しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:しない・させない・させられない > 断捨離

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 とある事件をきっかけとして,新興宗教が関心を集めています。しかし,新興宗教に限らず,人は何かに洗脳されてしまうと,熱病に侵されたかのように,理性を失ったり,財産を失くすのです。
 恋愛も同じでしょう。恋は盲目といいます。ときにはストーカーになって,相手を不幸にします。
 組織における出世願望も同様です。だれしも,周囲にやたらと偉くなりたい病の人がいることでしょう。概して,偉くなりたい病というのは,自分の身の丈を越えた高級車に乗りたい人やブランドのカバンを持ちたい人と同様に,劣等感の裏返しであることが少なくありません。
 そのことは,権力という熱病に侵された政治家もまた同じです。しかし,政治家がより危険なのは,自己満足を越えて,他人を巻き添えにして世界を恐怖に陥れることがあるからです。歴史的にみても,カリスマ的な指導者は,多くの人を洗脳して,世界を地獄に落としてしまいます。
  ・・
 そう考えてみると,物質欲を煽る広告もまた,それを見ることで,欲しくもなかったモノを手に入れたくなる熱病に侵されるということでは,それと同類です。しかし,これこそが資本主義社会の原理なのです。
 景気がいいとか悪いとかということが常に話題となりますし,やたたと成長率ということばが飛び交います。しかし,景気がいいというのは,本来は,必要でもないモノを広告によって買ったり買わせたりすることから生まれるのです。そう考えれば,これもまた,洗脳のひとつです。そうした広告は,以前なら,テレビで流れるコマーシャルであったり,新聞や雑誌の広告でした。あるいは,しつこいほどの電話による勧誘,さらには,訪問販売,そして,睡眠商法でした。
 それが今では,SNSにとって代わりました。
 依然として,テレビのコマーシャルや新聞や雑誌の広告もあるのですが,そうした広告は,若返り化粧品とか医療品ばかりとなりました。それは,そのような媒体を今でも必要としている人が,SNSについていかれない老人ばかりとなってしまったからです。これもまた,ひとつ間違えば,老人に対する洗脳となります。

 もともと私は,必要のないものは買わないし,必要なものですら,自分に過分な性能があるものは買いません。そうなると,うざったくて仕方がないのが,SNSで時をかまわず出没する広告です。
 まず,最もうざったいのが「FaceBook」で大量に表示される広告です。いくら拒否しても出没します。SNSが人工知能を駆使しているのなら,私がそうした広告に拒否感をもっていることなど容易にわかるはずなのに。そんな広告をいくら表示したところで反感をいだくだけだから逆効果以外の何ものでもないと私は思うのですが。
 「YouTube」の広告もまた,反感を買う以外に何の効果ももたらしません。そもそも,玉石混交の「YouTube」のコンテンツです。そして,その8割以上は「玉」ではなく「石」ですが,その程度のコンテンツなのにさらに広告が流れると,それがダメ押しとなって,その広告に反感が募ります。ただし,今では,知る人ぞ知る「Brave」というブラウザを使えば,広告のすべてを非表示とすることができるので,きわめて快適となりました。
 「Twitter」にも広告が表示されますが,これは,必要のないものは簡単に削除できるし,広告として表示されるものよりも,自分からツイートしたアカウント自体が広告の役割を果たしているから,今はそれほど害ではありません。とはいえ「Twitter」はイーロン・マスク(Elon Reeve Musk)がかき混ぜはじめたから,今後はどうなるか不明です。
 最後に「Instagram」ですが,これは,タレントがグラビアを展示している意義しかないようなものだと私は思っていて,ほとんど情報価値がありません。また,見るときも,モバイルのアプリでなく,PCからウェブを使えば広告が表示されないので,私はもっぱらそれを愛用しています。

 このように,SNSの多くは,うまくつき合わないと,有益なコンテンツというよりも,わずらわしいだけのものとなりつつあります。本当に手に入れたい情報であるならば,オプトアウトではなく,オプトインで,自分から探してでも手に入れようとするわけで,押しつけられるものではないのです。
 私がこれまで若気の至りで広告の影響で押しつけられて購入したもので,買ってよかったと思うものはひとつもありません。


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 いざ引っ越すために持ち物の整理をはじめると,まあ,出てくるわ出てくるわ。ということを前回書きました。
 それにしても不思議なのは,食べ物はいくら贅沢をしたところで,後に何も残らないから潔いし,旅もまた同様です。ただし,旅では,パンフレットの類を保存してしまうと,これもまた,あとで処分するのがたいへんになるので,極力持ち帰らないに限ります。
 それに比べて,CDや本などは,後で売れる,などという邪念が湧くので,処分に手こずることになるわけです。そもそも,自分が手に入れて,その役割が終われば,それをまた売ってお金に変えようと思うこと自体が邪念なのでしょう。
 でありながら,私もまた邪念が湧きました。そこで,何とか売れないものかと試行錯誤することになりました。

 CDの類は,ブックオフに持っていったら,結構な値段で売れましたが,本はダメでした。この文化的水準の低い日本という国は,アニメやゲームは市場があっても,専門書の類は売れません。これは,政治の世界で議論すらできないという政治家を見れば容易にわかります。いろいろと探して,段ボール箱に詰めて送れば引き取ってもらえるというところを見つけたので送りましたが,ほとんどお金にはなりませんでした。。
 おそらく,メルカリなどに出品すれば,結構な値がつくものもあるのでしょうが,引っ越しのときのように大量にある場合,それらの1点1点をオークションに出して,値がつけばそれを荷造りして郵送する…,といった作業がかなりの手間です。
 さらに困ったのは写真でした。昔のアルバムは重く,量もあって,どうしようもないのです。
 前回書いたように,よくよく考えると,写真というのは写っている本人にいくら想い入れがあっても,他人にはまったく価値のないものです。それは,賞状なども同様です。しかし,本人もこの年になるとまったく想い入れもなくなって,まさに無価値なので,すべて捨てることにしました。

 このように,正真正銘の断捨離をはじめて思ったのは,歳をとったとき,必要なものは健康と必要最小限のお金だけ,ということでした。モノなんて,必要最小限以外のものはすべて必要がありません。また,いくら現職のときに名誉や肩書があったところで,そんなものは結局どうでもいいのです。何の価値もないのです。というより,むしろ邪魔です。
 それを悟ると,要するに,人生なんてすべては自己満足なのでした。
 ということで,必要最小限のものを買うだけで,それ以上のものは,捨てるときのことを考えて,買うのをやめるべきだとつくづく思い知らされました。
  ・・
 この先は「リボーン」(reborn)です。
 生まれたときは何も持っていなかったわけだから,それと同じように,これをはじめとして,何も持たず,新たな生活をはじめるのも悪くないということです。
 ということで,本当に「命以外は皆捨てる」というような空論が,まさに空論でなくなりつつあるのです。


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 これまで幾度となく断捨離と書いてはいたものの,実際は新たに何かを買わない,ということをしていたくらいのものでした。しかし,このたび,正真正銘の断捨離をすることになりました。ことの発端は引っ越しです。
 家は買うものではなく借りるもの,という思想の私ですが,38年住んでいた賃貸マンションも,私とともにガタが来ていたので,近くによい「出モノ」があったのを機会に思いつき,衝動的に引っ越すことになりました。引っ越し先は今住んでいるところから徒歩1分の分譲賃貸マンションです。
 これまで引っ越しに二の足を踏んでいたのは,ひとえに,私が長年にしてため込んできた膨大な量の本やら写真をどうするのか,ということでした。それが,突然の引っ越しの決定で,ついに,何とかしなくてはならなくなったというわけです。

 そこで悟ったのは,60歳を過ぎた今引っ越すということは最高の選択であり贅沢な決断だということでした。もう10年若かったらそうはいきませんが,この齢になると,過去への執着心も,未来への可能性もまったくなくなったので,何もかもを捨てられるということです。そこで「命以外は皆捨てる」というほどの決意で断捨離をすることにしました。
 私の生きてきた時代は,デジタル化以前だったので,たとえば,新聞のスクラップだの,写真のフィルムだのといったものが山ほど保存されて手元にあります。また,今のように個人情報が叫ばれていなかったので,名簿の類がたくさんあります。また,さまざまなものが今より豪華で,重いのです。
 そうしたものの数々が押入れの奥深く眠っていて,それらを取り出していくと,まあ,あるわあるわ,果てしなく,いろいろなものが出てきます。

 考えて見れば,アルバムなんて,本人以外は何の想い入れもないものです。たとえどこかに置きっぱなしにしておいても,だれも持っていかないでしょう。所詮,それだけのものだと気づきました,それらは,もう少し若ければ感慨深いものなのでしょうが,今や,昔の写真を見ても,そこに写っているのが自分だという認識すら薄れてしまい,また,その写真から何かを思い出そうとしても,それもほとんど記憶にないのです。
 また,CDで音楽を聴かなくても,今や,インターネット上にほぼすべてのものを探し出すことができます。また,本の類は,一度読んだきりでそれ以降手に取ったこともないものがほとんどです。そうしたものは保存しておいても,この先もまた見ることはないでしょう。

 ということで,これからは,将来だけを考えて暮らすことにして,過去はすべて捨て去るのがいいと決めました。そしてまた,この先は,何も形として残さないほうがいいとつくづく思いました。
 それにしても,長年,こうしたものを貯め込んでしまうと,引っ越しは大変です。


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 宇宙航空研究開発機構(JAXA)が2021年度中の打ち上げを予定していた新型ロケットH3の1号機打ち上げを再び延期した,という報道がありました。当初は2020年度の打ち上げ予定だったのですが,第1段エンジン用のLE-9エンジンに不具合が発見されたことで延期となったものです。
 H3は,HⅡAロケットの後継機です。H3は打ち上げ費用が高く,競争力がなかったので,その半額の約50億円という打ち上げ価格を目指しているということです。
  ・・
 天下の三菱は,ロケットに限らず,開発が進まず今ではムヤムヤとなっているというか事実上断念した国産ジェット機「スペースジェット」もあるし,それ以外にも不正が次々と見つかったりしていて,技術力はいったいどうなってしまったのでしょうか。これでは,岩崎弥太郎が泣いています。

 その三菱と関係があるのかないのか,三菱グループの光学会社ニコンもまた,いろいろと窮地にあったのですが,今回,Z9という新形カメラが予想以上の高性能だったので評判をよんで,久々に盛り上がっているようです。このカメラは70万円もするものですが,性能の割には安いとかいわれています。
 新たに開発されているZマウントのレンズもまたどれも高性能だそうですが,私には金に糸目もつけずひたすら性能を追い求めているように思われます。
 しかし,これは専門家用の製品。一部の裕福なアマチュアでもない限り無縁の製品です。もう,この会社はアマチュアには用がないという会社の方針が露骨です。自動車会社が大衆車の生産を止めてトラックだけの生産に切り替えたようなものです。

 おもしろいことに,先に書いたロケットは,そのコストを少しでも削減しようと無駄を削るのに懸命なのですが,その反対に,スマホの普及で庶民用のカメラがまったく売れなくなってしまったカメラ業界は,ニコンに限らず,コスト高の高級品路線一直線です。しかし,庶民を遠ざけておいて,この先の成長が見込めるかどうかわかりません。
 メカの好きな日本人は,相も変わらず,新しい製品が出るたびに「買いだ買いだ」と騒いでいるようですが,いくら高性能とはいえ,製品の寿命は数年しかなく,それにしては高すぎます。一方,海外のサイトの投稿を読んでみると,高いという意見がすごくたくさんあります。特にヨーロッパでは,よいモノを末永く大切に使うという人が多いので,そんな意見が多いのかもしれません。
 そのヨーロッパに目を向けると,ニコンZ9の70万円という価格から思い浮かぶドイツのライカもまた,そのくらいの値段でM11という新製品を発表しました。同じ値段でも,こちらは芸術品。日本の製品とは違って長く使えます。この,とても美しいカメラは,一旦手にするとだれしもがほれぼれするものです。私も以前,ライカM10をショールームで手にしたことがあるのですが,まるで宝石,完全にひとめぼれしました。
 これは,日本のゴミだめのような街並みと昔のままの景観を大切にしている西洋の街並みの違いのように思えたものでした。 

 さて,私の愛してやまなかったカメラの現状はそんなふうにすっかり様変わりして,貧乏人の私には縁遠いものとなりました。私はこれまで使っていた10万円もしないカメラをこれからも使い続けて,壊れたら幕引きです。
 実際,もし,今,新しい製品を買って使おうとしたとき,果たして,ニコンだろうとライカだろうと,70万円もするようなものを手に旅ができるのかと考えると,それがいかにすばらしい製品であっても,疑問に感じます。それは,70万円の札束を肩にかけているようなものだからです。そんな恐れ多いことはとてもできません。齢のせいで物質欲がなくなっただけ,というのではなく,これでは,まったく手が出せません。その昔,fの明るい単焦点レンズをつけたニコンF3/Tを肩に,京都へ出かけて写真を写すのが楽しみだったころが夢のようです。
 高級品もいいけれど,また,仕事に使う必要がある専門家なら仕方がないとしても,たかが趣味の世界,しかも,1か月にどれだけ使うかわからないようなカメラ。以前なら大切に何年も愛着をもって手元に置いて,次には何を買おうかなと立派なカタログを見たりすることにささやかな楽しみが見出していたのに,それがなくなってしまったのは,非常に嘆かわしい限りですが,これでまた,私の「断捨離」にも拍車がかかろうというものです。

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 2021年12月30日の朝日新聞から「住まいとかたち」と題したシリーズがはじまりました。2022年1月1日からはじめるのならともかく,どうしてこの年末の時期からこうした特集が? というのが私にはなぞでしたが,それはさておき,12月30日のこの記事にあった「小さな家」というものに,私はえらく感動し,かつ,うらやましくなりました。
  ・・・・・・
 玄関で靴を脱ぐ。1歩踏み出せば、そこはもうソファのあるリビング。見上げると、寝床のロフトが目に入る。水回りを加えれば、それが折出裕也さん(25)の住まいのすべてだ。
 「ここに住み始めたからこそ、見えてきたものがあったんです」
  ・・・・・・
からはじまるこの記事では,この小さな家の間取りが書かれてありました。私もこんな生活がしてみたいと思ったことでした。

 日ごろ散歩をしていると,いろいろな家が目につきます。ずいぶんとお金がかかっているだろうなあ,という家も少なくありません。その一方で,狭い土地をさらに輪切りにした見た目不便なだけの分譲住宅もたくさんあって,こんなもの売れるのかな,そうまでして持ち家がほしいのかな,と私はいつも思います。この国の景観の悪さは不動産屋さんと住宅デザイナーが原因だと私は確信しています。。
 しかし,そうまでして苦労して手に入れた家の多くは,持ち主が齢をとったころには老朽化し,子供も独立すると,やがては住むには広すぎ,直すにはお金がかかり過ぎとなってしまっていることが少なくありません。空き家もすごくたくさんあります。
 要するに,身の丈を越えているのでしょう。
 家に限らず,狭く,混雑した道路しかないこの国に,まったくふさわしくないような車がたくさん走っています。これもまた,身の丈を越えているのでしょう。

 私は齢のせいか,何もほしいものがなくなってしまいました。動けばいい,を越えた車を欲しいとも思わないし,家を見ても,こんな広い家に住むのは不便だ,と思うようになりました。要するに,若いころに欲しかったもののそのほとんどはいらないものだということが身に染みてしまったのです。
 つまり,人として最大の幸福である「自由であること」が地位や名誉とは正反対のものであるように,ものについても,結局は「断捨離」こそが最大の幸福だったのです。本当に必要なのは,健康とともに知恵だけだったのです。
 なお,今日の写真は京都の下賀神社に復元されている吉田兼好の庵です。


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 たとえば「1兆」と書くのと「1,000,000,000,000」と書くのとではずいぶんと印象が異なります。「1万」と「1兆」はほどんど同じ印象であるけれど,「10,000」と「1,000,000,000,000」ではずいぶんと違います。
 そこに錯覚を起こさせる要因があります。
 今は少し落ち着きましたが,一時期,ポイントカードというものが急にさまざまなお店で導入されまた。そして,モノを買うときに「ポイントカードはお持ちですか?」と聞かれるわけです。持っていないとものすごく損をした気になります。
 このポイントカードというもは,顧客をつなぎ留める働きよりも,ポイントカードを持っていない新規のお店でモノを買う気持ちをなくさせるデメリットと,いちいちそれを聞く定員さんの手間のほうが大きいと私は思うのですが,どうでしょうか? 実際,「ポイント3倍セール」といったところで,1,000円のモノを買って1円値引きするか3円値引きするかほどの違いしかありません。ほとんど意味はないのです。

 それと似た商法で,1,000人にひとり買った金額だけキャッシュバックをするとかいうのもあります。
 これも少し考えればわかるように,一律1パーセント値引きするよりも,お店としては損がないのです。しかし,お客さんにとってみれば,1,000円のモノをかって10円値引きしてもらうよりもひょっとして1,000円マルっともどったほうが得なような錯覚を覚えるわけです。
 1,000人の人がひとりあたり1,000円買って全員から1パーセント値引きすれば10,000円必要だけど,ひとりだけマルっと返金すれば1,000円で済むのですから,お店にとれば,こんなうまい商売はないのです。
 このように,金儲けというのは,そのほとんどが心理ゲームでできているのです。
 要するに,ほとんどの宣伝は端した違いしかないのです。むしろ,いろいろわずらわしいだけなのです。

 そもそも,最も高価な買い物はおそらく「家」でしょう。
 家を買うとなると少なくとも3千万円,いや,30,000,000円が必要です。買うときだけでもこれだけの金額が必要なのに,その後はずっと,毎年の固定資産税とかリフォーム費用が必要なのです。よく,賃貸と持ち家のどちらが得かみたいなことが書かれていますが,そこには税金などの費用が考慮されていません。要するに,買わせたいだけだからです。借りれば借りたときの借賃だけで済むから,わずらわしいこともないし,ましてや,いつ何時天災が起きてなくなってしまうかもしれない,そんな家をもつことのリスクのほうが果てしなく大きいわけです。
 おそらく,歳をとったときに貯蓄のない人のほどんどは,若いころに家を買っちゃったということが要因となっているのでしょう。この先,有史以来はじめての超高齢者社会を迎える日本を生き抜く必要のある若い人は,そうしたまず金銭感覚を磨くことが大切でしょう。

 少し前,60歳で2千万円が必要と話題になりました。
 60歳から90歳まで30年。厚生年金がなければ,わずか月5万円あまりの国民年金があったところで,たまには旅行でもしようとすれば,毎月必要なお金は25万円ほどです。であれば1年で3百万円なので,30年で9千万円。病気をしたり,介護施設に入るなら,そこにさらにお金が必要です。
 しかし,この先,定年もなくなり,退職金も当てにできず,年金も目減りし,さらに,介護保険も際限なく値上がりする超高齢者社会のこの国では,60歳で2千万円どころか,若者がめざすのは,今の貨幣価値にして60歳で1億円です。これを実現するには,20歳から毎月20万円の貯金が必要です。毎月のお給料のそのほとんどを貯金にしてもやっとという感じです。だから,一時の物欲で高級車を買うとか,単なる点数争いのために子供に宿通いをさせるとか,ましてや,ローンで家を買う余裕などまったくないのです。
 …ということなのですが,これを実感するために,とりあえずは「1億円」と書かずに「100,000,000円」と書いてみることからはじめてはいかがでしょうか?


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 忙しかったころはそんな余裕もなかったので気づきもしなかったのですが,今になって実感するのは,できる限りものは持たないことが最も幸せだということです。持っていていいのは知識と何かができる自分の腕だけです。
 そこで,その考えからすると,家を持つということが不幸のはじまりだといえます。家を持つというのは「根付く」ということです。根を張ってしまえば,自由に生きることからどんどん遠ざかってしまいます。つまり,「根付く」というのが,不幸のはじまりの第一歩です。
 人はこころで生きていて,そのために最も大切なのは物質的にも精神的にも自由であるということです。束縛されないということです。であれば,持ち家に住む,というのが最も理屈にあわないことだということがわかるでしょう。
 もし,大金持ちだったら,ホテル住まいが理想です。光熱費も不要,掃除も不要,嫌になったらさっさと移動もできます。朝食が無料の場合もあります。少ないとはいえ,必要不可欠な持ちものはあるでしょうが,そうしたものはコンテナでも借りればいいのです。私はずっとそう思っていたのですが,ホテル住まいをするほどのお金が未だないのが残念な限りです。
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 それにしても,この国には空き家がやたらと目につきます。
 たとえば,結婚して,ふたり暮らしのときは賃貸住宅でよくても,子供ができれば,新たな部屋も必要になるということで,借金までして,家を手に入れます。しかし,子供が少し成長して自分の部屋を持ち,そして,独立するまでは,わずか十数年のことです。やがて,親が50歳になるころには,子供は独立して,子供部屋は空き部屋となり,物置と化します。そのころには,新築だった家もガタがきて,リフォームが必要になります。こうした家がそこら中にあります。
 さらに,数十年もすると,今度は,年老いて,作ったときには凝りに凝って玄関に入るまでに階段を作ったりしてあれば,足腰が弱って自分の家なのに入ることすらできなくなります。そのうちに老人ホームに入ったりして,空き家となるのです。
 
 現職のころ,会社勤めをしていれば賃貸住宅なら住居手当も出るかもしれませんが,家を買えば,固定資産税もバカにならず,また,煩わしいご近所づきあいもあるし,壊れるたびに自分のお金で修繕も必要だし,持ち家は賃貸住宅よりお金がかかるのです。賃貸より持ち家といった情報を盛んに流すのは住宅会社が家を売りたいからというのが理由なだけです。さらに,本来は,子供がふたりいても子供部屋が確保できるような賃貸住宅があればいいのですが,日本にはそうした間取りのものがほとんどないことで持ち家志向を煽ります。
 また,持ち家を手に入れても,子供が巣立ったら小さな老人向けの家に住み変えていくというような中古住宅の売買が多くあるアメリカのようなシステムになっていればいいのですが,日本では新築住宅を売りたいだけなので,古くなれば家に価値もなくなり,そういった市場がほとんどありません。
 しかも,住みたいなあ,ここなら一生暮らしたいなあ,と思えるような場所すら,日本にはまったくありません。少しでも隙間があれば無理やり宅地開発をして,広い土地があってもそれを小さく切り刻んで狭い1軒家をたくさん立てて分譲するものだから,土地なんてあってないようなものなので,持ち家とはいえ,将来売ろうと思っても買い手すらつきません。売れない持ち家なら財産にもなりません。その上,地震などの自然災害でも起きて家が崩れれば,負債だけが残り,目も開けられません。
 また,親が遺産としてマンションでも残せば,よほど条件がよい場合でなければ買い手もつかないから手放せず,ずっと固定資産税と管理費だけを払い続けなければならないんて,そんなもの負債であって財産ではありません。
 このように,この国では「ふつうに」生きることすら,本当に難しいのです。貴重な人生,家1軒手に入れるためだけに巨額の借金をして働き続けるなんてバカげています。結局,そんな家ならはじめから手に入れないほうがいいのです。


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 2021年になって早くも半月が過ぎました。改めて,1年前に書いた「2020年がやってきた」を読み返してみると,あのころから早くも1年が過ぎてしまったんだなあ,という感慨とととも,いろんなことがあった1年だったんだんあ,という思いがあります。
 2020年,最も変わったのはほとんど海外旅行に行けなかったことですが,それ以外はけっこういろんなことができた年でした。それまでも,ただでさえ精神的かつ物質的な「断捨離」をずっとしてきたので,おまけに,海外旅行に行けなかった副産物として,お金をほとんど使わずに済んでしまいました。
 しかし,私のような生き方をしていたら国の経済は成り立たなくなってしまうだろうから,ここに書くことは決して参考にせず,これを読んでいるみなさんは,せいぜい無駄遣いをしてください。

 では,改めて,2020年を順に振り返ってみます。
  ・・ 
 まず,2020年に立てた「安価に国内旅行をする」という目標ですが,これは実現しました。遠くに出かけた国内旅行は北海道だけでしたが,往復格安航空を使い,現地ではレンタカーを利用しました。東京のコンサートと大阪の美術展,これは,新型コロナウィルスが流行する前に立てた計画だったのですが,奇しくも「Go To Travel」が実施されていたおかげでその恩恵を受けて,ものすごく安く新幹線を利用して行くことができました。
 それ以外には,バスや列車などの公共交通を利用してさまざまな場所に行く計画を立てていたのですが,すべて,自家用車に切り変えて,早朝家を出て日帰り旅行をすることになりました。その結果,新潟県の親不知子不知海岸,兵庫県の余部鉄橋をはじめ,行きいと思っていたところはほぼ行くことができました。
 山形県と青森県にも行く予定を立てて,航空券まで手配したのですが,ともにキャンセルとなってしまって行くことができなかったことだけが心残りでした。しかし,この先行くことができるだろうから,こんな時期に行かなくても慌てることもないと思っているのですが,今ではあまり行く気さえなくなってしまいました。
 いずれにせよ,結果的に「人混みには行きたくない」が実現してしまったのは,皮肉なことです。そしてまた,時折,人のいない辺鄙な場所で星見を楽しむのが最も気の休まる時間です。
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 次に,「断捨離」ですが,まず「物質的な断捨離」としては,欲しいモノがまったくなくなってしまいました。その結果,キャンペーンをやっていようがいまいが,クーポンがあろうがなかろうが,そもそも何も買わないのだから,そういった類のことは私には全く関係がなくなってしまいました。
 また,情報は手に入れないほうがいい,と悟ったことで,雑誌等の類は買うどころか,まったく読まなくなりましたし,書店にも行かなくなりました。必要な専門書をインターネットで購入するだけです。
 好きだったカメラも,ミラーレス一眼とやらにメーカーの製品開発が移行して,やたらと高価なので,私にとっては「あちらの世界」のものになってしまいました。ミラーレス一眼はこれまでのものより性能がいいという話ですが,所詮,私には単なる趣味の世界です。
 プロでもないのに50万円も出費してどれだけ使えるというのでしょう。2,3年もすればディスコンになるだけです。私にはその性能を生かす能力もないので,必要ありません。その結果,まったく興味がなくなりました。私には今使っているもので十分なので,これを壊れるまで使います。そして,壊れたらそれまでです。
 そんなわけで,生きるのに必要な食べ物と衣服以外に何も買わなくなりました。
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 「精神的な断捨離」については,先に書いたように,情報をすべて遮断することにしたら,極めて快適になりました。インターネット上のニュースのポータルサイトとそれに付随するコメントやテレビのワイドショーは最悪です。特にテレビのワイドショーは百害あれど一利もありません。一時期,将棋ブームでその話題が取り上げられていたときに少し見たことがありますが,そのときにこうした番組の質が理解できました。そんな番組ばかりを見ていると精神が病んでしまいます。また,NHK総合のように,別の番組まで侵入してくる画面のL字テロップも同様です。まさに情報テロ,そんなものを見たくてその番組を見ているのではありません。
 テレビ局が情報を発信したければデータ放送があります。何のためのdボタンなのでしょう。
 私にとってテレビは暇つぶしの娯楽にすぎません。以前は楽しいものだけを選んであらかじめタイマー録画しておいて早朝に見ていたのですが,今日では多くの番組がインターネットで見られるので,そちらに移行しつつあります。それ以外の時間は,ほぼ,クラシック音楽を楽しみます。
 それに加えて,私がボケ防止でやっているのがラジオによる語学講座ですが,これは英語とドイツ語を聴いています,もう齢なのでまったくモノにはなりませんが,そんなことは私には問題ありません。しかし,いつの日か,片言のドイツ語でも,旅に出かけて役に立つときがまた来るのでしょうか?
 結果として,教養としての学問と芸術と,娯楽としてのフィクション,これが穏やかに生活するための糧となりました。これもまた,そんな楽しみをみつけたら,ムダな出費は一切不要となりました。
  ・・
 まあ,いずれにせよ,2021年の私は,行きたいところも欲しいモノも何の予定も計画もないので,気楽に楽しく毎日を過ごすことにしましょう。

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 2020年,突然襲ったコロナ禍で,3月以降は海外旅行ができなくなってしまいました。外国人観光客がいなくなったので,春は人の少ない京都で思う存分桜を堪能し,7月にはネオワイズ彗星を見るために行った北海道で,これもまた,雄大な景色を堪能しました。なにせ,人がいないので,感染の危険はまったくありませんでした。
 常々,どうして人は群れたがるのか,私には理解しがたかったのですが,今年もまた,せっかく人がいない時期には人の目を気にして観光を躊躇し,夏が過ぎてGo To キャンペーンがはじまって人が増えるとともに逆に危ないのに旅行に繰り出すなんて,どういうことなのでしょう。
 …ということで,今年の秋は,外国人のいない京都の紅葉を楽しみにしていたのですが,漏れ聞こえるところでは,京都や北海道は,海外旅行のできなくなった富裕層で混み合っているということなので,私は,行く気をすっかりなくしました。そもそも,せまく汚い日本国内なんて,無理して行きたいと思うところもほとんどありません。日本で魅力的なのは食事くらいのものですが,そんなに食べられるものでもありませんし,私は自宅籠城です。

 日ごろは,週末はもちろんのこと,平日もまた,できるだけ人と会いたくないので,お昼間は必要のないときは外出せず,もっぱら,朝は午前6時まで,夜は午後6時以降に散歩するようになったら,断捨離を心掛けなくても,ほぼ断捨離状態となってしまいました。そうなると,これまでこだわっていたことがいったいなんだったのか,というほど欲しいモノがまったくなくなってしまいました。そしてまた,必要のない情報をすべて遮断するようになったら,ますます物質欲もなくなってしまい,かつ,節操のない雑誌や手間暇かけないで作られた安直な本もまったく買わなくなったら,何とこころ穏やかにすがすがしい日々が送れるようになったことか。
 これまでも必要以上のモノを買う習慣もなく,お酒も飲まないので,お金の使い道は,年に6,7回出かけていた海外旅行くらいのモノだったのですが,旅行にも行けないので,食費とか必要なだけの衣料品,そして,公共交通機関は使わずもっぱら車になったためのガソリン代のほかにお金の使い道がなくなってしまいました。そもそもモノを買っても置く場所に困ります。そうなると不思議なもので,少しはこだわっていたモノもまた,そんなことにこだわっていたのが何だったのかなあ,と増々思うようになりました。高級な車やカメラも買う意味がわかりません。

 要するに,夢が醒めちゃった状態なのです。
 いや,決して,これは生きる気力がなくなったとか,そういう状態ではないのです。何か,新しい境地に達したというか,私が理想としていた生き方というのは,かぎりなく身ひとつ,ということだったのですが,やっと理想としていたそういった状況に近づけた,というか,それは私にはとても好ましいことなのです。
  ・・
 2019年のはじめに書いた「『精神的な断捨離』こそ最大の贅沢」,2020年のはじめに書いた「『精神的な断捨離』を今年も」,そして,「『物質的な断捨離』を今年も」が,コロナ禍によって奇しくもすべて実現してしまったようです。
 それにしても,巷では,Go To 何某とか,何とか詐欺とか,金を積んで票を買ったとか,何から何まで,金金金…。バカみたいです。
 そもそも,政治家のやっていることは,人は金で動くというような政策ばかりでなさけないです。そしてまた,自分でやったことを自分で問題ないと決めつけ,税金で生きているくせに,納税者に説明もできない言語能力の欠如した時の権力者やら,「『女はみなうそをつく』という発言はしていない」といううそをついて自らの発言で「女はみなうそをつく」を実証してみせたような哀れな某女性政治家の茶番やら,あいかわらず届く「〇〇がロックされました」といったような手の込んだくだらない偽メールやら,セキュリティ対策に無知なばかりに勝手にお金が引き出された事件を起こす時代遅れの権威主義に凝り固まった往年の大企業やら,この国のやっているのはこんなことばかり,ご苦労さまなことです。
 いずれにせよ,そんなことに人生の貴重な時間を使って,まあなんとおバカさんなこと,と私には,みなお笑いの対象でしかありません。何もかも,とても精神が貧しい証拠です。究極の幸せは限りなくモノは持たず,自由に生きること。それは,物質の欲望から離れて精神的に豊かに生きることです。

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 一般道や高速道路を走っているとき,少しでも渋滞しているとすぐに車線を変更する車があります。そうして縫うように走っていくわけです。
 一般道では,車の間を縫うようにして追い越しながら先に走っていった車なのに,その先の信号や踏切で停車していてまた追いつくと,一体あの車は結局何をやっていたんだ,とあきれます。また,高速道路では,少しでも空いた車線,車線に頻繁に車線変更して走っていった車が,その先で変更した車線が混みはじめて,結局,変更する前の車線のほうが早かったりすることも多々あります。
 さらには,少しでも早く早くと追い抜いたり車線を変更してたとえ少しくらい早く目的地に到着しても,そこで何をするでもなく暇つぶしをしているくらいなら,危ない目をしてまで追い越したり,車線変更をする必要などないんじゃないか,と思います。

 これと同じことが,現在のキャッシュレス社会です。
 ポイント還元やらなにやらとやたらと,それぞれの会社が取り込み競争をしています。しかし,このくだらない競争によってお互いの足を引っ張り,結局は不便になっているだけです。日本では何事もこんなことをしているから,この国は世界からどんどんと遅れていくのです。損して得とれ,わずかばかりの利益を得るために同業者との協調をせずに足の引っ張り合いをしていても,そのすべてがだめになるだけです。これこそが,順位争いに明け暮れるだけが価値観のすぐれた教育の成果でしょう。
 少し以前には,Tポイント,dポイント,Rポイント,ポンタなどのポイント競争がありました。その結果,買い物をするときに,その店が対応しているポイントカードを持っていないと何か損した気になるので,結局,その店で買うのを辞めてしまうという弊害のほうがずっと多いような気がします。しかも,実際,1ポイント,1ポイントと貯めたところでどれだけ得になることでしょう?
 私は,ポイントを貯めることなどどうでもいいのですが,支払いでレジでポイントカードを持っていますかと聞かれるのがうざったいので,以前はすべてのポイントカードを持参していました。今は,アプリを iPhone に入れています。しかし,こんなことをしても,1年で溜まるポイントなんてせいぜい100円相当くらいのもので,そんなことなら,コンビニで買えば1本150円もするコカ・コーラをスーパーマーケットで1本78円で買う方がずっと得なのです。

 私は今では現金をほとんど持ち歩きません。万一のときのためにと,免許証入れに運転免許証とETCカードと一緒に1,000円札を2枚入れて持ち歩いているだけです。支払いのほとんどは iPhone で済ませます。現金,特に小銭を持つとかさばるし,現金で支払うことが煩わしいし,さらに現在は,コロナ禍で危険だと思っているからです。
 このご時世で,未だにレジで現金で支払っている人を私は信じられません。そのなかでも特に,何でも10,000円札を出しておつりをもらっている人や,その反対に,おつりがないようにやたらと細かい小銭を時間をかけて探して出している人,その両方がとても迷惑に思えます。
 未だに現金で支払っている人と,未だに図書館で紙媒体の新聞をぐちゃぐちゃとうるさく音を立ててめくっている人,そして,禁煙の職場の外で隠れてタバコを吸っている人など,私にはありえない世界です。

 ここ数年キャッシュレスを実行してみて,私は,ようやく iPhone だけでおおよその支払いが事足りるようになりました。どのお店では何が便利なのか,だから,何を iPhone に入れておけばいいのかがわかってきました。そして,簡単に支払いができるようになりましたが,それまでにずいぶんと時間がかかりました。
 暇な私でもこれだけ大変だったわけだから,多くの多忙な人はまだ使いこなせていないように思います。便利になるはずのキャッシュレスなのに,日本では,その方法が多すぎ複雑すぎで混乱していて戸惑うので,これでは現金で支払うほうが手っ取り早く便利になってしまっているのです。
 数年前まで,この国は,今でも,ちょんまげを結って刀を差して着物姿で歩いているように見られていたといいます。さすがに今は,街の外観や姿こそ世界並みとなったのですが,その内実は今もまだ,江戸時代のようです。何事も世界から遅れてしまったこの国はなんと滑稽な社会なのでしょう。

キャッシュレス

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 久々の,そして最後の「アサヒカメラ」を購入しました。2020年7月号をもって,この雑誌は休刊,実質上の廃刊です。
 それにしても,わかっていたこととはいえ,7月号もまた,無残なほど,広告がありませんでした。昔なら,カメラ雑誌には多くカメラメーカーが競って新製品の広告を誇らしげに掲載していたものですが,最後に残ったのはソニーだけでした。そもそも,本の背表紙に広告がないというのは,まさに,屈辱的な最期でした。
 カメラメーカーだって,恩も義理もあるだろうし,これまでどれほどこの雑誌の記事が動機となってカメラが売れて儲けさせてもらえたかを考えれば,最後ぐらいは広告を載せてもいいのに,もはや,そんな余裕すらないのでしょう。

 家に届いた雑誌をまずは眺めてみました。はじめに思ったのは,写真コンテストのページに載っている入選作の応募者の年齢でした。「月刊天文ガイド」同様,そのほとんどが50歳以上なのです。
 そもそも,今の時代,こうした雑誌に入選して写真を世に出す時代ではないのです。未だにこんなことに価値観を見い出しているのは,SNSすら知らない,化石のような人たちだけでしょう。また,雑誌を購入する動機のひとつだった新製品の紹介にしても,雑誌に載る前に,とっくにインターネット上に情報があふれているのですから,雑誌に掲載された時点で,すでに新鮮味のかけらもありません。
 その昔,この雑誌は,木村伊兵衛さんとともにありました。木村伊兵衛さんといえばライカ。そこで,木村伊兵衛さんの写真とライカカメラの特集が,この雑誌に色をそえていました。しかし,今となってはもう,木村伊兵衛さんも過去の人,知っているのは60代以降の人でしょう。そしてまた,ライカカメラも,金持ちのミエでしかありませんから,それを愛好しているのは写真好きとは別世界の人たちです。その一方,篠山紀信さんに代表される時折掲載されたヌード写真は,写真の専門雑誌というのが隠れ蓑となって,そうした類の写真が載った雑誌を買う勇気のない人たちが購入層だったのでしょう。それもまた今では,そんな写真は巷に氾濫しているから,隠れ蓑としていた購入層が雑誌を買う必要もなくなり,芸術なのかエログロなのか何なのかその存在意義すらよくわならないヌード写真など,写真雑誌に載せても何の意味ももたなくなってしまいました。
 今ほど写真が身近なものになって,だれでもどこでも写真が写せる時代はこれまでにはないのです。でありながら,逆に写真専門雑誌が売れないというのは,そうした市場がないのではなく,新しいニーズに応える編集をしてこなかったということなのでしょう。

 ところで,私にとっての「アサヒカメラ」は,「月刊天文ガイド」をはじめて買った1968年の3月号が今でも私の宝物であるのと同様に,はじめて買った1976年5月号の木村伊兵衛特集です。この号の表紙にある木村伊兵衛さん愛用のライカにどれだけ憧れたことか! しかし,私の宝物であるはずの1976年の5月号は,はじめに買ったものを失くし,再び古本屋さんで購入したものもどこかに行ってしまいました。今回,「アサヒカメラ」の休刊に伴ってそのことを思い出し探していたら奇跡的にネットで偶然見つけたので,三度目のこの号をなんとか手に入れることができました。古い雑誌は,他人には紙屑のようなものであっても,ある人には宝物であったりするのです。
 雑誌というものは,毎月新しい情報を載せてあるからこそ価値があり,月日が経つと陳腐化していくもののように思えるのですが,実際はその反対で,何か自分に思いのある古いものが手元にあれば,それによって自分の過去の記憶を呼び戻したり,その記憶を留めておく媒体になるものだと思うようになりました。しかし,私の若いころのように紙媒体の雑誌で情報を得ていた時代とは違って,インターネットのような電子媒体から情報を得ている今の若い人には実態が残らないので,歳をとったときに,若いころの記憶が形として残っている媒体が存在しません。そこで,やがて時が過ぎ,若い人が歳をとり昔を懐かしむようになったとき,古い雑誌のような,手元にあるだけで過去を甦らせることができる媒体ないことを嘆き悲しむことになるかもしれません。

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 NHK Eテレでは,NHK杯将棋選手権が中断しているために,アーカイブが放送されています。6月7日は,中原誠16世名人対羽生善治九段という新旧対決でした。
 私は,そのひとつ前の新旧対決,大山康晴15世名人対中原誠16世名人のころから将棋を知っているので,なつかしいというよりも,この対局が放送されたのがもうそんな昔のことなのか,という気持ちのほうが強いのですが,現在は,羽生善治九段対藤井聡太七段の対局が世代交代となるわけだから,時間というのは情け容赦なく過ぎていくものです。あと30年もすれば,藤井聡太七段もまた,若者にその座を譲る時代になるのでしょうか? 
 一方,中日スポーツでは,大相撲が行われていないので,いつもなら夏場所の取組の評論を連載する北の富士さんが,ご自分の昔話を書いていて,それがネットで読めますが,これもまた,私は栃若,柏鵬から相撲を見ていて,北の富士の現役時代はとてもよく知っているので,そんなに昔のことなのか,という感慨に耽ります。
 しかし,今とは違い,30年以上前のこの時代は,情報というのは,こうしたテレビや新聞,雑誌からでしか手に入らないものでした。そこで,どうやらそういったものをよく見たり読んだりしていた20代までに起きたことはよく覚えていて,そのあとの30年くらいの月日にあったことは,自分が忙しく,テレビや雑誌を見る時間もあまりなかったこともあって,ほとんど覚えていないようです。それほど,テレビや新聞,雑誌の力が大きかったのです。

 さて,今日は,4月に突然休刊した「月刊カメラマン」に続き,「アサヒカメラ」という雑誌が7月号をもって休刊するというなので,このことを書きます。このニュースを知って,今売られれている6月号を書店で見たらペラペラでほとんど広告がないのに驚きました。雑誌など,以前書いたように,民放のテレビ番組同様,要するに広告収入によって成り立っているチラシの束なので,それがなくなったら存在できないのでしょう。それは,雑誌という媒体に広告の価値がなくなったということでもあります。
 私は,今になって,むしろ,スマホによる写真よりも,逆に,高倍率のズームレンズをつけた軽い小さなカメラを使って写真を写すほうが楽だし便利だと思いはじめているのですが,カメラメーカーはそんな私の嗜好には目もくれず,高価で重たいカメラしか作らなくなってしまいました。そこで,私のようなささやかな愛好家は雑誌による情報を手に入れる意味をもたないから雑誌を買う意欲もなくしました。また,写真を撮るという楽しみは,カメラ雑誌を読むということとは全く異質なものになってしまいました。これでは雑誌が売れるわけがありません。
 この雑誌が休刊,というより,事実上廃刊となっても,ここ何年買ったこともないので,残念にも思わないのですが,30年前を懐かしみ,最終号だけは手元に置こうと予約をしました。

 この春の新型コロナウィルスの流行が,「アサヒカメラ」の休刊と関係あるのかどうかは知りませんが,人々の生活や価値感,そして,嗜好が変わったことは事実でしょう。
 私は,不愉快かつ上から目線で,人の楽しみを奪い,心の平穏を奪い,必要以上に騒ぎ立て不安を煽るような報道(と称する)番組や,NHK総合テレビのように,娯楽番組なのに同時に不快なニュースをL字テロップで流したり,QRコードを張り付けていることに強い嫌悪感をもつようになったので,テレビはNHK BSプレミアム(BSP)とEテレの一部の文化的な番組,そして,CSのスーパー!ドラマTV以外まったく見なくなりました。私の周囲にもBSPしか見ないと言っている人が少なくありません。
 そのかわり,自分なりの別の楽しみを数多く見つけました。そのひとつとして,このところ「将棋世界」を電子書籍として購入しはじめました。そのなかで,今月発売された「将棋世界」7月号に載っていた佐藤天彦九段の文章が私には一番感心し,同意できました。一部引用しておきます。
  ・・・・・・
 人間は衣食住だけではなく,絶対に楽しみが必要です。
 大事なのは「正しく恐れる」ことだと思っています。だからネガティブな情報を入手しすぎないほうがいい。(中略)心を病んではいけません。
 もちろん初期の段階では多くの情報を集めたほうがいいと思うのですが,ある程度現状を理解できたら,情報の量を減らして質にシフトしたほうがいい。そして結論を決めつけずに考えに幅を持たせて保留し,自分にできることを粛々とする。これが正しい恐れ方だと思うのです。
  ・・・・・・
 若くして名人となった人は,やはり,立派な考え方をするものだと思いました。

 私は,以前にもこのブログに書いたように,現代の社会では,情報を手に入れるより必要のない情報を手に入れないことのほうが重要だと思うようになりました。
 そうした時代にもかかわらず,新聞,雑誌のような媒体やテレビなどの媒体は,これまでのように,広告収入を母体としているにもかかわらず,それをオブラートのように包み隠し,依然として,知らない情報を庶民に与えてやるんだ,わが社の意見で人を煽るんだといった上から目線の姿勢や,大人が子供をしつけるような物言いをしている,あるいは,情報の押し売りをしています。これではだれからも受け入れられなくなっていくでしょう。いくらでも情報が手に入る今では,そんな目論見はバレバレです。
 雑誌の休刊や,通常のテレビ番組がかえりみられなくなっているのは,それが少なからぬ原因のように思います。

☆ミミミ
アメリカでの皆既日食を撮影するために購入した機材を有効利用するために太陽黒点を撮影しています。このところ太陽の黒点が少なく,写しても張り合いがなかったのですが,昨日は結構な黒点が出現しました。
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 「精神的な断捨離」についてはすでに書きました。今日は「物質的な断捨離」です。
 歳をとると,モノを買うとか,人と比べるとか,そういったことの価値感がまったくわからなくなってきました。
 買うまでは欲しかったモノでも,一旦買えばそれが家にたまるだけで使うこともあまりない,そんなモノがたくさんあります。私の興味のあるカメラでも,新しいシステムカメラを買ったところでそれを使う時間すらあまりないから,結局,使わず家にため込むだけだということが,これまでの経験で身に染みました。私も昔は欲しいモノだらけでしたが,やっとそういうモノを手に入れても,すぐに新製品が出てきて,また新しいモノが欲しくなることはいつものこと。あるいは,売れ行きがよくないと,ユーザーのことなどお構いなしに,そのメーカーが撤退して裏切られることもいつものことなのです。
 そんなことを思い出すと,結局,衝動的に買いたくなるモノで本当に必要なモノなど,ほとんどないことに気づきます。

 といいながらも,周りを見回すと,ここ何十年も使ったことのないモノやら着たことのない衣服やらがいくらでも出てきます。で,これらを断捨離しようと考えると,今度は逆に,捨ててしまったものに限って,ある日突然必要になったりすることも,また,まれではありません。捨てるときには要らないと思っても,何かの事情でそれが必要になることが少なくないのです。それは,捨てるときには必要がないと思ったモノでも,そのモノを買ったときにはそれが必要だという事情があったからで,捨てるときにはそのことを忘れているだけかもしれないからです。だから,断捨離は難しいのです。
 このごろ,終活とかいって,身の回りを整理することが流行っていたりするのですが,これは時間のムダです。いざ本当に処分しなけらばならないとなれば,お金を出して業者に頼めば,一挙に廃棄などできてしまうのです。だから,生きている貴重な時間をそんなことに費やすのは愚というものかもしれないなあと,親の遺品を整理したときしみじみそう思いました。
 お金を貯めるにはお金を使わなければいい,モノを減らすにははじめからモノを買わなければいい。これが大原則なのです。ということで,すでに買って持っているものは大切に使う,そして,衝動買いはしない。何か新たなものが必要になったときには,すぐにモノを買わずに,身の回りにあって今は必要がないと思っていたモノをまず思い出してそれで代用できないかを考えて,そのモノに活躍を場を与える。それさえ心掛ければ,少ない持ちモノでこころ静かに生きることができることでしょう。
 「精神的な断捨離」ができれば「物質的な断捨離」もできる,そしてまた,「物質的な断捨離」ができれば「精神的な断捨離」もできるわけです。

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Happy New Year 2020
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 新しい年になりました。
 2019年は,なかなか楽しい年でした。それとともに,いろんな人と不思議な関わりのたくさんあった年でもありました。海外では,新たにまたいろんなところへ出かけて,さまざまなことを経験しました。国内も,長年行きたかったのに行く機会がかなったところに数多く行くことができました。1年前は「人恋しい病」にかかっていたのですが,それも全快し,それとともに新たな境地になったりと,精神的にとても落ち着いた年になりました。さらに,世界の歴史を調べたり,いろんな国の言葉を覚えたりと,そうした時間がもてるようになってきました。それとともに,海外に出かけても,より深くその国の文化がわかるようになってきました。
 常日頃,水が流れるように毎日を過ごそうと心がけけているのですが,そんな心がけをしなくても,自然に毎日を過ごせるようになってきました。それはまさに「精神的な断捨離」がうまくいったからでしょう。

 さて,この新しい年。今年もまた,いろんな新しい計画を立てて,実際にそれを実現したいものだと思っています。そしてまた,私は,これまで以上に精神的に楽しい年になったらいいなあ,と思っています。それは,美しい音楽を聴いたり,静かな場所でゆったりと本を読んだり,おいしいものを食べたり,気持ちのよい場所に出かけたりといった時間が過ごせたらいいなあ,ということです。
 人がこれまでに築いてきた文化や芸術は本当に奥が深く,知れば知るほどおもしろくなってきます。そうした楽しみを少しでも多く味わいたいものです。人は結局,物質ではなく精神的な幸福を求めて生きているのです。

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 以前,私は,家に山ほどの本がありました。それらの本の多くは,実家を売ったときに処分したのですが,ほとんどゴミにしかなりませんでした。何度も読むような大切なものは今も手元に置いてありますが,小説などは一度読んだだけ,というものも少なくありませんでした。こういう現実を知ると,この先かさばる本を買おうという気持ちもなくなってきました。
 旅行に行くとき,電車や飛行機の待ち時間や乗っている時間を退屈しないで過ごすには本を読むのが一番よいのですが,こういうときには難しいものは受け付けません。そこで,一番手ごろなのは肩の凝らない雑誌です。しかし,なるべく持ち物を増やしたくないので,もっぱら電子書籍が重宝します。

 現在,私にとって本や雑誌はそんな立ち位置となっているのですが,今日は雑誌について考えたいと思います。
 私は常々,自分の精神が劣化するような気がするので,興味本位の週刊誌は読みません。なかには真実の報道もあるのでしょうが,書き方がオーバーで売らんがためというのが見え見えで買う気を失くさせます。しかも,書き方が下品で,新聞広告を見るだけで不快になります。そしてまた,日本にはアメリカの雑誌「TIME」のような中身の濃いものがありません。日本ではそんな硬派な雑誌は売れないのでしょう。
  ・・
 私が長年読んできた月刊雑誌が3つあります。それらは「アサヒカメラ」「月刊天文ガイド」「将棋世界」です。幸い,これらの本はみな今では電子書籍でも手に入ります。そこで,私は,こうした雑誌で,興味のある記事が載っているときは今も時々購入して,iPad や iPhone に入れて持ち歩いています。しかし,このごろはなかなか買いたいと思う号がなくなってきました。

 「アサヒカメラ」は,これまで,写真というよりもカメラの情報を読みたさに買っていたように思います。そこで,カメラの新製品が出ると,その情報が知りたいので購入していました。しかし,現在のように,カメラ自身に魅力がなくなってくると,それと同時に雑誌自体にも興味がなくなってきました。その昔は,新しいカメラを評価する記事がとてもおもしろかったのですが,時代が変われど,内容が変わらないので,その魅力もなくなってしまいました。今は「ニューフェイス診断室」という連載もなくなってしまったようです。写真の雑誌なのだから,もっと写真芸術に関するおもしろい骨のある記事があれば読みごたえもあるのでしょうが,そんなものはほとんどありません。なにか中途半端で,いったいこの雑誌が何を目指しているのかが今の私にはよくわかりません。よって,まったく買わなくなりました。
 次に「月刊天文ガイド」です。この雑誌がリニューアルしたときにこのブログに取り上げましたが,そのころ私はずいぶんと期待しました。それ以降,表紙は毎号垢抜けていて,紙媒体でも購入しようと書店でなんどか内容を確かめたことがあります。しかし,読んでみると,内容が私の望むものではない,とても中途半端なものばかりでいつもがっかりして,買う意欲を失くしてしまいます。この雑誌もまた,今では私には何を目指しているのかさっぱりわかりません。私の知りたい情報は,何も雑誌を買わなくてもネットで探せますし。私のよく行く書店には毎月5,6冊が納入されるのですが,気の毒なことに,毎月1か月経っても1冊として売れた気配がありません。
 最後に「将棋世界」です。この雑誌は読みごたえがあります。おそらく,今日取り上げた3種類の雑誌の中では,私には一番魅力的な雑誌です。しかし,私にはこの雑誌は難しすぎるのです。将棋の棋譜が書いてあっても,盤上にならべてみなければさっぱりわかりません。よって旅のお供にはなりません。一時,電子書籍としてこの雑誌がアプリで読むことができて,棋譜が画面上で動くという画期的なことが行われたときはすごいと思ったのですが,おそらくこんなことを毎号続けるには異常に手間と費用がかかったのでしょう。いつの間にかなくなってしまいました。そんなわけで,この雑誌は私には読めません。だから買いません。それよりも,ネットで対局の中継やアプリで将棋の対局を見るほうが手軽でおもしろいのです。
 
 このように,以前私が買っていたこれら3種類の雑誌ですが,残念ながら,そのすべてが,私には欲しいものでなくなってしまいました。せっかく電子書籍となっても,それが単に紙媒体のものがPDF化されただけでは意味がありません。これでは今のようなインターネット時代に売れるわけがありません。本屋さんに行っても,ほとんど売れずいつも山積みとなっているこうした雑誌を見るたびにさびしく思います。これもまた,時代の流れでしょうか。それとも,新しい時代に対応できない出版社の怠慢でしょうか。

 台風15号に続いて台風19号と,また,自然災害が日本を襲いました。台風に地震,火山の噴火…,いつどこでそうした自然災害が襲うかわかりません。毎回毎回,日本のどこか,それも,いつも別の場所で,そうした被害に見舞われます。だれしも無縁ではありません。
 テレビのニュースを見ていると,いつも新しい家がこれで台無しになっています。この国で家を建てたところで,いつそうした自然災害に見舞われて,全財産を無にするかわかりません。自然災害の頻発する日本では家を持つことは最大のリスクなのです。

 私は,若いころから,もしお金持ちだったら,大きな家を建てたりするのではなく,理想はホテル住まいだと思っていましたが,調べてみると,それは決して空論ではなく,それを実践している,あるいは,していた人が少なくないことを知りました。これまででもそうして生きていた人がいるのですが,特に現代は,スマホさえあれば事足ります。そこで,持ち物は最小限にして,それでも必要なものがあれば,トランクルームを借りてそこに保存すればいいのです。
 ホテル住まいなら,光熱費もいらず,掃除も必要がありません。コインランドリーさえあれば洗濯も大丈夫です。固定資産税も要りません。ホテルにWifiが完備されていて,おまけに朝食もついているのなら申し分ありません。その部屋がいやになれば出ていくだけだし,自然災害で自分の家が壊れる心配もありません。
 究極の断捨離とは,ホテルに住んで,できる限りモノを持たないで,身軽に,そして,身の丈で分相応に生きること,でしょう。難しいことですが。

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 東京へ行くと,この国はどうして首都だけが繁栄しているのだろうと,いつも疑問を感じます。行くたびにどこかかしかの工事をしています。交通網も文字通り網の目のように完備され安価でどこにも簡単にいくことができますし,Suica を持っていれば電車にも乗れるだけてなく売店でモノも買えるのでストレスフリーです。東京に住んでいる人は,この国の地方の廃退と過疎化を思い浮かべることもないでしょう。
 東北地方,九州地方など,自然災害でどこも大きなダメージを受けているにもかかわらず,その復興よりもオリンピックのための様々な建設が優先されているようにも感じます。そこで,先日のオリンピック日本代表を決めるマラソンをテレビで放送していたときに見た新国立競技場に行ってみました。アメリカのMLBのボールパークの豪華さには遠く及びませんが,それでもこんなに巨大なものを作っちゃっているんだなあと思いました。周りの道路もまた,尋常でない夏の暑さを少しでも緩和しようと,再舗装されていました。しかし,オリンピックが終わったら,オリンピック関連で作られた多くの施設は,おそらくその維持だけでも莫大な費用が発生し,その負担を今の若い人たちがずっと背負っていくのだろうと思うと,開催を素直に喜ぶこともできません。

 大相撲秋場所を見にいったとき,隣に座っていた人が言っていました。
 先日の台風で被害を受けた南房総には,定年を迎えて,全財産を投資して家を建て移り住んだ友人が多く住んでいるのだそうです。残りの人生を悠々自適に過ごそうと手に入れた土地と新居と夢でした。ところが,そうした人達は,この台風で新しく建てた家は破壊され,再び作り直す財産もなく,将来が真っ暗になって立ち直ることもできず困っているのだそうです。その一方で,これまでは高くて手が届かなったこの地方の物件が,この被害で暴落したのを絶好の機会とみて,それを買いあさろうと虎視眈々と狙っている人がいるのだそうです。
 これではハゲタカです。
 一体,この国はどうなっているのでしょう?
 この話を聞いて,やはり,モノというのは持たないに限る,この国ではモノを手に入れるということのリスクは,凡人の想定をはるかに超えているのだなあと,改めて実感したことでした。

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 モノを買うとその維持と処分に困るということを痛いほど知って,私はすっかりモノを買う気持ちがなくなりました。その結果,着るものと食べもの,そして必要な日用品以外は買う意味すらわからなくなってしまいましたし,欲しいとも思わなくなりました。
 街にはショッピングモールがたくさんあって,どこも買い物客であふれています。しかし,そこは歩いている分には楽しくとも,買いたいというモノはほとんどありません。一方,旅に出れば,観光地にはそして空港には土産物があふれているけれど,それを買って帰っても,そのほとんどはゴミと化すだけでしょう。そう考えると,お土産を買う意味もわかりません。

 国は老後に厚生年金をもらっていてもさらに2,000万円いるとかいう報告書問題でかまびすしいのですが,そんなこと国民はとっくに知っています。とはいえ,そうしたことに無策な政府も対案もない野党も,みな,結局は選挙に勝ちたいだけ,騒いでるマスコミは視聴率が稼ぎたいだけ,雑誌を売りたいだけ,そして,そうしたネタを利用して投資をあおり,金融機関は手数料を稼ぎたいだけ,などということを賢い国民はすべてお見通しです。
 そもそも,常々書いているように,世界の進歩からすっかり遅れてしまったこの国は,お金の要らない国でもあるのです。いろんな広告で購買意欲を煽ろうとしていますが,そうした広告に洗脳されるとその場はモノが欲しくなる気持ちになることはあっても,一度冷静に考えなおせば,そのほとんどは要らないモノなのです。
 車はないと困りますが,最低限のモノで充分です。満足に走る道路もないのに高級車など必要ありません。何百万円もするモノを外に置きっぱなしにしておくというようなことだけでも,無謀かつリスクが多いとわかります。駐車場で当て逃げされて自分にまったく過失がなくても,車両保険を使えば等級が下がるなんていう改悪を密かに行った自動車保険を考えても,いい車に乗るということのリスクがわかります。車は2年落ちの中古車が一番です。
 家もまたそうです。これだけ天災の起きる国で持ち家をもつことはリスクが大きすぎます。買ったモノを維持するのに必要な経費を考えても,固定資産税を払うことを考えても,優に家賃を越えます。また,いざ売るとなると,所得税だけでも膨大な金額となります。持ち家信仰というのは家を売りたい住宅会社の新興宗教のようなもの。賃貸マンションが一番です。結局のところ,家を持つというのは「根を張る」ということだから,自由に生きることとは正反対なのです。同じことを松尾芭蕉も「奥の細道」で書いています。

 人にとって趣味というは生きる楽しみを与えてくれるものですが,そうしたことを楽しむために必要なモノもまた,自分に必要な最低限のモノを愛着を持って使い続ければいいわけです。モノは人と競うものでも見栄をはるためのものでもありません。自分が楽しめればよいのです。
 私が趣味でずっと使い続けているのはカメラと望遠鏡ですが,私はプロでもなく学者でもないから,自分に必要なモノさえあれば十分なのです。これだって,広告に洗脳されると新たにモノが欲しくなる気持ちになることはあっても,冷静になって考えれば,ほとんどのモノは買ったあとでは使わずに家にため込むことになるのです。
 おそらく,本当の幸せというのは,できる限りモノのない生活が楽しめるということなのでしょう。私も「断捨離」をしてみて改めて思ったのは,そもそもモノがなければはじめから「断捨離」をする必要すらないということでした。だまされてはいけません。みんなあなたのお金が欲しいだけですよ。

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「1日1断捨離」を実行する①-捨てることこそ難しい。

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Happy New Year 2019
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 これまで私は,手に入れたかったもの,行きたかったところ,やりたかったことをひとつずつ実現してきたのですが,どうやらそれも卒業して,また,新しい境地になってきました。
 手に入れたかったもの,その代表はすでに手に入らなくなった古本が多かったのですが,それらをすべてネットで探して手に入れることができたので,もはや,そういうものを探し回る必要がなくなりました。新刊本は手間暇かけた濃いものもないので,専門書以外はよほどのことでもない限り買うこともなくなりましたし,買う気もなくなりました。興味本位の雑誌の類など,自分の精神が劣化しそうで,まったく読む気もなくなりました。
 以前は,カメラやら望遠鏡やら,欲しいものもあったのですが,カメラは私の望む意外の世界に行ってしまい,やたらと大きく重く,私には必要のない性能を追い求めた製品ばかりになってしまい,興味を失いました。望遠鏡は,結局,星の見えない日本ではどれほど高価なものを手に入れてもたかが知れているし置く場所もないし,星の美しい南半球に出かけるときに持っていく小型のものはすべて整備してしまいました。渋滞だらけで走る道もないのに高級車に乗ることも,少子化で空き家だらけ将来は負債にしかならないのに家を持つことも,ともに意味がないのです。要するに,もう私は衣食以外に手に入れたいものがないのです。
 行きたかったところは,私がずっと思い描いていた大概の場所には行くことができましたし,また,やりたかったこともやってしまいました。

 そんなわけで,これから最も心掛けたいことは「断捨離」です。それは「物質的な断捨離」だけではなく,「精神的な断捨離」なのです。
 「物質的な断捨離」というのは要らないものを処分するということですが,それはモノを買うというよりもずっと贅沢なことです。それをするには,自分にとって何が必要で何が必要でないのか,つまり,自分が何ものなのかがわからないとできないからです。しかし,それ以上に,究極の「断捨離」というのは,むしろ精神的なものです。それは,むやみやたらとモノをなくすことではなく,また,モノを買わないことでもなく,身の丈で自分にとって必要なものはなるべくよいものを手に入れてそれを大切に使うということにつながるからです。
 私はこれまで,まず,消費文化の権化であるアメリカをさんざん旅行して,借金をしてでもモノを手に入れるという物質至上の軽薄なアメリカ文化を経験しました。そのあとで,ヨーロッパを旅行するようになって,アメリカ的な価値観とは真逆な世界を感じることで,新たな驚きを覚えました。俗にいえば,静かなカフェでメランジェを飲みながら内容の濃い本を読み,モーツアルトの音楽を聴いてゆったりと時間を過ごす,という究極の贅沢です。それは,何事も金儲けと対費用効果,そして,教育から商売まで,他人と競うことしか考えない,日本の貧困で愚かな精神性では考えられないことでした。
 乗客を子供扱いするうるさいだけの車内放送,情報としていらないことだけが大きく書かれた案内表示に名を借りた広告板,競争し順位付けするだけで何も身につかない教育という名をかりたビジネス産業,興味本位なだけのテレビ番組や週刊誌,老人からお金を搾取することが目的の若返り商品,そして,オリンピックに万博にリニア新幹線など,この国でやっていることのほぼ9割はなくてもいいことなのです。それらに関わりをもたないことこそが,心の安定と豊かさを生む「精神的な断捨離」なのです。
 そうしたことに目覚めた私が2019年に思い描くのは,物質ではなく精神的な満足とときめきばかりなのです。

 さまざまな事情で中断していた「断捨離」を再開しました。
 はじめてみると,不要なモノがなくなるというのはやはりとても気持ちがよいものです。そのおかげで要らないモノが邪魔していて隠れていたいつも使うモノが目立つようになって,逆に使いやすくなったという利点もありました。モノがあふれている今の時代,モノは買うよりも要らないモノを捨てるほうがむしろ喜びがあるのです。
 しかし,モノを捨てることは買う以上に難しいのです。

 私が一番困っているのが,昔のビデオとかDVD,CDなどです。今ならこんな量のある保存媒体でなく,ハードディスクに保存できるのですが,当時はデータの保存というのはそれぞれ用途によって別のメディアだったので,メディアの量が膨大になっていました。
 しかし,結局,これまで保存してもあとで必要になったことなんてほとんどありません。それに,今改めて再生しようとしても,ファイル形式が異なってしまっていたり,再生する機械がなくなっていたりで結局使えないものさえたくさんあります。
 写真のフィルムも同様です。このブログに載せているほとんどの写真のように,今はデジタルカメラで写したものがハードディスクに保存してあるから,単にそこから取り出せばよいのですが,フィルムだと大変です。かといって,プリントした写真は劣化しています。
 このように,ディジタル時代になって,ずいぶんといろんなことが容易になりましたが,昔保存した媒体を維持するのは大変なのです。かといってむやみに捨てることもできないし,何を捨てていいのかを調べるだけでもずいぶんと時間がかかります。

 これまで「断捨離」をしてみて,最もむなしかったのが書籍です。そのなかには今となっては貴重な本もあったのでしょうが,それを仕分けるのも手間がかかるので,一挙に処分してしまいました。そのようにして売ってみてわかったのですが,それらはほとんどただ同然でした。その割に重く量がありました。
 そんなことを経験した結果,私は,本はよほど必要でなければ買わなくなりました。買っても読み終わったあとが困るからです。今は,どうしても読みたいものがあったとき,電子書籍がないかを探します。そして,なければ買うこともあきらめます。紙媒体の本を売りたのなら,本屋さんのカウンタの横に読み終わった本を引き取ってくれるような場所があればいいなあと思ったりします。

 モノが売れない時代,といわれます。必要なモノすら手に入らなかった時代ならともかく,今のようにモノがあふれている時代では,買うことよりも買ったモノを捨てることのほうが大変なのです。これではモノが売れるわけがありません。
 モノを売りたければ,簡単に処分できるシステムを充実することのほうが必要でしょう。

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 東日本大震災で惜しくもその幕を閉じた白河天体観測所ですが,この観測所の影響を受けて,1980年代はアマチュア天文愛好家は個人のあるいはグループの天体観測所を作ることがあるいは作ろうとすることがブームでした。この歳になると,よほどしっかりした構想がなければ,そんなものを作ることのデメリットのほうが大きいことは容易にわかるのですが,若気の至りで,私もこれまでに2度ほどそうした観測所のまねごとを作ろうと思ったことがありました。そして,ほぼ行動に移し,ともにとん挫しました。

 そのひとつは自宅から3時間余りもかかる,ある山の山頂でした。ここはまあ,当時は空も暗く,星を見るには環境が悪くなかったのですが,遠すぎました。ふとしたことで話が進み,盛り上がり,数人の仲間とお金を出し合って,望遠鏡を買って,そこにそれを置く小屋を作ることになりました。そして,その小屋というのを自分たちで建てるというわけです。それはある年の夏の終わり,ちょうど今頃のことでした。
 しかし,結局,私には行くことさえ面倒な場所で,しかも冬になれば雪が積もって,行きたくとも行くともできませんでした。これではうまくいくわけがありません。結局,小屋はできたものの,私は一度も使うことがありませんでした。今はどうなってしまっているのだろうと思ったりもするのですが,モノを作るというのは作るエネルギー以上に維持するというエネルギーがいるのです。
 今,そのことを思い出すと,同時にひとつの歌が浮かびます。それは財津和夫さんが1979年に作った「虹とスニーカーの頃」という歌です。
  ・・・・・・
 白いスニーカー汚さないように
 裸足で雨の中僕らは歩いた
 びしょびしょぬれのトレーナーが
 乾くまで抱き合った夏の昼さがり
  ・・・・・・
という歌詞です。
 結局,当時の私は,星が見たかったのではないのです。そうした状況に夢を見ていただけのことでした。

 もうひとつは,それから数年後のこと,友人の家の近くに空き地があるからそこに小屋を建てようということになったのです。このときは望遠鏡を設置するなどという王業なものではなく,単に物置き小屋を買ってきて空地に建てるというだけのことでした。で,さっそく小屋を買ってきました。そうしてすぐに小屋ができたのですが,こちらもまた,一度も使わぬままになりました。車があれば,そんなもの建てなくとも,適当なところへ行けば星など見られたからです。
 今となっては,その小屋を建てた場所が本当に美しい星を見ることができた場所だったのかさえ不明です。こちらもまた,私には,そうした状況を夢見ていただけだったのですが,このときのことを思い出すと,今度ははしだのりひこさんが1969年に作った「風」という歌が浮かびます。
  ・・・・・・
 人は誰もただひとり旅に出て
 人は誰もふるさとを振り返る
 ちょっぴりさびしくて振り返っても
 そこにはただ風が吹いているだけ
  ・・・・・・

 結局,私がやったのはそれだけのことです。その頃より歳をとって,少しは分別ができて,結局,人の夢というのは夢を見ているときが幸せだと気づいて,そして,同時に,なぜか当時流れていた歌が思い出として残っているのです。要するに,物質というのはそれだけのことで,それを手に入れると,その維持と,そして,その後の処分に困るのです。
 個人に限らず,モノを作ることには一生懸命でも,それを維持することの困難さを議論することがあまりに少ないのです。資本主義社会というのはそうしてモノを作って消費することばかりを考えていますが,それを維持することの困難さをあまりに軽視しているわけです。だから,この高齢者社会の日本では,これまでに作り上げてきた道路ひとつ,それを維持することもできなくなっていくのは明白なのです。
 「断捨離」の根本は,維持のできないモノは作らない,そして買わないことなのです。

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 海外旅行で現地のツアーに参加すると,そのツアーに,さまざまな旅行会社の団体ツアーで参加した人やら,個人旅行で参加した人やらが一緒くたになっていることがあります。このように,一見複雑な商品構成ばかりの社会でも,実は入口だけは違えども中身は同じ,というものがたくさんあります。ブランド品が実はどこかの町工場で作ったもののOEMで,マークがついているかいないかの違いで値段だけが違ったりするのも同じです。
 たとえば,多くの会社が入札に参加しても,入札に成功した会社がどこも同じ子会社に仕事を委託するならば,結局はどこが入札しても仕事をする人は同じだというからくりがあったりします。

 電気,ガス,水道,電話などは日常不可欠なものなのに,おそらく,その料金体系を多くの人がわかっていないかもしれません。そのなかでも最もわからないのは,携帯電話の「パケット」とかいうものでしょう。電話が3分10円という時代,電話料金は明確だったのですが,いまや,得体のしれない「パケット」なるもので料金を決められたところで,使う側には実感がありません。そんなことがまかり通っているから,法外の料金体系ができあがるのです。
 おそらく最も使った量ががわかりやすいのはガソリンでしょう。しかし,ガソリンンもまた,さまざまな品質のものがあって値段が違うけれど,その値段ほどの違いがよくわからないし,さらにはガソリンスタンドによる値段の違いもあって,メーカーによって品質が違うのか違わないのかなんて判断のしようもないから,なにか釈然としません。
 電気やガスのようなインフラは,多くの会社が作れるものではないから,同じものを使っていながら契約会社が違うと料金が異なるわけです。だから,私にはわけがわからないのです。どうせわけがわならないのなら単純なほうがいい,そんなわけで,我が家ではガス会社との契約を辞めて,ガスも電気も同じ電力会社に統一しました。そうしたところでこれまでと別に何も変わりませんでしたが,ただ,少しだけ値段が安くなったようです。しかし,本当にそれでトクになったのかどうかはわかりません。それよりも,そうしたことで料金の支払いが一元化したので面倒がなくなりました。
 複雑化させることで庶民からお金を巻き上げるのがこの社会のしくみなら,庶民は少しでも断捨離をして単純化することがその防御となるのです。

 そのうち,学校も,入学したときの学校の名前だけが違って,同じ教室で,同じ教師が教えるのにもかかわらず,卒業のときだけ,A君はXという学校の卒業証書を受けとり,B君はYという学校の卒業証書を受けとるといったようになるかもしれません。そこまでいかなくても,今後,少子化でそれぞれの学校が維持できなくなって,教師は人材派遣業者から派遣されて,別の学校なのに同じ先生が教えるということが一般的になれば,それもまた同じようなものでしょう。インターネット上でeラーニングをするというのは,要するにそういうことと同じなのです。
 そもそも大した違いもないのに,やれ高校入試だのやれ大学入試だのといって学校をランク分けして序列化するのは,教育産業と称したビジネスに庶民が貴重なお金を散財させることが目的であることを知らねばなりません。
 私は,将来,同じ先生から同じ授業を受けても,入学した学校が違うというだけで別の学校の名前の記された卒業証書を受けとるなんていう,とても皮肉的で素敵な時代が来るのではないかとひそかに期待しています。そうなれは,学歴やら学閥という「ブランド」は所詮はメッキであって意味のないことだということをだれもが実感して,そのからくりが明白になるからです。

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 今日は今回は旅に持っていくカメラのお話です。
 記録をするだけならば今やiPhoneで十分ですが,それ以上の写真を撮ろうと思うと,やはり,カメラは必要です。「インスタ映え」という流行語が流行るにつれて,一時不振にあえいでいたデジタルカメラが再び売れはじめたようです。
 しかし,カメラに限らず,売れているものや性能がよいものが自分にとって使いやすいものとは限りません。そこで,自分が何を写すのか,どういうカメラがふさわしいのかということを知っている必要があるのですが,それはカメラに限らずどんなものでも同じです。
 売れているものを買う,ブランド品を買う,などというのは最も愚かなお金の使い方で,どんなときも,自分に何が必要であるかがわかっていないといけないのです。

 このブログでいつも書いているように,私が写真を写す対象は旅と星です。星を写すカメラのほうは散光星雲などのHII領域とよばれる天体が写るように一般に販売されたカメラを改造したものなので別として,私は,星以外,つまり,旅にもっていくための最適なカメラをずっとさがしているのです。
 以前,「ライカ」について書きましたが,この「ライカ」のような100万円近い値段のカメラを持っては気軽に旅ができません。また,カメラ会社はこのところ,収益を考えて主に35ミリフルサイズと呼ばれる大きさの受光素子を使ったカメラの開発に力を入れています。そのなかで,ニコンのD850というカメラの評判がよいようです。しかし,私はそんな1キログラムもするような重いカメラを持って旅に出る気もしません。

 私が欲しいのは,35ミリサイズに換算して25ミリから250ミリくらいのズームレンズがついていてレンズ交換ができる,できるだけ小さくて軽いカメラです。そして,露出補正と連続撮影の設定が簡単にできるもの,さらには,記憶媒体がSDカードのサイズであるもの,というのが条件です。この条件にあてはまりそうなものが今日の写真にあげたいくつかのものですが,どれも,SDカードが使えないとか,使わないシーンセレクトモードがあったりとか,重たかったりとか,どこか私にはひっかかる欠点があって,買う決心が起きません。
 それにしても,どうして,カメラメーカーは旅に持っていくカメラという目的に絞ったよいものを開発しないのでしょうか? カメラマンでもないのに1キログラムもある大きくて重たいカメラを持って旅に行くわけないでしょう。
 カメラマニアというのは,「全財産」をカメラバッグに入れて持ち運び写真を撮っているような人ばかりではないのです。そしてまた,スマホに自撮り棒をつけて写真を撮っているような人よりも,私のように性能のよい小さなカメラを探しているカメラ好きの人は少なくないと思っているのですが,それは少数派なのでしょうか?
 ということで,欲しいものが見つからないので,いくらニコンというメーカーにやる気がなくても,私は,今使っている時代遅れのニコン1J3を当分は使い続けるしかないのでしょう。修理に出したバッテリーの不具合も,原因不明のまますべて新品に交換になって戻って来たことですし…。

 我が家には iPad が5台もあります。内訳は,初代,iPad2,iPadAir,iPadmini,そして買ったばかりの第5世代です。古くなっても下取りに出さないものだからどんどん増えていきました。しかし,さすがに初代は使い物になりません。iPad2 もすぐに固まるので使いづらいです。しかし,残りの3台は現役バリバリです。
 そんな次第で,しばらく初代と iPad2 は隠居をしていたので,この度の「断捨離」で処分をしようとデータの初期化をしました。しかし,作業をしているうちに捨てるのも忍びなくなって,何か使い道がないかを考えるようになりました。その結果,初代は頻繁に見るビデオを保存しておいてそれを見るための専用機として,また,iPad2  は AmebaTV と YouTube を見るための専用機として復帰しました。今では iPad2 は AmebaTV の将棋チャンネルが朝から晩までつきっぱなしになっています。便利なものです。

 さて,そうこうしているうちに,現役バリバリだった iPadAir のバッテリーがおかしくなり,充電してもすぐに切れてしまうようになりました。そこで予約をして AppleShop に持っていきました。
 この AppleShop はきわめてアメリカ的なサービスをするところで,日本人の考える慇懃「無礼」なサービスとは全く違う塩梅なので,そうした間合いを知らない人は腹が立つと思います。なにせ AppleShop には日本のサービスセンターのような「窓口」というものはなく,そこらに立っているスタッフに声をかけて近くのイスに座って担当者が来るのをひたすら待つ,ということなのですから。しかし,その間合いを知れば,それはそれで非常に快適です。その反対に,日本のサービスセンターだと制服を着た(いかにも派遣といった)きれいなお姉さんがにこやかにマニュアルどおりの対応だけはしてくれますが,知識もなく権限もなく,単なる人形です。
 私の iPadAir,AppleShop での「診断」(プログラムを走らせた)の結果,「バッテリー劣化のため交換」と相成りました。保証が切れていたので有償ということでした。部品がないから取り寄せるので約2週間かかるということだったので気長に2週間待つことにしたころ,わずか2日目に連絡がありました。再び AppleShop に出かけたのですが,その修理の内容というのは,バッテリーの交換ではなくて, iPadAir が新しいものに交換されるということでした。

 これはすごいことです。感激しました。4,5年使ったものがわずか1万数千円で再び新品になってしまったわけです。考えてみれば,メーカーとしては,バッテリーを交換するために技術者を養成し,時間をかけて作業するくらいなら,こうして交換してしまう方がずっと効率もよくコストもかからないのでしょう。また,ユーザーにとってもそのほうが利があるから,これがウィンウィンなのです。
 私はこのところ,身の回りの愛用品がやたらと使わない機能満載で使いにくいだけの日本製品から腐骨なアメリカ製品ばかりになりつつあるのですが,こうした企業のサービスの在り方を考えるだけでも,日本の企業がどんどんと世界から取り残されていくことを痛感するわけです。ちなみに私が昨年ニコンに修理に出したカメラのバッテリーの不具合は2か月近くが過ぎても何の返事もありません。時折催促に出かけてもぐたぐた言い訳をするだけでなんの解決も得ることができません。こういう対応を慇懃「無礼」と言います。
 ちなみに,私はこのように AppleShop に持っていきましたが,友人によると,ウェブで連絡をすると運送費無償で取りに来てくれて数日で新品に交換されて戻ってきたのだそうです。

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 旅をしていて思うのですが,人は何をするために旅をするのでしょう?
 「るるぶ」という雑誌がありました。今もあるのかどうかは知りませんが,ガイドブックの商品名にもなりました。この「るるぶ」という言葉の由来は,1972年にJTBの出版事業局が旅の雑誌を発刊するに伴ってネーミングを募集したときに,アイ・シー・エー株式会社(International Consulting & Advertising)の野村元久さんが「見る」「着る」「遊ぶ」をキーワードとして「るるぶ」と発案したものだそうです。つまり,この言葉によれば,旅というのは見どころなどに行って「見る」こと,ファッションを「着る」こと,そして,テーマパークなどで「遊ぶ」ことが目的になるのでしょうか。
 人が集まる場所というのは近年では日本だけに限らずショッピングモールというものがあるのですが,そこには商品が溢れています。しかし,私にとってはそこで売られているもののほとんどがいらない,というより必要がないのです。だから,私にはそういう場所にあるお店がどうして成り立つのかすらよくわからないのですが,旅の目的は,そこで「ショッピング」をしたり「食べる」こと,これに尽きる人も多いわけだから,こうしたお店が成り立つのでしょう。

 しかし,私はショッピングには興味はないしグルメでもないから,旅の目的は非日常を味わい,自分の好奇心を満たすということになります。そうした目的のために,できる限りお金を使わない旅行を工夫するわけです。いわば,旅での「断捨離」です。
 「衣食住」というように,旅をするときに必要なものは泊まる場所と服と食事ですが,泊まる場所は,まあ,シャワーがあって寝られればいいわけです。服は持って行くから旅先では買いません。一番の問題は食事ですが,これをどう工夫するかが,私の最も重要な問題になりますが,それはまたの機会として,今日の話題ではありません。

 今日のお話は旅先での観光です。私が先日ハワイ・カウアイ島に行ったときに参加した「リバーボートツアー」は窓口でチケット買いましたが25ドルでした。このツアーは日本の旅行会社のやっている現地ツアーに組み込まれていて,それを利用すると100ドルになるのです。私がこれまで数回参加した星空観察ツアーというのもそれと同様で,現地で探せば70ドルくらいのものが日本の旅行会社の現地ツアーだと3万円近くにもなります。
 いつも書いているように,旅というのは言葉が不自由で移動手段がないとべらぼうに高くなってしまうのです。
 旅における「断捨離」というのは,こうした出費をいかに抑えるかにかかっているというわけです。

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 技術革新は必要で,それがないと人間の進歩もないわけですが,その速度が速すぎると,その進歩を追いかけているだけで,本当に何が便利なのかわからなくなってしまいます。パソコンや,カメラなども進歩が早くて,日々新しい情報を追いかけていないと,すぐに置いてきぼりにされてしまいます。
 しかし,こうした進歩に接していると,それらを追いかけていった方が有益なものと,どうでもよいものがあることがわかります。たとえば,デジタルカメラは,毎年,どんどんと新しい機種が発売されて,雑誌の記事やさまざまなブログを賑わせています。それらは宣伝だから,やれ「買い」だのと,誠にかまびすしいのですが,使いこなせるようになる前に,また,新たな機種が出るのでは,それを追いかけていても消化不良になってしまうだけです。
 これでは,やたらとたくさんの問題集に手を出して,しかし,何も身につかない出来の悪い学生の勉強法と同じです。
 私は,カタログや雑誌の記事から知識を得て,結局はそうした宣伝にまんまと乗せられていた愚かな昔を思い出し,しかし,実際に自分で写真を撮るようになってみて,そんな知識はほとんど空言であることをがわかって,そう思うするようになりました。

 私がずっと使っている望遠鏡は,今から30年近く前に30万円ほど出して買ったものですが,今もそれをもちだしては,月に数度,少し遠出して星の写真を撮りに出かけるのを楽しみにしています。
 そうした古い望遠鏡を本当に使い込んでみると,それは,自分の思っている以上にずいぶんと工夫して作られているんだなあと実感します。器械はしゃべらないのでわからないのですが,もし,口があれば,器械たちは,本当はもっと主張したいことがたくさんあるように思うのです。
 それなのに,使う方がそれを十分に認識していないので,きっと生れもった性能のそのほとんどが活用されることもなくそのうちに捨てられて,くやしがっているのではないかと思うようになりました。

 プロならともかく,所詮は趣味で楽しんでいるのだから,最新技術などを追いかける必要もないのかもしれません。絶えず新しい技術を追いかけることが楽しみな人もいるでしょうから,それは人それぞれですが,私は,限られたお金で人生を楽しみたい,そして,やりたいことが一杯あるのだから,そうしたたえず新しいものを追い求めてお金を使うよりも,新しいものに比べればずいぶんと性能の劣るところもあるだろうけれど,長年連れ添った自分の器機を大切に使ってやることのほうがいいなあと,思うようになりました。
 他人の持っているものと比べる必要もないし,自分の持っているものでささやかに楽しむことこそが一興なのです。

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 先日「ジッツオ」の三脚のことを書いたばかりなので気が引けるのですが,私はこの度「バンガード」(VANGUARD)というブランドの三脚を購入しました。というよりもしてしまいました。私は何事もさらっと8割の力でいい加減にするのが好きです。精一杯なんて似合いません。旅行に行くときも,できるだけ持ち物は少なく,無駄なものは持ちたくないのです。
 南半球に行って星を写すときに携帯用の小さな赤道儀に取り付けるために使用する「ジッツオ」の三脚ですが,フィンランドへ行ってオーロラを写すためにカメラを固定するだけの目的にはちょっと重すぎるのです。以前持っていたのは日本のメーカーの軽い三脚でしたが,わずか数年使っただけでガタガタになってしまい,この度の「断捨離」で捨てました。
 そこで小型でしかも作りのよい三脚を探していたのですが,ネットで見ても質感がまったくわかりません。そこで,ヨドバシカメラの店舗に行って直接触ってみることにしました。

 店内には三脚が文字通り林立していて,何が何だかよくわかりません。事前に目をつけていたものなんて,実際に触ってみたらあまりにやわで話になりませんでした。「ジッツオ」には私の欲しいくらいの小さなものがありません。「ジッツオ」の精度で小さなものを作ればいいのにと思いました。 迷いに迷い,あまりに迷っているので店員さんが代わる代わる来ては相談に乗ってくれます。で,ついに選んだのが「バンガードVEO2 204AB」というものでした。
 「バンガード」知りませんでした。三脚を見ても,製品についてきた説明書を読んでもどの国の製品なのかわかりません。ふつう製品には「Made in ...」という表示があるのですが,それさえありません。なくてもよいものなのでしょうか?
 「ガードフォースジャパン」という会社が取り扱っているということなので,ネットで会社の情報を調べてみると,どうやら「バンガード」というのは台湾のメーカーということがわかりました。「バンガード」,実はOEMでニコンのバカメラバッグなども作っている信頼のある会社です。

 OEMといえば,ブランドなんていうものは虚構だということを教えてくれる存在です。
 たとえば,高性能の天体望遠鏡を作っている「高橋製作所」,この会社自体もともとは別のメーカーのOEM製品を作っていましたが,自社のブランドで名が通りはじめたころに双眼鏡を販売していたことがありました。この双眼鏡,私もそのころに購入して今も使っているのですが,ものすごく性能がよい,しかも安価なものでした。実はその製品は「勝間光学機械」という会社の作ったもので,この会社はとりわけ安くて性能のよいものを今も作っています。
 今から何十年も前に多くの天体望遠鏡メーカーがあったとき,それらの望遠鏡についていた部品もまた別会社の作ったOEMでした。特に接眼レンズはほぼ「谷光学研究所」の製品でした。
 このように,製品には別の会社に委託して作ってもらったOEMがとても多いのです。そして,そうした委託を受けた会社の技術力はとても高いものです。これこそが日本の製造業なのです。

 日本の大手の会社の製品には「日本製」をうたってそれを付加価値にして高級ぶって高い値段をつけた製品を売りにしているものがありますが,結局は今の時代,組み立ては日本で行っていてももともとの部品のすべてを日本製ではまかなえるような時代ではありません。私は,そもそも「日本製」自体に価値を認めていませんけれど…。

 そんなわけで,私は店員さんに薦められて「バンガード」の三脚を買って帰りました。
 家に帰って改めて調べてみると「バンガード」のサイトに私の購入した「VEO2 204AB」という製品がないのです。「VEO 204AB」ならありましたが,値段は私が1万と少しで購入したものの2倍もしました。推測するにこの製品はヨドバシカメラだけで売っているもののようなのです。つまり,ヨドバシカメラがバンガードに委託して作ってもらって安価で販売しているOEMでしょうか? アマゾンコムを調べてみると,そこには「VEO2 204AB」は存在していましたが,そこにあったものもまた私の買ってきた値段の倍ほどもしました。
 要するに,私はものすごくお値打ちに理想の三脚を手に入れたわけです。しかもその出来のよさに満足しました。新年早々,いい買い物をしたものです。

dsc00500_2 数年前,もし旅先でiPhoneのバッテリーがなくなって電気のコンセントがなく充電ができないという事態になったときに何かよい方法はないものかと思って調べていて,はじめて「モバイルバッテリー」なるものを知りました。しかし,当時はそれがどういうものか詳しいことがわかりませんでしたが,ともかくひとつ試しに購入しました。それが「アンカー」(Anker)という会社の製品でした。
 「アンカー」はもともとは家電機器のデザインや開発,販売を行う企業で,グーグルを退職したスティーブン・ヤングによって2011年に設立されました。社名の「Anker」はドイツ語の「Anchor」に因んで名づけられたといいます。
 スティーブン・ヤングは高品質で手頃な価格のノートパソコンの交換用バッテリーを市場に提供するためにこの企業を創業しましたが,その後,携帯充電デバイスの必要性を認識したことでスマートフォンバッテリー充電器とウォール充電器に焦点を移し,現在では売上の大半を占めています。

 私は購入したモバイルバッテリーを,当初はiPhoneの充電用に使っていただけだったのですが,オーストラリアへ行って星の写真を写すときに携帯型の赤道儀の電源や夜露からレンズを守るためのヒーターの電源として非常に便利に使うことができて,はじめてモバイルバッテリーは乾電池替わりになるということを理解しました。
 モバイルバッテリーの出力は,というよりも,iPhoneの充電に必要な電圧は5ボルト,乾電池にすると4個分で(私はそんなことすら知りませんでしたが),そのためにモバイルバッテリーの出力も5ボルトです。12ボルトの出力ができるモバイルバッテリーもありますが,通常は5ボルトです。私は長年,望遠鏡の赤道儀を動かすのに必要な電源に頭を悩ませていました。これは12ボルト,つまり,カーバッテリーで使えるためにそうなっているのですが,エンジンをかけていない車のバッテリーから電源を取り出して使うのは心配なので,12ボルトの出力ができるポータブル電源を購入したり,あるいは乾電池を10個直列にした電源ボックスを使っていました。しかし,重くて大変でしたし,予備の電池を持っていく必要もありました。そこで,5ボルトの出力ができるモバイルバッテリーから12ボルトの出力ができるのならこれを利用するのが最も便利だと思ったのです。調べてみたら5ボルトを12ボルトに変換するコードの存在があることを見つけて,長年の懸案がすべて解決しました。

 カメラの電源もまた頭の痛いところです。これもまた予備バッテリーを持っていくのですが,予備バッテリーを充電するバッテリーチャージャーは電気のコンセントが必要なのです。これもまたiPhoneのようにバッテリーチャージャーがUSB接続できてモバイルバッテリーで充電できるのならはるかに便利です。カメラがスマホに凌駕されてしまう原因のひとつはそこにもあるのです。つまり,バッテリーの問題です。
 日本のメーカー,というよりも日本人はUSBの利便性がまるでわかっていないのです。飛行機に乗れば座席にUSBのコンセントがあたりまえのようについているしアメリカの空港の待合室にはUSBのコンセントがありますが,天下の新幹線にも駅にもUBSのコンセントがないのです。カメラの電池のバッテリーチャージャーもニコンのコンパクトカメラには以前はUBS接続のできるものがあったのですが(USBの使いこなせない「ニコ爺」とよばれるカメラおじさんたちから)不評ということらしくやめてしまいました(ソニーのEマウント一眼レフはできます)。こういうことからも日本の工業製品が世界の標準から乗り遅れてしまっている理由がわかるような気がします。頭の固い,そして古い日本人が足を引っ張っているのです。

 このごろはソニーをはじめとして日本のメーカーもモバイルバッテリーの重要性を知ってそうしたものを発売し量販店にたくさん並んでいますが,これもまた日本人の考えるいつものような後追いでなんらかの付加価値をつけて値段を高くしているものばかりです。丈夫で単機能な「アンカー」を使うとそうした日本製品は「おもちゃ」にしか見えません。それにアマゾンで「アンカー」を買う方がずっと安価です。
 私は,海外旅行のお供にこの「アンカー」のモバイルバッテリーが不可欠になりました(ただし,預け入れ荷物でなく機内持ち込みでないといけないので注意が必要です)。しかし今でもカメラのバッテリーの充電だけが悩みの種です。何度も書きますが,ニコンのカメラのバッテリーもモバイルバッテリーで充電できるようにならないものでしょうか(サードバーティにはそういう製品があります)? そしてまた,充電式のシェーバーも充電式の電動歯ブラシもUSB接続ができてモバイルバッテリーこれひとつで電源がすべてまかなえるようになると予備の電池を持っていく必要がなくなりとても便利だと思うのですが…。そうすれば持ち物の「断捨離」にもつながるのです。

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 観光地に行くやたらと目につくのが外国人とともに三脚にカメラをつけてかついで歩くおじさんたち(たまにはおばさんたちも)です。大きなカメラバッグを背負っている人もいます。趣味は人それぞれですが,私は何もそんな大げさな装備をしなくてもいいのになあとあわれに思ってしまいます。それで人様に迷惑になっていないのならまだしもそうでない方々も少なくありません。
 私はずぼらだから,三脚をもって旅などしません。できる限り軽く,できる限り何も持たないのをよしとします。望遠レンズを使うときも手持ちです。
 でありながら,今日のお話は私が持って歩かない三脚です。

 私はこれまでに結構三脚を買いました。しかし,使わないのだから宝の持ち腐れですって? 実は,私が三脚を必要とするのは双眼鏡で星を見るため,そして,月や惑星など,赤道儀で追尾をする必要のないときに望遠鏡に取り付けるためなのです。そのために結構大きなものがたくさんあります。そのなかでたったひとつ,三脚おじさんのように,カメラに取り付けて風景写真を撮ろうとずいぶんと前に買った三脚があるのです。それが,意識もしていなかったのですが「ジッツオ」(Gitzo)というメーカーの三脚でした。
 「ジッツオ」というのはフランスのカメラ関連製品メーカーで,特に三脚と雲台で知られています。フランス人のアルセーヌ・ジッツホーベン(Arsène Gitzhoven )によって1917年に設立され,1942年第二次世界大戦によりいったん解散したのですが,1944年に生産を再開し,1950年代に入って三脚の生産を始めました。1992年に「マンフロット」も所属するイギリスのVitecグループの傘下となりました。また,フランスからイタリアへ生産の拠点を移転しました。
 
 海外に行って星を写真を写すようになると,軽い装備でなんとかならないかと工夫するうちに,この買っただけで使っていなかったジッツオの三脚に簡易型の赤道儀をつけることを思い立ちました。私はそのときにはじめてこの三脚のすばらしさを意識しました。
 私が持っていた日本のメーカーの三脚の多くもまた,経年でガタがきていたので「断捨離」で捨てました。そうして捨てた日本のメーカーの三脚に比べて,ジッツオは長年経ってもびくともしていなかったのです。それがすばらしさのひとつでした。そしてふたつめは,私の古いジッツオは私の操作ミスから小さな部品が欠損したのですが,調べてみるとそれが今でも手に入るということでした。注文したら海外から1週間もしないで送られてきました。これには感動しました。
 このジッツオ,ライカほどではないにせよ,決して安くないのです。しかし,そんなすばらしさを知ってしまうと,日本のメーカーの三脚はすべて「おもちゃ」にしか見えないのです。だから,私は,そんな「おもちゃ」の三脚を持っている観光地の「三脚おじさん」たちを見ると,その「見る目のなさ」からその人の人間性までをも疑ってしまうのです。
 どうして,こうも日本の工業製品はいいかげんなモノしか作れないのでしょう。そんなことなら,いくら値段が張ってもこの先一生使えそうなジッツオ買っちゃったほうがずっと断捨離に貢献できるのでは? と,ジッツオを使っているとしみじみと思うことでした。

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 名古屋にライカの直営店(ショールーム)ができたということを知ったので行ってきました。場所は名古屋の老舗デパート松坂屋の北館でした。私はデパートには縁がなく,インターネットですべてが購入できる時代にデパートの存在意義などあるのかいな? くらいに思っていたのですが,北館に入ってびっくりしました。店舗を構えていたのはいわゆるブランド店ばかりで,ショッピングを楽しんでいる人たちも,みな,高そうな服を着ていました。ここにはまったく私の生きている世界とは別の世界が存在していました。
 しかし,今どき,世界中の都会はどこに行っても同じようなもので,特に珍しくもありませんでした。
 それにしても,私がいつも思うのは,そうしたところに売っている「ブランドもの」を身につけても,たかがデパート巡りをするくらいしか行くところがないのではなかろうか? ということでした。実際,この国にはそうしたものを役立てるようなところがないのです。そういう意味でもこの国は貧乏人にやさしい国なのです。
 ライカもまた同じで,日本のメーカーのカメラの10倍もするようなカメラをだれが使うのかいな? そんなもの売れるのかいな? とずっと思ってきました。ライカの直営店はまさにそんなデパートの店舗の中にありました。

 ほかにお客さんもいなかったので見貧しい身なりの私は少し躊躇しましたが,意を決して入ってみました。すると店員さんが出てきて,新型ライカ,試してみますか? と言われました。
 私は,これまでに,一度だけ,ライカというカメラを買ったことがあります。M6というフィルムカメラでした。しかし,少し使ってみて,私にはこれは使い切れないと思って,売ってしまいました。しかし,年の功とでもいいますか,ライカに対する知識だけは豊富にあるので,店員さんと互角に会話だけはできます。今回触れることができたのはM10という新型のデジカメでした。そして,触れるやいなや,私はライカにひとめぼれしてしまいました。その質感というがたまらないのです。値段? 約80万円,カメラとしてはすごい値段です。買うことのできないほどの金額ではないにしても,買ってみても,おそらく持ち出すのが怖くて,結局は家の中で見つめるだけになることでしょう。そう考えると,発売されたばかりのCLも触れてみたのですが,これはM10よりも少し安いから魅力的なカメラです。これなら使えます。35ミリに換算して24ミリから240ミリまでのズームレンズがあれば申し分なく最高なんですが…。

 ライカ直営店を後にした帰り道,同じく松坂屋の南館にあるヨドバシカメラに寄ってみました。そこには庶民の空気が漂っていました。しかし,そこで目にした日本のメーカーのカメラに私はひどく失望しました。ライカを触ってしまったあとでは,どれも子供のおもちゃにしか見えません。
 昔からカメラ好きの私は,今,欲しいカメラがないのです。私が今使っているのは,星を写すためのニコンとキヤノンの一眼レフ,どちらも入門機ですが,天体写真用に改造がほどこしてあります。星を写す目的でない海外旅行に持っていくのはニコン1です。このカメラを使っているのは「小さい」ことが理由です。しかし,このカメラ,メーカーにまったくやる気がなく,おそらくはもうすぐ消え去る運命でしょう。海外旅行用と特化すれば売れるのにねえ。ということで「小さく」て使い勝手がよいニコン1の後釜を探しているのですが…。

 よく似た製品は今もあるのですが,スマホに押されて普及品は売れなくなってきたから「高級カメラ」と称するものばかりが発売されるようになってきました。ニコンの一眼レフはキヤノンのそれに比べれはずっと作りがよくてお金がかかっているのが使ってみるとわかります。しかし「ニコンD850」をはじめとして,どれも大きくて重たいものばかりで,プロの写真家ならともかく,こんなもの持って海外旅行はできません。
 オリンパスには「小さく」て作りのよいよさげなミラーレフ「オリンパスペン」があるのですが「アートフィルター」とか「クリエイティブダイヤル」などは要りません。そんな画像処理は写した後でパソコンでできます。こうしたカメラにあるあまりに多くの機能,私は絶対に使いません。だって瞬間に理解できないし,そんな機能を考えていては一瞬のシャッターチャンスを逃してしまいます。こんな使わないものにお金を払う気がしません。技術屋さんが机上で考えているようなスペックは不要です。
 海外旅行に持っていくようなカメラに必要な機能は見やすいファインダーと露出補正と連続撮影モードだけ。カメラの機能も「断捨離」が必要なのです。

 しかも,日本のメーカーが作るどの製品も,おそらくはわずか2年もすれば旧製品になってしまうことでしょう。あるいは,儲からないとなればメーカーはカメラづくりからも簡単に撤退することでしょう。そうしてまた,使えなくなった交換レンズともどもゴミが増えていくのです。私は長年生きているとそうしたカメラの「なれの果て」が容易に想像できます。
 そんなわけで,壊れるまで私は今のニコン1を使い続けるしかないようです。選択肢がないのです。しかし,このカメラのバッテリー,予備を含めて4個持っているのですが,そのうちの3個が原因不明の外壁の破損(割れてしまった)をして現在原因探求中でメーカー預かりとなっています。大丈夫かいな? こんなものを飛行機の機内に持ち込んで火を噴いたらどうするのだろう?
 どうして,こうも日本の工業製品はだめになってしまったのでしょう。そんなことなら,いくら値段が張ってもこの先一生使えそうなライカ買っちゃったほうがずっと断捨離に貢献できるのでは? と,ライカを触ってみてしみじみと思ってしまったことでした。

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ライカの神様-江戸っ子・木村伊兵衛の眼

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 断捨離をはじめたらものを捨てることに加えて,今使っているものを見直したり過ごし方そのものも断捨離をするようになってきました。そこで,今日は旅の持ち物についてのこだわりです。
 旅に出かけるとき,とにかく持ち物は少なくしたいのです。そのためには,帰るまで使わないようなものは必要のないものだからは持っていかない,万一必要になるものがあればそれは現地で調達すればいいということに徹することが大切なわけです。そもそも究極的にはパスポートとクレジットカードとiPhoneさえあれば十分なわけです。それに加えて持っていく必要のあるものはシェーバーとか歯ブラシとかいった日用品,それに着替えくらいのものです。そうなると,旅行バカバンには着替えだけを入れて,携行用のカバンにパスポートとクレジットカードとiPhone,そして日用品を詰め込めばいいので,ほとんど荷物がいらなくなります。

 しかし,それに加えて私が重宝しているものがふたつあります。
 そのひとつはカメラです。やはり。iPhoneだけでは不十分なんです。これまでも書いたことがあるように,私は通常の旅ではやはり望遠レンズや超広角レンズがあるといいのです。私はずっとニコン1を使っているのですが,どうやらこの機種なくなりそうなんです。メーカーもアホですねえ。この小ささが最大の武器なのに何を考えているんでしょう。
 オーロラを見にいったり星を見にいくときはふつうの一眼レフカメラを持っていくこともあります。このときに重宝するのは魚眼レンズです。これだけはiPhoneはかないません。
 もうひとつは機内で快適に過ごすための必需品です。それはノイズキャンセリングつきのイヤホンです。これが非常に有益なのです。私の使っているのは「ボーズ」(BOZE)の「QuietComfort20」というものです。これまでもっと安価なものをいくつか試しましたがまったく期待外れでした。そこでこの高価なものを実際にショールームで試してから購入しました。これがすごくよいのです。これをかけていると耳栓代わりにもなります。機内が静寂になります。

 このように「断捨離」というのはけちることではなくて,よいものはぜいたくしても購入して大切に使うことが究極的にはものを少なくすることにも結びつくというわけです。

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