しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

May 2020

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 今日は,私が精神的に忙しくしている三番目の理由である「升田将棋選集」を取り上げます。
 全5巻からなるこの豪華な装丁の本は私の宝物ですが,本に載っている多くの対局から順に1局ごとを並べて,将棋ソフトによる評価値を参考に楽しんでいます。以前なら本の解説を読みながら並べるだけだったのですが,こうして将棋ソフトを使うことで,もとに戻したり,別の変化手順を調べたりできるので,とても便利になりました。
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 それにしても,こうして並べてみると,本の解説とコンピュータの評価値とのあまりの違いに驚きます。本の解説では好手とあっても,コンピュータはその手をさほど評価していなかったり,形勢判断すらまったく異なっていることが少なくないのです。私には人間とコンピュータのどちらが正しいのかを判断する棋力はありませんが,同じ局面でも,今の若い棋士が解説したら,また,全く異なる評価をするのかもしれません。
 このように,将棋というのは魔訶不思議なゲームです。どんなに強い棋士がその手を正解としても,本当にそれが正解なのかは神のみぞ知る,数学の問題とは違うのです。

 そうした違いはともかく,実際に並べながら味わうと,升田将棋は本当に楽しいです。ハッとする手や意外な強手が一杯出てきます。
 ところで,私が将棋を覚えた昭和40年代(1965年以降)のころはまだ升田幸三という大棋士は現役でしたが,昭和30年代前半の全盛期はとうの昔に過ぎていたし,タイトルも持っていなかったので,はじめはその名を知りませんでした。私がそれを知るようになったのは,「大山康晴15世名人と升田幸三実力制第四代名人」(私が興味をもったころの肩書は「大山康晴名人と升田幸三九段」ですが),このふたりの対局が将棋界一の見ものであると,私が将棋を覚えたときに買った子供向けの入門書のグラビアにあったことからです。そして,異様な風貌の升田幸三という棋士に興味をもったのです。
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 晩年の升田幸三は,朝日新聞に掲載されていた将棋名人戦の予選であるA級順位戦だけ本気を出して対局しました。本気を出したといっても,6時間あった持ち時間のうち消費する時間はわずか2時間程度でしたが,それでも勝ちまくり,名だたるA級棋士に対して勝率が常に8割程度ありました。ある対局では,持将棋指し直しになって遅くなり,再戦ではほとんど時間を使わず,結局消費時間わずか5分で勝ったりしていました。ほかの棋士とはまったく格が違うという感じでした。
 しかし,A級順位戦以外の棋戦はまるでやる気がなく,消費時間も1時間と使わず,負けに負け,トーナメントは初戦敗退ばかりでした。それでも内容はとてもおもしろく銭のとれる将棋ではありましたけれど,負けた原因のほとんどは終盤で悪手を指して一手ばったりでした。そんなわけで,インターネットもなかった時代,本気の升田将棋を見るにはA級順位戦が掲載されている朝日新聞を購読するしかなかったのです。朝日新聞社の嘱託でもあった升田幸三は新聞の購読に実際に貢献していたわけです。
 そんな升田幸三に,本気を出していない対局で勝った若手が「升田に勝った」と言いふらしているのを聞いて,升田幸三は「真剣にやっているのと手抜きをしているのもわからんやつだ」と言ったとかいう都市伝説があるのですが,おそらく,本当にそう言ったのでしょう。

 晩年の升田幸三はそんな棋士だったのです。
 しかし,こんな大人を知ると子供にはいい影響はありません。私は子供ごころに,なんといい商売だろうと思いました。ふらっと10時に現れ(しかもよく遅刻するのですが),遅刻すると規定によって遅刻した時間の3倍持ち時間を減らされるのですがそもそも使わないのだからそんなことは問題なく,お昼ご飯は生卵2個だけで,あとは適当に将棋を指して午後4時には終了し,お金もうけができるのだから,そんな生き方に私は憧れました。
 実際は,私が知らぬ時代の升田幸三は戦地に送られて死線をさまよい,その後は戦争での無理がたたって病気になり,病身に鞭打って将棋に打ち込んでいたのですから,私は本当の姿を知らなかったわけです。
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 ものすごい量の将棋が指されていても,そのほとんどの棋譜はすぐに忘れ去られる今日とは違い,今から50年も昔の将棋が今でも輝いているのですからやはりすごいものです。
 それにしても,当時は今のような公開対局もなく,生の升田幸三を見る機会がなかったことだけは,今もずっと心残りです。

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 今から20年ほど前に,瀬戸内寂聴さんの訳した「源氏物語」を購入しました。出版されるたびに読み進め,一応全部終了しました。購入した理由は,「源氏物語」という有名で不朽の小説がどういうものか知りたかったからなのですが,さすがに原文では読めないなあと諦めていたちょうどそのときにこの全集が出版されたのです。
 寂聴さんの源氏物語は意訳しすぎだとか,学問的におかしいとかいった批評をする人もいるようです。しかし,どんなものでもいろんな評価があるものですし,批判することが通だと思っている人もいるのです。私は学者ではないので,とにかく楽しめればいいわけなので,細かいことにはこだわりません。本当の評価はわかりませんが,私の目的は源氏物語がいかなるものかがわかれば,それでいいのです。
 今回,せっかく時間ができたので,それを再び読んでみようと思ったわけですが,先を急ぐ必要もないので,高等学校の生徒用に出版されている国語の図説やその他のさまざまな資料とかを参考にして,平安時代に戻ったような気持ちで味わいながら,再び楽しんでいるのです。じっくり取り組むといろいろな発見があります。再び読み終えるのにこの先何年かかるかわかりませんが,気長に読み進めます。
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 それにしても,私が大学生時代に教養部で受けた源氏物語の授業で,先生がこんな恋愛小説が高等学校の古典の授業で取り上げられているのはけしからん,と言っていた意味が,改めて読んだ今にしてとてもよくわかります。
 
 ところで,これまで,さまざなな作家さんが源氏物語の訳に取り組みました。作家の矜持として一度は訳してみたいのでしょう。一番新しいところでは角田光代さんのものがあります。私は詳しく知らなかったので,これを機会に,これまでに訳されたものの違いを調べてみました。
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●与謝野晶子「新訳源氏物語」(ダイジェスト訳)「新新訳源氏物語」(全訳)
 口語体で書かれていて,主語を入れ敬語を省いた短文で書かれているということです。古典は敬語があることで主語が省略されているわけですが,その反対に挑戦したということでしょう。確かにこのほうが今の人にはわかりやすいかもしれません。文体は歯切れが良く,古風な女語りの手法とは距離を置いていて,今の小説として読めるようになっているそうです。
●谷崎潤一郎には次の3つがあります。
 「潤一郎訳源氏物語」は戦前の出版なので,天皇家の不敬に当たる部分を削除してあります。
 「潤一郎新訳源氏物語」は戦後の出版で,戦前の削除された部分を復活しました。
 「潤一郎新々訳源氏物語」は旧仮名や旧漢字を読みやすく改めたものです。
 いずれも,原文の敬語を生かして丁寧語を多用し,また,継ぎ目のない長文で,主語も入っていないということなので,原文を尊重しているのでしょうが,そのため難しいといわれます。また,関西の女語りを意識した流麗な雅文体の訳だそうです。
 なお,私が高校生のころに英語の勉強に使った「新々英文解釈研究」という当時はかなり定評のあった参考書があるのですが,与謝野晶子訳,谷崎純一郎訳ともども,この時代「新々」という使い方が流行ったのでしょうか。
●円地文子「源氏物語」
 男性的なしっかりした文体で,主語を加えて,また,注釈的な部分も文中に織り込んでわかりやすく,かつ,その文体は格調が高く文学的だそうです。また,内面の読み取り方が鋭く深いものになっています。瀬戸内寂聴さんのものが生まれるまで,これこそが源氏物語の現代語訳の定番でした。
●田辺聖子「新源氏物語」
 男性にもわかりやすい物語を目指し大幅なリライトが加えられていて,会話を多用した一種の現代小説のようということです。大和和紀の漫画「あさきゆめみし」に影響を与えました。
●瀬戸内寂聴「源氏物語」
 私が持っているのはこれです。
 ですます調の語り口で,平易な日本語で訳されています。宣伝効果もあってかつてないヒットとなりました。私もそれにつられて購入した口です。
●角田光代「源氏物語」
 原文に主語を補い敬語を省略し,また注釈のような説明を本文で補っているのはこれまでの現代語訳でも試みられていることですが,「である」調で訳されたところが斬新です。現代小説のように違和感なくさらりと読めるということです。
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 文学の力と時間があれば,読み比べるのも一興かもしれません。

 ところで,NHK総合で「いいね!光源氏くん」というとてもおもしろいドラマが放送されました。このご時世も手伝って,かなり評判がよかったように思います。
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 「源氏物語」の中で雅の世に生きていた平安貴族・光源氏が,まったく世界観の違う現代に出現。あたりまえに見える現実世界とのギャップに驚いたり,楽しんだり……。
 こんな光源氏をヒモ同然のように住まわせることになる地味で自分に自信がない今風のこじらせOL・沙織は,はじめは違和感を覚えつつも徐々に光の存在に癒されていく。
 奇想天外ながらゆる~く笑える千年の時を越えた“いけめん”居候コメディ!!
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だそうです。コミック好きのに人は有名な作品だったかもしれませんが,私はまったく知りませんでした。
 ともかく,こうした何の憂いもなく楽しめるドラマ,これこそが,テレビというものです。
 4K放送も8K放送もいらないから,不安をあおるだけのニュース番組は別の専用チャンネルを作ってそこに押し込めて,総合テレビはこうしたこころ休まる番組ばかりにしてほしいものだと思います。

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 お昼間は家に籠っている私ですが,まったく退屈することもなく,日々精神的に忙しくしています。
 精神的に堕落するのは,テレビでくだらない情報番組を見ることです。以前書きましたが,現代の社会では情報を得ることより得ないことの方が大切なのです。つまり,自分に不要な情報や何の根拠もない予想を聞いても,不安にこそなれ,何も得るものなどないのです。
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 ということで,私が精神的に忙しくしているのは,主に次の三つの事柄が理由なのです。
 そのひとつは,1980年4月から7年間,NHKFMで放送されていた吉田秀和さんの「名曲のたのしみ」という番組で取り上げられた「モーツアルト・その音楽と生涯」シリーズの内容が網羅された全集を,当時の録音を聴きながら読むことです。ふたつめは,瀬戸内寂聴さんが訳された「源氏物語」全10巻を味わうことです。そして,三つめは,「升田将棋選集」全5巻の棋譜を並べることです。
 これらのことはこれまでずっとやりたいと思っていたのですが,なかなかじっくりと取り組むことができませんでした。この機会ということではじめたのですが,これがまあ,なんと幸せな気分になるこか。こうした時間を与えてくれた神に感謝です。

 「名曲のたのしみ」は放送当時私も録音しましたが,残念ながらすべて失いました。それが,ありがたいことに,この番組の録音がYouTubeにあがっているので,これを聴くことができるのです。そして,それを記録した全集が小学館から出版されていて,その本を私は持っています。そこで,40年後の今,当時の放送の録音を聴きながら本を追うことができるのです。毎週1回1時間の放送でしたがこれが7年,これをすべて聴けば,モーツアルトの作曲した音楽のそのほとんどを聴くことができます。
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 モーツアルト好きの人は多く,したがって,研究者も多く,この番組が放送されたのちに,新たにずいぶん多くの情報がインターネットから手に入るようになりました。それらの中には非常に充実したものがあって,今では,モーツアルトの作ったほとんどすべての曲の詳しい解説を読むことができるようになりました。さらに,以前ならレコードを買わない限り交響曲全曲を聴くことすら不可能でしたが,今はインターネットでモーツアルトの作曲した音楽のほとんどを簡単に聴くことができるのです。
 それに加えて,私が2018年と2019年にウィーンに行った経験から,モーツアルトが生きていた時代のオーストリアの様子が手に取るようにわかるようになったこともあります。
 こうしたことが助けになって,モーツアルトの音楽をより深く感じることができるわけですが,それはモーツアルトに限らず,私は,ウィーンのハイリゲンシュタットにあるベートーヴェンの小径を歩いて以来,ベートーヴェンの第6番交響曲「田園」を聴いたときの感動がまるで変わったし,また,マーラーの墓を詣でて以来,マーラーの交響曲を聴く気持ちが大きく変化したのですが,そうしたことと同じです。
 モーツアルトの作った音楽は600曲以上あるので,この先まだまだ楽しむことができます。気長にこれからもずっと「名曲の楽しみ」を通じてモーツアルトを味わいたいものだと楽しみにしています。

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 モオツァルトの音楽みたいに,軽快で,そうして気高く澄んでいる芸術を僕たちは,いま,求めているんです。 へんに大袈裟な身振りのものや,深刻めかしたものは,もう古くて,わかり切っているのです。
    太宰治「パンドラの匣」
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 ブログでは美濃路の大垣宿,墨俣宿の順に書きましたが,この日私は,早朝に墨俣宿へ行き,そのあとで大垣宿に行きました。それでもまだ午前中だったので,帰るまえに,桜満開の谷汲山華厳寺に足を延ばしました。ということで,今日は美濃路ではありませんが,谷汲山華厳寺について書きます。
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 この春は,まだ深刻でなかったにせよ新型コロナウィルスの流行がはじまって外国からの観光客がいなくなったために,今後はこんなことはありえないというほど,人が少ない静かな花見ができました。
 また,私の嫌いな桜の花の下で宴会騒動,ということもなく,暖かな春の日,満開の桜の咲く下を心置きなく散歩するには最高でしたし,満開になってから寒くなったので,桜が散らず,2週間も楽しめました。こんな春はもう二度と訪れないでしょう。
 桜の季節なのに,華厳寺もまた人が少なく,したがって車も少なく,駐車場は無料で開放されていました。車を停めて参道を歩きました。
 華厳寺は天台宗の寺院で,山号は谷汲山,本尊は十一面観世音菩薩,脇侍として不動明王と毘沙門天を安置する西国三十三所第33番札所,つまり満願結願の寺院です。

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 華厳寺は,798年(延暦17年)に会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって創建されたといいます。
 大口大領は都の仏師に依頼して自らの信仰する十一面観世音菩薩の像(観音像)を造立しました。観音像とともに会津に帰ろうとしていたところ,途中の美濃国赤坂(現在の大垣市)で観音像が動かなくなってしまいました。
 そこで,798年(延暦17年)赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受けて草庵を建立し,僧・豊然上人の協力を得て華厳寺を建立しました。その後,801年(延暦20年)に桓武天皇の勅願寺となり,917年(延喜17年)には醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜し,944年(天慶7年)に朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め,仏具・福田として一万五千石を与えたというから,かなりの歴史と格式があります。
 1334年(建武元年)に足利氏と新田氏の戦乱で幾度となく諸堂伽藍を焼失しますが,1479年(文明11年),観音菩薩の夢告を受けた薩摩国鹿児島慈眼寺住職道破拾穀により再興されました。
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 1キロメートルにわたる参道は桜が満開でした。私は参道の満開の桜さえ見ることができればそれでよかったので,ここで昼食をとり,帰ることにしました。選んだ食堂は「萬屋(よろずや)」というところでした。
 お店の外にこの店のいわれが書かれていました。それによると,948年(天暦元年)に羽林の姓を賜り,1320年(元応2年)には後醍醐天皇より播磨の国と赤松の姓を賜り,赤松円長と名乗りました。その孫にあたる赤松三郎円心の嫡子赤松則次は1351年(観応2年)に足利尊氏の幕臣となり今村姓をなのることになります。1358年(正平13年)足利尊氏の死去に伴い,諸国行脚の末,夢枕に観音様が現れ,谷汲山に導かれました。それ以降,名主としてこの治を収め,1860年(萬延元年),萬屋与衛門のときに現在の家業となり,以来,百数十年になる,ということです。

 帰り道,いつも通る道路の脇の樽見鉄道の木知原(こちぼら)駅付近がまた桜満開でした。私はこれを狙ってきたわけでもなかったのですが,見ごろだったこともあって,付近に車を停めて写真を撮ることにしました。ここは有名な撮影スポットで,この風景を狙ってわざわざやってきているアマチュアカメラマンが群れていて迷惑でした。どうして何事もひとりでできないのだろう,と私は不快でした。
 それはともかく,私は駅と桜さえ写すことができればそれで満足だったのですが,偶然,電車が通りました。電車が通るのは1時間に1本程度だったので,とても幸運でした。少し以前に行った山陰本線の餘部駅のときもそうだったのですが,何も調べず,その気もないのにいつもツキに恵まれています。
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 樽見鉄道は桜の名所が沿線にあることで鉄道ファンに知られれています。
 大垣駅から本巣市の樽見駅を結ぶ営業距離34.5キロメートルのローカル線は,1984年(昭和59年)国鉄樽見線の廃止で第三セクター鉄道として大垣と神海(こうみ)間が開業し,1989年(平成元年)には樽見駅まで延伸しました。樽見駅から徒歩約15分のところには淡墨公園があり,国の天然記念物「淡墨桜」が咲きます。私は数年前に行ったことがありますが,この桜はかなりのお歳で枝の支えが痛々しく,私はあまり感動しませんでした。
 また,今回私が写真を写した木知原駅は2018年(平成30年)の台風21号で被害を受けて駅の北側の桜が伐採されてしまったので,残念ながら往年の姿は消してしまったのだそうです。

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 犀川の西側に広がるのどかな田舎の集落が墨俣宿でした。
 日本では,こうした集落や旧街道歩きをすることくらいしか旅の楽しみはありません。風光明媚といわれる観光地は人が満ちあふれていて,まったく楽しくもありません。
 果たして,今回の新型コロナウィルスが収まったとき,再び外国からの観光客がやってきて,また,私のきらいなオーバーツーリズムが戻ってきてしまうのでしょうか? そういった意味では,そうした状況が戻る前こそが,国内旅行の最後のチャンスでしょう。

 ところで,墨俣ですが,ここは美濃路が設定されるより古くから,すでに宿場町として栄えていました。江戸時代になって美濃路の宿場として整備されると,勅使大名朝鮮琉球使節等の休憩所として本陣などが利用されました。
 墨俣宿の本陣は,初代を沢井九市郎正賢なる人物が務め,2代目以降は代々・沢井彦四郎を名乗り,明治に至るまで13代続きました。
 本陣跡は残っていませんが,脇本陣跡が残っていました。脇本陣跡の門は,明治の末に本正寺というお寺に移築され,現在は山門となっています。脇本陣自体は1891年(明治24年)の濃尾震災の際に倒壊しました。その後に再建された建物は民家ですが,脇本陣時代の構造を色濃く残していて,当時の宿場町の面影を偲ぶことができます。

 墨俣には多くの大きな寺がありました。廣専寺は浄土真宗のお寺で美濃路から外れた寺町通りに面しています。 また,本正寺には,先に書いたようにかつての脇本陣の門が移築され,現在山門として残っています。
 堤の南側の下には1910年(明治43年)に建てられた馬頭観音と一里塚跡の石碑があります。
 また,町屋観音堂と結神社は照手姫にゆかりのあるところです。この観音堂は,1169年(嘉鷹年間)近くの結神社とともに参道東側に建立されていました。1891年(明治24年)の濃尾震災で倒壊し,1919年(大正8年)に再建されたものの老朽化が進み,1994年(平成6年)に再建されたものです。観音堂の本尊は栴檀の木で彫られた十一面観世音菩薩で,頭上に一寸八分(約6センチメートル)の黄金仏を頂きます。この黄金仏は照手姫の守本尊だったそうです。
 結神社はかっては結大明神とよばれていました。照手姫は相模の国で小栗判官と夫婦の契りをしましたが,父が反対し小栗判官を殺そうとしました。照手姫が小栗判官を助け,小栗判官は三河の国へ逃げ延びました。しかし,照手姫はその行方を知らずにいて,彼方こなたをたずねた後,結神社に小栗判官との再会を祈願したところ,満願の夢まくらに霊験があって判官の居所がわかり,再び会うことができたということです。結大明神の「願望叶へさすべし。然し守本尊は我に有縁の尊像なれば,当社に納めよ」とのお告げにより、姫は喜んで納めました。また,結大明神は村民に「この尊像は当地に有縁な尊像なれば,観音の頭上に載せ諸人に拝ませよ」とのお告げをしたことによって観音堂に祀られるようになったのだそうです。

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 常陸国小栗判官小次郎助重は,相模国横山郡代の娘照手に恋し結ぶも,横山一族に殺される。地獄に落ちた小栗は閻魔大王のはからいで餓鬼阿弥の姿となるも藤沢の上人の力により助けられ,土車に乗せられ青墓へ。そこで青墓宿の宿萬屋へ売られていた照手がそれを見かねて大津の関寺まで曳き,その後も多くの人々の手で熊野本宮へ。湯の峰の薬湯に浸かると元の姿になって,京都で両親と対面し,美濃国青墓の照手ともめでたく再会。その後都へ登り,天皇より死からの帰還は希であるととたたえられ,常陸,駿河,美濃国を賜る。大垣市をはじめ各地に「小栗判官と照手姫」の伝説は語り継がれており,説経節,浄瑠璃,歌舞伎にも取り上げられている。
 小栗の死後,現人神として八幡社に祀られ,照手姫も結びの神として結神社に祀られていると伝えられている。
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 墨俣はまた,室町時代までの鎌倉街道の宿場でした。この時代の宿場町は現在の大垣市墨俣町上宿付近にあったのですが,美濃路の設定で大垣市墨俣町墨俣付近に移設されました。
  鎌倉街道というのは各地より鎌倉に至る道路の総称です。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については鎌倉往還ともよばれましたが,京と鎌倉を結んだ京鎌倉往還は,鎌倉の極楽寺坂より腰越,片瀬を通り,相模から駿河へは足柄路または箱根路を越え,遠江,三河,尾張,美濃を通り不破関跡を越えて琵琶湖畔を経て京都粟田口に達していました。

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 ブログでは先に大垣宿のことをを書きましたが,私が行った順番は,先に墨俣宿,その次が大垣宿でした。今日は墨俣宿について書きます。
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 墨俣宿に到着したのは早朝だったので,人もほとんどみかけず,河原にある駐車場もまだ車は1台も停まっていませんでした。
 そもそも,今回の新型コロナウィルスの流行でもそうですが,以前書いたように,日本人の行動というのはすべて6:3:1で出来ています。たいした自分の主体もなく考えもせず,人に巻かれて生きているのが6,長いモノに巻かれたくないから抵抗しているのが3,確固たる信念で反抗しているのが1,で,3の人を6になびかせれば勝ちなのです。だから,6は「お願い」という強制で簡単になびき,3を何とかすればそれで収まるのが日本という国です。
 政党がまさにそうです。政権政党に属する人の多くは自分の意見などもたず長いモノにまかれていれば自分の身が安泰という人が多いのです。
 これは投資でも同じで,だから,業者は6に属する人からお金を巻き上げれば利益が生まれるということです。そして,自分の考えも持た勧められたまま投資をする6に属する人はほぼ損をします。徳をするのは1に属する少数の人だけです。
 同じように,旅というのは,6にあたる人たちの行動に従えば,渋滞に巻き込まれ,密が生じまます。
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 へそ曲がりの私は,以前は3の仲間でしたが,歳をとって,主体的に生きるには1であるべきだと悟りました。ただし,弱いのでなかなかそう成り切れません。ただし,行動に対してはつねに1なので,どこへ行っても密は生じません。
 この日もまた,人のいない時間に墨俣に到着して,だれもいない桜並木の下を歩き,人が出てきたときには去り,観光をする人もほとんどいない墨俣宿を散歩しました。

 現在存在する墨俣城というのはいわゆる「なんちゃって」城で,豊臣秀吉が作ったのはこんな城ではなく,これは観光誘致のために近年作ったものです。噂では,この城は史実でないと作るのに反対した人たちの名前をどこぞやに掲げてあるということですが,いかにも日本の田舎らしき陰険さです。こういった「村八分的集団いじめ」こそが日本人の本質です。法律上は問題がなくても「お願い」に従わずいつまでも営業していると名前を公表するぞというのもまた同じ構図です。
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 もともと墨俣の地は長良川西岸の「洲股」で,交通上・戦略上の要地だったので,戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていました。
 1561年(永禄4年)と1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって,木下藤吉郎,つまり,後の豊臣秀吉がわずかな期間でこの地に城,というより砦を築いたと伝えられていて,これがいわゆる「墨俣の一夜城」とよばれるものです。 現在,この地は一夜城跡として公園に整備されていて,大垣城の天守を模した城状の墨俣一夜城歴史資料館が建てられているわけです。
 1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで当時美濃を支配していた池田恒興の家臣・伊木忠次がここを改修したとあるのが墨俣が歴史に登場する最後で,その2年後には木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が収まり戦略上の重要性を失いました。

 墨俣の一夜城があった場所の西端と南端を流れる犀川の堤には約800本の桜並木が4キロメートル弱わたって続いていて,トンネルとなっています。この堤を歩いて,私は,墨俣宿に向かいました。例年ならば桜まつりで人があふれ,堤防道路は通行禁止となるのですが,桜まつりが行われなかったので,堤防道路は地元民が通勤でときどき車が通ることだけが残念でしたが,人のいない桜並木を十分に堪能することができました。

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☆☆☆☆☆☆
 地上のことはさておき,空の上ではおもしろい出来事が連日あって,この春は忙しい毎日です。月というものがなくいつも天気がよければ予定も立つというものですが,月明かりと雲が予定を阻害します。しかし,それもまたよしと思える歳になってきました。
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 さて,この春の見ものは,第一にアトラス彗星(C/2019Y4 ATRAS)でしたが,あえなく分裂して,期待に反して明るくならず,でした。そうこうするうちに,南半球ではスワン彗星(C/2020F4 SWAN)が明るく見えているという情報が伝わって,南半球なんて関係ないや,と思っていたら,彗星が太陽に近づいてくるにつれて日本でも地平線すれすれに見ることができるようになったのには,うれしいというより参りました。このことはすでに書きました。

 これらのことはパプニングとして,私がずっと楽しみにしていたのは,パンスターズ彗星(C/2017Y4 PanSTARRS)がおおくま座にある銀河M81,M82,NGC3077に大接近するということと,月齢2の月が金星と水星に接近するというふたつの出来事でした。
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 彗星は銀河M81,M82,NGC3077に接近したあとは次第に遠ざかるのですが,最も近づくのが5月23日で,その前後数日は同じ画角の写真の視野に入ります。また,条件最悪のスワン彗星とは違って,この時期は新月の前後なので条件もよく,また,彗星の位置も北極星に近いので,一晩中見ることができます。
 しかし,このごろはすでに梅雨空のようになってしまい,3月から4月にかけて毎日晴れ渡っていたのがなつかしく感じるようになりました。5月23日もまた,さえない天気でしたが,予報では明日以降も晴れそうになかったので,ダメもとで,曇ってしまったときは深夜のドライブを楽しむつもりで出かけました。
 現地に着いたとき,なんとか北極星とおおくま座が見える程度で空のほとんどは曇っていてがっかりしました。おおくま座のM81とM82はとてもわかりずらいところにあるので,晴れていても視野に入れるのが大変なのに曇り空では打つ手もなく,しかも,この日はおおくま座は天頂に近く望遠鏡を覗くのもまた大変でした。苦労のあげく,なんとかふたつの銀河M81とM82の近くにあるおおくま座24番星(4.5等星)をファインダーに入れることができたので,やっと場所が特定できました。
 おそるおそる写してみたのですが,はっきりと銀河と彗星が写っていました。それにしても,こんな曇り空でも8等星の彗星が写るのが驚きです。
  ・・
 こうして,私は,前回のスワン彗星に続いて,今回もなんとか写真に収めることができて,すっかり満足しました。

☆ミミミ
その翌日5月24日は,月と金星と水星の接近でした。
私が上に書いた彗星を写した23日は金星が午後8時ころには思っていたより高い位置に簡単に見つけることができたので,次の日も晴れていれば期待できそうかな,と思ったのですが,当日は雲があって絶望的でした。しかし,前日に金星の位置を確かめることができたのが幸いしたことと,幸運にも雲が切れて,沈む寸前に美しい姿を写すことができました。
これもまたツキにめぐまれました。
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 この日,水門川沿いのに咲く桜がきれいでした。水門川のほとりに大垣市奥野の細道むすびの地記念館があって,そこの広い駐車場に車を停めて,ここからしばらく美濃路を歩こうと思いました。
 水門川のあたりは結構な人が訪れていましたが,私の目的は美濃路でした。水都公園から東に旧美濃路は続いていました。水門川のあたりとは違ってほとんど人のいない旧街道はいつもの静かな散歩コースとなって,落ち着きます。
 
 旧美濃路は旧中山道の垂井宿からはじまります。以前,垂井宿を歩いたときに見つけたのが旧中山道から旧美濃路がわかれる追分でした。追分で旧中山道は東に進み,赤坂宿に向かいますが,旧美濃路は東南東に曲がり大垣宿に向かうわけです。
 現在は赤坂宿だったところがさびれてしまっているのに比べて,大垣宿は大垣市の中心部となってずいぶんと発展しました。
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 旧美濃路は大垣宿を過ぎると,さらに東に,次の墨俣宿をめざし,その後は南東に方向を変え,現在の名古屋市熱田区である旧東海道の宮宿にある熱田神宮で旧東海道との追分に至るわけですが,この旧美濃路の通っていた場所が,現在の東海道新幹線の通っているところとほとんど一致していることからもわかるように,極めて合理的な街道なのです。 
 江戸時代の事情はわかりませんが,現在の名古屋あたりから京に行くには,七里の渡し,そして,鈴鹿峠を越えなければならない不便な東海道よりも,美濃路を経由して中山道に入り,中山道を歩くほうがずいずんと楽な気が私はします。
 
 たびたび大垣市には行くのですが,こうして旧美濃路だった路地を歩いたのははじめてでした。
 当時の建物は残っていませんでしたが,本陣跡には新しく本陣を模した建物ができ,また,高札場跡には案内板があって,当時を思い起こすことができました。
 どこへ行ってもそうですが,車で走ると決してわからないその町の昔の雰囲気が感じられるので,旧街道歩きは楽しい限りです。テーマパークやら観光地化された神社仏閣やらを訪れるより,スポーツジムで汗をながすより,このような人のいない旧街道歩きをするほうが,ずっと健康的に思えます。
 ただ,人がいないということはさびれているということだから,旧街道の宿場にあった昔からの個人商店の多くがシャッターがしまっているのが残念です。この先,さらに超高齢化するこの国は,こうした昔からの商店街を,昔の宿場町をほうふつとさせるような魅力的な通りに変える工夫ができればいいのになあと思ったりもしますが,そうすれば,そんな場所は観光地化してしまい,私のきらいな人混みになるのではと思うと,複雑な気持ちになります。

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 去る4月3日のこと。
 桜が満開になったので,近場で桜のきれいなところはどこだろうかと考えていて,墨俣を思い出しました。そこで,人のいない早朝,墨俣までのドライブを楽しみました。
 後日詳しく書きますが,墨俣といえば「豊臣秀吉の一夜城」として有名です。しかし,それよりも「美濃路の墨俣宿」だったということを知って,ならばと,今度は美濃路について調べてみることにしました。ここから私の興味は美濃路に移ったのです。
 美濃路なんて,家の近くなのでこれまで特に意識もしていませんでした。どこを通っているのか詳しいことはまったく知りませんでした。そこで,これを機会に美濃路の宿場を順に訪ねてみることにしました。多くは徒歩圏内,あるいは自転を使えば簡単に行くことができる散歩コースです。

 とりあえず,このときはせっかく墨俣まで行ったので,もう少し足を延ばして,美濃路の宿場であった大垣市まで行ってみました。
 …ということで,今回は大垣についてですが,まずは余談からはじめます。
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 大垣市は岐阜県の濃尾平野北西部にあって,日本列島の「ど真ん中」にある都市といわれていますが,上石津地域と墨俣地域という飛地をもっていて,しかも飛び地の面積のほうが広いというめずらしい町なのです。
 そこで,今回行くことになる墨俣も現在は大垣市なのですが,もうひとつの飛び地である上石津地区には大きなダム湖があって,私もこれまでたびたび訪れたことがありました。で,なんと,この上石津地区にはかつて多羅城という城があって,そこが明智光秀の誕生の地だった,というではありませんか。
 そんな次第で,私は特に「麒麟がくる」を意識しているわけでもないのに,今回もまた,明智光秀が登場してしまいました。このごろ私が行くところ行くところ,どこもかしこも明智光秀の生誕地を名乗っているのです。こうなると,笑うしかありません。
 明智光秀は40歳を過ぎて織田信長の家来となってからはじめて歴史の表舞台にその名を残し,しかも裏切り者扱いを受けたので,前半生の姿が全くといっていいほど解明されていません。謎だらけです。そこで,どこで生まれ誰の子なのかも定まっていません。一応は美濃の守護・土岐氏一族の出身とするのが通説となっているようですが,生誕地についても諸説あり,大垣市上石津町多良地区にかつて存在したとされる多羅城も生誕地のひとつに考えられているのだそうです。曰く,
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 明智光秀は1528年(大永8年)に石津郡多羅で進士信周の次男として生まれました。母は明智家当主・明智光綱の妹でした。明智光綱に子供がなかったので,明智光秀は養子となり明智家を継いだということです。
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 もう勝手にしろという感じです。

 では,話を大垣市に戻します。大垣市で有名なのは大垣城と松尾芭蕉です。
 大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により,1535年(天文4年)に創建されたと伝えられています。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりました。江戸時代の初期には藩主が入れ変わりましたが,その後は戸田氏が十万石の城主となり安定政権,明治まで太平の世が続きました。
 戸田氏初代の藩士は戸田氏鉄です。戸田氏鉄は徳川氏の家臣で,近江膳所藩主,摂津尼崎藩主を経て大垣藩の藩主となりました。多くの藩では藩主がめまぐるしく変わったり取り潰しになるなか,大垣藩は明治維新まで安定して戸田氏が藩主を勤め上げたわけです。
 のち,1936年(昭和11年)に大垣城は国宝に指定されましたが,1945年(昭和20年)の戦災で焼失していまいました。1959年(昭和34年)に4層4階の天守を再建し,大垣市のシンボルとなりました。
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 江戸時代の大垣宿は,東西交通の要所として,また,東西文化の接点として,経済・文化が発展した地でした。いまでも大垣市は文化の香り高く,落ち着いた住みやすそうな町です。
 松尾芭蕉は1689年(元禄2年)の秋,水門川の船町港から桑名へ舟で下り,約5か月間の「奥の細道」の旅を終えています。このように,松尾芭蕉は「奥の細道」の旅を大垣で結びましたが,はじめて大垣を訪れたのは「野ざらし紀行」の旅の途中,1684年(貞享元年)に以前から親交があった船問屋の谷木因を訪ねるためでした。
 谷木因宅に1か月ほど滞在し,大垣の俳人たちが新たな門人になりました。松尾芭蕉が門人に宛てた手紙によれば「奥の細道」は旅立つ前から大垣を旅の結びと決めていたことが伺えます。それは,大垣に早くから自分の俳風を受け入れた親しい友人や門人たちの存在があったからといわれます。

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 路通も此みなとまで出むかひて,みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば,曾良も伊勢より来り合,越人も馬をとばせて,如行が家に入集る
 前川子荊口父子,其外したしき人々日夜とぶらひて,蘇生のものにあふがごとく,且悦び,且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに,長月六日になれば,伊勢の遷宮おがまんと,又舟にのりて
  蛤のふたみにわかれ行秋ぞ  「奥の細道」
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 多くの学校が休校になっていますが,そもそも,小学校はともかくとして,中学校や高等学校に通う必要などあるのかなあと不登校寸前だった私はずっと思っていました。
 私自身,学校に行っても授業中は寝ているだけでした。高等学校では,歴史などは授業など聞かなくても教師の生半可な知識より詳しい本を読めばわかったし,数学は自分の力で問題を解いて解いて解きまくるだけのことで大学入試問題もできるようになりました。中学校では,5分でわかるものを50分もかけて説明していて,最後の5分だけ集中して聴けば事足りてまどろっこしいだけでした。しかも,それまで自由放任で居心地がよかったのに,もともとできる問題などやる必要もないのにそれを書いてノート提出しろなどというアホな教師が突如出現し,そんな教師を相手にするのは時間のムダでしかありませんでした。そんな「写経」をする時間があれば,自分のペースでできない問題を時間をかけて取り組むほうがずっと効率が高く,勉強になるのです。やったふりなんてまったく意味ないのです。最悪なのは体育で,速く走る方法を教えてくれたわけでもないし,生涯スポーツの楽しみ方を習ったこともない。単に球技を自分たちでやっているだけでした。
 悪名名高きブカツだって,私は高等学校ではそれまでなかった将棋部を作って全国優勝しましたが,運動部だって群れてお遊びしているだけのようなものなら学校でやる必要もないし,真剣にやりたかったら地域のスポーツチームに入って専門家の指導を受けたほうがどれだけよいか,そう思っていました。
 それはともかく,私が高等学校で受けた英語の授業はとりわけひどいものでした。クラスに来たアメリカからの留学生の英語をある教師は理解できないし,別の教師は「ほいっち・どー・よー・らいく」などと発音していて,そんな英語なら耳に毒なので聞かないほうがマシ,という状況でした。私が英語を覚えたのは,もっぱらNHKラジオ第2放送の英語講座でした。
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 学生時代もそんな不良だった私が何十年にもわたってずっと主に聴いていたのは,今は「実践ビジネス英語」というネーミングに代わったのですが,その昔は「やさしいビジネス英語」というなまえの講座でした。少しも「やさしくない」「やさしいビジネス英語」は,非常に内容が濃くて,大好きでした。現在は週3回の放送ですが,はじまったころは確か月曜日から土曜日まで週6回ありました。テキストを買って真っ黒になるまで書き込んで,何度も2倍速にして聴きました。しかし,当時の私にはかなり難しく,どれだけ聴いても知らない単語が出てくるのには参りました。英語は底なし,どれだけ勉強すればいいのだろうと思っていました。
 当時は日本ではまだ定着していなかった client などの単語も当たり前に出てきましたし,時差ボケ防止薬として Melatonin も紹介されていました。AK47という銃も出てきました。そういえばだれも指摘しませんが,AKB48はこの銃から発想された名前なのかもしれません。
 今の私はそんな情熱もなく,英語を覚える気もなく,海外旅行に行ったときに困らない英語力さえあればいいと思っているので,上達する意欲のかけらもないのですが,それでも,毎週,「NHKゴガク」のアプリを使って,気の向いたときにテキストも買わずに聴き続けています。当時はあれだけ難しいと思っていたこの番組がテキストを見なくても理解できるのが,自分でも不思議であり驚きです。
 
 さて,自宅籠城をしていると暇なので,少しはまじめに聴いてみるかと久しぶりにテキストを買ってみました。とはいえ,本屋さんに行くのも面倒なのでネットで電子ブックを買いました。私が力を入れて聴いている「まいにちドイツ語」講座のほうはは紙媒体でないと書き込めないので困るのですが,英語なら別にメモをとる必要もないので,あとで処分に困らない電子ブックにしたのです。
 それを読んでいて,この講座のテキストの末尾に,和文英訳問題が連載されていたのを思い出しました。これはテキストの付録にしては質が高いすばらしいもので,下手な学校の授業など受けるよりもずっと力がつきました。その連載が今も続いていたのです。これを読むだけでもテキストを買う価値があるというものです。
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 さて,今日の話題は,この和文英訳をAIにやらせてみようということなのです。
 AIの発達で,将棋ソフトの実力がプロの棋士の実力を越したのが評判となったのももうずいぶん前のことですが,それを逆手にとって,今は,将棋ソフトの評価値を使って,プロの対局が楽しめるようになってきました。有効利用ができるようになったわけです。
 今回は,それを和文英訳でやってみようという私の企みです。
 でははじめます。テキスト5月号から文章を引用してみます。

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【問題】
 16世紀のデンマークの天文学者ティコ・ブラーエは,史上最高の眼視による天文観測家とたたえられている人物で,あのケプラーの先生にあたる大天文学者としても有名ですが,たいへんな激情家でもあったと伝えられています。
【人間の訳した最優秀解答例】
     The 16th-century Danish astronomer Tycho Brahe, who is praised as the best naked-eye astronomical observer in history, is famous as Johannes Kepler's mentor, but he is also said to have been a man of hot blood, too.
【Google翻訳】
     The 16th-century Danish astronomer Tycho Brahe, who is praised as the highest visual astronomical observer in history, is well known as a great astronomer who was the teacher of Kepler, but he was also a very passionate person. It has been told.
【Weblio翻訳】
     It is famous for the astronomy observations to stop at and person full of as a large astronomer equal to the teacher of that Kepler, but Danish astronomer Tycho Brahe of the 16th century is informed it to look at the best eyes in history when it was the serious passions.
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 いかがでしょうか? ずいぶん楽しめますが,AIもまだまだという気もします。しかし,機械翻訳させて,それを利用して間違いを直しきれいな英語にする力さえあれば(それができるにはかなり英語力が必要なのですが),和文英訳は事足りる時代のようです。
 ところで,先日,「カキツバタ」を機械翻訳させて驚きました。「カキツバタ」は英語では「rabbitear iris」とか「iris laevigata」とかいうようです。それを何と「oyster fly」と訳すのです。「カキ=oyster」らしいのですが,こんなもの「もしもし=if if」と訳すようなものです。そこで「oyster fly」を訳させると今度は「カキフライ」となります。次に「カキフライ」訳させると「deep fried oysters」です。どうやらAIは混乱と迷走を繰り返しているようです。修行が足りません。
 しかし,私が仰天した,さらに驚いたことは,yahoo質問箱に「カキツバタを英語でどういうのですか?」という質問があって,その答えにこの「oyster fly」が登場していたのです。こんな答えを投稿した人はかなりのアホですが,ネットの情報なんて,そんなものかもしれません。これこそが「世間」であり「世論」なのでしょう。
 自宅籠城をしていると,いろいろなことがわかって愉快です。

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☆☆☆☆☆☆
 本当ならこの時期はアトラス彗星(C/2019Y4 ATLAS)が日が暮れた後の北西の空に明るく輝いているはずでしたが,期待に反して分裂してしまいました。
 そんなとき,急にスワン彗星(C/2020F8 SWAN)が南半球で明るく輝やいている(=2番目の写真)というニュースが飛び込んできました。
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 今年2020年3月25日,オーストラリアのビクトリア州スワンヒルのアマチュア天文家マイケル・マッティアッツォ(Michael Mattiazzo)さんがSOHOに取りつけられているSWANが撮影した画像に彗星らしい天体が写っているのを発見しました。新型コロナウィルスの影響で世界各国の天文台ではすぐに観測できる状態になく,マッティアッツォさんををはじめとする南半球のアマチュア天文家がこの天体を観測,国際天文連合(IAU)で確認され軌道が確定しました。
 それによると,彗星は太陽系の天体と逆回りで公転していて,5月12日に地球に約0.56AU(1AU=地球と太陽の距離)まで近づき,さらに5月27日には太陽に約0.43AUまで近づき4等星ほどになることがわかりました。

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  SOHO(Solar and Heliospheric Observatory=3番目の写真)というのは,1995年に欧州宇宙機関(ESA)とアメリカ航空宇宙局 (NASA)によって開発された太陽観測衛星で,SWAN(Solar Wind ANisotropies)は水素の特性スペクトルを観測する望遠鏡です。太陽風の流れや太陽圏における密度分布,太陽風の流れの大規模構造の観測を行うものです。
 SOHOは,これまで3,000個以上のサングレーザーと呼ばれる太陽をかすめる彗星を発見しています。なお,発見された彗星の85%はクロイツ群に含まれる彗星ということです。クロイツ群(Kreutz Sungrazers)というのは近日点が太陽に極めて近い類似の軌道をもつもので,天文学者ハインリヒ・クロイツにより数百年前に分裂したひとつの非常に巨大な彗星の破片だと考えられています。クロイツ群に属する彗星で最も有名なものは1965年の池谷・関彗星です。
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 さて,このスワン彗星,北半球ではほとんど見ることができず,しかも,この時期南半球に行くこともできないので,私はあきらめていたのですが,日本でも,5月の中旬に,夜明け前に北東の地平線から昇り,夜が白むまでの数十分間かろうして見ることができるかも,ということでした。
 しかし,それにしても条件悪すぎです。最悪です。満月が終わったばかりで月が明るく,彗星は高度が10度以下と低く,しかも,夜が白むのは早くも3時30分ごろなのです。
 5月12日の早朝は快晴でした。時節がら遠くに出かける気にもならず,地平線まで見通せる家の近くの場所へ,眠い目をこすり,とりあえず出かけました。その日,彗星はうお座にあったのですが,近くに明るい星もなく探せません。しかも,月明かりでもともと空は白んでいました。当然肉眼でも双眼鏡でも見えず,方角だけを頼りに写真を写してみましたが,少し長く露出をすると真っ白になってしまい,結局写すことができませんでした。
 あきらめがつかず,月明かりがなくなった5月20日は前日19日の夕方に降った雨も上がり晴れそうだったので,思い切っていつもの山まで出かけました。到着したときは空の80パーセントくらいは雲に覆われていたのですが,かろうじて北極星は見えました。雲が切れる予感がしたのでしばらく待っていたら,奇跡的に彗星の昇る北東の低空の一部だけ晴れてきました。この日,彗星はうお座からペルセウス座に移動していて,ペルセウス座のα星「ミルファク」(Mirfak),アンドロメダ座のγ星「アルマク」(Almach)という明るい星がなんとか見えたので,そのふたつの星から彗星の位置がわかりました。そして,ダメもとで写した写真に彗星の像が確認できました(=1番目の写真)。私にはこれが精一杯です。
 夜明け。さきほどの曇空がうそのように晴れ渡り,東の空には月齢26.7の月が山から昇ってきてそれはそれは神々しいものでした。(=4番目の写真)帰りの車から家の前で家族で月を観察している人たちを見つけてほえましくなりました。時間は朝4時,早起きして自然の美しさを知るのです。

 さて,スワン彗星はこのあと太陽に近づいていくので見えなくなります。おそらくこの写真がラストチャンスだったでしょう。5月下旬になると太陽を追い越して,そして,今度は夕方の北西の低空に再び姿を現すのですが,空の暗い明け方でさえ困難なのに,街灯りの明るい夕方,しかも新月をすぎた月も輝く空では,とても見ることができるとは思えません。救いといえば,ぎょしゃ座のカペラのすぐ近くということくらいでしょうか。
 それにしても,明け方に月があるときに明け方に見え(=5番目の写真),夕方の月があるときは夕方に見え(=6番目の写真),しかも,ともにかなりの低空とくれば,これほど条件最悪の彗星もめずらしいです。実際に見もしないで,明るい彗星が見えるなどと書いているブログも多々あるのですが,困ったものです。本当に見えるか試してごらんと言いたくなります。何事につけても行動もしないくせに机上の空論を振りかざす輩が多すぎます。

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 妻木城からの帰り道,右手にとても立派な寺がありました。臨済宗妙心寺派の崇禅寺でした。
 崇禅寺は山号は「光雲山」。土岐明智氏の初代明智頼重が1354年(文和3年)に菩提寺として創建したもので,妻木城主代々の位牌や墓所があります。また,釈迦如来立像,夢窓国師筆果山条幅,紙本墨書此山妙在筆跡,崇禅寺唐門,絹本着色十六善神像などの文化財を多数所蔵している由緒ある寺で,元禄時代にはじまった土岐郡三十三所巡礼の第十八番札所でもあります。
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  水をくみひろう妻木の崇禅寺
  知るも知らぬも後の世のため
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 妻木城上屋敷から移築されたという山門が寺の入口になります。 山門から振り返えると、妻木川の流れをはさんで城山が正面に望めました。城山のふもとに広がる田畑は家来たちの住んだ屋敷跡ということでした。崇禅寺には多いときには清閑院,長寿院など十ほどの塔頭があったのですが,明治を迎えると塔頭はなくなり現在の規模になりました。
 山門を過ぎて石段を登ると鐘楼門がありました。 鐘楼門をくぐると立派な本堂などの建物が並んでいました。
 右手にあるのは樹齢130年というイチョウの大木で,その落ち着いたたたずまいには,この地方を代表する禅宗の寺としての雰囲気がありました。

 本堂と開山堂にはさまれた建物が観音堂です。江戸時代まで八幡神社の境内には八幡院という寺がありましたが,明治政府の神仏分離令によって八幡院はなくなり,1876年(明治9年)に八幡院の本堂を移したものです。観音堂の正面には、八幡院のころからの額がかけてあります。そのうちのひとつに
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  第十七番
  円光山大鏡寺八幡院
  勇ましきこや武士の八幡寺
  法の道にしいると思えば
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とあり,八幡院はなくなってもかつて存在した証拠が今も崇禅寺に残されています。

 崇禅寺からさらに北に行くと,八幡神社がありました。
 八幡神社は,妻木城主の氏神として手厚く保護されてきました。1319年(元応元年)に美濃国守護土岐頼貞が創建したとも,土岐頼貞の孫土岐明智頼重が妻木城築城後に建立したともいわれています。
 流鏑馬が行われる広い参道や64段の石段の上に建つ社殿は妻木城主の栄華が偲ばれます。
 八幡神社の流鏑馬は,1623年(元和9年)に妻木城主が馬1頭を寄進したことにはじまると伝えれています。妻木町内から選ばれた6人の少年が、馬にまたがり参道を駆ける勇壮華麗な神事だそうです。
 神社の奥まった一角に流鏑馬で使う木曽馬が飼われていました。この木曽馬は,以前の馬が亡くなったので,新しく新一という馬がやってきたのだそうです。ひとり(一頭)ぼっちで,しかも,この先大役を担うのかと思うと,なんだかかわいそうでした。
 この神社に残され,今は公民館の資料室に展示してある文化財が一対の面ですが,残念がなら公民館の資料室はこのご時世で閉館していたので,私は見ることができませんでした。資料によると,一対の面は,2本の角,ぎょろりとした大きな目玉まさしく鬼の形相をした「赤鬼,青鬼」の面ということですが,実際は「火の王」「水の王」とよばれていました。妻木の陶祖・加藤太郎左衛門景重による1648年(正保5年)の寄進です。
 明治以前,流鏑馬神事の2日前にあたる旧暦の8月13日の夜,境内に大きなお釜を設置し湯を沸かし神事が行われました。これが「湯立神楽」です。昔から水と火は天地の根源だと考えられてきたのです。そこで,水と火で生まれた湯を神にお供えするとともに人々が湯を浴びることによって,再び生き生きした命を取り戻すと考えられているわけです。「火の王」と「水の王」の面はこの湯立神楽に使われたものです。
 この面を着けて乱舞したであろうかつての光景を想像すると、今一度湯立神楽を再現してみたいという思いがふくらむというものです。いつかまた妻木に来て,そのときはこの面を見たいものだと思いました。
 妻木,こんな静かな文化香る歴史のある山里の町があることをこの日はじめて知りました。

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 妻木に行こうとインターネットで調べても,妻木の町がどういうところかなかなか把握できませんでした。妻木城もまた,私が死ぬ思いで登らなければならないのかなあと思って情報を検索してみると,車でずいぶんと高いところまで行くことができるともあり,それでは肝心な遺構を見逃すから麓から歩いて登らなければならないともあり,はっきりしません。
 妻木に関する詳しい資料は公民館でもらえると書かれていたものが複数ありましたが,その公民館とやらがどこかもわかりませんでした。
 情報発信が下手な町だと思いました。ともかく論より証拠,行った方が早いと思って出発しました。

 妻木の町を走っていると,運よく公民館の前を通りました。というより,町を貫く道路はこれ1本だけなので,どう走ろうと公民館の前を通るのでした。ほかに1台も車が停まっていない広い駐車場に入ると,ちょうど案内所から係の人が出てきたので,車から降りて話をすると,詳しい地図や資料をくれました。
 地図に基づいて,まず,城を目指します。町の南のはずれにある城まではそのまま南に走っていきますが,途中でふたまたにわかれ,左側の狭いほうの道路を通っていきました。そのうちに右手に山の南側から城に登る道路がありました。そこはどうもゴルフ場の私有地のようでしたが,好意で中まで入ることができるとのことでした。
 その道に入ると未舗装道路になったのですが,さらにそこを登っていくと急ごしらえの広い駐車場がありました。ほかに停まっていた車はありませんでした。
 車を降りて山道を進むと,山頂はそこから間もなくでした。400メートル級の山にいつもは苦労して登るのに,山頂付近まで車で来ることができるのに驚きました。

 山頂からは妻木の雄大な景色が眺められるというので期待していたのですが,まさにその通りでした。山頂から北に妻木の町,そして,その向こうの山並みがきれいに見えました。山頂付近には曲輪や堀切,土塁,石垣などが残っていました。ここの石垣は運んだもののほかに,自然に積みあがったものが多く,その不思議な姿がみごとでした。
 この城の石垣で有名なのが,十字の模様のある石です。それが明智光秀の娘でキリシタンだった細川ガラシャと関連づけられて語られるものと,都市伝説ではなるわけですが,どう見ても,単に石を4つに割ろうと刻みをつけてそのまま放置したものとしか,私には見えませんでした。

 城跡には私ひとりしかいませんでしたが,途中で子供をつれた若い父親が登ってきました。なんでも今日が小学校の入学式なのだけれど,新型コロナウィルスの影響で入学式が午後からになったので父子でハイキングをしているということでした。私はしばらく景色を眺め,城跡の周りを散策して,駐車場に戻りました。彼らもまた車で登ってきたのかなと思ったのですが,私が先に駐車場に戻ったとき,彼らの車はありませんでした。
 私は南側から自動車道を登ったのですが,北側の麓には御殿跡や士屋敷などの区画が石垣とともに残されているということでした。近世初頭の城郭遺構が居館や家臣団の屋敷が城下町を含めて残されている例は全国的にも極めてまれだそうです。そこに行くには先ほどふたまたにわかれた道を今度は反対側に走って行くことになりました。
 到着すると,舗装された広い駐車場があって駐車場の端から妻木城に登る山道がありました。車を降りてそこまで歩いて行ってみると,ちょうど先ほど山頂で出会った父子が降りてきました。どうやら彼らはこうして北側の麓から歩いて登ったようでした。
 小学1年生でも登るのに,車で山頂まで行った軟弱なわが身を恥じました。

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 山県市にある大桑城に登ったことはすでに書きました。
 その後の4月5日,大河ドラマ「麒麟がくる」を見ていたら,妻木という地名が出てきて気になりました。どこにあるのだろうと調べてみると,妻木は土岐市の近くということだったので,翌日の朝,車で出かけてみました。
 東名高速道路を土岐インターチェンジで降りて南に13キロメートル一般道を走ると,妻木に着きました。実際は東海環状自動車道の土岐南多治見インターチェンジで降りるほうがずっと近かったのですが,調べた資料が古く,東海環状自動車道のできる以前のものだったので知りませんでした。帰りは東海環状自動車道を使って帰りました。

 行くまで,私は妻木というところを全く知りませんでしたが,行ってみて,こんなのどかな町が近くにあることに驚きました。日本の各地にはずっと時間が止まったようなところがいたるところにあります。
 妻木町は土岐市の中程に位置する古い城下町です。妻木城が町の南の外れの小高い山にあります。廃城になってすでに350年ほどが過ぎていますが,城下はずっと健在で,今なお当時の面影があります。標高409メートルの山にあった妻木城は,山頂に石垣などが残り山麓には御殿跡や士屋敷跡だったといわれる遺構が残されています。
 妻木城は,室町時代には土岐明智氏が,戦国時代以降は妻木氏の居城として,この地方の中心地になっていました。「麒麟がくる」では,明智光秀の正室・煕子が妻木氏の娘という設定であることで,ドラマで妻木という場所が登場したわけです。
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 明智光秀亡きあと,1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで戦功を挙げた妻木頼忠は,1601年(慶長6年)に徳川家康から改めてこの地域を与えられ,妻木城の北麓に屋敷群を建てて,妻木城からこの屋敷に拠点を移しました。妻木の領主は,妻木頼忠から妻木頼利,その次に妻木頼次が跡を継ぎましたが,妻木頼次に跡継ぎのないまま1658年(万治元年)に死去したため断絶してしまいました。しかし,妻木頼次の弟の妻木幸広が土岐郡大富村から妻木の北側・上郷地区へ領地替されたことによって,上郷地区にに新たに陣屋を築いて上郷妻木家として存続し,明治維新に至りました。

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 そもそも,「密を避けよ」といわれたところで,私の住む田舎にそんな都会の発想を持ち込まれても戸惑うだけです。この国は東京や大阪といった大都市だけが繁栄し,日々,巨額な予算を使って交通網を整備し再開発して,発展を遂げてきました。延期が決まったオリンピックもまた,東京の都市整備の口実に過ぎず,それを復興五輪などという看板を掲げてごまかしているだけです。偽善そのものです。同じようなことを企てて失敗した愛知万博がありますが,あの会場跡は悲惨なものです。マスコミもオリンピックでお金儲けができるから反対しません。勝手なものです。
 その結果の大都市の「密」状態。これまで,さんざん全国民の税金で自分たちだけが利益を享受しておいて,何をいまさら,と思います。そんな人口の密集した東京では,ジョギングするにしても人をかきわけて走らなければならず… であるから,ジョギングもマスク着用などと言っているわけですが,それを,地方の過疎地に住むウィルスがなんたるかもわからぬ人たちがその「教え」を信じて,まわりに誰もいないのにもかかわらず,田んぼのあぜ道をマスクをして走っているのが,私には滑稽であり,気の毒にさえ思います。何も自分で考えることを学ばなかった日本の学校教育の成果がそこにはあります。
 1時間散歩しても人ひとりすれ違わないのに,そんな場所をマスクを着用して散歩している人は,ひょっとしたら,新型コロナウィルスが空気感染すると勘違いしているのではないかとさえ思います。
 東京の価値観を過疎化した地方に持ち込むな,と言いたいです。
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 NHKは全国放送にもかかわらず,首都圏に大雪が降れが大騒ぎをし,台風が直撃すればこの世の終わりのような報道をするくせに,地方で大雪が降っても,台風が直撃しても,地震が起きても,ほとんど取り上げないのです。
 また,近ごろは,些細なニュースや報道する必要もないニュースを鬼の首をとったかのように大げさに報道し,その結果,何も考えない愚かな「庶民」の買い占めを誘発したり,見ている人を不安にする,私は,そんな東京超偏重,騒ぎたてるだけのNHKのニュースが大嫌いになりました。「NHKニュース防災アプリ」のニュース項目の見出しもひどいものです。低俗週刊誌と変わりません。
 さらに,新しい生活様式とか勝手に作って,飲み会も会合も,それが一番好きな政治家の行動様式をもとにして,国民に押し付ける政府もまた,大人になれない大人が国民を子供扱いするなさけないこの国の現状です。首相の会見で,何度「飲み会」という言葉が出てきたことか。「飲み会」自粛など「飲み会」ばかりやっている人に言われたくないです。「お願い」という名の強制がこの国の象徴です。そして,それに反した人たちを「チクる」ことで正義とやらを振りかざす陰湿な「庶民」は,第二次世界大戦のときの「隣組」を思い起こさせます。あの人たちこそ,何でも「群れる」,群れなければ何もできない集団なのに…。

 ところで,本来,「群れない」私は,もともと「飲み会」などしないし,また,人だかりの観光地も嫌いだから,現状には何の問題もないのですが,さらに,人と出会わないために,また,出会うのがいやなので,朝は6時まで,夜は6時から1時間を外出時間と決めました。お昼間は家に籠ります。
 もともと朝は早起きなので,午前4時も午前5時も,私にはまったく苦になりません。また,夕食は午後5時からで,お酒も飲まないので,午後6時にはすべて終了して,あとは完全な自由時間なのです。そこで,朝は,午前5時ころから1時間程度の散歩をします。夜は午後6時から,やはり1時間程度散歩をします。ただでさえ人が少ないのに,この時間は,ほぼ人の姿は皆無です。まったく人に出会わないことも少なくありません。
 この季節は,夜が短いので,早朝も夕方も明るく,気候もさわやかで快適です。日の出のころ,あるいは,日没前後のころの空はとてもきれいです。月や惑星が輝き,日々,その位置を変えていきます。また,空には鳥が舞い,田畑には思いがけずキジに出会ったりもします。野生のフジが咲き,田んぼのあぜ道にはアヤメが咲いていて,のどかです。もうすぐ,ホタルも見られるようになります。
 梅雨入り前の,もっとも気候のよいこの季節に,そうしたのどかな時間を過ごすことができるのは,なんと幸せなことでしょう。籠城生活も脇道散歩も悪くありません。

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 ずいぶん前のことになりますが,本屋さんに立ち寄ると「成澤広幸の星空撮影地105選」という双葉社スーパームックがありました。
 正直いって,星好きの私はこうした本は好きではありません。それは,このような本に載ってしまうと,もう,そこはすでに星空のきれいな場所ではなくなってしまうからです。
 特に興味もないのに,何事もブームとやらに振り回されて,流行となれば,ワーッと人が押しかけ,すると,今度はそうした人を対象としてお金儲けをたくらむのが,この国の常です。主体性もなく群れたがるのです。しかし,それが祭りやらイベントならともかく,星空というのは,人がたくさん集まったら意味がないのです。しかも,平気で懐中電灯を振り回したり,あるいは,安全という名目で街灯が設置されたりしたら,それこそ台なしです。
 ニュージーランドのテカポ湖はまさにそんな場所になってしまいました。あの場所は有名になりすぎて,世界中から人が群れて,もはや楽しんで星を見る場所ではなくなりました。日本でも,ヘブンそのはらで同じことが起きています。

 私は,自分の知っている星空のきれいな場所が載っていませんようにと祈りながら,この本を開いてみました。幸い載っていなくてほっとしました。 
 星空を見るのは,夜桜見物や納涼花火とは違うのです。そこに,本当の星好き,マナーのわかった人以外が来れば,ゴミは捨てるし騒ぐし,その結果,夜間出入りが禁止になったり,街灯がついたりとなって,貴重なそういう場所がまたひとつなくなってしまうのです。
  ・・
 私が星がきれいな場所としていつも思い出すのは,オーストラリアの砂漠で見た星空です。そこは,ろうそくの明かりひとつない場所でした。しかも360度地平線まで見渡せました。まるで宇宙にいるかのようでした。今でも,その場所が最高だったと思っています。
 おそらく,日本もほんの100年前までは,どこでも満天の星空が輝いていたことでしょう。
 子供のころ,親戚の田舎の家に泊ったことがありました。夜,家の外に出たとき,そこが真っ暗でびっくりしたことを今も思い出します。そうした,暗い夜空が当たり前だった時代に生きていた人と,現代のように,満足に星を見たこともない人とでは,とんでもない違いがあるような気がします。
 こうした本で,美しい星空があることを一般の人に知らせることは悪いことでありませんが,どうか,その場所を明記することだけはやめていただきたいと思います。そうした場所を大切にしている本当の星好きがいるからです。
 私はもう,日本に満天の星空なんてまったく期待していませんが,それでも,私が生きてるうちだけでも,日本の,数少ない星のきれいな場所がひとつでもけがれてしまわないようにと,祈るばかりです。

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 桑名宿の街並みの雰囲気の残る旧東海道を四日市宿の方向へ向かって少し歩きました。今回は桑名宿から四日市宿まで歩く予定はありませんでしたが,以前,四日市宿から先は歩いたことがあります。
 左手に桑名城の石垣を見ながら旧東海道を歩いていくと,桑名宗社の鳥居があったので,寄ってみました。まだ桜の季節のは少し早かったのですが,社殿ではちらほらと咲いていました。
 桑名宗社は,もともとは桑名神社(三崎大明神)一社があったところに,中臣神社(春日大明神)が遷座して二社合社となったそうです。桑名神社は景行天皇40年から45年にかけて遷座し,天武天皇が壬申の乱で当地から尾張美濃に渡海するときに「此地の地主にして沙羯羅龍王の女妙吉祥」が現れ「本地は十一面観音,垂迹は三種の神宝」であることから「三崎明神」と称して虚空に飛び去ったという伝承があります。また,中臣神社は769年(神護景雲3年)」に創祀されたといいます。

 桑名は中世より商人の港町と交易の中心地として発展しました。戦国期,織田信長の支配下として滝川一益が入り長島城を居城とし,桑名城は家臣が守備しました。織田信長の死後,滝川一益は没落し,織田信長の次男・織田信雄の支配下に入りましたが,のち改易され,豊臣秀吉の家臣・一柳直盛が入封,その後,氏家行広と続きますが,関ヶ原の戦いで敗北し,1601年(慶長6年)に本多忠勝が入り,桑名藩として立藩します。本多忠勝は「慶長の町割り」とよばれる大規模な町割りや城郭の増改築などを積極的に行って現在の桑名市街の基礎となり,東海道宿場の整備も行いました。九華公園(きゅうかこうえん)には大きな像があります。
 本多忠勝の隠居後,本多忠政が藩主となり,大坂の陣ののち,千姫と本多忠政の嫡男・本多忠刻が婚姻したこともあって,姫路藩に加増移封され,家康の異父弟である松平定勝が入りました。それ以降は,譜代大名として松平家が後を継いでいきますがが,桑名は川に近い低地のためにたびたび水害に悩まされることになります。
 桑名藩の悲劇は幕末の激動期に訪れます。
 藩主・松平定敬は長州征討や天狗党の乱で京都の守備を務め,徳川慶喜と協調することで成立した会津藩との政治体制は、会桑政権とよばれたように,長州藩や薩摩藩から打倒目標とみなされるようになってしまいました。第二次長州征伐への対応をめぐり徳川慶喜と会津・桑名両藩が対立して京都政界での足掛かりを失い,さらに,桑名藩は朝敵となってしまうのです。
 家から近いところなのに,こうした歴史を私はまったく知りませんでした。

 桑名城は別名を扇城,旭城といいます。
 1186年(文治2年)に桑名行綱が築城したのがはじまりとされます。 1595年頃までに本丸の北東隅に伊勢・神戸城から4重6階の天守が移築されるなど,63の城門と95の櫓が整備されました。のち, 本多忠勝が本格的な近世城郭へと桑名城の大改修し,天守は隅櫓として残されますが,新たな天守は建造に時間がかかり,約30年かけて1635年(寛永12年)藩主松平定綱のときに完成しました。しかし,1701年(元禄14年)に焼失したあとは天守台のみが残されることになりました。
 幕末,新政府軍が迫ると桑名城は開城しましたが,桑名城は焼き払われてしまいました。
 現在,桑名城跡は九華公園となっています。

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 七里の渡し跡のあった神社からは,当時の道幅のまま旧東海道が続いていたので,歩いてみることにしました。
 まず出会ったのが,脇本陣駿河屋跡でした。現在は高級料理旅館の「山月」が建っています。そこから桑名宿の反対側その隣が大塚本陣船津屋跡でした。ここは現在もそのままの名で,高級料亭「船津屋」になっています。
 私はまったくグルメでなく,興味もないので知らなかったのですが,歴史ある町にはこうした老舗があるものです。
 奥が深いです。
 ちょうどお金持ちそうなカップルが食事に入っていきました。

 このあたりは,多くの旅籠屋が集まる桑名宿の中でも最も格式の高い場所でした。
 本陣の名をとった高級料亭「船津屋」ができたのは1875年(明治8年)のことでした。以降,皇族をはじめ,川端康成,志賀直哉,池波正太郎などの文人や要人たちの滞在先として,また,泉鏡花の小説「歌行燈」の舞台や,将棋の王将戦の舞台として,地元はもとより日本中の賓客に愛されてきたといいます。
 川端康成や志賀直哉,池波正太郎というのは有名で親しみもあるのですが,私は,泉鏡花というのは学校の文学史で知ったくらいのもので,あまりよくわかりません。当然,読んだこともありません。ということで,調べてみました。

 私の手元にある資料には次のように書かれてありました。
  ・・・・・・
 明治30年代は,浪漫主義の最盛期であった。小説の世界では,硯友社から出た泉鏡花が妖艶な浪漫主義の世界を描き出した。
 明治20年代後半に観念小説から出発した泉鏡花は30年代には「高野聖」などの神秘的・幻想的な作品を発表し,さらに唯美的な「婦系図」「歌行灯」へ進んでいく。
  ・・・・・・

 ???
 さっぱりわかりません。
 浪漫主義というのは西洋のロマ主義ということらしく,理性偏重,合理主義などに相対した感受性や主観に重きをおいた一連の運動で,恋愛賛美,民族意識の高揚,中世への憧憬といった特徴をもつということで,「ロマン」とは「ローマ帝国の支配階級や知識階級ではない庶民の文化に端を発する」という意味からきたものということです。
 ???
 何度読んでもわからないので,私が何とかわかるクラシック音楽のロマン主義のようなものだと思うことにします。
 泉鏡花は,1873年(明治6年)に生まれ1939年(昭和14年)に亡くなった小説家であり戯曲や俳句も手がけました。江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られ,近代における幻想文学の先駆者としても評価されているということです。

 「歌行燈」は1910年(明治43年)に発表された小説で,
  ・・・・・・
 恩地喜多八は能のシテ方宗家の甥であったが,謡の師匠宗山と腕比べを行い自殺に追い込んだために勘当される。宗山には娘お三重がいたが,親の死によって芸者となっていた。肺を病み流浪する喜多八は偶々お三重と会い,二度と能をしないとの禁令を破ってお袖に舞と謡を教える。
  ・・・・・・
というあらすじだそうで,1943年と1960年に映画化されました。こんなあらすじで現在上映しても誰が見にいくのでしょうか。
 インターネットはもちろん,テレビすらなかった時代の人々の精神生活がどんなものだったのか想像もつきませんが,現代よりも言葉が重かった時代の小説家というのは,今よりずっと地位が高かったのでしょう。古きよき時代のことです。しかし,旧街道を歩いてこうした歴史に触れるだけで,なにかこころが満ち足りるし賢くなった気がするし,町をあるいていてもなにかしら身が引き締まるように感じるのが不思議なことです。だからやめられません。

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 宮宿から桑名宿までは海路で七里(約28キロメートル)でした。ここを渡るには3,4時間もかかったといいます。現在,宮宿跡にも七里の渡しのモニュメントがありますが,桑名宿のほうが立派でした。
  ・・
 宮宿のある尾張から海を渡るといよいよ桑名宿のある伊勢の国です。江戸からは96里(384キロメートル),京からは30里(120キロメートル)です。
 桑名宿の七里の渡しの船着き場跡には今も伊勢神宮遙拝用の一の鳥居があります。この鳥居は江戸時代の天明年間(1780年代)に,伊勢の国のはじめの地にふさわしい鳥居をと願い,桑名の商人・矢田甚右衛門と大塚与六郎が関東諸国に勧進して立てたものがはじまりで,明治時代以降は,神宮式年遷宮のたびに宇治橋外側の鳥居を削って建て直されています。
 また,立派な常夜灯もあります。常夜灯はかつては1833年(天保4年)建立のものでしたが,1962年(昭和37年)の伊勢湾台風で倒壊し,現在は,上部だけを市内にある多度大社から移したといわれています。常夜灯には安政3年(1556年)の銘がついています。

 歌川広重の「東海道五十三次」の桑名宿の絵には,七里の渡しに面する蟠龍櫓が描かれていて,いかにも船旅を終えた旅人が安堵する様子がうかがえます。
 蟠龍櫓は,七里の渡しを旅する人のだれしもが目にした桑名のシンボルです。建築年代ははっきりしていないようですが、1650年ごろの正保年間の絵図にも描かれていました。1802年(享和2年)の「久波奈名所絵図」に「蟠龍」の名がはじめて文献に出ていて,単層,入母屋造りの櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれているということです。「蟠龍」というのは龍が天にのぼる前にうずくまった状態をいいます。
 龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられています。蟠龍櫓も,航海の守護神としてここに据えられたものと考えられています。
 現在あるのは当時のものではなくて,水門を管理している桑名市が水門の管理所を蟠龍櫓状に復元したものです。 建物の2階部分が展望台として無料で開放されていたので,入ってみました。なかからの展望はいまひとつでしたが,館内には桑名藩に関係する資料が展示されていました。

 航海の守護神といえば,私が車を停めた駐車場の近くに住吉神社がありました。住吉神社といえば海の神様だということを私は近ごろ知りました。
 住吉神社は住吉三神を祀る神社で,全国に約600社あります。桑名は古くから舟運の拠点港として「十楽の津」と呼ばれていました。1715年(正徳5年),航海の安全を祈り大阪の住吉神社から勧請してここに住吉神社が建立されました。
 住吉神社は伊邪那岐命がケガレを清めるために海中で禊ぎ祓いをしたときに誕生したといういわれから,航海の守護神となっています。住吉神社には,海の底から誕生した「底筒男命(そこつつのおのみこと)」,海中から誕生した「中筒男命(なかつつのおのみこと)」,海の表面から誕生した「表筒男命(うわつつのおのみこと)」の三神と神功皇后が祀られています。

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 これまで,暇に任せてまた運動不足解消を兼ねて,旧東海道や旧中山道の様々な場所を歩いてきました。
  ・・
 江戸時代,東海道は,今の名古屋市熱田区である宮宿を過ぎると,七里の渡しといって船に揺られて伊勢湾を渡って次の宿場である桑名宿に向かいました。江戸から京に行くのには東海道と中山道があったのですが,中山道は,山岳地帯が続き険しい長野県を過ぎて,岐阜県に入ると平坦になり,歩きやすくなります。しかし逆に,東海道は,愛知県から先は,先に書いたように,七里の渡しで海を渡り,やっと桑名宿に着き,その次の四日市宿から先は,険しい鈴鹿峠を越えて滋賀県に行かなくてはなりませんでした。
 だから,愛知県から先は東海道よりも中山道のほうがずっと快適だったろうと,私はそのほとんどを歩いてみて実感しました。

 さて,私の住むのは愛知県なので,宮宿はあまりに身近なところです。七里の渡しのあったところは国道247号線から少し入ったところです。そこにはほとんど寄ったことはありませんが,熱田神宮に沿った247号線は車で頻繁に走っています。しかし,七里を渡った先の桑名宿はまったく知りませんでした。
 高速道路や国道を通って桑名市はよく通ったことがあるのですが,宿場のあった場所がどこかなど考えたこともありませんでした。桑名といえば焼きハマグリなのですが,桑名に出かけて焼きハマグリを食べたこともありませんでした。 
 この春,まだ新型コロナウィルスがさほど深刻ではなく,むしろ,人が少なくて外出するには例年よりもずっと快適だった3月中旬のことでした。
 近場で桜のきれいな場所がどこかないかと調べていると,桑名市の九華公園が紹介してありました。それを読んで,そういえばわざわざ桑名,それも,旧東海道が通っていた場所,そして,桑名宿跡には行ったことがないなあと思ったので,早速出かけてみることにしました。

 愛知県と三重県の県境には,木曽三川といって木曽川,長良川,揖斐川が流れています。
 愛知県から三重県に行くには,この三つの川にかかる長い橋を渡ることになるのですが,渡り終わった三重県のはじめの町が桑名市です。国道1号線は伊勢大橋でこれらの川を越えるのですが,調べてみると,橋を渡り終わったところを左折して川べりを海に向かって走るとすぐの場所に桑名宿があったということがわかり,驚きました。こんなに近い場所だとは知りませんでした。そして,桑名宿が川に面した場所が七里の渡しのあった場所で,今はそこに九華公園と桑名城跡がありました。
  ・・  
 車で行っても楽しくないので,本来ならば,JRの関西本線や近鉄で桑名駅まで行って,そこからが東に歩いて桑名宿まで行き,桑名宿から次の四日市宿まで歩くところなのですが,このご時世,その楽しみは後にとっておくことにして,車を使って,桑名宿跡と九華公園,そして,桑名城跡だけを見てくることにしました。

 国営木曽三川公園から先,長良川と揖斐川には道路幅ほどの狭い中州が海岸までずっと続いています。その中州には道路が走ってるのですが,その道は信号もなく国道1号線にたどり着く近道なのです。そこで,そこをずっと走り,国道1号線に出て揖斐川を渡り終えたところを左折して,堤防道路を走っていくと,すぐに,国営木曽三川公園に属する桑名七里の渡し公園の無料の広い駐車場が見えてきました。九華公園はそのずっと先でしたが,そこに車を停めました。車を降りてしばらく歩いて行くと,七里の渡し跡に到着しました。
 インターネットに,七里の渡し跡に行ってみたという口コミがありました。そこには,何にもない場所,行っても仕方がないと書かれてありました。ネットに書かれた口コミにはこの種のものがよくありますが,私は,この程度の感想しか書けない人を本当に気の毒に思います。何もない,と書く人は,観光地に何を期待しているのでしょう。
 私はこの場所に立って周りを見渡しました。この場所に立つと,江戸時代がよみがえってきました。そして,その時代に生きていた人々の想いが伝わってきました。空も川も広く,とてもすばらしいところでした。だたし,少し前,ずいぶんと話題になった長良川河口堰が不気味でした。
 家から近いのに,これまでこんな場所を知らなかったのかと思いました。
 江戸時代,七里の渡しを終えると再び東海道は陸路となり,はじめの宿場が桑名宿でした。桑名宿は,当時の町並みこそ残っていませんでしたが,道幅は当時のままでした。私は,その道をしばらく歩いてみることにしました。

 桑名宿は旧東海道五十三次の42番目の宿場でした。当時は,本陣2軒,脇本陣4軒,旅籠屋120軒,家数約2,500軒,人口約9,000人というから,東海道では宮宿に次ぐ2番目の規模を誇りました。明治になって関西鉄道桑名駅が宿場町の西側に設けられたことで桑名の市街地が西に移っていったので,幸いにも桑名宿のあったあたりは昔の面影が残りました。
 「桑名宿雑之部」には「一、此宿蛤・時雨蛤・白魚・干白魚名物なり、」との記載があり,桑名宿の主な名物は蛤と白魚でした。江戸時代,桑名宿から富田の立場にかけての東海道沿いには焼き蛤を食べさせる店が多数軒を連ねて繁盛していました。蛤は焼き蛤か煮蛤として食され,焼き蛤は即席で旅人に供され,煮蛤は土産物として売られていました。
 また,「妖刀村正」で知られる村正は桑名の刀匠でした。
  ・・・・・・
  桑名の殿さまヤンレーヤットコセーヨーイヤナ
  桑名の殿さん 時雨で茶々漬ヨーイトナーアーレワ
  アリャリャンリャンヨイトコ ヨイトコナー
  ・・・・・・
 というのは,民謡「桑名の殿様」ですが,「桑名の殿様」は桑名藩主のことではなく,明治から大正にかけて米相場で儲けた桑名の大旦那衆のことだそうです。

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 一乗谷朝倉館跡を出て,私は北陸自動車道を通って帰路につくつもりでした。ところが,途中で小谷城スマートインターチェンジを見つけました。
 私は,小谷城やこの近くにある姉川,長浜城を知らないわけではなく,というかむしろ詳しいほうだと自負しているのですが,歳のせいか,あるいは,日本史に以前ほど興味を失くしてしまっているせいか,ここに小谷城跡があるの? と驚きました。
 あとで冷静に考えるに,あのときの私は,小谷城と佐和山城がごっちゃになっていたのでした。
 思えば,昨年の4月8日 -それはわずか1年と少し前のことだというのに今とは違ってなんと平和だったのでしょう!- 桜満開の彦根城に行ったとき,サルが田畑を闊歩する佐和山城の近くを通りました。そして,それ以来,そのときは登らなかった佐和山城にいつか登ってみたいと思っていたのです。
 そこで,小谷城と佐和山城を混乱していた私がどうしてこんなところに小谷城があるのかなあと思いながらも,今日こそ登ってみようと思ったわけでした。そんなわけで,私は今もって佐和山城には登っていません…。

 小谷城もまた,戦国時代の山城です。
 七尾城,小谷城,観音寺城,月山富田城,春日山城を 日本の五大山城というそうで,そのひとつです。こんなことを知ってしまうと,今度はそのすべてを制覇したくなるのが私の悪いところです。
 小谷城が築城されたのは,おそらく,1523年(大永3年)から1524年(大永4年)ということすが,小谷城といえば,浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として有名な城です。

  ・・・・・・
 1560年代,織田信長は浅井長政に同盟を提案します。同盟に際して,1567年(永禄10年)浅井長政は織田信長の妹の市を妻としました。織田・浅井の同盟により,織田信長は上洛経路ともなる近江口を確保しました。
 1570年(元亀元年)織田信長は浅井長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り,徳川家康とともに琵琶湖西岸を通過して越前の朝倉を攻めはじめます。浅井長政は朝倉義景との同盟関係を重視し織田・徳川連合軍を背後から急襲,織田信長は豊臣秀吉の働きにより,命からがな近江国を脱出しました。これが有名な「金ケ崎崩れ」です。
 こうして,織田信長と浅井長政の同盟は決裂し,1570年(元亀元年)の姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突し,織田軍が勝利しますが,このときは小谷城の堅固さを考慮して城攻めを断念,織田信長が小谷城を落城させたのは,その3年後のことでした。
 小谷城は,その後、廃城となりました。
  ・・・・・・

 小谷城スマートインターチェンジを降りて,道路標示に従って小谷城のふもとまでやってきました。そこにあったのは古びた小谷城戦国歴史資料館と広い駐車場でした。いまでこそ,自粛とやらでこうした資料館や博物館のほとんどは閉館していますが,このときは確かまだこの資料館は休館の処置はとられていなかったと思います。ただし,この日はもともとの閉館日である火曜日だったので,入ることができませんでした。しかし,私は資料館を見にきたのではなく小谷城の登りにきたので,資料館の駐車場に車を停めて,城を目指すことにしました。
 駐車場には私の車のほかは1台の車もなく,また,小谷城への登山道の入口は獣除けで金網で囲われて,錠がしてありました。それは決して登ってはいけないということでなく,錠を開けて戸を開き中に入るようになっていました。
 中に入るとその先はけもの道のようになっていて,だれも登っている様子もなかったので,少し躊躇しましたが,様子見で少し登ってみることにしました。
 しばらく歩いていっても,一向に人に会いません。そのうちに,はるか先に大きな獣が歩いているのが見えました。クマか? 怖くなって遠くからしばらく様子を見ていると,それは大きな猫でした。それでも飛びかかられたらいやなので,もう帰ろうかと思っていると,後ろから,私と同じ年代の夫婦連れが登ってきました。一緒に登りましょうということになって,気が大きくなり迷いもなくなり,登りはじめました。
 そんな次第で,今回もまた懲りずに山登りとなってしまいました。小谷城もまた標高が495メートルほどなので,これまでに登る気もなく登ってしまったいくつかの山城とほぼ同じでした。
 ただし,私は,大きな間違いをしていました。
 小谷城は,中腹まで林道が通っていて,こんな大変なことをしなくても難なく車でずいぶん上まで登れるのでした。ただし,その林道は私が車を停めた資料館のある場所に行く道とは違った場所からつながっていたのでその道の存在を私が知らなかったのでした。道路標示が悪いのです。
 ともかく,今回も懲りずに死ぬ思いで,どうにか私は,登山道を麓から本丸跡まで登ることができたのでした。登る途中で見た伊吹山と琵琶湖がきれいでした。

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 今回出かけた丸岡城も,当然戦国時代の遺構ですが,「麒麟がくる」とは直接の関わりはなく,私が福知山城と丸岡城がごっちゃになっていたので,単に丸岡城が見たかっただけでした。
 しかし,丸岡城に行ってみて,せっかく福井県まで来たのならば,一乗谷朝倉氏遺跡が近いのではないかと気づきました。実際調べてみると,やはり丸岡城からはかなり近いところにあることがわかりました。そこで,帰りに寄ってみることにしました。
 一乗谷朝倉遺跡はもちろん「麒麟がくる」に大いに関わりのある場所ですが,私がこの場所を知ったのは,「麒麟がくる」ではなく,今から40年以上前に放送された大河ドラマ「国盗り物語」でです。それ以来,わざわざ行ってみることはなかったのですが,気になっていました。そこで,今回,せっかく近くに行ったのだから寄ってみることにしました。
 一乗谷朝倉遺跡に関してほ,将棋の駒が出土したという程度の知識しかありませんでした。

 Google Maps の道路案内に従って走っていくと,福井市の市街地をはなれ,山間の谷間に入って行きました。その奥が一乗谷でした。1本道をさらに進んでいくと,昔の屋敷が再現された場所があって,その奥に広い駐車場がありました。ここもまた,ほとんど車は停まっていませんでした。
 さっそく入館料を払って中にはりました。
 一乗谷朝倉氏遺跡は福井市城戸ノ内町にあって,戦国時代に一乗谷城を中心に越前とよばれたこの地方をを支配した戦国大名朝倉氏の遺跡で,谷に広がる城下町と周りの山に作られた城からなっています。
 現在の福井市街から東南に約10キロメートルもはなれている一乗谷川沿いの谷あいにあります。朝倉氏が勢力をもっていたときはずいぶんと栄えた場所ですが,のち忘れ去られました。それが辺境であったために幸いにして遺構が残り,今になって発掘され整備されたというわけです。

 日本各地のほかの城下町とは違い,こうした谷に町をつくったというのが私にはおもしろく,これで防御ができるのだろうかと思ったのですが,それは将棋でいえば穴熊のようなもので,谷に攻め込んだ敵方を袋のネズミにしてしまうような感じだったのでしょう。
 いずれにしても,こうして日本の様々な場所に行ってみると,この国は今も戦国時代の遺構がいたるところに残っています。400メートルくらいの小高い山のほとんどには砦が築かれているし,国中が勢力争いをしていたのだなあということを実感します。まるで,高いところに城を作る競争をしていたみたいです。そのために,おそらく庶民は年中駆り出されて,土木工事ばかりをしていたのでしょう。
 今の政治家もハコモノ作って名を遺すのが生きがいだと思っているから,同じようなものでしょう。
 一乗谷は東西約500メートル,南北約3キロメートルという狭い場所で,北陸道や美濃街道,朝倉街道などが交わる交通の要衝にありました。谷の周辺の山峰に城砦や見張台が築けばすべてが見渡せる広大な要塞となっていました。

  ・・・・・・
 朝倉氏はすでに南北朝時代に一乗谷を本拠にしていました。足利将軍家の分家である鞍谷公方なども住んでいたことから,応仁の乱により荒廃した京から多くの公家や高僧,文人,学者たちが避難してきたために一乗谷は飛躍的に発展し,華やかな京文化が開花しました。以前行った高知県の中村(四万十市)も応仁の乱を避けて避難した有力者が作った町だったのですが,一乗谷も同じだったのでしょう。
 4代朝倉孝景のころに全盛期を迎え,人口は1万人を超え,越前の中心地として栄えていました。
 明智光秀の計らいで,1567年(永禄10年)に5代朝倉義景が足利義昭を安養寺に迎えたことから,戦国時代に大きな関りをもつことになり,それが原因として,朝倉氏が滅ぶことになったのは皮肉です。
 1573年(天正元年)に織田信長の軍勢によって火を放たれ,一夜にして一乗谷は灰燼に帰してしまいました。織田信長が越前一向一揆を平定したあと,この地を与えられた柴田勝家は本拠地を水運・陸運に便利な北ノ庄に移したために,一乗谷は田畑の下に埋もれていったのです。
   もろともに月も忘るな糸桜 年の緒長き契と思はゞ  足利義昭
  君が代の時にあひあふ糸桜 いともかしこきけふのことの葉  朝倉義景
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 朝倉館跡正面の堀に幅2.3メートルの唐破風造り屋根の門・向唐門が当時のまま残っていました。これは朝倉氏の遺構ではなく,のちに建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わり,江戸時代中期頃に再建されたものですが,これはこれでこの遺跡のシンボル的な存在となっています。
 朝倉館は幅約8メートル,深さ約3メートルの堀で囲まれていて,三方の土塁にはそれぞれ隅櫓や門がありました。館内は常御殿を中心として,主殿や会所,庭園などがありました。
 また,朝倉義景の墓は,1663年(寛文3年)に福井藩主松平光通が建立したものです。
 庭池と石組の豪壮な林泉庭園から砂礫と立石,伏石の枯淡な枯山水庭園まで多くの庭園が遺存していました。これらの庭園は室町時代の様式をよく伝えていて,朝倉義景時代の作庭と考えられています。 
 朝倉屋敷と道を隔てて,町並が再現されていました。100尺(約30メートル)を基準に計画的に町割がなされ,京都のように整然とした町並み作られていて,1995年(平成7年)に,発掘結果や史料等を参考に200メートルにわたって当時の町並みが復元されました。また,小規模な建物が細く並んでいた町屋も10軒ほどが復元され,裏庭、井戸、厠なども再現されていました。
 戦国時代に舞いもどったようで,不思議な気がしました。帰りに博物館に寄って,一乗谷を後にしました。

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 私が丸岡城に行ったのは3月の半ばのことなので,わずか2か月ほど前のことなのですが,ずいぶんと昔に思えます。この時期あたりまでは新型コロナウィルスによる事態はさほど深刻でなかったのですが,偶然なのか故意なのか,3月24日に東京オリンピックの延期が決まった日から急に感染者が激増してしまいました。
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 さて,東尋坊から再び丸岡城に戻ってきました。早朝に来た時と同じ場所に車を停めて,丸岡城に行きました。
 駐車場からは城郭はみえず,城までは坂道を少し登る必要がありました。すぐに美しい天守が見えてきました。城はそれほど高い場所にあるのではなく,丘の上にある少し大きな家のようで,ちょっとイメージとは違うなあと思いました。
 このときはまだ城は公開していました。城の外にあった受付のような場所で入館料を払う必要があったので,そこでお金を払ってお城に向かいました。私のほかに来ていたのは一組の夫婦連れだけで,静かな時間を過ごすことができましたが,これもまた,今では遠い昔のことのように思えます。

 1階には若干の展示と昔の城下町のジオラマがありました。城内は昔のままで,上の層に登るためのあまりにも急な階段におどろきました。この階段にはロープがつけてありましたが,もしそれがなければ険しすぎて登れないか,あるいは足をふみはずしてしまうか,といった感じでした。
 もともと,天守はシンボル的存在であって,そこで城主が暮らしていたわけでもなく,おそらくは倉庫のようなもので,頻繁に登る必要もなかったのでしょう。
 最上層に登ると,そこからはちいさな丸岡の町がよく見えました。
 降りるときも階段がまるで崖のようで苦労しました。天守の外に出ると,私が行ったときはまだ桜が咲く季節ではなかったのですが,それでも早咲きの桜が少しだけ咲いていたので,桜と天守が一緒に収まる場所を探して写真を撮りました。

 天守の下に博物館があって,そこで丸岡藩と丸岡城について詳しく知ることができました。
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 丸岡城は丸岡藩の居城でした。
 丸岡藩は,戦国時代,織田信長の配下柴田勝家の養子であった柴田勝豊が治めていました。柴田勝豊が賤ヶ岳の戦いののち病死すると,豊臣秀吉の家臣であった青山宗勝・青山忠元父子が丸岡藩に入りましたが,関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易され,代わって入ったのは結城秀康の重臣・今村盛次でした。しかし,今村盛次は福井藩重臣による内紛に巻き込まれて流罪とされ,その次に徳川家康に仕えた本多重次の子・本多成重が入りました。
 本多成重と子の本多重能,そして孫の本多重昭の3代は藩政の確立に尽力しましたが,本多重昭の子の本多重益は無能の上,酒色に溺れ,それがもとで家臣の本多織部と太田又八の間で内紛が起こり,幕命により改易されてしまいました。
 このように,丸岡藩の藩主は災難続きでしたが,戦国時代,キリシタン大名で有名な有馬晴信の曾孫・有馬清純が越後糸魚川藩から入部し,やっと落ち着きました。その次の藩主である有馬一準の時代には外様から譜代へ格上げされ,第5代藩主の有馬誉純は若年寄,第8代藩主の有馬道純は老中という幕府の要職に就任しました。
 明治維新ののち,有馬道純は版籍奉還により丸岡藩知事となり,さらに廃藩置県によって丸岡藩は廃藩となりました。
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 丸岡城は,日本に現存する12の天守のひとつです。合戦時に大蛇が現れて霞を吹き城を隠したという伝説により,別名を「霞ケ城」といいます。
 城はもともとは安土桃山時代に建造されたと推定されることから現存最古の天守とよばれ,犬山城の天守との論争がありました。それは,1576年(天正4年)に柴田勝豊が建造したものであるという説と,建築史の観点で慶長期の特徴を多く見ることができるから本多成重が入城した1596年(慶長元年)以降の築造もしくは改修という説なのですが,調査の結果,使われている部材に伐採年代が1620年代以降と推定されるものが多いことがわかって,現在では,天守は1624年の寛永期に藩主本多成重によって整備されたと考えられています。
 丸岡城は天守のみ残っていて,櫓はありません。また,聞いてみると,城下町の風情の残る場所も残念ながらありませんでした。それは,1948年(昭和23年)の福井地震でこの町自体がほとんど壊滅的な被害を受けたためだそうです。そして,この地震で天守も倒壊してしまい,現在の天守は,1955年(昭和30年)に部材を70%以上再利用して組み直して修復再建されたものだそうです。
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 風情のある天守でしたが,思いのほか小さなお城でした。見学をしたあと,駐車場の場所にあったレストラン「一筆啓上茶屋」で地元産の越前おろしそばを食べました。客は私ひとりでした。
 私はグルメではないのですが,その土地に行けばその土地の名物を食べるようにしています。福井県の嶺北地方では,冷たいそばにたっぷりの大根おろしと削り節,刻みネギをのせて食べる越前おろしそばが有名だそうです。
 越前おろしそばは,今から400年以上前の1601年(慶長6年),府中(現在の越前市)の領主としてやってきた本田富正が京都の伏見からそば職人の金子権左衛門を連れてきたことがはじまりです。城下の人々に戦や災害に備える救荒食としてそばの栽培を奨励し,健康面でもプラスになるように大根おろしと一緒に食べるそばを考案したのが越前おろしそばの由来だといわれているとのことです。
 おいしくおそばをいただいて,わずかな時間の滞在でしたが,丸岡城を後に帰宅することにしました。

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 先日NHKBSPで放送した「人生の特等席」(Trouble with the Curve)という映画が録画してあったのをやっとみました。2012年のアメリカのスポーツ・ドラマ映画です。
 ベースボールがつなぐ親娘の絆の再生物語ですが,日本でつけたこの映画の題名は父親の仕事が娘には「best seat in the house」と思っていたというセリフの日本語訳なのですが,映画のイメージとはちょっと違っていて,原題のほうがずっと意味が深いです。ただし,この原題ではより日本ではわかりませんが。

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 クリント・イーストウッド(Clinton Eastwood Jr.)扮するスカウトマンであるガス・ロベルとエイミー・アダムス(Amy Lou Adams)扮する娘ミッキーが,キャリア最後の旅に出る。
 メジャーリーグ最高のスカウトのひとりとして何十年も敏腕をふるってきたガス・ロベルだったが,そろそろ年齢による衰えをごまかしきれなくなってきている。しかし,彼はそのキャリアを静かに閉じるつもりはまったくない。
 苦しい立場に追い込まれたガスを助けられるかもしれない唯一の人物は,よりによって彼が決して助けを求めないであろう娘のミッキーだった。アトランタの有力法律事務所で雇われ弁護士として働く彼女は事務所の共同経営者への昇格を目前にしている。
 子供の時に母を亡くしたミッキーにとって父はずっと遠い存在だった。
 父のキャリアを救おうとすれば自分自身のキャリアを危うくしかねない。不本意ながらも,スカウトのためにノース・カロライナまで行くというガスに付き添うことにする。そして,仕方なく一緒に過ごすうちに,ふたりは,相手に関して新たな発見をし始め,それぞれの過去と現在に関して長く秘められてきた真実が明らかになっていく……。
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 ということで,特に映画に詳しくない私はこの映画のことをまったく知らず,単に,クリント・イーストウッドが主演するメジャーリーグに関する映画ということで,一応録画をしたのでした。そして気乗りもせず,そのままにしてありました。やっと見はじめたのですが,おもしろくありません。
 おそらく,今とは違って,10年前の,アメリカ大好き,メジャーリーグ大好きだった私なら,夢中になった映画なのになあ,とそう残念に思いながら,最後まで続かず,少し見ては中断し,を繰り返していました。よほど途中で見るのをやめようかとも思いました。
 今の私とは違って,アメリカはどういうところだろう,とか,メジャーリーグを見てみたい,とか,アメリカの大地を走ってみたいとか,そういう夢が一杯あったころは,映画に出てくるそのすべてが新鮮でした。アメリカはなんとすばらしい国かと思っていました。しかし,今は,まっすぐに続くアメリカの道も,メジャーリーグの豪華なボールパークも,アメリカの雄大な田舎も,気楽に泊れる安モーテルも,私にはすっかりわかったことになっていて,夢ではなくなってしまいました。というよりも,アメリカの社会にも,日本と変わらぬ日常と日本以上の厳しい現実があるのを知ってしまったからでした。
 
 それがどうでしょう。途中から映画にのめり込みました。
 映画の前半でのかずかずのちりばめられた伏線が後半にどんどんと結びついていき,ひとつの無駄もないのです。この映画でも,娘がめちゃめちゃ出来がいいとか,救世主のごとく無名のエースピッチャーが登場するとか,そういった,現実にはあり得ないアメリカ映画の話がうま過ぎる世界は相も変らぬいつものことで,それを単純だ軽薄だという人もありますが,映画の世界など所詮はおとぎ話でいいのです。風采の上がらない女の子にすてきな王子様が白い馬車でやって来ていいのです。いわば,日本でいえば桃太郎の鬼退治の世界なのです。
 アメリカの社会というのは子供のまま大人になった人たちの集まりなので,こういう人生が手本となるのです。単純なのです。何の夢も理想の生き方もなく,人が成功すればやっかんでひがんで,人の目を気にして他人と比べて生きるだけ,表と裏があってやたらとややこしい日本とはえらい違いです。

 映画を見終えて,10年前の私に戻ったかのような気がしました。またアメリカに行ってみたいと思いました,しかし,簡単にはアメリカに行けなくなってしまった今だからこそ,逆に,そのすべてが懐かしく感じられるようになったということも,私がこの映画にのめりこんだ理由のひとつかもしれません。
 私は,映画もテレビ番組も元気をもらえるものが好きです。過度に過激なアクション映画やあまりに現実とかけ離れたSF映画はダメです。むしろ,アメリカの片田舎で生きる素朴な人生を描いたものとかロードムービーのようなものが好きです。しかし,なかなか気に入るものが見つからないのが残念です。
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 私はすっかり満足して,また,行くことができるようになったら,なにもないアメリカ大陸のまっすぐな道をゆったりとまったりと走ってみたいなあ,片田舎の安モーテルに泊って小さな町のマイナーリーグのゲームを見てみたいなあと思ったことでした。
 はやくその日が戻りますように…。

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 東尋坊はずいぶん昔に行ったことがあるという記憶だけですが,どういうところだったかはまったく覚えがありませんでした。知っているのは,そこが自殺の名所,あるいは「サスペンスドラマの聖地」とかいう噂だけです。しかし,もちろん私はそういうものではなく,単に時間つぶし,そして,東尋坊がどういうところかを確認することだけが目的でした。

 世界的にも珍しい断崖絶壁の絶景が臨めるという東尋坊は,その荒々しさや迫力からサスペンスドラマのラストシーンで多く使用されていて,ドラマでは,ここで犯人が自供するシーンがたびたび現れます。
 東尋坊は「輝石安山岩の柱状節理」という珍しい奇岩で構成されている海食崖です。こうした奇岩が大規模に広がっているのは朝鮮半島の金剛山とスカンジナビア半島のノルウェーの西海岸,そして東尋坊しかないそうです。
 崖は1キロメートルにわたり,最も高い場所で25メートルもの垂直の崖です。東尋坊は今から約1,200万年前から1,300万年前の新生代第三紀中新世に起こった火山活動でマグマが堆積岩層中に貫入して冷え固まってできた火山岩が日本海の波による侵食を受け地上に現れたものとされています。

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 昔,福井県東部の山間「奥越」に「平泉寺」という大きな寺に,東尋坊という極悪非道の僧侶がいました。東尋坊は暴れ出すと手がつけられないほどの怪力の持ち主で,悪事を重ね近隣の民を苦しめていました。東尋坊にはあや姫という思い人がいて,恋敵である真柄覚念という僧侶といがみ合っていました。
 平泉寺の僧侶たちが東尋坊を海辺見物に誘い出し,崖の上で酒盛りをしていたとき,真柄覚念が泥酔した東尋坊を絶壁から突き落としてしまいました。すると,東尋坊が海に沈むやいなや,それまで晴天だった空に俄かに暗雲が立ち込め,豪雨と雷が地上を襲い,ついに東尋坊を突き落とした真柄覚念も絶壁の底へと落ちていき,それ以降49日間にわたって東尋坊の無念により海は大荒れとなりました。
 それ以降,崖が広がる一帯が東尋坊と呼ばれるようになったということです。
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 公共の駐車場は有料らしかったのですが,東尋坊に続く道の一番手間にあるお店が無料駐車場の看板をかかげていました。商売上手で,駐車してもらって,帰りにその店で食事をしたり土産を買ってもらおうということのようでした。私もそこに車を停めると,さっそくどこからか店員さんが出てきて,お店の中を通ると東尋坊まで近道だと案内してくれました。
 私はずうずうしいので何も買わずに店を通りぬけ,東尋坊に向かいました。お寺の参道のようにまわりに多くのお店が並んでいて,いかにも昔からある日本の観光地でした。しかし,なにせ,朝早すぎてまだほとんどのお店は準備中でした。そうした参道のような道を過ぎると,海岸に出ました。そこが東尋坊でした。
 もっと雄大なのかと思っていたので拍子抜けをしたのですが,それは,私が海外でとんでもない風景を見慣れているからでした。私以外に観光客もおらず,写真を撮ってもらうにも頼む人がいませんでしたが,かろうじて若者がひとりやってきたので,写真を撮ってもらいました。
 太平洋岸は晴れていたのに,この日の日本海側は天気が悪く,それがまた日本海らしいというか…。
 短い時間でしたが,東尋坊がどういうところなのかわかったので納得して,丸岡城に戻ることにしました。
 帰りも親切なお店の中を何も買わずに通り抜け,車に乗ってそのまま丸岡に戻りました。

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 3月6日,余部鉄橋を見にいった帰りに福知山城と黒井城に寄ったことはすでに書きました。福知山城は明智光秀の居城だったところで,その美しい姿に一度は見たいものだと思っていたのですが,実際行ってみると,そこは鉄筋コンクリートのお城であることを知って,がっかりしました。そして,どうやら,私は,福知山城と丸岡城をごっちゃにしていることに気づきました。私は城マニアでないので,知識はその程度のものです。
 そこで,「一度は行きたかったでもわざわざ行かなくては行かれない場所に行ってみよう」という計画の続きでいろんなところに日帰りドライブ旅行をしている一環として,丸岡城に行ってみることにしました。丸岡城もまた,どこにあるか,まったく知りませんでした。調べてみると,福井市の北にあるようでした。福井市は以前,仕事で行ったことがあります。そのとき,交通費を節約して高速バスを利用したのですが,福井市が名古屋からずいぶん近いことに驚きました。そして,大都市が近くにない福井市の人は用事があると気軽に名古屋に来るということを知りました。

 よい天気でした。今回もまた,早朝6時に自宅を出て,名神高速道と北陸自動車道を乗り継いで日帰りでドライブすることにしました。これまで行った余部や親不知に比べたら,比較にならないほど近いところで,わずか2時間,あっという間に福井インターチェンジに着いてしまいました。福井インターチェンジを過ぎると,やがて左前方に町が広がり,その中心付近に小さなお城が見えました。丸岡城は山城ではなく,町の真ん中にあって,家々と馴染んでいました。
 ただ,誤算は天気でした。自宅を出たときは晴れていたのですが,日本海はまったくそうではなく,曇天,しかも,とても寒い日でした。
 丸岡インターチェンジで降りて,Google Maps のナビゲーションに従って走っていくと,ほどなくお城の駐車場の着きました。丸岡城は坂井市にありました。坂井市は思った以上に小さな町でした。そしてまた,小さな城郭でした。広い駐車場がありましたが,1台も車は停まっていませんでした。時間はまだ午前8時前。ちょっと早すぎるなあ,と思って,どこか近くに寄る場所でもないかなあと地図を見ると,東尋坊まで25分でした。そこで,まず,東尋坊まで足を延ばすことにしました。
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 というわけで,3月17日の朝8時すぎ,出かけるときに行くとも思わなかった,そして,私以外に誰もいない寒さ震える東尋坊で,私は日本海を眺めていたのでした。

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 稲沢市の国衙,国分寺,国分尼寺の遺構を順に紹介しました。最後に,総社について紹介します。
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 総社というのは,特定地域内の神社の祭神を集めて祀った神社のことをいいます。律令制において国司が着任した最初の仕事は,赴任した国府の定められた神社を順に巡って参拝することでした。しかし,いつの時代も人の考えることは同じで,次第に,そんな面倒なことはやめて国衙の近くに総社を設けてそこを詣でることで巡回を省くことが制度化されていきました。
 総社の多くは中世になって廃れていきましたが,後に再興されたものも少なくありません。
 
 尾張国の総社は現在の尾張大国霊神社です。近くに尾張国国府の国衙があったことから,一般には国府宮神社,国府宮とよばれています。現在,稲沢市といえばこの国府宮神社で有名ですが,それは,毎年旧暦1月13日に執り行われる儺追神事,通称「国府宮はだか祭り」が行われるからです。
 しかし,有名な割にはその歴史やらいわれやらが語られているものは少なく,不思議な行事だと思いますが,ともかく,日本各地にある役逃れのさまざまな行事と同じようなものでしょう。 
 そしてまた,名鉄の国府宮駅で降りても,神社までの間に多くの食堂やら土産物店があるわけでもないので,ここは観光で来るには不向きなところです。なので,儺追神事のころ以外はほとんど人がいません。
 本社は本殿,渡殿,祭文殿,廻廊,拝殿,楼門と並ぶ建築様式で「尾張式・尾張造」と称されます。
 入口の楼門は550年も前に建てられたもので,1646年(明正23年)に改修された当時のままの姿を残しています。楼門をくぐると350年前に建てられた拝殿があります。その奥に本殿があり,そしてそれに接する形で鎮座している盤境(いわくら)は,自然石を5個円形に並べたもので,社殿建立以前の原始的な祭祀様式を物語るものとして神聖視されているそうです。

 祭神である尾張大国霊神は,この地方の祖先が当地を開拓する中で自分達を養う土地の霊力を神と崇めたものとされ,開拓の神ということで大国主命とする説もあります。
 国府宮神社には別宮として2つの神社があります。
 ひとつは大御霊神社で,尾張大国霊神社の南に鎮座しています。大御霊神社には大御霊神が祀られています。大御霊神というのは大歳神(オオトシ)の子ども=大国御魂神(オオクニタマ)とされていて、穀物の神様です。神話では,大歳神は須佐之男命(スサノオ)と大山津見(オオヤマツミ)の娘である神大市比売命(カムオオイチヒメ)の子として生まれ,出雲国の建国に際して大国主神に力を貸した豊年・豊作の神とされます。大歳神は,伊怒比売神(イノヒメ)をめとり,大国御魂神(オオクニタマ),韓神(カラ),曾富理神(ソホリ),白日神(シラヒ),聖神(ヒジリ)という五柱の神をもうけます。
 もうひとつは尾張大国霊神社の東にある宗形神社で、こちらには田心姫命(タゴリヒメ)が祀られています。天照大御神(アマテラス)と須佐之男命(スサノオ)との誓約の場面で誕生した宗像三女神を古事記では多紀理毘売命(タキリビメ),田寸津比売命(タキツヒメ),市寸島比売命(イチキシマヒメ),日本書紀では田心姫(タゴリヒメ),湍津姫(タギツヒメ),市杵嶋姫(イチキシマヒメ)を指します。海の神様転じて水の神様とされます。
 尾張大国霊神と大御霊神、田心姫命で,国,穀物,水となり,尾張国の人々の生活と密接した神様で,合わせて国府宮の三社と呼ばれています。
 大御霊神社,宗形神社とも小さく,目立たない神社です。尾張大国霊神社に訪れたとしても,大御霊神社や宗形神社は訪れる人もさらにほとんどなく,閑散としています。

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 尾張国分寺跡を見つけた私は,これまで関心もなかったのに,奈良時代のこの地方について興味をもち,調べてみました。
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 前回,日本の憲法はずっと養老律令だったと書きました。この律令に基づいて設置された日本の地方行政区分を律令国といい,なんと,飛鳥時代から明治時代初期にわたって日本の地理的区分の基本単位でした。 令制国の行政機関を国衙といい,国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府といいました。つまり,今の県庁所在地です。県庁にあたるのが国衙で,国衙やそのまわりにはさまざまな役所がおかれていて,土塀などによって区画されていました。そして,国府には,国衙のほかに,国分寺,国分尼寺,総社が置かれました。
 律令制の衰退にともなって,廃れたり所在不明になった国府もあり,また,現在も都市として発展した国府もあります。 

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 尾張国の国府は現在の稲沢市にあったのですが,国衙の置かれていた場所は定かではなく,地名を手がかりにして,数度の発掘調査が行われたものの今も特定されていないそうですが,名鉄電車の国府宮駅の西側の住宅街にある松下公民館のとなりに「尾張国衙址」碑が建てられています。
 また,総社は国府宮駅の東側にある,はだか祭りで有名な尾張大国霊神社(国府宮神社)で,今も存在しています。
 国分寺跡については前回紹介しましたが,今日はその補足を書きます。
 「日本紀略」の884年(元慶8年)の条によると,尾張の本金光明寺に火災があったため,願興寺を国分寺としたと書かれています。この願興寺も10世紀には衰退して廃寺に至り,その後,国分尼寺が僧寺(国分寺)に転用されたといいます。このように転々として, 現在は,創建時の遺構から北へ900メートルほど行った場所にある「円興寺」から改称した「鈴置山国分寺」が明治時代に法燈を伝承し,これが現在ある国分寺です。
 国分尼寺もまた,詳しいことはわかっていないのですが,法花寺町にある法華寺と推定されています。また,奈良時代,国分寺の東西南北には「四楽寺」とよばれる末寺があったといわれます。現在の安楽寺(北方),平楽寺(東方),長楽寺(南方),正楽寺(西方)がこれらにあたるとされます。
  ・・・・・・
 
 ということだったので,どこもそれほど自宅から遠くないので,歩いて順に巡ることにしました。
 「尾張国衙址」碑は,街中にあって,日ごろ通るところでなかったので,見つけるのに戸惑いました。普段車で通る道路の端に案内標識があったのですが,なかなかたどり着けませんでした。とはいえ,単に碑があっただけです。
 そのあと,国分尼寺と四楽寺に順に行ってきました。
 法華寺は立派な寺でした。また,安楽寺は,春になると桜が咲き誇る寺でよく行くのですが,その寺が由緒あるところとは知りませんでした。長楽寺もまた,立派な寺でした。しかし,平楽寺は神社の敷地のなかに表札だけがありました。正楽寺にいたっては,何もなく,田んぼの一角に墓地だけが存在していました。
 このあたり,濃尾平野の真ん中で,空が広く,おそらく,住居がなけれは,今でも地平線まで見通せます。昔の姿を想像してみました。1300年以上も経つのに,当時の地名は残っているし,人の歴史というのは不思議なものだと思いました。

国分寺 (2)

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 大日本帝国憲法が制定される前まで,この国の憲法に代わる国の決まりは,なんと,718年(養老2年)にまとめられ757年(天平宝字元年)に施行された養老律令だったのです。養老律令は,時代に合わなくなった部分は無視されていったのにもかかわらず,明治時代まで1200年近くにわたって,なあなあで世襲されていきました。養老律令をもとに,日本では全国を機内・七道に行政区分して,国・郡・里が置かれて,国司・郡司・里長が任じられました。そして,国司には中央から貴族が派遣され,役所である国衙を拠点として,国内が統治されました。そして,国衙の近くには総社,国分寺・国分尼寺が置かれました。
 明治維新で,これを定めた養老律令は無視され,法的根拠もないまま廃藩置県が行われました。こうしたことがいかに日本らしく,その点からも,この国は本質的には,「お願い」という名目の強制国家であり,法治国家とはいえないのでしょう。それは,昔も今も変わりません。
 さて,私の住む愛知県は尾張国と三河国に分かれていましたが,そのうち,尾張国の国衙があった場所は,現在の稲沢市です。しかし,稲沢市のどこに国衙や国分寺・国分尼寺があったかとわれても,住んでいながら知っている人もそうはいないことでしょう。私もそうでした。
 そこで,遠出禁止が「お願い」されている今,近場の散歩ついでに,実際に,その場所を探すことにしました。人がだれもいない田舎,訪れる人もいないこうした遺構巡りは,安全かつ楽しいものです。

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 聖武天皇は,仏教による国家鎮護のために,当時の日本の各国に国分僧寺(いわゆる国分寺)と国分尼寺の建立を命じました。正式の名称は,国分僧寺が「金光明四天王護国之寺」,国分尼寺が「法華滅罪之寺」といいます。
 まず,聖武天皇は,737年(天平9年)に国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と「大般若経」を写す詔,740年(天平12年)に「法華経」10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出しました。そして,741年(天平13年)には,各国に七重塔を建て,「金光明最勝王経(金光明経)」「妙法蓮華経(法華経)」を写経すること,金字の「金光明最勝王経」を写し塔ごとに納めること,国ごとに国分僧寺と国分尼寺を設置し,僧寺の名は金光明四天王護国之寺,尼寺の名は法華滅罪之寺とすることといった「国分寺建立の詔」が出されました。
 寺を作る財源として,僧寺には封戸(ふこ=家:その家の収める税を全額とれる)50戸と水田10町(1町=9,900平方メートル),尼寺には水田10町を施すこと,僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められました。
  ・・・・・・

 しかし, 国司の怠慢で多くの国分寺の造営が滞ったので,747年(天平19年)の「国分寺造営督促の詔」によって,造営体制を国司から郡司層に移行させるとともに,完成させたら郡司の世襲を認めるなどの恩典を示したといいます。
 これもまた,マイナンバーカードやキャッシュレスの普及ができない今と同じ話です。日本は変わりません。
 「国分寺造営督促の詔」によって,やっと,ほとんどの国分寺の本格的造営がはじまりました。国分寺の多くは国衙の近くに置かれ,国衙とともに最大の建築物でした。やがて,律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると,国分寺の多くは廃れていきました。
 これまた,今と同じです。日本は変わりません。
 ただし,中世以後も,多くの国分寺が,当初とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続け,国分尼寺もまた,その多くは復興されませんでしたが,後世になって,法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している場合もありました。

 さて,稲沢市の話に戻ります。
 稲沢市には国分寺という寺があります。私は,国分寺が奈良時代の国分寺の跡だとずっと思っていました。先日,なんとなく散歩していたら,国分寺から離れたところの道路の脇に「尾張国分寺跡」という大きな案内板を見つけて,びっくりしました。つまり,私が国分寺だと思っていたところは後世に移ってきた場所であって,奈良時代の国分寺ではありませんでした。
 尾張国の国分寺は,尾張国分寺跡という遺構として,現在の国分寺から南に約900メートルのところにありました。説明書きがあったので読んでみると,調査では,国分寺の寺域は,東西約200メートル,南北約300メートル以上もあり,金堂・講堂・塔の遺構が見つかっていて,金堂,講堂,南大門は南北一直線に並び,金堂の左右には回廊が取りついていて,その回廊外の東方に塔を配していたということでした。
 遺構は今は民有地となっていますが,あぜ道をあるいていくと「塔跡」と書かれた案内板があって,そこを入っていくと,塔の遺構がありました。遺構には礎石が4個が残り,「尾張國分寺舊址」碑が建てられていました。

 今から,1200年以上も前の遺構がこれだと思うと,なにか不思議な気がしました。それとともに,おそらく,その時代にはきわめて神聖な場所だったところが,今はただの空き地となっているのに,複雑な気持ちもしました。それで興味をもった私は,これを機会に,散歩を兼ねて,さらに,稲沢市の国衙の跡や国分尼寺がどこにあったかを探してみることにしました。
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 ところで,今から100年ほど前の1918年,スペイン風邪(スペインインフルエンザ)が流行して世界中の5億人あまりが感染し,死者の数は第一次世界大戦の犠牲者を越えたといいます。その時代にはおそらく,スペイン風邪というのは,最も切実な大問題だったことでしょう。
 しかし,今,高等学校の世界史の教科書を隅から隅まで読んでみても,スペイン風邪のことなど一言も書かれてありません。我々が学校教育で学ぶ歴史というものは,まったく役立たない知識は一杯詰め込むけど,こうした,その時代でもっとも人の生活に関わる大切なことは教えてもらえないものなのでしょうか。これもまた,日本らしい話です。

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 去る3月12日木曜日。大桑城,明智光秀の墓,モネの池と行って,最後に美濃市のうだつの町並みを歩きました。この,特に何にもなさそうに思えるところに,十分楽しめる場所を見つけた自分を「ほめてあげたい」気分です。
 ちなみに,「ほめてあげたい」とは,女子マラソンのアトランタオリンピックで銅メダルを取った有森裕子さんで有名になったことばです。しかし,有森裕子さんの「自分をほめてあげたい」発言は都市伝説で,実際は「メダルの色は銅かもしれませんけれども…,終わってからなんでもっと頑張れなかったのかと思うレースはしたくなかったし,今回はそう思っていないし…,はじめて自分で自分をほめたいと思います」というのが真実です。

 さて,このうだつの町並みですが,以前美濃市を車で通ったときに見かけて,えっ,こんなところがあるんだと思って,それ以来ずっと気になっていた場所です。
 うだつの町並みの近くに公営の駐車場があったのでそこに車を停めて歩いて町並みに行きました。ここもまた,平日ということもあってかまったく観光客もおらず,私は江戸時代にまいもどったかのような気持ちで,ゆったりと街歩きを楽しみました。
 帰りがけに,ほかにだれもお客さんのいなかった1軒のカフェに寄って,コーヒーとお饅頭を食しました。

 うだつの上がる町並みとは,かつて,上有知(こうづち)とよばれた城下町のことです。
 この城下町は,1605年(慶長10年),飛騨高山藩主であった金森長近が養子の金森可重に高山城を譲り,この場所の高台に小倉山城を築いて隠居したのがはじまりです。やがて,金森可重より金森長近の実子金森長光に2万石が分知され上有知藩となりますが,金森長光には嗣子がなく改易され1代で廃藩,小倉山城も廃城となってしまいました。
 1615年(元和元年),上有知は尾張藩の所領となり、城跡には代官所が置かれました。現在,城跡には石垣と土塁が現存し,本丸跡に模擬櫓,山頂に三階建ての展望台と忠魂碑が建造されています。しかし,城下町は廃藩後も商業の中心地として大いに繁栄しました。現在は,約1キロメートルにわたってうだつの上がる町並みが残り,重要伝統的建造物群保存地区となっています。

 廃藩後も城下町が繁栄したのは,長良川流域で漉かれた美濃和紙のおかげです。
 しかし,丘の上に造られた上有知の町は水の便が悪いため火災に弱いという一面を持っていました。 そこで,防火対策の一環として屋根にうだつを上げるようになりました。うだつとは、隣家との間の防火壁に小屋根をつけたものです。やがて,はじめの用途から離れ,うだつは,次第に富の象徴として豪華なものが競って上げられるようになっていきました。現在も,町内には18棟ものうだつを上げている家が残されています。
 町から西に少し歩いて坂を下ると長良川にたどり着きます。川べりには船着場と灯台の跡が残っています。おそらく,観光でうだつの町並みには来ても,長良川の川べりまで歩く人はまれだと思いますが,こうしたところに足を延ばすことこそが散歩のコツです。このようにして町のすみずみまで歩くと,その土地のことがとてもよく実感できるのです。
 またひとつ,これまでずっと行きたかった場所を探ることができました。いい日になりました。

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 せっかく大桑城に行ったので,帰るついでにどこに行こうかと考えて思いついたのは「モネの池」でした。
 特に興味もなかったのですが,あれだけ騒がれたのだから一度みてみようという好奇心と,今なら空いているだろう,というのが理由でした。
 「モネの池」は関市板取の根津神社の貯水池で,大桑城から北に,途中で明智光秀の墓という伝説のあった桔梗塚を経由して,県道を20分ほど車で行ったところにありました。
 訪れた人ががっかりしたとかいううわさもありますが,日本の観光地なんてどこもそんなようなものです。いつも書いているように,日本の景色はこころで感じるものです。それにしても,こんな場所にわざわざ観光バスが訪れるのは,話題性とともに,その県道をさらに走るとそのまま郡上八幡に行くことができるという立地のよさです。
 私は,このたいしたことのない池の写真を撮って,あとでうまく画像処理をしてモネの絵に似せるのを楽しみにしていましたが,その目的は十分に果たせたので自己満足しました。それが今日の1番目の写真です。

 「モネの池」というのはもちろん通称で,正式な池の名称ではなく,「名もなき池」と看板に書かれていました。
 1999年,雑草が生い茂っていた池を近くで花苗の生産販売をする「フラワーパーク板取」の経営者である小林佐富朗さんが除草を行い,スイレンやコウホネを植えました。また、コイを地元住民が自宅で飼えなくなって持ち込みました。そうした偶然が積み重なって,クロード・モネの後期の睡蓮連作群と似た池となったものです。
 池はテニスコートよりも少し大きい程度で,思った以上に小さいものです。池には常に湧き水が流れ込み,このため年間水温がおよそ摂氏14度と一定で,冬に咲いたコウホネは枯れず,黄色からオレンジ色,そして,赤色と変化します。また,池には近くの山が流紋岩類で構成されているために湧き水に養分が含まれず微生物が育たないことから透明度が高く,太陽の位置や水量によって池の色が変化します。
  2015年ごろからSNSでこの池が話題に上りはじめ,マスコミに取り上げられたことで観光客が激増したのだそうです。
 なんでも, 2016年に板取錦鯉振興会が稚魚から育てたニシキゴイを提供した中に頭にハートマークがついている鯉がいたことから「見たら恋が成就する」とかいった話題も生まれて,さらに人気が沸騰したそうで,私が行った日もそのコイを探している人がいました。

 それはそうと,私は「モネの池」がどういうところなのかということがわかり,また,後でモネの絵のように加工できそうな写真さえ写せればそれだけで十分でした。ここもまた,人がおおぜいいたらそのまま帰るつもりでしたが いつも -といってもいつものことなんて知りませんが- と違ってほとんど人もおらず,とても幸運でした。人混みの嫌いな私が,こんな場所,混雑していたら決して来ることなとありますまい。
 それよりも,池の近くに,何度か潰れそうになって廃業を決意するたびになにがしかの幸運で商売が上向いた喫茶店があるとかいう話を聞いていたので,そこがその店なのかどうかは知らねど,池に最も近い「風土や。」という店があったのでそこに入って,昼食をとることにしました。この店も,普段なら結構な賑わいを見せるらしいのですが,この日の客は私だけでした。
 店の主はおもしろい人で,話に花が咲きました。
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 それにしても,モネの池も「風土や。」もネットで調べると,いろんなクチコミが書かれています。
 こうした書き込みを読むと,書いた人の教養やら知性がわかっておもしろいものです。モネの池にはがっかりしただとか,「風土や。」の主の客扱いがよくないだとか,よくもまあ,こうもしゃあしゃあといろんなことが書ける人がいるものです。
 世の中なんてそんなもの。いろいろあっていいのです。

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