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 犀川の西側に広がるのどかな田舎の集落が墨俣宿でした。
 日本では,こうした集落や旧街道歩きをすることくらいしか旅の楽しみはありません。風光明媚といわれる観光地は人が満ちあふれていて,まったく楽しくもありません。
 果たして,今回の新型コロナウィルスが収まったとき,再び外国からの観光客がやってきて,また,私のきらいなオーバーツーリズムが戻ってきてしまうのでしょうか? そういった意味では,そうした状況が戻る前こそが,国内旅行の最後のチャンスでしょう。

 ところで,墨俣ですが,ここは美濃路が設定されるより古くから,すでに宿場町として栄えていました。江戸時代になって美濃路の宿場として整備されると,勅使大名朝鮮琉球使節等の休憩所として本陣などが利用されました。
 墨俣宿の本陣は,初代を沢井九市郎正賢なる人物が務め,2代目以降は代々・沢井彦四郎を名乗り,明治に至るまで13代続きました。
 本陣跡は残っていませんが,脇本陣跡が残っていました。脇本陣跡の門は,明治の末に本正寺というお寺に移築され,現在は山門となっています。脇本陣自体は1891年(明治24年)の濃尾震災の際に倒壊しました。その後に再建された建物は民家ですが,脇本陣時代の構造を色濃く残していて,当時の宿場町の面影を偲ぶことができます。

 墨俣には多くの大きな寺がありました。廣専寺は浄土真宗のお寺で美濃路から外れた寺町通りに面しています。 また,本正寺には,先に書いたようにかつての脇本陣の門が移築され,現在山門として残っています。
 堤の南側の下には1910年(明治43年)に建てられた馬頭観音と一里塚跡の石碑があります。
 また,町屋観音堂と結神社は照手姫にゆかりのあるところです。この観音堂は,1169年(嘉鷹年間)近くの結神社とともに参道東側に建立されていました。1891年(明治24年)の濃尾震災で倒壊し,1919年(大正8年)に再建されたものの老朽化が進み,1994年(平成6年)に再建されたものです。観音堂の本尊は栴檀の木で彫られた十一面観世音菩薩で,頭上に一寸八分(約6センチメートル)の黄金仏を頂きます。この黄金仏は照手姫の守本尊だったそうです。
 結神社はかっては結大明神とよばれていました。照手姫は相模の国で小栗判官と夫婦の契りをしましたが,父が反対し小栗判官を殺そうとしました。照手姫が小栗判官を助け,小栗判官は三河の国へ逃げ延びました。しかし,照手姫はその行方を知らずにいて,彼方こなたをたずねた後,結神社に小栗判官との再会を祈願したところ,満願の夢まくらに霊験があって判官の居所がわかり,再び会うことができたということです。結大明神の「願望叶へさすべし。然し守本尊は我に有縁の尊像なれば,当社に納めよ」とのお告げにより、姫は喜んで納めました。また,結大明神は村民に「この尊像は当地に有縁な尊像なれば,観音の頭上に載せ諸人に拝ませよ」とのお告げをしたことによって観音堂に祀られるようになったのだそうです。

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 常陸国小栗判官小次郎助重は,相模国横山郡代の娘照手に恋し結ぶも,横山一族に殺される。地獄に落ちた小栗は閻魔大王のはからいで餓鬼阿弥の姿となるも藤沢の上人の力により助けられ,土車に乗せられ青墓へ。そこで青墓宿の宿萬屋へ売られていた照手がそれを見かねて大津の関寺まで曳き,その後も多くの人々の手で熊野本宮へ。湯の峰の薬湯に浸かると元の姿になって,京都で両親と対面し,美濃国青墓の照手ともめでたく再会。その後都へ登り,天皇より死からの帰還は希であるととたたえられ,常陸,駿河,美濃国を賜る。大垣市をはじめ各地に「小栗判官と照手姫」の伝説は語り継がれており,説経節,浄瑠璃,歌舞伎にも取り上げられている。
 小栗の死後,現人神として八幡社に祀られ,照手姫も結びの神として結神社に祀られていると伝えられている。
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 墨俣はまた,室町時代までの鎌倉街道の宿場でした。この時代の宿場町は現在の大垣市墨俣町上宿付近にあったのですが,美濃路の設定で大垣市墨俣町墨俣付近に移設されました。
  鎌倉街道というのは各地より鎌倉に至る道路の総称です。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については鎌倉往還ともよばれましたが,京と鎌倉を結んだ京鎌倉往還は,鎌倉の極楽寺坂より腰越,片瀬を通り,相模から駿河へは足柄路または箱根路を越え,遠江,三河,尾張,美濃を通り不破関跡を越えて琵琶湖畔を経て京都粟田口に達していました。