しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:「感想」 > 映画の感想

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 自宅から徒歩で5分くらいのところに映画館があるので,平日の夜「気に入った映画」があると,ときどき見にいきます。「気に入った映画」というのは,映画は楽しめるものでないと,と思っているので,ワクワク感があって,見終わたあとで不快にならないものです。また,私の映画館への条件は,空いている館内で,最後列の真ん中に座って,こころおきなく楽しむことができることです。
 ということで,先日公開された「沈黙のパレード」を9月29日に見てきました。
 少し待てばおそらくFODで見ることができるから,どうしようかと迷っていたのですが,やはり見たくなって出かけました。観客は10人程度。最後列に座ったのは私だけだったので,座席は条件どおりで満足できました。さて,作品は期待どおりだったでしょうか?

 「沈黙のパレード」は,テレビドラマ「ガリレオ」の劇場版です。
 テレビドラマ「ガリレオ」は,東野圭吾さんの推理小説であるガリレオシリーズを原作として,福山雅治さんが主演したものです。また,テレビドラマの劇場版としては,これまで,「容疑者Xの献身」「真夏の方程式」が上映され,今回の「沈黙のパレード」は第3弾になります。
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 福山雅治演じる変人だけど天才的頭脳を持つ物理学者・湯川学が, 不可解な未解決事件を科学的検証と推理で見事に解決していく,大人気・痛快ミステリーシリーズ。
 映画第3弾となる今作では, 柴咲コウ演じる,湯川のバディ的存在の刑事・内海薫と,北村一輝演じる,湯川の親友で内海の先輩刑事・草薙俊平が9年ぶりに再集結!
 「ガリレオ」の醍醐味ともいえる,3人の絶妙なやりとりがスクリーンに帰ってきます!
  多数の登場人物すべてに繊細な人間模様が描かれ,その絡みあう群像劇と二転三転する展開に一気に引き込まれる極上エンターテインメント。
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というのが,公式な映画の紹介です。

 クールな物理学者,しかし,実は情熱を秘めていて,難事件を知的に解決するという設定が,私は好きです。
 「沈黙のパレード」は,犯人であろうと想定される人物がかなりの「ワル」で,冒頭からとても不快な設定で登場し,被害者家族に嫌がらせをします。そこで,つねに,いつ,またどんな悪だくみを企てて登場するのだろうとハラハラしながら見ていたので,せっかく前半の見せ場であるはずのパレードシーンが楽しめず,それが少し残念でした。また,湯川先生も,テレビドラマの「クールな物理学者・湯川先生」という性格とは少し違ったふつうの人間味のあふれる感じの大学の先生を演じていて,その違いに戸惑いました。さらに,私にはかっこいい若手の学者さんという感じだった福山雅治さんが,画面でアップになると,齢をとったなあ,と思わせる顔つきだったのも,ちょっとショックだったのですが,これは仕方がありません。
 私は,予備知識もなく,あらすじ
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 湯川学のもとに,警視庁捜査一課の刑事・内海薫が相談に訪れました。町の人気者の娘が行方不明になり,数年後に遺体で発見された事件。その事件の犯人と思われる男は,別の少女殺害の事件で無罪になった経歴がありますが,当時,その事件を担当していたのは,内海の先輩刑事・草薙俊平でした。
 今回もその男は証拠不十分で釈放されてしまいなぜか娘が住んでいた町へと戻ります。
 男は,事もあろうに遺族たちを挑発し,町全体を覆う彼への憎悪…。
 迎えた秋祭りのパレード当日,その男が死亡。そして,事件に関わりのある全員に殺害する動機が…。
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も知らず,原作も読まずに見にいったので,展開がまったくわからなかったのですが,見ているうちに,これは,アガサ・クリスティーの「オリエント急行殺人事件」のように,全員が犯人,という結末なのかな,と思ったりもしましたが…。

 「沈黙のパレード」のテーマは,「法で裁けない犯人に鉄槌を下すその思いに共感する人達が殺人を犯す」というものだそうです。東野圭吾さんの作品らしく,最後に思いがけない展開が待っていたのですが,どんな結末であれ,この映画で描かれた事件が,もともと切なく,だから,どう解決しても救いがないことだけが,私にはひっかかりました。それは,この映画が,ヒューマンドラマ的な要素が強く,「ガリレオ」の常套である「エンタテインメントな部分と物理のトリック」を期待すると少し違和感を覚えることが理由だったからでしょう。そこで,それを期待して見にいった人には,この事件なら何も「ガリレオ」でなくてもよかった,という批評が生まれます。私も,そうしたことは感じましたが,映画という2時間の非日常を十分楽しむことができました。
 9月17日にテレビで放送された,映画の宣伝を兼ねたであろう「ガリレオ 禁断の魔術」とともに,久しぶりに「ガリレオ」の新作をふたつも見ることができて,お腹いっぱいになりました。

Q-I


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 NHKBSPで放送された映画「夢を生きた男/ザ・ベーブ」(The Babe)を見ました。
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 「夢を生きた男/ザ・ベーブ」は,1992年の映画で,ベーブ・ルースの生涯を映画化したものです。
 1902年に7歳で少年矯正施設に送られ,そこで野球をはじめてから,プロ野球選手となって1935年に引退するまでを描いています。
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 将棋の藤井聡太五冠の活躍で再び注目された加藤一二三九段のように,大谷翔平選手の活躍で再び脚光を浴びるベーブ・ルースです。
 この映画は,べーブ・ルース(George Herman "Babe" Ruth, Jr.)が両親と離れ離れになつた生い立ちから,プロ野球選手として大成し,多くの功績と晩年までの豪快な人柄を,ボストン・レッドソックスがベーブ・ルースを手放した経緯,ホームランを2本打つとを約束した少年がその後に元気になつたこと,予告ホームラン,最後は現役,あるいは,メジャーの監督にこだわりアトランタ・ブレーブスに売り飛ばされたことなど多くのエピソードを交えて綴られていて,とても興味深いものでした。

 この時代,今とは違って,ニューヨーク・ヤンキースは弱小チームでしたが,べーブ・ルースの活躍によって徐々に発展してゆく様,また,当時のユニフォームやグローブ,スタジアムなど,私の知りたいことが忠実に描かれていて,アメリカへの憧れがまた復活しました。
 こうした映画を見ると,当時のベースボールは,お行儀が悪い,ベーブ・ルースは人間的にはダメなどと上から目線で偉そうな感想を語る,もとから恵まれた家庭に生まれぬるま湯社会に育った日本の若者がいますが,元来,ベースボールに限らず,アメリカ社会というのは,昔も今もこんなものです。移民国家のアメリカでは,みんなゼロから実力で這い上がってきたのです。その生存競争には厳格なルールがあり,そのルールに従って,スポーツも政治も経済も,そのすべてが知恵比べ。つまり,ゲームであって,強いものが勝ち。日本のような,精神論に裏打ちされただけの,権力者によるルール無視さえまかり通る,家柄やら伝統やら忖度やらが支配する社会とはまったく違うのです。
 また,だからこそ,アメリカ人は,こうした成功物語が好きで,「42〜世界を変えた男〜」(42),「Ray/レイ」(Ray),「ボヘミアン・ラプソディ」(Bohemian Rhapsody),「ドリーム」(Hidden Figures)など,多くの映画があって,事を成しえた人たちを称えるのですが,そのエンドロールに,ヒーローの偉業とその後がつづられるのが,いつものパターンです。これもまた,「妬み社会」の日本とは異なるものです。

 ベーブ・ルースを演じたのはジョン・グッドマン(John Goodman)ですが,こうした映画のどれも,よくもまあ,ホンモノに雰囲気が似た人物を探し出すものだなあと,いつも感心させられます。
 ベーブ・ルースが終盤の引退を決意したときのさりげない演技とロッカー・ルームを去る最後のカットが,成功者であるがゆえの人生の哀愁を漂わせていて,実に感動的でした。
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 今日の写真は,私が見てきた「ルースが建てた家」ヤンキースタジアムのとなりに新設された新しいヤンキースタジアムとそのスタジアムの中の博物館にあるべーブルースの遺品,そして,ニューヨーク州クーパーズタウンにあるアメリカ野球殿堂博物館(National Baseball Hall of Fame and Museum = HOF)にあるベーブ・ルースのプレートです。
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 I won't be happy until we have every boy in America between the ages of six and sixteen wearing a glove and swinging a bat.
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the babe


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 2月9日はこれまでの寒さがうそのように暖かく,雲ひとつない日になりました。梅が1輪咲いていました。
 暇です。
 そこで,家から徒歩5分で行くことができるし,シニア割でいつも1,200円なので,早朝,ずっと気になっていた映画「コンフィデンスマンJP英雄編」を見にいくことにしました。
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 “英雄”と謳われた詐欺師・三代目「ツチノコ」が死んだ。その元で腕を磨いた過去を持つダー子,ボクちゃん,リチャード。 当代随一の腕を持つコンフィデンスマンによって密かに受け継がれる「ツチノコ」の称号をかけ,3人の真剣勝負がはじまる。
 舞台は世界中のセレブが集まる世界遺産の都市であるマルタ島のヴァレッタ。狙うは,莫大な財を成し引退したスペイン人の元マフィアが所有する,幻の古代ギリシャ彫刻「踊るビーナス」。
 それぞれの方法でオサカナに近づく3人だったが,そこに警察,さらにはインターポールの捜査の手が迫っていた…。
 果たして最後に笑うのは誰なのか!?
 まったく先の読めない史上最大の騙し合いがはじまる!!
 そして,本当の英雄,最後の真実とは…!?
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というのが,映画「コンフィデンスマンJP英雄編」の紹介ですが,テレビドラマ「コンフィデンスマンJP」を見ていない人には,何のこっちゃという感じかもしれません。そしてまた,この映画のおもしろさがよくわからないかもしれません。
 しかし,一旦,このドラマにはまってしまうと,そのおもしろさの虜になってしまうこと請け合いです。

 「コンフィデンスマンJP」は,ダー子,ボクちゃん,リチャードの3人を中心とした「コンフィデンスマン」たちのチームが悪徳企業のドンやマフィアのボスなど欲望にまみれた金の亡者達からあらゆる手段を使って金を騙し取る痛快な物語です。
 confidenceという単語は,信用とか秘密という意味です。ちなみに,マル秘というのはconfidencialです。もともと,confidenceという単語は,何かが正しいとか,信頼できるという思いを意味していて,信用という語感になります。それが転じて,信用させてお金をだまし取る人,つまり,confidence man が詐欺師という意味につながるのだそうです。といえば,このドラマの主人公は詐欺師たちだから悪者のように思えますが,詐欺師を演じて本当の悪人である金の亡者達からお金をだまし取る,といったように,庶民には正義の味方であることから,見ているほうがスカッとなる,というからくりなのです。
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 今回の映画もまた,このドラマの常套手段である最後に大どんでん返しが起こるというおおよそ結末は予想できるのですが,そこに至る手の込んだ工夫が痛快です。騙し騙され,しかし,騙されていそうで実は騙していて,一体,だれが悪人でだれが善人なのか,そのぐっちゃぐちゃの展開がクライマックスで一気に解決するところが見せ場です。また,最後のさらに最後にもどんでん返しがあるので,こうご期待。
 とにかく,期待を越えた最高におもしろい映画でした。

 私は,いつも,コンサートも映画も,終わりまで見届けることにしています。映画では,終わりの終わり,つまり,エンドロールが消えるまで,そして,劇場が明るくなるまで見届けることにしているのですが,この映画は,実は,エンドロールのあとに,今回もさらにおまけが隠れているのです。
 私が見にいったのは平日の早朝で,観客は15人程度でした。私は,周りに人がまったくいない最後部の座席で堪能しました。最後尾の席からは劇場がすべて見通せます。毎度のごとく,エンドロールがはじまったらすぐに席を立って帰って行った人たちがいました。私には,それがまあ,まんまと「コンフィデンスマン」の陰謀にかかったみたいで,愉快でした。
 大相撲を見にいって弓取式を見ずして席を立つ人。コンサートでアンコールがあるのを知らずにホールから出ていってしまう人。映画「007」でエンドロールの最後に表示されるであろう「James Bond will returen」の文字を見届けない人。そして,この映画の最後におまけがあるのを知らず帰っていってそれを見損ねた人。こういう人たちは,いつも,こうして,人生の運を手放しているのでしょう。
 ところで,今日のこのブログの最後に載せた「鳥獣戯画」の意味やいかに?

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 コロナ禍で公開が遅れた「007ノータイムトゥダイ」(NO TIME TO DIE)がはじまったので,見にいきました。
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 子供時代,スワン(Madeleine Swann)はサフィン(Lyutsifer Safin)がスワンの母親を殺害する瞬間を目撃する。逃走したスワンは凍った湖に落下してしまうが,それを助けたのはサフィンだった…。
 現役を退いたボンドとスワンはイタリアのマテーラ(Matera)で幸せに静かな生活を送っていた。しかし,ボンドはスペクターの傭兵プリモから攻撃を受けたことで,スワンが裏切ったと思い込み決別する。
 5年後。ボンドはジャマイカで穏やかな日々を過ごしていたが,誘拐されたロシアの細菌学者オブルチェフ(Valdo Obruchev)を救い出してほしいとの依頼をうけ,現役復帰。危険な生物兵器を操る正体不明の敵との想像を超える過酷な闘いに身を投じる。再びスワンとの関りが…。
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という作品です。
 監督が日系人のキャリー・ジョージ・フクナガ(Cary Joji Fukunaga)なのか,この映画には日本が随所に登場します。とはいえ,20年も前の作品では,日本の製品がずいぶんと登場して日本はすごい国なんだなあと思ったものですが,今は見る影もなく,出てくるのは,能面だとか,北方領土だとか…。

 今回の「007ノータイムトゥダイ」は前作「007スペクター」(SPECTRE)を見ないとさっぱりわかりません。私は「007スペクター」は見たのですが,ずいぶん前のことですっかり忘れていました。この作品を見終わってから改めて見てみたのですが,率直にいって「007スペクター」のほうがはるかにできがよく,「007ノータイムトゥダイ」は私には駄作でした。
 救いはジェームズ・ボンドの恋人役スワン(レア・セドゥ=Léa Hélène Seydoux-Fornier de Clausonne),MI6の新人エージェント・ノーミ(Nomi)(ラシャーナ・リンチ=Lashana Rasheda Lynch),CIAの諜報員パロマ(Paloma)(アナ・デ・アルマ=Ana de Armas)など女優さんたちの魅力でした。これで「金返せ」といわずに見ていたようなものだから,まんまと戦略にのせられたわけです。特に,アナ・デ・アルマはセクシーなロングドレスで男たちと格闘し,華麗な蹴りを決めたりと圧巻でした。
 ジェームズ・ボンド最後の敵であり最凶の悪とされるサフィン(ラミ・マレック=Rami Malek)のアジトがロシアと日本の領土問題が存在する孤島,という設定も,かなり不自然でした。実際にそんな島にイギリスがミサイル打ち込んだら,ジェームズ・ボンドの命と引き換えくらいでは終わらないことでしょう。

 ダニエル・クレイグ(Daniel Craig)が演じたジェームス・ボンドは悩みや痛みを抱えるリアルな人間で,それまでのジェームズ・ボンド像とは違うということで話題となりました。今回の「007ノータイムトゥダイ」はそのダニエル・クレイグがジェームズ・ボンドを演じる最終作でした。なので,映画の最後のクレジットに注目したのですが,新シリーズがはじまることは決まっているそうで,やはり,お決まりの「JAMES BOND WILL RETURN」は健在でした(このブログにある写真は私がペイントで作った偽物です)。しかし,この複雑怪奇な現代の国際情勢では,新シリーズでいかなるジェームズ・ボンド像を構築するのかはけっこう大変そうです。
 なお,いつもなら,この映画で,行ってみたいなあと思うような場所がずいぶんと出てくるのですが,今回はイタリアの世界遺産マテーラだけでした。マテーラでは映画の撮影で迫力満載のカーチェイスが展開され,6万人以上の市民が大きな歓声を上げていたそうです。


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 2021年の8月も終わりです。私にとって最悪といっていい夏でした。海外旅行もできず,連日の悪天候でまったく星も見られず,とあっては,私の楽しみのほとんどが奪われて,夜明け前か日が暮れた後で散歩をするというのが唯一の楽しみとなってしまいました。救いといえば,これまでに,行きたかったところにはすべて行きつくしていたことと,欲しいものがないこと。そこで,何かをしたいという煩悩? がなかったことでしょう。
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 こうしたときに,穏やかに暮らすには,優れた音楽をはじめとする芸術に触れること,そして,これまでに経験した思い出から新たなときめきを得ることでしょう。これまでの経験からそうした楽しみが見出せるのはうれしいものです。
 そうした中でも,最もすばらしかったことのひとつが,先日「フィールド・オブ・ドリームズ」のロケ地で行われたMLBニューヨーク・ヤンキースとシカゴ・ホワイトソックスのゲームでした。ゲームが行われたことだけでもすごいことだったのに,そのゲームが劇的な結末となったのが,さらに感動を深くしました。まるで,ベースボールの神様が乗り移ったかのようでした。
 そうしたことが理由のひとつでしょうか,昨日,NHKBSPで映画「フィールド・オブ・ドリームズ」が再び放送されました。

 私はこれまで何度この映画を見たことでしょう。しかし,齢を重ねるにしたがって,この映画のもつ深さがしだいに理解できるようになってきました。そしてまた,これまでに出かけたアメリカのさまざなところが点から線となってくるのがわかりました。不思議なほど,私の経験のそれぞれにつながりがあったのです。
 よく見ていると,映画のセリフ,そのひとつひとつにも深い意味があるのですが,それがわかるには,ずいぶん多くの知識と経験が必要です。いかにアメリカ人にとってベースボールが大切な存在なのか,彼らがどういった教育を受け,どういった場所に住み,生活し,どういった経験を積んで来たのか,また,人生とは何かということをどう考えているのか,そういったことを知らないと,それらはまったく理解できないのです。
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 さすがに,今となっては1919年のホワイトソックスの八百長事件を知る人はいないでしょうが,この映画のもうひとつの軸である1960年代は,私の年代より少し上の人たちは経験しています。
 この映画の語っていることの深さはこの1960年代を知らない人にはわかりづらいかもしれません。私はそれを知るには数年遅いのですが,それでも,若いころ,その時代の空気は感じました。また,そうした1960年代とは真逆になってしまった現代こそ,もういちど,あのころを考えるよい契機であるかもしれません。
 そういった意味でも,この映画に感動できるかどうかは,まさしく,それを見た人の人生の長さや深さによるのでしょう。また,それを知らない若い人は,このような映画をきっかけにして,その時代のことを考えてみるといい機会だと思います。
 この映画によって,私の最悪の夏も,少しは救われました。

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 1月2日,NHK総合で「ラ・ラ・ランド」(La La Land)が放送されました。
 今や,テレビ番組という時代遅れの放送形態を当てにしなくても,Amazon Prime Video などでいつでも見られるし,私はすでにそれで見たので,もはや「お正月はテレビ」という時代でもないと思うのですが,ちょうどいい機会なので,今日,この映画を取り上げることにしました。
 「ラ・ラ・ランド」は,2016年に公開された,俳優志望とピアニストの恋愛を描いたアメリカ映画です。この年の最高の映画のひとつとして大好評を得て,第74回ゴールデングローブ賞ではノミネートされた7部門すべてを獲得し,第89回アカデミー賞では史上最多14ノミネートを受け,監督賞,主演女優賞,撮影賞,作曲賞,歌曲賞,美術賞の6部門を受賞しました。
 「ラ・ラ・ランド」は映画の舞台であるロサンゼルスのニックネームで,「現実から遊離した精神状態」(being out of touch with reality)を意味するといいます。
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 夢をかなえたい人々が集まる街ロサンゼルス。映画スタジオのカフェで働くミアは女優を目指していたが,何度オーディションを受けても落ちてばかり。ある日,ミアは場末の店で,あるピアニストの演奏に魅せられる。彼の名はセブ(セバスチャン),いつか自分の店をもち大好きなジャズを思う存分演奏したいと願っていた。やがてふたりは恋におち,互いの夢を応援し合う。しかし,セブが店の資金作りのために入ったバンドが成功したことから,ふたりの心はすれ違いはじめる…。
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というのがあらすじです。

 アメリカというのは実に単純明快で,映画も,「ラ・ラ・ランド」のような恋愛ものと,やたらと暴力シーンが出てくるものと,ロードムービーにわけられます。だから,日本人には,こうした趣向が好きな人にはおもしろく,受けつけない人には何がおもしろいのかわからない,ということになります。
 アカデミー賞の受賞のときにずいぶんと話題になったので,いったいどういう映画なのだろうかと気になっていたのですが,特にあらすじに深みや複雑な要素はなくて,「ラ・ラ・ランド」は「マジソン郡の橋」や「ユー・ガット・メール」のような媒体にミュージカルの手法を加えた感じでした。大人のディズニー映画です,これは。でも,とてもいいです。たとえると,ホテルの最上階でジャズをバックに夜景を見ながら好きな人とお酒を飲んでいるといった感じです。
 私は,こうした映画,嫌いでないです。主演の女優エマ・ストーン(Emily Jean "Emma" Stone)さんがきわめて魅力的なこととロサンゼルスの雰囲気がよく出ていて,心地よくて,しかも,映画のラストが気に入って,楽しく見ることができました。

 それにしても,アメリカというのは,こうした純粋なこころときめくおとぎ話ができるのに,その反対に,なんときな臭い暴力的な別の面があるのだろうと,いつも思います。しかし,根底は同じような気がします。悪い表現ですが,幼稚なんです。死ぬまで子供なんです。みんな何らかの1等賞を目指していて生きることに冷めていないのです。
 男女平等といいながらも,実は,女の子はつねにシンデレラストーリーにあこがれているし,男の子は力の強いことにあこがれているし,老人はいつまでも夢を追いかけています。やはりこの国は「担任のいない小学校」なのです。
 それはそうと,私は,この映画を見て,またいつか,ロサンゼルスのフリーウェイやダウンタウンを走ってみたいと思いました。昨年までは毎年当たり前のように走っていたのに…。


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 先日NHKBSPで放送した「人生の特等席」(Trouble with the Curve)という映画が録画してあったのをやっとみました。2012年のアメリカのスポーツ・ドラマ映画です。
 ベースボールがつなぐ親娘の絆の再生物語ですが,日本でつけたこの映画の題名は父親の仕事が娘には「best seat in the house」と思っていたというセリフの日本語訳なのですが,映画のイメージとはちょっと違っていて,原題のほうがずっと意味が深いです。ただし,この原題ではより日本ではわかりませんが。

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 クリント・イーストウッド(Clinton Eastwood Jr.)扮するスカウトマンであるガス・ロベルとエイミー・アダムス(Amy Lou Adams)扮する娘ミッキーが,キャリア最後の旅に出る。
 メジャーリーグ最高のスカウトのひとりとして何十年も敏腕をふるってきたガス・ロベルだったが,そろそろ年齢による衰えをごまかしきれなくなってきている。しかし,彼はそのキャリアを静かに閉じるつもりはまったくない。
 苦しい立場に追い込まれたガスを助けられるかもしれない唯一の人物は,よりによって彼が決して助けを求めないであろう娘のミッキーだった。アトランタの有力法律事務所で雇われ弁護士として働く彼女は事務所の共同経営者への昇格を目前にしている。
 子供の時に母を亡くしたミッキーにとって父はずっと遠い存在だった。
 父のキャリアを救おうとすれば自分自身のキャリアを危うくしかねない。不本意ながらも,スカウトのためにノース・カロライナまで行くというガスに付き添うことにする。そして,仕方なく一緒に過ごすうちに,ふたりは,相手に関して新たな発見をし始め,それぞれの過去と現在に関して長く秘められてきた真実が明らかになっていく……。
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 ということで,特に映画に詳しくない私はこの映画のことをまったく知らず,単に,クリント・イーストウッドが主演するメジャーリーグに関する映画ということで,一応録画をしたのでした。そして気乗りもせず,そのままにしてありました。やっと見はじめたのですが,おもしろくありません。
 おそらく,今とは違って,10年前の,アメリカ大好き,メジャーリーグ大好きだった私なら,夢中になった映画なのになあ,とそう残念に思いながら,最後まで続かず,少し見ては中断し,を繰り返していました。よほど途中で見るのをやめようかとも思いました。
 今の私とは違って,アメリカはどういうところだろう,とか,メジャーリーグを見てみたい,とか,アメリカの大地を走ってみたいとか,そういう夢が一杯あったころは,映画に出てくるそのすべてが新鮮でした。アメリカはなんとすばらしい国かと思っていました。しかし,今は,まっすぐに続くアメリカの道も,メジャーリーグの豪華なボールパークも,アメリカの雄大な田舎も,気楽に泊れる安モーテルも,私にはすっかりわかったことになっていて,夢ではなくなってしまいました。というよりも,アメリカの社会にも,日本と変わらぬ日常と日本以上の厳しい現実があるのを知ってしまったからでした。
 
 それがどうでしょう。途中から映画にのめり込みました。
 映画の前半でのかずかずのちりばめられた伏線が後半にどんどんと結びついていき,ひとつの無駄もないのです。この映画でも,娘がめちゃめちゃ出来がいいとか,救世主のごとく無名のエースピッチャーが登場するとか,そういった,現実にはあり得ないアメリカ映画の話がうま過ぎる世界は相も変らぬいつものことで,それを単純だ軽薄だという人もありますが,映画の世界など所詮はおとぎ話でいいのです。風采の上がらない女の子にすてきな王子様が白い馬車でやって来ていいのです。いわば,日本でいえば桃太郎の鬼退治の世界なのです。
 アメリカの社会というのは子供のまま大人になった人たちの集まりなので,こういう人生が手本となるのです。単純なのです。何の夢も理想の生き方もなく,人が成功すればやっかんでひがんで,人の目を気にして他人と比べて生きるだけ,表と裏があってやたらとややこしい日本とはえらい違いです。

 映画を見終えて,10年前の私に戻ったかのような気がしました。またアメリカに行ってみたいと思いました,しかし,簡単にはアメリカに行けなくなってしまった今だからこそ,逆に,そのすべてが懐かしく感じられるようになったということも,私がこの映画にのめりこんだ理由のひとつかもしれません。
 私は,映画もテレビ番組も元気をもらえるものが好きです。過度に過激なアクション映画やあまりに現実とかけ離れたSF映画はダメです。むしろ,アメリカの片田舎で生きる素朴な人生を描いたものとかロードムービーのようなものが好きです。しかし,なかなか気に入るものが見つからないのが残念です。
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 私はすっかり満足して,また,行くことができるようになったら,なにもないアメリカ大陸のまっすぐな道をゆったりとまったりと走ってみたいなあ,片田舎の安モーテルに泊って小さな町のマイナーリーグのゲームを見てみたいなあと思ったことでした。
 はやくその日が戻りますように…。

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 恩田陸さんの「蜜蜂と遠雷」を読んだ感想はすでに書きました。そのときに「この人間描写のわかりやすい小説はおそらく近いうちに映画化かテレビドラマ化されることでしょう」と書きましたが,思ったとおり,この小説が映画になったので,見てきました。
 先月から1か月以上上映しているのでこの映画についての感想はすでに多く書かれていています。それらを読むと私と同じような考えのものが多いので,これ以上感想を書くこともないと思うので,ここでは私の感じたことを思いのまま書き留めておくことにします。

 私は,映画を見るまで,本の内容をほとんど忘れていました。覚えているのは,とてもおもしろい本だったなあ,ということだけでした。しかも,映画を見ていても,ほとんど本の内容を思い出せないような状態でした。
 しかし,小説がたいへんおもしろかったという印象は強く残っていたので,映画は小説を読んでいなければ,いくつかの点を除けば,それなりにこころに奥深く染み込むさわやかな映画だっただろうと思いました。
 私は,映画を見終えてから,改めて小説を読み直してみました。そこで思ったのは,この小説は長いだけのことはあって,2時間ほどの映画しようとすれば,ずいぶんと内容を精選しなければならなかったなあ,ということでした。これは大変なことです。この小説で描きたかったこととこの小説を読んだときに感じる精神性を映画に描ききるために,多くの部分をそぎ落とす必要がありました。それだけ,小説の密度が濃いのでしょう。

 そんななかで,映画を見て私がいちばんよかったと感じたのは,音楽を音「楽」として描いていたことでした。
 このごろよくこのブログに書くことですが,私は,昨年ウィーンに出かけて人々が体から楽しく音楽に接している様を体験して以来,音楽というのはずっと楽しいものなんだなあ,そうでなければならないんだなあということを実感しました。だから,コンクールという最もナイーブで深刻な状況であっても,そこに出場する人たちが,そうした緊張を超越して,音楽を心から楽しんでいる様子が描かれていたのが,とてもすばらしいと思ったのです。おそらく「あっち側の人」,つまり,生まれたときから神に天分を授けられた人というのは,そうして人々を楽しくすることができる人なのでしょう。サラリーマンでコンクールに挑戦する高島明石という人物,そしてまた,音楽を音「楽」として表現できないジェニファ・チャンという人物の設定が「あっち側の人」をより印象的にみせる役割をしていました。
 残念だったのは,この映画で栄伝亜夜を演じていた松岡茉優さんが「のだめカンタービレ」の上野樹里さんに似すぎていたことです。そこで,まじめなシーンがおちゃらけに見えてしまうのです。もし「のだめカンタービレ」を知らなかったら,また,別の感動をもったに違いないのですが,どうしても,そのふたつがダブってしまうのが,とても残念なことでした。それと,斉藤由貴さんの演じた嵯峨三枝子という審査委員長が,その不良さを象徴するための演出かどうかはしらねど,ヘビースモーカーだったことです。タバコはいただけない。私はテレビドラマも映画も,タバコを吸うシーンはまったく受け付けないからです。そしてまた,馬の駆けるシーン,これが何を象徴しようとしているのか…。むしろ,何かを象徴するのなら,蜜蜂の飛ぶ姿のほうがよかったのでは…。

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 2018年2月,私は突然オーロラが見たくなって,何も知らなかったフィンランドに行きました。それが私がフィンランドに行ったはじめてです。今から考えると本当に幼稚なのですが,それまでフィンランドには興味も関心もなかったので,当然,ヘルシンキを舞台とした「かもめ食堂」という映画すら知りませんでした。それが,フィンランドで出会った日本から旅行に来た人はみな当たり前のように「かもめ食堂」を知っているのです。
 フィンランドというのは不思議な国で,行ったことのない人にとってはほとんどなじみがないし,興味もない。ヨーロッパのさまざまな国に行くためにフィンランドの首都ヘルシンキでトランジットをするのにもかかわらず,そこで降りることもない,というような国です。ところが,何かのきっかけでその魅力を知ってしまうと,みんな大好きになってしまうのです。
 世界一幸せな国フィンランド。そんなわけで私も大好きになってしまったのですが,なかなか「かもめ食堂」を見る機会はありませんでした。

 先日「アマゾンプライム」というのに入会したので,プライムビデオで見ることのできるプログラムをさがしていると,「かもめ食堂」があるのを知り,すぐに見ることになりました。
 「かもめ食堂」(ruokala lokki)は,群ようこさんの小説を原作とする2006年公開の日本映画です。
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 個性的な面々がフィンランドのヘルシンキを舞台にゆったりと交流を繰り広げていく様子を描く。
 ある夏の日,日本人の女性サチエはフィンランドの首都ヘルシンキにて「かもめ食堂」という日本食の食堂を開店させた。しかし,近所の人々からは「小さい人のおかしな店」と敬遠され,客は全く来ないのであった。 そんな折,ふいに食堂にやってきた日本かぶれの青年トンミ・ヒルトネンから「ガッチャマンの歌」の歌詞を質問されたものの,歌い出しを思い出すことができずに悶々としていたサチエは,町の書店で背の高い日本人女性ミドリを見かける。意を決して「ガッチャマンの歌詞を教えて下さい」と話しかけると,弟の影響で知っているというミドリはその場で全歌詞を書き上げる。「旅をしようと世界地図の前で目をつぶり,指した所がフィンランドだった」というミドリに縁を感じたサチエは,彼女を家に招き入れ,やがて食堂で働いてもらうことになる。
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  夫に家を出て行かれてしまった中年女性リーサ,経営していた店が潰れ妻子とも疎遠になっている男性マッティなど「色々な事情」を抱えた人々との出会いを経て,ささやかな日常を積み重ねていくサチコたち。徐々に客の入りが増え始めていたかもめ食堂は,やがて地元住人で賑わう人気店となるのであった。
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 なんという,夢のようなお話ではないですか。フィンランド好きの人,特に女性にはたまらなくすてきに思える映画でしょう。なんだか近年とげとげしくなった世界のなかで,そして,猛暑でうんざりするこの夏に,こうした落ち着きのある,そして,ほっとできる映画は,とても救いになりました。
 フィンランドには「自然享受権」というものがあります。フィンランドの森はだれの所有であれ,人は自由に行き来できるのです。キノコやベリーを見つけたらつむのもかまいません。この映画でもトンミ・ヒルトネンの「森があります」ということばがそれを表していました。この「自然享受権」こそが,この国の人の生き方や価値観につながっています。
 「かもめ食堂」の撮影が行われた場所は,現在「Ravintola KAMOME」というレストランになっているそうです。小さな町ヘルシンキの中心街から歩くこと10分のところにあって,ヘルシンキの透き通った水色の空と看板がよく合っているレストランなのだそうです。看板メニューは「おいしいフィンランドボックス」というもので,旅行でフィンランドを訪れた人たちが短い滞在の間にいろんな種類のフィンランド料理を楽しんでもらえるようにと考えられたそうで,小さなシナモンロールもついてきます。
 私もこの夏に行ってくるとしましょう。

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 人間を月に着陸させたアメリカのアポロ計画がはじめて映画化されたのは,月面に降り立ったアポロ11号ではなく,事故を起こし月面着陸を断念して帰還したアポロ13号のほうでした。2018年はアポロ11号が打ち上げられてから50年ということもあってか,そのアポロ11号に関する映画が作られました。私ははじめ,どうして今頃になって,と思いましたが,考えてみれば,アポロ11号の映画がなかったことが逆に不思議に思えました。
 もうあれから50年,ともなると,アポロ計画自体を知る人も少なくなっているでしょう。私はちょうど多感なころでもあり,はじめて英語を習ったころでもあり,宇宙に興味があったこともあり,ずいぶんとたくさんの本を読みました。1970年の大阪万国博覧会では月の石も見ました。その後,アメリカのヒューストンもフロリダのケネディスペースセンターにも行ったし,アメリカの宇宙開発史についてはかなり詳しいです。そんな私がこの映画を見ないわけがないのです。
 ということで,さっそく足を運びました。

 この映画の題名となっている「ファーストマン」(First Man)というのは,2005年に発行された ”First Man : The Life of Neil A. Armstrong” という本が原作です。アポロ11号の船長で人類ではじめて月に降り立ったニール・アームストロングさん(Neil Alden Armstrong)の自伝です。私はこの本を原書でよみました。
 1968年当時の私はあこがれていたアメリカを過剰に評価していたので,アメリカなら人間を月に送ることなんていともたやすいだろと思っていたのですが,今の知識で考えると,よくもまあ,あんな幼稚な科学技術でそんな大それたことをしようと思ったものだというのが実感です。だから,宇宙飛行士は命を張っていたわけで,そこにあったのは,人間の生への葛藤です。
 ニール・アームストロングという人も,当然,いかに優秀であろうと,月にはじめて降り立ったという偉業との引き換えに離婚をしたし,ひとりの人間として,幸せな人生だったかといえば,疑問を感じます。人の一生なんて,過ぎてしまえば,どんな偉業をなしたところで,それは教科書の1ページのようなもので,それが自分だったなんていうことは当事者であっても実感がないと思うのです。

 この映画に月に降り立った飛行士が星条旗を掲げるシーンがないという批判があるそうですが,この映画で描きたかったことは,そんなことではないことは映画を見ればわかります。そんなことを問題にするなら話のついでに書くと,アポロ11号が打ち上げられた1968年7月16日の月齢は20で,この映画で描かれている月とは違います。それだって,この映画で描きたかったことを考えれば大したことではありません。
 私はこの映画で,人が生きるというのはどんな人であれ孤独なことだということを改めて思い知りました。どんな偉業を成し遂げた人も,結局はみな孤独であり,しかし,何かをなそうと夢を抱いている人はみな高貴なのです。 

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偉大な飛躍-アポロ11号が月に着陸した日
「ドリーム」-アメリカらしい,いかにもアメリカらしい物語

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 映画「ドリーム」(Hidden Figures)を見ました。
 NHKBSプレミアムの「コズミックフロント☆NEXT」で「コンピューターと呼ばれた女性たち」と題して放送されたのが,
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 旧ソ連と宇宙開発競争を行っていたころのアメリカ。当時のNASAに「コンピューター」と呼ばれる女性たちが働いていた。男女格差や人種差別のあった当時,彼女たちはただロボットのように動いていたが,やがてアメリカ初の宇宙飛行や月面着陸にも重要な役割を果たすようになっていった。
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というお話でした。
 私は,アメリカと宇宙開発に興味があるので,おおよそのことは知っていましたが,初期の有人宇宙ロケットの開発にこうした女性の活躍があったことは知りませんでした。
 そして,映画「ドリーム」が公開されました。私はこの映画が,まさに「コズミックフロント☆NEXT」で放送されたものと同じ内容を扱ったものとは知らず見にいったのですが,期待以上のすばらしい映画に感動しました。泣けました。

 映画「ドリーム」はマーゴット・リー・シェタリー(Margot Lee Shetterly)のノンフィクション小説「Hidden Figures」を原作としたものです。 
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 1961年,アメリカ南部では依然として白人と有色人種の分離政策が行われていた時代が舞台です。優秀な黒人女性のキャサリン・ジョンソン(Katherine Goble Johnson)は同僚のドロシー・ヴォーン(Dorothy Vaughan),メアリー・ジャクソン(Mary Jackson)と共にアメリカ南東部のラングレー研究所で計算手として働いていた。ソ連の人工衛星打ち上げ成功で,アメリカ国内では有人宇宙船計画へのプレッシャーが強まっていたなか,キャサリンはスペース・タスク・グループでの作業を命じられたのだが,彼女は職場の建物に黒人向けのトイレがないなどの劣悪な環境に苦しめられることとなった。キャサリン・ジョンソンに対する同僚の反応も酷いものであった。
 また,ドロシー・ヴォーンは昇進を願い出ても断られ,メアリー・ジャクソンは実験用の宇宙カプセルの耐熱壁に欠陥があることに気がついていたが,「女で黒人でエンジニアになることはできない」として受け入れられなかった。
 この3人の黒人女性がこうした偏見や差別と戦いながら,科学史に残る偉業であるマーキュリー計画の達成に貢献していく姿を描き出していく。
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 実際は,この時代でも,映画にあるような差別的な状況は改善されつつあり,白人用と黒人用のトイレはすでに取り払われていたし,実際のドロシー・ヴォーンはスーパーバイザーに昇進していたし,メアリー・ジャクソンは学位を修得しエンジニアの職を得ているなど,映画ほど悪い状況ではなかったらしいのですが,それでも,こうした人物を映画のような境遇に描くことで,当時の(そして今も残る)アメリカの負の部分と,それに葛藤しのし上がっていくマイノリティの力強い姿を象徴的に描き出すのに成功しています。
 「コズミックフロント☆NEXT」にも出てきましたが,宇宙飛行士のジョン・ハーシェル・グレン(John Herschel Glenn)が「あの女の子」(キャサリン・ジョンソン)にコンピュータIBMの出した計算結果が正しいかどうか確かめて欲しいと依頼し,彼女が正しいというのなら器械を信頼するというシーンが圧巻です。
 この映画は,偉大な業績をなしえた人物を伝記風に紹介するといった,よくあるアメリカ映画の手法で作られていますが,内容が私には興味深いので最後まで楽しめました。さまざまな問題が山積しいやな部分もいっぱいあるアメリカだけど,そうしたアメリカ社会のもつさまざまな問題に体当たりで挑戦し,まさに「夢=ドリーム」を成し遂げるという強さ,これこそが「アメリカンドリーム」そのものだ,ということを再確認させてくれる映画でした。そしてまた,アメリカの懐の深さと可能性を強く感じました。
 アメリカらしい,いかにもアメリカらしい映画です。


posterfix-449x700 公開されたばかりの「メッセージ」(原題Arrival)という映画を見ました。いつものように,まったく予備知識もなく,おもしろそうかな? と思って見にいっただけだったのですが,私には理解不能でよくわからない映画でした。
 しかし,見終わったあと,なぜだか非常に気にかかるので,いろいろと調べてみました。そして,原作も読んでみました。

 原作はテッド・チャン(Ted Chiang)という人の短編小説「あなたの人生の物語」(Story of Your Life)です。
 テッド・チャンは「罪のない人がなぜ苦しまなければいけないのか」という問いに対して満足した答えが宗教のなかに見つからないことを探求し,それをもとに,さまざまな小説を書いているということです。
 しかし,その答えは,聖書の「ヨブ記」にもあるように,世の中は不条理なものだからです。生まれたときに決められた運命がもともと平等ではないのです。人に生まれることも牛や馬に生まれることも,それは運命だからです。そしてまた,たまたま人に生まれたからといっても,それぞれ顔が違うように,才能も違えば寿命も違うのです。徳を積んでも突然天災が起きて死んでしまうことさえあるのです。そうした運命は生まれながらにして背負っているもので,他人と比べるべきものではないのです。
 …と私は思っています。

 ところで,映画のあらすじです。
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 世界の12の場所に謎の宇宙船が現れ,そのうちモンタナに飛来した宇宙船に対して言語学者のルイーズ・バンクス(Louise Banks),物理学者のイアン・ドネリー(Ian Donnelly)に調査が依頼されます。
 与えられた任務は,宇宙船にいる2体の地球外生命体「ヘプタポッド」(heptapods)とコミュニケーションをとり,飛来の目的を探ることでした。ルイーズは試行錯誤の結果,ヘプタポッドが墨を吹き付けるようにして作る円形の図像が「書記言語」(written language of complicated circular symbols)であることを明らかにし,その解読が進んでいきます。
 この映画は,この宇宙船の物語と並行して,ルイーズの,自分の娘の生と死にまつわる光景がフラッシュバックとして流れます。しかし,この時点で,ルイーズには娘はいないのです。それは,彼女が将来もつ娘の人生そのものなのです。映画では説明されませんが,原作によると,ルイーズの娘は25歳のときに滑落事故で死んでしまうのです。それは未来のことなのに,まるで過去の記憶のようにしてフラッシュバックするのです。
 ヘプタポッドは,飛行の目的が人類に「武器」(weapon)をもたらすことだと伝えますが,これを脅威と見なした中国軍のシャン(Shang)上将は通信を謝絶し,他の国もそれに同調して攻撃の姿勢を強めていきます。それを危惧するルイーズはヘプタポッドと対面します。ヘプタポッドはルイーズに,3000年後に人類から助けられるため,贈り物をするのだと答えるのです。この時点で,ルイーズはヘプタポッドが時間を超越していること,フラッシュバックしていたのは自分の未来の娘についての記憶であることを知るのです。
 ルイーズはヘプタポッドの書記言語を学ぶにつれ,未来を過去のように認識することができるようになっていきます。中国軍からヘプタポッドへの攻撃が迫るなか,それを回避するためにルイーズはシャン上将に電話をしてシャンの妻が将来死ぬときに残すメッセージを伝えます。それを知らされたシャン上将は戦争を回避するのです。そしてまた,ルイーズはイアンとの間に子供をもつことを決意します。たとえその娘の将来を知っていたとしても…。
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 という映画なのですが,まったく言語体系の異なる異邦人とどう会話するかといった言語学的な興味と不可逆的な時間という流れのなかで人が生きているという根本的な概念に対する挑戦が,この映画のテーマになっています。
 前者について興味深く語られる評論があれば,また,後者についてわかったようなわからないような評論もあります。しかし,人の未来といったところで,本来,すべての人の未来は死である,という当然のことがあるだけなので,それを取り立てて衝撃的にとらえることに私は共感をもちません。人は「不条理」ななかで生を受け,召されるまでその瞬間瞬間を満ちて生きることしかできないからです。私が思ったのはただそれだけのことでした。
 それでもなお,この映画を見終わったあとで,いつまでも,なぜか気にかかるのは,そうした,人は時間の流れのなかで生きている,というその厳しい真実を改めて突き付けられるからなのでしょう。ただし,原作の高貴さを,映画では中国軍が攻撃の先棒を振るといったきわめて陳腐なものにしてしまうという,アメリカ映画の常套手段で台なしにしているのが,私には残念です。
 なお,この映画で,宇宙船が飛来する場所が「モンタナ州」とされていて,モンタナの景色が美しいと書かれた評論を読みましたが,実際はこの映画でモンタナとされて撮影された場所は,モンタナではなく,カナダのケベック州セント・ファビオン(Saint-Fabien)です。 

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☆☆☆☆☆☆
 NHKBSプレミアムで2009年に公開された映画「アバター」(Avatar)が放送されていました。
 私は星好きですが,こういう映画も「戦い」を主にしてしまうものだと見る気がなくなります。そもそも,アメリカやイギリスという国自体の成り立ちが,というよりも人類の歴史そのものが侵略と領土拡張だからこういうことになるのでしょうが,人類は,将来,宇宙に進出しても -私は進出できるとは思いませんが- 再び,こうした侵略と領土拡張に明け暮れるのでしょうか?

 それはそうと,この映画の舞台となっていたのは「アルファ・ケンタウリ系惑星ポリフェマス最大の衛星パンドラ」(Pandora, a moon of the pranet Polyphemus in the Alpha Centauri star system)でした。「パンドラ」は「アルファ・ケンタウリ」(Alpha Centauri),日本で「ケンタウルス座α星」とよばれている恒星のまわりを公転する架空の惑星「ポリフェマス」の衛星です。「ケンタウルス座α星」は日本からは見ることができません。
 すでにこのブログで紹介したことがありますが,私がニュージーランドで写した今日の写真の,中央にある南十字星の右側の明るいふたつのケンタウルス座の1等星は南十字星の「ポインター」とよばれているものです。その「ポインター」のうちの右側のほうの少し明るいほうの星が「ケンタウルス座α星」です。

 「ケンタウルス座α星」は,A(Alpha Centauri A) (0.01等星),B(Alpha Centauri B)(1.13等星),そして少し離れたところにあるC「プロキシマ(「最も近い」の意)・ケンタウリ」(Proxima Centauri=Alpha Centauri C)(11.13等星)からなる三重連星です。この恒星系には以前から惑星が存在する可能性が指摘されていて,「アバター」をはじめとして,多くのSF作品の舞台にも使われています。1980年のテレビアニメ「宇宙戦艦ヤマトⅢ」では第4惑星に人類が移住しているほか,「トランスフォーマー」(Transformers)シリーズでは正義のロボットたちの出身地がα星近くの人工惑星「セイバートロン」(Cybertron)でした。
 この三重連星「ケンタウルス座α星」のうちのBのまわりを公転する太陽系外惑星が発見されて,「ケンタウルス座α星Bb」(Alpha Centauri Bb)と名づけられました。発見当時,太陽系から最も近い太陽系外惑星であるとして注目を集めましたが,後の研究によって,惑星は存在しないだろうとの指摘がなされています。
 そして,昨年の8月に「ケンタウルス座α星」のうちのC「プロキシマ・ケンタウリ」のまわりを公転する惑星「プロキシマ・ケンタウリb」(Proxima Centauri b)が発見されました。
 紛らわしいのは,ネット上にある「ケンタウルス座α星に存在するといわれる惑星」の情報が,多くの場合「ケンタウルス座α星Bb」のことを書いていることですが,惑星の存在が確実なのは,こちらのほうではなくて,「プロキシマ・ケンタウリb」のほうだということです。
 「ケンタウルス座α星」A,Bは太陽からわずか4.366光年離れた位置にあります。C「プロキシマ・ケンタウリ」はそれよりも近く4.243光年です。惑星「プロキシマ・ケンタウリb」が発見されるまで,最も地球に近い太陽系外惑星は,エリダヌス座ε星「ラーン」(Ran)のまわりを公転するエリダヌス座ε星b「エーギル」(AEgir)の10.49光年でした。

 ケンタウルス座α星は地球から近いため,数千個の小さな探査機を送り込んで探査をしようとする「スターショット計画」(Breakthrough Starshot)が進んでいます。「スターショット計画」とは,わずか1センチ四方の1グラムにも満たない送信機とカメラに1メートル四方の大きな帆をつけた探査機の,その帆にレーザー光線を当てることで光の速度の20パーセントまで加速して,20年で「プロキシマ・ケンタウリb」に送り届けようというものです。
 これもまたわかりにくいのは,この計画が発案されたときは惑星「プロキシマ・ケンタウリb」はまだ発見されておらず,今は存在が不確かな惑星となってしまった「ケンタウルス座α星Bb」の方を探査してこようというものでした。このように,天文学上の発見は日々行われているので,きちんと調べないと,古い情報と新しい情報が交錯してしまいます。
 さて,惑星「プロキシマ・ケンタウリb」で最も興味深いことは,この惑星にはどうやら液体の水が存在するらしいということなのです。恒星「プロキシマ・ケンタウリ」と惑星「プロキシマ・ケンタウリb」との距離は太陽と地球との距離の20分の1と近いのですが,恒星「プロキシマ・ケンタウリ」が「赤色矮星」(red dwarf),つまり「主系列星」(main sequence star)のうちでも最も小さいものなので,惑星「プロキシマ・ケンタウリb」は,ちょうどいいあんばいの位置「ハビタブルゾーン」(habitable zone)にあるのです。したがって,惑星「プロキシマ・ケンタウリb」には生命がいる可能性があるのです。
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 こんなことを思いうかべながら実際に南半球で星空を眺めるのもまた,格別です。

DSCN2112DSCN2118DSCN2124DSCN2125 2014年3月に公開された映画「ネブラスカ-ふたつの心をつなぐ旅-」(Nebraska)についてはすでに書きました。
 映画館で公開されたときにすぐに見にいったのですが,その後,アメリカに行ったときに飛行機の機内で見られる映画のリストにずっと入っていたので,私はそれを何度みたことか!
 そしてまた,12月13日にNHKBSプレムアムで放送されたので,またまた見てしまいました。
 私はこの映画がなぜか大好きなのです。

 私の好きな映画といえば,この「ネブラスカ」をはじめとして「マディソン郡の橋」(The Bridges of Madison County),「フィールド・オブ・ドリームス(Field of Dreams),そして「コンタクト」(Contact)などがあげられます。考えてみれば,それらはアメリカの大平原を舞台にしたものばかりです。
 どうやら,私の好きなアメリカの原風景が,こうした映画のなかにあるようなのです。
 以前この映画を話題にしたブログに「私は,アメリカ合衆国50州制覇の夢があるのですが,まだ,ネブラスカ州には行ったことがありません」と書いたのですが,その後,ネブラスカ州に行くことができたので,今日は私の写したネブラスカ州の写真を載せることにしましょう。
 この映画のよさは「ネブラスカ」という名前に,すでに,映画のイメージを想像することができる点にあります。しかし,ネブラスカ州に馴染みのない日本人にはそれが無理なので「-ふたつの心をつなぐ旅-」といった副題をつけてあるわけですが,こうして具体的な文字にしてしまうと,こんどはこの言葉で映画のイメージに制限ができてしまうのが欠点です。
 この映画に限らず,近頃の外国映画で日本で付け直した題名はさえません。

 ところでこれら私の好きな映画たちは,何度見ても新しい発見があります。アメリカの風景が出てくる映画は,その風景を見た,という経験が映画に新しい発見をもたらすのでしょう。それとともに,自分が歳を重ねたことで,映画で描かれている様々な心理描写がより理解できるようになってきた,ということもあります。
 以前にも書いたように「ネブラスカ」という映画は人生の老いを描いたもので,その根底には老いた父親とその息子の心の交流が軸になっているのですが,この映画で私がもっとも印象に残るのは,年寄りたちが居間で並んでボーッとテレビを見ているシーンです。
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 このシーンで描こうとしているのはいった何なんでしょうか?
 私はこのシーンのなかに,人生がすべて描かれているように感じてしまうのです。結局のところ,人生なんて所詮はこんなもんだ,とでも言わんばかりです。
 私は,そのことに同意します。
 人生なんて,所詮そんなものなのです。才能があって生まれようと,体力があって生まれようと,財産があろうとなかろうと,みんな,同じように老いぼれていくのです。
 そしてまた,こうした映画で描かれているのは,実はこれこそが多くのアメリカ人の人生そのものだということなのです。広い国に生まれながら狭い世界で過ごし,そして,こうした田舎の墓地で永遠の眠りにつくのです。

 アメリカでは大統領選挙があって,日本でも大きく報道されました。多くの日本人はそうした報道を見るだけで実際のところは本当のアメリカの何も知らないくせに,そしてまた,自分の生活とは異質の価値観で存在しているのに,アメリカの現状と天下国家を上から目線で,さも自分の意見のように語るのです。私は,そのことをいつも滑稽に思います。
 私の友人のひとりが,これまでアメリカなど全く興味もなかったくせに,マスコミの予想に反して新しい大統領が誕生したらなぜかそのことに異常な興味をもって,メキシコ国境を見てくる必要があると真剣に私に力説しはじめました。彼の面白いのは,日本円は将来価値がなくなるとずっと主張していて,10年ほど前まではこれからはヨーロッパだアメリカは斜陽だと言い自分の資産の半分以上をユーロに変えた(しかも手数料の高い銀行で!)と言っていたと思ったら,リーマンショックのあとになったら,自分の言っていたこともすっかり忘れて,突然,これからはドルだドルだと豹変し,今度はそれを私に力説するのです。
 彼は,未だ情報源は紙媒体の日本の新聞だけで,スマホも持たず,車も運転しないくせに,あの,広い広いアメリカにひとりで出かけていって,いったいどうやって情報を入手し,移動し,何を見てこようというのでしょう。私は内心あきれているのですが,プライドの高い男である故,聞く耳を持たないのです。しかし,生まれてはじめて渡米する,英語すら満足に話せない初老の男がアジアを放浪するようにしてのこのこ出かけていって,車を運転するでもなく国境を見てくることができるほどアメリカの国土は狭くはないし,たとえできたとしても,そんな経験くらいで何かがわかるほどアメリカの本質というのはそんな場所には存在していないのです。
 そんな冒険をするくらいなら,むしろ,この映画を見るか,あるいは旅がしたいのならネブラスカ州にでも行って竜巻の荒れ狂う過酷な自然でも体験してみるほうがよほど得られるものは多いことでしょう。

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「ネブラスカ」-人生に当たりくじなど必要ない。

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20161024135330  以前このブログに「ある天文学者の恋文」という映画について書いたとき,この映画で天文学者を演じたジェレミー・アイアンズ(Jeremy Irons)が今度は「奇跡がくれた数式」(The Man who knew Infinity)で数学者を演じる映画が上映されるのだそうです,と付け加えたのですが,当の私はその映画のことをすっかり忘れてしまっていました。
 どうやら私は「天文学」にはときめいても「数学」には全くときめかないようです。
 先日,オーストラリアのブリスペンを経由してニュージーランドのクライストチャーチまで往復したとき,成田-ブリスベン間のカンタス航空の機内で見ることにできる映画のリストにこの映画があったのを見つけました。そこででこのことを思い出して機内で見ました。
 この映画は「天文学者の恋文」とは違い実話に基づいているのですが,とても味のあるよい映画でした。
 いろいろと調べてみても,この映画は非常に評判がよいので,機会があればご覧になるとよいでしょう。

 「奇蹟がくれた数式」は2015年にイギリスで製作され,2016年に公開されました。主演はデーヴ・パテール(Dev Patel)で,本作はロバート・カニーゲル(Robert Kanigel)が1991年に上梓した「無限の天才・夭折の数学者・ラマヌジャン」(THE MAN WHO KNEW INFINITY)を原作としています。
 インドのタミル・ナードゥ州タンジャーヴール県クンバコナム生まれで極貧のバラモン階級の家庭に生まれた数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャン(Srinivasa Aiyangar Ramanujan)は極めて優れた直観によって様々な定理を発見しました。しかし,数学者としての正式な訓練を受けていなかったがために,証明には数多くの不備があって,ラマヌジャンは学会から黙殺されそうになりました。そんなラマヌジャンに目を付けた人物がジェレミー・アイアンズ演じるケンブリッジ大学の数学者ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ(Godfrey Harold Hardy)だったのです。

 私がこの映画を見たときにまず思い出したのは,自分が大学生のころ,通っていた大学の教授たちの大人げないほどの仲の悪さでした。概して天才は精神的には子供です。それとともに,イギリスという国の本質である私の嫌いな権威主義でした。ニュートンを生んだ国の大学の教授なんてなるものではない,と。
 人は「天才」として生まれたとき,その人の業績は社会にとっては大きな財産となるものであっても,その人自身は決して幸せではないというのは歴史が証明しています。神様と話ができるほどの才能に恵まれれば恵まれるほど,人はストイックになり辛い人生が待っているのです。それは,自らが作りあげた真理を人間なぞに暴かれてたまるものか,という神様の人間に対する意固地なのでしょうか。
 私は,若いころから,さまざまな自然のもつ真理を知りたいとずっと思い続けてきたけれど,幸いなことに天才に生まれなかったから,ずっと知りたいと思いつつもそれがかなわない最善の状態でいられた,つまり,神の嫉妬に会わないでいられたわけで,実はこれこそが一番幸せなことだと,このごろわかってきました。それとともに,私が「天文学」にはときめいても「数学」にときめかないのは,この映画で一般人にもわかる程度にさりげなく出てきたラマヌジャンの業績をどう説明されても,そこにロマンを感じない自分の凡庸さにあるのでしょう。
 ラマヌジャンは,今日ラマヌジャンのデルタと呼ばれている次の式
    
を直感的(使用した定理を証明できなかったから)に計算することで
    
の値が
    
であることを導いたというのがその業績のひとつだ,といわれても,私には宇宙の創生や生命の誕生を解明するようなときめきをまったく感じないのだから,どうしようもありません。
 この映画を見た人は,その感想で,数学がわからない人にも数学のロマンを感じることができた,と書いていますけれど,それはどうかなあ? それよりも,私は,このラマヌジャンが数学に天分があったがために神様から奪われてしまった幸せ,というものにずいぶんと心が痛みました。
 この映画は,神の真理を知ろうとする天才の人生には救いがない,しかし,神からは救われなくとも人からの救いがある,ということが十分に描かれていたことで,見ていた私もまた救われました。

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「ある天文学者の恋文」-美しくも切ない永遠の愛の物語



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 ダン・ブラウン(Dan Brown)の小説が映画化された「インフェルノ」(Inferno)を見ました。
 この映画は「ダ・ヴィンチ・コード」(The Da Vinci Code)及び「天使と悪魔」(Angels & Demons)の続編で,再びロバート・ラングドン(Robert Langdon)役を務めるトム・ハンクス(Tom Hanks)に加え,「博士と彼女のセオリー」(The Theory of Everything)にも出演したフェリシティ・ジョーンズ(Felicity Jones)が謎の女性を演じました。

 映画はハーバード大学教授のロバート・ラングドンがイタリア・フィレンツェの病院の一室で目を覚ますシーンから始まるのですが,映画の冒頭で,彼は世界が灼熱地獄と化す幻影に悩まされていて,かなりグロテスクな映像が続きます。
 彼の担当医であるフェリシティ・ジョーンズ演じるシエナ・ブルックス(Sienna Brooks)が,殺し屋に襲われかけたラングストンを手助けして逃亡劇が始まるのです。

 この映画,はじめのうちは何が何だかよくわからず,また,だれが敵か味方か,何を目的としているのかなど,原作を読んでいない私には不可解な状況が続きました。
 しかし,楽しみにしていた美しいヨーロッパの風景や教会などがたっぷりと味わえたので,それに十分に満足したのですが,ちょっと展開が早すぎて,旅情を味わうまでにはいきませんでした。映画自体は展開の速さが小気味よい緊張感となっていましたが。

 作品の根底にあるのは,ダンテ(Dante Alighieri)の「神曲」( La Divina Commedia)なのですが,世界史に弱い私にはよくわからなかったのでもっと予習をしておくべきでした。「神曲」は日本でいうところの「日本書紀」みたいなものなのでしょうか?
 ヨーロッパは歴史が深く,よく知っていればものすごく興味深く見ることができたのでしょう。残念なことです。浅学の私が思ったのは,そんなことよりも,この映画のもうひとつのテーマであった地球上の人口爆発を意識していたのかどうか,ともかく,映画のロケ地であったイタリアやトルコの観光地のとんでもない人の多さでした。
 考えてみれば,アメリカだって,東海岸のニューヨークやワシントンDC,西海岸のサンフランシスコへ行っても,今やものすごい観光客でうんざりします。30年以上に前に行ったときは現在のような異常な観光客の多さはなかったので,私にはそれが残念でもあり不思議であったのですが,その理由がこの映画で思い当たりました。
 30年前に比べて,地球上の人口は倍増どころか3倍以上にも増加しているのです。

 結局,娯楽映画らしい結末となるのですが,はじめのころのわけのわからなさから,急にすべての謎が解けていって,私はもう一回くらいどんでん返しがあるのかと思ったけれど,そんなこともなく,大団円をむかえます。
 最後のシーンで,ロバート・ラングドンが美術館にこっそりとデスマスクを返したあとでわざとらしく廊下に落としたものは何か? が気になる人が多いので,その謎を解くためには映画をはじめからしっかりご覧になることをお勧めします。


ある天文学者の恋文

 「ある天文学者の恋文」(The Correspondence)。
 内容もまったく知らず,題名だけにつられてこの映画を見にいきました。原題のまま(=「文通」)だったら見にいったかどうか?
 もし,私の好むものではなかったらどうしよう,と思っていましたが,心に深く残る素敵な映画でした。そしてまた,見終えてしばらくしたらさらに心に染みてきました。忘れられない映画のひとつになりそうです。

  ・・・・・・
 ある天文学者が仕掛けた"謎”を解き明かした時,極上のミステリーは美しくも切ない愛の物語に生まれ変わる――
 大ヒットを記録した「鑑定士と顔のない依頼人」で鮮やかなミステリーの手腕を披露したジュゼッペ・トルナトーレ(Giuseppe Tornatore)監督の最新作は,一人の天文学者が恋人に遺した“謎”をめぐる物語。数十億年前に死してなお,地球に光を届ける星々のように,命尽きても,我々の愛は大切な人たちの行く先を照らし続けることができるのか。そんな壮大でロマンに満ちたテーマを,名匠トルナトーレが描きあげる。
 天文学者のエドには英国が誇るアカデミー賞俳優ジェレミー・アイアンズ(Jeremy Irons)。彼の恋人エイミーには,「007/慰めの報酬」のオルガ・キュリレンコ(Olga Kurylenko)。アカデミー賞作曲家のエンニオ・モリコーネ(Ennio Morricone)の心のひだに触れる優美な旋律にのせて描かれるのは,次第に明かされていくエドの本当の想いと,エイミーの過去の秘密。天文学者が仕掛けた“謎”がすべて解き明かされる時,極上のミステリーは美しくも切ない“永遠の愛”の物語へと輝きを変えていく。
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というのが,この映画の紹介です。そして,あらすじはつぎのとおりです。
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 著名な天文学者のエドと教え子のエイミーは,周囲には秘密で年の差の恋愛を満喫していた。
 ある日,大学で授業を受けていたエイミーのもとに,出張中のエドから「もうすぐ会える」というメールが届くが,エドの代わりに教壇に立っていた別の教授から,エドが数日前に亡くなったという訃報を知らされる。
 その後もエイミーのもとにはエドから手紙やメール,贈り物が届き,疑問を抱いたエイミーはエドの暮らしていたエジンバラの街を訪れる。そこでエイミーは,彼女自身が誰にも言えずに封印していた過去について,エドが調べていたという事実を知る…。
  ・・・・・・

 はじめのうちは私の好むものではないような展開で,よほど途中で帰ろうかと思いました。さらに,ある天文学者を演じていたエドとその恋人エイミーが父と娘ほど年齢が違うのにそういう関係であることがとても不自然だったし,しかも,どうしてこのふたりに恋愛感情が芽生えるのかもよくわからず,かなり無理があるなあと思ってみていました。また,スタントマンのアルバイトをしているエイミーが天文学者の恋人という物語の流れとどうつながるのかもわからず,戸惑いました。
 ところが,話が進むにつれて,そうした謎が次第に解けてきました。そうすると,それまでさまざまに放たれていた伏線がすべてつながり始めて,物語に不自然さがなくなり,見終わったときにはずいぶんと暖かな気持ちになれました。結局,エイミーは天文学者エドに父親の影,そして自分の過去を見ていたのだし,余命いくばくもない天文学者エドはエイミーに自分の最後の生きる力を感じていたのです。
 この作品は見る人の年代や性別によって,映画に出てくる人たちのだれに同化できるかが違うのだ思います。私は,数か月後の死を宣告された天文学者に同化しました。そして,死に直面した人間が,精神的に満たされて生きることによっていかに充実した生と現実の死に向かい合うことができるか,ということにこの映画のテーマを見いたしたのですが,エイミーに同化した人にとれば,天文学者の献身的な愛情によって救われた若い女性ということがテーマになるのかもしれません。しかし,私は,エイミーは映画で描かれた大学生という年齢よりもずっと精神的に成熟した女性でないと少し無理があるように思えました。まあ,この映画でエイミーを演じた女優さんの実際の年齢自体がそうなのですが…。私が日本の大学生を見てそう思うだけで,映画で描かれたイギリスの大学生はそうでないのかもしれません。

 この作品のエドは別に天文学者でなくともよいのでしょうが,一般の人にとっては,人間の力を超えた宇宙というものを物語の根底に据えることによって,人は生きるのではなく生かされている,特に精神的に生かされているというテーマに深みを持たせることに成功しています。それには天文学者という肩書を与えることが最も適格だったのでしょう。しかし,エイミーは天文学を専攻する優秀な学生,というには少し無理があるように思えました。あの精神状態と環境で天文学の卒業論文は書けませんから。
 それはともかくとして,映画のロケ地であるエジンバラやイタリア湖水地方のサン・ジュリオ島がとても美しく,また,音楽がさらにこの映画の美しさに深みを加えていました。
 なお,この映画で天文学者を演じたジェレミー・アイアンズが今度は「奇跡がくれた数式」(The Man who knew Infinity)で数学者を演じる映画が上映されるのだそうです。またまた「リケジョ」には期待の映画でしょう。
 今日の写真は私の写したかに星雲。この写真と映画の関係? がおわかりになるでしょうか。

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ハワイのときも書きましたが,行きの機内は到着後の時差を考えると,夕食後は眠るに限ります(それでも時差ボケにはなりますが)。しかし,帰りはずっと起きて映画を楽しみます。きょうは,この旅の帰りの機内で楽しんだ映画について書いておくことにします。
飛行時間は9時間あまりなので,4本の映画が楽しめます。いつもは見たかったのに見ていないものをまず優先するのですが,今回は,これまでに何回も見たけれど,この旅の雰囲気にぴったりだった映画をまず楽しむことにしました。
こんなときはアメリカ映画の中でもアクションものではなくヒューマンドキュメントに限ります。

今回まず見たのは「フィールド・オブ・ドリームズ」(Field of Dreams)でした。
この1989年に公開された映画はこれまで何度も見ましたが,私のアメリカ体験が増えるにつれて,どう素晴らしいのかというのがとてもよくわかるようになってきました。この映画についてはすでにこのブログに詳しく書いたことがあります。
W・P・キンセラの小説「シューレス・ジョー」を原作にした,ベースボールを題材に60年代をキーワードとして夢や希望,家族の絆といったアメリカの美徳を描き上げたファンタジー映画です。
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次に見たのは「グッドウィルハンティング・旅立ち」(Good Will Hunting)でした。
1997年に公開されたこの映画も私の大好きなものです。内容は,天才的な頭脳を持ちながら幼い頃に負ったトラウマから逃れられない一人の青年と最愛の妻に先立たれ失意に喘ぐ心理学者との心の交流を描いたドラマです。
舞台はマサチューセッツ工科大学。
私はこの映画を初めて見たときに,主人公のウィルがハーバード大学の女学生スカイラーを追いかけてアメリカを東から西に走るラストシーンにあこがれました。今,私がこうしてあこがれたインターステイツを自分で走ることができるが夢のようです。
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そして,その次に見たのは「マネーボール」(Moneyball)でした。
この映画は見たいと思っていてその機会を逸していたものでした。2011年に公開されたもので,マイケル・ルイスによる「マネー・ボール 奇跡のチームをつくった男」を原作としています。MLBオークランド・アスレチックスのゼネラルマネージャー・ビリー・ビーンが「セイバーメトリクス」を用いて経営危機に瀕した球団を再建する姿を描いたものです。
ビーンはクリーブランド・インディアンスのオフィスでイエール大学卒業のスタッフ・ピーター・ブランドに出会いました。彼は各種統計から選手を評価する「セイバーメトリクス」を用いて選手を評価していたのですが,その理論に興味を抱いたビーンは彼を自身の補佐として引き抜き,埋もれた戦力を発掘し低予算でチームを改革しようと試みる…という内容です。私は昨年のこの頃,オークランド・アスレチックスのゲームを見る機会があったので,それも含めてとても面白く見ることができました。
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最後に,到着までの時間が1時間くらいしかなかったので,「アポロ13」(Apollo 13)を途中から見ました。この1995年に公開された映画は,月着陸をめざしたアポロ13号の爆発事故の実話に基づく作品ですが,何度見ても,その緻密なしかも勇気のあるアメリカの巨大な宇宙開発システムには感動します。

この4本の映画はいずれも,アメリカ体験が増せば増すほどその内容の理解度が増して,ますますそのよさが理解できようになるものです。そして,こういう映画を見れば見るほど,日本のいろんなことが,本当にそれでいいのかいな? と,これもまた,そういう認識がどんどんと増してくるものです。
いつも上から目線で世界のリーダー面しながら,その実は急激に変化する世界から取り残されていく日本,本当にこんなことでいいのかいな?
夜,帰国した日本で駅から電車に乗りました。駅の構内と車内のあまりの酒臭さ -それはいつもは気がつかないことなのですが- そして,50年前と変わらぬ泥酔した見苦しい社会人を数多く見ました。そんな日本の夜の姿に私は嫌悪感を覚えました。
彼らは英語やコンピュータが使いこなせるわけでもなく,外国に出る勇気もなく,単に非効率に毎日残業をして,憂さを晴らすために酒を飲んで散財し,退職後も大した蓄えもなく老後を退屈に暮らし人生を終えていくのであろうかと。

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「フィールド・オブ・ドリームズ」-いつかそれは実現する①
「フィールド・オブ・ドリームズ」-いつかそれは実現する②
「フィールド・オブ・ドリームズ」-いつかそれは実現する③

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 007シリーズの最新作「スペクター」(SPECTRE)を見ました。
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 若いころから私の年末の恒例だったのは,日本の「寅さん」とイギリスの「ジェームズ・ボンド」でした。このふたつの映画が,いかにも,日本とイギリスの世界における立ち位置を象徴していると,私はずっと思っていました。
 やがて月日が経ち,「寅さん」は渥美清さんと運命を共にし,「ジェームズ・ボンド」は代替わりしながら今も続いていることもまた,このふたつの作品の国民性を象徴しているように思います。なんてったって,「ジェームズ・ボンド」は世界の大英帝国のスパイです。
 今日は,私の年末の恒例映画から,「ジェームズ・ボンド」が活躍する007シリーズのお話です。

 私がこれまでに見た007シリーズで一番おもしろかったのは「Golden Eye」です。
 最近の作品は,アクションよりも心理描写が中心となっていて,巷ではそれなりに評価されていたのですが,私には物足りないものが続いていました。そこで,今年の最新作「スペクター」に期待しました。
 家から歩いて5分のところに映画館があるので,昨日から3日間先行上映されているこの映画を早くも見てきました。「スペクター」は期待に違わず,内容の濃い,素晴らしい映画でした。これまでの作品のいいとこ取りみたいで,私には,久々に,期待する007映画が戻ってきたように思いました。
 コンピュータのネットワークに侵入するなんていうシーンも「Golden Eye」を思い起させるものでした。また,「Golden Eye」での20年も前の作品の先進性を,今更ながら感じ入りました。このシリーズは,映画館で見たときはどれも先進的なのですが,月日が過ぎて,それが過去のものとなったときに作品を見直して見ると,概して,当時の「ハイテク」は「ローテク」に変わって見え,がっかりすることも多いからです。

 今回の作品は,アクション映画としても十分以上におもしろい作品でしたが,難癖をつけるとすれば,メキシコシティであれだけの大爆発を起こしても,そのまま何事もなかったかのようにフェスティバル「死者の日」が続けられている,とか,機関車の中で人が殺されても,そのまま列車が走り続ける,などという,ありえないことだらけで,突っ込みどころ満載でもありました。しかし,007にそんなことを追求するのは「野暮」というものでしょう。
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 それはそれとして,今回もまた,映画に,心理的な描写が多く加わっていることが,作品の陳腐化を妨いでいてそれが深みにつながっていましたが,そのことが逆に,現実の世界を思い出させてしまうので,よいのか悪いのか…。
 私は,人間が一体何を求めてテロを起こしたり戦争をしたりするのかが,根本的によくわからないのですが,この映画を見ていると,ますます,そのことがわからなくなりました。身近なことにたとえるならば,自分が努力するとか辛抱するというのは個人の勝手ですが,それを他人に強いてパワハラを働く人というのがよくわからない,それと同じです。そしてまた,これだけ映画のスケールが大きくなってしまうと,同じひとりの人なのに,どんな危機でも乗り越える命と簡単に死んでしまう命,そして,それに比べた自然の大きさと人の作る殺人兵器の愚かさにとまどってしまうわけです。

 そういえば,人間の作った組織だって,それが,本当に「善」なのか,といえば,国家が戦争犯罪を起こしたりもするし,独裁国家の権力者になりえたりもするから,必ずしも「善」とはいえないわけです。もし,権力を握った者が裏で悪の組織と結びついていて本当は一番の「悪人」だったとしても,それをカモフラージュすれば,組織には,簡単にはその独走を防ぐ手立てがないのです。
 私のかつての上司がまさにそうでした。あれだけの「悪人」に地位を与えてしまった組織は,彼が暴走をしてもだれも止めることもができないのです。私は,それを知って,組織というものを「善」とみなすことや地位というものをリスペクトするのを一切やめました。
 映画の中で,ボンドガールが出てくるのはこのシリーズのお馴染みですが,今回のボンドガールも,いつものとおりとても魅力的でした。しかし,若いころとはちがって,今の私は,ボンドガールとジェームズ・ボンドとの突然の絡みの意味が,この映画の魅力とは結びつかないと感じるようになりました。ボンドガールは,この作品の集客に貢献しているのでしょうが,私は,それを見てもワクワクしなくなった,というのが,個人的には悲しい現実です。それに,所詮,男は,女と車さえ与えておけばいいんだとバカにされているようにも思えます。
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 007シリーズの最後には,恒例の「JAMES BOND WILL RETURN」というテロップが流れます。このテロップを見ないで映画館を早々に立ち去ったお客さんは,この映画のおもしろさの半分も知らないのではないかと私には思えます。
 この作品のサブタイトルは「最後の死闘」だそうです。そのサブタイトルが007シリーズが最後であることを暗示しているのかと心配しましたが,恒例のテロップの最期のことばを確認して,私は安心しました,ジェームズ・ボンドは,また,帰ってきます。

イミテーションゲーム

 映画「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」(The Imitation Game)を見ました。
 この映画は,第二次世界大戦中に,ナチス・ドイツが用いていたローター式暗号機「エニグマ暗号」の解読に取り組み,のちに同性間性行為のかどで訴追を受けたイギリスのアラン・チューリングの伝記「Alan Turing : The Enigma」を基にした映画です。
 私は,「エニグマ」といえば。エルガーの「エニグマ(謎)変奏曲」(Enigma Variations)を思い出すのですが,この映画の「エニグマ」というのは,まさに暗号の「謎」解きを意味しているのです。

 第二次世界大戦後の1951年,ベネディクト・カンバーバッチさんの演じるアラン・チューリングの家が荒らされ,取り調べを受けたチューリングが,ブレッチリー・パークで働いていた頃を回顧することから映画ははじまります。
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 イギリスがドイツに宣戦布告した1939年,チューリングは,アラステア・デニストン中佐(彼は無理解で無能な権力者-つまり不条理な人間社会-を演じています)の指揮の下,ナチスの暗号機エニグマの解読に挑むチームを結成します。同僚を見下すチューリングは,はじめのうちはチームの協調性を欠いていたのですが,キーラ・ナイトレイさんの演じるケンブリッジ大学の卒業生ジョーン・クラークという素敵な女性との交友の助けもあって,「クリストファー」と名づけられたチューリングの装置(後のコンピュータの原理となったもの)が暗号の解読に成功します。
 そして,この暗号解読によって,連合国は第2次世界大戦に勝利をおさめ,多くの人命を救うことになるのでした。
 しかし,戦後,チューリングは同性愛という「淫らな行為」を犯したとして有罪となり,やがて自殺をしてしまいます。こうして,第二次世界大戦の影の英雄であったアラン・チューリングは,歴史から抹消されてしまうのです。
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 この映画は,我々にさまざまな問題を投げかけています。そのひとつは,天才が無能な権力者から受ける世の中の不条理であり,もうひとつは同性愛に対する偏見,そして英雄であれば,そうした「当時の」反社会的行動が許されるのかという問題です。
 「当時の」社会規範を基準として,現代では許されてもその時代には犯罪となるという不条理…,私が以前書いたように「世の中の良識とか常識にも普遍性などない」のです。
 また,この映画は,先日見た「博士と彼女のセオリー」と相通じるものがあります。その映画もやはり,天才であるが故に受ける世の中の不条理を表していること,そして,きわめて魅力的な女優さんが「天才」である主人公のよき理解者を演じていること(これは映画としての戦略)です。

 「世のためになる立派な人間を,既成の価値観と無理解で抹消してしまう愚かな権力者」というこの世の不条理。こうした権力者は,所詮は「小役人」という評価を後世の歴史が下すのですが,それとともに,歴史は,権力者が現役である時は大衆がそれを時には熱狂的に支持する,ということも教えています。こうした映画を見て私が決意することは,自分は,決してそうした権力者を支持する人間の側だけにはなりたくないということです。

 この映画に流れる切なひとつの思想があります。それは,次の言葉です。
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 誰にも思いつかない人物が,誰にも思いつかないことをやってのけたりするんだよ。
  Sometimes it is the people no one imagines anything of who do the things that no one can imagine.

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「博士と彼女のセオリー」-素敵な大人のラブストーリー

博士と彼女のセオリー

 私がずっと公開を待ち望んでいた映画「博士と彼女のセオリー」(The Theory of Everything)がはじまったので,昨日見に行きました。
 この映画は,天才物理学者スティーブン・ホーキング博士の半生を,元妻のジェーンさんの自伝をもとに映画化したものです。いつものように,下調べをせず,予備知識なしで,わくわくしながら映画に見入りました。
 私は,暗い映画が嫌いです。だから,この映画も,きっと,心が暗くなるところがあるのだろうと,心配しながら見ていました。しかし,そうした悪い予想は,見事に裏切られました。
 この映画は,最初から最後までとっても素敵な映画です。描かれる人物は好人物ばかりです。だから,安心して見られます。そして,見終わった時に,とても元気になります。

 スティーブン・ホーキング博士があまりに世界的に有名になったのは,「ホーキング,宇宙を語る」(The Brief History of Time)という本です。私は,出版されたころにそれを知って,翻訳されるのを待ちきれず,原書を取り寄せて読みました。この本の題名と映画の題名が韻を踏んでいるのがおわかりでしょう。
 筋萎縮性側索硬化症という難病で言葉を発することもできない人が,どうして,こうした本を書いたり,意思を伝えたりできるのだろうかという好奇心がずっとありましたが,この映画では,そうした,博士の人となりがとてもよくわかりました。それと共に,当然のことではあるけれど,博士もひとりの人間として,健常者と全く同じように心の葛藤や悩みや喜びを感じながら,精一杯生きてきたのだなあ,と共感しました。大天才ということを除いては…。
 当然,映画作品だから,その映画の批評には絶賛するものあり非難するものありなのですが,私は,この映画は,ホーキング博士の学問的業績を紹介するものではなく,人間としての博士の魅力,そして,生きることのすばらしさを伝えるものだととらえて見ていたので,絶賛する方を支持します。
 しかし,2時間というわずかな時間の中で描かれた博士の学問的業績に関する内容もとてもすばらしく,しかも,私がおもしろいと思う,大学時代に学んだ物理学の内容も,全く安っぽく描かれていないので,そのことが,この映画の価値をさらに高め,はじめから終わりまで,非常に興味深く,洗練されたものになっています。

 映画でも描かれたように,実際の博士は,1965年にジェーン・ワイルドと結婚して,3人の子供がいて,やがて,離婚しました。そして,1995年にはレイン・メイソンと再婚しました。ここまでは,映画と同じです。
 映画では描かれていなかったのですが,レイン・メイソンとは2011年に離婚しました。その原因は,レイン・メイソンの博士に対する暴力だともいわれています。このように,博士の私生活は決して平たんなものではなく,きっと,本当の姿はお金も絡んだもっと泥臭いものなのでしょう。しかし,この映画では,そういうことには一切触れず,かっこいい素敵な大人のラブストーリーとして描かれていました。私は,それでいいと思います。
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 この映画の成功の最大の功労者は,ジェーン・ワイルドを演じたフェリシティ・ジョーンズという女優さんだと思います。彼女は,本当に魅力ある女性として,ジェーンを演じていました。
 フェリシティ・ジョーンズ(Felicity Jones)さんは,1983年生まれのイギリスの女優。
 オックスフォード大学を卒業後,出演した「今日、キミに会えたら」はサンダンス映画祭で審査員特別賞を受賞,「アメイジング・スパイダーマン2」にも抜擢されました。そして,この「博士と彼女のセオリー」で,アカデミー賞主演女優賞初ノミネートを果たしました。

 私は,こうした,すばらしい人たちが満ち溢れ,しかも,ちょっぴり賢くなったような気がする,人生捨てたもんじゃないなあと感じ頭をくすぐる映画が大好きです。
 ホーキング博士の提唱する時間の概念も,ホーキング放射も,学問の進展とともに堂々巡りを繰り替えしていますが,今日の天文学の驚異的な発展の基礎を築いたのは,博士の功績です。
 「宇宙創造に神は必要ない」と博士はいいますが,彼に命を与え続けているのは,きっと神のしわざではないかと,私は思います。
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 'In the beginning God created the heaven and the earth.
 'And the earth was without form, and void; and darkness was upon the face of the deep.
 'And the Spirit of God moved upon the face of the waters. And God said, Let there be light: and there was light.
 'And God saw the light, that it was good: and God divided the light from the darkness.
 'And God called the light Day, and the darkness he called Night. And the evening and the morning were the first day.
 'And God said, Let there be a firmament in the midst of the waters, and let it divide the waters from the waters.
 'And God made the firmament, and divided the waters which were under the firmament from the waters which were above the firmament: and it was so.
 'And God called the firmament Heaven. And the evening and the morning were the second day.
 'And God said, Let the waters under the heaven be gathered together unto one place, and let the dry land appear: and it was so.
 'And God called the dry land Earth; and the gathering together of the waters called he Seas: and God saw that it was good.
 'In the end God created Stephen William Hawking.

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interstellar 「インターステラー」(Interstellar)を見ました。
 長い映画でした。しかし,時空を移動する映画で2時間50分は,短いというべきか?
 私は,この映画を見ながら,若いころに読んだ「タウ・ゼロ」というSF小説を思い出していました。「タウ・ゼロ」という小説は,星間旅行をするうちに宇宙創成を越えてしまうという内容で,私は,夜,読みながら不思議な気持ちになったものです。それとともに,こりゃないぜ,とも思いました。物語が宇宙創成を越えてしまうなんて,やってはいけないことなのです。禁じ手です。
 下手な小説の結末に,すべて夢だったのさ,っていうのがありますが,「タウ・ゼロ」はそれと同じ次元でした。

 「インターステラ―」とは,星間移動のことです。
 この映画は,地球上の人類が滅亡の危機に瀕し,それを救うために,ホワイトホールを抜けて,別の惑星を探しに行く,というあらすじなのですが,あり得ない,というのと,時代設定があいまいで,物語が,手を広げすぎていて,収拾不可能,というそんな雰囲気の中を,物語は迷走していきます。私は,どうやって結末を描くのかとずっと心配していました。
 細かくいえば,この映画に出てくる星間飛行をする宇宙船が旧式で,現在,アメリカが火星に人類を送るためのオリオン宇宙船というのを開発中なのですが,その宇宙船でも,操縦室には,ディスプレイが三つあるだけ,というシンプルさなのに,この映画では,スペースシャトルの発想を出ていないし,人類が滅亡の危機に瀕しているという設定の地球の想定した年代がよくわからない,とか,まあ,そういうことが多々あって,見ていて混乱します。

 要するに,この映画では,実は,星間旅行も,人類の滅亡も,どうでもよくて,いいたいことは,人間の,というか,父娘の愛の強さ,とか,その真逆の,人間の醜さ,とか,そういうことなので,それには共感するところもたくさんあるのだけれど,物語の展開上,話が大きすぎてしまうので,そうした人間の心の葛藤が,ものすごくちっぽけなこだわりに思えてしまうわけなのです。
 そこがむずかしいところです。
 この物語で救いがあるとすれば,娘と再会する最後のシーン,です。しかし,私は,こういう映画は,「コンタクト」を越えられない,というか,確かに「コンタクト」だって,相当話に無理があるけれど,それでも,まだ,現実的であり,やはり,父娘の愛を描いていたのですが,そこには無理がなく,とても現実的だったと思うわけです。

 エンドクレジットによれば,この映画の舞台も,「天才スピヴィット」同様,カナダのアルバータ州でした。そうすると,どうしても,私は,おととい見た「天才スピヴィット」と対比してしまいます。「天才スピヴィット」の方が,ずっと夢がありました。
 なお,氷の惑星のシーンはアイスランドです。
 映画のスケールの大きいこともいいですが,やはり,ホワイトホールやらブラックホールやら,5次元空間やら,といわれてしまうと,私はそりゃやりすぎだ,と思って,一歩引いてしまいます。他の人にはおもしろいのかなあ…。
 映画を見終わって,外に出たとき,東の空に,美しくオリオン座が輝いていました。そのことが,逆に,私を現実に引き戻してくれました。
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 突然ですが,「天才スピヴェット」(The Young and Prodigious T.S. Spivet)という映画を見ました。
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 双子の弟が死んだ。バラバラになった家族の心を埋めるため,10歳の少年はアメリカ大陸横断という壮大な旅に出た-
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というのが,この映画のアピールです。先に結論を書きます。私にとって,最高に面白い映画でした!

 私は,この映画のことを全く知らず,昨晩の夕刊の全面広告で初めて知って,「アメリカ大陸横断」という言葉につられて,その日の晩に見にいきました。
 スピヴィッドは母親譲りの科学的思考のできる天才少年ですが,あまりの天才ぶりを周りが理解できず,しかも,双子の弟がある事件で死んでしまったことで,孤立感を深めていたのでした。
 ところが,彼の発明がスミソニアンで表彰されることになってしまって,そのことを家族に言い出せず,彼は表彰式が行われるスミソニアンまで家出を決意したのでした。そして,そこで起きた顛末は…,という映画だったのですが,映画の舞台がモンタナ州だということに,私は,まず,感激しました。
 ウソーッという感じでした。

 大陸横断鉄道(ノーザンパシフィック)の貨物列車にタダ乗りして,というあたりは,少し物語の展開に無理があるのですが,そんなことを超越して,映画に占める雄大なアメリカ大陸の風景は,モンタナ州から始まって,ワイオミング州,ネブラスカ州,と続きます。これを見るだけでも,価値がありました。私は,興奮のるつぼと化しました。ぜひ,この映像は3Dで!
 そして,スピヴィッドが到着するのは,シカゴ。このシカゴで起きる出来事が,また,素敵です。
 シカゴからは,ヒッチハイクで,無事,ワシントンDCにたどり着いたのですが…。そこで渦巻く大人社会とは?

 この映画は,ロードムービーであり,ファンタジーであり,古き良きアメリカの心の映画です。
 自分探しと,その底に流れる家族愛,そして,出てくる人たちは善人ばかり。科学的な洗練さや話題が,映画に味を添えています。
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 エンドクレジットを見ると,どうやら,ロケ地は,モンタナ州ではなく,モンタナ州から北に行ったカナダのアルバータ州ロングビュー(Longview, Alberta, Canada)であったようですが,それでも,私の第二のふるさとモンタナ州に見立てたその雄大さや,アメリカ北中部の田舎町の黄昏が旅情をそそりますし,行ったことのある私は,懐かしく思い出しました。
 きっと,この映画を一緒に見ていた多くもない観客の中で,あの風景を実際に体験した人は私だけだと思うのですが,他の人たちは,あのような景色をみて,どんな感想を持つのかな,と思ったことでした。
 私の大好きなすべてのこと満載の,素晴らしい映画でした。天才スピヴェット

 「インターステラー」(Interstellar)という映画が上映されます。
 雑誌「TIME」に特集があったので,それを読んで興味をもったのですが,雑誌の記事によると,
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 宇宙は果てしなく広がり,冷たく愛のかけらもない空間である。しかし,人類はこの宇宙に心を奪われてきました。「どうして,我々はここに存在するのか?」「宇宙はどのようにしてはじまったのか?」「宇宙の将来はどうなっていくのか?」
  ・・・・・・
とありました。
 映画「インターステラー」は,地球存亡の危機を乗り越えるために,宇宙飛行士と科学者が協力して人類が移住する未知の惑星を探すという内容の物語だそうです。
 監督のクリストファー・ノーランさんが,「SFは普通,現実の束縛から逃れるために使われるが,我々はその束縛を直視し,そのままの状態で,できるだけ極端な場所へ移動することを試みた」と語って, 科学的事実にできるだけ忠実に描こうとして,ワームホールを光が通過するシーンでは,ソーンの方程式をもとに,どのように見えるのかを計算・想定し,撮影された,ということだそうです。
 また,登場人物のセリフを通して,ジェシカ・チャステインさんが演じる人物が,方程式を解くことで,人生の喜びを感じていることで,科学と精神世界の共通性を暗示していたり,アン・ハサウェイさんが演じる人物は,アインシュタインの「宗教なき科学は説得力がなく,科学なき宗教は盲目である」という言葉を唱え続けたりと,ある種の宗教感も描かれています。

 しかし,この記事を読み,映画のホームページで予告編を見る限り,私は,この映画にほとんど興味を抱きませんでした。その理由のひとつは,この映画の時代背景がよくわからない,ということにあります。
 言い換えれば,古臭い。
 「セロ・グラビティ」(Gravity)では,スペースシャトルと宇宙ステーションが舞台だったから,それなりにリアル感があったのですが,今の時代は,少し前の時代以上に宇宙開発に関しては科学技術の限界が明白になってしまっていて,この映画のような星間旅行なんてありえない,と知っているからです。
 理由のふたつ目は,映画に描かれている価値観が,いつもと同じように,きわめてアメリカ臭いものだということがあります。それはこの映画に限ることではないのですが,これまでに上映された様々宇宙ものの映画で,すでにおおよそ描かれてしまっているからなのです。
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 では,内容はともかく,リアルな映像で見た人をうならせた「セロ・グラビティ」のような特撮は期待できるのでしょうか? 予告編を見る限りにおいては,それも疑問符が…。
 しかし,これらは,映画も見ていない私が単に感じたことだけなので,これらのことを織り込み済みで,私は映画を見てみたいと思います。

 将来,確実に人類が住む地球はなくなるのです。そのときに人類がどうなるか,という夢物語は現実になる日が来るのかもしれませんが,きっと,それよりも前に,人類は,戦争かウィルスで滅んでいることでしょう。この映画の記事の載った雑誌「TIME」の別の場所に,エボラ出血熱について書かれたものがあったことが,私を現実に引き戻して,この映画をさらに空事にしてしまったのが皮肉なことでした。Horsehead Nebula_2

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 「ONCE ダブリンの街角で」(Once)は、2007年公開のアイルランド映画です。
 制作費はわずか1,500万円でしたが,映画は成功をおさめ,同名のミュージカルとして2011年12月に舞台化されて,2012年2月ブロードウエイへ進出,トニー賞を作品賞,演出賞,脚本賞,主演男優賞を含8部門で受賞しました。
 2012年のトニー賞は日本でもテレビで放送されたので,このミュージカルの一部は見ることができました。
 このとき,この映画のことを詳しく知らなかった私は,ダブリンというよりも,アメリカの片田舎の酒場で演じられる音楽のような気がしたものです。
 このミュージカルは,11月27日から日本でも上演されます。

 日本でのキャッチコピーは,
  ・・・・・・
 ふたりをつなぐ,愛より強いメロディ
 人生でたった一度,心が通じる相手に出会えたら
 ストリートから始まるラブストーリー
  ・・・・・・
だそうで,うまいこと作るものです。

 舞台は,アイルランドの首都ダブリン。ストリート・ミュージシャンの男とチェコからの移民である花売りの女が音楽を通して心を通わせていくラブストーリーです。
 映画の内容は,キャッチコピーにあるように,「マジソン郡の橋」とかと同じ,現実と愛情の狭間揺れ動く人間像を物語にしたものですが,何より,いい意味で垢抜けしていないことがこの物語を身近なものにして,見ている人の感情移入を容易にしていることと,ダブリンの街角が望遠レンズを通して描かれていることで,映画全体に流れる,何ともいえない貧しさや暗さが心を打ちます。そして,何より,音楽の素晴らしさが,この物語に深みを与えています。
 たとえば,「赤ちょうちん」「妹」「神田川」とかいった,そんな1970年代の日本のような感じといえばわかりやすいでしょうか。だから,この時代の日本に生きた人なら,このせつなさとちっぽけな希望がとてもよくわかるように思います。
 また,今の,効率主義に毒され,競うことばかりを強いられてしまっている気の毒な現代の日本の若者が見失わされてしまった人間の生の心の葛藤の大切さを思い出させてくれます。
 若者は,もっと生きることに精神的に物質的に葛藤する時を過ごす必要があるのです。机に向かって勉強したり,スマホをいじるよりも。

 私は,この映画をもとにしたミュージカルを見ていないのですが,映画の雰囲気がどれだけミューミュージカルに再現されているのかがとても気になります。なんとかブロードウェイで見てみたいものです。
 人が人として生きるという一番大切なことを忘れていたなあ,そんなことを思い出させてくれる作品です。

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 先日,NHKBSプレミアムで「ミスター・ベースボール」という映画をやっていました。ニューヨーク・ヤンキースをお払い箱になって,日本の中日ドラゴンズにトレードされたメジャーリーガーを描いた映画です。舞台はナゴヤドームならぬナゴヤ球場なので,この映画が上映されたのはずいぶん昔の話,正確にいうと1992年です。
 私は,上映されたころに見たことがあります。

 今は,むしろ,この映画の主人公の元メジャーリーガーのほうの目線に近いので,なんて日本の野球は田舎臭いのか,とか,日本流のいわば武士道野球とベースボールの決定的な違いというものがとてもよくわかります。
 だって,きょうの写真の一番上のヤンキースタジアムから2番目のナゴヤ球場に来るんですよ。
 さらに,日本では,監督が「選手に根性論に基づく非科学的で過酷なトレーニングを課し、徹底的な管理野球も推している」んですから。同じゲームじゃありません。これは。日本の中等教育は今も同じようなものですが…。

 現在,NHKBS1では,午前中はメジャーリーグのポストシーズンが中継されていて,午後は,日本の野球のクライマックスシリーズが中継されているようですが,メジャーリーグと日本の野球は,試合はともかく,あの,球場の美的感覚の違いとファンの応援の違いがすべてを物語っているように,私は思います。
 その話をはじめるときりがないので,ここではやめにして,今日は,ナゴヤ球場の思い出話をしたいと思います。

 今からかれこれ40年近く前のこと,私が大学生だったころのはなしです。
 この季節になると,その年も優勝できなかった中日ドラゴンズの最終戦は,デー・ゲームで客席を無料解放にして行われるのが常でした。私も,今とは違って,メジャーリーグベースボールなんて知らなかったから,大学をさぼっては見にいったものです。
 無料であっても,客席はガラガラで,高校生のアルバイトが「冷たくなった焼きそばいかがですか」とか言って売り歩いていたりと,退廃的なムード満載でした。
 ナゴヤの下町にあって,アメリカのマイナーリーグ以下の設備しかない球場は,座席に背もたれもなく,売店といっても,外野席はバックスクリーンの裏にお祭りの夜店のようなものがあるくらいで,まあ,それが,貧しい国日本そのものでした。でも,当時は,そんなにひどいとは思いもしませんでした。

 試合は日程消化試合以外の何物でもなく,でも,見どころはしっかりと用意されていました。それは,この試合の結果次第で首位打者だとか,新人投手のプロ入り初勝利をかけて,だとか,そんなものでした。
 星野仙一投手の引退の年の最終戦,ブルペンで,することもなく所在なさげに寂しそうにぼっとゲームを見ていたのを目撃したこともあります。
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 ある年のことでした。当時の中日の4番打者だった谷沢という選手が,2打数1安打ならば首位打者,ということがありました。
 私のような素人でもわかるんです。
 相手チームの新人投手は,まるでフリーバッテイングの投手のように棒玉をほおるんです。すると,好打者谷沢選手はそれを真っ芯にとらえて,鮮やかにライトに(谷沢選手は左打ちです)ライナーを飛ばすのですが,勢いがよすぎて,ライトの正面に行っちゃうんです。それをライトがわざわざバックして,ヒットにするんです。
 そうして,しっかりと首位打者を獲得して,お客さんは満足して家路についたものです。
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 また,別のある年のことです。
 この年は,甲子園優勝投手で,銚子商業高校からドラフト1位で入団した土屋という投手がプロ入り初勝利をかけて登板しました。相手チームは阪神タイガースで,先発は,20年連続10勝だったか,10年連続20勝だったか忘れたけれど,これも記録がかかった米田という投手でした。そして,中日ドラゴンズの3番打者井上という選手は,1打数1安打か3打数2安打だと首位打者になれるという,これもまた,記録がかかっていました。
 井上選手は1打席目は凡退,2打席目はヒットを打ち,勝負をかけた3打席目のことでした。
 なんと,米田投手は,井上選手にぶつけちゃったんです。
 思いもよらぬデットボールでした。
 彼は,猛然と抗議します。当たっていないと。私は,この逆は知っているけど,当たったのを当たっていないと抗議するのははじめて見ました。でも,そのとき思ったんです。デッドボールで出塁というのは,義務なのかな,って。権利じゃないかって。
 その試合は,結局,土屋投手は勝てず,井上選手にぶつけちゃった米田投手は記録を達成しました。
 これには,腹の虫がおさまらないドラゴンズファン,帰りの阪神選手の乗るバスを取り囲み,騒然とした雰囲気になってしまったのです。ずいぶんと後味の悪い試合でした。
 後年,就職した職場でその話をしたら,その時バスを取り囲んでいたのは俺だ,という職場の仲間がいたのにはびっくりしました。

 今の日本の球場は,どこも屋根の開かないドーム球場に人口芝という,1980年代の全く不人気だったメジャーリーグのバームクーヘン型の野球場を彷彿とさせていて,私は,まったく見に行く気になりません。
 そういった,中途半端にデラックスになっちゃった日本よりも,あの,貧しい,なにか,アメリカの南部のマイナーリーグのような,けだるい感じのあのころの野球の方が,ずっと楽しかったなあと思うのです。ふうせん飛ばしたりラッパ鳴らしたりもしなかったし。
 まさに,思い出は美しすぎて,なんでしょうか。

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 次に,老医者ムーンライト・グラハムのことです。
 1975年に,W・P・キンセラは,ベースボール・エンサイクロペディアの中から,偶然,ムーンライト・グラハムの特異な経歴を見つけ出して,そのエピソードを「シューレス・ジョー」に掲載しました。これが「フィールド・オブ・ドリームズ」の原作です。
 映画が劇場公開されたことから,人々の間にムーンライト・グラハムの経歴が広く知れ渡ることになったわけです。

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 ムーンライト・グラハム(Archibald Wright "Moonlight" Graham)は,ノースカロライナ州生まれ。
 3年間マイナーリーグでプレーした後,1905年にニューヨーク・ジャイアンツの選手として登録されました。はじめてメジャーリーグベースボールの試合に出場したのはその年の6月29日の対ブルックリン・スパーバス戦で,彼は8回裏にジョージ・ブラウンに替わってライトの守備位置につきました。しかし,続く9回表のジャイアンツの攻撃は彼の打席のひとつ前で終了してしまったために,打席に立たないままその試合を終えることになりました。
 彼は結局,この1試合のみで,メジャーリーグでの経歴を「打席なし」のまま終えることになったのでした。
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 なお,この映画に出てきたムーンライト・グラハムの住む町,ミネソタ州チザム(Chisholm)は,ミネアポリスから北に200キロメートルほど行ったところにある小さな町です。
 また,映画でムーンライト・グラハムを演じたバート・ランカスターは,「フィールド・オブ・ドリームス」の後は3本のテレビドラマへの出演を最後に,1994年に逝去したので,劇場公開用の映画としてはこの作品が遺作となりました。 

 黒人作家として映画で重要な役割をしているテレンス・マンのモデルは小説「ライ麦畑でつかまえて」で知られているJ・D・サリンジャーです。
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 トウモロコシ畑をつぶして野球場を作った,この映画の主人公レイ・キンセラは,彼の作った野球場で,「彼の苦痛をいやせ」(Ease his pain.)という声を聞きます。
 学校のPTA集会において,テレンス・マンの著作「船を揺らす人」(The boat rocker)が槍玉に挙げられているのをみて,レイ・キンセラは,「彼」とは,テレンス・マンのことで,「苦痛」とは,この集会のように彼の作品が非難の的になっていることだと確信して,彼に会いに行きます。
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 テレンス・マンは,1960年代には時代を揺らした若者達の思想的リーダーであったにもかかわらず,その後は非難と好奇心の的となり,失望と無力感の中で隠遁生活を余儀なくされていたのです。
 1960年代というのは,キング牧師とロバート・ケネディが殺され,あのニクソンが再選された,そんなアメリカの時代のことです。このことは,この映画の冒頭に出てきます。日本でもそれが飛び火して,学生運動がありました。そうした時代背景を知らずして,あるいは青春時代にその経験のない人には,この映画の本当の意味はわかりません。
 それに加えて,私には,はじめてこの映画を見てから今日までの間に,この映画のロケ地に加えて,ボストンのフェンウェイパークやミネソタ州にも行くことができたから,一層,この映画の距離感やら空気感がよく理解できるようになっていたのです。
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  If you build it, he will come.
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  それを作れば,彼が来る。
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 この映画は,その後の保守派政治で失われてしまったアメリカの1960年代のノスタルジーです。
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  金はあるが心の平和がないのだ。
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 失われた善が再びよみがえる可能性… 何か,どんどんと保守的で管理主義的で住みにくくなってきている日本にも,同じものを感じます。
 この映画のもう一方の主題である,「夢を自分に託そうとした父親との関係」は,映画「ネブラスカ」にも共通する父と息子の葛藤を描いています。
 幽霊が見える者と見えない者は「Liberal」と「Conservative」の比喩を描いています。
 「それを作る」こと,そして,「最後までやり遂げろ」という声は,若き日の夢を思い出し,行動せよということを語りかけています。
 夢は,あきらめなければいつかそれは実現する… それを象徴するのが「Field of Dreams」なのです。

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 まず,この映画に出てきたホワイトソックスのジョー・ジャクソン選手のことからはじめます。
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 1919年,当時9試合制で行われていたワールドシリーズで,シカゴ・ホワイトソックスは,シンシナティ・レッズに3勝5敗で敗退しました。そのことがきっかけとなって,シリーズ前から噂されていた賭博がらみの八百長疑惑が真実味を帯びて,新聞の暴露記事によって事件が発覚しました。
 その結果,最終的に,ホワイトソックスの主力だった8選手が賄賂を受け取ってわざと試合に負けた容疑で刑事告訴されました。
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 この事件は,アメリカの精神的国技として野球をなかば神聖視する風潮のある米国社会全体に衝撃を与えたのです。

 当時のホワイトソックスのオーナーだったチャールズ・コミスキーが極端な吝嗇家だったことがこの事件の背景にはありました。
 ホワイトソックスの選手たちは低賃金でプレイさせられて,ユニフォームのクリーニング代も選手の自腹だったために,彼らのユニフォームは白ソックスまで常に黒ずんでいました。彼らは「ブラックソックス」と揶揄されるありさまだったのです。
 こうした仕打ちに耐えかねていた選手たちのなかで,まず,八百長に手を染めたのは,一塁手のチック・ガンディルだったといわれています。彼に誘われた者や自ら話を聞きつけて仲間に加わった者など,“シューレス・ジョー”ことジョー・ジャクソンを含む計7人の選手が,問題のシリーズで八百長を働いたとされました。そして,他に八百長の全貌を知りながらそれを球団に報告しなかった三塁手のバック・ウィーバーを含めた8人が事件に関与したということになりました。

 実際は,シリーズの途中で彼らに話を持ちかけた賭博師が破産したので,約束通りの報酬は得られないことがわかり,彼らは八百長とは手を切ろうとしていたのでしたが,事態はすでにマフィアも関与するところとなっていて,試合で全力を出せば家族に危害が及ぶと脅迫されていたということでした。
 問題のシリーズから約1年後に,8人は大陪審で八百長が存在したことを認めたのです。そして,大陪審は,彼らに情状酌量の余地を認めて,無罪評決を下しました。
 事件によって国民的スポーツとしての面目を失いかけていた米球界は,謹厳で知られた判事のケネソー・マウンテン・ランディスを,絶対的裁量権を有する「コミッショナー」として迎え入れました。
 ケネソー・マウンテン・ランディスは,「大陪審の評決に関係なく,八百長行為に関与した選手,また八百長行為を知りながら報告を怠った選手は永久追放に処する」と判断を下しましたから,事件に関与した8人は,メジャーリーグから永久追放の処分を受けてしまったのです。
 その一方で,ケネソー・マウンテン・ランディスは,同じく八百長疑惑のあった,例えばタイ・カッブのような有名選手たちを救済しているのです。また,チャールズ・コミスキーは直接には何ら処分を受けず,そのままオーナー職にとどまることができました。しかも,後に,野球殿堂入りさえ果たして,ホワイトソックスの本拠地球場に「コミスキーパーク」として長く名を残しました。
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 こうした不公平感で,追放処分を受けた8選手は「悲運の8人」(Unlucky 8)として,むしろ悲運のヒーローとして美化されるようになりました。そして,「フィールドオブドリームズ」のような,事件をモチーフにした多くの文学作品や映画が生まれたというわけです。

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 NHKBSプレミアムで映画「フィールド・オブ・ドリームズ」(Field of Dreams)を放送していたので,久しぶりに楽しみました。
 この映画は,1989年に公開されたアメリカ映画で,W・P・キンセラの小説「シューレス・ジョー」を原作にフィル・アルデン・ロビンソンが監督と脚色を兼任してつくられたものです。野球を題材に,1960年代を懐かしみ,夢や希望・家族というとてもアメリカ映画らしいテーマを描きました。 
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 私は,1998年8月にシカゴからアイオワ州デモインまでドライブしたとき,本当に偶然,この映画のロケをした場所となったアイオワ州北東部ダビューク西郊の小さな町ダイアーズビルに行ったことがあるので,本当に懐かしくなりました。
 また,私は,ボストンのフェンウェイパークでのレイ・キンセラとテレンス・マンのシーンを思い出しては,それがどの映画で見たシーンなのかを思い出せず,ずっと気になっていました。
 昨年行ったフェンウェイパークのコンコースには,この球場でロケをした多くの映画のパネルが展示してあって,そこには当然この映画のパネルもあってそれをじっくりと見たのにもかかわらず,いまひとつピンときませんでした。
 そして,映画「フィールド・オブ・ドリームズ」を見て,やっと,私がずっと気になっていたのはやはりこの映画だったんだと気がついたわけです。

 この映画の意見や批評を書いたブログがたくさんあるので読んでみると,なかには,当然,つまらなかった,とかいう意見もあります。そういった意見の多くは,人生経験が少ない人,とか,そうした場所に行ったことがない人,とか,そういう場合が多く,映画を見て感動できるかどうかという要因も,旅と同じように,やはり,自分の実体験やら思い出やら,そうしたものをどれだけ自分が人生の中で育んできたかがとても多くを占めているんだなあと感じます。
 かくいう私だって,この映画をはじめて見たときは,それほど感動したわけでもなく,単にアイオワ州の見渡すばかりのコーン畑を見て、アメリカは広いなあと感じ,どうして八百長で球界を追放になった選手がこの映画で美化されているのかがよくわからないなあ,と思ったくらいでした。
 だから,この映画を見て,つまらなかった,という人の感性もよく理解できます。そして,そう思った人には,もっと人生を経験しなさい,いろんなことを体験しなさい,そして,経験や体験を積んでからまたこの映画に出会ってくださいとアドバイスしたいものです。

 私も人なりに歳をとり,それとともに大リーグの大ファンとなり,アメリカへの旅を何度か経験した今,再びこの映画を見ると,すごくいいなあと思うようになり,さらに,何とも言えない深い感動を味わえるようになったのは,そうしたさまざまな旅の思いが,それをもたらしているからなのです。
 そうしたことも踏まえて,この映画の背景について書いてみます。


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 公開されたばかりの映画「ネブラスカ -ふたつの心をつなぐ旅-」(Nebraska)を見ました。
 かつて,「ストレイト・ストーリー」という,老いをテーマにしたロード・ムービーがありましたが,この映画もそれに勝るとも劣らない素敵な映画でした。
 私は,アメリカ合衆国50州制覇の夢があるのですが,まだ,ネブラスカ州には行ったことがありません。この映画を見た理由は,アメリカ映画の中で一番魅力的だと思っている「ロード・ムービー」だということと,そして,ネブラスカ州をテーマにしているということ,そうしたきわめて単純ものでしたが,見終わった後の満足感は,予想をはるかに超えるものでした。

 映画の冒頭は,年老いた主人公が住んでいるモンタナ州ビリングスです。そして,私にとって因縁のインターステイツ90,そして,ワイオミング州を通って,サウスダコタ州マウントラッシュモア,そこから,大平原続くネブラスカ州… と映像が続くとあっては,これ以上のわくわく感はありませんでした。この映画は,そうしてはじまりました。
 ネブラスカ州には行ったことはないけれども,2012年に行ったノースダコタ州よりもさらに田舎(に見えた)ということにも驚きました。確かに,ネブラスカ州のもっとも有名なものはトーネードです。
 なお,この映画で出てきたネブラスカ州ホーソーンは実在せず,ノーフォークのプレインビュー(Plainview, Norfolk)で撮影されました。

 年老いた主人公ウディ・グラントは,100万ドルの賞金が当たったいう古典的なインチキを信じて,その賞金を受け取りにネブラスカ州の州都リンカーンまで歩いて行こうとします。それを留められず,仕方なく付き合うことになった息子との,その道中で起こるきわめて人間的な様々な出会いと醜さ,そして,やさしさが,この映画の内容です。
 実は,ウディは,かつて戦争に傷つき、その結果酒びたりになった過去があるのです。そうした過去を持つ男たちが、今日の社会を支えてきたことは日本も同じです。それは,単に,老人の頑固と醜さでは片付けられない一面なのです。
 主人公ウディとたえず憎まれ口をたたく口うるさい妻ケイト・グラントは,私の両親に瓜二つでした。そして,また,私にも,ロス・グラントのような弟(映画では兄ですが)がいます。だから,私は,その息子のデイビッド・グラントに同化して,この映画を見ました。

 -物語の最後に待つ、人生最高の当たりくじをあなたにも- とは,この映画の宣伝文句ですけれども,私は,人生に当たりくじなどない,だけど,当たりくじなど必要ないと気づきました。
 沢木耕太郎さんは,朝日新聞の「銀の街から」で,「老いるとは,たぶん,自由に『移動』する手段と方法を徐々に失っていくことに他ならないのだ」と書いていますが,私は,老いに抵抗するのではなく,素直に受け入れて生きていこうと改めて決意することができたのでした。
 この映画も,また,「人生には救いがない」ということを,再確認するものではあったけれども,なぜか,見終わった時に,心が温かくなりました。きっと,この老人のささやかな誇りを成就させてあげることができた息子さんの心に触れることができたからなのでしょう。
 見る前は,この映画がどういった結末を迎えるのだろうかと心配しましたが,いい意味で予想を裏切りました。ただし,ネブラスカ州のもつ色彩自体がモノクロだから,あえて,この映画を全編モノクロにする必要などなかったのになあ,と残念に思いました。蛇足ですが。

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ネブラスカ州にはまだ行ったことがないので,写真がありません。きょうの写真は,マウントラシュモアとサウスダコタ州のインターステイツ90とノースダコタ州のカントリーロードです。

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 「ゼロ・グラビティ」(Gravity)という映画を見ました。予告編を見て,どういう映画なのか興味があったので見にいったのですが,感想は,人間が生きることに救いがないように,この映画も救いがないということでした。
 私は,こうしたタイプの映画が好きです。はじめから最後までこういうことはあり得ないとか,中国の宇宙ステーションは実際にはない,といったことがわかるので,それらを含めて非常に楽しめましたが,そういったことに興味のない人が見たら,どういった感想を持つのかが気になります。クリスマスにカップルで見る映画ではないです。

 それはそうと,宇宙開発は,実際には,こうした危険とは隣り合わせで,これを非常に綿密な科学技術や工学を駆使して克服して作り上げた乗り物に,それとはまったく対照的な人間がそれを使いこなすことで成り立っているわけで,そうした意味でも,非常に興味のある魅力的な分野だと思います。
 現代社会は,このように,高度に発達した科学技術なくしては存在しないわけですが,私は,経済や教育の分野にこうした科学技術を応用するときに,どうして,こうも非科学的な利用をするのかいつも不思議でなりません。

 経済の分野では,数年前のリーマンショックで有名になった「金融工学」というものがそれです。こういったものに,コンピュータを利用して日々の相場が過剰に変化し,単に数字を操るだけで,莫大な利益が生まれたり,消えたりするのは,もはや,健全な資本主義社会とはいえないでしょう。

 教育では,偏差値教育がその代表です。もともと,偏差値というものの前提となっている正規分布をしていない分布にこれを利用すること自体が無意味であるのに,ある特定の業者が行うテストの結果をその生徒の偏差値と称して,これを個人の能力であるかのように順位づけて,しかも,それをもとに大学の合否の予想に使う,などと,まともに考えたら全くナンセンスなことが蔓延しています。
 また,これを教育と錯覚しているのだからどうしようもありません。
 それに加えて,教育の世界は旧態然とした権威主義のもと,科学的な検証もなく,思い付きだけで教育改革と称して,日々,変更につぐ変更がなされているのです。

 このように,人間社会も救いがないのですが,この映画では,科学技術も救いがないということを描いてしまったがために,私の精神は行き場をなくしました。
 これが,私が「コンタクト」や「アポロ13」という,科学映画でありながら人間賛美の映画とは全く違った印象を持った理由です。
 いずれにしても,この映画で描かれた,人間の力の及ばぬ無重力のシーンや宇宙の美しさは特筆すべきものですが,これも,人間が現代の科学技術で作り出したものであるというのは,まさに,皮肉なことです。
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 なお,この映画の最後に地球が出てきますが,このシーンは,アリゾナ州のパウエル湖畔で撮影されたもので,この湖はグランドキャニオンの近くにあります。
 私は行ったことがありますが,美しく雄大な湖です。
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