しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

July 2019

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●シアトルはいつも大渋滞●
 グレイシャー国立公園からの帰り道に州道20を西に西に走り,途中で1泊して,ノースカスケーズ国立公園の雄大な風景を見ることができた。  
 ノースカスケーズ国立公園からはあと2時間ほど走るとシアトルであった。州道20はバーリントン(Burlington)というシアトルからずっと北のところで,インターステイツ5とのジャンクションに到達する。そこでインターステイツ5に入れば,あとは南に向かってインターステイツ5を走るだけであった。 
 州道20はノースカスケーズハイウェイという通称になった。カスケーズバーガーという看板のかかったハンバーガー屋さんがあったころ,次第に人家も増えてきて,それとととも車も増えてきた。これまでの大自然がうそのように現実に戻された。

 グレイシャー国立公園に行きたいというだけの理由でわざわざやって来たが,今にして思えば,なんと完璧な旅であっただろうか。アメリカは5泊7日程度でふらっと旅をするのが最も楽しいように思う。
 この日の予定は,まず,空港近くに予約したモーテルにチェックインをしたのち,夜,MLBシアトル・マリナーズのゲームを見ようということであった。そして,シアトルで1泊して,次の日に帰国するのである。
 ところが,インターステイツ5に入った途端大渋滞に巻き込まれて,車がのろのろ運転になって,10マイル進むのに1時間もかかるようになってしまった。
 シアトルは日本から近く,とてもいい町だ。私はこの旅をした2016年の前の年2015年にも2回シアトルに来たし,また,2017年にもシアトルに行くことになった。
 ただし,この町の問題は道路がやたらと混むことである。太平洋に沿って町があって,町に沿ってインターステイツ5が南北に走っているが,山が迫っていてこれ以上道路を拡張するスペースがないものだから,車があふれかえるのである。

 道路に頻繁に速度表示がある。これは制限速度の表示ではなく,現在はこのくらいの速度しか出ないという表示なのである。
 こんなにだらだと走っていてはいつシアトルのダウンタウンに到着できるのだろうかと,次第に心配になってきた。とはいえ,インターステイツを降りたところで,一般道もまた,同じように渋滞し,しかも一般道には信号があって余計に進まないことはすでに経験済みだから,覚悟して渋滞のなかをのろのろと走るしかなかった。
 よくよく観察していると,渋滞の原因はインターステイツに車が多いことだけが原因ではなく,インターステイツから一般道に降りる降り口が狭く,降りられない車で車線がふさがっていたのであった。日本ではありがちな光景だが,アメリカのインターステイツでこういうのはシアトルくらいのものである。これもまた,車線を増やすスペースがないからである。

 ダウンタウンのはるか手前からこんなに渋滞していては,いつダウンタウンに入ることができるのだろうと心配になったころ,ダウンタウンよりもずっと手前で渋滞が解消されてしまった。ロサンゼルスのインターステイツもそうだが,ダウンタウンよりも郊外に住む人の車が渋滞を作っているらしい。
 そんなわけで,どうやらゲームのはじまる前にダウンタウンに到着した。しかし,モーテルにチェックインをしてからボールパークに向かうには時間が押していたので,そのままボールパークに行くことにして,私はインターステイツを降りた。

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 昨年2018年10月のNHK交響楽団第1896回定期公演でステンハンマルの交響曲第2番が演奏されました。
 今年の梅雨は天気も悪く,アメリカから帰国して以来,どこへ行くということもなく,これまでテレビで放送された録画を何となく見ていて,NHKEテレの「クラシック音楽館」のこのコンサートに今になって出会いました。そして,ステンハンマルにはまりました。
  ・・・・・・
 カール・ヴィルヘルム・エウフェーン・ステンハンマル(Carl Wilhelm Eugen Stenhammar)は1871年に生まれ1927年に亡くなったスウェーデンの作曲家であり,ピアニスト,指揮者です。ストックホルム王室歌劇場の楽長やエーテボリ交響楽団の首席指揮者を務めました。
 スウェーデンの最も重要な作曲家のひとりということです。当初はベートーヴェン,ワーグナー,ブルックナー,ブラームスといった作曲家に影響された力強さと激しい情感を伝える重厚な作品を書きましたが,ニールセンやシベリウスの手引きでそのような美学を疑うようになり,やがて,新しい理想を成熟させ「北欧風」の抑揚を目標に掲げ,効果なしでも成り立つような「透明で飾り気ない」音楽を作曲しようとしました。この頃から作品は民謡の旋律法にしたがって形成されるようになって,教会旋法の活用やある種の真に簡潔な表現によって紛うことなき「スカンジナヴィア風」の抑揚が展開されるようになりました。
 ステンハンマルは交響曲を2曲書きました。
 第1番は,作曲家自身が「牧歌的なブルックナー」とよんだとされる交響曲で,ドヴォルザークの初期から中期の交響曲とよく似た感じのものです。この曲は初演の失敗と,それに先立ってこの作曲家が聴いたシベリウスの新作・交響曲第2番の衝撃から,作曲者自身により作品の発表を取り下げられ,作品表にも載せなかった,というのは有名な話です。
 やがて,この作曲家は独自の個性を獲得していきます。指揮者としても活動していたステンハンマルは,ニールセンの交響曲第1番を上演するという経験にインスパイアされて,新しい交響曲を作曲しはじめます。そうして1915年に完成したのが交響曲第2番,いわゆる「交響曲 ト短調作品34」です。

 この日のコンサートでは,ステンハンマルの交響曲第2番は,ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」のあとに演奏されました。こんな有名な曲のあとを務めるのだから重責です。
 第1楽章は舞曲風のテーマが印象的ですが,威厳のある古典的な旋律からはじまりました。聴きやすい音楽です。「田園」で歩いた平原の先に見つけた古城のような感じです。そして,素朴で威厳があります。次の第2楽章はもの悲しい曲想から次第にセレナードふうの豊かな広がりをみせていきます。私はヴォーン・ウィリアムスの音楽を思い出しました。気品があります。第3楽章では北欧の香りが強いワルツふうのスケルツォが流れます。ベートーヴェンやブルックナーのスケルツォとはまったく違う,コミカルなものです。仮面舞踏会をコミカルにして,ショスタコービッチの映画音楽をかぶせたような感じです。第4楽章は私の好きなブラームスが第4番交響曲の最終楽章をパッサカリアで緻密に書いたように,ふたつの主題のフーガがち密に構成されています。これはステンハンマルが得意とする対位法によるものです。ブラームスがパッサカリアを新しいものにしたように,フーガという古い形式を北欧風に置き換えたステンハンマルの傑作ですが,曲の最後がユニークで,感動の置きどころに困ります。
 この曲もまた,はじめて聴いたときは,どこをどう解釈すればよいのかとまどいますが,何度も聴くと,こころに染み込んできます。そして,美しき北欧の香りで満ちてくるのです。よい音楽を知りました。

◇◇◇

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●美しいふたつの湖●
 巨大な湖はロス湖(Ross Lake)=1番目の写真 であった。ロス湖は天然の湖ではなくダム湖,ワシントン州の大きな貯水池である。ロス湖を作ったロスダムはもともとルビーダムとよばれ,1937年から1949年の間に3段階で造られ,現在は540フィート(160メートル)の高さに立っている。ロス湖はシアトルをはじめとするワシントン州,およびその周辺地域に提供する水力発電のため,シアトル市によって運営されている。
 ロス湖は南北に約23マイル(37 キロメートル),幅1.5 マイル(2.5キロメートル),標高は海抜1,604フィート (489メートル)である。州道2から北にカナダとの国境まで続いていて,氷河に削られた山々の間に静かに佇んでいる。湖の色は乳清色で不思議な景観を見せているが,これは鉱物の成分によるものである。ロス湖に流れ込む多くの川のほとんどは氷河と北カスケードの高い雪原によるものである。
 ロス湖には湖上に浮かぶロッジがあって船で行くのだそうだ。湖畔には多くの野生動物を見ることができる。 

 ロス湖を過ぎ西に行くと,今度は州道2の南にディアブロ湖(Diablo Lake )があった。ディアブロ湖もまた北カスケード山脈の貯水池である。ディアブロダムによって作成されたこの湖は標高1,201フィート(366メートル)である。
 ディアブロ湖はスカジット川の水力発電プロジェクトの一部であり,ここもまたシアトル市によって管理されている。この湖には湖の北岸に沿って3.80 マイル(6.12キロメートル)のトレイルがある。
 カヤックや川遊びに人気のレクリエーションスポットであり,氷の粉とよばれるその微粉末は水にその鮮やかな色を与え,湖を懸濁している。
 このふたつの湖のあいだにディアブロ湖の展望台があって,多くの車が停まっていた。私も車を停めて景観を楽しむことにした。

 湖を過ぎると,あとはシアトルに向かって峠を下るだけであった。いよいよこの旅で訪れたグレイシャー,ノースカスケーズふたつの国立公園もこれで終わりであった。
 峠を下り終えるとそこには Skagit Valley という大平原が出迎えた。このあたりの州道2沿いに雰囲気のよいロッジとレストランがあったので,食事をすることにした。ロッジとレストランはその名をバッファローランインとバッファローレストランといった。そこは,1889年ごろ金鉱夫や木こりがスカジット川を移動する列車が作られた場所だそうだ。
 レストランの名前のように,ここでは
バッファロー,ヘラジカ,ダチョウ,ヤク,ラマ,カンガルー,アンテロープ,イノシシ,アリゲーターといった肉,牛肉,豚肉,鶏肉,そして魚料理が提供される。また,パスタやベジタリアン料理もあるし,自家製のスープやサラダ,そしてドレッシングが用意されていた。
 私はここで野菜サラダをメインにした昼食を注文した。いい雰囲気であった。忘れてしまうレストランもあればこうしていつまでも印象に残るレストランもある。

 食事を終えて,いよいよ最終地シアトルに向けて出発である。
 グレイシャー国立公園に行くときはインターステイツ5を東に進んだのでずいぶんと距離があったように思えたが,帰路は,シカに激突されたり,道に迷ったりといった思いがけないアクシデントはあったが,多くの見どころを巡ることができて,思いのほかすばらしい時間と風景を楽しみながら,シアトルに戻ることができたのだった。

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☆☆☆☆☆☆
 今日の1番目の写真は,アポロ計画で最後に月に着陸したアポロ17号の地球に帰還した司令船です。現在はフロリダ州のケネディ宇宙センターに展示されています。
 前回はアポロ計画のうち11号までのことを書きましたので,今回はその後のアポロ計画に関わる私の思い出話を書きます。

 ケネディ大統領が1960年代に人間を月に送ると演説して10年,それが実現しました。1970年には大阪で開催された万国博覧会で月の石が展示され,私はそれを2時間くらい並んで見ました。
 その後,アメリカに行くようになると,アメリカの博物館には月の石なんてごろごろあることを知って,これを見るために2時間も待ったことがあったのかと,当時が懐かしくなったりもしました。それは,来日したフェルメールの絵画を人だかりのなかで見るときのことを,現地に行ってだれもいない展示室でひとりフェルメールと対面しているときに思い出すのと同じです。

 ところで,実は,私はアポロ11号の月面からの中継を実際は生放送では見ていないのです。それは,ちょうどその日学校から泊りがけの林間学校に行っていたからです。
 今考えると大変おしいことをしたように思うのですが休むわけにもいかずどうしようもありませんでした。家に帰ってから再放送を見ました。
 それから4か月して,アポロ12号が打ち上げられました。はじめて月面からカラーで中継されるという触れ込みでした。今度こそ生中継を見るぞと意気込んで深夜にはじまった番組を見はじめました。ところが,宇宙飛行士が月に降りる,というちょうどそのとき,宇宙飛行士が誤ってテレビカメラを太陽に向けたために壊れてしまったのです。結局,音声だけの放送になって,それにはがっかりしました。
 そして,次のアポロ13号は月に向かう途中で事故を起こし着陸を断念,月からの中継をそのときもまた見ることができませんでした。私がアポロ13号の事故で覚えているのは,夕刊の1面の「月着陸を断念」という大きな見出しだけです。事故の詳細を知ったのは,その後,映画や書物で取り上げられたおかげです。

 アポロ14号からアポロ17号までは計画どおり月着陸に成功しましたが,日本では次第にテレビ中継も縮小されたり,行われなくなったりでとても残念でした。
 そうしたなかで,今でも覚えているのは,アポロ14号が月に向かう途中で司令船が月着陸船を3段目のロケットの上部からドッキングして引き出す作業を,ちょうど朝のワイドショーで中継したことがあったのです。しかし,それがそのときに限りうまくいかず,なんども失敗をくりかえしていたシーンです。かなり衝撃的なものでした。番組は時間になって途中で終わってしまいました。結局,ドッキングに成功したのはその1時間もあとだったということです。
 アポロ計画では,毎回,このような何がしかのトラブルが起きていました。

 そんなわけで,アポロ計画が行われていた時代に生きていたのに,実体験というのは,考えて見れば,それほどは多くなかったのです。しかし,そのことが,私をアメリカに向かわせることになった大きな理由であるのは否めないことで,今もアメリカに行くたびに,なにがしかの痕跡を求めて歩いているように思います。
 私は,アポロ計画のロケットの打ち上げシーンを生でみることはできませんでした。のちのスペースシャトルの打ち上げももまた,見ることができませんでした。私のまわりには,実際にスペースシャトルの打ち上げを見た,帰還するところを見たという人もいるのですが,うらやましい限りです。
 今日の2番目の写真は,ケネディ宇宙センターにあるロケット打ち上げを見る観覧席から見た発射台の様子です。打ち上げを見にいっても,実際はこんなに遠くからしか見ることができなかったわけで,もし,見ることができたとしても,白い煙を上げて鉛筆ほどのものが空に飛んでいく姿を眺めるだけだったのでしょう。それでも,はやり,生でみたかったものです。

 今年はアポロ11号の月着陸50年ということで,その計画がさまざまな困難の上に成功したと今さらながら話題になっています。しかし,調べてみると,その陰に隠れて,失敗したアポロ13号だけでなく,それ以外のアポロ12号からアポロ17号でも,大なり小なりいろんな問題は起きていて,それを様々な工夫で克服していたということがわかります。もっとも成功したといわれるアポロ15号であっても,やはり,いろんなトラブルが起きています。
 何か事を成すときに予期せぬトラブルは避けられないものです。それを想定外と片づけて責任をなすりつけてあげくの果ては致命的な結果に至ることがあります。しかし,大切なのは,計画どおりにいかなかったときに,いかに機敏に多くの人の英知を結集してそれを致命的なミスに至ることなく克服し回避するかということだと,私はこうしたことから実感するのです。


◇◇◇

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●アメリカの国立公園は奥が深い。●
 ウィンスロップから今度は間違いなく州道20を1時間あまり走って,ノースカスケイズ国立公園(North Cascades National Park)に到着した。ちなみにウィンスロップからの道は冬場の11月中旬から4月下旬は閉鎖されているということだ。標高も緯度も高く寒いのである。
 しかし,地図で見るとこの国立公園は意外なほどシアトルに近い。私はこの旅でグレイシャー国立公園に行こうと思わなければおそらくノースカスケイズ国立公園には来ることもなかっただろう。こんな雄大な国立公園があるということをうっかりしていた。
 これを書きながら次第に思い出してきた。ここはすばらしい場所であった。シアトルといえば,私がこの旅で走ってきたインターステイツ90沿いを思い浮かべるが,それよりも北の,ノースカスケーズ国立公園とウィンスロップこそ,シアトルから出かけるのに最高の場所ではないか!
 私はこの旅の次の年,シアトルからインターステイツ90を走ってアイダホ州へ2度出かけたのでその印象があまりに強く,こんな素晴らしい場所があったことをすっかり忘れていた。そしてまた行きたくなった。

 ノースカスケーズ国立公園は通常の国立公園とは異なりゲートがない。したがって無料であった。この国立公園は,州道20沿いにある展望台や道路から景観を眺めるだけであった。しかし,それがまた素晴らしいこと! これほど雄大な景色はそう見られるものでない。
 カスケード山脈に沿って州道20が通っていて,そこを走っていると,目の前には標高2,700メートル級の雪を被った山々が圧倒的な迫力で迫ってくる。やがて,ワシントン峠(Washington Pass)に着いた。展望台があったので車を停めて景観を楽しんだ。この展望台からは Liberty Bell Mountain の姿が圧巻であった。
 さらに州道2を2マイル西に進むと,レイニー峠(Rainy Pass)に着いた。ここからRainy Lake に至るトレイルがあるというので,車を停めて歩いていくことにした。Rainy Lake までは往復3キロメートル,1時間ほどの道のりだということだった。

 トレイルは6月だというのにところろどころに雪が残っていた。それでもまだ雪くらいないら大したことはなかったのだが,その先,大きな古木が倒れていて道を塞いでいたりした。どこをどう越せばいいのかわからないくらいの大きな木が行く手を拒んでいた。国立公園だというのに,管理不備で,アメリカらしくないことであった。
 ほとんど訪れる人もいないように思えたが,それでも時折人とすれ違った。なかでも,車いすを引いた数人づれには驚いた。歩いていても道をふさいだ巨木を越えるのが困難なのに,どうやって車いすで越えてきたのだろう。不思議で仕方がなかった。
 そのうちに,どうやら湖に着くことができた。静かなすばらしい湖であった。私の持っている「地球の歩き方」の国立公園編には,この国立公園はあまり記述がなかった。
 この湖に至るトレイルは,亜高山林と湿った草原のなかにあって,ところどころにベンチや標識があるので,迷うことはない。湖に着くと,そこにあったのは,景色を楽しむ展望デッキだけであったが,鮮明できれいな山の空気と鳥の鳴き声が混ざり合い,静かな時間を過ごすことができた。

 来たときと同じようにトレイルに横たわる巨木をさけつつ車まで戻り,州道20に戻った。この先をさらに西に向かって進んでいくと,その先に巨大な湖があった。
  ・・・・・・
 私は行くことができなかったが,ノースカスケーズ国立公園には,国立公園の園外にあたる南にシュラン湖(Lake Chelan)がある。シュラン湖は水深が433メートルもある氷河湖で,シュラン(Chelan)という町から望めるそうだが,南北80キロメートルに及ぶ湖畔は道路すらないので,神秘的な風景を見ることできるという。湖の北岸にステヒーキン(Stehekin)というビレッジがあるのだが,シュランという町からフェリーか水上飛行機でないと行くことができないということだ。シアトルからそれほど遠くない場所に,こんな場所があるとは,やはりアメリカは奥が深い。

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●道を間違えてえらいことに…●
☆5日目 2016年6月28日(火)
 私の泊まるモーテルはウィンスロップのダウンタウンから少し離れていた。ダウンタウンで食事を終え,夕日が沈むのを眺めてからモーテルに戻ってきた。近くのスーパーマーケットで買い物をしたりして過ごしたが,いつまでたっても暗くならない。本当に夜が来るのかしらんと思いながら眠りについた。
 ふと深夜に目覚めると,さすがに日が沈んでいた。外に出てみると,そこには満天の星空が広がっていた。私はこの旅の後,ニュージーランドやオーストラリアやハワイで満天の星空を見飽きるほど見ることができたが,わずか3年前のこととはいえ,このころは満天の星空を見ることもなかったので,非常に新鮮なおどろきであった。
 大自然は本当にこころが落ち着くが,こうした場所に住んでいる人は,日本のような人混みに住み慣れた我々とはまったく違う生活を送っているのだろうといつも思う。そしてまた,こういう場所で生きる術をまったく知らないことを思い知らされる。おそらく我々が大切だと子供の頃から教えられたことなど,大自然のなかで生きるためにはまったく役に立たないのであろう。

 翌朝になった。この旅の5日目,実質上の最終日である。モーテルの部屋の窓を開けると,そこには野生のシカがいてエサの草を食べているところだった。こういう動物がめずらしくもなく人間と共存している。私はこの前年だったかそのまた1年前だったか,アイダホ州でキャンプをしていて,朝,巨大なムースと遭遇したことを思い出した。
 やがて7時になったので,モーテルのレストランで朝食をとった。ちょうど居合わせたのがアーミッシュのファミリーだった。私はこの数か月後に再びアメリカに来た。そのときはフロリダ州から北上してフィラデルフィアまでドライブしたが,そのことはすでにブログに書いた。
 その旅でのこと。ペンシルベニア州のランカスターという町にアーミッシュビレッジがある。私はそのときの旅で,このランカスターに行ってアーミッシュビレッジを見学したのでアーミッシュについては詳しくなるのだが,このときはそんなことは知らない。そして,アーミッシュの人たちと話をしていて,彼女たちが日本に行ったことがあって,そのときに広島で食べた「okonomiyaki」というものがおいしかったとかいう話を聞いて,アーミッシュの人たちも普通の人と変わらないなあと驚いたものだった。
 情けない話である。

 朝食を済ませてチェックアウトをして,この日の目的地であるノースカスケイズ国立公園に向けて出発した。ところが,ここで私は道を間違えるのである。
 前日まで乗っていた車にはカーナビがついていたが,シカに激突されて車を変えたことで,カーナビのない車で走ることになったのが原因であった。今なら海外旅行をするときは Wifi ルーター Glocalme を持っているからつねに Google Map で位置の確認ができるが,3年前にはそんな技もなかった。
 私は,州道20はこのウィンスロップの町をそのまま西にすすんでいくと思い込んでいたので,ずっとそのまま西に向かって走っていった。写真にあるように,はじめのうちは舗装された立派な道路が続いていていたので安心していたのだが,それはその先にあるキャンプ場に行くまでのものであった。アメリカの広大なキャンプ場をどんどんと進み,キャンプ場を出たあたりで次第に道幅が狭くなってきた。それでも私はノースカスケイズ国立公園はこうした狭い道路を走っていった先にあるものだと思い込んでいた。
 とうとう道路の幅が両側1車線ほどになり,ついに未舗装の山の中に入り込んでしまった。それでもまだこの道路で正しいと思っていたのだから,お気楽というかなさけないというか…。しかし,こんな場所で車が故障でもしたらえらいことで,ロッキー山脈の山の中で遭難なんて笑い事にもならないと心配になってきた。
 そのうちに,道にのそっと牛が出てきたりするようになった。こうなると,どう考えてもこれは道を間違えたとしか思えなくなった。それでもまだもどる踏ん切りがつかず先に向かって走っていたが,この先も未舗装の道路はずっと続き,これはとんでもない間違いをしているとやっと悟り,とうとう引き返す決心をした。

 Uターンをする場所さえなかなか見つからなかったが,なんとか切り返しをいっぱいして方向を変え,やっとのことでウィンスロップまで戻ってきた。ウィンスロップの町の入口あたりに何かを売っていた店を見つけて,なかにいたおじさんに道を聞いて,どうにか正しい方向に進むことができた。
 私は州道20はウィンスロップをまっすぐに進んでいっているものだと思っていたが,実はダウンタウンの真ん中で左折していたのだ。私はその場所の道路標示を見逃してしまったらしかった。どこでもそうだが,町に入ると道路がわからなくなる。そんなことは重々承知で,前日に下見までしておいたのに,それで間違えたのだから話にならない。
 日本でしか運転をしない人は想像できないだろうが,アメリカの道路には目立たないほどの標識がひとつあるっきりで,その先には何もないから,たとえ走っている道が正しくても不安になることが少なくない。そして,その距離が半端ではないのである。
 ともかく,私はこうして無事に州道20に戻ってきて,ノースカスケイズ国立公園に向けて再び走り出したのだった。

銀河鉄道

 長野まゆみさんの書いた「カムパネルラ版・銀河鉄道の夜」を読みました。
 出版社による本の紹介は,
  ・・・・・・
 ジョバンニの旅は終わってもカムパネルラの旅は続く…。あの「銀河鉄道の夜」を今夜,カムパネルラが語りなおす。賢治の秘められた恋が甦る長野まゆみデビュー30年記念小説。
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 これまでジョバンニこそ作者の化身と考えられてきた物語を,もう一人の主人公であるカンパネルラが語りなおしたのがこの物語だ。カムパネルラは,ケンタウリ祭の夜友人ザネリを助けに川に入り溺死したのだ。
 銀河鉄道の乗客がみなさみしいのは,ジョバンニを除いて誰も片道切符しか持っていないからだ。本作では,カムパネルラの目から銀河鉄道の旅を辿り直す。すると,そこに現れるのは,これまで妹トシに隠れて見えてこなかった賢治の秘められた恋だ。医師と結婚してアメリカに渡り異国で早逝した恋人への強い思いがあったのだ。
 いつしか物語には賢治自身もあらわれ,少年と対話する。メビウスの帯の裏と表のように,けっして交わらない。でも,すぐ近くにいる存在。それがジョバンニとカムパネルラの旅なのだ。
  ・・・・・・
ということなので,私は興味を持ちました。宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」は,ジョバンニが銀河鉄道に乗り,級友カムパネルラと天空の旅をします。ジョバンニが気づいたとき,カムパネルラは川で人を助けて行方不明になったということを知るというあらすじです。

 多くの人が書かれているように,私も,この本は「カムパネルラが主人公の小説を期待していたので肩透かしを食らった気分」というのが感想です。そう誤解するのは,出版社の書いたこの本の紹介の内容が悪いのです。だから,>カンパネルラの視線から語り直した小説なのかと思って読んでいたら,実は小説というより著者の文学研究だった,という感想をもつのです。しかし,私は,それならそれで,妙に工夫などしないで,「銀河鉄道の夜」を題材とした作品論として書いたほうがずっとわかりやすかったのに,さまざまな手の込んだ工夫をすることで逆に読みにくくしているように思いました。
 それはそうと,こういった,著者が,想い入れのあるもの -この本の場合は宮澤賢治に寄せる想い入れのことですが- について熱く熱く語るという作品は,その同好の士にとってはとてもおもしろく共感を覚えるものでしょうが,いわゆる宝塚オタク,とか,ミュージカルオタク,とか,AKBオタクとか,ゲームオタクとか,そういう人同士の集まりで内輪の人たちが盛り上がっているのようなもので,それほどでもない人には,まあ,好きなもん同士勝手にしてろ,みたいな疎外感をもつものです。
 「銀河鉄道の夜」に関していえば,この作品は,私のような星好きの人が抱くこの小説への想い入れと,そうでない人,たとえば俗にいう文学少女がこの作品に持つ想い入れというのはまったく別の異質のものです。そうした人たちのこだわりは私には「言葉に酔っている」という感じでしかありません。
 私は「銀河鉄道の夜」を読んだことによって,星空を見るときの美しさがさらに増すという喜びを感じます。これは,「銀河鉄道の夜」を題材とした天文書を読んだときに味わえるものです。しかし,それとともに,何度読んでも「銀河鉄道の夜」という作品に書かれた登場人物の精神性に関しては,わからない感じを覚えます。そうしたもやもやが,この本によって晴れるような何かが書いてあるのではないか,何か納得できるわかりやすい説明が書かれているんじゃないか,という期待は見事に裏切られました。

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●西部劇に出てくるような町●
 1日中一般道を走ってウィンスロップ(Winthrop)にやって来た。まさに「一般道は楽し」であった。以前,ニューヨークのクーパーズタウン(Cooperstown)にある野球殿堂博物館(National Baseball Hall of Fame and Museum)に行ったとき,クーパーズタウンまでインターステイツが走っていなかったのでニューヨーク州の州都オールバニー(Albany) から一般道を走ったことがある。アメリカの一般道をそんな長距離走ったのはそのときがはじめてだったのでずいぶんと感動した。
 そのときのことを思い出した。
 今回,3年前に行ったこのウィンスロップのことを書きながら,ワシントン州にこんな素敵な町があったことを私はすっかり忘れていた。そして,これを書くためにいろいろ調べているうちに記憶がよみがえり,また行ってみたいと思うようになった。アメリカに限らず,ニュージーランドでもオーストラリアでも,私が忘れられないのはこうした田舎ののどかな小さな町なのである。
 
 ワシントン州の壮大なメソウ渓谷(Methow Valley)を走るノース・カスケード・シニック・バイウェイ(the North Cascades Scenic Byway)に位置するこのウィンスロップの町は,今でも西部劇のころに舞いもどったようなところとして保存されているように思えるが,ここは旧中山道の馬籠宿のように,新たに歴史的な町を模して作られたところなのである。
 メソウ渓谷の歴史は,ネイティブアメリカンがメソウ(Methow),トゥイスプ(Twisp),チューワッチ(Chewuch)といった川のほとりに住んで,ヒナユリ(camas)の根を掘り,果実を採り,釣りや狩猟で生活をはじめたときにはじまる。
 1800年代にはじめてこの谷に白人の猟師がやってきたが,1833年ゴールドラッシュが多くの白人の入植者をこの地にももたらした。そのうちの代表的な3人がジェームス・ラムジー(James Ramsey),ベン・ペーリジン(Ben Pearrygin),ガイ・ウェアリング(Guy Waring)だった。特に,1891年,現在シェファー博物館である場所に定住したウェアリングがこの地の「父」とよばれる。また,町の名は冒険家であり作家であったテオドラ・ウィンスロップ(Theodore Winthrop)にちなんで名づけられたものである。
 1893年,ウィンスロップに火災が起きて,町は壊滅的な被害を受けたが再建され,1972年,州道20がこの町を通ることになったとき,キャサリン・ワグナー(Kathryn Wagner)と夫のオットー(Otto)がこの地に西部劇のような町を再建するというアイデアを思いついたのである。

 ウィンスロップのダウンタウンは西部劇のような町になっているが,その手前は広々とした牧草地帯になっていて,数件のモーテルやマーケットがあった。私はそのうちのアビークリークイン(Abbycreek Inn)というモーテルに部屋を見つけて,チェックインをした。
 アイダホ州で山岳標準時から太平洋標準時に変わったので,この日は25時間あって,来たときの逆になった。アメリカでは東から西に向かって旅をするほうが1日が長いのだ。しかも,この旅をしているのは6月だから1年のうちでもっとも昼の長い時期でもあり,しかも,この辺りは緯度も高いから,もう夜の7時というのに太陽が高く,町を歩くのに十分な時間があった。
 一軒のオープンカフェで軽い夕食をとることにした。豪華なレストランよりもこうした食事のほうがずっと楽しい。その後,川のほとりを散歩した。歩いていると,お年寄りの女性が話しかけてきた。雑談をしながら美しい夕日が沈むのを眺めていた。
 ほんとうにここはのどかで素晴らしい,桃源郷のようなところであった。

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●一般道は楽し●
 カリスぺル(Kalispell)の北,国道2の西側にあったグレイシャー・パーク国際空港(Glacier Park Int’ Airport)の駐車場に車を停めて,空港内のハーツの営業所に行った。シカに激突されたという事情を話して別の車を変えてもらった。保険に入っているので,手続きは書類を1枚書くだけである。アメリカは保険にさえ入っておけば何の手間もない。
 新しい車はカローラになった。
 そんな予期せぬ出来事があって,せっかく早朝に出発したのに2時間以上も余分に時間がかかってしまった。
 これから仕切り直しである。
 再び同じ道,つまり,国道2を,カリスベルのダウンタウンを過ぎ,さらに走り,私の車にシカが激突してきた場所を通った。注意して周りを見ると道路の端に1匹のシカの死骸があった。どうやら気の毒なシカはここで息絶えていたようだった。かわいそうな気がした。

 この先は延々とワシントン州のウィンスロップ(Winthrop)までのどかな田舎町を走っていくことになる。
 アメリカはインターステイツを走る限り,最低でも片側2車線道路なので,事故でも起きていない限りはずっと高速で停車することなく走行できるが,国道や州道は片側1車線のことも多い。こうした道路でも,郊外に出れば信号もなく,制限速度もインターステイツと変わらないが,一旦町に入ると制限速度が遅くなり,また,信号があることもよくあって,思った以上に時間がかかる。しかし,その代わり,いろんな町の姿を見ることもできるので,それはそれで結構楽しいものだ。
 そんなわけで,今日はカリスベルからウィンスロップまでの様子を写真とともにご覧ください。

 まず,カリスベルから国道2を,ずっと西に向かて走ると,やがて,アイダホ州との州境を越える。いつもの通り「ようこそアイダホ州へ」の大きな看板が迎えてくれる。やがて,ボナーズフェリー(Bonners Ferry)という町まで来ると国道2は南北に走る国道95に突き当たる。そして,そのT字路で左折して南に向かうことになるが,その先しばらくは国道2と国道95の共有区間となる。
 この国道95,この時は南に向かって走ったが,確か私は19年ほど前にもこの国道95を走ったことがあるのを思い出した。国道95はこのまま北に進んでいくとカナダ国境なのである。 
 19年前,私は,シアトルから北上して国境を越えてカナダに入って,カナディアンロッキーを観光し,再び,今度はこの国道95でカナダから国境を越えてアメリカに戻ってきたのだった。その時はこうしたド田舎で国境を越えたほうがずっと楽に手続きが終わるだろうというもくろみであったが,実際当時はその通りであった。今はどうなのか知らない。その時は,そのあと国道95を南下して,途中,サンドポイント(Sandpoint)で国道2に乗り換えスポーカン(Sporkane)まで行き,そこでインターステイツ90,そして州道395,インターステイツ82,,インターステイツ84と走って,オレゴン州のポートランドまで戻って,そこから帰国した。
 この19年前に走った記憶をたどってみたが,走ったことは覚えていても,どんな様子だったのかはまったく思い出せなかった。確かアイダホ州はもっと山の中のような気がしたものだが,今回走ってみて,こんなだったのかなあ,と思った。なにか不思議な気がした。記憶というのは,何かの要因で化学反応を侵してまったく別の物質に変わってしまうものであろうか?

 さて,今回もまた,私はサンドポイントというLake Pend Oreille の湖畔の町でそのまま南に進み,カーダーレインに行く国道95とはここで別れを告げ,国道2を River Pend Oreille の北岸沿いを西に進んだ。その先,プリーストリバー(Priest River)という町で北に向かう州道57との交差点を越えてさらに西に進み,プリーストリバーを渡って,ニューポート(Newport)という町に到着した。
 ニューポートで国道2は州道20と分岐する。国道2のほうは,ここから南西にインターステイツ90と合流するスポーカン(Spokane)に向けて進んでいくことになるが,私は今回は州道20に進路を変えて,引き続きプリーストリバーに沿って,今度は南岸,そして向きを変えて西岸を北上して,タイガー(Tiger)という町で北方向行く州道31と分岐する州道20に沿って左に折れて,そのまま州道20を西に向かって走ることになった。
 州道20はコルビル(Colville)で今度は南北を走る国道395と合流し,北西に,しばらくは国道395との共有区間となる。そのまま州道20を走っていくとコロンビア川を渡り,そこで,北に向かう州道395とは別れを告げ,再び州道20は進路を西にリパブリック(Republic)という町で南北を走る州道21と交差する。私は州道20をさらにまっすぐ西に進み,トナスケット(Tonasket)まで来た。ここで州道20は南北を走る州道97と合流して南に向かって走り,オマック(Omak)まで行く。そこで再び州道20は独立して,今度はツイスプ(Twisp)で州道153と合流する。そのまま州道20を北西に向かって走っていくと,ついに,この日の目的地であるウィンスロップに到着した。
 予定から3時間ほど遅れて,夜7時にウィンスロップに到着したが,まだ空は明るく,この先いつ日が沈むのかとさえ思った。ウィンスロップは西部開拓時代のままの町になっていた。ここで私はホテルを探してチェックインした。

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 N響第1911回定期公演で,ヴァインベルグの交響曲第12番「ショスタコービッチの思い出に」が演奏されたのをEテレのクラシック音楽館で見ました。
 以前,私はブログに次のように書きました。
  ・・・・・・
 近ごろ,N響定期公演では,めったに聴くことができない作曲家の交響曲が数多く演奏されるので,とても勉強になります。最近では,アイヴズ,ベルワルド,ステンハンマル,ヴァインベルグ,トゥビンなど,名前すら知らなかった作曲家の作品があがっていました。
  ・・
 アイヴズ(Charles Edward Ives)はシベリウスやボーン・ウィリアムスと同年代のアメリカの作曲家,ベルワルド(Franz Adolf Berwald)はシューベルトと同年代のスウェーデンの作曲家,ステンハンマル(Carl Wilhelm Eugen Stenhammar)はシベリウスやボーン・ウィリアムスと同年代のスウェーデンの作曲家,ヴァインベルグ(Mieczysław Wajnberg)はブリテンと同年代のポーランドの作曲家,そして,トゥビン(Eduard Tubin)はショスタコービッチと同年代のエストニアの作曲家です。
  ・・・・・・
 私は,これまで知らなかった多くの作曲家の作品に接することができて,いろんな発見がありました。その中でも,今回のヴァインベルグをはじめ,ハンス・ロットとエドゥアルド・トゥビンに興味をもちました。

 ミェチスワフ・ヴァインベルク(Mieczysław Wajnberg)は,1919年に生まれ,1996年に亡くなったポーランド出身で,ロシアで活動した作曲家だそうです。 ポーランドのワルシャワでユダヤ人として生まれましたが,ナチス・ドイツのポーランド侵攻で当時のソビエト連邦に亡命します。しかし,スターリンの反ユダヤキャンペーンで逮捕されるなど苦難の生涯でした。   
 交響曲は第21番までと未完に終わった第22番を残しました。
 私が学生のころは,東西冷戦の真っ最中で,ヨーロッパは西側と東側に分かれていたので,当時,東側に属していた国々,そして,ソビエト連邦として存在していた国々のことはほとんど謎に包まれていました。その後,数々の悲劇ののち,現在のように多くの国々に分かれて独立を遂げてたのですが,今になって,当時の悲惨な出来事や,そして,それを乗り越えた独自の歴史や文化に脚光が浴びるようになってきました。
 そうした国々には,まだ世界にほとんど知られていないすばらしい芸術がたくさんあったのです。

 ところで,私が愛してやまないブルックナーを多くの女性は苦手だと近ごろ知って意外に思いました。高揚感が途中で切れる感じが女性にはだめなのだそうです。では,ショスタコービッチはどうなのでしょう?
 私は,ブルックナーとはまったく別の感性から,ショスタコービッチにもこだわりがあります。ショスタコービッチの音楽は仕事で忙しかったころ,戦闘モードになるために聴いていたように思います。そこで,今のようなぬるま湯の生活ではむしろ敬遠する音楽となっています。しかし,たまに聴いてみると,改めて身が引き締まるような感覚を覚えます。
 ハンス・ロットがブルックナーのような明るさと素朴さに根づく音楽であれば,エドゥアルド・トゥビンやミェチスワフ・ヴァインベルクはショスタコービッチの側の音楽に思えます。しかし,ヴァインベルグはショスタコーヴィチよりももっと悲しみの溢れ出る音楽です。私は,R.シュトラウスのような音楽は退屈しますが,こうした音楽は,どんなに暗くても長くても悲しくても,決して退屈しないのが不思議です。
 この第12番交響曲の第4楽章のはじめ,マリンバの奏でる悲しさはどうでしょう。深くこころを打ちます。そしてまた,私の大好きなショスタコービッチの第15番交響曲の最終部 -これは命の終わりを象徴しています- を思い起こさせます。
 ハンス・ロットはどんなに好きになってみても1曲の交響曲しかありませんが,ヴァインベルグには有り余るだけの作品が存在します。こんな作品を知って幸せを感じます。いい宝物を手に入れました。これから少しずつ聴いていきたいと思います。

◇◇◇

●すばらしかったグレイシャー国立公園●
 これまで書いてきたように,ずいぶんと遠いところだったが,念願のグレイシャー国立公園に来ることができた。私が来たのは6月だったが,国立公園は夏休みになるとかなり混雑するらしいので,いい時期であった。それでもかなり寒かったけれどおそらくベストシーズンであろう。
 私は,この2016年のあと,2018年,2019年とこの同じ時期にアメリカ旅行をしているが,6月下旬というのは行くたびに一番いい時期であると痛感する。何より,日本からのフライトが空いているのがいい。

 前回書いたように,この後私はノースカスケーズ国立公園を経由してシアトルまで戻ることになるのだが,この日は早朝に出発したのにシカに激突されて,ふたたびカリスベルまで戻ることになってしまった。とここまで書いて,ここで私が昨晩何を食べたかを書き忘れたことに気づいたので,ここに書いておくことにする。実は,まったく記憶にないし記録にも写真にもないのだ。不思議な話である。どうしても思い出せない。
 さて,私はカリスベルで車を交換して,改めて,最終目的地のシアトルに向けて,途中のノースカスケーズ国立公園への道を進むことになるが,グレイシャー国立公園で写した写真がまだたくさん残っているので,今日は一休みして,グレイシャー国立公園で出会ったすばらしい景色をご覧ください。

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☆☆☆☆☆☆
 50年前の今日,「アポロ11号」が月に着陸しました。
 「アポロ11号」は,船長であったニール・アームストロング(Neil Alden Armstrong)とバズ・オルドリン(Buzz Aldrin),マイケル・コリンズ(Michael Collins)の3人の宇宙飛行士を乗せて,協定世界時(UTC=Coordinated Universal Time,日本時間はそれより9時間早い)で1969年7月16日13時32分(日本時間22時32分)に,アメリカのフロリダ州にあるケネディ宇宙センターから打ち上げられ,月軌道上を周る司令船にマイケル・コリンズ飛行士を残し分離した月着陸船に乗り込んだニール・アームストロング船長とバズ・オルドリン飛行士が,7月20日20時17分(UTC)に月に着陸しました。
 それが今からちょうど50年前の今日,ということで,それを記念して,さまざまな雑誌やテレビ番組で取り上げられています。

 私は,ちょうど多感なころ,最も科学技術に興味を抱いたころ,そして,学校で英語を習いはじめてアメリカに興味をもったころにそうした出来事があったことで,それが今でも私の原風景となっているのです。
 幸いなことに,それから何度もアメリカに行くことができて,アポロ計画にかかわりのあった場所や実際に使われた機器などをこの目で見ることができました。私がアメリカに行く目的の多くは,このアポロ計画が興味の根源であるといっても過言でありません。
 今年の6月に行ったバリンジャー隕石孔もまた,アポロ計画と多くのかかわりがあって,当地の博物館には当時の写真が今も展示されていましたし,数年前に行ったニューメキシコ州のホワイトサンズですら,アポロ計画実現のために多くの実験が行われた重要な場所でした。

 「アポロ11号」についての最も興味深い話「警報1202」は,すでに6年前の今日,このブログに書きました。そこで,今回は,私がずっと疑問に思っていた次のことを書くことにします。それは,「アポロ11号」が月に着陸した当時に出版されたどの本にも,アポロ計画で打ち上げられたミッションの記録には「アポロ4号」からしか載っていなかったということです。そこで「アポロ1号」から「アポロ3号」まではどうなっていたのだろうか,というのがずっと謎でした。
 話を整理します。
 正式に「アポロ1号」とよばれるものはあります。しかし,「アポロ1号」は打ち上げられたものではありません。
 アポロ計画では,まず,1966年に指定番号AS201から指定番号AS203の3基の無人ロケットが相次いで打ち上げられましたが,これらにはアポロ〇号という正式名称がありません。
 そして,1967年1月27日,発射台上での訓練中に司令船の火災事故が発生して3人の飛行士が命を失うという事故が起きたのですが,これが指定番号AS204というアポロ計画の4度目のミッションで,はじめての有人飛行となるはずのものでした。そして本来このミッションは「アポロ4号」とよばれる予定でした。おそらく,それまでに打ち上げられた3回の無人の実験飛行(指定番号AS201から指定番号AS203)が,のちに「アポロ1号」から「アポロ3号」とよばれる予定だったのでしょう。
 しかし,どういうわけか「アポロ4号」として打ち上げられるはずだった指定番号AS204ミッションの訓練中に亡くなった3人の飛行士が身につけていた標章にはすでに「アポロ1号」と記されていたといいます。事故後,この事故によって打ち上げられなかった悲劇のミッションAS204は,正式に「アポロ1号」と命名されました。

 このように,本来は「アポロ4号」となるはずだったものが「アポロ1号」とよばれるようになったために,事故以前に打ち上げられた3回のミッションの名前がおかしなことになってしまったわけです。
 3回のミッションのなかで1番目に打ち上げられたのが1966年2月26日に行われた弾道飛行ミッションAS201で,これが本来は「アポロ1号」とよばれるはずだったものです。そして,その次が1966年7月5日に打ち上げられはじめて地球周回飛行をしたミッションAS203で,これが現在,非公式ですが「アポロ2号」とよばれているものです。もとの計画ではミッションの指定番号AS203からわかるように「アポロ3号」とよばれるはずのものだったのでしょう。そして,3番目に打ち上げられたミッションAS202が1966年8月25日の弾道飛行ですが,現在,非公式にこれが「アポロ3号」とよばれています。もとの計画ではミッションの指定番号AS202からこれが「アポロ2号」とよばれるべきものだったのでしょう。
 こうして,事故を起こし打ち上げられなかったミッションAS204の正式名称を「アポロ1号」としたために,その1年前に打ち上げられた3回の無人のミッションは,1番目のものAS201は通称「アポロ1A号」となり,2番目のものAS203が通称「アポロ2号」,3番目のものAS202が通称「アポロ3号」となっているのです。
 これがアポロ計画のミッションで「アポロ4号」からしか記録がないという私の抱いた長年の謎の答えです。

 「アポロ1号」の痛ましい事故を乗り越えて,1967年11月7日,無人の「アポロ4号」の打ち上げで計画は再開されました。その次に,1968年1月22日はじめて月着陸船を載せた無人の「アポロ5号」が打ち上げられましたが,この時に使われたのが「アポロ1号」で飛ぶはずだったロケットでした。さらに,1968年4月4日に「アポロ6号」が打ち上げられ,1968年10月11日「アポロ7号」で3人の宇宙飛行士を乗せたはじめての有人アポロ宇宙船が地球を周回飛行しました。
 その後は,1968年12月21日,3人の宇宙飛行士を乗せた「アポロ8号」ではじめて月の周回飛行を成功させ,1969年3月3日,地球の周回軌道で,はじめて月着陸船を載せてその飛行テストを行った「アポロ9号」が打ち上げられ,さらに,1969年5月18日には,月着陸の予行演習として,はじめて月着陸船による月の周回飛行を行った「アポロ10号」の打ち上げと続くのです。
 このように,1960年代に月に人間を送るという計画の実現のために,1968年以降,急ピッチで計画が進められました。いずれにせよ,アポロ計画というのは,はじめて無人で弾道飛行をしたのが1966年で,それからわずか3年後の「アポロ11号」で人間を月に送り込んだということになります。
 今日の2番目と3番目の写真はワシントンDCのスミソニアン博物館で私が写した本物のアポロ11号の帰還した司令船ですが,現在,この司令船は2019年9月2日までシアトルの航空博物館で見ることができます。

◇◇◇

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●シカに激突されてしまった。●
☆4日目 2016年6月27日(月)
 この旅は5泊7日であった。この日目的地だったグレイシャー国立公園に別れを告げる。最終日の前日6日目の夜はシアトルでMLBを観戦してから1泊することにしていたから,4日目と5日目はシアトルまでもどる途中で1泊して2日かけてシアトルまで戻ることにしていた。
 ホワイトフィッシュ(Whitefish)のロッジはわずか2泊しただけだったし,グレイシャー国立公園から思った以上に遠かったけれど,ここはとても印象に残るロッジであった。このロッジは,私が近ごろ,年に1,2度宿泊する長野県木曽駒高原にあるペンション「ヒルトップ」にロケーションや建物の雰囲気が似ているので,木曽駒高原のペンションに行くたびに今でもこのロッジを思い出す。
 ロッジの食堂には世界地図があって,これまでこのロッジに宿泊したゲストの出身地がピン留めされてあったが,日本には3本のピンしかなかった。そこで私が4本目のピンをたてることになった。

 当初はお昼過ぎまでこの日もグレイシャー国立公園を観光することにしていたが,グレイシャー国立公園はひととおり制覇したので,予定を早めて早朝グレイシャー国立公園を出発して,シアトルまでの途中でノースカスケーズ国立公園に寄ることにした。
 ノースカスケーズ国立公園(North Cascades National Park)はワシントン州とカナダ国境にある国立公園で,ホワイトフィッシュから西に車で約8時間800キロほどであった。手前のウィンスロップ(Winthrop)という小さな町がノースカスケーズ国立公園の玄関口であったから,今日1日かけてウィンスロップまでたどり着くことにした。

 アメリカの最も北を横断するインターステイツ90は,ワシントン州シアトルからスポーカン(Spokane)を通り,アイダホ州を抜け,モンタナ州に入ると,ミズーラ(Missoula),ビュート(Butte),ボーズマン(Bozeman)と,私のなじみの町を経由して,ノースダコタ州を避けるように少し南下してサウスダコタ州に入る。その東のミネソタ州のミネアポリスを過ぎてイリノイ州のシカゴまで行くと,その後は五大湖を巻きながら,やがてオハイオ州クリーブランドを越え,マサチューセッツ州ボストンに達する。
 とこれを書きながら,私はその風景が浮かび懐かしくなってくる。
 この旅では,行きはシアトルからインターステイツ90を走ってきたが,帰りはインターステイツ90のそのさらに北側,つまりカナダとの国境の近くを,はじめは国道2でニューポート(Newport)という町まで行って,そこで国道2のさらに北側を東西に走る州道20に乗り換えてウィンスロップまで走り,ノースカスケーズ国立公園を周遊して,シアトルに戻ろうというのである。
 
 スキーリゾートのホワイトフィッシュの南にある町カリスぺル(Kalispell)から西に,快調に70マイルつまり112キロで片側1車線の国道2を走っていた。左側には湖が広がっていた。
 40分ほど走ったころだったか,突然,道路の左側の木陰から巨大なシカが2匹飛び出してきた。こうした高原の道路は何が飛び出てくるのか予測不能なのである。
 道路の前にいたのならともかく,横から飛び出してきてはどうにもならない。ブレーキを踏む間もなく,そのうちの1匹が私の車の左側に激突した。つまり,私がシカを轢いたのではなく,シカが私を轢いたのである。突然のことでびっくりしたが何のショックもなく,車も何事もなかった…かのように思えた。シカは車を飛び越えたのだった。ただし,確認すると,左側のドアミラーだけがシカにけられて木っ端微塵となっていた。2匹のシカは飛んで逃げて行ったようでその姿は消えていた。
 私は途方に暮れたが,車の走行には何の支障もなかったので,ともかく最寄りのハーツに行って車だけ交換しようと思った。最寄りの営業所を探したらカリスぺルの空港が一番近かった。40分ほど先であったが仕方がないので,そのまま先に通ったカリスぺルの空港にあるハーツまで戻ることになった。

 モノを買うとその維持と処分に困るということを痛いほど知って,私はすっかりモノを買う気持ちがなくなりました。その結果,着るものと食べもの,そして必要な日用品以外は買う意味すらわからなくなってしまいましたし,欲しいとも思わなくなりました。
 街にはショッピングモールがたくさんあって,どこも買い物客であふれています。しかし,そこは歩いている分には楽しくとも,買いたいというモノはほとんどありません。一方,旅に出れば,観光地にはそして空港には土産物があふれているけれど,それを買って帰っても,そのほとんどはゴミと化すだけでしょう。そう考えると,お土産を買う意味もわかりません。

 国は老後に厚生年金をもらっていてもさらに2,000万円いるとかいう報告書問題でかまびすしいのですが,そんなこと国民はとっくに知っています。とはいえ,そうしたことに無策な政府も対案もない野党も,みな,結局は選挙に勝ちたいだけ,騒いでるマスコミは視聴率が稼ぎたいだけ,雑誌を売りたいだけ,そして,そうしたネタを利用して投資をあおり,金融機関は手数料を稼ぎたいだけ,などということを賢い国民はすべてお見通しです。
 そもそも,常々書いているように,世界の進歩からすっかり遅れてしまったこの国は,お金の要らない国でもあるのです。いろんな広告で購買意欲を煽ろうとしていますが,そうした広告に洗脳されるとその場はモノが欲しくなる気持ちになることはあっても,一度冷静に考えなおせば,そのほとんどは要らないモノなのです。
 車はないと困りますが,最低限のモノで充分です。満足に走る道路もないのに高級車など必要ありません。何百万円もするモノを外に置きっぱなしにしておくというようなことだけでも,無謀かつリスクが多いとわかります。駐車場で当て逃げされて自分にまったく過失がなくても,車両保険を使えば等級が下がるなんていう改悪を密かに行った自動車保険を考えても,いい車に乗るということのリスクがわかります。車は2年落ちの中古車が一番です。
 家もまたそうです。これだけ天災の起きる国で持ち家をもつことはリスクが大きすぎます。買ったモノを維持するのに必要な経費を考えても,固定資産税を払うことを考えても,優に家賃を越えます。また,いざ売るとなると,所得税だけでも膨大な金額となります。持ち家信仰というのは家を売りたい住宅会社の新興宗教のようなもの。賃貸マンションが一番です。結局のところ,家を持つというのは「根を張る」ということだから,自由に生きることとは正反対なのです。同じことを松尾芭蕉も「奥の細道」で書いています。

 人にとって趣味というは生きる楽しみを与えてくれるものですが,そうしたことを楽しむために必要なモノもまた,自分に必要な最低限のモノを愛着を持って使い続ければいいわけです。モノは人と競うものでも見栄をはるためのものでもありません。自分が楽しめればよいのです。
 私が趣味でずっと使い続けているのはカメラと望遠鏡ですが,私はプロでもなく学者でもないから,自分に必要なモノさえあれば十分なのです。これだって,広告に洗脳されると新たにモノが欲しくなる気持ちになることはあっても,冷静になって考えれば,ほとんどのモノは買ったあとでは使わずに家にため込むことになるのです。
 おそらく,本当の幸せというのは,できる限りモノのない生活が楽しめるということなのでしょう。私も「断捨離」をしてみて改めて思ったのは,そもそもモノがなければはじめから「断捨離」をする必要すらないということでした。だまされてはいけません。みんなあなたのお金が欲しいだけですよ。

◇◇◇
「1日1断捨離」を実行する①-捨てることこそ難しい。

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●途中で断念するのは…●
 セントメリーレイクのクルーズを終えて,ローガンパスまで戻ってきた。
 この時期は日没が遅いので,1日が果てしなく長い。夕方の午後5時前にローガンパスに戻ってきたが,まだ日は高かったし,ローガンパスは昨日と違って晴れ渡っていて,風もなく暖かで,昨日寒さに震えていたのとは大違いであったから,駐車場に車を停めて,ヒドゥンレイク・オーバールック=展望台(Hidden Lake Overlook)へのトレイルを歩くことにした。
 このヒドゥンレイクの展望台まで続くトレイルは往復4.8キロメートルで,ビジターセンターの裏からはじまっていた。ビジターセンターを越えてトレイルの入口に行くと,そこには大雪原が広がっていた。最も昼間の長い暖かい時期であっても,トレイルは雪で覆われていたのだ。
 意気揚々と歩きはじめたが,思った以上に大変であった。あたりには雪をかき分けて高山植物が咲き乱れていた。トレイルはやがて分水嶺を越えてさらに進んでいく。すれ違った人にマウンテンゴートがいたよと言われたので楽しみに歩いていったが,私がマウンテンゴートを見たのははるかかなたの先であった。
 このトレイルは雪の中の坂道,というより溶けかけた雪がシャーベット状にジャリジャリになったスキー場の道なき道,つまり,ゲレンデをずぶずぶになりながら進んでいくようなものであった。私は何度も滑っては転び,その都度周りの人に助けてもらった。

 これまでも,そして,これからも,私は日本ではこんなトレイルなど歩くことはないであろう。せいぜい歩くとしても,旧東海道や旧中山道などの旧街道の険しいといわれる峠道くらいのもだろうが,海外に出ると,その気もないのに,こういう経験を数多くすることになってしまうのが不思議なことだ。以前行ったロッキーマウンテン国立公園もそうであったし,今年の3月には運よくか運悪くかオーストラリアでエアーズロックにも登ってしまった。
 私は,こうした経験をするたびにいつも途中でめげかける。そしていつも,何かをしはじめたときには,途中で断念することは何かをしようとすることよりもずっと難しいものだと痛感するのだが,こうしたことは,幼児期から,自分の意志で何かをするよりも決められたことをさせられるばかりの日本の子供たちがもっとも経験できないことではないのだろうか。
 そんなわけで,このときもまた,いつもと同じように,めげながらも途中で断念する勇気もなく決断もできず,無理は厳禁といい聞かせることが精いっぱいで,休み休み進んでいくことになった。そのうち大雪原から景色が一変し,ようやく木々が生い茂るオアシスのような場所になってきたころ,マウンテンゴートの姿が見えてきた。

 マウンテンゴートというのはシロイワヤギ(Oreamnos americanus)の別名で,ウシ科シロイワヤギ属に分類される偶蹄類である。体長はオスで140センチから160センチほどなので,人間くらいであろうか。全身が黄白色で角はオス・メスともに細く,基部からわずかに後方へ向かい,先端が後方へ湾曲する。昼行性で,ペアもしくは小規模な群れを形成し,争うことは少ない。また,食性は植物食で,木の枝,葉,草,コケ植物,地衣類などを食べる。ロッキー山脈やアラスカ山脈などの標高2,000メートルから3,000メートルの山地に生息し,岩に登りやすいようにふたつの大きく広がった蹄を持っているので断崖絶壁も余裕で登ることができる。
 非常に人懐っこくて,間近まで近づいてくる。思った以上にたくさんいて,私はここまで歩いてきてよかったと思った。そして,やっとヒドゥンレイクの見える展望台まで,断念することもなく到着することができたのだった。

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 私は栃錦,若乃花が横綱のころから大相撲を見ています。白鵬ならぬ「柏鵬」が横綱だったころは,圧倒的に大鵬のほうが強く,「巨人・大鵬・玉子焼き」という言葉があったくらいですが,私は,玉子焼きはともかく,巨人も大鵬も嫌いでした。強いものが嫌いというのは子どものときから変わらないようです。強い横綱でも応援していたのは千代の富士だけでした。
 そんな,嫌いな大鵬でしたが,最後の32回目の優勝となったときの強さは今も忘れられません。横綱玉の海から逆転で優勝をしたのですが,結びの1番で勝ち,優勝決定戦でも勝ちました。特に,優勝決定戦では十分な左四つになりながらまったく攻めず,水入りとなって,その後,右を巻き替えてもろ差しとなって,それでも攻めず,最後は玉ノ海が棒立ち状態となったところを寄り切って完勝したのでした。あまりに長い勝負だったので,今,それをカットしないですべて見ることができないのが残念な限りです。

 その大鵬の孫が,1番目の写真の納谷です。お父さんが貴闘力というのは伏せて,みんな大鵬の孫と言います。その昔のこと,のちに大鵬となる納谷と柏戸となる富樫は入門のころから有名だったといいます。このように,将来有望な力士を入門当初から期待するのが「ツウ」というもので,私もいろいろと探します。今,そんな若い力士がたくさん出てきて,幕下上位から十両がとてもおもしろいです。
 2番目の写真は納谷と対戦した塚原,3番目の写真が横綱朝青龍の甥である豊昇龍です。また,4番目の写真が横綱琴桜の孫,琴ノ若の息子である琴ノ若です。
 このように,私がよく知っている往年の力士の子供,だけでなく,孫の代が有望力士として活躍するようになってきたのは楽しみでもあり,自分の歳を感じざるをえません。
 今や,大相撲に限らず,どんな世界でも2世,3世が花盛りです。政治家や芸能人の2世,3世なんて,単に親の七光りなので私は賛成しかねますが,勝負の世界では親の七光りは通用しません。しかし,その遺伝子が才能となるのでしょう。

 今場所は休場していますが,大関になった貴景勝もまた,佐藤というしこ名のころから期待をしていましたし,阿炎,阿武咲,輝なども三段目や幕下のころからとびぬけていました。このように,早朝から大相撲を見にいって,将来有望な力士をさがすのが一番おもしろいのです。しかし,下位のころにはすでに群を抜く強さであっても,幕内まで出世するとなかなか勝てないのだから,厳しい世界です。
 そうした将来有望力士のなかでも,萩原という名であったのちの横綱稀勢の里は断トツでした。どんな大力士となるか,大横綱となるか,末が楽しみでしたが,もう,そんなころも過去のものとなってしまったのです。寂しいです。

 今,私が注目しているのは,5番目と6番目の写真の貴ノ富士と貴源治との双子力士です。しかし,思っていたほどでなく,十両で伸び悩んでいたので,少しがっかりしていたのですが,このところ,やっと力がついてきたようです。
 私が夢見るのは,今,NHKで解説をしている北の富士さんが横綱になったころのカッコよさとさわやかさ,突然強くなって,無敵横綱となったころの千代の富士,そんな力士がでてくることですが,なかなか難しいものです。

 また,それとは別に,何十年も前には,力士は今のように大きくなく,小兵とよばれる個性のある存在がたくさんいました。今はなかなか小兵力士が活躍するのは難しいのですが,そんな時代に現れた,宇良,そして,炎鵬という小さな力士が相撲をおもしろくしています。
 宇良は残念ながらケガをして三段目までさがってしまいましたが,それに代わって炎鵬が活躍しています。この先もケガをしないでいつまでも活躍してほしいものです。
 いずれにしても,このごろつくづく,私は大相撲も将棋も,勝負事というものを楽しむことができない人間だなあ,と残念に思うのです。それは,ひいきにしている人が負けると,世の中が滅亡してしまうほどがっかりしてしまうからです。勝負事だから,勝つこともあれば負けることもあり,そのどちらになっても応援するのが真のファンだということはわかっているのですが,私はどうもそういう精神状態になれません。近年は,将棋の藤井聡太七段が負けただけで世の中が滅亡するほど絶望的な気持ちになります。これではせっかくの楽しみを楽しみとして味わえないのです。我ながら情けない話です。

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 7月12日金曜日,2年ぶりに大相撲名古屋場所を見にいきました。横綱になってからけがをした稀勢の里関の不振で見ていて痛々しく興味をなくした大相撲ですが,引退が決まってホッとしました。そんな折,5月の夏場所の期間,ちょうど東京にいたので,両国の国技館へ力士の入り待ちを見にいって,その独特な雰囲気を思い出したことから,また,相撲を見にいきたくなって,直前に6日目のチケットを買いました。
 どうやら,数年前の熱狂も少し冷めてきていて,以前よりはチケットも買いやすくなっているようです。今年の名古屋場所は3日目,ついにチケットが16枚,最後まで売れなかったといいます。

 名古屋場所が現在の愛知県体育館 -なんでも今はドルフィンズアリーナとかいうわけのわからない名前に変わったそうですが- で行われるようになって50年以上も過ぎて,もともと貧弱な体育館も老朽化しました。私は未だにこんな体育館で本場所が行われていることが信じられないのですが,どうやら新しい体育館ができそうです。しかし,愛知県のやることだから,新しいものを作っても,きっと大したものができることはないでしょう。
 大相撲だけでなく,クラシック音楽でも,愛知県の芸術劇場コンサートホールと大阪のフェスティバルホールでは,こうも違うのかとおもうほど設備に違いがあって,愛知県は貧弱です。スポーツでも芸術でも「遊び」がないのです。「文化」というものはそこに見にいくだけのウキウキ感が必要ですが,そうした遊び心がなさすぎます。おそらく,文化というものにリスペクトがないのでしょう。それは,学校も同じで,愛知県の公立高校はどこもボロボロです。

 ところで,私が大相撲を見にいくときは,いつも開場とともに入ります。
 このごろはAmebaTV で最初から最後まで中継を見ることができるようになりましたが,それまでは,テレビ中継がはじまるまで,大相撲がどのように行われているのか,私は不思議でした。そこで自分のお金でチケットが買えるようになったころから,それを知りたくて朝早く出かけてはじめから見るようになったのですが,それが今も続いています。
 実際,序ノ口とか序二段あたりのお相撲はなかなか風情があり,おもしろいものです。せっかく行くのにこれを見ない手はありません。しかし,今年は所用があって朝から行くことができず,残念ながら,到着したのが午後1時過ぎで,もう幕下の取組がはじまるところで,場内にはすでに多くの観客がいて,午前中の閑散とした雰囲気はありませんでした。

 話は変わりますが,今年の名古屋はまったく暑くありません。昨年は異常な猛暑で,力士の入り待ちをしていた人が熱中症で倒れたりしたので,今年は入り待ち自体がなくなってしまいました。しかし,連日,天候は曇りか小雨で,気温も30度に達せず,しかも,蒸し暑くないので,まったく名古屋の夏らしくありません。
 いつもなら体育館に着くまでに汗だくになるのに,これでは,名古屋場所という感じもありません。こんな状態がずっと続くと,何十年まえだっかにあった冷夏のとき,秋になってコメがなくなったのを思い出して,心配になってきます。
  ・・・・・・
 1時過ぎから見はじめると,狭いながらも館内を歩き回ることもなくアッというまに十両の土俵入りになってしまいました。この先は,いつも,それこそアッというまにすべての取組が終わってしまいます。なにか物足りない大相撲見物になってしまいました。
 やはり,大相撲は朝の8時過ぎからだらだらと夜の6時まで,食っちゃ見,食っちゃ歩きをしながら見るものです。それが粋というものです。しかし,そうするためには,座布団さえないイス席はせまいし,館内にかろうじてある小さなレストラン以外に特にくつろげるところもないのでは情けない話です。いつもながら。

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大相撲の思い出を語る①-冷房なき金山体育館のころ
大相撲の思い出を語る②-愛知県体育館になって
名古屋の夏は大相撲からはじまる-千秋楽を観戦する①
名古屋の夏は大相撲からはじまる-千秋楽を観戦する②
名古屋の夏は大相撲から2017-今年も千秋楽を観戦する。①
名古屋の夏は大相撲から2017-今年も千秋楽を観戦する。②

帰国の日。
モーテルを朝7時にチェックアウトしました。私が2泊したロサンゼルスのモーテルには朝食がついていたのですが,昨日はその用意ができる時間よりはやくモーテルを出発したので,利用できませんでした。この日の朝はちょうど用意ができた時間だったのですが,私はロサンゼルスの空港のラウンジで朝食をとるつもりでした。チェックアウトをするときにオーナーから朝食を進められたので,少しだけいただくことにしました。気持ちのよいモーテルで,昨年とはまったく違いました。
モーテルを出発して,インターステイツ105を西に,ロサンゼルス国際空港に向かって走りました。昨年は,レンタカーリターンの場所がわからず戸惑いましたが,さすがに2年目ともなると難なく見つけてレンタカーを返却しました。そして,レンタカー会社のシャトルバスに乗って,空港まで戻りました。
ロサンゼルス国際空港は現在改装中なので,ぐっちゃぐちゃです。何でも2028年にオリンピックを開催するのに間に合わせてのことで,2023年に完成だそうです。エッ? オリンピックなんて,まだロサンゼルスでやったばかりでないか,と思ったのですが,調べてみるとそれは1984年のことで,もう30年以上も昔なのでした。月日の経つのが早くてびっくりしました。

国際線ターミナルはターミナルBです。昨年,このターミナルBは古いと書きましたが,それは間違いで新しいのだそうです。国内線ターミナルのほうが古く,順に改装されている途中で,デルタ航空の古いターミナル2と3は狭く大混雑しています。ラウンジはターミナル2と3の搭乗ゲートのひとつ上の階にあります。
国際線のターミナルにはラウンジがなく,ターミナル2と3からターミナルBまではエアポートシャトルバスに乗る必要があります。また,レンタカー会社のシャトルバスが到着したターミナル3の地上階から搭乗ゲートとシャトルバスの発着する出発階までエレベータに乗る必要があるのですが,これがぼろく,2台のうち1台しか動いておらず,乗り場がえらく混んでいました。
ともかく,時間に余裕のある私は,まずターミナル3からターミナル2までエアポートシャトルバスに乗っていって,ターミナル2のラウンジに行って朝食をとりました。そして,搭乗時間が近づいたので,今度は国際線ターミナルBにエアポートシャトルバスで向かいました。
帰国便も行きと同じエアバスA350-900,行きと同じ機体 -行きに乗ったとき機内の壁のちょっとした傷を覚えておいたのです- でした。帰りもまたプレミアムエコノミーの最前列で,今度は窓際にしました。最前列は足元が広く,窓際でも通路に出るのに隣の席の人に気をつかう必要が全くないのです。
今回はじめて往復利用したプレミアムエコノミーは広くて快適でした。フルフラットにこそなりませんが,フットレストもあって,これなら特に眠る必要もない帰りは特にファーストクラスなんて利用する必要がありません。日本とアメリカ西海岸は時差が8時間あります。これは,行きは夜が8時間なくなり,帰りは昼が8時間増えるということです。そこで,行きに比べて帰りは楽で,あえて機内で寝なくても帰国後に十分睡眠がとれるのです。逆に,機内で寝てしまうと,帰国後に眠れないということになります。しかし,だからといって特にすることもないので,食事を終えると自然に眠くなってしまいます。

そうこう,いつものようにだらだらと機内で過ごしているうちに,やがて日本が近づき,定刻に羽田空港に着陸しました。帰りは名古屋まで国内線を利用ということで,羽田空港でセントレア・中部国際空港行きのANAに乗りかえて帰宅しました。国内線はいつものように事前にチェックインをしたので私の iPhone の Wallet にチケットが登録されてあるにもかかわらず,搭乗まで2枚も搭乗券とは別の書類をくれました。しかし,搭乗ゲートが変更になっていたにもかかわらず,そこに書かれた搭乗ゲートの記載が変更前のものだったので,こんなものならあえてくれる必要などまったくありません。帰国早々,毎度のばかげた意味のないことに情熱をもやす自称おもてなし,実はブラック日本を体験して,旅の夢から覚めました。
  ・・
今回は,やりたかったことをすべてかなえることができた旅になりました。意外なことに,もういいや,と思っていたアメリカ熱が再発して,これから何度でもアメリカに行きたくなってしまいました。
いい旅でした。

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ツアーは開始15分前に200インチ反射望遠鏡の入口に集まってほしいと言われていたので,20分くらい前に行ってみました。このツアーの参加者は10人以上いました。中には専門家のような人もいました。ツアーが終わったときに天文台にはずいぶん多くの見学者が来ていたので,おそらく,次のツアーの参加者は相当な人数であっただろうと思われます。
こんな不便なところに,それも,目新しい施設ならともかくも,これほど多くの人が来るというのは,アメリカに行くといつも感心するのですがすごいことです。これはフラグスタッフのローウェル天文台に行ったときも同様ですが,知的好奇心の高さは日本とは大違いです。他人との点数争い,順位争いが目的である日本との教育の違いでしょう。
ツアーではかなり高度な説明をしてくれたので,私には最高でした。インストラクターは何人もいて,わからないことがあれば親切に何でも答えてくれました。また,私が日本から来て,しかも昨年天文台が閉まっていたということを知っていて,特別にお土産をくれました。

200インチ反射望遠鏡のドームの入口に集合したツアーでは,まず外でこの天文台についての概要の説明からはじまって,いよいよ中に入って,1階,つまり舞台裏にある反射望遠鏡の鏡のアルミ蒸着装置やドームの仕組みも含む専門的な説明をしながら,次に階段で2階に登って待望の望遠鏡の見学へと進みました。
それにしても巨大な望遠鏡でした。この望遠鏡を見学したことのあるさほど天文に詳しくない人のブログも多々あるのですが,実際に望遠鏡を目の当たりにすると,そうしたブログに書かれたことではわからない感動がありました。なんでも本物を見ることはとても大切です。
この望遠鏡は今でも現役で,多くの貴重な発見に貢献しています。いくらロサンゼルスから200キロメートル以上も離れているとはいえ,作られたころに比べれは大都会の光の影響で空が明るくなって条件が悪くなっているのは事実ですが,それでも,日本では考えられないほどの山の中に作られているので,まだ十分に活用できるわけです。
残念だったのは,ここで見学できるのはこの望遠鏡だけで,私が関心をもっている,惑星探しをしている広視野の口径48インチ(122センチメートル)サムエルオシンシュミットカメラが公開されていないことでした。

見学を終えて,山を下りました。
パロマ天文台へ行く途中にパロマ山麓のレストランがあることは毎回通っていて知っていたのですが,今回はじめて開いているときにそこを通ったので,帰りに立ち寄って昼食をとりました。
結局,昨年パロマ天文台に行けなかったのが逆に功を奏して,今年,それも偶然週末に行ったことでツアーに参加して,ガラス越しではなくあこがれだった5メートル反射望遠鏡の見学が十分にできたし,さらに,フラグスタッフまで足をのばして,ローウェル天文台にもバリンジャー隕石孔にも行けたので,むしろ昨年パロマ天文台の見学ががお休みだったことがよかったと思いました。
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今回の旅の予定はすべて終了しました。私はこの旅で,こうして50年間ずっと思い焦がれていた様々な場所にすべていくことができたのでした。

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午前9時少し前,昨年来たときは決して開くことのなかったパロマ天文台の門は難なく開いていました。私はここに来るのが50年間の夢でした。そして,ここへ2年連続で訪れ,2年目にしてやっと門の中に入ることができたのです。
門を通り過ぎると,そこには広い駐車場がありました。そして,その右手にビジターセンターがありました。ビジターセンターに入ると,売店と展示がありました。この天文台にもレストランなどがあると思っていたのですが,一般の見学者用にあったのはこの建物だけでした。
パロマ天文台は平日でも一般の見学ができるとあったので,昨年,ちょうど今年と同じ日の6月29日金曜日に来てみたのですが,何度も書くように,駐車場の工事をしていて入ることができませんでした。そこでまさに1年後に再びやってきたのですが,今年は土曜日でした。わざわざ週末に来るように計画したのか,あるいは偶然そうなったのかは覚えがないのですが,後で書くように,私の見たかった口径200インチ(508センチメートル)の反射望遠鏡をガラス越しでなく間近に見るツアーが実施されるのは週末だけだったのです。私がそれを知ったのがこの日だったので,どうやら私が週末に来たのは偶然のことだったようです。

ツアーは週末の午前10時30分(10:30AM)からと午後0時30分(12:30PM)からと午後2時(2:00PM)からの3回ありました。
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Q.正午は午前12時?それとも、午後12時?
A.正午は「午後0時」か「午前12時」と表すことができます。これは「午前12時」が「午前11時」の1時間後,「午後0時」が「午後1時」の1時間前と考えるとどちらも正午を表すことは自然に理解することができると思います。しかし,例えば「午前12時30分」という言い方をしたときにこれを昼のことと考えるか夜中のことと考えるか,人によって見方が違ってしまう可能性がありますので「午前12時何分」という言い方はせずに、「午後0時」という言い方をしたほうが誤解は少なそうです。(国立天文台のホームページより)
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Q.12AMと12PM,どっちが正午になりますか?
A.12PMが正午(noon),12AMが深夜(midnight)です。(eigopedia のホームページより)
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チケットはビジターセンターの売店で購入できるとあったので,さっそく午前10時30分のツアーを購入しました。
そんなわけで,幸運にも今年は土曜日に来たことで,待望の200インチ反射望遠鏡をガラス越しでなく見ることができたのです。もし昨年パロマ天文台が工事中でなければ,来たのが金曜日だったからツアーは実施されておらず,ガラス越しに望遠鏡を見るだけだったのです。

ツアーまで時間があったので,まず,ビジターセンターの展示を見ました。その後,ツアーまで待つのが我慢できず,ガラス越しでいいからと,200インチ反射望遠鏡のドームに行ってみました。ドームに入ると,まず,ヘールさんの銅像がありました。
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ジョージ・エレリー・ヘール(George Ellery Hale)は1868年6月29日にシカゴで生まれ,1938年2月21日に亡くなった天文学者です。1897年,シカゴの実業家チャールス・ヤーキスの資金を得て口径40インチ(101センチメートル)屈折望遠鏡を備えるヤーキス天文台を建設,1904年にはカーネギー研究所の寄付を得て,その当時世界最大となった口径100インチ(257センチメートル)反射望遠鏡を備えるウィルソン山天文台を建設し初代台長になりました。ヘールさんは,さらに,ロックフェラー財団から寄付を受けて,パロマー天文台の建設に着手するのですが,その完成を見ることなく死去しました。
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奇しくもこの日はヘールさんの151回目の誕生日でした。階段を上っていくと他の多くの天文台同様,ガラス越しに望遠鏡を見ることができるブースがあって,そこから,巨大な望遠鏡の姿をはじめて見ることができました。ヘールさんが生前見ることができなかった望遠鏡が,今まさに私の目の前にありました。

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5日目になりました。明日は帰国するだけなので実質上最終日です。
5泊7日というのは,海外旅行をするうえで極めて楽な日程です。持っていくものも少なく,機内に持ち込むだけの分量ですみます。しかも今回は密度が濃く,これまででやりたかったことのすべてを実行することができました。
さて,今日こそ,昨年来の懸案であったパロマ天文台の見学です。このために来たといっても過言ではありません。
パロマ天文台はロサンゼルスよりサンディエゴのほうがはるかに近く,そのために昨年はサンディエゴに宿泊したのですが,私が行った数日間だけ,パロマ天文台の駐車場が工事で閉鎖されていて,行くことがかないませんでした。このことは昨年のブログに書きました。そこで,昨年,私は何のためにサンディエゴまで行ったのかさえわからなくなってしまいました。結局,サンディエゴでMLBを見て,コアラもパンダもコモドドラゴンもいる大きなサンディエゴ動物園にも行けたので,無駄な旅ではなかったのですが…。

今年はあえてサンディエコまで行かなくても,ということで,ロサンゼルスから直接パロマ天文台を往復することにしましたが,宿泊しているモーテルから120マイル(約200キロメートル)あって,片道2時間以上かかります。パロマ天文台は9時に門が開きます。そこで,早朝6時すぎに,時間が惜しいので朝食抜きでモーテルを出発しました。
モーテルからは昨日ロサンゼルス・エンジェルスのゲームを見に行ったときに通ったのと同じ国道91を走り,アナハイムを過ぎて,さらに東に進んでいってインターステイツ15に入りました。
インターステイツ15を南東に進んでいって,テメクラという町でインターステイツ15を降り,州道76に入りました。このあとはわずか36マイル(約60キロメートル)なのですが,州道76は一般道で山道なので,まだ1時間程度かかります。この日本の道のようなところを走っていくと,リンコンという町でロータリーに出会いました。このロータリーの角によろずやがあったので,車を停めて中に入って,菓子パンと冷たい飲み物を買いました。腹ごしらえと眠気覚ましです。
ここから先はサンディエゴから来た昨年走ったのと同じ道です。途中でシカの親子が横切りました。やがて,パロマ天文台の口径200インチ反射望遠鏡の巨大なドームが見えてきました。

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MLBロサンゼルス・エンジェルスのこの日のゲームの開始は午後7時7分でした。開場はその2時間前なので,私は午後4時過ぎにモーテルを出て,ロサンゼルス・エンジェルスの本拠地であるエンジェルスタジアムに向かいました。インターステイツ105からインターステイツ710,そして,国道91,国道55と進みます。
渋滞するロサンゼルスのハイウェイは昨年も走ったので慣れていたのですが,日本人がはじめてアメリカでレンタカーを借りて走るようなところではありません。やがて,駐車場に着きました。事前に駐車場のチケットは購入してあったので,係員の指示に従って車を停めました。ここに来たのは19年ぶりのことでした。
昨年ロサンゼルスに来たときは残念ながらエンゼルスは本拠地におらず,見ることができませんでした。そこで,ドジャースタジアムで2ゲームを見ました。先発はカーショー投手と前田健太投手でした。

私はこれまでMLBのすべてのチームのホームグランドに行ったことがあります。当時は熱狂的なMLBのファンでした。ところがどういうわけでしょう。私はこのMLBをはじめとして,大相撲を除くおおよそすべてのスポーツというものを見ることに興味がなくなってしまったのです。ロサンゼルスで宿泊するのは,明日,パロマ天文台に行くことが目的で,その前日,私が興味をなくしたMLBを見にここに来たのは,単に大谷翔平選手が見たい,大谷翔平選手の写真がとりたい,ということが目的でした。
開場にはまだ時間があったので,いつものように,ボールパークの周りを散策していると,ハネムーンやツアー客など多くの日本人がいました。ここは近くにディズニーランドもあって,日本人観光客が訪れるのには適したボールパークなのです。
私は,日本のプロ野球というものはまったく関心がないのでわからないのですが,MLBは見慣れているので,MLBのボールパークには目が肥えています。ロサンゼルスにはドジャースとエンジェルスというふたつのチームがあるのですが,どちらも本拠地のボールパークは古く,最新式のものとは差があります。昨年行ったサンディエゴのペトコパークなどに比べたらずいぶん貧弱です。とはいえ,これまでMLBを見たことのない日本人にとっては,貧弱とはいえその豪華さに驚くことでしょう。

幸い,この日,大谷翔平選手は3番指名打者で出場でした。ヒットを3本打ちました。私は大谷選手が出場するときだけゲームに集中して,それ以外の時間はどこで写真を写すといいかを探すためにボールパークを歩き回っていました。
ボールパークによっては銅像があったり博物館があったり名物の食べ物があったりと,見落としてはいけないスポットがあるものですが,このボールパークは特に見どころといってもほとんどありませんでした。エンジェルホットドッグというものを食べてみましたが普通のホットドッグでした。大谷バーガーもありませんでした。
MLBは,デーゲームはいいのですが,ナイトゲームは終了後に帰るのが大変です。なにせ,数千台,もしくは数万台の車が一斉に駐車場から出ていくのですからたまったものではありません。そこで,今回も,いつもの通り,ゲーム終了前に早々ボールパークを後にしました。
今回の旅は,大谷翔平選手を見ることが目的で来たのではなかったのですが,おまけとしてはかなり豪華な賞品となりました。

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4日目になりました。今日はフラッグスタッフからフェニックスまで戻って,フェニックスからロサンゼルスまで空路,そして,ロサンゼルスで再び車をレンタルして,夜,MLBロサンゼルス・エンジェルスのゲームを見るという予定でした。
フラッグスタッフからフェニックスまでは2時間もかからず戻れると思って旅の予定を立てたのですが,フェニックスの市街地が思った以上に渋滞するということと,それに加えてこの日は金曜日で朝の渋滞に巻き込まれる恐れがあるということで,来るまではフェニックスの出発時間が10時過ぎなのでゆっくりチェックアウトをすればいいやと思っていたのが甘い考えだと気づきました。そこで,朝5時起床。昨晩,マクドナルドで夕食を食べたときに次の朝に食べようとビックマックをテイクアウトして,それを部屋の冷蔵庫に入れてあったのをレンジで温めて朝食代わりにして,午前6時にはチェックアウトしました。さすがに3時間以上の余裕があればフェニックスに戻ることは大丈夫でしょう。
まだ夜が明けきらず,暗い中,インターステイツ17をフェニックスに向けて走りました。
来るときは途中の山道でコンボイが別のコンボイと衝突して横転,そのために1車線が閉鎖されていて渋滞に巻きこまれもしたのですが,今度はそういったこともなく,順調にフェニックスに近づいてきました。フェニックスに近づくと,あたりはサボテンだらけになります。そういえば,19年前,はじめてアリゾナ州に来たときに,アリゾナ州といえばサボテン,というこの景色を追い求めてあてもなく走ったことを思い出しました。
フェニックスの少し手前にブラックキャニオンシティという田舎町がありました。ちょうど夜明けだったので朝日を見ようと,ここで一旦インターステイツを降りました。こののどかな町でサボテンと朝日を眺めることができました。

予想通り,フェニックスの市街地は混んでいましたが,それほどの渋滞に巻き込まれることもなく,搭乗開始時間の1時間ほど前にフェニックスのレンタカーセンターに着きました。車を返して,シャトルバスに乗り込みました。
フェニックスの空港は他の大都市の空港に比べて空いていました。この空港はどこの航空会社のハブ空港でもないようで,デルタ航空のラウンジもなければ,プライオリティパスで入れるラウンジもなかったので,ゲートで搭乗時間を待ちましたが,空港は新しく,しかも人が少なかったので,問題はありませんでした。
やがて搭乗し,定刻に離陸しました。窓際の座席を選んであったので,晴れ渡る窓からはフェニックスの町がよく見えました。19年前に来たときに比べて,フェニックスの町はずいぶんと発展を遂げていました。
やがて,ロサンゼルスの広大な市街地が見えてきました。
ロサンゼルスの空港は昨年も来たので勝手がわかっていて,空港に降りて,レンタカー会社のシャトルバスに乗りました。バスに乗り合わせた男性が,これまで78か国に仕事で行ったと言っていました。もちろん日本も行ったことがあるそうでした。
レンタカー会社のゴールドエリアには多くの車が並んでいて,そのどれを選んでもいいのですが,昨年はその車のほとんどがカローラだったのに,今年は1台しかなく,私が物色している間にカローラはとられてしまいました。そこでニッサンのアルティナにしました。
レンタカーもこういったシステムにすると,まず売れ行きがいいのは故障のない日本車で,最後まで残ってしまうのは韓国車のヒュンダイです。

まず,空港からインターステイツ105を東に走って,今日から2泊するモーテルに行きました。
私は大都市のダウンタウンが嫌いです。なにせ車も人も多すぎです。治安もいいのか悪いのかよくわかりません。ロサンゼルスに来たのは,前回はスペースシャトルを見ることとウィルソン山天文台にいくことが目的でした。今回わざわざロサンゼルスに2泊することになったのは,昨年行くことができなかったパロマ山天文台に今年こそ行くことが目的だったので,モーテルは移動の楽なインターステイツに近い場所で,ともかく安全に眠ることができればいいのですが,昨年は少し節約しすぎて,散々なモーテルになってしまいました。そこで,今年は昨年よりは宿泊代の高いモーテルにしました。場所はリンウッドというところで,昨年宿泊したところとさほど離れていないのですが,到着してみて,昨年よりは断然雰囲気のよさそうな場所だと思いました。
予約してあったモーテルもきれいなところで,インド人のオーナーはとても親切そうな人でした。性格が几帳面なのがよくわかりました。
チェックインの時間は午後3時で,私が到着したのは午後2時でしたが,幸いチェックインをすることができました。
部屋で一休みをしてから,近くにあったカールズジュニアというバーガー店まで歩いていってそこで昼食をとりました。

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アンテロープキャニオンからフラッグスタッフまで戻ってきたのは午後3時過ぎでした。
この日,私はホースシューベンドとアンテロープキャニオンに行きましたが,もともとはフラッグスタッフを中心にオールドルート66沿いのいくつかの町を訪れることにしていました。日本の旧街道の宿場町のように,オールドルート66にも道路沿いに町が点在しています。そして,それらの中には,今も当時の面影を大切に保存してるところがあるのですが,それが,今回行ったフラグスタッフのあたりに多くあるのです。
まだ時間が早かったので,フラッグスタッフから西にこれらの町を訪ねることにしました。

フラッグスタッフのオールドルート66を西に走っていくと,道はインターステイツ40に吸収されてしまいました。無味乾燥のインターステイツ40を西に走っていくと,オールドルート66の道路標示がありました。ウィリアムズという町でした。そこでジャンクションを降りました。
ウィリアムズはけっこう大きな町でしたが,オールドルート66の面影に浸るには十分な町でした。私は,町の中心にあった無料の駐車場の車を停めて,しばらく町を歩きました。ダウンタウンはほどほど古臭く,また,きれいとはいえないところでしたが,それがまた,観光地として整備されていないようで,好感がもてました。結構多くの観光客がルート66の面影を求めて来ていました。

ウィリアムズを出て,さらに西にインターステイツ40を走りました。インターステイツ40に吸収されていたルート66は途中で昔の道路に分岐しているようでしたが,私はそのままインターステイツ40を走りました。そして到着したのがセリグマンという町でした。
私は19年前,役目を終え破壊されかかっていたルート66を保存する活動をしていたエンジェル・ディルカディオさんに会って,一緒に写真を写したことがあります。それがどの町のことであったか忘れていたのですが,セリグマンに着いて,それがこの町であることを思い出しました。この日,あいにくエンジェル・デルカディーロさんは所要で自分の経営する土産物屋が閉店していたのがとても残念でしたが,ともかく,この町に再び来たことにずいぶんと感動しました。そしてまた,19年前,こんな遠い町まで私が来たことにも驚きました。
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私は満足感の中,フラッグスタッフに戻ることにしました。帰りはセリグマンからウィリアムズの途中まで,今も残されたオールドルート66を走りました。

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次にアンテロープキャニオンに行きました。この旅の3日目にホースシューベンドとアンテロープキャニオンに行くことができたのはきわめて幸運でした。私は19年前と5年前にユタ州とアリゾナ州にまたがるゴールデンサークルとよばれる地域の主だった国立公園をすでに旅していて,うかつにもそのときにすべて行ったものだと思いこんでいたので,この機会がなければおそらく行くことはなかったのです。
やはりアメリカは魅力的な国です。特に,自然は雄大です。

アンテロープキャニオンはグレンキャニオンダムから車でわずか20分くらいのところに,その入口がありました。
いつものことながら私はいい加減で,アンテロープキャニオンもまた多くの国立公園同様,入口にゲートがあってそこで入園料を払ってあとは車で回れるものだと思い込んでいたのです。そこで,アンテロープキャニオンと書かれた道路標示に従って走っていったのですが,到着したのは単なる広場でした。そこに写真のような建物があって,アンテロープキャニオンへのツアーのチケットを売っていました。なんだかよくわからなかったのですが,そこでツアーの申し込みをすると,さっそく停まっていた荷台にイスを装備した改造トラックに乗り込んで出発となりました。ツアーの料金はかなり高いものでした。
次第にわかってきたのは,この国立公園はナバホ族の居留地にあって,ナバホ族が経営するツアーだけがアンテロープキャニオンを見学できる方法だということでした。また,渓谷内はせまく,空がのぞく隙間がわずかしかないので,谷底に光が届くのはお昼の数時間だけで,その時間にツアーに参加することが最もよいということ,そして,アンテロープキャニオンは大雨が降ったときだけ現れる川の鉄砲水が作った場所なので,雨でも降って一旦鉄砲水が流れてきたら危険な場所だということでした。

この日は快晴で雨が降る心配もまったくなく,しかも私が参加できたのは運よくちょうど谷底に光が差し込む時間でした。
トラックは水のない渇いた川底を2マイル(3.2キロメートル)ほど進んでいきました。ガタゴト道でかなり時間がかかりました。やっとアンテロープキャニオンの入口に到着しました。渓谷は多くのツアー客で一杯でした。ガイドについて歩いていくと,渓谷はどこで写真を写してもすばらしいものになるとガイドが言っていたように,幻想的な風景がずっといつまでも続いていました。

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旅の3日目です。この旅でフラッグスタッフに来た目的は昨日にすべて実現しました。そこで,今日は,フラグスタッフから北に,ホースシューベントとアンテロープキャニオンに行くことにしました。
19年前,私は知人に誘われて,ロサンゼルスから車でラスベガスを経由してグランドキャニオンとモニュメントバレーを旅しました。当時は今ほど知識がなく,とりあえず,このいわば国立公園の初心者コースを回ったわけですが,それでこのあたりの国立公園はすべて行った気になっていました。しかし,そのとき,行こうと思えば行けたはずのホースシューベントとアンテロープキャニオンを外していたのです。
今回,この旅にでかけるときには,うかつにも,19年前に通ったコースであるにもかかわらず,フラグスタッフからホースシューベントとアンテロープキャニオンは車で2時間足らずに行くことができることをすっかり忘れていました。昨日行った化石の森国立公園を調べていて,行くことが可能であることをやっと知ったというわけです。そこで,19年経ってやっとこのふたつの国立公園に立ち寄ることが可能となったのです。

ホースシューベントもアンテロープキャニオンも,よくテレビの旅番組に出てきます。なかでホースシューベントはその景観から,どんな場所にあるのか,とても興味がありました。
行きの機内で隣に座っていた女性から,どんな写真で見た姿とも実物は違う,と言われてさらに興味が増しました。
早朝宿泊先のモーテルを出発して国道89を北上しました。途中は森の中を進んでいきましたが,そのうち,ページという都会に出ました。こんなところに新しい街ができていたのにも驚きました。どうやら,グレンキャニオンダムができて,このあたりに観光客が集まるようになって,都会が出現したようです。私は,もっと何もない場所だと思っていただけに驚きました。
その先にホースシューベントの広い駐車場がありました。
車を停めて,小高い山のほうに向かって歩きました。15分くらい進むと,そのさきにホースシューベントがありました。到着するまでその姿は見ることができず,展望台に立ってはじめて目の前にその姿が現れました。
ホースシューベントはコロラド川が馬蹄形に急カーブを描く場所です。着いたときは,それでも落ち着いた雰囲気だったのですが,そのうち,中国人ツアー客が大挙して現れて,雰囲気が一変してしまったのが残念なことでした。

ホーシュシューベントを後にして,ページの街のマクドナルドで朝食を食べ,次にグレンキャニオンダムに行きました。ビジターセンターに入ると,巨大な窓からその絶景を眺めることができました。
1936年にコロラド川をせき止めて作られた下流のフーバーダムはレイクミードを作りましたが,コロラド川は予想以上の大量の土砂を運んできてレイクミードを埋める心配がでてきました。そこでさらに上流に作られたのがこのグレンキャニオンダムでした。このダムによってグレンキャニオンは姿を消し,そのかわりにレイクパウエルが出現しました。
それにしてもなんという巨大なダムでしょう。こういう姿はやはり本物を見ないと決してわかりませんが,アメリカという国はとんでもないものを作り上げるものだとその脅威を感じます。それとともに,こんなふうにして自然を破壊してしまっていいのか,という恐れを抱きました。

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USハイウェイ66,通称ルート66は1926年に誕生しました。シカゴからロサンゼルスを結び,北アメリカ大陸を斜行する,全長3,920キロメートルに及ぶ,もっとも距離が長く近代的なハイウェイでした。当時の人々は,この道を通って,仕事を探しに,農業の新天地を求めて,あるいは,戦場に赴くために,映画や音楽の夢をかなえようと,あるいは北上し,または西進していったのです。1972年にインターステイツが完成してその役割を終えたのですが,2000年には保存法が成立し,今は,古きよきアメリカを懐かしむ道路として,観光名所になっています。
私の宿泊しているフラグスタッフはダウンタウンにこのオールドルート66が通り,今も当時の面影を残す街として多くの人が訪れます。また,オールドルート66に平行してサンタフェ鉄道が走っていて,アメリカの高速鉄道「アムトラック」の停車する駅があります。

ローウェル天文台の見学を終え,私は,宿泊しているモーテルに戻る途中で,フラッグスタッフのダウンタウンに車を停めて,オールドルート66の面影の残る街を歩くことにしました。
フラッグスタッフもまたアメリカの多くの街同様,車を停めるのに苦労しますが,ここは駐車するスペースが多くあって,駐車したら近くにある料金を払う機械に車のナンバープレートを入力して料金を支払うというシステムになっていました。説明を読んでいると,月曜日から水曜日までは午後5時以降は無料ということでした。この日は幸運にも水曜日だったので,午後5時を待って,駐車場に車を停めました。近くを通ったおじさんに,無料だぞ! といわれました。
ダウンタウンは平日なので空いていましたが,すてきなレストランやカフェなどが立ち並んでいて,夕食を楽しむ人の姿がありました。また,駅に行くと,アムトラックが到着する時間に近く,乗客が時間待ちをしていました。

これまで私はニューメキシコ州のサンタフェあたりや,オクラホマ州からミズーリ州にかけてのオールドルート66を走り,また,オールドルート66が通る街を散策したことがあります。
日本では旧東海道や旧中山道のような旧街道がありますが,これは徒歩で歩く道です。それとは違って,ルート66は駅馬車の通った道なので,今も車で走ることができる幅があります。共通するのは,そのどちらも,昔のまま残ったところもあれば,現代の新しい道路に吸収されてしまった場所があるということです。また,日本でも旧街道の宿場町はプライドを持っているように,オールドルート66が通った多くの街は今もオールドルート66の看板を掲げ,当時の面影を残すように保存活動をしていることです。
私は66歳になったら,オールドルート66をシカゴからロサンゼルスまで走ってみたいものだという夢を持っていました。その夢も風化しつつあったのですが,今回改めてオールドルート66に触れてみて,その想いがまたよみがえってきたのでした。

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化石の森国立公園からフラッグスタッフに戻って,待望のローウェル天文台に行きました。
ローウェル天文台はフラッグスタッフを見下ろす高台にあって,オールドルート66を西に向かて走っていくと,天文台のドームは街中からもよく見えました。オールドルート66が南に左折する交差点をそのまま直進すると,ローウェル天文台に登る道になります。そのまま登っていくと展望台があって,そこの駐車スペースに車を停めて眼下を見れば,フラッグスタッフの街が一望できました。
道路はさらに進んでいって,ローウェル天文台の門を越えると,広い天文台の駐車場に到着しました。
私は,3月に行ったオーストラリア・シドニーにあるシドニー天文台のような博物館を予想していたのですが,ここはもっと大きくて,今でも現役。また,多くの人に天文を啓蒙する施設となっていました。
受付で入館料を払うと,ちょうど施設見学ツアーがはじまったところで,そのツアーに参加することができました。

1855年に生まれ1916年に死んだパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)はボストンの大富豪の息子として生まれ,ハーバード大学で物理や数学を学びました。ちょうど火星観測熱が当時高まっていたころのことで,私財を投じてこのローウェル天文台を建設し,火星の研究に打ち込みました。ローウェルはここローウェル天文台に眠っています。
このローウェル天文台で冥王星を発見したのがトンボ-です。1906年に生まれ1997年に亡くなったクライド・ウィリアム・トンボー(Clyde William Tombaugh)は1930年冥王星を発見した業績で特に知られています。ローウェル天文台に勤務して,天王星や海王星の軌道に影響を与えていると考えられた未知の惑星の捜索に携わり,ローウェルが予測した周辺の星野を丹念に精査し続け,前月に撮影された写真と比べて動きがある天体があることに気づき,それが9番目の惑星であると確信したのです。
その時に使われた望遠鏡が整備されて,今もその姿を見ることができます。

天文台のツアーには,トンボ-が冥王星を発見した望遠鏡は含まれていませんでしたが,午後6時30分からこの望遠鏡のドームが公開されるということだったので,私は楽しみに待ちました。やがて時間になってドームのドアが開き,私は待望の望遠鏡を見ることができました。見学者は私だけで,ガイドの若者からいろんな説明を聞きながら,この歴史的望遠鏡の姿に感動しました。
このように,この望遠鏡は公開されていますが,見ることができる時間が限られていたので,それを見ることができたのは,いつもながら幸運なことでした。
もう少し時間が経って日が沈んで星が見えだすと,天文台の公開用の望遠鏡で木星を見ることができました。また,レクチャールームでは惑星の説明を聞くことができました。
こうした施設に行っていつも思うのは,平日だというのに多くの人が訪れて,熱心に難しい話を聞いている姿です。おそらく日本でこういうことをしてもほとんど人が集まらないでしょう。日本人は本質的に学問というのは生活とは無縁の存在なのです。勉強というのはテストで点を取って人と比べるだけのものだと幼少期からそう育つからです。

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今回の旅の目的はバリンジャー隕石孔とローウェル天文台で冥王星を発見した望遠鏡を見ることでしたが,そのためには遠いアリゾナ州のフラグスタッフまで行かねばならず,どうしようかと迷っていました。そこに昨年,偶然行ったときに閉鎖されていたパロマ天文台に行くことがあきらめきれず,やはり行ってみたいということになって,このふたつのことを実現するために旅が実現したわけです。
到着早々は時差ボケで,よく寝られないのが一番の心配なのですが,昨晩は思いのほかよく寝られたので安心しました。私の滞在する安モーテルに朝食はついていないので,バリンジャー隕石孔へ行く途中でガソリンを入れてそこでついでにサンドイッチを買って,食べながら運転しました。時間が惜しいのです。
なお,アメリカではガソリンは1ガロンあたり何ドルで表示されています。1ガロンは約3.8リットルなので,約30倍(1ドルが110円だと約29倍)すれば1リットル何円になります。今回の旅では表示が3ドルくらいだったので,換算すると1リットル90円程度でした。また,車にガソリンの燃費が1ガロンあたりのマイル(MPG)で表示されるのでわかりにくいのですが,これは0.42倍すれば1リットルあたりのキロメートルになります。

旅の2日目。
今日からいよいよ観光ですが,今日は早朝にバリンジャー隕石孔へ行って,その後,せっかくここまで来たので,さらに1時間くらい先にある化石の森国立公園まで足を伸ばし,午後,フラッグスタッフに戻って,待望のローウェル天文台に行くことにしました。今日1日で,パロマ天文台以外の今回の旅の目的のほとんどが達せられるわけです。
約40分走って隕石孔に着きました。朝7時30分でした。9時からのガイドツアーがあるということだったので,それまで博物館を見学したり,隕石孔の展望台へ行って写真を写したりしました。やはり実物はすごいものでした。場所はこの3月に行ったオーストラリアのエアーズロックみたいに周り一面平地で,かたや上に伸び,こちらはそこにえぐられているというように,対照的でした。このときの詳しい様子はまた後日旅行記で書きたいと思います。

十分堪能して,そのあと化石の森国立公園に向かいました。これまで,特に意識していたわけではないのですが「地球の歩き方」という本のアメリカ国立公園編に載っている国立公園で私が行ったことがなかった場所がこの化石の森国立公園を含めて3か所あったのですが,今回の旅でそのうちの2か所に行けるのもまたうれしい偶然です。
国立公園に着きました。まず,ビジターセンターにレストランがあったので昼食をとりました。
思いのほかものすごく広い公園で10か所程度の見どころを車で回って行くのです。化石の森というイメージとは違い奥深い森ではなく昔森だったところ,そして恐竜が闊歩していたところが風化して大平原となった場所です。この国立公園も自然の作り出した雄大な風景が堪能できるところでした。木の幹が水晶化した化石になっているのには驚かされました。

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乗り換えたのは小さいボンバルディア社の旅客機で,かなり古そうな機体でした。ロサンゼルスからフェニックスまでは1時間30分ほどのフライトです。乗り換える乗客がまだ来ないということで出発が30分ほど遅れました。
ロサンゼルスから私の目指すフラグスタッフは車で走ると7時間もかかるので,車での移動はあきらめてフェニックスまで往復国内線を利用することにしたのですが,フェニックスからフラグスタッフまではさらに2時間30分ほどもかかるのが想定外でした。もっと短いと思っていたのですが,フェニックスの街のインターステイツが混んでいて街を抜けるのにやたらと時間がかかるのでした。
国内線は国際線とは違って,ファーストクラスとはいえエコノミークラスとの違いは座席が広いことと飲み物の入れ物がガラスぐらいのことです。国内線でも3時間くらいのフライトだとファーストクラスだけ食事が出ることもありますが,今回はたった1時間30分なのでなにもありませんでした。しかし,フライトならたった1時間30分でも車で走れば大変です。

19年ぶりのフェニックスに到着しました。ロサンゼルスは予想に反して涼しかったのですが,フェニックスに着いたらさすがに暑くてこれまたびっくりしました。でもフロリダとは違って湿度が低いので汗をかきません。
この空港ではレンタカーセンターまでシャトルバスに乗っていくのですが,レンタカーセンターは空港からずいぶん遠いのが意外でした。そんなこんなでやっとレンタカーを借りるところまで来ました。車を手に入れれば旅がはじまります。
レンタカーはゴールドエリアにある好きな車を選んでいいということなので,カローラを借りました。日本車のいいのは操作ボタンなどの位置が慣れていることです。座席の調節をするだけでも,乗ったことのない車だとどこに装置があるのかなかなかわからないものなのです。
ところで,今回行ったアメリカのアリゾナやロサンゼルスで見かけた日本車のほとんどは,トヨタのカローラか日産のアルティナでした(日本のモデルとは違います)。プリウスはほとんど見なくなってしまいました。

さあ,いよいよ出発です。渋滞するフェニックスの市街地をやっと抜けてインターステイツ17を北上すること2時間30分,夕方にフラッグスタッフに到着しました。フラッグスタッフはアメリカのマザーロードであるルート66 で栄えた古きよき街です。
宿泊するモーテルはこのオールドルート66沿いにあるということで,東に向かって走っていきました。ダウンタウンを越えてさらに行くと左手に見つかったので車を停めてチェックインしました。今晩からここに3泊します。
到着が予定より遅くなったので,フラッグスタッフのダウンタウンを散策するのは明日にして,近くのスーパーマーケットでお寿司を買ってきて,簡単に夕食を済ませて寝ることにしました。スーパーマーケットでレジ待ちをしていたら前に並んでいたすごい量の買い物をしたたおじさんが列を譲ってくれたので,会計をする間しばし楽しく雑談をしました。

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はじめて利用したプレミアムエコノミーは快適でした。座席は広いし食事はおいしいし。以前からファーストクラスとエコノミーの中間のレベルがあればと思っていたのが実現した感じです。
着陸1時間前になってやっと朝食が出てきました。朝食が出てくるのがあまりに遅く,配り終えたらすぐ着陸態勢に入り片付けはじめてしまって,ゆっくり食後のコーヒーを飲む間もない状態でした。これもまあアメリカらしいというか。

ロサンゼルスに到着しました。空港はどこもいろいろシステムが違うので緊張します。今回はフェニックスまでのトランジットでしたが,ネットで次のフライトのチェックインが済ませてあったので楽でした。空港のチェックインカウンターにはすごい行列ができていました。
空港が混雑するアメリカでは,事前にチェックインを済ませておくことと荷物はキャリーオンにして預けないのがスムーズに旅行するコツです。デルタ航空は手荷物の重量制限がカンタス航空の7キログラムとかフィンランド航空の9キログラムのように厳しくないので,大きさ(合計115センチメートル)さえクリアできればまず大丈夫です。
ロサンゼルスの空港は広く,デルタ航空の国内線はターミナル3ということでしたが,入国後,国内線ターミナルへ行く方法がわからず,案内所で聞いてなんとか歩いて到着できました。昨年来たときも工事中でしたが1年後もまだ工事をしていて,場所が変わってわかりにくさが倍増していました。
セキュリティチェックはプライオリティだろうとそうでなかろうと同じラインで,何が特権なのかサッパリわかりませんでしたが,それほど混雑してもおらずすんなりと終わりました。

次のフライトまで3時間の待ちです。順調だとこのくらいの待ち時間になるのですが,3月にオーストラリアに行ったときのように1時間しか余裕がないと,到着が遅れたとき乗れないこともあるので,3時間程度の待ち時間は仕方がありません。ごった返すターミナルを抜けてあとはデルタスカイクラブのラウンジで時間つぶしです。
日本との時差が8時間ですが,これは夜9時の次が午前5時になったということで,夜が丸々なくなってしまうのです。これが時差ボケを引き起こすのです。今回は機内で結構眠れたので大丈夫でしたが,それでも,食事に関しては午後6時に夕食を食べた6時間後の深夜0時に朝食を食べたようなものなのです。そこで今日の昼食をどうしようかと思案することになるのです。
調子に乗ってまた,ロサンゼルスのラウンジで食事をしてしまえば食べ過ぎだし,食べなければ食べないで夜まで食事抜きだし,次のフライトで何が出るかもわからないし,困ったものです…。とかいいながら思わずラウンジでサンドイッチに手が出てしまうのでした。

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