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 今回出かけた丸岡城も,当然戦国時代の遺構ですが,「麒麟がくる」とは直接の関わりはなく,私が福知山城と丸岡城がごっちゃになっていたので,単に丸岡城が見たかっただけでした。
 しかし,丸岡城に行ってみて,せっかく福井県まで来たのならば,一乗谷朝倉氏遺跡が近いのではないかと気づきました。実際調べてみると,やはり丸岡城からはかなり近いところにあることがわかりました。そこで,帰りに寄ってみることにしました。
 一乗谷朝倉遺跡はもちろん「麒麟がくる」に大いに関わりのある場所ですが,私がこの場所を知ったのは,「麒麟がくる」ではなく,今から40年以上前に放送された大河ドラマ「国盗り物語」でです。それ以来,わざわざ行ってみることはなかったのですが,気になっていました。そこで,今回,せっかく近くに行ったのだから寄ってみることにしました。
 一乗谷朝倉遺跡に関してほ,将棋の駒が出土したという程度の知識しかありませんでした。

 Google Maps の道路案内に従って走っていくと,福井市の市街地をはなれ,山間の谷間に入って行きました。その奥が一乗谷でした。1本道をさらに進んでいくと,昔の屋敷が再現された場所があって,その奥に広い駐車場がありました。ここもまた,ほとんど車は停まっていませんでした。
 さっそく入館料を払って中にはりました。
 一乗谷朝倉氏遺跡は福井市城戸ノ内町にあって,戦国時代に一乗谷城を中心に越前とよばれたこの地方をを支配した戦国大名朝倉氏の遺跡で,谷に広がる城下町と周りの山に作られた城からなっています。
 現在の福井市街から東南に約10キロメートルもはなれている一乗谷川沿いの谷あいにあります。朝倉氏が勢力をもっていたときはずいぶんと栄えた場所ですが,のち忘れ去られました。それが辺境であったために幸いにして遺構が残り,今になって発掘され整備されたというわけです。

 日本各地のほかの城下町とは違い,こうした谷に町をつくったというのが私にはおもしろく,これで防御ができるのだろうかと思ったのですが,それは将棋でいえば穴熊のようなもので,谷に攻め込んだ敵方を袋のネズミにしてしまうような感じだったのでしょう。
 いずれにしても,こうして日本の様々な場所に行ってみると,この国は今も戦国時代の遺構がいたるところに残っています。400メートルくらいの小高い山のほとんどには砦が築かれているし,国中が勢力争いをしていたのだなあということを実感します。まるで,高いところに城を作る競争をしていたみたいです。そのために,おそらく庶民は年中駆り出されて,土木工事ばかりをしていたのでしょう。
 今の政治家もハコモノ作って名を遺すのが生きがいだと思っているから,同じようなものでしょう。
 一乗谷は東西約500メートル,南北約3キロメートルという狭い場所で,北陸道や美濃街道,朝倉街道などが交わる交通の要衝にありました。谷の周辺の山峰に城砦や見張台が築けばすべてが見渡せる広大な要塞となっていました。

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 朝倉氏はすでに南北朝時代に一乗谷を本拠にしていました。足利将軍家の分家である鞍谷公方なども住んでいたことから,応仁の乱により荒廃した京から多くの公家や高僧,文人,学者たちが避難してきたために一乗谷は飛躍的に発展し,華やかな京文化が開花しました。以前行った高知県の中村(四万十市)も応仁の乱を避けて避難した有力者が作った町だったのですが,一乗谷も同じだったのでしょう。
 4代朝倉孝景のころに全盛期を迎え,人口は1万人を超え,越前の中心地として栄えていました。
 明智光秀の計らいで,1567年(永禄10年)に5代朝倉義景が足利義昭を安養寺に迎えたことから,戦国時代に大きな関りをもつことになり,それが原因として,朝倉氏が滅ぶことになったのは皮肉です。
 1573年(天正元年)に織田信長の軍勢によって火を放たれ,一夜にして一乗谷は灰燼に帰してしまいました。織田信長が越前一向一揆を平定したあと,この地を与えられた柴田勝家は本拠地を水運・陸運に便利な北ノ庄に移したために,一乗谷は田畑の下に埋もれていったのです。
   もろともに月も忘るな糸桜 年の緒長き契と思はゞ  足利義昭
  君が代の時にあひあふ糸桜 いともかしこきけふのことの葉  朝倉義景
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 朝倉館跡正面の堀に幅2.3メートルの唐破風造り屋根の門・向唐門が当時のまま残っていました。これは朝倉氏の遺構ではなく,のちに建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わり,江戸時代中期頃に再建されたものですが,これはこれでこの遺跡のシンボル的な存在となっています。
 朝倉館は幅約8メートル,深さ約3メートルの堀で囲まれていて,三方の土塁にはそれぞれ隅櫓や門がありました。館内は常御殿を中心として,主殿や会所,庭園などがありました。
 また,朝倉義景の墓は,1663年(寛文3年)に福井藩主松平光通が建立したものです。
 庭池と石組の豪壮な林泉庭園から砂礫と立石,伏石の枯淡な枯山水庭園まで多くの庭園が遺存していました。これらの庭園は室町時代の様式をよく伝えていて,朝倉義景時代の作庭と考えられています。 
 朝倉屋敷と道を隔てて,町並が再現されていました。100尺(約30メートル)を基準に計画的に町割がなされ,京都のように整然とした町並み作られていて,1995年(平成7年)に,発掘結果や史料等を参考に200メートルにわたって当時の町並みが復元されました。また,小規模な建物が細く並んでいた町屋も10軒ほどが復元され,裏庭、井戸、厠なども再現されていました。
 戦国時代に舞いもどったようで,不思議な気がしました。帰りに博物館に寄って,一乗谷を後にしました。