しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:日本国内 > 東京

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 2024年3月9日,新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会を聴きに東京へ行きました。今回の公演は午後3時からだったので,それまで何をしようかな? と思っていたのですが,新幹線の車内から見えた富士山があまりに見事で,しかも,新幹線が品川駅に差しかかっていても,まだ,富士山がきれいに見えるので,こりゃ,東京で富士山を見ることができる絶好の機会だと,新宿にある東京都庁の展望台に行くことにしました。
 以前にも東京都内から富士山を見たことはあるのですが,このごろはなかかなその機会がありませんでした。現在の東京都庁ができた1991年に,展望台があるということで行ってみた記憶があるのですが,それ以降は,行ったことがありませんでした。おそらく,富士山を見ることができる展望台はこれだろうと思い当たり,行ってみることにしたのです。
 実際,展望台からの眺めは,予想以上にすばらしく,美しい富士山を見ることができました。展望台は外国人でいっぱいでした。

 さて,この日の演奏会は,すみだトリフォニーホールで,場所はJR錦糸町駅からほど近いところでした。この界隈は,亀戸といいます。亀戸といえば,亀戸天神です。東京に住んでいる人には当たり前かも知れませんが,よそ者の私には,東京には,未だに行ったことがない場所が結構あります。このごろは,機会があれば,そうした場所に行ってみることにしています。
 亀戸天神は,JR錦糸町駅から20分ほど北に行ったところにありました。
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 亀戸天神社,通称亀戸天神は,天満大神,すなわち,菅原道真を祀り,学問の神として親しまれています。1644年から1647年の正保年間,菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官・菅原大鳥居信祐が天神信仰を広めるため諸国を巡り,1661年(寛文元年)にこの地にたどり着いて,もともとあった天神の小祠に菅原道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのがはじまりとされます。四代将軍徳川家綱が鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進し,太宰府天満宮に倣い造営されました。
 名物は葛餅で,亀戸餅ともよばれ,1805年(文化2年)に天神社参道で創業した船橋屋が人気を集め,現在も店舗を構えています。
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 この,下町情緒あふれる地もまた,いいものでした。次回はゆっくりと街歩きをしてみたいと思いました。

 では,最後に,お恥ずかしい話を。
 アニメに疎い私にも,おぼろげに「こちら亀有公園前派出署」という名前のアニメがあることは知っていました。それがここ亀戸だと思い,何かゆかりのものがないかなあ,と探していたのです。亀戸と亀有は,全く異なる場所だから,当然,あるわけがないのです。
 ということで,今度は,亀有にも行ってみようと決心しました。
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 この日は,日帰りで東京を往復したのですが,行きは美しい富士山を見て,すばらしい演奏会を聴いて,帰りは,JR東京駅のホームで「ドクターイエロー」を目撃しました。そんなわけで,気分がよかったので,駅弁「春の弁当・花衣」を買って,帰りの車内で食べました。

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 2024年2月3日は,予約してあった皇居の一般参観が午後1時30分からだったので,それまで時間がありました。
 まず,午前9時に上野へ行って,国立科学博物館と東京国立博物館を見学しました。いくら土曜日とはいえ,午前中は人もおらず,ゆっくりと見てまわることができました。どこへ行っても人だらけの東京で,ここは穴場です。
 それから,以前から一度行きたいと思っていた上島珈琲店で昼食をとりました。もし,東京に住んでいたら,国立科学博物館は65歳以上は無料だし,この界隈は私の散歩コースとなるところだと思います。落ち着きます。

 昼食を終えて,皇居に向かいました。そして,一般参観の時間まで,皇居東御苑を散策することにしました。皇居東御苑は開放されていて,大手門,平川門,北桔梗門から出入りすることができます。
 私は,江戸城の正門として使われていた「大手門」から入りました。
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 皇居は,かつて江戸城でした。江戸城の前身は,1457年(康正3年)に扇谷上杉家の家臣・太田道灌が築いた平山城で,1590年(天正18年)に徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城となり,江戸幕府開幕後に大規模な拡張工事が行われ,日本最大の面積の城郭になりました。
 江戸時代,諸大名が登城していた大手門は,敵からの侵入を阻止して反撃するために、大小ふたつの門から成り立っています。現在のものは,1945年(昭和20年)の空襲で焼失し,1967年(昭和42年)に復元されたものです。
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 門をくぐると,江戸城警備における最初の番所であった「同心番所」があって,下級武士である同心が詰めて監視していました。そのちかくにあるのが「百人番所」で,45メートルの幅があります。これは,大手中之門を守るために造られた警備詰所で,甲賀組,伊賀組,根来組と4組の鉄砲百人組「二十五騎組」が警備していました。大手中之門跡の石垣を抜けると,3つ目の番所「大番所」があります。こちらは位の高い武士が勤務していました。1968年(昭和43年)に復元されたものです。

 こうした番所を過ぎると,約70本の紅白の梅が植えられている「梅林坂」があります。すでに梅は満開で,美しく花が咲いていました。この地に最初に城を築いた太田道灌が菅原道真を祀る「天神社」を設け,梅を植えたことが坂の名前の由来ということです。
 右手は二の丸庭園で,ここには,復元された日本庭園と,二の丸雑木林・新雑木林,都道府県の木,菖蒲田などがあります。
 「梅林坂」を登っていくと,本丸御殿のあった大芝生が広がります。かつては,13万平方メートルある敷地に,幕府の中枢となる政庁として御殿が建っていました。表御殿・中奥から御鈴廊下でつながっていたのが大奥でしたが,今は,往時を偲ぶものはありません。
 本丸大芝生の右手に天守閣跡があります。天守の土台として築かれた天守台は,日本最大といわれた高さ45メートルの江戸城の天守を支えたもので,現在は東西41メートル,南北45メートル,高さ11メートルの石積みが残されています。
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 1657年明暦3年に起きた「明暦の大火」で,江戸城の天守は消失しました。江戸幕府は,すぐに江戸城の復興に着手し,土台の普請を加賀藩主・前田綱紀に命じました。前田家は領内から5,000人の人夫を動員してこれに着手。御家の威信をかけて瀬戸内から巨大な御影石を運ばせて天守の土台を完成させたました。これが、今も残る天守台です。
 しかし,会津初代藩主・保科正之は,実用性のない天守に莫大な建設費や維持管理費を割くぐらいだったら,城下の復興・再建にあてるべきだと反対をし,それ以降,江戸城に天守が築かれることはありませんでした。
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 さらに行くと,城壁よりも強固な防御施設であった富士見多聞があって,内部を見ることができます。そこを下ると,松之廊下跡があります。現在は石碑と説明版が立っているだけですが,1701年(元禄14年),この場所で赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に切りかかる刃傷事件を起こしたところです。
 松之大廊下は,本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院にわたる全長50メートル,幅4メートルほどの畳式廊下でした。襖に松並木の絵が描かれていたことからこの名がつけられていました。
 その先にある富士見櫓は,皇居東御苑の南に位置する高さ16メートルの三重櫓で,江戸城の史跡として唯一残る三重櫓です。どこから見ても同じような形に見えることから「八方正面の櫓」という別名があります。
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 富士見櫓は1606年(慶長11年)に創建,櫓台石垣は加藤清正が築いたもので,城内の現存石垣の中でも最も古い石垣のひとつです。富士見櫓もまた,「明暦の大火」で焼失しましたが,こちらは,1659年(万治2年)に再建され,再建されることのなかった天守に代わるものとして,代用天守の櫓ともいわれていました。
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 さて,そんな散策を楽しんでいるうちに時間になったので,桔梗門に向かいました。

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 2023年12月9日に京都へ行ったとき,以前は予約が必要だった京都御所でしたが,今は予約なしに見学することができました。家に帰ってから調べてみると,東京の皇居も,一般参観ができることを知ったので,2024年2月3日,NHK交響楽団の定期公演を聴きに東京へ行く機会に,一般参観に参加してみることにしました。皇居の一般参観は,当日受付と事前受付があるのですが,当日受付は定員を超える心配があったので,事前受付で,午後1時30分の部を予約しておきました。
 私は,ドジャースタジアムは4回も行ったことがあるのに東京ドームには行ったことがなく,アメリカの連邦議会を傍聴したことがあるのに日本の国会を傍聴したことがなく,アメリカのホワイトハウスの見学をしたことがあるのに皇居の一般参観をしたことはありませんでした。ずいぶん前,昭和のころに,偶然,4月29日の天皇誕生日に東京に行ったとき,そうか,今日は天皇誕生日か,と思い立って一般参賀に行ったことはあります。そもそも,一般参観ができることすら知りませんでした。

 集合場所は皇居の桔梗門前で,午後1時30分からとありましたが,午後1時から中に案内されました。事前予約と当日受付は別の列になっていて,当日受付はかなりの人の列ができていたので,事前受付をしておいてよかったと思いました。当日受付は日本人よりも外国人の方が多い状況でした。
 桔梗門は江戸時代に造られたもので,太田道灌が桔梗を家紋にしていたことからその名がつけられたそうです。桔梗門をくぐって,まず,参観者の休所である「窓明館」に入ります。そして,館内のテレビモニターで,皇居や皇室に関する映像を見たり,土産物屋さんを覗いたり,係の人の説明を聞きながら,時間まで待機します。窓明館の前の建物は,1921年(大正10年)に建てられた旧枢密院で,現在は皇宮警察本部の庁舎です。
 時間になったので,それぞれ,日本語,英語,中国語,フランス語,スペイン語のガイドさんについて,言語別に出発します。最初に,桔梗門の脇にある通りを進むと見えてくるのが,江戸城本丸の武器を収めていた高さ16メートル,櫓下の石垣の高さが15メートルの富士見櫓でした。富士見櫓は,1657年(明暦3年)の大火で焼け落ち,1659年(万治2年)に再建されたものです。石垣は「打ち込みはぎ」という手法で,伊豆の自然石をそのまま積んだもので,関東大震災でも崩れなかったそうです。江戸時代は,富士見櫓から富士山や品川の海,両国の花火などが見えたそうですが,今は高い建物にさえぎられて,富士山は見えないという説明がありました。

 富士見櫓から先に進むと見えてくるのが,よくテレビなどに出てくる1935年(昭和10年)に完成した宮内庁庁舎です。それを過ぎると,一般参賀を行う宮殿東庭になります。
 一般参観のメインは,どうやら,この宮殿東庭のようです。一般参賀でも入ることができるのですが,そのときは人が溢れているので,こうして落ち着いて見ることができるのは,一般参観の特典です。有田焼でできた黄色い照明灯の向こうが全長160メートルもある「長和殿」で,その中央のバルコニーに皇室の人たちが並ぶわけです。
 宮殿は,「長和殿」とその奥に平行して建つ「正殿」,そして,右手に宴会場である「豊明殿」が中庭を挟むようにして,カタカナの「コ」の字に造られた部分と,「正殿」の奥の「表御座所」で構成されています。「正殿」には,左から竹,松,梅の部屋があって,もっとも格上の松の間は内閣総理大臣や最高裁判所長官の親任式などの行事が行われる場所です。また,「表御座所」は天皇陛下が公務を行う部屋です。
 宮殿で最も注目すべきものは,宮殿東庭から「長和殿」の奥にかろうじて見える「正殿」の屋根にある,中国の伝説の鳥「瑞鳥」です。これは,両端でペアになっています。この「瑞鳥」は,高さが2.3メートルもあって,人間国宝・佐々木象堂さんが作ったものだそうです。
 宮殿の南側にある宮殿南庭は小川が流れる和風の庭園で,宮殿東庭から見える大きなふたつの丸い刈込みは「南庭の大刈込み」とよばれ,22種類から24種類の樹木を合わせてできたもので,6メートルほどの高さがあり,形を整えるために,中側と外側にハシゴを組んで手作業で行うという説明がありました。
 「長和殿」の南車寄せは,主に各国の大統領や大使の方が利用される玄関です。
 なお,宮殿は「キュウでん」,キュウのところにアクセントがあるよび方をするそうで,我々が「きゅうデン」のように,デンのところにアクセントをおくのとは違うという説明がありました。
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 そもそも日本に「宮殿」はなかった。明治以降のことだ。それ以前は「宮殿」と書いて「クーデン」と読んで、仏壇の中に入れる「厨子」(ずし)のことをそうよんでいた。明治以降使うようになった「キュウデン」というよび方を、「クー」ではないと強調するために,「頭高」で「キュウ」を強調して「キュウでん」とよぶのではないか?
  新・ことば事情7152「「宮殿」のアクセント」-「道浦俊彦TIME」(2019.5.6)より
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 宮殿を過ぎると正門鉄橋があります。
 正門鉄橋は,江戸時代,低い位置に木の橋を架け,その橋の上に橋桁を組んでさらに橋を架けていたので,二重橋とよばれるようになったそうです。なお,皇居を外側から見たとき,多くの人が眼鏡橋を二重橋と間違えます。
 二重橋の両側にある外灯は「すずらん灯」といい,年末年始にはライトアップされるということです。ここから伏見櫓の美しい姿が見えます。伏見櫓は,京都の伏見城にあった櫓を解体して移設したという話です。
 ここで折り返します。
 「長和殿」の右側を曲がると北車寄があります。北車寄は宮殿で実施される行事に参列する人が利用する玄関で,内閣総理大臣の親任式が行われたのちに撮られる記念撮影スポットでもあります。
 そこから,紅葉山という山の下を通る坂道を「山下通り」といい,江戸時代には紅葉山の上に東照宮が建っていたそうです。現在,紅葉山の上には紅葉山御養蚕所があって,皇后が毎年蚕を育て繭を出荷し,翌年のために蚕の卵を採る作業をする場所です
 夏になると大輪の蓮の花が咲く蓮池濠から,遠くに日本武道館の屋根の擬宝珠が見えました。
 さらに進んで,再び,富士見多聞を見ながら,桔梗門に戻って解散でした。

 これで約1時間15分の一般参観はおわりです。
 この日もまた,快晴でとても暖かだったので助かりました。

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 日にちは前後して,2023年12月16日の話です。
 横須賀港で「ドナルド・レーガン」を見たあと,東京に戻ってきたのですが,NHK交響楽団の定期公演まで時間があったので,ずいぶん前に1度行ったことがあるだけだった上野の国立科学博物館へ行くことにしました。
 国立科学博物館(National Museum of Nature and Science)は,国立という肩書きがついていますが,独立行政法人が運営しています。施設は上野恩賜公園内に所在する上野本館,白金台に所在する附属自然教育園,つくば市に所在する筑波実験植物園と昭和記念筑波研究資料館(非公開)があります。私はこれまで,附属自然教育園にも行ったことがあります。
 驚いたというか戸惑ったのは,まず,国立科学博物館には,日本館と地球館があったことでした。日本館というのは旧館で,地球館というのは新館のことらしいのですが,私が前回行ったときは旧館にあたるところだけしかなかったのです。次に,65歳以上が無料だったことです。これはうれしい誤算でした。あやうくチケットを買いそうになりました。私が東京に住んでいるのなら毎日でも行くのになあ,と思いました。
 名古屋市民のみ65歳以上無料という名古屋市の施設は,これを見習ってほしいものです。
 ということで,入口で生まれた年を自己申告するだけで中に入れた私は,まず,新しくできた地球館に向かいました。地球館は,1998年に第1期工事が完了し,1999年から常設展示が公開され,第2期工事完了後の2004年にグランドオープンしたそうです。また,2014年に北側展示場が改修工事のため閉鎖され,2015年にリニューアルオープンしたということなので,今は全館が見られるわけで,ちょうどいい時期に訪れたことになります。

 私が国立科学博物館という名前にはじめて接したのは,ここに勤めていた村山定男さんと小山ひさ子さんのことを,今は亡き藤井旭さんが,その著書や「月刊天文ガイド」でよく話題にしていたことからでした。
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 村山定男さんは,1924年(大正13年)に生まれ, 2013年(平成25年)に亡くなった天文学者で,国立科学博物館に長く奉職し,生涯を通じて天文普及活動に尽力した人です。また,小山ひさ子さんは,1916年(大正5年)に生まれ,1997年(平成9年)に亡くなった天文学者で,50年間にわたり,国立科学博物館の口径20センチメートルの屈折望遠鏡で太陽黒点の観測と記録を続けた人です。
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 私は,ロサンゼルスにあるドジャースタジアムには4度行ったけれど,名古屋にある中日ドラゴンズのホームグランドには1度しか行ったことがなく,ワシントンDCにあるスミソニアン博物館には2度行ったことがあるのに,上野の国立科学博物館には1度しか行ったことがない,というように,これまで,海外に目を向けても日本にあまり興味がなかったので,日本のこうした施設に疎く,このごろ,やっといろいろなところに出かけるようになりました。
 とはいえ,国立科学博物館の展示内容は,海外の同じような施設で見たことがあるようなものばかりだし,展示されている科学的な内容はほとんどのことを知っていたりと,私にはあまり珍しいものもなかったことと,土曜日で人が多く,じっくりと見学することもできなかったので,その多くは素通りすることになりました。
 そんな中で,私の目的は,先に書いた,小山ひさ子さんが使用していて,今は現役を退いた口径20センチメートルの屈折望遠鏡が,今はドームから降ろされてどこかに展示してあるらしいので,それを見ることでした。なお,日本館の屋上に今もなお存在するドームの中には,現在は西村製作所製の口径60センチメートルの反射望遠鏡が設置されているそうです。
 やっと見つけたそれは,地球館の地下3階にありました。日本光学(現在のニコン)が当時の最高技術を使って作られた望遠鏡ですが,現在では口径20センチメートルというのは大口径でもなく,また,現在の目から見ると,口径の割にかなり大仰な架台だと感じました。

 口径20センチメートルの屈折望遠鏡とともに,興味深かったのは,ハワイ島マウナケア山に設置した「すばる望遠鏡」ハワイにある「すばる望遠鏡」の先端の主焦点に取り付けて観測に用いられ,2017年に現役を退いた,キヤノンが開発・製造したモザイクCCD(天体の光を捉えるための半導体素子)カメラ「シュプリームカム」(Suprime-Cam)の実物でした。「シュプリームカム」の展示がはじまったのが今年2023年3月というから,これを見ることができたのも幸運でした。
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 ハワイ島マウナケアにある「すばる望遠鏡」は,8.2メートルの大口径と広い視野が特徴の光学赤外線望遠鏡です。「すばる望遠鏡」の広視野観測は,CCDを何枚も並べたモザイクCCDカメラを使用し,そのカメラを望遠鏡の主焦点に取り付けることで実現しました。
 その広視野観測を支えてきたのが,「すばる望遠鏡」の主焦点カメラ「シュプリームカム」。10個のCCDを使用し,8,000万画素にも及ぶ巨大カメラは,2000年から2017年まで主要観測装置として活躍しました。現在は,これに代わり,さらに広視野・高画素(8億7,000万画素!)の超広視野主焦点カメラ「ハイパー・シュプリームカム」(HSC=Hyper Suprime-Cam)が多くの成果をあげています。
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 そういえば,国立科学博物館で実物を見ることできる,と以前読んだことがあって,見てみたいと思った記憶がよみがえりました。また,この階には,ノーベル賞を受賞した学者さんたちの論文などが展示されていて,私は,これらにもとても興味をもちました。
 この日の晩,ホテルで,めずらしくめったにつけないテレビをつけたら,偶然,NHKBSで「2時間でまわる国立科学博物館」という番組が放送されていて,これまた驚きました。

 今回の1泊2日の東京の旅は,こうして,横須賀港で空母「ドナルド・レーガン」を見て,上野の国立科学博物館へ行って,NHK交響楽団の第2000回定期公演を聴いて,「川崎家」でラーメンを食べて,さらに,「駒テラス忘年会」に出席するという盛りたくさんの経験をして,帰路に着きました。
 帰りは,新幹線の車内で,品川駅で買った駅弁「シュウマイ弁当」を食べました。
 今回もまた,天気にも恵まれ,楽しい時間を過ごすことができました。

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 以前,諸外国の天文台について書きました。今日からは,日本の天文台についてです。まずは,三鷹市にある国立天文台です。

 私にとって,三鷹という地名は東京天文台と同等でした。
 子供のころに見た図鑑に載っていたのは,「三鷹の東京天文台」にある(あった)大きな屈折望遠鏡と電波望遠鏡でした。子供のころの憧れというのはずっと先まで大きな影響力を与えるものです。そこにいつかは行って,実物を見てみたいものだと念願していました。
 あれから機構が改革され,東京天文台は,国立天文台となりました。そして,星が満足に見えない三鷹に,現在あるのは,日本の天文学のナショナルセンターです。かつての私の憧れの機材は,今は文化財となりましたが,私は,研究用の現役機材よりも,こちらのほうに興味があるのです。

 三鷹というところにはじめて行ったときは,落ち着いた町だなあ,という印象でした。天文台はJRの三鷹駅からはずいぶんの距離がありましたが,歩いていると,天文台のあたりは,東京外国語大学,国際基督教大学,深大寺,植物園などがあって,すばらしいところでした。
 日本において,天文台は1878年(明治11年)に本郷で東京大学観象台としてはじまり,1888年(明治21年)には東京大学東京天文台として港区麻布板倉に移されました。現在の三鷹大沢への移転は1914年(大正3年)から1924年(大正13年)にかけて行われ,その後,1988年(昭和63年)に文部省所管の「国立天文台」と改められ,国際協力事業の積極的な推進をめざし,さらに国立大学の共同利用機関として位置づけられ現在に至っています。
 今では,研究用の観測基地は世界中に広がり,三鷹はそのセンター的な役割を担っています。

 大正,昭和に建設された施設のうち現存のものは,文化財として,常時,または,期日を決めて公開されていて,見学することができます。
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●第一赤道儀室
 1927年(昭和2年)に設置されたカール・ツァイス社製の口径20センチメートル,焦点距離359センチメートルの赤道儀は,速度調整機構付重錘式時計駆動といって重力により赤道儀内の錘が下に下がることを利用して天体を追尾するものです。
 この望遠鏡では,天気がいいと黒点を見せてもらえます。私も何度も見ることができました。
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●大赤道儀室
 私の憧れだったのが,1929年(昭和4年)に設置された有名なカール・ツァイス社製の口径65センチメートル,焦点距離1,021センチメートルの屈折望遠鏡です。この望遠鏡が大赤道儀室にあります。
 現役時代は,ドームの床全体がエレベータ式で昇降するつくりだったそうですが,退役後は固定されていて,もはや,星を見ることはできません。2001年(平成13年)に「天文台歴史館」となりました。
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●太陽塔望遠鏡
 1930年(昭和5年)に建設された地上5階、地下1階建ての建物で,ドイツのベルリンにある「アインシュタイン塔」と同じ目的で建造されたため「アインシュタイン塔」といわれます。
 一般相対性理論から予見される重力効果を観測する目的で作られたのですが,重力効果を観測することはできませんでした。しかし,太陽黒点観測や太陽スペクトル観測などに成果を挙げ,1968年(昭和43年)に研究観測を終了しました。
 通常は公開されていないので残念だったのですが,幸運なことに,私は2018年(平成30年)の特別公開で内部を見ることができました。
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●太陽電波望遠鏡
 先に書いたように,私が子供のころに見た図鑑に載っていた電波望遠鏡ですが,現在は存在しません。その跡地に案内板だけが設置されています。
 一度,見たかったものです。


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 再び西荻窪駅で中央線にのって,新宿駅で降り,都心へ戻ってきました。
 NHK交響楽団の定期公演は午後6時からですが,開場は午後5時。それまでどこに行こうかな,と思ったとき,新宿御苑へ行ったことがないことに気づきました。人で一杯,と思ったので,あまり気乗りはしなかったのですが,ほかに名案があるわけでもなし,東京はどこかしこも人ばかりだから,あきらめて行ってみることにしました。
 その前に,新宿のニコンプラザに寄りました。ここでは写真展をやっているので,それが楽しみだったことと,新製品を触ることができるので,たびたび足を運ぶのです。数年前まで製品が売れず苦労をしていたニコンでしたが,ニコンZ9,ニコンZ8,ニコンZfと立て続けに売れ筋のカメラや高性能のレンズを発売して,やっとよみがえった感じです。

 さて,ニコンプラザを出て,歩いて新宿御苑にたどり着きました。
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 新宿御苑は,広さ58.3ヘクタール,周囲3.5キロメートルで,園内は,風景式庭園,整形式庭園,日本庭園が巧みに組み合わされています。明治を代表する近代西洋庭園といわれ,特色あふれる様式の庭園が楽しめます。
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 ということですが,ここは,1590年(天正18年)に,徳川家康が譜代大名であった内藤清成に授けた屋敷地の一部だったところです。高遠藩主であった7代・内藤清枚(きよかず)がこの場所に下屋敷を建てたことで,内藤家の江戸屋敷となりました。江戸時代,甲州街道が整うと,この地は宿場町「内藤新宿」として賑わうようになったそうで,それが「新宿」という名の由来です。
 明治維新後,1872年(明治5年)「内藤新宿試験場」が設置され,1879年(明治12年)には宮内省所管の「新宿植物御苑」となり,1906年(明治39年)に皇室庭園となったことで,名前が「御苑」というわけです。戦後は一般に公開されました。
 内藤清成なる人物を私は知りませんでした。大河ドラマにも出てきません。
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 1555年(弘治元年)三河に生まれた内藤清成は,明治維新まで続いた高遠藩内藤家の初代とされます。徳川秀忠の傅役(教育係)を任されたり,徳川家康江戸移封の際に鉄砲隊を率いて先陣をつとめるなど,徳川家康からの信頼が厚い人物で,江戸時代に入ると,関東総奉行や江戸町奉行,老中などをつとめ,初期の幕府を支えました。
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 東京だから,どこに行こうと人だらけですが,新宿御苑は,まあ,許せるほどの人混みでした。
 紅葉にはまだ早いくらいでしたが,黄色くなった大きなイチョウの木や,プラタナスの並木がきれいでした。

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Beaver Moon 2023.

明け方西空の満月です。
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 悩み多き2023年11月25日でした。
 当初は,夜,NHK交響楽団の定期公演に行くので,お昼間どこに行こうかと,いつものように考えていたのですが,先日書いたように,NHK交響楽団の定期公演の指揮者が変更になってしまい,聴きにいく気がなくなり,では,どうしようか? と思いめぐらすことになってしまったわけです。

 調べてみた結果,この日,将棋の達人戦の準決勝と決勝が公開対局で行われることを知りました。場所は立川ステージガーデンというところで,スケジュールは,準決勝の2局として,午前10時からが森内俊之九段対羽生善治九段,午後1時30分から丸山忠久九段対佐藤康光九段,そして,決勝戦が午後4時30分からでした。
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 達人戦立川立飛杯は,今年2023年に創設された,日本将棋連盟が主催,立飛ホールディングスが特別協賛し,トヨタS&D西東京の協賛で行われる将棋の公式棋戦です。「50歳以上の現役棋士」に出場者を限定したトーナメント戦です。  
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 はじめは,これに行ってみようかな,と思ったのですが,結局,気が変わりNHK交響楽団の定期公演に行くことにしたので,断念しました。しかし,この催しは,羽生善治九段が優勝し,将棋連盟会長でもある羽生善治九段が自ら自分に賞状を手渡した,ということで話題になったもので,行かなかったことをちょっぴり後悔しました。

 次に考えたのが,横須賀港へ行って「YOKOSUKA軍港めぐり」に乗る,ということでした。「YOKOSUKA軍港めぐり」は,すでに1度乗ったことがあるのですが,そのときは,ちょうど前日にアメリカの原子力空母「ドナルド・レーガン」(USS Ronald Reagan, CVN-76)が出航したばかりで見られませんでした。その原子力空母「ドナルド・レーガン」が11月19日に再び来港したので,この日に行けば見ることができる,と思いました。これは魅力がありましたが,おそらく,来年の3月くらいまで横須賀港に停泊するので,来月でも見ることができそうでした。
 私が見ているYouTubeのチャンネルのひとつである「紅子の色街探訪記」を主宰する紅子さんが,クラウドファンディングを利用して資金を集め,写真集を出版しました。そして,この日と翌日に「西荻窪ことカフェ」というところで行われる都筑響一さんのブックフェアに参加して,その会場で直接サインをして販売するという催しがあることを知りました。そこで,これに行こうと思いました。
 というわけで,この日の午前中は,西荻窪に行くことにしました。

 中央線の沿線は,三鷹には行ったことがありますが,中野,高円寺,荻窪あたりなんて,降りたことがありません。いや,今から48年ほど前,大学生のころに,荻窪に下宿して早稲田大学に通っていた,高校生のときの友達に会うために下車したことがあるのですが,すっかり記憶から飛んでいました。
 そこで,ぶらぶらと,これらの駅で降りながら,西荻窪まで行ってみることにしました。
 東京も,浅草とか原宿あたりのものすごい人混みから離れると,それなりに人も少なくなるし,おもしろいところが結構あるものです。まず,中野駅で降りて,新井薬師まで歩いてみました。中野ブロードウェイとかいう,場末のマーケットがあったりして,なかなかのところでした。
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 かつて「東の浅草寺,西の新井薬師」と並び称されたのが,古刹・新井薬師です。
 中野から新井薬師へと至る参道は,戦前から門前町として栄えていました。周辺に複数あった商店街は1989年(平成元年)に統合され「薬師あいロード商店街」という名称になりました。新井薬師は眼病にご利益があることで知られていて,「あいロード」には「eye(目)」と「愛」のふたつの意味がかけられているのだそうです。
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 とはいえ,新井薬師自体は,小さな寺でした。

 なんだかんだで,西荻窪駅に着きました。「西荻窪ことカフェ」は西荻窪駅から5分くらいの商店街のなかにありました。「西荻窪ことカフェ」は「あさ市のようなシェアスペース」として,だれでも借りて出品できるのだそうです。東京にはユニークな場所があるものだなあ,とうらやましくなりました。奥まったところで紅子さんが写真集を売っていたので,購入してサインをしてもらい,お話をして,一緒に写真を写しました。
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 1972年生まれの紅子さんは,若いころは家庭環境のせいもあって苦労し,吉原の高級ソープランドに勤めたこともある人で,現在は色街写真家を自称し,風俗街,赤線,遊郭跡地を撮影し,写真集にして発表するほか,YouTuberとしても活動しています。 
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 YouTubeでしか見たことのない人の本物に会うのは,不思議なものでした。
 こういう散策も悪くないものです。

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 歳をとると,昔のことが懐かしくなります。そこで,前回書いたように,50年以上前の朝日新聞に掲載されていた将棋の観戦記が読みたくて,国立国会図書館に行ってきました。
 昔の新聞は,縮刷版が発行されているものならどこの図書館でも簡単に読むことができると思ったのですが,地方都市にある図書館には,もともとなかったり,あるいは,書庫から出してもらったりと,思ったほど簡単ではありませんでした。また,新聞社のデータベースサービスを利用するという方法もあるようですが,かなり高額な有料システムでした。調べてみると
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 大きな中央図書館には,朝日新聞や読売新聞などの全国紙や地方紙の紙面を閲覧できます。また,国立国会図書館へ行けば,全国紙はもちろん,地方紙,スポーツ紙,業界紙,海外の新聞など多くの新聞を閲覧することができます。
 新聞資料は,新しい紙面は原紙や縮刷版で保管されていますが,古い新聞は,復刻版,マイクロフィルムなどの形態で保管されています。
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とあったので,これが一番確実で容易だと,国立国会図書館に行ってみたわけです。

 アメリカのそれぞれの町にある図書館では,住民の履歴までさかのぼれるような資料さえ保存されているようです。もともと,アメリカに住む人のほとんどは移民ですが,そのルーツを遡るのに,図書館で調べることができるようです,
 しかし,日本の図書館には,過去の貴重な資料が保管されているとは言い難いものです。だから,図書館というより,貸本屋のようなものです。図書館は,ベストセラーを無料で借りられる,とか,その日の新聞や雑誌が読めるといういう役割よりも,研究などで調べものをするときに,過去の貴重な資料が揃っている,ということのほうが重要だと私は思うですが,予算のこともあり,そうなっていないのも,また,日本らしい姿だと思います。
 日本は,教育の影響からか,多くの人は,学問は他人と順位を競う手段でしかなく,知的好奇心も研究意欲もないのです。博物館などに行っても,旅先でも,いつもそう感じます。それが行政にも反映されているのです。

 国立国会図書館には,以前,一度行ったことがありますが,ずいぶん前のことだったので,そのときは利用者登録をしたのですが,とっくの昔に無効になっていたから,今回,はじめに,利用者登録をしました。利用者登録は,思った以上に簡単でした。
 また,行ったのは土曜日の午前だったのですが,空いていて,とても快適でした。現在は制限がなく利用できるのですが,ここ3年ほどは,コロナ禍でさまざまな利用制限があったようです。
 新聞の縮刷版は新館の4階にあって,過去のものからずらりと書棚に並んでいたので,目的のものは,思った以上に容易に見つけることができて,感激しました。ただし,縮刷版は活字がとても小さくて,若いころはそれでも読むことができたのですが,老人の目にはきつく,次回行くときは虫眼鏡を持参する必要があると痛感しました。
 いずれにしても,国立国会図書館なら,読みたい本はすべて揃っているから,これからも,必要があれば,大いに活用していきたいと思いました。また,今は,デジタルデータになっている資料も多くあって,それらは,自宅のコンピュータでも見ることができるようになって,ずいぶん便利になりました。
 目的を終えて国立国会図書館から外に出たら,隣の国会議事堂外周の黄色く染まったイチョウがきれいでした。

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 日本各地を旅するとき,江戸時代にその地を治めていた殿様が気になるということを書きました。そして,その殿様がどれだけ領民に慕われていたかがわかるのが菩提寺だと気づきました。であるなら,本家本元,徳川将軍家の菩提寺はどうなんだろう? と興味が湧いてきました。
 そこで,今回,芝の増上寺を訪ねてみることにしました。
 ここは以前,行ったことがあります。しかし,どういうわけか,その時に写した写真がなくなってしまっていたので,また行ってみようと思ったのです。以前行ったときは,徳川将軍の墓所は特別公開だったと思うのですが,調べてみると,現在は,いつも一般に公開されているようでした。

 ところで,徳川将軍の墓所は1か所にあるのではなく,日光東照宮,上野の寛永寺,芝の増上寺,そして,谷中霊園の4か所にわかれています。
 初代将軍・徳川家康と3代将軍・徳川家光の墓は日光東照宮にあります。
 そして,芝の増上寺に墓があるのが,2代将軍・徳川秀忠,6代将軍・ 徳川家宣,7代将軍・徳川家継,9代将軍・徳川家重,12代将軍・徳川家慶,14代将軍・徳川家茂であり,上野の寛永寺に墓があるのが,4代将軍・徳川家綱,5代将軍・徳川綱吉,8代将軍・ 徳川吉宗,10代将軍・徳川家治,11代将軍・徳川家斉,13代将軍・徳川家定。そして,谷中霊園に墓があるのが15代将軍・徳川慶喜です。

 徳川家康は,遺言で自分が死んだら「静岡にある久能山に葬ってくれ。そして1年後に日光に移してくれ」という旨の遺言を残したことから,日光東照宮に葬られているのですが,自身を神格化するために神社に葬られているということになります。また,3代将軍・徳川家光は東照宮と同じ敷地内の天台宗の輪王寺ですが,これは,徳川家光が徳川家康を尊敬していたことから本人の希望で日光に埋葬されたそうです。
 これらは例外。
 もともと徳川家は浄土宗を信仰していたので,浄土宗である芝の増上寺が菩提寺です。
 ここに登場するのが天台宗の僧・南光坊天海。徳川家康,徳川秀忠,徳川家光はその影響で天台宗に帰依していました。この南光坊天海が「江戸に天台宗の寺を」と希望し,徳川秀忠が現在の上野公園のあたりの土地を与えたことで,1625年(寛永2年)に建てられたのが寛永寺です。
 徳川家光による寛永寺建立,天台宗への帰依の流れを受けて,その後の4代将軍・徳川家綱,5代将軍・徳川綱吉は寛永寺に埋葬されたのですが,これに怒ったのが増上寺でした。そこで,それ以降は交代に埋葬しようということになったのだそうです。

 巨大な増上寺に着きました。多くの人が来ていたのですが,私の目的である徳川将軍の墓地を訪れる人はほとんどいませんでした。
 6人の将軍と和宮の墓がコの字にならんでしたのですが…。
 実は,これは近年,このような形になったもので,もともとは,ひとりひとり将軍ごとに大きな霊廟があって,それらが墓だったのです。第2次世界大戦で火災に遭ったことと,その地が現在プリンスホテルに売られたことで,このような形になったということでした。
 私は,これまで,さまざまな藩主の菩提寺に行きましたが,将軍の墓がこれほどみすぼらしいということに衝撃を受けました。
 歴史というものは,そんなものです。
 私自身は,墓というものにまったく価値感をもっていません。墓というのは,その後に生きている人間の何らかの思惑で作られているだけのものです。それを偶像化している国もあるのですが,そんなものは未来永劫続くわけはないのです。そんなことは歴史が証明しています。
 私が増上寺で感じたのは,そんなことでした。

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 私は,吉原遊郭のあった現在の台東区千束4丁目にある風俗店には興味がありませんが,午前中,江戸時代の雰囲気が残るこの界隈を散策するのが嫌いではありません。このあたりに樋口一葉記念館があるのですが,私は,その場所がわかりませんでした。そこで,今回,行ってみることにして,谷中霊園から歩きました。
 樋口 一葉は,1872年(明治5年)に生まれ,1896年(明治29年)に亡くなった小説家です。
 中島歌子に和歌や古典文学を,半井桃水に小説を学び,生活に苦しみながら「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった作品を発表し,文壇から絶賛されましたが,24歳で肺結核により夭逝しました。
 1961年(昭和36年)樋口一葉がかつて居住し「たけくらべ」の舞台にもなった下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉)に一葉記念館が開館しました。当時,女流作家の単独資料館としては日本でははじめてであったといいます。また,老朽化が進んだこともあり,2006年(平成18年)にリニューアルしました。現在の建物は,地上3階・地下1階の構造で,1階が龍泉寺町の街並みを再現したエントランスギャラリー,2階部分にふたつ,3階部分にひとつの展示室があります。また,樋口一葉記念館の隣には一葉記念公園があり,「たけくらべ」の記念碑などがあります。

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 樋口一葉は,現在の千代田区内幸町の東京府庁構内官舎で,東京府下級役人の樋口則義と多喜(旧姓・古屋)の次女として誕生しました。
 幼児期から利発で言葉が出るのも早く物覚えがよかったのですが,1883年(明治16年),首席で卒業した高等科第四級ですが,母親が女は学問は不要という考えから上級に進まずに退学しました。
 その後は,中島歌子の歌塾「萩の舎」(はぎのや)に入門し,歌会では,下級官吏の娘であった樋口一葉は気おくれしながらも親が借りてきた古着で出席し,最高点を取りました。
 父親の事業の失敗で負債が残され,現在の文京区に引っ越し,母と妹と3人での針仕事や洗い張り,下駄の蝉表作りなどの賃仕事をするなど,苦しい生活が強いられました。
 「萩の舎」同門の田辺花圃が小説「薮の鶯」を出版し,多額の原稿料を得たのを知った樋口一葉は,小説を書こうと決意しました。また,生活苦打開のため1893年(明治26年),吉原遊郭近くの現在の台東区竜泉一丁目で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開きましたが,1894年(明治27年)5月には店を引き払い,現在の文京区西片一丁目に転居しました。しかし,樋口一葉は肺結核が進行しており,自宅において24歳と6か月で死去しました。
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 私は,吉原遊郭の女性の姿を描いた代表作「たけくらべ」から,樋口一葉は吉原遊郭の近くに生まれたものだとばかり思っていたのですが,それは誤解でした。

 樋口一葉記念館を出て,私は,吉原遊郭のあった千束4丁目まで歩いて行きました。私がこの日やりたかったのは,吉原遊郭のメインストリート「仲之町通り」の,吉原遊郭唯一の出入り口であった大門跡の近くにある「能登屋」というおそば屋さんで昼食をとることでした。
 このお店はとても評判のよいところで,やっと念願がかないました。
 お昼を食べ終えて,私は,浅草駅まで歩いて,地下鉄に乗って,次の目的地である港区芝の増上寺に向かいました。

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 2023年10月14日のNHK交響楽団10月A定期を聴きに東京へ行く計画を立てたのですが,残念ながらコンサートは中止になってしまいました。しかし,それ以外の予定はそのまま実行することにしました。
 今回は,コンサートの余韻を十分に味わうために1泊することにしていました。
 そこで,1日目の10月14日は,ディープな東京散策として,谷中霊園から旧吉原の樋口一葉記念館,そして,芝の増上寺で徳川家の墓とまわり,2日目の10月15日は,かねてからの懸案であった房総半島を1周することにしました。私は,人の少ないところのほうが楽しいのです。

 まず行ったのが,谷中霊園でした。新幹線で東京駅に着いて,そのまま乗り換えて上野駅まで。そこから歩きました。JR日暮里駅の方が近いのですが,私は,早朝の上野公園を歩くのが好きなのです。
 谷中霊園には,多くの有名人の墓がありますが,私の目的は,牧野富太郎博士の墓と江戸幕府最後の15代将軍・徳川慶喜の墓でした。上野公園を過ぎて,さらに北西に向かって歩いて行くと,谷中霊園が見えてきました。まず,徳川慶喜の墓の表示があったので,そちらを先に行くことにしました。
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 徳川慶喜は,明治維新によって,幕府崩壊とともに一般人になったのですが,公爵に叙せらたことで神道への宗旨替えをし,明治政府が作った新しい墓所である谷中霊園に埋葬されました。
 その後,徳川宗家は徳川慶喜とは別の徳川家達に移り,徳川慶喜の流れをくむ家系は墓じまいをするということで話題になりました。
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 徳川慶喜は神式で埋葬されたため円墳状の墓で,隣には,その妻・美賀子の墓が並んでいます。
 この場所は,江戸時代は感応寺(現在の天王寺)の境内でした。大政奉還を果たした徳川慶喜は,明治維新で謹慎が解かれると駿府(現在の静岡市)に隠棲し,10男11女をもうけ,1897年(明治30年)に東京に戻り,巣鴨で暮らしましたが,巣鴨駅の建設の喧騒から逃れるために,1901年(明治34年)に小石川に転居しました。大正2年に風邪を患って満76歳で亡くなりました。

 牧野富太郎博士は,今年度前期のNHK連続テレビ小説「らんまん」の主人公・槙野万太郎のモデルです。墓は,徳川慶喜の墓からさほど遠くないところにありましたが,見つけるのがたいへんでした。
 1862年(文久2年),土佐国佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)に生誕した牧野富太郎博士は植物学を志し,1884年(明治17年)に東京に出ました。1912年(大正元年),50歳のときから1939年(昭和14年)まで,東京帝国大学理科大学講師を務めました。
 1926年(大正15年)から没するまで大泉に居を構え,自邸の庭を「我が植物園」としてこよなく大切にしていました。そこは,現在の牧野記念庭園で,私が先日訪れたことはすでに書きました。
 1957年(昭和32年)に94歳で死去し,天王寺墓地に葬られました。墓の横には,牧野富太郎博士が愛し,新種の笹に「スエコザサ」と名づけた妻・寿衛さんの墓がありました。
 墓の正面には「結網学人牧野富太郎 TOMITARO MAKINO Dr.Sc. APRIL 26.1862−JAN 18.1957 墓」,側面に「昭和三十二年一月十八日歿 浄華院殿富嶽穎秀大居士 行年九十六歳」,裏面には年譜が刻まれていました。隣のすえさんの 墓の横側には
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 家守りし妻の恵みやわが学び
 世の中のあらん限りやすゑ子笹
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という自作の句が刻まれていて,泣けてきました。

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 東京滞在2日目の2023年2月12日です。この日は終日水戸で観光をする予定で,帰りは午後9時過ぎというとても遅い時間の新幹線のチケットを購入してありました。それが,午前中で水戸を引き上げて東京に戻ることにしたので,大いに時間が余ってしまいました。
 水戸は見どころも少なくないし,博物館も美術館もあるし,魅力がないわけでもないし,1日中どこかへ行くことはできるのでした。また,行こうと思っても東京から結構遠いので,また行くかどうかもわかりません。であるのに,そうする気持ちがまるで失せてしまったのでした。

 そんなわけで,私は午後3時くらいに東京に戻ってきたので,午後9時まで何をしようかと思い煩わすことになってしまいました。自分でも訳がわからない話です。
 私は,JR東海ツアーズが発売している東京ずらし旅というものを利用して旅をしているのですが,これには,1,000円程度の「ずらし旅体験」というクーポンがついています。このクーポンがどこで使えるかという一覧があって,その中に「【ザ・セレスティン東京芝】ホテルラウンジで味わうクラシックカレーorスイーツ」というものを見つけました。ただし,時間が限定されていて,午後3時すぎではクラシックカレーはだめで,その代わりにスイーツを提供ということでした。飲み物もついていたので,行ってみることにしました。そして食べたのが,今日の写真にあるような,超ビッグサイズのパンケーキでした。とてもおいしかったのですが,おやつというにははばかられるこの大きさには参りました。
 他に何をしたいという予定もなかったので,そこでずいぶんと長居をしながら,このあとどうしようかと考えていて思いついたのが,このホテルからさほど遠くないところにあった泉岳寺へ行こうということでした。

 泉岳寺はずいぶん昔に一度行ったことがあるのですが,ほとんど記憶にありませんでした。
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 泉岳寺は,徳川家康が今川義元の菩提を弔うため、外桜田の地に1612年(慶長17年)に創建しました。1641年(寛永18年)の大火によって消失したため,3代将軍徳川家光によって現在の地に移転しました。
 この移転の際,毛利,浅野,朽木,丹羽,水谷の五大名が尽力したことから,五大名の檀越となり,浅野家との関りがこのときにはじまりました。
 1701年(元禄14年),江戸城松の廊下で吉良上野介を切りつけた浅野内匠頭は切腹を命じられ,菩提寺の泉岳寺に葬られました。翌年,大石内蔵助など47人の赤穂浪士はその復讐に吉良上野介を殺害しますが,1703年(元禄16年)に切腹を命じられ,亡骸が泉岳寺に葬られました。
 泉岳寺の赤穂義士墓所には,討ち入りした47人と,討入り以前に自害した萱野重実の供養墓を含めた48基の墓塔が並んでいます。
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 今の私には,東京のさまざまな場所の位置関係もわかるので,赤穂浪士が吉良邸へ討ち入って,その後,泉岳寺まで行ったというその距離感も実感できるのですが,そうしたことすら,昔は知りませんでした。やはり歴史というのは,歩いてみなくてはわからないものです。
 この赤穂浪士の仇討ちは,それを題材とした歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」から有名となり,それをもとに,これぞ武士道ということで,昔はテレビドラマや映画でもずいぶんと取り上げられてきたものですが,今では時代錯誤感否めず,取り上げられることも少なくなりました。
 泉岳寺の門前にあった古ぼけた土産物屋さんを見て,私は,赤穂浪士の仇討ちなんて今どきの若い人は知っているのだろうか? と思いました。アニメにはまったく疎いのでよく知らないのですが,何でも近ごろ「鬼滅の刃」というアニメで吉原遊郭が出てくるとかで話題になったそうなので,そのうち,何らかのアニメなどの題材として取り上げられると突然ブームが訪れるかもしれません。
 私のように歳をとると,人間のやってきたことは,いいも悪いもなく,そのすべてがすべて人間というものの業であり,それこそが人間という生き物の本質だと思うようになりました。だから,そうしたことには上も下も左も右もなく,それこそすべてが事実であり,歴史なのです。そして,そうした行為をするという属性をもつ生物を,創造主がおそらく誤って作ってしまったのでしょう。それが欠陥なら簡単に滅んでしまうだろうし,そもそも,人間が地球上に生存しなければならない理由もなく,また,人類の生存期間なんて,恐竜が生存していた期間と比べたら,足元にも及びません。
 そのようなわけで,吉原遊郭にせよ,赤穂浪士の仇討ちにせよ,それらはすべて日本という国に生まれた人がやってきた事実だから,アニメだろうが何だろうが,それを隠す必要もなく,そうした事実を知ることは悪いことではありません。むしろ問題なのは,そうしたことを悪く利用する人たちなのです。

 今回,ひさしぶりに赤穂浪士の墓を見て私が思ったのは,切腹を命じられた47人の年齢です。それは,60歳を過ぎて切腹して果てた人と20歳代で切腹して果てた人とはまったくもって平等でないなあ,ということでした。60歳すぎて切腹して果てたのなら,まあ,それもアリかもしれないけれど,20歳代で同じようにこの事件に巻き込まれていては若すぎます。もっといろいろやりたいこともあっただろうし。そう考えるとこの事件で死ななければならなかった若者たちが悲しいです。
 ところで,泉岳寺には,以前行ったときにはなかった赤穂義士記念館がありました。2001年(平成13年)に作られたものだそうですが,時間が遅く,残念ながら入ることはできませんでした。しかし,やり残すということはいいことで,ここもまた「次の機会」に来る口実ができました。
 泉岳寺を出て,そのあたりをなんとなく散策して見つけたのが,大石内蔵助等切腹地跡でした。こんな場所が残っていることは知りませんでした。
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 討ち入り後,赤穂浪士は4つの大名家にわけて預けられました。細川家に預けられたのは,大石内蔵助たち17人でした。1年後,赤穂浪士は切腹を命じられ1703年(元禄16年)年2月4日にこの地にあった細川家下屋敷で大石内蔵助たち17人は切腹しました。
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 これもまた,歴史の事実です。
 なお,藩主細川綱利は,切腹の庭を清めるための役人が幕府から派遣されたとき「ここで果てた勇士たちは屋敷のよき守り神なので,庭を清めるには及ばない。そのままにしておくように」という意味のことを言ったという後日談が伝えられているそうです。

 その後,どこかで夕食を,と思いつつも,変な時間に食べてしまった大きなパンケーキのおかげで,何も食べる気がなくなり,どうしようかと思いながら,一度は行ってみたかった白金台をお腹を空かそうと散策しつつ,さらに,その先までだらだらと当てもなく歩いていたら,ついに,恵比寿に着いてしまいました。
 せっかく恵比寿まできたのだから,恵比寿ガーデンプレイスで何か食べようとも思ったのですが,依然として食欲がわかず,あてもなく,そのままJR山手線に沿って渋谷まで歩いていくと,富士そばがありました。このくらいなら食べられるかもと,なんとなくお店に入り,きつねそばを食べて,それですっかり満足して,渋谷駅からJRに乗って東京駅へ向かいました。
 こうして,だらだらと時間を潰しました。
 帰りの新幹線が出発する時間になりました。あとは,がらがらの最新型新幹線N700S「のぞみ」のグリーン車に乗って名古屋まで帰るだけだったのですが,新幹線の車内でなぜかお腹が減り,ちょうどいい具合に通りかかった車内販売でサンドイッチを衝動買いしてしまいました。まあ,このいい加減さこそが自己満足でしたが,毎日こんなことをしていたら,あっという間に太りそうです。
 何もしなくても何も困らず,まさに,思いつくまま彷徨った幸せな1日でした。実は,こういうのがずっと記憶に残るのです。海外旅行をするよりずっと楽しいや。


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 2023年2月11日から1泊2日へ東京へ行って,その折に,1日目の午前中にエゴン・シーレ展へ行って,午後はNHK交響楽団の定期公を聴き,大井町のホテルに宿泊しました。そして,翌日は水戸へ行った話を書きました。今日からは,それ以外のことについて書きます。

 まず,上野の東京都美術館でエゴン・シーレ展を見て,ザッハ・トルテを食べてすっかり満足した私は,午後2時からのNHKホールで行われるNHK交響楽団の定期公演に間に合うように,のんびりと昼食をとることにしました。そこで考えたのが,少し前に書いたことがある「千束いせや」でした。「千束いせや」は金美観通りにあります。
 NH交響楽団は午後2時からなのですが,午後1時15分から開演前の室内楽をやるので,午後1時には到着しようと思いました。また,上野から渋谷までは結構時間がかかるので,午後0時過ぎには上野駅に戻ることにして,上野から金美観通りを歩いて行きました。しかし,結構時間がかかり,「千束いせや」に行って食事をしていては間に合わない,ということに途中で気がつき断念。結局,私は,そのまま上野に戻り,上野駅からJRに乗って原宿駅で降りました。
 さて,そこからです。原宿駅周辺で,お昼に混雑していないレストランを探す必要があったわけです。といっても,どこもかもすごい人です。で,思い出したのが,その昔行ったことがある代々木体育館の食堂だ,ということで歩いて行ったのですが,探してもそれがないのでした。どうやら,東京オリンピックを機に様変わりしてしまっていたようです。しかし,私は見つけました。国立代々木競技場フットサル競技場の奥に「ボルテックス」というレストランがあったのです。
 東京で静かなレストランを探すのは至難の業ですが,やっと見つけたという感じでした。しかも,目の前にはNHKホールがありました。

 さて,定期公演も終わり,今日の宿泊先の大井町にあるアワーズイン阪急に向かいました。
 このホテルは,今から20年ほど前には,私が東京へ行ったときの定宿でした。当時,宿泊代が5,000円で,500円追加すると朝食が食べられました。また,このホテルを気に入っていたのは,最上階に宿白客限定の大浴場があったことです。広々として空いていました。
 しかし,それもすでに過去の話。改装後は,最上階の大浴場はなくなり,3階だったか4階だったかにスーパー銭湯ができて,宿泊客でなくとも利用ができるようになって,とても混雑するようになりました。私はこれで幻滅し,それ以降は使わなくなっていました。今回利用したのは,単に,JR東海ツアーズで新幹線とパックになっていたというのが理由でした。
 久しぶりに宿泊したホテルはずいぶんと様変わりをしてしまっていて,私にはまったく魅力がありませんでした。便利になったのか不便になったのか? 古きよき時代がなつかしいです。

 夕食にはまだずいぶん早かったので,久しぶりにせっかく大井町に来たのだから,周囲を散策することにしました。以前よく来たときはそういった散策をまったくしなかったので,この町の周辺がどのようになっているのかずっと謎でした。私が知っていたのは,大井というところは,日本光学,今のニコンの本社と工場があるということくらいでした。そこで,大井町駅からニコンまでの道路が光学通りという名前になっています。今は,ニコンはカメラの製造はすべてタイで行われています。本社自体は今もあるのかな?
 歩き回って驚いたのは,少し前,品川駅から南にずっと旧東海道を歩いてみたことがあったのですが,そこに合流したということでした。あとで地図で確かめて見ると,大井町駅のひとつ北は品川駅だから,それもそのはずです。次第に位置関係がわかってきました。
 このように,このあたりもいろいろと様変わりをしてしまったのですが,私には,20年前の方が,この町はずっと魅力がありました。今は,東京のどこにでもある単なる駅前です。

 散策しながら,どこかで夕食を,と思って探していたのですが,これもまた,20年も前なら,ひなびた,そして,安価でおいしい中華料理屋でもあったのですが,今は,何だか値段の高いこじゃれた店ばかりとなってしまいました。私がやっと見つけたのが小さな定食屋で,覗いてみると,カウンタ席にお客さんがひとりだけいたので,中に入りました。こういうお店も,今はほとんどなくなってしまいました。
 東京は発展しているのか,退化し続けているのか。いずれにしても,若者には魅力があるかもしれませんが,「不良老人」にはとても過ごしにくい人だらけの大都会であることは確信します。
 旅先で飲んだり夜遊びをまったくしない私は,食事を終えてホテルに戻り,テレビも見ないので,まだ午後7時過ぎだというのに,特に何もすることがないから,早々に寝ました。

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 相変らず運の強い私です。
 日帰りで東京へ出かけた2022年1月21日土曜日は,翌週から大寒波という予報でしたが,大寒波の前の週末だったので,幸い,とてもよい天気でした。しかし,寒い一日でした。
 行きの新幹線は久しぶりに左側の席だったので,富士山がきれいに眺められるものと楽しみにしていました。新幹線の窓からは思ったよりも遠くから富士山は見えはじめるのですが,最もきれいに見えるのは富士川を過ぎ,新富士駅を過ぎ,山に隠れるあたりまでです。
 遠くに見えたときは快晴だったのに,富士川を越すあたりから雲が出て,肝心の山頂を見ることができませんでした。それが今日の3番目の写真です。
 富士川駅あたりは製紙工場が多く,その煙突が富士山の美しい景観を邪魔してしまうのが残念です。よくネット上に載っている新幹線の車内から写したという富士山は,新富士駅を過ぎてしばらくして,煙突が写真の画角から外れたところから写したものです。
 私もそのときには雲が切れることを期待していたのですが,この日はずっと雲がかかっていてダメでした。
 それを過ぎるとほどなく山が迫り富士山は見られなくなります。実は,その後も,少し後ろを振り返らないといけませんが,三島駅の近くで再び富士山は顔を出します。その時を狙っていたら,今日の4番目の写真のように,さきほどの雲がウソのようにきれいに雪をかぶった富士山を山頂まで見ることができました。

 さて,前回書いたように,長谷川町子記念館を訪れた私は,その帰り,桜新町の駅付近にあるであろう感じのよいレストランかカフェで昼食を,と思っていたのですが,イメージどおりの店はなく,マクドナルドなどのチェーン店ばかりでした。また,土曜日のお昼ということもあってどこも混雑していました。仕方なく,ロイヤルホストに入ってクラブサンドを注文しました。
 東京はどこも人ばかりなのが嫌いです。私の住んでいるところなら人が少なくゆったりできるようなチェーン店やショッピングモールは,常に人が溢れています。人混みの苦手な私は,いかに便利であっても東京には住みたくありません。毎日品川駅を利用して通勤するのなら,いかに高額のお給料をもらったところで地獄だなあ,と通るたびにいつも思います。
 東京は,今の私のように,コンサートや美術展があるときに出かけるだけのところです。そうすれば,東京もまんざら悪くない都会です。

 さて,この日の午後はNHK交響楽団の定期公演を聴いたら早めに帰ることにしていて,午後5時30分過ぎののぞみに乗りました。
 ここ10年以上東京駅を頻繁に利用していますが,10年ほど前はずっと工事中だった駅の構内もすべて完成して,華やいだ巨大な駅になりました。しかし,駅や地下街にこれだけ多くの店舗やレストランがあっても,どこもかもがすごい人であるのはいただけません。そこで,私にとって最も快適なのは,駅弁を買って,新幹線の車内で食べることです。ということで,松坂牛めしなるものを購入して乗り込んだのですが,この駅弁,作られたのは名古屋だったので,ちょっと芸がなかったと反省しました。
 週末の終末の新幹線は,あれだけの本数が走っているのに,午後7時ごろはとても混み合います。自由席など長蛇の列です。私がいつも利用している,普段は静寂なグリーン車にも自由席からあふれた人がチケットを買って乗りこんできたりします。しかし,今回は利用した時間が早かったので,とても空いていて快適でした。
 時折り,車内に,どこかで見た顔の人がいるなあ,と思うことがあるのですが,この日は,同じ車内に,京舞の人間国宝,5世井上八千代さんをお見かけしました。

 さて,来月のNHK交響楽団定期公演は2月11日です。
 この日は,午前中は,東京都美術館でエゴン・シーレ展を見ることにしてすでにチケットを購入したのですが,その夜は東京に1泊して,翌日2月12日は,早朝から,これまで行ったことがなかった水戸へ梅を見に足を延ばそうと計画しています。水戸の偕楽園の梅まつりは2月11日からです。
 よくよく思うに,東京へ行っても,その近郊まで足を延ばすことがこれまであまりありまませんでした。そこで,これからは,NHK交響楽団の定期公演を口実にして,これまで行ったことがないところを巡りたいと考えています。たとえば,筑波とか房総半島1周とかです。ここ数年,海外旅行に行かれなくなったことをいいことに,国内の様々な場所に行くことを覚えましたが,それはそれで別の楽しみがあるものです。


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 2022年7月12日のTBSテレビのニュースから。
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●波平さんの毛がまた消えた!●
 「サザエさん」の街として知られる東京・世田谷区桜新町。波平さんの銅像の貴重な髪の毛がまたしてもなくなりました。波平像が被害に遭うのはこれで7度目。6月,6度目が発生した約5日後に「スピード植毛」されたばかりです。
 女の子「可哀想です。泣いてます」,男性「もうすごく太い1本にするしかない」。
 いったい髪の毛は,いつなくなったのでしょうか。「植毛」から約1か月で再びなくなってしまった髪の毛。「ばっかもーん」と波平さんは怒っているはずです。
  ・・・・・・
 ということで,今回,NHK交響楽団の定期公演に行く前の午前中に出かけた東京散策は,世田谷区の桜新町でした。この地は,かつて「サザエさん」の著者長谷川町子さんの住んでいたところで,現在は,長谷川町子美術館と長谷川町子記念館があります。桜新町の駅を出ると出迎えてくれるのが,サザエさん一家の銅像ですが,私が見たのは「植毛」を終えて再び髪の毛のある波平さんでした。
 ずっと以前に一度来たことがあるのですが,そのときはまだ長谷川町子記念館はありませんでした。長谷川町子美術館に「サザエさん」に関する展示がたくさんあるものだと思っていたのに,長谷川町子さんの収集した絵画の展示がほとんどで少しがっかりした記憶があります。しかし,長谷川町子美術館に行くまでの通りがサザエさん通りとなっていて,「サザエさん」に出てくるような風景だったのには感激しました。

 少し前にNHKBSPで連続テレビ小説「マー姉ちゃん」の再放送をしていたことから,桜新町が懐かしくなって,今回再び訪れたわけですが,長谷川町子美術館の向かい側に長谷川町子記念館ができていて,そこには「サザエさん」や長谷川町子さんに関する展示がたくさんあったので,とてもうれしくなりました。また,長谷川町子美術館の裏手にはサザエさん公園もあります。
 なお,現在,長谷川町子美術館は,改修工事のため2月28日まで休館しています。
  ・・・・・・
 1985年(昭和60年)に開館した長谷川町子美術館は,長谷川町子さんと姉の長谷川毬子さんが集めた美術品を展示している個人美術館です。美術品の他,漫画の原画や菊人形,絵画,磯野家の間取りのミニチュア,「サザエさん」のアニメの映像が見られるコーナーがありました。また,売店では,この美術館でしか売られていないオリジナルグッズが多数販売されていました。
 2020年,向かいに分館「長谷川町子記念館」が開館され,長谷川町子記念館は,長谷川町子美術館から長谷川町子の作品に関連した展示物を移館し,従来よりスペースを広く取ってより充実した展示をしています。長谷川町子記念館の開館後,長谷川町子美術館は長谷川町子が収集した美術品を展示するという開館当時の様式に立ち返りました。
  ・・・・・・
 私が最も印象に残るのは,長谷川町子さんの描いた原画の美しさです。何気なく見ているだけの作品だったのに,ひとつひとつがこれほどこころを込めて書かれていたことに感心しました。
 館内にはカフェもあって,しばし,満ち足りた時間を過ごすことができました。

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 原宿に着いたのは午前12時まえで,NHKホールに行くにはまだ早かったので,久しぶりに明治神宮に行ってみることにしました。
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 明治神宮の祭神は明治天皇と昭憲皇太后で,明治天皇崩御後の1920年(大正9年)に創建されました。深い杜の木々は全国からの献木が植樹されたものです。
 明治神宮内苑には,神楽殿,明治神宮ミュージアム,武道場至誠館,明治神宮国際神道文化研究所などがあります。
  ・・・・・・
 私は,神道というものがよくわからないので,そうしたものには興味がなく,目的は御苑でした
  ・・・・・・
  御苑の正式名称は明治神宮御苑です。江戸時代から大名下屋敷の庭園として使われていましたが,明治時代に宮内省が所轄する南豊島御料地となって,以降,代々木御苑とよばれました。
 隔雲亭という御茶屋,四阿があり,池には菖蒲を植え,回遊歩道を設けた美しい庭園です。 隔雲亭は太平洋戦争末期に空襲によって焼失しましたが,戦後に篤志家によって復元されました。
  ・・・・・
 10年ほど前,6月に行ったことがあって,そのときは,菖蒲田のハナショウブが最盛期でした。今回は,ハナショウブは見られませんが,紅葉が美しく癒されました。

 前回来たときは知らなかったのですが,一番奥に清正井というものがあります。
 この地は,江戸時代,彦根藩井伊家下屋敷となる以前に熊本藩加藤家下屋敷があったことから,井戸は加藤清正が掘ったと伝えられています。人気のパワースポットということです。私は,パワースポットなるものには興味がないのですが,井戸自体は興味があったので行ってみましたが,井戸を見るには細い通路を行かねばならず,そこに多くの人が列を作っていました。
 水温は四季を通じて15度前後と一定で,毎分60リットルの湧水があるということです。 その水源は明治神宮本殿西側の権殿敷地一帯の浅い地下水が2方向の自然の水路に流れ,井戸の上方斜面から井戸に湧出する自然の湧水です。

 NHK交響楽団の定期公演のあと,帰りの新幹線まで時間があったので,日本橋へ行ってみました。
 ときどき旧東海道歩きを楽しんでいるのですが,やはり,日本橋を渡らねばいけません。
  ・・・・・・
 日本橋あたりは,江戸幕府開府の際,江戸城を中心に造成した「町人地」がはじまりといわれています。シンボルである「日本橋」は,1603年(慶長8年)に江戸幕府開府と同時に完成し,1604年(慶長9年)に五街道の起点として定められ,各地から訪れる人々や物産で大いに賑わいました。通りの両側には「三井越後屋呉服店」や「白木屋」をはじめとして,堂々とした構えの店が次々と軒をつらねていました。
  ・・・・・・
 と,ここまで書いてきて疑問が湧きました。果たして,参勤交代は日本橋が集合と解散地点だったのでしょうか?
 「お江戸日本橋七ツ立ち」とかいいますが,江戸時代の時刻制度は「日の出と日の入りを境に昼夜を区別し,それぞれを六等分」していたので,季節によって時間が異なります。そこで,「七ツ」は「明け六ツ」より早い夜明け前ということですが,その時間に日本橋に集合したというわけなのでしょうか?
 まさかねえ。おそらく,それぞれの大名屋敷から出発して,もよりの場所で東海道に出たように私は思うのですが,意外にも,こういうことは調べても出てきません。
  ・・
 いずれにしても,現在の日本橋は高速道路によって空が遮られてしまっていて,まったくさえません。それはずっと問題となっていたのですが,日本橋の上を通る首都高都心環状線を地下に移す工事が進んでいるそうで,地下ルートの開通は2035年,全面撤去は2040年の予定ということです。しかし,かなりの難工事である上,高速道路を地下に移しても,日本橋の景観がよくなるという以外のメリットもなく,また,このご時世の日本では,実現すら危うくて,私が生きているうちには見ることはできないことでしょう。

 と,そうこうしているうちに,時間が経ってきたので,東京駅に着いて,夕食を済ませて,帰宅することにしました。東京はどこも混雑していて,楽しく食事を味わうなんてなかなか困難ですが,なんとか「みよた」というおそば屋さんを地下街に見つけたので,そこでおいしく食することができました。
 今秋は紅葉を見に京都へ行くこともなく,あっという間に12月になってしまったのですが,なんとか秋を味わうことができました。秋といえば京都ですが,秋の東京も悪くないものです。ただし,人の少ないところを探すのがたいへんです。

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 旅の3日目。
 今日はNHK交響楽団の定期公演が午後2時開演なのですが,その40分前から開演前の室内楽があるそうなので,午後1時にNHKホールに到着することにしました。
 そこで,それまで何をしようかと考えました。まず,早朝の浅草から北に少し歩いて,だれもいない千束四丁目の吉原遊郭跡を散策したら浅草にもどり朝食をとって,そのあと浅草寺を巡り,地下鉄の浅草駅から上野まで行って,上野公園を散策して,渋谷まで行ってしまうとめちゃめちゃ混雑しているのでそれを避けるためにJRで千駄ヶ谷へ出て昼食をとり,そこから神宮外苑を通ってNHKホールまで歩くことにしました。

 早朝の千束四丁目はゆったりと散策できました。吉原遊郭のころの古地図に描かれた路地や道路名がそのままで,とても興味深いものでした。
 浅草ではいくつかのファーストフードチェーン店がすでに開いていましたが,もっとも人の少なかったマクドナルドで朝食をとりました。東京では,ファーストフード店やコンビニエンスストアの店員さんの多くは外国人です。マクドナルドもそうでした。なんだかこういうお店に入ると日本でないようなそんな気がします。
 お客さんは多くはなかったのですが,責任者らしき女性は手際よかったのですが,男どもが仕事がのろくてなさけなくんてこ舞い状態でした。
 まだ多くの人が活動を開始していない時間の浅草寺は思う存分楽しむことができました。こんな姿を見ることができるのは早朝以外にはありません。

 地下鉄で上野まで来ました。
 上野公園全体としてはまだ人も少なかったのですが,まだ開園前というのに,すでに多くの人が動物園の入口で列を作っていたのは驚きました。あれはパンダをみるためなのでしょうか?
 しかし,動物園といえば,私はこれまで世界中の動物園に行ったことがあります。その中でも最高だと思うのは,アメリカ・サンディエゴの動物園(San Diego Zoo)です。そしてまた,すばらしいと定評のあるオーストリア・ウィーンは,何度も行く機会があったのにもかかわらず,ついにこれまで入ることができなかったシェーンブルン動物園(Tiergarten Schönbrunn)に何とか一度は行って見たいと思っているのですが,ロシアがあんな戦争を起こしてしまったので,直行便がシベリア上空を飛ぶことができず,ヨーロッパが遠くなってしまいました。
 上野公園では,すてきな紅葉を十分に堪能することができました。上野から北に向かって歩いて行くと東京芸術大学があります。東京芸術大学は中に入ることはできませんが,このあたりの雰囲気がとてもいいので,気に入っています。

 千駄ヶ谷に着きました。
 JR千駄ヶ谷駅は,以前はぼろい駅舎でした。大量の税金を投入したあげく不正だけが今だに後を引くという2021年の東京オリンピックは,開催をきっかけに日本が繁栄をとげた1964年の東京オリンピックとは真逆に,おそらく,末期症状の日本をもっとも象徴したものとして後世名を残すであろうものになってしまいましたが,その東京オリンピックによって駅舎が整備され,見違えるようになりました。
 ここから津田塾大学過ぎると建設中のビルがあるのですが,ここの1階に新しい将棋会館が入ります。建設現場を横目に10分ほど歩くと日本将棋連盟の本山である現在の将棋会館があります。そして,その周りには,棋士が対局のときに出前を頼むお店,いわゆる「将棋メシ」の聖地があります。
 このごろ話題なのは「鳩やぐら」というお店ですが,午前11時30分開店とかでまだ時間が早く入ることができませんでした。そこで,そこから原宿の方に向かって少し行った「紫金飯店」という中華料理店で昼食をとることにしました。お店は午前11時開店ということだったので,開店時間まで付近を散歩して,開店と同時に入りました。さすがにこんな時間ではほかにお客さんはいないだろうと思ったのですが,すぐに続々とお客さんがやってきて,席はいっぱいになりました。どうやら人気店のようでした。
 店内は満席なのに,さらに,電話がかかっていて,出前も盛況のようでした。私は,この日のランチとして好物の回鍋肉定食を注文したのですが,量も多く,おいしくて,大満足でした。リピート必須です。

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 鎌倉から浅草へ戻ってきました。浅草で泊ることは小さな夢のひとつでした。すでに書いたように,浅草は何度も来たことがあるけれど,ゆっくりあたりを散策したことがありませんでした。なにせ,いつも異常な混雑です。
 そういえば,ずいぶんと前,東京へ行った折,夜,浅草まで足を延ばしたら,偶然三社際に出会ったことがありました。ただでさえすごい人なのに,それに輪をかけていて,私は早々に退散したのですが,それでも,これが江戸というものかと,えらく感動したことがありました。
 何も知らずサンフランシスコへ遊びに行って,その日が偶然プライドパレードの日だった,ということも過去にありました。阿波踊りの開催日と知らず,いきなり徳島市に行った外国人のようなものですが,私は,こうした偶然によく出会います。こういう人が群れる姿を見ると,世界中,人間のやりたいことは同じだとしみじみ感じます。

 今回の旅も,旅行補助があるので,ものすごく安価なのですが,2泊するので,さらにクーポンが6,000円もありました。こうしたクーポン,お金の出どころは税金なので,使った者勝ちということで,そもそもが不平等な施策なのです。多くの税金を払っている労働者は旅をする時間もないのに,私のような大した税金も払っていない旅行好きの不良老人には大変お得だということになります。
 このクーポン,すでに書いたように,これまでも,私は,長野県,奈良県,徳島県,高知県などで使いましたが,どこも500円券とか1,000円券といった紙ベースのものでおつりも出ないとても不便なものでした。しかし,さすが東京。スマホにアプリをインストールしてポイントとして登録すると,1ポイント(=1円)からむだなく使えるのです。これは便利極まりないのですが,スマホの使えないお年寄りはどうするのでしょう? こういうのを「デジタル・ディバイド」というのでしょうか。

 さて,この晩は,そのクーポンを使って,たらふく飲んで食うことにしました。
 しかし,あるお店に入って,ビールを注文して,さらにステーキまで追加して,悦に入っていたら,あっという間に使い果たしてしまいました。まあ,それでも,夢がかなったということで,すてきな浅草の夜になりました。
 私は夜遊びの習慣はまったくないので,これくらいで満足して,浅草六区のあたりを歩いてホテルに帰りました。
  ・・・・・・
 浅草六区(=浅草公園六区)は,1884年(明治17年)にはじまった浅草公園の築造・整備における区画番号の第六区画を指したもので,この一帯は大正から昭和にかけて東京の娯楽の中心地だったところです。浅草オペラや軽演劇もここから生まれ,エノケンこと榎本健一から萩本欽一,ビートたけしなど多くの芸能人を輩出しました。
  ・・・・・・
 ニューヨークのブロードウェイのようなところといえないこともないようで,現在は「六区ブロードウェイ」として,活況を呈しています。今も「ROCKZA」というストリップ劇場が健在なのが驚きですが,ストリップも,数十年前のようなエログロから芸術に転じているとか。これもまた,千束4丁目同様,この国の現実です。

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☆☆☆
水金地火木土+月
みんな見えた。

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 前回書いた浄閑寺から千束4丁目の吉原遊郭跡を通り,吉原神社を経由してこの日宿泊するホテルのある浅草まで歩いてみました。

 まず私が見つけたのは,平日だというのにお店の前にものすごい列のできていた天ぷら屋さんでした。私は,お昼から天ぷらを食べるという習慣がないので,お昼から天ぷら? と不思議だったのですが,世間はそうでもないようです。
 調べてみると,そこは伊勢屋本店でした。
  ・・・・・・
 創業128年の天麩羅屋「土手の伊勢屋」はいわずと知れた超有名店で,いつ行っても観光客などの長蛇の列で賑わっています。
 建物も有形文化財に指定されるほど趣きがある店,その店内で天麩羅や天丼を食べると,確かに江戸の風情が感じられます。
  ・・・・・・
といった紹介がネットにあったのですが,「伊勢屋」さんは都内に3店舗あって,というのは,3代目が3兄弟でそれぞれお店をもっているということで,長男が私の見た「土手の伊勢屋」,次男が「千束いせや」,3男が「蔵前いせや」を経営しているそうです。
 次男が営む「千束いせや」さんは千束という名前であっても,少し前に書いた金美観通りにあるそうなので,いつか行ってみたいと思ったのですが,私はグルメでない上に,並んでまでしておいしいものを食べるという習慣がないので,実行するかどうかはわかりません。

 そうこうして歩いていくと「吉原大門」の跡まで来ました。ここからが江戸時代の吉原遊郭のメインロードです。今も多くの風俗店が軒を構えている仲之町通りに沿って歩いて行くと,千束4丁目の交差点に差し掛かりました。
 このあたり,これから出勤するような女性がタクシーから降りてきたり,スマホを耳にあてておしゃべりに忙しくしている女性がいたり,店長のような風采の男性に連れられて仕事の面接を受けにお店に向かっているような女性が歩いていたりと,そんな興味深い世界を眺めることができました。これが今の日本という国の現実の姿です。
 風俗店の間においしそうなおそば屋さんがあったので,入ろうかどうか考えたのですがやめて,そのまま通りを抜け,吉原神社まで来ました。ネットに次のような紹介がありました。
  ・・・・・・ 
 吉原神社は吉原遊郭とともに歩んできた神社です。
 この地には,廓の守護神として5つの稲荷社が存在しました。吉原の入口である「吉原大門」の手前に「玄徳よしとく稲荷社」(=吉徳稲荷社),さらに,廓内の四隅には「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」「九郎助稲荷社」がお祀りされていました。明治5年にこれら5つの稲荷社が合祀され,総称して吉原神社と名づけられました。
 当初は玄徳稲荷社旧地にお祀りされていましたが,関東大震災で焼失。震災後は水道尻付近の仮社殿にてお祀りしていましたが,昭和9年に現在地へ新社殿を造営,その際新吉原隣接の花園池に鎮座する吉原弁財天も合祀しました。 
 昭和20年の東京大空襲で惜しくも焼失しましたが,昭和43年に現社殿が造営されて現在に至ります。
  ・・・・・・
 境内には浅草出身で大正から昭和にかけて活躍した俳人で作家の久保田万太郎の「この里に おぼろふたたび 濃きならむ 万」という句碑があります。

 さらに浅草に向かって歩いていくと,吉原弁財天がありました。
  ・・・・・・
 吉原弁財天は吉原神社の境外摂社です。もともとは別の宗教施設でしたが,1935年(昭和10年)に合祀されました。
 境内には,1957年(昭和32年)の売春防止法の施行で幕を閉じた吉原遊廓の歴史を永く伝えるために1960年(昭和35年)に建立された「花吉原名残碑」という石碑があります。
  ・・・・・・
 境内入口に近いところに見上げる程に大きな築山があり,その上に観音像が鎮座しています。これは,1923年(大正12年)東京を襲った関東大震災によって逃げ場を失った遊女490人が犠牲となり,1926年(大正15年)に遊女及び遊郭関係者の慰霊を目的に設置されたものです。慰霊碑の築山を裏側に回ると,戦災で犠牲になった遊女や遊郭関係者を祀る「戦災無縁塔」が鎮座しています。
 関東大震災発生時,吉原遊郭では490人もの遊女が死にました。遊郭に閉じ込められ避難出来ず,大火に見舞われ逃げ場を失った挙句,弁天池に沈んで溺れ息絶えたのです。大火が止んだ翌日,池の一面を無残な姿の遊女達の骸が埋め尽くされたいました。
 弁天池は1959年(昭和34年)に現在のNTT吉原ビルである吉原電話局の建設工事に伴い埋め立てられたので,今は鯉が泳ぐ小さな池しか残っていません。
 観音像の脇を抜けて奥へ入ると「吉原辯財天」と朱色で書かれた石碑とともに鳥居があります。その先には,かつて遊郭関係者の信仰を集め弁天池の名前の由来になった弁天祠が現在も鎮座しています。
 吉原弁財天は老朽化が著しかったのですが,2012年に綺麗に改装され,鳥居には極彩色の派手な銘板が取り付けられました。また,改修された弁天祠の壁には沢山の蓮の花に囲まれた弁天様のイラストも描かれています。

 吉原弁財天を出て,どこかでお昼を,と思いながらも適当なお店が見つからず,先に書いた千束4丁目にあったおそば屋さんに入らなかったことを後悔しつつ,やっと見つけた小さな食堂,というか居酒屋で昼食をとり,千束通りからひさご通りを経て,人のあふれる浅草に着きました。

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 江戸時代,幕府公認の吉原遊廓は,もともとは徳川家康の終焉の地である現在の静岡市,当時の駿府城下にあった二丁町遊廓から移されたのがはじまりで,江戸日本橋近くにありました(=元吉原)。幕府が提供した土地は日本橋葺屋町続きの約200メートル四方の区画で,海岸にヨシが茂る僻地。「吉原」の名はここから来ています。明暦の大火ののち,現在の千束4丁目のあたり,浅草寺裏の日本堤に移転しました(=新吉原)。
  ・・
 新吉原は日本堤から南西に下った現在の仲之町通り,当時の「衣紋坂」とそれに続く「五十間」が遊廓への唯一の公式通路で,現在の浅草警察署吉原交番のところにあった「吉原大門」をくぐった先に吉原遊廓がありました。
 吉原遊廓の唯一の出入り口である「吉原大門」は,医者以外は駕籠にのったまま通過することができませんでした。「吉原大門」を入ると,左手には面番所というお尋ね者が出入りするのを見張る場所があり,右手には四郎兵衛会所とよばれる小屋があり,遊女が大門から出ないか見張る番人が常駐していました。
 吉原遊郭は高い塀と「お歯黒どぶ」で隔絶された楽園でした。「お歯黒どぶ」は約9メートルの幅があって汚水が流れていました。非常用のはね橋は普段は上がっていて逃げることは不可能だったといいます。現在,「お歯黒どぶ」は暗渠となり,南側は花園通り,北側は道路が走っていて,西側は吉原神社があります。
 廓内は、通りごとにいくつかのエリアにわかれていて,京町1丁目,2丁目,江戸町1丁目,2丁目,仲之町,揚屋町,角町があり,今もその地名表示があります。現在は140軒に及ぶ風俗店に変貌しましたが,当時の区画がそのまま残り,「お歯黒どぶ」の思かげも感じられます。

 浄閑寺は荒川区南千住にある浄土宗の寺院で,山号は栄法山です。先に書いた吉原遊廓の北にあったことから,遊女の投げ込寺として知られます。
 創建は1655年(慶長5年)で,吉原遊廓の誕生よりも2年早く,浄閑寺が投込寺とよばれるようになったのは1855年(安政2年)に起きた安政の大地震で大量の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによります。
 病気などで死んだ遊女は,浄閑寺に「~売女」という戒名で文字通り投込まれたという説があるのですが,信憑性はなく,「売女」の戒名は「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが最近の研究で明らかになっているそうです。この場合,素裸にされた上に荒菰に包まれ,寺に投げ込まれたということで,それは「人間として葬ると後に祟るので,犬や猫なみに扱って畜生道に落とす」という考えによったとものとされています。

 そんな浄閑寺に行こうと,小塚原刑場のあと,向かいました。まだ朝早い時間でしたが,とても親切なお寺の人が声をかけてきて,お寺の説明が書かれた用紙をくれました。
 中門を入った左手に,有志によって49日の忌日に建てられた遊女若紫のお墓があります。
 若紫は江戸末期の楼閣「角海老楼」の遊女。あと5日で年期が明け所帯を持つ約束をしていた男性がいたのですが,突然刃物を振り回しながら楼へ押し込んできた客が若紫を刺し殺すという事件が起きました。わずか22歳という若さで亡くなった若紫を哀れみ,なじみ客がお金を出し合い建てたものです。
 下町が好きだった永井荷風は,1917年(大正6年)から死の前日の1959年(昭和34年)まで「断腸亭日乗」で,吉原,箕輪,千住の風景をに書きました。「断腸亭日乗」に若紫についての記述があります。
  ・・・・・・
(昭和12年)六月廿二日。快晴。風涼し。
 朝七時楼(=吉原)を出て京町西河岸裏の路地をあちこちと歩む。起稿の小説主人公の住宅を定め置かむとてなり。日本堤を三ノ輪の方に歩み行くに,大関横町と云ふバス停留場のほとりに永久寺目黄不動の祠あるを見る。香烟脉ゝたり。掛茶屋の老婆に浄閑寺の所在を問ひ,鉄道線路下の道路に出るに,大谷石の塀を囲らしたる寺即是なり。
 門を見るに庇の下雨風に洗はれざるあたりに朱塗りの色の残りたるに,三十余年むかしの記憶は忽ち呼返されたり。土手を下り小流に沿ひて歩みしむかしこの寺の門は赤く塗られたるなり。今門の右側にはこの寺にて開ける幼稚園あり。セメントの建物なり。門内に新比翼塚あり。本堂砌の左方に角海老若紫之墓あり。碑背の文に曰ふ。
 若紫塚記
 女子姓は勝田。名はのぶ子。浪華の人。若紫は遊君の号なり。明治三十一年始めて新吉原角海老楼に身を沈む。楼内一の遊妓にて其心も人も優にやさしく全盛双びなかりしが,不孝にして今とし八月廿四日思はぬ狂客の刃に罹り,廿二歳を一期として非業の死を遂げたるは,哀れにも亦悼ましし。
 そが亡骸を此地に埋む。法名紫雲清蓮信女といふ。茲に有志をしてせめては幽魂を慰めばやと石に刻み若紫塚と名け永く後世を吊ふことゝ為しぬ。噫。
  ・・・・・・

 本堂のちょうど裏手に新吉原総霊塔があります。新吉原の創業から廃業までの約380年間に浄閑寺に葬られた遊女やその子供,遺手婆など遊郭関係者や大地震によって亡くなった方々の供養塔です。
 「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と詠まれてありました。
 総霊塔の近くには永井荷風の筆塚やひまわり地蔵があります。ひまわりは、太陽の下で一生を働きぬいてきた日雇労働者のシンボルで,連帯し支えあっている労働者の死後の安心と安らぎの為に建てられたものです。
 吉原遊郭の遊女に関係するもの以外には,本庄兄弟首洗いの井戸がありました。親の仇である平井権八を追った本庄兄弟は,先に兄が平井の返り討ちに遭い,さらに兄の首を井戸で洗っていた弟もそこを襲われ命を落とすというように,仇討ちに失敗し,悲惨な末路をたどったのですが,兄弟の最期の地がこの井戸でした。 


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 2022年12月8日から12月10日に2泊3日で出かけた東京は,ふたつのコンサートを聴くのが目的でしたが,偶然にも旅行補助があったので,ものすごく安価に堪能することができました。
 宿泊したのは浅草でした。
 私は,浅草は何度も行っているのですが,じっくりと散策したことがなかったので,とても楽しみにしていました。
 今日からは,コンサート以外の時間をどう過ごしたかを書いていきたいと思います。

 東京というと若い人はディズニーランドを連想するようですが,不良老人の私は商業主義に毒されたそういうところには今やまったく興味もなく,ガイドブックにも載っていないディープな東京を歴史散歩のつもりで巡っています。こういう場所こそが人間の本音と本質を表わしているからです。
 今回はじめに行ったのは小塚原刑場跡でした。ここは,司馬遼太郎さんの小説「花神」で知りました。小説も読み,NHK大河ドラマも見ましたが,村田蔵六,のちの大村益次郎が小塚原刑場で女囚の腑分けをする場面があって,小説を読むと,小塚原刑場は江戸郊外の人里離れた荒れ地のように思いましたし,テレビドラマでもそのように描かれました。
 しかし,実際はそこが現在のどこにあたるのかまったく知らなかったので調べてみると,南千住駅の近くで,前回歩いた吉原遊郭跡にほど近い場所であることを知りました。そこで,行ってみることにしたのです。

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 小塚原刑場は, 1651年(慶安4年)に千住大橋南側の小塚原町に創設されました。
 江戸時代の江戸には,北に小塚原刑場,南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場,西に大和田刑場の「三大刑場」がありました。刑場の広さは間口約100メートル,奥行50メートルというから中学校の校庭程で,そこで,磔刑,火刑,獄門が執行され,腑分けも行われました。
 死体はそのまま野ざらしとされたり申し訳程度に土を被せるのみだったそうですから,周囲に臭気が充満し,野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような有様だったといいます。
 1667年(寛文7年)に本所回向院の住職である弟誉義観が小塚原刑場隣接地に延命寺回向院を創建しました。
 1699年(寛文9年)に下谷浅草にあった火葬寺である19の寺院が小塚原に移転し,19世紀初頭には江戸の一大火葬埋葬場となりました。また,1741年(寛保元年)には高さ3メートルの首切地蔵が建てられました。
 1873年(明治6年)に新政府が小塚原刑場を廃止するまで,小塚原刑場では20万人以上の罪人の刑が執行されたといいます。
 安政の大獄で処刑された橋本左内,吉田松陰も一時ここに埋葬されたので,現在も墓があります。  また,1771年(明和8年)にターヘル・アナトミア(Taffel Anatomia)を手に入れた蘭学者杉田玄白,前野良沢らが解剖図の正確性を確かめるために小塚原刑場において刑死者の腑分けに立ち合いました。
  ・・ 
 延命寺回向院は,明治時代,常磐線を建設する際に線路が敷地中央を通過したため分断されたので,常磐線の北側が回向院,南側が延命寺として独立しました。刑場跡は南千住駅西側にある延命寺内に位置します。
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 南千住駅を降りるとほど近いところに回向院がありました。回向院をGoogleMapsで調べてみても,ここにある回向院がでてこないので戸惑いました。また,多くの人が南千住で降りても,私が行こうとしている場所に興味をもつようなひとも他にまったくいませんでした。私にはそのほうが好都合なのですが…
 回向院は,史跡の部分は公開されていて,中に入ることができました。一番奥にあったのが,左手に吉田松陰,右手に橋本左内の墓でした。
 吉田松陰は1859年(安政6年)伝馬町牢屋敷で斬首され,この小塚原回向院に葬られました。30歳でした。現在残るのは当時の墓石です。吉田松陰はその後,1863年(文久3年)に高杉晋作らによって長州藩の別邸があった世田谷区若林に改葬されました。現在の松陰神社のある場所です。
 橋本左内は安政の大獄で幽閉され,1859年(安政6年),伝馬町牢屋敷で斬首されました。享年26歳でした。
 斬首になった後,福井藩が小塚原回向院に玉垣もある大きな立派な墓を建てましたが,町奉行に気づかれ,罪人に立派な墓を建てるのはいかがなものかと求められたため簡素な墓に作り変えたのが現在残っている墓石です。橋本左内が故郷の福井・善慶寺に改葬された時,この墓石も一度は福井に移りましたが,故郷で新しい墓が作られて,小塚原回向院に戻ってきました。
 墓の手前には橋本左内の碑「景岳橋本君碑」があります。「景岳」というのは橋本左内の号です。

 回向院の入口近くには悪役4人組といわれる,江戸時代に小塚原刑場などで処刑された有名な罪人の墓があります。それらは,大名屋敷を専門に盗みを働いた鼠小僧次郎吉,ゆすり・たかりの小悪党で歌舞伎の題材にもなった片岡直次郎,日本で最後に斬首になった殺人犯の高橋お伝,侠客で喧嘩で斬られた腕を子分に切り落とさせた「腕の喜三郎」です。
 鼠小僧次郎吉の本当の墓は墨田区の回向院にあって,小塚原回向院の墓は義賊としての鼠小僧に恩義を受けた人々が建てたと伝わります。
 また,2007年82歳で亡くなった「プロレスの神様」カール・ゴッチの立派な墓もありました。カール・ゴッチとは,レスリングのベルギー代表としてロンドンオリンピックに出場し,プロレスデビューは1950年で,力道山とも試合をした日本のプロレス創生期のレジェンドレスラーです。
 アントニオ猪木をはじめとする多くのプロレスラーが卓越した技術をもつゴッチ氏に心酔し,通称「ごッチ道場」で過酷なトレーニングに励みました。「ジャーマン・スープレックス」はカール・ゴッチが開発した技です。
 カール・ゴッチの墓が,没後10年の時を経て日本に建立されました。実際の骨の9割はゴッチ氏の遺志に従い海に散骨し,残りの1割が弟子のジョー・マレンコが保管していたものが日本の墓に納められたということです。
 回向院を出て,南に歩くと,先に書いた延命寺と首切地蔵がありました。

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 帝釈天まで戻ってきました。柴又帝釈天は日蓮宗の寺院で,経栄山題経寺と号します。
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 「仏」は「如来部」「菩薩部」「明王部」「天部」の4つからなり,「帝釈天」は「天部」のひとつです。
 「如来」は「仏陀」のことで,「悟りを開いた者」。「菩薩」は悟りを開くために修行中の者。「明王」は如来の化身で民衆を力尽くで教化するので恐ろしい形相をしています。「天」は仏法の守護神・福徳神で,現世利益的な信仰を集めるものです。
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 この日は日曜日でもあって,帝釈天の参道まで来ると,多くの観光客がいて,私は嫌になりました。そこで,帝釈天はそこそこに,参道にあるお店で昼食をとって,ここを後にすることにしました。
 多くの店があったのですが,とらやさんに入ることにしました。とらやさんの創業は明治20年で名物「草だんご」は創業以来作り続けているそうです。「男はつらいよ」の第1作からから第4作まで「寅さん」の実家として登場したというのが触れ込みです。
 私も,中に入って,まずは冷たいおそば,そして,草だんごをいただきました。
 実は,寅さんの実家のモデルになったお店はとらやだけではなく「髙木屋老舗」もそうです。 髙木屋老舗の創業は明治元年で「男はつらいよ」撮影時の休憩所でもあった場所です。
 とはいえ,名前から,それを知らない人にとれば,とらやさんということになってしまうでしょう。

 こうして,葛飾柴又に来ることができて,精神的にも,また,お腹の中も,ずっと以前に来たときの消化不良を解消できたので,NHKホールへ向かうことにしました。
 帰りは,柴又駅から列車に乗って戻ることにしていたので,柴又駅のホームに入りました。
 来たときと同じように,京成高砂駅で乗り換えようと思ってホームに行ったのですが,間違えて,反対側の金屋駅に向かうホームに行ってしまいました。しかし,調べてみたら,金屋駅のほうが便利で,金屋駅で東京メトロ千代田線に乗り換えれば,そのまま渋谷まで,というか,正確には原宿まで行くことができるのでした。
 やがて電車が来たので乗りました。ひと駅で金屋駅に着いたのですが,ここは思った以上に大きな駅でした。ここから東京メトロ千代田線に乗ればいいのですが,私が東京メトロ千代田線金屋駅だと思っていたところにあったのはJR常磐線と表示された金屋駅でした。私のような旅人は,東京の交通がいまいちよくわかりません。東京メトロ千代田線金屋駅は別の場所にあるのかな? と思いました。しかし,どこを探してもこの駅しかないので,こりゃ相互乗り入れなのだろうと思ったのですが,この駅にはどこを探しても東京メトロ千代田線という看板がなくあくまでJR常磐線と書かれてありました。であるのに,金屋駅の時刻表にあったのは明らかに東京メトロ千代田線で,JR常磐線の時刻表ではありません。どうなっているのかさっぱり把握できないのです。まあ,どれに乗ろうと,Suica で大丈夫だし,行きたいところには行くことができるので,問題はないのですが,納得がいきません。理系頭は,理屈が知りたいのです。

 家に帰ってから調べてみました。
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 JR常磐線は,北から順に,金町,亀有,綾瀬,北千住,南千住,三河島,日暮里,上野と続きます。また,東京メトロ千代田線は,同じく北から,北綾瀬,綾瀬,北千住のあとは,町屋,西日暮里,千駄木,根津,湯島,お茶の水,大手町,二重橋,日比谷,霞が関,国会議事堂前,赤坂,乃木坂,表参道,明治神宮前と続きます。ですが,JR常磐線に乗り入れた地下鉄千代田線の各駅停車は,金町,亀有,綾瀬,北千住のあとは,JR常磐線ではなく東京メトロ千代田線に入るのです。
 いろいろな経緯があったみたいですが,1971年(昭和46年)に東京メトロ千代田線とJR常磐線の相互直通運転がはじまってから,宮城県の岩沼駅を始点として茨城県の水戸市を経由し上野駅に至るJR常磐線は,金町,亀有,綾瀬の各駅は,快速列車は停車せず,東京メトロ千代田線に乗り入れる各駅停車のみが停車するように変わったのです。
 つまり,JR常磐線の快速列車は,金町,亀有,綾瀬は通過し,各駅停車は,金町,亀有,綾瀬には停まりますが,次の北千住から東京メトロ千代田線に乗り入れてしまうのです。そこで,従来は,金町,亀有,綾瀬からJR常磐線で南千住,三河島,日暮里,上野に直接行くことができたのですが,現在は,金町,亀有,綾瀬の各駅からJR常磐線の南千住,三河島,日暮里,上野に行くには,北千住で降りてJR常磐線快速に乗り換える必要があるということです。
  ・・・・・・
 要するに,私が乗った金町駅はJR常磐線とはいいながら,実際は,JR常磐線に乗り入れる東京メトロ千代田線の普通列車だけが停車する金屋駅,というわけだったのです。これもまた,不必要な情報は山ほどあれど必要な情報がないという日本らしいお話でした。

 このように,東京駅から柴又駅に行くには,私が行きに利用した,日暮里駅から京成電鉄で行く方法もあれば,東京駅に近い二重橋駅から東京メトロ千代田線に乗るという方法もあったのですが,東京メトロ千代田線経由の方が,むしろ便利でした。また,柴又からNHKホールに行くにも,柴又駅から金屋駅まで行って,金屋駅からJR常磐線に乗り入れる東京メトロ千代田線に乗りかえて,明治神宮前に行くのが最も便利だったのです。
 やっと理解できてすっきりしました。
  ・・
 NHK交響楽団の定期公演が終わって,東京駅までは,明治神宮前駅から日比谷駅まで,覚えたばかりの東京メトロ千代田線で戻って,日比谷公園を少し散歩してから,予定どおり,東京駅でこれもまた贅沢にお寿司を食べて,午後7時東京駅発ののぞみで帰宅しました。帰りの新幹線はとても混雑していて,グリーン車も空席がなく座席詰まっていたのだけが残念でしたが,それはともかく,すばらしい1日となりました。

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 葛飾柴又寅さん記念館を出て,隣にあった山田洋次ミュージアムを見学してから,山本亭,矢切の渡しと歩きまわって,帝釈天の参道に戻りました。
 まだまだ残暑厳しく,すごく蒸し暑くて,それだけが残念でした。また,江戸川の堤防は,ものすごく虫が多く,さんざんコバエに悩まされたオーストラリアのエアーズロックのようでした。

 山田洋次さんは「男はつらいよ」以外にも多くの作品を制作していて,1961年(昭和36年)年のデビュー作「二階の他人」から最新作まで、時系列に9つのテーマにわけて紹介しています。それと同時に作品制作当時の社会背景なども知ることができるというねらいで展示がしてあって,私のような年代には,とても興味深いものでした。山田洋次さんはこのミュージアムを
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 発見があるミュージアムになった。この50年間で私たちは幸せになったのだろうかという問題と,映画のデジタル化が進み「フィルムよ、さようなら」という思いが伝われば」と話した。
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と話されたそうですが,日本では,過去は過去として,よいことも悪いこともまっすぐに見つめ直すことが少なく,むやむやにして葬り去ってしまう,という感じが私にはするので,こうした場所はとても貴重だと思いました。

 また,山本亭は,地元ゆかりのカメラ部品製造をしていた山本工場の創立者である山本栄之助翁の自宅を平成3年に公開したものです。
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 関東大震災後当地に移り住み,以後4代にわたって使われていた,大正末期から昭和初期に増改築された当時には珍しい二世帯住宅。建物は,床の間・違い棚・明かり障子・欄間からなる書院造り,数奇屋風の天井,下端部は石張りで上部は白漆喰塗りの土蔵などの伝統的な和風建築と,壁には大理石のマントルピース,寄木を用いたモザイク模様の床,ステンドグラスをはめ込んだ窓,ガラス製ペンダント照明を用いた昭和初期独特の洋風建築が複合されています。また,池泉・築山・滝などを設けた典型的な書院庭園も見ることができます。
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ということですが,何か建物の説明が聞けるけるわけもなし,建物を単に見るだけだったのが物足りなかったように思いました。
 どうして,日本はどこもこんな感じになってしまうのでしょう。アメリカで同じようなところを見学すれば,どこも工夫を凝らした見学ツアーがあるものです。

 矢切の渡しは,小説「野菊の墓」や歌謡曲「矢切の渡し」で有名な,唯一現存する江戸川の農民渡船で,矢切と葛飾区柴又を結んでいます。
 徳川幕府は江戸防衛のため川に橋を架けず,街道に続く渡し舟は厳しく管理されていたそうですが,対岸に農地を持つ農民のための渡船は許されていました。そこで,旅人の中には事情により街道の経由がはばかられ,農民に扮装して川を渡る者もあったそうです。
 「野菊の墓」は伊藤左千夫が1906年に発表した小説で,私は昔読んだ記憶だけがあります。
  ・・・・・・
 矢切の渡しに近い旧家の息子・数え年15歳の政夫は,体調のすぐれない母と暮らしており,従姉・数え年17歳民子が市川から看護や手伝いに来ていた。ふたりはたわいのない遊びで無邪気に接していたが,年ごろの男女が親しすぎることから近所であらぬ噂が立ちはじめる。
 以来,民子は政夫から距離を置き,改まった口の利き方をするようになったが,会うのを制限されたことでかえって互いに恋心の芽生えを感じるようになる。
  ・・・・・・
という淡い恋愛物語で,矢切の渡しは,政夫と民子の最後の別れの場となったところです。
 また,演歌「矢切の渡し」は,1976年に,ちあきなおみさんのシングルのB面として発表されたのがはじめということですが,全国で知られるようになったのは,1982年に,TBS系列のテレビドラマに「淋しいのはお前だけじゃない」というテレビドラマが放映されて,女形で出演した梅沢富美男さんがこの歌を挿入歌として使用したことです。私もそれで知りました。
 というように,何かもの寂しげな,そんな雰囲気が人々の琴線に触れることから,今も現役で観光地化されているように私は思います。
 この日も舟が運航されていましたが,私は乗りませんでした。ウェブに載っている写真は手漕ぎの船ですが,私が見たのは,単なるモーターボートだったのでがっかりでした。


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 京成高砂から歩いて15分,柴又帝釈天の参道に到着しました。私は,こうした何気ない街を歩くのが好きなのです。むしろ,観光地はやたらと人がいるので嫌いです。1か月ほど前に行った浅草はものすごい人混みでうんざりしましたが,帝釈天参道はそこまではひどくありませんでした。しかし,多くの観光客がいました。
 まずは,観光案内所で情報収集です。滞在2時間程度で,ということで,どんな見どころがあるかを聞いて地図をもらいました。
 私が最も行きたかったのは,「葛飾柴又寅さん記念館」で,そこはずいぶん前に一度柴又へ来たときにはあったのかなかったのかされ知らず,来たことがありませんでした。
 そこでまず,帝釈天の参道を何も見ずに通り過ぎて,この記念館に行くことにしました。

  ・・・・・・
 「葛飾柴又寅さん記念館」は,松竹製作配給の映画「男はつらいよ」シリーズの舞台・柴又にあって,映画の世界観や各種資料を再現・展示しています。
 今から25年前,柴又地区で,江戸川の高規格堤防の整備事業が行われた折,河川敷と法面が一体で整備され「柴又公園」が設立されました。「葛飾柴又寅さん記念館」は,その柴又公園の真下に作られたものです。
 「葛飾柴又寅さん記念館」では「男はつらいよ」の世界をコーナー別にわけて展示してあって,2000年に閉鎖された松竹大船撮影所から移設した「くるまや」「朝日印刷所」のセット,映画の名場面を紹介した映像コーナー,実物の革カバンなどの展示コーナー,記念撮影コーナーなどがあります。
 また,隣には,2012年に作られた「男はつらいよ」の原作者で第3作と第4作を除いたシリーズの監督を務めた山田洋次を顕彰する「山田洋次ミュージアム」を開設しています。
  ・・・・・・
 ということで,老人割引の入場券を購入して館内に入りました。思ったほど大きなところではありませんでしたが,映画のままの世界が再現されていて,とても楽しい時間を過ごすことできました。私が最も興味深かったのは,映画で使われた寅さんの旅のカバンと寅さんの履歴書でした。
 年月が経てば「男はつらいよ」を知らない若い人が増えてくると思うので,館内に小劇場を作って「男はつらいよ」を上演すればいいのに,と思ったことでした。

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 私の憧れる生き方はフーテンの寅さん。
 ということで,これまで何度もその舞台である葛飾柴又に行こうと思っていたのですが,東京都心から結構遠く,なかかな実現しませんでした。いや,実際は,ずいぶんと昔,一度だけ行ったことがあるのですが,若いころに行ったところは,自分の未熟さと無知のために消化不良となっていたのです。先月東京に行ったときは,東京への到着時間が遅く,午後2時からのNHK交響楽団の定期公演の前に行くには十分な時間がなかったので,今回は早く到着して,定期公演の前に,柴又まで往復することにしました。
 映画にも出てくる柴又駅は不便なところにあって,東京に住んでいない私には,距離感がつかめません。とにかく,行ってみるに限るのです。そして,行ってみると大したことはないのです。やはり,今回も行ってみて,それがとてもよくわかりました。しかし,行く前は,どこをどう行けばいいのか,今ひとつ掴めませんでした。

 まずは,Google Maps が薦めるまま,東京駅から山手線,あるいは京浜東北線に乗り換えて,日暮里駅で降り,そこから京成電鉄で向かうことにしました。京成高砂という駅で乗り換えてひと駅で柴又駅に着くということだったのですが,日暮里駅でやってきた電車が普通でその次も普通,そして,そのあと17分後に快特とかいうのがあって,どちらが先に着くのかよくわかりません。駅の案内放送も早口でほとんど理解ができませんでしたが,私の耳には普通は快特に追い抜かれて,京成高砂駅には快特のほうが先に着く,と聞こえました。聞こえないような放送ならやかましいだけで,はじめて乗る人にわかってもらおうという気持ちのかけらすらありません。こんなものなら,欧米の鉄道のように,案内放送などやらないほうが静かでましです。
 私が言いたいのは,ある私鉄では特急に乗るだけで別料金がいる場合もあれば,そうでない場合もあるし,いつも乗っている人には当たり前でも不案内の人にはそういうことが,こんな案内ではさっぱりわからないということなのです。つまり,いつも,どうでもいい情報は山ほどあれど必要な情報がない。これこそが,日本流,責任のがれのやったふりということです。

 ということで,はじめの普通を見送り,次の普通の後に来る快特を待つことにしたのですが,今度は,快特というのが別料金がいるのかどうかが心配になってきました。そうこうするうちにスカイライナーとかいうのがホームに来ましたが,これは扉が開きませんでした。これは別料金が必要で成田空港に行く列車だということは理解できました。
 次の普通が来ました。見送ろうと思っていた列車だったのですが,私が待っていたところがちょうど車掌さんのいるところだったので聞いてみると,この普通のほうが先に到着する,ということでした。であれば,先に見送った普通は何だったのか! まあ,いずれにしても,たとえ追い抜かれたとしてもそんなに時間が変わるものではないから,車窓さんを信じてその普通に乗り込みました。そして,実際,快特に追い越されることもなく,京成高砂駅に到着しました。
 このように,日本を旅するのは,海外旅行をするよりずっと大変です。
 京成高砂駅からの乗り換えですが,乗り換えをするには一旦改札を出て,再び別のホームに行く,とありました。しかし,調べてみると,京成高砂駅から柴又駅までは,乗り換えて電車で行くのと,京成高砂駅から歩くのとほとんど時間が変わらないようなので,歩くことにしました。そのほうが街の様子もよくわかり楽しいのです。このあたり,東京とはいえ,のどかでいいところでした。やがて,帝釈天の参道が見えてきました。

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 金美館通りの正確な場所を知らなかったのですが,品川駅から行くには,おそらく,JR山手線に乗って鶯谷駅で降りて,東に向かって歩いていけばいいだろうと適当に見当をつけて,ホームに降りたのですが,間違えて京浜東北線乗ってしまったので,途中の御徒町駅でホームの反対側に奇しくも同時に停まった山手線に急いで乗り換えて,無事,鶯谷に着きました。
 御徒町駅とは違い,品川駅では山手線下りと京浜東北線上りが同じホームの両側から出るのです。わかりにくい。
 鶯谷駅から南に行けば国立博物館から上野恩賜公園に向かうことができて,以前,上野恩賜公園の美術館を巡ったときに鶯谷駅からJR山手線に乗って帰ったことがあるのですが,北側はホテル街でした。そんな雑踏としたディープな駅前に松屋があって空いていたので,まず,そこで昼食に牛丼を食べました。
 店を出て,金美館通りを目指しました。迷いながらも,金美館通りに出ました。名前だけ知っているところに出ると何かよくわからねどなつかしさを感じるものです。それは,名前だけ知っていて会ったことない人に会うときに感じるものと共通します。
 ということだったのですが、金美館通りは,東京の下町によくある過ごしやすそうなところでした。

 金美館通りをずっと歩いていくと,やがて,通りの名前としては終点まで来ましたが,さらに道は続いていました。そこで,そのまま進んでいくと,なにやらすごく情緒のある雰囲気の街が見えてきました。赤く塗られた電柱や柳の木が江戸情緒一杯でしたが,そこが吉原遊郭の跡でした。
 今は吉原という地名はなく,千束4丁目です。吉原遊郭は時代劇によく登場するところですが,名前は知っていても,東京に住んでいなければ,それがどこにあるのか知らない人が多く、私もまたそうでした。ここがまさにその場所でした。
 まずあったのが吉原神社でした。
  ・・・・・・
 吉原神社は,かつて吉原遊郭にお祀りされていた五つの稲荷神社と遊郭に隣接する吉原弁財天を合祀した神社です。5つの稲荷神社とは,玄徳(よしとく)稲荷社,明石(あかし)稲荷社,開運(かいうん)稲荷社,榎本(えのもと)稲荷社,九郎助(くろすけ)稲荷社のことで,倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を御祭神としています。吉原神社は,現在も幸せを祈る女性への御利益がよく知られています。
  ・・・・・・

 吉原神社を左手に,仲之町通りを進んでいくと,これもまた,なにやら派手な看板がたくさん見えてきました。
  ・・・・・・
 吉原遊郭の中央通りを仲之町通りといいます。これから先3本の道路がクロスします。それらは手前から京町通り,揚屋通り・角町通り,江戸町通りで,このあたりに吉原遊郭が形成されていたそうです。その先,仲之町通りは大きくカーブして,そこが,吉原遊郭の入口でした。現在は左右に「吉原大門」の柱がありますが,かつてここに吉原の鏑木門がありました。また,現在交番のあるところが当時は「四郎兵衛番屋」で吉原自警団と町奉行所の同心などが詰めて警護に当たっていたそうです。
 江戸時代,吉原の出入り口はここだけで,周りは堀で囲まれ遊女の逃亡を防いでいたそうです。
 大門に一番近い江戸町通りを左に行った突き当りは足元から急な下り坂になっていて,吉原をぐるっと囲んでいた「お歯黒どぶ」の跡があります。江戸時代,ここに跳ね橋があって,遊女が死んだ場合などここから遺体が運び出されたといいます。江戸時代の遊女は平均寿命が30歳以下だったそうです。
  ・・・・・・
 江戸時代はそんなでしたが,現在は140軒あまりという日本最大の風俗店の立ち並ぶ街になっていて,私が歩いた午前12時前の時間はお店の開店前らしく,そこに勤める女性が乗ってきたタクシーやお店に入っていく女性を大勢見かけました。

 私は午後1時には渋谷駅に着こうと思っていたので,歴史探訪もそこそこに,ここからどうしたら渋谷駅に早く行くことができるだろうかと考えたのですが,おそらく最も便利なのは浅草駅です。浅草駅から地下鉄銀座線に乗れば渋谷駅まで直通で行くことができるのです。ということで,暑い中、へこたれながら,かつ,汗だくになりながら浅草駅を目指しました。
 吉原遊郭跡の風俗街を抜けると雰囲気が一変して,小料理店やらが軒を構えるようになって,東京の下町・浅草らしくなってきました。今はインバウンドがないので,外国人でいっぱいということはないだろうと高を括り,2年前にニュースで見たさびれた浅草仲見世を想像しながら歩いていくと,それがまあ,予想に反して,歩く場所すらないほどの人混みで,すっかりいやになりました。
 旧吉原遊郭跡といい,大混雑の浅草といい,「田舎のネズミ」である私には東京はおそろしいところだと再認識しました。こんなところに長居をしたくないので、ともかく、地下鉄に乗り込んで渋谷を目指しました。冷房の効いた地下鉄がなんと心地よかったこと。でも,数年前の銀座線ってもっと古臭い車両だったのに…。

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「しない・させない・させられない」とは
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 NHK交響楽団1962回定期公演を聴くために東京に日帰り旅行をしました。定期公演のことはすでに書きました。
 定期公演は午後1時開場,午後2時開演でした。 私が品川駅に着いたのが午前10時過ぎで,品川駅で下車したのは,品川のキヤノンギャラリーで開催されている「キヤノンフォトコレクション:木村伊兵衛写真展」を見るためでしたが,日曜日が休館ということで行くことができませんでした。
 渋谷駅からNHKホールまでは結構な距離があるので,定期公演に間に合うためには午後1時くらいには渋谷駅に着こうと思っていたのですが,では,これから3時間程度の中途半端な時間をどう過ごすかが問題でした。
 東京もまた,ほとんど行きつくしたし,私は,若者が集うようなところに行く気もないので, 今,私が東京で行きたいところは,ちょっとばかりマイブームになっている「男はつらいよフーテンの寅さん」の舞台である葛飾・柴又くらいのものでした。葛飾・柴又もすでに行ったことはあるのですが,ここにある「葛飾柴又寅さん記念館/山田洋次ミュージアム」には入ったことがないので,ここが目的なのです。しかし,この日は品川から葛飾・柴又行って,目的地で見学をして渋谷に戻るには時間が足りません。葛飾・柴又は遠いのです。というか,東京は公共交通は発達していても,意外と広くどこへいくにも結構時間がかかるのです。

 ということだったのですが,ふと,あることを思いつきました。 それは,私が近ごろ見つけて以来,暇つぶしに時々見ているVTubeの「金美館通りの藤村さん」。これは元風俗嬢だったという女性がその業界の本音やら内情を語るというものですが、私のような暇な不良老人の知らない世界を知りたいという好奇心を満足させてくれます。そこで気になっていた「金美館通り」という変わった名前ですが,ここはかつて藤村さんが実際に住んでいたというところの地名だということを知って,ぜひ,そこに行ってみたいということでした。こんなところ,何かのついででもなければ行くこともないし,わざわざ行く気にならないとその機会もないから,こりゃ絶好だと思いました。
  ・・・・・・
 入谷にある金美館通りは,かつて,根岸や鶯谷方面から吉原へ行く道として栄えた通りです。
 金美館通りの名前の由来は,大正時代,美須鐄(みすこう)さんという人が個人商店として発足した金美館という映画館があったことに由来します。入谷は,上野に近い街で建物においては高層ビルも少なく,雰囲気的にレトロさと穏やかさをもつ人情味のあふれる場所です。
 普段は,都会の喧騒の中に身を置くことの多い人々も休日はゆったり過ごしたい人は多いでしょう。 アロマや動物,公園や他愛もない会話などを楽しみ,何気なく自然にあるものに触れ,こころ許せる時間と空間がこの金美館通りやその周辺に存在しています。
 大正ロマンあふれる景観の喫茶店や女性パティシエが作る温かく優しい味わいのケーキ屋,駄菓子屋を連想させる煎餅屋などがあり,思わず東京にいることを忘れそうになります。 また,入谷は特に昔の建物と現代風の建物が入り混じっているところなので,歴史と伝統を守り続けつつオシャレな近代的さが融合されているすてきなところです。
 ちなみに,入谷は上野との距離も近く駅の距離で言えば,徒歩でこと足りるほどの距離しか離れていません。住むには魅力的な街です。
  ・・・・・・
という紹介がネットにありました。

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 今年のはじめにチケットを購入したときは,東京交響楽団の演奏会を聴きに東京へ行くついでに,前日小田原あたりで1泊して,レンタカーを借りて富士五湖をドライブするというつもりだったのですが,コロナ禍でまったくその気がなくなり,単に東京往復となりました。
 私はここ半年以上,飛行機以外の公共交通機関は利用していません。今回も,新幹線はともかく,東京でも電車に乗りたくなかったので,東京駅とサントリーホールの間は歩くことにしました。目的もなく気ままに人の少ないところを歩く,これこそ,私のモットーとする散歩です。
 まず,皇居に向かい二重橋を見て,その後,桜田門から出て,なんとなくサントリーホールの方向に歩いて行くと,日比谷公園を越え,歩いている人なんて私以外にだれもいなくなって,やがて,国会議事堂に着きました。このあたりは警官だらけで物々しい感じでした。それはどうやら,IOCのバッハ会長の来日のためのように思われました。その先,首相官邸を過ぎ,さらにさらに歩いて行くと,勝海舟の住んでいた屋敷跡があり,坂本龍馬と勝海舟の銅像が出迎えてくれて,それを越えると,やがて,サントリーホールに到着しました。

 私はここ数年,アメリカの首都ワシントンDCも,オーストリアの首都ウィーンも,フィンランドの首都ヘルシンキも,エストニアの首都タリンも,そしてまた,なんとアイスランドの首都レイキャビックにも出かけて散策をしたことがあるのですが,正直いって,日本の首都はその中で,もっともぼろいです。
 一見立派そうに見えるのですが,次第にメッキのような感じに思えてきます。官庁街なんて,古びたビルがならんでいるだけで,威厳のかけらもありません。ワシントンDCの官庁街の威圧的な雰囲気もなければ,ウィーンの官庁街のような伝統の重みも感じられません。
 こんなところで官僚になって仕事漬けで一生を送るなんて,10億円積まれても断るなあ,などと思いました。
  ・・
 そもそも,日本の政治というのは,理念や哲学どころか将来展望すらなく,国民からなんとかかんとか屁理屈をつけて税金を巻き上げ,そのお金を,なんやかやと口実を設けて大企業に配る,ということしかやっていません。
 「GoTo何某」も,結局は,旅行会社にお金を配ることが目的だし,教育のIT化は,IT企業にお金をもうけさせるのが目的です。また,大学入試改革も,教育産業にお金を配るためにやっているようなものです。だから,そこに国民が見返りを求めることは,そもそもが無理な話なのです。そんなことが目的になってはいないからです。
 塾にお金をかけ,受験で合格をめざしたところで,テストで点が取れるだけで,いまどき,調べればわかるような知識をひけらかしても,英語で自分の意思を表現できるようにもならず,コンピュータのプログラムひとつ組めるようにならないことから,そんなことは明白でしょう。
 小学校から英語とプログラミング教育をやるとかいう話ですが,そもそも,これまできちんとした展望を立ててそれを教える指導者を養成したことすらないわけだから,急ごしらえで素人が教えたふりをするだけです。そして,親は,もとから学校教育など信頼していないから,学校以外にさらに塾通いをさせ,高価な教材や機器を購入することで散財し,結局は企業がお金儲けをするという構図です。そしてまた,相も変わらないドリル学習に明け暮れ,あげくの果てに,そういった詰め込み教育の成果として,英語もコンピュータも嫌いになる。という結果が目に見えています。
 …などということをぼんやり思いながら,永田町を歩いていました。

 私は,これまで何度東京に来たことでしょう。それにしても,本質的には何も変わらない町です。いや,オリンピックを口実に,ビルやら道路はできたのです。インフラ整備の莫大な金を建設会社に配分したからです。
 東京駅の八重洲口界隈は地下街が新しくなったのですが,あるのは食べ物屋と土産物屋とブランド品をならべたショーウィンドウで,そこには,グルメ雑誌やファッション雑誌に載っているようなやたらと高いだけのメニューや商品やアニメから飛び出したようなグッズばかりがならんでいます。一方,丸の内界隈は,三菱関係の会社のビルだらけですけれど,三菱もまた,今や,ジェット機ひとつ満足に作れないし,車もダメ,造船もダメ,三菱グループの一員であるニコンも将来が危ういという状態です。それでもまだ,表向きだけは盤石を装っていますけれど,これもまた,斜陽日本の象徴のように思えます。
 そんな首都なのに,その姿を怖いモノ見たさかどうかは知らないけれど,ひとめ見てみようと「GoToTravel」を利用して田舎からやって来た観光客が「はとバス」に乗って,「密」になった展望席から観光をしているのもまた,何か滑稽というか哀れというか…。そしてまた,そんな日本の姿を知っているのか知らないのか,将来をあきらめているのか権力をバカにしているのか,けたたましい爆音を立てて,精いっぱい見栄をはった外車が混雑する道路を警官の見ている前を縫うようにして駆け抜けていったり,皇居外苑を「密」になって,なぜかこのご時世に群れてマラソンをしている姿を見ると,いったいこれは何なのだろう,みんな何がしたいのだろう,と私は思ってしまうのでした。悪い夢でも見ているのだろうか?
 これでは,この国は来年オリンピックがこけたら,もう立ち直ることすらできますまい。


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 国技館のある両国というところはとても雰囲気のよいところです。大相撲のチケットをもっていなくても,このあたりを散策するだけで異次元空間に入ったような錯覚を覚えます。今回大相撲を見る前に少しこの辺りを散策してみました。
 このあたりには相撲部屋も多くあって,歩いていると意識しなくてもいくつか目にすることができます。今日の1番目の写真が八角部屋で,2番目の写真がそのお隣にある錦戸部屋です。八角部屋というのは現在解説者の北の富士さんが九重親方だったときに育てた横綱北勝海が八角親方として起こした部屋ですが,むしろこちらのほうが北の富士さんが九重親方だったときの直系です。そして,横綱千代の富士が名前としては九重親方として部屋を継いだ形となっていますが,むしろ分家のような感じです。ちなみに九重部屋もこの近くにあります。
 現在両国に部屋を構えるのは結構大変で,よほど昔からの伝統がある部屋かまたは後援会が強くお金があってこのあたりに土地を手に入れることができた部屋に限られてしまっているのが残念なことです。

 3番目の写真は葛飾北斎生誕の地という立て札で,この場所には葛飾北斎美術館もあります。江戸情緒一杯です。
 そして4番目から6番目の写真がその近くにある野見宿禰(のみのすくね)神社です。野見宿禰神社というのは相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る神社で,兵庫県たつの市にも同名の神社があります。
 1884年(明治17年),この神社の東側に部屋があった初代高砂浦五郎によって元津軽家の屋敷跡に創建されたものです。境内はさほど広くないのですが,ここには歴代横綱之碑というのが二基あります。そのひとつは1952年(昭和27年)に建立されたもので,初代明石志賀之助から46代朝潮太郎までの名が刻まれています。もうひとつは47代柏戸剛以降の歴代の横綱の名前が刻銘されていて,最後が稀勢の里です。新しく横綱が誕生した際にはこの神社の神前で土俵入りを披露する慣例があります。

 野見宿禰というのは土師氏の祖として「日本書紀」に登場する人物で,天穂日命の14世の子孫で,第12代の出雲国造である鵜濡渟の子であると伝えられています。 
 相撲の最古の記録は「古事記」にあり,そこには,葦原中国平定で建御雷神(たけみかづち)の派遣に対して出雲の建御名方神(たけみなかた)が「然欲爲力競」と言ったのちに建御雷神の腕を摑んで投げようとした描写があります。これが相撲の起源とされていますが,これは神々の世界のこと。
人間同士の相撲で最古のものは「日本書紀」にあり,紀元前23年(垂仁天皇7年)に,垂仁天皇の命により,野見宿禰が当麻蹴速と角力(=相撲)をとるために出雲国より召喚され当麻蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ったと言い伝えられているものです。
  ・・・・・・
 朕聞當麻蹶速者天下之力士也,各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之
  ・・
 蹴り技の応酬ののち,最後に宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り,更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り絶命させた
  ・・・・・・
と書かれています。こうしたことから,野見宿禰は相撲の始祖として祭られているというわけです。 

 時代は進み,奈良時代から平安時代にかけて,宮中行事のひとつとして相撲節会が行われるようになり,毎年40人ほどの強者が選抜されて宮中で天覧相撲をとりました。要するに宮中のお祭りのひとつだったのでしょう。力自慢がそれを競い合い,それを見て楽しもうという考えは自然なものです。
 その最初の記録は734年(天平6年)にありますが,時代が下るにしたがって次第に重要な宮中行事となっていきました。しかし,都の政情が不安定になっていくとともに相撲節会は滞るようになり,1174年(承安4年)を最後に廃絶になりました。
 その一方で,神社における祭事として相撲をとる風習が生まれ,これは,農作物の豊凶を占い五穀豊穣を祈り神々の加護に感謝するための農耕儀礼として,現代も地方で続いています。
 相撲はまた,組み打ちの鍛錬として武士の間で広まっていきました。源頼朝は特に相撲を好み,鎌倉を中心に相撲が盛んに行われました。江戸時代に入るとそうした武家相撲は存在意義を失いましたが,土地相撲が興行化して民衆一般に広がり,興行主はこれを神事相撲の「勧進」にことよせて勧進相撲と称した見世物と化し,庶民の娯楽としてさらに隆盛するようになっていきました。そして,職業相撲としての営利的興行へと変化し,スター力士が登場,江戸相撲は黄金期を迎えることとなって,1833年(天保4年)には勧進大相撲が一大歓楽地であった両国を定場所としたのです。

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 大相撲を見にいく楽しみは,アメリカMLBと同様に,テレビでは映らないさまざまな風景をみることができることです。そして,そうした風景を写真に撮ることです。テレビで見ていると結果ばかりが気になるのですが,実際に見にいくとそれほど結果にはこだわらなくなるの不思議なことです。
 今一番の人気は,1番目の写真の炎鵬関です。以前,金沢巡業ではじめて見たときは,あんな小さな体でこれから強くなるのかしらンと思ったのですが,幕内で活躍をしています。この日に勝って勝ち越しましたが,歳をとった私は,そういうのを見るだけで泣けてきます。
 宇良という人気があった小兵力士はその後ケガをしてしまい,今場所も休場をしています。一度ケガが癒えて復帰したのですが,また同じ場所をケガしてしまい,なかなか再起ができません。どうしても小さな力士はこうしたケガが致命傷になってしまいます。
炎鵬関はなんとかケガをしないでこれからも活躍してほしいものです。

 2番目の写真は照強関の塩まき,3番目の写真は阿炎関の四股です。こうしたその力士独特のパフォーマンスも魅力のひとつです。前回名古屋場所を見たときも同じようにこうしたパフォーマンスの写真を撮っていたのですが,照強関の塩まきはすっかり頭から抜けていたので,今回はぜひ写そうと狙っていました。
 こうして高らかに塩をまく力士は,昔の水戸泉関,それに続く北桜関といたのですが,現在は照強関です。

 水戸泉関は水戸市出身で高砂部屋所属。最高位は東関脇で現在の錦戸親方です。新十両の場所の8日目から,付人の奄美富士の「勝ち星に恵まれないときはせめて塩だけでも景気よくまいたらどうですか」という進言により大量の塩を撒くようになったといいます。はじめの頃は1回目から大きく撒いていたということですが,後に制限時間いっぱいの時にのみ大きく撒くようになりました。1回にとる塩の量は何と600グラムでした。
 ロンドン公演で「ソルトシェイカー」と紹介されたというのは有名な話で,私はそのときにシェイカー(shaker=振る人)という英単語を覚えました。それ以降,日本でも「水戸泉といえば豪快な塩まき」として定着しました。
 北桜関は広島市出身で北の湖部屋所属。最高位は西前頭9枚目で現在の式守親方です。 制限時間一杯のとき大量の塩を撒くパフォーマンスで有名になりましたが,そのパフォーマンスをはじめたきっかけは,2000年の名古屋場所14日目の対水戸泉戦でした。初対戦時に負けていたため気迫で負けぬようにと対抗して多くの塩を撒いて勝ったことによります。翌秋場所で引退した水戸泉関は北桜関を「ソルトシェーカー」の後継に指名し,観客に喜ばれる塩撒き法を伝授したといいます。
 塩を撒く前にはゆっくりと大きな深呼吸し,塩を撒いた後には雲龍型のポーズをとって土俵内に入る事でも知られていました。

 四股というのは,両足を開いた状態で膝に手を添え,そのまま片方の足を高く上げて踏み下ろすといった動作を繰り返すものです。力士の足腰を鍛える基本動作で,相撲界では,もっぱら四股を踏まずして強くなることはないといわれています。逆にいえば,強い力士はそれだけよく四股を踏んでいるともいい換えられます。
 四股の語源は「醜(しこ)」という言葉にいきつくとされています。これは四股が大地を踏んで邪鬼払い的な意味があることを示唆していて,その「醜」という言葉を嫌い当て字として用いられたのが「四股」となります。つまり,足で地を踏むことで邪鬼,すなわち醜を払っている神事ともいえます。取組前に力士が土俵で行う四股は,単に準備運動を行っているだけでなく,土俵の邪鬼を払い清めているということにもなるのです。

 今,阿炎関の四股がキレイ! と話題になっています。そんなことを知らずとも,その姿を見ればそれだけでほれぼれします。私は話題になっていることは知りませんでしたが,見ていて思わずこうして写真に収めました。
 お相撲見物のおもしろさは勝ち負けだけに限らず,というよりも,むしろ勝ち負けなどどうでもよいくらい,力士が土俵に上がってから相撲を取るまでの様々な動き=所作にもあるのです。
 阿炎関の四股は,最初は少し膝を曲げながらゆっくりと片足を上げ,その足をピンとまっすぐ伸ばしますが,その状態でも身体がふらつくことがないのです。そして,その上げた足をつま先から土俵にのめりこむように下ろしていきます。

  ・・・・・・
 服部桜という力士がいます。
 通算3勝164敗1休みというこれまでの成績は,相撲史上最弱という名をほしいままにしています。
 服部桜が勝つところをみるのは,横綱白鵬が負けるのを見るよりも大変です。そもそも15日のうち7番しか取組はなく,しかも登場は一番はじめとなれば,取組を見ることすら困難なのです。
 私はなぜか,いつかはそうしたい,いつかは見てみたい,いつかは行ってみたいと思い続けていたことは奇跡的に実現してきたのですが,今回,この服部桜の取組を見ることができました。いつも13日目までに取組を終えるので期待していなかったのですが,なぜか,14日目に取組がありました。しかも,取組開始の30分ほど前,国技館の建物の外にふと出た時,偶然にもその場所入りに遭遇しました。これを奇跡といわずなんというのでしょう!
 しかし,4勝目は実現せず,順当に165敗目となってしまいました。

 服部桜は神奈川県茅ヶ崎市の出身で式秀部屋,つまり北桜関の起こした部屋所属の力士です。
 身長177センチメートル,体重85.1キログラムで,これまでの最高位は西序ノ口15枚目です。
 小学校時代にテレビで幕下の取組を見て相撲に興味をもち,中学卒業後高校に進学せず陸上競技の活動を継続すべく独自の筋力トレーニングを研究している最中,四股や摺り足が陸上競技に必要な筋肉の鍛錬に最適であることを知り入門を決意しました。
 式秀部屋に単身で訪問し入門志願を直訴,両親の承諾を得たことで正式に入門が認められ,2015年秋場所で初土俵を踏みました。つまり,これでまる4年となります。
 次の九州場所に序ノ口として番付に四股名が掲載されて以降全く勝てない場所が続いていましたが,2016年夏場所6日目の澤ノ富士戦において通算23戦目にして初白星を挙げました。
 皮肉にも服部桜が有名になったのは2016年秋場所3日目,錦城を前に立ち合いで相手に触れる前に転ぶという敗退行為で,これがマスメディアや相撲愛好家に取沙汰された上,師匠の式秀親方が事情聴取及び口頭注意を受けたことによります。これは,稽古で首を痛め立ち合いで恐怖心を感じていたゆえに行為に及んだということでした。
 このとき引退も考えたのですが「今逃げると負け犬になるぞ」と式秀親方から叱咤されて続投を決意したということです。  
 2018年初場所6日目に敗れた時点で70連敗達成,双葉山の連勝記録69を上回る事態となりましたが,2018年名古屋場所3日目颯雅に腰砕けがあったため勝利し,2勝目を挙げ,ついに連敗を89で止めました。そして,2019年初場所9日目に峰雲に寄り倒しで勝利し,3勝目をあげました。
 現在はこの日負けて31連敗中です。

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 今日の1番目の写真のように,両国国技館のチケット売り場は,開場前このような人だかりになっていました。これはわずかな枚数の当日に売り出される自由席券を手に入れて,だれよりも先に会場に入り,よい席に座ろうとする人たちでした。それにしても,よい席といったところで,国技館の最上段の一列でしかありえません。どこに座ろうとたいして差がなさそうに私には思えるのですが,これはこれでこの人たちは一生懸命です。話しかけてみると,並んでいる人には常連さんが多く,私は入り込めますが,一元さんには入れないムードいっぱいでした。
 こうした人たちがいる一方で,午後4時過ぎに観光バスで現れる団体さんもいます。私は,せっかくチケットがあるのに,午後4時から見るのではもったいないなあと思うのですけれど…。はじめの一番から見てこその相撲見物です。

 2番目の写真は先の夏場所の千秋楽でアメリカ合衆国トランプ大統領が優勝者に手渡した優勝杯,通称トランプ杯です。夏場所後は相撲博物館に展示されてありましたが,場所がはじまって,優勝杯などとともに並べてありました。ただし,これが優勝力士に贈られるのは初場所だけだそうです。
 あの騒動は夏場所千秋楽ことだったのですが,今にして思うといったいなんだったのでしょう? 大統領はMLBのボールパークのイメージしかなかったのでしょう。しかも,あれだけ準備して忖度して,来た本人は少しも楽しそうでありませんでした。それにしても,このトロフィーが優勝賜杯よりも大きいというのもなんだか複雑な気持ちです。

 そして,3番目が国技館名物の焼き鳥です。国技館といえば焼き鳥でしょう,というわけで,これを食べ,ビールを飲んで相撲見物をするのが定番となっています。ついでにみつ豆というのもまた国技館名物だったりします。私はビールはめっぽう強いけれどめったに飲まないので,この日もまた焼き鳥とお茶でしたけれど…。
 この焼き鳥は国技館の土俵の下にある秘密? 工場で作られているというのは知る人ぞ知るトリビアなのですが,もっと暖かければいいのに,それが残念なことでもありました。
 国技館というのは,日本の昔から延々と続く「芝居小屋」が今に残る建物で,およそ海外の,特にアメリカのスポーツ施設とは根本的に発想が異なります。それはそれでその国の個性だからいいのですが,升席がせまく4人も座ればぎゅうぎゅう詰め,しかも4人集まらないとチケットも買えないのが難点です。それでもまだ,国技館には2階のイス席がたくさんあり,そのイスも座り心地が悪くないので許せますが,地方場所ではイス席が少なく,しかも,そのイス席というのも駅のベンチのような固いものなので,そんなところに何千円も出して何時間も座らされるのは耐えられません。

 4番目はちゃんこです。
 お相撲は一時人気がなくなったころに結構さまざまな企業努力をして相撲以外にさまざまな企画をはじめたことで,今もそれが続いていていろいろと楽しめるようになりました。託児所もあるようですが,アメリカのMLBのボールパークのように,子どもがもっと楽しめるような遊び場があればいいのになあと思います。一度相撲関係者はアメリカのスポーツ施設を見学に行って研究するといいと私は思います。
 このちゃんこは人気で列ができるのですが,お客さんの回転が早いのでけっこうすぐに食べられます。この企画がはじまったころは相撲教習所でやっていて,なかなか入ることのできない相撲教習所に入ることができたのですが,今は,国技館の地下の会議室,といっても豪華な場所ですが,そこでやっています。せっかくやっているので,会場に大きなテレビでも設置すればいいのに,ここには何もないから,せっかくお相撲を見にきたのに,ちゃんこを食べている間は相撲が見られないというのはかなり残念なことです。
 1杯300円で量はそれほど多くないのですが,それがよくて,これだけでおなかが一杯になってしまったら,ほかのものが食べられなくなってしまうからこれで十分でしょう。私の隣に並んでいた若者はおなかが減ったと2杯頼んでいましたが。

 そして,5番目の写真は力士の入り待ちを待っている人たちです。せっかく相撲を見に来て,土俵を見ず,こうして力士が来るのを待っている人が多いので,午後3時くらいまでは館内が空いてるというわけですが,国技館では,大関以上は車で駐車場に入ってしまうので,ここに立っていても見ることができません。それ以外の力士は待っていると間近に見ることができます。本当は来る力士を待つ「入り待ち」よりも帰るときの「出待ち」のほうが力士がリラックスをしているので,一緒に写真を写したりサインをもらえるのでよかったりします。
 こうした方法は,以前は国技館だけで,地方場所ではやっていなかったのですが,これもまた,人気回復のために地方場所でもはじめました。しかし,昨年の名古屋場所が暑すぎで熱中症で見ていた人が倒れるということが起きてから,名古屋場所では中止となりました。一番見やすいのは大阪場所です。大関や横綱も見ることができるし,入口が狭く,力士とお客さんの入口が同じ場所です。
 私はこの日,ここにいる予定もなかったのですが,ちゃんこを食べて席に戻る途中でふと立ち寄ったまま,3時過ぎまでここにいることになってしまい,そんなわけで結局今回もまた,ほとんど取組を見ないで終わってしまいました。お相撲を楽しむにはどうやら体がふたつ必要なようです。

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