DSC_5770 (2) DSC_5807 (3) DSC_5780 (3) DSC_5818 (3) DSC_5752 (3)DSC_5760 (3)DSC_5767 (2)

######
 下醍醐の伽藍を出て,上醍醐の入口である女人堂で入山料を払いました。上醍醐まではどのくらい時間がかかりますかと聞くと,片道1時間,往復2時間と言われて驚きました。
 私はずっと以前,一度上醍醐に登ったことがあります。しかし,すごく大変だったということだけを覚えていて,どうなっていたかはまったく記憶にありません。この日はまったく登る予定などなかったのですが,なにか暗示にでもかかったように,足が向いてしまいました。まさかまた登ることになるとは思っていませんでしたが,こうして,結局,この日もまた懲りずに山登りをすることになってしまいました。

 私はまったく知らなかったのですが,2008年(平成20年)8月24日に上醍醐の准胝観音堂が落雷によって全焼してしまい,しばらくの間入山できなかったそうです。それは私が昔登った後のことです。
 上醍醐には国宝だか重要文化財だかの仏像があって,以前私が登ったときには,偶然それらが何かの展覧会でおろされていて見ることができなくて残念だったというようなことをうっすらと記憶しています。そこで,この日はそれを見ることができるのかな,という期待もありました。
 上醍醐は西国三十三所第11番札所ですが,西国一険しい札所として知られています。登り口に女人堂があるのは,かつて上醍醐が女人結界(=女人禁制)だったからです。
 私はさっそうと登りはじめました。このところ,このくらいの山登りばかりをしているので,気持ちだけは余裕でした。すぐに四丁,五丁という標識が過ぎて,浅はかな私はおそらく上醍醐は十丁だろうと勝手に判断し,もうすぐだ,大したことないじゃないかと高を括りました。丁の意味を知らなかったのです。
 登っている人などまったくいないようだったのですが,先客がいました。この辺りに住むご老人の夫婦でした。途中で追い越すことになりそのときに山頂は何丁ですかと聞くと,なんと二十六丁だと答えるではありませんか。これに私は全身の力が抜けました。そして,甘く考えていた自分を責めました。
 あとで調べると,丁というのは約109メートルのことでした。要するにこの登山道は2,600メートル以上あるということでした。

 それでも実際は,十六丁を過ぎると坂が終わり平坦になりました。そして,十八丁で上醍醐の山門がありました。二十六丁というのはどうやら奥の院までのことで,上醍醐は十九丁でした。山門を過ぎると,平安時代のままに残る国宝の薬師堂,醍醐寺の鎮守神である清瀧権現拝殿,五大堂などが立ち並んでいました。そして,標高450メートルの山頂には如意輪堂と開山堂がありました。
 薬師堂は醍醐天皇の勅願により907年(延喜7年)に聖宝により創建され,現存の堂は1121年(保安2年)建立されたものです。聖宝は天智天皇の6世孫にあたり,平安時代前期の真言宗の僧。醍醐寺の開祖で真言宗小野流の祖,また,当山派修験道の祖とされます。薬師堂の内部には,かつて,国宝の薬師三尊像をはじめ,重要文化財の閻魔天像、帝釈天像、千手観音像が安置されていたので,私が見ることができると思っていたのはこれらのものだったようですが,今回行ってみてもそれらが公開されている雰囲気もなく,そもそも私以外にまったく人影すらありませんでした。せっかく登ったのにがっかりしました。これらは現在は下醍醐の霊宝館に移されていて,私はそれをあとで見ることができました。
 五大堂は聖宝が開いた鎮護国家の祈願道場で,現在の堂は1940年(昭和15年)の再建です。如意輪堂は1606年(慶長11年)に豊臣秀頼により再建されたものですが,もとは聖宝により准胝堂とともに建立されたと伝わります。また,開山堂は如意輪堂ともに1606年(慶長11年)に豊臣秀頼により再建されたものです。
  ・・
 私はそれらを順に見て回り,そろそろ下山することにしました。
 この先にはさらに奥の院と洞窟があるということでしたが,さすがにこれからさらに30分歩く気力は残っていませんでした。木製の一の鳥居から二の鳥居,三の鳥居を経て,そこから左へ行くと浅い洞窟の奥の院があり,右へ進むと「東の覗き」があってその下は断崖絶壁なのだそうでです。
 今の私は好奇心よりもあきらめのほうが優先するようです。我ながら情けない限りでした。

◇◇◇
Super Moon 2020.

DSC_5114y (2)zDSC_8745 (3)ax