しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国50州 > ペンシルベニア州

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●外は雷雨●
☆16日目 8月11日(木)
 朝が来た。
 昨晩同様,この日も朝食をとらず早々にチェックアウトをして,ホテルのシャトルサービスを利用して空港に向かった。空港に到着して荷物を預ければ,旅はこれですべて終了である。今回の,長年行きたかったところ,やりたかったことをすべて詰め込んだ長期間,長距離の旅はこれで終わりである。
 「長期間」といってもわずか2週間なのだが,仕事や留学ならともかく,観光としての旅行はこの程度がよいのである。これ以上長期間になると,たとえば爪切りのような,日常的な持ち物が必要になってくるのである。旅は身軽に,そして非日常に限るのだ。
 いや,旅に限らず,生きるということは,すべて身軽に限るのである。近頃はiPadやらiPhoneのようなものがあるから,余分なものを持つことなく大抵のことができるから,さらに身軽になってとても助かるわけだ。そしてまた,日々,非日常のときめきが必要なのである。

 このブログにすでに書いたように,アメリカでこそ効力を発揮するのが「エアラインアライアンス」である。この「エアラインアライアンス」においてゴールドステイタスさえ手に入れておけば,「TSA Pre」と書かれた優先者用のセキュリティを通って,ターミナルに入り,エアラインアライアンスのラウンジで出発までゆったりと過ごすことができるわけである。
 今回の旅は東海岸だったから,フィラデルフィアからデトロイトを経由してセントレア・中部国際空港に帰ることになる。MLBの日程の都合で,旅の途中でワシントンDC とフィラデルフィアを往復することになってしまったが,そのためにアムトラックにもメガバスにも乗ることができたから,そのこともまた,それはそれでムダでなかった。

 東海岸のメガロポリスは,おおよそアメリカらしくない。ここは日本の東京から大阪にかけてとさほど違いはない。ここには日本の企業もたくさん支社を構えていて,仕事で在留している日本人もたくさんいるに違いない。だから,私がこの旅で経験し,ここに書いたようなことは,そうした人たちにはあたりまえのことであったかもしれないが,私にとっては貴重な経験であり,多くの思い出ができた旅であった。
 しかしまた,帰国後,アメリカに住む私の知人が「もう東海岸は懲り懲りでしょう」と言ったが,その言葉こそが私の気持ちを代弁している。
 私は,この旅の35年前に生まれてはじめて憧れだったニューヨーク,ワシントンDC ,そして,ボストンとひとリ旅をした。また,今から数年前に,再びニューヨークとボストンに行くことができた。そして,今回はそのときに行くことができなかったワシントンDCにも再訪し,そしてまた,生まれてはじめて念願のフィラデルフィアにも行くことができた。そして,およそ,アメリカの東海岸がどういうところかは自分なりに納得がいった。
 そして出した結論が「もうこれでいいや」ということであった。私にとっては,こうした人口の密集した車だらけの贅沢極まりないアメリカではなく,広大な台地に広がる大自然こそがアメリカの魅力,なのである。

 朝食をとったりネットを見たりしてしばらっくラウンジで過ごしていると,やがて搭乗時間になったので,ラウンジを出て搭乗口に向かった。
 何事も偶数番号と奇数番号をうまく使い分けるアメリカのシステムは搭乗口もまた同様で,コンコースの左側と右側で、搭乗ゲートの番号も偶数と奇数に分かれている。
 いつものとおり,国内線ではファーストクラスにグレイドアップされて,広い座席に座って離陸を待った。ふと窓どから外を眺めてみると,かなり強い雨が降っていて驚いた。
 この旅でも晴れ男の私はずっと天気に恵まれたが,帰国の日になっても,空港に到着するまではその予感さえなかったのに,現在は,まだ朝であるにもかかわらず,かなり強い雷雨になっていた。

 さて,これから20時間余りをかけて,私は日本に帰国することになる。
 アメリカも東海岸は遠い。
 それでもデトロイトに到着さえすれば,セントレア・中部国際空港まで乗り換えなく行くことができるし,アメリカの国内線は待ち時間さえ少なければ時間の無駄もない。この日の帰国便はデトロイトでの乗り換え時間が非常に少なく,その点は便利なのだが,もし国内線のデトロイト到着が遅れると帰国便に乗り損ねる心配があるから,それもまたよしあしである。
 飛行機は定刻にデトロイトに向けて離陸した。

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●なんとかホテルにたどり着く。●
 不愛想で,かつ,不気味な運転手であったが,こうして,なんとか私はホテルの最寄りのバス停で降りることができた。
 旅先ではこれまでもいろいろなことがあったが,いつも,なんとか奇跡的に目的地にたどり着くことができている。しかし,おそらくそれは奇跡的ということではなく,だれであってもそのようにうまくいくのであろう。
 それにしても,電車に比べて,バスというのは利用するのが難しいものだ。それはアメリカだから,ということではなく,日本でもそう違いはない。 しかし一旦乗車してみると,バスを利用している人は弱者が多く,彼らはみな親切なのである。人の痛みというのをよく知っている。だから,助け合いの精神があって,なんとかなるのである。
 そしてまた,バスに乗ると,その土地に住んでいる人のことがよくわかるのである。
 とはいえ,ずっとその土地に住んでいても,いつも車を使っているからバスについて尋ねても知らない地元の人も多い。

 このブログ書きながら探しても,私の手元には空港のバス停以外,バスの写真がないのが残念なのだが,写真を写している余裕がなかったから仕方がない。バス停の写真の次に私が写したのは,今日の写真,つまり,夜明けの前のホテルの写真であった。
 話を少し戻そう。空港から乗ったバスで運転手に促されて降りたバス停からホテルまでは,徒歩でわずか5分程度であった。しかし,この日はものすごく暑い日で,少し歩くのも嫌であった。そうして,やっとホテルのある広い敷地に着いのだが,同じ敷地にはホテルが2軒あって,私が予約したのはずっと奥まったところの古いほうであった。
 そのホテルの部屋の写真が今日のものであるが,写真で見ると古びて見えないのがマジックである。
 チェックインをするためにフロントへ行った。確かにこのホテルの口コミに書いてあったとおり,フロントにいた女性はきわめて親切で愛想がよかった。しかし,だからといってホテルが新しくなるわけではない。
 このホテルにはレストランがなく,朝食は隣のホテルでとるのだと言われた。また,朝は夜明け前から隣のホテルと共通の空港までのシャトルサービスがあるという話であった。

 私はこのホテルに到着した時点で,なぜこんなホテルを予約したのか再び後悔した。しかし,だね,こういうわけのわからないことが,将来,ずっと思い出になるのである。
 私はアメリカで,ものすごく多くのこうした「しがない」モーテルに泊まった経験があるが,ほとんどの快適だったホテルのことは忘れてしまったが,記憶に残っているのは,まさしく,こうしたホテルばかりなのである。
 これもまた以前書いたことがあるが,アメリカのホテルは宿泊代が10,000円以下になるとろくなことはない。このわずか数千円の差が決定的なのである。アメリカでも,女性はこんなところには泊まらない,と聞く。

 ともかく,たとえ古かろうと汚かろうと,私はこの旅の最後の1泊を無事にホテルで迎えることができてホッとした。この日は,まだ夕食もとっていないかったが,もう食事をとらずに寝てしまうことにした。
 明日になれば早朝に空港に行って,デルタ航空のラウンジで,お腹いっぱいの朝食が無料で食べられるであろう。それを楽しみに最後の夜を過ごすとしよう。

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●一言も発しないバスの運転手●
 昨晩まで宿泊したホテルの最寄りの地下鉄の駅には,地下鉄だけでなく,空港へ行く電車の駅もあった。ちょうど,東京の地下鉄の駅と私鉄の駅があるようなものだ。
 私は,このときはじめて空港へ行く電車に乗ることになったが,駅の窓口に空港へ行く電車のチケット売り場があったのでそこでチケットを購入してホームに降りた。日本とは違って改札口というものはなく,車内で検札がくる。
 やがて,ホームに電車が滑り込んできた。乗ってしまえば空港までは遠くない。しかし,治安が悪いというのではないが,どうも車内の雰囲気がよくなかった。これは客のせいなのであろうか? それとも,この電車の走っている場所柄のせいであろうか?
 実際,ダウンタウンの西側はあまり風紀のよさそうなところでなかった。
 
 私が今晩のホテルを空港の近くにしたのは,明日のフライトの時間がとても早かったからだが,ダウンタウンから空港までがこれほど便利だったのならダウンタウンにもう1泊すればよかった。
 この日の晩予約したホテルは空港からは近かったが,それでも空港から歩いて行けるような距離ではなかった。そこで空港から路線バスに乗るのだが,その場所にはダウンタウンからもバスで行くことができて,しかもそのほうがずっと運賃が安かったから,私はよほどバスで行こうと思っていたが,もしそうしていたら,そのバスの通るところは,あまり風紀のよいところでなかったわけだ。

 30分もかからず,電車は空港に近づいてきた。窓から右手に広い空港が見られるようになった。アメリカの空港はどこもあまりに広すぎて,ターミナルから歩いて外にでるなんて不可能である。だから,たとえ空港に隣接したホテルであっても,車がなくそこに行くのは不可能である。
 やがて,電車は駅に到着した。
 私はまず空港に行って,明日のフライトのチェックインを済ませて,カバンを預けて身軽になるつもりであった。しかし,フライトのチェックインはできたものの,カバンは前日では預けられないと言われたので,仕方なくカバンを転がして,事前に調べておいたように,この日宿泊の予約をしたホテルまで行くバスが停まるバス停に行くことになった。

 ハワイ・ホノルルの空港も同じであるが,空港では,路線バスのバス停のある場所がなかなかわからなかった。アメリカでは路線バスなんて30分に1本来ればいいほうで,しかも時刻表すらないし,行き先も定かでなかった。
 それでもまだ,フィラデルフィアよりもホノルルのほうがましだった。
 どうにかバス停を見つけたが,わたしの乗るバスの番号には右まわりと左まわりの同じ行き先のものがあって,それだけでも混乱したのに,やはり,バスはなかなか来ない。バス停には2~3人バスを待っていた客がいたが,先に来た別方向のバスに乗っていってしまい,ついに私ひとりになった。
 ようやく私の乗るべきバスがきた… と思った瞬間,バスは私を無視して,停車もしないで通りすぎていってしまった。
 これを逃したら,さらに30分も待つわけだ。私は茫然とした。バスの進行方向には,ずっと向こうに,空港内の次のバス停があった。私はバスを追っかけて次のバス停まで行って,どうにかそこに停車していたバスに乗り込んだ。
 しかし,このバスの運転手,バス停を出発しても,ひと言も発しない。しかも,バス停の案内放送すらない。これではどこで降りればよいのか,どこで降りるためのひもを引けばいいのかさえ,さっぱりわからない。信号すらないから,バスは停まりもしない。これではらちがあかないので,私は,運転中のこわもての運転手に降りたいバス停を告げた。しかし,なんの返事ももらえなかった。
 不安でパニックになりそうになったころ,バスが突然停車して,運転手が私に,ここだ,と言ったのだった。

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●フィラデルフィアの公共交通「セプタ」●
 結論を先に書くと,私は数千円をケチったために,とんでもない状況に遭うこととなった。フィラデルフィアはダウンタウンから何の問題もなく公共交通機関で空港まで行くことができるのだった。つまり,私は、東京駅の近くのホテルに泊まって成田空港に行けばよかったのに,宿泊代が高いからと成田市のよくわならない場所に泊まったようなものであった。
 このように,私はなんど同じ目にあっても懲りないのであろう。
 アメリカでは「空港近くのホテル」というのがもっとも曲者なのである。たとえ近くであろうと,それは歩いて行けるような距離ではないのである。近いからといってタクシーを利用すれば数千円は吹っ飛んでしまうし,空港から送迎があると書いてあっても,送迎のバンを呼ぶ方法がホテルによって,また,空港によってまちまちだし,それを待っていると30分もかかってしまったりするからだ。

 アメリカ到着後は,ともかくレンタカーを借りてしまうか,あるいは空港からは公共交通機関(これは鉄道に限る)の接続が便利ならば,それに乗って最寄りも駅から徒歩圏内にホテルを確保するに限るのだ。今回の私の泊まったような空港の近くのホテルの場合,ホテルから空港にはシャトルサービスがあるが,ホテルにはレンタカーで行くことができるか,あるいは,公共交通機関(鉄道に限る)で行くことができる場所に確保することが大切なのである。
 いずれにしても,アメリカに到着した日と帰国する前日のホテル選びは慎重に行う必要がある。

 そんなことは十分に知っていながら,私はこの旅で,到着した日のオーランドでホテル選びを失敗し,帰国前日のフィラデルフィアで2度目のミスをした。どちらもきちんと計画を立てていたのにも関わらず,である。
 すでに書いたことだが,初日のオーランドは,空港のターミナルビルにホテルがあるからそこに泊まればよかったものを,数千円をけちったためにバカをみた。それでも,予定通り飛行機がオーランドに到着していれば,私の予約したホテルにバスで行くことができる見込みであったのに,飛行機の到着が遅れたために,すでに調べておいたバスはなく,タクシーに乗ったら望外な料金が取られた。そんなことなら,レンタカーを借りたほうがずっとまだマシだったのだ。
 そして,帰国前日のこの日である。
 こちらもまた,数千円をケチって,なにもわざわざ空港の近くのホテルに変わらずとも、フィラデルフィアのダウンタウンのホテルに連泊して,早朝空港に向かえばよかったのだ。
 
 フィラデルフィアのダウンタウンから空港までは電車で1本,乗り換える必要もなく短時間で行くことができるのだった。
 フィラデルフィアの公共交通機関はすべて「セプタ」というが,「セプタ」にはバスとトロリーと地下鉄がある。このうち,トロリーというのが日本人にはなにかピンとこないが,要するにに,これは1両編成の市電のようなものなのだ。
 そしてまた,「セプタ」ではなく,郊外に走る電車もあって,これは日本の私鉄のようなものである。
  ・・
 来てみれば簡単なことだが,ガイドブックを見ているだけではそれがよくわからない。おそらく,それは外国人が日本に来たときにも同じようにわからないものであろう。こうした「案配」というのが,旅をする前にいくら本を読んでもわからないことで,実際に旅をしなくては納得ができないのである。

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●レディングターミナルマーケット●
 私はこうして,ついに,念願の「自由の鐘」に会うことができた。その後,独立記念館,国会議事堂のツアーにも参加して,インディペンデンス国立歴史公園の見学を終えた。
 今回の私の旅はフロリダからはじまって,ずいぶん長い距離であった。フィラデルフィアにはやっと行くことができたが,これで,ずっと行きたかったところへはすべて行くことができた。
 ホテルに戻る前に,インディペンデンス観光案内所に寄り,そこで売っていたサンドイッチをお昼ご飯として食べた。しかし,結果的にこれはちと早まった。

 この日の予定はこれで終わりだった。この後はホテルに戻ってクロークに預けてあった荷物を引き取り,今日の宿泊先である空港の近くのホテルまで行ってチェックインをするだけであった。
 それで,この旅は終了である。
 しかし,ホテルに戻るにはまだ時間が早かったので,その途中にあって,ずっと気になっていたレディングターミナルマーケット(Reading Terminal Market)へ寄ることにした。
 行ってみてわかったことだが,このレディングターミナルマーケットこそが,実にフィラデルフィアらしい,というか,この街でもっとも魅力的な場所であった。もし,私がここに行かずに帰国していたら,フィラデルフィアに関する印象はずいぶんと違ったものであったことだろう。
 このマーケットは,これまで私が行ったアメリカの他の都会にはなかったものだった。ここはまるで日本にいるような,築地の場外というか上野のアメ横というか,そんな感じの場所であったのだ。

 レディングターミナルマーケットというのは120年以上の歴史をもつ地元民のための市場である。
 近くの農家から直送された野菜や果物,魚介類,肉,パン,スイーツ,チーズ,ワインに生花と,ありとあらゆるものがこのマーケットでは販売されていた。さらに,マーケットだけでなく,ここには非常に多くのフードコートがあって,ありとあらゆる食べ物を安価に食べることができる場所であった。
 つまり,フィラデルフィアで昼食をとるには,ここに来ればよいのである。
 このとき,私はすでにインディペンデンス観光案内所で手っ取り早い昼食を済ませてしまっていたことをずいぶんと後悔した。ここなら,もっと種類が豊富でしかも安価な昼食をとることができたのだった。
 もし日本人がフィラデルフィアに住むのなら,このマーケットの存在さえ知っていれば,何の心配もないことであろう。そうしたことから,ここに住む日本の人が書いたこのマーケットでおすすめの食べ物などの情報がネットにあふれているから,探してみると面白いと思う。

 昔,ニューオリンズに行ったとき,ニューオリンズを知らずしてアメリカは語れないなあ,つまり,ニューオリンズがアメリカの他の都市とはあまりに違うことに驚いたのだが,このマーケットもまた,アメリカの他の都市にはないものであった。
 今日では,日本はもちろんのこと,アメリカでもどの都会に行っても,同じようなチェーン店ばかりになってしまって,わざわざその町に行く意味がなくなってしまったが,こうしたローカル色あふれる場所に行ってこそ,旅で出かける価値があるといいうものであろう。

 私はこのマーケットをしばらく散策してから,市庁舎まで歩いて行った。
 市庁舎の広場では不思議なものを見た。それは,子供のおもちゃ自動車に乗って奇声を発している男であった。彼の服装から見て,ガードマンなのであろうか,あるいは警官なのであろうか?
 馬鹿げていたのは,彼は自分のやっていることを録画していたことであった。そして,その横で同じ制服を着た男が冷たい視線を投げかけていた。もし,日本でこれと同じことをやれば,彼は即座に懲戒免職になったことであろう。
 いったいあれは何をしようとしていたのであろうか?

 それはそれとして,この日もまた,ものすごく暑い日であった。市庁舎前の広場は地面から水が出ていて,ミニプールのようになっていた。そこで,子供を遊ばせている母親がずいぶんといた。
 私は,今やもう,アメリカだけでなく,日本もまた,観光地といわれる都会に行くことにはまったく魅力を感じなくなっていて,それよりも,そこに住んでいる人たちの暮らしぶりのほうにずっと興味がある。それとともに,私がもし,こういうところに生まれて,ここにいる母親だったら…… などと考えるようになってきた。
 フィラデルフィアという都会がどういうところかを語るほど私はここに滞在していないが,アメリカのメガロポリスとよばれる東海岸の都会の中では,最も日本人の暮らしやすいところのように思えた。
 さて,私の長い旅もこれで終わるのだが,この後もまだ大変なことが起きるのでであった。

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●独立記念館と国会議事堂●
 世界遺産でもあるアメリカの独立記念(Independence Hall)は,アメリカの独立宣言が行われた場所である。もとはペンシルヴァニア州の議事堂として使用されていたが,1776年7月4日,この場所で13の植民地の代表が集まってトーマス・ジェファーソンが起草した独立宣言書にサインすることでイギリスからの独立宣言が行われた。さらに,1987年にはアメリカの合衆国憲法が制定された。 
 1979年,独立記念館はそのことの歴史的な重要な証となるという理由から世界遺産に登録された。

 独立記念館は赤煉瓦造りの美しい2階建ての建物で,記念館前の銅像は初代大統領のジョージ・ワシントンである。
 内部を見学するにはガイドツアーに参加する必要があって,私は当日の朝,この整理券を手に入れ,ツアーの開始前に,まず,リバティセンターで自由の鐘を見学したことは前回書いた。
 いよいよツアーの開始時間が近づいたので,集合場所である敷地内のイーストウイング(East Wing)に行って並んだ。周りの人と雑談をしているうちに時間になったので誘導されて館内に入り,最初に大きな部屋でガイドから独立記念館についての説明を聞いた。
 次に向かった部屋が,ツアーのハイライトである独立宣言が採択されアメリカ植民地13州の代表が独立宣言に署名した「署名の間」,緑色で統一された室内であった。ここにはデスクの上に紙や本などが置かれ,当時の様子が再現されていた。ガイドがパネル等を用いていろいろと説明した。
 ガイドが,13州がそれぞれどのイスに座ったかという話をしているなかで,ここはカリフォルニア州の席,といういうジョークが飛びだしたりする面白い説明であった。無論,独立13州にカルフォルニア州はない。
 廊下や階段部分は青色が使われていた。

 ツアーを終えて外に出て,次に向かったのが国会議事堂であった。
 フィラデルフィアは1790年から1800年のわずか10年間であったがアメリカ合衆国の首都だった。このときに国の議事堂としても使用されたのがこの建物で,議員数が少なかった当時「元老院」が2階を議場として使用し,議員数の多かった代議院が1階を議場として使用したことが現在の「上院」と「下院」という呼び名の語源である。

 この国会議事堂(Congress Hall)は,1789年に「フィラデルフィア郡裁判所」として建設された。ここはイングランド植民地時代の典型的な建築物であるジョージア王朝様式の重厚な外観である。
 国会議事堂は,初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington)の2期目と,第2代大統領ジョン・アダムス(John Adams)の就任式が開かれた場所としても知られている。

 私は,日本の国会議事堂のなかにはいったこともなければ,県議会議事堂すら見たこともない。
 しかし,これまでに,外国からの旅行者であるのに,こうしてここフィラデルフィアの旧議事堂も,そして,ワシントンの現在の国会議事堂も,そして,多くの州の州議会議事堂もなかにはいることができた。こうした議事堂の内部を見学する度に,日本の民主主義が見せかけだけの借り物であると強く感じて,それをとてもはずかしく思うのである。それは,日本の議員の問題ではなく,古来より国民に根付く根本的な考え方自体が「権力=お上」という江戸時代の殿様国家と変わらないものだからである。

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●アメリカ独立の偶像「自由の鐘」●
 インディペンデンス国立歴史公園(Independence National Historical Park)には,大統領の家跡,リバティベルセンター(Liberty Bell Center),独立記念館,国会議事堂があって,無料ツアーの整理券はインディペンデンス観光案内所で8時30分から配布されるが,観光シーズンはとても混んでいるということなので,私は8時30分以前に並んで整理券を受け取ることにした。

 歴史公園に行ってみると,さほど広くはなかったが,アメリカの他の国立公園同様に手入れの行き届いたとても美しいところであった。さすがに時間が早かったのですぐに整理券を受けとることができた。
 次に,私はリバティベルセンターに行った。リバティベルセンターの開館は9時で,まだだれも並んでいなかった。
 アメリカの観光地は非常に混雑はしているが,開館前から並ぶというようなせっかちな人は日本とは違い多くない。私は,この旅でやりたいことのほとんどを成し遂げて,最後に残ったのが,この建物のなかにある「自由の鐘」であったから気が急いていた。
 やがて,開館時間になって私は館内に入ったが,目的の「自由の鐘」は建物の一番奥にあった。その間には自由の鐘に関するさまざまな展示があったが,私はそれを素通りして,どんどん進んで,ともかく,自由の鐘の前までたどり着いた。

 「自由の鐘」(Liberty Bell)はアメリカの独立と並び,アメリカ独立戦争を連想する上で最も突出したシンボルのひとつであるといわれる。また,独立,奴隷制の廃止,合衆国内の国民性と自由において最も親しみのある象徴のひとつでもあり,国際的な自由の偶像としても用いられてきた。
 1774年に行われた大陸会議の開催,1775年に勃発したレキシントン・コンコードの戦いの始まりを知らせるために鳴らされてたこの鐘は,1776年7月8日,フィラデルフィアの市民をアメリカ独立宣言の朗読へと招集させるために鳴り響いた。 
 
 「自由の鐘」には
  ・・・・・・
 PROCLAIM LIBERTY THROUGHOUT ALL THE LAND UNTO ALL THE INHABITANTS THEREOF LEV. XXV X.
  ・・
 全地上と住む者全てに自由を宣言せよ
    レビ記25:10
  ・・・・・・
 その下には
  ・・・・・・
 BY ORDER OF THE ASSEMBLY OF THE PROVINCE OF PENNSYLVANIA FOR THE STATE HOUSE IN PHILADA
  ・・
 ペンシルベニア州議会の命令によりフィラデルフィア議会議事堂へ
  ・・・・・・
 更にその下には
  ・・・・・・
 PASS AND STOW
 PHILADA
 MDCCLIII
  ・・
 パスとストウ(鐘の製作者名)
 フィラデルフィア
 1753年
  ・・・・・・
という銘文が刻まれている。刻印の原典は旧約聖書におけるレビ記の25章第10節によるものである。

 この「自由の鐘」は,1751年に,ペンシルベニア州議事堂での使用を目的としてロンドンにある鐘メーカーのホワイトチャペル社により製作された。1753年「自由の鐘」は議事堂外側の中庭広場に吊り下げられたのだが,はじめて鳴らされた際にひびが入ってしまった。
 この鐘を撤去する間,「自由の鐘」はフィラデルフィアに住んでいたジョン・パスとジョン・ストウによって再び鋳造されたが,完成した新しい鐘の音は満足のゆかないものであった。そこで再び鐘の製造に取り掛かり,3番目となる鐘が1753年に議事堂の尖塔に掛けられた。
 アメリカ独立の初期,「自由の鐘」はペンシルベニア議事堂の尖塔に依然として吊り下げられたままであったが,1777年,アメリカ独立戦争が激しさを増し,鐘はペンシルベニア州の村ノーザンプトンタウンへと移された。19世紀,「自由の鐘」は1804年にアレクサンダー・ハミルトンの死を,1824年にフィラデルフィアへのラファイエットの帰還を,1826年にジョン・アダムズとトマス・ジェファーソンの死を,1832年にジョージ・ワシントンの生誕100周年記念を,そして1834年にラファイエットの死を,さらに1835年にジョン・マーシャルの死を,1841年にウィリアム・ハリソンの死を告げるために鳴らされた。

 2回目にひびが入ったのがいつであるか確かではないが,鐘は1846年2月に修理された記録が残っている。それは,1846年2月22日のことである。「自由の鐘」はジョージ・ワシントンの誕生日を祝って独立記念館の尖塔で数時間に渡って鳴らされたが,鐘が鳴らされた際に割れ目部分の上部から鐘の冠の部分まで亀裂が広がってしまい,使用不能になってしまったのだった。
 現在もその表面に痛々しく残るその亀裂は修復が施された痕跡であって,当時できた割れ目そのものではない。1852年,鐘はそれまで吊り下げられていた尖塔から移動され,独立記念館内の「独立宣言室」に展示されることとなった。1885年から1915年まで「自由の鐘」は数多くの都市を訪れ,国際博覧会でも展示されたが,1930年代になると,鐘をあちこちへ移動させるにはあまりにも危険であるとの結論が下され,この慣行は終わりを告げた。

 1976年,アメリカ独立200周年記念期間のことである。増加すると思われる観光客を予期して「自由の鐘」は再び独立記念館からガラスパビリオンに移された。しかし,このパビリオンはあまり人気がなかったので,2003年に開場となるより大きなパビリオン創設の計画が立てられた。そして「自由の鐘」は南西側近隣に新しく建設されたパビリオンであるこのリバティベルセンターへ移動されて現在に至るのである。

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●ここはアメリカの「美観地区」●
 朝食を終えても独立記念館のツアーの整理券を配布する時間にはまだ余裕があったので,オールドシティ地区を散策することにした。
 ここはヨーロッパでいうところの旧市街であり,京都の祇園や高山の歴史地区,あるいは,倉敷の美観地区のような感じの場所であった。
 ここにはアメリカ建国初期の史跡が数多くあり,すべて徒歩圏内で,こじんまりとした美しい場所であった。アメリカのこうしたところは概して治安が悪かったりするが,ここはそうしたこともないとても素晴らしいところであった。

 近年,外国人観光客だらけで情緒を失った -日本はすべて金儲けが目的だから,そういうところにはやたらと店ができたりして,ますます落ち着いた雰囲気がなくなるが- 京都や高山よりも,ずっと落ち着いたところであった。赤煉瓦が美しい古い街並みで,建国時のアメリカにタイムスリップしたかのような気持ちになれた。
 この一角はデラウエア川(Delaware River)が真近に迫っている狭い場所だが,そのなかでももっと東側,つまり,川に近い場所がエルフレス小径(Elfeth's Alley)である。石畳のエルフレス小径は1720年から1830年に造られたとされる現存するアメリカ最古の住宅街である。
 道の両脇には赤煉瓦で統一された可愛らしい家々が30軒ほど並んでいる。現在でも普通の住居として一般人が居住している。

 エルフレス小路から歴史公園の方向に少し歩いていくと,ベッツィ・ロスの家(Betsy Ross House)がある。
 ベッツィ・ロスは初めて星条旗を縫った女性として有名で,現在は彼女の家が史跡になっている。家の外には昔のアメリカの星条旗が掲げられていて,その星のデザインは今より数が少なく独立当時の13個である。
 アメリカは13の州から独立したわけだが,国旗のcanton(右上の小区画)に描かれた星が州の数を表していて,それが次第に増えていくというアイデアははじめからそのように考えられたものなのだろうか? と私は疑問に思った。
 この史跡は博物館になっていて,有料で見学することができる。当時の裁縫道具やキッチン用具が展示されているということだったが,時間が早かったので,私は入ることができなかった。

 星条旗は独立戦争時にフィラデルフィアでベッツィ・ロスが裁縫したものが始まりだといわれているが,ベッツィ・ロスが最初のアメリカの国旗を作ったということは歴史上資料では証明されていない。それは,ベッツィ・ロスの孫のウイリアム・キャンビー(William Canby)が11歳の時に,ベッツィ・ロスから「自分の夫の兄ジョージ・ロスがアメリカの国旗を作る必要性を痛感していたジョージ・ワシントンの意を受けてロバート・モリスと一緒にアメリカの国旗を作るよう頼みにやってきた。そしてcantonに13個の五芒星を円形にあしらった国旗を作った」というのを聞いたと証言したことによる。

 独立戦争当時,アメリカでは国旗が国作りに必要とは考えられていなかったようである。独立戦争が拡大し植民地共通の旗の必要性が叫ばれるようになってできあがったのが,cantonの部分にイギリスの国旗が組み込まれ,残りの部分に13本のストライプが組み込まれた「大陸旗」とよばれるものであった。
 その後,大陸会議が1777年6月14日に「合衆国国旗は赤白交互の13本のストライプからなりcantonには青地に白色の星座をつくるべし」という決議を行った。この決議をした議員たちにはcantonの部分の白色の星の円形の置き方について共通理解があったといわれ,また,cantonの部分に13の白色の星を円形に並べたのはフランシス・ホプキンソン(Francis Hopkinson)という人物のデザインであったことはわかっている。
 その2か月後に国旗制定の記事がアメリカ各地の新聞に掲載されアメリカ国旗は人々に認知された。そのころの国旗は「条星旗」(Stripes and Stars)と呼ばれ,現在とは異なって星よりもストライプの方が重要とみなされていた。
 国旗が有名になったのはフランシス・スコット・キー(Francis Scott Key)が1814年に「星条旗」(The Star-Spangled Banner)という愛国歌を作詞してからである。そして,南北戦争で国旗は「市民宗教」の最高位に登りつめ,国旗崇拝の運動が高まり,1880年代から20世紀初頭にかけて国旗はアメリカのすべての公立学校に置かれ「忠誠の誓い」(Pledge of Allegiance)で称えられた。
  ・・・・・・
 Pledge of Allegiance
 I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.
 忠誠の誓い
 私はアメリカ合衆国国旗とそれが象徴する万民のための自由と正義を備えた神の下の分割すべからざる国家である共和国に忠誠を誓う
  ・・・・・・
 1924年の全国国旗会議で国旗の礼式に関する民用規定が決まり,そこで星条旗のデザインが確定しアメリカ国民の愛国心の中枢に位置するようになった。

 さらに歴史公園に向かっていくと,ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)の墓があった。
 ベンジャミン・フランクリンはアメリカ建国の父のひとりであり,現在の100ドル札にも描かれている。
 ここもまた,墓地に入るのには入場料が必要なのだが,墓は墓地の柵の隣にあるので柵越しに外から見学することができる。並んだ隣には夫人が眠っているということである。

DSC_2476DSC_2475DSC_2474DSC_2479●食べることに関しては…●
☆15日目 8月10日(水)
 今日の夕方にフィラデルフィアの空港近くのホテルに移って,明日の朝には帰国の途に着くので,今日が実質最終日であった。
 この旅の35年前に,生まれてはじめてのひとり旅でアメリカ東海岸に来たとき,グレイハウンドバスでボストン,ニューヨーク,ワシントンDCと移動したが,ワシントンDCとニューヨークの間にあるフィラデルフィアへ行かなかったことをずっと後悔していた。
 今回,フィラデルフィアで見たかったのは,先に書いた映画「ロッキー」の銅像と「自由の鐘」であったが,35年前にはロッキーの銅像はなかったから,今回行くことができて,逆によかった。

 旅をするには順序というものがあるようで,私はそうした運に恵まれているようなのだ。
 たとえば,南十字が見たいために,私はまず,ハワイ島のマウナケアを目指した。その次にニュージーランドのテカポ湖に行き,そして,ハワイ・マウイ島へ行き,その後でオーストラリアへ行った。何も深く考えてなかったが,もし,はじめにオーストラリアへ行ってしまっていたら,きっとニュージーランドへ行くことはなかったであろう。また,ハワイ島より先にマウイ島へ行っていたらハワイ島で南十字を見ることもなかったであろうし,マウナケア山にも登っていなかったであろう。
 それよりもなによりも,アメリカ50州制覇の前にニュージーランドへ行ってたらアメリカ50州の制覇などしなかったに違いない。

 話を戻して…。
 混雑するという「自由の鐘」を見るには,開館前に行くべきだと思ったので,早朝,ホテルを出ることにした。アメリカの大都市の観光地は,どこも混んでいるから,なるべく早く開館前に到着するに限るのである。
 私はホテルをチェックアウトしてカバンをクロークに預けた。車を使わない旅というのは,カバンの処遇が一番の問題なのだ。
 日本の観光地でも,大きなボストンバッグをもって旅をしている外国人を見かけるが,一時預かりやコインロッカーを知らないのに違いない。アメリカでも35年前に旅をしたときは確かにコインロッカーが存在したが,考えてみれば,これほどセキュリティ上危険なものはないから,今は存在しないのではないか?

 さて,私は,地下鉄に乗って数ブロック,この自由の鐘がある歴史地区に到着した。フィラデルフィアは非常に狭いところにこうした歴史地区があるので,歩いて観光するのが楽であった。
 少し到着するのが早すぎたが,幸い,地下鉄の駅を出たところに,非常に安価に朝食をとることのできるレストランがたくさんあったから,私は,その1軒でかつてないデラックスな朝食をとることができた。
 フィラデルフィアは食べることに関してはアメリカ有数の都会なのであった。

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●たいへんまずいラーメンを食べた。●
 美術館を出て,私は再び歩いてホテルに戻ることにした。すでに書いたことがあるが,フィラデルフィアの見どころのほとんどは地下鉄でアクセスできる。しかし,美術館は地下鉄で行くことができないので,どうやって美術館に来るのか不安であったが,距離にしたらわずか2キロ程度で,30分歩くだけだった。ただし,ものすごく暑い日だったので,それだけが身にこたえた。
 ホテルまでの帰路,美術館からダウンタウンにつながる北西から南西に走る道路はベンジャミン・フランクリン・パークウェイといった。この道路は中央分離帯の部分が散策道になっていて,夕方だったので多くの人がジョギングをしていた。

 やがて,ローガン・スクエアというロータリーにぶつかった。このロータリーのまわりには,自然史博物館(The Academy of Natural Sciences of Drexel University)やフランクリン・インスティチュート(The Franklin Institute)という名の科学館が集まっていた。さらに,Aviator Park という名の公園があった。
 このあたり,特に治安が悪そうな場所ではなかったが,私がちょうどそこを通りかかったとき,公園で炊き出しがはじまった。この炊き出しというのはホームレスを対象としたものであって,準備ができると,公園にいたけっこう多くのホームレスが集まってきた。
 日本にもバブルがはじけたころの都会ではホームレスが珍しくなかったが,アメリカでも都会にはホームレスが少なくない。しかし,炊き出しというのははじめて見た。

 そんなこんなで,夕方のフィラデルフィアを散歩しながら私はホテルまで戻ってきた。この日の夕食は前回フィラデルフィアに来た時と同じフードコートでと考えていたが,今度こそは前回食べられなかったラーメンにすることにした。
 フードコートにあったラ―メン店のメニューは写真のようであった。私は味噌バターラーメンなるものを注文したが,こんなものでも90ドル,約1,000円もする。1ドル110円という相場が正しくないことがこれだけでもわかるであろう。
 注文を受けた若い男は,たどたどしくかつ不器用に調理を始めた。まあ,いわば,アルバイト初心者がスガキヤでラーメンをつくるようなものである。
 ここのラーメン,何がおかしかったかといえば,写真ではわからないであろうが,ラーメンの入った容器はペランぺランのプラスチック,日本のコンビニで買う弁当の容器のようなものであった。これには驚いた。これではまったくおいしそうでないのである。
 このあたりで,私はラーメンを選択したことに後悔をした。そしてまた,食べてみると,これもまた期待どおり? たいへんまずかった。

 これもまたいつも書いているように,私はまったくグルメではない。私のまわりにはグルメが多いので,お付き合いで結構ご馳走を食べたりすることもあるが,自分ひとりだとまったく無頓着である。
 日本でも,ひとりで旅をしているときは,観光地に行っても吉野家で牛丼を食べているくらいである。酒は底なしだが,これもまた付き合いでないと飲まないから,ひとりで居酒屋にも行ったことがない。
 このごろはアメリカにも日本と同じようにフードコートがどこにでもあるから便利だ。アメリカのファミリーレストランは何が馬鹿らしいといって,単に食事を運んでもらうだけでチップがいるということなのである。

 オーストラリア人が一番合理的だとだれかが言っていたが,私もまさしくそう思う。
 オーストラリアでは,一般のレストランは入ったところにあるレジでメニューを見て直接店員に注文してお金を払ってから番号の書いたスタンドを持って自分で空いている席に座る。水はセルフサービスである。そして,待っていると料理を運んできてくれる。チップは要らない。
 日本のファミリーレストランは,チップは要らないし店員がやたらと親切(そう)だが,食後のデザートやコーヒーなどを注文してあっても,催促しないと持ってこないから,結局,客の方がストレスを溜め込むことになる。気を使うのは客のほうだ。はたしてこれをサービスとかおもてなしといえるのかどうか? 日本は世界で最もよくわからない不思議な国である。
 いずれにしても,食べ物自体は日本が一番おいしいけれど。

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●この美術館の見物はデュシャン●
 フィラデルフィア美術館が所蔵する作品は30万点を誇るが,なんといってもここの見物はデュシャンのコレクションである。
 マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)はフランス生まれの美術家で,20世紀美術に決定的な影響を残した。デュシャンは画家として出発したが油彩画の制作は1910年代前半に放棄した。また,チェスの名手としても知られた。第一次世界大戦中の1915年に渡米しニューヨークにアトリエを構えたが,1919年に一旦フランスへ帰国し,それ以後はアメリカとフランスを行き来しつつ,おもにアメリカで活動した。
 アメリカにはルイーズ&ウォルター・アレンズバーグ(Louise&Walter Conrad Arensberg)夫妻というデュシャンのパトロンとなる人物がいたので,デュシャンの主要作品のほとんどがアレンスバーグ夫妻のコレクションとなり,フィラデルフィア美術館に寄贈されて一括展示されている。
 デュシャンは晩年アメリカに帰化した。

 デュシャンはニューヨーク・ダダの中心的人物と見なされ,20世紀の美術に最も影響を与えた作家のひとりと言われる。
 ダダとはダダイズム(Dadaïsme)のことで,1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動である。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持っており,既成の秩序や常識に対する否定,攻撃,破壊といった思想を大きな特徴とする。
 デュシャンは現代美術の先駆けとも見なされる作品を手がけたが,他の画家たちと異なるのは,30歳代半ば以降の後半生にはほとんど作品らしい作品を残していないことである。没したのは1968年だが「絵画」らしい作品を描いていたのは1912年頃までで,以降は油絵を放棄し,そののちは「レディ・メイド」と称する既製品(または既製品に少し手を加えたもの)による作品を散発的に発表した。

 ここでは,そんなデュシャンの作品から代表作2点を紹介しよう。
 ひとつめは「階段を降りる裸体 No2」(Nude Descending a Staircase No.2)である。
 降りるということから連続性によって落下をイメージさせているという。階段は室内にあリ,裸体は非文明でもなく犯罪にも遠い。無機的な情感を排除したこの作品は,あたかも散乱した板状の物を寄せ集めたような裸体,物理的にも精神的にも条件を外した無為は裸体の意味を剥奪しており,性的興奮はもとより骨肉という人間の条件をことごとく打ち消しているように,現存を否定し,鑑賞者を寄せ付けない。
 作品と鑑賞者に生じる亀裂の空間こそが作品の主眼であろうか。

 ふたつめは有名な「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even)である。通称「大ガラス」」(The Large Glass)という。
 この作品はデュシャンが1915年から1923年にかけて制作し,8年間の歳月がかけられたが未完成のまま放棄された。
 作品は縦2.7メートル,横1.7メートルを超える2枚のガラス板に機械のような金属が並べられている。「花嫁と独身者という理性に対立する感情的なエロティシズム,周囲の空間と混ざりあう透明なガラス,偶然に出来た塵やひび割れ,メモなど外部の現実や言葉の侵入を受け入れ成立しているのだという。

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●フィラデルフィア美術館所蔵の作品●
 館内は美術館の外とは違って閑散としていた。私は受付でみんなロッキーに夢中で館内まで来ないね,と話したらスタッフが困った顔をして同意した。ワシントンDCのナショナルギャラリーもそうであったが,世界からやってくる観光客の多くはこうした美術には興味がないようなのである。
 簡単に言えば教養がないのである。
 私はまず,レストランに行って昼食をとった。ここもまたとても空いていてゆっくりできた。フィラデルフィア観光では,この美術館の館内はお勧めである,というよりもぜひ行くべきである。

 では,今日はこの美術館で見ることのできる作品をいくつか紹介しよう。
 ます,3番目の写真はルノアール(Pierre-Auguste Renoir)の有名な「大水浴図」 (Les grandes baigneuses)である。この頃の画家の作品に不満を持っていたといわれるデュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel)の好敵手的存在であったジョルジュ・プティ(Georges Petit)の画廊で展示された本作は「都会のダンス」(Dance in the City)でもモデルを務めたシュザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon)をモデルに女性らの地中海沿岸での水浴場面を描いたもので,ルノアールが印象主義から脱却し,古典主義またはアカデミズム的な表現への傾倒を示した集大成的な作品としてルノワールが最も力を注いで制作した作品である。
 輝くような生命力を感じさせる浴女の姿, 動きのある躍動的な人物の姿態の描写,入念に計算された写実的な人物の描写や構成,流麗な輪郭線,非常に明瞭ながら冷艶さや甘美性も兼ね備える色彩とともに,新たな表現・描写様式が至る所に感じられるという評がある。
 
 4番目の写真は不気味な目を描き続けたイタリアの画家モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani)の「青い目の肖像」(Blue Eyes)である。まるで宇宙人を思わせる細長い顔と青い目が描かれた絵画がここにある。その絵からは興廃した雰囲気と同時に神秘的な雰囲気も感じる。
 モディリアーニの作品は描かれている人の体の曲線と長い首,そして尖った目,輪郭が特徴的だが,この作品ではしなやかで官能的な女性特有の曲線をモディリアーニ独特の表現法でうまく描き表しているという。
 ここに描かれているのは妻ジャンヌ・エビュテルヌ(Jeanne Hébuterne)である。彼女はモディリアーニが肺結核が悪化し35歳で亡くなったとき,子供を身ごもったまま21歳の若さで後追い自殺をした。

 そして,5番目と6番目はゴッホ(Vincent Willem van Gogh)の作品である。
 5番目のものは「カミーユ・ルーランの肖像」(Portrait of Camille Roulin) 。デトロイト美術館,ボストン美術館,そしてここフィラデルフィア美術館には5点のゴッホによるルーラン家の人々を描いた肖像画がある。カミーユ・ルーランはジョセフ・ルーラン(Joseph Roulin)の息子である。ジョセフ・ルーランは郵便配達夫で,ゴッホのアルル滞在中に変ることのない親切を示した。ルーランと彼の妻そして3人の子供達はこの時期のゴッホの肖像画に最も頻繁に登場したモデルだった。
 不思議なことに,ゴッホはこの時期、自画像も彼の家族の肖像画も描いていない。
 そして,6番目が有名な「ひまわり」(Sunflowers)である。「ひまわり」は1888年8月から1890年1月にかけて描かれた花瓶に活けられた向日葵をモチーフとする複数の絵画の名称である。ゴッホにとっての向日葵は明るい南フランスの太陽とユートピアの象徴であったと言われている。
  南仏のアルル滞在時に盛んに描いた向日葵だが精神が破綻し精神病院での療養がはじまってからは描いていない。
 「ひまわり」は7点が制作され,このうち6点が現存している。 フィラデルフィア美術館にあるのはアムステルダムにある作品と同時期にミュンヘンにある作品を模写したものとされる。

 最後7番目と8番目の2点はミロの作品である。私はミロが大好きなので取り上げた。私はミロの絵画を見るとショスタコビッチの音楽を思い起こすのだが,鮮やかな色彩のなかに几帳面さと上品さがあると感じる。
 ジョアン・ミロ・イ・ファラー(Joan Miró i Ferrà)は20世紀のスペインの画家である。ミロはパリでシュルレアリスムの運動に参加したことからシュルレアリストに分類されるのが通例だが,ミロの描く人物,鳥などを激しくデフォルメした有機的な形態,原色を基調にした激しい色使いあふれる生命感などは古典的・写実的描法を用いることが多い他のシュルレアリストの作風とは全く異なり20世紀美術に独自の地位を築いている。
 1930年代からはバルセロナ,パリ,マリョルカ島のパルマ・デ・マヨルカにアトリエを持ち制作した。
 7番目は「馬とパイプと赤い花」(Horse, Pipe, and Red Flower)。ミロが1920年夏の間に描いたものである。おもちゃの馬と長い粘土パイプが場面にカタロニアの味を添えるている。生き生きとした色,騒々しいパターニングと混雑した構成は彼の初期の絵に特有である。
 また,8番目の「男と女と子供」(Man, Woman, and Child)は1931年の作で,私が気に入ったものである。

DSC_2376DSC_2379DSC_2382DSC_2388DSC_2398●「ロッキー」とフィラデルフィア美術館●
 私がフィラデルフィア美術館へ行くことにした目的はロッキーステップの最上段にあるロッキーの足型を見ることであった。数日前に来たときに念願のロッキーの銅像は見たのだが,時間がなく,足型を見忘れたのだった。
 ホテルから30分ほど歩いていくと,まず,右手にロダン美術館があり,その向こうにフィラデルフィア美術館が見えてきた。ロダンの「考える人」は日本でも見ることができるから,特に興味を感じなかったのでパスして,私は目的のロッキーステップに急いだ。

 映画「ロッキー」シリーズに登場するフィラデルフィア美術館であるが,シルヴェスター・スタローン扮する主人公ロッキー・バルボアがトレーニングのために駆け上る美術館正面階段が「ロッキー・ステップ」と呼ばれているところで,現在,その階段下の右手の部分にロッキーの銅像が設置されていることはすでに書いたとおりである。
 この銅像は「ロッキー3」の撮影のために階段の上に置かれたが,その後「ワコビア・スペクトラム」に移された。
 「ワコビア・スペクトラム」(Wachovia Spectrum)はかつてフィラデルフィアにあった屋内競技場である。場所は,私が見たMLB・フィラデルフィア・フィリーズのホームグランドのあるシチズンズパークのあるスポーツコンプレックスであった。
 1967年に開場し,1994年からコアステーツ・スペクトラム,1998年にはファースト・ユニオン・スペクトラムと改名し,2003年からはワコビア・スペクトラムと呼ばれていた。ここはNBAのフィラデルフィア・セブンティシクサーズとNHLのフィラデルフィア・フライヤーズ,そしてAFLのフィラデルフィア・ソウルのホームグランドとして使用されていたが,建物の老朽化などで2009年をもって閉場され,2011年に取り壊された。
 現在は,NBAとNHL,およひAFL は同じくスポーツコンプレックスにある「ウェルズ・ファーゴ・センター」(Wells Fargo Center)をホームグランドとしている。
 銅像は「ロッキー5 最後のドラマ」の撮影時に階段の上に移動され,「マネキン」や「フィラデルフィア」といった他の映画作品にも出てきたが,その後ワコビア・スペクトラムの取り壊しが決まり,2006年に今度は階段の下に置かれることになった。

 今回はロッキーステップを上がったところにロッキーの足跡を見つけて写真をとった。自分の足とも大きさを比べたりもしてみた。
 これで念願を果たしたので帰ろうと思ったが,せっかくなので,というか,ここまで来たからには美術館に入ろうと思ったのだが,ほとんどの観光客は外でロッキーの思いにふけっていただけで館内に入ろうとしないので,敷居が高かった。
 不勉強な私はこのときまでまったく知らなかったのだが,フィラデルフィア美術館(Philadelphia Museum of Art)は,アメリカ有数の規模をもつすばらしい美術館であった。ここは1876年アメリカ建国100周年の際に建設されたメモリアルホールがその起源で,1年後の1877年から美術館として公開された。
 所蔵品は30万点を数え,古代からコンテンポラリー・アートまであらゆる時代,地域,分野にわたっている。
 特に,アレンズバーグ・コレクションのマルセル・デュシャンの作品群はデュシャンの全貌を知るうえで欠かせないコレクションとなっている。また,日本の作品も浮世絵4,000点以上を含んだ版画5,000点,絵本・画帖100点余を所蔵している。
 私はこのときに思い切ってなかに入って本当によかったと思う。

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●どこの国もそう変わらないものだ。●
 デラウェア州はメリーランド州とペンシルベニア州の間にある小さな州なので,メガバスはデラウェア州ニューアークのデラウェア大学にある停留所を出発しインターステイツ95に戻ったら,すぐにペンシルベニア州の州境になった。
 思う存分景色が見られるバスの旅はいいものだ。特に,日本と違って,道路に防音壁がないから非常に見通しがよく美しい。
 このようにして,いよいよフィラデルフィアに戻ってきた。ボルチモアとは違って,フィラデルフィアのメガバスの停留所はアムトラックステーションの近くなので,ここからダウンタウンにアクセスするのには問題はない。
 しかし,考えてみれば,日本の高速バスだって,途中の停留所は高速道路に作られたところやインターチェンジにあって,そこで降りてもそこから公共交通機関すらない場所だったりするからアメリカと同じようなものだ。だから,このことは,アメリカがどうだ,日本がどうだという話ではない。
 同様に,ネットの書き込みには,フィラデルフィアのメガバスの停留所はアムトラックステーションからは少し奥まった「不便な」ところだったので治安が心配であった… と書かれたものがあったが,日本の格安バスの停留所だって,さほどの違いはない。東京駅でも,格安バスの停まるのは八重洲口からずいぶん離れた暗い場所だから,外国人には「不便な」ところに思えることであろう。

 それに関連して,もう少しこの話題を続けよう。
 ニュージーランドではモーテルのような簡易ホテルは不思議な構造になっていて,我々が思うような部屋の入口というものがない。日本でいう縁側のようなところから入る感じなのである。これもまた,ネットの書き込みに,私の泊まったモーテルには入口がなくとても不安だった… と書かれてあったものを見つけたが,それはニュージーランドでは何も特別なことではないから,書いたほうが無知であるだけなのだ。
 それ以外にも,ネットの書き込みには,このような,書き込むほうの偏見やら誤解から来ているものが数多くみられるから,書かれるほうはたまったものでない。そういうことをわかって読む分にはその信ぴょう性が判断できるが,そうでない場合が少なくないことであろう。

 さて話をもどして…。
 バスはインターステイツ95に沿ってフィラデルフィアの西側を南北に流れるスクールキルリバー(Schuylkill River)を西から東に越え,サウスフィラデルフィアをしばらく走り,ジャンクションでインターステイツ76に乗り換えて逆方向に進み,再びスクールキルリバーを今度は東から西に渡ってから,川に沿って西岸を北上しはじめた。
 いよいよ終点である。そしてまた,これが今回の私の旅の最終目的地でもある。
 目の前に見慣れたアムトラックステーションの建物が見えてきた。5日前はレンタカーを返却するためにこの駅までやってきたのだったが,そのときはレンタカーリターンの駐車場がなかなか見つからず戸惑ったのを思い出した。

 やがて,アムトラックステーションを越えたところの路地を1ブロック過ぎたあたりでバスは停車した。ここが停留所であるらしい。前にはボルトバスも停車していた。
 ネットの書き込みにあった「不便な」場所とはここのことをいっているのだろうが,ここはまったく不便な場所ではないし治安の悪いところでもない。
 バスが停車したので乗客が順々に降りていって,カバンを手にしてダウンタウンに向かって歩いていった。それは日本の高速バスを降りたときとなんら変わる風景でなかった。

 私はふだんレンタカーでアメリカを旅することが多いので,こういう状況を見るのはまれである。
 しかし,サンフランシスコ,ニューヨークといった大都会を公共交通機関を使って観光すると,日本もアメリカもさほどの違いを感じないし,どちらが便利だ不便だといっても,それはその土地のことを知らないからそう思うだけであって,日本に来る外国人だってきっと同じようなことを思っているであろう。
 成田から東京都心に行く交通機関だってそれは同様だ。日本は自分の会社に客を囲い込むことが大好きだから公共交通機関を使うときに他社との接続については冷淡だったりきちんとした案内がなかったりする。表向き「おもてなし」といいながら,このように薄情なことが少なくない。
 あるいはまた,セントレア・中部国際空港へのアクセス鉄道である名鉄電車など,座席指定の特急を利用しない限り英語の放送もなく不案内この上ない。私はこれまで電車に乗り間違えそうになった外国人を数多く救出? したものだ。

 一番先頭に座っていたから最後になったが,私もまたメガバスを降りて,アムトラックステーションまで歩いていって,5日前にフィラデルフィアに来たときと同じように地下鉄に乗ってホテルに向かった。そのときはわずか1日間フィラデルフィアに滞在しただけなのに,それでも2度目となると勝手がわかるので,もう戸惑うこともない。
 今日から泊まるホテルもまた,前回と同じところを予約してあった。フロントで私が数日前にも来たことを覚えていて,あっさりとチェックインを済ませて,すぐに部屋に入ることができた。
 私は部屋に荷物を置いて,再び外に出た。目指すのはフィラデルフィア美術館であった。

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●アムトラックの静寂な車内●
 ホームに降りて電車が来るのをしばらく待った。この駅は地下にあることだけが違うが,状況としては品川駅で成田エクスプレスを待つのと変わらないなあ,と思った。見知らぬ土地で電車を待つというのはどうしてこうも不安なものなのだろうか。おそらくそれは日本でも同じであろう。日本でも不安そうにホームで電車を待っている外国人を見るといつもそう思う。
 もっと遅くフィラデルフィアを出発する電車でもよかったのだが,私はアムトラックを全く信用していなかったから,数時間遅れることは想定内であり,あるいは,運休まで覚悟していて,そうなったとしてもこの日のうちになんとか別の手段を使えばワシントンDCにたどり着ける時間にした。そうまでしても一度アムトラックなるものに乗ってみたかったのだった。
 そういえば,日本でも東京駅から成田空港まで行くには,成田エクスプレスは利用しないほうが賢明である。私が知る限り,定刻に空港に着く保証がまるでない。私も一度ひどい目にあったし,先日東京に行ったときにもやはり,私は利用しなかったが,架線事故で不通になっていた。東京駅から成田空港に行くのはバスに限る。
 私はこの旅で,ワシントンDCから再びフィラデルフィアに戻るときはメガバスという格安バスを利用することになるが,そのほうがはるかに便利であった。日本でバスを利用するかJRを利用するかを考えていただくとこの比較がよくわかると思う。

 そうこうするうちに,ホームに列車が滑り込んできた。どの車両に乗ってよいものかさっぱりわからなかった。自由席ということであったが,日本のグリーン車のようなものがあるのかないのか,さらには,車両によって何らかの決まりがあるのかないのか,帰国した今でさえ,さっぱり不明である。
 さすがに女性専用車というものはなかった。外国人が日本に来て電車に乗るとき,女性専用車なるものを知らないとかなり戸惑うことであろう。さらには,JRの地方路線にあるワンマンカーも,あるいは扉が手動である場合も,日本人の私ですら,さっぱりわからない。外国人用にJRの安価なパスがあるようだが,これだって,無人駅に降り立って用事があればイヤホーンで連絡しろと言われても日本語がわからないときにはどうするのだろう,と思う。これが日本流「おもてなし」の実態なのである。

 私の並んでいた列が非常に混んでいて,その隣の列が空いていた。どうして隣の列が空いているのかを前にいた乗客に聞いてみると(なにせ,駅員などいないから),隣の列から乗り込む車両はおしゃべり禁止の車両であるということであった。どっちみち私はひとり旅だから話す相手もいないので,私は空いているほうの列に移った。
 アメリカにも静寂を求める客がいるようであった。どの国も同じだなあと思った。私はこの頃,自分の住む愛知県で朝の混雑する時間に名鉄の特急に乗るときは座席指定車両を利用するようになった。乗ってみて気づいたが,座席指定車両はたいへんに静寂で快適なのである。それは人が少ないからではない。はじめはその理由がよくわからなかったが,そのうち,車内放送がほとんどない,ということに気がついた。放送がかかるのは次の駅の案内くらいである。それが一般車両になると,携帯電話を使うな,とか,痴漢に気をつけろ,とか,まるで学校の生徒指導のようなありさまで,ひっきりなしにほとんど意味のない放送がかかるのだ。携帯電話のうるささよりも車内放送のほうがずっとうるさいと私はいつも思うのである。
 当然,アメリカの列車では日本のような迷惑極まりないうるさい車内放送などはなく,検札が来ただけであった。
 車内は快適であったが,窓が高く,思ったほど外の景色が見られないのだけが問題であった。

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●あこがれのアムトラックに●
 私は地下鉄に乗り,昨日レンタカーを返却したアムトラックステーションに今度はアムトラックに乗るために到着した。この駅は伝統的な感じのするなかなか雰囲気のよいところであった。
 私は,この駅にあるスタンドで,とりあえず朝食をとった。

 「アムトラック」(Amtrak)というのは日本でいうJRの在来線の特急で,1971年に発足した連邦政府出資の株式会社である全米鉄道旅客公社(National Railroad Passenger Corporation)が走らせている。
 もともとアメリカには国有鉄道というものは存在せず,私鉄の集合体であった。第二次世界大戦後鉄道旅客輸送量が減少の一途をたどり,多くの鉄道会社が旅客営業の廃止に踏み切ったためにその存続が危ぶまれたことから,鉄道会社の旅客輸送部門を統合した全国一元的な組織として設立された。
 現在,多くの路線は貨物鉄道会社の線路を借りてアムトラック自前の旅客列車を運行する形になっている。

 アムトラックの鉄道運行技術は世界的に見ても決して高いとはいえないという。また,経営状態も厳しいもので,連邦政府や運行地域の一部の州からの財政援助に頼っている。
 さらに,2000年頃からは脱線・転覆事故など重大事故を毎年のように起こしており,日本でも報道されている。おまけに,一部の無人駅舎には大量のごみと落書きが頻繁に見受けられ,その環境の悪さも旅客離れの原因のひとつであるし,貨物列車が優先的に線路を使用していることもあって,数時間から十数時間の遅れを出しながら走っているのも珍しくないことである。
 そうした現状でも,東海岸のアクロポリスを走る路線だけはアムトラックのドル箱路線となっていて,頻繁にそしてほぼ定刻で列車が走っているのだが,ここもまた,高速バスや航空機のシャトル便との競合が激しくなっている。

 アムトラックといえば,大陸横断鉄道を思い浮かべるかもしれない。私もこの大陸横断鉄道で旅をしたいものだとずっと思い続けているのだが,日本の豪華寝台特急を想像したらおそらくは落胆することであろう。
 鉄道というのは景色を眺めながら旅をするには贅沢でかつ最高の乗り物であるから,もっと工夫をして運行すれば,世界中から観光客が訪れると思うのだが,なにせ,アメリカは広すぎて,列車で旅するには時間もコストもかかりすぎる。効率を優先する人は航空機を利用するし,低コストを求める人はバスを利用する。そしてまた,引退生活をしている人たちはキャンピングカーを利用するといったように,なかなかうまくいかないらしい。

 そんなアムトラックなのだが,私はこれまで乗る機会がなく,一度は利用したいものだと考えていた。この年の6月に行ったモンタナ州のグレーシャー国立公園にはシアトルからアムトラックで行くことができるので駅で多くの観光客がアムトラックを待っていたし,デンバーでもアムトラックの駅で列車が来るのを多くの人たちが待っていたのを見て,その思いが強くなっていた。
 そこで,この機会に利用することにした。しかし,ワシントンDCからフィラデルフィアに戻るときに利用した格安高速バスのほうが少し時間はかかったがはるかに便利で安価であった。

 これも常々書いているが,アメリカという国は何事も単純で,このアムトラックも航空機を利用するのとシステムは変わらない。事前にインターネットで予約をし,駅にある掲示板を見て,時間になったら係員がホームに降りる階段のもとに来るので,IDと予約したときにプリントした紙を見せてチェックを受けてホームに降りて,列車が来たら乗り込めばいい。アムトラックの座席は指定ではなく,空いたところに座ればいいということであった。

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●フィラデルフィアの地下鉄は日本製●
☆10日目 8月5日(金)
 今日はこの旅の10日目である。
 午前9時35分発のアムトラックに乗って,フィラデルフィアからワシントンDCへ向かう。
 まず,今後の日程を書いておくことにしよう。
 今日のお昼にワシントンDCに到着してから14日目の8月9日の朝までワシントンDCに4泊する。そして,9日の午前9時30分発のメガバスという名の高速バスで,再びフィラデルフィアに戻り2泊して,16日目の8月11日の朝9時49分発のデルタ便で帰国というスケジュールである。つまり,ワシントンDCの滞在は実質3日半,フィラデルフィアは1日半ということになる。
 私は,この旅の計画をはじめたときには,まさかワシントンDCに行くとは思ってもみなかった。サウスカロライナとノースカロライナを中心として,南の方面にマイアミが加わり,さらに北の方面には,ボルチモア,ワシントンDC,フィラデルフィアのボールパークに行ってみようということことから次第に距離が延びていき,ボールパーク以外の観光地を調べているうちに,ワシントンDCが最も見どころが多いことから,ワシントンDCの滞在日数がどんどん増えていったというわけである。
  ・・
 帰国してから思うに,今回の旅でこれだけ欲張って本当によかったと思う。私は50州制覇を成し遂げて以来,もう,アメリカの東海岸のような遠いところに行こうという情熱がなくなってしまったからだ。
 アメリカは,西海岸やロッキー山脈あたりののどかなところは捨てがたいが,東海岸のように人も車も多く都会ばかりのところは,日本の雑踏が嫌いで旅をする私には,まったく不向きなところなのである。

 今日の4枚の写真は,早朝ホテルを出て,アムトラックステーションに向かう地下鉄の駅までの様子である。
 1番目の写真には「リバティプラザ」の看板が写っている。「リバティプラザ」は2棟あって,これは,そのうちのワン・リバティプラザの屋上の展望台を示す看板である。この展望台にも行ってみようと思ったのだが,すでに市庁舎に上ったので,えらく入場料が高いこの展望台に行く気がなくなったのでやめた。
 2番目の写真はホテル近くのダウンタウンの様子である。どこにもあるアメリカの大都会という感じであるが,何度も書くように,フィラデルフィアは日本の大都会,そう,名古屋のような感じの街であった。
 また,名古屋といえば地下街であるが,3番目の写真は,まさに,フィラデルフィアの地下街の風景である。アメリカの都会でこんな地下街があるのはまれだと思う。私は,フィラデルフィア以外で見たことがない。
 そして,4番目の写真が地下鉄のホームである。ニューヨークの地下鉄同様,フィラデルフィアの地下鉄も日本の川崎重工製であった。

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●フィラデルフィアにもあった「ユニクロ」●
 私は今晩予約したホテルに戻り,チェックインを済ませ,預けてあった荷物をもって部屋に向かった。
 アメリカの大都市のホテルは,エレベータに乗るときに部屋のキーカードが必要で面倒だが,セキュリティ上はこの方がずっといいのかもしれない。しかし,こんなものはだれかが先にエレベータに乗っていればそれだけのことである。
 エレベータを降りて廊下を歩いて部屋に入った。アメリカのホテルにしては部屋が狭かったが,ずいぶんと「マシ」で清潔で,非常に快適だった。

 私は今晩この部屋で一泊して明日はワシントンDC に向かい,数日後に再びフィラデルフィアに戻り,また同じホテルに宿泊することになる。今晩は特に何をするということもなく,ホテルの近くで食事をして,部屋で休むことにした。
 私は日本でも旅に出たときに夜飲み歩くということをしないし,そんなことをしても楽しくない。また,ショッピングをして楽しむということもないから,都会を旅行しても退屈なだけである。
 フィラデルフィアはよい街だったが,もう一度行こうとは思わない。おそらくリピートするほどの魅力がないのだろう。これがニューヨークとの違いだろうか。ニューヨークにはブロードウェイがある。

 ここフィラデルフィアは日本の都会とほとんど変わることもなく,ホテルのとなりにあったビルにはユニクロが入っていた。また,フィラデルフィアには,アメリカの都市にしては珍しく地下街もあった。これは後日知ったことだが,この地下街にあった食堂が非常に安価であった。
 フィラデルフィアには食事については結構面白い場所がたくさんあって,苦労することはない。しかし,このときの私はそんなことはまだ知らなかったから,この日の夕食もまた,朝食と同じモールで食べることになった。
 何を食べようか探していたら,中国料理のファーストフード店にいた日本人顔(実際は中国人だったが)の愛想のよいおばちゃん店員と目があって,そこで焼きそばなるものを食することになってしまった。この店の名前が「Kato's」といったから,私は日本食の店だと間違えたのだった。
 ここの食事はおいしかったが,食べながら観察していると,その右隣の店もまた中国料理の店で,その店の方がずっと繁盛していたから,私は失敗したと後悔した。

 反対側にはメキシコ料理店と並んでインド料理の店もあった。私はアメリカに行くと,急に食べたくなるのがカレーライスなのである。しかし,アメリカのインド料理店のカレーライスというものが,どういうものなのかよくわからない。そこで,カレーライスを食べることをいつもためらってしまうのだ。近頃は,日本でも,日本式のカレーライスの店に加えて,インド人のやっているカレーライスの店が増えてきたが,私は「ナン」というものがどうも苦手だし,同じカレーライスなら日本式のカレーライスのほうが好きである。
 ともかく,この日はおなかを十分に満たすことができたから,私は満足した。帰り道,となりのビルのユニクロに寄ってからホテルに戻ることにした。ユニクロはニューヨークの5番街にもあったが,そのときは店の前を通っただけだった。なかに入ってみると,すっかりそこは日本であった。売られているものもまったく同じであったし,値段もほとんど同じであった。
 かくして,どんどん海外に行くときめきがなくなっていくのである。

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●今でもイエスキリストがいたりする街●
 ボールパークに向かうときにはさほどの距離を感じなかったが,ゲームの終了後に地下鉄の駅に向かうときにはずいぶんと距離を感じたのものだった。それは不便ということでなく,このボールパークのまわりがスポーツコンプレックス(複合施設)で,ずいぶんと敷地が広いことが原因であった。日本人には想像を絶する広さであろう。
 MLB,NFLが同じ場所にホームグランドをもつ都市はいくらでもあるが,ここのスポーツコンプレックスにはNBA((National Basketball Association=プロバスケット)の76ERSとNHL(National Hockey League=プロアイスホッケー)のフライヤーズが使用するアリーナ「ウェルズファーゴセンター」(Wells Fargo Center)まであるのだ。
 ちなみにこのアリーナは,2016年大統領選挙の民主党大会にも使用された。

 こうして私は29球団目のボールパーク制覇を終えて,再び地下鉄の駅に到着した。今日は来たときには紹介できなかった駅の写真をご覧いただこう。
 私が生れてはじめてアメリカに行った1970年代,アメリカは非常に近代的な国であった反面で想像を絶するほど危険な国であった。日本とは全く異なる国であった。
 それに比べると,現在のアメリカは,日本とそれほどの異質性を感じないくらい似てきた。
 しかし,観光客の数はそのころとは比較にならないほど多いし,また,セキュリティがとても厳しくなったから,今の若者がアメリカを旅するのは,私が若かったころに比べたら,むしろ大変になったと思う。

 「古きよきアメリカ」という言葉があるが,まさに,1970年代のアメリカが懐かしい,そんな感じがする。
 当時は,日本ではメジャーリーグの中継などなかった。私が生れてはじめて行ったのがロスアンゼルス・ドジャースのホームグランドであるドジャースタジアムだったが,そのころのボールパークにはまったく広告がなく,さすがアメリカだと思ったものだった。しかし,現在はどこもかしこも広告だらけになってしまった。
 できることなら,ニューヨークの貿易センタービルのテロ事件以前のアメリカ,好景気に沸いた1990年代のアメリカ -ちょうどそのころの日本はバブル景気がはじけて失われた10年といわれたころのことだが- を私はもう一度旅してみたい。そのころが,アメリカの一番輝いていたときのように思うからだ。

 さて,私は地下鉄に乗って,再びフィラデルフィアの中心街にある市庁舎まで戻ってきた。あとは歩いてホテルまで戻り,チェックインをするだけであった。
 市庁舎のあたりには,なんと,イエスキリストが立っていて,なにやらパフォーマンスををしていた。とかく,アメリカの都会というのは,今でもわけがわからずおもしろい。さすがに,サンフランシスコやニューヨークとは違って,フィラデルフィアでは,繁華街を全裸で歩いているような男や女は見かけなかったけれど…。

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●「ジ・アングル」●
 1970年のはじめ,NLBのフィラデルフィア・フィリーズとNFLのフィラデルフィア・イーグルスがホームグランドとしていたベテランズスタジアムは全米屈指の「最悪の球場」として悪名を轟かせていた。クッキーカッター型のボールパークは,最上部の座席からは「双眼鏡を使わないと何も見えない」と揶揄され,フィールドに近い座席では「壺の底に落とされたような圧迫感」を感じたという。さらにまた,不人気な人工芝のボールパークでもあった。おまけに,設備も老朽化し,雨漏り,ネズミ,悪臭に悩まされた。
 1998年,大学のフットボールのゲームの最中,設備の崩落事故でけが人を出すに至り,ついにベースボールとフットボールの専用施設を建設することになり,こうしたいきさつで,シチズンズパークが作られたのであった。

 新たに作られたシチズンズバンクパークは,広大な駐車場のなかにコンクリートの塊が鎮座し殺伐としていたベテランズスタジアムとは違い,周囲には並木が植えられ,緑あふれる公園のなかに,赤レンガ造りの外観をもち,黒レンガがアクセントをつけている。なかに入ると,このボールパークもまた,アメリカの最新式ボールパークの例に倣い,左右非対称で,天然芝の美しいボールパークになっているが,特に,外野左中間からセンターにかけては,鋭角的な「ジ・アングル」と呼ばれるフェンスが独特で,そのフェンスの高さも約4メートルから約6メートルと変化に富んでいる。
 アメリカのこうした最新式のボールパークが素晴らしいのは,広いコンコースがあって,そこを歩き回っていると,ボールパークの内部はもちろんのこと,外の素晴らしい景色が眺められるということでもある。
 もう,こうなると,日本のいわゆる「野球場」というものとは,全くの別モノである。だから,観客もまた,日本とは全く別の人種である。なにが楽しくて風船などを空に向かって飛ばすのであろう? なにが楽しくて鳴り物などを鳴らすのであろう? 私は,日本の野球など,見にいく勇気も気力もまったくない。

 フィラデルフィア・フィリーズは2010年以降は低迷しているが,田口壮選手が所属していた2008年には2回目のワールドシリーズを制覇した。それこそが「ビリー・ペンの呪い」が解けたときのことである。
 現在は日本人プレイヤーがいないので日本のテレビで放送される機会はほとんどないが,私が訪れた数日前に,ちょうどフロリダ・マーリンズとゲームを行っていて,イチロー選手の3,000本安打間近ということで,毎試合BSで中継されていた。

 私が見にいったこの日の対戦チームは,サンフランシスコ・ジャイアンツであった。
 サンフランシスコ・ジャイアンツも歴史のある強豪チームであり,有名選手もいるのだが,このゲームにはそのどの選手も出場せず,また,フィリーズにもこれといった選手がおらず,私は,まったくモチベーションが保たれずにいた。というよりも,ゲーム内容にはまったく興味がなかったから,単に,このボールパークに行ったという既成事実だけがよりどころであった。まことにもってひどい話だ。
 そんなわけで,ゲーム自体には全く記憶にない。というか,どちらか勝ったのかさえ記憶にないありさまであった。
 まあ,こんなわけで,この日はゲームがはじまる前はボールパークを歩き回って楽しんでいたが,やがて,なんとなくゲームが始まり,そして,終了し,ゲーム自体には何の感動もなく,私は,ボールパークを後にしたのだった。

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●幕の内弁当が懐かしい。●
 今日は,前回に続き,シチズンズパークの見どころをさらに紹介してみよう。
  ・・
 まず,1番目の写真は球団史に名を残す名選手のレリーフを飾った「ウォール・オブ・フェイム」(Wall of Fame)である。なんとなくヤンキースタジアムの名物であるモニュメントパーク(Monument Park)のマネと思えなくもないが,ヤンキースタジアムのそれは人気がありすぎて見ることも大変なのだが,ここは簡単に見ることができる。
 さすがにヤンキースと並んで19世紀からの歴史があるチームらしく,こうしたプレートを掲揚する資格があるのだろう。

 2番目の写真はフィラデルフィアらしく「自由の鐘」である。これは右中間スタンドにあって,フィリーズの選手がホームランを打つと場内に音色が鳴り響き光を放つのである。
 この鐘の下には屋上プリ―チャーシートという仮設スタンドがあって,先代のベテランズスタジアムのその前に1970年までホームグランドだったシャイブパークの周辺の住民が,当時屋根の上に座席を作って試合を観戦した,という当時の雰囲気でゲームを楽しむことができるようにと作られたものである。ちなみに,現在もシカゴ・カブスのリグレーフィールドでは,こうした客席が現役として存在する。

 そして,3番目の写真が「アシュバーン・アレイ」(Ashburn Alley)である。
 1950年代にフィリーズでリードオフマンとして活躍したリッチー・アシュバーン(Don Richard "Richie" Ashburn)が名前の由来で,バックスクリーン裏にある通路のことである。アシュバーン・アレイにはしゃれた売店が立ち並んでいるが,一番人気は「ブルズBBQ」なのだという。この店はかつて4番バッターだったグレッグ・ルジンスキー(Gregory Michael Luzinski)が地元ファンから,太い腕,大きな体,豪快なスイングから「The Bull=雄牛」と呼ばれていたことにちなんだもので,現在,彼自身が客をもてなしているということだ。

 このボールパークは,フィラデルフィア・フィリーズが歴史あるチームであるだけに,そうしたチームのヒストリーをリスぺクトした様々な工夫が施されていて,ゲームを観戦する以外にも歩いているだけでも十分に楽しめるところであった。
 また,内野席からフィラデルフィアのダウンタウンを眺められるようにと,ホームプレートが南、センターが北を向いている。

 メジャーリーグのボールパークはこのようにどこに行ってもそれぞれ個性があるので,事前に調べてから出かけると,そうした工夫を見逃すことなく訪れることができる。
 最近はテレビの中継を見ていても,その場所の景色やボールパークの様子なども少しずつ紹介してくれるようになったが,それでも,ゲームの結果だけが重視されているのが私には残念なことに思える。
 ベースボールに限らず日本の相撲でも同じことであるが,実際にこうした場所に足を運ぶ人は,結果だけを楽しんでいるのではない。だからこそ,プロフェッショナルであるのだし,もっとこうしたさまざまな楽しみ方を紹介すればいいのに,といつも思う。
 むしろ,こうした楽しみこそ,わざわざボールパークに足を運ぶ目的なのである。
 しかし,それを中継する日本のアナウンサーや解説者も勉強不足で,その魅力を十分に伝えることができない。日本で放送されるMLBのほとんどのゲームが,現地の映像をみながら日本のスタジオでおしゃべりをしているだけだから,実際のゲームの雰囲気が味わえないこともまた,残念である。

 さて,そろそろ試合開始の時間が近づいてきた。私も腹ごしらえをして,のんびりとゲームを楽しむこととしよう。
 このボール―パークにはこのようにさまざまな店があるが,私にはこれといって魅力的ではなかったから,いつもののとおり,ホットドッグを買ってきて,お昼の代わりとした。
 私は,こういうときだけ,幕の内弁当が懐かしくなる。

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●人気者「フィリー・ファナティック」●
 シチズンズパークももまた最新式のボールパークであったが,広々としているなあ,というのが第一印象であった。
 最新式のボールパークにはノスタルジック型とモダン型があるが,ここはモダン型である。建て替える前のボールパークがノスタルジック型だったところはその面影を残そうとするので新しいボールパークもまたノスタルジック型になるのに対して,不評であったクッキーカッター型のボールパークを建て直すというか文字通り「立て」直すときにはそのイメージを払拭しようとするためにモダン型になるのだと私は思っている。
 ちなみに日本の新しく作られた野球場である広島や楽天などの本拠地はアメリカでいうところのノスタルジック型の真似である。東京ドームやナゴヤドームなどのドーム球場は,アメリカでは不人気でいまや跡形もないにクッキーカッター型であり,神宮や甲子園はアメリカではそれよりももうひと世代前の1970年代のボールパークの形式のままである。

 フィラデルフィア・フィリーズのマスコット,つまり,日本でいう「ゆるキャラ」はご存知「フィーリー・ファナティック」(Phillie Phanatic)である。1978年に登場した「フィリー・ファナティック」は,今でも圧倒的な人気を誇る。
 1970年代後半,当時のホームグランドであったベテランズ・スタジアムは,酒に酔って暴力沙汰を起こすような粗暴なファンが目立つようになって,子どもや女性など家族連れの足が遠のいていった。当時,チームでマーケティングや広報を担当していたデニス・リーマン (Dennis Lehman)は,子どもや女性の呼び込みのためには,サンディエゴ・パドレスの人気者「サンディエゴ・チキン」のようなマスコットがフィリーズにも必要と考えるようになって,キャラクターの制作をセサミストリートのマペットで実績のあったハリソン・エリクソン社(Harrison/Erickson)に依頼した。
 そこで作らたマスコットは「狂信的=fanatic」から単語のつづりをフィリーズの「ph-」でもじった「phanatic」と名付けられたのだった。

 「フィーリー・ファナティック」は,1978年4月25日何の前触れもなくひょっこりその姿を現した。
 ファナティックは緑色の毛皮で覆われ太った体形をしている。円筒形のくちばしには吹き戻しが仕掛けられていて,これで舌を出すような表現をする。身長は6フィート6インチ(約198センチ),体重は300ポンド(約136キロ)で,ガラパゴス諸島出身,母親の名前は「Phoebe」(フィービー)である。
 好きな映画はもちろん「ロッキー」で,2006年に公開された映画「ロッキー・ザ・ファイナル」では,エンディングクレジットにファナティックも登場している。また,マスコットがボールパーク内をATVに乗って走り回るようになったのはファナティックが最初である。
 日本のプロ野球チームである広島東洋カープが1995年にマスコット「スラィリー」( Slyly) を登場させているが,この「スラィリー」は「ファナティック」の 「counterpart=片割れ」である。実は,「ファナティック」と「スラィリー」は同じハリソン・エリクソン社デザインなのである。

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●名門フィラデルフィア・フィリーズ●
 フィラデルフィア・フィリーズは日本ではなじみの薄いチームではなかろうか。ほとんどテレビでも放送されない。それは,日本人プレイヤーがいないことも理由のひとつであろう。
 以前,田口壮選手が在籍していたときにワールドシリーズを制覇したこともあった。2000年代のはじめまではナショナルリーグ東地区でずっと1位と強豪チームであったが,2012年以降は最下位争いをしている。

 このチームは1876年のナショナルリーグ創設時にアスレチックスという名前で発足したが1年ももたずに解散し,1863年に現在の名前で再加盟した。
 現在のボールパークであるシチズンズパークができたのは2004年のことで,それまではこのボールパークの北側にあったベテランズスタジアムという名のクッキーカッター型の面白みのないボールパークをホームとしていた。現在,その場所にはモニュメントが建っている。
 この新しいボールパークができたときは,ほかの新設のボールパーク同様に人気があって,257ゲーム連続チケット完売という記録を作った。すでに書いたが,このボールパークのある場所は地元のプロチームのスポーツ施設がすべて揃っているという人気スポットで,こうした複合型の施設は他の都市にもあるが,なんといっても,ここが最も素晴らしいのは地下鉄でのアクセスが抜群に便利であり,しかも,駐車場もたくさんあるということである。
 また,ボールパークのスタンドからは,北側遠くに美しいダウンタウンのビル街を見渡すこともできる。

 後日書くことになろうが,フィラデルフィアの不思議なのは,ボストンのような古都であるにもかかわず,そして,当時の名所がきちんと保存されているにもかかわらず,街に古臭さがないということだ。そして,非常に交通の便が良い。空港からダウンタウンまでも電車1本で行くことができるし,ダウンタウンは日本の街のようなのである。そしてまた,ダウンタウンから非常に近い場所なのにこうした広大な土地に最新のスポーツ施設がそろっていることだ。
 こうした便利で魅力的なフィラデルフィアなのに,日本人には,ボストン,ニューヨーク,ワシントンDCの陰に隠れてしまって,観光に訪れる人も多くない。とてもいいところなのに…。

 このボールパークの名物はたくさんあるが,そのなかで今日はゲートの外にあったふたつのモニュメントを紹介しておこう。そのひとつは通算329勝をあげたサウスポー投手のスティーブン・カールトン(Steven Norman Carlton)の銅像,そしてもうひとつは,史上最高の三塁手といわれるマイク・シュミット(Michael Jack Schmidt)の銅像である。
 私がボールパークに到着したときはまだ開門の時間よりも少し早かったが,ゲートで並んでいたときに,入口にいた係りの人と仲良くなって,写真を写したりおしゃべりをしたりして楽しんでいた。やがて,開門の時間になって,私はセキュリティを通ってゲートをくぐった。仲良くなったおじさんが急にまじめに仕事をはじめたのがおかしかった。私にはこれが29球団目のボールパークであった。

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●非常にアクセスの便利なボールパーク●
 私は今回の旅で4球団のボールパークに行って5ゲームを見ることができた。そのうち,この旅行記ですでに書いたのが,イチローの3,000本安打を見損ねたマイアミ・マーリンズのマーリンズパークでの2ゲームと,ビジターチームがテキサス・レンジャーズだったためにダルビッシュ投手の先発を偶然見ることができたボルチモア・オリオールズのオリオールパークアットカムデンヤーズである。
 マーリンズパークは近くにホテルもなく,マイアミの治安もよくないなら旅慣れていない人が行くには結構大変なところであったし,オリオールパークアットカムデンヤーズはワシントンDCからボルチモアが近いので,治安が悪いボルチモアで,ボールパークに近いホテルを確保できさえすれば行くこと自体は難しいところではなかった。

 そして,今日のこのフィラデルフィア・フィリーズのシチズンズパークが3球団目のボールパークである。
 この後,私はワシントンDCにあるワシントン・ナショナルズのナショナルズパークに行くことになるが,このシチズンズパークとナショナルズパークは,ともに地下鉄の駅から非常に近くアクセスが便利なので,地下鉄沿線にホテルが確保できるのならば,行くことが非常に楽なボールパークであった。
 問題としては,雨の多い東海岸では,屋根のないボールパークは中止の可能性があるということだけである。
 私は,この旅で30球団すべてのボールパークに行くことができたのだが,私が行った後で,サンディエゴ・パドレスとアトランタ・ブレーブスは新しいボールパークに移転してしまったから,全球団のボールパークを制覇したといっても,現在の新しいボールパークについてはよく知らない。はたして,そこに行く機会は訪れるのだろうか?

 このフィラデルフィア・フィリーズのホームグランドに行って私が驚いたのは,広大な土地に,ベースボール,フットボール,バスケットボール,アイスホッケーと,プロスポーツすべての施設が存在していたことである。
 こんな複合施設があって,しかもダウンタウンから非常に近く,車がなくても地下鉄で簡単に行くことのできる都市はここをおいてほかに知らない。また,車であっても,駐車場はいくらでもある。
 フィラデルフィアはアメリカの古都であるが,そんな歴史のある街にこれだけの土地があるのが不思議であった。
 私は,地下鉄を降りて,あとは,ボールパークを目指して広い歩道を10分ほど歩くだけであった。ここは,ボルチモアのようにホームレスがたたずんでいることもなかったし,天気がよかったこともあって,非常に気持ちがよかった。
 今日はデーゲームだから心配ないが,地下鉄でのアクセスが便利であるとはいえ終電が深夜12時ということなので,地下鉄を利用する場合はナイトゲームでゲームが延長になったときだけが要注意であろう。

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●フィラデルフィアの公共交通「セプタ」●
 フィラデルフィアの公共交通網を「セプタ」(SEPTA)という。「セプタ」には地下鉄とバスとトロリー,そして近郊列車がある。このように,フィラデルフィアは日本の都市同様の公共交通や私鉄のような近郊都市に通じる鉄道網が発達しているのだが,これが実際利用してみないと勝手がよくわからない。
 それはアメリカに限らず日本でも同様なのだが,大都市を旅行するときにもっとも不安な要素に違いない。

 結論をいうと,フィラデルフィアの公共交通網は利用しやすくとても便利であった。
 今日の1番目の写真のように,市庁舎前の駅からは地下鉄が十字に伸びていて,西に行けば私がレンタカーを返却したアムトラックステーションに行けるし東に行けばフィラデルフィアの歴史地区に行くことができる。また,南に行けば私がこれから向かうフィラデルフィア・フィリーズのホームグランドへ簡単に行くことができるのだった。このように,フィラデルフィアは地下鉄を使えば,観光地には容易に移動ができるきわめて旅行のしやすい町であった。

 先に書いたように,バスもトロリーも地下鉄も近郊鉄道もそのすべてを「セプタ」というから,これが逆にわかりにくいイメージになってしまうが,要するに,日本でいうところの市バスと路面電車と地下鉄と私鉄をひっくるめて「セプタ」というだけのことなのだ。
 チケットは日本のSuicaのようなものもあるみたいだったが,「地球の歩き方」に書かれてあったのはトークンという,30年も昔ニューヨークで使われていたゲームセンターのコインのようなものを現在も使っているということであったから,わずか数日滞在する私は困らないだけのトークンを購入した。

 私は,ニューヨークでもシアトルでもサンフランシスコでもシカゴでもホノルルでも公共バスを利用したことがあるが,アメリカを旅していて,地下鉄に比べて,このバスというのがかなりの曲者だ。乗ってはみても,どこで降りればいいのかがさっぱりわからない。日本と違って,停留所を知らせる放送は,ないかあったとしても地名の発音などさっぱり聞き分けられないからである。
 それでも,運転手が親切なら乗ったときに知らせておけば降りる場所で教えてくれるのだが,それでも乗っている間じゅうかなりの緊張を背負わされることになる。しかし,それは日本だって,はじめて行った都市では同様だろう。
 私は,この旅で後日,バスでとんでもない目に会うことになったが,それはまた後のことである。
 さて,私の乗ったセプタ,つまり地下鉄のブロードストリートラインの車内は,例によって,アメリカのMLBのゲーム開始前にどの都市でも見られるのと同じで,フィリーズのユニフォームを着た人たちが,これからベースボールを見にいくぞ,みたいな格好で大勢乗っていたから,彼らについて行くだけだった。私も彼らの動きに従って,ボールパークの最寄り駅パティソン(Pattison)で下車した。

DSC_1612DSC_1613DSC_1617DSC_1619DSC_1623Curse-of-Billy-Penn

●「ビリー・ペンの呪い」●
 市庁舎タワーのてっぺん167メートルに建っている銅像ウィリアム・ペン(William Penn)は17世紀の後半,当時はイギリスの植民地だったアメリカ合衆国にフィラデルフィア市を建設しペンシルベニア州を整備した人物である。
 ペンの父ぺン(同名)はイングランド国教会信徒であったが,息子のペンはキリスト友会徒(クエーカー)になった。しかし,クエーカーに対する迫害が厳しくなり,ペンは北アメリカに新しい自由な新天地を求める気持ちが強くなっていった。
 チャールズ2世はペンの父親に借金があったために,ニュージャージーの広大な地区を保証することで弁済に当てようとした。こうして,クエーカーの一団はニュージャージー州西部を受領する機会に恵まれたのだった。
 ペンははじめこの領地を「シルバニア」(Sylvania=森の国)と名付けたが,チャールズ2世はペンの父親ペンに敬意を表して「ペンシルベニア」と改めた。

 植民地におけるペンは「政府の枠組み」を通して信教の自由,公正な裁判,主権を持つ人民により選ばれた代表,三権分立と共に民主的な制度を実行した。
 1682年から1684年までペンはペンシルベニアにいたが,「兄弟愛」を意味するフィラデルフィアの建設計画が完成し政策面での案が実行に移されると,各地を巡視に出かけた。その後,ペンはフィラデルフィアに定住したいと願ったが,金銭問題のために1701年に帰国を余儀なくされ,1718年に亡くなった。そして,残された家族はアメリカ独立戦争までペンシルベニアの所有権を持ち続けた。
 フィラデルフィア市庁舎タワーの屋上にはアレクサンダー・ミルン・コールダー(Alexander Milne Calder)が建てたウィリアム・ペンの銅像があるが,近年までフィラデルフィアには「ウィリアム・ペンの銅像より高く建造物を造ってはいけない」という紳士協定があった。

 やがて,1985年に作られた「リバティ・プレイス」(私がこの日,朝食を食べたところである)によって,その協定が破られた。そしてさらに2008年には,それよりもさらに高いコムキャスト・センター(Comcast Center)が建てられた。
 しかし,紳士協定が破られてからというもの,フィラデルフィアの全てのプロスポーツチームはチャンピオンシップシリーズで勝てなくなり,全て敗北してきたのだった。これが「ビリー・ペンの呪い」(Curse of Billy Penn)といわれたものである。
 2008年,MLBのフィラデルフィア・フィリーズがワールド・チャンピオンとなり,ついにこの呪いが解けた。そして,このとき,ウィリアム・ペンのレプリカの銅像をコムキャスト・センターの屋上に設置したのであった。

 エレベータを降りて外に出ると,狭い展望台からはフィラデルフィアの街ををすべて見渡すことができた。
 ニューヨーク同様にこの街も碁盤の目のように作られているが,ただ北西の方向だけは斜めに道路が走っていて,その向こうにあるのが,フィラデルフィア美術館であった。
 南の方には広く住宅街が続いていたが,その遥か先にあるのが,私がこれから向かうフィラデルフィア・フィリーズのホームグランドであった。
 そして,頭上を見上げると,そこにあったのがウィリアム・ペンの銅像であった。この銅像,クリスマスになればサンタクロースの服を着るし,フィラデルフィア・フィリーズが優勝すれば,フィリーズのユニフォームを纏うのだ。
 一体だれがその服を着せるのであろうか? と私は不思議に思った。
 しばらく展望台にいたが,促されてエレベータに乗り,階下に戻って市庁舎を出た。外を歩いていると,多くのオフィシャルワーカーが外にいて,心配そうにあるビルを見上げていた。そこにいたひとりの女性に一体何があったのか聞いてみると,ビルのエレベータから噴煙が上がったので,ビル全体にエバキュエーション(evacuation=避難)の警報が出たのだという。
 映画やテレビのニュースでよく見かける風景ではないか! 私は,危険だという実感もなく「ああ,アメリカにいる」となぜが感動したものだった。

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●古きよきアメリカの面影の残る街●
 私の泊まるホテルの近くに市庁舎があった。市庁舎の中央にはタワーがあって,よく見ると,そのてっぺんに銅像があった。調べてみると,この市庁舎タワーに登ることができることがわかったので行ってみることにした。
 タワーの高さは167メートルあって,1987年までフィラデルフィアで最も高い建物であった。かつては,そのタワーの上に立っているウィリアム・ペンの銅像をしのぐ建物を市の中心に建てることを禁ずる紳士協定があったという。
 今でも,ドイツでは都市のシンボルである教会よりも高い建物を建ててはならないという決まりがあるのだそうだ。 
 せっかくここまで来たからにには,今は1番高いわけでなくても,この頂上からフィラデルフィアを眺めるのも一興であろうと思った。

 「地球の歩き方」によると,市庁舎のビジターセンターで入場券を入手すると書いてあったので,まず,そのビジターセンターを目指したのだが,どこにそれがあるのか,さっぱりわからない。いろんな人に聞いて聞いて,何とかたどりついたが,市庁舎の1階の奥まったところにあったそこは小さな売店も兼ねていて,さまざまなお土産グッズも売られていた。
 アメリカの土産物売り場にあるのは,大概,メイドインチャイナのマグカップとかフラッグとかくらいで,私は,こういうものを買う意味がよくわからない。とはいえ,そんな私でも,昨年ハワイ島マウナケアにあるオニヅカビジターセンターではすばる望遠鏡のマグカップを買ったし,そのときに,ケック望遠鏡のマグカップも併せて買ってこなかったことを今でも悔いていて,これが欲しいために,また,マウナアに行きたいと思っているくらいだから,やはりこれも人それぞれの思い入れの違いであろう。

 入場券には市庁舎の9階から出発するタワーの最上階へ行くエレベータに乗る時間が指定される。満員で手に入らなかったらどうしようかと思ったのは完全な杞憂で,ガラガラであった。
 6ドル払って入場券を手に入れて,まずは市庁舎の1階から7階まで行く一般用のエレベータの乗り場へ案内された通りに進んで,乗り込んだ。
 このエレベータを降りたところからは,写真のように廊下に赤いラインが引かれていて,それに沿って歩いていき,さらに階段を上ると9階の待合室に出た。
 この待合室の中央にタワーの最上階に行くエレベータがある。その周りには,この建物を作ったの写真などが展示されていた。
 私がそこに着いたときは他に誰もいなかったが,そのうちに,年取った母親とその娘らしき2人がやってきた。私の乗るエレベータのメンバーは合計3人であった。

 こうした歴史的な建物は一見の価値がある。アメリカの大都市にはこうしたものが大概はあるのだが,近頃ではテロの心配で閉鎖されていたりセキュリティが厳しかったりと,ここのように気軽に登れるところが少なくなった。あるいは,もっと高くて近代的な建物にも豪華な展望台があって,そこに登るにはかなり高価な入場料が必要だったりする。
 フィラデルフィアのように,安価で,しかもセキュリティのまったくないものは,今では珍しい。この数日後に再びフィラデルフィアに戻って来たときに行った歴史地区も含めて,この古都は私が30年以上前に行ったときのニューヨークに雰囲気が似ていた。
 当時のアメリカに比べて,現在は,どこもかしこも,セキュリティが厳重になり,観光客がやたらと多くなり,私のあこがれていた古きよきアメリカはほとんどなくなってしまった。しかし,フィラデルフィアには,その面影が残っていた。
 やがて,エレベータが降りてきて扉が開いて係員が出てきて,エレベータに乗るようにせかした。
 我々が乗り込むと,エレベータはタワーの最上階に上っていった。エレベータの窓からは,鉄骨の骨組みが見られて,このビルができた当時の面影をしのぶことができた。

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●食事が異常に高いのは?●
 ホテルから出て少し歩いたところにある交差点の角に「リバティプレイス」(Liberty Place)と入口に書かれた新しいビルがあったので,なかに入った。2階に上がるとフードコートがあった。このフードコートはこの後たびたびお世話になることになるが,このときはまだ,そんな先のことはわからない。
 とても広いフードコートで,日本食から中華料理,インド料理,メキシコ料理,そして,当然ハンバーガーショップなど,世界中の多くの種類の食事がそろっていた。私はこの日,まだ,朝食をとっていなかったので,お気に入りの「Chick-fil-A」があったから,ここで食事をすることにした。

 この3月に行ったハワイ・マウイ島もそうであったが,アメリカは異常に食事が高い。私は旅行をするたびにそう思う。しかし,ハワイで現地に住む日本の人に聞くと,日本だって高いじゃないか,という。彼曰く,アメリカなら4,000円も出せばステーキが食べられるが日本なら10,000円もするではないかと。しかし,私は日本で10,000円もするようなステーキを食べたことはない。朝食だって,日本でもホテルなら1,000円くらいはするだろうが,そんなものを食べたことはない。
 要するに,旅行先では行く店が違うということだろう。
 そもそも私がいつも不思議に思うのは,日本では新入社員の手取りの給料が月に200,000円もないのに,街中にあふれているモールのレストランでは1,000円以上もするランチに列ができているということである。どこにそんなお金があるというのだろう?

 それよりも,私がアメリカを旅していて非常に馬鹿らしいと思うのはチップの存在である。この金額が異常に高くつく。一流レストランならともかくも,アメリカでデニーズ(現在アメリカのデニーズは日本のデニーズとは無関係)のようなファミリーレストランに行って,単に注文を取って食事を運んでくれるだけで他に大したことをしてくれるわけでもないのにチップをくれてやるなんて,ほんとうにどうかしている。そこで1,000円の食事が1,200円になるなんて私には全く納得し難いのである。
 そしてまた,私も旅慣れていなかったころは調子に乗って,日本なら頼みもしないのに,レストランで食事をするときアメリカでは食事の注文の前に「お飲物は?」と言われるので「とりあえずの」コーヒーなどを注文したりしたものだから,輪をかけて食事が高価になった。しかし,旅慣れたころになってまわりを見渡す余裕ができたら,ほとんどの人はコーヒーなど頼まず水を飲んでいるではないか! 馬鹿なことをしたものだ。
 だから,こうした,チップの要らない,しかも,余分なものを注文しなくてよいフードコートやソフトドリンクがお代わり自由のハンバーガーショップのほうがずっと便利なのである。

 実際に住んでる人に聞くと,高価な外食などしないという。結局,考えてみれば,それはどの国でも同じことなのだ。レストランで外食をするなど,その土地のグルメを楽しむなど特別なときだけで十分なのだ。日本だって飲みに行けば数千円くらい簡単に飛んでいく。そんなわけで,私も,このごろは単に空腹を満たすための食事はホテルの近くのスーパーマーケットを探しては調達することにしているのだが,このほうがその土地の食文化を知ることができるのでとても面白い。旅の醍醐味はここにあるといってもよいほどだ。
 日本にはモールなどないと思っているアメリカ人も多く,アメリカの異常に広いモールを得意がるが,近年はそんなもの,日本にだっていくらでもある。そして,日本だろうとアメリカだろうと,売っているものも入っている店もほとんど違いがない。ただし,フードコートの食事の種類は,どこへ行っても代り映えのしない日本よりも,むしろアメリカのほうがずっと多いのだ。

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●フィラデルフィアはまるで日本のよう●
 フィラデルフィアのアムトラックステーションは数十年前の日本の大都市の駅と同じようなところで,広いコンコースが威厳を保ち構内にはレストランやら売店もあった。
 レンタカーを返却して身軽になった私は,ここから地下鉄に乗って予約したホテルに行くことにしていた。チェックインの時間まではずいぶんあったが,カバンを持っていては何もできないから,チェックインができなければカバンだけを預けるつもりであった。
 通りがかりの人に地下鉄の駅までの行き方を聞いた。入口は駅の外にあった。その場所まで行くと,階段を下りる手前に案内所があったので,路線図をもらいトークンを5枚買った。
 トークンとはゲームセンターのコインのようなもので,ニューヨークではずいぶんと前にはこんなものを使っていたが,フィラデルフィアの地下鉄では未だにトークンなるものが使われているのが古臭くておかしかった。
 この町には,30年前のアメリカの都会がそのままある。

 大都市の公共交通は慣れるまでハードルが高い。今ではクレジットカードでチケットを買うことができる都市もあれば,この後で行くワシントンDCやサンフランシスコのように,日本のSuicaのようなものを買うことができる都市もある。
 逆にハワイのホノルルの市バスなど,未だにお釣りが出ないし両替もできないので,きちんと2ドル50セントを用意しなくてはならないというところもあるが,ほとんどの日本人観光客はそんな市バスなどは利用しないからおそらく乗り方すら知らない。私はそんなときのために,私の小銭入れにはクォーター(25セント硬貨)が山ほど入っているが重たいだけでほとんど出番がない。ほとんどどこでもクレジットカードが使えるアメリカでは,万一のそういう場合に備えて1ドル札と10ドル札が数枚とクォーターが十分にあればなんとかなる。
 こうして私は,まだ土地勘がなくよくわからないまま地下鉄に乗り込んで数ブロック先の「15th Street」駅で降りて地上に出た。数年前に生まれてはじめて福岡の空港に降りてそのまま地下鉄に乗って市街に出たときのことを思い出した。それとほとんど同じ状況であった。

 事前に調べておいたように,東京の浅草駅のような「15th Street」駅の地下道を歩き地上に出て5分ほど行けば予約したホテルに着くはずであった。ホテルのあるのはフィラデルフィアの市庁舎のあるあたり,つまり,ダウンタウンの中心で,とても便利なところだったが,問題はこのホテル,ダウンタウンにあるので宿泊代が結構高価だということだけであった。
 行ってみてわかったが,フィラデルフィアは日本の都会のようで,非常に観光するのが楽なところであった。治安が悪いと脅かされていたが,ボルチモアとは違ってそんなことは全くなかった。

 ホテルのフロントは2階にあった。入口を入ってエレベータで2階に上がりフロントに行って聞いてみたが,まだ部屋の用意ができていないのでチェックインはできないということであった。アメリカのホテルではチェックインの時間より早くても部屋があれば入ることができるが,ここはだめだった。仕方がないので,カバンだけをクロークに預けて再び外に出た。

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●ロッキーの足型を見損ねた。●
 私はロッキーの像と一緒に写真を撮る,という長年の夢を,ついに実現した。この像は,私のように一緒に写真を写そうとする観光客が全世界からやってきて,順番待ちをしているのだが,私が行ったときはまだ早朝だったので比較的人は少なかった。
 「地球の歩き方」には「写真を写してあげるといってチップをねだる人がいるから気をつけよう」と書かれてあったが,私が行ったときにはそんなけしからん輩はいなかった。むしろ,私が頼まれて次々とカメラマンをやっていた。もちろん,チップなど請求しなかったけれど。そして,私が写されるときには,やれ右手はもっと上にとか左を向けとかいろいろとポーズのつけ方をアドバイスされたりした。

 私は念願がかなったあと,頭のなかで映画「ロッキー」のテーマを奏でながらロッキーステップを駆け上がった。見渡すと,大勢の人が同じことをやっていた。
 しかし,あまり時間がなく急いでいた私は,このとき,ロッキーステップの最上段にロッキーの足型があるのをすっかり忘れていて見損ねてしまったのだった。この旅で,そのことをずっと後悔することになるのだが,この数日後に再びここに来ることができて,ロッキーの足型も見ることができたのだった。そのことはまた後日。

 レンタカーを返却する午前10時に近づいてきたので,私は急いで車に戻り,レンタカーを返却するために,フィラデルフィアのアムトラックステーションへ行くことになった。
 たいていの場合,私がレンタカーを返すのは空港だから,列車の駅で返却するというのははじめての経験であった。はじめの予定では,フィラデルフィアでも空港で返却をするつもりであったが,考えてみれば,車を返してからダウンタウンに行くのだからこの方が便利だと思い直して,変更したのだった。しかし,それはそれで勝手がよくわからなかった。
 駅に着いて,まず,レンタカーリターンを探すのが一苦労であった。日本ではJRの駅のまわりはタクシーであふれているが,ここではなんとタクシーではなくウーバーであふれかえっていたのが私には衝撃であった。日本とは全く異なる世界であった。こうして日本人の知らない間に世界はどんどんと進化を遂げている。
 そこを抜けると,なんとかレンタカーリターンの道路標示を見つけることができたので,それに従って走っていくと,駅の地下駐車場に入っていった。さらに進んでいくと,一番奥まったところにハーツレンタカーの駐車スペースがあったのだが,係員はだれもいなかった。アメリカではこういうのがふつうなのである。こうした場合,何事も自分で判断しないとはじまらないわけだ。私はとりあえず空いていた場所に車を停めて,カバンをトランクから出して,地上階の駅の構内にあるハーツレンタカーのカウンタまで行き,走行距離を言って車のキーを返した。日本とは違って返却するときに車を調べるわけでもなくこれで契約は終了である。
 キーを返したときに,係員が「車は快調だったか?」と聞いた。まあ,いろいろとあったけれど,無事に3,878キロ(日本列島2往復に相当),ここまで走り通すことができたからよしとしようと思った。

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●映画「ロッキー」の撮影された町●
 映画「ロッキー」(Rocky)は1976年に公開された。主演と脚本はシルヴェスター・スタローン(Sylvester Gardenzio Stallone)で,第49回アカデミー賞作品賞と第34回ゴールデングローブ賞ドラマ作品賞を受賞した。
 この映画は好評で,その後に続編「ロッキー2」「ロッキー3」「ロッキー4炎の友情」「ロッキー5最後のドラマ」「ロッキー・ザ・ファイナル」」が製作された。

 「ロッキー」はフィラデルフィアを舞台としたボクシング映画である。
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 フィラデルフィアに暮らす「三流」ボクサーのロッキー・バルボア(Rocky Balboa)は素質があるのにこれといった努力もしない自堕落な生活を送っていたが,近所のペットショップで働くエイドリアン(Adrian)に恋心を抱き,やがてお互いになくてはならない存在になっていく。そんなある日,世界ヘビー級タイトルマッチで,チャンピオンのアポロ・クリード(Apollo Creed)の対戦相手が負傷したことから「イタリアの種馬」(Italian Stallion)というユニークなニックネームをもつというだけの理由で,ロッキーが対戦相手になる。
 ロッキーは申し出を断るが,アポロは半ば強制的に試合の開催を決定し,ロッキーの戦いが始まる。最終ラウンドまで耐えたロッキーの猛ラッシュ,場内にロッキーコールが巻き起こった。よろめくアポロを最後のゴングが救い,試合は判定に。ロッキーは,渾身の力を振り絞りエイドリアンの名を何度も叫ぶのだった。
 告げられた判定結果は僅差でチャンピオンの勝利であったが,ロッキーとエイドリアンの二人にはもはや勝ち負けなど関係なかった。「アイラブユー,ロッキー」「アイラブユー,エイドリアン」。二人は熱く,固い抱擁を交わすのだった。
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 この映画で描かれたフィラデルフィアのうらぶれた下町やロッキーがトレーニングで駆け上がるフィラデルフィア美術館前庭の階段(「ロッキー・ステップ」という)などが私に強い印象を残していて,一度は行ってみたいと長年ずっと思い続けていた。しかも,ロッキーの銅像がこの美術館のどこかに今もあるということを知り,ぜひ,この像と一緒に写真を写したかったのだが,これまではなかなか行く機会がなかった。この日,とうとうそれが実現する。
 
 私はフィラデルフィアの西側のスクールキル川(Schuylkill River)沿いに車を走らせ,なんとかレンタカーの返却時間の1時間前に美術館に到着した。あたりは文化的な雰囲気のただようところであったが,車を駐車するスペースを探すのに苦労した。
 日本では「車は走るだけではだめでどこかに駐車しないと意味がない」という当たりまえのことすら行政は認めないから,道路を作るときに駐車スペースを作らない。その結果,やたらと歩道が広いのに道路は車を停めるスペースさえないという状況が生まれる。それでも車は停めなくてはいけない必要があるからただでさえ狭い道路なのにそこに違法駐車をする。だからさらに渋滞が起きる,という悪循環が繰り返されることになる。
 それに対して,アメリカでは大概の場合,道路はどこでも路肩に駐車スペースが作られている。しかし,早朝だったのにも関わらず,フィラデルフィア美術館のあたりのほとんどの駐車スペースはすでに一杯だったので,私は周辺を走り回って,やっとスペースを見つけることができた。
 そこからずいぶんと歩いていって,小高い丘の上にある美術館に連なる「ロッキーステップ」の下右手に,待望のロッキー像があるのを見つけたときは感動した。

 なお,映画「ロッキー」に登場するロッキーのロードワークシーンは,この美術館の南,スクールキル川の西側に広がる下町で撮影されたものである。
 果物屋の店主がジョギングをしているロッキーにオレンジを投げ渡す場面があるが,これは,この映画の撮影で走っていたシルヴェスター・スタローンを本物のボクサーと勘違いしたことで起きたハプニングである。

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