しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

May 2019

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●世界遺産・グレイシャー国立公園●
 モンタナ州北部にあるグレイシャー国立公園(Glacier National Park)は1910年に設立された。園内には湖が130以上あり,手つかずの巨大な生態系は「大陸生態系の頂点(Crown of the Continent Ecosystem)」と称されている。世界遺産(自然遺産)であるが,日本のようにそれを宣伝すらしない。
 「グレイシャー」という名の通り,この国立公園は,氷河が削った険しい山肌を晒す山々とその間に広がる湖が美しく,氷河の作った美術館とも呼ばれている。ただし,19世紀中ごろには園内に150存在したといわれる氷河のうちで近年まで残っているのはわずか25である。また,現在の気候が続けば2030年までにすべての氷河が消えるだろうと推定されている。

 1910年から1914年の間にグレート・ノーザン鉄道は観光客誘致のためアメリカのスイスをイメージして公園内に多数のホテルを建てたが,その頑丈な造りは記念建造物としていまでも訪れる人を楽しませてくれる。
 その後,自動車の発達により,ゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロード(Going to the Sun Road)が1932年に完成した。この道路は分水嶺である海抜2,025メートルのローガンパス(Logan Pass)を越える。
 私は,グレイシャー国立公園のゲートを抜けて,国立公園の真ん中に位置するローガンパスに向けて走り出した。しかし,まさかこの時期にこれほど寒いとは思わなかった。この時期でもこれほど寒いのだから,シーズンオフなんて,気軽に来ることができる場所ではない。アメリカの自然は脅威である。
 この日もまた,西から強い風が吹きすさび,おまけに雨も降ってきた。

 ゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロードは天気がよければすばらしい風景が見られるのだろうが -幸いなことに私は翌日,実際にすばらしい景色をみることができた- こういった日に走るのは大変であった。
 遠くに氷河が見える。また,時には道路にまで氷河が迫ってくる。私はすでにカナディアンロッキーでこうした景色を見たことがあるし,また,この旅のあとのことになるが,アイスランドやニュージーランドでも氷河を見た。しかし,私には,そうした氷河は感動するというよりも,溶けかけた雪だるまのようにしか見えなかった。また,こういう姿をみると,確実に地球は温暖化して氷が溶けだしているということを実感し,悲しくなってくる。
 こういう姿が決して正しいものとは思えない,近い将来,きっと大変なことになるだろう。しかし,そんなことはだれしもがわかっているのだが,ここまでひどくなってしまうと人の手ではどうにもならない。というよりも,さらにそれを早めている。

 道路は岩山をくり抜いたトンネルやら,鉄砲水をさけるような水路やらがいたるところにあって,ときには道路が滝つぼのようになってしまっていることすらある。そこを多くの車がそろりそろりと走るのだ。
 おそらく,日本でこうした道路を作ると,やたらと醜いガードレールをこしらえたり道路にペンキを塗って注意書きを書いたりして,景観を台なしにするのだろう。
 こうした自然が日本になくてよかったと思ったことだった。
 
 国立公園のちょうど真ん中あたりがローガンパスである。パスとは峠という意味である。ローガンパスに着く前にヘヤピンカーブがある。そこでの風景は絶品なのだが,この天気では車を停めて風景に見とれる余裕はなかった。私がこの風景に感動するのもまた,明日のことになる。
 やがて,ローガンパスに到着した。ここまでの道路は標高が高く道幅はせまく,思った以上に大変だった。

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●鉄道でアクセスできる国立公園●
 カリスぺル(Kalispell)で右折して国道2を北北東に走っていくと,次第に高原ムード満載の道路になってきた。次の町がエバーグリーン(Evergreen)という道路際にいくつかのお店があるだけの町,そして,左手にグレイシャー・パーク国際空港があって,それを越えると今日の1番目の写真にあるハングリーホース(Hungry Horse)という町があって,その先がウェストグレイシャー(West Glacier)であった。
 グレイシャー・パーク国際空港は,この旅を計画したとき,シアトルからここまでフライトで来たいと思っていたが断念したその到着空港である。
 アメリカの地方空港はフライトが少なく,私のような海外に住む者が国際線から乗り換えて利用するのはなかなか困難である。アメリカは途方もなく広いから航空機で移動するほうが車よりも時間的には便利であるが,フライトの時間が合わないすることが多い。それでもこの空港は,夏期はシアトルからは1日5便,ソルトレイクシティーからは8便,ミネアポリスからは2便ほどのフライトがある。

 グレイシャー国立公園へ行くにはウェストグレイシャーで国道2を左折することになる。グレイシャー国立公園内にはガソリンスタンドがないので,ウェストグレイシャーで給油を忘れてはならないということだった。
 グレイシャー国立公園は,来るまで私は最果ての地,アクセスするのが大変な国立公園だと思っていたが,実際は車がなくとも鉄道でも来ることができる唯一の国立公園なのだった。というよりも,グレイシャー国立公園は鉄道の駅を拠点に開発された国立公園なのだった。
 このころの私はまだアメリカの鉄道に乗ったことがなかったが,その数か月後,アメリカの東海岸を旅したとき,アメリカの高速鉄道アムトラックに乗る機会があった。今では,シアトルから鉄道でアメリカ北部の雄大な大地を走り,景色を見ながらグレイシャー国立公園に行くのも悪くないと思うようになった。グレイシャー国立公園には西のポートランドから東のシカゴまでを結ぶアムトラックのエンパイアビルダー(Empire Builder)が1日1往復運行されているということである。また,この路線はアムトラックの中でも特に景色がすばらしいのだという。
 私は以前テレビの番組でそれを見たことがある。

 こうしていろいろな場所を旅行をするうちに,行く前には知らなかった先のさまざまなことがわかってきた。それらの多くはガイドブックを見たり地図ではわからないことだ。しかし,わかったとしても,再びそこへ行こうとしてももう行く時間がないという場所が多い。私ほど様々な場所に旅行をしてもそう思うなのだから,おそらく多くの人にとってはもっと知らない場所がたくさんあることがあるだろう。
 たった一度の人生なのに,会社勤めで自由な時間もほとんどなく,長い休みも取れず,歳をとってしまうのは本当にむなしいものだと,歳を重ねた私は思うようになった。人生というのはかくも短いものだ。
 
 ウェストグレイシャーという町のゲートを越えたら,鉄道の駅があって。乗客でごった返していた。ちょうどアムトラックが来るころであるらしかった。また,駅のあたりには多くのホテルもあった。
 ウェストグレーシャーのダウンタウンを過ぎてさらにしばらく走ると,ついにグレイシャー国立公園の西のゲートに到着した。アメリカの国立公園はゲートで入園料を払うのだが,ここのゲートはとても混雑していた。この時期でこれほど混雑しているのだから,夏のハイシーズンはたいへんだろう。
 この日の午後,私はこの西のゲートから入って東のゲートであるセントメリー(St.Mary)まで,グレイシャー国立公園を抜けることにした。この国立公園を横断する道路を「ゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロード」(Going to the Sun Road)という。

 カメラの売れ行きが芳しくないそうです。その理由としていろいろなことが言われていますが,私は何をいまさら,そんなことは当然だろうと思います。
 ここでは,プロのカメラマンのようなカメラを商売道具としている人のことは除外するとして,一般の多くのカメラ好きのアマチュアのことを書きたいと思うのですが,そうした人の多くは,もう,今のカメラ業界にはついていけない世界になってしまったと考えているということがその理由です。
 第一に,わずか数年で新製品が出るので持っているものがすぐに古くなってしまうのにもかかわらず値段が高いということです。これまでもそういう傾向があったのですが,安価な製品の売れ行きが悪くなって,採算をとるためにさらに高級品ばかりになってしまったことで,容易に手が出なくなったのです。しかも,それほどの高級品が必要な人が多くいるわけもなく,また,こうした趣味のモノに高額のお金をかけたところで,では,何を写すの? ということがよくわからないのです。また,そうした高級品は重すぎ大きすぎで,主なユーザーである年配の人はわざわざ持って歩く気になりません。
 第二に,というか,これが最大の要因なのかもしれませんが,ソニーのミラーレス一眼カメラの売れ行きがよいのに影響されて,ニコンやキヤノンがその対抗馬として新しいマウントのミラーレス一眼レフを発売したことです。そこで,これまでのこのメーカーの愛好者が,この先何を買えばいいのかという先行きがさっぱりわからなくなってしまったのです。従来のマウントの交換レンズを新たに購入してこの先大丈夫だろうか? あるいは,新しいマウントの高い交換レンズを買っても,それがずっと存続するのだろうか? と不安なので,そうした投資が無駄になるかもしれないと心配で,みな買い控えです。これでは売れるわけがありません。
 実際,メーカーも新製品を出しては見たものの思ったほど売れないので二の矢が出せない,つまり,この先どうするか迷っているのです。

 ここからは私の話です。
 私がカメラを使うのは,このブログのように旅先での記録と星の写真が主な目的ですが,このごろは旅に出るときにカメラすら持たなくなってしまい,すべてスマホで済ませるようになりました。値段が多少高くとも,小さくて末永く使えるカメラがあればいいのに,1キログラムを越すような大きくて重たいカメラを持って海外旅行をしようとは決して思いません。私はこれまでニコン1を使っていましたが,何の説明もなく製造中止になりました。そして,新たに発売されたZマウントとかいうミラーレス一眼カメラもまた,いつ,同じ状況,つまり製造中止になるかわかりません。それに,大きくて重たくて,私の要求に合うようなものではありませんでした。
 また,星の写真を撮るカメラは天体が美しく写るように改造されたものを使ったほうがいいし,天体を写すためのレンズはオートフォーカスも手振れ防止も必要ないのです。このごろ発売される多くのカメラのカタログには見本として星空の写真が載っていますが,どの写真を見てもまったくたいしたことがなく,購買欲をあおるようなものではありません。むしろ,この程度かとがっかりする写真ばかりです。星空の写真は先に書いたように,天体用に改造したカメラを使って,撮影したあとで画像処理をするから見栄えがするのであって,どんな高級なカメラを使って写しても画像処理をしなければろくな写真にはならないのです。だから,カタログ用にそうした処理を施さない写真を載せてもがっかりするだけなのです。

 昔,日本の家電は現在パナソニックと名を変えたナショナル,そして,東芝,日立,三菱などの会社の製品が売られていたのですが,今はそうした会社の一般大衆用の製品を見かけなくなりました。たとえば,扇風機を買おうと思っても,そうした名の知れた会社の製品はほとんどないか,あったとしても意味のない機能をつけて高価にしたモノばかりになってしまいました。おそらく採算が取れないからでしょう。こうした現象は,将来のカメラ業界の姿を暗示しているかのようです。
 ある人が次のような書き込みをしていました。それは,今のカメラは「軽自動車では物足りなくなって普通乗用車を買おうと思ったのに,売っているのはバスやトラックしかないようなものだ」というのです。実際,メーカーの高級品志向で,おそらくあと数年もすれば,バスやとトラックのようなプロ仕様の高級品しかなくなってしまうでしょう。要するに,カメラが売れないのではなく,買う気の起きるようなものを売っていないのです。

 今から25年ほど前,私は,ニコンF3/Tという,当時はプロも使っていた最高級のカメラに単焦点の交換レンズを数本持って,シーズン外れの人の少ない京都などに出かけて,一日中気の向くままのんびりと写真を撮るのが極上の楽しみでした。それが今や,京都は人混みだらけになってしまい行く気もなくなり,さらに,カメラも高級品は持つことすらはばかられるほど重く大きく,持つ喜びもなくなってしまいました。
 どうやら,カメラ業界は根本的な間違いをして,迷路に入り込んでしまったようです。私のような50年以上も愛用しているニコンカメラのユーザーは,新しいマウントのカメラが出たためにこれまでずっと続けていたFマウントのレンズがこの先どうなるかもわからないから新しいレンズを買う気もなくなり,また,私が旅行に持っていくニコン1という小型のミラーレス一眼カメラを何の説明もなく製造中止にしたように,平気でユーザーを裏切ったことで信用をなくし,そしてまた,新規格のマウントをつけたミラーレス一眼カメラが思ったほど売れないものだから,会社自身もその将来を迷いに迷っているように感じられるのです。
 こんなことをしていては,この会社はこの先パイオニアとかオンキョーとかトリオとかいった昔のオーディオメーカーと同じ運命をたどっていくのでしょう。

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●ここはアメリカの北の果てか?●
 今回だけのことでないが,いくらガイドブックを見ても実際に行ってみないとその場所の様子はよくわからない。さらにまた,その土地の標高は把握しにくいものだ。
 私の目指すグレイシャー国立公園はモンタナ州の北のはずれにある。この国立公園は人工的な国境で分断されているが,実際は,カナダのウオータートンレイクス国立公園につながっている。アメリカ本土最北の地でわざわざ行こうと思わなければなかなか訪れることもできない場所なのである。
 以前,私はモンタナ州のビュートから北のヘレナに向かってインターステイツ15を走ったことがある。グレイシャー国立公園は,そのとき私がアメリカの北の果てだと思ったモンタナ州の州都で美しい町ヘレナ(Helena)よりも,さらに北に位置するのだ。
 この公園の名前である「グレイシャー」というのは「氷河」という意味だからそれだけでも寒いことが想像できるが,実際,非常に標高が高いとこころにある。しかし,地図ではその標高がイメージできない。しかも,国立公園が広大でつかみどころがなく,来るまでどこをどう観光してよいものかさっぱりわからなかったし,行ったことがある人から,期待外れだったよ,という話を聞いたこともあって,私はそんな場所にわざわざ足を運ぶのもどうかなあと思ってあまり気が進まなかったが,ともかく一度は行ってみようと思って,今回わざわざやってきたのだった。しかし,その心配は杞憂に終わる。

 シアトルからインターステイツ90をずっと東に走ってようやくモンタナ州に入った。モンタナ州のマイルマーカー33地点にあるセントレジス(St. Regis)という町で,ようやくインターステイツ90を離れ,州道135に乗り換えた。セントレジスは道路沿いにわずかの商店やガソリンスタンドがあるだけの町だった。アメリカの地方にある多くの町は,そんな駅馬車の道の駅のようなところだ。
 州道135は自然と東から来る州道200と合流して北上していく。そのまましばらく走っていくとプレインズ(Plaons)という町で再び分岐して,州道200は北西に,そこを起点とする州道28は北東に向かうことになる。
 私は州道28のほうに進路をとった。 
 やがて,州道28は,エルモ(Elmo)という,フラットヘッド湖(Flathead Lake)の湖畔にある町で湖の西岸を南北に走る国道93と合流し,さらに北上を続けた。このあたりはすばらしい景観であった。
 フラットヘッド湖はモンタナ州北西部に広がる大きな自然の湖で,ミシシッピ川の水源の西にある表面積最大の天然淡水湖。古代の残骸・氷河によって作られたものである。

 国道93は湖を過ぎてもさらにまっすぐ北に進み,いつ果てるとも思えない道路が地平線まで続いていた。アメリカのドライブというのはこういう景色の中を走るのが一番楽しい。しかし,アメリカにはこんな風景が広がっているということすらほとんどの日本人は知らないから,北海道のほんのわずかな直線道路に感動したりしている。
 いよいよカリスぺル(Kalispell)という大きな町に着いた。カリスペルはモンタナ州北西部にあって人口約2万人の商業の中心地である。ここからグレイシャー国立公園まではわずか13キロメートルなので,国立公園のゲートタウンでもある。
 国道93はこの町の中央で国道2と交差する。そのまま国道93を直進して北上していくと,私が今日と明日2泊する予定のホワイトフィッシュという町のスキーリゾートホテル「Hibernation House Whitefish」に着く。
 こうして,予定通り,私は午前中にここまで走ってくることができた。ホテルへ行ってチェックインをするにはまだ時間が早かったので,国道93を右折して北東に進む国道2に進路を変えて,先にグレイシャー国立公園に行ってみることにした。国道2はグレイシャー国立公園の西のゲートであるウェストグレイシャー(West Glacier)に向かう道路である。
 お昼になったので,このあたりのガソリンスタンドで給油をしてついでに菓子パンを買って軽い昼食とした。運転しているばかりで動いていないからこんな感じの昼食をとることも多い。
 シアトルからの長いドライブだったが,いよいよこの旅の目的地であるグレイシャー国立公園まであとわずかである。

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●時差は複雑である。●
☆2日目 2016年6月25日(土)
 インターステイツ90はアメリカを西から東に横断するインターステイツのうち一番北を走るもので,シアトルからボストンに達する。ちなみに,以前書いたことがあるが,アメリカのインターステイツは東西を走るものは偶数,南北を走るものは奇数の番号が振られていて,なかでも大陸を横断するものは南から北に10,20,……,90,大陸を縦断するものは西から東に5,15,……95となる。
 インターステイツ90は慢性的に渋滞するシアトルを抜けて,カスケード山脈を越えると気候が変わり,極めてアメリカらしい雄大な景色の中を走ることができる。今回の旅ではアイダホ州に入ったところにあるカーダーレーンに1日目の宿泊をしたが,インターステイツ90はアイダホ州に入ると長くくねくねした坂道が続くのである。  
 生まれてはじめてこの道を走った2004年のときの印象では,くねくね道の続くアイダホ州を過ぎモンタナ州に入ると,沼地やら平地,そして森が周期的に変わっていくようなるというものだったが,とても走りやすいインターステイツである。
 今回はモンタナ州に入ってからもさらにしばらく進み,マイルマーカー33地点,つまり,モンタナ州の州境から33マイル走ったところにある町セントレジス(St. Regis)で州道135に降りて,その後,州道200,州道28と経由してどんどん北上していくことになる。

 旅に出かけると時間が惜しくなる。到着まで4時間かかったとしても,朝6時に出発すれば10時に着けるが,朝8時になればお昼になってしまうからだ。そこで,いつもホテルをチェックアウトするのが早くなってしまうのだが,そのために,せっかくホテルに朝食が用意されていても食べられないことがある。この朝は幸い,朝食が6時から用意されていたので食べることができた。
 ホテルを出発したのは朝の6時半であった。グレイシャー国立公園はまだまだ遠く4時間以上かかるが,11時には到着するつもりだった。ところが,途中,給油するために寄ったガソリンスタンドで,太平洋標準時(Pacific Time Zone=PT)から山岳標準時(Mountain Time Zone=MT)に時間帯を越えていることに気づいた。つまり,今日は1日が23時間しかないのだった。アイダホ州は場所によって時間帯が違っていて,州の北半分はPT,南半分はMTとなる。昨日泊まったところはアイダホ州の北部にあるカーダーレーンだったからシアトルと同じ時間帯のPTだったが,モンタナ州に入ったところでMTになったのだった。1日が25時間に増えるのならいいのだが,減るのは困る。1時間の差は大きい。
 アメリカを横断するときは,東から西に走るべきなのである。そうすれば時間帯を越えると1日が25時間になる。反対に西から東に行けば,時間帯を越えると1日が23時間になってしまう。

 アメリカ本土には,太平洋標準時(Pacific Time Zone=PT),山岳標準時(Mountain Time Zone=MT)に加え,中央標準時(Central Time Zone=CT),東部標準時(Eastern Time Zone=ET)の4つの時間帯があって,それぞれ1時間ずつ異なる。さらに,3月の第2日曜日から11月の第1日曜日までは夏時間(Daylights Saving Time)が実施されるのでそれぞれ1時間早くなる。つまり,夏の午前9時は冬の午前8時と同じなので,冬の間午前8時に起床していた人が夏の午前8時に起床するには1時間早く起きなけらばならなくなる。そのかわり,夏の午後9時は冬の午後8時と同じなので,日が沈むのが遅くなり,明るい時間が長くなるということになる。
 これは,アメリカ人にとれば,夏の夜を楽しむ時間が増えるという素晴らしい意味をもつのだが,日が暮れるまで働くことしか能がない日本で夏時間などを採用すれば,午後7時に日が沈んでいたのが午後8時になるわけだから,残業が増えるだけのことになるだろう。一時議論になった,日本でも夏時間を導入したらという意見は,日本人が何たるかをわかっていない人のたわごとにすぎないのである。私はむしろ,日本では夏になったら1時間遅らせるほうが理屈に合っていると思う。
  ・・・・・・
 余談だが,国の面積がアメリカと同じくらいのオーストラリアの時間帯はかなり複雑である。
 時間帯は,西部,中部,東部の3つとアメリカより少ないのだが,西部と中部は1時間30分の差があり,中部と東部は30分の差である。これだけなら大して複雑でないが,時間帯をわからなくしているのが夏時間である。
 10月の最終日曜日から4月の第1日曜日の間,中部時間に属するところのさらに南半分であるサウスオーストラリア州と,東部時間に属するところのさらに南半分であるニューサウスウェールズ州とビクトリア州,キャンベラ,タスマニア州だけ夏時間が実施されて1時間早くなるのだ。
 ここでは,オーストラリアの夏,つまり日本の冬に,日本からブリスベン,ブリスベンからウルル(エアーズロック),ウルル(エアーズロック)からシドニー,シドニーからゴールドコーストでトランジットして日本に帰国する旅行を例に説明してみる。
 まず,日本よりオーストラリア東部時間のブリスベンは1時間早い。中部時間のウルル(エアーズロック)はブリスベンより30分遅いから,日本より30分早い。シドニーも東部時間だが夏時間が実施されているからウルル(エアーズロック)より1時間30分早くなって,日本より2時間早くなる。そこで,同じ東部時間で経度がほとんど同じシドニーからゴールドコーストでトランジットして日本に帰国する場合,シドニーとゴールドコーストで1時間の差があるので,飛行機の出発時間で混乱するということになるわけだ。

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 ブラックホールの姿がはじめて捉えられたというニュースがきっかけで,私はずいぶんとブラックホールに関する本を読みなおしましたが,そのなかで最もわかりやすかったのが,ブルーバックスの「巨大ブラックホールの謎-宇宙最大の「時空の穴」に迫る-」でした。
 この本の内容は次の通りです。
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 太陽の100億倍もの質量を持つ巨大ブラックホールは強力な重力で光さえ飲み込む一方で宇宙でいちばん明るく輝き,光速に近い速さの「ジェット」を放出しているという。未だ多くの謎に包まれていて,厳密にはその存在すら確認されていないブラックホール。一般相対性理論による理論的裏付けから1世紀,「ブラックホール」という命名から半世紀経って,200年以上前に予言されながらまだ誰も見たことのなかったブラックホールの姿が,最先端の天文学によって明らかになりつつある。
 最新望遠鏡によって,人類はついに「黒い穴」を直接見る力を手に入れようとしているのだ。この巨大ブラックホールの謎を第一人者が解説する。
  ・・・・・・
 この本の「第一人者」というのは著者の本間希樹先生のことです。この「国立天文台三大イケメン」のひとりといわれるかっこいい大学の先生が,きわめてわかりやくブラックボールについて解説した本がこれです。

 すでに書きましたが,ブラックホールというのはその強い重力場によって「シュバルツシルト半径」といわれる大きさ以下の範囲では光をも飲み込むものです。その境界面は「事象の地平線」といわれていて,この範囲がブラックホールの大きさを表します。つまり,「ブラックホール」というのは特異点といわれる「無限に小さく縮んだ巨大質量の点」とそのまわりの重力場によって作られる「事象の地平線」を示しているものです。この「事象の地平線」の内側,つまりブラックホールは見えないけれど,ブラックホールによる「穴=シャドウ」が捉えられ,それが予測されてきたとおりのものだったというわけです。
 この本が書かれたのは,今回のブラックホールシャドウが捉えられたというニュース以前なのですが,この本を執筆していたころにはもうずいぶんと研究が進んでいたことが,本を読んでいると推測できます。そこで,今回のニュースのきわめて明快な解説書になっています。
 こういうニュースがあると,民放テレビのワイドショーのように,玉石混交さまざな本やら記事が出ますが,この本を読めば間違いがないでしょう。いわゆる「ホンモノ」です。

 私はこれまでにもずいぶん多くのブルーバックスを読みました。その中でもっともすぐれていると思うのは,南部陽一郎先生が書いた「クォーク」です。しかし,ブルーバックスにはこうした優れた本がある反面,難解すぎて手に負えなかったもの,また,その逆にレベルが低すぎてがっかりしたものなど,いろいろありました。それは,読む側のほうの責任でもあります。つまり,読むほうがどの程度の基礎知識をもっていて,書くほうはどの程度の読み手の知識を前提としているのか,ということがわからないというのが問題なのです。
 科学の啓蒙書というと,できるだけ数式を使わないというのをウリにしているようですが,本当はむしろ高校卒業程度の数式を使ったほうがずっと理解しやすいのです。もともと物理学というものが自然現象を数学で表すことを目的とする学問だからです。それよりも問題なのは,日本の高等学校で学ぶ数学というのが,いわゆる理系といわれる学生がその先に進むためのカリキュラムになっておらず,あまりに程度が低すぎることです。今高校生がやっているのは,遊びのような知恵比べのような,大学入試のための数学という名を借りたゲームにすぎないのですが,それを解くために1年もかけて演習をしています。そんなことに貴重な時間を費やすくらいなら,ベクトル解析や線形代数でも学んだほうがずっと将来役に立つのです。現在の高等学校のカリキュラムでは,どんな啓蒙書であろうと数式など書かれたら手に負えません。
 学歴というブランドだけで仕事があった時代ならともかく,シンギュラリティがさけばれる今,これではいけないのです。
 少し話がそれました。
 いずれにしても,ブルーバックスは,読者の基礎知識のレベルに応じて☆,☆☆,☆☆☆のような表示でもつければいいのにと思います。

 ではこの話題の最後に,この本で紹介されていた中性子星を中心にもつ超新星残骸M1と,中心に巨大ブラックホールをもつといわれるM81銀河の,私が写した写真をご覧ください。

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●この地には思い出があった。●
 この日はカーダーレイン(Coeur d'Alene)というリゾート地にあるスーパー8に宿泊した。
 カーダーレインはアイダホ州の北西部に位置する,かつては金や銀の鉱山で栄え,近年はリゾート地として高成長を遂げている町だ。人口は約45,000人である。市の名前は周辺に住むネイティブ・アメリカンのカーダーレイン族に由来するが,これは西部開拓時代にフランス人たちが「錐の心」という意味のフランス語で名付けたもので,その意味するところは「抜け目のない」というものだそうだ。また,この町は Lake City という別名でもよばれている。最初にこの地に住みついたのはネイティブ・アメリカンで,やがて,この地にフランス人の入植者がやってきてカトリック信仰が広がり,カーダーレイン川の河岸に現在のカタルド・ミッション(Cataldo Mission)が建てられた。

 ホテルにチェックインをしたあとでダウンタウンに出てみた。湖に面した町は坂になっていて,ここを訪れたときは,なんだかハワイ島のヒロに似ているなあと思ったが,今考えてみると,ニュージーランド南島のクイーンズタウンに似ていなくもない。
 はじめて訪れた町は駐車スペースを探すのに苦労するのは日本も外国も同じで,それはその国のシステムがわからないからである。特に,外国をドライブするときは駐車違反などぜったいに避けたいから,道路標識の見方がわからないと停める方法や場所を見つけるのがなかなか難しいものである。私は多少歩いても絶対に大丈夫という場所に車を停めて歩くことにしている。ここでもまた,ダウンタウンの外れに駐車スペースを見つけて車を停め,外に出た。 
 湖のほとりにはすてきなレストランがたくさんあり,湖にはクルーズツアーも実施されていたので,多くの観光客が訪れるところだと予想できるが,このときはまだ夏の前,ハイシーズンでなかったのが幸いだった。
 アメリカには,日本では全く知らないこうしたリゾート地がたくさんあるが,ひとり旅の私はリゾート気分とはほど遠く,中華料理のチェーン店であるパンダエクスプレスで夕食となった。

 ところで,私はこの町で泊ったのははじめてでない,ということを後で知った。この地に思い出があったのだ。人の行動というのはいつも同じことをするもののようだ。
 それは,2004年のことであった。そのころは忙しく,9月にわずか1週間の休暇をなんとか取ってアメリカにやってきた。目的地はイエローストーン国立公園に行くことであった。しかし,その旅をしたときの私は今よりもあまりに無知であった。ただアメリカを旅したいという一念での強硬スケジュールであった。今ならそんな旅はしない。
 その時もシアトルからレンタカーを借りた。そのまま途中で宿泊するためのホテルの予約もせず,その日のうちにイエローストーン国立公園まで行こうと考えて先を急いだ。インターステイツ90はアイダホ州に入ると坂道が続くようになった。やがて思ったより早く夜になり,真っ暗な山道を走ることになった。そこで予定を変更して次の町でホテルを探すことにして,やっと到着したのが,どうやらこのカーダーレインであったようだ。今となってはその時に泊まったホテルがどこだったのかさえ思い出せないが,ともかくチェックインしたときは周囲は真っ暗であった。そんなカーダーレインに私は再びやってきたというわけだった。

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●コロンビア川を越える。●
 インターステイツ90をワシントン州の中央部まで走ってきた。ここでインターステイツ90は82と分岐するジャンクションがある。インターステイツ82を南東に向けて走ると,ヤキマ(Yakima)を経由して,やがてはインターステイツ84と合流する。
 ヤキマといえば,おいしいハンバーガー屋さん(Miner's Drive-in Restaurant)のある町である。また,インターステイツ84は,アイダホ州の州都ボイジへ向かう道路である。このあたりは翌年2017年にも皆既日食を見るために再びやって来たので,これを書いている今では身近な道路になってしまったが,このときはまだそこんな未来のことは知らない。過去を振り返ると,この旅で今走っているインターステイツ90をすでに2004年にも走っている。そのとき私は,この先のビュートという町を過ぎたところで交通事故に遭い,重傷を負った。
 人生は筋書きのないドラマだ。思ってもいないのにどういうわけか何度も来てしまう場所というのがある。また,あとから振り返ると,あのときこうしておけばよかったと後悔することもたくさんあるが,そんなことはその時点ではわからない。だからこそおもしろいともいえる。そしてまた,人生は短か過ぎる。いずれにしても,2004年ころの私は,その後にワシントン州がこれほどなじみのある場所になるとは夢にも思わなかった。

 やがて,インターステイツ90はコロンビア川に差し掛かった。この日はあいにく橋が工事中で,そのため道路が渋滞していた。こうなると予定が狂って,いつ到着できるかわからなくなってしまうから,短い日数で旅行をしている身には堪える。しかし,幸い,思ったほどの渋滞ではなく,車は再び順調に走りはじめて,視野の先には美しいコロンビア川とそれにかかる橋が見えてきた。
 コロンビア川(Columbia River)は,カナダ・ブリティッシュコロンビア州のカナディアンロッキーに源を発し,アメリカ・ワシントン州を流れて,ポートランドで支流のウィラメット川(Willamette River)と合流して,オレゴン州のアストリア(Astoria)で太平洋に注ぐ。
 橋の南には水力発電を目的としたワナマムダム(WanapunDam)があるので,このあたりコロンビア川はワナパム湖という大きな湖となっている。西側の湖畔にはワナパム保養地(Wanapum Recraation Area)があってそこには湖の景色を見ることができる展望台がある。その展望台にはこの翌年に行くことができた。

 インターステイツ90はこの長く美しい橋を越えると,山に沿って大きく左折した。さらに進んでいくと山岳地帯を過ぎ_再び平原になった。ここはもう,ロッキー山脈である。
 ワシントン州は太平洋岸に面したあたりは夏以外は天気が悪いことが多いのだが,カスケード山脈(Cascade Range)を越えて東に行くと天候が一変して快晴に恵まれる。あいにくこの日はその逆で,山を越えたら雨が降ってきた。
 さらにインターステイツ90を東に向かって走ってくと,やがてスポケーン(Spokane)という町に着いた。この町がワシントン州の一番東側にある人口20万人ほどの大きな都会である。もともとの地名はスポケーン・フォールズ(Spokan Falls)といった。市内のいたるところに滝が見られるからである。また,Lilac Cityともよばれている。
 スポケーンを越えるといよいよアイダホ州であった。シアトルを出発して約280マイル,450キロであった。それは大阪から名神高速道路と東名高速道路を走って東京に着くほどの距離である。

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 私がこの馬籠宿から妻籠宿までを歩いた数日後,朝日新聞にちょうどこの街道についての記事が載りました。題して「日本人そっぽの峠越え,外国人に大人気 英テレビで注目」です。
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 江戸時代の宿場町の雰囲気が残る長野県南木曽町の妻籠宿と岐阜県中津川市の馬籠宿。両宿を結ぶ旧中山道の馬籠峠を歩く外国人ハイカーが近年増加している。英国のテレビ放送などで知名度が上昇。2018年度は65の国・地域の人が訪れ,はじめて3万人を突破した。日本人より多い6割超を占めており、まだまだ増えそうな勢いだ。
 (中略)
 外国人の峠越えは09年度は約5,850人だった。それが18年度は約31,400人に増え5倍を超えた。外国人の増加は英国のBBC放送の番組で取り上げられた数年前から顕著になったという。一方,峠を歩く日本人は年々減っていて18年度は全体の4割を切った。
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 この記事は,さらに,馬籠峠に近い標高777メートルの場所に,鐘を鳴らすことでクマの被害防止とともに幸せのパワースポットにつながればとの願いを込めて「中山道ラッキーポイント」と名づけた鐘を設けたことが書かれていましたが,その鐘が今日の1番目の写真です。
 
 峠を過ぎるとずっと下り坂で,しかもきちんと整備されていて歩きやすく,何の苦労もなく立場茶屋というところに着きました。
 立場茶屋というのは,客に茶を出して休息させる茶店から発展した各種の飲食遊興店をいいます。江戸時代,旅行者を対象として道中筋の宿場を離れた山中などに休息所としてこうした立場茶店が開店しました。宿駅保護のために立場での食事や宿泊は禁じられたのですが,これもまた建前と本音を使い分けるのが得意の日本人のこと,次第に力餅などの名物とともに酒やさかなを提供するようになりました。
 馬籠宿から妻籠宿の間にも馬籠峠から妻籠方面に少し下ったところに,一石栃立場茶屋がありました。ここはふたつの宿場のほぼ中間地点に位置しています。今歩いていても休憩を取りたくなる場所です。江戸時代後期の歴史ある建物が今も残っていて,中に入って休憩できるようになっていました。中ではフランス人がお茶を飲んでいました。
 また,立場茶屋の前には八重のシダレザクラがあって,おそらく満開のころには美しい姿を見せていたのでしょうが,1週間ほど盛りが過ぎていたのが残念でした。

 下り谷という場所に,妻籠宿の白木改という木材・木工品などの出荷を取り締まる番所が設置されていましたが,のちにここ一石栃に移されて,明治2年まで「木曽五木」とよばれる,ひのき・さわら・あすなろ・こうやまき・ねずこをはじめとする伐採禁止木の出荷統制を行ってきたところでもあります。
 木曽谷を所管する尾張藩は,江戸時代初期から木曽檜などの伐木への制限に乗り出しました。この制限は江戸時代中期には木曽谷のほぼ全域に及び,「木一本首一つ,枝一本腕一つ」といわれ,伐れば死罪という徹底した森林保護となって木年貢も廃止されました。
 この施策は山林乱伐を防ぐ森林保護政策の先駆であったのですが,森林資源でくらしを立てていた木曽の領民にとっては厳しい経済統制となっていました。
 旧街道を歩くと,表向きにはのどかでさわやかな場所に思えるのですが,その歴史や昔の人の暮らし向き思うと,いつも辛くなってしまいます。この時代,こうした山の中で生きるというのは大変なことだったでしょう。
 とはいえ,私の子供のころを思い出しても,今の時代とは雲泥の差があったし,このわずか50年くらいで人の生活はすごい勢いで変化してきたのです。

 そのうち,家並みが見えてきました。途中で出会った人たちとおしゃべりをしながら歩いてたら,あっという間に妻籠宿に到着してしまったようでした。
 馬籠宿から妻籠宿まではわずか8キロメートル,しかもほとんどが下り坂ということで,旧東海道の難所といわれるところをすべて歩いた私には拍子抜けするくらいの道行でした。ここは街道歩き初心者には最適な場所なのでしょう。実際,この程度の街道歩きには大げさに思えるような格好で歩いている人がたくさんいました。
 妻籠宿の入口で,妻籠宿から馬籠宿にむかって歩きはじめたようなお年寄りが「この先まだ長いですか?」と聞いてきました。長いも何も,まだ宿場すら出ていないのに,と思いました。あの人は無事馬籠宿に到着することができたのでしょうか?

 妻籠宿は旧中山道42番目の宿場で,中山道と飯田街道の追分に位置する交通の要衝でもありました。
 家数は31軒で,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠31軒,人口は418人という小さな宿場でした。
 1960年代,深刻となった過疎問題の対策として保存事業が基本方針となり,1968年から1970年にかけて明治百年記念事業の一環として寺下地区の26戸が解体修復されたのを機に観光客が増えはじめました。
 さらに,1973年には町並み保存条例である「妻籠宿保存条例」が制定され,また,1976年国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地のひとつに選ばれたことで,現在の姿があります。
 再建されたテーマパークのような馬籠宿とは異なり,妻籠宿は昔のままの姿を残しているので,なかなか風情があります。ただし,馬籠宿とは異なり,駐車場はすべて有料だし,本陣跡や博物館なども有料で結構高価なので,見かけとは異なり商魂たくましく,しっかりお金が必要です。

 宿場の中央付近には何軒かのおそば屋さんがあり,また,甘味処もあったので,私は1件のおそば屋さんに入っておそばと五平餅の昼食をとり, さらに,別のお店でわらび餅もいただきました。
 こうして,今回の馬籠宿から妻籠宿までの旧中山道歩きは3時間ほどで終了しました。
 念願だった馬籠宿と妻籠宿の間がどうなっているかもよくわかったし,気候もよく,なかなか楽しい時間となりました。木曽谷は宿場とJRの駅が谷に沿って続ていて歩きやすいところなので,この先も気候のよい季節に歩いてみたいと思ったことでした。
 よい初夏の1日でした。

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 馬籠宿旧中山道43番目の宿場で,家は69軒,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠18軒で人口は717人でした。 1895年(明治28年)と1915年(大正4年)の火災により古い町並みは石畳と枡形以外はすべて消失していて,現在の姿は復元されたものです。
 宿場自体がかなりの急坂にあるので,登りが大変ですが,ここは昔の宿場というよりもテーマパークのようなところで,いつも観光バスで多くの観光客でにぎわっています。このブログは観光案内ではないので,馬籠宿についてはこのくらいにします。

 馬籠宿から妻籠宿までの街道歩きで実は一番しんどいのが,この馬籠宿の登り坂だったりするのですが,登りきった展望台からは恵那山を美しく見ることができました。
 今はもう,日本ではどこに行っても満足な星空など見ることができないと知ってしまった私ですが,昔は,このあたりまでくれば満天の星空が見られるのではないかとずいぶんと地図で探したことがあります。そのときの候補になったのがこの恵那山でした。結局登ったことはないのですが,恵那山は眺望を楽しむというよりは登山行程を楽しむ山で,標高2,191メートルの美嚢最高峰の山ということです。
 また,旧中山道を描いた浮世絵の「木曽街道六十九次」は「東海道五十三次」とは異なり,渓斎英泉(けいさいえいせん)と歌川広重の合作で,この馬籠宿は渓斎英泉が描いた馬籠峠です。

 恵那山を見ながら旧中山道を歩いていきます。馬籠宿から妻籠宿までの街道歩きもまた,歩く人が多い観光地で,そのためにきちんと整備されています。
 クマが出るみたいで,クマよけ大きな鐘が街道の多くの場所にかけられていて,これをゴ~ンと鳴らすようになっていました。それにしても,こんなにたくさんの人が歩ていてはクマも出てこないでしょうけれど。
 この日も多くの人が歩いていましたが,その外国人が目立ちました。どこから来たのか聞いてみるとフランス人がほとんどでした。馬籠宿も,このあと到着する妻籠宿も,宿場の中を歩いているのは中国人が多いけれど,宿場と宿場を結ぶ街道歩きを楽しんでいるのはヨーロッパ人が多いのです。
 アメリカでもそうですが,海外ではトレイルが完備されているところが多いので,それと同じつもりであるいているのでしょう。私は以前,どうして人が多く気候も蒸し暑い日本なんかに外国からわざわざやってくるのか不思議だったのですが,それは結局,西洋にない摩訶不思議なもの見たさだということがわかってきました。

 そんなこんなで,ときどき自動車道路をまたぎながら整備された旧道を歩ていくと,ほどなく馬籠峠に到着しました。馬籠峠は南木曽町と中津川市の境をなす峠で標高は790メートルです。峠の御頭の碑があり眼前に東濃の平野が広がっていました。左手には恵那山も見えます。
 さて,ここからはずっと下り坂です。

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●走りやすいインターステイツ●
 シアトルからから車でインターステイツ90を東に向かって走り,ワシントン州からアイダホ州へ,そして,アイダホ州からモンタナ州へと900キロ9時間走ると,今回私のめざすグレイシャー国立公園に到着する。
 以前詳しく紹介したが,もうずいぶん前のことになるので,再び書いてみるが,アメリカのインターステイツは東西を走るものが南から順にインターステイツ10,インターステイツ20,……,インターステイツ90となる。また,南北を走るものが西から順にインターステイツ5,インターステイツ15,……,インターステイツ95となる。
 これらの道路は道路標示が統一されていて,きわめて走りやすい。これが日本と違うことである。
 日本ではやたらと道路に色を塗りたくったり,まったく意味のない道路警告やら案内板があったりと,事故を誘発することに努力しているとしか私には思えない。それにもまして,日本はドライバーのマナーが悪すぎる。

 インターステイツは,今日の1番目の写真のように,ジャンクションが近づくと,このジャンクションで降りるとどのようなサービスがあるかという控えめな掲示板がある。これを見て,ガソリンスタンドやレストラン,そしてホテルの存在を知って,降りるかどうかを判断するわけである。そして,いよいよジャンクションが迫ってくると,出口の表示が,これもまた,統一されたデザインで表示されているわけだ。
 インターステイツのどこを走っているかは,マイルマーカーといって州の境を起点としてマイルで表示されているが,その数字がジャンクションの番号になっていて,これもまた日本とは違ってわかりやすい。同じマイルマーカーに複数のジャンクションがある場合だけは数字の後にA,B,Cという符号が振られている。

 そして,ジャンクションを過ぎると,まずあるのが3番目の写真のようなインターステイツ名が書かれた標示板である。先に書いたように,インターステイツ90は東西に走っているわけだから,私が今走っている東向きの場合は,インターステイツ番号の上に「EAST」と表示されていて,どちら向きに走っているのかも容易にわかる。そして,下段にある「221」はマイルマーカーである。
 このように,無駄のない,しかし,必要な情報はすべて簡単に判断できるようになっているから,安全で走りやすいのである。後ろからあおるような車もない。
 インターステイツのほとんどは無料であるから,どのジャンクションでも気楽に降りられる。一般にジャンクションの周りにはガソリンスタンドとそれに付属するコンビニエンスストア,そして店内はトイレがあるから,多くの場合サービスエリアは不要なのだが,町がずっとないところではそうもいかないので,アメリカでも日本のようなサービスエリアが存在することもある。これが今日の4番目の写真だが,多くのサービスエリアにはトイレと,まれに自動販売機があるくらいのものだから,これは単なる休憩所ということになる。

IMG_3108IMG_3106IMG_3110IMG_3118 クリムト展のあとは,第1913回N響定期公演に行きました。この日の指揮者はパーヴォ・ヤルヴィさんのお父さんネーメ・ヤルヴィさんで,曲目はシベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」,トゥビンの交響曲第5番,そして,ブラームスの交響曲第4番でした。もともと交響曲2曲のプログラムだったものを時間が短いということでシベリウスが追加されたようです。
 私の大好きなブラームスですが,なぜかこの日の演奏は管楽器と弦楽器のバランスが悪くて管楽器,とくにホルンがうるさくて今ひとつだと私は思ったのですが,それは実際そうだったのか,私の座席の問題だったのか,私の精神状態のせいだったのか,よくわかりません。
 ということだったので,私がはじめて聴いたトゥビンの交響曲についてだけ書きます。
 
 エドゥアルド・トゥビン(Eduard Tubin)は1900年代の後半に生きたエストニアの作曲家であり指揮者,1944年にエストニアが旧ソビエト連邦に占領されるとスウェーデンに亡命し,亡くなるまでストックホルムで活動を続けました。指揮者としてはフィラデルフィア管弦楽団やイギリス室内管弦楽団とも共演していて,今回の演奏会の指揮者であるネーメ・ヤルヴィさんも同僚で,ネーメ・ヤルヴィさんの指揮したトゥビンの交響曲全集があるということなので,いわば十八番なのでしょう。
 トゥビンは第2番「伝説的」,第4番「叙情的交響曲」(Sinfonia lirica),第9番「単純な交響曲」(Sinfonia semplice)など完成した10曲の交響曲と断片に終わった第11番のほか,出世作のバレエ音楽「クラット(悪鬼)」,「弦楽合奏のための音楽」,ふたつのヴァイオリン協奏曲,バラライカ協奏曲,コントラバス協奏曲,ふたつのオペラなど幅広いジャンルで作品を残したそうです。

 私は事前に聴くこともなく,会場ではじめて今回の交響曲に接しましたが,シベリウスのような素朴性よりも,ショスタコビッチのような戦闘性のほうが強い音楽に思えました。
 帰ってから調べてみると, トゥビンは初期作品においてはエストニアの民俗音楽に影響されていましたが,旧ソビエト連邦によって母国が奪われ亡命生活に入ってからは国民楽派的でなくなり国際的で怒りに満ちた作曲様式に切り替わったということなので,そうした苦しみからの喘ぎのような音楽であるのもうなずけました。
 それにしても,大国旧ソビエト連邦が多くの人々に与えた苦難というのはどうしようもなく救いもありません。そうした苦悩から多くの芸術が生まれたのもまた,歴史の皮肉です。

 シベリウスがフィンランドの誇りであるように,トゥビンはエストニアの誇りであるようです。ただ,エストニアという国自体,パーヴォ・ヤルヴィさんのおかげで日本でもやっとなじみができてきたばかりで,それまではどこにあるかということさえ多くの人が知らない国だったし,トゥビン自身,生涯を通じて創作活動の大半はスウェーデンで行われていたこともあって,これまではほとんど注目されていない作曲家でした。
 今回演奏された3楽章から成る交響曲第5番は1946年の作曲というから,第二次世界大戦終了直後の作品です。当時エストニアは旧ソビエト連邦に併合され国家として滅亡していました。それをスウェーデンという異国の地でどんな思いでみつめていたのかということを,第1楽章のエストニア民謡からとられた旋律が象徴しているのだそうです。やがて,作曲家の心の内を吐露するような怨み節とも涙節ともとれる望郷の想いを奏でる第2楽章に続き,ソ連軍の侵攻を思わせる行進曲風の第3楽章で,ティンパニの大連打がソロとなり最後の輝かしい讃歌が果てのない悲しい絶叫のようにこだまします。
 作曲家の自国への思いと矜持が聴く人の心を打つ悲しい交響曲でした。

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 人としての価値を決めるのはその精神性の深さなのでしょう。しかし,精神性というのは目に見えないものだから,それを表現するための媒体として芸術があるのでしょう。だから,優れた芸術というのは,それに接した人に深い精神性を与えるものなのです。しかし,逆に,優れた芸術に接したとき,そこから何を得,また,影響を受け,どれほど深い喜びを感じることができるかで,受け手の側の精神性が問われることになります。
 そこで,芸術というのは,それを与える側の能力とともに,たとえそれが優れた芸術であっても,それが味わえるかどうかは受け手側がそれにどれだけ深く入り込めるかどうかにもかかってくるわけす。そうしたとき,それを阻害するのが既存の価値観という壁であり,その壁のよって芸術の本質を見失わないことなのです。つまり,たとえ優れた芸術であっても,それを味わうには,その人が精神的に透明であることが必要なのです。
 「世紀末ウィーン」の芸術に接したとき,私が感じたのはそういったことでした。  

 2019年5月17日金曜日,上野の東京都美術館で行われている「クリムト展-ウィーンと日本1900-」を見てきました。私は昨年の秋,はじめてウィーンに行きました。ウィーンでは音楽や絵画など多くのすぐれた芸術に接することができて,ずいぶんと感銘を受けました。今日の写真は1番目以外のものはウィーンで写したものです。
 そのときに味わった芸術の多くが,しばしば日本にもやってきます。昨年はウィーンから帰国してすぐに私がウィーン学友協会で聴いたドイツカンマーフィルがやってきて,ウィーンでの感動を再び味わうことができました。今回はクリムトの絵画の多くがやってくるというので,たいへん楽しみにしていました。
 「世紀末ウィーン」というは,19世紀末に史上まれにみる文化の爛熟を示したオーストリア・ハンガリー帝国の首都であったウィーンで展開された文化の総称です。この時代,ヨーロッパで君臨したオーストリア・ハンガリー帝国が政治上の混乱と凋落に陥りました。人々はそうした政治の俗社会に嫌気がさして文化に関心が向かった結果生まれたのが,この「世紀末ウィーン」の芸術です。
 美術の分野では,古典的伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家によって結成された「ウィーン分離派」が台頭しました。その代表がグスタフ・クリムトです。また,音楽の分野では,ヨハン・シュトラウス2世によるウィンナ・ワルツのような軽い音楽と,ヨハネス・ブラームス,アントン・ブルックナー,グスタフ・マーラーなどに代表される深い音楽があげられます。

 私は絵画にはこれまであまり接する機会がなかったので,「ウィーン世紀末」の美術といってもいまひとつしっかりと把握できなかったのですが,なじみのある音楽の面から考えてみると,それがどういうものかということがとてもよく理解できます。それらは,従来の価値観を越えたところに生まれ,それをはるかに超越したり,あるいは,無駄な格式やら形式を除去して本音で人の精神により深く入り込むことに価値があるものです。そして,その根底にあるのは最も大切な人間の精神的な自由なのです。
 そうしたことを考えると,官能的なテーマを数多く描いたといわれるクリムトの作品は,表面的には甘美で妖艶なエロスを発散していても,その根底には常に死の影があり,さらに社会の側面がそぎ落とされているものだということがわかります。
 クリムトの家には多いときには15人もの女性が寝泊りしたこともあったといいます。現在,ウィーンにそのときの家が再現されていて,私は訪れる機会がありました。女性たちは裸婦のモデルをつとめ,中には妊娠した女性もいたようです。クリムトは生涯結婚をしなかったものの多くのモデルと愛人関係にあり,非嫡出子の存在も多数判明しています。これがクリムトの生み出した自由な精神性からの芸術をもたらしました。さらにまた,「黄金の時代」と呼ばれる時期の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸し出すもととなっています。

 こうした「世紀末ウィーン」の芸術が生まれたころの日本は,幕末の混乱が終わり一時の文化的な成熟を迎えたころですが,その反面,昔からの芸術が破壊され,否定されたころでもありました。こうした日本の失われかけた文化をヨーロッパでは評価しその影響を強く受けていることは非常に興味深いものです。そうした「ジャポニズム」とよばれる日本の文化が国内よりもヨーロッパで価値が認められたのは,この時期の日本が,それまで培ってきた文化をリスペクトする余裕が精神的にも物質的にもなかったことに起因するのでしょう。
 おそらくそれは今も同じです。世界にもまれな長い歴史をもつ日本という国なのに,美しい自然の破壊と同様,いつの場合も金儲けと合理性ばかりを追求する反面,意味のない形式や権威ばかりにこだわり,これまで培ってきた文化や芸術の本質を本当に理解し大切にしてこなかったからでしょう。おそらくは。

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 私は,木曽路といわれる中津川からの木曽谷は東京大学の木曽観測所があることから,星の美しいところというイメージがあって,若いころから,さまざまな場所の地名だけは知っていたのですが,あまり行ったことがありませんでした。このごろ,京都などの観光地が外国人だらけになってしまっていく気もなくなり,どこかどのかなところがないかなあと思うようになって,木曽福島へ行く機会がふえてきました。するとその往復で,そうしたさまざまな地名を思い出して,これまで訪れたことのない場所をひとつずつ訪ねてみようと思うようになりました。家からは近いし,車でも,また,JRでも行くことができるので,この先末永く楽しめそうです。
 そこでまず考えたのが,旧中山道の馬籠宿から妻籠宿までを歩くことでした。旧中山道の馬籠宿は観光地として整備されていて,何度か訪れたことがあります。また,その次の宿場である妻籠宿も,馬籠宿とならんで観光地として多くの人が訪れる宿場で,私も数回行ったことがあります。どちらかといえば,妻籠宿のほうが素朴で,私は好きです。しかし,馬籠宿から妻籠宿までを歩いたことはありませんでした。

 2019年5月10日金曜日の午後から11日土曜日にかけて,木曽福島に行きました。
 10日,木曽福島から木曽駒高原に登っていくと,桜が満開でした。今年は例年になく,ほとんど雪がかなったとのことですが,それでもその後に冷えて,桜の開花は遅くなったそうです。また,ミツバツヅジやハナモモも満開で,幻想的でした。
 天気予報では11日は雨ということだったのですが,直前になって予報が晴れに変わったので,11日の午前中に馬籠宿から妻籠宿までを歩くという計画を実行に移すことにしました。
 いつものこと,ほとんど予習をしない私は,北に行くにしたがって日本アルプスに近くなるので,なんとなく,妻籠宿から馬籠宿に向かって歩くほうが下り坂のような気がしていました。10日木曽福島に行く途中に,下見として妻籠宿から馬籠宿まで旧中山道に沿った自動車道路を走ってみました。そして,驚くことにこりゃ反対だと実感しました。馬籠宿から少し北に馬籠峠があります。そこで馬籠宿から歩くと峠までの少しの間だけが登り坂であとはずっと下り坂だったのですが,反対に妻籠宿から歩くとなると,馬籠峠まで遠くその間がずっと登り坂になるのです。今回は馬籠宿から歩くにしても妻籠宿から歩くにしても,どちらかの宿場に車を停めて復路はバスにすることにきめていたのですが,おまけに,馬籠宿には無料の駐車場があるれど妻籠宿の駐車場はすべて有料でした。そんなことはだれでも知っていることだと後で知りました。
 ということで,11日,私は,馬籠宿の無料駐車場に車を停めて,妻籠宿まで歩くことになりました。週末なので観光客で混んでいるかな,と少し心配しましたが,さすが10連休のあと,馬籠宿もそれほどの観光客はおらず,これならいい街道歩きなるなと期待が膨らみました。

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●ダウンタウンを抜けるまで●
 海外旅行に出かける人もいろいろだが,私のように単独行動で気ままに旅をしている人に出会うことはあまりない。
 セキュリティで並んでいると,私の後ろに数人のおば様方がいた。漏れ聞こえてくるには,今回はアメリカのポートランドへ遊びに行くとか。彼女たちはツアーでなくしょっちゅうパリやらロンドンやらに行っている様子であった。ツアーでそういう旅行をしている人たちはけっこういるが,こんな人たちはまれである。まあ,人それぞれだが,しかし,ヨーロッパならともかくも車に乗るでもなくアメリカに行って何をするのだろうと思った。
 私がうらやましいと思うのは,自由に世界のどこへでも旅行できる能力を持っている人だ。私にはそれだけの能力はない。

 搭乗案内までの1時間を,今回もデルタスカイクラブのラウンジで過ごし,やがて搭乗した。
 シアトルまでは実質約8時間のフライトである。アメリカの入国はキオスクという自動の入国装置がずらりと並んでいるので,アメリカにはじめて入国するなどの特別な場合を除いてその装置で手続きをすればあとはパスポートを提示してスタンプを押してもらうだけである。
 その後,シアトルの空港では税関を通るために預けたカバンを受け取って,税関を通った後でふたたび預けるというシステムになっている。これは別に預けずに自分で運んでもいいのだが,空港が広いから出口近くにあるバゲッジクレイムまで運んでくれるという親切なシステムである。
 空港の出口近くに設けられたバゲッジクレイムで再びカバンを受け取って空港を出て,いつものように空港に隣接したレンタカー会社の併設された駐車場までシャトルバスに乗る。事前に予約をしておくとレンタカー会社のカウンタを通らずとも車が用意されているのでそれに乗り換えれば,もう,アメリカは自分のものである。

 車に乗りこんで,シアトルのタコマ国際空港からすぐにインターステイツに入る。道路標示に従ってインターステイツ90にたどりつけば,その後は私のめざすグレイシャー国立公園へ向かって東に東に走っていくだけなのだが,シアトルのダウンタウンはインターステイツが慢性的に渋滞しているから,ダウンタウンを出るまでが一苦労なのである。
 同じアメリカの西海岸でも,ロサンゼルスはダウンタウンが広く,どこまで行ってもずっと都会が続き,その間ずっと渋滞も続くのだが,シアトルは太平洋岸に沿って街が南北に続いていて,東の大陸側には山が迫っているから,インターステイツ90に乗って東に向かえば,すぐにアメリカらしい果てしなく広い大地となるから,それまでわずかの辛抱である。

 インターステイツを走っていると,整備不要でパンクをしたのにそのまま走ろうとしてホイールが道路と摩擦をして火花を出している車があった。こんな日本では目にすることもないメチャメチャな風景を目撃すると,到着早々,気合がそがれ不安になってくるが,なんとか郊外に出てひとまずほっとした。すると次第に行き交う車も少なくなって,そのうちあたりには家もなくなり,道路だけがずっと続いたのち,何キロメートルかのジャンクションごとに小さな町が現れるようになると,あとは楽しいアメリカ大地のドライブである。
 私はとりあえず,このあたりで一度インターステイツを降りて,どこかのマクドナルドに車を停めて,小休止かつ昼食をとることにした。

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 今はまったく見なくなったNHKの大河ドラマですが,かつては夢中だった私がこの大河ドラマで最も傑作だと思っている「花神」には,「適塾」で学ぶ村田蔵六,のちの大村益次郎が出てきます。
 あくまでドラマなので事実がどうなのかは知りませんが,このドラマで描かれた「適塾」でのストイックなまでの大村益次郎の姿に,若かった私はえらく衝撃を受けました。
 今の学校教育のような「エセ」ブランドの学歴を手に入れるためだけのドリル学習とは違い,そこには人が学問をするということの本質がある気がしました。
 「適塾」は大阪駅からほど近い場所にあって,現在も建物が保存公開されています。私も以前訪れたことがあって,今回再び行ってみたのですが,地震の被害にあって修復中ということで,残念ながら中には入ることはできませんでした。
 大阪といえば,難波のあたりはとんでもない人混みであり,また,多くの観光客がめざすのはUSJですが,私はそうした観光地には興味がなく,この静かな一角のほうに惹かれます。このあたりを歩いているとずっと心が和み,幸せな気分に浸ることができます。

 江戸時代の末期,緒方洪庵の開いた大坂大学の前身である「適塾」は,正式には緒方洪庵の号から適々斎塾,また,適々塾とも称されました。
 緒方洪庵は1810年(文化7年)に生まれ1863年(文久3年)に52歳で亡くなった江戸時代後期の武士であり医師であり蘭学者です。 
 人柄は温厚で,およそ人を怒ったことがなかったといいます。「適塾」の塾生だった福澤諭吉は「先生の平生,温厚篤実,客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず,誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評しています。
 やはりここでも,真に偉大な人物というのは,私がこれまでに出会って迷惑をこうむった輩のような偉そうに威張っていたり高圧的であったりパワハラまがいの小者ではないのです。
 開塾25年の間に3,000人と伝えられている門下生が学び,その中でも,福澤諭吉,大鳥圭介,橋本左内,大村益次郎,長与専斎,佐野常民,高松凌雲など幕末日本のエリートを多く輩出しました。
 勉強法は蔵書の解読で,塾に1冊しかない「ヅーフ・ハルマ」の写本が置かれていた「ヅーフ部屋」には時を空けずに塾生が押しかけ,夜中に灯が消えたことがなかったといいます。
 「ズーフ・ハルマ」(Doeff-Halma Dictionary)というのは江戸時代後期に編纂された蘭和辞典です。これは「フランソワ・ハルマ」(François Halma)という蘭仏辞書をベースに作成されたもので,約50,000語を収録していました。複製は写本で行われたために出版数は33部前後と少なく,ページ数が3,000を越えたこともあって大変貴重なものでした。
 塾生は,立身出世を求めたり勉強しながら始終わが身の行く末を案じるのではなく,純粋に学問修行に努め,物事のすべてに通じる理解力と判断力をもつことを養いました。

 大村益次郎は1824年(文政7年)に生まれ,1869年(明治2年)暗殺によって非業の死を遂げた長州藩の医師であり西洋学者であり兵学者でした。維新十傑のひとりで,長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し勝利の立役者となりました。また,日本陸軍の創始者でもあります。
 防府でシーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学んだのち,1864年(弘化3年)から「適塾」で学び塾頭まで進みました。
 緒方洪庵の孫である緒方銈次郎は父親や祖母の緒方八重から聞いた話として,大村益次郎の「適塾」時代は,
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 伝えるところによれば,村田(大村益次郎)は精根を尽くして学び,孜々として時に夜を徹して書を読むことを怠らずとあるほど猛勉強をし,暇さえあれば解剖の本を読み,しばしば動物の解剖を行うなど研究熱心であった。塾頭としても綿密に考えて講義をし,遊びをしない品行方正な人格であった。
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としているそうです。
 また,大村益次郎は豆腐好きで,ドラマ「花神」の原作であった司馬遼太郎の「花神」には,
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 蔵六は緒方家の物干し台にのぼり,豆腐の皿を膝もとにひきつけておいて酒をのんだ。星空の下でひとり豆腐を食い,酒をのんでいる。師匠である緒方洪庵の蔵六評は「ひとりで酒盛りをしている男」である。
 江戸の長州藩邸に起居する時代になると彼の豆腐好きはいよいよ昂じていて,「毎夕三丁なければ酒が終わらない」と豆腐への傾倒はますます激しくなる。
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と書かれています。
 実際,生活は質素で,芸者遊びや料亭も行かず酒を好む以外は楽しみはなかったということです。兵部大輔の高位になった後も「先生は非常に気力旺盛な方で豪傑でありました。強記博聞おのれを持することが極めて質素でありました」と曾我祐準が証言するほどであったといいます。
 改元とかでかまびすしい今,こうした人たちの力で今の日本があることをもっと知るべきなのかもしれません。

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 東京や京都はよく出かけるので,その町の様子は住んでいるようにとてもよくわかります。しかし,大阪となるとほとんど行ったことがないので,いまひとつよくわかりませんでした。
 これまで大阪に行く機会はあっても,用事が済むとすぐに帰ってしまったので,町を散策する機会もあまりありませんでした。そこで,地名は知っていてもどこがどういうところなのかどんな場所にあるかという位置関係すらよくわかっていませんでした。
 そんな,私にとってなぞに包まれていた大阪はなじみがないことが幸いして,大阪に来ると海外旅行をしているような,そんな楽しみを感じます。 
 今回,エストニア祝祭管弦楽団のコンサートで大阪に来る機会があったので,そのまま1泊してその翌日も加えた2日間,大阪市内を歩いてみることにしました。街を知るには歩くに限るのです。
 着いた日の夕方からのコンサートその前に少し時間があったので,梅田から福島あたりを散策しました。その晩私が泊まったのは東横インの通天閣前だったので,翌日は早朝にホテルをチェックアウトして,北に向かって十三まで歩きました。難波から十三まで距離にしたらわずか10キロメートルもありませんでしたが,なかなか楽しい道歩きになりました。
 このブログは町案内をするのが目的ではなく,自分の思いを残すことが目的なので,ここでは私自身の大阪に抱くイメージごとに,歩きながら思ったことを書いていくことにします。

 まず今日は,私にとっての大阪はまず坂田三吉ということで,将棋に関することにしましょう。
 この頃は藤井聡太七段ですっかり有名になった日本将棋連盟の関西本部ですが,このビルがあるのは大阪駅のひとつ西のJR福島駅の北側です。大阪駅からはJRに乗らなくてもほとんど人が通らない地下道をずっと西に歩いていくと福島駅までたどり着くことができました。
 ずっと以前,この建物ができたころに興味があって来たことがあります。その当時は確か地下1階だったかに将棋博物館もありました。アメリカなら将棋殿堂のような,過去の大棋士の殿堂が作られるのだろうと思いますが,やっかみの強い日本人にはそうした過去の偉人そのものを称える文化はありません。あるのは第〇〇世〇〇とか第〇〇代〇〇のように功績のあった人に称号をつけることです。それはその人を称えるというよりその名跡に権威をつけることが目的です。
 野球だけはアメリカのように野球殿堂というものがありますが,それはアメリカのマネしているだけで,日本の文化ではありません。
 それにしても,今でこそ将棋ブームですが,一昔前に,東京と大阪によくもこんな将棋会館というビルを建てることができたものだとその大変さがわかるこの歳になると感心します。これは大山康晴十五世名人の功績です。
 このビルの1階にイレブンというレストランがあるのですが,なぜか私が行くときに限ってこのレストランが開いていたことがなく,残念ながらまだ中に入ったことはありません。

 今でこそ教育のひとつの素材となって地位の向上した将棋ですが,私の子供ころは博打打ちと変わらぬ認識しかなく,むしろ興味をもつ子供は厄介者でした。人の価値観やら常識などというものは,このように時代とともに変わっていくもので,今の常識もまた疑ってかかったほうがいいのです。
 大阪の通天閣あたりにある将棋道場は,今なお,そうした頃のある意味ヤバい面影をとどめていますが,こういう場所だからこそ,村田英雄の歌った「王将」で有名な「銀がないている」という言葉を吐いた坂田三吉名人王将ゆかりの地として味わいの深いところであるわけです。
 私が子供の頃の将棋道場なんて,昼間っから仕事もしないおっちゃんがタバコをくゆらせながら1日中かけ将棋をやっているようなところでした。

 今回,私が福島駅のあたりを歩きまわったのは,ちょうど朝日新聞の土曜be版に取り上げられていた,若くして世を去った天才棋士村山聖九段の面影をさがすことが目的でした。
 村山聖九段は1969年(昭和44年)に生まれ1998年(平成10年)にわずか29歳で亡くなった棋士です。幼少の頃から腎臓の難病であるネフローゼを患いながらも異例の早さでプロ入りを果たした,いわゆる「羽生世代」の強豪のひとりでした。
 薄れていく意識の中で棋譜をそらんじ「……2七銀」が最後の言葉であったといいます。後年,映画「聖の青春」が上映されたことで有名になりました。
 この村山聖が苦悩の青春をすごしたのがこの福島町界隈で,住んでいたアパートの部屋が今も空き部屋として残っていて,彼をしのんで訪れる人が今もいるといいます。私は外から見ただけですが,部屋の窓には映画「聖の青春」のチラシが無造作に張られていました。

 人の一生なんて,どんな偉業を何を成し遂げようが,所詮,成し遂げたあとでは。それがどんな偉大なことであっても自分がしたという認識よりも小説を読んだのと同じような他人事に風化してしまいます。人は現在だけを認識し,未来を思い生きているのです。
 何かを成し遂げた人はそれだけなのに,何かを成し遂げたいとう願望がありながらそれがかなわなかったときの後悔のほうはずっと心に刻み込まれるのです。それが人の「業」(ごう)というものでしょう。だから,何かを成し遂げたいという願望があったとしても凡人はそれを成し遂げる才能すら授かっていないのだから,もともとそんな願望などもっていない人のほうがよほど幸せな人生が送れるのかもしれません。
 そのように,多くの人はその願望を成し遂げる才能すら授かっていないわけですが,村山聖は成し遂げられる才能を授かっていながら病気によってそれがかなわないうちに急逝してしまった,そのことが悲劇なのです。この町を歩いていて,私はそうした人の悲しさと辛さ,そして生きることの尊さを感じました。

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●日本人の考えることといえば●
 今回もまた,成田空港まどどうやって行くかが一番の問題だった。もう書き飽きたが,名古屋からは直行便のあるフィンランドのヘルシンキとハワイのホノルルは便利だが,名古屋からはデトロイト便しかないアメリカ本土と香港経由しかないオーストラリアは,それ以外の場所に直行便で行くにはまず成田空港まで行かなくてはならないから面倒なのである。それでも,成田空港までセントレア・中部国際空港や県立名古屋空港から数千円で行けるような便利な便がたくさんあるのなら何の問題もない。しかし,早朝と午後の2便のみがかろうじて格安で,それ以外の便だと何万円もする。また,格安の便の時間に利用しても,到着後に成田空港で何時間も待たなければならない。こんなバカげた話はない。
 そんなわけで今回苦労するのだが,このときは成田の出発が午後4時過ぎのシアトル便だったので,東京までは新幹線の「ぷらっとこだま」を利用することにして,朝8時頃に名古屋駅から新幹線に乗った。荷物は事前に成田まで送ってしまうほうが便利なので,今回もそうして,小さなバックパックひとつ持ってサンダルばきであった。なお,東京駅から成田空港まではJRの成田エクスプレスは遅れてばかりであてにならないので,八重洲口からは所要1時間で運賃1,000円のバスに乗るのが便利である。

 こうして成田空港に着いて早速フライトのチェックインをした。
 成田空港には3つのターミナルがある。個人で旅行するとき,どのターミナルから目的のフライトが出発するのかが一番知りたい情報なのに,そうした情報がわかりやすく表示されていないのがこの国の「おもてなし」である。アメリカの空港は巨大で,多くのターミナルがあるが,どのターミナルにどの航空会社が発着するかというのが明確でわかりやすい。ホテルと空港間の送迎バスに乗ると,まず,どの航空会社に乗るのかとドライバに聞かれる。また,ターミナル間は無料のモノレールとか地下鉄が走っている。それに比べて,日本では,ターミナル間の移動はバスであり,しかも,バス停がそれぞれのターミナルの一番わかりにくいところにあり,また,道路もターミナル移動専用でなく,途中で信号待ちをしたりする。まったくもってバカげた話である。
 例外はあるが,おおよそ成田空港のターミナルはアライアンスごとに次のように分けられているらしいのだが,そんなものは会社側の論理であって,はじめてこの空港を利用する人にはわからない。そもそもアライアンスというものすら知らない人のほうが多い。

 第1ターミナルの南ウィングはスターアライアンス,第1ターミナルの北ウィングはスカイチーム,第2ターミナルはワンワールド,そして,第3ターミナルは格安航空である。
 そこで,スターアライアンスのANAでセントレアから成田に来て,成田からワンワールドのカンタス航空に乗り換えるような場合,一旦ターミナルを出てターミナル間を移動しなけらばならない。しかし,国内線を降りたコンコースには「国際線乗り換え」という標示があって,それは同じアライアンスの乗り換えに限られる標示だからそれに従って移動すると失敗するのである。また,第1ターミナルの南ウィングと北ウィングは入口が違うだけでなかで移動ができるのだが,それがまた,土産物屋が邪魔をしていて標示がみつからずわかりにくいのである。
 さらに,第2ターミナルは,セキュリティを越えて搭乗ゲートに向かうコンコースが広く,吉野家もあったりするが,第1ターミナルは手狭で,くつろげる場所が少ない。古いのである。
 また,第1ターミナルが手狭になったので第2ターミナルを作り,そして,同様に第3ターミナルを作ったのだろうが,アメリカだとこうしたとき,すべてのターミナルに統一性が保たれて利用者の利便性を第一にすべてのターミナルをリニューアルするが,日本では温泉街の古宿のように,デザインやコンセプト,そして利便性の異なるものを建て増し,作りに脈略がなく統一性がとれていないものだから,不便でかつ見栄えが悪いのである。

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 このブログでは,実際に旅行をしているときには「LIVE」として現地の様子をほぼ同時進行で書き,帰国してから,アメリカ国内の旅行については,改めて「旅行記」として細かく書いている。しかし,2016年夏グレイシャー国立公園へ行った旅行のことはこれまで「旅行記」を書く機会を逸してしまった。そこで,今回,少し前のことになるが改めて振り返ってみることにした。

●900キロメートルの道のりを走ることに●
☆1日目 2016年6月24日(金)
 「地球の歩き方」の「アメリカの国立公園」編にはアメリカのすべての国立公園が掲載されているわけではないが,おおよその有名な国立公園は載っている。改めて読んでみると,私はこれまで特に意識したわけではないが,アメリカを旅するうちに,そのほとんどに行くことができたようだ。しかし,2016年当時,ずっと気になっていて,しかし,なかなか行く機会のなかった国立公園がひとつあった。それがグレイシャー国立公園(Glacier National Park)である。
 今から思うと,2016年という年は,私は旅行をするどこもが想い入れに満ちていた。そうした場所を実際に旅行して,とてもよい思い出がたくさんできた。そうした年であった。それは,今よりずっと行きたかった場所が多かったことがその理由である。そして,いまよりもずっと知らないことが多く,だから戸惑いつつも試行錯誤で旅行をするうちに,思ってもいないほど幸運に恵まれて,いろんな経験ができた年であった。わずか3年前とはいえ懐かしい気がする。
 まず,3月に生まれてはじめてハワイに行った。はじめて行ったハワイでは,これまで写真で見ただけだったその風景を実際に見て感激した。そして,6月にこれから書くことになるグレイシャー国立公園に行った。さらに,8月にはアメリカ本土をフロリダからフィラデルフィアまでドライブして,50州制覇を成し遂げた。最後に,10月にこれもまた生まれてはじめてニュージーランドに行って,念願だった南半球の星空を見ることができた。

 この旅をする1年前の2015年,私はワシントン州にある主だった国立公園に行くことができたのだが,このときの旅もまた,まだ,書く機会を逸しているから,今回はそれも含めて,国立公園のことを中心に書いていきたいと思う。
 話は前後するが,その2015年の旅のときにグレイシャー国立公園にも行ってみようと思っていた。しかし,グレイシャー国立公園は遠く,そこまで行く余裕がなかった。地図を見るとわかると思うが,ここは「わざわざ」行かねば行くことができない場所なのである。それは,以前私がそれまで行きたくてもやはり「わざわざ」行かねば行くことができなかったコロラド州のデンバーに似ている。そのどちらも,どこかに行くついでに行くことができるという場所にはないからである。
 そこで,2016年,「わざわざ」グレイシャー国立公園に行こうときめたとき,地図を見ながら,どうやって行こうかとずいぶん考えた。シアトルからドライブするにはかなり遠い。距離にして550マイル,約900キロメートルもある。この距離は,休憩なしに走ると9時間というところである。このときからわずか3年しか経っていないが,私は今や300キロメートルという距離を走ることすら遠いと思うようになった。そう考えると,ずいぶんと歳をとってしまったものだとショックを受ける。
 それはともかく,このときだってやはり,この長い距離を走るのをかなり躊躇した。そこで,車で行くのはあきらめて,シアトルで国内線に乗り換えて国立公園の最寄りの空港まで行こうと,ずいぶんとフライトを調べたのだが,なかなかうまくいかなかった。そこで結局,車で走る方が便利だと悟って,シアトルで車を借りることにしたのだった。

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☆☆☆☆☆☆
  1915年に発表されたアルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)の一般相対性理論で数学的にその存在が予言されていたブラックホールは,アインシュタイン自身はその存在を疑問視していたのですが,その後,存在を示す証拠が数々発見されて,存在が確実視されるようになったものの,ブラックホールの「穴」そのものはこれまで捉えられていませんでした。
 一般相対性理論というのは重力について述べた理論です。質量があるとその空間がゆがめられる,これを重力とするというものです。
 1916年,カール・シュバルツシュルト(Karl Schwarzschild)はこの理論から同じ質量のまま重力源である星を縮めていくと空間のゆがみが無限に大きくなると導きました。これがブラックホールです。しかし,理論から導かれたといってもそんなものが本当にあるのか? と思われました。
 ブラックホールの近傍は強い重力によって空間がゆがめられていて光を通すことができない領域になります。これが「事象の地平線」といわれるもので,「事象の地平線」の内側は黒くなります。ブラックホールの「穴」というのは,この「事象の地平線=シュバルツシルト半径」(Schwarzschild radius)の黒い円のことです。
 この「穴」を捉えようと2017年4月にはじまったビッグプロジェクトイベント「イベントホライズン(=事象の地平面)テレスコープ」(Event Horizon Telescope= EHT)で,ついに「穴」を捉えることに成功しました。

 ブラックホールにはふたつの種類があります。そのひとつは太陽より20倍以上の質量のある星の終焉でできる小さなブラックホールです。
 1929年にスブラマニアン・チャンドラセカール(Subrahmanyan Chandrasekhar)が考えたのは,太陽ほどの大きさの星の死では星は圧縮して白色矮星の大きさまで縮んでそこで安定するのだけれど,太陽より大きな質量を持つ星であればさらに星が圧縮して密度を高めることができて無限に縮むからやがてはブラックホールができるということでしたが,サー・アーサー・スタンレー・エディントン(Sir Arthur Stanley Eddington)は無限に小さくなることなどありえないとそれを否定しました。
 やがて,原子物理学の発展で中性子が発見され,実際,1932年に中性子星がみつかりました。それをもとに,ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer)が太陽より3倍以上の質量がある星は無限に縮むことを導き,チャンドラセカールのアイデアが正しいことを実証してブラックホールの存在が理論として確定されました。現在は太陽の20倍ほど以上の星が終焉を迎えるとブラックホールになるといわれているようです。
 やがて,1963年に宇宙からX線をとらえる研究がはじまり,白鳥座からX線源がみつかりました。小田稔はすだれコリメーターという装置を作ってX線源がはくちょう座の1点から出ていることを特定,1970年にアメリカが「ウフル」(Uhuru)というX線観測衛星を打ち上げて,X線の出ている場所が特定されました。X線の出ている場所の近くにあった太陽の30倍の質量の星が明るさ5.6日で変化していることからこの星がX線源の周りをまわっていることがわかり,計算によって,X線源は太陽の10倍の質量のあるブラックホールだということになって,はじめてブラックホールの存在が確認されました。これが「はくちょう座X1」です。それ以降,同様なブラックホールが十数個見つかりました。ただし,この星の終焉で作られる小さなブラックホールは文字どおり小さすぎて,直接その「穴」を捉えることはできません。

 1970年代,ドナルド・リンデンベル(Donald Lynden-Bell)は,28,000光年先の天の川銀河の中心にある「バルジ」(bulge)という星の集中した場所に,これほど星が集中するためには何か重力源があるはずだという考えから,あらゆる銀河の中心には超巨大ブラックホールがあると考えました。これがもうひとつのブラックホール,つまり,巨大ブラックホール(Super Massive Black Hole=SMBH)です。しかし,このアイデアが出された当時は,銀河の中心は多くの星に埋没して観察しずらく,その正体を確かめることができませんでした。
 1990年代,高性能の望遠鏡が作られるようになると,リンデンベルが考えた天の川銀河中心にあるといわれるブラックホールの観測がはじまりました。1995年,ハワイ島マウナケア山(2番目と3番目の写真)にあるケック天文台 (Keck Observatory) の10m光学近赤外線望遠鏡(1番目と4番目の写真)で天の川銀河の中心を観測し,銀河の中心を通る瞬間に地球の公転の200倍の速さで加速し公転する太陽の10倍以上の質量をもつS2という星が見つかりました。このことは銀河の中心にこの星を振りまわす巨大なブラックホールが存在しているという証拠になりました。この巨大ブラックホールは,小さなブラックホールであるはくちょう座X1の直径60キロに比べて400,000倍の24,000,000キロであることが導かれました。
 その後,ハッブル望遠鏡で,NGC7052という3,700万光年先にある銀河の中心に天の川銀河の70倍の直径をもつブラックホールが,そして,53,490,000光年先の M87 銀河に天の川銀河の25,000倍の直径のブラックホールがあるだろうと,そのまわりの様子から想定されました。そしてついに今回,マウナケア山にあるサブミリ波観測に用いられる望遠鏡としては世界最大の口径を誇るジェームズ・クラーク・マクスウェル望遠鏡(James Clerk Maxwell Telescope=JCMT,5番目の写真)をはじめとする世界6か所8台の電波望遠鏡を結んだ超長基線電波干渉法(VLBI)で M87 の中心にある巨大ブラックホールの「穴」(正確には「ブラックホールの大きさ=シュバルツシルト半径」の約2.5倍の距離を回る光)が捉えられたわけです。

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 常々「旅はこころでするもの」と書いていますが,それは,混雑する観光地でなくとも,出かけた場所に由来する歴史だとか文学だとか,そういうものを知っていると,その場所がとてもいとおしく輝いて感じられるということです。
 同じように,クラシック音楽を聴いていても,その作曲家の人となりや作られた場所などを知ると,より一層その曲のすばらしさがわかります。私は昨年ウィーンに行ってから,ベートーヴェンやモーツアルト,ハイドンなどが作曲した音楽がよりすばらしく聴くことができるようになりました。
 そうしたことが,日々の生活を精神的に豊かにし楽しくするのにつながります。
 それと同じことを,今話題となっているさまざまな物理現象の発見に接したときにも感じます。
 「観る将」という言葉があるように,あまり棋力が高くなくても,プロが指した将棋を鑑賞するときにいろんな知識があると,むずかしい将棋も共感し味わえるのと同じように,ちょっとした好奇心と知りたいという知識さえあれば,物理学者でなくともそうした学問のときめきを感じることができるのです。

 アインシュタインの業績のうちで最も有名なものが1915年に完成された一般相対性理論ですが,この理論から予測された現象が「重力波」で,これを確認することがアインシュタイン最後の宿題といわれました。
 一般相対性理論から導き出される結論は,ブラックホールの存在や,宇宙が「ビッグバン」によってはじまったことなどですが,その究極が重力波の存在でした。
 ある事実に対してこれを説明するための理論が生まれます。するとその理論から事実以上のものが算出されて,その現象が実際に起きたとき,その理論は正しいという裏付けになります。物理学の発展はその繰り返しです。
 そこで,重力波の発見が一般相対性理論が正しいという裏づけとなるのです。2015年,マサチューセッツ工科大学などからなる国際研究チームが,約130億年前に太陽の30倍ほどの質量をもつふたつのブラックホールが衝突合体した際に放出された重力波を発見したことから,重力波はブラックホールの衝突で起きたものだと説明されたのです。
 しかし,そもそも,ブラックホール自体,これまで間接的な観測からその存在は確実視されてはいたものの,それを実際にとらえらたことがありませんでした。そこで,その実際の姿,いわゆるブラックホールの影,つまり「穴」を捉えることもまた,天文学者の宿題であり,願望だったです。これこそがアインシュタインの予言への挑戦だったのです。そして今回,そのブラックホールの「穴」の姿が捉えられたというニュースが駆け巡りました。
 私は学者でないので難しいことは説明できませんが,それがどういうことかというのはわかりますし,それがどんなに困難なことだったかということも理解できます。そしてまた,そうしたニュースに接すると,これまで私が写してきたこうした天体のささやかな写真にもいとおしさを感じて,うれしくなります。

 今回撮影されたのは M87 銀河の中心にあるブラックホールの「穴」です。私が小さな望遠鏡で写した M87 が今日の1番目の写真です。
 M87 はおとめ座にある楕円銀河ですが,地球からは遠くおとめ座銀河団という銀河がたくさんある場所なので,写真をとっても埋没してしまってしっかり確認しないと見わけもつきにくい銀河です。しかし,実際は巨大なもので中心からジェットが吹き出しているユニークなものなのです。一方「おとめ座A」(Virgo A) と呼ばれる強い電波源が見つかったのですが,その電波源が M87 の中心(活動銀河核)から出ていることがわかったことから,M87 の中心には太陽質量の65億倍もの質量を持つ超大質量ブラックホール(Super Massive Black Hole= SMBH) が存在するといわれていました。それが今回捉えられたというわけです。
 余談ですが,ウルトラマンのふるさとは M87 銀河ではなく M78 星雲です。しかし,原案では M87 だったものが誤植されて M78 になったのです。M78 は反射星雲で星ではなく住めません。ブラックホールのある M87 銀河こそウルトラマンのふるさとにふさわしいものです。また,以前はアンドロメダ銀河をアンドロメダ星雲とよんでいたように,銀河も星雲といっていましたし,反射星雲も散光星雲といっていました。

 超大質量ブラックホールといえども小さいものなので,現在の技術で人類が電波で観測可能なのは,この M87 とわが天の川銀河の中心にある電波源「いて座Aスター」(Sgr A*),それに続くのが M104 と「ケンタウルス座A」(Cen A)だけだそうです。
 今日の2番目の写真は,天の川銀河にある「いて座Aスター」の位置を示したものです。「いて座Aスター」は天の川銀河の中心にある明るくコンパクトな天文電波源で,電波源「いて座A」の一部です。「いて座Aスター」の周囲を公転している恒星S2の観測によってここには超大質量ブラックホールが存在するという結論になっています。
 今日の3番目の写真は,ソンブレロを横から見た姿に似ていることから「ソンブレロ銀河」とよばれる M104 です。M104 の中心部にも太陽の10億倍という巨大質量を持つブラックホールがあることが知られていますが,このブラックホールは,重力で物を吸い込むと同時に光速に近いガスジェットを数千~数万光年にもわたって噴出する「肉食系」とよばれるブラックホールと違って活動が弱い「草食系」ブラックホールです。
 また,今日の4番目の写真が電波源「ケンタウルス座A」です。「ケンタウルス座A」は NGC5128 と名づけられている古いふたつの銀河が起こした激しい衝突の産物として強烈な電波を放っているもので,このことから,中心核には超大質量ブラックホールが潜んでいるといわれています。

  ・・・・・・
 それはそうと,家にある雑誌を調べていたら,1986年の10月に発行された「星の手帖」という季刊天文誌の特集が「天文学最前線とVLBI」というものだったのでびっくりしました。今,ブラックホールで脚光を浴びる,複数の違う場所にある小さな電波望遠鏡を信号的につなげて大きな電波望遠鏡とするという「超長基線電波干渉法」(Very Long Baseline Interferometry =VLBI)という技術は,もうすでに今から30年以上も前から取り組まれていたのです。私はこの雑誌が発行されたときにVLBIという言葉を知りましたが,その時も今もさっぱり理解できません。また,今回のブラックホールの解析には観測できなかったところを観測でしたところの情報で推測して補うという新しい技法「スパースモデリング」(Sparse modeling)も使われています。
 このように,学問は日々発展しているのに,どうやら私はこの30年間,まったく成長していないようです。

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 合羽看板の先をさらに数分旧東海道を歩いていくと,右に道路があって,その先の国道8号線の向こう側に近江鉄道「鳥居本駅舎」が見えたので行ってみました。
 近江鉄道は滋賀県で最古の私鉄です。1889年(明治22年)に東海道本線が開通し,翌年には関西鉄道の草津駅から四日市駅間が全通しましたが,湖東平野内陸部は鉄道のルートから外れていたために計画されたのがはじめです。彦根・愛知川間が1898年(明治31年)に開業し,1900年(明治33年)に彦根・貴生川間が開通しました。「ガチャコン電車」と呼ばれ,若い世代は「ガチャ」とも略されているようです。
 一部の沿線住民から「貧鉄」とあだ名されたり,「上り列車は「借金々々」と走り,下り列車は「足らん足らん」と走る」と冷やかされたりしているように,設立当初から資金難に悩まされていて,現在は鉄道の存続が危うくなっているようです。
 この駅舎は1931年(昭和6年)に建てられたものが原型で,その後当時の様式をそのまま継承して建て替えられたものです。
 もともと人口が少ない場所であり,また,自動車道路が整備されているので,こういう公共交通が成り立つこと自体かなり無理がありそうです。

 駅から旧東海道に戻り宿場の端まで歩きました。その後,彦根城まで行って帰ることにしました。
 彦根城まではさほどの距離はないのですが,佐和山城の下の国道8号線に沿った歩道のトンネルをくぐる必要がありました。
 トンネルまで行く間に見たのはおサルさんの大群でした。大群,というのは大げさですが,それでも10匹を下らない数のおサルさんが田んぼの中を駆け回っていました。こんな町中にこれほどのおサルさんが我がモノ顔で住んでいるのです。
 近頃,京都市内でおサルさんに襲われる被害が続出しているということですが,この姿を見ると驚くにあたりません。
 日本人というのは,家を建てるときに地鎮祭のようなことを行って,神様にお祈りをするのですが,そうした儀式さえすれば後は何しても許されるというような感じで,やりたい放題で自然破壊をする不思議な民族だと思います。山に登っても山頂には祠があるし,日本じゅうどこにも神社があって,一見信仰深いように思えるのですが大きな間違いで,それはいつもポーズだけ,実際は,これほど神をも恐れない傍若無人な行いを平気でするのです。
 その結果,野生の動物は住み家を失くし,自然を破壊された山は常に災害が起きるのです。
 トンネルを出たところには,一部の廃墟マニアに有名な「佐和山遊園」というよくわからないテーマパークのような無残な廃墟もありました。

 実際の佐和山城はこの山の上にあります。佐和山城は石田三成の城として有名ですが,この歴史は鎌倉時代からはじまります。
 佐々木定綱の六男佐保時綱が築いた砦がはじまりで,その後六角氏が支配し,応仁の乱後はその家臣の小川氏を城主としました。
 戦国時代は浅井氏が支配し,1571年(元亀2年)に丹羽長秀が入城しました。1582年(天正10年)の本能寺の変の後に堀秀政に与えられ,1591年(天正19年)石田三成が入城しました。石田三成は荒廃していた佐和山城に大改修を行って山頂に五層の天守を築き「三成に過ぎたるものがふたつあり島の左近と佐和山の城」と言わしめました。
 関ヶ原の戦いののち井伊直政が入城しましたが,新たに彦根城の築城を計画し,1606年(慶長11年)の彦根城完成にともなって廃城となりました。

 やがて,JR西日本の彦根駅に着きました。このあたりまで来ると折しも桜満開の季節,観光客でごったがえしていて,現実に戻されました。
 考えてみれば私は彦根城も行ったことがほとんどないので行ってみることにしました。この日は月曜日だったのでさほどでなかったのですが,昨日はとんでもない人出で,天守閣に登るのにずいぶんと時間がかかったということでした。
 こうして私はJR東海の醒井駅から歩いて,JR西日本の彦根駅までやってきました。JRは別会社をまたぐと急に不便な乗り物と化します。まず,ICカードで自動改札が通れません。よって,窓口でチケットを購入する必要がありますが,列が出来ていて,時間がかかりました。自動販売機で買えるらしいのですが,駅標示がJR西日本の路線しかなく,同じ料金のチケットを購入すればJR東海にも乗れるものなのかだめなのかさっぱりわかりません。それ以上に腹立たしいのは,JR西日本では東海道線を琵琶湖線と称することです。関西に住んでいる人は東海道線ではわからない,といいますが,名古屋に住んでいる人には琵琶湖線ではわかりません。
 JRは新幹線以外の乗り物を利用して長距離の旅をすることを望んでいないといった仕打ちを旅人にしているかのようです。

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 国道8号線に出て橋を渡り,Y字路を左手に入って行くと,再び旧中山道になりました。左手には「おいでやす彦根市へ」と書かれた「モニュメント」が建っていて,すっかり観光地です。その先の若干の松並木が残っているなかを進むと,その先が鳥居本宿でした。
 鳥居本宿は旧中山道63番目の宿場でした。宿場の長さは小野村境から下矢倉村までの13町(約1.4キロメートル)で家の数は293軒,うち本陣1軒,脇本陣2軒,問屋場1軒,旅籠35軒で人口は1,448人だったといいますから,大きな宿場でした。 本陣は寺村家が,脇本陣と問屋は高橋家が務めました。この宿場は本陣や脇本陣の建物は現存していませんが,ていねいな標識が建てられていました。また,重厚な家屋が残っていて,宿場の雰囲気一杯のところでした。
 こうして旧街道のいろんな場所を歩いていていつもおもしろいと思うのは,街道自体は城下町のなかを通っていないことです。たとえば名古屋城下も旧東海道は少し南の宮宿で,城下まで距離がありますし,ここ彦根城下もまた,鳥居本宿から少し離れています。
 鳥居本宿は江戸時代以前の東山道のころは西隣りの小野集落が宿場でしたが,彦根城が完成し城下へ通じる街道が整備さていくころに宿場の機能が現在地に移ってきたということです。

 この宿場の名産品は「鳥居本の三赤」といって,赤玉神教丸,鳥居本スイカ,そして,鳥居本道中合羽です。
 宿場に入ると例のごと街道は枡形になり,その道向こうに350年以上の歴史をもつ「赤玉神教丸本舗」の有川家がありました。建物は1753年(宝暦3年)に建てられたもので,明治天皇も巡幸の折にここで小休みしたそうです。
 テレビの旅番組でこの辺りが取り上げられると必ず取り上げられるこのこの「赤玉神教丸本舗」です。
 売られているのは9種類の生薬を配合した和漢健胃薬です。現在は有川製薬という株式会社ですが,1658年(万治元年)に有川市郎兵衛が中山道鳥居本宿で薬草数種を配合した健胃薬「赤玉神教丸」を道中の旅人に売り出したのがはじまりとされ,次第に効能等が評価されて街道随一の寿老人が目印の妙薬と評判を得るようになっていったといいます。「近江名所図鑑」には十返舎一九の詠んだ歌「くれなひの花にいみじくおく露も薬にならひ赤玉といふ」が掲載されています。

 長野県の木曽に百草丸という胃腸薬があります。これは寿光行者が王滝口登山道を開くのに協力してくれた村人に対して「何も御礼するものがない。せめて「霊薬百草」の製造が今後役にたてば幸いである」と百草の製造を指導したのがはじまりとされていて,御嶽信仰と融合した百草は家伝薬として広まりました。
 また,奈良県には陀羅尼助という民間薬があります。陀羅尼助は強い苦みがあるために僧侶が陀羅尼を唱えるときにこれを口に含み眠気を防いだことからつけられたと伝えらますが,1,300年前ごろ疫病が大流行した際,役行者がこの薬を作り多くの人を助けたとされます。古くは吉野山や洞川に製造所があって,吉野山や大峯山への登山客や行者参りの人々の土産物となっていました。それを丸薬状にして飲みやすくしたものが陀羅尼助丸です。
 尾張地方では「だらすけさん」と呼ばれる胃腸薬が家庭の常備薬でしたが,これは木曽の百草丸のことでした。昔は腹が痛いと言うとこの「だらすけさん」を飲まされたものです。本来「だらすけさん」とは「陀羅尼助丸」のことで「だらにすけがん」が「だらすけさん」に変化したものです。しかし,百草のこともまた「だらすけ」ということから混同されて,百草丸を「だらすけさん」とよんでいたのです。
 日本には,こうした民間の和薬をもとにする薬がいまもなお多く存在していて,その多くは昔からの和薬を改良して現代の薬として製造しています。こうした薬を作っているのは,製薬会社とはいっても和薬専門の小さな会社だったりします。

 有川家横の路地を入ると国道8号の向こう側に「上品寺梵鐘」が見えました。この梵鐘は法海坊が江戸市中を托鉢して作ったものです。
  鳥居本宿の名産であった「道中合羽」の看板が見えました。鳥居本の道中合羽は最盛期には鳥居本に18軒もの店があったといいますが,今は軒先の看板だけが寂しく残されています。 看板の店「木綿屋」は1832年(天保3年)の創業で,戦前まで合羽を製造していたそうです。

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 奈良東大寺金堂の僧侶が書いた「東金堂万日記」に,
  ・・・・・・
スリハリ峠ヲヨコ三間,深サ三尺ニホラル。人夫二万余,岩ニ火ヲタキカケ,上下作之。濃刕よりハ三里ホトチカクナルト也。
  ・・・・・・
とあります。これは1575年(天正3年)摺針峠を越えて上洛した織田信長について書かれたものです。また,信長公記には,
  ・・・・・・
一,去年(天正2年)月迫に国々道を作るべきの旨,坂井文介・高野藤蔵・篠岡八右衛門・山口太郎兵衛四人を御奉行として仰せ付けられ,御朱印を以て御分国中御触れこれあり。程なく出来訖んぬ。
  ・・・・・・
とあります。ここに,その前年1574年(天正2年)の暮れごろから信長が道路整備を命じて工事を急がせていた様子が書かれていることから,摺針峠の拡張・整備工事はこの時期に行われたものだとわかります。こうして,このころ東山道とよばれていたのちの中山道は,番場宿から摺針峠を経由して鳥居本宿に行くのに3里(12キロ)も短縮されることになりました。

 摺針峠は標高170メートルです。
 江戸時代,この峠に望湖堂という茶屋が設けられて,峠を行き交う人達は眼前に広がる琵琶湖の絶景を楽しみながらここで休憩をしました。また,参勤交代の大名や朝鮮通信史の使節,さらに幕末の和宮降嫁の際もこの場所に立ち寄っています。
 あまりの繁盛ぶりに,番場宿と鳥居本宿から奉行所へ望湖堂の本陣まがいの営業を慎ませるよう訴えが出されたこともあるようです。嫉妬深い日本らしい話です。
 この望湖堂は1991年(平成3年)の火災で惜しくも焼失してしまい,今は望湖堂を模して再建されたものが建っています。また,ここには神明宮と明治天皇磨針峠御小休所碑がありました。
 
 峠を過ぎると,鳥居本宿方向には舗装された道を下っていくことになりました。このままこの舗装された道を歩いていくのかなと思っていると,舗装された道のわきにけもの道のような狭い道があって,そこに中山道の表示がありました。ほんとうにこの道なのかなあとそこを歩くのが少しためらわれるほどの狭い荒れた道でしたが,これが正真正銘の旧中山道でした。
 江戸時代以前の中世の山城では堀の大半が水のない空堀でした。そして,その堀を盛り上げた底は通路として利用されていましたが,これが堀底道とよばれるものです。この山道もまた,そうした堀底道のようにになっていました。
 江戸時代の五街道といっても,実際に歩いてみると,平地を通っているところは今の田んぼのあぜ道のような感じですが,ひとたび山に入ってしまうと,こうしたけもの道のような場所ばかりです。かごが通れる幅があるとも思えないし,石畳みがある場所もまれで,雨でも降ろうものなら道はぐっちゃぐちゃです。こうした道を草鞋であるいたわけです。また,参勤交代がこんな道を通ったと考えると,その行列の様を一度見てみたい気がします。

 このけもの道のような旧中山道は,一旦車道に分断されますが,道路を渡ると,ふたたびつながっていました。はじめに書いた「東金堂万日記」にあるように,この道は横三間(約5.5メートル),深さ三尺(90センチメートル)… です。脇には細い水路も設けられていました。
 道はほぼ一直線に峠を下っていくのですが,やがて麓に達するころには,毎度のこと道にはゴミが山積し,また道路の右側には工場なのか産業廃棄物の捨て場なのか,大きな塀で囲われていて次第に雰囲気が悪くなってきました。道路もまたぬかるんでいて,ドロドロでした。
 その工場なのか産業廃棄物の捨て場なのかわからない無粋な塀の横を履いていた靴がどろどろになりながらやっと抜けると,旧中山道は国道8号線脇の車道に合流するポイントに出ました。

 その先道がなくなっていたので見回すと,旧中山道は国道には合流しないで,細い路地のような民家の庭のようなところを経るようにかろうじて旧中山道の残骸が残っていました。そこを抜けると中山道と北国街道の追分の石碑が建っていて,ついに旧中山道は途切れました。
 しかたなく国道をしばらく歩いていくとY字路があって,どうやらそのY字路の左側の狭いほうの道が旧中山道のようだったので,そこに入ることにしました。

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 番場宿を過ぎると,やがて,旧中山道は名神高速道路の側道に合流していきました。
 現在の名神高速道路は三角形頂点にあたる米原を避けて,斜辺にあたるように近道をしています。古来の東山道も街道が整備され中山道となった江戸時代以前は,現在の国道21号線やJR東海道線のように米原を経由して琵琶湖の東岸を南下していました。ただし,米原は鉄道が引かれるまでは琵琶湖の内湖が山麓まであり,現在のような平地ではありませんでした。
 戦国時代,そうした遠回りを避けて,近道を整備しましたが,そのためには峠を越す必要があったのです。それが今の名神高速道路のルートとなりました。この近道を整備したのは織田信長です。尾張と京を行き来するために軍事用の目的で道を整備したのです。いわば,ショートカットです。

 この場所だけでなく,旧街道を歩ていておもしろいと感じるのは,当時の旧街道の多くの場所が自動車道路でなく鉄道の線路に沿っていることです。それは鉄道が急こう配を走ることができないために同じように遠回りをしてでも急坂をさけて昔の道がつくられていたのと同じ理屈です。
 それと対比して,迂回しても平地がなくどうしても急坂を通らなければならないときにそこが「難所」となっていましたが,そうした当時の「難所」だったところに高速道路がトンネルを貫通させたり巨大な橋を作って距離をかせいだりしています。鈴鹿峠を越える新名神高速道路などがそうです。

 名神高速道路の側道になってしまった旧東海道を歩いていくと,やがて名神高速道路よりも側道のほうが標高が高くなり,高速道路は隊道になりました。このあたり,車で名神高速道路を走った記憶がありますが,このあたりはかなり印象の深い場所です。
 やがて,旧東海道は側道から別れを告げて,右に曲がっていきますが,小さな道路標示しかないので見落とす心配があります。田んぼのあぜ道のようなところを進んでいくと昔の面影のある,時代から取り残されたような集落が見えてきて,やがて集落の間をとおる道は登り坂になります。この坂を登りきったところが摺針峠です。
 つまり,旧中山道を番場宿から鳥居本宿に向かうときに,ショートカットをするために山を越す必要があって,その坂を登りきったところが摺針峠なのです。摺針峠で江戸から京に歩いてきた旅人がはじめて琵琶湖を望むことができるのです。当時の旅人はこの景色を見て,さぞかしホッと一息ついたことでしょう。歌川広重の浮世絵中山道の鳥居本宿は摺針峠からの風景を描いたものです。

 私もこの坂を登っていきましたが,思ったほど険しくなく峠に着きました。峠からは琵琶湖が見えましたが,思ったほどの景観ではありませんでした。
 木々の間に確かに琵琶湖は見えましたが,無粋なタワーがその景観も感激をも奪っていました。どうしてこんなバカげたタワーを作るのかと腹立たしくなりました。それでも,桜の季節,峠に咲いた美しい花がこころをなぐさめてくれました。
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 その昔,ひとりの若い修行僧が修行に行き詰まっていました。そんなとき,重い足を引き摺りながら登った峠の上で老婆と知り合います。
 老婆は一生懸命に斧を石に擦りつけていました。僧は不思議そうに「何をしているのですか?」と訪ねると,「実はたった1本しかない針をなくしてしまい,孫に着物が縫えません。だからこうして斧を削って針にしようと思っています」と答えました。
 僧は「そんな大きな斧すぐには針になりませんよ」と言うと,「どうしても針が欲しいので」と老婆は答えたのです。僧はそんな老婆の姿に胸を熱くして言葉を詰まらせながら,「私はどうしても立派な僧になりたい」とこぼしました。すると老婆は,「なればよろしい」と微笑むとフッと消えたのです。
 その僧は修行に行き詰まっていた自分の考えを改め,ついに「弘法大師」とよばれる立派な僧となりました。以来,この地を「摺針峠」と呼ぶようになったのです。後年,この地を訪れた弘法大師はそこにあったお宮さまの境内に杉の木を植え,「道はなほ学ぶることの 難からむ斧を針とせし人もこそあれ」と詠みました。
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 今回歩いているのは旧中山道の醒井宿から鳥居本宿までですが,そのふたつの宿場の間に番場宿があります。
 名古屋から西の京都方面に行くには,鉄道を利用するなら新幹線かJR東海道線,車を利用するなら名神高速道路か国道21号線で米原まで行ってそこから国道8号線ということになります。国道1号線は鈴鹿峠を越えるのであまり使われません。
 その際,名神高速道路以外は米原を経由するので,米原という地名はだれでも知っているのですが,関ヶ原から彦根のあたりまでは車窓からその景色を眺めるだけで降りることもないので,どのような町があるかということはほどんど知りませんから,番場宿は無名です。また,名神高速道路は関ヶ原の先はずっと山の中を通り抜けて走って行って,突然視界が開けるとそこはすでに琵琶湖です。
 そこで,今回のコースのように歩いてみるといろんな発見があります。ただし,それらは名所・旧跡という類ではなく,また,おいしいものを食べるという目的もかなわないので,一般の人の考える「旅」ではありません。どこも観光地は混雑しているだけの日本では,そうした観光地を避けてそれ以外の場所に出かける旅はいつも書いているようにこころでするもので,その場所の歴史を知り文化を味わえないければ,単なる道歩きになってしまいます。

 旧中山道は醒井宿から先は今の名神高速道路沿いを通っていました。一般道からは離れているので,今も当時の面影を残した場所もあってのどかな道行きとなるのですが,途中の多くの部分が名神高速度道路の側道を進むことになってしまうのだけが残念です。
 醒井宿からしばらくは民家が続き,そこかしこにきれいな水をたたえた水路があってこころが和みました。ほどなくして,番場宿に着きました。醒井宿からさほどの距離もないのでびっくりしました。
 恥ずかしながら,私もまた今回歩くまで,番場という地名すら知りませんでした。番場宿は旧中山道62番目の宿場です。飛鳥時代に「東山道」と呼ばれたころからの宿場だそうです。
 江戸時代の1611年(慶長16年)に番場宿から米原までの切通しと米原港が開設され,中山道から湖上の水運に乗り換えて京都へ結ぶ近道への分岐点となったといいますから,米原というのは現在以上に琵琶湖の海上交通の要所だったのです。番場宿は家数178軒,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠10軒で人口は808人という旧中山道で最も小さな宿場でした。

 番場には立派なお寺があってびっくりしました。その名を蓮華寺といいました。蓮華寺は浄土宗本山で山号は八葉山,本尊は発遣の釈迦如来と来迎の阿弥陀如来の二尊,聖徳太子によって開かれた寺と伝えられます。
 1284年(弘安7年),鎌刃城主土肥元頼が寺を再建しましたが,この寺のすごいのは,1333年(元弘3年)足利尊氏に攻められた六波羅探題北方の北条仲時が東国へ落ち伸びる途中,行く手を佐々木道誉に塞がれ蓮華寺へ至り,本堂前で一族郎党432名と伴に自刃したという歴史があることです。こうなると「平家物語」の世界が頭の中を駆け巡ってきます。
 この由緒ある立派な寺はちょうど美しい桜の季節でした。

 また,番場というと「番場の忠太郎」と聞いてその名前だけは知っていることに気づきました。
 「番場の忠太郎」というのは長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公で番場出身の博徒のことです。
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 旅烏の忠太郎は生き別れになった母との再会を望みながら旅をつづけていましたが,助五郎一家のイカサマ博打をめぐる争いに巻き込まれ,助五郎の放った追手を殺してしまいます。
 やがて,母お浜が江戸の料亭の女将になっているらしいと聞いて,忠太郎は江戸にやってきます。しかし,社会的な地位もあり娘登世の幸せを願うお浜はお尋ね者の忠太郎に冷たくあたるのでした。
 あまりの母の仕打ちに絶望した忠太郎は生き別れになった母が路頭に迷っていてはいけないと貯めてきた100両の大金を投げつけ「俺の母親はもうどこにもいない。両の瞼を閉じれば懐かしいおっ母ぁの顔が浮かんでくる」と捨て台詞を残して立ち去っていくのでした。
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 今年は,3月に急に暖かくなったと思えばまた寒さが戻り,そのために桜の季節がずいぶんと続きました。
 私は,2月に思った以上に寒かったハワイに行ったり,3月は北半球とは季節が反対の晩夏のオーストラリアに行ったりと,おまけに帰国した日本では暖かかった季節が一転して再び寒さが戻ってしまい,季節がよくわからなくなりました。今何月かと問われると戸惑うくらいで,これから夏に向かうのかそれとも冬に向かうのかさえ混乱している状態です。 
 さて,そんな去る4月8日の月曜日,まだ桜が満開で天気もよかったので,少し遠出をして桜を楽しんでくることにしました。月曜日とはいえおそらく京都などはどこへ行っても人だらけでしょうから,ということで探し出したのが,旧中山道の醒井宿から鳥居本宿までを歩くコースでした。ここは途中にずっと気になっていた摺針峠という有名な名所もあります。

 まず,JR東海道線に乗って醒ヶ井駅で降りました。名古屋からのJR東海道線下りは在来線を利用して京都まで行く人が結構多いので混雑します。
 直接京都まで行く電車があればいいのですが,大垣駅や米原駅で乗り換える必要があって,少し面倒です。これだけ高齢者が増えて,あてもなく電車を利用して歩きに出かけることを楽しむ人が増えると,在来線にも座席指定車を作ったり,もっと運行距離の長い列車を走らせばいいのにと思います。JRは新幹線のことしか考えていません。
 しかし,それよりも問題なのは,米原からはJR西日本になるので,ICカードで自動改札が使えないということなのですが,このことはまた後で書きます。
 この日も,けっこう混雑した車内でしたが,途中の関ヶ原とか醒ヶ井の駅で降りる人は少なく,駅も閑散としていました。みな,京都まで行くのでしょう。

 滋賀県下を走る現在のJR東海道線は江戸時代は中山道でした。旧東海道の通っていたあたりは現在新名神高速道路が通っているところです。
 私もこれまでいろいろな旧街道を歩きましたが,実際歩いてみると,江戸から京に行くには,今の名古屋市にあたる宮宿からは,むしろ,東海道ではなく美濃路を経て大垣に出てその先は中山道を歩くほうが,東海道で七里の渡しや鈴鹿峠越えをするよりもずっと楽に思います。おそらく,東海道の宮宿の先は京に行くよりも伊勢に行くためのコースだったのだろうと思います。

 醒井(JRの駅だけは醒ヶ井と書きます)というところは「醒井養鱒場」で知っていました。ここは子供のころ遠足で出かけたところです。
 「醒井養鱒場」は1878年(明治11年)に固有種ビワマスの養殖を目的に設立され,全国に先がけて鱒類の完全養殖に取り組み成功した日本最古の養鱒場です。霊仙山の麓から湧き出す清流をたたえた池に大小様々なビワマス,ニジマス,アマゴ,イワナが群泳し,さらに,幻の魚であるイトウ,古代魚チョウザメ,清流のシンボル・ハリヨなども展示飼育している場所です。JRの醒ヶ井駅からは徒歩1時間のコースですが,今回の目的は養鱒場へ行くことではなかったので,私は先を急ぎました。

 醒井宿は旧中山道の61番目の宿場でした。 古代からの交通の要衝であり,「日本書紀」の日本武尊伝説に登場する「居醒泉」(いさめがい)が醒井の地名の由来であるといわれるなんて,なんとロマンに満ち溢れたところではないでしょうか。歩く前からワクワクしてきます。いたるところ豊富な湧き水と地蔵川の清らかな流れが町を潤しています。
 当時,醒井宿の宿内家数は138軒で本陣1軒,脇本陣1軒,そして旅籠が11軒で人口は539人だったということなので,小さな宿場でした。

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中山道を歩く-奈良井宿「女性たちよ,よき人生を」
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 白須賀宿は旧東海道の江戸から32宿目,京都からは22宿目の宿場でした。宿場は約1.6キロメートルにわたり,人口は2,704人で613軒の家があって,本陣は大村庄左衛門家の1軒,脇本陣が三浦屋惣次郎家の1軒,旅籠屋27軒だったそうです。
 潮見坂を登り切った高台に展望台がありました。そして,道の反対側に小学校と中学校があり,その向こうに白須賀宿の町並みが続いていました。ちょうど学校から先生が出てきたので,少しお話をして町のことをお聞きしました。
 この高台から雄大な太平洋が眺められましたが,富士山は方角が違うのでこの展望台からは望むことはできないということでした。

 展望台を過ぎて歩いていくと,やがて,宿場の面影を残す町並みとなりました。特に町ぐるみで保存活動をしているような風はありませんでしたが,国道から離れているので,昔のままの町が残っているのでしょう。
 いつも書いていますが,旧東海道の宿場だったところはどこも町の誇りを感じます。それとともに,この道幅と町並みこそが日本人がもっとも落ち着く空間の広さと空気なのでしょう。
 明治以降,急激に訪れた車社会で江戸時代の町並みがずたずたになって,その流れから取り残された場所にだけ,今もそうした日本のよさが残ることになったのです。ただ残念だったのは,この日,町は選挙の真っ最中で,ポスターやら選挙事務所ののぼりやらで,その景観が台なしになっていたことです。

 白須賀宿にもいろんな旧蹟が残っていて,ゆっくり歩けばいろんなおもしろい場所に出会えるであろうと思われましたが,時間がなかったので,単に歩いて通り過ぎることになってしまったのが悔やまれました。歩きの私は,5キロ先の二川宿まで歩いていかなければ公共交通機関がありません。
 白須賀という地は江戸時代後期・文政年間の国学者である夏目甕麿(みかまろ)という人の生まれた場所だそうです。
 酒造業を営む名主の家の生まれで,司馬江漢と交友があり,酒好きだったといいます。本居宣長の門人となり,宣長の没したのちは本居春庭に入門しました。地名の語学的研究を行い「駿河国号考」を著しました。1822年(文政5年),昆陽池で遊び,船から月を取ろうとして溺死しました。

 やがて街道は左に曲がって宿場を過ぎたあたりで,国道42号線と合流しました,このあたりが前回書いた猿が馬場です。猿が馬場という地名は,豊臣秀吉が小田原城攻めの際,ここの茶店であん入り餅を食べたそのときの茶店のお婆の顔が猿に似ていたことから「猿が婆の勝和餅」と秀吉が命名し,それがいつしか猿が馬場の柏餅と変わっていったといわれています。
 江戸時代はここから先二川宿まで松並木が続いていて民家はなかったということですが,今は往来の激しい国道,そして,周りはキャベツ畑で,大きなキャベツがたくさん実っていました。愛知県はキャベツの生産地なのです。
 この先旧東海道は現在の国道と同じになってしまい,もはや旧街道歩きの楽しさはまったくなくなりました。やがて,境川にかかる境橋を渡ると,国道は国道1号線と合流しさらに交通量を増し,愛知県に入りましたが,次の二川宿まではさらに約1時間ほど国道の歩道を歩く必要がありました。
 何のおもしろみもない国道1号線に沿った歩道を進んでいくと神鋼電機の大きな工場が現れました。右手には新幹線の高架が接近してきました。
 ここで国道から離れ右に曲がって新幹線の高架下をくぐり,東海道本線の踏み切りを通過すると,二川宿の面影が残る古い町並みが現れてほっとしました。

 このように,新居宿から白須賀宿までは昔の面影の残る街道歩きを楽しめましたが,登り坂だったことだけが誤算でした。その先の白須賀宿から二川宿までは単なる国道の歩道を歩くだけで,まったく楽しくないものとなりますが,二川宿自体はなかなか風情のある宿場町でした。そこで次回は,二川宿から吉田宿までを時間をかけて歩いてみたいと思うので,今回は二川宿について書くことは省略しましょう。

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 名古屋で五嶋みどりさんを聴いた翌日,大阪に来ました。名古屋から大阪は高速バスに乗ればかなり安価に往復できます。何も刺激のない名古屋にいるくらいならふと大阪に出かけたほうがずっと楽しい時間が過ごせます。しかし,高速バスを利用すると,名神高速道路は大阪市内から少し離れた吹田を通っているので,吹田で降りたところから大阪市内までの渋滞が,自分で車を運転して大阪に行くとき同様悩みの種なのです。
 そこで,高速バスを利用するならば,終点の梅田まで行くのではなく,ひとつ前の千里ニュータウンで降りて桃山台まで少し歩き,北大阪急行が乗り入れている地下鉄に乗って大阪市内に行くほうがずっと現実的で早いのです。
 さて,この日もバスでそのように行こうとチケットを買ったのですが,直前になって,10連休の2日目ではバスは吹田どころか名神高速道路全体の渋滞に巻き込まれてコンサートに間に合わないのではないかと心配になって,急遽京都まで新幹線に変更して,京都からはがらがらの在来線に乗り換えて梅田まで来ました。
 コンサートのあとは大阪で1泊して,帰りはその翌日の夜のバスにしたのですが,予定よりわずか40分遅れで帰ることができました。

 コンサートは午後3時からでしたが,この日もまた,その45分前からプレイベントがありました。曲目こそ違え,コンサート自体の流れは名古屋と同じです。それよりも,私がたいへん驚いたのは,はじめて来た中之島フェスティバルホールの豪華さでした。
 まず,到着してホールにつながる階段の立派さに度肝を抜かれました。これだけでも見る価値がありました。
 私はこれまで,名古屋栄にある愛知県芸術劇場コンサートホールは,ホール自体は立派であっても,ホールに至るエスカレータの貧困さとピロティの狭さ,そして,ホールの入口から客席まで行くときのエスカレータのせまさがそのすべてを台なしにしていると思っていました。いかにもドケチな愛知県が作ったという感じで貧弱なのです。ひとたびこのフェスティバルホールを知ってしまっては,完全に勝負あり,とどめを刺された気持ちがしました。
 これは地方場所では名古屋でしか大相撲を見たことがなかった私が,大阪府立体育館で大相撲を見て以来,愛知県体育館のひどさを知ってしまったのと共通した驚きでした。これは名鉄と阪急電車との違いにも共通することです。
 
 大阪という町は,アメリカのシカゴに似ているし,ニューヨークにも似たところがあります。さらに,オーストリアのウィーンにも感じが似ています。それは,およそ日本らしくないというか,私が海外旅行をしているときに感じるのと共通の楽しさが味わえるところです。そこには,東京に行ったときに感じる「メッキ」のような見栄がないという意味でも,ほんまもんの魅力があります。おそらく,そんな空気がコンサート自体にも影響を与えているのか,名古屋よりもずっと演奏にも熱が入っていたようだったし,アンコールも名古屋よりも1曲たくさんありました。

 前回も書きましたが,ソリストのだれが一番上手かとか,そういう問題ではなく,コンサートというのは,演奏する側と聴く側の思い入れがそのすべてなのです。だから,会場の雰囲気も大切だし,聴く側の気持ちも大切で,そうしたものがすべて蓄積したところに芸術が生まれるのです。
 たとえば,私が昨年行ったウィーンの楽友協会や国立歌劇場ではその伝統が醸し出すその空気こそが優れた芸術の元となるわけで,その点,名古屋のように,ホール以外のプアなムードがそれをすべて損ねてしまうのです。それを私は,日本人全体のもっている精神的な貧しさからくるものだと思っていたのですが,大阪に来てみて,日本も捨てたもんじゃないなあと見直したわけでです。おそらくそれは,大阪人の本音で生きているその「様」が生み出していることなのでしょう。そんな雰囲気の中で味わうことができたシベリウスは最高でした。
 念願の五嶋みどりさんを聴くことが目的だったのに,それを越えて,どうやらパーヴォさんの魔法にかかってしまって,エストニアから来た若いオーケストラにも魅了された最高のコンサートとなりました。

◇◇◇
ブランド品とはそういうもの⑤-メッキのような街の危うさ

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 これまで多くのソリストの演奏を聴く機会があったのですが,どうしても聴くことがかなわなかったのが五嶋みどりさんで,その機会を待っていました。今回,念願の五嶋みどりさんが初来日をするエストニア祝祭管弦楽団とともにコンサートをするということで,聴きに行くことにしました。
 まず,私は急いで地元名古屋のコンサートのチケットを買いました。演奏する曲目は二の次でした。チケットを購入した後で知った名古屋での曲目はプロコフィエフの協奏曲でしたが,その後調べてみると,その翌日の大阪でのコンサートの曲目が私の大好きなシベリウスの協奏曲だったので,こちらも聴きたくなって,結局,名古屋と大阪の両方で聴くことになりました。
 こんな機会はめったにありません。NHK交響楽団の定期公演で招聘してほしいソリストの第1位も五嶋みどりさんなのですが,これもまたこれまで1819回にショスタコービッチの協奏曲を演奏したただ1度実現しただけなのです。

 さて,ここからは少し余談です。
 学校でも順位だけをやたらと気にする生徒がいるように,何でも順位づけをしたがる「愚かな」人が多いものです。子供のころから人と比べるような教育を受けた弊害です。何位であろうとその人の実力がそれで変わるわけでもないのに愚かなことです。
 ヴァイオリニストに対してもまた,コンクールでもあるまいし,だれが一番上手だの,はたまた,美人ランキングとかいったわけのわからぬことを書いているブログを見かけますが,情けない限りです。そういうことにこだわる人に限って,演奏者を伏せて聴かせても何も聴きわけられないことでしょう。
 ある水準以上のプロの奏者の演奏はだれがだれよりうまいとかいう話ではなく,人それぞれ顔が違うように,個性の違いにすぎないのです。私は,さまざまなソリストのこうした個性の違いを味わうのを楽しみにしています。
 
 今日はまず,4月27日土曜日に行われた名古屋の演奏会について書きます。
 このコンサートは17時開演だったのですが,その45分前から約30分間, プレトーク&ミニ演奏会があるというので楽しみにして早めに会場に入りました。
 16時15分,ステージに,すっと五嶋みどりさんがヴァイオリンをもって登場されたのには驚きました。見たくてたまらなかった五嶋みどりさんがこうしてさも簡単に目の前に現れたので,なんだか夢のようでした。
 このプレイベントは五嶋みどりさんが演奏もし,司会もし,インタヴュアーも担当し,さらに通訳もするという大活躍となりました。これだけでも来た甲斐かいがあるというものでした。こういうイベントはとてもアメリカ的で,何でも権威だとか格式にこだわる日本人とは根本的に発想が違うわけです。

 プレイベントが終わり,しばらくして演奏がはじまりました。まず,オーケストラによる2つの小品があって,そのあとでヴァイオリン協奏曲がはじまりました。
 私の目の前にいる気さくで小さな女性こそが,あの「タングルウットの奇跡」という神話を生み出したまさにその人だと思うと,胸がいっぱいになりました。演奏を言葉で表現するのは難しいのですが,五嶋みどりさんの演奏というのは,強さのなかに深い感情が込められていて,そこに技巧が裏けられているので,ほんまもんの「味」があります。こうした感動は生演奏でこそ味わえるものです。私は次第に音楽に吸い込まれていきました。
 エストニア祝祭管弦楽団の指揮者はパーヴォ・ヤルヴィさんです。ここ半年,私は何度もパーヴォ・ヤルヴィさんの指揮するさまざまなオーケストラのコンサートを聴きました。いつ聴いても,どのオーケストラで聴いてもすばらしい指揮者です。
 エストニア祝祭管弦楽団というのはパーヴォ・ヤルヴィさんの作ったオーケストラということでしたが,メンバーには韓国人女性ヴァイオリニストのエマ・ユン(Emma Yooh)さんをはじめ,先日私がウィーンと名古屋で聴いたドイツ・カンマーフィルのメンバーもいたりして,オーケストラの雰囲気も似ていました。ドイツ・カンマーフィルを聴いたときにも書きましたが,何がすばらしいかというと,団員の人が楽しく音楽を作っている様子が聴く側にも伝わってくるということです。クラシック音楽は修行ではないわけですが,これは日本のオーケストラの仏頂面の演奏とは段違いです。
 今回もまた,聴きにきて本当によかったなあと思った素敵な時間を過ごすことができました。

◇◇◇
「おわらない夏」-おとぎの国タングルウッド
「ドイツ・カンマーフィル」を名古屋で聴いた-ウィーン再び

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 旧東海道の,現在の静岡県にあたる遠江国にあった宿場の中で最も京に近いのが白須賀宿で,この宿場の西は現在の愛知県にあたる三河国です。つまり,私は今回,静岡県と愛知県の県境を越すことになります。新居宿からこの白須賀宿に行くには潮見坂を登る必要がありました。
 私は旧東海道や旧中山道を,単に楽しみとして楽な方向に向かって歩いているので,いつも下り坂になるように方向を決めるのですが,ここでは誤りました。潮見坂がこんなに急だとは思いませんでした。
 これまで旧街道歩きでは難所といわれたいくつかの坂も越えましたが,潮見坂は私には無名だったのです。無知でした。

 潮見坂は明治天皇が江戸(東京)への行幸(東下り)の途中,はじめて太平洋を見たことから名づけられた場所だそうです。旧東海道には明治維新後に明治天皇が行幸をしたときの史跡がたくさんあります。また,旧中山道には和宮が京から江戸に嫁いだときの史跡がたくさんあります。 
 江戸時代よりはるか昔,室町幕府の6代将軍足利義教は
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今ぞはや 願ひ満ちぬる 汐見坂 心ひかれし 富士を眺めて
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と詠みましたが,潮見坂は京から歩いてきてはじめて富士山の見えたポイントだったようです。
 また,江戸時代,十返舎一九の書いた東海道中膝栗毛には
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風景に愛敬ありてしをらしや女が目もとの汐見坂には
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と北八がこの歌を口ずさんだところ,駕籠屋に 「ハア旦那はえらい歌人じやな~」とおだてられ,そのまま調子に乗って酒を奢らされたという話があります。

 当初,白須賀宿は,新居宿から私が歩いてきた現在の元宿地区にあたる潮見坂下の海岸部にあったのですが,1707年(宝永4年)に発生した宝永地震の津波よって宿場が壊滅したので潮見坂上の台地に移転し,もともとあった境宿新田を加宿としました。
 この加宿境宿新田が猿が馬場と呼ばれた地で,茶店では名物かしわ餅が売られていました。歌川広重の東海道五十三次の二川宿の題材とされた場所だそうです。猿が馬場は二川宿ではなく白須賀宿なので,これは変です。
 1660年ごろの万治年間に「東海道名所記」が刊行されましたが,先に書いたように,それは白須賀宿が潮見坂の上に移転する前のことで,その時代は白須賀宿から潮見坂を上り二川宿へ向かう道中に猿が馬場があって
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猿が馬場,柏餅ここの名物なり。あづきをつつみし餅,うらおもて柏葉にてつつみたる物也
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と紹介されていることが歌川広重が猿が馬場を二川宿として描いた理由だそうです。
 また,歌川広重の東海道五十三次の白須賀宿は潮見坂を描いています。

 さらに「東海道名所記」には
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 白須賀より二川へ二里六町,楽阿弥かたりけるは東国の俗語に,沙のあつまりて小高きをば,須賀といふなり。宮の渡しより佐屋にまはる。佐屋の入り口にも須賀といふ宿あり。蜂須賀などといふもおなじ。州といふ心なるべし。賀は詞の助字なり。この道は,沖つしら波たかき所なれば,夜ぶかくひとりはゆくべからず。舞坂,あら井,白須賀,みな海ちかく漁師おほし。
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とあり,夜道のひとり歩きを避けるように書かれています。舞坂,新居,白須賀の宿場は海岸部にあり気の荒い漁師が多くいた場所のようです。 
 現在,潮見坂を登りきった場所には無料の博物館があって,大変上手に作られたジオラマが当時を思い起こさせました。汗をかき,日焼けをしながら潮見坂を登っていたおかげで,当時の旅人の気持ちがわかって,それはそれでいい思い出になりました。

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