しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:日本国内 > 東北

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 小出駅は,魚沼市四日町にあります。上越線の駅ですが,只見線の終着駅でもあります。以前は只見線の列車が上越線経由で浦佐駅まで乗り入れていたこともあったそうです。
 私は,これもまた,何も知らず調べず,今回の旅は,只見線に乗る,ということだけが目的でした。そこで,只見線を乗り終えたら,最短の方法で,その日のうちに帰宅することにしていました。小出駅から最も近い上越新幹線の駅を探したら浦佐駅だったので,小出駅から上越線で浦佐駅に出て,浦佐駅から上越新幹線で東京へ,そして,東京から東海道新幹線で名古屋へと乗り継ぐことにして,すでに新幹線の座席指定券は購入してありました。ただし,只見線が遅れたり,不通になることも考慮して,購入したのは,浦佐駅午後6時53分発東京駅着午後8時12分の「とき」342号,そして,東京駅発8時30分名古屋駅着午後10時23分の「ひかり」665号でした。帰宅がずいぶんと遅くなってしまうことだけが難点でした。

 私は,目的を達成すると,それ以外はどうでもよくなる性分です。そこで,思ったより早く小出駅に着いたので,そこで新たな観光をする気もなく,予定を変更しできるだけ早く帰宅するために,新幹線の指定券を変更することにしました。
 只見線の車内で親しくなったひとり旅の女性は,これから越後湯沢駅に行くということでした。私は途中の浦佐駅で降りるので,同じ列車でした。小出駅発11時10分と,30分ほど待ち時間があったので,一緒に小出駅で一旦改札口を出ました。駅前に食堂でもあれば昼食を,と思ったわけです。しかし,駅前には何もありませんでした。仕方なく駅に戻ってたわいもないおしゃべりをしながら列車を待ち,やがて,やってきた列車に乗りました。私が浦佐駅で降りるとき,彼女が,浦佐駅は何もないという話だ,と言ったのでびっくりしました。それまで,私は,「腐ってもタイ」,浦佐駅は新幹線の駅だから,そんなことはないと思っていたからです。
 しかし,それは真実でした。本当に浦佐駅は話のタネにできるくらい何もない駅でした。
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 浦佐駅は,南魚沼市の北部の大和地区に位置し,冬はスキー客,夏は奥只見湖や尾瀬方面への新潟県側の玄関口として旅行客にも利用されるということでできた駅です。また,日本の奇祭のひとつである「裸押合大祭」の舞台となる越後浦佐毘沙門堂もあります。
 上越新幹線の建設が決定した当時,六日町と小出町の中間点に位置する浦佐に新幹線の駅が設けられることが決まった際,両町から異議の声が上がったそうです。でありながら,浦佐に駅ができたのには,「何らかの政治的な意図が働いていた」とする「政治駅」説や,「六日町は越後湯沢に近過ぎるため駅の設置が難しく,小出に設けるとルートが大回りになり,小出駅の構内が狭隘で新幹線ホームが設けられない」という「現実問題が背景にあったとする」説があるそうです。
 駅ができたのち,スキー場が閉鎖されたこともあって,上越新幹線が開業した当初は1日2往復設定されていた只見線に直通する普通列車は廃止されました。現在,駅周辺には商業施設が少なく,医療機関や学校,宿泊施設が若干あるのみです。
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 浦佐駅は異常なくらい閑散としていました。ほとんどというか,まったく乗客がいませんでした。
 駅舎西口1階には団体待合室と化粧室とレンタサイクル駐輪場があって,それらは機能していたのですが,付近の待合室と化粧室は閉鎖されていました。駅の機能は2階に設けられているのですが,みどりの窓口すらありませんでした。新幹線改札口には自動改札機が2台あるのみでした。
 私は,この駅で,座席指定券の変更をしようと思っていたから,改札口で聞いてみると,改札口のとなりにある「話せる指定席券売機」で行うようにと言われました。言われたまま「話せる指定席券売機」に向かって話しかけてみると,係員の顔が写り,遠距離で会話ができました。まず,指定席券を発券機に設置されたスキャナで読み取るように言われました。そして,浦佐駅発午前11時59分発東京駅着13時28分の「とき」318号の新たな指定席が決まりました。そして,次に,言われた通り券売機に切符を入れると,新たな切符が出てきました。なかなかおもしろい体験でしたが,お年寄りや外国人は困ることでしょう。

 再び改札口に戻り,今交換した新しい切符と,すでに持っていた2枚の乗車券を駅員に示し,これで自動改札機が通れるかと聞くと,試してみましょう,と言われて,駅員が切符を自動改札機に通したら,無事通ることができました。ここで通したのは,名古屋駅から只見線を経由した大宮駅までの連続1と大宮駅から名古屋駅までの連続2,そして,変更したばかりの浦佐駅から東京駅までの上越新幹線の特急券の3枚でした。ということで,自動改札機を通り,ホームに行ってみたのですが,ホームには売店すらありませんでした。私は困りました。新幹線が来る時間までに,ホームにあると思っていた売店で駅弁を買うか,何か昼食をとるつもりでいたからです。
 浦佐駅の2階にはかろうじてコンビニがあることだけは確認してありました。そこで,再び,改札口で駅員さんに話をして外に出してもらい,コンビニで昼食を買い,それを待合室で食べてから,今度は,自動改札機ではなく,改札口からホームに入れてもらいました。こんなことができるのも,私以外に乗客がまったくいなかったからに違いありません。また,駅員さんといっても,若い男性と女性のふたりだけでした。
 ホームは,相変らず閑散としていて,この駅から列車に乗るのは2人から3人でした。
 やがて,ホームに滑り込んだ「とき」318号に乗りこみました。憧れだった「とき」,いい名前です。車内は,思った以上に乗客が多く,空席はほとんどありませんでした。

 上越新幹線は,三国峠を通る長いトンネルを抜けると,すっかり景色が変わります。まるで川端康成「雪国」の世界です。それまでは真っ白だった風景は一変して緑だらけとなり,雪に覆われた只見線が夢のように思えました。まもなく人だらけの東京駅に着きました。乗客が私ひとりの浦佐駅も日本なら何万人もいるような東京駅もまた日本です。信じられません。外国人でごった返すみどりの窓口で並んで,やっとのこと東京駅から名古屋駅までの座席指定券を変更してもらい,午後5時前には帰宅しました。
 予想をはるかに超えた楽しい旅は,こうして終わりました。
 もし,1日,日程が異なっていれば,大雪で,只見線に乗ることはかなわず,帰ることすらできたかどうか。いつもながら幸運でした。

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 午前9時30分,定刻に只見駅を出発しました。只見線の旅もあと1時間ほどで終着の小出駅です。
 只見線は,会津川口駅から只見駅までがもっとも風光明媚なところで,この先はたいしたことはないと思っていたのですが,最後の見どころ? がこのあとにありました。
 前回書いたように,只見駅を過ぎると,並走する国道252号線は,六十里越えという難所を迎え,冬の間は雪が深く通行できません。しかし,只見線は,3,712メートルの田子倉トンネルとそれに続く6,359メートルの六十里越トンネルというふたつの長いトンネルが掘られているので,運行ができるのです。

 このように,只見線は,只見駅を過ぎると長いトンネルに入るので,次の大白川駅までの30分間,全く駅がありません。しかし,かつて,田子倉トンネルの中に田子倉駅がありました。ただし,ほとんど乗客がなく,2001年(平成13年)から冬期間は全列車が通過となり,2013年(平成25年)に駅は廃止されてしまいました。
 只見駅で乗り込んだ車掌さんが,このふたつのトンネルと田子倉駅についての案内放送をしました。 勉強不足の私は,それがかなりの見どころであることすら知らなかったので,「猫に小判」「豚に真珠」「馬の耳に念仏」状態だったのですが,マニアには見たくてたまらないところだったに違いありません。
 今は廃墟となった田子倉駅をあっという間に列車は駆け抜けました。心構えがなかった私は,肉眼で駅を確認することはできましたが,残念ながら写真を撮ることはできませんでした。また,只見駅を過ぎると,トンネルのために,運転席の横のそれまで開いていたシェードも閉められてしまい,前面の展望がきかなくなりました。トンネルの中の駅,停車まではむりとしても,徐行運転するサービスがあってもいいなあ。

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 田子倉駅を中心にした半径2キロメートルには,現在はだれも住んでいません。
 田子倉駅は,線路の北側に単式ホーム1面1線を有する地上駅で,列車が大白川方の六十里越トンネルと只見方の田子倉トンネルの間で少しだけ外に出る地点に位置していました。ホームは南側の田子倉湖と北側の崖に挟まれた低い場所にあり,スノーシェッドに覆われていました。
 ホームの中ほどから北側に階段があって,これを登ると,駅舎を通って崖の上を走る国道に出ることができるようになってしました。駅舎の内部には階段と通路のみがあったということです。駅にまだ列車が停車していたころの乗車人員は,1日平均で,2000年3人,2001年3人,2002年0人,2003年3人,20040人でした。
 現在も駅舎は現存していますが,駅舎内に入ることはできません。
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 六十里越えは,新潟県魚沼市と福島県南会津郡只見町との間にある峠で,最高点の標高は863メートルです。六十里越えの名の由来は,実際の距離は六里,約24キロメートルでありながら,険しさゆえに1里が10里にも感じられるほど余りに急峻かつ長大な山道であること,中世まで東日本においては1里は500メートルであったことなどの説があります。
 新潟県中越地方と福島県会津地方南部を結ぶ街道であるものの,国内有数の豪雪地帯で,かつ,雪崩れや落石の危険性が高い箇所を経由することから,冬季は通行できない難所です。
 新潟県中越地方と只見町を結ぶ街道は,六十里越えのほかには,約15キロメートル北東側の三条市と只見町の間に位置する八十里越えがあるのですが,そちらの方が更に難所で,国道289号などの国県道は自動車の通行すら不能区間です。
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 なぜか,それまでは何ともなかったのに,トンネルを越えたあたりから列車の窓ガラスが曇って,窓を拭かないと写真が撮れなくなりました。
 この難所を抜けると民家が見えてきて,やっと只見駅の次の大白川駅に到着しました。ここで,年配の女性がひとり乗車してきたのにはびっくりしました。我々8人に,乗客がひとり増えたのです。
 その先,列車は民家の中を抜けて行って,入広瀬駅,上条駅,越後須原駅,魚沼田中駅,越後広瀬駅,薮神駅と停車して,やがて,小出駅に到着しました。
 午前10時41分,私は念願の只見線を走破しました。全く退屈しない4時間半でした。

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 私の乗った只見線の列車は,午前6時8分定刻に会津若松駅を出発して,吹雪の中を遅れることもなく,ついに,午前9時7分に只見駅に到着しました。
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 秘境ともいえる日本の原風景を残していて,「自然首都」をキャッチフレーズにしている只見町(ただみまち)は,福島県の最西端に位置し,日本有数の豪雪地帯です。また,只見川には水力発電のための「大鳥ダム」「田子倉ダム」「只見ダム」などがあって,広大な人造湖を造りだしています。特に「田子倉ダム」は貯水量が5億トンと国内屈指の規模を誇り,周囲の山々と織りなすコントラストは山紫水明の地として観光の拠点です。
 町の面積は747.54平方キロメートルで,東京23区よりも広大な面積がありますが,その9割が山林であり,ブナ,ミズナラ,トチノキなどの広葉樹林帯です。
 源流を尾瀬とする只見川の流域に集落と農地が集まっています。産業は農業と観光が主で,特に農業では,恵まれた自然条件による米作りと,昼夜の寒暖の差を利用したトマトと花弁栽培が盛んです。
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 只見線の主要駅である只見駅は町の中心部にあって,昭和40年代後半まで蒸気機関車C11による貨物列車が運行されていたことから,駅構内には蒸気機関車の進行方向を切り替える人力による転車台が残されていてマニアの羨望となっています。また,臨時運行される観光列車の折り返し地点ともなっています。
 2011年(平成23年)の夏に発生した集中豪雨によって,只見駅から会津川口駅までの区間が営業休止となり,代行バスが運行されました。このまま廃線になるのではないかと危惧されましたが,2022年(令和4年)秋,会津川口駅と只見駅間が復旧し,全線運転再開しました。
 只見線が存続できるのは,只見線と並行して走る国道252号が,福島県と新潟県との県境付近の六十里越前後の区間で,冬の間は豪雪によって閉鎖となるため,只見線が新潟県に抜ける唯一の交通手段となることにもよります。

 列車は,只見駅で午前9時7分から9時30分まで23分間停車します。
 8人の乗客は外に出ました。私は,駅舎から外に出てみました。そのとき,列車が来たのを見計らって,只見駅前から,会津田島駅まで行くバスが出発しました。しかし,だれも乗る人はいませんでした。
 このバスは商工会議所が運航しているとかで,おそらく観光シーズンであれば,今回の私の旅のように,小出駅まで行って上越新幹線で東京へ戻らずとも,只見駅で下車して,そこからバスを利用して会津田島駅まで行って,大内宿や湯之上温泉などを経由して,会津鉄道,東武鉄道と乗り継いで,東京に戻るのが,絶好の観光コースとなることでしょう。
 駅前には家々があったのですが,この雪では,だからといって,どこかに遠出する気にもならず,また,行ってみたからといっても,何かがありそうに思えませんでした。
 私は,特にすることも行くところもないので,再び,駅の中に戻って,雪と列車の美しい風景を写真に収めていました。他の乗客も時間を持て余していたので,持っていたお菓子を交換し合ったりして,交流が生まれました。
 この駅で運転手が交代しました。さらに,これまではワンマンカーでしたが,只見駅で車掌さんも乗車しました。乗り込んできたのは,すごく元気のよい車掌さんでした。

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 私は,2019年11月22日,東武鉄道の「リバティ会津」という特急で会津田島駅まで行って,会津田島駅から湯野上温泉駅まで会津鉄道に乗り換え,さらに湯野上温泉駅から乗り合いバスで大内宿まで行ったことがあります。そのときは,大内宿に行きたかっただけだったのですが,その後,知識が増すと,今回行ったところと,大内宿の位置関係を知りたくなりました。
 それが今日の地図ですが。異なる路線を走ると全く無関係に思えた場所が糸のようにつながっていくのが不思議です。どこも,とてもいい印象が残る場所なので,また行ってみたいと思います。私は人の多い観光地よりも,こうしたのどかなところのほうが好きなのです。
 私には東北というのはものすごく遠く感じるのですが,東京からなら,日帰りコースだったりしますし,東京と名古屋は1時間30分程度だから,名古屋からでも日帰りで行くことができると考えると不思議な気がします。

 会津川口駅から只見駅までが只見線でもっとも景観のよい場所であり,それは只見川と自然との調和からくるものであったから,自然が猛威を振るい,調和が崩れれば,橋梁は破壊され,7年間も只見線が切断されてしまった場所ともなりました。
 本名駅の次が会津越川(こすがわ)駅,そして,会津越川駅の次が会津横田駅でした。このあたりはのどかな田園地帯がひろがっていましたが,冬の間は雪に覆われて,生活するのはたいへんだろうなあ,と思いました。
 会津横田駅を過ぎると,列車は第七只見川橋梁を渡りました。運転席のとなりの窓から橋梁の姿を見ることができました。第七只見川橋梁は,以前は上路式でしたが,水害で橋梁が全面流失してしまい,下路トラス桁に変わりました。橋の下を流れる只見川と,下流に見える集落や水田などの美しい自然風景が広がっているところで,並行してかかる四季彩橋から第七只見川橋梁見ることができるということです。
 第七只見川橋梁を越えると,会津大塩駅に着きました。会津大塩駅は無人駅で,のどかな里山の景色の中にぽつんと建つ素朴なたたずまいを見せます。春はさまざまな花々が周囲を彩り温かみのある景色を演出するそうです。

 会津大塩駅の次が会津塩沢駅です。会津塩沢駅から15分くらい歩くと,河井継之助記念館があります。河井継之助記は,は,戊辰戦争で長岡から会津へと向かう際に塩沢で亡くなった長岡藩家老・河井継之助を紹介する資料館で,地元の人の思いで,残された終焉の間が館内に移築されています。冬場は閉館しています。
 また,只見川の対岸にある十島集落は,小島のような形で,集落にある神社がビュースポットとなっていて,そこから眺める只見川と塩沢集落の景観が美しく,撮影ポイントとなっているそうです。
 会津塩沢駅を過ぎると,列車は第八只見川橋梁を渡ります。このあたりからだんたんと空が広くなり,晴れていれば,只見川の川面に空の美しい青が映り込むということです。

 次の会津蒲生駅を過ぎると,北側に,天気がよければ,蒲生岳がみえるそうです。蒲生岳は只見川から一気にせり上がるその山容の鋭さから「会津のマッターホルン」とも称される,標高828メートルの独立峰で,悠々とした姿はあたりののどかな風景と相まって印象的です。
 叶津川(かのうづがわ)橋梁は会津蒲生駅から只見駅間にかけて集落を貫く叶津川に架かる全長372メートルの橋梁。半径250メートルの曲線を描くのが特徴で,時速30キロメートルの速度制限があるカーブは,その美しさで写真愛好家たちに知られています。
 午前9時7分,列車は只見駅に着きました。
 只見駅出発が午前9時30分で,23分もの停車時間がありました。

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 午前8時5分,列車は会津川口駅に到着しました。
 反対側のホームには,小出駅午前5時36分発の2両編成の列車が午前8時2分にすでに到着していました。この列車は,会津川口駅で39分停車します。私の乗っている列車は会津川口駅を午前8時15分に出発するので,停車時間は10分でした。
 只見線全線に乗る,といっても,単に列車に乗っているだけかと思っていたのですが,こうして,会津川口駅と,その先の只見駅での長い停車時間があるので,ホームに出て写真を撮ったり,駅舎を見ることもできるのでした。
 あたりは凄い雪で,これもまた,美しく,最高でした。

 会津川口駅は,金山町の中心にあります。金山町は,金銀の鉱山が多かったことに由来するといわれ,江戸時代は羽州街道の宿場町として発展しました。もとは秋田の小野寺義道の領地でしたが,やがて最上義光の領地となりました。
 おいしいものが食べられたり,景色がすばらしかったり,温泉があったりと,歴史や名所などを調べて行けば奥が深いと思うのですが,あまりまとまった情報がありません。もったいない話です。ぜひ,今度は時間を十分にとって行ってみたいところです。
 この日は,10分の停車時間だったので,駅舎まで行ってみました。

 さて,列車は出発して,只見駅に向かって進んでいきます。
 会津川口駅から只見駅までの区間の橋梁がすべて流されてしまって,7年もの間,只見線は不通となっていましたが,今,こうして乗ることができるのがうれしいことです。
 まず超えたのが第五只見川橋梁でした。会津川口駅と本名駅間の阿賀野川水系只見川に架かる全長193.28メートルの橋梁です。2012年(平成23年)7月の新潟・福島豪雨被災後で,只見川の増水・氾濫によってこの橋梁は川口方プレートガーダー桁1連が流失しましたが,この付近の只見川は川幅がやや広く,かつ下路式トラス橋のため,トラス桁部分は冠水,流失する事態を免れました。

 列車が,次の只見川夏井川橋梁をこえると,本名駅に着きました
 本名駅を出ると,大きなダムが見えてきます。これは,上端が旧国道252号線になっている全国でも珍しい形状をもつダムで,太平洋戦争終戦後,GHQとの敗戦処理の折衝を矢面に立って行った白洲次郎氏が東北電力初代会長時代の1954年(昭和29年)に完成した,東北電力の発電専用のダムです。
 列車が第六只見川橋梁を渡る瞬間,北西側にその巨大な姿を目の前に見ることができますが,ダム下流の金山町から見ると,ダムと橋梁の景観がすばらしく,ゲート巻上機建屋から見下ろす下流の景色も絶景ということです。

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 私が乗っている只見線,今日は,会津宮下駅から会津川口駅までです。
 会津宮下駅を出ると,車窓から見えるのは巨大な東北電力宮下ダムで,対岸を国道252号線が走っています。
 ダム湖を過ぎると,列車は第三只見川橋梁を渡り,それまで進行方向右手に見えた只見川が左手に変わるのですが,第三只見川橋梁に差し掛かる瞬間,一気に視界が開け,ゆったりと流れる只見川と木々の緑が織りなす景色が車窓いっぱいに広がり,絶景となることで知られています。今は真冬なので,美しい雪景色が見られましたが,紅葉の秋はため息の出る美しさ,ということです。

 会津宮下駅の次は早戸駅です。早戸駅で下車すると,霧幻峡の渡し(むげんきょうのわたし)の乗り場に行くことができます。霧幻峡の渡しの運行は4月下旬から11月中旬までであり,予約が必要ということなので,今回はムリですが, 情緒ある「手漕ぎ渡し舟」に乗るときだけ味わうことができる只見川の川面から眺める四季折々の風景は,幻想的な川霧に包まれながら時空を超えた日本の原風景に出会えるということで人気です。
 列車の車窓からはそこまでは望めませんが,それでも,雄大な只見川を見ることができました。

 会津水沼駅,会津中川駅と過ぎました。 
 やがて,先ほどまでは,列車はずっと山の中だったのに,次第に民家が見られるようになってきました。これが金山町の集落です。
 只見線からも見ることができる,かねやまふれあい広場は,只見線の絶景スポットとして知られ,水面に迫る集落,川沿いを走る只見線が生み出す風景はすばらしく,特に,夏の早朝や夕方,雨上がりの川霧に沈む集落や冬の雪景色の中を走る列車の風景は幻想的,ということです。また,会津川口駅からほど近くの只見川の水面の先に広がる大志集落を望む風景は「大志俯瞰」(おおしふかん)とよばれ,晴天時は,山々と集落が只見川に反射する美しい水鏡の風景が見られるところだそうです。
 そんな場所を走りながら,列車は会津川口駅に到着しました。

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 只見線に乗車して1時間ほど経ちました。乗っているのは,カナダから来たという夫婦連れと2人の息子たち,私と同年代の夫婦連れ,そして,ひとり旅の若い女性,そして私の8人。列車はワンマンカーなので,運転手さんがひとり。とてものどかでした。各駅停車であっても,こんな雪の中,途中でだれも乗ってきませんし,降りる気にもなりません。
 紅葉の時期は通勤ラッシュ並みというから,幸運でした。旅はこうでなければいけません。

 会津柳津駅で停車中,窓から外を見ると,「赤ペコ発祥の地」という看板が見えました。
 会津柳津駅のある柳津町には,日本三所の虚空蔵菩薩のひとつ福満虚空藏菩薩を本尊として祀る圓藏寺があって,この寺が「赤ペコ発祥の地」です。
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 今から400年ほど前の1611年(慶長16年)に会津地方を襲った大地震後の1617年(元和3年)本堂である虚空藏堂を厳上に建てるとき,大材を厳上に運ぶのに大変困り果てていたところ,どこからともなく力強そうな赤毛の牛の群れが現れて,大材運搬に苦労していた黒毛の牛を助け,本堂である虚空藏堂を建てることができたという伝説からきたものです。
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 圓藏寺は,只見線の車内からもちらりと見ることができました。
 また,月光寺という寺もあるそうです。月光寺は圓藏寺と深い関係をもつ寺で,そそり立つ岩場を伝い落ちる滝を背にして静寂の地に建つ山居寺ということです。本堂の裏側に只見線の線路が伸びていて,春には線路脇に咲く桜のトンネルを潜る列車を見ることができるというから,そのころに来てその姿を見てみたいものです。また,日本遺産「会津の三十三観音めぐり」のひとつ奥之院弁天堂という観音堂もあるようです。
 柳津町には,柳津温泉もあり,一度,ゆっくりと訪れてみたいです。

 列車は郷戸駅,滝谷駅,会津桧原駅と停車して,さらに進むと,只見川を渡りました。ここが第一只見川橋梁で,只見線の魅力を語るうえで代名詞といってよいほど有名なビュースポットです。只見川が水鏡となって風景が川面に写る姿や,水面から川霧が立ち橋梁を包む幻想的な景観が見られます。
 第一只見川橋梁を渡ると,会津西方駅があります。それを過ぎると,再び,列車は第二只見川橋梁で只見川を渡ります。会津西方駅より国道400号を会津宮下方面に400メートル進んだ場所にビュースポットがあります。このビュースポットでは,国道400号からほぼ水平な視点から橋梁を眺めることができ,特に列車が走る様子は周囲の風景と相まって美しさもひとしお,ということです。
 それを過ぎると,国道252号,只見線,県道237号と3つのアーチ橋を一度に重ねて見られるスポットがあって,「宮下アーチ三兄弟」とよばれ親しまれているそうです。
 このように,只見線は,乗ってよし,見てよし,なので,次回はレンタカーでも借りて,外から只見線をみるのも悪くないなあ,と思いました。

 そして,列車は午前7時30分過ぎ,会津宮下駅に到着しました。ここで反対側から来る列車とすれ違うので,しばらく停車しました。写真を撮ろうと,乗客はホームに降りました。しばらく待っていると,列車がやってきました。この列車は,午前7時6分に会津川口駅を出発して,午前8時58分に会津若松駅に到着するものです。
 なかなかの景色でした。

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 ついに,念願だった只見線に乗車できました。心配だった雪は降り続いていましたが,ともかく列車は動きました。あとは,雪が強くなって途中で止まらないことを祈るだけでした。
 シーズンオフを狙ったのが功を奏して,ガラガラでした。また,雪が幸いして,雪景色の只見線という最高の状況となりました。
  ・・
 私は,この日,只見線で小出駅に到着後,午後6時31分発の上越線に乗って浦佐駅午後6時40分着。そして,浦佐駅午後6時53分発上越新幹線「とき」342号で午後8時12分東京駅着。さらに,東京駅午後8時30分発東海道新幹線「ひかり」665号で午後10時23分名古屋駅着の予定でした。「のぞみ」でなく「ひかり」なのは,ジパング倶楽部を利用していたからです。
 そこで,1日3本しか全線を走る列車のない只見線,私が乗ったのは,会津若松駅午前6時9分発ですが,次の午後1時5分発がJR小出駅午後5時47分着なので,最悪でも,これに乗る必要があるわけでした。

 来る前,只見線に乗っているだけではなく,1度は途中下車して,沿線でどんな観光をしようか考えました。そして浮かんだのが次の①②③の案でした。
  ・・・・・・
 案① 時刻表とにらめっこをした結果,今乗っている列車は会津川口駅午前8時5分着なので,この駅で午前8時41分発か,もしくは,その次の午後0時29分発の逆向きの列車に乗り換えて会津柳津駅まで戻って会津柳津駅で途中下車すれば,会津若松駅午後1時5分発の列車が会津柳津駅午後2時5分に来るので,これに乗ることが可能。
 案② あるいは,会津川口駅で7時間24分滞在すれば,午後3時29分発に乗れる。
 案③ また,只見駅でも同様に7時間24分滞在すれば,午後4時31分発に乗れる。
  ・・・・・・
 その程度の考えでした。
 しかし,実際乗ってみたところ,今乗っている列車でも,会津川口駅での停車時間は10分あり,只見駅では23分あるので,停車時間に列車から降りて,外から写真も撮れるし,駅の構内の売店に行くこともできることがわかりました。また,この雪では,会津川口駅や只見駅で7時間24分滞在しても,紅葉の時期ならともかく,雪の中どこへ行くの? と思ったので,結局,①②③の案は廃案となり,このままJR小出駅まで乗りつくすことにしました。

 さて,列車は進み,会津坂下(あいずばんげ)という駅に着きました。単線の只見線は,この駅で,反対方向からの列車とすれ違います。単線の只見線,すれ違うのは,ここ会津坂下駅と会津宮下駅,そして,会津川口駅の3つです。つまり,この3つの駅ならば,反対方向の列車に乗り換えて,JR会津若松駅に戻れるということになります。
 会津坂下駅で反対側からやってきた列車は,2両編成でしたが,車内は高校生で一杯でした。どうやら,会津若松市内の高校に通う只見線沿線に住む高校生たちのようでした。それとは反対に,私の乗った列車に乗っていた2人の高校生は,会津坂下駅で降りていきました。地図で調べると,ここには会津農林高等学校があったので,どうやら,そこの生徒のようでした。
 と,このあたりまで,只見線は会津若松市街地を通っているので,高校生の通勤手段となっているようです。
 会津坂下駅を過ぎると,空が白んできました。列車は,会津若松市街地を過ぎ,田園地帯に入りました。窓から外を見ると,一面の銀世界でした。
 やがて,塔寺駅を過ぎて,次が会津坂本駅,そして,会津柳津駅と進むと,只見線は只見川に沿った山の中に入り,それとともに雪も強くなりました。
 いよいよ,ここから只見線の景勝地です。

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 2024年1月15日月曜日。念願だった只見線に乗ります。
 昨日,会津若松駅で「明日雪だとどうなりますか?」と聞くと「そのときはそのときにならないとわからない」と言われました。運次第だな,と思いました。会津若松駅周辺にはコンビニすらなかったのですが,近くにスーパーマーケットがあったので,昨晩の夕食後,翌日の朝食を買いました。午前6時8分発の只見線に乗るので,東横インで朝食は食べられません。
 午前4時30分に起床して,部屋で朝食を食べ,支度をして,午前5時30分にチェックアウトしました。昨日はとても天気がよかったのですが,朝はすでに雪景色でした。しかし,どうやら只見線は動いているようでした。

 私は,旅に出る前は,先入観ができるといやなのでまったく見ないのですが,帰宅してからYouTubeを見ると,秋の行楽シーズンに満員の只見線に乗った,というようなものがたくさんありました。
 午前5時45分に只見線の列車がホームに入ってくるので,混雑しているときは,早くホームに行って並ばないと座ることすらできないとありましたが,このときの私はそんなことは知らないし,この寒さではホームで待つのもいやだったので,午前6時まで余裕で駅の構内の待合室にいました。午前6時になって改札を通ったのですが,すでに列車はホームにいました。しかし,がらがらでした。
 最終的に,この日,只見線をJR小出駅まで乗りつくしたのは私も含めてわずか8人で,始発の会津若松駅で乗っていたのは,この8人に加えて,途中で下車した高校生が2人だけでした。
 10人の乗客を乗せた只見線は,定刻に出発しました。
 日の出はまだ1時間先のことで,外は真っ暗だったので,風景をみることはできませんでしたが,只見線で景色のよいといわれる場所は,夜が明ける1時間後に到着する会津標津駅から先のことです。

 ところで,この旅の1週間後。1月24日に寒波が襲来して,只見線は不通になりました。
 私は,もし,只見線が不通だったときは,磐越西線で遠回りをして新潟駅まで行こうとぼんやり考えていましたが,磐越西線もまた,雪だとダイヤが乱れるようです。
 それに加えて,これは想定外のことでしたが,1月23日はJR東京駅とJR大宮駅間で架線事故が起きて,東北新幹線も上越新館も止まってしまいました。もし,私が遭遇していたら,今回の旅は不可能でした。
 いつものこと,今回も私は強運でした。

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 この日は鶴ヶ城のボランティアガイドで偶然一緒になった女性と同じコースで観光をすることになって,結局,飯盛山ではずっと一緒にまわることになりました。レンタサイクルにしなったことでいい出会いができました。
 飯盛山で,会津若松市の観光も終わり。あとはまちなか周遊バスで会津若松駅に戻るだけでしたが,飯盛山で時間をとりすぎて,まちなな周遊バスの時刻に間に合いませんでした。どうしようかと考えて,おしゃべりをしながら,会津若松駅まで歩くことにしました。およそ30分の道のりでした。

 会津若松駅近くに七日町があります。来るとき,まちなな周遊バスの車内で見て,帰りに寄ろうと思っていました。私はそこで夕食をとることにしていましたが,その女性は,七日町を少し見てから,今日の列車で帰るということだったので,七日町まで行って,そこでお別れすることになりました。
 七日町には古い家並みがあって,歩いて楽しいところです。
  ・・・・・・
 大正浪漫の雰囲気のただよう七日町通りは,藩政時代には会津五街道のうち,日光,越後,米沢街道の主要道路が通り,城下の西の玄関口として問屋や旅籠,料理屋が軒を連ねていました。
 明治時代以降も重要な通りとして繁栄を極め,昭和30年代頃までは,会津一の繁華街としてにぎわっていました。その後,一度衰退したこの通りは現在大正浪漫を感じられる通りとして甦り,観光客に人気となっています。
  ・・・・・・
 七日町で最も気になった建物が福西本店でした。
  ・・・・・・
 福西本店は,明治時代から大正時代にかけて繁栄した会津若松の商人である福西家が築いた蔵と商家の建築物です。特に,野口英世青春通りに面した店蔵,仏間蔵,炭蔵の外壁は,一般的な白漆喰ではなく手の込んだ黒漆喰で作られています。母屋には広々とした大広間や座敷蔵などがあります。
 さらに,庭を見渡す東南の一角には二階建ての数寄屋があり,二階は客室として利用されています。
  ・・・・・・
 内部を見学できるということでしたが,もう時間が遅く,閉まっていました。また来いよ,と言われたと解釈しました。

 その後,当てもなく歩いていて,神明通りの東裏,興徳寺の本堂東側に見つけたのは,1590年(天正18年)から会津藩の藩主であった蒲生氏郷の墓でした。この墓は,会津史談会が1953年(昭和28年)に建てた,空風火水地の五文字を刻した五輪塔で,京都大徳寺の本墓から分骨したものと伝えられます。
 また,そのあたりを,野口英世青春通りといい,野口英世が青春時代を過ごし,會陽医院に書生として住み込みで働きながら約3年半にわたって医学の基礎を学んだ場所。洗礼の地は「野口英世初恋の地」ともよばれ,初恋の人・山内ヨネ子と出会ったところだそうです。
 野口英世は,3歳のとき火傷を負った左手を手術した會陽医院の跡が,現在,アンティークカフェで,その2階に野口英世青春館という博物館となっていたので,見学しました。
 さらに歩いていくと,「椿餅」がウリの伊勢屋というお菓子家さんがあって,実にいい外観をしていたので,写真に収めました。「椿餅」は「白虎隊も食べた」といわれている由緒あるお菓子で,創業の地が鶴ヶ城の南口に面していて,城の北面の坂が「椿坂」とよばれていたのが名前の由来です。また,伊勢屋という屋号は,伊勢の松坂城主だった蒲生氏郷が1590年に会津に移封されたときに伝えられた技術を基に創業したからだそうです。

 結局,七日町には,夕食をとる適当な店はなく,会津若松駅まで来てしまったので,駅前にあった寧々家という店でおいしく酒を呑みながら夕食をとりました,
 これで,会津若松市の観光は終わりです。今回は時間がなかったので,ひととおり歩いただけでしたが,会津若松市はとても雰囲気のいい町だったので,また来ようと思いました。
 さて,いよいよ明日は只見線乗車です。空を見上げると快晴で,木星に接近した月がきれいでしたが,明日の天気予報は雪。果たして,列車は動くのか?

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 会津武家屋敷で,再び,鶴ヶ城のボランティアガイドを一緒に聞いた女性と会いました。旅は道連れ,そして,目的地が同じなので,ここから次に行く飯盛山へ,同じまちなか周遊バスに乗りました。こうして,奇しくも楽しい旅となりました。
 飯盛山は標高314メートル,会津の城下町を一望に見渡すことのできる小高い山で,飯を盛ったような形から名づけられました。讃岐の飯盛山と共通の山だと思った日本武尊(ヤマトタケル)の魂が白鳥になり舞い降りたなどの神話も残る信仰の山ですが,白虎隊十九士自刃の地として知られています。
  ・・・・・・
 1868年(明治元年)の会津戦争は,薩摩藩,土佐藩を中心とする明治新政府軍と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府軍との間で行われた戦いです。
 京都御所警備という任務に就いていたのにかかわらず,情報軽視や身分が硬直していた会津藩は,武士や地主以外の領民軽視で戦争の準備も軍制改革も遅かったことに加えて,和平主張する者を排斥したことから,藩内強硬派によって,悲惨な戦争が起きてしまう結果となりました。
 会津藩では,年齢ごとに,白虎隊,朱雀隊,玄武隊,青龍隊,幼少隊などが組織されました。藩士子弟の少年たちで構成される白虎隊の士中二番隊は戸ノ口原の戦いにおいて敗走し,飯盛山に逃れましたが,鶴ヶ城周辺の城下町が燃えているのを城が燃えているのと勘違いをして,敵に捕まり生き恥を晒すよりはと自刃してしまいました。
  ・・・・・・

 ハスを降りて,飯盛山への登山口まで来ました。登山口からは急な石段がありました。動く坂道「スロープコンベア」というエスカレータがあるということでしたが,あいにくこの日は運休だったので,雪が積もってすべりやすい階段を手すりを頼りに苦労して登りました。
 飯盛山は観光地となっていて,多くの土産物屋さんがあったのですが,今はシーズンオフで,閉じているのか,営業していてもお客さんがいないか,さびれ感満載でした。
 どうにか山頂に到着しました。山頂には,白虎隊十九士の墓,各地で戦死した三十一士の墓があり,自決した場所には慰霊碑がありました。自決した場所から鶴ケ城を見ることができるということでしたが,目を凝らしてもなかなか確認できず,自宅に戻って写真を見て,やっと判明しました。
 帰り道,中腹にあった栄螺堂(さざえどう)へ迂回しました。
  ・・・・・・
 日本でも珍しい木造建築物である栄螺堂は,1796年(寛政8年)に建立された,高さ16.5メートル,六角三層のお堂で,正式名称を「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)といいます。
 もともと,飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)という寺があり,その住職であった僧・郁堂(いくどう)の考案した建物だそうです。その独特な2重螺旋のスロープに沿って,昔は西国三十三観音像が安置されていて,参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていましたが,明治新政府による廃仏毀釈に伴い,明治以降は,養老の滝の話などの,8代藩主・松平容敬が編纂した会津藩の道徳教本であった皇朝二十四孝の絵額が掲げられています。また,上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造で,たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式です。
  ・・・・・・
 なかなか興味深い建物でした。

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 御薬園を出て,次の見どころは会津武家屋敷でした。さすがにそこまでは歩くのがたいへんだと,まちなか周遊バスに乗ることにしたのですが,地図を見ると,その間に,近藤勇の墓がある天寧寺とか書かれてあったので,興味が湧いて,結局,歩き通してしまいました。
 これでは1日乗り放題のチケットを購入した意味がありません。いや,さまざまな施設に割引で入れたので,意味がなかったわけでもないのですが…。
  ・・
 余談ですが,いろいろなところで,割引だとかポイントだとかがあっても,それをどう使うか四苦八苦しているだけではないか,とこのごろ思うようになりました。そして,苦労ばかりが多くなって,結局,いくら得をしたのか? と思うと,何だか馬鹿らしくなってきました。所詮は数百円から多くても数千円くらいのものです。死んだあとに残るお金ならあってもなくても同じ。ならば,そんなことに関わっても,わずらわしいだけであまり意味がないのではないか? だから,簡単に割引になるものならともかく,工夫や知恵を絞ってまで,割引の恩恵の預かろうとするのは本末転倒…。
 閑話休題。

 近藤勇の墓に至るのは,「奴郎ヶ前」(やろうがまえ)という場所にあった狭い坂道で,かつ,かなり距離があったので,結局行くのをやめました。「奴郎ヶ前」には案内板があって,それによると,このあたりは,昔,処刑場があり、罪人が最後の食事として田楽と清水が与えられた場所だった,とありました。柵を意味する矢来の前だったことから「矢来の前」。これが転じて「奴郎ヶ前」と変化したといわれています。
 現在,この場所には会津三大茶屋のひとつである「奴郎ヶ前の田楽」を提供する「お秀茶屋」がありました。四方を山で囲まれた盆地である会津。峠には茶店ができ,その茶屋の料理が名物になりました。それらを三大茶屋といいます。
  ・・・・・・
 滝沢街道にある「強清水(こわしみず)の天ぷら」
 日光街道にある「一ノ堰(いちのせき)の棒たら」
 東山街道にある「奴郎ヶ前の田楽」
  ・・・・・・

 どうして,この場所に近藤勇の墓が? それはつぎのような理由からです。
  ・・・・・・
 28歳で京都守護職を拝命した9代藩主・松平容保(まつだいらかたもり)は,江戸帰還を命ぜられた浪士組のうち京都残留を希望する近藤勇らを御預として,のちに新選組となった「壬生浪士組」を誕生させました。
 新選組は,戊辰戦争に参戦するも敗北を繰り返し,近藤勇が西軍へ投降してもなお抵抗し,宇都宮から会津へと転戦。会津では斎藤一ら一部の隊士が如来堂において西軍に急襲され全滅したといわれます。
 近藤勇は東京板橋で斬首され,京都の三条河原において罪文とともに晒し首にされましたが,土方歳三が近藤勇のために建立したといわれる墓がこれです。土方歳三は,足の治療を続けている間,毎日この現場に来て指図し,建立させたそうです。また,近藤勇の戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」は,松平容保が贈ったものであるといいます。
 墓に葬られているのは,京都の三条河原から新選組隊士が奪ってきた首であるとも,また遺髪であるとも。
  ・・・・・・

 奴郎ヶ前を過ぎ,さらに歩くと,会津武家屋敷に到着しました。今回もまた,歩き通してしまいました。私は,会津武家屋敷というのは,江戸時代の武家屋敷が残る風情あるところだと勘違いをしていました。実際は,日新館藩校同様,会津藩家老・西郷頼母(さいごうたのも)の屋敷を復元して見せる観光用の施設で,土産物屋などが併設されていました。本来の西郷頼母邸はこの場所ではなく,鶴ヶ城正面の追手町にありました。
  ・・・・・・
 西郷頼母は,幕末の会津藩の家老です。西郷家はもともとは保科姓で,信州高遠藩の藩主だった保科正直の弟三河守正勝からはじまり,のちに会津藩主となった保科家の分流です。
 西郷頼母は,田中土佐と共に松平容保に京都守護職辞退を進言したので,松平容保から怒りを買い,家老職を解任されました。戊辰戦争が起きると家老職に復帰し,白河口総督として戦いますが,敗れ,会津へ戻り,その後,長男を連れて会津から出ました。新政府軍が城下町に乱入したとき,家族ら21人は邸宅で辞世の句を残して自決しました。西郷頼母自身は,紆余曲折ののち,明治時代は福島県伊達郡の霊山神社で神職を務め,辞職後は会津若松に戻り,1903年(明治36年)に会津若松の十軒長屋で死去しました。
  ・・・・・・

 会津若松市の観光で,最後に残ったのは白虎隊で有名な飯盛山でした。そこまではさすがに遠く,まちなか周遊バスに乗ることにしました。しかし,まちなか周遊バスが来るには,まだずいぶん時間があったので,近くにあると思われた松平家墓所まで行ってみることにしました。
 松平家墓所は,入口まではさほどの距離でなかったのですが,そこからが大変でした。雪が残る山の中へ滑りやすい苔むした石段を登り,到着までは片道20分以上かかるとありました。また,熊注意,ともありました。さすがに冬は冬眠中だから熊は出ないだろうと思ったのですが,あまりの遠さにどうしようかと思っていたところ,途中にも墓らしきものがあったので,それだけを見て引き返しました。
 帰ってから調べてみると次のようでした。
  ・・・・・・
 江戸時代,墓所の場所全体が院内山とよばれていたので,松平家の墓所は「院内御廟」(いんないごびょう)といいます。
 「院内御廟」には,2代藩主・保科正経から9代藩主・松平容保までの歴代藩主とその側室や子どもが埋葬されています。ちなみに,初代・保科正之の墓所は猪苗代町の土津(はにつ)神社にあります。
 1657年(明暦3年)保科正之の子ども保科正頼が18歳で早世し,その埋葬場所として,南向きの山でよい清水が出るためこの場所が選ばれました。その後,2代藩主が葬られ,3代藩主も院内山に埋葬されることが決定して以来,歴代の藩主の埋葬地として歴史を刻むこととなりました。
 墓所は15ヘクタールにもおよび,荘厳な景観をつくりだしているそうです。
  ・・・・・・
 結局,私が行くことができたのは,保科正頼の墓までだったのです。

 会津武家屋敷の先に,今回は行くことができなかった,天平年間に開湯した東山温泉がありました。東山温泉には,江戸時代,会津藩の浴場と保養所があり,負傷した土方歳三はここで湯治しました。明治以降は,この風情に魅せられた文人歌人も多く,与謝野晶子や竹久夢二などが訪れ,数々の作品を残したということです。いつか,ゆっくり行ってみたいものです。
  ・・・・・
 湯あみしてやがて出じとわが思ふ会津の庄のひがし山かな
 半身を湯より出して見まもりぬ白沫たてる山あひの川
 自らを清しとすれど猶あかず会津の山の湯を愛でて浴ぶ
 湯の川の第一橋を我がこゆる秋の夕のひがし山かな
   「青海波」与謝野晶子
  ・・・・・・
 ただし,東山温泉は,様々な問題で,現在は,廃墟化しているホテルもあるということです。日本の温泉地の多くは,同じような問題を抱えています。

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 日新館天文台跡は鶴ヶ城の西にあって,こんなマニアックな場所はほとんどの人にはまったく興味はないから,まちなか周遊バスのコースではありませんでした。そこで,その場所まで歩く必要があったのですが,こうしたはじめての町を歩くのは,とても楽しいものです。
 次に目指したのが,鶴ヶ城からは,はるか東にある御薬園(おやくえん)でした。途中からまちなか周遊バスのコースになるので,そのあたりでバスに乗ればいいかな,と思っていたものの,結局,歩き通しました。
 幸い,この日は天気もよくとても暖かでした。
 御薬園へ行く途中で見つけたのが,田中玄宰(たなかはるなか)の屋敷跡でした。田中玄宰は江戸時代後期の会津藩家老で,会津藩5代藩主・松平容頌(かたのぶ),6代藩主・松平容住(かたおき),7代藩主・松平容衆(かたひろ)に仕えた偉い人です。天明の大飢饉の窮地を乗り越えるため,殖産興業の奨励を図り,今日の会津地方の伝統産業の基礎を築くなど,高く評価されたそうです。
 そして,県道64号線沿いには,若松城の土塁が今も残っていました。

 30分程度歩いて,やっと御薬園に着きました。
 見どころということでやってきた御薬園ですが,私は御薬園が何か知りませんでした。御薬園は藩主の庭園でした。
  ・・・・・・
 約635年前,この地に住む喜助が病気で難儀していました。朝日保方(あさひやすかた)という白髪の老人が鶴の舞い降りた泉の水で喜助を介抱し,喜助はもとのからだに戻りました。喜助は疫病から救ってくれた恩人として,朝日保方を霊泉の傍らに手あつく葬り,祠をたてて朝日神社とし,霊泉の泉を鶴ケ清水と名付けたということです。この祠は今も御薬園にあります。
 1432年(永享4年),当時の10代当主・葦名盛久(あしなもりひさ)は,この地は霊地であるとして別荘を建て,16代当主・葦名盛氏(あしなもりうじ)は別荘を復興,これが御薬園の創始とされています。
 その後,永い戦乱で別荘はまったく顧みられませんでしたが,初代藩主・保科正之は霊地の由緒を正して庭園を整備し,保養所として用いるようになりました。2代藩主・保科正経(まさつね)は、貧しい領民を疫病から救い,病気の予防や治療などを施したいとの願いから,園内に薬草園を設け,各種の薬草栽培を試みました。
 現在の庭園は3代藩主・松平正容(まさかた)の時代,1696年(元禄9年)に小堀遠州の流れを汲む園匠目黒浄定(めぐろじょうてい)と普請奉行辰野源左衛門(たつのげんざえもん)の手に成るもので,規模を拡大し借景を取り入れた池泉回遊式の大名庭に大補修を加えたものです。
 周囲約540メートルの長方形で面積は1.7ヘクタール,約5100坪あり,北に千古の雪を頂く飯豊の霊峰や,東には磐梯の秀峰と背あぶり山・東山の連山が望まれた借景のすばらしい庭園として造られました。
 また,薬園が整備拡充され,朝鮮人参を試植し,これを広く民間に奨励したことから,領民からお殿様の薬園,御薬園(おやくえん)とよばれるようになりました。
 戊辰戦争後,維新政府は御薬園を没収し官有地としましたが,これを憂いた現在の若松市柳原町の豪商・長尾和俊は,会津一円に募金を呼びかけて買い戻され、旧藩主の所有となりました。
 1932年(昭和7年)国の名勝に指定され,1953年(昭和28年)から一般に公開されました。
  ・・・・・・

 御薬園は,中央に心字池がある池泉式回遊式大庭園で,思った以上にすばらしいところでした。ここは,大河ドラマ「八重の桜」のロケ地となったところでもありました。心字池の周りを歩くようになっていたので,景色を眺めながら歩きました。心字池の中央に亀島と楽寿亭,池の西側に御茶屋御殿,庭園北側に藩政時代の薬草栽培地跡を利用した薬用植物標本園がありました。
 少しだけ雪が残り,それはそれはすばらしい雰囲気でした。
 池泉式回遊庭園の池の水源は,猪苗代湖と東山の湯川の2系統から引き入れているということです。
 ひときわ目につく数寄屋造りの楽寿亭は,主として藩主や藩重役等の納涼や観光の場であり,茶席や密議等の場としても使われていたようです。楽寿亭の命名は保科正容によるもので
  ・・・・・・
 松平正容は,平素から政務は「仁」と「知」が大切であるといい,「仁知」の2字を座右の銘としていました。時折り御薬園に来て山水を見ていましたが,それは,自然の造化のなかにも「仁」者の「寿」と「智」者の「楽」のあることを感じ「楽寿亭」の名をつけた
  ・・・・・・
といいます。

 このすばらしい庭園に訪れていたのは,私のほかにひとり女性がいただけでした。が,その女性は,奇遇にも,鶴ヶ城で一緒にボランティアガイドの説明を聞いた人でした。

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 鶴ヶ城の見学を終えたころ,ちょうどお昼になったので,どこかで食事を,と思いながら歩いていると,城の北の丸のあたりに「本丸茶屋」という店があったので入りました。
 会津若松市の名物は「会津ソースカツ丼」ということなので,これを注文しました。
 「会津ソースカツ丼」は,どんぶりの飯の上にキャベツを敷き,その上にとんかつを載せ,ウスターソースをかけたものでした。
  ・・・・・・
①大正年間に早稲田大学向かい鶴巻町にあった洋食店「ヨーロッパ軒」が1913年(大正2年)東京の料理発表会で「ソースカツ丼」を披露し,その数年後には店で提供していた。
②1921年(大正10年)早稲田高等学院生の中西敬二郎が「ソースカツ丼」を考案した。
③1920年(大正9年)岩手県一関市の「和風レストラン松竹」にて誕生した。
④東京の「ヨーロッパ軒」が1923年(大正12年)の関東大震災で再建不能となって福井へ移り,翌年福井市の「ヨーロッパ軒」にて誕生した。
⑤大正の末,群馬県桐生市「志多美屋本店」にて誕生した。
⑥1930年(昭和5年)会津若松市の「若松食堂」にて誕生した。
⑦ 昭和年間に前橋市の「西洋亭」にて誕生した。
➇昭和初期,長野県駒ケ根市,恵那市にて誕生した。
  ・・・・・・
といった数々の発祥説があるそうですが,会津若松市は「「ソースカツ丼」に最初にキャベツを入れた町 」だそうです。
 「ソースカツ丼」,私は長野県駒ケ根市のものしか知らなかったのですが,ほかにも,群馬県桐生市だの,新潟市古町だの,福井名物だのと,全国にわたって,「ソースカツ丼」なるものは存在しているようです。要するに,カツ定食を一緒にしただけのものですからだれでも考えつきます。我こそは元祖,と言ったものが勝ちです。
  ・・
 今回は食べませんでしたが,「ソースカツ丼」以外の会津若松市のグルメは,馬刺しとかラーメンとかです。
 会津馬刺しは, 熊本,長野と並ぶ「日本三大馬刺し」のひとつに数えられているそうです。会津では,みそに唐辛子やニンニクなどを混ぜた「 辛みそ」をしょうゆに溶かして食べるのが一般的ということです。
 また,福島県で有名なのは「喜多方ラーメン」ですが,「会津ラーメン」というのもあって,「 喜多方ラーメン」との違いは,味が全体的に濃いめで,具はシンプルそのものでチャーシュー,ねぎ,メンマが一般的であり,この黄金比こそが「会津ラーメン」の真髄だそうです。ちなみに,会津では味噌ラーメンも少し変わっていて,野菜,もやし,肉をふんだんに入れた味噌タンメンを指すということです。ところで,「日本三大ラーメン」というのがあって,それは,一般的に,北海道の「札幌ラーメン」,福岡県の「博多ラーメン」,福島県の「喜多方ラーメン」を指すそうです。

 昼食を終えて,鶴ヶ城付近の見どころを探すと,会津藩の藩校であった「日新館」の跡地というのが見つかりました。私は,日本各地,様々なところに行くと,城跡に加えて,藩主の菩提寺と藩校を探すのですが,それは,江戸時代,その地を治めた殿様の治世がよくわかるからです。
 「日新館」は,1868年(慶応4年)戊辰戦争により校舎は焼失してしまい,現存するのは会津若松城趾西側に残る天文台跡のみです。調べてみると,現在,「会津藩校日新館」というものが別の場所にありますが,それは,藩校に関する資料が残っていたため,総工費34億円を費やして1987年(昭和62年)に会津若松市河東町に復元して開館した観光施設です。
 1782年(天明2年)から数年間続いた天明の大飢饉をはさんで,会津藩内でも様々な問題が出てきました。その諸問題を解決すべく,5代藩主・松平容頌(たかのぶ)のとき,家老・田中玄宰(はるなか)は藩政の改革をするよう進言し,その中心に「教育の振興」をあげました。それが「日新館」創設のきっかけとなりました。
 江戸時代,全国各地に天文台が建設されましたが,現存しているのは日新館の天文台跡のみなので,全国的にも貴重な史跡であり,天文学的にも貴重なものであることから,日本天文遺産認定となりました。日本天文遺産とは,歴史的に貴重な天文学・暦学関連の史跡・建造物や物品,文献などの遺産を大切に保存し,文化的遺産として次世代に伝えるために,日本天文学会により創設された制度です。

 こうして,会津若松市街地を歩いていると,はじめて来た地なのに,どこか似たところを歩いたことがあるなあ,と思いましたが,それがどこだったのか,なかなか思い出せませんでした。このごろいろいろなところに行っているので,記憶がごちゃごちゃになってしまっているようです。家に帰ってから調べてみると,それは,山形県米沢市でした。ということなのですが,偶然,私が,天文台跡まで歩いている途中に目にしたのが,直江兼続邸跡・山鹿素行誕生地でした。
 直江兼続は上杉景勝の家臣で,米沢のひとです。それがどうして?
 豊臣政権時代,会津藩を統治していたのが上杉景勝でした。しかし,関ヶ原の戦いののち,上杉家は米沢に移されたことで,直江兼続もまた,会津から米沢に移ったわけです。
 山鹿素行が生まれたのは,そののちのことになります。山鹿素行の誕生地を記念した碑石は地元の自然石で「山鹿素行誕生地 大正15年春 元帥伯爵東郷平八郎書」と刻まれています。山鹿素行という名は高等学校の日本史の教科書にもありません。それがどうして私が山鹿素行を知っているのだろう?
 それは,赤穂義士が討ち入りをしたときに「山鹿流陣太鼓」を鳴らしたという物語(創作)からです。山鹿素行は,江戸前期,赤穂藩士の教育などを行った儒学者です。3代将軍・徳川家光の師範でしたが,徳川家光の死後,赤穂藩から学問師範として迎えられ,軍学や儒学を教えました。その後江戸に出て民間の学者となりましたが,反政府的なことを説いて,赤穂藩に流刑を言い渡されました。
 浅野内匠頭は山鹿素行の「教え」をイデオロギーとしていたといいます。
 そこで,討ち入りのときに,大石内蔵助が陣太鼓をたたき,それを聞いた吉良上野介の家臣たちは「一打ち二打ち,三流れ… アレは山鹿流の陣太鼓か」と言って,刀もって飛び出して行く,という創作が生まれたとか。

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 ボランティアガイドさんの説明を聞いてから,鶴ヶ城の天守に入りました。5層まで上ると,遠くの磐梯山を美しく見ることができました。
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 磐梯山は約5万年前と1888年(明治21年)に大規模な山体崩壊・岩なだれを起こしました。5万年前の山体崩壊は表磐梯側で起きて猪苗代湖ができました。また,1888年の山体崩壊は裏磐梯側で起き,水蒸気爆発によって小磐梯を崩壊,消滅させ,桧原湖などの多くの湖沼群を作りました。
 磐梯山は,南側が表磐梯,北側が裏磐梯とよばれ,表磐梯から見る山体は整った形をしていますが、裏磐梯から見ると一変して山体崩壊の跡の荒々しい姿を見せます。
  ・・・・・・
 復元天守で鉄筋コンクリート造りの鶴ヶ城の中は博物館となっていて,会津若松市の歴史を知ることができます。
 私が興味をもったのは,大河ドラマ「八重の桜」でも出てきた「会津藩家訓15ヶ条」でした。家老・友松氏興が建言し,保科正之と朱子学者・山崎闇斎と共同で作成したといわれる「会津藩家訓15ヶ条」は,200年にわたり、会津藩の精神的支柱として存在しました。
  ・・・・・・
第1条
  大君の儀,一心大切に忠勤を存すべく,列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば, 則ち我が子孫に非ず,面々決して従うべからず。
  ・・・・・・
 9代藩主・松平容保(たかもり)は,越前の松平春嶽や一橋慶喜らに京都守護職への就任を要請されます。この「会津藩家訓15ヶ条」第1条の内容を引き出された松平容保は要請を承諾するしかなく,これが後に戊辰戦争の悲劇へとつながったといわれています。

 天守を出て,次に向かったのが茶室「麟閣」でした。
 1591年(天正19年)千利休は豊臣秀吉の怒りにふれ,死を命じられました。千利休の茶道が絶えるのを惜しんだ会津城主・蒲生氏郷は,千利休の子・千少庵(しょうあん)を会津にかくまい,徳川家康とともに秀吉に千家の再興を願いでました。このとき建てたのが「麟閣」と伝えられています。
 1594年(文禄3年),千少庵は許され京都へ帰って千家を再興しました。 その子・千宗旦(そうたん)に千家茶道が引き継がれ,そののち,千宗左(そうさ),千宗室(そうしつ),千宗守(そうしゅ)の3人の孫によって表,裏,武者小路の3千家が興され,今日の茶道隆盛の基が築かれ,それ以降,3千家はそれぞれ名跡を受け継ぎました。
 戊辰戦争で会津藩が敗れ,明治のはじめに城内の建物が取り壊される際,茶人・森川善兵衛は,貴重な茶室の失われるのを惜しみ,1872年(明治5年)に自宅へ移築しました。平成2年に市制90年を記念して,鶴ヶ城内の元の場所へ移築しました。
 「麟閣」には,3千家の家元による扁額が掲げられています。茶室南側にあるのが表千家14代千宗左のもので,表門上にあるのが裏千家15代千宗室のもの,そして,脇門上にあるのが武者小路千家14代千宗守のものです。

 鶴ヶ城には大きな「赤べコ」がありました。「赤べコ」は会津若松市の郷土玩具です。赤に下塗りした牛の型に黒の斑点と白の縁取りを絵付けした張り子人形です。古くは厄除けのお守りや縁起物として,今日では人気の土産物としても親しまれています。
 「赤べこ」は,会津地方でつくられてきた会津張り子のひとつで,他に「会津天神」「起き上がり小法師」「会津だるま」などがあります。会津張り子の発祥は江戸時代の歌舞伎から着想を得てつくられた福島県三春町の三春張り子の模倣という説と,領主・蒲生氏郷が京都から職人を招いて藩士たちに張り子づくりを学ばせたのがはじまりとする説があります。
 「赤べこ」ができた当初はとくに形の決まりはなく,職人ごとに個性が溢れていたのが今日ようになったのは明治初期のころで,大正末期には,赤塗りに黒の斑点,白の縁取りに統一されたといいます。
 また,400年ほど前に会津地方を襲った大地震により倒壊した,柳津町にある圓藏寺の本堂の再建を手伝った赤牛の伝説をもとに誕生したともいわれていて,柳津町は,赤ペコ発祥の地として町起こしをしています。

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 JR会津若松駅に着きました。念願の,一度は来たかった会津若松市です。思ったよりも大きな都市で,しかも,とてもきれいな町でした。まず,今晩の宿泊先である駅前の東横インに行ってカバンを預けました。さすがにこの町の東横イン付近には風俗街はありませんでした。そして,駅に戻って,歓呼案内所に入りました。「1日観光をしたいのですが」と言うと,とても親切に説明をしてもらえて,地図やパンフレットをくれました。
 会津若松観光は,「まちなか周遊バス」という1時間ごとに観光スポットを循環運行している右回りの「あかべぇ」と左回りの「ハイカラさん」があるので,これを利用するといい,ということでした。
また,主な見どころは,七日町,鶴ケ城,御薬園(おやくえん),会津武家屋敷,飯盛山だといわれました。 
 ちょうど10時発の「ハイカラさん」が3分後にあるというので,早速,1日乗り放題のチケットを購入してこれに乗りましたが,バスを利用しなくとも,レンタル自転車もあるとあとで知りました。会津若松市は平地なので,このほうがよかったかもしれませんが,今回,利用しなかったことが吉と出ました。その理由はあとでわかります。
 ちなみに,会津若松で「あかべぇ」はわかりますが,「ハイカラさん」は何? と思いました。1982年のNHK朝の連続テレビ小説に「ハイカラさん」がありましたが,このドラマの舞台は静岡県でした。また,「はいからさんが通る」というアニメもあるのですが,会津若松市とは無関係のようです。調べてみると,会津には「「はいからさん語り部」育成プロジェクト実行委員会」というのがあって「はいからさんに逢えるまち」というイベントを秋に行っているということです。主催するアネッサクラブでは「はいからさんというのは常に時代をリードし改革していく人と捉え」ているそうです。
 「ハイカラさん」は,七日町という歴史的建造物が並ぶ繁華街を通って,鶴ヶ城に向かいました。いい町だなあ,というのが第一印象でした。七日町は駅に近いので,最後に観光をすることにして,まず,有名な鶴ヶ城に行くことにして,最寄りのバス停で降りました。

 現在の福島県は江戸時代,会津藩の他に多くの藩がありました。そのうち,会津藩は,陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩で,居城が,現在,鶴ヶ城とよばれる若松城でした。
 蒲生氏郷が入るまでは「黒川」とよばれていましたが,蒲生氏郷が故郷の近江にあった「若松の杜」にちなんで町名を「若松」と改め,会津にあることから会津若松ともよばれるようになりました。
 鶴ヶ城の天守に入る前,ボランティアガイドさんの説明が聞けるというので,参加しました。ガイドさんの説明を聞いたのは,私と,説明がはじまったころに参加した横浜から来たという女性のふたりでした。
  ・・・・・・
 1934年(昭和9年)国の史跡に「若松城跡」として指定されたので,正式には若松城ですが,約400年前,藩主蒲生氏郷が幼名・鶴千代であったことと蒲生家の家紋に鶴が入っていたことで鶴ヶ城と名づけ,一般にはこの名前で知られています。
 豊臣秀吉が天下統一を達成すると,東北の地に信頼が厚く,かつ武勇に優れた武将を置く必要があったことで,旗下の武将・蒲生氏郷に異動を命じました。蒲生氏郷は,1592年(文禄元年),室町時代に蘆名氏が築いた黒川城を改修し,鶴ヶ城と名づけました。その翌年には,金箔を貼った鬼瓦を使用した七重の天守を築きました。
 1598年(慶長3年)に蒲生氏郷の子・蒲生秀行が家中騒動で宇都宮に移封となり,上杉景勝が入封しましたが,関ヶ原の戦いで西軍に荷担したため出羽30万石に移封され,1601年(慶長6年)に再び蒲生秀行が入封し,初代藩主となります。2代藩主は蒲生秀行の子・蒲生忠郷(たださと)には,嫡子がなかったため,本来なら蒲生氏は断絶するところでしたが,母が家康の娘であるということで,出羽の上山藩を領していた弟の蒲生忠知を後嗣として伊予の松山藩が与えられ,存続を許されました。そして,1627年(寛永4年)会津には加藤嘉明が40万石で入封します。しかし,重臣とのいさかいが原因で会津を去ると,1643年(寛永20年)徳川秀忠の子・保科正之が出羽から入部しました。
  ・・・・・・
 このように,私は,会津藩と先日行ったばかりの松山藩,そして,2022年に行った上山藩に藩主のつながりがあるのが,奇遇というか不思議な気がしました。日本は狭いです。

  ・・・・・・
 こうして,会津藩は,結局・保科家となりました。
 1696年(元禄9年)3代藩主・保科正容(まさかた)の時代に松平姓と葵紋が許され,御三家に続く御家門の地位を確立し,以降,保科は松平と改め,松平家が藩主となりました。

 1868年(慶応4年)松平容保(かたもり)が9代藩主となったあとに戊申戦争が勃発します。会津藩は、徳川家に忠誠を誓い鶴ヶ城に籠城し,新政府軍に徹底抗戦します。新政府軍の猛攻を耐え抜きますが,ついに開城します。ここで起きたのが会津の悲劇です。
 戊辰戦争後,鶴ヶ城は取り壊されましたが,1965年(昭和40年)に天守が復元されました。
 現在では,赤瓦が葺かれた五重五階の天守閣,干飯櫓,走長屋,鉄門が再建,郭を構成する高石垣などが残されています。
  ・・
 鉄門は本丸東側の入口の門で,名前通り門扉や柱が全て鉄で覆われています。
 鶴ヶ城で目につくのは石垣です。石垣の加工は時代の流れとともに進化しました。鎌倉後期の自然石をそのまま積み上げる野面積みはじまりました。関ケ原の合戦以降盛んに用いられたのは表面に出る石の角や面をたたき平たくする打込み接ぎ,江戸時代初期から多用された方形に整形した切込み接ぎです。鶴ヶ城は,それぞれの時代の石垣の変遷をみることができます。
 太鼓門近くの石垣に直径2メートル、奥行3メートルにもおよぶ大きな石があります。 大きな石を魔除けとしてあえて入れたのだそうですが, あまりの重さに石の運搬に遊女が石の上で踊って人足を励ましたとの言い伝えから「遊女石」とよばれているそうです。
 また,石垣の中に,ハート形をした石がふたつあります。大きなハートと小さなハート,2個見つけると願い事が倍かなうそうです。
  ・・・・・・

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Wolf Moon 2024.

明け方西空の満月です。
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 JR西川口駅から京浜東北線に乗って,JR大宮駅に着きました。私が乗るのは,午前7時5分発の東北新幹線「やまびこ」203号でした。
 今回私が持っていたのは連続切符で,名古屋駅から大宮駅(連続1)と大宮駅から名古屋駅(連続2)でした。行き(連続1)の名古屋駅から大宮駅の切符には,経由:名古屋・新幹線・東京・大宮・新幹線・郡山・浦佐・新幹線と書かれてありましたが,JR大宮駅で新幹線に乗り換えるときに自動改札を通ったら切符が回収されてしまうのが心配だったので,窓口を通りました。果たして真相はどうなのでしょうか? 今でも謎です。
 さて,まだ私の乗る「やまびこ」がホームに到着するには30分以上あったのですが,ホームに行って,次から次にやってくる新幹線車両を見て楽しみました。となりのホームにやってきたのが,ディズニーランド仕様のE2系で,側面にドナルドダックやミッキーマウスの大きな絵が描いてありました。これは
  ・・・・・・
 東京ディズニーランドとして1983年に開業した東京ディズニーリゾートの40周年を祝おうと,JR東日本とオリエンタルランドが企画したもので,E2系車両の10両を黄やピンクのパステルカラーで彩り,ディズニーのキャラクターなどを配してあります。
  ・・・・・・
 ということだそうですが,2023年12月22日から2024年3月末ごろまで,仙台と東京を1日1往復しているようです。

 さて,そうこうするうちに,私の乗るE5系「やまびこ」がやってきました。座席はけっこう空いていました。この日はとても天気がよく,窓際西側の席がとってあったので,遠くに雪を被った美しい山々がよく見えました。これらの山々は,足尾山地で,男体山,女峰山,高尾山,そして,那須岳と続いていきます。そして,あっという間にJR郡山駅に到着しました。
 余談ですが,郡山市といえば,私には今は亡き藤井旭さんが美しい星空を求めてたどり着いた地という印象があります。懐かしい思い出です。以下,著書「白河天体観測所」から引用します。
  ・・・・・・
 全国から東京へ東京へ1極集中する人波をかけわけるようにして,いつまでも星空が残っていそうな逆方向の場所と目ぼしをつけておいた東北をめざし,日光から会津若松へと山道をぬけ,郡山市へとたどり着きました。
 郡山では,この町出身の同じ美術大学の寮暮らしだった友人から,よく土産にもらった大のお気に入りだった薄皮饅頭屋さんに立ち寄りました。そして「食いおさめかも知れんな」などと言いながら,店先で思いっきりパクついていましたら,なんと社長さんとおぼしき人からこう声をかけられてしまったのです。
 「…そんなに饅頭が好きとは…よし気に入った。うちで仕事をしないか…」
  ・・・・・・
 ここに出てくる薄皮饅頭屋さんはJR郡山駅前にある老舗「柏屋」さんです。

 今は,東京からは新幹線さえ使えば,どこもあっという間です。そこで,東京に住んでいればどこにでも簡単に行くことができる,といえるわけですが,反対に,どこからも東京へは簡単に行くことができるわけで,こうして,さらに,東京は人だらけになり,地方は過疎化が進むのです。ただし,新幹線は高く,贅沢な乗り物なので,お金のない若い人は,高速バスを利用するしかありません。
 今回,私は,会津若松市の観光をすることにしていたので,JR郡山駅で途中下車をすることもなく,10分後の午前8時29分に出発する会津若松行きの磐越西線に乗ることになります。次回があれば,ぜひ,郡山観光がしたいものです。
 すでに磐越西線のホームには列車がいたので,早々に乗り込みましたが,先客が予想以上に多く,座る席はかろうじてあったのですが,思ったより混雑していました。この日は日曜日だったので,子供たちが大勢いて,2人で4席を占領したりしていて,結構うるさい車内でした。
 途中,列車は,猪苗代湖の北側を通っていくので,右手には,安達太良山,そして,磐梯山が見え,あたりは銀世界となりました。この先どうなることかと心配しましたが,午前9時41分,定刻にJR会津若松駅に着いたときは,駅前には全く雪がありませんでした。

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 2024年1月13日土曜日。NHK交響楽団第2001回定期公演を聴きに東京へ出かけた私は,この日のお昼は,上野寛永寺から「モネ 連作の情景」展,そして,藤井聡太王将写真展,靖国神社と東京を散策しました。今回は,その翌々日に只見線に乗ろうと,1月14日,1月15日の2日間,東北旅行を計画しました。
 只見線は,福島県のJR会津若松駅と新潟県のJR小出駅を約4時間30分で結ぶ秘境のローカル線です。2011年の豪雨で橋が流され,不通になっていましたが,昨年全線開通しました。JR会津若松駅発午前6時8分,午後1時5分,午後5時という1日に3本しか全線を走る列車がありません。JR会津若松駅発午前6時8分に乗るには,前日に会津若松市に到着して,前泊する必要があります。そこで,せっかくなので,1月14日の朝,会津若松市に着いて,終日,これまで行ったことがなかった会津若松市を観光することにしました。
 NHK交響楽団の定期公演終了が午後8時なので,翌日の早朝に東北新幹線に乗り,JR郡山駅で磐越西線に乗り換えて,会津若松まで向かうことにしました。1月13日は東京都内に宿泊してもいいのですが,このごろは都心はホテルの宿泊代が高いので,JR 西川口駅前の東横インに宿泊することにしました。これなら,NHKホールのある渋谷から山手線,京浜東北線と乗り継げばさほど時間もかからず,翌日は京浜東北線で大宮駅まで行けば,東北新幹線に乗ることができます。

 ということで,夜9時30分ごろ西川口駅に到着しました。
 西川口なんて,何の縁もゆかりもないので,はじめて来ました。駅から東横インまではさほどの距離はないのですが,そこまで行く間が風俗街なのに驚きました。川崎駅前もそうだったし,大阪の天王寺駅前もそうだったし,日本全国どこにいっても東横インは風俗街にあるようだ,という話を後日友人にしたら,駅前だから当然だ,と言われました。いつも思うけれど,日本というのは,まことに不思議な国です。
 この日は,いつものように,NHK交響楽団の定期公演の前に夕食をとってあったので,そのまま東横インにチェックインして,翌日に備えて早々に寝ました。
 翌日は,早朝に大宮駅まで行って東北新幹線に乗るので,東横インで朝食をとる時間がなく,西川口駅前のコンビニで朝食を買おうと思ったのですが,西川口駅前に松屋があったので,そこで朝食をとることにしました。それにしても,夜の西川口は,駅前の交番の前の歩道で酔っ払いが寝ているわ,きらびやかなネオンにつつまれているわで,すごいところでした。国内,国外問わず,こういう場末の雰囲気は嫌いではありませんが…。
  ・・
 さて,翌日1月14日日曜日は午前5時起床。予定通り,松屋で朝食をとり,一旦,東横インに戻ってチェックアウトをして,早朝の京浜東北線に乗りました。
 ともかく心配だったのは天気でしたが,1月14日は快晴で暖か,ということでした。しかし,1月15日は寒波到来,東北地方は雪,ということだったのです。果たして只見線は動くのか? こうなったら私の運にかけるほかありません。
 実際,私が旅をした1週間ほど後の1月23日は,JR東京駅とJR大宮駅間の新幹線の架線故障があって,東北新幹線も上越新幹線も終日不通,しかも,1月24日は大雪で只見線も不通,JR郡山駅からJR会津若松駅まで乗った磐越西線も大雪で通常の運行に支障があったということで,ひとつ間違えば,私が行ったような旅は不可能でした。さて,今回の旅は,どうだったのでしょうか?

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 NHKFMに「朗読の世界」という番組があります。ラジオNHK第1にも「朗読」「らじる文庫」という番組があるほか,それ以外にもさまざまな番組の中に朗読のコーナーがあるようです。若いころは,こんな番組だれが聴くのだろう? と思っていたのですが,今の若い人も同じことを言っていました。しかし,本を読むのも,特に,小説を読むのも面倒になってきた私は,こうした番組の意義がわかってきました。喜ぶべきか悲しむべきか…。
 その「朗読の世界」で,太宰治の「津軽」が全35回で取り上げられていたので,聴きました。
 先日,青森県を旅して,太宰治の生まれた家,現在の「斜陽館」に行ったこともあって,これまでは存在だけを知っていた小説「津軽」に興味をもったのですが,思ったよりも分量が多くて,また,この時代の小説は読みにくいので,断念しました。そんなことこともあり,まさに,ちょうどいい時期にこの小説の朗読に出会ったのです。

 「津軽」は,1944年,太宰治が34歳のときに書かれた小説です。紀行文ですが,その中にフィクションが交えられていることから小説に分類されているそうです。太宰治が,生まれ故郷である青森県津軽を訪れ,過去に世話になった人々と出会いながら津軽出身者という自分のアイデンティティを確立していくという,美しくも,切ない物語です。
 「津軽」では,太宰治,本名・津島修治を「私」と称し,越野タケを「たけ」としています。
  ・・・・・・
●序編
 私は,現在の五所川原市である青森県金木村に生まれました。親は大地主でした。
 出版社の編集者から「津軽の事を書いてみないか」と言われたことから,津軽人とはどんなものであるかを見極めたくて,当時住んでいた東京を出発し,津軽半島を3週間ほどかかって1周することになりました。
●巡礼
 青森に着いて,かつて私の実家である島津家に仕えていたT君の出迎えを受けます。
 T君は,昔,金木家で一緒に遊んだ仲間だったのですが,私がT君を親友だと思っているのに対して「あなたはご主人です」と答えるT君でした。
 明日,T君とともに,青森県蟹田へ出かけます。
●蟹田
 蟹田で出会うのは中学時代の友人であるN君です。今は蟹田の町会議員となっていて蟹田になくてはならない人物です。
 蟹田の山へ花見に行き,その後,蟹田分院の事務長をしているSさんの家にお邪魔し,熱狂的な接待を受けますが,津軽人である自分自身の宿命を知らされた気になり,「津軽人としての私を掴むこと」を目的とする私は,津軽人の愛情の表現は少し水で薄めて服用しなければならないと感じるのでした。
●外ヶ浜
 N君と農業について語るうち,青森の郷土史に5年に1度は凶作に見舞われているのを発見し,哀愁を通り越し憤怒を感じます。
 翌日,N君の案内で外ヶ浜街道を北上し,竜飛岬にたどり着きます。竜飛は,烈風に抗し怒涛に屈せず懸命に一家を支えて津軽人の健在を可憐に誇示していました。
 竜飛の旅館で歌いながら寝てしまった翌朝,寝床で,童女が表の路で手毬唄をうたっているのを聞き,希望に満ちた曙光に似たものを感じて,たまならい気持になるのでした。
●津軽平野
 竜飛で1泊した翌日,私はひとりで,生まれた土地である金木町へ出発します。
 金木の生家に着くと,実家には長兄の文治と次兄の英治,長兄の長女の陽子,陽子のお婿さん,姪ふたり,祖母などがいましたが,あまり会話が弾まず,気疲れがします。
●西海岸
 翌日,金木から父の生まれた五所川原の木造駅に行きます。五所川原へ戻った私は,3歳から8歳まで育ててくれた女性たけに会うために,小泊を訪れました。
 小泊港に着き,たけの家を見つけたのですが,戸に南京錠がぴちりとかかっていて固くしまっています。筋向いのタバコ屋に聞くと運動会へ行ったとのことでした。
 運動会でたけと再会したのですが,たけは私を小屋に連れて行き「ここさお坐りになりせえ」と傍に座らせただけで何も言いませんでした。いつまでたっても黙っていると,たけは肩に波を打たせて深い長い溜息をもらしました。「竜神様の桜でも見に行くか。どう?」
 竜神様の森の八重桜のところで,能弁になったたけは「30年近くお前に逢いたくて,そればかり考えて暮らしていたのを,はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと,ありがたいのだかうれしいのだか,かなしいのだか。よく来たなあ」。
 兄弟の中で,私がひとり,粗野でがらっぱちのところがあるのは,この悲しい育て親の影響だったという事に気づいて,このときはじめて,育ちの本質をはっきり知らされたのでした。
  ・・・・・・
 
 作品のなかでは,たけとの会話がクライマックスになっていて,それが「津軽」の中核をなしていますが,実際は,ひとことも言葉を交わすこともなく,太宰治はひとり離れて周りの景色を見ていた,といいます。おそらく,これは,太宰治の願望を表わしたものでしょう。そして,自分のどうしようもなくいたたまれない本質の源流が越野タケのせいだと言いたかったのかもしれないなあ,と私は思いました。そういう意味では,この小説は太宰治の狂気です。
 「津軽」は,太宰治のことをよく知り,また,実際に津軽の地を見てくると,より作品を深く味わうことができるのだろうと思います。だから,先に「津軽」を読んで,その想い入れを持って実際にその地を訪れるか,あるいは,私のように,その地を知ってから「津軽」を読むか,そのどちらにしても,その両方をしなければ,作品は理解できないでしょう。
 私は,小説「津軽」に接して,いつかまた,再び津軽の地を旅してみたいと思いました。


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 2023年5月17日に,NHKBSPで「新・街道をゆく~北のまほろば」が放送されました。私がちょうど青森県に旅行をする前日だったので,まさにぴったりの内容でした。録画しておいて,旅から帰ってから見ました。
 以前,司馬遼太郎さんの書いた「街道をゆく」を映像化した番組が作られたのですが,「新・街道をゆく」はそれを新しく作り直したものです。
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 司馬遼太郎さんが終生深い思い入れを抱き,亡くなる2年前の1994年に旅して記したのが,青森県を歩いた「街道をゆく41~北のまほろば」。なぜ,司馬遼太郎さんが,本州最北の地である青森を,物成がよく豊かな土地を意味する「まほろば」とよんだのか。縄文の巨大遺跡から幻の中世都市,津軽が生んだ芸術家である太宰治や棟方志功…。
 厳冬の津軽半島を舞台に司馬遼太郎さんの足跡をたどる。
  ・・・・・・
という内容の番組でした。

 司馬遼太郎さんは1923年に生まれ1996年に亡くなった作家です。とても多くの作品を執筆していて,NHK大河ドラマでのよく取り上げられていました。私は大学生のころ,ずいぶんと読みました。
 小説だけでなく,紀行文や対談集も数多く,その深い洞察力と知識に基づいた歴史感は「司馬史感」といわれ,多くの人が影響を受けました。当然,批判的に思う人もいたのですが,私は若かったので,そうした批判をするような知識ももっていなかったし,よくわかりませんでした。だから,ある種,洗脳されたかもしれません。
 また,「街道をゆく」は「週刊朝日」の連載として1971年にはじまり,司馬遼太郎さんが亡くなる1996年まで25年にわたり続きました。「街道をゆく」は,日本民族と文化の源流を探り,風土と人々の暮らしのかかわりを訪ねる旅の紀行文です。
 いつ「週刊朝日」を手に取っても載っていたのですが,若かったころの私にはさしておもしろくもなかったので,これまで読んだこともありませんでした。
 しかし,今回,青森県を旅行してみて,どうして,弘前藩の殿様・津軽家が江戸時代ずっと続いたのにもかかわらず人気がなくリスペクトされていないように思えたのか,太宰治が豊かな家に生まれたのに屈折した小説を書いたのか,この寒い地で3,000年以上も縄文文化が栄えたのか,など,多くの疑問をもって帰宅しました。それからこの番組の録画をみて,まさに私が疑問に思ったことが取り上げられていて,感激しました。そして,はじめて「街道をゆく」という紀行文のおもしろさがわかりました。
 そこで,図書館で「街道をゆく41~北のまほろば」を借りて読んでみました。私は,この歳で,やっと,司馬遼太郎さんが何を書きたかったのかということがわかったのが,喜びでもあり,また,やっと追いついたという思いをもちました。

 縄文時代,この地は,食料の宝庫だったようです。山や野に木の実が豊かで,三方の海の渚では魚介がとれ,走獣も多く,川にはサケやマスがやってくるという,「北のまほろば」だったのです。
 私は,東北地方や北海道に縄文時代の遺跡が多いのは,これらの地が今のように寒くなく,もっと温暖だったからと思っていました。それも多少はあるでしょうけれど,温暖でなければ豊かでない,というのは「街道をゆく~北のまほろば」を読んでみると,どうやらコメ作についての考えのようです。コメ作中心でなかった縄文時代はそうではなく,コメ作が伝わってから,そうした価値観が根づいたと「街道をゆく41~北のまほろば」には書かれてありました。
 ところが,江戸時代,殿様はコメを上方の商人に売りつけることで貨幣に変えていたので,コメは貨幣となりました。そこで,本州最北の地はコメ作には気候的に不向きであったのにかかわらず,領主の津軽家の殿様は米作りを奨励し農地を開いたのです。しかし,5年に一度は「やませ」が吹いて飢饉が訪れるという悲劇が襲いました。これが金を借りるということにつながっていくので,次第に貧しくなっていったのです。
 明治時代になってリンゴ作りがはじまって,やっとこの地に見合った特産物が手に入ったのですが,それでも,ときに台風が襲って,実りの秋にほとんど収穫できないという悲惨な年もありました。
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 私は子供のころ,学校で,縄文時代は生活が不安定で,コメ作がはじまった弥生時代になって生活が安定したと習いました。しかし,実際は違う。縄文時代は貧富の差もなく長く平和が続きました。弥生時代になって,貧富の差ができて,人々は戦いに明け暮れるようになったのです。
 津軽,今の青森県は「北のまほろば」。コメ作りが広がる以前はとても豊かだったです。
 青森県に限らず,どの地も,こうしたさまざまな先人の苦労の上で,今の人々の生活があるということが,実際に行って,その地の空気を吸い,その地を歩くことで,実感することができるということを,私は,旅をすることで知りました。

 余談ですが -という書き方は司馬遼太郎さんの小説によく書かれてある言葉でもありますが- 「街道をゆく41~北のまほろば」の中に「無名の師」(むめいのし)という言葉がありました。浅学の私は,この言葉を知らず,調べてみたのですが,その意味は
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 起こす名分のない戦争。 特に仕掛けられる側だけでなく、仕掛ける側においても必要がなくかつ勝算が確定的でない場合に独裁的な指導者によってなされるものを言う。
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とありました。まさに,現在のお隣の大国のことだ,と思いました。昔も今も,愚かな独裁者をもつと,支配される側は悲劇です。

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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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アラスカ州のアンカレッジやニュージーランドのクイーンズタウン,ハワイ州モロカイ島の空港のような,小さな「おいしい山形空港」に着きました。レンタカーを返却して,後は帰るだけです。帰りの便は午後4時20分発でした。
2020年7月に北海道に行ってから2年ほどこうした旅をしていなかっただけなのに,とても新鮮でした。そして,旅の楽しさを思い出しました。
それにしても,日本は狭いです。「おいしい山形空港」を離陸したと思ったらあっという間に県営名古屋空港に着いてしまいました。名古屋と山形の飛行時間は,ハワイ州オアフ島のホノルルからハワイ島のコナまでとさして変わりません。コーヒーとともに,帰りは行きと違って,パンではなくケーキが出ました。
そんなわけで,私にとれば,飛行機を利用した国内旅行なんてちょっとそこまで,という感じで,旅行のうちにも入らないのですが,それでも,山形は別世界,期待以上のところでした。
県営名古屋空港も空いていて利用しやすかったし,FDAは快適でした。
また,気軽に何度も来てみたいと思ったことでした。

飛行機も北海道以来,久しぶりでした。
日本の国内線は,行きは後部座席,帰りは前のほうが快適だということが利用してみてわかりました。それは,行きは,混雑防止のために後部座席から搭乗案内がされることや後部座席のほうが空いていること,帰りは,早く降りられることが理由です。なんか話が矛盾しているように思うでしょうが,利用してみるとこの理由の意味がわかることでしょう。
また,わずか1時間程度なので,窓際のほうが景色が見られるのでいいのですが,気をつけないといけないのは主翼の横に座ると,せっかく窓際の席であっても景色がみられないということです。
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帰りは,期待に反して,ずっと曇りでした。
さすが晴れ男。私が滞在していた間はずっと天気がよく,帰るころになると曇ってきたわけです。もし,この旅が天気に恵まれていなかったら,私の印象はずいぶんと違っていたことでしょう。
ということで,北アルプスを見たいと思っていたのに,帰りの機内からは残念ながらずっと雲しか見ることができませんでした。
やがて,少しずつ雲が切れて,眼下に地上が見えてきました。ここはどこなのだろうと思いました。
すると,雪を被った標高の高い山が…。
それは御嶽山に違いないと思いました。そして家に帰ってから確かめると,やはり御嶽山でした。
行きは会津磐梯山が見え,帰りは御嶽山を見ることができました。
こうして,とても楽しい2泊3日の旅は終わりました。
次はどこに行こか? 外国人が日本にやってくる前の今こそ,落ち着いた旅をする絶好の機会です。

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山形と聞くと誰しもが思うのが佐藤錦というブランドのさくらんぼです。
山形空港のあたりは,ほんとうにさくらんぼ畑ばかりなのに驚きました。
さくらんぼ,とても高価なのです。さくらんぼ1個がリンゴ1個ほどの値段がします。
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「おうとう」からもぎとられた果実が「さくらんぼ」。
「おうとう」はバラ科サクラ属の果樹で,日本に渡来したのは1868年,山形県へは1876年に入りました。全国で試作されましたが,山形県以外ではほとんどが失敗しました。山形県でうまくいったのは,霜害と台風被害が少なかったことが理由でした。
その後「さくらんぼ」栽培は山形県内で普及し,現在は,全国生産量の約7割を占めるようになりました。
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「さくらんぼ」の中で,味も人気もナンバーワンの品種が「佐藤錦」です。
佐藤錦の生みの親は,東根市の篤農家・佐藤栄助さんでした。それまでは,「日の出」「珊瑚」「若紫」などの「さくらんぼ」を栽培していたのですが,収穫しても日持ちが悪くて,腐らせたり出荷の途中で傷んでしまったりと悩みが多いものでした。
1912年,佐藤栄助さんは,日持ちはよくないが味のいい「黄玉」と酸味は多いが固くて日持ちのいい「ナポレオン」をかけ合わせました。それが実を結びました。
こうして育った果実から,選び抜いて種をとり…,を繰り返すことで,16年もの苦労で,最終的に1本にしぼられた原木。これこそが最高品種でした。
山形生まれの比類なきこの品種を命名する際,はじめは「出羽錦」という案でしたが,「発見者の名前を入れた佐藤錦がいい」ということになったそうです。
「佐藤錦」の特長は,見た目がきれいな鮮紅色で光沢があり,甘みが多く,食味が良好であるということで,重さは1粒7グラムから8グラムですが,近年は12グラムから13グラムの大玉も多く出まわっているということです。
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最上川の舟下りを終え,昼食をとりました。これで,今回の旅も終わりです。
途中,新庄市,尾花沢市,東根市,天童市などを経由しながら,山形空港に向けて走りました。
山形は思っていたよりずっとすばらしいところでした。また,わずか2泊3日の旅なので,来るまでは,立石寺と天童市へ行くことができればいいと思っていたのですが,山形県のほぼすべての場所に行くことができました。
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唯一の心残りは「さくらんぼ」を食べることができなかったことでした。
「さくらんぼ」の旬は6月。まだ,少し早かったのです。そして,私は,この「さくらんぼ」にときめいてしまって,片時もわすれられなくなってしまったのです。
家に帰ってから「さくらんぼ」に関する多くのニュースを耳にするようになりました。それは,私が気にしているから耳に入るのか,はたまた,今がその季節なのか…。
そんなわけで,私は,さくらんぼを目当てに,山形市にふるさと納税をしてしまったのでした。

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私が乗った最上川舟下りの出発は午前10時50分でした。
予約なしで個人で行って,その場でチケットを買えば乗ることができるようでした。こんな時期でなければもっと混み合うのでしょうが,人が集まるだけ船が出るような感じでした。
私が最上川舟下りの乗り場である戸沢藩船番所着いたころは,学生で一杯でした。おそらく修学旅行なのでしょう。彼らは早々に集合して,チャーターされた船に乗船して出発していきました。
また,私が乗る時間には,団体ツアー客がいたので,やだな,と思いましたが,彼らもまた一般客とは別のチャーター船だったので,まったく問題はありませんでした。
個人旅行で最もいやなのは,こうした場合に団体客と一緒にされることです。
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私は,この最上川舟下りで,アラスカのフェアバンクスで乗った外輪船クルーズを思い出していました。アラスカの外輪船クルーズの方がはるかにスケールが大きいのですが,まあ,雰囲気だけは似ていました。

あまり期待もしていなかったのですが,さすがに人気アトラクションでした。船頭さんの案内がすばらしく,楽しいものでした。
途中で下車することはなく,船から景色を楽しみます。
見どころは次のようなものでした。
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●馬爪岩は義経の馬を休憩させてくつわを洗ったとされる場所で,岩には馬の足跡が…。
●弁慶のつぶ手石は弁慶があやしい人影めがけて投げた石がめり込んで残っています。
●仙人堂は義経の従者であった海尊(かいそん)が一行と別れたあと山伏修行ののちに仙人になったとされますが,その海尊を祀る神社です。
●白糸の滝は白糸のように一筋に落ちていく高さ123メートルの美しい滝です。義経の妻であった北の方が「最上川瀬々岩波堰き止めよ 寄らぞ通る白糸の滝」と詠んだといわれています。
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最上川の北岸は橋も道もなく,今はまったくの無人だということでした。まだ日本にもそんな場所があるのです。
最上川は穏やかでしたが,途中,何か所か,水の流れが早いところがあって,波が白くなっていました。しかし,狭く岩だらけの急流を迫力満点で進む京都の保津川下りとはまったく違うものでした。

舟下りがおわり,川の駅「最上峡くさなぎ」で下車,ここで,しばらくお土産タイムがあって,帰りは戸沢藩船番所まで路線バスに乗るというシステムでした。
最上川舟下り義経ロマン観光のものは,こうしたこともなく,同じ場所に戻るということなので便利ですが,コースがかなり短いものです。
この季節は新緑が美しく,また,幸い,天気がよかったので,十分に楽しむことができました。おそらく,もう少し早い季節なら桜が,また,秋には紅葉が,そして,冬であれば雪景色が美しいだろうと思いました。
  ・・
川の駅「最上峡くさなぎ」でバスを待つ間,さくらんぼ味のソフトクリームを食べました。
戸沢藩船番所まで戻って,ちょうどお昼。ここにあった「芭蕉庵」というおそば屋さんでざるそばを食べました。今度は板そばではありませんでした。

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山形に来るまでどうなっているのかわからなかった最上川の舟下りでしたが,実際は,最上峡芭蕉ライン観光と最上川舟下り義経ロマン観光の2社が運航していて,どちらも直接乗り場へ行けば利用できるということがわかりました。
最上峡芭蕉ライン観光は,戸沢藩船番所というドライブインのようなところから出発して,川の駅「最上峡くさなぎ」までの約12キロメートル1時間の船旅を楽しむものでした。また,最上川舟下り義経ロマン観光は,JR高屋駅前にある乗船所を起点として,途中,対岸にある仙人堂に上陸して立ち寄るのが目玉で,こちらもまた約1時間の周遊ののち,同じ場所に戻るというものでした。
どちらにしようかまよいましたが,結局,最上峡芭蕉ライン観光のものを利用することにしました。こちらの方が距離が長いし,ホームページが充実していて会社が大きいように思えたからです。

私は,早朝の参詣を終え,羽黒山から降りて,最上川舟下りの乗り場のある戸沢藩船番所に向かいました。途中はのどかな田舎道でした。やがて,最上川に沿った堤防道路に出ました。
最上川は,米沢市の吾妻山付近に源を発し,酒田市で日本海に注ぐわけだから,西に向かって流れています。しかし,お恥ずかしい話ですが,堤防道路を走るまでは,最上川の上流と下流がどちらなのかわかっていませんでした。
少し道を迷いながら上流方向の戸沢藩船番所に着いたのは,まだ午前9時30分ごろのことで,午前10時50分発の舟下りには十分間に合う時間でした。さっそくチケットを購入しました。
まだ乗船までは時間がたっぷりあったので,先ほど走った最上川の堤防道路を下流に向かって再び走ってみることにしました。20分くらい走っていくと,集落のある小さな町が見えてきました。その一角に松尾芭蕉の像があって,そのあたりが博物館のようになっていたので,降りてみました。
そこは清河というところでした。清川とも書きます。というか,地名は清川でした。

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清河の地は,出羽三山へと至る「いのりの道」のスタート地点で,ここで上陸して,人々は出羽三山へと旅を続けました。江戸時代には交通の要所であるこの地に関所があったとされ,現在も「舟つなぎの榎」や井戸跡が残っています。
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という説明がありましたが,これではわからないので,補足が必要のようです。
その昔,最上川流域に道はなく,本合海(もとあいかい)という,新庄の西にあたる河岸から清河までは最上川を運行する舟だけが唯一の交通手段でした。そこで,清河に上陸というのは,新庄のほうからやって来た人々が舟で最上川を下り,ここ清河で降りたということです。
松尾芭蕉もまた,曾良とともに,立石寺から最上川沿いの大石田に逗留したあと,羽州街道を北上し,猿羽根峠を越え,本合海から清河まで最上川を舟で下りました。
かつて,清河は最上川舟運で栄えた宿場町でした。
江戸時代にこの地にあった関所跡が観光の拠点として整備されていて,「舟つなぎの榎」や井戸跡が残っています。松尾芭蕉の像があったのも,この場所でした。
清河は,また,源義経の伝説や,戊辰戦争と明治維新の魁といわれる清河八郎を輩出した所として,源義経一行が一夜を明かした御諸皇子神社や,戊辰戦争で庄内藩と新政府軍が戦った古戦場「御殿林」などの遺構が残っていました。
残念ながら,観光をする時間がなかったので,関所跡で松尾芭蕉を偲んだのち,この小さな町を車で一周しただけで最上川舟下りの乗り場である戸沢藩船番所へ引き返しました。

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最上川のらんと,大石田と云所に日和を待。
爰に古き俳諧の種こぼれて,忘れぬ花のむかしをしたひ, 蘆角一声の心をやはらげ,此道にさぐりあしゝて,新古ふた道にふみまよふといへども,みちしるべする人しなければと,わりなき一巻残しぬ。
このたびの風流,爰に至れり。
最上川は,みちのくより出て,山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て,果は酒田の海に入。左右山覆ひ,茂みの中に船を下す。
是に稲つみたるをや,いな船といふならし。
白糸の 滝は青葉の隙々に落て,仙人堂,岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし 。
  五月雨をあつめて早し最上川
   「奥の細道」松尾芭蕉
  ・・
最上川を舟で下ろうと大石田というところで日和を待った。
「ここには古くから俳諧が伝えられていて,いまも俳諧隆盛の昔を慕って「蘆角一声」の田舎の風流を楽しんで,今日まで,この俳諧の道を手探りで来たけれど,新しい句風に進むか古い工夫を守るか教えてくれる先達もいないから」と言うので,断り切れず俳諧一巻を残した。
この旅はこんな風流にまで至ってしまったのである。
最上川は,米沢を源流とし,山形を上流とする。碁点や隼などという恐ろしい難所のある川だ。板敷山の北を流れて,最後は酒田の海に入る。
川の左右が山に覆われているので,まるで茂みの中を舟下りするようなことになる。
この舟に稲を積んだのを稲舟というらしい。
白糸の滝は青葉の木々の間に落ち,仙人堂は河岸に隣接して立っている。水を満々とたたえて舟は危うい。
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この紀行文の中にある「蘆角一声」ですが,蘆角(ろかく)というのは葦の葉でつくった笛で,「一声」はそれを鳴らすことなので,そういう侘しいところでささやかに風流を楽しんでいると表しているように感じます。田舎者のたしなみ,みたいな謙遜した雰囲気です。
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「舟あやうし」とあるので,今はのどかに見える舟旅も,この時代は結構危険なものであったようです。
有名な話ですが,この松尾芭蕉の句の初案は「あつめて涼し」だったのですが,推敲ののち「あつめて早し」と替えられたということです。実際に乗ってみて,最上川の涼しさよりも流れの早さを実感した松尾芭蕉は「あつめて早し」と表したくなったのでしょう。
また,エンジンのなかった当時,川船は下るときは流れに任せればよかったのですが,上るときは帆を立てて,何か月もかけてゆっくりと引き返したのだそうです。

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私は,意図したわけでもないのですが,松尾芭蕉が「奥の細道」で訪れたところを追って旅をしているようです。
羽黒山にも,松尾芭蕉の像と句碑がありました。
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六月三日,羽黒山に登る。
図司左吉と云者を尋て,別当代会覚阿闍梨に謁す。
南谷の別院に舎して,憐愍の情こまやかにあるじせらる。
四日,本坊にをゐて俳諧興行。
  有難や雪をかほらす南谷
五日,権現に詣。当山開闢能除大師は,いづれの代の人と云事を知らず。
延喜式に「羽州里山の神社」と有。
書写,「黒」の字を「里山」となせるにや。
「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。
出羽といへるは,「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。
月山,湯殿を合て三山とす。
当寺武江東叡に属して,天台止観の月明らかに,円頓融通の法の灯かゝげそひて,僧坊棟をならべ,修験行法を励し,霊山霊地の験効,人貴且恐る。繁栄長にして,めで度御山と謂つべし。
   涼しさやほの三か月の羽黒山
   「奥の細道」松尾芭蕉
  ・・
陰暦六月三日、羽黒山に登る。
図司左吉を訪ね,彼を通じて羽黒山別当代会覚阿闍梨に会うことができた。
南谷別院を宿舎として与えられるなど,別当代の好意,その情こまやかに温かくもてなしてくれた。
四日,別当代の本坊において俳諧興行。
五日,羽黒神社に参詣した。
この神社を開いた能除大師については,何時の時代の人かさえ分からない。
延喜式には「羽州里山の神社」という記述がある。
書き写すときに,「黒」という字を「里山」と書き誤ったのではないか。
羽黒山というのは,羽州の黒山の「州」の字を省略して羽黒山というのではないだろうか。
出羽というのは,「鳥の毛羽を此国の貢物に献る」と風土記に書いてあるというから,そこから名づけられたものであろう。
羽黒山に月山と湯殿山を加えて出羽三山という。
この寺は,江戸の東叡山寛永寺に属し,天台宗の摩訶止観の教義は月明かりのように暗闇を照らし,円満にして偏らず,速やかに成仏するという「円頓融通」の法灯を掲げて発展し,僧坊は軒を並べて林立。
修行が盛んで,霊場としての霊験はあらたか。
よって人々の畏れと尊崇を集めている。
その繁栄は永遠で,実にめでたい御山というべきである。
  ・・・・・・
ここでは,羽黒山の部分だけを載せましたが,松尾芭蕉は,私の行くことができなかった月山にも登っています。この時代の人たちの健脚さには驚かされます。また,松尾芭蕉が生きていたころ,この場所の風景はどんなものだったのだろうかと想像します。

松尾芭蕉は,1644年(寛永21年)に伊賀上野の下級武士の次男として生まれました。本名は松尾甚七郎といいました。1682年(延宝10年)深川のほとりの草庵に転居したとき,芭蕉の株を贈られたことから松尾芭蕉と名乗るようになったといいます。
芭蕉が俳人として最後の旅に出て編んだのが「奥の細道」で,これは平安時代の歌人西行法師の足跡をたどった枕歌巡りの旅でした。
「奥の細道」のルートは,江戸から宮城県の松島,岩手県の一関,山形県の鶴岡を経て,日本海側を進み,福井県の敦賀から岐阜県の大垣までの全行程2,400キロメートル,150日間の旅でした。
  ・・
このうち,東北地方を巡ったのが,松島から平泉,鶴岡にかけてのルートです。
現在の暦で7月上旬に山形県の尾花沢を訪れて,立石寺へ行き,大石田から最上川を下り,出羽三山に7日間滞在。ここで祓川や五重塔,羽黒権現,そして,残雪残る月山に登頂し月山権現にも参拝しました。
そこで,私がこの旅で立石寺,出羽三山,最上川と巡ったのは,まさに,松尾芭蕉の足跡をたどった枕歌巡りの旅となったわけです。

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羽黒山の五重塔から駐車場に戻ってきたのが午前7時すぎでした。
山頂に至る有料道路は午前8時からということだったので,まだ,ずいぶん時間がありましたが,ダメ元で行ってみると,すでに係の人がいて,「登れますか?」というと「いいよ」ということだったので,料金を払って,有料道路に入りました。
やがて,山頂近くの広い駐車場に着きましたが,当然のこと,まだ私以外にだれもいませんでした。
2日前に行った立石寺もそうなのですが,普通はすごい観光客なのだそうです。しかも,コロナ禍以前ならインバウンドで外国人観光客だらけだったことでしょう。
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静まり返った境内でした。
私は,車で登ってしまったのですが,少しは参道を徒歩で登ってきた気持ちになろうと,参道の石段を少し降りて,再び登ってみました。出迎えてくれたのは朱の鳥居でした。
この場所には,もともとは江戸講中より寄進された青銅の鳥居があったのですが,第2次世界大戦で供出されてしまい,その跡に,庄内の生徒や学童の寄付によって新たに建立された鳥居ということでした。また,鳥居の手前の坂を十五童坂といって,坂の左には一山の貫主の住んだ執行寺跡,右に本社のかぎを取り扱った鍮取役という一生不犯の清僧修験の住んだ能林院が在ったということです。

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参道脇には杉並木が広がっています。これは江戸時代初期に羽黒山中興の祖と言われた天宥法印が植林したものだそうです。植林した杉は樹齢が300年以上で,幹径が1メートルを越えるものが184本,総数では445本あるとされます。
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羽黒山の山頂にある三神合祭殿は,古くは大堂,本堂,本殿,本社などとも称されていて,羽黒修験の根本道場でもありました。その内陣は三戸前の扉にわかれていて,正面中央に月読命,右に伊氏波神,左に大山祇命,大己貴命,少彦名命を祀るものです。
三神合祭殿は807年(大同2年)の建立以来,度々造替を行ないました。
再度の炎上に,1813年(文化10年)荘厳院覚諄を別当に任じて再建に当たらせ,1818年(文政元年)年に完成したものが現在のものです。建設当時は赤松脂塗でしたが,開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われて,現在の朱塗りとなったということです。
三神合祭殿は合祭殿造りで,高さ28メートル,桁行24.2メートル,梁間17メートルで,内部は総朱塗りで,屋根の厚さが2.1メートルもある萱葺きの豪壮な建物です。
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月山と湯殿山は冬季の参拝や祭典を執行することができないので,この時期は,三山の年中恒例,また,臨時の祭典は,すべて羽黒山頂の三神合祭殿で行われるということです。

三神合祭殿の右手に鐘楼堂がありました。
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鐘楼堂は1618年(元和4年),最上源五郎家信が寄進したもので,五重塔に次ぐ古さを誇っているそうです。境内は豪雪地帯であるにもかかわらず,柱が基礎石から直接立ち上がっている古式を継承しているために,柱の下部は何度か改修されています。
鐘楼堂に釣り下がる梵鐘は「建治の大鐘」とよばれ,鎌倉時代の蒙古襲来の際,羽黒の龍神に祈祷を捧げたところ神風が吹き元軍を撤退させる事ができた事から,執権北条時宗が寄進したものとされるというから,すごい話です。「建治の大鐘」は1275年(建治元年)に鋳造されたもので,口径1.68メートル,高さ2.86メートルで,東大寺,金剛峯寺に次ぐ大きさです。
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また,私はこの場所に皇族の墓があって驚きました。蜂子(はちのこ)皇子の墓でした。
蜂子皇子が出羽三山を開いたというから,このほうがもっとすごい話です。このことについて,次のように伝わっています。
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蜂子皇子は562年(欽明天皇23年),崇峻天皇の第3皇子として生まれました。
592年(崇峻天皇5年),蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺します。崇峻天皇は,臣下により暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇です。
危機を感じた蜂子皇子は聖徳太子の助けをかりて脱出し,日本海を北上し出羽国由良八乙女浦に辿り着きました。
蜂子皇子が八乙女浦の絶景にこころ打たれていると美しい歌声が聞こえてきたので,近寄ってみると大きな洞窟が現れ,8人の女性が舞を舞っていました。蜂子皇子は,そのうちの恵姫と美凰の案内によって上陸を果たし,その洞窟で身を隠しながら修行を行い,霊力を身につけました。
やがて,蜂子皇子は霊山を目指し登拝を試みたのですが,山が険しく道を見失ってしまいました。そのとき,観音菩薩に念じると,突然,八咫烏が出現し,導かれて山頂に登りつくと,観音像が現れました。その霊験を聞きつけた出羽国の国司が羽黒山寂光寺を開き,観音像を本尊とした観音堂を造営しました。
蜂子皇子は,修行を重ね,今度は月山に登拝すると,阿弥陀如来が出現したので,月山を霊地と悟り,暮礼山月山寺を開山しました。さらに,月山から東に下ると,温泉が湧き出る霊地に大日如来が出現し,ここに湯殿山神社を創建しました。
蜂子皇子は641年(舒明天皇13年),享年80歳でこの世を去りました。
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3日目,2022年5月19日木曜日。
最終日になりました。
しばらく旅行らしい旅行をしていなかったのですが,次第に感覚が戻ってきました。やはり,旅はいいものです。
この旅では,来る前は予想もしていなかったほどいろいろなところに行くことができました。最終日は,羽黒山と最上川の舟下りです。まさか羽黒山に行くとは,最上川の舟下りをするとは思ってもいかなったので,大慌てで計画を立てました。
最上川の舟下りは午前10時50分と午前12時50分の2便ありました。乗船時間は約1時間です。午後4時20分の飛行機で帰らなければならないので,午前10時50分のものに乗船することにしました。予約をせず直接行って乗ることができるものなのかなあ,と心配したのですが,ホームページやパンフレットによれば大丈夫そうでした。
舟下りの乗船時間に間に合うように,早朝,まずは羽黒山へ行かなければなりません。
羽黒山は標高が414メートルです。思ったほど高くありませんでした。山頂までは石段が246段あって,片道1時間半ほどらしいということでした。以前行ったことがある兵庫県の黒井城が標高356メートルだったので,それと同じような感じかな,と思いました。
そこで,歩いて往復しようとも思ったのですが,時間が微妙でした。
幸いなことに,羽黒山には有料道路があって,これを使うとわけなく山頂まで行くことを知っておどろきました。この有料道路が利用できるのは午前8時からとありました。これなら何とかなりそうでした。ただし,羽黒山の登山道の途中に有名な国宝の五重塔があって,有料道路を使ってしまうと行くことができないので,これは別に徒歩で登らないと行くことができないとありました。
わからないことだらけだったのですが,ともかく行ってみることにしました。

この日もまた,早朝,昨日買っておいた朝食を部屋でとって,午前6時前には早々にホテルをチェックアウトしました。
山形市内を抜け,昨日と同じ国道112号線を走るルートで月山を通り過ぎ,酒田市を経由して羽黒山に向かいました。日本の道路はカーナビにはなじみません。道路が予想以上に狭かったり,走りにくかったしても容赦ないし,進路を工夫しないと,毎回信号で止められます。AIもまだまだです。さらに難儀したのは山形県の道路の案内標識です。案内標識示す進路が交差点の寸前にあるので,解読しているうちに案内標識が示す交差点を通り過ぎてしまうのです。
狭い道も多く,また,曲がらなければならない交差点を間違えたりして少し迷いましたが,目の前に巨大な鳥居が見えてきたときはホッとしました。この鳥居はかなりの威厳があって,さすがに有名な神社だけあると感心しました。この威圧感に多くの人は参っちゃうわけです。
さらに行くと町中になって,宿坊がたくさんありました。いわばここが門前町でしょう。この一角をすぎると,羽黒山の入口である随神門に着きました。近くに無料の駐車場があったので車を停めました。
朝早く,というより,早すぎて,まだ車は1台も停まっていませんでした。

歩いて随神門まで行くと案内板があって,五重塔は徒歩10分とありました。思った以上の近いことがわかったので,まずは五重塔に徒歩で行ってくることにしました。何事も案ずるより産むがやすしです。
随神門をくぐると石段になったのですが,この石段,登るのかと思いきや,なんと降るのです。この坂を継子坂というそうです。随神門から五重塔までは降り,その先が登りになるわけでした。
  ・・
継子坂を降り終えたところに,祓川が流れていました。かつては,この祓川で身を沈めて清めてから出羽三山に詣でたということです。祓川には赤い橋がかかっていて,橋の上から須賀の滝を見ることができました。須賀の滝というのは江戸時代に作られた人工の滝だそうです。
やがて,五重塔が見えてきました。深い森のなかにそれはありました。
  ・・・・・・
羽黒山の五重塔は,平安時代中期の930年代(承平年間),平将門の創建と伝えられています。
現存する五重塔は,1372年(応安5年)に羽黒山の別当職大宝寺政氏が再建したと伝えられます。
総高約29.2メートルで,屋根は杮葺き,様式は純和様の素木の塔です。
近世までは,塔内に聖観音,軍荼利明王,妙見菩薩を安置していましたが,神仏分離以後は大国主命を祭神として祀り,出羽三山神社の末社「千憑社」となっています。
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また,五重塔の近くに爺杉がありました。
このスギの巨木は,根周り10.5メートル,幹囲8.25メートル,高さ43メートルで,推定樹齢1,000年以上といわれていて,羽黒山で最大にして最古の巨木ということでした。かつて,付近に婆杉があったということですが,1902年(明治35年)の暴風で倒れたと案内板には書かれてありました。
実際は,暴風で倒れたときには,どちらが爺でどちらが婆か定まらず,残った方を「親杉」とよぶことにして決着をつけたそうですが,国指定の天然記念物としては「羽黒山の爺杉」の名称で登録されているということです。
私は,数年前に行ったカリフォルニア州のセコイア国立公園で見た「シャーマンの木」というセコイアの巨木を思い出していました。
早朝だったので,このあたりには私のほかには誰もおらず,荘厳な雰囲気を満喫しました。

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明日はまず羽黒山に行って,その後で,最上川の船下りをすることにしていました。
山形県には出羽三山といわれる聖地があります。そこがどのようになっているのか,私はほとんど知りませんでした。想像していたのは,険しい山が三つあって,そのどれもよほどの覚悟がなければ登ることができないということでした。
昨日,山形駅の観光案内所で「出羽三山のうちで月山と湯殿山は雪が深いのでまだ登れず,羽黒山だけが参詣できる」と聞きました。羽黒山がもっとも北にあるのにどうしてだろうとそのときは思ったのですが,それは羽黒山の標高がもっとも低いからでした。
また,羽黒山の参詣は1時間もあれば,と言われたのには驚きました。半日はかかると思っていたからです。ならばということで,羽黒山に行くことにしたのですが,明日は,閉鎖されていようといまいと,湯殿山や月山の方に行く時間はありません。

5月に旅行をすると日が沈むのが遅いので,この日は上山の観光を終えても,まだずいぶんと時間がありました。そこで,このあと,明日は行く時間がない月山のほうまで足をのばすことにしました。登ることができないのは承知の上で,単に,出羽三山の月山や湯殿山のあたりがどうなっているのかが知りたくて行って見ようと思ったわけです。
  ・・・・・・
出羽三山とは,月山,羽黒山,湯殿山の総称で,開山から1,400年の歴史を誇る山岳信仰の霊場のことをいいます。
三山にはそれぞれ役割があり,月山で死後の極楽浄土を,羽黒山で現世の幸せを,そして,湯殿山で功徳を積み再びこの世に生まれるという意味をもちます。
  ・・・・・・

上山から方向を西に変えて,国道112号線を南から月山を目指しました。
山形県にも高速道路が走っているのですが,「一般道を走っても,信号もほとんどないので,高速道路を使う意味がないからだれも使っていないよ」。この旅に出かける前,そんなことを聞いたのを思い出したのですが,確かにそうでした。当然,私も一般道をひた走ることになりました。
遠くにめざす雪を被った月山を見ながら山の中を通る国道を走っていくと,やがて,左手に月山湖というダム湖が現れました。
さらに行くと,右手に折れる有料道路がありました。道路は開通していましたが,しかし,ここもまた,料金所は無人でした。
それを登ると,月山の八合目まで行くことができるということでした。
思ったより狭く,すれ違うのがやっという狭くカーブが多い道路がずっと続いていたのですが,登っていくのは私の車だけで,その反対に多くの車が降りてきてすれ違いました。どうしてだろうと思いながらさらに走っていくと,やがて,八合目の広い駐車場に着きました。駐車場は多くの車が停まっていましたが,帰る車が多く駐車するスペースもけっこうあったので,車を停めました。
あたりは,旅館が立ち並んでいて,昔よく行った新潟県や長野県のスキー場のある温泉町のような感じでした。
月山の八合目は,スキー場だったのです。まだ雪がたくさんありました。そこで,多くのスキーヤーが楽しんで,帰り支度をしていたわけです。スキーをする目的もないのにここに来てしまったのは私くらいのものでした。
後で知ったのは,雪が解けるのはまだ1か月後。7月になると,この場所から,往復で6時間ほどかけて標高1,984メートルの月山の山頂にある月山神社に登ることができる,ということでした。
先日行った京都の愛宕神社と同じようなものだと思いました。こりゃ,もし雪がなかったとしても私には無理だ,と納得しました。

登ってはみたものの何もすることもないので,早々に下山することにしました。
国道112号線にもどったのですが,さらに,湯殿山はどうなっているのだろう,と思って,先に進んでみることにしました。
しばらく走っていくと,右手に,湯殿山方向にいく道路がありました。その狭い道路をしばらく走っていくと,広い場所に出て,そこが湯殿山に登る有料道路の入口になっていたたのですが,当然のこと,閉鎖されていたので,納得してそこで引き上げました。有料道路は6月1日から登ることができるということでした。
湯殿山の標高は1,504メートルで,湯殿山神社はその中腹の標高1,100メートルのところにあります。
有料道路を登った先に駐車場があって,そこから連絡専用バスに乗り替えて大鳥居のある神社の参籠所まで行くことができるということです。湯殿山は俗世間と切り離された御山なのでそこでお祓いを受けなくては参拝できないということすが,そこから本宮まではわずか徒歩5分ということでした。雪がないときなら,湯殿山は月山にくらべて容易に行くことができるでしょう。
こうして,出羽三山のうち,明日行くことになる羽黒山以外の,月山と湯殿山がどのようなところなのかがわかって納得した私は,山形市のホテルに引き上げました。
昨日夕食を食べるところをさがすのに苦労した私は,この日は,スーパーマーケットでパック寿司を購入することにしました。山形市内のイオンモールでパック寿司の夕食と明日の朝食を買いました。以前,アラスカ州のフェアバンクスに行ったとき,同じようにスーパーマーケットでお寿司を買って夕食にしたのを思い出しました。
ホテルに戻ってお寿司を食べようと思ったら,しょうゆが入っていないのに気づきました。単に入れ忘れたのか,それとも,山形の人はお寿司に醤油をつけないのか…。
ホテルの部屋の窓から見た山形市の夕景がきれいでした。

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私が「かみのやま」に寄ったのは,斎藤茂吉記念館に行きたかったこととともに,上山には天守閣があると聞いたからでした。昨日,山形駅の観光案内所で「東北地方には四国地方と違って天守閣がないですね」という話をしたら,「上山にはありますよ」と言われたのが事の発端です。
しかし,これは完全な誤解でした。
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上山は羽州街道の要衝で,温泉宿場町として早くから繁栄を遂げていました。もともとは最上家が支配し,戦国時代には伊達家と最上家がこの地をめぐって争いました。1600年(慶長5年)には,上杉景勝の家臣直江兼続が2万5,000を数える大軍でわずか1,000の兵が守る上山城に大敗を喫しました。
しかし,最上家は家督争いが絶えず,1622年(元和8年)に改易され,上山には松平重忠が4万石で入り、上山藩を立藩しました。
しかし4年後に摂津三田藩へ転封となり,その後は,蒲生忠知,土岐頼行,土岐頼殷,金森頼旹と続き,ついに,松平信通が入ることで,藩主家が安定しました。
幕末になると幕府に重用され,戊辰戦争がはじまると奥羽越列藩同盟に参加しましたが,米沢藩が新政府に恭順すると恭順し,版籍奉還を迎えました。
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上山藩は,ダイコンの漬物である「沢庵漬け」で名を知れた沢庵宗彭と関りがあります。
紫衣事件は江戸時代初期における江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件です。
紫衣とは紫色の法衣や袈裟のことで,朝廷が賜る僧,尼の尊さを表す物でした。これに対して,江戸幕府は,朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じたのですが,後水尾天皇が従来の慣例通り幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えたことが事件の発端です。
幕府の逆鱗に触れて,大徳寺住職であった沢庵宗彭は出羽国上山に流罪となりました。57歳のことでした。
配流先である上山藩主の土岐頼行は,沢庵の権力に与しない生き方と「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ,厚く遇しました。沢庵はその草庵を春雨庵と名づけ、こよなく愛したといわれています。

上山城は,本丸西側に西内堀が残り,この他,土塁や石垣の一部と庭園が現存しているだけでした。
天守閣というのは,二の丸跡に望楼型の模擬天守が建てられたもののことで,これが資料館となっていたわけです。
ただし,城のあった裏手には数件の武家屋敷が今も残り,城下のいい雰囲気を醸し出していました。
また,城跡の近くには,上山藩の藩校であった「明新館」の跡地に碑が建っていました。
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上山藩の藩校は1809年(文化6年),上山藩7代藩主松平信行によって開かれ,当初は広福寺の境内に学問所を設け「天輔館」と称していました。そこでは,伊藤仁斎,萩生祖来なども藩士の教育に当たっていました。1840年(天保11年),8代藩主松平信宝はさらなる学問所の充実を図り,現在の跡地である場所に移して単独の建物として藩校を造営しこれを「明新館」と名づけました。
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米沢市から山形市に戻る途中で,私は,上山市にあった斎藤茂吉記念館に寄ることにしました。
私は,斎藤茂吉の次男である作家・北杜夫に若いころから興味があって,ずいぶん多くの作品を読みました。そして,斎藤茂吉を知りました。
しかし,どうして山形県の上山に? ということがわかりませんでした。
私は昔,斎藤茂吉は山形出身だとこのブログに書いたことがあるのです。それをすっかり忘れていたのは,その当時,山形というところにまったく想い入れがなかったことにあるのでしょう。
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斎藤茂吉は1882年(明治15年)に,守谷伝右衛門熊次郎の三男として,山形県南村山郡金瓶村,現在の上山市金瓶に生まれ,1953年(昭和28年)に亡くなった歌人であり精神科医でした。
守谷家は経済面の余裕がなく,守谷茂吉は,東京・浅草で跡継ぎのなかった同郷の精神科医・斎藤紀一の家に養子にいき,斎藤茂吉となったわけです。
斎藤茂吉が精神科医として青山脳病院の院長を務めたことは,北杜夫の小説「楡家の人々」に描かれています。
長男は精神科医の斎藤茂太さんです。
妻の斎藤輝子さんの晩年は,オペラで世界中を駆け回った人として数々のエッセイを残したので有名でした。私も強く記憶に残っています。
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ということで,斎藤茂吉が生まれたのが上山市だったのです。

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上山市にある斎藤茂吉記念館は,開館当時は大久保傳藏元山形市長の個人コレクションを中心に茂吉の遺族らから寄贈品も受け展示を行いました。その後,収蔵資料の充実が図られ,現在は斎藤茂吉が残した業績に関連する資料や斎藤茂吉の生活を伝える書画などを展示しています。
2003年に斎藤茂吉没後50周年記念として展示設備を新たにし,2018年には開館50周年を記念してリニューアルオープンしました。
斎藤茂吉記念館は,明治天皇が東北巡幸に際に小休止したことに因む「みゆき公園」に位置し,公園内には斎藤茂吉が箱根山荘勉強部屋とよんだ箱根の別荘の離れが移築されているほか,歌碑,明治天皇が小休所した環翠亭が復元されています。
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このような博物館や美術館は各地にありますが,できたときはすばらしくとも,維持に困っている様がうかがわれるところも少なくありません。これもまた,日本らしいというか…。
しかし,斎藤家はかなりのお金持ちらしく,この記念館が今も美しく維持されているのは,おそらく,斎藤家のバックアップがあるからでしょう。

国道13号線を南から北に走っていくと,上山市街を越えたあたりの交差点で斎藤茂吉記念館の道路標示がありました。標示にしたがって左折してしばらく走ると,広い駐車場に着きました。
車を停めてさて行こうと思ったら,あいにく水曜日は休館でした。
いろいろツキにめぐまれることが多い私ですが,たまにはこういうことがあります。しかし,おそらく,私は,近いうちにまたここに来ることになりそうです。いつもそんな塩梅で,結局は行くことになるのです。
休館ではありましたが,建物の外観や建物のある「みゆき公園」にあった箱根の別荘の離れや,歌碑,明治天皇が小休所した環翠亭は見ることができました。
また,「みゆき公園」は高台にあるので,遠くの景色を眺めることができました。
斎藤茂吉記念館はすばらしい環境の場所にありました。
斎藤茂吉記念館はJR奥羽本線の「茂吉記念館前駅」の近くで,鉄道でも簡単にアクセスできます。

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かつて,19世紀のイギリス人女性旅行家イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird)は,美しく壮大な自然と豊かな大地の実りから,山形県南部地方を「東洋のアルカディア」と讃えたそうです。
雄大な山々に囲まれて空は広く,さくらんぼ畑の緑は美しく,私は,山形県にアメリカのモンタナ州を思い出しました。日本にもこんなところがあるのか,と思いました。

今回の旅は,わずか2泊3日の日程で,どういうところかもわからず,とにかく行ってみようとやって来ただけだったので,温泉にも宿泊せず,おいしいものを食べる予定もありませんでした。
それでも,少しは当地のグルメを,ということで,今日の昼食に米沢らーめんを食べました。
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米沢らーめんは,大正時代,中国人の屋台でのらーめん売りがはじまりでした。大正末期には上海軒,米々軒,朝日軒などが開業しました。現在「米沢らーめん」を提供する飲食店は,米沢市内に100軒以上あるということです。米沢らーめんスープの基本は鶏ガラと煮干しで,毎日食べても飽きのこない,あっさりとした後味のよいスープといいます。麺は「多加水」とよばれる製法で,小麦粉を捏ねるとき通常より多くの水を加えながら練り上げたストレートに切り出した麺に「手揉み」をかけ,ちぢれ細麺ができあがります。
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また,有名な米沢牛は,明治のはじめ,米沢の洋学舎に赴任した英語教師のC・H・ダラス(Charles Henry Dallas)によって日本中に知られることとなったもので,1年中寒暖の差が大きい気象条件と澄んだ空気,きれいな水が特上の霜降り肉を作るということです。
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米沢牛を食べるほどお金もないので,私は,米沢らーめんとともに米沢牛コロッケで我慢しました。

さあ,これで米沢市の観光もおわり,北に向かって,上山市を経由して,宿泊している山形市に戻ることにしました。
その途中,変わった建物を見ました。
それは,1910年(明治43年)3月,東京,大阪,京都,名古屋,熊本,仙台に続いて,全国7番目の高等工業学校として開設された米沢高等工業学校の建物でした。1944年(昭和19年)4月に米沢工業専門学校と改称され,さらに1949年(昭和24年)5月の学制改革で山形大学工学部に改組されました。
この建物はルネッサンス様式の木造二階建で,現在は国指定重要文化財ということです。
明治時代の建物の多くは,とてもモダンなものが多いと思います。

せっかくなので,JR米沢駅を通って帰ることにしました。
しかし,JR米沢駅は米沢市街からかなり遠いところにありました。その理由はよくわかりませんが,鉄道がひかれたころ,市街地を通ることに反対したのではないかな? と思いました。
列車で米沢観光をするには,JR米沢駅を降りても名所まで歩いて行くには不便でしょう。
JR米沢駅に乗り入れている路線は,奥羽本線と米坂線です。奥羽本線に関しては,ミニ新幹線である山形新幹線の停車駅となっています。
建物はかなりモダンでした。先に見た旧米沢高等工業学校本館を模したものということです。

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