しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ: ヨーロッパ

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 無計画な旅ほど,得るものが大きいものはありません。と,これは,何事もいい加減な私の自己弁護にすぎませんが,それでも,あとで思うに,無計画であればこそ,これほど不思議で,かつ,運がいいとしか思えないこと起きるのです。
 先日,家で,ある写真集を見ていて驚きました。それは図書館の写真でしたが,どうも,私はそこに行ったことがあるような気がしたのです。調べてみると,そこは,オーストリアにあるアドモンドベネディクト修道院の図書館(The library of Admont Abbey)でした。
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 アドモント修道院図書館は,オーストリアのエンス川沿いの小さな町アドモントにある世界最大の修道院図書館です。
 アドモント修道院は,1074年,ザルツブルクの大司教の指示によって建てられました。アドモント修道院が設立されたとき,聖ペテロ修道院から多数の本が保寄贈され,それらの本を収納するために,アドモント修道院に隣接して,1776年に,ウィーンの建築家ヨハンフーバーによって図書館が設計され,建てられました。
 1865年の火事でほとんどが消失し,その後再建されましたが,火事の際に, 唯一,奇跡的に図書館は火災を免れました。
 図書館の内部は美しく装飾されていて,白い2階建てのクローゼットスタイルの本棚にはハードカバーの本がたくさんあります。
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 図書館の内部は,奥行き70メートル,幅14メートル,高さ11メートルもあって,約7万冊の本が収蔵され,また,修道院全体では20万冊もの本があります。
 白亜の図書館は,窓から差し込む陽の光によって明るく照らされ,天井には聖書に記された場面を表した7つのフレスコ画が描かれています。また,中央には,オーストリア国立図書館の大広間「プルンクザール」を模した大広間があります。床のタイルは目の錯覚を利用した配色になっています。

 2019年の初冬,私はアドモント修道院図書館に行くことができました。
 といっても,私は,この図書館のことなど全く知りませんでした。では,なぜ行ったかというと,そのいきさつは次のようです。
 私が行きたかったのはハルシュタットでしたが,ウィーンからはあまりに遠く,半ばあきらめていました。しかし,どうしてもあきらめきれず,そこで,見つけ出したのが,ウィーンから日帰りでハルシュタットへいく現地ツアーでした。ガイドさんの女性は英語とドイツ語を話しました。日本人の参加者は私しかいませんでした。
 ハルシュタットはあまりに遠く,早朝に出発したのに,なかなか到着しません。それだけでもイライラしていたのに,私の乗った大型バスは,途中のこの修道院に到着したのです。しかし,そこがどこなのかさえわからず,しかも,当時の私は,どうしてこんなところで道草しているんだとさえ思いました。そして,自分の意思とは関係なく,私は,この図書館の内部を見学したというわけです。
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 この図書館に憧れ,やっとのことで行くことができたという人のブログがありました。そして,我が身を恥じました。それは,この図書館は,オーストリアの観光案内ガイドブックにも掲載されておらず,また,あまりに辺鄙なので行くのがかなり大変な,「世界一美しい図書館」だったのです。
 アドモントへ公共交通機関で行こうとすると,電車とバスの組み合わせでウィーンから片道約4時間かかります。しかも,午前中に訪ねると,図書館内に差し込む陽の光が多いことと,ほかにほとんど観光客がいないから,荘厳な雰囲気を体験できるとありました。
 これでは,もし,私がこの図書館に憧れをもっていて,ぜひ行ってみようと思ったところで,おそらくは不可能だったことでしょう。
 今では,期せずして,この図書館に行くことができたことを感謝せざるをえません。

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 「会議は踊る」(Der Kongreß tanzt)は,1814年のウィーン会議を時代背景にした1931年のオペレッタ映画です。題名は,オーストリアのリーニュ侯爵シャルル・ジョセフ(Charles-Joseph Lamoral Francois Alexis de Ligne)のことばといわれる「会議は踊る,されど進まず」(Le congrès danse beaucoup, mais il ne marche pas.)からきているもので,長引く会議の隙を縫ったロシア皇帝・アレクサンドル1世(Aleksandr I)とウィーンの街娘・手袋店の売り子クリステルとの夢のような逢瀬を描いています。
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 1814年,ウィーンでは欧州の首脳が集まり重大な会議が開かれようとしていました。クリステルは,パレード中に花束を投げロシア皇帝アレクサンダーに直撃させてしまいます。兵士に捕まったクリステルはアレクサンドル1世の口添えで助かり,ふたりは互いに惹かれ合うようになります。自分の思惑通り会議を進めたいオーストリア宰相メッテルニヒ(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein)は,クリステルを利用してアレクサンドル1世を排除しようと目論むのですが…。
  ・・・・・・

 ウィーン会議は,1814年から1815年にかけて,オーストリアの首都ウィーンのシェーンブルン宮殿(Schloss Schönbrunn)で開催された国際会議です。会議の主催国であるオーストリアは,参加国の代表同士の親睦を深めて会議をスムーズに進めようと,舞踏会や宴会を開きました。しかし,舞踏会が大盛り上がりをみせる一方で,本来の主旨である「話し合い」はまったく進みませんでした。
 このような状態を揶揄して,ウィーン会議は「会議は踊る,されど進まず」ということばで表現されたのです。ウィーン会議の参加国間には領土問題など,簡単には解決が難しく,かつ激しい利害の対立が存在しました。そのため、オーストリアは国同士の関係性をよりよいものにしようと工夫を凝らしましたが,このような強い対立関係にある「ステークホルダー」(利害関係)の間では,親睦を深めることが必ずしもスムーズな会議運営には直結しなかったのです。
 しかし,1815年3月にナポレオンがエルバ島を脱出したとの報が入ると,危機感を抱いた各国の間で妥協が成立し,1815年6月9日にウィーン議定書が締結されました。
 このウィーン議定書により出現したヨーロッパにおける国際秩序が「ウィーン体制」です。

 私は高校で世界史を習わなかったので,ウィーン会議を知りませんでした。
 はじめてウィーンに行ったとき,シェーンブルン宮殿の現地ツアーに参加しましたが,そこで一緒になった人が,シェーンブルン宮殿に入ったときに思わず言ったことばが,「ここが「会議は踊る」の場所なのか」ということでした。私はそれを聞いて,なんじゃそれは? と思ったと同時に,負けた,とも思いました。
 帰国して世界史をはじめて勉強してみて,ああ,こういうことだったのか,と納得しましたが,このように,同じ場所に行っても,その場所についての歴史を知っているか知らないかで,ずいぶんと感動が違うのです。
 それは,どこに行っても同じことです。たとえば,奈良県明日香村の小さな飛鳥川のほとりを歩いていても,また,ウィーン郊外のハイリゲンシュタットの小川に沿った散策道をたどっていても,飛鳥川を詠った万葉集を知っているかどうか,ハイリゲンシュタットの散策道はかつてベートーヴェンが散歩をしたところでこの小川こそが交響曲第6番「田園」を作曲したときにインスピレーションを受けた場所だと知っているかどうか,で,ずいぶんと感動が異なるのです。
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 明日香川 明日文将渡 石走 遠心者 不思鴨
 明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも
 明日香川を明日は渡って逢いに行きましょう 私の心はずっとあなたのことを思っていますよ
   「万葉集」巻11・2701 詠み人知らず
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 そんなわけで,世界史や美術や音楽を知らずしてウィーンを訪れても,おそらく,それを知っている人の感動のそのほとんどは味わえないのです。

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 「クリムト,エゴン・シーレとウィーン黄金時代」(Klimt & Schiele: Eros and Psyche)というドキュメンタリー映画を Amazon Prime Videoで見ました。
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 19世紀末のウィーンを代表する画家であるグスタフ・クリムト(Gustav Klimt)とその弟子エゴン・シーレ(Egon Schiele)の魅力に迫るドキュメンタリーです。
 グスタフ・クリムトとその弟子エゴン・シーレが生きた19世紀末に花開いたサロン文化と愛と官能性に満ちた彼らの絵画の魅力を豊富な映像と資料から詳らかにしています。
 「時代には芸術を,芸術には自由を」(Der Zeit ihre Kunst, der Kunst ihre Freiheit.)
 これは,グスタフ・クリムトを中心に結成された芸術家グループである「分離派」が1898年に建設した展示施設・分離派会館の入り口に金文字で掲げたモットーです。
 グスタフ・クリムトとエゴン・シーレは人間の不安や恐れ,エロスを描いた新しい手法を通じて,それまでの絵画とは異なる革新的な作品を次々と生み出していきました。
 彼らの異端なテーマは,精神医学者ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)が辿り着いた精神分析の誕生と時を同じくして世に現れました。
 そのころ,女性たちはコルセットを脱ぎ捨て,自立を主張しはじめます。封建的なウィーンで抑えられていた人々の衝動が一気に爆発したかのように社会秩序を揺り動かし,自我の本質への対峙がはじまったのです。
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 私は,クラシック音楽をこよなく愛しているのですが,楽器はまったく弾けません。また,絵画はわかりません。高校で世界史を習わなかったために,世界史もまた,全く知らず,興味もありませんでした。
 クラシック音楽が好きでも,ヨーロッパに行こうとは思っていませんでしたが,NHK Eテレで放送された語学番組「旅するドイツ語」でウィーンが取り上げられていたのがきっかけでにわかに行く気になったのです。ところが,行ってみて,その魅力にすっかりはまってしまいました。さらに,絵画にも,そしてまた,世界史にも目覚めてしまったのです。
 2回の旅で,精力的に歩き回ったので,おおよそのところはすべて行くことができたし,グスタフ・クリムトやエゴン・シーレの作品も数多く見ることができました。
 ウィーンは,音楽や美術,そして,世界史に興味がある人には,最高に魅力のある街だったのです。それとともに,それまで,ほとんどそうしたものに素養がなかった自分を恥じるとともに,これまで知らなかったことをとても残念に思いました。
 今でも後悔しているのは,フロイト博物館に行っていないことです。それは,そのころはまだ無知で,どうしてフロイト? フロイトがどうしてウィーンと関係があるの? と思ってしまったからです。

 高校生のころ,学校でずいぶんと勉強させられたのに,漢文を学んでも中国史なんて無縁の存在だったのと同様に,美術を学んでも,ほどんど美術史も絵画の見方も教えられませんでした。まして,世界史がカリキュラムになかったなんて絶望的で,世界の歴史で,ウィーンがこれほど重要な場所だなって,全く知りませんでした。教師たちは文化知らなさすぎでした。生徒に何を学ばせたかったのだろう。
 だから,今にして気づいたことは,一体自分は何を学んできたのだろう,ということです。大学入試問題の数学なんて,英語の文法問題なんてくそくらえ。一体,高校時代,あれほどの時間をかけて自分は何をしていたのだろう。今必要な知識はなにひとつとして学んでいなかった…。
 それにしても,ウィーンの魅力を味わうには,もはや時間がいくらあっても足りません。ウィーンは京都以上に奥深いのです。それでもまた,もし行くことが可能になったのなら,この先も何度でも行ってみたいと思うのです。

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 「2リア(リアズ),3ランド(ランズ)」の想い。
 オーストラリアの次は,オーストリアです。オーストリアで「オーストリアにはカンガルーはいません」Tシャツがお土産に売られているように,この国は,かなり,オーストラリアを意識しているのが滑稽でもあり,気の毒でもあります。
 子供のころ,私にはオーストリアというのはヨーロッパの小国だという印象がありました。しかし,世界史で,この国は第1次世界大戦までは強大な国家だったのを知って驚きました。そしてまた,日本以上に歴史と文化のある国でした。

 ところで,今でも何度もテレビで放映される映画「男はつらいよ」。この映画の第41作「男はつらいよ 寅次郎心の旅路」が先日放送されていたのですが,映画の舞台は,何とオーストリア・ウィーンでした。
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 舞台をウィーン,マドンナとして竹下景子さんを起用した「男はつらいよ 寅次郎心の旅路」は,1989年夏に公開されました。ウィーンが舞台になったのは,当時のウィーン市長ヘルムート・ツィルク(Helmut Zilk)が招致したことによります。ヘルムート・ツィルクは1986年に訪日した際,飛行機の機上で「男はつらいよ」シリーズの作品を見て,ウィーン市民の気質や市郊外の風景が作品の世界と似ていると感じたといいます。
 みちのくのローカル線の列車で知り合った心身衰弱のサラリーマン・坂口の望みでウィーンに行くことになった車寅次郎は現地でツアーガイドの久美子と偶然知り合います。車寅次郎は一緒に日本へ帰ることを勧め,久美子は帰国することに。しかし,いよいよ帰国というときに,恋人だったヘルマンと再会。その瞬間,寅次郎は失恋し,ヘルマンに対して、久美子を幸せにするよう約束させ、帰国の途についたのでした。
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 若いころ,私は,「男はつらいよ」を見にいくのを楽しみにしていたのですが,今回放送されたものは見た記憶がありません。まさか,寅さんがウィーンに行っていたとは…。この映画が上演された当時の私はウィーンに興味がなかったので,記憶に残らなかっただけで,ひょっとしたら見ているのかもしれません。
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 私は,2018年と2019年の2度,オーストリアに行ったことがあります。そして,すっかりその魅力に夢中になってしまいました。今では,再び行きたい国ナンバーワンです。
 この映画を見ると,すでに30年以上前とはいえ,ウィーンの街の様子は,少しも変わっていないのに驚きます。2018年に行ったときに国立歌劇場(Wiener Staatsoper)でオペラを見たのですが,国立歌劇場は第2次世界大戦で大きなダメージを受けたのにもかかわらず,外見は昔のままに再建され,しかし,それぞれの座席には液晶パネルが設置されていて,そこにさまざまな言語で字幕表示され,幕間のカフェの注文もできるようになっていました。このように,伝統を大切にしながらも,日本よりも優れた最新設備が取り入れられていることに驚きました。
 それと同じように,市内を走る地下鉄は,子供連れの人がベビーカーのまま乗り込むことができて,しかも,ベビーカーをもったまま座ることができるように入口付近には座席が用意されているといったように,日本とはまったく違う,人が快適に生きるための工夫が至る所にある,とても過ごしやすい街であったのに,私は,感銘を受けました。
 ウィーン,今では,私が世界で最も好きな街のひとつです。

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 先日,2022年4月27日,NHKBSPで「ヨーロッパ発駅ロマン-フィンランド・ヘルシンキ」が放送されました。フィンランドの首都ヘルシンキの中央駅を舞台としたさまざまな物語です。私は,2018年2月と2019年8月にフィンランドに行きました。2018年の2月に行ったのは,北極圏近くのロヴァニエミでしたが,2019年8月は,この番組に出てきたヘルシンキ中央駅近くのホテルに宿泊したので,とても懐かしく番組をみることができました。ただし,私がヘルシンキに行ったのは夏で,番組で出てきたヘルシンキは冬でした。
 フィンランド中央駅が作られたのは1919年なので,今から100年以上も前のことです。私が子供のころの名古屋駅などとよく似た感じで,懐かしい気持ちがしたものです。その後,日本の駅舎はどこも近代的な外観となりました。しかし,その内部も最新かといえば,疑問符がつきます。それに比べて,ヘルシンキ中央駅は,駅の外観は古くても,チケットの販売機などは完全に自動化され,最新設備となっていたのは,ウィーンの国立歌劇場同様でした。こうしたことが,ヨーロッパの文化の豊かさと奥深さで,伝統を大切にしながらも,日本よりもずっと先進性をとり入れ利便性を兼ね備えたヨーロッパというところの優秀性を私は感じました。また,改札口がないので,だれでもホームに行くことができます。

 この駅から,フィンランドの各地に多くの列車が発着しています。
 番組でも紹介していましたが,ヘルシンキのヴァンター国際空港にも,ヘルシンキ中央駅から直接行くことができて,とても便利です。
 私がこの駅で特に印象に残っているのは,フィンランドの北,北極圏の町ロヴァニエミまで行く寝台列車サンタクロースエクスプレスの出発シーンですが,もうひとつが,この番組でも紹介されたロシアのサンクトペテルブルグまで通じている国際列車です。私は,ヘルシンキ中央駅の電光掲示板でこの列車の表示は見ましたが,発着シーンは見損ねました。このことを今では残念に思いますが,それは,この当時は,次に来たときに乗るからいいや,と思っていたことによります。
 ヘルシンキからサンクトペテルブルグまでは,東京から大阪に行くよりも近く,わずか300キロメートルほどしかないのですが,国境を隔てているので,車内で検札があるということでした。私は,2020年の夏に三度目のフィンランドに行って,そのときにこの列車に乗ってサンクトペテルブルグまで行く予定をしていただけに,コロナ禍でその旅が実現できなかったことが数少ないこころ残りのひとつとなっています。

 フィンランドの東はロシアです。長い国境線がふたつの国を遮断しています。また,フィンランドの歴史は,ロシアとの戦争の歴史でもあり,植民地化されたこともあります。この番組が,現在のロシアのウクライナ侵略を意識して放送されたのかどうかは知りませんが,このご時世ともなると,こうした事実がかなり深刻な問題として浮かび上がります。果たして,今もサンクトペテルブルグ行きの列車は運行されているのでしょうか?
 フィンランドは,世界で最も幸せな国といわれています。また,教育が充実して学力世界一だともいわれています。実際,この国を旅すると,治安もよく,旅もしやすく,自然も魅力に富み,豊かな国であることを実感します。しかし,未だに徴兵制度があるということを聞いて,平和ボケした日本に住む私は,当時,とても意外な気がしたものです。
 私がヘルシンキに着いたちょうどその日,ロシアからプーチン大統領が来ていて,その車列を見ました。私のわずか数メートル前を,この,面積だけが巨大な国の元首が車に乗って通り過ぎて行ったのです。それは今からわずか3年前のことだったのに,当時は,その国の恐ろしさへの実感は程遠いもので,フィンランドがロシアと陸続きであることを痛感しただけでした。フィンランドの置かれた地理的なリスクが何を意味しているのか,私にはまったく理解できませんでした。
 それが,今や,フィンランドは,隣国の脅威に懸念を抱かざるを得ない状況となっています。
 この番組を見ながら,どうか,将来にわたって,私の大好きな,そして,すばらしい北欧の国の平和がこれからも続くようにと願わずにはいられませんでした。

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 若いころはアメリカを車で旅し,齢をとったらヨーロッパを鉄道で旅したいと,漠然と思っていたのですが,実際のところは,近年まで,ヨーロッパを鉄道で旅する気持ちはほとんどありませんでした。
 アメリカなら空港でレンタカーを借りればそれでどうにでもなるのに比べて,鉄道の旅では,事前に時刻を調べたり,チケットを購入したりと,いつも無計画な旅をしていた私には,ものすごく面倒なことに思えたからです。
 それが,何度もこのブログに書いているように,ふとしたきっかけで,フィンランドやオーストリアに行って,そして,なんとなく鉄道に乗って郊外まで日帰り旅行を楽しんだことで,ヨーロッパを鉄道で旅する楽しみを知ってしまったのでした。

 ヨーロッパは,知れば知るほど歴史も文化も奥が深く,もっと早くから旅をしていればよかったという想いやら,気楽に旅をするには,やはり,英語だけでなく,ドイツ語やフランス語といった言語をもう少し知っていなくては,という気持ちやらで,複雑でした。
 それでも,この先は,1年に1回くらいずつ,ヨーロッパを鉄道で旅をして,観光地でない郊外の小さな町で宿泊するような旅を実現したいものだと思うようになったころ,コロナ禍になってしまいました。やり残したことがほとんどない私でも,このことだけが少し悔やまれます。

 さて,NHKBSPで,2015年度から16年度にかけて「関口知宏のヨーロッパ鉄道の旅」という番組が放送されました。ヨーロッパ10か国,約2万キロを鉄道で走破し,1国につきおよそ10日間の行程で旅の様子を流すというものでした。
 偶然の出会いを装った,しかし,そのほとんどがやらせ,というか,仕組んだ演出だなと感じられた出会いが番組の核となっていたものですが,ヨーロッパの鉄道事情がわかりました。
 放送されていた当時は,私は,ヨーロッパを鉄道で旅したことがなくあまり興味もなかったので,この番組をなんとなく見ていただけでした。見ていておもしろかったけれど,だからといって,行きたいという気持ちにはなりませんでした。
 毎度のごとく再放送だらけのNHKBSPで,先日,この番組のオーストリア・チェコ編が何度目かの再放送されました。もともとは,2016年の2月から3月にかけて放送されたものです。先に書いたように,この番組がはじめて放送されたあとで,私は奇しくもオーストリアに行ったこともあって,今回は興味があって,再び見ることにしました。
 改めて腰をすえて見てみると,自分も利用したことがある鉄道や駅がたくさん出てくるので,とても懐かしくなりました。

 この番組に限らず,テレビでよく出てくるヨーロッパの様々な国ですが,なぜか,私は,一概にヨーロッパと行っても,オーストリアは何度でも行きたいと思い,若いころに1度行ったことがあるフランスやイギリスには,また行きたいと思わないのです。スペインやイタリアにも興味が湧きません。また,オーストリアに行ったことでその必要性を感じてはじめたドイツ語の勉強なのに,その言葉が正真正銘の母国語であるドイツも,また,まったく興味が湧かないのです。
 北欧も,フィンランドには2度行って,とてもいい国だったのに,それでもう満足してしまい,また行きたいとは思わないし,スウェーデンもノルウェーも特に行きたいと感じません。しいていえば,アイスランドはまた行ってもいいかな。
 そんなわけで,もし,コロナ禍が起きていないくて,ヨーロッパ旅行をすることが可能だったとしても,私は,オーストリアに何度もリピートしていたか,もしくは,オーストリア以外で唯一行きたいという気持ちがあるチェコに足をのばしてていただけだったのかもしれません。
 それにしても,ヨーロッパはどの国もすばらしい文化や古い歴史があるのに,私が特定の国にしか興味が湧かないのが自分でも不思議で仕方がありません。ほんとうにどうしてなのだろう?


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 なぜあんな遠いところに気軽に出かけたのか,今思うと大胆なことでした。
 その国のこともほとんど知らなかったし,想いもなかったのに,オーロラ見るならここしかないということばだけでその気になって,しかも,英語圏でもないのに,ホイホイと車を借りて走り回ってきました。
 しかし,今日載せた写真はたまたま晴れているけれど,いつも頻繁に変化して天気が悪いからオーロラどころか星さえ見えず,雨ばかり。物価は異常に高くて,人は不愛想だったし,しかも,私が適当に予約したゲストハウスがかなりひどい所で,到着早々気持ちが落ち込みました。だから,行ってきたあとも行ってきてよかったという実感がありませんでした。
 この国にはそんな思い出しかないのです。
 ところが,今になって,行ってきてよかったなあ,また行きたいなあと,しみじみ思い出してしまうのです。
 それがアイスランドです。
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 この大西洋の孤島,地図で見ても,よくもまあ,こんなところに行ったものだと思います。私が行った中で最も遠い距離にある国です。
 しかし,実際は,私の住む愛知県のセントレアからフィンランドのヘルシンキまで直行便で行ってそこで乗り換えるだけで着くことができるので,アメリカのどこかの場所には,まず東京へ行って,そこからシアトルだのロサンゼルスだのまで行って,さらにトランジットしないと着けないから,アイスランドのほうがずっと簡単に到着できるのです。

 この国に再び行きたいと思うようになったのは,人が少ないのでストレスがないということと,雄大な自然が最高に美しいということです。
 このご時世,どこかしこも人だらけで,自然は破壊され,どんな場所もゴミだらけ廃墟だらけ,しかも,山の中のどこまで行っても人家があり,山小屋も混み合っていて,人の手が加えれていないところはどこにもないという,まったく救いのない日本には,行きたいと思うところも逃げ出す場所もありません。しかも,いつもどこでも,他人の目を気にしていて,主体性もなく,いい加減な情報を信じる人たちがうようよしていて,どうしようもない。おそらく,私がアイスランドを懐かしいと思うのはその反動なのでしょう。
 というわけで,私が一度行ったときに期待外れだと思ったことを逆手に取れば,というか,はじめからそうしたことのすべてを想定内のことにすれば,アイスランドは何と魅力的なところだったのか,と思うようになりました。そう思うと,私が日本で予約しておいたゲストハウスのひどさから逃げ出して現地で見つけて1泊したポツンと1軒家のペンションはなんとすばらしかったことか,と懐かしくなりました。

 考えてみると,私は,これまで大西洋を横断したことがありません。
 アイスランドの首都レイキャビックの空港にアメリカの航空会社デルタの飛行機が停まっているのに驚いたのですが,アメリカからアイスランドは最も近いヨーロッパなのです。
 であれば,もし,次回があるのなら,いっそのこと,アメリカから大西洋を横断してアイスランドに寄って,アイスランドからは,シベリア上空を通り帰国して,地球1周としゃれこんでみよう。そんな気持ちになってきたら,ますます行ってみたくなりました。

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 デジタル朝日の&Travelに「フィンランドで見つけた“幸せ”」と題したライターの内山さつきさんの文章が載っていました。少しだけ引用してみましょう。
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 「アイノラ」のことを思い出すとき,シベリウスのピアノの小品「樅の木」(The Spruce)がいつも静かに心の中を流れている。…
 そのメロディーに耳を傾けていると,かつての「アイノラ」に流れた家族のあたたかく美しい時間,そして,作曲家として成功した後も,ついに完成することのなかった幻の作品を追い求め続けた,シベリウスの沈黙のその内側へと思いをはせずにはいられないのだった。
  ・・・・・・
 フィンランドの作曲家シベリウス(Jean Sibelius)が1957年に91歳の生涯を閉じるまで暮らした場所はヘルシンキの北へ40キロメートルほど行ったヤルヴェンパー(Järvenpää)というトゥースラ湖(Tuusulanjärvi)のほとりの町にあります。ヘルシンキからは電車で行くことができます。この場所をシベリウスの妻アイノ(Aino Sibelius)さんにちなんで 「アイノラ」(Ainola)といいます。
 シベリウスは妻アイノさんと1904年にここに建てた住まいに移り住みました。

  ・・・・・・
 フィンランドを代表する作曲家シベリウスは,ドイツやロシアなどの作曲家から大きな影響を受けながら,フィンランドの伝統や自然に根ざした作品の創作に力を注ぎました。幼いころからピアノやヴァイオリンを学び,また,作曲も独学で身につけたシベリウスは,ヘルシンキ音楽院で学んだのち,ベルリンとウィーンに留学しました。
 フィンランドの民族的な要素を素材としたシベリウスの作品は,ロシアの圧政に苦しんでいたフィンランド国民によって支持され,国民の英雄として尊敬を集めました。
   ・・・・・・
 シベリウスは晩年作品を発表せず「ヤルヴェンパーの沈黙」(the silence of Järvenpää)とよばれているのですが,「アイノラ」で世界中から流れてくる自分の音楽を大きなラジオで聴きながら過ごしたといいます。
 私がこの地を訪れたのは2019年8月のことだったので,ここもまた,1年遅かったら行くことができないところでした。

 シベリウスは日本では愛好者が多いのですが,アメリカなどではそれほどでもないようです。
 フィンランドは世界一幸せな国といわれていますが,実際はロシアと長い国境を接しているために苦悩の歴史を背負っていて,しかも,緯度が高いことから寒く暗く,そうしたことがこの音楽を深いものにしているわけです。私はその染み入るような音楽がずっと好みでした。
 しかし,フィンランド,そして,この「アイノラ」に行ってみて,逆に切なくなりすぎて,聴くのをためらうようになってしまいました。それは,シベリウスが嫌いになったとかいうことではなくて,その苦悩を感じてしまったということにあって,それまでとは異なって,決して安易に聴くことができなくなったことにあります。
 そんな気持ちとは別に,「アイノラ」はとてもすばらしいところでした。
 私はフィンランドというと,まず,この「アイノラ」を思い浮かべます。本当に行くことができてよかったと思います。

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 何度も書いているように,私は2016年度に放送された「旅するドイツ語」を見なかったら,おそらくウィーンに行くことはなかったでしょう。海外もいろんなところに行きましたが,ウィーンこそ,私が最も気に入った町となりました。
 しかし,思えば,ウィーンに行く前にフィンランドに行って,はじめて個人旅行でヨーロッパに行くことを知らなければ,気軽にウィーンに行けなかっただろうし,また,フィンラドに行ったのも,その前年,アラスカに行ってオーラを見なかったとしたら,それもありえなかったし,アラスカに行ったのも,アイダホ州で皆既日食を見なかったら行くこともなかったかもしれない,というように,すべてが糸で結ばれているのです。不思議な話です。
 「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないですが,「皆既日食がなければウィーンに行っていない」のです。

 さて,そのウィーンですが,私が知っていたのはクラシック音楽の都,というだけで興味はなく,高校時代に世界史を学んでいない私は,ハプスブルク家(Haus Habsburg)という存在もまったくといっていいほど知りませんでした。
 ウィーンでシェーンブルン宮殿(Schloss Schönbrunn)に観光で訪れたとき,同じ現地ツアーに参加した人が思わず言った「ウィーン会議」と「双頭の鷲」という言葉に打たれました。
 私にとっては「なんだそれは?」という感じでした。知らないことがあると無性に悔しくなる私は,帰国後,その言葉の裏にある意味をずいぶん勉強しました。

  ・・・・・・
 「双頭の鷲」(Doppeladler,Double-headed eagle)というのは頭をふたつもつ鷲の紋章のことで,東ローマ帝国や神聖ローマ帝国,それに関連したヨーロッパの国家や貴族などに使用されたものです。  
 「ローマ」の象徴としてローマ帝国の国章は単頭の鷲の紋章でしたが,その後も帝国の権威の象徴として使われ続け,13世紀の東ローマ帝国末期のパレオロゴス王朝(Palaiologos)時代に「双頭の鷲」の紋章が採用されたといいます。
 東ローマ帝国における「双頭」は「西」と「東」の双方に対するローマ帝国の支配権を表します。
 「ローマの後継者」の象徴として, また,「東ローマの後継者」の象徴として,東ローマ帝国の「双頭の鷲」は,その後も継承されました。そして,「西ローマの後継者」の象徴としてハプスブルグ家の紋章となり,さらに,オーストリア帝国,オーストリア=ハンガリー帝国,ドイツ国などに継承されました。
  ・・・・・・
 つまり,「双頭の鷲」というのは,日本でいえば「菊の御紋章」のようなものでしょう。
 私は,シェーンブルン宮殿に掲げられたこの「双頭の鷲」が,かつてのハプスブルグ家の権威と威厳を表わしていることに,ある種の怖さを見る思いでした。人間社会というのは,本当に魔訶不識なところです。

◇◇◇
太陽柱。

2月4日朝,太陽柱が見られました。
太陽柱(sun pillar)は地平線に対して垂直方向へ太陽から炎のような形の光芒が見られる現象です。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 再放送ばかりのNHKBSPです。
 これもまた,いつごろの再放送でしょうか,昨年2021年9月上旬の早朝に「ヨーロッパ大横断・川の旅」という番組が放送されていました。オランダから9か国を巡って黒海まで,ライン川とドナウ川を豪華客船でクルーズするというものです。
 アメリカ資本の客船ということで,乗客は,アメリカ人のいかにも金持ちという年配の夫婦の人たちがほとんどでした。何でも「死ぬまでにやっておきたいことリスト」に入っているから参加したという話がインタビューされていたように,老後の楽しみ,のような人たちの船旅でした。
  ・・
 こうした船旅というのは贅沢な話で,私のような貧乏人には別世界のお話です。アメリカ人は,このヨーロッパの船旅のほかに,カリプ海やアラスカの船旅が「一度はやってみたいこと」のリストであるようです。
 船旅というのは,豪華客船に乗り込んで,連日,豪華な食事やショー,お昼間は甲板にあるプールで泳いだり,のんびりと景色をみたり,そして,名所になると船を停めて上陸するという,そんなツアーです。
 で,これを見ていて,私は思い出しました。

 2019年の夏,私はフィンランドのヘルシンキに旅をしました。はじめは予定になかったのですが,調べて行くうちに,フィンランドのヘルシンキからバルト海を渡ってエストニアのタリンまで往復,片道3時間の船旅ができることを知って,船旅を予約して楽しみました。私は,単なる船旅のつもりだったのですが,思い出したというのは,そのときに乗った客船がこの番組で出てきた豪華客船とほぼ同じだったということを,です。
 私は,そんな旅をする気持ちがあったわけでもなく,それは単に,タリンまで行く交通手段として選んだだけでした。だから,思っていたのは,日本の瀬戸内海フェリーとか,そういう類のものだったのです。
 しかし,私が乗ったのは,超豪華客船だったわけです。
  ・・
 船内には豪華なレストランもあったし,カジノもあったし,ショーもやっていたし,甲板に出れば,すばらしい景色を眺めることもできました。
 行きは,コンフォートクラスを選択して,ラウンジのようなところで過ごしました。そして,帰りはレストランで夕食を予約しておきました。その結果,期せずして,ものすごく豪華で贅沢な船旅が実現したのです。
 海外を旅行して感じるのは,こうした時間を楽しむという文化の違いです。コンサートホールひとつにしても,日本では,音楽を聴いた後にゆったりと食事を楽しむようなレストランすらなかったりしますし,列車でも,早く目的地につけばいい,とばかりに,今や,食堂車すらありません。学校や官公庁の建物もボロボロです。

 ヘルシンキとタリンを日帰りで往復することしか頭にありませんでしたが,後で考えると,こんな贅沢な船旅になったわけです。
 フィンランドとエストニアはユーロ圏内なので,別の国に行ったのに何の手続きも必要もなかったことも不思議といえは不思議だったし,単に船でバルト海を渡るつもりだったのに,実際は,憧れの豪華客船の旅を体験したのもまた,不思議なことでした。これもまた,本当にやっておいてよかったことです。今それをやろうと思ってもできないだけに,奇跡のようなものです。
  ・・
 このようなことのひとつひとつを思い出しても,一体私は,この数年で,どれだけ多くの奇跡のような旅をしたのでしょう。もし,次があるのなら,今度は,バルト海をスェーデンのコペンハーゲンやノルウェーのオスロまでの船旅を楽しんでみたいものです。

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 ウィーンに憧れ,行ってほれ込んでしまったオーストリアでした。行けるとも思っていなかったザルツブルグ(Salzburg)も望外に訪れることができて,さらにほれ込んで,2度目の2019年晩秋にはハルシュタット(Hallstatt)にも行くことができました。
 「地球の歩き方」を読んでみると,オーストリアには,さらにさらに魅力的なところがたくさんあるのですが,アメリカと違って,車を借りて走り回れるとはどうも思えず,かといって,公共交通機関を使って旅をするには,かなりの計画性が必要だなあ,と思っていました。そんな折にコロナ禍になってしまい,旅は中断したままとなっています。
  ・・
 「3度目の壁」。
 これまで,いいなあと思ってリピートしたところは世界中に数あれど,3度目のリピートをするほどの魅力のあるところは少ないものです。しかし,これまで2度行ったオーストリアはすばらしいところ,また旅ができるようになるとは到底思えないこのごろですが,もし可能になったとしたら,「3度目の壁」を越えて,真っ先に行ってみたい国です。
 また,私にはオーストリアは高値の花でもあります。それは,美しい女性を遠目で見るだけなのと同じで,なかなかその実態がわからないということです。その理由は公用語がドイツ語ということも理由です。気楽にオーストリアの山岳地帯の民宿に泊まれると思えないと,怖気づいていて,どうも英語圏のように気楽に旅ができないと思ってしまうのです。若いころにもっとまじめにドイツ語を勉強しておけばよかったと後悔しています。

 歴史的に見れば,オーストリアは大国でした。戦争に敗れ,小国となり,現在,オーストリアは自治権をもつ9つの連邦州(Bundesländer)からなる連邦国家です。
 州には独自の司法制度をもたず,また,立法も,外交・国防や金融財政から商工業・文化・医療などにわたるまでが連邦政府の専権事項となっているので,州といってもアメリカのような独立したものではありませんが,州民の郷土意識は強いといいます。
 9つの州は次のものです。
  ・・・・・・
 ①ブルゲンラント州(Burgenland)
 ②ケルンテン州(Kärnten)
 ③ニーダーエスターライヒ州 (Niederösterreich)
 ④オーバーエスターライヒ州 (Oberösterreich)
 ⑤ザルツブルク州(Salzburg)
 ⑥シュタイアーマルク州( Steiermark)
 ⑦チロル州(Tirol)
 ⑧フォアアールベルク州( Vorarlberg)
 ⑨ウィーン(Wien)
  ・・・・・・

 私がオーストリアで,ウィーン,ザルツブルグの次に行きたかったのが,このハルシュタットでした。ところが,ハルシュタットという名前は有名なのに,調べても,どこにあるのか,それが地名なのかさえ,なかなか把握できませんでした。私がハルシュタットに行こうとしてやっと見つけて参加した現地ツアーも,ザルツカンマーグートへの旅,とありました。今度は,ザルツカンマーグートって何だ? という感じでした。
 調べてみると,次にことがわかりました。
 ザルツカンマーグート(Salzkammergut)は地方の名前で,先に書いた9つの州のうちオーバーエスターライヒ州とザルツブルク州にまたがるオーストリアの観光地です。ザルツブルク市の東方に位置します。ザルツカンマーグートは「塩の御料地」の意味で。かつて,この地方の価値ある塩鉱がハプスブルク帝国の帝国直轄地だったことに由来しています。
 私が憧れた,そして行くことができたハルシュタットは,オーバーエースターライヒ州に属する小規模な基礎自治体「ゲマインデ」(Gemeinde)のことで,ザルツカンマーグート地方の最奥に位置する景勝地ということでした。ハルシュタット湖(Hallstätter See)の湖畔にあって,周辺は,ザルツカンマーグート地方のハルシュタットとダッハシュタインの文化的景観」として、ユネスコの世界遺産に登録されています。
  ・・
 「世界で最も美しい湖畔」といわれるように,期待どおり,素朴で美しいところでした。
 ウィーンから日帰りで行くには遠く,一時はあきらめていただけに,本当に行くことができてよかったと思います。それに加えて,私がこころに残るのは,その途中のバスの中から見たアルプスの景色でした。こんなに美しい山村があるのか,と思いました。

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JWST reaches its final destination a million miles from Earth.

The James Webb Space Telescope has reached its final destination, almost a month after launch.
JW

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 それにしても不思議なのは,2017年というから,今からわずか4年前まで,私は,ヨーロッパに興味がなかったことです。若いころに,歳をとってアメリカをドライブするのがたいへんになったら,ヨーロッパを鉄道で旅しようとおぼろげに夢見ていただけでした。
 私が今のように,オーストリアやフィンランドを身近に感じられるようになったのは,わずかここ3年のことでした。この間にずいぶんとヨーロッパを旅行したのです。しかも,2020年以降は海外旅行もできなくなってしまったから,本当に,たくさん旅をしておいてよかったものです。
  ・・
 ヨーロッパに興味を向けたそのきっかけはアラスカへ行ったことでした。
 2017年8月21日アメリカ横断皆既日食がありました。私はそれをアイダホ州で見たのですが,その帰路に立ち寄ったのがアラスカでした。幸運にもアラスカで思いもよらずオーロラを見ることができてすっかりはまってしまい,ならば,ということで,翌年2018年2月に冬のオーロラを見にフィンランドへ行きました。これでヨーロッパに行くことを覚えました。
 さらに,NHKEテレの「旅するドイツ語」という番組でオーストリアを取り上げていたのを見て,かなり感化されてオーストリアへも行き,そしてまた,なぜかアイスランドにも行き,さらに,フィンランドのヘルシンキへ行き,そのついでにエストニアのタリンに足をのばした,という流れなのでした。
 そもそも,私がアイスランドやエストニアに行くとは自分でも思いませんでした。エストニアに行った動機ののひとつには,NHK交響楽団の首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィさんがエストニアの出身ということもありました。しかし,私がエストニアに行ったといっても,単なる日帰り旅行であり,しかも,行った先は,首都タリンの歴史地区だけですから,これでは,本当のエストニアの姿を知っているとは到底いえません。

 2021年は「日・エストニア友好100周年」ということで,これを記念して,NHK交響楽団の6月公演でパーヴォ・ヤルヴィさんが久しぶりに指揮をしました。そこで,これを機会に,エストニアについて調べてみることにしました。
  ・・
 エストニアは1918年にロシアからの独立を宣言し,日本は1921年にエストニアを国家として承認しました。しかし,エストニアは1940年に再びソ連に併合されます。1990年にやっとソ連からの独立回復を宣言し,日本は1991年にエストニアを改めて国家承認しました。
 エストニアには,こうした悲しい歴史があるのです。
 日本は植民地にこそなりませんでしたが大国ロシアのとなりである条件は似たようなものです。フィンランドもまた同様です。しかし,それにしては,日本人は,こうした諸国のことをあまりに知りません。

 今,多くの日本人がエストニアに関して知っていることといえば「電子国家」だそうです。私は民放をまったく見ないので知らなかったのですが,民放の番組か何かで取り上げていたそうです。
 私は,半日ほどタリンの観光地を巡っただけなのでクレジットカードしか使わなかったのですが,エストニアを歩き回ろうとすれば,まずは,空港に着いたときに,真っ先にコンビニ「R-kiosk」に行って,Suicaのようなものを買ってチャージしないと不便なのだそうです。タリンの市民はIDカードを持っていて,このIDカードだけで公共交通機関に乗ることができて,電車だと改札もなく,乗っていると車掌さんが来て,ひとりひとりIDカードをピッとして回るそうです。
 観光客は当然IDカードがないので,こうしたカードを購入する必要があるわけです。しかし,チャージするためには「R-kiosk」の店舗に行かないとダメで,自動券売機はないし,「R-kiosk」の店員さんは冷たく英語もしゃべらないとか。カードを自分でガシャッと入れて暗証番号を打つというのは,ほかの国でも同じですが,旅行者にとれば思ったほど「電子国家」という感じはしません。とはいえ,エストニアの国民には「電子国家」は身近な存在です。

 日本にも「マイナンバーカード」が導入されましたが,税金をとりっぱぐれないのが本音で,セキュリティにも疑念のある腹黒い日本のシステムではうまくいくわけがありません。
 一方,エストニアの「電子国家」の特徴は,「安全で信頼できる個人情報管理」ということだそうです。まあ,いろいろな国に行った私が思うに,日本だけがITに関していろんな面で諸外国と違うというか遅れている感じがします。日本では,個人情報やその認証を安全に電子化できていないことが問題なわけです。
 「安全で信頼できる個人情報管理」というのは,エストニアの国のもつ歴史から来るものということです。エストニアの個人情報銀行を支える技術は「X-Road」です。これは分散したデータベース間の情報共有を安全に行う技術で,エストニア科学学会(Academy of Science of Estonia)が設立した Cybernetics 研究所を前身とするエストニアの企業 Cybernetica が導入したものです。
 エストニアが独立を回復したときに,大きなデータベースを作るお金がなかったので,分散したデータベースを結合する方法をとったのがそのはじめということですが,作りがぞんざいだったために,独立した後もロシアからのハッキングに悩まされたそうです。これを教訓として,この「安全で信頼できる個人情報管理」が国としての安全性を高めているのです。

 1918年にロシア帝国から独立した2月24日はエストニアの独立記念日です。
 しかし,エストニアにはもうひとつの独立記念日があります。それは,再びソ連に占領され,1991年8月20日にソ連から独立を回復した日です。エストニア民族の歴史は凄惨なのです。この8月20日に毎年ラウルピドゥ(Laulupidu)というイベントが行われ,コイト(Koit=夜明け)という歌が歌われます。これは,自由を獲得したエストニア人のこころの叫びで
  ・・・・・・
 It's dawn, a royal blaze light's victory wakes the earth.
 The horizon is free, the first ray is falling to the ground.
   ・・
 それは夜明け,王の言霊。
 大地を呼び起こす勝利の光。
  ・・・・・・
と歌います。ロシアの圧政から逃れたフィンランドの「フィンランディア」のようなものでしょう。そしてまた,「電子国家」はエストニアが独立を守り抜くための知恵なのです。
 それにしても,大国ロシアの陰で,エストニアやフィンランドなど周辺の多くの国が,そしてまた,多くの人たちがその苦悩の中で生きてきたという歴史の重みは,私のこころを苦しめます。


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 セントレア・中部国際空港からはヘルシンキまで直行便があります。そして,ヘルシンキからは電車で気軽に郊外の地方都市に行くことができます。ちょうど,名古屋から奈良や静岡,高山などに日帰り旅行をするような感じです。そしてまた,夏に行けばお昼間が長いので,十分な時間をとることができます。私は2度目の旅で,タンペレ,ナーンタリ,トゥルク,そして,シベリウスの故郷アイノアに行きましたが,どこもいい印象ばかりです。そのどの町も,また,出かけてみたいところです。
 このように,日本国内の,どこも混雑して蒸し暑い観光地に渋滞する高速道路を走ってでかけ,高価なホテルに泊まるくらいなら,ふらっとヘルシンキにでも出かけるほうが,ずっと快適なのです。このコロナ禍は別として,わずか9時間ほど飛行機に乗れば,名古屋からヘルシンキには行くことができるし,ヘルシンキからも郊外の美しい町にも鉄道で簡単に行くことができるし,そのどこも治安のよい落ち着いた美しいところなので,何の目的もなくふらっと訪ねるのはとてもよい国なのです。

 これまでに行ったフィンランドの感想を交えて書いてきましたが,結局,私の幻に終わったフィンランド旅行は,このように,単に時間つぶしに行こうと思っていただけでした。私が2度目にフィンランドに行ったとき,ヘルシンキの街中で出会った日本人の女性が「毎年来ています」と言ったのを聞いて,よほど魅力のあるところなのだなあ,と思ったのが強く印象に残っています。
  ・・
 今後,再び海外旅行ができるようになって,私は,この幻となった旅を実現することができる日が来るのでしょうか?


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 1年前に私が計画していたフィンランドの旅で,私は,夜がほとんどない夏のフィンランドを楽しもうと思っていたので,行くことができなかった今でも,夜がほとんどないということがどういうことなのか,想像がつきません。
 私は,それまで,2度フィンランドに行ったのですが,1度目は2月のロヴァニエミでした。これは冬だったので,午後3時には暗くなりました。オーロラを見るには夜が長いのでもってこいの季節ではありましたが,短いお昼間にどこかに出かけようと思っても,レンタカーを借りて雪の中を走る勇気もなく,バスを利用するとなると,よほどきちんとバスの時間を調べておかないと,待っている時間で凍えてしまうので,命の保証すら危うくなります。
 いつかこの季節に,ロヴァニエミよりさらに北に行ってみたいと思っているのですが,もしそれを実行を移すとなると,かなりの下調べが必要でしょう。
 2度目に出かけたのは8月の下旬だったので,とても快適でした。今年の猛暑は別として,私の行ったときは,もっと寒いのかと想像していたのですが,普通の夏服で,暑くもなく寒くもなく十分でした。8月下旬ともなると,夜が短いという印象はあまりありませんでしたが,それでも観光することができる時間が長く感じられて,結構遠出もできたので,楽しい旅となりました。

 夏の北極圏といえば,フィンランド以外に,私は,8月にアラスカとアイスランドに行ったことがあります。アラスカでは,夏とはいえ,オーロラも見ました。オーロラは冬しか見ることができないと思っている人もいますが,年中見られます。ただし,夜暗くならないと見られないから,冬の方が適しているというだけのことです。
 夏のアラスカでオーロラを見たことから,それに次いで,アイスランドでも同じように夏にオーロラを見ようと出かけてみたわけですが,夜になって日が暮れても,空がずっと明るいままだったのには落胆しました。考えてみればそれは当たり前で,日が沈んだとはいえ,太陽は地平線の下かなり浅いところを這いつくばるように動ているから,ずっと夜明け前のような状態だったわけです。
 それにしても不思議なのは,アラスカだってアイスランドと同じ状況であるのに,アラスカでは夜がすっかり暗かったことです。どうしてそうだったのか,その理由が私には今もってよくわかりませんん。
  ・・
 ということで,北極圏近くを旅するには,冬はかなりの計画性と工夫が必要になるのですがオーロラがよく見え,その一方,夏はオーロラはあまり期待できない代わりに,快適で,白夜の体験もできるというわけです。

 私は,夏はほとんど夜がなく,その反対に冬は夜ばかりのこの国に住む人たちがどんな生活をしてしているのかということに,行くことができなかった今になって,とても興味が湧いてきました。特に,夏は,ずっと明るいのに,長い夜を何をして送っているのでしょうか。それとも,昼が長いとか短いということは関係なく,いつも同じように規則正しく毎日生活しているのでしょうか?
 これはやはり,実際に行ってみて確かめてこなくては…。
 いつになったら,そんな旅ができるのでしょう。

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 フィンランドは,どこかに気ままに出かけて,1日をゆったりと過ごすのに適している国のようです。また,夏と冬とではまったく魅力が異なります。
 私は,結果として,冬のフィンランドと夏のフィンランド,そのどちらも経験することができました。そしてまた,幻になってしまいましたが,私が昨年の夏に再びフィンランドへ行こうと思ったのは,白夜というものを味わってみたかったということも理由のひとつでした。
 とはいえ,ヘルシンキは北極圏ではないので,一応,少しは太陽が沈みます。

 白夜を体験するために北極圏まで出かけるもっとも簡単な方法は,ヘルシンキから飛行機を利用することですが,それよりももさらに魅力的な方法は鉄道です。
 このころは,毎年フィンランドに行くことができると思っていたから,あえて,この旅で北極圏に行こうとは思っていませんでしたが,私の夢は鉄道でフィンランドを縦断することだったのです。
 鉄道でフィンランドを縦断する… とは,「サンタクロースエクスプレス」に乗ることです。
  ・・
 今日の写真は,その「サンタクロースエクスプレス」がヘルシンキの中央駅を出発するところです。「サンタクロースエクスプレス」午後11時13分ヘルシンキ中央駅発で,翌日の朝・午前10時51分,北極圏の町ロヴァニエミに到着します。
 この写真は2019年の夏に写したものですが,このときは乗らず,いや,乗れず,出発だけを見送りました。夏なら,ロヴァニエミの近郊で白夜を経験できるし,冬なら,夜明けのフィンランドの大雪原を車窓から眺めることができることでしょう。
  ・・
 私も見送るだけでなく,次に行くときは乗ってみようと夢見ていたのですが…。

◇◇◇
昨日2021年7月5日,フィンランド北極圏は熱波に覆われ,気温が30度を超える猛暑となりました。地球はどうなってしまったのでしょう。

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 森と湖の国フィンランドといわれますが,実際,飛行機が首都ヘルシンキに近づいて,着陸態勢に入って地上が眺められるようになると,眼下に見えるフィンランドの大地は森と湖ばかりです。
 フィンランドを舞台にした映画「かもめ食堂」で,主人公のサチエさんがフィンランドには何もないというと,フィンランド人の青年トンミ・ヒルトネンが
  ・・・・・
 森がアリマス
  ・・・・・・
と応えるシーンがあります。
 このように,フィンランド人は自然豊かな森が誇りです。フィンランドの森は,それがだれの所有であれ,人は自由に行き来でき,キノコやベリーを見つけたらそれを摘んでもいいという「自然享受権」があります。


 そこで,フィンランドに行って,私がやりたかったもうひとつのことは,キノコ狩りでした。
 行先はヌークシオ国立公園です。「地球の歩き方」によると,ここはヘルシンキから最も近い国立公園で,面積は45平方キロメートル,ハイキングコースも整備されているということです。
 前回と前々回と2度フィンランドに行って,私は「地球の歩き方」に載っているフィンランドのそのほとんどは行ったのですが,その2度のフィンランド旅行で残ってしまったやりたいことは,このキノコ狩りと,そして,ヘルシンキからロヴァニエミまでの寝台特急「サンタクロースエクスプレス」に乗ることでした。そこで,このときの旅では,キノコ狩りを実現したいなあ,となんとなく考えていたわけです。
 実際は,細かい計画を立てる前に,コロナ禍で旅行はキャンセルしてしまったので,具体化することはなかったのですが,ヌークシオ国立公園に行くのは,結構大変なことです。ここは鉄道では行くことができなくて,バスの利用ということなのですが,そのバスが不便なのです。バスは本数は少なく,特に,帰りのバスに至っては,時刻表もないということが「地球の歩き方」には書かれてありました。
 私は,フィンランドのバスは,ロヴァニエミからサンタクロース村に行ったときと,ナーンタリからムーミンワールドに行ったとき,そして,ロヴァニエミの市街と空港の往復に利用したのですが,どれもそれなりに大変でした。本数が少ない上,バス停があったりなかったり,時刻表もなかったりと,観光地に行くにも大変なのに,ヌークシオ国立公園への往復なんて,できるのかいな? と思っていました。
  ・・
 今,これを書きながら思うことは,もし,実際に行くとなれば,レンタカーでも借りたほうが無難なような気がします。しかし,それでは旅の楽しみがなくなるなあ,などなど,複雑な気持ちもします。 
 しかし,それもまた,贅沢な悩みです。このご時世,おそらく,この先も,私は,フィンランドでキノコ狩りをすることは,もはやありますまい。


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 この旅は5泊7日の予定でしたが,特にどこに行ってみたいとか,何をしてみたいとか,そういったことは決めていませんでした。それは,その1年前にヘルシンキに行って,そのときに,行きたいと思っていたところはほぼすべて行ってしまっていたからでした。
 フィンランドはとてもすてきな国です。また,郊外に行くにも電車やバスを利用すると簡単に行くことができます。ということで,この旅の目的は,フィンランドまで行ってのんびりとしてこよう,その日の気分でやりたいことを決めようという感じでした。
 海外旅行に行くことができない今考えると,それはかなり贅沢な話であったわけですが,その当時は,もはや,行ってみたいというところもほとんどなくなっていて,それまでに行った場所の中でよかったところをリピートする,という気持ちになっていたわけです。
 この時点では予約はしていなかったのですが,2020年の秋には3度目のオーストリアのウィーンに行って,チェコまで足をのばそうと考えていました。

 話を戻します。
 それでも,ヘルシンキに5泊滞在するのだから,どこかで1日,日帰りでロシアのサンクトぺテルブルグに行ってみようなか,などとなんとなく思っていました。それは,この1年前にヘルシンキに行ってホテルで朝食を取っていたとき,レストランで一緒になった日本人観光客の人に,サンクトペテルブルグに行ってきたという話を聞いて,行ってみたいな,と思ったのがその理由でした。
 アメリカやオーストラリア,ニュージーランドなどとは違って,ヨーロッパで出会う日本人観光客は旅慣れている人が多く,行動力もすごく,うらやましくなります。
 ヘルシンキからサンクトぺテルブルグは意外と近いのですが,実際に行こうとすれば,結構手続きがたいへんなのです。しかし,1年前の旅でも,行く前にはそれほど思い入れもなかったエストニアにフェリーで行くことができたので,それと同じような気持ちでした。
  ・・
 私が聞いた話は,ヘルシンキからサンクトペテルブルグまで行く手段は,電車と船があって,船だとビザが不要だとか,電車だと国境を越える時点で検札があるとかいうことでした。また,ビザを入手するには,大阪のロシア領事館まで行く必要があるという話だったし,行くまでにそういった煩わしい手続きをクリアする必要があるのかなあ,とぼんやりと思っていました。結局,キャンセルになったので,そういった行動をすることもありませんでしたが,実際に行くと決めたら,そうしためんどうなことは嫌なので,現地ツアーにでも参加しようかな,と考えていました。
 しかし,本当にサンクトぺテルブルグに行きたいのなら,こんな中途半端な計画ではなく,直接ロシアに入国して何泊かすべきだろうと,今は思います。しかし,私には,サンクトペテルブルグにはそれほどの想いはないのです。


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 幻のオーストラリア旅行の次は,幻になったフィンラド旅行です。この旅は,今からちょうど1年前の今ごろに行くことにしていたものです。それにしても,1年経っても状況があまりよくなっていないのに失望します。来年こそ,行くことができるのでしょうか?
 今回もまた,行くことができなかったので,それまでに行ったときの写真とともに幻の旅行記を書くことにします。
  ・・
 購入したフィンランド航空の航空券は,行きが,セントレア・中部国際空港2020年6月24日水曜日午前10時30分発,ヘルシンキ・ヴァンター国際空港同日午後2時30分着,帰りはヘルシンキ・ヴァンター国際空港6月29日火曜日午後5時25分発,セントレア・中部国際空港6月30日水曜日午前8時45分着のものでした。出発前の3月31日にすべてキャンセルしました。
 これまでに書いた幻となったオーストラリア旅行は,航空券,ホテル代ともキャンセル料なしでしたが,カンガルー島のツアーのみ,キャンセルに伴う返金ができませんでした。このフィンランド旅行では,ヘルシンキで宿泊するホテルのみ,キャンセル不可のものを予約してしまったために,4泊の宿泊代が返金できませんでした。これまでも,私は,キャンセル不可のホテルを何度も予約して宿泊しましたが,まさか,こんなことが起きるとは思ってもいなかったため,失敗しました。まあ,仕方がないことです。

 このころ,フィンランド航空を利用すれば,名古屋からヨーロッパに行くのはすごく簡単でした。
 ヨーロッパに行くには,フィンランド航空のほかにも,中国の航空会社を利用することもできるらしく,このほうがずっと格安だそうですが,旅は快適さを旨とする私は興味がありません。
 フィンランド航空は私の知る限り最も快適な航空会社であり,私にはそれ以外の選択肢はありません。また,フィンランド航空は,ファーストクラスを利用しなくても,少しの金額を増額してエコノミーコンフォートにグレイドアップして,一番前の席を予約してしまえば,より快適に空の旅ができます。さらに,新しく導入されたエアバスA350 はさらに快適です。
 私が好んで使う航空会社は,アメリカのデルタ航空,オーストラリアのカンタス航空,そして,フィンランド航空ですが,中でも,一番のお気に入りはフィンランド航空です。再び海外に行くことができるようになったとき,同じ状況で旅行ができるのであれば,私は,また,こうしてフィンランド航空を利用してヨーロッパに出かけることになるでしょう。
 その日が来るのをこころ待ちにしています。


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 私は,マーラーの生涯についてもあまりよく知らなかったので,調べてみました。
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 グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)は,1860年,ユダヤ人のベルンハルト・マーラー(Bernhard Mahler)とマリー・ヘルマン(Marie Hermann)の第2子として,当時オーストリア帝国に属したボヘミア王国のイーグラウ(Iglau),現在のチェコ・イフラヴァ(Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt),現在のカリシュチェ(Kaliště)に生まれました。1860年は,日本ではあと7年で明治維新という幕末であり,ブラームスが生まれた1833年の27年後,ブルックナーが生まれた1824年の36年後です。長男が早世して,グスタフ・マーラーは長男として育てられました。
 父のベルンハルト・マーラーは荷馬車での運搬業を仕事にし,やがて,酒類製造業を開始,ユダヤ人に転居の自由が許されてから家族はイーグラウに移住しました。ベルンハルト・マーラーは強い出世欲を持ち,子供たちにもその夢を託しました。
  ・・
 幼いころから教育を受けたグスタフ・マーラーは,ドイツ語を話し地元キリスト教の教会の少年合唱団員として合唱音楽を歌っていました。1869年,9歳のときにイーグラウのギムナジウムに入学し,10歳となった1870年にはイーグラウ市立劇場での音楽会にピアニストとして出演しました。
 1875年,15歳で現在のウィーン国立音楽大学であるウィーン楽友協会音楽院に入学し,1877年にはウィーン大学にてアントン・ブルックナーの和声学の講義を受けました。そして,卒業後,1883年に23歳でカッセル王立劇場の楽長となり,音楽祭では指揮者として成功をしました。その後は,プラハのドイツ劇場の楽長,ライプツィヒ歌劇場の楽長を経て,ブダペスト王立歌劇場の芸術監督,そして,ハンブルク歌劇場の第一楽長となりました。
 1897年,37歳で現在のウィーン国立歌劇場であるウィーン宮廷歌劇場の第一楽長に任命され,翌年には芸術監督となりました。さらに,1898年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者となりました。しかし,1901年,40歳のときウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し,ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を辞任します。また,1902年には,41歳で当時23歳のアルマと結婚しました。
 1909年,49歳でニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となりますが,1911年,アメリカで感染性心内膜炎と診断され、ウィーンに戻ったのち,51歳の誕生日の6週間前に敗血症で死去しました。

 グスタフ・マーラーは,こうした多忙な日々の間に,多くの交響曲を作曲しました。
 マーラーにとって,交響曲の作曲は仕事の合間の娯楽のような気がしますが,それらは歴史に残る大きな偉業となりました。
 指揮者のヘルベルト・ブロムシュテットさんは自伝に次のように書いています。
  ・・・・・・
 マーラーの音楽は(はじめのころは)理解できませんでした。マーラーの交響曲のなかに引用されている民族音楽は,私には感傷的でしかも俗っぽく感じました。こんなものは交響曲のなかにはあってはならないと思っていたんです。
  ・・・・・・
 私も,マーラーの交響曲をはじめて聴いたときには,同じことを思いました。そこには,ベートーヴェンの交響曲のような張り詰めた厳格さとか,ブラームスの交響曲のような緻密に計算しつくされた構成とか,ブルックナーの交響曲のような神々しさはありません。なよ~っとしたグロテスクな感じというか,そんなもののどこがいいのかと思いました。
 しかし,今では,マーラーの交響曲はコンサートの定番となり,多くの人を引きつけているのです。
 作曲は,南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニック(Maiernigg)に山荘を建て,主にそこで行なわれました。

 グスタフ・マーラーは上昇志向が非常に強く,かつ,才能に溢れていたようです。こうした人は,人間としては好かれなくとも,その才能から作られた芸術だけは,それを越えて,人々にいつまでも敬意をもって迎えられるようです。リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)もまた,同じようなものでしょう。
 私は,マーラーの作曲した10曲の完成した交響曲と未完の1曲のうち,「大地の歌」(Das Lied von der Erde)が最も好きです。この曲が最高傑作だという人も少なくありません。「大地の歌」を聴くと,若くして病に侵されたグスタフ・マーラーの無念さとともに,自然へ回帰する憧れのようなものを感じます。
 この曲は,悲しみとともに,安らぎと,そして,救いで閉じられます。
 私には,生きる希望が湧いてきます。
  ・・・・・・
 Die liebe Erde allüberall Blüht auf im Lenz
 und grünt aufs neu!
 Allüberall und ewig Blauen licht die Fernen!
 Ewig... ewig...
  ・・
 愛しき大地に春が来てここかしこに百花咲く
 緑は木々を覆い尽くし永遠にはるか彼方まで
 青々と輝き渡らん
 永遠に… 永遠に…
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 私が若いころは,「ブルックナーとマーラー」というように,このふたりの作曲家は一緒に考えられていました。1曲が長いということや,ともに交響曲を9曲から10曲ほど残した,という共通点があり,さらに,今ほど一般には知られていなかったから,ベートーヴェンを卒業した「ツウ」が聴くものというようなイメージもあって,私は背伸びして聴いたものです。 
 ブルックナーの交響曲もマーラーの交響曲も,はじめはよくわからなかったのに,いつしかすばらしいと思うようになったのですが,それがいつなのかは思い出せません。
 なかでも,マーラーの交響曲は合唱を伴うものが多く,入りやすいこともあって,けっこう早いうちから何とか聞き通すことができるようになりました。しかし,はじめて交響曲第2番「復活」を聴いたときは長くて途中でめげたのを思い出します。
  ・・
 今でもそうですが,はじめて聴く曲は,この曲の何がいいのだろうと思うことが少なくありません。こういったものを聴くのは修行でしかなく,そんなとき,いったい音楽を聴くということは何モノぞ,と自問してしまいます。ある意味,苦痛でしかないからです。しかし,巷で「よい」といわれているものは,不思議なもので,何度も聴いているうちに,はまってきて,そのよさがわかってきます。

 ところで,実際はブルックナーとマーラーを一緒くたに考えるのはまちがっているのですが,それでもあえて比較すると,ブルックナーは自然を相手にしていて,マーラーは人間を相手にしている音楽,あるいは,ブルックナーは人間の精神性を奏で,マーラーは人間の感情を奏でている,またあるいは,ブルックナーは墨絵であり,マーラーは色彩画という感じが私にはします。
 私は,ブルックナーは日常いつも聴きますが,マーラーはコンサート会場で聴くことはよくあっても,日常聴くことはほとんどありません。
  ・・
 一時,マーラーのある種のきらびやかさが嫌いで,しばらくマーラーを聴くことを中断していた時期がありました。そんな私が再びマーラーに向かうようになったのは,ウィーンを訪れて,マーラーの墓を詣でたことがきっかけでした。
 マーラーが埋葬されたのは,ウィーンのグリンツィング墓地です。ここはウィーンの中央墓地とは反対の方角にあって,結構行くのに不便なところです。しかも,ずいぶんと歩いてグリンツィング墓地に着いても,墓地のどこにマーラーの墓があるのかも,行ってみてもすぐにはわかりませんでした。
 やっと見つけた墓碑は小さく地味で,ウィーン中央墓地にあるベートーヴェンやブラームスなどの墓碑に比べて,私は衝撃を受けました。悲しくなりました。それは,「私の墓を訪ねてくれる人なら,私が何者だったのか知っているはずだし,そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」というマーラー自身の考えを反映し,墓石には「GUSTAV MAHLER」という文字以外,生没年を含め何も刻まれていない,ということだそうです。しかし,オーストリアでマーラーという大作曲家がどう思われているか,ということの反映のようにも思いました。
 私は,ウィーンの街はずれのこの墓地あたりの雰囲気とともに,私がグリンツィング墓地を訪れたときに,ちょうどある葬送の列があり,遺体の埋葬に出会ったことも衝撃となって,かなりのショックを受けました。それが,再び,マーラーをしっかり聴いてみようと思うきっかけになりました。

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 私は,ブラームスの音楽を愛してやみません。ブラームスの音楽は思考を邪魔せず,また,落ち込んだときにこころを地獄には導きません。どの曲もいいのですが,特に好きなのは交響曲第4番とピアノ協奏曲第2番です。
 交響曲第1番が発表されたのはすでに43歳のときでしたが,それ以降の10年くらいの間に多くの傑作が生みだされました。その間に,ブラームスの作った曲は洗練され,それとともに渋くなっていったのですが,それは,交響曲第1番と第4番,ピアノ協奏曲第1番と第2番を比べればよくわかります。私は,はじめのころの作品より,後期に作られた曲のほうがより好きなわけです。
  ・・
 しかし,私には,ブラームスに関して,つねにこころに引っかかる点ができてしまったのが,とても残念なのです。
 そのひとつは,ハンス・ロット(Hans Rott)という作曲家を知ってからでした。ハンス・ロットは,自分の作品を認めてもらおうとブラームスを頼ったのですが,ハンス・ロットがブラームスと不仲だったブルックナーの弟子であったために冷遇し,ハンス・ロットはそれがショックで25歳でこの世を去ってしまったのです。つまり,もし長生きしていたら,人類の財産になったであろう交響曲を数多く生み出していたかもしれないハンス・ロットをブラームスは酷評し,その可能性を消し,世の中から葬り去ってしまったのです。
 ふたつめは,NHK交響楽団第1931回定期公演でブラームスのピアノ協奏曲第2番を聴いてからでした。ピアノの独奏者はボディビルダーの肩書もあるツィモン・バルト(Tzimon Barto)という大柄な男性でした。ツィモン・バルトの演奏は,テンポは異常に遅く,進まず,さらに,ふらふら,進みだすと思えば立ち止まり,シンドイだけでした。これが私の好きなピアノ協奏曲第2番なのかと信じられない気持ちでした。いわば,大好きな食べ物を食べて食あたりをして,それからその食べ物が食べられなくなった,そんな感じです。

 さて,それはともかくとして…。
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 ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms)はハンブルグで1833年に生まれました。1833年は,日本でいえば天保年間です。ちなみに,モーツアルトが1756年,ベートーヴェンが1770年,ブルックナーが1824年の生まれです。
 ブラームスの生まれたころは,時代の変革期で,オーストリアでハプスブルグ家が謳歌した時代はすでに過去のものというころでした。ブラームスは7歳でピアノを学びはじめ,すぐに才能を現し,10歳にしてステージに立ちます。ブラームスの生家は貧しかったため,13歳ころからレストランや居酒屋でピアノを演奏することによって家計を支えました。
 1853年というから20歳のころ,ハンガリーのヴァイオリニスト,エドゥアルト・レメーニ(Eduard Remenyi)との演奏旅行でヨーゼフ・ヨアヒム(Joseph Joachim)に会いに行き,ブラームスの才能が称賛されます。ヨーゼフ・ヨアヒムはロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)に会うことを強く勧めたため,ブラームスはデュッセルドルフのシューマン邸を訪ねます。 そこでシューマンはブラームスの演奏と音楽に感銘を受け,ブラームスを熱烈に賞賛し,その後は,作品を広めるために重要な役割を演じることになります。またこのとき,ブラームスは14歳年上のシューマンの妻クララ(Clara Josephine Wieck-Schumann)と知り合い,生涯に渡って親しく交流を続けることになります。
 1862年,29歳のときにウィーンをはじめて訪れた後,ブラームスはウィーン・ジングアカデミーの指揮者としての招聘を受けウィーンに居着くことになり,1871年にカールスガッセ4番地へと移り住みます。そして, ウィーン移住からおよそ10年後の1876年に,43歳で交響曲第1番を完成させます。 最後の交響曲である第4番が発表されたのはそれからわずか9年後の1885年です。
 1896年,生涯親交を保ち続けたクララ・シューマンが死去したのち,ブラームスの体調も急速に悪化し,翌1897年にウィーンで逝去しました。63歳でした。遺体はウィーン中央墓地に埋葬されました。
  ・・
 ザルツカンマーグート(Salzkammergut)は,オーバーエスターライヒ州とザルツブルク州にまたがるオーストリアの観光地です。ここに私が訪れたハルシュタットがあります。
 ブラームスはこの地に別荘をもち,10回も夏期に過ごし,多くの曲を残しました。
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 3月29日の朝日新聞「文化の扉」に「はまる,ブルックナー 洗練とは無縁,でも真理に触れる響き」という記事がありました。この記事を書いたのは太田啓之さんという人で,朝日新聞には吉田純子さんという優れたクラシック音楽に関する記事を書く記者がいるのに,どうしてまたこの人が,と思いました。調べてみると,太田啓之さんはGLOBEに多くの記事を書いていて,特にクラシック音楽に造詣が深いというわけでもなさそうです。さらに,どうしてまた,脈絡もなく,突然,ブルックナーなの? とも思いました。
 「彼が残した10曲の交響曲は,お世辞にも親しみやすいとはいえないが,一度その魅力に気づくと,驚くべき広がりと深みのある作品世界のとりこになってしまう。私自身もそのひとりだ」と記事にあったので,きっとブルックナー好きが執筆の動機だったのでしょう。
 しかし,この記事読んで,ブルックナーを聴いてみようと思うようなワクワク感は感じませんでした。記事に思い入れがないのです。なんだか,書けと命じられて誌面を埋めただけ,みたいに私には思えました。なので,ちょっと残念でした。

 では,気分を一新して…。
 ブルックナーは実にすごいです。私にとっては別格の作曲家です。特に,歳を重ねた指揮者がブルックナーの交響曲を振ると,音楽が昇天し,この音楽のほかに何が必要だろうか,という満ち足りた気持ちになるものです。だから,ブルックナーの音楽のよさを知らずに生きている人は,たとえどんなに地位が高かろうと,財産があろうと,私にはものすごく気の毒な人に思えます。ですが,その「よさ」を知らない人に伝えるのは,非常に困難なことでもあります。残念ながら。
 先日,私の友人のプロのヴァイオリニストの女性と話していて,私がブルックナーの交響曲さえあればそれでいい,というような話をしたら,とても意外な顔をされました。その理由がわかりませんでした。その後,いろんな人に聞いてみると,特にクラシック音楽好きであっても,ブルックナーは苦手という女性が少なくないようなのです。女優の檀ふみさんもラジオ番組で同じようなことを言っていました。それが私にはとても意外なことでした。ほんとうにどうしてなのだろう?
 ブルックナーの音楽を聴くと,大自然の中にただひとり自分が存在しているような気になりませんか。そして,やがて夜が更け,空を見上げると,そこに見えるのは,満天の星であり,悠久の宇宙であり,しばらくすると,夜明けの美しさが全天を支配します。まさにその音楽は大海であり,宇宙そのものです。だから,私には,もう,それ以上のものは何もいらないと感じられるのです。でも,どうして多くの女性にはそれがわからないのだろう…。

  ・・・・・・
 ヨーゼフ・アントン・ブルックナー(Joseph Anton Bruckner) は,1824年(文政7年)というから,日本では将軍徳川家斉の文化文政時代であり,ベートーヴェンが交響曲第9番を,シューベルトが「死と乙女」(Der Tod und das Mädchen)を書いた年ですが,その年に,学校長兼オルガン奏者を父として,オーストリアのリンツ(Linz an der Donau)にほど近いアンスフェルデン(Ansfelden)という村で生まれました。ちなみに,ウィーン会議は1814年(文化11年)です。
 晩年,長年の宮廷オルガニストであったブルックナーがヘス通り2番地の4階建て最上階の家の階段の昇降が困難になっていることを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)が聞きつけ,ベルヴェデーレ宮殿(Schloss Belvedere)の敷地内の上部宮殿脇にある平屋建ての宮殿職員用の住居を皇帝より賜与され,死の日までそこに住みました。
 ブルックナーは,1896年(明治29年)10月11日の朝まで交響曲第9番の第4楽章を作曲していましたが,その日の午後に72歳で死去しました。遺言に基づき,ザンクト・フローリアン(Sankt Florian)修道院の聖堂にあるオルガンの真下の(地下墓所)に棺が安置されています。
  ・・・・・・
 私は,ウィーン市内にあるベルヴェデーレ宮殿には行く機会がありました。リンツはザルツブルグに行く途中,電車の窓からその町を見たことがありますが,降りたことはありません。いつか,機会があれば,リンツへ,そして,ザンクト・フローリアン修道院へ行ってみたいと思っているのですが,その願いはかなうのでしょうか。

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 火山の島アイスランドで火山が噴火したそうです。場所はファグラダルスフィヤル火山(Fagradalsfjall MASSIVE Volcano)ということで,空港と首都レイキャビック(Reykjavik)の間です。私は行ったことあります。
 この火山の影響で,レイキャネス半島南西部の高速道路を避けるよう指示したということですが,この道を走らないと空港から首都へ行けません。この道路はアイスランドには珍しい複数車線のある道路です。

 BBCのニュースによると
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 アイスランド気象局は19日,首都レイキャビックから約30キロメートル南西にあるファグラダルスフィヤル火山が噴火したと発表した。 気象局によると,レイキャネス半島に位置する火山に噴火で出来た割れ目は全長約500メートルから700メートル。この火山が噴火するのは約800年ぶりという。
 (中略) 
 火山から約8キロメートルのクリンダヴィクに住むランヴェイク・グドムンスドッティルさんは「赤く光る空が窓から見える」「周りの人はみんな車で近くまで見に行っている」とロイター通信に話した。
 アイスランドは反対方向へ遠ざかる2つのプレートをまたいでいるため、地震が起こりやすい。
  ・・・・・・
ということです。

 地図のように,レイキャネース半島(Reykjanes)はアイスランドの玄関口ケフラヴィーク空港(Keflavik)のあるところです。
 この半島は,多くの旅行者には空港とブルーラグーンがあるだけのように思われていますが,ここにも,世界でまれな地質現象がいくつもみられます。
 そのひとつは,ブルイン・ミットリ・ヘイムサゥルヴァ(Bruin Milli Heimsalfa)。これは,地球の表面を構成しているふたつのプレートが隣接する場所です。
 ふたつ目は,グンヌヴェル(Gunnuhver)。ところどころ黄色や白色のまだら模様で毒々しく色づく地熱帯です。硫黄泉の匂いがする煙が立ち上り,泥だまりから勢いよく気泡が噴き上がり,現在も活動をつづけています。
 そして,三つ目が,エルデイ島(Eldey)。高さ77メートルの巨大な岩礁です。大西洋最大のシロカツオドリの繁殖地として有名で,よく写真にも出てきます。さらに,元祖ペンギンともいうオオウミガラスが1844年にこの地で最後のつがいが殺されて絶滅した場所でもあります。
 この半島は,私が行ったときにはレンタカーで簡単に1周することができました。今となってはとても懐かしいところです。日本からは地球の裏側なのに,なぜか,今すぐにでも行くことができるような身近な感じがするのが不思議です。

 私が「憧れの3ランド(ランズ)」と名づけ,実際に行ってみたアイスランド,ニュージーランド,フィンランドです。どこも自然が多く,人が少なく,治安もよく,私には憧れの国でした。日本とはまるっきり異なっていて,ほんとうにどの国も落ち着いたすばらしいところです。また,精神的にも物質的にも日本よりずっと豊かです。しかし,アイスランドは火山の噴火,ニュージーランドは地震,フィンランドは寒い,ということで,自然に恵まれているその裏には自然との過酷な戦いがあります。
 考えてみれば,日本は,アイスランドやニュージーランドよりも火山も地震も多く,しかも,アイスランドやニュージーランドやフィンランドのような雄大な自然もなければ,どこも人らだけゴミだらけです。さらに,今や,政治も劣化し,これら三つの国に比べて新型コロナウィルスへの対応も非常にまずく,もう,救いがありません。
 「憧れの3ランド(ランズ)」にまた出かけられる日が来ますように。そしてまた,アイスランドの噴火が早く収まることを祈っています。

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AFP=時事によると,噴火の様子を見ようと,好奇心旺盛な人々が大勢集まり,真っ赤な溶岩に驚嘆の声を上げたり,残った火でホットドッグやマシュマロを焼く人もいたといいます。
ちなみに,いち早く国民全員にPCR検査を実施したアイスランドでは,2021年は感染者はほぼ0で推移しています。 
火山


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 オーストリアゆかりの作曲家,今日はシューベルトです。
 ウィーンには,シューベルトの生家と最後の家が残っていて,ともに公開されています。私は2018年にはじめてウィーンに行ったときに訪れる機会がありました。
 シューベルトは歌曲の作曲家として有名ですが,歌曲よりも交響曲などの作品を私は好んで聴くことがあります。しかし,短命だったということのほかには,その生涯をほとんど知りませんでした。

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 フランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert)は1797年にウィーン北部のリヒテンタール(Lichtental)で生まれました。ベートーヴェンが生まれた27年後のことです。日本では将軍徳川家斉の時代です。
 父のフランツ・テオドールは教区の教師,母エリーザベト・フィッツは結婚前はウィーン人家族のコックをしていました。
 父によってヴァイオリンの初歩を習いはじめたのですが,7歳ごろにはすでに父の手に余るほどの才能を発揮したので,シューベルトはミヒャエル・ホルツァーの指導するリヒテンタール教会の聖歌隊に預けられました。
 聖歌隊の仲間たちはシューベルトの音楽的才能に一目置き,ピアノ倉庫でピアノの練習を自由にできるように便宜を図ってくれたので,良質な楽器で練習をすることができたといいます。
 やがて,コンヴィクト(寄宿制神学校)の奨学金を得て,アントニオ・サリエリの個人的な指導のもとで作曲を学びました。また,同級生たちが貧しいシューベルトを助けたので,多くの室内楽,歌曲,ピアノのための雑品集を残すことができました。
 1813年には変声期でコンヴィクトを去り,父の学校に教師として就職しました。
 しかし,コンヴィクト時代からの友人であったシュパウンの家でシューベルトの歌曲を聴いていた法律学生のフランツ・ショーバーがシューベルトを訪問して,教師を辞め平穏に芸術を追求しないかと提案したので,シューベルトはショーバーの客人になって作曲に専念するようになりました。「私は1日中作曲していて,ひとつ作品を完成させるとまた次をはじめるのです」と訪問者の質問に答えていたといいます。
  ・・
 シューベルトは,教師を辞めたうえ,公演で稼ぐこともできなかったので貧しい生活をおくりました。作品を出そうという出版社もありませんでした。しかし,友人たちは真のボヘミアンの寛大さで,ある者は宿を,ある者は食料を,また,他の者は必要な手伝いにやってきて,自分たちの食事を分け合ったり,裕福な者は楽譜の代金を支払いました。シューベルトは常にこのパーティーの指導者でした。
 1818年はふたつの点で特筆すべき年となりました。そのひとつは作品の公演がはじめて行われたことです。演目はイタリア風に書かれた「序曲」(D590)で,これはロッシーニをパロディー化したと書かれていました。ふたつ目は,ツェレスに滞在するヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位にはじめて公式の招聘があったことでした。そこでシューベルトは夏中,楽しく快適な環境で過ごすことができました。
  ・・
 やがて,マイアーホーファー宅に同居することになり,ここでシューベルトの規則正しい生活が継続されることになります。毎朝,起床するなり作曲をはじめ,それは午後2時まで続きました。昼食のあとは田舎道を散歩し,再び作曲に戻るか,あるいはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問しました。
 友人のフォーグルが1821年にケルントナートーア劇場で「魔王」を歌ったことで,ようやく出版業者のアントニオ・ディアベリがシューベルトの作品の取次販売に同意し,作品番号で最初の7曲の歌曲がこの契約にしたがって出版されました。
 1822年には,カール・マリア・フォン・ウェーバーやベートーヴェンと知りあいました。それほど親しい間柄ではありませんでしが,ベートーヴェンはシューベルトの才能を認め,また,シューベルトもベートーヴェンを尊敬し,連弾のための「フランスの歌による変奏曲」(D624)を出版するにあたりベートーヴェンに献呈しました。
 こうして,1825年,それまでの苦難は幸福に取って代わることになりました。出版は急速に進められ,窮乏によるストレスから解放されました。夏にはかねてから熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をすることもできました。
 1827年,ベートーヴェンが死去し,シューベルトは葬儀に参列しましたが,その後で友人たちと酒場に行き「この中でもっとも早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとりました。このとき友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたといいますが,その不吉な予感どおり,彼の寿命はその翌年で尽きることになりました。
  ・・・・・・

 死後,シューベルトはフェルディナントの尽力で,はじめヴェーリング墓地(Währinger Ortsfriedhof)のベートーヴェンの墓の隣に埋葬されました。
 1888年,ベートーヴェンとシューベルトの遺骸はウィーン中央墓地に移されましたが,現在,ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園(Schubertpark)にはふたりの当時の墓石が残っています。迂闊にも私はこの公園に行くことを逸してしまったのが今はとても残念です。蛇足ですが,現在,近くの別の場所にヴェーリング墓地(Allgemeiner Währinger Friedhof)という同じ名前の場所があるのですが,それはシューベルトがはじめに埋葬されたところとは違います。
 亡くなったあとのシューベルトは歌曲の王という位置づけがなされ,歌曲以外の作品は放置に等しい状況でした。やがて,1838年にシューマンがウィーンに立ち寄った際に,シューベルトの兄フェルディナントの家を訪問しました。そして,亡くなった当時のままの状態で保存されてあったシューベルトの書斎からハ長調の交響曲を発見し,メンデルスゾーンの指揮によって演奏され絶賛されました。さらにその後,7曲の交響曲,ロザムンデの音楽,ミサ曲やオペラ,,室内楽曲数曲,膨大な量の多様な曲と歌曲が発見され,世に送り出されました。


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 アントニオ・サリエリ(Antonio Salieri)はモーツアルトが生まれる6年前の1750年,イタリアの レニャーゴで生まれました。生前は神聖ローマ皇帝・オーストリア皇帝に仕える宮廷楽長としてヨーロッパ楽壇の頂点に立ち,ベートーヴェン,シューベルト,リストといった作曲家を育てた教育家でもありました。また,ウィーンで作曲家として,特に,イタリアオペラ,室内楽それと宗教音楽において高い名声を博しました。
 死後はその名と作品は長い間忘れられましたが,皮肉にも,戯曲「アマデウス」およびその映画版でモーツアルトを死に追いやった人物として取り上げられて知名度が上昇し,21世紀に入ってから音楽家としての再評価されつつあります。

 「サリエリがモーツアルトを殺した」という説は昔からあったそうですが,その後の研究で完全に否定されています。
 実際のサリエリは,ウィーン宮廷での活躍が栄光に輝いていたにも関わらず,妻にも先立たれて寂しい晩年を送り,ヒッソリと息を引き取りました。さらに,死後はプーシキンの戯曲で「モーツアルト毒殺者」としてのレッテルを貼られてしまいました。
 サリエリは貧しい育ちから宮廷に拾い上げてもらった恩義をずっと忘れずにいたと思われ,貧乏な弟子からはレッスン代を取らずに懇切丁寧な指導をし,若い後輩達から非常な尊敬を受けていたといいます。
 サリエリの弟子は優秀な音楽家達が名前を連ねていますが,サリエリは弟子達の催す慈善演奏会にしばしば出演を依頼され出演しました。ベートーヴェンの交響曲第7番,第8番の初演時の演奏に副指揮者として加わっていたというエピソードもありますし,多くの慈善演奏会で,ハイドンやベートーヴェンののオラトリオの指揮をしました。

 特に,シューベルトは,「謝礼を免除されて」サリエリの弟子の一員に加わっていました。
 ウィーンの中心部にあるシュピーゲル小路(Spiegelgrasse)には,シューベルトの住んだ家の跡があります。シューベルトはこの親友のショーバンの家に居候をして交響曲「未完成」を書きました。そして,路地を挟んで反対側の家にはサリエリが住んでいました。 
 私は,ウィーンを歩いていて,ここを見つけて,えらく感動しました。
  ・・
 1816年,サリエリのウィ−ン生活50年を祝う会が大々的に催されました。シューベルトは,この会のために,次の,サリエリに捧げる祝典カンタータD407を作りました。この歌の詞は,サリエリの人徳を称えてやまないものだといいます。
  ・・・・・・
 やさしい人よ,よい人よ!
 賢い人よ,偉大な人よ!
 私に涙のあるかぎり
 そして芸術に浴みするかぎり
 あなたにふたつとも捧げよう
 あなたはふたつをこの私に恵んでくれたその人だから
 善意と知恵があなたから
 噴水のように奔る
 あなたは優しい神の似姿!
 地に降りたった天使のような
 あなたの御恩は忘れません
 私たちすべての偉大な父よ
 どうかいつまでもお元気で!
  ・・・・・・

 ウィーン中央墓地にはサリエリの墓があり,私も2018年に訪れました。台座の石灰岩の原石には「Salieri」と刻まれ,その上に四角錐の墓石があり,十字架が掲げられています。
 墓碑銘には次のように記されてあります。
  ・・・・・・
 1750年の生まれ 
 1825年5月7日宮廷カペルマイスターとして死亡
 安らかに憩え! 
 塵芥から取り上げられて永遠が花開くであろう
 安らかに憩え! 
 今や永遠のハーモニーに君の精神は解き放たれる
 魅惑的な音色で彼は語った
 いま不滅の美を手に入れようとしている
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☆ミミミ
1月30日,昨日の朝は,前日に降った雪景色が美しく,温められた水蒸気が立ち上り,幻想的な日の出となりました。DSC_7385


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 ベートーヴェンが生まれたのは1770年12月16日です。ということで,昨年が生誕250年のベートーヴェンイヤーだったわけです。
 すでに書いたハイドンが1732年,モーツアルトが1756年の生まれなので,ハイドンより38年,モーツアルトより14年遅く生まれたことになります。1770年というのはアメリカが独立する少し前,オーストリアではマリア・テレジアが在位していたころ,日本では田沼意次が権力を握っていた時代で,ちょうど,変革時にあたります。

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 ベートーヴェンは神聖ローマ帝国のケルン大司教領であったボンに生まれました。父は宮廷歌手でしたが無類の酒好きだったので収入は途絶えがちで,ケルン選帝侯宮廷の歌手だった祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていたので,祖父が亡くなると生活は困窮しました。
 1787年,ベートーヴェンはウィーンに旅し,モーツァルトを訪問しましたが,母マリアの危篤の報を受けてボンに戻ります。母の死後は父に代わって家計を支えるという苦悩の日々を過ごしました。
 1792年,ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められて弟子入りし,ウィーンに移住。ピアノの即興演奏の名手として名声を博することになります。
 20代後半頃より難聴が悪化し,絶望感から1802年には「ハイリゲンシュタットの遺書」をしたためて自殺も考えたのですが,この苦悩を乗り越え,多くの作品を世に出しました。
 晩年の約15年は全聾となり,さらに持病にも苦しめられますが,そうした苦悩の中で交響曲第9番や「ミサ・ソレムニス」といった大作を書きあげました。
 1827年3月26日に56歳で生涯を閉じましたが,その葬儀には2万人もの人々が参列したといいます。
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 このように,ベートーヴェンはボンで生まれたためにドイツの作曲家とされますが,主に活躍したのはオーストリアです。そこで,オーストリアにはベートーヴェンの足跡を残す場所が多くあります。
 ハイドンやモーツアルトとは違って,ベートーヴェンの音楽を味わうには,ベートーヴェンの小径とよばれる自然の中を散策するにかぎります。この自然と一体になった音楽が,いまでも我々のこころを打つのだと私は実際に行ってみて感じました。
 
 早いもので,今から22年前の1999年8月,私は皆既日食を見るためにハンガリーに行きました。
 今にしてとても残念なのは,その当時の私は,せっかくハンガリーに行ったのに頭の中には皆既日食のことしかなく,ブタペストなどには多くの歴史的な史跡があるのに,まるで興味がなかったことです。こういうのを「猫に小判」というのでしょう。そもそも,私は学生のころ,ほとんど世界史を学ばなかったので,ハンガリーがヨーロッパの中でどういう位置をしめていたのか,全く知らなかったのです。
 幸い,皆既日食当日は晴れて,私ははじめて皆既日食を見ることができました。そして,その翌日,ブダペスト郊外にあるマルトンバーシャール(Martonvásár)に行って,現在はベートーヴェン記念館となっているベートーヴェンが何度も滞在した城に行く機会がありました。しかし愚かだった私は,どうしてハンガリーにベートーヴェンなんだ,と思ったのでした。
 かつての私がそうであったように,人は歴史や文化を知らないと,輝いているものも輝いて見えないのです。
 私は,旅をするとき,いつもこのことを思い出します。

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☆ミミミ
1月21日,月が接近中の火星と天王星の近くを通りました。普段は見わけがつきにくい天王星を簡単に見つけることができました。IMG_0469ns


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 2018年,私がはじめてオーストリアに行ったとき,目的地はウィーンだけの予定だったのですが,期せずしてザルツブルグまで足をのばすことことができました。ウィーンもザルツブルグもモーツアルトに関する場所がたくさんありました。そして,どこも多くの観光客が訪れていました。
 そうした場所の中で,私が最も印象に残っているのが,ウィーンにあるモーツアルトが埋葬されたというザンクト・マルクス墓地(St.Marxer Friedhofspark)です。
 1791年に35歳で亡くなったモーツアルトはこの墓地の共同墓穴に葬られました。このシーンは映画「アマデウス」(Amadeus)に,かなり衝撃的に描かれています。
 正確な埋葬位置は不明なので,モーツアルトには墓すらないと聞いていたから,どうなっているのだろうと,かなり興味ありました。

 ザンクト・マルクス墓地は,ウィーン市街から路面電車に乗って中央墓地(Zentralfriedhof)に行く途中にあります。中央墓地の入園が午前8時からで,ザンクト・マルクス墓地は午前6時30分ということだったので,中央墓地へ行く途中で寄ってみることにしました。
 最寄りの停留所あたりは,ハイテク企業や自動車販売店などがあって,通勤で行き交う人や車であわただしいところでした。道路の端を歩いて約10分,路地に入り込んだ場所にザンクト・マルクス墓地はありました。これだけでも,ムード満点でした。
 門をくぐって中に入って進むと,モーツアルトが埋葬されたと推定される場所に,天使像が寄り添う円柱形の記念碑がありました。朝早かったからか,訪れる人も私以外にはなく,静かな場所でした。記念碑はとても美しく,「アマデウス」のシーンが払拭されてこころが救われた気がしました。

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 モーツアルト(Wolfgang Amadeus Mozart)は,1756年,ハイドンの生まれた24年後に,ザルツブルグに生まれました。1781年,ザルツブルグ大司教の宮殿を飛び出して翌年にはシュテファン寺院でコンスタンツェ・ヴェーバー(Costanze Weber)と結婚式を挙げ,ウィーンに住みました。
 ウィーンで,モーツアルトは住居を転々としましたが,現存するのは,現在モーツアルトハウス(Mozarthaus Vienna)として公開されているところだけで,ここにモーツアルトは1784年から1787年まで暮らしました。この家で歌劇「フィガロの結婚」を作曲したといいます。
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 建物の階段を上っていると,モーツアルトが降りてくるような気がして,とてもすてきな場所でした。

 モーツアルトの生まれた町としてあまりに有名なザルツブルグは,ウィーンから電車に乗ると2時間30分程度で到着します。はじめて日本に来て,目的地が東京だったのに,新幹線を使えば日帰りで京都まで行けるということを知って行ってきた,という感じでしょうか。ともかく,私がザルツブルグに行くことができたのは,今から考えると幸運なことでした。この町の空気を知らずしてモーツアルトは語れません。
 ザルツブルグにはモーツアルトの生家(Morzarts Geburtshaus)があります。現在は博物館として公開されていて,多くの観光客で賑わっています。モーツアルトはこの建物の4階で誕生し,1756年から1773年まで暮らしました。
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 オーストリアでは多くの作曲家が生活し,活躍しましたが,その中でもモーツアルトは特別な存在だということが,行ってみてわかりました。そしてまた,いかに今もモーツアルトが愛されているか,また,その生涯が,短い中にも波乱に満ちたものだったかを痛感しました。

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 NHKBSPで1月9日に放送された「謎の民バイキング」-「残忍で凶暴」それは作り上げられた物語だった- という番組を見ました。
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 大航海時代のはるか昔,大海原を誰より自由に旅したバイキング。どう猛で,強欲。略奪の限りをつくした荒くれ者。しかし,最新の研究が明かすのは,全く未知の姿だった!
 「凶暴で残忍」バイキングのイメージが最新の研究によって次々と覆されている。そこから見えてくるのはバイキングの先進的な社会とビジネスマンとしての姿だ。大航海時代よりはるか数百年前,バイキングは巧みな航海術で大海原を誰よりも自由に旅をした。男女平等が進んだ実力社会だった可能性が。集会の話合いで争いを解決,平和を求めていた姿も。世界各地で相次ぐ新発見を徹底取材,謎の民バイキングの知られざる姿に迫る。
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というのが,番組の紹介でした。

 なぜ今バイキングなのか? と思ったのですが,私は,アイスランドに行ったときに,この国を作ったのはバイキングだったということを知って以来,バイキングに関してあまりに知識がなかったので,興味をもって見ました。もっとアイスランドのことが出てくるのかと思ったのは期待外れに終わりましたが,それでも,アイスランドが取り上げられていたので,少し満足できました。
 そもそも,バイキングもアイスランドも,日本では伝えられなさすぎです。高等学校の世界史の教科書はいうに及ばず,資料集でも,バイキングはわずか半ページほどしか載っていないし,教科書などのヨーロッパの地図にはアイスランドが省かれてしまってさえいます。よくこれでアイスランド政府が苦情を言ってこないものだと思うくらいです。
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 それはともかく,この番組を見て,アイスランドがとても懐かしくなってきました。
 ここ1年近く海外旅行をすることができないので,これまで行ったさまざまな場所を断片的に思い出しては懐かしさにふけっています。その中でも,とりわけ,人のいない悠久な大地が懐かしいのはなぜでしょう。アイスランドに対しても,帰ったころはまったくそんな想いはなかったのですが,最果てであればあるほど,手が届かないところであればあるほど,また行ってみたいという気持ちが強くなるのが,自分でも不思議なことです。

 「定住の書」と訳される「ランドナゥマボゥク」(Landnámabók),アイスランドの定住に関して書かれたこの本は,874年,この島に移り住んだとされる最初の北欧からの永住者に関する情報が書かれた宝庫的歴史書です。この本によると,最初にアイスランドに上陸したバイキングはノルウェーから来たナドッズルといわれています。その後,インゴール・アルナルソン(Ingólfr Arnarson)が現在の首都であるレイキャビックを作りました。そして,番組でも取り上げられていたように,930年,「アルシング」(Alþingi)という世界でも最も古い民主議会を発祥させました。現在も,アイスランドでは,国会議事堂を「アルシング」とよんでいます。
 私はなぜか,昨年の7月に行った北海道の稚内市でアイスランドのレイキャビックを思い出しました。似ているのです。そして,どちらも,今はとても懐かしいのです。


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 再び海外に行くことができるようになったとしたら,まず行きたいのはオーストリアです。この国の歴史と芸術は底が見えません。そして,オーストリアは,ウィーンだけでなく,どこも美しく,落ち着きます。
 そんなオーストリアですが,私はこれまで2度足を運んで,多くの作曲家の史跡を訪ねることができました。行ってみて思ったのは,私は,作曲家の名前はもちろんのこと,多くの作品もなじみがあるのですが,その生涯は意外と知らないものだなあ,ということでした。そこで調べてみることにしたのです。
 オーストリアにゆかりのある作曲家を年代順に。今日はハイドンです。

 私はハイドンの作曲した作品をこれまでほとんど「まじめに」聴いたことはありませんでした。
 ハイドンはえらくたくさん交響曲を書いたという印象しかなく,交響曲も「時計」とか「驚愕」とか,ベートーヴェンなどの作品と比べるとウケ狙いの二流品のような気がしたものです。それでも,何でも全部してみたい私は,ハイドンの作曲した交響曲もすべて聴いてみようと聴きはじめたのですが,正直退屈でした。
 しかし,2018年にウィーンに行ったときに,楽友協会でパーヴォ・ヤルヴィ(Paavo Järvi)指揮ドイツカンマーフィルハーモニー管弦楽団(Die Deutsche Kammerphilharmonie Bremen)の演奏によるハイドンの交響曲第101番「時計」を聴いて以来,考えが変わりました。ハイドンの交響曲ほどウィーンの空気に溶け込むすてきな音楽はないのです。それをきっかけに,ずいぶんいろんな作品を「まじめに」聴くようになったのですが,よく味わうとなかなかおもしろく,かつ,さわやかで,今ではお気に入りです。

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 交響曲の父とよばれるフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn)は,1732年(日本では江戸時代中期の享保の改革のころ)に現在のオーストリア北東に位置するニーダーエスターライヒ州ローラウ村に生まれました。父はその土地を支配していたハラハ(Harrach)伯爵に仕える車大工,母も伯爵に仕える料理女でした。
 音楽学校の校長をしていたおじ(父の妹の夫)に音楽の才能を認められ,6歳のときに音楽の勉強をはじめたといいます。そして,8歳でウィーンのシュテファン大聖堂のゲオルク・フォン・ロイター(Georg von Reutter)に才能を認められてウィーンに住み聖歌隊の一員として9年間働きましたが,変声のため解雇されました。その後はしばらく定職をもたず,ミヒャエル教会付近の建物6階の屋根裏で自活しながら,教会の歌手をつとめたり,ヴァイオリンやオルガンを演奏したりして生計を得ていました。
 1757年ごろ,ボヘミアのルカヴィツェ(Dolní Lukavice)に住むカール・モルツィン伯爵(Karl von Morzin)の宮廷楽長の職に就き,1760年にはマリア・アンナ・ケラー(Maria Anna Keller)と結婚しました。しかし,結婚生活は幸福ではなく子供もできなませんでした。エステルハージ家お抱えの歌手ルイジャ・ポルツェッリ夫人(Luigia Polzelli)との間に子供をもうけたのではないかと言われています。
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 やがて,モルツィン伯は経済的に苦しい状況になり,ハイドンは解雇されてしまいましたが,1761年,西部ハンガリー有数の大貴族エステルハージ家の副楽長という仕事を得ました。
 ハイドンはエステルハージ家の楽団の拡充につとめるとともに副楽長時代に多くの交響曲を作曲し,やがて,楽長に昇進しました。
 1780年ごろにはハイドンの人気は上がり,エステルハージ家以外にも作曲をしたり,ウィーンのアルタリア社やロンドンのフォースター社などと契約を結んで楽譜を出版するようになりました。
 1790年,エステルハージ家のニコラウス侯爵が死去,その後継者アントン・エステルハージ侯爵は音楽に関心を示さず,音楽家をほとんど解雇し,ハイドンも年金暮らしにさせてしまいました。
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 ウィーンに出てきたハイドンは,興行主ヨハン・ペーター・ザーロモンの招きによりイギリスに渡って新しい交響曲とオペラを上演することになり,1791年から1792年,および,1794年から1795年のイギリス訪問は大成功を収めました。この時期に多くの傑作が作られたのです。
 1794年,エステルハージ家ではニコラウス2世が当主になり,ふたたび楽団を再建しようとハイドンを再びエステルハージ家の楽長に就任させましたが,学長となったあともウィーンからは離れず,1793年にはウィーン郊外のグンペンドルフに家を建ててここを晩年の住居としました。
 1809年,ハイドンはナポレオンのウィーン侵攻による占領下のウィーンで,77歳で死去しました。はじめ,ウィーンのフントシュトルム墓地に葬られましたが,1820年に改葬され,現在はアイゼンシュタットに葬られています。
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 今日の写真のように,私がウィーンで見つけたのは,ミヒャエル教会と,その付近でハイドンが住んでいた建物のプレート,グンペンドルフに建てて晩年に住居としたところ,そこは現在博物館となっていました。ハイドンの住居跡の博物館は,予想に反して,私以外に訪れている人もなく,多くの観光客で賑わっていたザルツブルグのモーツアルト住居跡とはあまりに違うのに驚きました。


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 2018年,はじめてオーストリアのウィーンに行ったとき,ウィーンからは遠くてとても行くことができないと思っていたザルツブルグにも行くことができました。しかし,もう一か所行きたかったバーデンに行くことはできませんでした。そこで,その翌年,2018年に行くことができなかったバーデンとともに,新たに行きたくなったハルシュタットを目指して再びオーストリアに旅立ちました。そして,その願いがかないました。今日は,ベートーヴェンの生誕250年にちなんだところということで,その中のバーデンについて書きます。
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 バーデン(Baden bei Wien)は,ウィーン国立歌劇場の前から市電に乗っていくことができます。
 車内からはウィーン郊外ののどかな風景を見ることができました。終点まで乗ればいいと安心していたところ,架線の工事で途中から不通になり,代替バスに乗り替える必要があったのですが,わけがわからず,戸惑いました。親切な人が教えてくれて,といっても,彼のドイツ語はほとんどわからなかったのですが,人はこころがあれば何とななるもので,無事,バーデンに着くことができました。
 余談になりますが,以前,ニューヨークのブルックリンで,やはり,地下鉄が工事で不通になっていて,同じように代替バスに乗り替える必要があった経験がありました。こうした経験が人を強くするのです。

 さて,保養地バーデンはすてきな小さな町でした。ここには,ベートーヴェンが交響曲第9番を書いたという家が保存されていて,博物館になっていました。
 この町でも,私が気に入ったのはベートーヴェンが散歩して,交響曲第9番の構想を練ったという小径でした。昨日書いたハイリゲンシュタットのベートーヴェンの小径同様,歩いていると,自然と交響曲第9番のメロディーが頭の中を流れてきました。
 曲を聴くだけでもすばらしいものですが,作曲家がその地を踏み,その空気に触れた場所を知ると,そのすばらしさがより鮮明になるということを実感しました。私は,バーデンを訪れて,交響曲第9番がより大好きになりました。

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 Froh, wie seine Sonnen fliegen
 Durch des Himmels prächt'gen Plan,
 Laufet, Brüder, eure Bahn,
 Freudig, wie ein Held zum Siegen.
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 喜びをもとう,太陽が 華やかな空を
 飛ぶように走れ,兄弟よ,あなたたちの道を
 喜びを持って,英雄のように
 勝利に向かって
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 ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)は,1770年12月16日,神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンで生まれたので,今日が生誕250年となります。
 1787年,16歳になったベートーヴェンはウィーンに旅し,かねてから憧れを抱いていたモーツアルトを訪問します。やがて,1792年にはロンドンからウィーンに戻る途中でボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され,ウィーンに移住することになります。それ以後は亡くなるまでウィーンに住むことになります。そこで,ベートーヴェンはボンの生まれではあるのですが,ウィーンの作曲家として,今も,ウィーンにはベートーヴェンの痕跡が数多く残っています。

 私は,子供のころからクラシック音楽を聴くことを楽しみとしていて,特にベートーヴェンは,若いころ,作曲したほとんどの曲を夢中で聴いたことがあるので,あまりにも身近な存在となってしまっていて,今は,ブルックナーやマーラーなど,その長さに疲れたときはモーツアルトやハイドンなどを聴くようになって,あえてベートーヴェンの音楽を聴くことも少なくなっていました。
 しかし,今年,生誕250年ということで,FM放送などで頻繁にベートーヴェンの音楽を耳にすると,やはり,そのよさは格別のものに思えるようになりました。再発見です。マーラーのような甘酸っぱさやブルックナーのような土臭さではなく,ベートーヴェンの音楽はシャキッとしているのです。そして,精神が引き締まります。
 本当にベートーヴェンの音楽があってよかった,としみじみ感じます。
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 ということで,生誕250年の誕生日にちなんで,2018年と2019年に行く機会のあったオーストリアのウィーンとその郊外で訪れたベートーヴェンにゆかりのある地の思い出を書いてみたいと思います。
 今日はハイリゲンシュタット(Heiligenstadt)です。

 ウィーンに行くまで,ハイリゲンシュタットはウィーンからは結構遠いところにあると思っていました。しかし,実際は,ウィーン中心部からわずか約5キロメートルほどのところで,地下鉄で行くことができました。
 地下鉄のハイリゲンシュタット駅を降りて歩いていくと,緑豊かなウィーンの森に抱かれたブドウ畑が広がる静かな町が続きます。ここには,ベートーヴェンが作曲の拠点とした場所のひとつで,悲痛な遺書を綴った家などがあります。
 私はこのハイリゲンシュタットが大好きになって,2度目のウィーン旅行でもまた訪れたのですが,私がここで最も印象が深いのが,ベートーヴェンが散歩し,交響曲第6番「田園」の構想を練ったと伝えられるシュライバー川(Schreiberbach)沿いの散歩道です。
 交響曲6番「田園」の第2楽章につけられた表題「小川のほとりの情景」の小川が、まさにここなのだそうです。そう思うと、なんだかすごいところを歩いている気がしたものです。そして,自然と頭の中に「田園」のメロディーが浮かんできました。シュライバー川沿いの細い道は,森が広がりとても美しく静かな場所でした。


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