した。
 キングスキャニオン国立公園とセコイア国立公園は一体となっていて,途中にゲートがあったりはしない。セコイア国立公園に入っても依然として同じようなセコイアの森が続いていたが,やがて,ロッジポール(Lodgepole)というキャンプ場に着いた。ここには売店やレストランがあるということだったので昼食でもと思っていたが,あいにくレストランは閉まっていた。
 この国立公園はすばらしい景色が広がっていることにかけては満足したが,アメリカの国立公園にしてはゴージャスさには欠ける。というか,その素朴さがいいともいえた。
 西海岸のロサンゼルスとサンフランシスコから容易にアクセスできる国立公園であるとはいえ,アメリカは広く雄大で,この国立公園のほとんどもまた手つかずの大自然のままなのだった。

 セコイア国立公園で一番の見ものは「シャーマン将軍の木」であった。
 「シャーマン将軍の木」(General Sherman tree)というのは,セコイア国立公園内の原生林Giant Forestに生えている「セコイアデンドロン」(Sequoiadendron giganteum=ジャイアントセコイア)の巨木である。この巨木は1,487立方メートルに及ぶ体積を持つことから,地球上で最も大きな木であると同時に最も大きな生命体であると考えられている。樹齢はおよそ2,200年にもなる。
 この木の名前は南北戦争における北軍の指導者ウィリアム・シャーマン将軍(general William Tecumseh Sherman)に因んで,1879年にこの木の発見者で博物学者のジェームズ・ウォルバートン(James Wolverton)によってつけられた。ウォルバートンはシャーマンの指揮する第9インディアナ騎兵隊に中尉として参加していた。
 1880年代,近隣で設立された空想的社会主義者のコロニー 「Kaweah Colony」によってこの木は「カール・マルクス」(Karl Marx)と名づけられたこともあるという。
 一時,グラント将軍の木との間で世界一の座をめぐって論争になっていたが,1931年,シャーマン将軍の木が世界一の大きさを持つ木として認められた。
 2006年1月,この木の最も大きかった枝が折れてしまった。このL字型の枝は直径がおよそ2メートル,長さが30メートル以上あり,落下した際にこの木を囲むフェンスを壊し周囲の歩道に大きな跡を残したという。
 この木は,地面からの高さが83.8メートル,地面の位置での周囲の長さは 31.1メートルである。

 私は「シャーマン将軍の木」も車で近くまで行って簡単に見ることができると思っていたが,それは大きな誤解であった。セコイア国立公園を訪れる人のお目当てはこの木なのだから人気があり多くの人が訪れるから,広い駐車場があってそこに車を停めてからけっこうな道のりを歩かなないとこの木にたどり着くことができなかった。
 駐車場はこちらの標示にしたがってどんどんと山のなかの道路を登っていったらやがて駐車場に着いたのだが,駐車場には多くの車が停まっていて,なかなか車を停める場所が見つからかなった。ぐるぐると駐車場をまわって,やっと車を停める場所を見つけて,外に出た。そこから「シャーマン将軍の木」がある森までかなりの距離を歩いて行くことになった。「シャーマン将軍の木」の近くには障害者の人たち限定の駐車場があるが,一般の人たちはその障害者用の駐車場までシャトルバスが走っているほど遠いのだった。
 多くの人について私はそのトレイルを歩いて行った。やがて,ものすごい巨木が茂ったセコイアの森のなかに,「シャーマン将軍の木」があった。セコイアの森を歩きながら,大昔の地球はこんな森ばかりだったに違いないと思った。

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 東日本大震災で惜しくもその幕を閉じた白河天体観測所ですが,この観測所の影響を受けて,1980年代はアマチュア天文愛好家は個人のあるいはグループの天体観測所を作ることがあるいは作ろうとすることがブームでした。この歳になると,よほどしっかりした構想がなければ,そんなものを作ることのデメリットのほうが大きいことは容易にわかるのですが,若気の至りで,私もこれまでに2度ほどそうした観測所のまねごとを作ろうと思ったことがありました。そして,ほぼ行動に移し,ともにとん挫しました。

 そのひとつは自宅から3時間余りもかかる,ある山の山頂でした。ここはまあ,当時は空も暗く,星を見るには環境が悪くなかったのですが,遠すぎました。ふとしたことで話が進み,盛り上がり,数人の仲間とお金を出し合って,望遠鏡を買って,そこにそれを置く小屋を作ることになりました。そして,その小屋というのを自分たちで建てるというわけです。それはある年の夏の終わり,ちょうど今頃のことでした。
 しかし,結局,私には行くことさえ面倒な場所で,しかも冬になれば雪が積もって,行きたくとも行くともできませんでした。これではうまくいくわけがありません。結局,小屋はできたものの,私は一度も使うことがありませんでした。今はどうなってしまっているのだろうと思ったりもするのですが,モノを作るというのは作るエネルギー以上に維持するというエネルギーがいるのです。
 今,そのことを思い出すと,同時にひとつの歌が浮かびます。それは財津和夫さんが1979年に作った「虹とスニーカーの頃」という歌です。
  ・・・・・・
 白いスニーカー汚さないように
 裸足で雨の中僕らは歩いた
 びしょびしょぬれのトレーナーが
 乾くまで抱き合った夏の昼さがり
  ・・・・・・
という歌詞です。
 結局,当時の私は,星が見たかったのではないのです。そうした状況に夢を見ていただけのことでした。

 もうひとつは,それから数年後のこと,友人の家の近くに空き地があるからそこに小屋を建てようということになったのです。このときは望遠鏡を設置するなどという王業なものではなく,単に物置き小屋を買ってきて空地に建てるというだけのことでした。で,さっそく小屋を買ってきました。そうしてすぐに小屋ができたのですが,こちらもまた,一度も使わぬままになりました。車があれば,そんなもの建てなくとも,適当なところへ行けば星など見られたからです。
 今となっては,その小屋を建てた場所が本当に美しい星を見ることができた場所だったのかさえ不明です。こちらもまた,私には,そうした状況を夢見ていただけだったのですが,このときのことを思い出すと,今度ははしだのりひこさんが1969年に作った「風」という歌が浮かびます。
  ・・・・・・
 人は誰もただひとり旅に出て
 人は誰もふるさとを振り返る
 ちょっぴりさびしくて振り返っても
 そこにはただ風が吹いているだけ
  ・・・・・・

 結局,私がやったのはそれだけのことです。その頃より歳をとって,少しは分別ができて,結局,人の夢というのは夢を見ているときが幸せだと気づいて,そして,同時に,なぜか当時流れていた歌が思い出として残っているのです。要するに,物質というのはそれだけのことで,それを手に入れると,その維持と,そして,その後の処分に困るのです。
 個人に限らず,モノを作ることには一生懸命でも,それを維持することの困難さを議論することがあまりに少ないのです。資本主義社会というのはそうしてモノを作って消費することばかりを考えていますが,それを維持することの困難さをあまりに軽視しているわけです。だから,この高齢者社会の日本では,これまでに作り上げてきた道路ひとつ,それを維持することもできなくなっていくのは明白なのです。
 「断捨離」の根本は,維持のできないモノは作らない,そして買わないことなのです。

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今日はアイスランド旅行LIVEの最後に,当日書かなかった2日目のゴールデンサークルの現地ツアーについて書くことにします。
私はこの旅の前,異常に人恋しくなっていて,精神状態が自分でも制御しかねる状況でした。そんな中で個人旅行をすることにずいぶんとためらいがありました。以前は,旅行中に日本人を見ても避けていたのに,このごろは自分から話しかけるようになってきました。要するになにがしか人とのつながりがないと不安なのです。そんなわけで,当地でもだれかお話相手ができればと思って,到着翌日は現地ツアーに参加することにして,出発前に予約をしました。はじめに予約をしたのが氷河の洞窟を探検するツアーでしたが,非常にツアー料金が高かったのと,内容がたいしたことがなさそうだったのでキャンセルして,改めてゴールデンサークルをすべて巡るという定番のモノに代えて,新ためて予約をし直しました。
このツアーは,京都市内観光バスや東京のはとバスツアーのようなもので,別に事前に予約しなくても当日窓口でチケットを購入することもできましたが,結果的に,このツアーを予約しておいたのは大正解でした。ツアーの参加者にはひとりの日本人もいなかったのは残念でしたし,ガイドは全て英語でしたが,それは別に問題はありませんでした。それよりも,地図を見ても複雑で,到着早々の自分では行くことが難しい場所に連れて行ってもらえました。
私の宿泊先は空港の近くで,レイキャビックからは遠く,送迎バスが来てくれないので,ツアーの集合場所はレイキャビックのバスターミナルが指定されましたが,そのためにこの便利なバスターミナルの存在を知ったことも利点となりました。
ベルトラで探して予約した現地ツアーはアメリカ資本のグレイラインのものでした。現地ツアーの大手はどうやらレイキャビックエクスカーションズという会社らしく,集合場所のバスターミナルもそのエクスカーションズのもので,グレイラインのツアーは単にその場所に送迎用のバンが停まっただけでした。しかし,そうした勝手がわからず,少し戸惑いました。バスターミナルには多くのバスが停まっていたのですが,それはすべてエクスカーションズのものだったのです。
送迎用のバンに乗ってしばらく行くとバンはグレイラインの会社に到着して,そこで大型バスに乗り換えました。
ゴールデンサークルというのは,レイキャビックの東側に広がる地熱地帯と地球の割れ目をすべて巡るコースですが,範囲が広く,道路も入り組んでいるので,自分で車を運転して巡るのは大変だったし,時差ぼけで寝不足だったので,このツアーに参加したのはよかったのですが,こうしたあなた任せの旅は帰ってからどこに行ってきたのか正確に思い出せないのが欠点です。ともかく,このツアーは,ゴールデンサークルの定番の見どころは全て網羅されていました。では,その見どころをあげておきます。
まずは,シンクヴェトリル国立公園でした。ここは地球の割れ目「ギャウ」を地上で観察できる場所です。アイスランドといえば「ギャウ」なので,まず,ここに来ることができて最高でした。次に訪れたのがグトルフォスという滝でした。この「黄金の滝」はかなりの迫力でした。アイスランドには多くの滝があるのですが,それぞれに個性があるのがおもしろいことでした。そして3番目がゲイシールという間欠泉でした。数分ごとに噴き上げる間欠泉は迫力がありました。こうした見どころをひとつひとつ結構な時間をかけて巡ることができました。はじめて京都にいって,金閣寺(鹿苑寺金閣)と清水寺と二条城を見てきたようなものです。
食事は場所だけが指定されていて,それぞれ好きなものを食べればいいのですが,どこも混んでいて,かつ高いので,おにぎり(そんなものはないけれど)を持参のほうがいいと思いました。私は当日の朝買った飲み物とマフィンをもって行ったのでそれでお腹を一杯にしました。
私が参加した現地ツアーはこれだけでしたが,レイキャビックに3泊するなら,毎日異なる現地ツアーに参加すれば,車がなくてもひととおりの観光はできることでしょう。
最後に。
私の借りた車にはUSB端子がついていたのですが,これを私の持ってきたiPhoneにつないだら充電と同時に車のステレオでiPhoneに入れてあった音楽を聴くことができて,とても便利で快適でした。おそらく,iPhone8はイヤホーン端子とlightning端子が同じになっているからでしょうが,便利な時代になったものです。

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