しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:ヨーロッパ > オーストリア

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 無計画な旅ほど,得るものが大きいものはありません。と,これは,何事もいい加減な私の自己弁護にすぎませんが,それでも,あとで思うに,無計画であればこそ,これほど不思議で,かつ,運がいいとしか思えないこと起きるのです。
 先日,家で,ある写真集を見ていて驚きました。それは図書館の写真でしたが,どうも,私はそこに行ったことがあるような気がしたのです。調べてみると,そこは,オーストリアにあるアドモンドベネディクト修道院の図書館(The library of Admont Abbey)でした。
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 アドモント修道院図書館は,オーストリアのエンス川沿いの小さな町アドモントにある世界最大の修道院図書館です。
 アドモント修道院は,1074年,ザルツブルクの大司教の指示によって建てられました。アドモント修道院が設立されたとき,聖ペテロ修道院から多数の本が保寄贈され,それらの本を収納するために,アドモント修道院に隣接して,1776年に,ウィーンの建築家ヨハンフーバーによって図書館が設計され,建てられました。
 1865年の火事でほとんどが消失し,その後再建されましたが,火事の際に, 唯一,奇跡的に図書館は火災を免れました。
 図書館の内部は美しく装飾されていて,白い2階建てのクローゼットスタイルの本棚にはハードカバーの本がたくさんあります。
  ・・・・・・
 図書館の内部は,奥行き70メートル,幅14メートル,高さ11メートルもあって,約7万冊の本が収蔵され,また,修道院全体では20万冊もの本があります。
 白亜の図書館は,窓から差し込む陽の光によって明るく照らされ,天井には聖書に記された場面を表した7つのフレスコ画が描かれています。また,中央には,オーストリア国立図書館の大広間「プルンクザール」を模した大広間があります。床のタイルは目の錯覚を利用した配色になっています。

 2019年の初冬,私はアドモント修道院図書館に行くことができました。
 といっても,私は,この図書館のことなど全く知りませんでした。では,なぜ行ったかというと,そのいきさつは次のようです。
 私が行きたかったのはハルシュタットでしたが,ウィーンからはあまりに遠く,半ばあきらめていました。しかし,どうしてもあきらめきれず,そこで,見つけ出したのが,ウィーンから日帰りでハルシュタットへいく現地ツアーでした。ガイドさんの女性は英語とドイツ語を話しました。日本人の参加者は私しかいませんでした。
 ハルシュタットはあまりに遠く,早朝に出発したのに,なかなか到着しません。それだけでもイライラしていたのに,私の乗った大型バスは,途中のこの修道院に到着したのです。しかし,そこがどこなのかさえわからず,しかも,当時の私は,どうしてこんなところで道草しているんだとさえ思いました。そして,自分の意思とは関係なく,私は,この図書館の内部を見学したというわけです。
  ・・
 この図書館に憧れ,やっとのことで行くことができたという人のブログがありました。そして,我が身を恥じました。それは,この図書館は,オーストリアの観光案内ガイドブックにも掲載されておらず,また,あまりに辺鄙なので行くのがかなり大変な,「世界一美しい図書館」だったのです。
 アドモントへ公共交通機関で行こうとすると,電車とバスの組み合わせでウィーンから片道約4時間かかります。しかも,午前中に訪ねると,図書館内に差し込む陽の光が多いことと,ほかにほとんど観光客がいないから,荘厳な雰囲気を体験できるとありました。
 これでは,もし,私がこの図書館に憧れをもっていて,ぜひ行ってみようと思ったところで,おそらくは不可能だったことでしょう。
 今では,期せずして,この図書館に行くことができたことを感謝せざるをえません。

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 「会議は踊る」(Der Kongreß tanzt)は,1814年のウィーン会議を時代背景にした1931年のオペレッタ映画です。題名は,オーストリアのリーニュ侯爵シャルル・ジョセフ(Charles-Joseph Lamoral Francois Alexis de Ligne)のことばといわれる「会議は踊る,されど進まず」(Le congrès danse beaucoup, mais il ne marche pas.)からきているもので,長引く会議の隙を縫ったロシア皇帝・アレクサンドル1世(Aleksandr I)とウィーンの街娘・手袋店の売り子クリステルとの夢のような逢瀬を描いています。
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 1814年,ウィーンでは欧州の首脳が集まり重大な会議が開かれようとしていました。クリステルは,パレード中に花束を投げロシア皇帝アレクサンダーに直撃させてしまいます。兵士に捕まったクリステルはアレクサンドル1世の口添えで助かり,ふたりは互いに惹かれ合うようになります。自分の思惑通り会議を進めたいオーストリア宰相メッテルニヒ(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein)は,クリステルを利用してアレクサンドル1世を排除しようと目論むのですが…。
  ・・・・・・

 ウィーン会議は,1814年から1815年にかけて,オーストリアの首都ウィーンのシェーンブルン宮殿(Schloss Schönbrunn)で開催された国際会議です。会議の主催国であるオーストリアは,参加国の代表同士の親睦を深めて会議をスムーズに進めようと,舞踏会や宴会を開きました。しかし,舞踏会が大盛り上がりをみせる一方で,本来の主旨である「話し合い」はまったく進みませんでした。
 このような状態を揶揄して,ウィーン会議は「会議は踊る,されど進まず」ということばで表現されたのです。ウィーン会議の参加国間には領土問題など,簡単には解決が難しく,かつ激しい利害の対立が存在しました。そのため、オーストリアは国同士の関係性をよりよいものにしようと工夫を凝らしましたが,このような強い対立関係にある「ステークホルダー」(利害関係)の間では,親睦を深めることが必ずしもスムーズな会議運営には直結しなかったのです。
 しかし,1815年3月にナポレオンがエルバ島を脱出したとの報が入ると,危機感を抱いた各国の間で妥協が成立し,1815年6月9日にウィーン議定書が締結されました。
 このウィーン議定書により出現したヨーロッパにおける国際秩序が「ウィーン体制」です。

 私は高校で世界史を習わなかったので,ウィーン会議を知りませんでした。
 はじめてウィーンに行ったとき,シェーンブルン宮殿の現地ツアーに参加しましたが,そこで一緒になった人が,シェーンブルン宮殿に入ったときに思わず言ったことばが,「ここが「会議は踊る」の場所なのか」ということでした。私はそれを聞いて,なんじゃそれは? と思ったと同時に,負けた,とも思いました。
 帰国して世界史をはじめて勉強してみて,ああ,こういうことだったのか,と納得しましたが,このように,同じ場所に行っても,その場所についての歴史を知っているか知らないかで,ずいぶんと感動が違うのです。
 それは,どこに行っても同じことです。たとえば,奈良県明日香村の小さな飛鳥川のほとりを歩いていても,また,ウィーン郊外のハイリゲンシュタットの小川に沿った散策道をたどっていても,飛鳥川を詠った万葉集を知っているかどうか,ハイリゲンシュタットの散策道はかつてベートーヴェンが散歩をしたところでこの小川こそが交響曲第6番「田園」を作曲したときにインスピレーションを受けた場所だと知っているかどうか,で,ずいぶんと感動が異なるのです。
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 明日香川 明日文将渡 石走 遠心者 不思鴨
 明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも
 明日香川を明日は渡って逢いに行きましょう 私の心はずっとあなたのことを思っていますよ
   「万葉集」巻11・2701 詠み人知らず
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 そんなわけで,世界史や美術や音楽を知らずしてウィーンを訪れても,おそらく,それを知っている人の感動のそのほとんどは味わえないのです。

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 「クリムト,エゴン・シーレとウィーン黄金時代」(Klimt & Schiele: Eros and Psyche)というドキュメンタリー映画を Amazon Prime Videoで見ました。
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 19世紀末のウィーンを代表する画家であるグスタフ・クリムト(Gustav Klimt)とその弟子エゴン・シーレ(Egon Schiele)の魅力に迫るドキュメンタリーです。
 グスタフ・クリムトとその弟子エゴン・シーレが生きた19世紀末に花開いたサロン文化と愛と官能性に満ちた彼らの絵画の魅力を豊富な映像と資料から詳らかにしています。
 「時代には芸術を,芸術には自由を」(Der Zeit ihre Kunst, der Kunst ihre Freiheit.)
 これは,グスタフ・クリムトを中心に結成された芸術家グループである「分離派」が1898年に建設した展示施設・分離派会館の入り口に金文字で掲げたモットーです。
 グスタフ・クリムトとエゴン・シーレは人間の不安や恐れ,エロスを描いた新しい手法を通じて,それまでの絵画とは異なる革新的な作品を次々と生み出していきました。
 彼らの異端なテーマは,精神医学者ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)が辿り着いた精神分析の誕生と時を同じくして世に現れました。
 そのころ,女性たちはコルセットを脱ぎ捨て,自立を主張しはじめます。封建的なウィーンで抑えられていた人々の衝動が一気に爆発したかのように社会秩序を揺り動かし,自我の本質への対峙がはじまったのです。
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 私は,クラシック音楽をこよなく愛しているのですが,楽器はまったく弾けません。また,絵画はわかりません。高校で世界史を習わなかったために,世界史もまた,全く知らず,興味もありませんでした。
 クラシック音楽が好きでも,ヨーロッパに行こうとは思っていませんでしたが,NHK Eテレで放送された語学番組「旅するドイツ語」でウィーンが取り上げられていたのがきっかけでにわかに行く気になったのです。ところが,行ってみて,その魅力にすっかりはまってしまいました。さらに,絵画にも,そしてまた,世界史にも目覚めてしまったのです。
 2回の旅で,精力的に歩き回ったので,おおよそのところはすべて行くことができたし,グスタフ・クリムトやエゴン・シーレの作品も数多く見ることができました。
 ウィーンは,音楽や美術,そして,世界史に興味がある人には,最高に魅力のある街だったのです。それとともに,それまで,ほとんどそうしたものに素養がなかった自分を恥じるとともに,これまで知らなかったことをとても残念に思いました。
 今でも後悔しているのは,フロイト博物館に行っていないことです。それは,そのころはまだ無知で,どうしてフロイト? フロイトがどうしてウィーンと関係があるの? と思ってしまったからです。

 高校生のころ,学校でずいぶんと勉強させられたのに,漢文を学んでも中国史なんて無縁の存在だったのと同様に,美術を学んでも,ほどんど美術史も絵画の見方も教えられませんでした。まして,世界史がカリキュラムになかったなんて絶望的で,世界の歴史で,ウィーンがこれほど重要な場所だなって,全く知りませんでした。教師たちは文化知らなさすぎでした。生徒に何を学ばせたかったのだろう。
 だから,今にして気づいたことは,一体自分は何を学んできたのだろう,ということです。大学入試問題の数学なんて,英語の文法問題なんてくそくらえ。一体,高校時代,あれほどの時間をかけて自分は何をしていたのだろう。今必要な知識はなにひとつとして学んでいなかった…。
 それにしても,ウィーンの魅力を味わうには,もはや時間がいくらあっても足りません。ウィーンは京都以上に奥深いのです。それでもまた,もし行くことが可能になったのなら,この先も何度でも行ってみたいと思うのです。

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 「2リア(リアズ),3ランド(ランズ)」の想い。
 オーストラリアの次は,オーストリアです。オーストリアで「オーストリアにはカンガルーはいません」Tシャツがお土産に売られているように,この国は,かなり,オーストラリアを意識しているのが滑稽でもあり,気の毒でもあります。
 子供のころ,私にはオーストリアというのはヨーロッパの小国だという印象がありました。しかし,世界史で,この国は第1次世界大戦までは強大な国家だったのを知って驚きました。そしてまた,日本以上に歴史と文化のある国でした。

 ところで,今でも何度もテレビで放映される映画「男はつらいよ」。この映画の第41作「男はつらいよ 寅次郎心の旅路」が先日放送されていたのですが,映画の舞台は,何とオーストリア・ウィーンでした。
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 舞台をウィーン,マドンナとして竹下景子さんを起用した「男はつらいよ 寅次郎心の旅路」は,1989年夏に公開されました。ウィーンが舞台になったのは,当時のウィーン市長ヘルムート・ツィルク(Helmut Zilk)が招致したことによります。ヘルムート・ツィルクは1986年に訪日した際,飛行機の機上で「男はつらいよ」シリーズの作品を見て,ウィーン市民の気質や市郊外の風景が作品の世界と似ていると感じたといいます。
 みちのくのローカル線の列車で知り合った心身衰弱のサラリーマン・坂口の望みでウィーンに行くことになった車寅次郎は現地でツアーガイドの久美子と偶然知り合います。車寅次郎は一緒に日本へ帰ることを勧め,久美子は帰国することに。しかし,いよいよ帰国というときに,恋人だったヘルマンと再会。その瞬間,寅次郎は失恋し,ヘルマンに対して、久美子を幸せにするよう約束させ、帰国の途についたのでした。
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 若いころ,私は,「男はつらいよ」を見にいくのを楽しみにしていたのですが,今回放送されたものは見た記憶がありません。まさか,寅さんがウィーンに行っていたとは…。この映画が上演された当時の私はウィーンに興味がなかったので,記憶に残らなかっただけで,ひょっとしたら見ているのかもしれません。
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 私は,2018年と2019年の2度,オーストリアに行ったことがあります。そして,すっかりその魅力に夢中になってしまいました。今では,再び行きたい国ナンバーワンです。
 この映画を見ると,すでに30年以上前とはいえ,ウィーンの街の様子は,少しも変わっていないのに驚きます。2018年に行ったときに国立歌劇場(Wiener Staatsoper)でオペラを見たのですが,国立歌劇場は第2次世界大戦で大きなダメージを受けたのにもかかわらず,外見は昔のままに再建され,しかし,それぞれの座席には液晶パネルが設置されていて,そこにさまざまな言語で字幕表示され,幕間のカフェの注文もできるようになっていました。このように,伝統を大切にしながらも,日本よりも優れた最新設備が取り入れられていることに驚きました。
 それと同じように,市内を走る地下鉄は,子供連れの人がベビーカーのまま乗り込むことができて,しかも,ベビーカーをもったまま座ることができるように入口付近には座席が用意されているといったように,日本とはまったく違う,人が快適に生きるための工夫が至る所にある,とても過ごしやすい街であったのに,私は,感銘を受けました。
 ウィーン,今では,私が世界で最も好きな街のひとつです。

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 若いころはアメリカを車で旅し,齢をとったらヨーロッパを鉄道で旅したいと,漠然と思っていたのですが,実際のところは,近年まで,ヨーロッパを鉄道で旅する気持ちはほとんどありませんでした。
 アメリカなら空港でレンタカーを借りればそれでどうにでもなるのに比べて,鉄道の旅では,事前に時刻を調べたり,チケットを購入したりと,いつも無計画な旅をしていた私には,ものすごく面倒なことに思えたからです。
 それが,何度もこのブログに書いているように,ふとしたきっかけで,フィンランドやオーストリアに行って,そして,なんとなく鉄道に乗って郊外まで日帰り旅行を楽しんだことで,ヨーロッパを鉄道で旅する楽しみを知ってしまったのでした。

 ヨーロッパは,知れば知るほど歴史も文化も奥が深く,もっと早くから旅をしていればよかったという想いやら,気楽に旅をするには,やはり,英語だけでなく,ドイツ語やフランス語といった言語をもう少し知っていなくては,という気持ちやらで,複雑でした。
 それでも,この先は,1年に1回くらいずつ,ヨーロッパを鉄道で旅をして,観光地でない郊外の小さな町で宿泊するような旅を実現したいものだと思うようになったころ,コロナ禍になってしまいました。やり残したことがほとんどない私でも,このことだけが少し悔やまれます。

 さて,NHKBSPで,2015年度から16年度にかけて「関口知宏のヨーロッパ鉄道の旅」という番組が放送されました。ヨーロッパ10か国,約2万キロを鉄道で走破し,1国につきおよそ10日間の行程で旅の様子を流すというものでした。
 偶然の出会いを装った,しかし,そのほとんどがやらせ,というか,仕組んだ演出だなと感じられた出会いが番組の核となっていたものですが,ヨーロッパの鉄道事情がわかりました。
 放送されていた当時は,私は,ヨーロッパを鉄道で旅したことがなくあまり興味もなかったので,この番組をなんとなく見ていただけでした。見ていておもしろかったけれど,だからといって,行きたいという気持ちにはなりませんでした。
 毎度のごとく再放送だらけのNHKBSPで,先日,この番組のオーストリア・チェコ編が何度目かの再放送されました。もともとは,2016年の2月から3月にかけて放送されたものです。先に書いたように,この番組がはじめて放送されたあとで,私は奇しくもオーストリアに行ったこともあって,今回は興味があって,再び見ることにしました。
 改めて腰をすえて見てみると,自分も利用したことがある鉄道や駅がたくさん出てくるので,とても懐かしくなりました。

 この番組に限らず,テレビでよく出てくるヨーロッパの様々な国ですが,なぜか,私は,一概にヨーロッパと行っても,オーストリアは何度でも行きたいと思い,若いころに1度行ったことがあるフランスやイギリスには,また行きたいと思わないのです。スペインやイタリアにも興味が湧きません。また,オーストリアに行ったことでその必要性を感じてはじめたドイツ語の勉強なのに,その言葉が正真正銘の母国語であるドイツも,また,まったく興味が湧かないのです。
 北欧も,フィンランドには2度行って,とてもいい国だったのに,それでもう満足してしまい,また行きたいとは思わないし,スウェーデンもノルウェーも特に行きたいと感じません。しいていえば,アイスランドはまた行ってもいいかな。
 そんなわけで,もし,コロナ禍が起きていないくて,ヨーロッパ旅行をすることが可能だったとしても,私は,オーストリアに何度もリピートしていたか,もしくは,オーストリア以外で唯一行きたいという気持ちがあるチェコに足をのばしてていただけだったのかもしれません。
 それにしても,ヨーロッパはどの国もすばらしい文化や古い歴史があるのに,私が特定の国にしか興味が湧かないのが自分でも不思議で仕方がありません。ほんとうにどうしてなのだろう?


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 何度も書いているように,私は2016年度に放送された「旅するドイツ語」を見なかったら,おそらくウィーンに行くことはなかったでしょう。海外もいろんなところに行きましたが,ウィーンこそ,私が最も気に入った町となりました。
 しかし,思えば,ウィーンに行く前にフィンランドに行って,はじめて個人旅行でヨーロッパに行くことを知らなければ,気軽にウィーンに行けなかっただろうし,また,フィンラドに行ったのも,その前年,アラスカに行ってオーラを見なかったとしたら,それもありえなかったし,アラスカに行ったのも,アイダホ州で皆既日食を見なかったら行くこともなかったかもしれない,というように,すべてが糸で結ばれているのです。不思議な話です。
 「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないですが,「皆既日食がなければウィーンに行っていない」のです。

 さて,そのウィーンですが,私が知っていたのはクラシック音楽の都,というだけで興味はなく,高校時代に世界史を学んでいない私は,ハプスブルク家(Haus Habsburg)という存在もまったくといっていいほど知りませんでした。
 ウィーンでシェーンブルン宮殿(Schloss Schönbrunn)に観光で訪れたとき,同じ現地ツアーに参加した人が思わず言った「ウィーン会議」と「双頭の鷲」という言葉に打たれました。
 私にとっては「なんだそれは?」という感じでした。知らないことがあると無性に悔しくなる私は,帰国後,その言葉の裏にある意味をずいぶん勉強しました。

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 「双頭の鷲」(Doppeladler,Double-headed eagle)というのは頭をふたつもつ鷲の紋章のことで,東ローマ帝国や神聖ローマ帝国,それに関連したヨーロッパの国家や貴族などに使用されたものです。  
 「ローマ」の象徴としてローマ帝国の国章は単頭の鷲の紋章でしたが,その後も帝国の権威の象徴として使われ続け,13世紀の東ローマ帝国末期のパレオロゴス王朝(Palaiologos)時代に「双頭の鷲」の紋章が採用されたといいます。
 東ローマ帝国における「双頭」は「西」と「東」の双方に対するローマ帝国の支配権を表します。
 「ローマの後継者」の象徴として, また,「東ローマの後継者」の象徴として,東ローマ帝国の「双頭の鷲」は,その後も継承されました。そして,「西ローマの後継者」の象徴としてハプスブルグ家の紋章となり,さらに,オーストリア帝国,オーストリア=ハンガリー帝国,ドイツ国などに継承されました。
  ・・・・・・
 つまり,「双頭の鷲」というのは,日本でいえば「菊の御紋章」のようなものでしょう。
 私は,シェーンブルン宮殿に掲げられたこの「双頭の鷲」が,かつてのハプスブルグ家の権威と威厳を表わしていることに,ある種の怖さを見る思いでした。人間社会というのは,本当に魔訶不識なところです。

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太陽柱。

2月4日朝,太陽柱が見られました。
太陽柱(sun pillar)は地平線に対して垂直方向へ太陽から炎のような形の光芒が見られる現象です。
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 ウィーンに憧れ,行ってほれ込んでしまったオーストリアでした。行けるとも思っていなかったザルツブルグ(Salzburg)も望外に訪れることができて,さらにほれ込んで,2度目の2019年晩秋にはハルシュタット(Hallstatt)にも行くことができました。
 「地球の歩き方」を読んでみると,オーストリアには,さらにさらに魅力的なところがたくさんあるのですが,アメリカと違って,車を借りて走り回れるとはどうも思えず,かといって,公共交通機関を使って旅をするには,かなりの計画性が必要だなあ,と思っていました。そんな折にコロナ禍になってしまい,旅は中断したままとなっています。
  ・・
 「3度目の壁」。
 これまで,いいなあと思ってリピートしたところは世界中に数あれど,3度目のリピートをするほどの魅力のあるところは少ないものです。しかし,これまで2度行ったオーストリアはすばらしいところ,また旅ができるようになるとは到底思えないこのごろですが,もし可能になったとしたら,「3度目の壁」を越えて,真っ先に行ってみたい国です。
 また,私にはオーストリアは高値の花でもあります。それは,美しい女性を遠目で見るだけなのと同じで,なかなかその実態がわからないということです。その理由は公用語がドイツ語ということも理由です。気楽にオーストリアの山岳地帯の民宿に泊まれると思えないと,怖気づいていて,どうも英語圏のように気楽に旅ができないと思ってしまうのです。若いころにもっとまじめにドイツ語を勉強しておけばよかったと後悔しています。

 歴史的に見れば,オーストリアは大国でした。戦争に敗れ,小国となり,現在,オーストリアは自治権をもつ9つの連邦州(Bundesländer)からなる連邦国家です。
 州には独自の司法制度をもたず,また,立法も,外交・国防や金融財政から商工業・文化・医療などにわたるまでが連邦政府の専権事項となっているので,州といってもアメリカのような独立したものではありませんが,州民の郷土意識は強いといいます。
 9つの州は次のものです。
  ・・・・・・
 ①ブルゲンラント州(Burgenland)
 ②ケルンテン州(Kärnten)
 ③ニーダーエスターライヒ州 (Niederösterreich)
 ④オーバーエスターライヒ州 (Oberösterreich)
 ⑤ザルツブルク州(Salzburg)
 ⑥シュタイアーマルク州( Steiermark)
 ⑦チロル州(Tirol)
 ⑧フォアアールベルク州( Vorarlberg)
 ⑨ウィーン(Wien)
  ・・・・・・

 私がオーストリアで,ウィーン,ザルツブルグの次に行きたかったのが,このハルシュタットでした。ところが,ハルシュタットという名前は有名なのに,調べても,どこにあるのか,それが地名なのかさえ,なかなか把握できませんでした。私がハルシュタットに行こうとしてやっと見つけて参加した現地ツアーも,ザルツカンマーグートへの旅,とありました。今度は,ザルツカンマーグートって何だ? という感じでした。
 調べてみると,次にことがわかりました。
 ザルツカンマーグート(Salzkammergut)は地方の名前で,先に書いた9つの州のうちオーバーエスターライヒ州とザルツブルク州にまたがるオーストリアの観光地です。ザルツブルク市の東方に位置します。ザルツカンマーグートは「塩の御料地」の意味で。かつて,この地方の価値ある塩鉱がハプスブルク帝国の帝国直轄地だったことに由来しています。
 私が憧れた,そして行くことができたハルシュタットは,オーバーエースターライヒ州に属する小規模な基礎自治体「ゲマインデ」(Gemeinde)のことで,ザルツカンマーグート地方の最奥に位置する景勝地ということでした。ハルシュタット湖(Hallstätter See)の湖畔にあって,周辺は,ザルツカンマーグート地方のハルシュタットとダッハシュタインの文化的景観」として、ユネスコの世界遺産に登録されています。
  ・・
 「世界で最も美しい湖畔」といわれるように,期待どおり,素朴で美しいところでした。
 ウィーンから日帰りで行くには遠く,一時はあきらめていただけに,本当に行くことができてよかったと思います。それに加えて,私がこころに残るのは,その途中のバスの中から見たアルプスの景色でした。こんなに美しい山村があるのか,と思いました。

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◇◇◇
JWST reaches its final destination a million miles from Earth.

The James Webb Space Telescope has reached its final destination, almost a month after launch.
JW

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 私は,マーラーの生涯についてもあまりよく知らなかったので,調べてみました。
  ・・・・・・
 グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)は,1860年,ユダヤ人のベルンハルト・マーラー(Bernhard Mahler)とマリー・ヘルマン(Marie Hermann)の第2子として,当時オーストリア帝国に属したボヘミア王国のイーグラウ(Iglau),現在のチェコ・イフラヴァ(Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt),現在のカリシュチェ(Kaliště)に生まれました。1860年は,日本ではあと7年で明治維新という幕末であり,ブラームスが生まれた1833年の27年後,ブルックナーが生まれた1824年の36年後です。長男が早世して,グスタフ・マーラーは長男として育てられました。
 父のベルンハルト・マーラーは荷馬車での運搬業を仕事にし,やがて,酒類製造業を開始,ユダヤ人に転居の自由が許されてから家族はイーグラウに移住しました。ベルンハルト・マーラーは強い出世欲を持ち,子供たちにもその夢を託しました。
  ・・
 幼いころから教育を受けたグスタフ・マーラーは,ドイツ語を話し地元キリスト教の教会の少年合唱団員として合唱音楽を歌っていました。1869年,9歳のときにイーグラウのギムナジウムに入学し,10歳となった1870年にはイーグラウ市立劇場での音楽会にピアニストとして出演しました。
 1875年,15歳で現在のウィーン国立音楽大学であるウィーン楽友協会音楽院に入学し,1877年にはウィーン大学にてアントン・ブルックナーの和声学の講義を受けました。そして,卒業後,1883年に23歳でカッセル王立劇場の楽長となり,音楽祭では指揮者として成功をしました。その後は,プラハのドイツ劇場の楽長,ライプツィヒ歌劇場の楽長を経て,ブダペスト王立歌劇場の芸術監督,そして,ハンブルク歌劇場の第一楽長となりました。
 1897年,37歳で現在のウィーン国立歌劇場であるウィーン宮廷歌劇場の第一楽長に任命され,翌年には芸術監督となりました。さらに,1898年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者となりました。しかし,1901年,40歳のときウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し,ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を辞任します。また,1902年には,41歳で当時23歳のアルマと結婚しました。
 1909年,49歳でニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となりますが,1911年,アメリカで感染性心内膜炎と診断され、ウィーンに戻ったのち,51歳の誕生日の6週間前に敗血症で死去しました。

 グスタフ・マーラーは,こうした多忙な日々の間に,多くの交響曲を作曲しました。
 マーラーにとって,交響曲の作曲は仕事の合間の娯楽のような気がしますが,それらは歴史に残る大きな偉業となりました。
 指揮者のヘルベルト・ブロムシュテットさんは自伝に次のように書いています。
  ・・・・・・
 マーラーの音楽は(はじめのころは)理解できませんでした。マーラーの交響曲のなかに引用されている民族音楽は,私には感傷的でしかも俗っぽく感じました。こんなものは交響曲のなかにはあってはならないと思っていたんです。
  ・・・・・・
 私も,マーラーの交響曲をはじめて聴いたときには,同じことを思いました。そこには,ベートーヴェンの交響曲のような張り詰めた厳格さとか,ブラームスの交響曲のような緻密に計算しつくされた構成とか,ブルックナーの交響曲のような神々しさはありません。なよ~っとしたグロテスクな感じというか,そんなもののどこがいいのかと思いました。
 しかし,今では,マーラーの交響曲はコンサートの定番となり,多くの人を引きつけているのです。
 作曲は,南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニック(Maiernigg)に山荘を建て,主にそこで行なわれました。

 グスタフ・マーラーは上昇志向が非常に強く,かつ,才能に溢れていたようです。こうした人は,人間としては好かれなくとも,その才能から作られた芸術だけは,それを越えて,人々にいつまでも敬意をもって迎えられるようです。リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)もまた,同じようなものでしょう。
 私は,マーラーの作曲した10曲の完成した交響曲と未完の1曲のうち,「大地の歌」(Das Lied von der Erde)が最も好きです。この曲が最高傑作だという人も少なくありません。「大地の歌」を聴くと,若くして病に侵されたグスタフ・マーラーの無念さとともに,自然へ回帰する憧れのようなものを感じます。
 この曲は,悲しみとともに,安らぎと,そして,救いで閉じられます。
 私には,生きる希望が湧いてきます。
  ・・・・・・
 Die liebe Erde allüberall Blüht auf im Lenz
 und grünt aufs neu!
 Allüberall und ewig Blauen licht die Fernen!
 Ewig... ewig...
  ・・
 愛しき大地に春が来てここかしこに百花咲く
 緑は木々を覆い尽くし永遠にはるか彼方まで
 青々と輝き渡らん
 永遠に… 永遠に…
  ・・・・・・


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 私が若いころは,「ブルックナーとマーラー」というように,このふたりの作曲家は一緒に考えられていました。1曲が長いということや,ともに交響曲を9曲から10曲ほど残した,という共通点があり,さらに,今ほど一般には知られていなかったから,ベートーヴェンを卒業した「ツウ」が聴くものというようなイメージもあって,私は背伸びして聴いたものです。 
 ブルックナーの交響曲もマーラーの交響曲も,はじめはよくわからなかったのに,いつしかすばらしいと思うようになったのですが,それがいつなのかは思い出せません。
 なかでも,マーラーの交響曲は合唱を伴うものが多く,入りやすいこともあって,けっこう早いうちから何とか聞き通すことができるようになりました。しかし,はじめて交響曲第2番「復活」を聴いたときは長くて途中でめげたのを思い出します。
  ・・
 今でもそうですが,はじめて聴く曲は,この曲の何がいいのだろうと思うことが少なくありません。こういったものを聴くのは修行でしかなく,そんなとき,いったい音楽を聴くということは何モノぞ,と自問してしまいます。ある意味,苦痛でしかないからです。しかし,巷で「よい」といわれているものは,不思議なもので,何度も聴いているうちに,はまってきて,そのよさがわかってきます。

 ところで,実際はブルックナーとマーラーを一緒くたに考えるのはまちがっているのですが,それでもあえて比較すると,ブルックナーは自然を相手にしていて,マーラーは人間を相手にしている音楽,あるいは,ブルックナーは人間の精神性を奏で,マーラーは人間の感情を奏でている,またあるいは,ブルックナーは墨絵であり,マーラーは色彩画という感じが私にはします。
 私は,ブルックナーは日常いつも聴きますが,マーラーはコンサート会場で聴くことはよくあっても,日常聴くことはほとんどありません。
  ・・
 一時,マーラーのある種のきらびやかさが嫌いで,しばらくマーラーを聴くことを中断していた時期がありました。そんな私が再びマーラーに向かうようになったのは,ウィーンを訪れて,マーラーの墓を詣でたことがきっかけでした。
 マーラーが埋葬されたのは,ウィーンのグリンツィング墓地です。ここはウィーンの中央墓地とは反対の方角にあって,結構行くのに不便なところです。しかも,ずいぶんと歩いてグリンツィング墓地に着いても,墓地のどこにマーラーの墓があるのかも,行ってみてもすぐにはわかりませんでした。
 やっと見つけた墓碑は小さく地味で,ウィーン中央墓地にあるベートーヴェンやブラームスなどの墓碑に比べて,私は衝撃を受けました。悲しくなりました。それは,「私の墓を訪ねてくれる人なら,私が何者だったのか知っているはずだし,そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」というマーラー自身の考えを反映し,墓石には「GUSTAV MAHLER」という文字以外,生没年を含め何も刻まれていない,ということだそうです。しかし,オーストリアでマーラーという大作曲家がどう思われているか,ということの反映のようにも思いました。
 私は,ウィーンの街はずれのこの墓地あたりの雰囲気とともに,私がグリンツィング墓地を訪れたときに,ちょうどある葬送の列があり,遺体の埋葬に出会ったことも衝撃となって,かなりのショックを受けました。それが,再び,マーラーをしっかり聴いてみようと思うきっかけになりました。

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 私は,ブラームスの音楽を愛してやみません。ブラームスの音楽は思考を邪魔せず,また,落ち込んだときにこころを地獄には導きません。どの曲もいいのですが,特に好きなのは交響曲第4番とピアノ協奏曲第2番です。
 交響曲第1番が発表されたのはすでに43歳のときでしたが,それ以降の10年くらいの間に多くの傑作が生みだされました。その間に,ブラームスの作った曲は洗練され,それとともに渋くなっていったのですが,それは,交響曲第1番と第4番,ピアノ協奏曲第1番と第2番を比べればよくわかります。私は,はじめのころの作品より,後期に作られた曲のほうがより好きなわけです。
  ・・
 しかし,私には,ブラームスに関して,つねにこころに引っかかる点ができてしまったのが,とても残念なのです。
 そのひとつは,ハンス・ロット(Hans Rott)という作曲家を知ってからでした。ハンス・ロットは,自分の作品を認めてもらおうとブラームスを頼ったのですが,ハンス・ロットがブラームスと不仲だったブルックナーの弟子であったために冷遇し,ハンス・ロットはそれがショックで25歳でこの世を去ってしまったのです。つまり,もし長生きしていたら,人類の財産になったであろう交響曲を数多く生み出していたかもしれないハンス・ロットをブラームスは酷評し,その可能性を消し,世の中から葬り去ってしまったのです。
 ふたつめは,NHK交響楽団第1931回定期公演でブラームスのピアノ協奏曲第2番を聴いてからでした。ピアノの独奏者はボディビルダーの肩書もあるツィモン・バルト(Tzimon Barto)という大柄な男性でした。ツィモン・バルトの演奏は,テンポは異常に遅く,進まず,さらに,ふらふら,進みだすと思えば立ち止まり,シンドイだけでした。これが私の好きなピアノ協奏曲第2番なのかと信じられない気持ちでした。いわば,大好きな食べ物を食べて食あたりをして,それからその食べ物が食べられなくなった,そんな感じです。

 さて,それはともかくとして…。
  ・・・・・・・
 ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms)はハンブルグで1833年に生まれました。1833年は,日本でいえば天保年間です。ちなみに,モーツアルトが1756年,ベートーヴェンが1770年,ブルックナーが1824年の生まれです。
 ブラームスの生まれたころは,時代の変革期で,オーストリアでハプスブルグ家が謳歌した時代はすでに過去のものというころでした。ブラームスは7歳でピアノを学びはじめ,すぐに才能を現し,10歳にしてステージに立ちます。ブラームスの生家は貧しかったため,13歳ころからレストランや居酒屋でピアノを演奏することによって家計を支えました。
 1853年というから20歳のころ,ハンガリーのヴァイオリニスト,エドゥアルト・レメーニ(Eduard Remenyi)との演奏旅行でヨーゼフ・ヨアヒム(Joseph Joachim)に会いに行き,ブラームスの才能が称賛されます。ヨーゼフ・ヨアヒムはロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)に会うことを強く勧めたため,ブラームスはデュッセルドルフのシューマン邸を訪ねます。 そこでシューマンはブラームスの演奏と音楽に感銘を受け,ブラームスを熱烈に賞賛し,その後は,作品を広めるために重要な役割を演じることになります。またこのとき,ブラームスは14歳年上のシューマンの妻クララ(Clara Josephine Wieck-Schumann)と知り合い,生涯に渡って親しく交流を続けることになります。
 1862年,29歳のときにウィーンをはじめて訪れた後,ブラームスはウィーン・ジングアカデミーの指揮者としての招聘を受けウィーンに居着くことになり,1871年にカールスガッセ4番地へと移り住みます。そして, ウィーン移住からおよそ10年後の1876年に,43歳で交響曲第1番を完成させます。 最後の交響曲である第4番が発表されたのはそれからわずか9年後の1885年です。
 1896年,生涯親交を保ち続けたクララ・シューマンが死去したのち,ブラームスの体調も急速に悪化し,翌1897年にウィーンで逝去しました。63歳でした。遺体はウィーン中央墓地に埋葬されました。
  ・・
 ザルツカンマーグート(Salzkammergut)は,オーバーエスターライヒ州とザルツブルク州にまたがるオーストリアの観光地です。ここに私が訪れたハルシュタットがあります。
 ブラームスはこの地に別荘をもち,10回も夏期に過ごし,多くの曲を残しました。
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 3月29日の朝日新聞「文化の扉」に「はまる,ブルックナー 洗練とは無縁,でも真理に触れる響き」という記事がありました。この記事を書いたのは太田啓之さんという人で,朝日新聞には吉田純子さんという優れたクラシック音楽に関する記事を書く記者がいるのに,どうしてまたこの人が,と思いました。調べてみると,太田啓之さんはGLOBEに多くの記事を書いていて,特にクラシック音楽に造詣が深いというわけでもなさそうです。さらに,どうしてまた,脈絡もなく,突然,ブルックナーなの? とも思いました。
 「彼が残した10曲の交響曲は,お世辞にも親しみやすいとはいえないが,一度その魅力に気づくと,驚くべき広がりと深みのある作品世界のとりこになってしまう。私自身もそのひとりだ」と記事にあったので,きっとブルックナー好きが執筆の動機だったのでしょう。
 しかし,この記事読んで,ブルックナーを聴いてみようと思うようなワクワク感は感じませんでした。記事に思い入れがないのです。なんだか,書けと命じられて誌面を埋めただけ,みたいに私には思えました。なので,ちょっと残念でした。

 では,気分を一新して…。
 ブルックナーは実にすごいです。私にとっては別格の作曲家です。特に,歳を重ねた指揮者がブルックナーの交響曲を振ると,音楽が昇天し,この音楽のほかに何が必要だろうか,という満ち足りた気持ちになるものです。だから,ブルックナーの音楽のよさを知らずに生きている人は,たとえどんなに地位が高かろうと,財産があろうと,私にはものすごく気の毒な人に思えます。ですが,その「よさ」を知らない人に伝えるのは,非常に困難なことでもあります。残念ながら。
 先日,私の友人のプロのヴァイオリニストの女性と話していて,私がブルックナーの交響曲さえあればそれでいい,というような話をしたら,とても意外な顔をされました。その理由がわかりませんでした。その後,いろんな人に聞いてみると,特にクラシック音楽好きであっても,ブルックナーは苦手という女性が少なくないようなのです。女優の檀ふみさんもラジオ番組で同じようなことを言っていました。それが私にはとても意外なことでした。ほんとうにどうしてなのだろう?
 ブルックナーの音楽を聴くと,大自然の中にただひとり自分が存在しているような気になりませんか。そして,やがて夜が更け,空を見上げると,そこに見えるのは,満天の星であり,悠久の宇宙であり,しばらくすると,夜明けの美しさが全天を支配します。まさにその音楽は大海であり,宇宙そのものです。だから,私には,もう,それ以上のものは何もいらないと感じられるのです。でも,どうして多くの女性にはそれがわからないのだろう…。

  ・・・・・・
 ヨーゼフ・アントン・ブルックナー(Joseph Anton Bruckner) は,1824年(文政7年)というから,日本では将軍徳川家斉の文化文政時代であり,ベートーヴェンが交響曲第9番を,シューベルトが「死と乙女」(Der Tod und das Mädchen)を書いた年ですが,その年に,学校長兼オルガン奏者を父として,オーストリアのリンツ(Linz an der Donau)にほど近いアンスフェルデン(Ansfelden)という村で生まれました。ちなみに,ウィーン会議は1814年(文化11年)です。
 晩年,長年の宮廷オルガニストであったブルックナーがヘス通り2番地の4階建て最上階の家の階段の昇降が困難になっていることを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)が聞きつけ,ベルヴェデーレ宮殿(Schloss Belvedere)の敷地内の上部宮殿脇にある平屋建ての宮殿職員用の住居を皇帝より賜与され,死の日までそこに住みました。
 ブルックナーは,1896年(明治29年)10月11日の朝まで交響曲第9番の第4楽章を作曲していましたが,その日の午後に72歳で死去しました。遺言に基づき,ザンクト・フローリアン(Sankt Florian)修道院の聖堂にあるオルガンの真下の(地下墓所)に棺が安置されています。
  ・・・・・・
 私は,ウィーン市内にあるベルヴェデーレ宮殿には行く機会がありました。リンツはザルツブルグに行く途中,電車の窓からその町を見たことがありますが,降りたことはありません。いつか,機会があれば,リンツへ,そして,ザンクト・フローリアン修道院へ行ってみたいと思っているのですが,その願いはかなうのでしょうか。

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 オーストリアゆかりの作曲家,今日はシューベルトです。
 ウィーンには,シューベルトの生家と最後の家が残っていて,ともに公開されています。私は2018年にはじめてウィーンに行ったときに訪れる機会がありました。
 シューベルトは歌曲の作曲家として有名ですが,歌曲よりも交響曲などの作品を私は好んで聴くことがあります。しかし,短命だったということのほかには,その生涯をほとんど知りませんでした。

  ・・・・・・
 フランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert)は1797年にウィーン北部のリヒテンタール(Lichtental)で生まれました。ベートーヴェンが生まれた27年後のことです。日本では将軍徳川家斉の時代です。
 父のフランツ・テオドールは教区の教師,母エリーザベト・フィッツは結婚前はウィーン人家族のコックをしていました。
 父によってヴァイオリンの初歩を習いはじめたのですが,7歳ごろにはすでに父の手に余るほどの才能を発揮したので,シューベルトはミヒャエル・ホルツァーの指導するリヒテンタール教会の聖歌隊に預けられました。
 聖歌隊の仲間たちはシューベルトの音楽的才能に一目置き,ピアノ倉庫でピアノの練習を自由にできるように便宜を図ってくれたので,良質な楽器で練習をすることができたといいます。
 やがて,コンヴィクト(寄宿制神学校)の奨学金を得て,アントニオ・サリエリの個人的な指導のもとで作曲を学びました。また,同級生たちが貧しいシューベルトを助けたので,多くの室内楽,歌曲,ピアノのための雑品集を残すことができました。
 1813年には変声期でコンヴィクトを去り,父の学校に教師として就職しました。
 しかし,コンヴィクト時代からの友人であったシュパウンの家でシューベルトの歌曲を聴いていた法律学生のフランツ・ショーバーがシューベルトを訪問して,教師を辞め平穏に芸術を追求しないかと提案したので,シューベルトはショーバーの客人になって作曲に専念するようになりました。「私は1日中作曲していて,ひとつ作品を完成させるとまた次をはじめるのです」と訪問者の質問に答えていたといいます。
  ・・
 シューベルトは,教師を辞めたうえ,公演で稼ぐこともできなかったので貧しい生活をおくりました。作品を出そうという出版社もありませんでした。しかし,友人たちは真のボヘミアンの寛大さで,ある者は宿を,ある者は食料を,また,他の者は必要な手伝いにやってきて,自分たちの食事を分け合ったり,裕福な者は楽譜の代金を支払いました。シューベルトは常にこのパーティーの指導者でした。
 1818年はふたつの点で特筆すべき年となりました。そのひとつは作品の公演がはじめて行われたことです。演目はイタリア風に書かれた「序曲」(D590)で,これはロッシーニをパロディー化したと書かれていました。ふたつ目は,ツェレスに滞在するヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位にはじめて公式の招聘があったことでした。そこでシューベルトは夏中,楽しく快適な環境で過ごすことができました。
  ・・
 やがて,マイアーホーファー宅に同居することになり,ここでシューベルトの規則正しい生活が継続されることになります。毎朝,起床するなり作曲をはじめ,それは午後2時まで続きました。昼食のあとは田舎道を散歩し,再び作曲に戻るか,あるいはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問しました。
 友人のフォーグルが1821年にケルントナートーア劇場で「魔王」を歌ったことで,ようやく出版業者のアントニオ・ディアベリがシューベルトの作品の取次販売に同意し,作品番号で最初の7曲の歌曲がこの契約にしたがって出版されました。
 1822年には,カール・マリア・フォン・ウェーバーやベートーヴェンと知りあいました。それほど親しい間柄ではありませんでしが,ベートーヴェンはシューベルトの才能を認め,また,シューベルトもベートーヴェンを尊敬し,連弾のための「フランスの歌による変奏曲」(D624)を出版するにあたりベートーヴェンに献呈しました。
 こうして,1825年,それまでの苦難は幸福に取って代わることになりました。出版は急速に進められ,窮乏によるストレスから解放されました。夏にはかねてから熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をすることもできました。
 1827年,ベートーヴェンが死去し,シューベルトは葬儀に参列しましたが,その後で友人たちと酒場に行き「この中でもっとも早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとりました。このとき友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたといいますが,その不吉な予感どおり,彼の寿命はその翌年で尽きることになりました。
  ・・・・・・

 死後,シューベルトはフェルディナントの尽力で,はじめヴェーリング墓地(Währinger Ortsfriedhof)のベートーヴェンの墓の隣に埋葬されました。
 1888年,ベートーヴェンとシューベルトの遺骸はウィーン中央墓地に移されましたが,現在,ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園(Schubertpark)にはふたりの当時の墓石が残っています。迂闊にも私はこの公園に行くことを逸してしまったのが今はとても残念です。蛇足ですが,現在,近くの別の場所にヴェーリング墓地(Allgemeiner Währinger Friedhof)という同じ名前の場所があるのですが,それはシューベルトがはじめに埋葬されたところとは違います。
 亡くなったあとのシューベルトは歌曲の王という位置づけがなされ,歌曲以外の作品は放置に等しい状況でした。やがて,1838年にシューマンがウィーンに立ち寄った際に,シューベルトの兄フェルディナントの家を訪問しました。そして,亡くなった当時のままの状態で保存されてあったシューベルトの書斎からハ長調の交響曲を発見し,メンデルスゾーンの指揮によって演奏され絶賛されました。さらにその後,7曲の交響曲,ロザムンデの音楽,ミサ曲やオペラ,,室内楽曲数曲,膨大な量の多様な曲と歌曲が発見され,世に送り出されました。


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 アントニオ・サリエリ(Antonio Salieri)はモーツアルトが生まれる6年前の1750年,イタリアの レニャーゴで生まれました。生前は神聖ローマ皇帝・オーストリア皇帝に仕える宮廷楽長としてヨーロッパ楽壇の頂点に立ち,ベートーヴェン,シューベルト,リストといった作曲家を育てた教育家でもありました。また,ウィーンで作曲家として,特に,イタリアオペラ,室内楽それと宗教音楽において高い名声を博しました。
 死後はその名と作品は長い間忘れられましたが,皮肉にも,戯曲「アマデウス」およびその映画版でモーツアルトを死に追いやった人物として取り上げられて知名度が上昇し,21世紀に入ってから音楽家としての再評価されつつあります。

 「サリエリがモーツアルトを殺した」という説は昔からあったそうですが,その後の研究で完全に否定されています。
 実際のサリエリは,ウィーン宮廷での活躍が栄光に輝いていたにも関わらず,妻にも先立たれて寂しい晩年を送り,ヒッソリと息を引き取りました。さらに,死後はプーシキンの戯曲で「モーツアルト毒殺者」としてのレッテルを貼られてしまいました。
 サリエリは貧しい育ちから宮廷に拾い上げてもらった恩義をずっと忘れずにいたと思われ,貧乏な弟子からはレッスン代を取らずに懇切丁寧な指導をし,若い後輩達から非常な尊敬を受けていたといいます。
 サリエリの弟子は優秀な音楽家達が名前を連ねていますが,サリエリは弟子達の催す慈善演奏会にしばしば出演を依頼され出演しました。ベートーヴェンの交響曲第7番,第8番の初演時の演奏に副指揮者として加わっていたというエピソードもありますし,多くの慈善演奏会で,ハイドンやベートーヴェンののオラトリオの指揮をしました。

 特に,シューベルトは,「謝礼を免除されて」サリエリの弟子の一員に加わっていました。
 ウィーンの中心部にあるシュピーゲル小路(Spiegelgrasse)には,シューベルトの住んだ家の跡があります。シューベルトはこの親友のショーバンの家に居候をして交響曲「未完成」を書きました。そして,路地を挟んで反対側の家にはサリエリが住んでいました。 
 私は,ウィーンを歩いていて,ここを見つけて,えらく感動しました。
  ・・
 1816年,サリエリのウィ−ン生活50年を祝う会が大々的に催されました。シューベルトは,この会のために,次の,サリエリに捧げる祝典カンタータD407を作りました。この歌の詞は,サリエリの人徳を称えてやまないものだといいます。
  ・・・・・・
 やさしい人よ,よい人よ!
 賢い人よ,偉大な人よ!
 私に涙のあるかぎり
 そして芸術に浴みするかぎり
 あなたにふたつとも捧げよう
 あなたはふたつをこの私に恵んでくれたその人だから
 善意と知恵があなたから
 噴水のように奔る
 あなたは優しい神の似姿!
 地に降りたった天使のような
 あなたの御恩は忘れません
 私たちすべての偉大な父よ
 どうかいつまでもお元気で!
  ・・・・・・

 ウィーン中央墓地にはサリエリの墓があり,私も2018年に訪れました。台座の石灰岩の原石には「Salieri」と刻まれ,その上に四角錐の墓石があり,十字架が掲げられています。
 墓碑銘には次のように記されてあります。
  ・・・・・・
 1750年の生まれ 
 1825年5月7日宮廷カペルマイスターとして死亡
 安らかに憩え! 
 塵芥から取り上げられて永遠が花開くであろう
 安らかに憩え! 
 今や永遠のハーモニーに君の精神は解き放たれる
 魅惑的な音色で彼は語った
 いま不滅の美を手に入れようとしている
  ・・・・・・


☆ミミミ
1月30日,昨日の朝は,前日に降った雪景色が美しく,温められた水蒸気が立ち上り,幻想的な日の出となりました。DSC_7385


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 ベートーヴェンが生まれたのは1770年12月16日です。ということで,昨年が生誕250年のベートーヴェンイヤーだったわけです。
 すでに書いたハイドンが1732年,モーツアルトが1756年の生まれなので,ハイドンより38年,モーツアルトより14年遅く生まれたことになります。1770年というのはアメリカが独立する少し前,オーストリアではマリア・テレジアが在位していたころ,日本では田沼意次が権力を握っていた時代で,ちょうど,変革時にあたります。

  ・・・・・・
 ベートーヴェンは神聖ローマ帝国のケルン大司教領であったボンに生まれました。父は宮廷歌手でしたが無類の酒好きだったので収入は途絶えがちで,ケルン選帝侯宮廷の歌手だった祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていたので,祖父が亡くなると生活は困窮しました。
 1787年,ベートーヴェンはウィーンに旅し,モーツァルトを訪問しましたが,母マリアの危篤の報を受けてボンに戻ります。母の死後は父に代わって家計を支えるという苦悩の日々を過ごしました。
 1792年,ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められて弟子入りし,ウィーンに移住。ピアノの即興演奏の名手として名声を博することになります。
 20代後半頃より難聴が悪化し,絶望感から1802年には「ハイリゲンシュタットの遺書」をしたためて自殺も考えたのですが,この苦悩を乗り越え,多くの作品を世に出しました。
 晩年の約15年は全聾となり,さらに持病にも苦しめられますが,そうした苦悩の中で交響曲第9番や「ミサ・ソレムニス」といった大作を書きあげました。
 1827年3月26日に56歳で生涯を閉じましたが,その葬儀には2万人もの人々が参列したといいます。
  ・・・・・・
 このように,ベートーヴェンはボンで生まれたためにドイツの作曲家とされますが,主に活躍したのはオーストリアです。そこで,オーストリアにはベートーヴェンの足跡を残す場所が多くあります。
 ハイドンやモーツアルトとは違って,ベートーヴェンの音楽を味わうには,ベートーヴェンの小径とよばれる自然の中を散策するにかぎります。この自然と一体になった音楽が,いまでも我々のこころを打つのだと私は実際に行ってみて感じました。
 
 早いもので,今から22年前の1999年8月,私は皆既日食を見るためにハンガリーに行きました。
 今にしてとても残念なのは,その当時の私は,せっかくハンガリーに行ったのに頭の中には皆既日食のことしかなく,ブタペストなどには多くの歴史的な史跡があるのに,まるで興味がなかったことです。こういうのを「猫に小判」というのでしょう。そもそも,私は学生のころ,ほとんど世界史を学ばなかったので,ハンガリーがヨーロッパの中でどういう位置をしめていたのか,全く知らなかったのです。
 幸い,皆既日食当日は晴れて,私ははじめて皆既日食を見ることができました。そして,その翌日,ブダペスト郊外にあるマルトンバーシャール(Martonvásár)に行って,現在はベートーヴェン記念館となっているベートーヴェンが何度も滞在した城に行く機会がありました。しかし愚かだった私は,どうしてハンガリーにベートーヴェンなんだ,と思ったのでした。
 かつての私がそうであったように,人は歴史や文化を知らないと,輝いているものも輝いて見えないのです。
 私は,旅をするとき,いつもこのことを思い出します。

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☆ミミミ
1月21日,月が接近中の火星と天王星の近くを通りました。普段は見わけがつきにくい天王星を簡単に見つけることができました。IMG_0469ns


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 2018年,私がはじめてオーストリアに行ったとき,目的地はウィーンだけの予定だったのですが,期せずしてザルツブルグまで足をのばすことことができました。ウィーンもザルツブルグもモーツアルトに関する場所がたくさんありました。そして,どこも多くの観光客が訪れていました。
 そうした場所の中で,私が最も印象に残っているのが,ウィーンにあるモーツアルトが埋葬されたというザンクト・マルクス墓地(St.Marxer Friedhofspark)です。
 1791年に35歳で亡くなったモーツアルトはこの墓地の共同墓穴に葬られました。このシーンは映画「アマデウス」(Amadeus)に,かなり衝撃的に描かれています。
 正確な埋葬位置は不明なので,モーツアルトには墓すらないと聞いていたから,どうなっているのだろうと,かなり興味ありました。

 ザンクト・マルクス墓地は,ウィーン市街から路面電車に乗って中央墓地(Zentralfriedhof)に行く途中にあります。中央墓地の入園が午前8時からで,ザンクト・マルクス墓地は午前6時30分ということだったので,中央墓地へ行く途中で寄ってみることにしました。
 最寄りの停留所あたりは,ハイテク企業や自動車販売店などがあって,通勤で行き交う人や車であわただしいところでした。道路の端を歩いて約10分,路地に入り込んだ場所にザンクト・マルクス墓地はありました。これだけでも,ムード満点でした。
 門をくぐって中に入って進むと,モーツアルトが埋葬されたと推定される場所に,天使像が寄り添う円柱形の記念碑がありました。朝早かったからか,訪れる人も私以外にはなく,静かな場所でした。記念碑はとても美しく,「アマデウス」のシーンが払拭されてこころが救われた気がしました。

  ・・・・・・
 モーツアルト(Wolfgang Amadeus Mozart)は,1756年,ハイドンの生まれた24年後に,ザルツブルグに生まれました。1781年,ザルツブルグ大司教の宮殿を飛び出して翌年にはシュテファン寺院でコンスタンツェ・ヴェーバー(Costanze Weber)と結婚式を挙げ,ウィーンに住みました。
 ウィーンで,モーツアルトは住居を転々としましたが,現存するのは,現在モーツアルトハウス(Mozarthaus Vienna)として公開されているところだけで,ここにモーツアルトは1784年から1787年まで暮らしました。この家で歌劇「フィガロの結婚」を作曲したといいます。
  ・・・・・・
 建物の階段を上っていると,モーツアルトが降りてくるような気がして,とてもすてきな場所でした。

 モーツアルトの生まれた町としてあまりに有名なザルツブルグは,ウィーンから電車に乗ると2時間30分程度で到着します。はじめて日本に来て,目的地が東京だったのに,新幹線を使えば日帰りで京都まで行けるということを知って行ってきた,という感じでしょうか。ともかく,私がザルツブルグに行くことができたのは,今から考えると幸運なことでした。この町の空気を知らずしてモーツアルトは語れません。
 ザルツブルグにはモーツアルトの生家(Morzarts Geburtshaus)があります。現在は博物館として公開されていて,多くの観光客で賑わっています。モーツアルトはこの建物の4階で誕生し,1756年から1773年まで暮らしました。
  ・・
 オーストリアでは多くの作曲家が生活し,活躍しましたが,その中でもモーツアルトは特別な存在だということが,行ってみてわかりました。そしてまた,いかに今もモーツアルトが愛されているか,また,その生涯が,短い中にも波乱に満ちたものだったかを痛感しました。

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 再び海外に行くことができるようになったとしたら,まず行きたいのはオーストリアです。この国の歴史と芸術は底が見えません。そして,オーストリアは,ウィーンだけでなく,どこも美しく,落ち着きます。
 そんなオーストリアですが,私はこれまで2度足を運んで,多くの作曲家の史跡を訪ねることができました。行ってみて思ったのは,私は,作曲家の名前はもちろんのこと,多くの作品もなじみがあるのですが,その生涯は意外と知らないものだなあ,ということでした。そこで調べてみることにしたのです。
 オーストリアにゆかりのある作曲家を年代順に。今日はハイドンです。

 私はハイドンの作曲した作品をこれまでほとんど「まじめに」聴いたことはありませんでした。
 ハイドンはえらくたくさん交響曲を書いたという印象しかなく,交響曲も「時計」とか「驚愕」とか,ベートーヴェンなどの作品と比べるとウケ狙いの二流品のような気がしたものです。それでも,何でも全部してみたい私は,ハイドンの作曲した交響曲もすべて聴いてみようと聴きはじめたのですが,正直退屈でした。
 しかし,2018年にウィーンに行ったときに,楽友協会でパーヴォ・ヤルヴィ(Paavo Järvi)指揮ドイツカンマーフィルハーモニー管弦楽団(Die Deutsche Kammerphilharmonie Bremen)の演奏によるハイドンの交響曲第101番「時計」を聴いて以来,考えが変わりました。ハイドンの交響曲ほどウィーンの空気に溶け込むすてきな音楽はないのです。それをきっかけに,ずいぶんいろんな作品を「まじめに」聴くようになったのですが,よく味わうとなかなかおもしろく,かつ,さわやかで,今ではお気に入りです。

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 交響曲の父とよばれるフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn)は,1732年(日本では江戸時代中期の享保の改革のころ)に現在のオーストリア北東に位置するニーダーエスターライヒ州ローラウ村に生まれました。父はその土地を支配していたハラハ(Harrach)伯爵に仕える車大工,母も伯爵に仕える料理女でした。
 音楽学校の校長をしていたおじ(父の妹の夫)に音楽の才能を認められ,6歳のときに音楽の勉強をはじめたといいます。そして,8歳でウィーンのシュテファン大聖堂のゲオルク・フォン・ロイター(Georg von Reutter)に才能を認められてウィーンに住み聖歌隊の一員として9年間働きましたが,変声のため解雇されました。その後はしばらく定職をもたず,ミヒャエル教会付近の建物6階の屋根裏で自活しながら,教会の歌手をつとめたり,ヴァイオリンやオルガンを演奏したりして生計を得ていました。
 1757年ごろ,ボヘミアのルカヴィツェ(Dolní Lukavice)に住むカール・モルツィン伯爵(Karl von Morzin)の宮廷楽長の職に就き,1760年にはマリア・アンナ・ケラー(Maria Anna Keller)と結婚しました。しかし,結婚生活は幸福ではなく子供もできなませんでした。エステルハージ家お抱えの歌手ルイジャ・ポルツェッリ夫人(Luigia Polzelli)との間に子供をもうけたのではないかと言われています。
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 やがて,モルツィン伯は経済的に苦しい状況になり,ハイドンは解雇されてしまいましたが,1761年,西部ハンガリー有数の大貴族エステルハージ家の副楽長という仕事を得ました。
 ハイドンはエステルハージ家の楽団の拡充につとめるとともに副楽長時代に多くの交響曲を作曲し,やがて,楽長に昇進しました。
 1780年ごろにはハイドンの人気は上がり,エステルハージ家以外にも作曲をしたり,ウィーンのアルタリア社やロンドンのフォースター社などと契約を結んで楽譜を出版するようになりました。
 1790年,エステルハージ家のニコラウス侯爵が死去,その後継者アントン・エステルハージ侯爵は音楽に関心を示さず,音楽家をほとんど解雇し,ハイドンも年金暮らしにさせてしまいました。
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 ウィーンに出てきたハイドンは,興行主ヨハン・ペーター・ザーロモンの招きによりイギリスに渡って新しい交響曲とオペラを上演することになり,1791年から1792年,および,1794年から1795年のイギリス訪問は大成功を収めました。この時期に多くの傑作が作られたのです。
 1794年,エステルハージ家ではニコラウス2世が当主になり,ふたたび楽団を再建しようとハイドンを再びエステルハージ家の楽長に就任させましたが,学長となったあともウィーンからは離れず,1793年にはウィーン郊外のグンペンドルフに家を建ててここを晩年の住居としました。
 1809年,ハイドンはナポレオンのウィーン侵攻による占領下のウィーンで,77歳で死去しました。はじめ,ウィーンのフントシュトルム墓地に葬られましたが,1820年に改葬され,現在はアイゼンシュタットに葬られています。
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 今日の写真のように,私がウィーンで見つけたのは,ミヒャエル教会と,その付近でハイドンが住んでいた建物のプレート,グンペンドルフに建てて晩年に住居としたところ,そこは現在博物館となっていました。ハイドンの住居跡の博物館は,予想に反して,私以外に訪れている人もなく,多くの観光客で賑わっていたザルツブルグのモーツアルト住居跡とはあまりに違うのに驚きました。


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 2018年,はじめてオーストリアのウィーンに行ったとき,ウィーンからは遠くてとても行くことができないと思っていたザルツブルグにも行くことができました。しかし,もう一か所行きたかったバーデンに行くことはできませんでした。そこで,その翌年,2018年に行くことができなかったバーデンとともに,新たに行きたくなったハルシュタットを目指して再びオーストリアに旅立ちました。そして,その願いがかないました。今日は,ベートーヴェンの生誕250年にちなんだところということで,その中のバーデンについて書きます。
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 バーデン(Baden bei Wien)は,ウィーン国立歌劇場の前から市電に乗っていくことができます。
 車内からはウィーン郊外ののどかな風景を見ることができました。終点まで乗ればいいと安心していたところ,架線の工事で途中から不通になり,代替バスに乗り替える必要があったのですが,わけがわからず,戸惑いました。親切な人が教えてくれて,といっても,彼のドイツ語はほとんどわからなかったのですが,人はこころがあれば何とななるもので,無事,バーデンに着くことができました。
 余談になりますが,以前,ニューヨークのブルックリンで,やはり,地下鉄が工事で不通になっていて,同じように代替バスに乗り替える必要があった経験がありました。こうした経験が人を強くするのです。

 さて,保養地バーデンはすてきな小さな町でした。ここには,ベートーヴェンが交響曲第9番を書いたという家が保存されていて,博物館になっていました。
 この町でも,私が気に入ったのはベートーヴェンが散歩して,交響曲第9番の構想を練ったという小径でした。昨日書いたハイリゲンシュタットのベートーヴェンの小径同様,歩いていると,自然と交響曲第9番のメロディーが頭の中を流れてきました。
 曲を聴くだけでもすばらしいものですが,作曲家がその地を踏み,その空気に触れた場所を知ると,そのすばらしさがより鮮明になるということを実感しました。私は,バーデンを訪れて,交響曲第9番がより大好きになりました。

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 Froh, wie seine Sonnen fliegen
 Durch des Himmels prächt'gen Plan,
 Laufet, Brüder, eure Bahn,
 Freudig, wie ein Held zum Siegen.
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 喜びをもとう,太陽が 華やかな空を
 飛ぶように走れ,兄弟よ,あなたたちの道を
 喜びを持って,英雄のように
 勝利に向かって
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 ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)は,1770年12月16日,神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンで生まれたので,今日が生誕250年となります。
 1787年,16歳になったベートーヴェンはウィーンに旅し,かねてから憧れを抱いていたモーツアルトを訪問します。やがて,1792年にはロンドンからウィーンに戻る途中でボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され,ウィーンに移住することになります。それ以後は亡くなるまでウィーンに住むことになります。そこで,ベートーヴェンはボンの生まれではあるのですが,ウィーンの作曲家として,今も,ウィーンにはベートーヴェンの痕跡が数多く残っています。

 私は,子供のころからクラシック音楽を聴くことを楽しみとしていて,特にベートーヴェンは,若いころ,作曲したほとんどの曲を夢中で聴いたことがあるので,あまりにも身近な存在となってしまっていて,今は,ブルックナーやマーラーなど,その長さに疲れたときはモーツアルトやハイドンなどを聴くようになって,あえてベートーヴェンの音楽を聴くことも少なくなっていました。
 しかし,今年,生誕250年ということで,FM放送などで頻繁にベートーヴェンの音楽を耳にすると,やはり,そのよさは格別のものに思えるようになりました。再発見です。マーラーのような甘酸っぱさやブルックナーのような土臭さではなく,ベートーヴェンの音楽はシャキッとしているのです。そして,精神が引き締まります。
 本当にベートーヴェンの音楽があってよかった,としみじみ感じます。
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 ということで,生誕250年の誕生日にちなんで,2018年と2019年に行く機会のあったオーストリアのウィーンとその郊外で訪れたベートーヴェンにゆかりのある地の思い出を書いてみたいと思います。
 今日はハイリゲンシュタット(Heiligenstadt)です。

 ウィーンに行くまで,ハイリゲンシュタットはウィーンからは結構遠いところにあると思っていました。しかし,実際は,ウィーン中心部からわずか約5キロメートルほどのところで,地下鉄で行くことができました。
 地下鉄のハイリゲンシュタット駅を降りて歩いていくと,緑豊かなウィーンの森に抱かれたブドウ畑が広がる静かな町が続きます。ここには,ベートーヴェンが作曲の拠点とした場所のひとつで,悲痛な遺書を綴った家などがあります。
 私はこのハイリゲンシュタットが大好きになって,2度目のウィーン旅行でもまた訪れたのですが,私がここで最も印象が深いのが,ベートーヴェンが散歩し,交響曲第6番「田園」の構想を練ったと伝えられるシュライバー川(Schreiberbach)沿いの散歩道です。
 交響曲6番「田園」の第2楽章につけられた表題「小川のほとりの情景」の小川が、まさにここなのだそうです。そう思うと、なんだかすごいところを歩いている気がしたものです。そして,自然と頭の中に「田園」のメロディーが浮かんできました。シュライバー川沿いの細い道は,森が広がりとても美しく静かな場所でした。


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 2016年,アメリカ合衆国50州制覇を遂げるまで,ほぼ,アメリカ以外には興味がなかった私は,その呪縛が解けて以来,まず目を向けたのが,南半球の星空とハワイでした。さらに,NHKEテレで放送された語学番組「旅するドイツ語」の舞台となったオーストリア・ウィーンを見て,急に行きたくなったヨーロッパでした。
 そこで,2017年から2019年にかけて,アメリカ本土に加えて,南半球のオーストラリアとニュージーランド,ヨーロッパのオーストリア,フィンランド,エストニア,そして,ハワイのマウイ島,モロカイ島など,何かにとりつかれたように,足を運びました。
 コロナ禍の今にして,この3年間で,私は,行きたいと思っていた海外の場所のそのほとんどに行くことができたのは,まさに,奇跡でした。
 それらの場所の多くは,また,行く機会があれば,ぜひ行ってみたいと思うところでしたが,その中でも,とりわけ奥が深い,魅力のある場所はオーストリアでした。

 旅行とともに,私が大好きなのは,クラシック音楽を聴くことです。モーツアルト,ベートーヴェンなどの古典派の作曲家はもちろんですが,私がよく接する曲は,ブルックナー,ブラームスなどの作曲家の作品です。以前,ブルックナーとマーラーが同じように語られたことがあって,私も,その影響で,マーラーの音楽を好んで聴いていたことがあるのですが,墨絵のようなブルックナーの音楽に比べて,色彩豊かなマーラーの音楽からは,しばらく遠ざかっていました。
 2018年にはじめてオーストリアのウィーンに出かけて,マーラーの住んだ家や,墓,また,マーラーが指揮者として活躍していたウィーン国立歌劇場などに訪れて以来,再び,マーラーに対する興味が戻りました。このころはまだ,クリムト,シーラなどの美術も知らなかったし,学生時代に世界史をほとんど習わなかった私は,ハプスブルグ家もわかりませんでした。それが,そうしたことに触れ,また,世紀末ウィーンという,それまでは言葉くらいしかしらなかったこの歴史を知るにつけ,この地の文化の奥深さに感動し,それとともに,マーラーの音楽が,そうした時代すべてを反映していることに驚くとともに,そのすばらしさを再発見したのです。

 そんな折に知ったのが,岩波現代文庫「マーラーと世紀末ウィーン」という本でした。
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 マーラーの作品の真の新しさやおもしろさは,世紀末ウィーンの文化史全体に目を広げてはじめて明らかになる。著者は同時代人クリムト,ワーグナー,フロイト,アドラーらの活動をも視野に入れ,彼らの夢と現実のありようを描きだす。また,現在,彼の音楽のどのような側面が注目され,それが現代文化のいかなる状況を表現しているのかを問う。
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という内容のこの本は,私が知りたかったことが網羅されたすばらしいものでした。
 この本はすでに絶版となっていますが,幸運にも私は,新古本を手に入れることができました。
 読んでいると,この時代の文化が私のこころの中に溶け込んでくるようで,本当に幸せになれます。ウィーンで,音楽だけでなく,多くの美術品なども見てきて本当によかったと思うし,マーラーの音楽の本当の意味もやっとわかりかけてきたように感じます。
 この本は,いつも持ち歩いていて,時間があれば,手に取ります。そうすることで,少しでも,この時代のかおりを味わうことができる気がするからです。

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 2016年に放送されたNHKEテレの「旅するドイツ語」を見なければ,私はおそらくウィーンに行くこともなかっただろうし,ハプスブルグ家について知ることもなかったから,「ハプスブルグ展」に足を運ぶことも,当然なかったことでしょう。縁というのは不思議なものです。
 13世紀から19世紀のヨーロッパの歴史は,神聖ローマ帝国とハプスブルグ家を軸にして考えると理解がしやすいものです。学校で学ぶ歴史ではそうした流れがわかりません。実際は,その時代を彩るさまざまな芸術を味わうことこそが,その時代に生きた人の姿を知ることにつながるのです。
 今回,東京で開催されているハプスブルグ展に展示されているコレクションの多くは,すでに昨年ウィーンですでに見たので行く必要もなかったのですが,昨年はあまり知識もなかったので,せっかくそうした絵画に接したのによくわかっていなかったから,今回東京に行った折に足を運んでみました。

 ハプスブルグ家とこの時代の歴史については講談社現代新書の「ハプスブルグ家」に詳しく書かれています。この本は1990年の発行なので古いのですが,内容がすばらしくて,高等学校の世界史の教科書を読むよりもずっとわかりやすくためになります。
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 ヨーロッパ随一の家柄を誇るハプスブルグ家は,もともとはスイスの片田舎を本拠地とした貧しい貴族でした。13世紀後半,のちにルドルフ1世となった人物こそが,のちにヨーロッパ史の中心として力をふるったハプスブルグ家の起こりです。15世紀になって,ルドルフ1世の6代後マクシミリアン1世がブルグント公国のひとり娘マリアと結婚して領地と莫大な富を手に入れたことから繁栄がはじまりました。マクシミリアン1世は,自分の子,孫を次々と他家の王女,王子と婚姻させることで,スペインやハンガリーも手に入れることに成功したのです。 
 マクシミリアン1世の子,美男子だったのでフィリップ美公とあだ名されるフィリップ4世(別名フェリペ1世)が,コロンブスを支援したことで知られるスペインのイザベラ女王の娘ファナと結婚し,その子カール5世(別名カルロス1世)が神聖ローマ皇帝とスペイン王を継承します。その子フェリペ2世の時代になると,スペインのハプスブルグ家は黄金時代を迎えますが,スペインのハプスブルグ家は近親婚が原因で5代にして断絶してしまいます。
 生前退位をしたカール5世は弟のフェルディナント1世に神聖ローマ皇帝を譲り,オーストリアのハプスブルグ家を継承します。しかし,オーストリアのハプスブルグ家も次第に勢力が後退しついには男系の後継ぎもいなくなり,女性であるマリア・テレジアが相続することになります。ここでオーストリア継承戦争,つまり,オーストリアの領土の分捕り合戦が起きます。この難事にマリア・テレジアはハンガリーの助けを受けて国を守り抜くのです。また,彼女は16人の子供をなし,そのうちのひとりがマリー・アントワネットです。マリア・テレジアは女帝として君臨しますが,次第にハプスブルグ家は落日を迎えてゆくことになります。
 マリア・テレジアの孫のフランツ2世(別名オーストリア初代皇帝フランツ1世)はナポレオンに惨敗し,神聖ローマ皇帝位を失います。フランツ2世の子フランツ・カールに嫁いだバイエルン王女ゾフィは,愚鈍な夫が皇帝となることに反対し,息子フランツ・ヨーゼフ1世を皇帝として継がせます。そのフランツ・ヨーゼフ1世がひとめぼれをしたのがエリーザベトです。しかし,エリーザベトはゾフィのいじめなどで悲惨な人生を送ります。そして,最後は暗殺されてしまいます。夫フランツ・ヨーゼフ1世は在位68年にわたり,国民の敬意を集め政権を維持しましたが,息子のルドルフは自殺,後継に指名した甥フランツ・フェルディナンドも暗殺され,これが第一次世界大戦の引き金となり,やがて,ハプスブルグ家は歴史の表舞台から姿を消すことになります。

 このようなハプスブルグ家に関する絵画を中心としたコレクションが展示されているのが,このハプスブルク展です。2020年1月26日までということで,平日であったのにもかかわらず,予想以上の人でうんざりしました。観覧料はウィーンの美術史博物館と同じほどなのに,展示されているものはその100分の1もなく,私にはかなり物足りない展覧会でした。
 ハプスブルグ家が時代を追ってわかりやすく説明されているのならともかく,ハプスブルク家についての知識があまりない人には,おそらく,その作品のもつ意義なんて,ほとんどわからないことでしょう。いずれにしても,この展覧会に限らず,作品を味わうためには,自分がそれに向き合えるだけの知識がなければ,何もわからない,それは旅と同じだなあと思います。

今回の4泊6日のウィーン旅行はこれで終わりです。今回もまた,来るまえに思っていたよりずっと充実した旅になりました。しかし,昨年に比べると何かひとつ物足りません。それは,昨年は雪が降ったのでウィーンもザルツブルグもすっかり雪景色,今年はその美しさがないのでした。
朝,いつものように,6時30分にホテルで朝食をすませました。今回宿泊したホテルは昨年と違ってそれほど豪華なところではありませんでしたが,昨年泊ったホテルは部屋が豪華だっただけで朝食もついておらず,今年のホテルのほうがずっと居心地もよく朝食も豪華で快適でした。この夏に泊ったヘルシンキのホテルによく似ていました。数年前にニュージーランドのテカポ湖で宿泊したホテルは部屋だけはとても豪華でしたがWifiも別料金だったし,豪華なホテルというのは値段が高いだけで,実は最悪,何の意味もないものに余分なお金を払っているだけなのかもしれません。
食事を終えて一旦部屋に戻り帰る準備をして,ホテルをチェックアウトして,地下鉄,ジェットトレインと乗り継いで,ウィーン国際空港に向かいました。空港に行くには自動販売機で空港までチケットを購入すればいいので簡単です。

ウィーン国際空港のラウンジは,セキュリティを過ぎた後,進行方向と反対側にあって標示もほとんどないので場所がわかりにくく,そのために空いていました。なかはとても豪華でした。
やがて搭乗時間になったのでラウンジを出てターミナルに向かい,飛行機に乗り込んでトランジットをするヘルシンキに向かいました。行きで懲りたので,今度は早めに乗って,キャリーオンのカバンを収めるスペースを確保しました。ウィーンからヘルシンキまでの機内は,隣に,母娘ふたり連れの日本の人が座っていて,お話をしていたら,あっという間にヘルシンキに到着しました。
帰りはヘルシンキでのセキュリティもなく,ただ,帰国に際してコンコースの途中のゲートでEUシュンゲン圏から出るために顔認識をしてパスポートにスタンプを押してもらうだけです。ヘルシンキのヴァンター国際空港では,EUシュンゲン圏内乗り換えターミナルだけでなく,国際線ターミナルにもラウンジがあるのですが,そちらのラウンジは意外と知らないので,すごく広いラウンジはほとんど空いていて,とても快適でした。
ヴァンター国際空港のすばらしさは搭乗システムにあります。日本の空港のような,やたらとやかましい放送が一切なく,優先搭乗とかで延々と搭乗を待つ人の列もできません。ここのシステムは,まず,共通の広い待合室から,優先搭乗者と一般搭乗者が搭乗券をチェックして別々の待合室に三々五々入っていって,やがて搭乗時間になるとそれぞれの待合室の出口がそっと開くだけです。こういうシステムひとつをみても,日本人のやたらとうるさく騒ぎ立てるだけで非合理で無駄なことばかりをする思考能力が実感できます。
帰りもまた,エコノミーコンフォートの最前列の窓際をとってあったのですが,行きと同じエアバスA350なのに行きとは別の機体のようで,エコノミーコンフォートの最前列が3席ありました。フィンエアーのA350ではエコノミーコンフォートの最前例だけは通常2席なのです。室内のディスプレイに機体の外についているカメラから機体の外観が映し出されていたのでそれを見たら,この飛行機は幸運にも「マリメッコジェット」でした。2席であればとなりが空いていることも多いのですが,今回は3席ということで,ひとつとなりは空席でしたが通路側の席にはトヨタ自動車に勤めているというドイツ人の男性が座りました。

離陸前に,機体の主翼に付いた氷を溶かすために防徐雪氷液(ADF=Anti-/De-icing Fluid)が噴射されました。窓からそれを見ていてその迫力に圧倒されました。
やがて離陸。眼下にはヘルシンキの夜景がきれいに見えました。夕食を食べ終えて,コーヒーを待っていたら寝てしまい,目覚めたときはすでに眼下に愛知県の知多半島が見えて,着陸態勢に入っていました。おかげて,朝食を食べ損ねました。帰りもまた,400ユーロほど追加するとファーストクラスという勧誘があったので,少し迷いましたがパスしました。しかし,飛行中ずっと寝ていただけなので,これならファーストクラスにしなくて本当によかったと思ったことでした。このように,ホテルも飛行機も要は寝るだけだから,別にそれほど贅沢などしなくても,快適に旅はできるのです。
こうして私は日本に帰国したのですが,ヨーロッパに行っても東京へ行ってきたとさほど変わらず,私には日常のようになってしまいました。それよりも何よりも,海外に行かず世界を知らない人は未だに日本を先進国だと絶賛していますが,何度もこうして海外に足を運ぶようになると,それとともに,本当に,政治も教育もハイテク技術もすべて,めっちゃくちゃでぐっちゃくちゃでぼろぼろで,老朽化し形骸化し硬直し,モノを買うときにいつもわずらわしく思うその会計手段の複雑さを含めて,完全に世界から取り残されていることを私は強く実感します。そしてまた,公共交通に乗ればうるさく意味のない,だれも聞いていない放送が始終かかるのに,遅延したときには必要な情報は一切伝わらない,そうした日本の,マニュアルでしか行動できない人の姿など,要するに,責任を取りたくない金儲けがしたいというだけが本音の,本当にもう救いようがない国になってしまったと思っていたのですが,そうした気持ちが今は確固たる確信に変わってきました。

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帰国の日,フィンランドのヴァンター国際空港のコンコースをサンタクロースさんが歩いていました。何かの宣伝かと思って通り過ぎたのですが,日本に帰ってから,私の乗った名古屋行きのフィンランド航空便の2分後に出発した成田行きのフィンランド航空便にそのサンタクロースさんは搭乗し,来日したといういうことを知りました。つまり,私が出会ったサンタクロースさんは本物のサンタクロースさんだったのです。

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Farewell 2019

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世界遺産であるハルシュタットは,風光明媚なザルツカンマーグート地方の中でも特に美しいといわれる岩塩採掘の町です。「世界の湖岸で最も美しい町」ともいわれ,映画「サウンド・オブ・ミュージック」の撮影にも使われました。
ハルシュタット(Hallstatt)というのは「塩の場所」という意味なのです。船着場に塩を運んでいる人の石像がありました。2002年,この地で古くから使われている塩坑から世界最古の木製の階段が発見されたことで,この地の人々は昔から岩塩を洞窟から掘り出して生計を立てていたのではないかと推測されるようになりました。また, 靴や衣服の切れ端,塩を運び出すのに使われていた道具も見つかりました。塩漬けのハムが盛んに作られていた痕跡も見つかっています。この,今から7,000年も前から行われていたという塩の採掘は現在も続いています。
海のないハルシュタットで塩が採れる理由は,約2億5,000万年前,この地域には海があったからです。地殻変動で海が山の間に取り残され塩湖が造り出され,その塩湖の水を,太陽が長い時をかけて蒸発させ,天然の塩が作られました。そこに土砂やマグマが流れ込み,塩の層は山の奥底に追いやられましたが, 人類が塩辛い水が山から流れ出ているのを見つけたことで,塩を掘り出すようになったのです。

船着場から湖沿いにゼー通りを歩いて行くと,マルクト広場に着きました。この先さらに歩いて行こうとすると,なんと通行止めになっていました。実は,この日,ハルシュタットには火災が発生していたのです。以下は新聞記事です。
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【AFP=時事】
国連教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産(World Heritage)に登録されているオーストリアの湖畔の町ハルシュタット(Hallstatt)で,11月30日,火災が発生した。複数の建物が焼けたものの,消防隊の活躍により,さらなる延焼は防がれた。
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ということで,偶然,こんな事件のあった日にハルシュタットに行ったわけですが,このあたりの家が哀れににも丸焦げでした。仕方がないので高台に続く坂道に迂回しました。そのまま歩いて行くとハルシュタットの町のはずれの最も見晴らしのよい場所まで行ったので,そこで写真を撮ってから引き返すことにしました。
帰る途中,高台にカトリック教会がありました。土地の狭いハルシュタットでは墓地の場所が十分にとれないので,埋葬後10年ほどすると遺骨を取り出して次の遺体を埋めるという風習があったそうです。取り出した遺骨はバインハウスという教会の裏手にある納骨堂に収めらていて,それを見ることができるということだったので見てきました。

船着場に戻る途中で軽い夕食をとりました。バスの集合時間は午後4時10分。ウィーンに帰るのは午後9時ということだったので,腹ごしらえです。しかし,帰る途中でドライブインで30分ほどの休憩があって,その時間に夕食がとれるのでした。
帰りのバスは行きとは異なり,飛ばしに飛ばし,4時間30分ほどでウィーンに戻りました。こうして私は念願のハルシュタットに行くことができたのです。
ニュージーランドでミルフォードサウンドに行ったときと同様,バスの運転手はこのコースを走りなれているようで,手慣れたものでした。それにしても,仕事とはいえ,こんな長距離を毎日のように走っていることに感心しました。しかし,往復10時間,運転手ひとり。日本なら問題になるのでは? とも思いました。

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昨年行ったザルツブルグとは違い,私は,ハルシュタットで何をしたいということもなく,だた美しい景色が見たかっただけでした。そこで,ハルシュタットがどういうところかも,どこにあるのかさえも,正確には知りませんでした。
昨年オーストリアに来たときはもっと何もわからず,しかし,結局,ザルツブルグにも行くことができて,しかも,ザルツブルクの市内観光どころか祝祭劇場の見学までしたのですが,ウィーンに到着するまで,まさかザルツブルグに行けるなどとは思ってもいませんでした。この夏にフィンランドに行ったときもまた,ムーミンワールドなんてそんな遠いところに行けるのかしら,と思っていましたが,結局,行くことができました。近頃は,というよりも,私の旅はこれまでもいつもそんなものです。
このように,旅はいくら事前に調べたところで,実際に現地に行ってみないとその状況がよくわからないのですが,それでも比較すると,海外のほうが日本よりもずっと旅行がしやすいのです。実際めんどうなのは日本国内の旅行で,必要のない情報は山ほどあれど,JRの複雑怪奇なチケットの購入方法をはじめとして,言葉がわかるから何とかなるものを,こんなわけのわからない国はほかに知りません。
話は逸れますが,そもそも,モノひとつ買うのに,どうしてあんなにたくさんの支払い方法があるのでしょう。何事につけて,日本は本当にばかげた国だと,海外旅行の経験が増すにつれて,ますます,あほらしく感じるようになってきました。
さて,話を戻します。ハルシュタットで,私がおぼろげながら知っていたのは,船で湖を渡らなければ着けない町であることと,例のごとく「自撮り棒をもって黒いレンズの入ったサングラスをかけやたらと声のでかい」某国の団体さんばかりがあふれている,ということでした。その,某国の団体さんと聞いただけで行く気が失せるというもので,私はハルシュタットの風景は見たくても,それを知ってテンションも下がり,まったく期待をしていませんでした。

やがて午後2時,バスはハルシュタットに到着しました。
ウィーンを出発してから途中アドモントに寄ったのでさらに時間がかかり,結局6時間のバス旅でした。先に書いたように,私は,ハルシュタットは船でなければ行けないと思っていたので,バスを降りて,どこで船に乗り替えるのだろうと思っていたのですが,そうではなく,列車で行ったときにバルシュタットの最寄りの駅がハルシュタットとは湖の対岸にあって,そこからハルシュタットに行くには湖を船で渡る必要があるというだけで,バスであればハルシュタットの町の船着き場の前の広場まで行くのでした。
ハルシュタットでの滞在時間は2時間ということでした。すべて自由行動だったのですが,バスのガイドさんがバスを降りるまえに3,4つの観光モデルコースを説明してくれました。そのなかにはハルシュタット塩孔へ行くケーブルカーもありましたが,途中の展望台までで,塩孔までは時間がないから行かないで,と言われました。私は自由行動といわれても困ってしまいます。ケーブルカーに乗ろうとも思いましたが,往復するだけで時間がすぎてしまいそうだったので断念しました。狭い街でもあり,きままに歩こうかな,と思っていると,なんとなく,同じツアーにいた中国人の女性ふたりと歩くことになったのでした。
予想通り,ハルシュタットは「自撮り棒をもって黒いレンズの入ったサングラスをかけやたらと声のでかい」某大国の団体さんばかりでした。それはニュージーランドのテカポ湖も,日本の馬籠やら京都やらもまた同様な状況です。それでもハルシュタットの町の美しさはそれを凌駕するものでした。

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私は高速道路の道路標示から地名を調べて,地図でどこを走っているかを調べていたのですが,はじめのうちはグラーツという地名が頻繁に出てきて,やがて,リンツに変わりました。午前8時に出発して,もうお昼の12時をすぎようとしているのに,めざすハルシュタットはまだまだ先でした。一体何時に着くのだろう,と心配になってきました。
やがて,バスは高速道路を降りて,いよいよかと思ったとき,ハルシュタットは確か,高速道路を降りた先西に向かわなければならないのに,東に進路を変えました。
このツアーでは,ハルシュタットに行く前に,アドモンドという町に寄るのでした。しかし,私は,ハルシュタットへ行くことだけはわかっていても,途中の行程を知らなかったのです。予約したサイトにも,具体的なことは書かれてありませんでした。
やがて,アドモンドという小さな美しい街に着きました。その街にある教会の駐車場にバスは停まりました。ここで,30分程度,教会にある図書館を見学するということでした。そのときまで,私は,見学することになった図書館のことも当然まったく知りませんでしたが,実は,この図書館を見たさにわざわざ日本から出かける人もいるというとても有名なところだったのです。

それは,世界で最も美しい図書館といわれるアドモント修道院図書館(The library of Admont Abbey)でした。思わず息を飲み込むほど美しい白亜の図書館は,アルプスのふもとに立つ修道院図書館としては世界最大のライブラリーで,約20万冊を収める70メートルにも及ぶ内部ホールは建築家ヨーゼフ・フーバーがバロック後期様式で1776年にデザインしたものです。天井には学問や宗教,芸術についてのフレスコ画が描かれていました。2008年に改修が終了したばかりで,創設時代の美しさがよみがえったそうです。ちょうどウィーンで見た国立図書館を新しくしたような感じでした。
さあ,図書館の見学を終えて,バスはハルシュタットをめざして,アルプスのふもとの片側1車線の道を走っていきます。この風景を見ただけでも,来た甲斐があるというものでした。やがて,道路はエンス川にそって進み,急坂になって,森の中を越えるとついにハルシュタット湖が見えてきました。

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ウィーンからハルトシュタットへ日帰り観光をするのは,東京から京都へバスで日帰り観光するようなものです。つまり遠いのです。
昨年,ニュージーランドへ行って,クイーンズタウンからミルフォードサウンドへ日帰り観光をしたのとシチュエーションが似ています。クイーンズタウンからミルフォードサウンドへも片道5時間以上かかりましたが,個人でこれほどの時間運転するのも大変だったので,私にはバスによるツアー以外に選択肢がありませんでした。このときは数人の日本人が参加したグループが現地ツアーに入り込むような形になっていて日本人だけを対象としたガイドがいましたが,この日本人グループに参加していたのは私以外には日本からのそれぞれ別の団体ツアーで参加した人たちのオプショナルツアーでした。このように,日本からの団体ツアーで海外旅行をしても,オプションでは別に現地ツアーに参加させることも多いのです。なかには現地ツアーに日本からの団体ツアー客が大挙して参加しているということもあります。そんなんだったら,私は,個人で旅をして,現地ツアーに自分で申し込んだ方が安いのに,と思いますけれど…。
今回のウィーンからハルシュタットもまた,ウィーンから往復するには片道5時間以上かかるので,ハルシュタットの近くに宿泊するのならともかく,ウィーンから日帰りで個人で行くのはほぼ不可能でしたが,現地ツアーを見つけたおかげで,幸い行くことができました。

集合時間は午前7時50分,集合場所はウィーン国立歌劇場裏の観光案内所で,私が到着したときにはまだほかに参加者はおらず,どのくらいの参加者がいるのかなと思ったのですが,大型の観光バスがやってきたので,結構多くの参加者がいるんだなと思いました。私は早めに集合場所に着いたおかげでバスの最前列に座ることができたので,ずっとバスの中から景色を見ることができました。
ほぼ午前8時の出発時間どおりにバスは動き出して,ウィーンからまずオーストリアを南に,高速道路を走っていきました。ハルシュタットはウィーンから西南西の方向にあるので,私ははじめ西のザルツブルグに向かって走ると思っていたのですが,そうではなく,南のグラーツの方向に進みました。やがては右折して西に向かっていくはずです。このツアーのガイドさんは英語とドイツ語を交互に使い分けていて,バスの後ろの方に座っていた人がすごいねと言っていました。私は最前列に座っていたからわかったのですが,実際はマニュアルを読んでいました。日本語ツアーでないこともあって日本からの団体ツアー客はおらず,この現地ツアーに参加していた中にいたアジア人は,私以外に2人ほどの個人旅行の日本人と,中国からきた中国人のひとり旅の女性,そして,オーストラリアに住むひとり旅の中国人の女性でした。
しばらくするとドライブインで昼食休憩になったのですが,ゆっくり昼食をとる時間もないのは想定済みでした。私は昼食をとる余裕はないだろうと,朝食のときにホテルに置いてあったシリアルバーを持ってきたのが正解で,飲み物だけを購入しました。長年旅行をしていると,こういうことができるようになるのです。
車窓からみるオーストリアの風景はなかなか興味深いものでした。きれいな国です。山岳地帯になると雪が降っていましたが,それもやんで,あたりは次第にアルプスの風景になってきました。

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昨年は5泊7日でしたが,今年は4泊6日のオーストリアの旅なので実質3日,その3日目最終日はハルシュタットへのツアー旅行です。

  ・・・・・・
私のように,ひとりできままに海外を旅していると,いろんな人に出会います。ヨーロッパへ行く便にも,さまざまな人が乗っています。ヨーロッパに住んでいるという日本の人が意外と多いのも私にはおどろきです。
行きのセントレア・中部国際空港で搭乗を待っていたときにお話をした男性はヘルシンキに住むという芸術家でしたし,すでに書いたように,機内ではお隣にパリに住んでいるという女性が座りました。
そうした旅慣れた人たちとは別に,ヨーロッパ便では団体ツアー客が多いのも特徴です。今回も,ツアーでウィーンに行くという中年の女性たち(男性はほとんどいない)は,ウィーンでウィーンフィルを聴くんだ,とか言っていましたが,あの人たちは,ウィーンに行けばウィーンフィルが聴けるものだと思っているようでした。こうした人たちは,雑誌やテレビ番組などで得た情報だけは豊富ですが,まあ,要するにミーハーです。
以前ニュージーランドに行ったとき,これまで星も見たことがなく知識もないのにテカポ湖の星空観察ツアーに参加して,北極星を探している人がいましたし,アラスカでは,オーロラ見たさにそれが肉眼でどう見えるかも知らずにやって来て想像とは違ってがっかりしていた人がいました。さらには,ウユニ塩湖に行って,満月が反射して美しかったという人の話も聞きました。ウユニ塩湖の星空は月明かりがないからこそだと私は思うのですが…。また,日本の美術展にはフェルメールの絵画を見るために殺到しても,現地では目の前にそれがあるのに素通りする人など。
まあ,何事も人それぞれなのでかまわないのですが,観光業というのはそうした無知な人たちをお得意様として存在しているようです。そしてまた,オーバーツーリズムを支えている(?)のもそうした人たちです。
  ・・
そこで,きままに旅行をするには,そうした集団とは一線を画すことがいかにできるかということが知恵の見せ所となるわけですが,それもまた難しいのです。私はそうしたツアーに参加してもストレスがたまるだけだから個人で旅行し,空港では歩き回らず搭乗時間までラウンジで過ごし,滞在先のホテルもなるべく団体ツアーの泊らない小さなところを探し,現地での行動も車を借りるか公共交通を利用するようにしています。
しかし,そうしようとしても,ニュージーランドのミルフォードサウンドなどのように個人ではアクセスすることが難しい場所もあって,そこに行くことは個人ではたいへんです。そこで,そうした場合は現地ツアーをさがすことになりますが,個人旅行者の寄せ集めである現地ツアーは参加してとてもよかったというものが決して少なくありません。
  ・・・・・・

今回の旅では,ハルシュタットに行きたかったのですが,まさに,このハルシュタットが難物でした。私は公共交通機関を利用すれば簡単に行けるものだと思っていたのですが,それは間違いでした。行くのをあきらめていたのですが,どうにか現地ツアーを探し出すことができて予約をしたというわけでした。
さて,どんな旅になるでしょうか? 期待が半分,不安が半分,でも,念願のハルシュタットに行くことができるのは喜びであり楽しみでした。

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ウィーン国立歌劇場の裏手からテゲトフ通りがはじまります。そのデゲトフ通りを隔てて,観光案内所とアルベルティーナがあります。テゲトフ通り沿いにカプティーナ教会があって,その地下がハプスブルグ家皇帝の納骨所です。デゲトフ通りに平行に1本東を走るのがケルントナー通りで,どちらの通りも,やがてウィーン旧市街中心のシュテファン大聖堂に行き当たります。
ケルントナー通りは東京の銀座のようなところで,多くの観光客であふれています。通りに面して高級ブランド店が立ち並んでいます。世界中どこに行ってもこういう場所にたむろしているのが「声が大きく,自撮り棒をもち,やたらと色の黒いサングラスをかけて」群れている某大国からやってきた団体観光客です。
ウィーンもまたその例に漏れないのですが,ウィーンという街は,そうした彼らさえ埋没させるほどの美しさと魅力があります。そしてまた,ウィーンには,音楽と美術と歴史を知らない人には理解できない深さがあります。つまり,そうした教養のない人には,ウィーンはさほど魅力のある街ではないです。そこで,彼らは,オペラなど見たこともないのに有名だというだけで国立歌劇場の立ち見席に現れはしても飽きて10分もすれば帰っていき,ガイドブックにある「カフェ・モーツアルト」には列を作っても,地元の人の愛するカフェにはひとりで入らない(入れない)し,路地には行かない(行けない)ので,結局,ケルントナー通りの土産物屋や高級ブランド店の前で右往左往しているのです。
昨年はテゲトフ通り沿いもケルントナー通り同様に楽しい散歩道でしたが,今年はあいにくデゲフト通りは工事中で掘り返されているので車の通行が禁止されていて,かろうじて端っこを歩行者が通れるだけになっていました。

私ははじめケルントナー通りを北に向かって歩きながら,途中でどこか見つけて夕食をとって,ホテルに戻ることにしていましたが,ケルントナー通り沿いの店は先に書いたようにどこも混雑していて,とても入る気になりませんでした。しかし,シュテファン大聖堂まで行きついて西に折れ,リング通りを渡って市庁舎を過ぎてしまうと,ホテルの付近にはお店もなくなるので,そのまえにどこかないかなと折り返し,今度はデゲフト通りの狭い歩道を歩いていると,1件のカフェが開いていたのを見つけたので,なかに入ってみました。
入ってみると期待以上。そこは落ち着いたカフェで,観光客もおらず,長い時間いても大丈夫なお店でした。私はそこでカレーを頼みました。カレーといっても日本のものとはまったく違うし,お米は洋米です。
こうしてゆっくりと夕食をとることもできて,今回のウィーン滞在3日目,実質2日目の観光を終えました。昨年来たときにウィーンのすばらしさにひとめぼれをして,毎年この時期はウィーンに来ようと決めました。そして,今年,何の迷いもなく半年前にウィーンに来るための航空券とホテルを手配しました。しかし,次第にそのことを忘れてしまい,来るころには昨年の感動はどこかにいってしまい,一体ウィーンに行って何をするのだろう,とさえ思うようになっていました。しかし,やってきたら昨年の思いがよみがえりました。
やはり,ウィーンは毎年来てもいい街です。おそらく私は来年もまた,この通りを歩いていることでしょう。

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明日はハルシュタットに行くので,今回のウィーンでの観光はわずか2日。その2日目もそろそろ終わりです。ホテルに帰るまえ,観光の最後にアルベルティーナに行くことにしました。
アルベルティーナ(Albertina)は,マリア・テレジアの娘の夫アルベルト・フォン・ザクセン・ティッシェン公の名前からとったアルべルティーナ宮殿のなかにある美術館です。
ウィーンでは,このアルベルティーナ宮殿,ベルヴェデーレ宮殿のように,昔の宮殿が今は美術館となっている場所が数多くあります。アルベルティーナはウィーン国立歌劇場の裏にあって,これまで何度も通った場所ですが,なかに入ったことがありませんでした。

入場券を購入して,なかに入りました。まずは美術館というより,シェーンブルン宮殿と同じような大広間が続いていました。こうした宮殿がその目的を果たしていた時代は,日本でいえば江戸時代のころなので,宮殿というのは日本のお城にある御殿のようなものですが,その豪華さはずいぶんと違いがあります。日本と西洋は,簡単に木の文化と石の文化の違いといいますが,そもそも,今の時代はこうした文化の違いに根ざしているものだということを考えると,奥が深く,いろいろ考えさせられるものがあります。
さらに進むと,多くの絵画が展示されている部屋に着きました。ここからが美術館です。この美術館に収蔵されているものは,ルーベンス,ブリューゲル,レンブラント,モディリアーニ,ムンクなどなどですが,なかでも,多くのピカソやミロの絵画が見ものでした。私はミロの絵画がことのほか好きなのです。

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結局,ドナウタワーで2時間ほどの時間を過ごして,ウィーンの中心部に戻ってきました。
ウィーンの繁華街のど真ん中にあるカプツィーナー教会の地下には,ハプスブルグ家の歴代12人の皇帝を含む150体あまりの柩が安置されているということだったのですが,昨年はまったく興味がなくただ通り過ぎました。しかし,世界史を学んだ1年後,私は興味がわいて,行ってみることにしました。
間違えて教会の入口を入ると,ちょうどミサの最中でした。その荘厳な雰囲気は私のようなキリスト教の信者でないものが入ることを許されない雰囲気がしました。皇帝納骨堂への入口はその右手の建物でした。入場料を払って地下に降りて,私は驚きました。地下の巨大な空間には,延々と柩が横たわっていました。そのなかのひときわ巨大で豪華な柩はマリア・テレジアとその夫フランツ・シュテファンのものです。そして,さらに進んだ部屋に3体並んでいたのがフランツ・ヨーゼフ,エリーザベト,ルドルフの柩でした。さらに,出口近くには近ごろ収められた柩がありました。
ハプスブルグ家の習慣で,埋葬するときに内蔵と心臓は取り払い,内臓はシュテファン寺院に,心臓はアウグスティーナ教会に収められているのだそうです。こういうものを見るのは,キリスト教を知らない私には,正直耐えがたいものでした。そしてまた,本の上での歴史が目のまえの現実となっていて生々しく感じました。

マリア・テレジア (Maria Theresia)はオーストリア・ハプスブルグ家の直系で神聖ローマ帝国皇帝かつオーストリア皇帝カール6世の娘で,ハプスブルク=ロートリンゲン朝の皇帝フランツ・シュテファンの皇后です。16人の子供を産み,零落の兆しの見えはじめたハプスブルグ家をささえた実質的な「女帝」として知られます。
それまでハプスブルク家は男系相続を定めていましたが,マリア・テレジアの兄が夭折して以後男子が誕生せず男系が途絶え,マリア・テレジアの子供たちのからは,夫の家名ロートリンゲンとの二重姓で,ハプスブルク=ロートリンゲン家となります。
ロートリンゲン家は第2次ウィーン包囲においてオスマン帝国を敗走せしめた英雄カール5世の末裔でハプスブルク家にとって深い縁があったことから,マリア・テレジアはカール5世の孫であるフランツ・シュテファンと婚約し,フランツ・シュテファンが皇位に就くことになります。
しかし,マリア・テレジアの父カール6世が突然崩御しマリア・テレジアが相続すると,周辺諸国は,国本勅諚の「ハプスブルク家の領地は分割してはならない」を公然と無視し,マリア・テレジアの相続を認めず領土を分割しようと攻め込んできました。これを「オーストリア継承戦争」といいます。西側を包囲され四面楚歌の状況にあって,マリア・テレジアは東方のハンガリーに救いを求めますが,美しく力強い女王の姿は好印象を与え,ハンガリーは資金と兵力を差し出しました。こうして,国家の緊急事態に際して,マリア・テレジアが諸国の侵攻に屈しなかったことは彼女の評価を大いに高らしめました。
さらに,皇帝の守護を名目としてプロイセンが侵攻しますが,プロイセンは軍事力と野望が表面化して孤立,皇帝選挙でマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンを帝位に就けることに成功します。

また,主にイギリスとフランスの間で続行していた戦争はアーヘンの和約によってようやく終結し,これにより,マリア・テレジアのハプスブルク家相続は承認されましたが,領地シュレージエンを失ってしまいました。マリア・テレジアは,シュレージエンを奪還する目的で内政改革や軍改革を行い,フランスに接近。フランス国王ルイ15世を懐柔し,べルサイユ条約をもってオーストリアとフランスは遂に同盟を結びます。また、ロシア帝国のエリザヴェータ女帝とも交渉し,プロイセン包囲網が出来上がります。これを「3枚のペチコート作戦」といいます。
やがて,プロイセンがザクセンに侵攻して戦端を開き,七年戦争が勃発します。はじめは,フランスやロシアとの同盟をえたオーストリアが優勢に戦争を進め,圧倒的な勢力差からプロイセンは窮乏し徐々に追い詰められていきましたが,オーストリアもまた資金難に陥って,ついに,フベルトゥスブルク条約でシュレージエンのプロイセンによる領有が固定化してしまいました。
しかし,こうしたオーストリア継承戦争と七年戦争を経て,結果的にオーストリアとプロイセンの両国は近代国家としての制度を整備し,その後の発展の礎を築きました。
やがて,夫フランツ・シュテファンが崩御しますが,息子のヨーゼフ2世は混乱もなく帝位に就きました。そののち,マリア・テレジアは散歩の後に高熱を発し,約2週間後,ヨーゼフ2世とミミ夫妻,独身の娘たちに囲まれながら崩御しました。病の床ではフランツ・シュテファンの遺品であるガウンをまとっていたといいます。

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スノーグローブも購入して,昨年行くことができず今年ぜひ行ってみたかった場所ややってみたかったことは,ほとんどに行くことができましたしすることができました。さて,これからどうするか? です。
思いついたのは,今のウィーンを見たいということでした。私はこれまで,ウィーンの街といってもヨーロッパでよくいわれる旧市街しか歩いていないわけで,新市街をまだ知らないのです。ウィーンは歴史の街であるとともに,現在は国連などの建物がある新しい街でもあるのですが,それがどこにあるのかさえ知りませんでした。そこで,行ってみることにしました。
新しい街のある場所は町の北東,ドナウ川を越えたところでした。国連の内部は見学コースがあって,見学できるのは午後2時からということでした。何とか間に合いそうだったので,地下鉄に乗って急ぎました。やがて,もよりの駅に着きましたが,到着したときは午後2時にはあと10分というところでした。建物に入るにはセキュリティがあって煩わしく,やっとセキュリティを抜けたときには,すでに午後2時を過ぎていて,間に合いませんでした。受付で聞いてみると,次は午後3時30分からで,そのときにまた来てください,ということでした。
しかし,小さな土産物屋しかないような場所で1時間以上の時間を過ごすのもばからしく,あきらめて外に出ました。この近くに何かないかとさがして見つけたのがドナウタワーでした。

国連の建物の北側にドナウ公園が広がっていて,そのはるか向こうにタワーがありました。ドナウタワーまでは歩いて15分ほどということだったので,公園を通って行ってみました。展望台に行って引き返せば1時間くらいだろう,それなら国連の次の見学ツアーの時間に間に合うだろうと思いました。
ドナウタワーは高さが252メートル,地上150メートルのところに展望台があって,さらにその上には,カフェ,またその上にはレストランがあるということでした。タワーに向かう観光客らしい人もおらず,一見,閑散としているように見えました。
チケットを買ってエレベータに乗りました。エレベータはものすごいスピードで昇って行きました。展望台からはウィーンが一望できました。確か東京・押上のスカイツリーの高さは640メートルほど,また,東京・芝の東京タワーは333メートルだから,ドナウタワーはそれよりずっと低いのですが,どう考えても,東京のスカイツリーより,ずっとこのドナウタワーのほうが見晴らしがいいなあと思いました。周りは広い公園で,タワーだけがそびえているからです。
どうも結果的に今回の旅では遠くが一望できる場所ばかりを訪れているようです。一休みしようと,1階上のカフェに行きました。ところが,カフェが大混雑していました。座るところもないような状況でした。わかったことに,カフェを独占していたのは何かの老人グループでした。昨年行ったレストランもそうでしたが,ウィーンでは老人が団体でこうしたところにやってくるようです。要するに,日本でバスに乗ってカニの食べ放題とかに行くのと同じようなものです。行ったタイミングがわるかったわけです。
ウィーンのカフェやレストランは,勝手に空いている席に座っているとそのうちに注文を取りに来る,というシステムです。なんとか席を見つけて座りました。しかし,めちゃくちゃ混雑していて,いくら待ってもオーダーをとりに来ないわけです。まあ,急いでるわけでもないからしばらく待っていると,やがて,その団体が帰って行きました。やっとカフェに静寂が訪れました。
私は,モーツアルトトルテとメランジェを注文しました。このカフェは回転するのです。そこで,360度の風景が楽しめるわけです。このころには,もう国連の見学などどうでもよくなって,ドナウタワーでゆったりとした時間を楽しみました。
国連の見学時間に間に合わなくて逆によかったと思ったことでした。

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日本でスノードームとよばれるスノーグローブ(Snow globe)とは,球形やドーム形の透明な容器の中を水やグリセリンなどの透明な液体で満たし,人形・建物などのミニチュアと雪に見立てたもの等を入れて,動かすことで雪が降っている風景をつくる物です。日本では大変高価です。
19世紀末,ウィーンの手術用機械技師であったエルヴィン・ペルツィーさんによってはじめてのスノーグローブが発明されました。エルヴィン・ペルツィーさんはこれまでより明るい手術用ランプを開発しようと電球にガラスの破片を入れて反射させるなどの実験を繰り返す途中に,スノーグローブのアイディアを思いついたとされています。エルヴィン・ペルツィーさんはすぐさま「雪の降るガラス球」として特許を取得し,1900年に兄弟とともに店舗を出し,数年後には皇帝にも表彰されるほどになりました。
その後,現在に至るまで改良に改良を重ねられ,ウィーンでは時代を超えて愛され造られ続けています。黒い台座に「ウィーンからのご挨拶」(Gruß aus Wien)と書いてあるのがホンモノです。
ここのスノーグローブは雪の量が多い点が特徴です。土産物屋で売っているスノードームに比べて3倍ぐらい雪が降っているように見えます。

私は,このウィーン発祥のスノーグローブのことを昨年は知りませんでした。帰国後に知って,ぜひ今年はそのお店に行ってみようと思っていました。
お店は,市街地から少し離れていて,不便な場所にありました。私の泊っているホテルから歩いていけないほどの場所ではないのですが,ウィーンの市街地の反対,西の方向でした。美術史博物館から西に向かってしばらく歩いて行くと,ちょうど路面電車が来たので乗ることにしました。もよりの停留所で降りて,北に向かってさらに10分程度,このあたりだと思った場所に着いても,お店が見つかりません。ネットで調べて,ようやく位置を把握して歩いていくと,小さなお店がありました。
扉を開けて中に入りました。以前は1階がミュージアムになっていて2階がショップだったようですが,私が行ったときは,1階のミュージアムにショップが併設されていました。
店内に入ると,若い女性の店員が2人いました。私はたくさんのスノーグローブを見て,そのなかから2個選んで購入したら,おまけに日本語で書かれた豪華な本をくれました。帰りぎわ,一緒に写真を写しました。よいお土産ができました。
なお,スノーグローブのなかは液体なので,大きなものは旅客機の機内に持ち込めない恐れがあると書かれたブログがありますが,真相は知りません。私が購入したのは小さなものだったので,まったく問題はありませんでしたけれど。

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