しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

July 2020

7月18日土曜日。
泊まっているホテルはビュッフェ形式の朝食が食べられました。私は,昨晩,念願だったネオワイズ彗星を見,写すことができて,今回北海道へ来た目的を果たしたので,この日は特にすることもなく,朝はゆっくりしました。朝食をとるために1階のレストランに行ったときは,もう,私以外にお客さんはいませんでした。食事をしながら,今日は何をしようか考えました。この日の天気予報は快晴でした。冷静になって考えれば,天気は回復基調なので,昨日よりもこの日のほうがずっと天気はよさそうです。昨日焦る必要はなかったのです。
特に行きたいところもなかったので,「なんとなく」旭川市まで行ってくることにしました。とはいえ,旭川市で何をするか,というアイデアもありませんでした。この「なんとなく」というのが,いつものとおり神がかりなのです。私には。

留萌市から無料の高速道路を沼田町に向けて走っていって,有料区間になる前に降りました。この先は一般道を旭川市まで走るつもりでした。高速道路を降りたところにあったのが,道の駅「サンフラワー北竜」でした。周りは一面のひまわりとそばの花。ものすごく雄大でこれぞ北海道,という景色でした。ここに来ただけで大満足でした。
まだ,お昼には早かったのですが,雰囲気に負けて,ここで昼食をとることにしました。
昼食後,付近を散歩しました。まるで海外にいるようで,最高の気分でした。ただし,快晴の青空,太陽の光がきついのが堪えました。
それにしても贅沢な話です。昨日まではあれだけ雲が恨めしかったのに,困ったものです。
さて,これから旭川市に向けて出発です。一般道を走っていくと,旭川市に近づくにつれて,旭山動物園という道路標示が見られるようになってきました。

私はうっかりしていたのです。そうなのです。旭川市といえば旭山動物園なのです。
しかし,評判になったころ,一度は行ってみたいと思っていたものの,わざわざ行く気にはなりませんでした。なにせ,ものすごい観光客が訪れていたらしいし,人混みの大嫌いな私がそんな雑踏に紛れる気持ちはまったくありませんでした。駐車場に観光バスがずら~っと駐車していて,そこからツアー客が続々降りてくるのを想像しただけで,行きたくなくなります。
その旭山動物園,それが期せずしてインバウンドが去った今,手に届くところにあるのです。
こりゃ行くしかない,と思いました。問題は時間でした。もう時間は午後1時過ぎで,到着するのは午後2時過ぎになってしまいます。調べてみると,閉園時間は午後4時30分,今日はこれまでちょっとのんびりしすぎたかかな,と少し後悔しました。

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◇◇◇
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これまで走ってきた国道232号線は,天塩町で内陸部に入って国道40号線と合流して稚内市に向かいます。私がサロベツ原野に来たのはネオワイズ彗星を見るためだったので,ともかく,サロベツ原野のどこで彗星を見ることができるかを調べるために,天塩町からは,国道232号線を進まず,サロベツ原野を通っていく道道106号線を走ることにしていました。
しかし,ここでもまた,道路標示がいい加減で,道道106号線に入る交差点を見過ごしました。
しばらく天塩町の町中を走っていって,どうやら行き過ぎたと思い,引き返すことにしました。
道道106号線はもっと狭い道路かと思ったのですが,大平原を片側1車線の2車線道路がまっすぐにずっと続いていて,すごく雄大でした。右手にはものすごい数の風力発電の風車が設置されていました。この道路はほとんど車が通らなかったのですが,時折走る車は,速度制限などお構いなしに,ものすごいスピードで私の車を追い越していきました。
時間はまだ,午後6時少し前でした。
私はサロベツ原野を観光に来たわけではなく,星を見る場所探しに専念していましたが,それでも,美しい風景に魅了されていました。途中,内陸部に行く道路との交差点があって,そこを進むとにビジターセンターに行くことができるとあったので行ってみたのですが,時間が遅く,すでに閉まっていたので,引き返しました。
アメリカの国立公園なら,数キロメートルごとに展望台が設けられていて,そこには広い駐車スペースがあります。サロベツ原野もそんな駐車スペースがあって,どこでも気軽に車を停めて星が見られると思っていたのですが,いくら進んでも,駐車スペースなどどこにもなく,ちょっと焦りました。道路には路肩もなく,道路わきに車を停めることもできません。あきらめかけたころ,やっと展望台があって,そこには車が4,5台停められる駐車スぺースがありました。そこからは海を臨むことができて,遠くには利尻富士も見えました。空が暗くなったら,ここで彗星を見ることに決めました。

まだ,空が暗くなるには2時間以上ありました。どこかで夕食をとってきてから,ここに戻って彗星を見ることにしました。しかし,サロベツ原野にはレストランの1軒もありません。こうなったら稚内まで行こうと,さらに車を走らせました。ここから稚内まではさらに30分以上かかります。
そのうち,どうせ稚内市まで行くのなら,もっと先の宗谷岬まで行って,そこで夕日が沈むのをを見ながら夕食をと思って,「Hey Siri」で尋ねてみましたが,宗谷岬は,稚内市からさらに50分ほどかかるということでした。これでは遅くなってしまいます。残念でしたが,断念しました。無計画な私は,まさか,この旅で稚内市に行くとは夢にも思ってもいませんでした。もしはじめからその予定なら,もっと早く宗谷岬まで行って,そこで夕食をとり,夕日を眺め,それから,サロベツ原野に行って彗星を見るという計画を立てることもできたのでしょうが,晴れるかどうかという次元で行動していたので,そんな考えが及ばなかったのが残念でした。
ともかく,稚内駅まで来ました。稚内の駅前あたりは,数年前に行ったアイスランドのレイキャビックの港あたりにどことなく似ていて,いい感じでした。駐車場があったので車を停めて,駅周辺を歩きました。ところが,稚内の駅前にもほとんど食事ができる店がみつかりません。駅の構内にさえ,何もありませんでした。なんとか駅前に閉店間際の店を見つけたので入りました。お客さんは私だけでした。そこでカニ飯を食べました。

食事を終え,サロベツ原野に戻りました。来るとき見つけたパーキングには,幸いなことに無粋な灯りはひとつもなく,彗星を見るにはとてもよい場所でした。問題は時折道道106号線を通る車のヘッドライトでしたが,車が通るのは10分に1台程度だったので,問題はありませんでした。
車を停めて,空が暗くなるのを待っていると,隣に1台の車が停まり,人が降りて,三脚とカメラを設置しました。どうやらその人も彗星を写しにきたようです。声をかけると,地元に住むカメラマンでした。仲よくなって,一緒に彗星を見ました。おかげで,楽しい時間になりました。
彗星は,2日前にこの場所で肉眼で見ることができたということだったので,期待が膨らみました。そもそも,この時点で私は彗星がどのくらいの明るさで見えるかもわかっていませんでした。
実際は,空が暗くなるにしたがって,あざやかな尾を引いた明るい彗星が空に浮かび上がってきました。北海道は緯度が高いので,彗星はほとんど沈ます,長い時間楽しめました。はじめのうち低い場所に雲が出てきたので心配したのですが,強い風が雲を吹き飛ばし,やがて快晴になりました。
なんとなく,国際宇宙ステーション(ISS)が通過するのを見たことがありますか,というような話をしていたら,偶然,国際宇宙ステーションが通過したのには驚きました。そんなことを知っていたら,国際宇宙ステーションと彗星を同じ画面に写すことができたのに,それだけがこころ残りとなりました。
どうやら,日本国内で,明るいネオワイズ彗星を見ることができたのは,北海道と東北の一部,そして,沖縄くらいだったようです。そして,そんな数少ない彗星の見られた場所には多くの人が訪れていたようです。しかし,さすがにサロベツ原野に来たのは,私とそのカメラマンだけでした。どうやってここを見つけたの,と聞かれましたが,それは単なる偶然でした。
  ・・
10時過ぎまで彗星を見て,留萌市のホテルに戻ることにしました。幸せな時間でした。来てよかったと思いました。それに,この日は,私が来る1週間前より若干彗星の光度は下がりましたが,見ることのできる高度が高くなったので,彗星が最も美しい時期でした。
深夜の北海道を走って,午前1時過ぎに留萌市のホテルに戻りました。深夜の人影のない北海道を走っていると,数年前,深夜のオーストラリア大陸を走ったときのことをを思い出しました。

◇◇◇

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朱鞠内湖からは国道275号線を南下して,沼田町まで戻ってきました。国道275号線はとても走りやすく,まわりの景色も美しい,私がイメージする北海道らしい道路でした。こういうところならまた来てもいいなあと思いました。
次第に晴れ間が増えてきたとはいえ,未だ快晴とは程遠い天気でした。
沼田町から留萌市までは無料の高速道路です。山を越え,いくつかのトンネルを過ぎ,留萌市に近づくと,ついに,天気は快晴となりました。どうやら,日本海側は快晴のようでした。あとは,この天気が夜まで続くことを祈るだけでした。
留萌の町に着いて,この日から2泊する留萌市の市街地にあるホテルに向かいました。どうして2泊目から宿泊先を変えたかというと,留萌市で宿泊場所を探していたときに,一番はじめにもっとも安価なものを見つけたのが昨晩泊まったゲストハウスなのですが,まずはじめの1泊を予約してみると,このゲストハウス,実は,宿泊代以外に,結構高価なクリーニング代とかいうものが別途必要で,結局割高になってしまったからです。まあ,言葉は悪いのですが,きちんと説明書きを読まなかった私がだまされたかたちになってしまったのです。こういう別途クリーニング代というのは,ハワイのコンドミニアムでは常識のようなものです。つまり,ブッキングコムやらエクスペディアに表示されている値段のほかに別途支払う料金が必要なのです。しかし,まさか日本でもそういうものがあるとは思いませんでした。
そこで,残りの2泊は,通常のホテルに変えたというわけです。留萌市には,このホテル以外には,いわゆるネットで予約できるようなホテルはありませんでした。また,留萌市には旅館がいくつかあるようなのですが,それらはネットでは予約できず,実際,営業しているのやら休業しているのやら,よくわかりませんでした。

留萌市に戻ってきたのはホテルのチェックインができる時間の午後3時よりも少し早かったのですが,おそらくもうチェックインができるだろうと行ってみました。そして,実際,できました。
一度部屋に入って,いよいよサロベツ原野に向けて出発しました。
サロベツ原野まで,海岸線に沿って,国道239号線,国道232号線と海岸沿いを北上して行きました。小平町,苫前町,羽幌町と過ぎていくと,最果て感が満載になってきて,ウキウキしてきました。そして,このあたりならどこでも星が見られるような感じの場所になってきました。私は,異国に来たみたいな気持ちになってきて,すっかり満足しました。
羽幌町に差しかかると,それまではずっと快晴だったのですが,少しずつ雲がでてきました。
天気予報では,この先のサロベツ原野から稚内にかけては快晴で,その途中の羽幌町あたりだけ雲がかかっているというものだったので,これは,予報通りでした。
初山別村に入ると,「天文台」と書かれた道路標示が見られるようになってきました。時間もあることだし,このあたりに天文台があるのなら行ってみようと思いました。
道路標示に従って,国道を離れて行ってみると,やがて,大きなキャンプ場があって,その一角にドームがありました。これが初山別天文台でした。初山別天文台は初山別村の岬にある,日本最北の天文台でした。地元の青年団と自治体が運営し,通常観測のほか教育目的で連日一般公開されているということです。中を見学する料金は無料で,1階の簡単な展示室とビデオ,そして,望遠鏡を見ることができました。望遠鏡は三鷹光器製の口径650ミリメートルカセグレン式反射望遠鏡という本格的なものでした。また,この天文台のある周囲は岬公園となっていて,公営の温泉付宿泊施設やら運動施設,海水浴場,キャンプ場がありました。
この天文台は,テレビドラマ「白線流し」の舞台となったところだそうです。

とてもすばらしい場所で,私は,サロベツ原野まで行かずとも,よほどここで彗星を見ようと思いました。公園には売店があったので中に入って聞いてみると,どうやら,この天文台の周辺は,夜になると,安全のためにかなりの街灯が明るく光るようなのです。理由を聞くと,どうして安全のための灯りを消さなくてはならないのか,まったく理解していないようでした。要するに,無知なのです。
これでは,宝の持ち腐れです。安全のための灯りならば,アリゾナ州のフラグスタッフのように,下向きに街路灯を設置するなどの方法があるのです。要するに,そんなことさえできない。これが日本なのです。中には,ここに来た人が星が見えないので灯りが邪魔だと苦情を言うそうですが,どうしてそんな苦情を言うのかと話していました。
私は,こりゃだめだと失望しました。そして,天文台を後にして,当初の予定通りサロベツ原野に向けて出発しました。

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朱鞠内湖からの帰り,国道275号線から国道239号線と通って,苫前町で海岸線に出て,そこから海岸に沿って留萌市に戻るつもりで走っていたのですが,国道239号線に右折する場所がわからず,そのまま国道275号線を走ることになってしまいました。日本の道路標示は,意味のないものは多々あれど,必要な場所で必要なものがないのです。しばらくしてそれに気づいてUターンをしようと思ったのですが,少し遠回りにはなっても,特に急ぐ旅でもないので,そのまま沼田町まで南下してそこから高速道路で留萌にいくことにして,そのまま国道275号線からの景色を楽しむことにしました。
それがまあ,国道275号線は,すばらしい景観が続き,それはそれは若干雄大さには欠けるけれどオーストラリアの田舎のようだったし,国道沿いにときに通りすぎる町は,アメリカの古びた田舎町のようで,海外旅行のできない今の私としては,かなり満足でした。

途中に,道の駅「森と湖の里ほろかない」がありました。道の駅のセンターハウスは「ルオント」と名づけられていて,2020年4月にリニューアルオープンしたものだそうです。「ルオント」は「Luonto」と書き,これは,フィンランド語で「自然の恵み」を意味する言葉です。「ルオント」には露天風呂「三頭の湯」とレストラン「そばの里」があります。「そばの里」には,手打ちの幌加内そばやカレーなどの食事ができました。私は,この日のランチメニューから食しました。
このあたりを幌加内町といいます。幌加内町の名産はそばです。7月中旬から8月中旬というから,ちょうどこの時期,幌加内町はそばの花の季節を迎えます。作付面積日本一を誇るそばの花が開花を迎えるので,町内の至るところには見渡す限りの白い風景が広がっていて,その景色は「幌加内は2度雪が降る」とも形容されるということです。朝に夕に表情を変えるそば畑は絶好の撮影スポットということで,4箇所のビューポイントが作られ,そば畑を見慣れた町内の人が「ここは見応えある」と思える場所をピックアップして案内板が整備されていました。
いつものように,私はこれを見にきたわけでもないのに,しかも,道を間違えたために,こうしたベストシーズンに,辺り一面に咲くそば畑を見ることができたのでした。
  ・・
本来なら,これを見るだけでも十分幸せな観光旅行になるわけです。しかも,おそらく通常ならば観光客でごった返しているのでしょうが,コロナ禍で観光客は皆無でした。
しかし,ネオワイズ彗星を見にきた私には,つねに天気が気ががかりで,依然として雲が切れない空を見ると私の観光気分は吹っ飛んでしまいます。もう昼過ぎたというのに,空は未だ雲に覆われていて,この日の晩も星空が見られるとはとても信じられませんでした。天気予報はうそつきだと思いました。昨晩彗星が見られたのなら,この日はもっと楽しい気分になれたのになあ,と思いました。なんとか今晩こそは彗星を見ることができて,明日は落ち着いて観光をする気分になれたらいいなあと,切に願いました。

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☆☆☆☆☆☆
 梅雨の季節とはいえ,これほど晴れないものなのでしょうか? それとも,これほど晴れないのは今年だけのことなのでしょうか? 前回青空を見たのはいつのことなのだろうか,もう忘れてしまいました。
 楽しみにしていたネオワイズ彗星(C/2020F3 NEOWISE)でしたが,まったくその姿を見ないで終わってしまう人が少なくないことでしょう。ヘールボップ彗星(C/2015O1 Hale-Bopp)以来23年ぶりに0等星まで明るくなって,北斗七星よりも長い尾を引いた世紀の大彗星,それも,明け方でなく,夜9時ころの北西の空に見ることができたというのに,ずっと天気が悪く,晴れを待ちわびるうちに,すでに明るかった全盛期は過ぎ去り,今は,4等星ほどまで暗くなってしまったといいます。
  ・・
 子供の頃から星空に興味をもっていたとはいえ,大した機材も持たず,また,せっかく買った機材さえもほとんど使うことなく,ディジタル化の波にも乗り遅れていた私が,今のように,どうにか,実際に頻繁に星見をするようになった動機は,2013年の年末に地球に近づいたアイソン彗星(C/2012S1 ISON)でした。
 太陽に接近して消滅してしまい,期待外れに終わったアイソン彗星ではありましたが,それを機会に機材を整備し,星を見に行く場所も見つけたので,それ以来,私は,彗星の写真を撮る楽しみを覚え,日本から見ることができる10等星より明るくなった彗星はすべて写すという目標をもって,これまで,数多くの彗星を写真に収めてきました。しかし,明るくなってもせいぜい6等星くらいで,肉眼ではっきり確認できる彗星どころか,双眼鏡でさえ見ることがむずかしいような暗い彗星しか現れなかったのを,とても残念に思っていました。
 一度でいいから,1997年に明るく見えたヘールボップ彗星,までとはいわずとも,明るい肉眼彗星を再び見たいものだと思っていました。そして,ついにそれが現れました。ところが…。

 2020年は大変な年になりました。人間はわずか100ナノメートルほどの小さなウイルスの餌食となりました。このちっぽけな地球から逃げだす場すらないということを,私は実感しました。
 しかし,そうした災いが起きても,依然として人間は愚かなままです。助け合うどころか,逆にいがみ合い,その災いを外交や政治の道具にしたり,金儲けの手段にしたりと,まったく懲りないのです。せめて,空の上の出来事くらいは,そうした人間社会の愚かさを離れて楽しむことができれば,と思っても,明るくなると予想されたアトラス彗星(C/2019Y4 ATLAS)もまた,そんな人間をあざ笑うかのように,期待外れに終わりました。しかし,もし,このアトラス彗星が明るく輝いたとしても,自粛とやらで,そんなことをしてもまったく無意味な屋外の広場でさえ閉鎖されていたので,それを見る場所もありませんでした。
 そしてまた,予想を超えて明るくなったネオワイズ彗星が近づきました。。昔なら,この災いを彗星=ほうき星のせいにしていたかもしれません。しかし,これもまた,人間の愚かさをあざ笑うかのように,天は低く垂れ込めた厚い灰色の雲でその姿を遮り,ほとんどの人は,それをまったく見ることができませんでした
  ・・
 私は,これまで10等星くらいの暗い彗星まですべて写してきたのにもかかわらず,これほど明るい彗星を見損ねることが自分にとても許せませんでした。そして,なんとかその姿をひとめ見ようと,急に思い立って出かけた北海道でした。願いはかない,このネオワイズ彗星の長い尾を引いた鮮やかな姿を,確かに,この目で見ることができたのは,とても幸福なことでした。
 今日の1番目と2番目の写真はそのときに写したものです。特に,2番目の写真に一緒に写った北斗七星と比べてみれば,尾の長さがわかるというものです。そして,3番目の写真は,国立天文台がハワイ島マウナケア山で写したものです。
 もし,この彗星の接近があと数か月早かったら,おそらく私は北海道に行くことすらできなかったことでしょうから,彗星が見られたのは幸運なことだったのかもしれません。しかし,北海道から帰っても,依然として連日天気は悪く,つい1週間まえに快晴の北海道でネオワイズ彗星を見たことがもはや夢のようで,彗星は再び雲の上のものとなってしまいました。
  ・・
 まもなく梅雨が明けます。そうしたら,また,青空はもどってくるのでしょうか?
 空の上には,暗くなったとはいえ,7月から8月の夜空には,まだ,ネオワイズ彗星を見ることができます。さらに,これもまた,暗くなりつつあるとはいえ,レモン彗星(C/2019U6 Lemmon)も輝いています。
 再び,こころ置きなく美しい星空が楽しめる日が来るようにと祈ります。星に願いを込めて。
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久しぶりに行った北海道でした。北海道に行かなかった何年もの間,私は,世界のさまざなところに行きました。そうした経験から,北海道は,ハワイ島やアイスランドに似ているなあと思いました。中でも,最も似ているなあと感じたのはアイスランドでした。しかし,アイスランドのほうがずっと人が少なく雄大な自然が残っているので,もっと最果て感がありました。
  ・・
ちなみに,北海道の面積は83,450平方キロメートル,ハワイ島は10,430平方キロメートル,アイスランドは103,000平方キロメートルです。なお,日本に似ているニュージーランドですが,北島は113,700平方キロメートル,南島は150,400キロメートルです。また,九州は36,750平方キロメートルです。

広大なアメリカをドライブするのに慣れてしまった私には北海道は狭く感じられます。札幌から,函館だろうが,稚内だろうが,帯広だろうが,どこも200キロメートルもないほどの距離しかないので,行こうと思えば,どこも数時間走れは行くことができます。私の感覚では,思い立てばどこも簡単に行ってしまいそうです。
そんなわけで,この日は,午前中にまず,朱鞠内湖までを往復して,午後3時までに留萌市に戻り,ホテルのチェックインしてから,再び今度は,海岸線を稚内市まで走って,サロベツ原野で星を見て,深夜に留萌市に戻る,という計画を立てたのですが,その程度のドライブは,私にはどおっていうことはありませんでした。
  ・・
では,朱鞠内湖に向けて出発します。
まず,留萌市から国道239号線で海岸沿いに北上して小平町まで行き,小平町から内陸に入りました。ここから道道126,道道742,道道239,道道275とつないで,朱鞠内湖に向かいます。その途中,大きな小平ダムを通りました。ダムの手前に公園があって,そこには恐竜のモニュメントがありましたが,こういうものを作るセンスを私はまったく理解できません。
小平ダムにかかる長い橋を過ぎると,その後は,ほとんど車の通らない,片側1車線の道路が延々と続いていました。これはこれで楽しいドライブですが,アラスカの原野のような感じで,さほど景色はよくありませんでした。まったく民家も街灯もなかったので,晴れていれば,どこでも満天の星が見られそうな場所だったのですが,北海道ではクマが出るのが心配です。
どこかでコーヒーでも,と思ったのですが,喫茶店の1軒すらありませんでした。
2時間あまりそんな道を走って,待望の朱鞠内湖に着きました。

朱鞠内湖は人造湖です。標高が高く,冬は特に寒冷の地だそうです。湖畔にはキャンプ場もあって,ボート乗り場もありました。ニュージーランドのテカポ湖畔には遠く及ばずとも,それはそれで日本にしてはいいところでした。夜になれば星もきれいにみられそうです。
2,3組の観光客がいました。ここもまた,普段のシーズンなら,この時期は多くの観光客でにぎわうのではないかなと思いました。しかし,人混みが嫌いな私は,普段ならばここには来ていません。人が少ないからこそ,来たのです。
朱鞠内湖は高台に展望台はありましたが,湖畔を1周する道路はなく,食事をするような場所さえありませんでした。
もっと雄大な景色を見慣れてしまっている今の私には物足りない場所でしたが,それでも,日本ではめったにみられない景観でした。若いころ北海道の地図を見て,朱鞠内湖というのはどんな最果ての地なのだろうかと,ワクワクしたことを思い出しました。

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夕日が海に沈むまでは水平線付近は雲が切れて,とても美しい景色を見ることができました。ただし,空全体にはかなり雲があって,この分では,雲の間からかろうじて彗星がみえるかな? といった程度だったので,がっかりしました。これでは,たとえ彗星が見られても写真は無理だな,と思いました。雲が切れる淡い期待をしながら暗くなるまで待っていると,雲は,切れるどころか次第に厚くなってきて,ついに,一面が雲に覆われてしまいました。
今晩は無理だな,と宿泊先に戻りました。
こうなると方針変更です。この晩は,彗星はあきらめ,宿泊先で,藤井聡太棋聖誕生を楽しみにABEMAで対局のライブを観戦することにしました。そして,藤井聡太棋聖誕生が実現しました。

翌7月17日金曜日。
朝,窓のカーテンを開けて外を見ると,どうやら深夜に雨が降ったようで,駐車場に停めた車がぬれていました。空には一面雲が垂れ込めていました。天気予報では,昼過ぎから回復して快晴になるということでしたが,心配なのは,天気の回復が日に日に遅れていることでした。
ネオワイズ彗星見たさだけに北海道までやって来たのに,見ることができなかったら,いったい何をしに来たことになるのだろう,と思いました。しかし,日本で晴れという予報が出ていたのがこの場所だけだったから,それはそれでやることはやったとあきらめがつくのかなと思いました。もしここで見られなかったとしても,北海道に来ることなく,自宅でまったく彗星が見られなかったとしたら,行けばよかったのにとそれ以上に後悔したことでしょう。
しかし,たとえ観光目的でないとはいえ,せっかく北海道まで来たのだから,お昼間は,どこかに行ってみようと思いました。しかし,行きたいと思う場所が思い浮かびません。多くの人が行くような都会の観光地には興味がありません。
私が1日目に泊まったこのゲストハウスはこの1晩だけで,この日の晩と次の日の晩は,留萌市の市街地にあるホテルに予約がしてありました。ホテルのチェックインは午後3時ということだったので,それまでどこかに時間つぶしに出かけることにしました。

昨日の晩,友人から電話がかかってきました。
留萌市周辺ではなかなか星を見る場所がないという話をしたら,サロベツ原野まで行けばいい,とアドバイスを受けました。サロベツ原野は留萌からは車で2時間30分ほどです。せっかくここまで来たのだからよりよい場所を求めて,今晩はサロベツ原野まで行くことにしました。サロベツ原野の天気予報は今日も明日も晴天でした。そこで,午後3時にまず今日と明日泊まるホテルのチェックインを済ませてから,サロベツ原野まで往復することにしました。
朝食は近くにあったコンビニでサンドイッチを買ってきて済ませ,ゲストハウスをチェックアウトして出発しました。
まず,星を見ることができる場所探しを兼ねて,留萌の町を少しだけ散策してみました。留萌市には,黄金岬のほかに,千望台と礼受牧場という高台があります。千望台は昨晩行ってみたのですが,街灯が明るくて,星は見えませんでした。そこで,この日は礼受牧場に行ってみました。留萌の町の南の山を登っていきます。そこはきっと夜になれば美しい星空見られるだろうと思う場所だったのですが,この牧場に至る道路は夜は閉鎖されていました。
次に,JRの留萌駅に行ってみました。時刻表を見ると,2時間に1本程度の列車がありました。日本は鉄道で旅をすると急に不便になりますが,それと反比例して旅情をそそります。そして,日本の貧しさとわびしさを感じます。昨年,車を使わずに東北に行ったときに感じたことです。旅をするだけなら,不便であっても,そのほうがずっと楽しいのかもしれせん。
観光案内板を見ても,市内には特に見どころ,というところもなかったので,留萌観光はやめて,内陸側を通って遠出して,朱鞠内湖まで行ってくることにしました。
  ・・
私は,若いころ,ずいぶんと北海道旅行をしたので,ほとんどのところには行ったことがあります。当然,稚内も宗谷岬も行きました。そのときに,サロベツ原野も朱鞠内湖も行ったようにも思うのですが,今となってはまったく記憶がありません。というか,私の記憶は,どうやら,サロベツ原野と釧路湿原がごっちゃになっているようなのです。

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急に思い立った無計画な3泊4日の北海道旅行でしたが,この旅では,思いのほかいろんな経験ができました。ここ数年,私は,世界中のさまざなところに出かけ,そのいずれの旅もまた,このごろは事前にほとんど何の準備をしないで出発しているのに,帰ってくるときは,非常に充実した旅になっていたのですが,今回もまた,それと同様でした。旅慣れて,コツがわかってきたのがその理由でしょう。
  ・・
この旅の目的は,史上最大級のネオワイズ彗星を何とかこの目で見たいというだけだったので,それ以外には,どこに行くかとか何をするかということはまったく考えていませんでした。
ただし,彗星を見るための機材だけはしっかり準備して持っていきました。とはいえ,それもまた,ここ数年,毎年のように星を見に出かけたオーストラリアに持っていったものと同じなので,特に事前に改めて支度をするという必要もなく,新たに何かを購入するということもなく,何年も使い続けているいつもの機材が入ったカバンをそのまま持ってきただけでした。ただし,今回は,彗星がどのくらいの視野に広がって見えるのかということが想像できなかったので,焦点距離が55ミリから200ミリのズームレンズを1本加えて余分に持っていきました。欲をいえば,さらに,広角のズームも持参すべきでした。それは,彗星の尾が思った以上に広がっていたからです。

留萌市について,この日の晩宿泊する場所に到着したのは午後5時過ぎでした。彗星は空の暗くなる午後8時以降に見えはじめるので,それまでに夕食をとって,それから彗星を見る場所を探すことにしました。
一番心配だったのは天気でした。天気予報では,この晩から日曜日までは快晴,ということだったのですが,空を見上げても,雲がたくさん出ていて,星が見えそうにはありませんでした。
まず,留萌市の中心街に行って,食事をすることにしました。駐車場のある店を見つけたので車を停めて中に入りました。せっかく北海道にきたのだから海鮮料理を食べようと思いました。入った店はまだ夕食には時間が早かったせいか,お客さんは私ひとりでした。
行ってみて知ったのは,この時期の北海道はウニが旬だったことです。
ずいぶん昔,稚内に行って旬のウニ丼を食べたことを思い出しました。しかし,いくら旬とはいえ,ウニ丼はおどろくほど高価でびっくりしました。昔,今よりお金がなかったのに,ウニ丼を高いと驚いた記憶もないから,あれから値上がりしてしまったのでしょうか? 旬のウニ丼は確かにおいしいけれど,そんな高いお金を出すほど好きなものでもなかったので,ウニ丼を食べるのはやめました。

食事を終えて,いよいよ彗星を見にいくことにしました。
留萌市には,夕日の絶景が見れらるという黄金岬があります。まず,そこで行ってみたのですが,海岸にあった街灯が明るくて,夕日を見るにはよくても,星空を見るような場所ではありませんでした。次に千望台という展望台に行ってみました。ずいぶんと坂を上っていくので期待していたのですが,ここもまた,展望台の駐車場の街灯が明るくて,星を見るようなところではありませんでした。
そこで,海岸線に沿って,国道239号線を北上して行くことにしました。しかし,どこまで行ってもけっこう明るく,また,駐車場もほとんどなく,海岸に降りることができるようなところが見あたりませんでした。時折,海水浴場があるにはあったのですが,すべて閉鎖されていました。もし閉鎖されていなくても,やはり,海岸には街灯が設置してあってその灯りが邪魔をするので,星を見るのに適した場所ではありませんでした。
このように,北海道の海岸ならどこでも簡単に満天の星が見られるだろうというのは甘い考えでした。目論見がはずれ,ずいぶんがっかりしました。
さらに進んで,小平町というところを過ぎたあたりに広い空き地を見つけました。そこには車が2,3台停まっていました。この空き地から川に降りることができて,川にかかる国道の橋の下をくぐると海岸に出られることがわかりました。停まっている車は,海岸で釣を楽しんでいる人たちのものでした。海岸は北西に面していて,海岸には街灯はありませんでした。国道を車が通りますが,国道は彗星の見られる方角とは反対側なので影響はなさそうでした。ここなら,晴れてさえいれば,彗星は容易に見られそうだったので,この日はそこで写真を写すことにしました。

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新千歳空港に到着しました。相変わらず,曇り空でした。
この春に行った京都もそうですが,少し前までのインバウンド(和製英語!)によって,この国の観光地はどこも,従来の「よさ」や「のどかさ」を失っていて,やたらとわけのわからない警告が表示されていたりと,居心地が悪くなりました。
国土の広いアメリカやオーストラリアでは,都会や観光地以外は交通の便も悪いことから,観光客の訪れないところが今もまだたくさん残っていて,そういった場所に行けば観光客の毒気に触れることもないのですが,狭い日本では,どんな山奥まで行ってもインバウンドの影響を受けていて,逃げ場がまったくありません。改めて,国内を旅するには,再びインバウンドが起きる前の今に限るなあと痛感したことでした。

新千歳空港でレンタカーを借りました。
私は,海外に出かけて,空港でレンタカーを借りて移動するという旅をこれまで頻繁にしていたのですが,日本ではほとんどしたことがないので,むしろ日本のほうがシステムがよくわかりません。こうして日本で体験してみて,海外と比べてみると,日本のほうが手続きは面倒だし,時間がかかります。
アメリカなら,空港のシャトルバスに乗ってレンタカー会社の営業所に着いたらそのままカウンタを通らずとも車を選んで出発するだけだし,オーストラリアでは,空港にあるレンタカー会社のカウンタで簡単な手続きをして車のキーをもらって駐車場に行き,車を出発させるだけです。
それに対して,日本では,まず,空港にあったレンタカー会社の意味のないカウンタに行き,番号の書かれた用紙をもらいます。そのあとで係員についてシャトルバスの乗り場までわざわざ案内され,それに乗ってレンタカー会社の営業所に行きます。…と,ここまでの手順は,別に空港にある無意味なレンタカー会社のカウンタに行かずとも,ひとりでできることです。シャトルバスで営業所に到着したら,自分の番号の呼び出しを待って,再び営業所のカウンタで細かな書類の説明を受け…,と,まあ,時間はかかるし,意味のない作業が延々とあって,なかなか車が借りられません。こういったことひとつとっても,いかに日本人がほとんどムダとしか思えない仕事をバカ丁寧にしているかということがわかるというものです。
ちなみに,日本ではレンタカーの車両ナンバーが「わ」ですが,北海道では,過去にその通達を役人が読み間違えたために「わ」ではなく「れ」だという都市伝説があります。そして,それは本当です。しかし,現在では「れ」と「わ」のレンタカーが共存しています。

さて,そうこうして,やっとのこと車を借りることができました。いよいよ出発です。
新千歳空港から高速道路の入口までがまた,結構距離がありました。これもまた,都市計画がなっていない日本らしい姿です。空港からすぐに高速道路に連絡できるのが常識でしょう。
ともかく高速道路に入りました。この先私の目指すのは留萌でした。留萌まではおよそ2時間30分ということでした。高速道路もまた,札幌の手前と札幌を越えたところにそれぞれ料金所があって,これもまたムダというか,日本は何という国なんだろうということを再発見します。道路の標識もまた,意味のないモノばかりで,肝心な情報がありません。気分は海外旅行だったのに,こういうときにここが海外でないということを実感します。
そうこう思いながら,ともかく,留萌市までやって来ました。
私が想像していた留萌というのは,もっと小さな漁村だったのですが,予想以上に町が広く,高速道路を降りたところで,いつものように,土地勘のない私にはどこがどこだかわからなくなりました。
  ・・
1泊目だけ,ゲストハウスのようなところに泊まることになっていました。いわゆる「民泊」というやつです。これもまた,インバウンドのときにできた外国人向けの施設です。私が使っていた iPhone のナビ(車についているカーナビより使いやすい)で示した場所に着いてもすぐには見つからず,建物を探すのに苦労しました。看板が地味だったのです。
以前泊まったアイスランドのゲストハウスを思い出しました。アイスランドのゲストハウスはバストイレが共有でひどい思いをしましたが,ここはいわゆるマンションの1室でかなり豪華でした。しかし,やたらと注意事項が書かれていたのが興をそぎました。これもまた,インバウンドの悪影響でしょう。つい数か月前まで世界中のいたるところに生息した,ブランドバッグを持ち,黒色のレンズの入った眼鏡をかけ,やたらと声の大きいどこぞやの国の団体さんがこの部屋で,名古屋市の河村市長の言葉を借りるといわゆる「どんちゃん騒ぎ」をしている姿を想像してしまいました。

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7月16日木曜日。
行きの飛行機はセントレア・中部国際空港午前11時20分発のジェットスターでした。自宅から車で空港まで行って,事前に予約をしておいた駐車場に車を停めることにしていたので,少し早いかも,と思いながら,家を出ました。
名古屋高速道路は知多半島道路に接続する大高線が大渋滞だったので,東海線にに迂回して,知多半島道路には入らず,一般道を進むことにしました。セントレアへの接続は,名鉄電車は頻繁に遅れるし,車でも高速道路は渋滞するし,ろくな場所ではありません。早く家を出てきてよかったと思いました。私は知多半島の道路事情には詳しいので何となりますが,不案内な人には大変でしょう。しかも,名古屋高速道路の東海線は,その出口である東海ジャンクションで,セントレアに行く道路標識が,一般道を経由するものと伊勢湾岸道路を経由して知多半島道路にはいるものの2通りあって,そのどちらにも飛行機のマークがあるので,これは大いにとまどうことでしょう。これもまた,日本らしいひどい話です。
私は一般道で常滑まできました。常滑からセントレアだけは再び高速道路に乗らないといけませんがさすがに空いていました。セントレアに着いて,予約をしてあった駐車場に車を停めて,ターミナルに向かいました。
セントレアは,先日,格安航空向けの第2ターミナルが作られたのですが,私がセントレアを利用するのは,フィンランド航空でヨーロッパに行くか,デルタ航空でハワイに行くか,ANAもしくはJALで成田か羽田に行くかくらいだったので,これまで第2ターミナルを利用したことはありませんでした。
成田国際空港に第3ターミナルが作られたのと同様,セントレアの第2ターミナルは,インバウンド(和製英語!)華やかなりしころ,中国や韓国からの格安航空便でやってくる大量の乗客をさばくために格安で作られたターミナルですが,このご時世,そうしたフライトもキャンセルとなっているので,ターミナルは閑散としていました。フライトスケジュール表にはキャンセルという文字が並んでいました。

ところで,数々の航空会社を利用している私ですが,ジェットスターほど感じの悪い航空会社はないといつも思います。できれば使いたくない会社の筆頭です。
私はこれを利用して福岡に行ったとき,離陸直前になって整備不良でフライトがキャンセルになって降ろされました。オーストラリアに行ったときは飛行機が遅れて,オーストラリア到着後,次のフライトの乗り継ぎに間に合わず,しかもそのときの案内がいい加減で困りました。しかも,航空運賃は安けれど,荷物を預ければ高額の料金がかかるし,トッピングで儲けている格安ファーストフード店と変わりません。しかも,いろいろな指示がかなり上から目線です。
今回,私は,彗星を写すために7キログラムあまりの最低限の機材を持っていました。帰りに利用したスカイマークでは無料でキャリーオンができたのに対して,しっかり3,800円もの追加料金を請求されました。
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ともあれ,追加料金を払って,カバンを預け,チェックインを済ませました。
搭乗時間まではまだ1時間ほどあったので,せっかくだからと「FLIGHT OF DREAMS」に行くことにしました。こんなに空いているなら,ラウンジで時間をつぶすより,このほうがずっと楽しいのです。「FLIGHT OF DREAMS」というのは,セントレアの第1ターミナルと第2ターミナルの中間に,ボーイング787型旅客機の展示を主体とした作られたばかりの複合商業施設です。
施設のメインは「FLIGHT PARK」で,そこにはボーイング787の初号機であるZA001(N787BA)が展示されています。これは,シアトルのボーイング・エバレット工場で製造されて,2009年12月15日に初飛行した実物が寄贈されたもので,このエリアに行くには入場料が必要です。しかし,ボーイング787自体は外からでも見られるし,入場料を払って見られるのは,コクピットだけでした。そんなものは,アメリカの国内線を利用して,ファーストクラスに乗ったときに,離陸前にいくらで見られます。大したものでもないのに結構入場料が高いので,一度見ればいいかな,という感じでした。ということで,ほとんどお客さんはいませんでした。
それ以外には「SEATTLE TERRACE」というボーイング社の工場があるシアトルをテーマにした商業施設と「Boeing Store」というボーイング社のオリジナル・グッズを販売する店舗がありました。「SEATTLE TERRACE」からは「FLIGHT PARK」に展示されてあるボーイング787を一望しながら食事ができるので,「FLIGHT PARK」には入らず,ここで時間をつぶすのが最適だと思われました。私も,ここで昼食をとりました。

さて,搭乗時間になったので,乗り込みました。狭い機内,このご時世なので空席だらけかと思いきや,満席でした。
窓際席にしてあったので,景色を見ながらわずか1時間40分程度のフライト時間を過ごしました。
ずっと曇っていたのですが,途中,雲が切れて,眼下に佐渡島が見えました。海外旅行ができない今,次は,一度は行ってみたかった佐渡島へ行くのもいいかなと思いました。佐渡島を越えると,また,ずっと曇り空になってしまい,地上が見えなくなりました。
果たして天気予報通り北海道は晴れているのかな,と心配になりました。

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当分の間,海外旅行ができなくなってしまいました。そこで,海外旅行をした気分で,国内旅行のLIVEを書くことにします。国内を旅しながら海外旅行と比較するのもまた,おもしろいものです。
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私が今回北海道旅行をしたのは,2020年7月16日木曜日から7月19日日曜日の3泊4日でしたが,この旅を計画したのは,そのわずか数日前の7月13日月曜日のことでした。20代のころは頻繁に北海道旅行をしていた私ですが,その後,海外に目が向くようになって,もはや,北海道は「ないもの」となっていました。行こうと思ったこともありませんでした。
すでに何度か書いたように,この時期,ネオワイズ彗星(C/2019F3 NEOWISE)が地球に接近して,明るくなっていたのですが,私の住む愛知県だけでなく,日本のほとんどの地域でまったく晴れず,その姿を見ることができませんでした。かろうじて晴れているのが沖縄と北海道だけ,という感じだったので,ネオワイズ彗星見たさに,北海道旅行をすることになったのです。これがそもそも私には「ないもの」であった北海道旅行をした動機です。
マスクをして体温を測ってまでして旅行などしたくなかったのですが,私の彗星への想いはそんなものすら凌駕してしまいました。

話を戻します。
月曜日のことでした。一向に天気がよくならず,どこか晴れているところがないかと天気予報を調べてみると,どうやら週末北海道だけは晴れということでした。そこで,木曜日から日曜日にかけて北海道に行くことを急に思いつきました。
まず,航空券を手配することからはじめました。夜に星さえ見られればよく,北海道を観光することはまったく眼中になかったので,時間は二の次にしてできるだけ安価な航空券を探すと,木曜日のお昼過ぎにセントレア・中部国際空港を出発して,日曜日朝9時過ぎの新千歳空港を出発して帰るという便が見つかったので,早速,それを手に入れました。
到着後はレンタカーを使って移動することにしました。彗星が見られるのは夜8時過ぎの日没後の北西の空です。そこで,石狩から稚内にかけての北海道の北西の海岸ならどこでも水平線が広がっているのでそこが最適だということで,到着してから,そのあたりまで行って条件のよい場所を探して星を見ることにしました。現地に着いてから宿泊先を探そうかとよほど思ったのですが,見つからないと困ると思い,どこに移動するにも便利そうな留萌という町で3泊することにしました。
ところが,留萌市で宿泊先を探すのに思いのほか苦労してしまったのです。
国内旅行で宿泊先を探すとき,私は,都会なら東横イン,東横インのない地方では,楽天トラベルやじゃらんなどを利用してホテルを探します。ところが,楽天トラベルにもじゃらんにも,留萌にホテルが見つからないのです。さらに探していくと,なんと,ブッキングコムで留萌市のホテルが見つかりました。
これでは,国内旅行というよりも海外旅行の予約をしているようなものでした。ということで,次第に,北海道へ行くということも忘れて,いつもやっているような,海外旅行の計画を立てている気分になって,とてもウキウキしてきました。
そうこうして,ホテルの予約もでき,さらに,レンタカーも予約が完了。セントレア・中部国際空港までは,いつものような名鉄電車を使うのではなく,車で行くことにして,セントレアの駐車場も予約しました。これで準備完了です。急に思い立って行こうと決めてからわずか30分後のことでした。

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☆☆☆☆☆☆
 一向に晴れません。これでは世紀の大彗星「ネオワイズ」(C/2020F3 NEOWISE)を見ることもなく終わってしまいます。それが残念で仕方ありませんでした。これまでどれだけこうして世紀の瞬間を見損ねて後悔したことでしょう。こういうトラウマはずっと後まで尾をひきまます。
 運というのは自らつかみにいくものです。…ということで,何とかならないかと天気予報をにらむこと,日本でかろうじて晴れているのは北海道と沖縄くらいのものだと悟りました。ネオワイズ彗星は北斗七星に近く,北に行くほど高く見えるので,沖縄は却下して,北海道に狙いをつけました。週末は晴れるという天気予報を信じて,7月16日木曜日から3泊で行ってきました。そして,彗星をこの目で見てきました!
 旅の様子はまた後日書くことにして,今日は彗星の話です。

 北海道,私が選んだのは留萌でした。しかし,16日は残念ながら夕方から曇ってしまい見ることができませんでした。翌日17日は午前中は曇っていましたが,午後から晴れてきました。せっかく来たからには少しでも条件のよい場所でと,留萌から2時間30分かけて,サロベツ原野まで行きました。そして写したのが1番目の写真です。
 サロベツ原野を北に北に走っていくと,街灯のない絶好の展望台を見つけました。空が暗くなるのを待っていると,現地在住のカメラマンの方が彗星を写しにやってきました。そこで仲よくなって,楽しい時間が過ごせました。
 北極星が見えだしたころ,まだ肉眼では彗星は確認できませんでしたが,おおよその位置を広角レンズで写してみると,彗星が簡単に写って驚きました。目を凝らすと次第に肉眼でも見えました。そして,空が暗くなると,あざやかな彗星の姿が浮かび上がりました。
 サロベツ原野からは利尻富士が見えます。そこで,魚眼レンズで利尻富士と彗星一緒に写すことにしました。この晩は流れ星がたくさん現れ一緒に写すことができました。3番目の写真です。また,ISS(国際宇宙ステーション)まで見ることができました。ISSも一緒に写すことができたのに,そのチャンスを逃したのが贅沢なこころ残りとなりました。
 翌日18日。その次の日19日は早朝に留萌を発って朝9時40分発の飛行機で新千歳空港から帰宅です。そこで,前日と同じようにサロベツ原野まで行ってしまうと,その次の日の朝がたいへんなので遠出はあきらめ,留萌から少し海岸線を北に走ったところで海岸に降りられる場所を17日の夕方に見つけておいたので,そこで写しました。それが2番目の写真です。前日の晩に彗星の様子はわかったので作戦を立て,この晩は彗星全体の姿を捉えることを目的としました。レンズの画角は55ミリ。ネオワイズ彗星はこんなに広い画角でも尾がはみ出てしまうほどの大彗星でした。

 こうして,私は北海道まで出かけ,ついに念願のネオワイズ彗星を見ることができました。この機を逃さず行ってみてほんとによかったと思いました。もし行っていなかったら,この先もずっと後悔しながら生きていくことになったことでしょう。
 彗星は思ったよりずっと明るくて,北斗七星ほどもある尾をひいた美しい姿を肉眼でもはっきり見ることができました。こんなに明るい彗星を見たのは「1997年の大彗星」とよばれるヘールボップ彗星(C/1995O1 Hale-Bopp)以来23年ぶりのことでした。感動しました。

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 以前,東京大学木曽観測所のシュミット望遠鏡について書いたこのブログに,
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 最も口径の大きなシュミット望遠鏡は1960年,ドイツのカール・シュヴァルツシルト天文台(Karl Schwarzschild Observatory )に作られた口径134センチメートルのものでしたが,現在は使われていません。
 その次に大きいのが,1949年アメリカのパロマ天文台に作られ,現在「サミュエル・オシン望遠鏡」(The Samuel Oschin telescope)とよばれている口径126センチメートルのものです。現在は写真乾板をCCDに変えて,準惑星の発見などに活躍しています。
 そして,3番目がオーストラリアのサディングスプリング天文台にある口径124センチメートルの「UKシュミット式望遠鏡」(UK Schmidt Telescope)で,その次が,この木曽観測所にある口径105センチメートルのシュミット望遠鏡です。
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と書きましたので,今回はパロマ天文台のシュミット望遠鏡について書きます。

 この6月に念願かなって訪れたパロマ天文台には,1948年に完成した口径200インチ(5.08メートル)の反射望遠鏡のほかに,同じく1948年に完成した「サミュエル・オシン望遠鏡」があります。
 天体観測の方法が変わって使いみちがなくなっていたこのシュミット望遠鏡の広い視野を使って,数多くの太陽系外縁天体(TNO)を発見したのが,マイケル・ブラウン博士(Michael E. Brown)でした。
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 「サミュエル・オシン望遠鏡」は「オシン・シュミット」ともよばれています。このシュミット望遠鏡の名前は起業家で慈善家であったサミュエル・オシン(Samuel Oschin)にちなみます。サミュエル・オシンは,1914年,オハイオ州デイトンでユダヤ人の家庭に生まれました。10歳のときから彼は煙突の清掃作業という仕事をはじめました。その後,デトロイトの「ブリッグス・マニュファクチャリング」に就職し,第二次世界大戦中にアメリカ陸軍と空軍に飛行機の部品を供給する大規模な契約を獲得しました。そして,戦後は帰還兵からの需要の増加をサポートするために工場を家具の製造に変換しました。さらに,1946年にロサンゼルスに移住しエアコン事業をはじめ,その次には,住宅需要を見て不動産開発と建設会社を開始しましした。その後,カリフォルニア州パコイマで貯蓄ローン協会を購入し、州全体で27の支店に成長させました。 
 こうして,製造業,銀行業,投資業,不動産開発と立て続けにビジネスを成功させたしたサミュエル・オシンは財団を設立し,天文学,医学,教育,芸術など多くの分野で慈善活動を行いました。彼のパロマー天文台への寛大な寄付によって,このシュミット望遠鏡は彼の名前がつけられたのです。
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 いつも思うのですが,アメリカは,カーネギーにしろ,ローウェルにしろ,人生で成功を収めた人がすることは日本のそれとはまったく違います。

 「サミュエル・オシン望遠鏡」は,1948年に造られた当初は,10インチ×14インチの写真乾板を使用していました。1980年代半ばには補正板を色収差の少ないガラスに置き換えられ、より高品質の画像が生成されるようになりました。
 この望遠鏡が行っているプログラムのひとつに地球近傍小惑星追跡プログラム(Near-Earth Asteroid Tracking=NEAT)があります。これは,2001年秋からはじまった天の赤道付近の帯状領域のマッピング観測を行う「Palomar Quasar Equatorial Survey Team =QUEST Variability survey」(QUEST変光サーベイ)です。
 この探索プロジェクトで使用するために,2000年以降,東京大学木曽観測所のシュミット望遠鏡同様,写真乾板はCCDカメラに置き換わり,同時に補正板もより広い範囲の波長に透明なガラスに交換されました。最初に搭載されたCCDカメラは3つの別々の4K×4Kセンサーを南北線に配置し,総視野は3.75平方度で,近地球小惑星を捜索(NEAT)する目的で使用されました。2003年から2007年にかけてクエーサーを観測するために,CCDを28個4列の112個で構成した2,400×600ピクセルの合計161メガピクセルのものに変更されましたが,それは当時画素数最大のCCDカメラでした。この新しいカメラで,2003年11月14日にセドナを発見,また,約40個のカイパーベルト天体を発見しました。
 さらに,2009年には,カナダ・フランス・ハワイ望遠鏡用に構築された12,288×8,192ピクセルの合計100メガピクセルのCCDカメラに変更されましたが,これは7.8平方度の視野しかありませした。そこで,2017年に,47平方度の視野をもつ16×6144×6160の合計606メガピクセルCCDカメラとなりました。 
 現在は,シュミット望遠鏡は完全に自動化され,リモートで制御されて,収集されたデータは高性能ワイヤレス研究教育ネットワークを介して送信されています。

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 これほど精神的に「ヤワな」私が,よくも60年以上生きてこられたものだと,このごろつくづく思います。打たれ弱く,すぐに動揺し,嫌なことがあるとずっとそれを気にする,ガラスのような精神の私でも,なんとか,いわゆる世の中の「定年」といわれる歳まで無事に? 生きてきました。
 人が生きるのに必要なのは,何はなくとも第一に健康ですが,その次が,精神的に強いということです。打たれ強く,嫌なことはすぐに忘れられる,という人を,本当にうらやましく思います。私のような,すぐに傷つき,立ち直れず,いつまでもそれを引きずっていては,もし,私に何かの才能があったとしても,何もモノになりません。才能がなかったからこそ,生き延びられたのでしょう。

 そんなことを思うと,一芸に秀でた人は,本当に偉大だと,これまで以上に尊敬するようになりました。
 その筆頭が勝負に生きる人たちです。スポーツ選手とか囲碁や将棋の棋士のように,毎日,勝ち負けのある人生なんて,私は想像するだけでぞっとします。ほんとうに感心します。私など,応援している人が負けただけで,本人以上に落ち込んでしまいます。
 飽き性の私は,もし才能があったとしても,学者にも音楽家にもなれません。学者さんは,何かの研究に打ちこんでいても,それが趣味ならともかく,仕事としてなら途中で飽きちゃっても逃げ場もありません。音楽家も,毎日のように,それも,好きな曲目ばかりならともかくも,自分の好きでもない曲も演奏しなければならない,そして,難解な曲であってもできないといえないから,日々練習して演奏ができるようにしなければならない,なんていうことは,私には,これもまた,想像もつきません。
 芸能人もまた,,毎回,人に見られ,評価されて生きるなんて,さぞかしストレスがたまることでしょう。どうしてそんな生き方ができるのだろうと友人と話していたら,「私を見て! 見て!」という性格だからできるんだよ,と言われたのですが,そんな性格をもつ人がいるなんて,私には想像もつきません。

 しかし,よほど精神的に特別にタフな人を除けば,私ほどひどくなくても,やはり,だれしも,傷つくし落ち込むこともあるでしょう。そこで,それをいやすための手段というものがいろいろあるわけです。
 アルコールに頼る人も少なくありません。飲んで飲んで忘れる,というような手段です。しかし,一番体に悪そうです。温泉につかる,というのも効果がありそうです。これは私にも経験があります。温泉が体の血行をよくして,元気になるのでしょうが,これは体にもよさそうです。
 クラシック音楽もまた,効果があります。先日,Eテレで放送されたNHK交響楽団の演奏会で指揮者の井上道義さんが,こんなことを言っていました。「音楽は死にそうな病に直面している人には何の力もないけれど,人生の困難に直面している人には必ず力になる」と。おそらく,宗教もまた,人の精神の弱さを補填するためにあるのでしょう。それで救われる人もあれば,その逆に,弱い人をだますことを企てる人も存在するのが,人の世の常です。
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 いずれにしても,精神というのは,形として見えないだけに,それを把握するのは困難ですが,人が生きる力の源は,精神の強さがもっとも大切なようです。私も,楽しく生活するために,いまさら精神の強さを磨くことはむりとしても,せめて,何があっても動じない鈍感さだけでも身につけていきたいものだと思います。

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 退職して仕事を離れると「毎日が日曜日」といわれます。であっても,やりたいことがあり過ぎる人から,毎日が退屈で仕方がない人まで,人それぞれです。おせっかいにも,よほど本が売れないのか,企画がないのか,あるいは,暇な人しか読者がいないのか,こうした「毎日が日曜日」の人向けの生き方の本がたくさん出版されています。かくいう不良老人の私も「毎日が日曜日」のような生活をしています。
 私にも,かつてはやりたいことがたくさんありました。そうしたやりたいことをほぼ実現してしまった今は「ステージ1」を卒業して「ステージ2」にステップアップ,そんな状況となりました。そこで,この先10年ほどをいかにより楽しく過ごそうか,そうしたことを考えながら過ごすようになりました。
 
 これまでずっと海外にだけ関心があった私ですが,昨年あたりから,私は,日本にも関心が戻ってきました。とはいえ,いつも書いているように,私は日本の旅にさほどの魅力を感じているわけではありません。そうでなく,考えてみれば,これまで行ったことがない場所が結構あることに気づいて,元気なうちに一度は行ってみようと思うようになった,というだけのことです。
 おそらく,そうした場所のどこへ行ったとしても,日本では同じようなところばかりでしょうが,これもまたいつも書いているように,日本の旅はこころでするものです。それは,まさに,NHKBSPで放送されている「こころ旅」という番組名が示すように,単なる風景であっても,その人の思い出がまつわると懐かしくなるというものと同じです。
 私の場合は,思い出というよりも,その地の歴史やら風土を思い浮かべるということになります。そこで,訪れる場所の歴史やら文化を知れば知るぼど,行った場所が光り輝くことになります。

 今,旧街道が再び脚光を浴びています。昔の状態に復元するような活動をしている場所もけっこうあります。しかし,そうした場所にも二面性があります。そのひとつは,観光地として人を集めることが目的で,テーマパークのようになってしまった場所です。テーマパークのようになってしまった場所には,団体ツアーをはじめとして,多くの観光客が訪れます。そうした場所は,伊勢であり,私が以前行った大内宿です。馬籠宿もそれに近い状態です。私が行きたいのは,そうした場所ではありません。
 もうひとつは,明治以降,新しい道路や鉄道が作られたときにその場所を避けて作られたために取り残されたために,期せずして昔のままの姿で取り残されたところを,近年になって整備している場所です。私は,これまで数多くの宿場町に行きましたが,そうした場所の中で,これは,と思ったのは,旧東海道の土山宿や旧中山道の大湫宿でした。私が行きたいのは,むしろそうした場所です。
 このようなところは情報も少なく,そこで,私が知らないだけのすばらしいところがまだ多く残っているように思います。そうした場所をこころであじわうためにも,日ごろは,これからも,歴史や文化を楽しく学んでいきたいものです。

◇◇◇
藤井聡太新棋聖誕生

おめでとうございます。

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●こんな旅さえできなくなった。●
☆7日目 2019年7月1日(月)
 機内で何をするでもなく時間を過ごし,日本に戻ってきた。羽田空港からセントレア・中部国際空港までは国内線を使ったが,国内線の搭乗時間まで少しあったので,夕食をとった。
 以前は,海外旅行をするとやたらとカレーライスを食べたくなったものだが近ごろはおそばである。ということで,今回もまた,おそばを食べた。

 東京と名古屋を飛ぶ国内線は,行きも帰りも北側が見られる座席に座れば富士山を見ることができるから,その座席を選ぶのだが,このところいつも天気が悪く,富士山を見たことがない。それは飛行機に限ることでなく,新幹線に乗って東京と名古屋間を移動しても,富士山をみたことがない。
 2019年の日本はずっと天気が悪かった。それにしても悪すぎる。そしてまた,ずっと暑い。こんな異常な天気を私は知らない。

 国内線は,いつものように,搭乗ゲートに来るまで3枚もの紙をくれる。書かれてあるのは,乗る飛行機の搭乗ゲート案内だったり,セキュリティを通ったという証明書だったりだが,これらはすべて何の意味もない書類である。
 先日,機内持ち込みのできないはさみを持ち込んでしまった乗客がいたために,乗客全員の保安検査をやり直したという事件があったが,こうしたときに,その証明書を持っていたところでまったく効力などないのだから,そんな書類をもらったところで意味がない。また,搭乗ゲート案内の書類には,実際の搭乗ゲートが変更されても,変更前のものが書かれているから,これもまた,まったく意味がない。
 要するに,こんな書類を渡す必要はまったくない。こういうムダなことばかりをするのが日本という,世界から遅れた滑稽な国なのだ。
 この国のやっていることの90パーセントは意味のないことなのである。こうして,何事も非効率に仕事をし,ブラックになり,生まれてから死ぬまで,90パーセントは無意味に働き続けているのであろう。

 私は,こうして,ふらっとアメリカを旅して,日本に帰ってきた。
 この旅では,パロマ天文台もフラグスタッフもローウェル天文台もバリンジャー隕石孔も大谷翔平選手も,見たいと思っていたものややりたいと思っていたことをすべて見,やることができた。とても幸運であった。
 本当に,2019年,この年にこの旅をしておいてよかった。もしこの旅が実現していなかったら,今,ものすごく後悔していることであろう。
 こんな旅なら何度やっていもいいなあ,とこの時は思ったが,今は,そんな旅さえできない。

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●CAのお仕事●
 離陸してからずっと外を見ていた。眼下に広大なアメリカの大地が見えた。ヨーロッパと違って,アメリカからの帰国便は飛行機が西に向かって飛ぶ。つまり,地球の自転と反対方向なのである。
 地球は半径が6,380キロメートル余りなので,地球の1周は,40,000キロメートルほどである。1日に1回転するから24で割ると,時速1,500キロメートルとなる。これが赤道にいるときの自転速度である。
 ロサンゼルスから東京に帰る飛行経路は円周がもっと短いから,時速はおよそ1,000キロメートルといったところである。飛行機の時速は800キロメートルから1,000キロメートルだから,自転よりほんの少しだけ遅い。ロサンゼルスからの帰国便では,地球の自転と飛行機の進む方向が反対だから,飛行機は飛びながらほんの少しずつうしろに下がっているということになるわけだが,およそほぼ同じ速さと考えることができる。したがって,機内ではずっと同じ時間のままということになる。
 だから,窓から見た太陽はずっと同じ場所にある。窓を閉め切っているからわからないだけで,要するに,乗っている間中ずっと昼間なのである。そして,太平洋の真ん中にある日付変更線を越えるときに,日にちだけが1日進み,行きに得した分を返還する,ということになるわけだ。

 その昔は飛行機に乗ると,客室の中央に大きなスクリーンがあって,乗客はみな同じ映画を見た。そんなのどかな時代だった。それが今はそれぞれの座席にモニターがあって,自分の好きなものを見ることができるようになった。これだけハードウェアが凝っているのに,ソフトウェア,つまり,コンテンツが固定されていたりして,なかなか好きなものがない。
 現在では,家にいても Amazon Prime などで映画が見られ,音楽を聴くことができるが,Amazon Prime の方がマシなプログラムが並んでいる。
 やろうと思えば何でもできる時代になったのに,そして,機内で10時間も時間を過ごすのに,ハードウェアは進化してもソフトウェアのほうは工夫がなさすぎるというわけだ。

 考えてみれば,日本で夜行の高速バスなどを利用して旅行をするときだって,6時間以上の長い時間を狭いバスの中で過ごすのだが,こちらの方は寝ていれば到着してしまうから,退屈する,ということはない。ところが,どうして飛行機の機内で同じようにくつろげないのかと考えると,それは,食事のせいだと思い当たった。機内では,食事が運ばれたり片づけられたりとあわただしく,そのために,ゆっくりと過ごせないのだ。そんなもの,乗るときに弁当とペットボトルでも配ってしまえばそれでいいように感じる。そうすれば,食べたいときに食べて,寝たいときに寝ればいいわけでわずらわしくないのだ。それぞれに,牛肉がいいか鶏肉がいいかなどと聞きながら食事を配っているから,時間もかかるし,煩わしい。
 飛行機に乗ると,非常時以外,客室乗務員の仕事は,食事を配って片づけることだけのような気がしてならない。かつてはスチュワーデスといった,それは憧れの花形職業だったように思うのだが,今日,それが CA とよばれるように変わったけれど,その仕事にさほど魅力があるとは私には思えない。ちなみにCAというのは cabin attendant の略称であるが,これはジャパニーズイングリッシュ。英語では cabin crew,もしくは flight attendant という。

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●航空会社で違うこと●
☆6日目 2019年6月30日(日)
 帰国する日になった。
 昨年はレンタカーを返却するときに場所がわからず苦労したので,今年はそういったことがないようにと,地図を頭にいれてきたのだが,道路標示に従って運転していくと何の苦もなくレンタカーリターンの場所にたどりついた。昨年戸惑ったのはどうしてだったのだろう?
 レンタカーを返すときは車にトラブルもなく旅が無事終わることでいつもほっとする時間である。
  ・・
 今回はわずか5泊7日の旅だったが,ロサンゼルスとフェニックスの2か所でレンタカーを借りた。フェニックスではトヨタのカローラ,ロサンゼルスではニッサンのセントラであった。
 私は今後もアメリカに来る機会があることを望んでいるが,こうして旅をしていると,アメリカはストレスがない国だとわかる。というか,アメリカの田舎は誠に旅がしやすいと感じる。しかし,アメリカの都会には興味がなくなったし,アメリカには住みたいとも思わなくなった。
 こうして旅を振り返っていると,いつも頭に浮かぶのがフラグスタッフののどかな町の風景であるのが不思議なことだ。というより,フェニックスに限らず,アメリカのさまざまな地方で泊まったモーテルをチェックアウトをしようと迎えた朝の景色ばかりなのである。
 そうしてモーテルを出発するときは,また,いつでもその場所に来ることができるだろうと思うのだが,再びその地に行くことはほとんどない。
 地球は狭そうで広く,人生は長いようで,かくも短い。

 ロサンゼルスでは事前にチェックインがしてあったし荷物はキャリーオンだったので,セキュリティを通って,そのままデルタ航空のラウンジに向かった。ここで朝食をとって,搭乗時間までゆっくりと過ごす,これもまたいつもと同じであった。こうしたラウンジもまた,日本の空港では味わえないゆったり感である。
 やがて,搭乗時間になったので,ラウンジを出て,ゲートに向かった。
 帰りもまた,行きと同じくプライムエコノミーの先頭席である。ファーストクラスやビジネスクラスのようなフルフラットにはならないが,席が広く,また,食事が豪華で,これなら長時間のフライトも苦にならない。

 飛行機も,以前はデルタ航空ばかり乗っていたのでわからなかったが,航空会社によってさまざまなことがずいぶんと異なる。それぞれ長所もあり短所もあるが,今回,デルタ航空であっても機体がヨーロッパ製のエアバスだったので,イヤホンのジャックの形状が異なっていて2口のものだったのには驚いた。
 USBコネクタは,もう,ずいぶんと前からデルタ航空の飛行機にはついていたが,フィンランド航空の飛行機には最近までなかったし,オーストラリアのカンタス航空だと,離着陸のときイヤホンやUSBのコネクタに接続しているとはずせと言われる。食事もまた,航空会社によってずいぶんと異なるのだ。
 少し前,ひさびさにシドニーからの帰国便でJALの国際線に乗ったが,トイレに歯ブラシが用意されていたのには驚いた。いつも思うのだが,日本人というのは,こうした過剰なサービスには気が回るのに,というか,飛行機のトイレで歯磨きなどされたら,混雑して仕方がないと思うのだが,その反面,街を歩いていてトイレで入っても,手拭きペーパーさえない。立派なコンサートホールのトイレでさえ,なにもない。
 なんか,やっていることがものすごくちぐはぐなのである。

 まあ,それが日本である,ということにしておこう。
 とまれ,広い機内では,いつものように,特にすることもなく,だらだらと時間をつぶすことになった。映画を見るも,本を読むも,何をするのも,歳をとると面倒になってきた。時間を忘れてわくわくできるような何かがないだろうか,といつも思うのだが,妙案がうかばない。将棋の棋士なら詰将棋でも解いていれば時間を忘れるのだろうが,無能な私は歳をとって頭を使う気にもならなくなった。地上の旅なら風景を見ているだけで何時間もすごせるのだが,空の上ではそうもいかない。
 ところで,アメリカからの帰国便は地球の自転の逆らった飛ぶので,太陽から見たらいつも同じところを飛んでいる,というより浮いているから,ずっと太陽は同じところにある。だから,座席は太陽の光が直接入ってこない右側に座るに限るのである。
 やがて,日付変更線を越えて,日にちだけが1日過ぎ,行きに徳をした分を回収されて,そのうちに日本の陸地が見えてくると着陸である。そういえば,行きは着陸前の食事がでてくるのが遅くて,離陸直前にはっちゃかめっちゃかになったことを思い出したが,帰りはそういうこともなく,食事が出てきた。
 これで旅も終わりである。この時は,この旅は旅をしたという高揚感もときめきもなく単に通勤をしているような気持ちになってしまっていたのがとても寂しかった。しかし,今は,そういう旅すらできなくなってしまった。それもまた,寂しい。

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●見える景色が違いすぎる。●
 パロマ天文台に至る登りの山道の手前に,レストランとギフトショップがある。昨年(2018年)来たときは早朝だったので,これらの店はまだ開いておらず,しかも,パロマ天文台の公開は中止だったので,早々に引き上げてしまったから,この店が開いている姿を見ることはなかった。
 そして,今年(2019年)もまた,早朝にパロマ天文台に向かったから,行くときは当然,開いていなかった。パロマ天文台の見学を終えた帰り道,私ははじめてこのレストランとギフトショップが開いているのを目撃することができた。そこで,このレストランで昼食をとることにした。

 アメリカに限らずオーストラリアなどでも,観光地には結構こうした気軽なレストランがあって,そこではハンバーガーをはじめとする手軽な食事を楽しむことができる。それはいわば,日本の観光地にあるおそば屋さんのようなものである。
 しかし,日本との違いは,どこも混雑していないので,とても精神的に落ち着く。私はここでサンドイッチセットを注文して,ゆっくりと食事を楽しんだ。時間が過ぎていくのが快適である。
 こうしてこの旅で,私は,来るまえにやりたいと思っていたことのすべてを実現することができた。あとは,ロサンゼルスのモーテルに戻り1泊して,帰国するだけだった。

 来た時とほぼ同じ道のりでロサンゼルスに戻った。ロサンゼルスといっても,私は,ダウンタウンには興味がない。今回もまた,空港に近く,かつ,安価なモーテルに宿泊をしているから,私の滞在している場所は,おそらく,多くの日本人のイメージするロサンゼルスとは異なっている場所だろう。
 3時間近く走ってモーテルに着いた。少し休憩してから,近くを歩いてみることにした。ついでにどこかで夕食を,と思ったが,結局,昨日と同じ店になってしまった。
 私の泊っていたあたりは治安も悪くなさそうな,ロサンゼルスの下町,というか,普通のアメリカ人が生活している場所であった。
  ・・
 若いころの私は,団体ツアーのような観光旅行でなく,アメリカなどの海外に住むことに憧れていた。結局,それはかなわなかったが,それでも,これまで海外に多く出かけ,時には,その地に住む人の家を訪問する機会もあったり,実際数日滞在したりして,そのまねごとを経験することができた。
 その結果,海外に住みたいという憧れはなくなってしまった。というか,結局,どこに住んでいても,それが日常であれば,結局はどこでも同じだということを知ってしまった。

 一言でいえば,それは,日常というのは,何も期待してはいけないということを知ってしまったということだ。とはいえ,電気やガス,水道などのインフラが完備されていて,治安がよいということが大前提であるが,残念ながら世界にはそういった大前提すらなかなかかなえられていないということは承知しているから,これは贅沢な話であろう。
 そうした大前提さえあれば,あとは,どこ国であっても,どんな大豪邸に住もうとワンルームマンションに住もうと,そうは違いがなく,誰しもが同じような日常生活があるだけだ。 
 特に,アメリカは,表面的には自由と平等がもっとも尊ばれる国ということにはなっているが,実際は,場所によって住んでる人も財産も治安も区別されているようなところがある。学校生活もまた,同じ人種のグループが出来上がっているという話を聞く。そんな国で生きるのは,結構大変なことのように私は思う。結局のところ,どこで生きるのも大変なのだ。
 生きるも地獄なら死ぬるも地獄とはよくいったものだ。

 そんなことを思いながら,町を歩いていた。
 バス停があり,ファーストフード店があり,スーパーマーケットがあり,学校がありという,ここにはアメリカの日常があった。住宅街を歩いていると,庭に,アマゾンからの届け物が置かれてあったりした。もし,私がここに住んでいたとしても,所詮は,日本で生きるのと同じように,毎日,通勤し,仕事をし,人間関係に,そして,近所づきあいに悩み,休日は,このあたりでショッピングをしたり,外食したりして,平凡に一生を送るのだろう。
 都会に住むというのは,アメリカでも日本でも,所詮,それだけのことのように思える。
 一方,都会の雑踏を離れ郊外に出れば,アメリカや,オーストラリアなどでは,日本にはない異なる姿を見ることができる。それは,雄大に広がる大地である。
 私は,荒野,というか原野で生きる術をまったくもっていないから,そうした場所で生きることはできないが,もし,そうした場所で生きる術を知っていたとしたら,と考える。それは,アメリカの農村地帯やらオーストラリアの大平原,そして,もっと厳しいフィンランドやアラスカの極寒の地を見てきて,私が感じることである。そうした厳しい自然tと向き合って生きることこそが,本来の人間の姿であるのだろう。
  ・・
 海外を旅するごとに,私はさまざまなことがよりわからなくなってくる。このような現実に直面してから日本に帰国すると,日本での価値観で生きている人との遊離をより一層感じるようになっていくのである。私が海外で見てきたものは,多くの日本人が見えている景色と違いすぎるのである。ああ。

 一般道や高速道路を走っているとき,少しでも渋滞しているとすぐに車線を変更する車があります。そうして縫うように走っていくわけです。
 一般道では,車の間を縫うようにして追い越しながら先に走っていった車なのに,その先の信号や踏切で停車していてまた追いつくと,一体あの車は結局何をやっていたんだ,とあきれます。また,高速道路では,少しでも空いた車線,車線に頻繁に車線変更して走っていった車が,その先で変更した車線が混みはじめて,結局,変更する前の車線のほうが早かったりすることも多々あります。
 さらには,少しでも早く早くと追い抜いたり車線を変更してたとえ少しくらい早く目的地に到着しても,そこで何をするでもなく暇つぶしをしているくらいなら,危ない目をしてまで追い越したり,車線変更をする必要などないんじゃないか,と思います。

 これと同じことが,現在のキャッシュレス社会です。
 ポイント還元やらなにやらとやたらと,それぞれの会社が取り込み競争をしています。しかし,このくだらない競争によってお互いの足を引っ張り,結局は不便になっているだけです。日本では何事もこんなことをしているから,この国は世界からどんどんと遅れていくのです。損して得とれ,わずかばかりの利益を得るために同業者との協調をせずに足の引っ張り合いをしていても,そのすべてがだめになるだけです。これこそが,順位争いに明け暮れるだけが価値観のすぐれた教育の成果でしょう。
 少し以前には,Tポイント,dポイント,Rポイント,ポンタなどのポイント競争がありました。その結果,買い物をするときに,その店が対応しているポイントカードを持っていないと何か損した気になるので,結局,その店で買うのを辞めてしまうという弊害のほうがずっと多いような気がします。しかも,実際,1ポイント,1ポイントと貯めたところでどれだけ得になることでしょう?
 私は,ポイントを貯めることなどどうでもいいのですが,支払いでレジでポイントカードを持っていますかと聞かれるのがうざったいので,以前はすべてのポイントカードを持参していました。今は,アプリを iPhone に入れています。しかし,こんなことをしても,1年で溜まるポイントなんてせいぜい100円相当くらいのもので,そんなことなら,コンビニで買えば1本150円もするコカ・コーラをスーパーマーケットで1本78円で買う方がずっと得なのです。

 私は今では現金をほとんど持ち歩きません。万一のときのためにと,免許証入れに運転免許証とETCカードと一緒に1,000円札を2枚入れて持ち歩いているだけです。支払いのほとんどは iPhone で済ませます。現金,特に小銭を持つとかさばるし,現金で支払うことが煩わしいし,さらに現在は,コロナ禍で危険だと思っているからです。
 このご時世で,未だにレジで現金で支払っている人を私は信じられません。そのなかでも特に,何でも10,000円札を出しておつりをもらっている人や,その反対に,おつりがないようにやたらと細かい小銭を時間をかけて探して出している人,その両方がとても迷惑に思えます。
 未だに現金で支払っている人と,未だに図書館で紙媒体の新聞をぐちゃぐちゃとうるさく音を立ててめくっている人,そして,禁煙の職場の外で隠れてタバコを吸っている人など,私にはありえない世界です。

 ここ数年キャッシュレスを実行してみて,私は,ようやく iPhone だけでおおよその支払いが事足りるようになりました。どのお店では何が便利なのか,だから,何を iPhone に入れておけばいいのかがわかってきました。そして,簡単に支払いができるようになりましたが,それまでにずいぶんと時間がかかりました。
 暇な私でもこれだけ大変だったわけだから,多くの多忙な人はまだ使いこなせていないように思います。便利になるはずのキャッシュレスなのに,日本では,その方法が多すぎ複雑すぎで混乱していて戸惑うので,これでは現金で支払うほうが手っ取り早く便利になってしまっているのです。
 数年前まで,この国は,今でも,ちょんまげを結って刀を差して着物姿で歩いているように見られていたといいます。さすがに今は,街の外観や姿こそ世界並みとなったのですが,その内実は今もまだ,江戸時代のようです。何事も世界から遅れてしまったこの国はなんと滑稽な社会なのでしょう。

キャッシュレス

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 ネオワイズ彗星(C/2020F3 NEOWISE)は,赤外線観測衛星「NEOWISE」によって2020年に発見された彗星です。以前,このブログにかいたネオワイズ彗星(C/2016U1 NEOWISE)とは別物です。
 2020年3月27日,2009年アメリカ航空宇宙局(NASA)によって打ち上げられた赤外線観測衛星「NEOWISE」の観測から発見されました。こちらのネオワイズ彗星もまた,オールトの雲(Oort Cloud) から飛来してきた天体とされています。
 オールトの雲というのは,太陽系の外側を球殻状に取り巻いていると考えられている理論上の天体群で,1950年オランダの天文学者ヤン・オールト(Jan Hendrik Oort)が,水,一酸化炭素,二酸化炭素,メタンなどの氷が主成分である長周期彗星や非周期彗星の起源として提唱したことに由来します。

 ネオワイズ彗星は,発見当時は17等星でしたが,予想を越えて急激に明るくなり,6月30日には0等星にまでなったそうです。2020年7月3日に太陽に最も近い近日点を通過しました。地球上からは,夜明け前の空の低い位置に尾をなびく様子が肉眼でも観測されています(1番目の写真)。
 日本でも,現在は明け方の北東の空低くに見え,やがて太陽を回り込んで,7月中旬からは日没前の北西の低空で見えるようになり,7月23日に地球から約1億300万キロメートルまで接近します。
  ・・
 と,高らかに歌って,この彗星の私が写した写真をブログに載せる予定でしたが,
    晴れません。
 しかたがないので,国立天文台がハワイ島マウナケア山頂で写した写真を載せることにしました(3番目の写真)。

 このところ,ずっと雨です。この先もまたずっと雨です。久々にやってきた明るい彗星を写すこともなく月日が流れていってしまうのでしょうか。
 雲の間からのぞく彗星を写しても大した写真が写せるわけでもないのですが,なんとか少しでも星の見える日があれば写してみたいと準備だけはしているのですが,毎日,無残にもその期待は裏切られてしまいます。そしてまた,美しい写真を手に入れようと思うのなら,天気のよい日に空の暗い場所まで出かけて撮影したいものですが,その希望はかなうのでしょうか? どうしても,というなら,梅雨のない北海道か梅雨の明けた沖縄に行くより方法がないのかもしれません。
 私がこれまでに見た最も明るい彗星は,ヘールボップ彗星(C/1995O1 Hale-Bopp)でした(2番目の写真)。長く生きているとこういうものも一度くらいは見られます。ヘールボップ彗星はものすごく明るくて,これを見た経験があるので,もし,ネオワイズ彗星が見られなかったとしても,なんとか我慢ができるというものですが,明るい彗星を見たことのない人にとってはとても残念だろうと思います。
 もし,南半球でしか見られないというものなら,それでもあきらめがつくのでしょうが,晴れていれば簡単に見られるものが,雲があることで見られないというのは,悔しい限りです。
  ・・
 これまで何年もの間,消滅してしまったアイソン彗星(C/2012S2 ISON)以来,ずっと明るい彗星がみられなかったのに,突如このところ立て続けに明るい彗星が地球に接近しています。というのに,これもまた明るくなるという評判倒れに終わったアトラス彗星(C/2019Y4 ATLAS),条件最悪だったスワン彗星(C/2020F8 SWAN)など,そのすべてが満足に見られません。
 コロナ禍だけでなく,ついに,星空もまた,人間を見捨てしまったのでしょうか?

☆ミミミ

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 自宅籠城をした結果,私には,それまでこだわってきたさまざまことの多くがどうでもよくなってきました。それはある意味,これまでの生活を見直すきっかけになったとも言えます。そんな中で,私にとっての「ないもの」もずいぶんと増えてきました。今日はそうした私には「ないもの」を書いてみます。
  ・・
 たとえば「セブンイレブン」です。
 ずっと以前よりキャッシュレスに努めていた私ですが,当初は nanaco カードが便利で最強だと思っていました。そこで,コンビニに行くなら「セブンイレブン」と決めていました。それが,いろいろと不祥事があり,キャッシュレスの主役がカードから iPhone に代わると,nanaco カードにはまったく魅力がなくなりました。今の私には「セブンイレブン」はもはや「ないもの」の筆頭です。そもそもコンビニというのは高いだけなのでめったに行かないのですが,今では,たまに行くとなると「ローソン」です。「ローソン」なら,iPhone で Apple Pay を指定して買い物をすればポンタカードが紐ついているので楽に支払いができるからです。
 次に,私にとって「ないもの」となったのは「NHK総合テレビ」です。
 もともと民放は見ないのですが,新型コロナウィルスの報道で「NHK総合テレビ」が大嫌いになりました。ニュース番組でL字型に情報が出る「字幕テロ」はもとより,QRコードが常に画面に出ているのが,癇に障ります。不愉快です。よって,「NHK総合テレビ」は,どんな番組であろうと,私はそれは「ないもの」として見なくなりました。
 以前,このブログに,「今や,情報は手に入れるより手に入れないことのほうが大切だ」と書きましたが,考えてみると,巷にあふれるニュースのほとんどは,私にとって「どうでもいいもの」です。芸能人がどうこうしたといっても,そうした芸能人を知らない私にはまったく関係ないし,お隣の国がミサイルを飛ばしたといわれたところで「それで私に何ができるのですか?」という感じです。
 インターネット上にもニュースのポータルサイトがあふれていて,そうしたニュースをネタにコメントを書く人もまた,あふれていますが,そうした人の書いたものを読んでも不愉快になるだけです。
 さまざなな興味本位の見出しが躍る週刊誌や月刊誌の類もまた,私には「ないもので」です。
 そのほかにも,さまざまな「ないもの」が増えてきました。それらを書き連ねていても限がないのでこれくらいにしますが,こうした不快になるだけの多くのものを自分にははじめっからこの世に「ないもの」としてしまうと,実にこころ穏やかに毎日が過ごせることがわかりました。

 「ないもの」だらけになると,ひとつ問題ができました。それは,お金を使わなくなってしまったことです。そもそも,マスクをして買い物に行かなくてはならないということ自体,息苦しいし楽しくないので,よほど必要でない限り買い物に行く気すら失せてしまいました。
 私はもともと欲しいものがあまりありません。必要なものは少しばかり値がはっても一度いいものを買えば,いつまでも使えます。そのようにこころがけて買いものをしてきたら,必要なものがすべてそろってしまうと,その後は,古くなった服や靴などの消耗品を買い替えるほかには,買うものすらなってしまいました。
 たとえば,新しいカメラが発売されると「買いだ買いだ」と今まで持っていたものを処分してつねに新しいものに買い替えるマニアがいますが,私には,そうしたことに興味がありません。所詮趣味で楽しむだけなので,今使っているものを末永く愛着をもって使えればそれで十分満足だからです。車も同様に,不自由なく走ればそれで十分です。
 これまでいろいろなものを買ってきた結果,買ったあとの姿が見えてしまうのもまた,ものを買わない理由のひとつです。買うまでは欲しくても,手に入れたあとは使わずそのままというものが少なくないのです。それにまた,一時の広告に迷わされて自分に不必要なものを買っても仕方がありません。たとえば,高級車を買ったところで,日本では満足に走る道もないし,維持に管理に手間がかかります。家を買ったところで,日本には住みたいという場所すらありません。…といった感じです。
 私は,これまで,お金を自分なりに贅沢に使う先は旅行くらいのものでした。しかし,旅行すらできないとなると,旅行に費やしていたお金も,その使い道がなくなってしまいました。
 これを贅沢な悩みというのでしょうか?

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●夢にまで見た200インチ望遠鏡●
 宇宙の構造,宇宙の物質,星と宇宙の進化のなぞを解くことを目的とした口径200インチの反射望遠鏡を建設するため,1928年,ジョージ・エレリー・ヘールさんは600万ドルの寄付をロックフェラー財団に訴えた。建設場所として選ばれたのがパロマ山であった。
 しかし,直径200インチ反射鏡のガラス材をつくるには多くの困難があった。ニューヨークにあったコーニング・ガラス社で耐熱のパイレックスガラスの巨大な塊が何回もの失敗のあとでやっと鋳型に流し込まれたのが1934年の暮れであった。冷却炉の中で10か月もかかって焼きなましが終わった。
 ガラス材はパサディナのカリフォルニア工科大学の研磨工場に運ばれ,11年の歳月を費やして鏡は100万分の1センチメートル以下の誤差で磨かれた。こうして完成された反射鏡は,厚さが76センチメートルもあり,重さを減らすために裏側がハニカム構造になっていて,重さは約20トンに抑えられた。ガラスの表面は,たった30グラムのアルミニウムでメッキされた。
 望遠鏡の鏡筒は,長さ約18メートル,直径7メートル,重さ125トンで,300トン以上の支柱の中で油の入ったペアリングで鏡が支えられた。
 望遠鏡が完成したのは1948年であったが,ヘールさんは望遠鏡の完成を見ることもなく,1938年に亡くなった。

 この望遠鏡は現在も現役であるが,さすがに設計が古く,その維持が大変そうである。
 現在,1枚鏡の最大口径の望遠鏡は,ハワイ島マウナケア山頂にある日本のすばる望遠鏡であるが,現代の大望遠鏡のほどんとは,1枚の反射鏡ではなく六角形の多くの反射鏡を集めて大口径とし,それぞれの鏡が同じ場所に焦点を結ぶようにコンピュータで調整している。
 パロマ天文台の200インチ望遠鏡の1枚鏡は自重でたわまないように分厚いが,最新型のすばる望遠鏡は1枚鏡ではあるが非常に薄く,たわむことを逆に利用して,それをコンピュータで制御している。
 また,パロマ天文台の駆動装置は赤道儀式で,その欠点である天の北極あたりの視野が見られないという欠点を克服するために馬蹄形をしている。それに対して,スバル望遠鏡をはじめとして,現代の最新式の大望遠鏡は,大げさな赤道儀ではなく径儀台となっていて,コンピュータで制御し追尾を行っている。
 このように,パロマ天文台の200インチ望遠鏡は,コンピュータでの制御ができなかった時代のものなので,現代の大望遠鏡とは根本的に設計が異なっている。パロマ天文台の200インチ望遠鏡は,「1枚鏡の赤道儀」として最後の大望遠鏡である。

 見学ツアーは,まず,ドームの入口の前でこうした望遠鏡の歴史をレクチャーしてから,いよいよドームに入った。ドームの1階部分では反射鏡の再メッキができる工場があった。それらの装置の説明ののち,端にある階段を上って,ついに,望遠鏡のある2階に登ることができた。夢にまで見た望遠鏡との目の前での対面であった。
 ドームはものすごく巨大で,外観もピカピカ,今も現役の200インチ望遠鏡はしっかりと整備されていて,ドーム内もきちんと整理整頓がされていた。
 ツアーは私の期待をはるかに超えるものであった。私のような専門家でなく単に興味本位で見学に来た日本人に対しても質問すると十分に時間をとって丁寧に答えてもらえた。
 こうして私は,昨年のウィルソン山のふたつの歴史的な反射望遠鏡に続いて,この年は,フラグスタッフにあるローウェル天文台のふたつの歴史的な望遠鏡,そして,パロマ天文台の200インチ望遠鏡と,夢に見たアメリカの有名な望遠鏡たちを,それもすべて,ガラス越しでなく目の前で見て,さらには触れることができたのだった。

  ・・・・・・
 私はこの後日本に帰ってから木曽観測所のシュミット望遠鏡をこれもまたドームに入って目の前で見学する機会があった。そのときのことはすでにブログに書いた。木曽観測所のシュミット望遠鏡もまた設計は古いが,関係者のさまざまな努力で今も現役で使用されている。
 しかし,ドームの外観はさび,望遠鏡もテープで補修がしてあったりして痛々しかった。また,ドーム内はいかにも日本の研究施設然として,きちんと整理整頓がされておらず,使わなくなった機材なども無造作に置かれていた。また,パロマ天文台の200インチ望遠鏡のような再メッキ工場が1階部分にあるわけでもなく,ミラーを外して,外部にもっていかなけらばならないという話であった。
 私はこういうものを比較するたびに,本当に日本は学問や文化に金をかけない国だなあとつくづく情けなくなってくる。さらに,この4月には,日本の天文学に関する予算が減らされて,水沢観測所や野辺山観測所の研究が従来のように行えなくなったという話も聞いた。
  ・・・・・・

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●ついにあこがれの望遠鏡を見た。●
 幸運にも,土曜日に来たことで待望の口径200インチの反射望遠鏡をガラス越しでなく直に見ることができることになった。もし金曜日だった昨年パロマ天文台に来たとき,駐車場が工事中でなければ,私はガラス越しに望遠鏡を見ただけで満足していたことだろう。そして,その翌年に再びロサンゼルスに来ることもなかっただろうから,大谷翔平選手を見ることもなかったであろう。
 不思議なものだ。
  ・・
 ツアーがはじまるのが午前10時30分なので,それまでビジターセンターを見学して,それでもまだ時間があったので,ガラス越しでいいからと,ツアーの前に200インチ望遠鏡のドームに行って,ガラス越しに望遠鏡を見ることにした。
 ドームの一般者見学用の入口から中に入ると,そこにあったのは,ヘールさんの銅像であった。
 ジョージ・エレリー・ヘール(George Ellery Hale)さんのことはすでに書いたが,ここで再び紹介する。

  ・・・・・・
 ジョージ・エレリー・ヘールさんは,1868年にシカゴで生まれ,1938年に亡くなった天文学者である。1897年,シカゴの実業家チャールス・ヤーキスの資金を得て口径40インチ(101センチメートル)の屈折望遠鏡を備えるヤーキス天文台を建設した。さらに,1904年にはカーネギー研究所の寄付を得て,その当時世界最大となった口径100インチ(257センチメートル)の反射望遠鏡を備えるウィルソン山天文台を建設し初代台長になった。ヘールさんは,さらに,ロックフェラー財団から寄付を受けて,パロマ天文台の建設に着手するのだが,その完成を見ることなく死去した。
  ・・・・・・

 奇しくも,この日はヘールさんの151回目の誕生日であった。昨年のこの日は生誕150回目の輝ける記念日で,そのためにウィルソン山天文台は特別公開を実施していたのに,パロマ天文台はそんなことは知ったことでない,という感じであったように思えた。今日はヘールさんの誕生日だと,天文台のツアーのときに係の人に話したら,驚いていたので,まったくご存知ないようであった。
 ドームの一般者見学用の階段を上っていくと,他の多くの天文台同様にガラス越しに望遠鏡を見ることができるブースがあった。そのブースから,巨大な望遠鏡の姿をはじめて見ることができた。ヘールさんが生前見ることができなかったまさにその望遠鏡が,私の目の前にあると思うと感動した。
 これこそが,私が子供の頃から憧れた望遠鏡の実物であった。
 こうして,私は,またひとつ夢が実現したのだった。

 ガラス越しに念願の望遠鏡に対面して,それで私はすっかり満足して外に出た。
 やがて,ツアーの開始時間が近づいて,結構多くの人が集まってきた。ツアーの人たちの入口は先ほど私が入っていった一般者見学者用の入口の反対側にあって,その入口の前がツアーの集合場所であった。
 このときのツアーの参加者のなかにはひとりかなり専門的な人もいた。ツアーの説明をしてくれる人は4,5人もいて,どんな質問にも答えてくれるということだった。人が多いのは,そうした配慮の他に,不振者が混じっていたときの対策も兼ねていたのだろう。
 説明スタッフの中に親切そうな女性がいて,私に昨年も来たんですってね,といって,こそっと,私だけ特別に記念切手のお土産をプレゼントしてくれた。昨年入れなかったと受付で話したのが功を奏したようだった。とてもうれしかった。
 さあ,いよいよツアーの開始であった。

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七夕s

☆☆☆☆☆☆
 7月7日は七夕です。各地の七夕まつりが中止になり,また,この時期は梅雨空で星も満足に見られないので,今日は,私が先日,木曽駒高原で写した写真とともに,七夕のお話です。
  ・・
 天の川をはさんで,こと座のベガが織姫(織女星),わし座のアルタイルが彦星(牽牛星),そして,はくちょう座のデネブがふたりをとりもつカササギです。この3つの星を結んだものが「夏の大三角形」です。

  ・・・・・・
 天の川の西岸に織姫という姫君が住んでいました。織姫は機織りの名手で美しい布を織り上げては父親である天帝を大変喜ばせていました。そんな娘の結婚相手を探していた天帝は東岸に住む働き者の牛使い彦星を引き合わせ,ふたりはめでたく夫婦になりました。
 ところが,結婚してからというもの,ふたりは仕事もせずに仲睦まじくするばかりです。これに怒った天帝が,ふたりを天の川を隔てて離れ離れにしてしまいました。しかし,悲しみに明け暮れるふたりを不憫に思った天帝は,七夕の夜に限って天帝の命を受けたカササギの翼にのって天の川を渡って再会することを許しました。
 こうしてふたりは,年に一度の逢瀬をするようになりました。
  ・・・・・・・

 中国では,このふたりの逢瀬を祝って「乞巧奠」(きっこうでん)という行事が催されるようになりました。奈良時代,「乞巧奠」が遣唐使によって日本に伝わると,宮中行事として取り入れられるようになり,詩歌や裁縫の上達を願って星に祈りをささげ,梶の葉に和歌をしたためてお祀りをしていました。旧暦の7月はお盆です。この季節は,稲の開花期,麦などの収穫期にあたります。そこで,民間では,お盆の祖霊を迎えるために,乙女たちが水辺の機屋にこもって穢れを祓い,機を織る行事が行われました。
 水の上に棚を作って機を織ることから,これを「棚機」(たなばた)といい,機を織る乙女を「棚機つ女」(たなばたつめ)とよびました。やがてこの行事と乞巧奠が交じり合って,現在の七夕まつりとなっていき,7月7日の夕方を七夕(しちせき)とよばれていたものが棚機(たなばた)にちなんで七夕(たなばた)という読み方に変わりました。
 また,笹竹に短冊をつるして願い事をするようになったのは江戸時代からです。手習いごとをする人が星に上達を願うのです。また,五色は「青,赤,黄,白,黒」で,古代中国の「木,火,土,金,水」の五つの要素がこの世のものすべての根源である」という陰陽五行説にちなんで,「木=青」「火=赤」「土=黄」「金=白」「水=黒」を表します。
 私は子供の頃,七夕の話を聞きました。しかし,都会では満足に星を見ることもできず,さらに,七夕の季節は天気もよくないので,天の川というものすら見たこともありませんでした。上に書いた物語はカササギの翼に乗ってとありますが,そもそも星が天の川を越えて移動するなどということなどありえないから不思議は話だと思いました。それでも,当時の多くの子供は,本当に星が移動すると思っていたようです。今は,そんな話も聞きません。
 
  ・・・・・・
 天漢 水左閇而照 舟竟 舟人 妹等所見寸哉
 天の川水さへに照る舟泊てて舟なる人は妹と見えきや
  ・
 天の川では水までが輝いている
 舟を泊め舟に乗っていた人は
 妻と逢えたであろうかな
   「万葉集」巻10・1996 柿本人麻呂
  ・・・・・・

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●パロマ天文台のビジターセンター●
 アディソン・ホワイト・グリーンウェイ・ジュニア・ビジターセンター(The Addison White Greenway, Jr. Visitor Center)というのがパロマ天文台のビジターセンターの正式名称である。1947年,天文学愛好家とカリフォルニア工科大学の支援者であるケイト・ブルース・リケッツ(Kate Bruce Ricketts)によって彼の息子の記憶を称えるためにこの名前がつけられたということだ。
 ビジターセンターに入ると,まず,オリオン大星雲(M42)として知られる星形成地域をパロマ望遠鏡を通して見た写真が出迎えてくれた。
  博物館は大きなものではなかったが,パロマ天文台の歴史を初期のものから現在使われているものまでの望遠鏡をはじめとするさまざまな観測機器,そして,それを使用してなし得た科学的発見,天文学の世界の最新の発展についての充実した展示が並んでいた。
 アメリカの博物館の展示はどこもレベルが高い。
 そして,この博物館の中央に位置するのが口径18インチ(0.46メートル)のシュミット望遠鏡であった。18インチシュミット望遠鏡はパロマ天文台に置かれた最初の機器である。

 18インチシュミット望遠鏡の建設は,超新星として知られる爆発する星を探すために空の広い領域を効率的に撮影できる機器を必要としていたカリフォルニア工科大学の天文学者フリッツ・ツヴィッキー(Fritz Zwicky)によって提唱され,ロックフェラー助成金から資金提供を受け, 望遠鏡メーカーのラッセル・W・ポーター(Russell Williams Porter)によって設計された。
 シュミット望遠鏡は焦点面に写真フィルムが置かれるが, ミラーと補正プレートの直径はそれぞれ24インチ(61センチメートル)と18インチ(46センチメートル),焦点距離は36インチ(92センチメートル)で,F2という明るさをもっていた。視野の直径は8.75度,満月17個分もあった。
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 18インチシュミット望遠鏡で写真を撮るには,観測者はまず望遠鏡の暗室でフィルムカッター(「クッキーカッター」とよばれる)で6インチ(15.5センチメートル)の未露光フィルムを切り抜き,それを適切な球面曲率を適用したフィルムホルダーに取り付けて露光中にフィルム全体に焦点を合わせることになる。
 フリッツ・ツヴィッキーは,撮影した写真をカスタムメイドの顕微鏡を使用してスキャンをすることで,小惑星や彗星を探した。こうして,1937年に最初の超新星を発見,1942年第二次世界大戦によって検索プログラムが中断されるまで,合計19個の超新星を発見した。

 18インチシュミットは1936年に完成し,1949年までパロマ天文台唯一の運用可能な望遠鏡であったが,その後は,新しく作られた口径48インチのシュミット望遠鏡(Samuel Oschin Telescope)と口径200インチの反射望遠鏡(Hale Telescope)に役割を譲ることになった。
 しかし, 1970年代から90年代にかけても,この18インチシュミット望遠鏡は現役で,太陽系の小天体の体系的な探索に使わ,数百個の小惑星や数十個の彗星を撮影するなど,多数の小惑星と約50の彗星を含む多くの発見がもたらされた。そのなかでも特に有名なものが,キャロリン・シューメーカー(Carolyn Shoemaker)とデイビッド・レビー(David Levy)が1993年に発見し,のちに木星と衝突したシューメーカー・レビー第9彗星(Comet Shoemaker–Levy 9)である。…と聞くと,特別の感慨を覚える。
 18インチシュミット望遠鏡は,1990年代半ばにその役目を終えた。2013年に再び組み立てられ、現在は博物館に展示されている。

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●50年来の夢の実現●
 早く着きすぎたので,ふもとの,景色がよく見える広い場所でしばらく休憩して,午前9時少し前にパロマ天文台の入口に着いた。
 昨年来たときは9時を過ぎても決して開くことのなかったパロマ天文台の門だった。まだ,午前9時より少し早かったのにも関わらず,その私にとって「開かずの門」はそんな悪夢(=2番目の写真)はなかったかのように,難なく開いていた(=3番目の写真)。
 こうして,私の50年間の夢が実現したのだった。何事も苦労して手に入れたほうがずっと思いが深いものだ。
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 門を通り過ぎて天文台の構内の道路を入っていくと,その先に広い駐車場があって,すでに,2,3台の先客の車が駐車していた。車を降りると,駐車場の右手にビジターセンターがあった。私は,もっと大きなビジターセンターを想像していたので,正直少しがっかりした。
 ビジターセンターに入ると,そこにはこれまた小さな売店と展示があった。軽食をとることができるレストランなどもあると思っていたが,一般の見学者用にあったのはこの建物だけだった。このビジターセンターは土曜日と日曜日だけ開いているということだった。

 私は昨年,ロサンゼルス近郊のウィルソン山天文台と,サンディエゴ郊外のこのパロマ天文台を見ようとアメリカにやってきた。結局,昨年はパロマ天文台は構内に入ることができなかったが,ウイルソン山では特別公開を見ることができたことは,すでに何度も書いた。ウィルソン山天文台には軽食がとれるレストランや充実した展示室があった。
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 実は,私は無謀に旅をしているわけではなく,ちゃんと昨年(2018年)アメリカに来るまえに,このふたつの天文台の公開情報について調べてきたのだった。そのときの結論は,パロマ天文台は平日でも一般の見学ができ,ウィルソン山天文台は週末のみの公開ということであった。そこで,ウィルソン山天文台には週末に行くことにし,パロマ天文台には,奇しくも,ちょうど今年(2019年)と同じ6月29日(ただし昨年は金曜日だった)に行ってみたのだったが,何度も書くように,駐車場の工事をしていて臨時休館で入ることができなかった。
 そして,その1年後,どうしてもパロマ天文台が見たくて,またやって来た。この日に来たのは,週末だからではなく,単なる日程上の偶然だった。

 私は,口径200インチ(508センチメートル)の反射望遠鏡はガラス越しに見ることができるものだと思っていたのだが,なんと,ドーム内に入って間近に見ることができるツアーが週末のみ実施されているということを到着してから知った。ツアーが実施されるのは週末の午前10時30分からと午後0時30分からと午後2時からの3回であった。
 チケットはビジターセンターの売店で購入できるとあったので,さっそく午前10時30分のツアーを購入して,用紙に名前を書いた。その時に「昨年も来たのですがお休みでした」と告げたのだが,それがこのあとで幸運をもたらすことになる。
 この時点では,午前10時30分のツアーの申し込み者は私ひとりだったから,いったい何人参加するのやら… と思った。ここは別に新しい観光地でもないし,私のような望遠鏡を見たいというオタクがそれほど多いとも思えなかった。しかし,帰国後,ネットを見ていたら,50年来の夢がかなってパロマ天文台に行くことができたといった,まるで私が書いたようなブログを多数発見して驚いたものだった。

 2年ほど前,私は突如「人恋しい病」にかかったということは前回書きました。そしてめでたく全快しました。すると今度は「人恋しくない病」になったようです。私は本来人嫌い,そこに戻ってしまったのです。
 学生さんは,普段,学校で多くの級友に囲まれて生活しているので,人恋しいという感情より,人が煩わしいという感情のほうが多いように思います。職場で仕事をしている人もまた,人間関係で煩わしい思いをするほうが多いように思います。
 その反対に,退職したあとのお年寄りは孤独に悩まされていることが多く,そういった孤独にどう対処するかといった内容の本もたくさん出版されています。このことも前回書きました。そこで,人恋しくなると,だれでもいいから人と接したいという思いが募ってきます。しかし,実際に人と接すると,よほどその人と価値観や人生観が一致しないと今度は煩わしいことのほうが多いというのが実態です。特に,子供のころならともかく,人生経験が豊富になればなるほど,価値観や人生観は強固になっていくので,他人と合わせることはより難しくなります。

 私が「人恋しい病」になったというのは,ひとりで旅をするときに孤独を感じるということではなく,何かがあったときに助けてくれる人が欲しい,ということが理由のひとつでした。しかし,考えてみれば,そんな事態になったとしても,それはそれで,何がしかの手段で助けを得ることは可能なので,心配には及ばないのです。そんなことは,これまで実際に何度も経験しました。
 それよりも,「人恋しい病」にかかった私がやたらと人と接してみた結果,そこで体験したことは不思議なことばかりでした。私と接した相手は,私にとって,いったい何を考えているのやら,ということだらけでした。そうした経験を通してわかったのは,結局,失望ばかりでした。
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 たとえば,相手の希望を聞いて,集合場所や時間を決めたとします。朝10時に京都駅前集合がいいな,と言われるとします。そのとき私は,朝7時に京都に行って,ひとりで10時までゆっくり食事をしたり観光をして集合時間までを過ごします。孤独を楽しむわけです。そして10時に相手と落ち合ったときに,私が会うまでにそうした行動をしていたと話すと,相手は,そんなことならどうして7時に集合にしてくれなかったのか,と言うわけです。私は,相手の希望を聞いて集合時間を決めたことなので,それ以前に何をしようか相手には関係がないと思うのです。
 あるいは,どこかに連れて行ってくださいと頼まれたとします。そのときもまた,相手の都合を聞いて,日時を決めます。私は,よほどのことがなければ自分の都合を変更してでも相手に合わせますが,誘った相手自身が,突然都合が悪くなったといってドタキャンをしてくるのです。

 「人恋しい病」にかかった私が人と接点をもってみたら,そんなことばかりが起こりました。そんなこんなで,私は,善かれと思って人に合わせても,結局は身勝手な相手に振り回されるだけで,何のメリットもない,というあたりまえのことを改めて思い知ることになったのです。
 そうした現実がよみがえって,私は「人恋しい病」がすっかり全快してしまったのでした。

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 書店で目につくのは「孤独」と名のつく本です。それは,歳をとるとだれでも「孤独」を感じるからでしょう。
 たとえば 下重暁子さんの書いた「ああ極上の孤独」。この本は,
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 現代では「孤独=悪」だというイメージが強く,たとえば孤独死は「憐れだ」「ああはなりたくない」と一方的に忌み嫌われる。しかし,それは少しおかしくないか。そもそも孤独でいるのは,まわりに自分を合わせるくらいならひとりでいるほうが何倍も愉しく充実しているからで,成熟した人間だけが到達できる境地でもある。 
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 また,諸富祥彦さんの書いた「孤独の達人 自己を深める心理学」では,
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 私たちは必要なつながりを持てずにいるとき,惨めでさみしくつらい気持ちになることがある。しかし,このひとりの状態を「どうせひとりでいるのなら」と主体的に選択し直すと全く異なる意味合いを帯びてくる。大きな自由と解放感が得られる。さらに世間の喧噪から離れて徹底的に孤独に徹し,「深いひとりの時間」を持つことではじめてより深く自分自身であることができ,真実の自己と内面的な充足が得られる。そして同時に,説的に,もっとも強く他者とのつながりを感じ取ることができるのだ。
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 齋藤孝さんの「50歳からの孤独入門」には,
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 いよいよ「人生の後半戦」という覚悟を迫られる50歳。後悔の念や喪失の不安といかに折り合いをつけることができるか? やがて訪れる「孤独」をむしろ楽しむにはどうすればよいか? 古今東西の賢者に学ぶ齋藤流「後半生をよく生きるメソッド」!
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とあります。
 3番目に紹介した本の題名には「孤独」に加えて「50歳」という言葉があります。そうすると今度は大江英樹さんの「定年前50歳から始める「定活」」とか,楠木新さんの「定年後50歳からの生き方,終わり方」と,よく似た類の題名の本がいくらでもでてきます。

 このごろ私は,自分が若いころから抱いていた価値観や人生観が,どうやら多くの人のそれとはまったく違っているようだ,ということに気づきました。こうした本の題名にあるような,多くの人が孤独を感じはじめた50歳を過ぎたころに感じる現実が,私には多くの人とは正反対のものだったということです。
 それは,多くの人が定年退職をするとそれで人生が終わりだと考えるのとは違って,私はやっとこれからが自分の人生のはじまりだと思っていたということです。つまり,人の最大の幸福とは自由を手に入れること,という価値観に基づくと,現役時代に地位とか名誉いう要らないものを手に入れるということは,それで自由が制限されるから,私の価値観とは真逆のこと,だから,そんなものにこだわるのは究極の負け犬だということなのです。
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 そんな私に,2年前,突然「人恋しい病」が襲ってきたのですが,このことはずっと以前に書きました。そして,その結末はまた後日。

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●今年もまたここにやって来た。●
☆5日目 2019年6月29日(土)
 5日目になった。明日は帰国するだけなので実質上最終日である。この旅は5泊7日だが,1日中観光ができるのは途中の4日間,つまり,海外旅行では,旅行する日にちマイナス3日ということになる。だから,最低限6日,つまり4泊6日はないと満足な海外旅行はできないことになる。
 この旅はそれより1日多い7日間だったが,過ぎてしまえばあっという間であった。毎日まったく無駄なく旅を楽しめたのは,慣れているからだろう。
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 昨年(2018年)の旅で,私は,子供の頃からの念願だったパロマ天文台を訪れた。パロマ天文台は年中無休で公開されているということだったのだが,私が訪れたちょうどその日は天文台構内の駐車場の工事をしていて,公開が中止となっていて中に入れなかったということは,これまで何度かこのブログに書いた。
 そこで,今年(2019年),再び来ることになったのだが,パロマ天文台に再訪するためだけにアメリカまで行くのは... ということで,今年は,フラグスタッフやバリンジャー隕石孔などを旅程に加えた。それらの場所は,いつかは行ってみたとと思っていたところばかりであった。しかも,期せずして,大谷翔平選手まで見ることができた。
 昨年パロマ天文台の中に入れなかったから,こうして,それ以外の長年の夢もかなったのだった。もし,この旅をしていなかったら,コロナ禍でしばらく海外旅行ができなくなった今,ものすごく後悔していたことだろう。そう考えると,本当に幸運であった。

 が,幸運はそれだけではなかった。
 パロマ天文台を訪れたこの日が土曜日というのが,まさに奇跡であった。私は,曜日すら考慮しないで,偶然,土曜日にやってきた。私が見たかったパロマ天文台の200インチ反射望遠鏡は,通常はガラス越しにしか見ることができないのだが,ドームの中に入って見学できるツアーというものが,なんと,土曜日と日曜日のみ実施されていたのだった。
 つまり,昨年(2018年)はゲートが閉まっていてせっかく来たのに中に入れなかったが,入れなかったからこそ,今年(2019年)再びパロマ天文台にやって来て,それが偶然土曜日だったから,今年はドームの中まで入れたというわけだった。
 しかし,昨年はパロマ天文台に入ることができなかった代わりに,偶然,ウィルソン山天文台を訪れたその日が特別公開であった。そして,今年もまた,偶然,パロマ天文台のツアーに参加できたのだから,結果的にこれでよかったわけだ。

 昨年は,パロマ天文台へはサンディエゴから往復した。パロマ天文台はサンディエゴからのほうがはるかに近いということに加え,サンディエゴにも行ってみたかったからであった。サンディエコに行きたかったのは,MLBのサンディエゴ・パドレスの新しいボールバークでゲームが見たいというのが理由であった。
 今年は,サンディエコに行く理由がなかったので,ロサンゼルスから往復することになった。そこで,昨年とは経路が異なっていた。
 ロサンゼルスからパロマ天文台までは120マイル(約200キロメートル)あって,片道2時間以上と結構時間がかかるので,アメリカに来るまで気が重かった。しかし,この旅では,この日以前に,フラグスタッフまで行ってみたり,さらに,ホースシューベンドまで遠出したりして,すでにもっと長距離を走ったので,このころには,パロマ天文台への2時間の往復くらいどおってことなくなっていた。要するに気持ちの問題なのだった。
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 パロマ天文台は午前9時に門が開く。早朝6時すぎに,時間が惜しいので朝食抜きでモーテルを出発した。モーテルからは昨日ロサンゼルス・エンジェルスのゲームを見にいったときに通ったのと同じ国道91を走り,アナハイムを過ぎて,さらに東に進んでいってインターステイツ15に入る。そして,インターステイツ15を南東に進んでいって,テメクラ(Temecula)という町でインターステイツ15を降り,州道76に入る,という経路で走っていった。
 テメクラからは一般道である。このあとはわずか36マイル(約60キロメートル)なのだが,州道76は一般道かつ山道なので,まだそれから1時間程度かかる。パロマ天文台を目指して日本の山道のようなところを走っていくと,やがて,リンコン(Rincon)という数件の家がある小さな町に着いた。リンコンにはアメリカにはめずらしいロータリーがあった。このロータリーがこの小さな町のただひとつの交差点というわけであった。このロータリーの角によろずやがあったので,車を停めて中に入って,菓子パンと冷たい飲み物を買ったが,これが結果的に今日の朝食となった。この時点では,パロマ天文台にカフェくらいはあるだろうからそこで朝食を,と思っていた。

 リンコンから先は昨年走ったのと同じ道であった。昨年と今年,たった2度走っただけだが,なんども来たような気がしてすごく懐かしかった。途中でシカの親子が横切った。数年前,ワシントン州で巨大なシカが私の車にぶつかってきた記憶がよみがえったが,今回のシカは小さくおとなしかった。
 さらに山道を走っていくと,やがて,昨年も見たパロマ天文台の口径200インチ反射望遠鏡の巨大なドームが見えてきた。昨年はここで感激したが,今年は,果たして昨年開かずだった門は時間通り開くのだろうかと,少しだけ不安な気持ちになった。

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●ベースボール観戦は楽し。●
 ロサンゼルス・エンゼルスのこの日のゲームの開始は午後7時7分だった。
 どうして午後7時と遅いのか,という質問の答えは夏時間だから,である。また,どうして7分か,というのは,テレビ放送のためである。この細かい開始時間はチームによって異なり,5分というものもあれば11分というものもある。
 アメリカでは,スポーツはテレビ中継のコンテンツなのである。すべてが金なのだ。そこで,オリンピック中継もアメリカの時差に合わせて行われるし,時期が夏なのもまた,秋に行うとアメリカのスポーツシーズンに影響するからである。それにつき合わされるスポーツ選手はたまったものではない。
 未だにスポーツマンシップだとかきれいごとを言う人があるが,そんなものは虚構であって,オリンピックは巨額な金を生む単なる打ち出の小づちなのである。だから,日本の猛暑にオリンピックをするなどというバカげたことになるのだが,そのことを問題視しないマスコミもまた,金儲けのためにすぎない。高校野球もまた同類である。
 アメリカははじめっから,ビジネス,だから金,と割り切っているからそれで問題ないのだが,日本では,そこに,やれスポーツマンシップだとか青春の美談だとか,そういった建前を並べるから,私は嫌いなのだ。日本はいつも「やったふり」なのである。
 アメリカはそういう国なので,ペットボトル1本持ちこめないボールパーク内ではペットボトル1本を3ドル50セントで売っているのだ。そこに遠慮も忖度もない。これは善悪ではなく,アメリカではすべてが金次第の国ということの反映にすぎない。
 その一方で,弱者に対した寄付や慈善などもまた,日本とは違って徹底している。レストランでは金持ちはチップを弾む。これはキリスト教の影響といわれるが,おそらくは,いつもマネーゲームをしている罪悪感から逃れるためであろうと私は今思う。
 それに対して,日本では,建前はおもてなし,本音は金儲けである。これもまた,善悪でなく,これが日本なのだ。世の中は甘くない。見せかけの笑顔のうらには何が潜んでいるのか,これこそが建前と本音が異なる日本なのである。生徒のためと称して,本音は学校の進学実績というのもまた,これが日本なのである。
 
 アメリカのボールパークは開場がその2時間前だから,私は午後4時過ぎにモーテルを出て,ロサンゼルス・エンゼルスの本拠地であるエンゼルスタジアムに向かった。インターステイツ105からインターステイツ710,そして,国道91,国道55と進み,駐車場に着いた。事前に駐車場を予約しチケットを購入してあったので,係員の指示に従って車を停めたが,その近くには球団関係者の高級車がずらりと停まっていた。
 開場にはまだ時間があったので,いつものように,ボールパークの周りを散策していると,ハネムーンやツアー客など多くの日本人がいたので,しばし雑談を楽しんだ。
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 やがて,ゲームがはじまった。MLBのゲームは40回以上は見ているから,もう,珍しくもなんともない。今回の私の目的は大谷翔平選手の写真を写すことだけだった。歩き回っていい場所を探しておいて,大谷翔平選手の打順になったらそこに行って写真を写せばいいのだから,私の座席なんてあってないようなものだった。そこで,もっとも安価な座席のチケットを買ったのだが,このゲームで,私は,自分の座席に座ったことは一度もなかった。どこなのかもわからなかった。
 幸い,この日,大谷翔平選手は3番指名打者で出場して,ヒットを3本打った。私は大谷選手が出場するときだけゲームに集中して,それ以外の時間は大谷選手をどこで写真に収めるかを探すためにボールパーク中を歩き回っていた。適当な場所でカメラを構えていると係員がやって来て「ここで立ち止まって写真をとっていてはいかん」とか言うので,日本からわざわざミスター・オータニの写真を写しに来たのからちょっとだけごめんね,とか適当なことをいって仲良くなると,快く許してくれるのもまた,アメリカらしいおおらかさである。そこでチップでも出すと,もっといい場所まで連れ行ってくれるのかもしれない。
 ナイトゲームは,終了後,数千台,もしくは数万台の車が一斉に駐車場から出ていくことになるから大渋滞を引き起こす,交通制限もかかるから,道に迷う。そこで,私は毎回,ゲーム終了前に早々ボールパークを後にする。ゲームの勝敗なんてまったく興味がない。
 8回になる前,ボールパークを後にした。こうして,私は今回の旅で,大谷翔平選手も見ることができて,目的をまたひとつ果たした。これで,今後またアメリカにいくことがあっても,心置きなく,MLBのスケジュールにまどわされることもなく,行きたいときに行きたい場所に出かけて観光ができることであろう。…が,その日はまた来るのであろうか?

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