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●対向車線は事故で大渋滞だった。●
 すでに書いたことだが,私はこの旅でフロリダ州からジョージア州にかけてインターステイツ95を走っていたときに大渋滞に巻き込まれた。アメリカのような広い国では渋滞など無縁であると思われるかもしれないが,さにあらず,特に東海岸のように交通量の多い場所でこういうことが起きるのだが,一旦起きるとどうにもならない。
 私が巻き込まれたときの渋滞の原因はコンボイの横転であったが,情報がわからず難儀した。
 今回のものは,バスから眺めていると対向車線がとんでもない状況になっていた。この渋滞の原因は写真のように車の衝突であった。こうなると,もう,逃げ場所もなく,対向車線は延々と大渋滞になっていた。
 運よく,私の乗ったバスの進行方向は渋滞とは関係なく,その後も順調に走り続け,ボルチモアの次のバスストップであるデラウェア州ニューアークに到着した。停留所のあったのはデラウェア大学の構内であった。

 ニューアーク(Newark)は,デラウェア州の北部,メリーランド州との州境に位置し,人口は約3万人,ウィルミントン,州都ドーバーに次ぐ州第3の都市である。ニューアークはデラウェア大学が本部キャンパスを置く大学町である。
 ニューアークは1694年,スコットランド系,アイルランド系,およびウェールズ系の入植者によって創設された。1758年には,イギリス王ジョージ2世がニューアークを町として正式に認可,また,ジョージ2世が農産物取引の場として,半年に1度の祭,および週1回の市場をはじめた。
 やがて独立戦争が勃発すると,イギリス軍が進めていたフィラデルフィア方面作戦の最中,ニューアークの近郊,クーチズ・ブリッジで大陸軍がイギリス軍が交戦した。このクーチズ・ブリッジの戦いでは,アメリカ史上初めて星条旗が掲げられた。独立戦争が終わると,デラウェアは1787年に連邦最初の州となった。

 ニューアークの歴史においては学校が大きな役割を演じてきた。1743年にフランシス・アリソンが設立したグラマースクールは1765年にペンシルベニア植民地のニューロンドンからニューアークに移され,校名もニューアーク・アカデミーに変更された。このニューアーク・アカデミーとは別個に,デラウェア州は1833年にニューアーク・カレッジという新しい学校を認可した。
 1834年にニューアーク・アカデミーとニューアーク・カレッジが合併し,デラウェア・カレッジとなった。1859年にデラウェア・カレッジは一旦閉校に追い込まれたが,11年後の1870年にモリル・ランドグラント法によって土地を供与され,半官半民の大学として再建,1913年デラウェア・カレッジは州議会の決定に従い,デラウェア州政府に完全に移管され,1921年デラウェア大学に改名した。

 デラウェア大学はニューアークの中心部,およびその南にキャンパスを置いていて,デラウェア州最大の規模を有する総合大学として広範囲にわたる学部・学科・専攻プログラムを有している。
 デュポンが興り,化学産業や製薬産業が発展しているデラウェア州という土地柄から,経営学,化学工学,化学,生化学の分野に特に強みをもっている。
 バスの車内から見た限りではとても落ち着いたアカデミックさただようきれいで素敵な町であった。こういう町でならもういちど大学生活をしてみたいと思った。