しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ: 古を懐かしむ

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 まず,2020年の秋に私が写した京都の姿をご覧ください。
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 今から30年ほど前の京都は,本当にすばらしいところでした。桜の季節,紅葉の季節はもちろんのこと,夏も,冬も,そして,とりわけ,ハイシーズンが来る少し前の10月の京都は,私が最も好きだった季節で,静寂に包まれて,おだやかな時間を過ごすことができました。
 それが何ということでしょう。
 2019年のころには,京都は,すでに,行くべき場所ではなくなりつつありました。インバウンドやらで,やたらと外国人が押し寄せるようになって,それまでの暗黙の秩序もなくなり,他人の家に土足で踏み込むようなマナーの悪さから,街中には注意書きが溢れていました。また,食事をしようにも,どの店も満員,交通機関も満員,そして,市内の繁華街はカオス状態と化していました。私の大好きだった京都はどこに行ってしまったの? と思いました。

 それが,天の恵みというか,天の裁きというか,2020年の春になると,外国人どころか日本人観光客すらまったくいない京都になりました。私は,こんなことはもう二度と起こらないから,今こそ,京都へ出かける千載一遇の機会が来た,と思って,春も秋も,毎週のように,車で京都へ出かけました。
 そこには,静寂に包まれたむかしの古都の姿がありました。
 そのとき私は,しばらくしたら,再び,2019年のころの京都が戻ってくるだろうから,もう,この街のこの静寂に包まれた姿は二度と来ないだろうと思って,別れを告げてきました。
  ・・
 そして,今年2023年の秋。
 はやり,聞くともなく聞こえてくるのは,大渋滞の京都です。しかも,そのほとんどは外国人で,日本人はどこに行ってしまったの? 状態だそうです,私の周囲の京都好きだった人たちも,もう行かない,と言っています。私も同様です。
 すでに書いたように,私は,今年の10月,別れたはずの京都に行きました。それは,将棋竜王戦第2局の前夜祭に出るためでした。それでも,10月ならまだ大丈夫だろう,というのが甘い考えでした。そこで見たのは,2019年の時と変わらぬ無秩序な京都の姿でした。そこで,このときも,前夜祭に行っただけで,京都見物をすることはありませんでした。

 いつも思い出すのは,今から30年ほど前に,毎週のように京都に出かけて,ほとんど全ての神社仏閣を訪ねたときのことです。
 あのころは,本当によかったな。あの京都はもう,どこにもない。それは,まるで,亡き人を懐かしむのと同じ気持ちです。
 そうだ京都,もう行くのよそう。よき思い出を忘れないために。

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 将棋名人戦は1937年(昭和12年)からはじまりましたが,初期のころは挑戦者を選ぶ方法が変則で現在のような順位戦ではありませんでした。将棋の第1期順位戦は1946年(昭和21年)からはじまり,そのときの将棋名人戦は第6期だったのでずれがありました。
 その後,第30期順位戦とそれに続く第35期将棋名人戦の終了後,主催新聞社の変更に伴うごたごたで1年間中断ののち,順位戦は第36期名人戦挑戦者決定リーグ戦と名称が変更されたことで,このずれが是正され,その6年後に再び順位戦と名称を戻したときにそのままにしたので,現在は,将棋名人戦と順位戦は同じ期として記述されています。
 と,ここまでは前置きで,今日の話題は,1971年(昭和46年)是正前の第26期順位戦でのふたつの対局です。

 私が中学生のころは,今とは違って,一般のファンが将棋の棋譜を見るためには新聞を購読するしか方法がありませんでした。このころは竜王戦はなく,将棋界では朝日新聞が単独で主催をしていた将棋名人戦こそが相撲でいう本場所でしたが,それを見るには,朝日新聞を読む必要があったのです。といっても,東海地方に住む私には,新聞といえば中日新聞で,朝日新聞を読む機会すらありませんでした。図書館で新聞が読めることも知りませんでした。
 そこで,将棋名人戦と順位戦を見たさに,父親を説得して,といっても,将棋が見たい,では説得できなかったので,あれやこれやと理由をつけて,やっと朝日新聞に変えてもらうのに成功したのが,1970年(昭和45年)の4月で,それは,奇しくも,ちょうど,時の大山康晴名人対升田幸三九段,升田式早石田戦法が話題となった最後の第30期将棋名人戦がはじまったときでした。
 そして,第30期将棋名人戦が終了してはじまったのが第26期順位戦。これが,私が順位戦なるものを新聞で読むことができたはじめてのものでした。

 そんなわけで,この期のA級順位戦はとても記憶に残っているのですが,その中でも,とりわけ,1971年(昭和46年)7月13日から朝日新聞に掲載された二上達也八段対中原誠八段の対局と,8月14日から朝日新聞に掲載された二上達也八段対塚田正夫九段の対局の2局が,変な意味で私には忘れられない将棋でした。ともに,対局者が羽生善治九段の師匠である二上達也八段というのは単なる偶然です。
 とはいえ,記憶があいまいで,今にして,当時の対局をきちんと知りたいと思っていたのですが,その棋譜を探しだすことも容易ではありませんでした。将棋年鑑にも載っていないし,雑誌にもない。だれかの自戦記にもない。ネット上にもない。当時の新聞の観戦記を読まないことには,これらの棋譜は埋もれてしまっているからです。そこで,先日,国立国会図書館に出かけて,当時の朝日新聞から発掘して,やっと確かめることがてきました。それを紹介します。
 52年前のA級順位戦でこのような将棋が指されていたなどということは,今の若い人はまったく知らないことでしょう。

●二上達也八段対中原誠八段
 まず,二上達也八段対中原誠八段の対局ですが,これは,角換りで,先手の二上達也八段が▲7八金としなくてはならないのに,それを忘れて不用意に▲4七銀としてしまったためにスキができて,次に△7五歩と突かれて,同歩と取れば△6五角が受からない。ということで,そのままずるずると押し切られれてしまった,というものです。
  ・
●二上達也八段対塚田正夫九段
 もうひとつの,二上達也八段対塚田正夫九段の対局は,相横歩取りで▲7七銀とするのが定跡とされていたところ,後手の塚田正夫九段が,先手の二上達也八段に▲7七歩という「新手」をされてびっくりして,△7四飛,▲同飛,△同歩,▲8二歩,△同銀,▲5五角で完敗してしまった,というものです。
  ・・
 当時の将棋界は振り飛車しか指さなかった大山康晴名人がタイトルを独占していたので,一般の人が知ることができる対局のほとんどは対抗形でした。そこで,このような相居飛車の将棋が観戦記に載るのはとても新鮮でしたが,私がこの2局が強く印象に残っている理由は,あまりに不出来な将棋だったからにほかなりません。プロって,なんていい加減を将棋を指すのだろうか,しかも順位戦で。と生意気にも思いました。
 しかし,今,改めて,将棋AIでこの2局を並べてみると,先に書いたほど,この時点で形勢に差があったわけではなく,手はあるのです。これらの将棋をあまりに不出来と思ったのは,私が,観戦記に書かれたことを鵜呑みにしていただけだったのです。

 いずれにしても,今から50年以上も前に,今と変わらないような,こんな将棋が指されていたというのが驚きです。そしてまた,このところ,佐藤天彦九段や豊島将之九段,広瀬章人九段などが振り飛車を指しはじめたのも「いつか来た道」なのです。それは,要するに,相居飛車の将棋があまりに研究しつくされて,しかも,藤井聡太竜王名人に勝てなくて,飽きちゃった結果なのでしょう。
 これもまた,羽生善治九段の全盛期には定跡形の鬼のような存在だった佐藤康光九段が,その後,定跡形からはすっかり離れてしまったことと同じような現象ですし,大山康晴,升田幸三という巨匠が若いころは居飛車一辺倒だったものが振り飛車党に変わったのと同じです。
 まさに,将棋戦法の歴史は繰り返す,のだと私は思っています。

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 暑い夏です。これでは何もする気が起きません。外出する気にもなりません。いくら優雅な日々を送っているとはいえ,もっと過ごしやすい気候ならともかく,これでは,気力も体力もすっかりなくなってしまうので,日々,だらだらと過ごしているのです。若いころとは違って,そうしなければならないということもほとんどないので,そんなことを続けていると,ますます,何かをする意欲がなくなってきます。
 こんな状態を打破して,何かをしたい,という気持ちになるには,いったいどういった動機づけが必要なのだろう? などとぼんやり考えたりします。
 これまで,旅行をしたり,好きなことをする時間が最も多かったのは,いくら暑いとはいえ,何といってもこの時期だったので,ずいぶんといろいろな思い出がよみがえってきたりします。そこで,ふと思い出したのが,今から50年くらい前に流行っていた「スリーディグリーズ」(The Three Degrees)というアメリカの女性ボーカルグループでした。
  ・・・・・・
 「スリーディグリーズ」は,1963年にアメリカのフィラデルフィアで結成されました。私はまったく知らなかったのですが,メンバーはしばしば入れ替わり,これまで,延べ15人もの女性メンバーがいたということですが,今も現役! だそうです。「スリーディグリーズ」というのは,英語のことわざ「Man, woman, and devil, are the three degrees of comparison.」からきたもので,女性は悪魔の前段階,というような感じでしょうか。また,フィラデルフィアのソウルミュージックは,従来のソウルを都会的に洗練したもので,1970年代のディスコブームの先駆けでした。
  ・・・・・・

 私が知っているのは,1974年に発売されて,日本でも人気となった「天使のささやき」(When will I see you again)という曲で,このときのメンバーは,ファイエット・ピンクニー(Fayette Pinkney),ヴァレリー・ホリデイ(Valerie Holiday),そして,リードヴォーカルがシーラ・ファーガソン(Sheila Ferguson)でした。
 「天使のささやき」という日本名をつけ,来日したときは日本語の歌詞で歌った(歌わされた)というのが,いかにも当時の日本のダサさです。
 今,Youubeでそのときの映像を見ることができるのが幸運な話です。「天使のささやき」は
  ・・・・・・
  When will I see you again?
 When will we share precious moments?
 Will I have to wait forever?
 Will I have to suffer and cry the whole night through?
  ・・・・・・
からはじまりますが,曲のはじめの,青江三奈を連想するため息がすてきです。当時の私は子供だったので,単にいい曲だなあ,と思っていただけだったのですが,歌詞の意味のわかる今となっては,もっといろいろなことが感じられるのが,50年という年月なのでしょう。
 ということで,この曲を聴いていたら,当時の自分の気持ちがよみがえってきました。そして,また,アメリカに行ってみたいなあ,とか,そういった当時の夢が湧いてきました。何事も,意欲というのは,こうしたたわいもないことから生まれてくるものなのですなあ。


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 やっと秋らしくなってきました。とはいえ,相変らず晴れ上がることもなく,次々に台風がやってきます。満足に星を見たのはいつのことでしょうか? 今のこの国の姿のようです。
 さて,日本の秋といえば紅葉ですが,紅葉は晩秋のことで,早秋はコスモスとヒガンバナと,そして,トンボです。しかし,トンボを見ることも少なくなってしまいました。
 トンボといえば,日本を「秋津洲」といいます。「秋津洲」とはトンボのことです。私は,このような季節に奈良,特に,飛鳥地方のようなところを散策することが昔から好きでした。そして,古に想いを馳せるのです。現実逃避です。
  ・・・・・・
 山常庭 村山有等
 取與呂布 天乃香具山 騰立
 國見乎為者
 國原波 煙立龍
 海原波 加萬目立多都
 怜憾國曽
 蜻嶋 八間跡能國者
  ・
 やまとには むらやまあれど
 とりよろふ 天の香具山 登り立ち
 国見をすれば
 国原は けぶり立つ立つ
 海原は かまめ立つ立つ
 うまし国そ
 あきづしま 大和の国は
  ・
 大和にはたくさんの山々があって
 中でも立派に足り整っている天の香具山に登って
 国の中を見渡すと
 国の広い所には煙があちらこちらに立っている
 池には水鳥があちこち飛び立っている
 美しくてよい国
 この秋津洲大和の国は
   「万葉集」巻1・2 舒明天皇
  ・・・・・・

 「秋津洲大和の国は」というのは,日本はトンボの国だと詠っているわけですが,これにはいわれがあります。
  ・・・・・・
 卅有一年夏四月乙酉朔 皇輿巡幸
 因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰
 妍哉乎 國之獲矣
 妍哉 此云鞅奈珥夜
 雖内木錦之眞迮國 猶如蜻蛉之臀呫焉
 由是 始有秋津洲之號也
  ・
 神武天皇は即位して31年4月国内を見て回りました
 腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登り国を見渡して言いました
 妍哉(あなにや)国を獲つること(なんと素晴らしい国を獲たことか)
 内木綿(うつゆふ)の真迮(まさ)き国といえども(狭い国ではあるが)
 なお蜻蛉(あきつ=とんぼ)の臀占(となめ=交尾)せる如くあるかな
 これが日本の国号を「秋津洲(あきつしま)」といういわれです
   「日本書記」巻3
  ・・・・・・
 つまり,神武天皇は,日本はトンボが交尾をする姿に似ていると言った,というわけです。

 腋上の嗛間丘というのは,奈良県御所市にある標高229メートルの国見山で,この国見山での出来事が日本書紀における神武天皇の最後の業績記載ということだそうです。日本書紀によると,初代神武天皇は,辛酉(かのととり)の年,紀元前660年に即位し,76年後の紀元前585年に127歳で没していますが,これは作り話。この辛酉にあたる年には大変革が起こるという「辛酉革命説」が,紀元前660年2月11日に神武天皇が即位したという根拠となっているのです。日本書紀の年代は,数式を用いて復元すると中国史書の倭国に関する記録ときちんと対応するといいます。
 どこの国にもこうした「神話」があって,その土地に住む人の矜持となっている,というか,されているわけですが,島国日本もまた,昔から,海の西にある大国に恐れおののきながら,こうした矜持をもとに国を作っていったのです。そして,それは今も相変わらずです。
 それはそうとして,めっきり早くなった秋の夕暮れどきに,飛鳥地方にある小高い丘に登って「国見」をしながら,古に想いをめぐらすのもまた,秋の楽しみのひとつです。


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 朝日新聞の朝刊に連載していた多和田葉子の小説「白鶴亮翅」がよくわからないまま終わり,今村翔吾さんの小説「人よ,花よ,」がはじまりました。
  ・・・・・・
 「人よ,花よ,」は南北朝時代の武将・楠木正成の長男・楠木正行を主人公に,若者たちの生き様を描く歴史小説です。
 湊川の戦いで討ち死にした楠木正成と,四條畷の戦いに挑んだ楠木正行は,ともに大軍を相手に最期を迎えました。「楠木正成は自分の意思で戦に身を投じたけれど,楠木正行は幼いときから戦の渦中にいて,ある程度は自分の未来や人生が決定づけられていた」といいます。この小説では,できるかぎり楠木正行の気持ちをひもといて,葛藤も含めて描いてみたい。
  ・・・・・・
といった紹介がありました。

 歴史小説は,その時代のことを知らないとわからないので,ここで復習をしてみました。
  ・・
 1333年(元弘3年),鎌倉幕府が滅亡し,1334年(建武元年)に,御醍醐天皇による建武の新政がはじまります。しかし,1335年(建武2年)に起きた中先代の乱を機に足利尊氏が新政権に反旗をひるがえし,その翌年,京都を制圧し,北朝の光明天皇を立てます。御醍醐天皇は南朝として吉野に逃れ,ここに南北朝の動乱がはじまります。この際,摂津国湊川で,九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍とこれを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦が湊川の戦いです。
 楠木正行は生年や幼少期の実態は不明で,後村上天皇が即位した翌年の1340年(延元5年/暦応3年)から史上に現れ,南朝の河内守護として河内国を統治しました。
 1344年(興国5年/康永3年),北畠親房が吉野行宮に帰還し、准大臣として南朝運営の実権を握ると,楠木正行は,好むと好まざるとに関わらず幕府との戦いの矢面に立つことになります。1347年(正平2年/貞和3年)に兵を起こした楠木正行は,北朝・室町幕府の細川顕氏や山名時氏らの大軍を立て続けに破るなど,すべての合戦に完勝しますが,1348年(正平3年/貞和4年),四條畷の戦いにおいて,幕府の総力に近い兵を動員した高師直と戦い,北四条で力尽き,26人の将校と共に戦死しました。この後,高師直と足利直義との間の政治権力の均衡が崩れ,室町幕府最大の内部抗争である観応の擾乱が発生することになるのです。
 「人よ,花よ,」はこの時代を描こうとするもののようです。

 NHKの大河ドラマ「太平記」は,1991年(平成3年)に放送されました。鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱期を,足利尊氏を主人公に描いた物語です。
 このころ,南北朝をテレビドラマで取り上げるのは,元寇ととももタブーとされていたので,はじめての試みとして,私は,興味をもって見ました。足利尊氏の生涯は,よくもまあ,これだけ戦いに明け暮れたものだという印象をもちましたが,それは,今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も同じです。
 ところで,「太平記」では,楠木正成を演じたのが武田鉄矢さんです。そこで,私は,楠木正成というと,武田鉄矢さんの顔が浮かんでしまうのです。「人よ,花よ,」を読んでいても,そんな感じになってしまうので,どうもいけません。また,「太平記」には楠木正行も登場したのですが,私にはまったく記憶がありません。
  ・・
 今のところはまだ,この小説ははじまったばかりですが,読みやすいので,毎日楽しみにしています。日本人は昔も今も変わらないものだなあ,というのが,これまで読んだ感想です。
 歴史小説は,作者の意図がしっかりしていないとかったるくなってしまうので,今後,どうなっていくか,といったところです。私としては,武将の姿以上に,この時代に生きた庶民の苦悩を描いてほしいものだと思っています。

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 NHKで放送している「世界ふれあい街歩き」という番組で「スコットランド移民の理想郷ダニーデン〜ニュージーランド」が取り上げられていました。この番組は2016年に放送されたものの再放送でした。番組の紹介は
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 ニュージーランド南島のダニーデンはスコットランドからの移民が建設した街。独自のタータンチェックを持ち,祖国の伝統と生活スタイルを大切にしながら楽しむ人々と出会う。
  ニュージーランド南島のダニーデンは,19世紀にスコットランドから渡ってきた移民が建設した街。今も街角にはバグパイプの音色が流れ,朝食には麦のおかゆポリッジ(oatmeal)を食べ,開拓の歴史を反映した独自のタータンチェックを誇りにするなど祖国の伝統と生活スタイルを大切にする人々と出会う。
 街のもうひとつの自慢は世界一急な坂道。まるでジャンプ台のような急坂を息を切らしながら駆け上がったり,家族の思い出を作る人々と出会う。
  ・・・・・・
です。

 ダニーデン(Dunedin)。私は,ニュージーランドの南島はほとんどの場所に行った気になっていたので,当然,ダニーデンも行ったことあると思い込んでいました。それにしては,記憶にない街の名前だな? と思って調べてみたのですが,実際は行っていませんでした。
 この番組にも出てきましたが,ダニーデンで私が惹かれたのはボルドウィンストリート(Baldwin St.)でした。ギネスブックにも登録されたという世界で最も角度がきつい坂道は,なんとしても登ってみたいと思いました。
 また,番組では,ダニーデンからタクシーでクイーンズタウンまで出かけたのですが,要するに,ダニーデンだけでは番組が成り立たなかったということでしょう。
 私は,ニュージーランドに2016年,2018年,いずれも秋,つまり,現地は春,に2回行ったことがあって,ともに,とてもいい思い出がたくさんあります。
 ニュージーランドは日本の田舎の緩い感じに似たとても親切な人たちが多い国です。はじめて行ったときに,クライストチャーチから海岸線に沿ってずいぶんと南まで行った記憶があるのですが,実際はオアマル(Oamaru)止まりでした。
 オアマルにブルーペンギンコロニー(Blue Penguin Colonie)があって,それを目当てに行ってみたのですが,どうやらシーズンオフだったらしく,私のためにわざわざ巣箱を出してくれました。
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 しかし,今考えると,2度も行ったのにも関わらず,私の頭には星空… というのが最優先だったので,それ以外の場所をこころおきなく旅してこなかったなあ,と残念に思います。そして,すっかり忘れていたニュージーランドのよさを,この番組を見て再発見し,目覚めてしまったのです。

 ということで,今ごろになって,3度目はない,と思っていたニュージーランドに,また,行きたくなりました。
 当時のことをいろいろと思い出してみると,生まれてはじめてニュージーランドに行ったときが,最も印象深いものでした。そして,そのときに数日滞在したクライストチャーチのことを懐かしく思い出しました。
 「世界ふれあい街歩き」を見ていて,いい所だな,とは思っても,だからといって,行ってみたいなあと思うところはあまりありません。しかし,今回のダニーデンは数少ない行ってみたくなったところだったのです。
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 コロナ禍で,しばらく海外旅行ができなかったのですが,このところ,また,次第に旅行ができるようになってきたようです。しかし,私は,コロナ禍以前,あれほど行っていた海外旅行なのに,行く意欲がどんどんなくなってきていて,もういいや,あるいは,自分はこの先どこに行きたいのだろう,と自問自答を繰り返すようになってきました。そして,本当に行きたいと思う場所ができたら,そのときは行ってみよう,そう思うようになりました。
 果たして,それがいつのことか,あるいは,そんな気持ちになる日はもう来ないのか…。
 この番組に出会ったのは,そんな折のことでした。
 本気で行くことを考えてみようかな。

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 大相撲夏場所が終わりました。
 今場所はテレビ観戦でした。そこで,今日のはじめから3枚の写真は昨年の名古屋場所で写したものです。
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 大嫌いだった白鵬が土俵を去ったので,再び大相撲中継を見るようになりました。とはいえ,解説が北の富士さん以外のときは,私は,英語モードに切り替えて見ています。そのほうが快適だからです。
 今場所はものすごくおもしろい場所でした。幕内上位はほとんど実力の差がなく,どの取組もどちらが勝つのかわからなかったし,しかも,どの力士もそれなりに個性があって好感がもてるので,どちらも応援したくなるからです。まるで学生相撲選手権みたいでした。
 実際は,体調が万全ならば横綱照ノ富士が抜きん出ているのでしょうが,私はアンチ実力者です。なので,照ノ富士が先場所は全休,今場所は序盤で3敗したからこそ楽しめました。照ノ富士が白鵬みたいなら,私はまた見るのをやめます。

 と,ここまでは前置きで,朝日新聞の5月21日のbe版「今こそ!見たい」に歴代横綱の読者によるランキングが載っていました。今日はそのお話です。
 こうしたランキングは読者の年齢によって知っている横綱も違うので,一概に評価はできませんが,それは別としてなかなか興味深い記事でした。
  ・・
 私が子供のころ,横綱といえば大鵬と柏戸でしたが,大鵬は強すぎました。で,おもしろくありませんでした。しかし,当時,父親は双葉山のほうが絶対に強かったと言っていました。私はそんなものかと思いましたが,双葉山は私の子供のころは時津風理事長で,時津風部屋の名古屋の宿舎で歩いている姿を見たことはあれど,相撲を取っている姿は映像でしか見ていないので実感がわきませんでした。また,柏戸は勝っても負けても土俵から落ちていくのでケガで休場ばかりでした。
 大相撲というのは単にスポーツというだけでなく,いかにも日本らしき価値観である「品格」やらがその存在の意義だということなので,その「品格」やらが実際は何なのかはわからねど,そうした「品格」やらも考慮してのランキングなのでしょう。ということで,私もまた,そうした側面から考えてみます。つまり,強ければいいってもんじゃない,というわけです。
 記事によれば,ランキングの第1位が千代の富士,第2位が大鵬,第3位が北の湖でした。それに関して,やくみつるさんの感想が載っていて「やや意外」と書かれてありました。しかしまあ,やくみつるさんがいかに相撲好きとはいえ,私より若いから,3歳のころから父親に連れられて大相撲を見にいっていた私が知るような,大鵬,柏戸の全盛期なんてほとんど知らないでしょう。「柏戸のつま先立ち」と書かれてありましたが,やくみつるさんの抱く大鵬や柏戸の姿はビデオでその取組風景を見ただけだろうに,と私は思いました。

 千代の富士が第1位なのは,体が小さいのにもかかわらず強かったから,ということでしょう。名古屋場所の宿舎が私の家の近くだったので,私は,北の富士が横綱だったとき,そして,千代の富士がまだ関取りにもなっていないころから目の前で見ています。小さな相撲取りで,横綱になるような器には思えませんでした。それが突然覚醒しちゃったのです。
 強い力士はきらいな私ですが,それだから千代の富士は大好きでした。とはいえ,どういうわけか,というより,解説で人気なので,強くもなかったのに第10位に入ってしまった千代の富士の師匠の北の富士が私は最も好きだった横綱です。「品格」という感じではないですが,これほどかっこいい横綱はほかにいませんでした。特に土俵入りは最高にかっこよかったのですが,その完璧な映像がどこを探してもみつからないのが残念です。その一方で,相撲自体はほどほどに弱く,初日に負けるともうあとはガタガタでまったくダメでした。しかし,その反対に,調子に乗ったときのここ1番はめっぽう強く… といった,人間味あふれ,ムラっ気だらけだったところも最高でした。
 近年は,稀勢の里も大好きでした。もし,白鵬がいなかったら,おそらく稀勢の里はあと5年早く横綱になっていたことでしょう。これが相撲協会にとって不幸でした。
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 ところで,現在は,この先,だれが横綱になるのか全く先が読めないのですが,私は,千代の富士に似ているといわれる若隆景に大いに期待してます。もっとも横綱らしい横綱になる感じがします。多くの相撲ファンもそう願っていますよ。また,琴ノ若が琴桜になるのも期待しています。
 でも,豊昇龍かなあ? ならば朝昇龍を思い出す。それは絶対にいやだなあ。

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 ヒストリックルート66は,シカゴを起点に,イリノイ,ミズーリ,カンザス,オクラホマ,テキサス,ニューメキシコ,アリゾナ,カリフォルニアの8州を通り,ロサンゼルスを終着点とする全長4,000キロメートルのハイウェイです。1972年,インターステイツが完成してその役割を終えましたが,1972年に保存法が成立して,それ以来,多くの場所でヒストリックルート66は再生されています。
 その中でも,アリゾナ州のフラグスタッフ(Flagstaff)はまさに,ヒストリックルート66が当時の面影をのこしていて,私は,一度訪れてみたいものだと思っていたのですが,2019年の夏に念願がかない,行くことができました。そして,すっかり,この町に惚れこみました。
 町の中心にフラグスタッフ鉄道駅があります。ここはアムトラックの駅で,1926年に標高2,104メートルの地点に建設されました。もともとは1886年アッチソン・トピカ・サンタフェ鉄道(Atchison, Topeka and Santa Fe Railway)の赤色の砂岩製の駅の建物だったところです。

 町の中心にある「モンテビスタ」(Hotel Monte Vista)は有名なホテルです。1927年創業の老舗で,現在は完璧にオリジナルの状態に改装されています。ダウンタウンの中心にあって,3階に73室の客室とスイートの宿泊施設があります。過去には,ジョン・ウェイン(John Wayne),ハンフリー・ボガート(Humphrey DeForest Bogart),クラーク・ゲーブル(Clark Gable),アンソニー・ホプキンス(Sir Anthony Hopkins)など多くの有名人が滞在しました。
 ここはお化け伝説のあるホテルでもあります。
  ・・・・・・
 荒くれ西部でここまで古いホテルとなれば,これまで何人の人がこのホテルで殺されたことでしょうか。 このホテルで起こるといわれているのは,不気味な音が聞こえてきたり家具が動かされていたりロビーの電話が勝手に鳴ったりいろんなものが倒れたり…。
 ホテルの従業員や宿泊客の情報によると,バンドのミュージックがだれもいないはずの2階のロビーから聞こえてきたりもするということです。
 とりわけ,210号室はベルボーイの幽霊が訪ねてくるらしいといいます。ドアをノックして「ルームサービスです」という声がして,ドアを開けると誰もいないということがたびたびあるとか。
 また,220号室はだれもいないはずの部屋から咳払いが聞こえてきたりするそうです。ある日,メインテナンスの男の人がこの部屋で修理を終え電気を消してドアをロックして出て行ったにも関わらず,5分後には電気がついていて,ベッドのシーツもはがされ,テレビもついていたそうです。さらには,カウボーイのゴーストはもちろんのこと,殺された売春婦なんかも目撃されているそうです。
 さらに,305号室は女性の幽霊が窓際のロッキングチェアに座っていることがあるそうで,掃除の人が椅子を動かしたのに次の日には窓際に戻っていたといった話もあるそうです。
  ・・・・・・
 私は66歳のときにヒストリックルート66を走破してみたいと以前から思っていたのですが,まさかのコロナ禍で,どうも実現しそうにありません。しかし,もし可能なら,フラグスタッフでは,いくら高くても,次回は「モンテビスタ」に宿泊して,こうした幽霊たちに会ってみたいものです。

 1924年のころ,フラグスタッフにホテルは少なく,出稼ぎに町へやってくる人達を滞在させ続けるのが極めて難しかったので,この地にあるローウェル天文台の所長であり天文学者のヴェスト・スライファー(Vesto Melvin Slipher)がホテル建設のため,地域的な債券設立のキャンペーンをはじめました。その資金で建てられたのが「モンテビスタ」です。
 禁酒法時代にオープンしたこのホテルは,酒の密売をラウンジでしていたのですが,1931年,役人に急襲されて閉館します。そして,禁酒法が廃止された2年後に再開しました。また,1935年から1940年の5年間は,ホテルのラウンジとロビーは,町でたった1軒だけのスロットマシンができる場所として人気を博しました。
 やがて,1940年代になると,西部劇映画が人気となり,セドナやオークリークキャニオン(Oak Creek Canyon)近くで100本以上の映画が撮影されることになり,撮影中は「モンテビスタ」が宿泊所となったのです。
  20世紀初頭には,フラグスタッフには映画産業を誘致する計画もあったのですが,結局計画は実現せず,ハリウッドにその地位を奪われてしまいました。

V.M._Slipher


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「しない・させない・させられない」とは
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 私はグルメでないので,食べ物にはほとんど関心がありません。しかし,周りにグルメの人が多いことと,いろんなところへ旅したことがあるので,その土地で有名なモノとか,グルメ雑誌にのっているようなお店は行ったことがあるし,おおよそのモノは食べました。なので,あえていいモノを食べたいとも思いませんしこだわりもありません。
 ということですが,そんな私がひとりで外食をするとき,優先順位としては,まず,そのお店が空いていること,その次が提供される時間が早いこと。これでは,ファーストフードしか選択権がありません。
 で,時に食べたくなるのが,朝マックの「ビッグブレックファストデラックス」なのです。

 食事文化が貧困なアメリカでは,食事というモノはエサだと私は思っています。そこで,アメリカを旅するときに,とにかく手っ取り早く食事を済ますのに行くのがマクドナルドです。特に,コンボイのドライバーが利用するような安価で朝食のないモーテルに宿泊したときの朝食としては最も手ごろです。
 そんなときにオーダーするのが,この朝マック「ビッグブレックファストデラックス」(アメリカでは「Big Breakfast with Hotcakes」)となります。内容は,スクランブルエッグ,マフィン2枚,ホットケーキ3枚,ソーセージ,ハッシュポテト,バター,メイプルシロップ,ストロベリージャム,塩胡椒,そしてセットで注文したソフトドリンク。高カロリーなので,こんなものを毎日食べていたら寿命が縮まることでしょうが,そんなことは承知です。「たま」だからいいのです。これをオーダーしたくなるのは,まあ,時折起きる私の発作のようなものでしょう。
 そしてまた,これを食するときの私は,幸せ感一杯なのです。

 コロナ禍で行くことができなくなってしまったアメリカですが,私がアメリカ旅行をする目的は,もともとはディズニーランドに行きたい,MLB,つまり,本場のベースボールが見たい,ニューヨークでミュージカルを見たい,といった誰しもが夢見ることと同じでした。しかし,それを実現したのちは,日本では決して見ることができないどこまでも続く大平原をドライブすることであり,そのときどきに現れる小さな町でゆったりとした時間の流れにまかせることです。そのような小さな町にもたいていは存在するマクドナルドで,住んでいる人の姿を見ながら過ごす時間が最高の贅沢となったわけです。
 日本にいても,そんな贅沢はできません。道路はひどく狭く,景観は悪く,どこに行っても人だらけ,どんな山の中にもわずかな平地があれば小さな家だらけ。そこで,早朝,まだ,夜が明けきらぬ,周りが暗くて醜い町の景観がまだ闇の中にあるころに,マクドナルドに出かけて,ほとんどだれもいない店内で「ビッグブレックファストデラックス」を食べながら,気持ちだけアメリカに飛ぶのです。時間が飛ぶわけではないのですが,私には精神的な空間の移動がまさに「タイムスリップ」となるです。
 これこそが,今の私には至福の時間なのです。

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 朝日新聞=名人戦,毎日新聞=王将戦,読売新聞=十段戦という時代に私は将棋を覚え,家で購読する新聞を朝日新聞に代えたために,私は,ずっと名人戦や順位戦を見て過ごしました。
 覆ったのが1976年(昭和51年)のことでした。
 それは,この年,朝日新聞社が囲碁の名人戦を読売新聞社から獲得したのが発端です。これで囲碁,将棋ともに名人戦を主催するという念願がかなったのに,皮肉にも,将棋の契約金が囲碁よりずっと少なったとかで将棋界が値上げを要求し,それが認められなかったことで契約が決裂して,1年の空白ののち,名人戦が毎日新聞社に移ることになったのです。朝日新聞社はそれからもずっと名人戦にこだわり,新しいタイトル戦を開催しませんでした。
 それ以来,私は,将棋に興味をなくし,空白の時代が続きます。そこで,私は,谷川浩司九段,羽生善治九段などが名人だったときの将棋をほとんど知りません。

 名人戦を主催することになった毎日新聞社ですが,ここで問題となったのが王将戦の処遇でした。
 王将戦を開催していた毎日新聞社は名人戦も主催することになったために,ふたつの棋戦を同時に新聞に掲載することもできず困ってしまったわけです。そこで,毎日新聞社は王将戦をスポーツニッポン社に移管しました。しかし,将棋のタイトル戦としてはスポーツ紙では格下です。それ以来,王将戦は,泡沫タイトル戦のような感じになってしまいましたし,私はスポーツ紙など読むこともないので,もう,それ以降のことはまったく知りません。
 王将戦は,もともと毎日新聞社のビッグタイトルであったことから,挑戦者決定リーグ戦があり,しかも,タイトル戦は名人戦のように2日制でした。しかし,このとき以来,契約金は低く抑えられ,なんだか中途半端なものとなってしまいました。朝日新聞社は適当に将棋欄を埋め合わせしていたので,囲碁のように全国紙に鼎立する三大棋戦があるわけでもなく,これが,私が,囲碁のタイトル戦がうらやましいと思った理由でした。
  ・・
 スポーツニッポン社としても,なんらかの「色」をつけなければ,と工夫したのでしょうか。それが今も続く,勝った棋士がコスプレをして翌日の誌面を飾るといういわゆる「勝者の罰ゲーム」であり,囲碁・将棋チャンネルでのタイトル戦の生放送となったのでしょう。
 今のように,ABEMAで将棋の生中継が行われるようになったのはきわめて最近のことです。将棋の生中継が見られるようになったのは,放送開始間もないNHKBSのコンテンツとして名人戦に白羽の矢が立ったのがそのはじまりでした。そこで,囲碁・将棋チャンネルとリンクした王将戦は,当時としては独自に生放送が見られる画期的な棋戦だったわけですが,それが逆に,今となっては王将戦はABEMAで見ることができない棋戦というひずみとなっているのです。

 その後,読売新聞社では,1988年(昭和63年)に十段戦が発展的に解消されて竜王戦ができました。これもまた,囲碁の棋聖戦と同様に,読売新聞社らしいというか,名人戦を超える格を有する棋戦を「むりやり」金の力で創設したように私には思えました。将棋連盟も名人戦との兼ね合いに苦慮します。大山康晴十五世名人や升田幸三実力制第4代名人が創設に反対し,賞金額1位で棋戦の序列は上であっても,タイトルホルダーとしての序列は名人と同格ということになったそうです。大人の事情です。
 ということなので,今でも,私の世代では名人戦が唯一無二のものです。三枚堂達也七段が順位戦のC級2組から1組に昇級したときに師匠の内藤國雄九段がはじめて喜んだというのは,そういう価値観からくるものなのです。
 時代は繰り返します。
 2006年(平成18年)。三度目の名人戦の契約問題が起きました。
 私は名人戦が朝日新聞社の主催に戻ることはないとあきらめていたのですが,水面下ではいろいろあったようです。私のような単なる「観る将」が将棋界には囲碁界のような三大棋戦が全国紙に鼎立していないという不自然さを思っていたくらいだから,棋士はもっとそれを切実に感じていたことでしょう。
 紆余曲折の結果,何と,名人戦は朝日新聞社と毎日新聞社の共催という突拍子もないことが実現して,今に至るわけです。
  ・・
 時は移り,現在は平穏無事のように思えますし,藤井聡太人気で,一時「斜陽産業」とよばれた将棋界はバラ色のような感じです。しかし,名人戦が共催であったり,王将戦だけがAMEBAで見られないとか,鳴り物入りでドワンゴがはじめた叡王戦を手放したりと,結構波乱に満ちています。
 今や,将棋は新聞で読むもの,という時代は過ぎ,新聞社の威光は陰り,将棋を見るために新聞を購読するということもなくなりました。この先もABEMAで将棋の中継が続くかどうかもわからないし,読者の激減する新聞社も将棋棋戦の主催ができる余裕があるのかないのか。また,叡王戦のように,新たなスポンサーが生まれるのかどうか。
 それもこれも,将棋というコンテンツにどれだけ魅力があるかどうか,にかかっているのでしょう。

bbb


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 今日の写真は,藤井聡太竜王が以前「まだ乗ったことがないので一度乗ってみたい」と言っていた新幹線N700Supreme,背後の山は雪を被った伊吹山です。
 さて,現在,王将戦の7番勝負が行われています。この王将戦というタイトル戦は,将棋の8大タイトルの中でも異端な棋戦なので,このことについて書いてみようというのが今日のお話です。

 将棋も囲碁も,タイトル戦というのは必ずしも順風満帆に行われてきたわけではありません。
 将棋に比べて,囲碁では読売新聞=棋聖戦,朝日新聞=名人戦,毎日新聞=本因坊戦というように,3大全国紙が3大棋戦を主催していて,この3つのタイトルをすべて獲得した棋士が「大三冠」とよばれる,というように,まことにわかりやすい状態なので,私はずっとうらやましく思っていました。
 しかし,囲碁のタイトル戦も,はじめからこうした三者鼎立の状態ではありませんでした。
 最も歴史があるのは1937年(昭和14年)にできた毎日新聞社の主催する本因坊戦です。将棋にはこのころすでに名人戦があったのですが,囲碁にはなかったようです。で,1961年(昭和36年)に読売新聞社によって名人戦ができました。こうした経緯から,囲碁の名人戦というのは,将棋のように順位戦という格付けがあるわけではなく,単なるタイトル戦のひとつで,すべての棋士が予選に出場して勝ち残った棋士が挑戦者決定リーグ戦に参加,そして,挑戦者決定リーグ戦で優勝した棋士がタイトル戦に出場するというものです。
 やがて,1974年(昭和49年)に名人戦の契約問題が起き,「囲碁も将棋も名人戦」というのが念願だった朝日新聞社に移りました。その代わりに1976年(昭和51年)に作られたのが棋聖戦というわけです。

 将棋では,毎日新聞社の主催する名人戦が最も歴史があって,1935年(昭和10年)にはじまりました。それに対抗して,読売新聞社は1956年(昭和31年)に,現在の竜王戦の前身である九段戦,それが発展した十段戦というのを作りました。将棋の名人戦も,1950年(昭和25年)にやはり契約問題が起きて,朝日新聞社に移り,その結果,それに対抗する形で1951年(昭和26年)にできたのが王将戦だったのです。そんな経緯があって,私が将棋に興味をもった今から55年ほど前は,朝日新聞=名人戦,毎日新聞=王将戦,読売新聞=十段戦で落ち着いていたのです。
 しかし,将棋は囲碁とは違って,名人戦の格が高すぎました。当時は,段位はすべて順位戦で決まりました。いわば,相撲のように,本場所が順位戦であって,それ以外の棋戦は巡業のようなものといいう扱いだったのです。そこで,この名人戦を三大全国紙のどの社が主催するかという潜在的な大問題が存在するわけです。
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 そんなわけで,王将戦は,どう頑張っても名人戦には格の上で勝てません。で,毎日新聞社が考えついたのが「指し込み制度」でした。これは,7番勝負のタイトル戦で3番手直り,つまり,3勝差がついた時点で王将戦の勝負が決定し,次の対局から香落ちと平手戦で交互に指し,必ず第7局まで実施するというシステムでした。
 この制度のおかげで,奇しくも,升田幸三実力制第4代名人が家出をするときに物差しにしたためたという「名人に香車を引いて勝つ」が実現してしまったわけです。この制度は,実は今も存在しているですが,4番手直りに改められ,しかも,またどちらかが4勝した時点で対戦が終了することになったので,死文化してしまいました。
 もし,今も当時のままの制度だったら,今期,王将戦3連勝の藤井聡太竜王はすでに王将位を獲得して,しかも,次の対局は「名人に香車を引く」ということになっていたのです。

aaa


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 愛知県江南市のホームページには次のようにあります。
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 「一,親助六尉,尾州清須御城を退去候は,慶長寅の年の夏越方の事。…親父様,よくよく南窓庵によりて,諸事書留め覚え帳併家伝記,先祖系図書等の古証文の散逸をおそれ書き留め候…これら諸縁を武功夜話と題目仕り…」
 江南市と信長を強く結びつけたこの文献は,江南市前野町の吉田さん宅に先祖代々伝わる秘蔵の古文書「武功夜話」です。
 「武功夜話」には,どの巻首にも「貸出しの儀平に断るべし」と記され,門外不出となってきました。
 1959年(昭和34年),この地方を襲った伊勢湾台風のため吉田家の土蔵が崩れ落ちてしまったのを機に,吉田家の親戚にあたる吉田蒼生雄さんが12年かけて訳され,ついに380年ぶりに陽の目をみることになったのです。
  ・・・・・・

 この「武功夜話」は,戦国時代から安土桃山時代,尾張の土豪であった前野家の動向を記した家譜の一種で,この書物で,吉乃という人物が有名になりました。
 「武功夜話」によると,吉乃はこの地の商人だった生駒氏の娘で織田信長の側室になった女性です。正室であった濃姫(濃姫)が子供に恵まれなかったのに対して,吉乃は長男織田信忠,次男織田信雄,長女の徳姫を生んでいます。
 大河ドラマ「麒麟がくる」の第21回「決戦!桶狭間」で帰蝶が「天から降ってきた,大事な預かりものじゃ」といってあやしていたのが吉乃の子織田信忠です。
 さて,吉乃の生家生駒氏の菩提寺で,吉乃の墓のある久昌寺ですが,老朽化が進み,この春にも取り壊されると聞いて,うまくいけば,夜明けの太陽とともに写真が写せるのではないかと,晴れた日の早朝,行ってみることにしました。私は学者でもなければ,このような古文書を読み解く趣味も力もないので,よくいわれる「武功夜話」が偽書だとか,ここではそういうことを書くのは避けます。それよりも,このような歴史を感じるところに出かけて,古を思うことが何より楽しいのです。

 まだ,通勤ラッシュのはじまる前の時間に車を走らせました。
 愛知県尾張地方の北部は,戦災にも遭っていないので道は狭く,ごみごみとしていて,一旦,自働車道を外れるとすれ違うことも困難な道ばかりです。また,車を停める場所にも事欠きます。
 迷いながら,なんとかiPhoneの力を借りて,久昌寺に到着しました。車が4,5台停められる駐車場があったので助かりました。あたりは公園として整備されていると聞いていたのですが,まあ,広場とベンチがあるくらいで,荒れ果てていました。しかし,立派な周辺案内板があったので,近くの生駒家跡や29歳で亡くなったという吉乃が荼毘に付された地などを回ってみました。これといって何もないところでしたが,その何もないところが,昔をしのぶにはむしろよかったのかもしれません。
 それにしても,こうした場所で,400年以上も昔,織田信長や豊臣秀吉が闊歩していたなんて,考えるだけでも楽しいではないですか。何が現実なのかそうでないのか,自分に関わりのないことなんてすべてが夢のようなものです。日本の景色はこころで見るものです。
 思っていた写真が写せて満足しました。

◇◇◇
太陽黒点。

2月2日。この日昇った太陽には多くの黒点がありました。
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 ビリー・ジョエル,ウィリアム・マーティン・ジョエル(William Martin “Billy” Joel)は1949年ニューヨーク州のサウスブロンクス出身のシンガーソングライターです。1970年代後半から1990年代前半にかけてヒットを連発しました。
 私が英語を勉強したり,アメリカに興味を抱いた1960年代末から1970年代は夢のような時代でした。アメリカはあこがれであり,アポロ11号の月着陸や大阪で行われた万国博覧会で最も魅力的だったアメリカ館など,日本とはかけ離れた巨大で豊かな大国に一度は行ってみたいと思ったことでした。その一方で,危険な香りが一杯の国でもありました。
 そのころ私が耳にしたのがビリー・ジョエルの音楽でした。
 中でも,「ストレンジャー」(The Stranger)。この曲の冒頭と最後は,私の頭の中に暗くすさんだニューヨークの姿を想像させるのに十分でした。ビルとビルの谷間の暗くゴミだらけの路地に靴音だけが不気味に響く…。
 「ストレンジャー」は日本ではCMソングとして起用されたことで大人気となったのだそうです。
 そして,「ニューヨークの想い」(New York State of Mind)。ビリー・ジョエルがソロデビューして以来活動の拠点としていたロサンゼルスから生まれ故郷のニューヨークに戻るときの想いを歌った楽曲で,曲の歌詞が私に大陸横断の夢を与えました。西海岸から長距離バス・グレイハウンドに乗ってニューヨークに向かうとき,遠くに摩天楼が見えてくるときめき。それを一度は味わってみたいものだとずっと思ってきました。
 それ以外にも「ピアノマン」(Piano Man),「素顔のままで」(Just the Way You Are),「オネスティ」(Honesty)と,今聴いても切なくなってきます。
 そして,そうした私の想いがすべて実現した今となって,憧れだったアメリカは,あのころの自分の懐かしさに変わりました。
  ・・
 なお,ビリー・ジョエルは1985年にクリスティ(Christie Brinkley)と結婚し,娘のアレクサ・レイ・ジョエル(Alexa Ray Joel)が誕生しましたが,娘のミドルネーム「レイ」は,ビリー・ジョエルの憧れの存在だったレイ・チャールズ(Ray Charles Robinson)にあやかってつけたものだったということです。朝の連続テレビ小説「カムカムエブリバディ」にも似たような話が…。

 NetFlix や ABEMA や AmazonPrime など,いくらでもそれに代わる有料放送が存在する現在,ほぼ強制的に高額な受信料を徴収するなどという時代錯誤を未だにやっている NHK は,その高額な料金にも関わらずチャンネルばかりたくさんあっても大したコンテンツもなく,再放送ばかりでお茶を濁していることが腹立たしいのですが,1月27日の早朝は,NHKBSP でビリージョエルのヤンキースタジアムライブを放送していたので,録画して見ました。しかし,ここで放送されたのは1990年のコンサートだったのに,私の期待していたものとは違って好きな曲目もほとんど演奏されず,がっかりしました。
 それよりも,私が別の意味で懐かしくなったのは,ヤンキースタジアムでした。
 そのころのヤンキースタジアムは,現在の新しいヤンキースタジアムの隣に建っていたものです。
 私がはじめてニューヨークに行ったのは1981年のことだったのですが,ハドソン川の対岸にそびえる巨大な建物は,私が感動するに値する建物の姿でした。しかし,1997年,2度目のニューヨークで実際にヤンキースのゲームを見にいったとき,スタジアムの建物は老朽化し壁が落下したとかでごった返し,また,ボールパークの周りの治安の悪さと不気味さにも度肝を抜かれました。
 なにせ,ヤンキースタジアムのあるサウスブロンクスは悪名高きところで,ゲームの途中に何が起きようと想定内のことでした。私が見にいったゲームでも,その途中で,ストリーキングが出没し素っ裸の男がグランドを駆け回りました。また,ヤンキースタジアムの近くの有料駐車場は,停めるのはいいけれど,何があっても知らないよ,状態だったし,車で行けば通らざるをえないハーレムは麻薬を売買する住民がたむろしていました。また,マンハッタンからハーレムの地下を抜けてハドソン川を越えてサウスブロンクスで地上に出た地下鉄は,落書きだらけでした。
 しかし,今となっては,そんなすさんだニューヨークならまた行ってその姿を見て味わってみたいものだと思うのは,私が「ストレンジャー」を聴いて感じるその哀愁からなのでしょうか。

billy


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 ウィンスロップ(Winthrop)はシアトルから北東,カスケード山脈の懐に残る西部開拓時代を偲ばせる田舎町です。市街地は1890年代のゴールドラッシュに沸いていたころの建物が並び,まるで西部劇の世界に入り込んだ気分になります。ディズニーランドにこのような町の真似事がありますが,そんな「おもちゃ」ではなく,ここは正真正銘の町です。

 2016年,私は,モンタナ州のグレイシャー国立公園からワシントン州のカスケード国立公園に向かう途中で,この町に寄りました。  
 ここで私はホテルを探してチェックインしました。
 ワシントン州にはこんなすてきな町があるのです。私が忘れられないのはこうした田舎ののどかな小さな町なのです。
 ワシントン州の壮大なメソウ渓谷(Methow Valley)を走るノースカスケードシニックバイウェイ(the North Cascades Scenic Byway)に位置するこのウィンスロップの町は,旧中山道の馬籠宿のように,新たに歴史的な町を模して作られたところです。

 メソウ渓谷は,1833年ゴールドラッシュの時代,多くの白人の入植者が来ました。そのうちの代表的な3人がジェームス・ラムジー(James Ramsey),ベン・ペーリジン(Ben Pearrygin),ガイ・ウェアリング(Guy Waring)でした。特に,ウェアリングがこの地の「父」とよばれます。
 町の名は冒険家であり作家であったテオドラ・ウィンスロップ(Theodore Winthrop)にちなんで名づけられたものです。
 1893年,ウィンスロップに火災が起きて,町は壊滅的な被害を受けましたが,1972年に州道20がこの町を通ることになったとき,キャサリン・ワグナー(Kathryn Wagner)と夫のオットー(Otto)がこの地に西部劇のような町を再建するというアイデアを思いつきました。

 ウィンスロップには数件のモーテルやマーケットがあって,私はそのうちのアビークリークイン(Abbycreek Inn)というモーテルに部屋を見つけて,チェックインをしました。
 チェックイン後,町を歩くのに十分な時間があったので,1軒のオープンカフェを見つけて軽い夕食をとりました。その後,川のほとりを散歩しました。
 歩いていると,お年寄りの女性が話しかけてきました。雑談をしながら美しい夕日が沈むのを眺めていました。
 ここはのどかで素晴らしい,桃源郷のようなところでした。
 夜は,近くのスーパーマーケットで買い物をしたりして過ごしましたが,緯度が高いので,いつまでたっても暗くならない。本当に夜が来るのかしらんと思いながら眠りにつきました。ふと深夜に目覚めると,さすがに日が沈んでいたのですが,外に出てみると,満天の星空が広がっていました。
 翌朝,モーテルの部屋の窓を開けると,そこには野生のシカがいてエサの草を食べているところでした。住んでみたい町です。

aaa


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 2018年春,第76期将棋名人戦の第5局が名古屋大須の万松寺で行われました。その前日の夜,前夜祭が近くにホテルで行われ,参加費を払って行ってきました。
 一度は行ってみたいと思っていただけにその機会ができて,とても楽しい時間が過ごせました。
 その後はコロナ禍になってしまい,こうした機会もなくなって,本当にあのとき行っておいてよかったと思ったことでした。

 2018年というのは今からわずか4年近く前のことなのですが,それ以来,将棋界はずいぶんと様変わりしたものです。
 このときの対局者は名人が佐藤天彦さんで,挑戦者が羽生善治さんでした。この名人戦で勝って羽生善治さんが100回目のタイトル獲得となる筋書きだと思っていたのですが,その予想は外れました。
 まだこの時期は,今輝く藤井聡太現竜王のブームがはじまったころで,名人戦に登場するのはずいぶん先のことのように思えました。また,羽生善治さんは絶対王者でした。

 前夜祭は,はじめに参加した棋士の紹介にはじまり,懇談会,そして,最後に一緒に写真を撮ることができました。
 テレビでしか見たことがない棋士の人たちといろいろとお話ができたのがとてもうれしいことでした。
 これも将棋界ならではの話で,他のスポーツやタレントさんではこうはいきません。
 なかでも,藤井聡太竜王の師匠である杉本昌隆さんとお話ができたのはよかったです。

 将来,また,こんな機会が一日も早くできるようになればいいなあと思います。それとともに,この機会を逃さなかかったことに,今更ながらこれもまた幸運だったものだとつくづく思うのです。
 運は周りにいくらでもあるのですが,それを手に入れることができるかどうかは自分の行動にかかっているのです。


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 こころに残っている小さな町,今回はモンタナ州の州都ヘレナ(Helena)です。小さな町といっても州都なのでそこそこに都会です。
 私は2013年にモンタナ州のビュートに行ったとき,少し時間ができたので,インターステイツ15を北に走りました。まったく人家もない山の中のインターステイツ15をずっと北に向かって走っていって,この先は地の果てだとおもったら,忽然と広大な大地にヘレナの町並みが見えてきました。このときの驚きは忘れられません。
 そのときはそのまま引き返したのですが,あの美しい町並みにひとめぼれして,ずっとこころに残り,いつかぜひゆっくりと滞在してみたいという想いが募って,2015年に再びヘレナに行ってみました。

 ビュートからヘレナまでは100キロメートル,1時間というところです。
 先に書いたように,ヘレナは,モンタナ州の州都です。人口はわずか約25,000人。19世紀後半のゴールドラッシュによってできた町です。
  ・・・・・・
 1864年「4人のジョージア人」とよばれるジョン・コーワン(John Cowan),D・J・ ミラー(D. J. Miller),ジョン・クラブ(John Crab),ロバート・スタンレー(Robert Stanley)の4人組がラスト・チャンス・クリーク(Last Chance Creek)で砂金を発見したことで町は創設されました。
 はじめ「4人のジョージア人」のひとりジョン・クラブの名を取ってクラブタウン(Crab Town)と名づけられたこの町は,やがて町名変更の機運が高まって,ジョン・サマービルが自分の生まれ故郷であるミネソタ州セント・ヘレナ (St. Helena) の名をつけることを提案し,そのうちに「セント」が落ちて「ヘレナ」のみが残って町の名前となりました。
  ・・・・・・
 1888年ごろは,およそ50人の億万長者がヘレナの町に住んでいて,人口当たりの億万長者の数は世界一であったといいます。

 ヘレナの高台にモンタナ州会議事堂とモンタナ歴史社会博物館があります。モンタナ州議会議事堂(Montana State Capitol)の庁舎は1896年から1902年にかけて建設され,1909年から1912年にかけてウイングが増築されました。
 私が行ったときは,この州議会議事堂はセキュリティがとても緩く,というか,まったくないのも同然で,何のチェックもなく自由に中に入ることができました。今はどうなのか知りません。中に入ると観光客用のカウンタがあって,親切なおじさんがいました。私が日本から来たというと「歴史概略とセルフガイドツアー・モンタナ州庁舎」と書かれた日本語のパンフレットを持ってきてくれたので,私は,そのパンフレットに書かれたように,セルフガイドツアーをしました。

 州議会議事堂の東側,博物館を出たところに,ラスト・チャンス・ツアートレイン(Last Chance Tour Train)というヘレナの見どころを2時間くらいで巡るガイドつきツアーバスの乗り場があったので乗り込んで,町の観光を楽しみました。
 ヘレナは思った以上に奥の深い町でした。
 官庁街の西側にはゴールド・ラッシュ時代の歴史的な建築物が多くあり,また,そのはるか向こうにはロッキー山脈の大自然や原野が広がっていました。ゴールドラッシュで栄えた町だから,大邸宅が並んでいて,治安もよければ,町も美しいところでした。
 ヘレナという町を観光して私が感じたのは,アメリカという新大陸にやってきて成功した人間の強さと弱さでした。アメリカには,日本人の知らないすばらしい町があるのです。

へれな (2)


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 私がアラスカ州のフェアバンクス(Fairbanks)に行ったのは2017年の夏のことでした。この年の8月21日にアメリカ横断皆既日食があって,私はそれをアイダホ州で見たのですが,その帰りにアラスカ州まで足をのばしました。
 アラスカ州まで行ったのは,その当時,アメリカ合衆国50州制覇を目指していて,アラスカ州に行った理由はそのためでした。
  ・・
 ワシントン州のシアトルからアメリカ国内線でフェアバンクスまで行きました。
 フェアバンクスはアラスカ州の中央部に位置する都市で,人口は約3万人。アラスカ州ではアンカレッジに次ぐ第2の都市ですが,それでも小さな町でした。 北緯65度あたりにるるので,北緯66度3分7秒の北極圏からは約160キロメートル南に位置しています。
 フェアバンクスの面積は約85平方キロメートルなので,9キロメートル四方ほどでしょうか。車で走ってみるとあっという間に市街地を抜けて大平原に出ます。市内をチェナ川(the Chena River)が流れ,すぐ南でタナナ川(the Tanana River)と合流していて,夏の間はチェナ川を下る外輪船クルーズが運航していて,私も乗船することができました。

 フェアバンクスのダウンタウンは人が少なく静かな町ですが,スーパーマーケットやレストランなどがたくさんあって,生活しやすいところです。
  ・・・・・・
 1900年ごろ,カナダ・ユーコン準州で金が発見(Klondike Gold Rush)されるとともにゴールドラッシュに沸き,町が整えられました。現在もなお複数の金山が稼働しているということです。 
 町にはテーマパークやら動物園やら博物館やら公園があり,郊外にアラスカ州を縦断するパイプラインもあって,見どころには事欠きません。日本人にとってはオーロラの最もよく見える町として知られていて,郊外にはオーロラの見られるリゾートタウンもあります。
  ・・・・・・

 私はこのとき,見ることができればもっけもの,でも無理だろうとまったく期待していなかったオーロラを見ることができたのですが,オーロラは別としても,今にして,このフェアバンクスという町にまたたまらなく魅力を感じて,ふと,また行きたくなるのです。
 北極圏といえば,私はその後,フィンランドのロヴァニエミに行ったのですが,おなじ極北とはいえ,フィンランドとアラスカではまったくイメージがちがいます。印象では,フィンランドのほうがあか抜けた都会で,アラスカのほうが田舎,というか悠久たる大自然です。
 私はアウトドアが苦手で,というか,都会に生まれたのでそういう習慣がないのですが,その反対に,人はこうした大自然の中で生きる術を学ぶべきだと,できないからこそ思います。今でも忘れられなのは,フェアバンクス郊外で見た大きな住居です。あんなところで生活する自分はまったく考えられないのですが,そんなことができたら,何と幸せなことでしょう。
  ・・
 冬のフェアバンクスは行ったことないので,私には謎の多い町です。
 冬のフェアバンクスにも行ってみたいのですが,あんな寒冷地,おそらく無理でしょう。でも,フィンランドのロヴァニエミで摂氏マイナス30度は経験したので,なんとなく様子はわかります。しかし,いつも思うのは,世界にはこうした町があるということを体験しない人生というのは,ものすごく大切なことを知らないでいるということです。
 フェアバンクスは,私がいまでもこころに残っている小さな町のひとつです。

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 「食わず嫌い」ではないけれど,私は,ほとんどのドラマを第1回から見はじめないのです。それは,番組の宣伝だけでつまらなそうだ,といった先入観をもってしまって,見るのを避けてしまうからです。今回の連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」もそうでした。何を今さら英会話? と思いました。 しかし,一度,ふと何かの機会で見たときに,そのすばらしさにすっかりはまってしまいました。
 これはおもしろい。
 ということで,2020年にはまっていた「エール」以来何作目かで,また,朝が楽しみになりました。
  ・・・・・・
 「カムカムエヴリバディ」は,2021年度後期放送のNHK「連続テレビ小説」第105作として,11月1日から放送されている日本のテレビドラマ。京都,岡山,大阪を舞台に,昭和から令和の3つの時代をラジオ英語講座と共に生きた祖母,母,娘の3世代のヒロインの一世紀(100年)におよぶ家族の物語をハートフルコメディーとして描く。
  ・・・・・・
ということですが,ドラマの感想は,いろんな人がいろいろと書いているので,ここではやめて,その代わりに,ラジオ英語会話番組の草分け「カムカムエヴリバディ」にちなんで,NHKのラジオ語学講座の思い出について書きます。

 私は,中学校1年生ではじめて英語を学んだとき,すすめられたのがNHKラジオ第2放送の「基礎英語」という番組でした。私は,毎日かかさずこうした講座を聴く,といった継続が得意なのです。現在に至るまで,多くのラジオ語学講座にお世話になりました。もともと能力が不足しているので身についたとはいえませんが,それでも,ほとんどお金をかけず,いろんなことを学びました。
 さて,私が12歳ではじめて聴いた「基礎英語」の講師は,調べてみると北村宗彬という慶応義塾大学の先生でした。と知ると,名前に憶えがあります。さらに調べてみると,北村宗彬先生に大学で習ったという人のブログがあって
  ・・・・・・
 (北村宗彬先生が言うには)英会話のためには文法なんて中2程度+(would like to などを含む)仮定法で十分だ(ということだった)。これは本当にそうだ。今,大学でこういう話を学生にすると大いに反発するのだが実際これで十分だ。そして,だからこれから「話す方法を学ぼう!」。
  ・・・・・・
と書かれてありました。この北村宗彬先生の「基礎英語」で聴いた中で今でも覚えているのは発音です。それは,英語には[オ]という短母音はなく,[ア]と[オー]のどちらかだと習ったことです。たとえば,longという単語は,[ロング]ではなく[ラング]だというわけです。
 ところで,私は,これもまたいつものように背伸びして,はやくそのあとに放送されていた「英語会話」という番組が聞けるようになりたいものだと思っていたのですが,その「英語会話」の前身が「カムカムエヴリバディ」だったのです。
 「カムカムエヴリバディ」は第2次世界大戦終了後の1946年(昭和21年)2月から1951年(昭和26年)2月までは平川唯一さんが担当し,「カムカム英語」として親しまれたということは,私は,ずいぶん以前から知っていましたが,こうした番組がはじまると,そのときやっと脚光を浴び,マスコミが騒ぎ立て,終わるとともに忘れさられるというのがこの国のミーハー的社会の姿です。だから,いつも私はまたか,何やっとるの… と思ってしまうわけです。

 さて,中学校の2年生になった私は「基礎英語」を卒業して「続・基礎英語」に挑戦しました。「続・基礎英語」の講師は安田一郎という有名な人で,「基礎英語」とはうって変わって,文法重視,言い換え練習を繰り返す,リズミカル,かつ,ハードな番組でした。でも,ためになりました。初学者にはこうした練習が大切だったのでしょう。
 そんな「お勉強」中心だった「続・基礎英語」もそこそこに,中学校3年生で,待望の「英語会話」を背伸びして聞きはじめました。この番組はその後,ずっと聞き続けました。そのときの「英語会話」は松本亨という人が講師だったのですが,松本亨先生は 1951年(昭和26年)4月から1972年(昭和47年)3月までという21年間も「英語会話」を担当した英語教育のカリスマのような人でした。松本亨先生の次が東後勝明先生で,すごく発音がよかったのが印象に残っています。
 一般の人を対象としたこのころの「英語会話」という番組は,学校の英語とはまったく違った非常におおらかでのんびりしたものでした。私は英語の専門家になるわけでなく,語学というのはコミュニケーションが取れればいいというのが目標だったから,いわゆる受験英語とはまったく違ったこうした番組を楽しむことができたことがとてもよかったと,今にして確信します。

  ・・
 資格試験も入学試験も順位争いも無縁で語学の才能のまるでない私が「お前の英語は一般の日本人の話す(学校で習ったような)英語と違う」とネイティブに言われるブロークンな英語でもちゃんと意思の疎通ができて,海外に出かけては多くの友人と国籍も言葉の違いも関係なくお話をしたり食事を楽しんだりできるようになったのは,語学ならぬ語楽だったからこそであり,また,これぞ,こころがあれば通じるという「カムカムエヴリバディ」の流れをくむ初期のラジオ「英語会話」で知らず知らず身につけたコミュニケーション能力のたまものなのでした。
 思えば,これが私の原風景でした。
  ・・・・・・
 英語は勉強ということではじめるクセがついている
 それではダメです
 英語は口真似遊びという遊びで覚えないと大成しない
  平川唯一
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 今日の写真は,私が長年夢だったサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジとニューヨークのブルックリンブリッジを歩いたときのものです。

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 私が中学1年生のとき,つまり,今から50年前,はじめて学校で英語を学びました。ちょうどそのころ,アポロ11号が月に着陸したり,大阪で万国博覧会が開催されたりと,アメリカからいろんなものがやってきて,すごくあこがれました。
 大阪の万国博覧会にオズモンドブラザーズ(Osmonds Brothers)という人気グループが日本にやってきました。
  ・・
 オズモンド家は8男1女で,三男から六男までの4人でコーラスグループを結成,その後,七男のダニーが加わったのがオズモンドブラザーズでした。当時大スターだったアンディ・ウィリアムス(Howard Andrew Williams)のTVショーにレギュラー出演してアメリカのスターとなっていました。 来日したとき,長女マリー(Marie Osmond)と幼稚園児だった八男ジミー(Jimmy Osmond)が加わったカルピスのCMが放送され,ジミーは日本で日本語の歌のレコードも出しました。
 1970年11月,「オズモンズ」(The Osmonds)と改名して,ついに「ワン・バッド・アップル」(One Bad Apple)が全米で大ヒットしました。
  ・・・・・・
 One bad apple don't
 Spoil the whole bunch girl
 Oh, give it one more try
 Before you give up on love
  ・・
 ひとりの悪いコにだまされたとしても,みんなが悪いコじゃないよ。
 もう一度トライしたら…
  ・・・・・・
という歌詞です。
 この曲のヒットで,このグループはアメリカのショービジネスで生き残れたのですね。 私は当時大ファンだったで,「ワン・バッド・アップル」のレコードを買いました。この歌,今も歌えます。
 1970年の大阪万博を中学校の遠足で見にいったときに,偶然,彼らが万国博覧会のホールでやっていたアンディ・ウィルアムスのコンサートに出演していて,ショーの合間の時間に会場を歩いていたのを目撃したことがあります!
  ・・
 その後,七男と長女のダニー&マリー(Donny & Marie Osmond)という兄妹のTVショーが放送されてアメリカで人気を博したという噂を聞きましたが,来日はしませんでした。
 それ以来,日本ではまったく噂を聞かなくなって(実際はラスベガスで活躍していたらしいのですが),気になっていたのですが,なんと,2000年に私がアメリカに行ってロサンゼルスでベースボールを見たときに,始球式でダニー・オズモンドが出てきて驚きました。

 アンディ・ウィリアムスは日本でいえば加山雄三のような歌手で,映画「ティファニーで朝食を」(Breakfast at Tiffany's)のテーマ曲「ムーンリバー」(Moon River)がヒットし,そのころ日本にもたびたび来日しました。紅白歌合戦にも出たことがあります。
 アメリカでは,そうした大スターが晩年,ミズーリ州のブランソンという町で常設の自分のシアターを作って,そこでショーを開いています。ブランソンにはそうしたシアターが一杯あります。アンディ・ウィリアムスもまた,晩年,ブランソンの「ムーンバーシアター」で連日ショーをやっていて,オズモンズも出演していたようです。
  ・・
 私は,何と偶然,2015年にブランソンに行ったのですが,その3年前にアンディ・ウィリアムスは亡くなっていて,ショーを見ることができませんでした。オズモンズはショーを続けていましたが,残念ながら,私の行ったときに限って,ショーがなく,見ることがかないませんでした。
 あとで知ったことには,2009年に歳をとったオズモンズは解散して,それ以降は若い3人だけで続けていたということです。だから,もし私が行ったときショーをやっていたとしても3人だけのオズモンズだったのでしょう。

 オズモンド家はモルモン教徒だったので,2009年のファイナルコンサートはユタ州のソルトレイクシティで行われました。そのときに歌った「ワン・バッド・アップル」の動画と若いときの動画を見比べると私は泣けてきます。これがアメリカンドリームを成し遂げた人生50年のすべてです。同じ年代だし,人生って短いんだよ。何かとても悲しい。
 ファイナルコンサートが行われたというソルトレイクシティの劇場もまた,私は偶然,2016年に行ったことがあるので,これもまた驚きでした。
  ・・
 こうして,私とは,もつれあい,しかし,微妙にすれちがった彼らのグループを思い出すと,切なくも懐かしくもなる,というお話でした。


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 今から50年近く昔,まだ,大学入試は今のような共通テストもなく,国立大学ではそれぞれの大学が独自の試験を行っていました。入口が狭ければ選抜をするしかないから,今と同じように受験は大変でしたが,マークシートなるものもなく,みな,記述式でした。
 思い出は美しく,かつ,懐かしくなるので,それが「古きよき時代」だったのか「古き悪しき時代」だったのかは知りませんが,今になって,当時の学生だった人たちが,そのころに使った参考書を懐かしみ,復刻版が出版されているようです。
 今でも,その時代の本のほうがよかったという人もいますが,今,その時代の参考書で学んでも効果はないかもしれません。というか,知の好奇心を楽しんでいた古きよき時代と,現代のような効率重視のコンピュータ時代では,そもそも受験というゲームのルールが異なるわけです。いずれにしても,人が生きるということ自体が死ぬまでの暇つぶしであって,人生が長いのか短いのかわからねど,その時間を退屈せずにすごす手段のひとつが知性の遊びであるということは変わりません。

 では,そのころの参考書について振り返ってみましょう。
 まず,国語では小西甚一さんが書いた「古文研究法」があげられます。この本が今もすばらしいと私が思うのは「はしがき」と「おわりに」です。ここには,どうして古典を学ぶのかが述べられています。今,こうしたことが書かれている参考書がどれほどあるのでしょうか。学校における古典の授業で,それを学ぶ意義を話してくれる教師がどれだけいるでしょうか。
 次に日本史です。私は,学生時代日本史が好きでしたが,そのときに夢中になって読んだものが笠原一男さんの書いた「詳説日本史研究」でした。インターネットもなかった時代,できるだけ詳しい内容が書かれているものが手元にあって,その内容を知っていることは大切だったからです。ただし,今となっては,このような本に頼らずとも,詳しい情報は検索すればいくらでも見つけられます。しかし,巷にあふれる情報が正しいものであるかそうでないかということを判断するのは,非常に難しい問題です。が,だからといって,教科書に書かれていることが正しかったのかといえば,それもまた議論があるのが難しいところだということを齢をとって知りました。
 英語には山崎貞さんの書いた「新々英文解釈研究」という本がありました。高校のときの教師がこの本を絶賛したのでそれを信じて読んだのですが,はしがきに大正14年1月とあるのにはのけぞりました。英文を漢文を読解するように読んでいた時代,その方法を身につけるには最適な参考書だったのでしょう。この参考書とととも,辞書もまた,研究社の「英和中辞典」という誰しもが使っていたものがあったのですが,私には高くて買えませんでした。この辞書はそののちに第4版が「欠陥英和辞典の研究」という本でやり玉にあげられて,あっという間にその地位を大修館の「ジーニアス英和辞典」に奪われてしまいましたから,評価というのもその程度のものだったのでしょう。こんなふうにして英語を学んでも,本は読めても,今の時代,まったく実用にはなりません。

 そうした参考書を自分で読んで学んだ時代は,現在の共通テストの前身である共通一次テストが実施されたころから雲行きが怪しくなり,参考書は予備校の講師が書いたハウツーものに代わり,学ぶメソッドも添削指導に変わり,受験勉強はドリル化しました。
 IT化の進む現在,知識を暗記するという時代を越えて,学歴とか能力テストのスコアではなく,いかにして必要な情報を正しく効果的に情報機器などを使って早く手に入れてそれを活用することができるかという能力が問われる社会に変わりつつあると私は思います。こうなると,どんなにすばらしい本を読んだところでそうした能力は身につきません。
 しかし,たとえば,50年近く前に大山康晴十五世名人の書いた「大山の将棋読本④居飛車の戦い」を今読んでも,定跡は変化しているので,まったく将棋には勝てないとしても,考え方を知るという面で活用するのなら,今も意義があるのです。そのように,物事にはいろいろな側面があるので,それがいいとか悪いとかという判断は,何を到達目標にするかということで違います。
 いずれにしても,定年後の時間を持て余す私のような不良老人には,何の到達目標もないのだから,50年ほど前に読んだそうした参考書を再読し,若き時代に想いを馳せるのも悪くはありません。しかし,今の若い人がいずれ齢ととったときに,私の生きた時代のような,若きころに想いを馳せた参考書がいったい存在するのでしょうか。


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 日本ではじめて彗星を独立発見したのは1903年(明治36年)の井上四郎さんだそうです。その次が1919年(大正8年)の佐々木哲夫さん,そして,山崎正光さんと続くそうですが,山崎正光さんが発見したのがクロンメリン彗星(27P Crommelin)です。クロンメリン彗星は,周期27.4年のいわゆる天王星属の周期彗星です。
  ・・
 1928年(昭和3年),岩手県の水沢緯度観測所に天文技師として務めていた山崎正光さんが発見した彗星は,のち,大英天文協会のクロンメリン博士が軌道を調べたところ,1818年に出現したポン彗星(1818II Pons)と1873年に出現したコッジャ・ウィンネッケ彗星(1873VII Coggia-Winnecke)と同じ彗星であることが判明したので,残念ながら山崎さんの名はつかず,クロンメリン彗星とよばれることになりました。
 これには次のようなおもしろい事情があります。

 クロンメリン彗星は,もともと3つの別々の彗星として考えられていたポン彗星,コッジャ・ウィンネッケ彗星,フォーブズ彗星(1928III Forbes)が,1929年,クロンメリン博士(Andrew Claude de la Cherois Crommelin)の軌道計算によって同一の彗星であることが判明し,それを受けて「ポン・コッジャ・ウインネッケ・フォーブズ彗星」(Comet Pons-Coggia-Winnecke-Forbes)となりました。そののち,軌道を計算したクロンメリン博士にちなんで,1948年に「クロンメリン彗星」とよばれるようになったのです。
  ・・
 ポン彗星は,1818年2月23日,フランスのジャン・ルイ・ポンさん(Jean-Louis Pons)がくじら座に最初に発見しました。
 2月27日の観測を最後に天候が悪化し,その後はこの彗星を見ることはできなかったので,軌道計算で算出された値には大きな誤差があり,周期が特定できませんでした。
 コッジャ・ウィンネッケ彗星は,1873年11月10日,フランスのジェローム・E・コッジャさん(Jerome Eugene Coggia)が,その翌日にはフリードリヒ・A・T・ヴィネッケさん(Friedrich August Theodor Winnecke)がヘルクレス座で発見したものです。
 その後,数個の観測がされましたが,11月16日を最後に見失われてしまいました。
 また,フォーブズ彗星は,1928年11月19日,南アフリカのアレクサンダー・フォーブズさん(Alexander Irvine Forbes)が約6等星で発見したもので,この彗星は12月24日まで世界中で追跡されました。日本の山崎正光さんが発見したのはこの彗星なのですが,実は,アレクサンダー・フォーブスさんの発見より前の10月26日に発見していたのです。詳細なスケッチを取り,その後の動きまで観測し,現在の国立天文台である当時の東京天文台に発見の通報をしていましたが,その後は悪天と月明かりで11月10日まで観測することができず,見失なわれてしまいました。
 10月26日のフォーブズ氏の発見を受けて,東京天文台は山崎正光さんが記録したスケッチを元に,クロンメリン氏が軌道計算をし,山崎正光さんとアレクサンダー・フォーブスさんの発見したふたつの彗星が同じものであることが明らかになりました。
 彗星に名前こそつきませんでしたが,山崎正光さんは彗星発見の功労が認められ,アメリカ太平洋天文学会からドノホー賞が授与されました。


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 家にある古い天文雑誌を改めて読んで,というより,考えてみれば,これまで写真を眺めたりしていただけで,多くの記事は読んだことがないので,それをはじめて読んでいます。
  ・・
 1974年に発行された「月刊天文ガイド別冊・彗星-その天文学と捜索者たち-」には,山崎正光さんの自伝「私の天文学経路(My path in Astronomy)」が載っているのですが,24ページもあって,文字がぎっしりで,これもまた,これまできちんと読んだことがなく,記事にある写真だけをみて,どこかの田舎のおじさんだなあ,と思っていただけでした。しかし,今回きちんと読んでみて,山崎正光さんがすごい人だと知ってびっくりしました。私はこういう話が好きです。

 山崎正光さんは1886年(明治19年)生まれといいますから,今から135年前の人です。その人が19歳,つまり,1905年(明治38年)に単身アメリカのサンフランシスコに渡り,日本人の農場などで手伝いをしたり,アメリカ人の家族のボーイをしながら,天文学にめざめて,勉強をするなんて,私にはとても信じられたものではありません。
 この人本当にすごいです。
 アメリカに行くといっても船で行くわけだし,今のように簡単にいけるわけでもないのです。
 そしてまた私が驚いたのは,そんな時代に,すでに,アメリカに住んで商売をしていた日本人が少なからずいたということです。
  ・・
 山崎正光さんは,渡米後,アメリカでリック天文台に勤めたり,カルフォルニア大学の天文学科を卒業し,反射鏡研磨の技術を習得して36歳のときに帰国。その後は水沢緯度観測所に勤め,1928年(昭和3年)10月27日に光度10等星の彗星を発見したのです。その後,この彗星は軌道計算をしたクロムメリン博士(Andrew Claude de la Cherois Crommelin)の名をつけられてクロムメリン彗星(27P Crommelin)となりました。
 私は,高知県にも行ったとことがあるし,ロサンゼルス郊外のウィルソン山天文台にも行ったことがあるし,水沢緯度観測所(現在の国立天文台水沢)にも行ったことがあって,偶然,山崎正光さんの足跡を訪ね歩いたということになるわけで,ほんとうにおどろきました。

 山崎正光さんというのは,ものすごく頭のいい人に思えます。実際,そうだったのでしょう。そして,山崎正光さんがかかわりをもった人たちも,当代一流の人たちばかりです。
 一体,この時代の日本というのは,どんな国だったのでしょう。
 今のように,コンピュータがあるわけでもないし,英語だって,それを身につけるのは並大抵のことではないと思われます。であるのに,今の私たちができないようなことを平然とやり遂げているのだかから,何だか違う人種のような気さえします。
 それでも,私の大学時代は,大学の教授といえば,神様のような存在でした。大学もまた,アカデミックさがありました。そんないい意味で権威のあったこの国はいったいどこに行ってしまったのでしょう。

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 「生きた恐竜」といわれるコモドドラゴン(Komodo dragon)は正式にはコモドオオトカゲ (Varanus komodoensis)といい,インドネシアのコモド島に生息する世界最大級のトカゲです。コモドドラゴンは,農地開発や森林伐採による生息地の破壊,密猟による獲物の減少などによって生息数は減少しましたが,2019年の時点では生息数は安定していると考えられていました。
 しかし,分布域が狭く,地球温暖化による海面の上昇で生息地の縮小が予想されたことが理由で絶滅する危険性が強まっているのだそうです。
 以前,名古屋の東山動物園にコモドドラゴンを誘致しようという計画があったのですが,今はどうなっているのでしょうか。
  ・・
 実は,コモドドラゴンもジャイアントパンダもレッサーパンダも,そのすべてがサンディエゴ動物園にいて,私は,見たことがあります。この写真は2018年にサンディエゴ動物園で写したものです。
 動物園もまたその内情は複雑で,今は動物の取り合い。なんか,人間のエゴだけで動物たちが気の毒になってきます。

 さて,コモドドラゴンに関連して,1974年といいますから,今から47年前,私が高校3年生のとき,20年ぶりに中日ドラゴンズが優勝をして,当時,名古屋では大騒ぎでした。
 そのころ,名古屋のローカル局,TBS系列のCBCではラジオ放送で平日の午後1時から午後4時まで「ばつぐんジョッキー」という番組が公開で放送されていました。繁華街栄の近くにあるCBCのビルの前の歩道から放送している様子がガラス張りで見ることができました。私は学校から帰る途中毎日のようにCBCの前を通って,番組が終わるまで歩道に立って見ていました。
 「ばつぐんジョッキー」のDJのひとりで月曜日の担当が元中日ドラゴンズの投手だった板東英二さんで,いつも野球の話題で盛り上がっていました。そこで,この番組の視聴者が作って番組に投稿したのが,「月光仮面」のテーマソングのパクリのような「燃えよドラゴンズ」という中日ドラゴンズの応援歌でした。名古屋だけ,この歌が大ヒットしました。

 私は,今でこそまったく日本のプロ野球に興味はないのですが,そのころは,受験勉強そっちのけで毎日野球中継を見たり聴いたりしていました。優勝パレードも見ました。今では懐かしい話です。
 当時のビデオを見ると,いろいろなことを思い出します。優勝したとはいえ,最後の2連戦で連勝しなくてはならないというぎりぎりのもので,しかもそのひとつ前のゲームも敗色濃厚,9回の表になんとか同点にして,その裏に当時のエースだった星野仙一投手を抑えとして登場させてなんとか逃げ切ったというものでした。
 そんな劇的な出来事も,今の若い人はまったく知りません。そしてまた,当時のヒーローだった星野仙一投手も70歳で,高木守道選手も78歳で,大島康則選手も70歳で,もう亡くなってしまいました。スポーツ選手は短命です。
 人生なんて,たかがこれくらいのものなんだと,今は思います。


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Harvest Moon 2021.

明け方の中秋の名月です。
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ミュンヘン男子バレー

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 2021年2月27日の朝日新聞に「オリンピックは選手のためでも見る人のためでも開催地の住民のためでもなく,主催する関係者のごく一部の人の利権が何よりも最優先されるということが,ごまかしようのないほどはっきりした」と星野智幸さんが寄稿していたように,今の私はオリンピックにはまったく興味がありません。
 はじまるまでは開催に反対といっていたマスコミも手のひらを返し,「はじまってしまえば国民は夢中になる」といっていつものように国民を見下した政治家など,私には不愉快以外の何ものでもありません。私はそこまでお人よしではありません。まあ,もともとテレビは地上波もNHKBS1 もまったく見る習慣はないので,関係ないですが…。 
 そんな私ですが,1964年に開催された東京オリンピックから1972年に開催されたミュンヘンオリンピックまでは夢中で見ていました。今日は,その中から,伝説のミュンヘンオリンピックで優勝した男子バレーボールの思い出です。

 ミュンヘンオリンピックが開催される半年くらい前,正確には1972年4月23日から8月20日まで「アニメドキュメント・ミュンヘンへの道」という番組が放送されました。この番組は,ドキュメンタリーとアニメーションを一体化させて,男子バレーボールの日本代表がミュンヘンオリンピックへ向けて取り組む様を,エピソード部分はアニメーションで,練習の模様などは実写映像を使って紹介したものです。
 このときのチームは,監督が松平康隆さんで,選手は猫田勝敏,南将之,中村祐造,森田淳悟,横田忠義,大古誠司,嶋岡健治というそうそうたるメンバーでした。私は,その前哨戦が名古屋で行われたときに見にいきました。みんな長身でかっこいいし,上手だし,よくもまあ,これほどの精鋭が揃ったものだと思いました。今でも名前をすべて覚えているほどです。私は森田淳悟選手の大ファンでした。
 それにしても不思議だったのは,本当に金メダルが取れかどうかもわからないのに,そういう結果になるのが既成事実のように番組が進んでいったことです。放送の最終回はオリンピックでのバレーボール競技が開始されるわずか1週間前でした。そのころにはだれしもその洗脳にかかり,金メダルをとるのは当然のことだと確信していました。

 事実,オリンピックでは,1セットも落とすことなく順調に勝ち上がっていって,準決勝まできました。ここで思わぬ事態が起きました。
 準決勝の相手はブルガリアでしたが,だれしも楽勝を信じていました。ところが,何と,あっという間にセットカウント0対2という絶体絶命になってしまったのです。これには衝撃を受けました。テレビで試合が放送されていたのは深夜です。でも,それでも,勝つかもしれない,いや,きっと勝つ,という妙な気持ちのまま,眠ることもできず,テレビにくぎづけになりました。
 この時点で,松平康隆監督は選手に次のように話しました。
 「お前たち,あと2時間このコートに立っていれば勝てるよ」
 松平康隆監督はそれしか言わなったそうです。
 第3セットもまた,リードを奪われて絶体絶命となったとき,松平康隆監督は,レギュラーメンバーに替えて,ブルガリアが絶対に起用してこないと想定していたベテランの主将・中村祐造と南将之を投入しました。どんな力が働いたのか,ここで空気が完全に変わりました。そこから2セットを連取してタイに持ち込んだのです。しかし第5セットもまた苦戦で,途中では6点差をつけられてしまいます。しかしそこからこの日不振だったエース大古誠司が突如よみがえり,逆転勝ちを収めたのです。試合時間3時間15分,これが,のちのちまで「ミュンヘンの奇跡」と語り草になった試合です。
 こうなると,もう決勝戦は勢いです。しかし,もうひとりのエース横田忠義は腰を痛め,痛め止めにチューブを巻いて出場していた姿を思い出します。その東ドイツにも第1セットを先取されて苦しみながらも勝利し,筋書きどおりの結果となりました。
  ・・
 勝負の神様は,時として,こうしたありえないことを起こすのです。
 こうしたスポーツの感動を政治や利権で汚してほしくないものです。

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 日本男児が走るのはねェ,お巡りに追われてるときと,親父に命狙われてるときだけ…?
 追われてねえのに走るのを「スポーツ」っていうんですか?
 だったら私にゃあ関係ねえや。
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 これは,2021年7月28日の朝日新聞のコラム「多事奏論」に紹介されていた,大河ドラマ「いだてん」でビートたけしさんが演じた五代目古今亭志ん生のせりふです。  


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 2021年7月24日から25日にかけて,NHKBSP で伝説のサイモン&ガーファンクル・ニューヨークセントラルパークコンサートが放送されました。
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 私は,若いころから,サイモン&ガーファンクルとビリー・ジョエルの音楽が大好きで,それでニューヨークに,さらにアメリカに憧れて育ちました。私のアメリカへの想いの原点です。今でも,これらの音楽が最高だと思っています。しかし,もう,今の若い人は,サイモン&ガーファンクルもビリー・ジョエルもほとんど知らないかもしれません。
 サイモン&ガーファンクル・ニューヨークセントラルパークコンサートは音源としては何度も聴いたことがあるのですが,映像としてみたのは,意外にもこれがはじめてでした。
 このところ,こうして,若いころから憧れていた様々なことが次々に実現してとてもうれしいです。

 サイモン&ガーファンクル(Simon & Garfunkel)は1960年代に活躍したユダヤ系アメリカ人のポール・サイモン(Paul Frederic Simon)=写真右側 とアート・ガーファンクル (Arthur Ira Garfunkel)=写真左側 によるフォーク・デュオです。1964年にデビューし1970年に活動を停止するまで数々のヒット曲を世に送りだしました。私は,この年代からは少し若いために,その絶頂期は知りません。 
 ふたりは ニューヨークの小学校時代からの親友で,1957年に「トム&ジェリー」を結成,その後大学での学業に専念したのち,1963年に再びコンビを組み,1964年にグループ名をサイモン&ガーファンクルと改めてデビューしました。
 はじめは売れませんでしたが,プロデューサーのトム・ウィルソン(Thomas Blanchard Wilson Jr.)が「サウンド・オブ・サイレンス」(The Sound of Silence)をシングルカットして発売したところ全米1位の大ヒットとなり,一躍人気フォークロック・デュオに躍り出ました。
 しかし,1970年に発表されたアルバム「明日に架ける橋」(Bridge Over Troubled Water)の制作中に音楽に対する意見の違いが表面化したことで,このアルバムを最後に活動を停止し,それぞれのソロ活動に入ることになりました。1970年の活動停止後もガーファンクルはポールサイモンのコンサートにゲスト出演をしていました。
 それから11年経った1981年9月19日,ニューヨークのセントラル・パークで再結成チャリティコンサートを開きました。これが今回放送されたものです。

 ニューヨークのオアシス・セントラルパークは,1970年代半ばには劣化状態にありました。しかし,再開発をするための予算3,000,000ドル,約3億円の財源を欠いていたので,非営利団体であるセントラルパーク管理委員会が1980年に設立され,資金を調達するためのキャンペーンを開始。考え出されたのがセントラルパークで無料の野外コンサートを行うということでした。そこで白羽の矢が立ったのが,1960年代にニューヨークで結成され,最も成功したグループのひとつであるサイモン&ガーファンクルだったのです。
 1981年の夏,野外コンサートの計画を提示されたポールサイモンは,スイスで休暇を過ごしていたガーファンクルにさっそく連絡をとりました。ガーファンクルはそのアイデアに興奮し,すぐにアメリカに戻りました。
 当初の計画では,それぞれがソロ演奏を行い,最後にデュオとして演奏することで締めくくることになっていましたが,結局,ふたりはショーのほとんどを一緒に演奏することに決めました。また,ポールサイモンがけがのためにコンサートのすべてにわたってギターを弾くことができなかったため,11人のミュージシャンがコンサートのために集められました。
 このコンサートの開演は,1週間前まで公式に発表されていませんでした。また,公演当日のお昼間は1日中雨が降り,それはコンサートがはじまるまで続きました。そんな状況で,公園当局は,当初,約30万人の参加者を予想していましたが,コンサートがはじまるとなんと50万人の聴衆が集まり,アメリカの歴史上7番目に多いコンサートとなりました。
 ステージの背景にはニューヨークのスカイラインを象徴する水タンクと空気出口のある都会の屋上が描かれていました。これがレコードのジャケットにある有名な写真です。やがて夕暮れになると,まず,バックバンドがステージに上がり,当時のニューヨーク市長エドコッチ(Edward Irving Koch)が「皆さん,サイモン&ガーファンクルです!」(Ladies and Gentlemen, Simon & Garfunkel.)と宣言してコンサートがはじまりました。ポール・サイモンとアート・ガーファンクルは拍手の中センターステージに上がり,お互いを見て握手し,コンサートがはじまりました。
 サイモン&ガーファンクルはこのコンサートで合計21曲を演奏しました。

◇◇◇
Buck Moon.

7月の満月はバックムーン。
7月25日の明け方の東の空に雲の間から幻想的な満月をみることができました。
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 株式会社ニコンは,2021年7月8日,デジタル天体望遠鏡の開発・製造・販売を手がけるフランスのユニステラ社とデジタル天体望遠鏡に関する共同開発基本契約を締結したと発表した。
 ニコンの光学技術と知見を生かし,著しい成長を遂げつつあるユニステラ社とともに,コンシューマー向け天体観測の分野で革新的なソリューションを提供していくという。
  ・・・・・・
というニュースがありました。

 天文雑誌などにはすでに紹介されているのかもしれませんが,今はそうした雑誌を読まない私はユニステラという会社をまったく知りませんでした。
 ニュースによると,ユニステラ社は2015年の設立で,GPSで自らの位置を把握し,視野にある天体と内蔵の座標データベースを比較することでターゲットの天体を自動捕捉する「自律フィールド検出技術」を搭載したディジタル天体望遠鏡を販売しているということです。
 この「自律フィールド検出技術」など私には何のこっちゃさっぱりわかりません。さらに「エンハンストビジョン技術」とかいう処理を常に施していて,夜空が明るく光害の大きい都市部などでも銀河や星雲,彗星などを図鑑と同等の色彩で鮮やかに写し出すことができるといいますが,これもまた,よくわかりません。
 ともかく,最新のディジタル技術を駆使して像が作られてそれを画面で眺めるというものでしょう。そうした像を眺めることが,本来の星空の楽しみであるかどうかはわかりませんが,ロクに星も見えない日本の夜空で,ディジタルカメラでわずかな光を受け止めて,コンピュータ処理して星空を浮かび上がらせてそれを天体写真と称していることを考えれば,それと同類でしょう。

 私にとってニコンの天体望遠鏡というのは,今から53年前に発売された口径8センチメートルの赤道儀です。その後「月刊天文ガイド」の影響もあって,アマチュア天文愛好家は星の写真を写すことがブームとなり,星を眺めるというよりも頑丈な架台に高性能のレンズを搭載した特に高橋製作所の望遠鏡を使用するようになりました。
 こうした機材は,コンピュータによる天体の導入やオートガイド以外は50年来その根本の考えが全く変わっていないようです。しかし,私は,今や,ほんの1分も露出すれば,以前は1時間も露出して写したのと同じ写真が写せるのに,こんな大げさで高価な重い機材など今や必要ないのでは,と何となく思っていました。これもまた,世界から遅れてしまった「何も変わらない」日本という国のつくる工業製品のひとつでしょう。そこで,今回のユニステラ社の望遠鏡が,私がぼんやりと考えていたディジタル時代の望遠鏡の姿だと衝撃を受けました。
 この会社が保守的なニコンと共同開発基本契約をしたことにはじめは驚きました。しかし,ニコンに何ができるのかなと思いました。それは,私にはニコンのディジタル技術が最新の考え方に戻づく最高水準のものとは思えないからです。せいぜい,最高の技術だと自画自賛しているレンズを提供するくらいしか思い浮かびません。それとも,ニコンが現在発売しているようなディジタルカメラをこの望遠鏡に上手に融合することで,業務拡張を狙っているのでしょうか。
 私は,またはじまった,と思いました。それは,これまでのこの会社の数々の失敗に終わった新規開拓の製品を思い起こしたとき,いつも,思いつきでこうしたことをはじめても結局は長続きせず,2,3の適当な製品を発売して,売れなけばそれでおしまいとなっているからです。天体望遠鏡なんてそんなに売れるものでないから,この会社の新しい商売になるとも思えません。

 私は,オーストラリアで満天の星を見て以来,星は肉眼で見るに限る,と思うようになりました。
 オーストラリアの美しい星空を知ってしまった今,日本の濁った夜空で何をしようと,まったく意味がないように思えてしまいます。そこで私は,日本で高価な望遠鏡を購入して,ほとんど星も見えない空でディジタルカメラの力を借りて光を集めて,自宅でコンピュータを利用してお絵描きをして,それを天体写真として自己満足に浸っても,詮無いことだと,冷めてしまいました。
 しかし,夜になっても数個の星しか見られないような濁った日本の夜空しか知らず,オーストラリアの満天の星を見たことがないような若い人たちに,夜空には美しい星空があるということを知ってもらうことは意義があると思います。だから,最新技術を使ったユニステラ社のディジタル望遠鏡で,星の見えないこの国で,簡単に本当の星空の美しさが再現できるのなら,それはすばらしいことです。
 そこで,一部の愛好家のための高額なオタッキーな製品ではなく,手軽に安価に星空の美しさが味わえるような新しい望遠鏡が開発されるといいなあと淡い期待を抱いているのですが,現在のニコンの製品開発から考えてみても,おそらくは,その反対に,100万円もするような到底手の出ない製品を作り出すのではないかと心配しています。


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 去る6月29日,「ニコンZfc」という往年の「ニコンFM」を彷彿とさせたデザインのカメラが発表され,話題となっています。
 「ニコンFM」は1977年(昭和52年)の5月に発売され,「コンパクト・ニコン」と題された,ニコンにしては小型だった一眼レフカメラです。私は「ニコンFM」を発売日に購入しました。持っている機種の製品番号2103158,最も初期に生産されたものです。その後に購入した「ニコンF3T」とともに,今は,カメラがディジタル化されたのでフィルムカメラは全く出番がなくなりましたが,現在も手元にあります。
 そのデザインを今更マネても,使いにくいだけだと私個人は思うのですが,どうやら,保守的なニコン愛好家はこれが好みのようです。そして,このようなファンが岩盤層となっているこの会社は大変です。

 さて,私は小学校から電車通学をしていたので,中学生になって定期テストのときのような早く下校できる日は,途中下車して,繁華街の大きなカメラ屋さんに寄るのを楽しみとしていました。私はテスト勉強なんてほとんどしなかったので,テスト期間に早く帰れることで生じた自由時間が楽しみだったのです。
 とはいえ,当然カメラを買うお金などないのでショーウィンドウに飾られたものを見るだけでしたが,そこでもらうカタログを集めるのを趣味としていました。
 そのころはまだキヤノンからはプロ用のカメラは発売されておらず,高級カメラといえば「ニコンF」しかありませんでした。ニコンのレンズは今もニッコールという名前が冠されていますが,当時のニッコールレンズのコーティングは独特の色合いがあっていかにも高級そうでした。また,レンズは制作されたときどきによってデザインが異なりまったく統一性がなく,それがまた,いかにもその時代その時代で最高のものを作っているんだよという気がしたものです。カタログにも高級品の雰囲気が醸し出されていて,毎日,飽きずに眺めていました。
 今,ニコンのミラーレス一眼カメラとZマウントという新しいマウントの交換レンズのデザインが悪いという話をよくききます。そこで,先に書いたような懐古趣味の新製品が誕生したわけですが,この会社のデザインは昔からこんな感じで,どことなく常識から逸脱していたものです。口径8センチの天体望遠鏡もそうでした。だから,今日の製品のこうしたデザインを受け入れられない人は生粋のニコンファンではないのでしょう…,と私は思います。

 この時代,キヤノンはまだニコンのライバルでなく,むしろ,トプコンというカメラが異彩を放っていました。また,ミランダというカメラが何か不思議な魅力を持っていたのですが,私の住むところでは,カメラショー以外でホンモノを見たことすらありませんでした。当時は今とは違って流通システムも未熟な時代だったから,東京以外では手に入れることも不可能でした。
 さて,いくら今回発表された「ニコンZfc」が昔のニコンを彷彿とさせるといったところで,そういうことを懐かしがる人たちを,それ以前からの愛好者である私は,まだ若いなあと感じてしまいます。堅牢性と信頼性で「ニコン神話」を作り出した本当のニコンは「ニコンFM」や「ニコンF3」ではなく,「ニコンF」なのです。
 しかし,「ニコンF」は,今でこそレジェンドであり,神話となっていますが,実用機としては,シャッターボタンは押しにくい位置にあったし,フィルムを入れ替えるにはボディを分解しなければならなかったし,露出計をつけると不格好だっだし,ニッコールレンズにはいわゆる「カニの爪」がついていたしと,実際は,非常に使いにくく,不完全なカメラだったのです。
 ただ,その不完全さを時代が容認したのです。そして,それにも増さるブランド力がこの会社にはありました。
 今,ニコンのカメラを,時代遅れだの性能が劣るだのといってさもわかったかのように揶揄する人がいますが,この会社はずっとこうでした。ただ,今の時代は,その不完全さと無骨さを容認する余裕がないというだけのことでしょう。


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 今から50年近く前,NHKの地元の天気予報のバックに,御園天文台の映像が放映されていたことがあります。それを見て,私はこの天文台の存在を知り,こんなところがあるのかと憧れました。
 小学生のころ「月刊天文ガイド」で星に興味をもち,望遠鏡を買ってもらったり,一眼レフカメラを買ってもらったりをしたものの,実際は満天の星空を見たこともなかったということはすでに書きました。
 高等学校で同級生だったある生徒の父親は地元の有力者で,父親にもらったとかいって,御園天文台のパンフレットを私にくれました。しかし,私が実際に御園天文台に行ったのはそれから10年近く過ぎた後のことでした。

 就職したのち,憧れだった御園天文台に行ってみようと思い立ちました。しかし,私はまだ車を持っていなかったので,豊橋まで名鉄で行き,そこでJRの飯田線に乗り替えました。列車は三河を山の中に進みます。ものすごく遠いところに来たような気がしました。最寄り駅の東栄というところで降りても,そこから御園天文台のある東栄町まではさらにバスに乗る必要がありました。しかし,時刻表を見ると,バス1日に数便しかなく,歩くことになりました。何分,というか,ほぼ1時間くらいだったか歩いて,やっと,東栄町に着きました。
  ・・
 御園天文台に行くと,台長だった金子功さんが迎えてくれました。金子功という人は,その当時,もう,結構なお歳でしたが,天文台のさまざまな設備を案内してくれたり,ずいぶんの時間,お話をしてくれました。
 おそらく,そのころの金子功さんは今の私の歳くらいだったと思うのですが,山奥の天文台に若者がわざわざ訪ねてきたら,やはりうれしいでしょう。はじめてお目にかかった金子功さんは,私には大先生のような,あるいは,仙人のようにも思われましたが,実際はどんな人か,まったく存じあげていませんでした。今調べても,やはり,詳しいことはなかかなわかりません。私は,こんな山の中に天文台を作って自由気ままに生きている(ように見えた)のだから,よほどのお金持ちなのかと思いました。
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 天文普及家である金子功さんは1918年に生まれ,2009年に亡くなりました。
 独力でピンホール式プラネタリウムを考案し,1953年(昭和28年)に名古屋市東山天文台で初公開しました。その後改良を重ね,1950年代の後半から1970年代までの間に全国各地の施設や学校に数多くのプラネタリウムを納入しました。日本のプラネタリウム初期において,この金子功さんの考案した「金子式プラネタリウム」 は,日本において,プラネタリウムを身近にした役割を果たしたのです。
  ・・・・・・
  
 このように,私が若いころに,今のような積極性や情熱があったとしたら,もっといろんなことができるだけのチャンスはたくさんあったのです。しかし,社会人でなかなか時間がとれなかったことを言い訳に,実際は,私の性格があることにとことん熱中できないことから,結局,それ以上の活動は何もしませんでした。 
 しかし,おそらく,若いころに熱中していたら,今も金欠病だったことでしょう。
 しかも,山の中に移り住んでそこに家を建てて趣味で星を見たところで,その結果は何もないということを知ってしまった今,そんなことに夢中にならなくてよかったのではないかと思うのです。
 昔に戻れない今の自分を正当化しているだけなのでしょうが。
 なお,私が訪ねたころの御園天文台は廃校となった小学校を利用した御園天文科学センターに移転されましたが,その後,新たに建物が作られて,現在は,スターフォーレスト御園という施設になっています。


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 私がオーロラを見るためにフィンランドのロヴァニエミに行ったのは2018年の2月のことでした。
 その前年2017年の8月にアラスカで偶然オーロラを見ました。そして,また見たいという想いから出かけたのがフィンランドだったのです。
 だれも一度は見たいと思っているオーロラも,実際に見にいくとなると,結構たいへんなものです。しかし,もともと強運の私は,意外なほど容易にオーロラを何度も見ることができたのでした。

 今思うに,私がこれまで行った旅の中で,なんとなく行きたいと思っていても,実際には縁がないだろうとあきらめていたのが,オーロラを見ることとオーストラリアのエアーズロックに登ることでした。コロナ禍の今は別として,通常なら,旅行社に行って,お金を出してツアーに参加すれば,どちらもその場所に行くことはできるでしょう。しかし,行ったとしても,そこで実際にオーロラを見ることできるか,また,エアーズロックに登ることができるか,となると,よほどの強運に恵まれる必要があります。オーロラが見られる確率は60パーセント程度だし,今は登山すら禁止になってしまったエアーズロックですが,登ることできたころも,登頂が可能な日は30パーセントほどの確率でした。
 私は,ツアー旅行とは無縁ですが,まあ,行くこと自体はなんとかなるものです。そして,ともに運にもめぐまれて,実現しました。個人旅行の方が予定に左右されないだけ,運に恵まれる機会は多いのかもしれません。

 ロヴァニエミに行った2018年の前年の暮れごろ,何となくエクスペディアを見ていたら,フィンランドのロヴァニエミというところはオーロラが見ることができて,そこへは,宿泊と往復の飛行機代を合わせても,結構安価に行くことができることを知りました。そこで,当時はロヴァニエミがどこなのかも知らなかったのに,思いつきで予約をしてしまったのでした。現地がどんな状況なのかは皆目わからなかったのですが,寒いということだけはわかったので,とにかく寒さ対策だけして,さらに,現地のオーロラツアーの予約を入れて旅に出たわけです。
 オーロラについてはすでに何度も書いたので,ここでは触れません。
  ・・
 これまでいろんなところに行ってみた結果,私が今と同じ程度の知性や財産をもっているという条件でもう一度生まれ変われるとしたら,私は,ニュージーランドかフィンランドかオーストリアがいいなあと思っています。アメリカは遊びに行くにはとても楽しいところですが,生まれたいとは思いません。
 日本は嫌です。ただし,日本以上に,絶対にそこには生まれたくない国が山ほどあります。

 フィンランドは,この翌年の夏にも,ヘルシンキをはじめとして,タンペレ,トゥルクなどの町に行きました。どこもとてもいいところでした。
 ロヴァニエミは冬の最も寒い時期しか行っていませんが,夏に行ったらどういう感じなのでしょうか。このこじんまりとしたおとぎの国のようなきれいな町は,きっととても過ごしやすいところだと思います。もし,私がロヴァニエミに住んでいたとして,懸念されるのは,寒さもありますが,何もすることがないのでは? ということです。そしてまた,さすがにこんな緯度の高いところは星見に適しているとは思えません。今日の写真のように,オーロラが見えるときは満天の星も見られるのですが,マイナス20度台での星見は過酷な話です。
 しかし,もし,この地に生まれていたら,おそらくは,今とはまったく別の楽しみがあったことでしょう。いずれにせよ,今より,ずっと精神的に豊かな人生であることだけは確かだと思われます。何といっても,この町にはかけがえのない大自然がいっぱいあります。聞くところによれば,極夜になる前のころは,毎日,空はこの世のものとは思えないほど美しく輝くのだそうです。
 などと書いていたら,本当に住みたくなってきました。

roba


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 今から40年ほど前の「月刊天文ガイド」は読者の天体写真が大流行していたのですが,入選した写真のほとんどは同じスペックでした。それは「望遠鏡はタカハシのP型,カメラはアサヒペンタックスSP,フィルムはトライX,そして,撮影場所は三河高原牧場」でした。
 前回書いたように,私が「天文ガイド」をはじめて購入したのは小学生のころで,生意気にも望遠鏡と一眼レフカメラまで買ってもらったのに,星を見ることすらできないところに住んでいたし,当然,車も運転できないから,結局,何をするでもなく,月日が過ぎていきました。
 私は大学生になって運転免許こそ手に入れましたが,車を買ったのは就職してからのことでした。

 だから,「望遠鏡はタカハシのP型,カメラはアサヒペンタックスSP,フィルムはトライX,そして,撮影場所は三河高原牧場」という印象をずっと持ち続けていた私は,そうか「(愛知県の)東の山間部に」行けば満天の星が見られるのだと思って,長年憧れていました。
 今でもそうなのですが,私は物質欲がなく,何を買うにも人より遅いのです。だから,携帯電話も長年持っていなかったし,スマホもそうだったのです。同じように車も手に入れたのが遅く,就職してしばらくしてからでした。車を手に入れたときはうれしくて,これであこがれの「(愛知県の)東の山間部に」行くことができると思いました。
 しかし,「(愛知県の)東の山間部に」行っても,そこは,私が思っていたほどの桃源郷ではありませんでした。どこまで行っても,この国では光害に悩まされ,天気に悩まされていただけでした。さらに,当時は,パチンコ屋のサーチライトというバカげたモノが流行していて,日本の夜空がどこも光でくるくると輝いていました。本当に日本人はアホです。

 そんなこんなで,結局,念願の車を手に入れたのにそれほど熱中することもなく,あれから40年近くも過ぎてしまいました。
 その間にいろんなことを知りました。
 ハワイで,オーストラリアで,ニュージーランドで,正真正銘の満天の星を見ました。世界中の多くの天文台にも行きました。また,当時の「月刊天文ガイド」で常連だった人たちが活躍したところに行ってみて,ああ,こういうところで星を見ていたのかという謎が解明できました。
 そして,今になって,憧れは幻想に変わり,しかし,それはそれで,こうした趣味はやりようによってはとても楽しいものだとやっとわかりました。


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 小学校5年生のころ,なぜか,私のいたクラスで流行したのが「月刊天文ガイド」を読むことでした。もし,この出会いがなかったら,今の私の趣味のひとつはなかったことでしょう。
 そのころ,「月刊天文ガイド」と「天文年鑑」,そして「天体観測ハンドブック」,この3冊が仲間内の必携の本だったのです。そして,もっぱら熱中したのは,「月刊天文ガイド」に掲載されていた望遠鏡会社のカタログを集めることでした。
 しかし,残念ながら,私は,もう3歳ほど歳とっていたらよかったのです。それは,私がはじめて購入した「月刊天文ガイド」は1968年の3月号で,「月刊天文ガイド」の創刊はそれより3年ほど前のことで,創刊号を知らなかったからです。この3年間に起きたのが,1966年に地球に近づいて,今世紀最大といわれた池谷・関彗星の接近でした。が,私が興味をもったころにはすでに伝説となってしまっていました。
 私が知ったのは,「月刊天文ガイド」には,「池谷・関彗星写真集」という増刊号があったということでした。今にして思うに,まだ,私がはじめて購入した「月刊天文ガイド」の1968年の3月号にはその増刊号の広告がまだあったので,出版社には在庫があったのでしょう。そこで,本屋さんに注文すれば入手できたのですが,小学生にそんな知恵はありませんでした。本屋さんの店頭に並んでいない本はすでに売られていないものだ,と思い込んでいたわけです。
 今,「池谷・関彗星写真集」と「月刊天文ガイド」の創刊号は,まれに,20,000円ほどで売りにだされますが,高価すぎて手が出ません。

 そもそも,私は,星が見えるような空の暗いところに住んでいたわけではなので,雑誌に書いてあったような星空にはまったく実感がなく,私にとって,そのすべては虚構なのでした。なのに,親にねだって当時の値段で30,000円,正しくは定価29,800円の望遠鏡を何割か割り引いてもらってそれを買ってもらいました。さらには,「月刊天文ガイド」に載っているような天体写真を写したくなって,一眼レフカメラなどというものも親にねだりました。偉そうに,生意気な小学生は,ニコンFという最高級機があることは知っていて,そのカメラのカタログを飽きずに眺めたりもしましたが,当時は,カメラ店に行っても,ニコンFなど,在庫すらおいていないという時代でした。また,ショーケースの中のニッコールレンズの緑色に光るコーティングの美しさに見とれていました。
 ニコンFもニッコールレンズも高価で小学生の手の入るようなものではなかったのです。しかし,「月刊天文ガイド」の常連だった藤井旭さんの使っていたカメラがニコンFだったものだから,それが欲しくて仕方がなかったのです。結局,買ってもらえたのはペンタックスSPでした。これだって,高級カメラです。一緒に買ってもらった標準レンズはF1.8というものだったのですが,それもまた不満なのでした。F1.4というもう一段階明るい,しかし,値段の高いレンズがあったので,これを買ってくれなかったことが不満でした。
 今考えると,とんでもない小学生です。今から50年前の30,000円は,今の価値から考えると,20万円以上です。私は,そんなものをねだる小学生だったわけです。

 しかし,実際は,小学生が一眼レフなんて買ってもらっても,使いこなせるものでもないのです。絞りだとかシャッタースピードなんてさっぱりわからなかったからです。
 買ってもらった望遠鏡だって,満足に星が見れるところに住んでいたわけではないから,月を見るくらいしか使う場所がないのです。だから,毎日のように,組み立てては片付けをやっていただけで,ほんの数回星を見ただけでネジ山が潰れ,望遠鏡は無残な最期を遂げました。
 そもそも,極軸望遠鏡もついていない赤道儀なんて,今考えても,何の役もたたないおもちゃでした。
 そんなこんなで,「月刊天文ガイド」は,小学生にとって,ずいぶんと罪作りな雑誌だったわけです。私が,このころの「月刊天文ガイド」に載っていたような活動ができるようになったのは,それから実に40年も過ぎてからのことでした。


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