しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:日本国内 > 東海

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 愛知県稲沢市山崎地区では,晩秋になると,10,000本以上のイチョウが色づき,町全体が黄金色に染まります。 その山崎地区において,毎年11月下旬に「そぶえイチョウ黄葉まつり」が開催されます。
 2023年11月21日。天気がよかったので,ふらりと「そぶえイチョウ黄葉まつり」に行ってみました。  
 この時期は,雨が多い年もあれば,ほどんど雨が降らない年もあります。雨が降らない年は,桜の花とは違って,ずいぶん長い間,イチョウの黄葉を楽しむことができます。しかし,今年は,11月,雨はほとんど降らなかったのですが,夏が長く暑かったので,色づきが遅く,まだ,町全体が黄色く染まる,というところまではいっていませんでした。
 それでも,ここ数年のコロナ禍で自粛ムードが続いた後ということと,何かの話題が欲しいテレビ局が連日放送するので,ものすごい人がやってきました。また,これまでは,この場所に特に広い公園があるわけでもなく,道も狭く,駐車場すらないというありさまだったのですが,2021年,名鉄山崎駅の東側に「祖父江ぎんなんパーク」が開園して,そこの多くの屋台が並んだので,やっと,お祭りにふさわしい場所となりました。「祖父江ぎんなんパーク」では,ぎんなんの,久寿(きゅうじゅ),藤九郎(とうくろう),栄神(えいしん),金兵衛(きんべえ)という代表的な4種が実るイチョウをすべて見ることができます。

 また,稲沢市祖父江町山崎にある祐専寺(ゆうせんじ)という古寺の改装も終わり,きれいになった境内に,樹齢推定250年のイチョウがあって,山崎地区に植えられる品種の原木とされています。「そぶえイチョウ黄葉まつり」の時期は,このお寺の周りにもたくさんの屋台が出て,お祭りムードを盛り上げていました。
 さらに,そこから少し離れた民家に久寿の原木,そして,もう少し北の民家には樹齢200年以上といわれるイチョウの古木があって,どちらも公開されています。祐専寺から歩けば数分の距離なのに,そこまで行く人が少なく,閑散としていました。もったいないことです。
  ・・
 稲沢市の町おこしに一役買うのがこのぎんなんです。この時期,4種のぎんなんの食べ比べというもの悪くないのですが,ぎんなんだけではブランド化してもたかがしれているので,多くの人がやってきても,お金が落ちません。どうそれを生かしていくかというのが今後の課題でしょう。今は,何事もイメージが大切なのです。

 ということで,いろいろな工夫がはじまっているのですが,稲沢市の地酒を造っている内藤酒造さんでは,イチョウ花酵母純米酒「プリンセスギンコ」というお酒を販売しています。
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 「プリンセスギンコ」は,イチョウの花から分離した酵母によって醸された純米酒です。ほんのりスモーキーな香りと甘酸っぱい味わいは大人の貴女にピッタリのお酒かも…。 
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というのがウリです。
 私も,旅に出るとその地の地酒を冷酒で味わう,というマイブームが手伝って,今回「プリンセスギンコ」を1本購入してきました。この時期しか手に入らないということです。
 「少し冷やして,食前酒とするのが最適」と,一見強面風,実はやさしかったお店の人に言われたように,夕食のまえに1杯味わうと食がすすみました。連休が終われば人が少なくなるだろうから,また,早朝,こっそりと出かけて,黄色く染まったイチョウを堪能してきたいと思っています。

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 これまで,浜松市を観光したことはありませんでした。
 私には,浜松といえば,ヤマハとか浜松ホトニクスとかいった先端企業があるハイテク都市という印象がありました。また,浜松餃子のような地元グルメも有名なので,今回,浜松城に行くのを楽しみにしていました。
 掛川城を見たあと,掛川駅から浜松駅に戻って,途中下車をした私は,浜松駅にあった観光案内所で「浜松城と浜松餃子を目的に来たのですが」と言って,浜松の観光について聞きました。そして,浜松餃子の店の載ったパンフレットをもらい,ついでに,浜松城と,現在,浜松城内で開催されているNHK大河ドラマ「どうする家康大河ドラマ館」の入場券を購入しました。浜松では浜松城のシニア割は70歳からということで,私は対象外でした。この時点でいやな予感がしました。
 ちょうどお昼前だったので,まずは浜松餃子を,と思ったのですが,観光案内所で勧められた店は,日曜日でもあり,大変な行列でした。私は,グルメでないから,そこまでして食べる気持ちもなく,見送りました。そして,昼食はあとにして,浜松城に行くことにしました。来る前は浜松城まで歩いて行くことにしていたのですが,あまりに暑かったことと,思ったより遠かったので,浜松駅前のバスターミナルからバスに乗りました。ところが,浜松市営バスはSuicaが使えないのです。これには驚いたとともに,私が勝手に思っていたハイテク都市・浜松への印象が,先ほどのシニア割とともに,急激に悪くなりました。

 市役所南のバス停で降り,地下道を歩いて,浜松城に着きました。
 まずは「どうする家康」大河ドラマ館に向かいました。先日,岡崎城へ行ったときに岡崎城で開催されていた「どうする家康」大河ドラマ館へ行ったのですが,あれからドラマもずいぶんと進んだので,展示されているものが異なっていて,なかなか楽しいものでした。
 それにしても,大河ドラマ館というのは,要するに,テレビドラマで使用済みとなった衣装や小道具を展示してお金をとるという商法です。うまいこと考えたものです。しかし,番組のPRに800円という結構な入場料だということに,NHKの浅ましさを感じます。バカ高い受信料を払っている人には無料であってもいいと私は思います。
 次に,浜松城に行きました。天守は結構な高台にあって,へばりました。
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 浜松城の前身は,15世紀頃に築城された曳馬城(ひくまじょう)で,今川氏支配下の飯尾氏が城主でした。徳川家康が1570年(元亀元年)に曳馬城に入城し,浜松城へと改称,城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進めました。このころは,土造りの粗末な城だったようです。
 関ヶ原の戦い以後は,譜代大名の居城となり,城主は9家22代に引き継がれていきましたが,藩主の中で老中になっただけでも,松平乗寿,松平信祝,井上正経,水野忠邦,井上正直,と5人もいるというように,歴代城主の多くが江戸幕府の重鎮に出世したことから「出世城」といわれました。
 17世紀のうちに初期の建物は姿を消し,天守台のみが現在に伝わります。明治の廃城令で建物や土地が払い下げられ宅地化が進行しましたが,天守曲輪と本丸の一部は浜松城公園になり,1958年(昭和33年)鉄筋コンクリート製の復興天守が再建されました。
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 私は,浜松城にはがっかりしました。単なる,多くの場所にある外見だけ城の鉄筋コンクリートの建物であったこともそうですが,それよりも,よく見ると,この城,石垣と城の大きさが違い,広い石垣の上に,サイズが不足したアンバランスな城が建っているのです。
 城の外にボランティアの人がいたので,いろいろとお話を聞きました。
 石垣と城の大きさが違うのは,復元したときにお金がなく,小さいサイズでしか作れなかったから,という話でした。次に,私がいつも気になるその地の殿様について聞きました。先に書いたように,浜松城は「出世城」といって,江戸幕府のお偉いさんになった大名だらけなのですが,そこには,当然,ワイロあり,袖の下あり,というわけで,地元民には,藩主様にいい印象がないようです。裏返せば,地元に目が向いていなかったということにもなります。また,今では武家屋敷跡も全く残っておらず,この地に住んでいる人は,歴史を全くリスペクトしていないそうです。井伊直虎なんて大河ドラマではじめて知ったということらしいです。浜松というところは,そんなところだったのです。だから,史跡といっても,大した見どころはありません。
 文系の学問にからっきしり興味のない技術おたくの理系が合理性だけで作った都市ではないかと,だれかが言っていました。
 浜松餃子を食べ損ねた私は,帰りに,途中で見つけたお店で昼食をとることにして,のんびりと駅まで歩くことにしました。それにしても,この町,官庁街にはレストランすらありません。交差点はすべて地下道になっていて,階段の上り下りもたいへんでした。これでは弱者は浮かばれません。
 浜松城のシニア割の対象年齢が70歳から,ICカードの使えない公共交通,歴史に対するリスペクトの欠如,弱者への配慮のない交差点など,こうした理由から,私の抱いていたハイテク都市・浜松の印象は完全に消え失せ,失望感だけが残りました。
 そういえば,同じような感じを味わった都市があったなあ,と思いました。そうだ,つくば市だ。

 途中でやっとおもしろい店をみつけたので,中に入って,昼食をとりました。なかなかのお店でした。さらに歩いて行くと,JR浜松駅の近くにあった商業ビルの中のモールにあった店のひとつで,浜松餃子が提供されていたので,昼食をとったばかりだったけれど,せっかくだからと,浜松餃子にありつくことができました。
 こうして,とにもかくにも,浜松城へ行く,浜松餃子を食べるという目的は達成しました。

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 2023年9月10日。
 今年は,NHK大河ドラマ「どうする家康」を口実に,家から近いこともあって,時間があるときにゆかりの地をめぐっています。静岡市の駿府城は,すでに6年前に行きました。しかし,何度もJRの在来線や東海道新幹線で通るのに,浜松城や掛川城には行ったことがありませんでした。そこで,今回,NHK交響楽団の9月定期演奏会を聴きに東京へ行ったあと,そのまま東京で1泊して,翌日,帰りに途中下車して行ってみることにしました。
 今回の旅では,浜松駅と東京駅間をひかりで往復するチケットを購入して,これとは別に,名古屋駅から掛川駅までの往復乗車券を購入しました。こうすれば,往路は浜松駅で降りて,そこからひかりに乗り換えて東京駅まで行き,帰りは,ひかりで東京駅から浜松駅まで来て,昨日の往路が途中下車扱いとなっている浜松駅から掛川駅に行き,復路は,掛川駅から再び浜松駅で途中下車して浜松城へ行き,浜松駅から再びJRの在来線に乗って帰宅することができるからです。
 先に掛川城へ行ったのは,荷物を浜松駅のコインロッカーに預けることにしたためです。
 浜松駅で荷物を預けて先に浜松城へ行き,次に掛川城へ行っても,結局,預けた荷物を取りに浜松駅で途下車しなければならないので,掛川駅からそのまま帰ることはできないので,結局同じなのす。

 私は,掛川という町ははじめて行ったとばかり思っていたのですが,2017年にJR在来線に乗って金屋駅で降り,旧東海道を西に,掛川駅まで歩いたことがあることを思い出しました。しかし,そのときは,時間がなく,掛川市内の観光はしませんでした。
 掛川といって私が連想するのは,中日ドラゴンズの春季キャンプ地だったことがある,ということです。浜松で行ったこともありますが,こんな場所でやったところで,名古屋に比べてどれだけ暖かいの? と当時思いました。きっと,大人の事情だったのでしょう。昔は,九州とか四国で行われていた日本のプロ野球の春季キャンプも,今は沖縄ばかりのようです。しかし,春の沖縄には天候が悪いという欠点が存在します。
 掛川駅は新幹線も停車するから掛川は大きな町のように思うのですが,掛川駅の北口から掛川城へ行くために北に15分ほど歩いていたときに感じたのは,活気がないところだ,ということでした。掛川駅の北口のまわりにも,気の利いたレストランすらないのです。その一方,新幹線の駅がある南口は,一応は,ホテルがあったりもしましたが,それ以外は同じようなものでした。
 日本は,大都市以外は,どこもこんな感じです。老人の旅にはこのほうがいいのですけれど,日本の斜陽を感じます。

 さて,掛川城に着きました。NHK大河ドラマ「どうする家康」の影響か,結構な,というかほどほどの人が来ていました。掛川城はこじんまりとした城でした。
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 掛川城は,戦国時代に今川義忠が重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられています。現在の掛川城の姿は山内一豊によるものです。
 明治以降、廃城令によって廃城処分とされ撤去されましたが,1994年(平成6年)に,1854年(安政元年)の地震で倒壊した天守や大手門などの一部の建物,塀が復元され,今も,堀や土塁,石塁の復元が行われています。
 再建された天守は日本初の木造復元天守で,いい感じを出していました。
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 掛川城は,戦国時代,武田信玄と徳川家康との間で,幾度も戦乱に巻き込まれましたが,1582年(天正10年)の武田氏の滅亡まで徳川氏の領有であり続けました。1590年(天正18年)に家康が関東に移封されると山内一豊が入りましたが,山内一豊は土佐を与えられて移転したので,その後は多くの譜代大名が入り安定しませんでした。最終的に,1746年(延享3年)太田道灌一族の系統である太田氏が入り,幕末を迎えました。
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 掛川城もまた,次に行く浜松城と同じく再建されたものではあったのですが,浜松城の鉄筋コンクリートそのものとは異なって情緒がありました。しかし,それよりも,私には,御殿が,二条城,川越城,高知城とともに,当時のまま現存していたのがよかったです。よくも残ったものです。また,御殿の奥の二の丸茶室では,今年2023年1月に,藤井聡太王将に羽生善治九段が挑んだ第72期ALSOK杯王将戦七番勝負第1局が開催された場所ということでした。
 こんなさびれた感満載の掛川でしたが,人混み嫌いな私は,意外といいかも,と思いました。
 それにしても,今年はいつまでも暑い夏が続きます。もっと涼しいと思っていた私は,期待が外れました。この先過ごしやすくなったら,再び訪れて,今度は,1日,この辺りを散策してみたくなりました。

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 まだ梅が満開だった佐渡島から帰ってきたら,桜が満開でした。天気もいいし,暇だったので,近場の桜の名所をすべて見てしまおうと思いました。平常なら京都へ行っていたかもしれませんが,おそらくすごい人でしょうから,この春に京都へ行くということ自体が悪手です。
 何度も書いていたように,私は,人々は何を恐れているのやら,家に閉じこもって外出しなかった2020年の春と秋に,毎週のように車で京都に出かけて,桜と紅葉を独り占めしてすっかり満足したので,今年はパスです。今になって,人混みの中を花見だなんて,人と同じことをしては失敗する投資と同じ行動です。2020年の春は,私以外に観光客がいなかったのだから,これほど安全なことはなく,だれも歩いていない京都の高台寺あたりの満開の桜や円山公園の枝垂れ桜,そして,醍醐寺の花見を,心置きなくすることができて最高でした。コロナ禍様様でした。こんなことは二度とないと思いました。

 ということで,今年は京都は避けて,3月29日,桑名で桜を愛でた私は,次に大垣に行くことにしました。桑名から大垣は遠そうに思えますが,信号のほとんどない木曽川の堤防道路を快適に走るとあっという間に到着します。
 大垣も人でいっぱいではあるのですが,私の目的はそれではなく,お堀端のきれいな桜と舟下りをやっている姿を写真に撮ろうと以前から思ってはいても,これまではなかなか実現できまなかったことをしようというのでした。また,「どうする家康」にちなんだ大垣城の桜も写すつもりでした。
 大垣市は観光の宣伝が上手なようで,思ったとおり,群れるのがお好きなお人たちが団体ツアー旅行で殺到しごった返していました。舟下りは団体ツアー客の予約で満席で,個人では乗ることできないということでしたが,そうしたお人たちが行く場所はいつも限られているのです。
 私はそんな人の流れとは無縁の世界です。大垣市は,市役所あたりに多くの無料駐車場があるので,そこに車を停めるのがコツです。駐車場までも,桑名のように長い車の列ができてはいませんでした。
 大垣市は住んでもいいなあと私が思う,数少ない町のひとつでもあります。
 今日は,そんな観光ではなく,大垣城について書きます。

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 大垣城は麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)ともよばれます。
 その起こりは,1500年(明応9年)竹腰尚綱によって揖斐川東河岸にあった牛屋に築かれたとも,1535年(天文4年) に宮川安定が大尻に築いたともいわれますが,そのころは,牛屋川を外堀の代わりに利用し,本丸と二ノ丸のみでした。
 戦国時代,大垣の地は戦略上重要な地点であったため,以下に書くように,めまぐるしく争奪戦が繰り返されました。
 まず,1544年(天文13年)に織田信秀の攻撃により落城し,織田播磨守が5年間城主を務めましたが,1549年(天文18年)に斎藤氏に攻め落とされて配下の竹越尚光が城主となりました。
 次に,1559年(永禄2年)には,桑名について書いたときにも登場した氏家直元が城主となり,1563年(永禄6年)に大規模な改修をして本格的な城郭として整備しました。
 賤ヶ岳の戦いの後,豊臣秀吉により,1583年(天正11年)に池田恒興が城主とされ,以後,大垣城は近世城郭としての整備が進みました。1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで池田恒興が戦死すると,息子の池田輝政が継ぎましたが,1585年(天正13年)に池田輝政は岐阜城主に転じ,代わって,1585年(天正13年)に豊臣秀吉の甥・豊臣秀次の家老のひとりに任命された一柳直末が,大垣城に配されました。1586年(天正13年)の天正地震で全壊焼失してしまいましたが,1588年(天正16年)に一柳直末によって,また,1590年(天正18年)の小田原の役で一柳直末が戦死したため,功を挙げた伊藤盛景が城主となり,1596年(慶長元年)ごろまでには4重4階の天守閣が作られました。
 1599年(慶長4年)に伊藤盛景が死ぬと,子の伊藤盛宗が跡を継ぎますが,関ヶ原の戦いで西軍に属したため,西軍の根拠地となりました。しかし,関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城しました。
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 江戸時代に入っても,はじめのころは城主がめまぐるしく変わりました。
 まず,徳川家康は譜代大名として,徳川家康の従兄弟にあたる重臣・伊勢亀山藩石川家初代の石川家成の長男である石川康通を城主にしました。石川康通は,す。大河ドラマ「どうする家康」に登場する石川数正は従兄に当たります。
 石川康通は,1573年(天正元年)武田軍と戦って武名を挙げ,1580年(天正8年)家督を継ぎました。さらに,関ヶ原の戦いで戦功をあげ,1601年(慶長6年)大垣藩に加増移封されましたが,1607年(慶長12年)父・石川家成に先立って病死してしまいました。子の石川忠義は幼少のため,家督は父・石川家成が再び継ぎますが,石川家成も2年後に死去し,甥の石川忠総が継承しました。
 石川忠総が藩主の時代に,大垣城に総堀が開鑿されましたが,大坂の陣で戦功を挙げたことで1616年(元和2年)豊後国日田藩に移封され,今度は下総国関宿藩より松平忠良入りましたが,1624年(寛永元年)に没すると,丹波国福知山藩より岡部長盛が入りますが,1632年(寛永9年)に没し,その後は,山城国淀藩より松平定綱が入りますが,1635年(寛永12年)桑名藩へ移封されます。
 最後に,摂津国尼崎藩より戸田氏鉄が10万石で入って,以後,明治まで戸田家が支配することになりました。
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 大垣城は,1873年(明治6年)の廃城令で廃城となりますが,天守など一部の建物は破却を免れましたが,第2次世界大戦の空襲によって焼失してしまいました。
 現在の天守閣は,1959年(昭和34年)に郡上八幡城を参考に復元されたものですが,それは,郡上八幡城が戦前の大垣城をモデルに復元されたものだったといういわれからです。
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 ここで,大河ドラマ「どうする家康」で出てくる石川数正の名前が登場したので,以下,石川数正について書きます。
 石川数正は,徳川家康が今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕え,1560年(永禄3年)に今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗死し,徳川家康が独立すると,その後,今川氏真と交渉し,徳川家康の嫡男・徳川信康と正室・築山殿を取り戻したり,織田信長と交渉を行い清洲同盟成立に貢献したり,三河一向一揆では,徳川家康に尽くしたりと貢献しました。
 また,そののち,姉川の戦い,三方ヶ原の戦い,長篠の戦いなどの多くの合戦に出陣して武功を挙げました。1582年(天正10年)の本能寺の変で織田信長が死去し,豊臣秀吉が台頭すると,豊臣秀吉との交渉を担当し,小牧・長久手の戦いで和睦を提言しました。
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 ところが,1585年(天正13年),徳川家康から豊臣秀吉へ出奔してしまったのです。また,その理由が定かではないのです。
 石川数正は,三河勢の軍事的機密を知り尽くしていたので,以後,三河勢は三河以来の軍制を武田流に改めることになってしまいました。以後,豊臣秀吉の家臣として仕え,豊臣秀吉より松本藩に加増移封されました。石川数正は,松本に権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と街道につないで流通機構の経路を掌握するための城下町の建設,天守閣の造営など政治基盤の整備に尽力しました。

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 NHK大河ドラマ「どうする家康」にちなんで,桑名藩の殿様だった本多忠勝に関連した桑名城跡と九華公園を訪れた折に,お隣の六華苑にも行きました。そこで,今回は「どうする家康」とは関連はありませんが,六華苑について書きます。
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 今回,やっと六華苑に行くことができました。はじめて桑名に行ったとき,こんな豪邸があったことに驚きましたが,そのときは,コロナ禍で公開中止でした。
 公開されている内部は,先日行った名古屋市白壁の豊田佐助邸に似ているなあと思いました。それは,ともに,同じ時代の邸宅だからでしょう。とはいえ,いくら豪華でも,今のわれわれが住んでいるような住居のほうが,狭くても機能的であり,住み心地もよいので,私は,このような豪邸を見ても,住みたいとは思わないのが,皮肉というか何というか。
 時代はさかのぼりますが,江戸時代の上級武士の邸宅が各地で公開されていて,これまでいくつかを見ることができました。これもまた同じようなもので,現在の住居から見たとき,まったくもって,居心地がいいとは思えません。とはいえ,その時代は,ほとんどの庶民は,こうした住居とはかけ離れた小さく不便な家に住んでいたわけだから,それと比べたら,あまりに豪華なので,私は,その格差を考えると,複雑な気持ちになります。

 六華苑は「二代」諸戸清六の旧邸宅ということなので,「初代」がいるはずだからと,初代諸戸清六について調べてみました。
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 諸戸清六は世襲名です。初代諸戸清六はもとの名を諸戸民治郎といって,1846年(弘化3年)に生まれ,1906年(明治39年)に亡くなった米穀商,林業家,実業家,富豪でした。諸戸家は農業を営み,以前から大地主でしたが,父・諸戸清九郎が商売に失敗し身代を潰したので,一家は住み慣れた地を離れ,米・塩・肥料の採取業をしながら各地を転々としたのち,桑名の町に来て船馬町に小さな借家住まいをし,米搗き業の傍ら船宿を営みました。1860年(安政7年)に父が亡くなり家督を継いだときの諸戸清六が受け継いだものは1,000両を越える莫大な借金でした。
 諸戸清六は,父が残した負債を一身に担い,舟人となり貨物を運漕,また,米穀仲買人になり,父の残した借金返済に奮闘の末,僅か3年で借金を完済しました。さらに,明治維新を商機として事業を拡大し,西南戦争における軍用御用での仕事ぶりで多くの政府要人や三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎などの信頼を得て,1878年(明治11年)には大蔵省御用の米買付方となりました。1884年(明治17年)に山田家屋敷跡を購入。居を移した後は商売だけでなく水道敷設など公共の事業も行いました。1904年(明治37年)水に恵まれていなかった桑名市内に独力で諸戸水道完成し,水道の水は無償で提供されました。
 1906年(明治39年)に亡くなりました。享年61歳でした。
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 二代目諸戸清六は初代諸戸清六の四男・諸戸清吾です。
 早稲田中学校に進学しましたが,18歳のときに父の死去で諸戸家はふたつにわけられ,家屋敷は次男の諸戸清太が相続し,四男諸戸清吾が諸戸清六の名を襲名し,1906年(明治39年)に家督を相続しました。長男と三男は早逝しています。
 結婚し、1911年(明治44 年)に23 歳になった二代諸戸清六が住んだ住居が,現在,六華苑として公開されている旧諸戸清六邸で,1911年(明治44年)に着工し,1913年(大正2年)に竣工したものです。

 六華苑は,揖斐・長良川を望む約18,000平方メートルの広大な敷地に,洋館と和館,蔵などの建造物群と「池泉回遊式」庭園で構成されています。一部の改修と戦災を受けたものの,創建時の姿をほぼそのままにとどめています。鹿鳴館の設計で有名なイギリス人建築家ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)設計による,和洋の様式が調和した明治・大正期を代表する貴重な文化財です。ジョサイア・コンドルは25 歳で来日して以来,67 歳で没するまで70近くの建築作品を世に送りましたが,そのほとんどは東京と神奈川県内に集中していたため,関東大震災や戦災等により崩壊し,現存する作品は非常に少ないといいます。六華苑は、地方に唯一現存するコンドルの住宅作品として、注目されています。
 なお,現在,諸戸宗家は,諸戸林業,諸戸商会,諸戸タオル,諸戸土地,日本みどり開発,諸戸本家は諸戸林産,諸戸緑化産業,諸戸産業,諸戸造林などの各事業を中心に「諸戸グループ」を形成しているということです。
 桑名市は平成3年に土地を取得し,建物は諸戸家からの寄贈を受け,整備工事の後,1993年(平成5年)に「六華苑」という名称で一般公開しました。そのうち,洋館および和館は1997年(平成9年)に国の重要文化財に指定され,他の6棟が三重県の有形文化財に指定されています。また庭園は2001年(平成13年)に国の名勝に指定されました。

 この日,六華苑には,多くの観光客が来ていました。
 受付で聞いてみると,ここは,現在公開されている映画「わたしの幸せな結婚」のロケ地だったから,ということでした。
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 2019年に小説とコミックが刊行されるやいなや,瞬く間にシリーズ累計発行部数が650万部を突破,2022年春にはテレビアニメ化も発表されたのが「わたしの幸せな結婚」です。
 明治・大正期を彷彿とさせる架空の世界を舞台に,心を閉ざしたエリート軍人と家族に虐げられて育った少女の政略結婚から始まる異色のラブストーリーで,孤独なふたりが少しずつ互いの大切な人になっていく姿が多くの共感をよびました。
  ・・・・・・
だそうです。コミックも読まず,テレビもほとんど見ない私は,全く無知でしたが。

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 桑名市は私の自宅からさほど遠くないのに,通り過ぎるだけで,行ったことがありませんでした。私の印象は,江戸時代に東海道が宮宿から七里の渡しで着くのが桑名宿であることと,桑名といえば焼き蛤,ということくらいでした。
  ・・・・・・
宮重大根のふとしくたてし宮柱は,ふろふきの熱田の神の慈眼す。七里のわたし浪ゆたかにして,来往の渡船難なく,桑名につきたる悦びのあまり,めいぶつの焼蛤に酒くみかはして,かの弥次郎兵衛喜多八なるもの,やがて爰を立出たどり行ほどに,此頃旅人のうたふをきけば
はやりうた「しぐれはまぐりみやげにさんせ,宮のお亀が情所ヤレコリヤ,よヲしよヲしよし
  十返舎一九「東海道中膝栗毛」五編上
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熱々の風呂吹き大根じゃないけれど,宮島大根のように立派に建てられた柱を有する熱田神宮の神に守られた七里の海路は波静かで,往来の船は難なく桑名の湊に着いた喜びのあまり,名物の焼蛤に酒を酌み交わして,かの弥次郎兵衛北八なるもの,やがてここを出立し,辿って行くと,此の頃,旅人の唄う声が聞える。
流行唄「しぐれははまぐりみやげにさんせ,宮のお亀が情所やれこりゃ,ようし,ようし,よし」
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 こんなことではいけないと,数年前に七里の渡し跡に行ってみたことがあって,そのときの様子はすでにブログに書きましたが,七里の渡し跡の周辺は,旧東海道に沿って,桜の名所である九華公園(きゅうかこうえん)と,六華苑という明治時代,この地に住んでいた山林王・諸戸清六の旧邸が公開されているということで,いろいろ見どころが多彩なのに驚きました。
  九華公園は桑名城跡を公園として整備したもので,桜やつつじ,花菖蒲の名所として知られていますが,以前行ったときは春でなかったので桜も見られず,また,コロナ禍で六華苑も閉館していたので,2023年3月29日,天気がよかったこともあって,また,桜が満開だろうと,再び行ってみることにしました。
 しかし,平日とはいえ,すごい人混みで,駐車場もほぼいっぱいだったのには参りました。なんとか車を停め,駐車場からお目当てだった九華公園へ歩いていきました。九華公園で桜を愛で,お堀で船に乗り,春のきもちのよい時間を過ごしました。現在,桑名城はほとんど何も残っておらず,九華公園に一か所だけ,江戸時代のお城の石垣が残っていました。何でも,それ以外の場所の石垣は,四日市市が海を埋め立てるときに持っていってしまったという話です。桑名市の怨念がこもっています。

 私は,日本各地,どこも,行ってみたときに最も興味をもつのが,江戸時代,そこがどのような藩だったのか,また,治めていた殿様がだれだったのか,ということです。そこで,桑名藩についても調べてみると,何と本多忠勝という名前が出てきました。こりゃ「どうする家康」ではないか,ということで,興味をもちました。実際,九華公園の入口に本多忠勝の大きな銅像がありました。
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 「徳川家康」を支え,生涯に57度も戦場へ赴いてもかすり傷ひとつ負ったことがないといわれるほど勇猛な武将として有名な本多忠勝は,本多忠高と小夜の長男として,1548年(天文17年)現在の岡崎市にあった西蔵前城で誕生しました。父の本多忠高は,本多忠勝2歳のときに今川氏との間で勃発した「安城合戦」で戦死したので,幼少期は叔父の本多忠真を頼り,母と共に現在の岐阜県加茂郡にあった洞城に移り住みます。
 本多忠勝の初陣は1560年(永禄3年)の「大高城兵糧入れ」で,13歳だった本多忠勝は危険な任務を見事にやり遂げました。1563年(永禄6年)の「三河一向一揆」の際には,一揆衆に味方する本多一族の中でも数少ない徳川方として大活躍し,その働きぶりが徳川家康の目に留まり,愛用していた「蜻蛉切」とよばれる槍とともに,一躍その名を馳せました。この「蜻蛉切」とともに本多忠勝の武具として有名なのが「鹿角脇立兜」で,鹿の角をモチーフにした脇立は,和紙を貼り合わせて黒漆で塗り固められたものです。
  1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」で奮闘した本多忠勝は,その功績によって桑名に転封され,桑名藩を創設し,初代桑名藩主となりました。
 本多忠勝は,1604年頃(慶長9年)から病気がちとなり,1609年(慶長14年)には嫡男・本多忠政に家督を譲って隠居し,翌年病死しました。享年63歳でした。 
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 本多忠勝が桑名城下で行った整備として最も有名なのが「慶長の町割り」です。これは,三重県の北東を流れる現在の員弁川,当時の町屋川と大山田川の流れを途中でせき止め,そこを外堀として利用することで現在の街並みの大部分を完成させたもので,今日でいう都市計画事業です。今でも桑名市の中心部は慶長の町割りの名残をとどめています。
 本多忠勝は,徳川家康のみならず織田信長や豊臣秀吉からも愛された武将でした。
 辞世の句は
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 死にともな 嗚呼死にともな 死にともな
 深きご恩の君を思えば
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 主君の深い恩に報いることができなくなると思うと
 死にたくはない
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で,晩年は幕府の中枢からは距離を置いていた本多忠勝ですが,最後まで主君・徳川家康への忠誠心が変わることはありませんでした。

 本多忠勝が桑名藩を創設する以前の桑名は,伊勢国の一部として,はじめは滝川一益が治め,没落後は,織田信長の次男・織田信雄が支配し,次に,豊臣秀吉の家臣・一柳直盛が入封。さらに,織田信長の下で勇名を轟かせた氏家直元の次男・氏家行広が入りましたが,関ヶ原の戦いで西軍に与したので壊滅し,本多忠勝が入ることになったのです。
 本多忠勝の嫡男・本多忠政は大坂の陣に参戦し活躍し,また,豊臣秀頼の正室であった千姫と本多忠政の嫡男・本多忠刻が婚姻したこともあって,1617年(元和3年)に武功により西国の押さえとして播磨姫路藩に加増移封されました。
 そして,本多家に代わって家康の異父弟である松平定勝が入りました。
 それ以後の桑名藩は,歴史の荒波に翻弄され,さまざまま事件が起き,とても興味深い歴史があります。ここではそれを書くことが本意でないので省略しますが,幕末に桑名藩は朝敵となってしまい,いわれなき差別を受けて肩身の狭い思いをしたり,西南戦争では怨みを晴らすために400名もが出征したという悲劇がありました。

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金星と天王星の大接近。

4月1日に写しました。
薄雲があります。
3月31日の方が接近したのですが,曇りでした。
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 早朝,本證寺へ行った帰り,どこに寄ろうかと考えていて思い当たったのが,長久手古戦場でした。
 愛知県道6号力石名古屋線を走っていると「古戦場南」という交差点があります。私は,この交差点を通り過ぎることはあっても,この交差点の北西にある,長久手古戦場(古戦場公園・色金山歴史公園)には行ったことがありませんでした。
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 1584年(天正12年)に豊臣秀吉と徳川家康が激烈な戦いを繰り広げた主戦場跡地で,国の史跡に指定されている。現在,この場所は「古戦場公園」として整備され,園内には武将の塚や郷土資料室がある。また,ここから約2キロメートル北にある「色金山歴史公園」には,家康が合戦時に腰掛けて軍議を開いたとされる石が残されている。
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 よく通るのにこれまで行ったことがないのはそれほど興味がそそられるわけでもなかったことが理由ですが,近くにある史跡というのはどこもそんなものです。しかし,おそらく,NHK大河ドラマ「どうする家康」でもそのうちとりあげられることでしょうし,わざわざ行かないことには,この先も決して行くことがないのではと思ったので,今回行ってみることにしたのです。

 長久手古戦場は,小牧・長久手の戦いのあったところです。
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 1582年(天正10年)織田信長が本能寺の変で最後をとげ,天下統一の事業を受け継いだのが豊臣秀吉でした。豊臣秀吉は,山崎の戦いで明智光秀を討ち,織田家の跡目相続を決める清須会議で,織田信長の二男織田信雄,三男織田信孝を跡継ぎと認めず,織田信長の孫の三法師を跡継ぎとしました。そして,三男織田信孝と結んで対抗する柴田勝家を賤ヶ岳の戦いに破り,織田信孝を知多郡野間で自害させ,織田信長の後継者としての位置を固めました。
 そこで,二男織田信雄は,豊臣秀吉と戦うために三河の徳川家康に援助を求めました。1584年(天正12年),徳川家康は主家織田氏を助けるという大義名分で,1万5千の兵を率いて清須城へ入り,織田信雄軍と合流します。
 豊臣秀吉軍の森長可は羽黒の八幡林で徳川家康勢と戦って敗れ,それを聞いた豊臣秀吉は直ちに三万の兵を率いて大垣から犬山へ着き,小牧山を北東から包囲するよう布陣し,楽田に本陣をかまえました。一方,織田信雄・徳川家康連合軍は小牧山に本陣をかまえて東へ連砦を築き,豊臣秀吉軍に対しました。しばらくは,小競り合いがあっただけで,両軍に大きな動きは見られませんでした。
 がっぷり四つに組んだ横綱相撲です。
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 やがて,豊臣秀吉が,池田恒興の,徳川家康の本拠地岡崎を奇襲しようという進言を聞き入れ,作戦がはじまりました。
 豊臣秀吉軍は,2万の大軍を4隊にわけ,楽田から物狂峠を越え山裾にそって,大草,関田を経て上条に野営し,庄内川を渡って長久手方面へ向かいました。しかし,この動きが徳川家康側に通報されていて,徳川家康は,ただちに水野忠重を小幡城に向かわせ,自らは9,300の兵を率いて,如意,勝川を経て庄内川を渡り,小幡城へ入りました。
 徳川家康軍の先遣隊が白山林で豊臣秀吉軍の豊臣秀次隊を打ち破ります。そして,徳川家康軍の本隊が長久手に進み,豊臣秀吉軍の池田恒興・森長可両軍を迎えたので,ついに一大決戦がはじまりました。
 激戦ののち,徳川家康軍の優勢が目立ちはじめ,池田恒興,森長可の両大将が戦死し,豊臣秀軍は崩れました。この敗報を聞いた豊臣秀吉は,2万の兵を率いて長久手へ向かうのですが,徳川家康はいち早く兵をまとめ,遠回りして小牧山へ帰ってしまったので,豊臣秀吉は兵を率いて楽田に帰りました。
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 その後,両軍のにらみあいが続きましたが大きな合戦をすることもなく,結局,豊臣秀吉軍の主力は小牧地区から退き,また,徳川家康軍も兵を引きました。そして,桑名で豊臣秀吉と織田信雄が和議を結び,次いで,徳川家康も豊臣秀吉と和解し,8月にわたる小牧・長久手の戦いが終わりました。
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という流れなのですが,戦いが尾張地方全体に及んでいたので,この地だけが戦場ということでもなく,ここは,いわば,長久手という名前を冠にしたシンボル的存在で,公園となっています。
 また,小さな博物館もありました。

 私は,これまで,長久手古戦場だけでなく,自宅からそれほど遠くもない史跡には,通り過ぎることは多くとも,ほとんど行ったことがありません。おそらく,行ってみてもどこも大したことはないだろうけれど,これでは,この先も行かずに終わるように思うようになったので,これからはわざわざ行ってみようと考えているこのごろです。

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 NHK大河ドラマ「どうする家康」は,昨年の「鎌倉殿の13人」とは奥行きが違い過ぎる駄作で,比べるべくもないのですが,そんなドラマの内容とは関係なく,「鎌倉殿の13人」の主な舞台は鎌倉で遠かったのですが,今年の「どうする家康」の舞台は地元なので,私は,これを機会に,暇つぶしに,このドラマで紹介された地元の史跡を巡ろうと思っていて,先日2023年3月16日の早朝,安城市の本證寺へ行ってきました。
 ちなみに,来年の大河ドラマ「光る君へ」の舞台はおそらく京都なので,また,そのときはそれを口実に,足繁く京都へ通おうと思っています。
 朝早く行ったのは,人がいない時刻を狙ったからです。私は団体さんが嫌いです。到着したときは私以外にだれもいなくてよかったのですが,午前6時前だというのに,すでに道路は渋滞していたので,到着するまでがたいへんでした。愛知県は道路が広いと誤解されがちですが,名古屋の南部から岡崎,知立,安城,そして,知多半島あたりは,もともと大型トラックが多く走り,また,橋が少なく道路も限られているから慢性的に渋滞していて,朝6時前でもすでにすごい交通量なので,近ごろ値上がりした高速道路を利用しない限り,どこも非常に走りにくいのです。

 では,話題を本證寺に戻します。
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 若いころの徳川家康と戦った寺・本證寺は,鎌倉時代に慶円上人によって開かれた真宗寺院です。「徳川家康三大危機」のひとつに挙げられる三河一向一揆では,本證寺は一揆勢の中心拠点のひとつとして徳川家康と戦いました。二重の堀をもつことから,城郭寺院ともよばれています。
 当時,東西320メートル,南北310メートルの外堀に囲まれた寺内町は,守護不入(治外法権と租税免除)となっていました。一揆後は徳川家康により破却されましたが,約20年後に赦免され,江戸時代後期には200余の末寺を持つ大寺となっていました。
 本證寺の中庭には,徳川家康の無二の参謀として知られる本多正信の供養塔と伝わる碑が残っています。
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と,地元安城市のホームページにあります。

 三河一向一揆は,戦国時代,西三河全域で1563年(永禄6年)から1564年(永禄7年)までの半年間にわたって,蓮如の曾孫である本證寺10代空誓が中心となって浄土真宗の本願寺門徒が,領主の徳川家康と戦ったものです。
  ・・・・・・
 本證寺,上宮寺,勝鬘寺は三河における本願寺教団の拠点で,徳川家康の父・松平広忠の代に守護使不入の特権を与えられていました。
 三河一向一揆は,1562年(永禄5年)に,本證寺に侵入した無法者を西尾城主・酒井正親が捕縛したことが,守護使不入の特権を侵害されたとして起きたのが発端とか,あるいは,1563年(永禄6年)に,松平氏家臣の菅沼定顕に命じて上宮寺の付近に砦を築かせ,上宮寺から兵糧とする穀物を奪ったことに端を発したとかいわれます。
 1564年(永禄7年),馬頭原合戦の勝利で徳川家康は優位に立ち,和議に持ち込みました。
 徳川家康は和議を結ぶことで一揆衆を完全に解体させたのち,本願寺の寺院に他派・他宗への改宗を迫るなど,本願寺教団には厳格な処分を下す一方で,離反した家臣には寛大な処置で臨み,家中の結束を高める事に成功しました。
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 「徳川家康三大危機」は,三河一向一揆のほかには,三方ヶ原の戦い,伊賀越えですが,私は,三方ヶ原の戦い,伊賀越えについては,これまでの大河ドラマでも大きく取り上げられていたし,よく知っているのですが,三河一向一揆は知りませんでした。高等学校の教科書にもまったく記載がありません。「どうする家康」では,あまりに描き方が雑だったのが残念でした。

 車で行ったので,駐車場が心配でしたが,広い臨時の駐車場ができていたので,停める場所はたくさんありました。日本の多くの観光地のいつもの常というか,どこも同じというか,それほど見どころがある場所でもなかったのですが,それよりも,こうしたところに行くのは,歴史が作られた場所だということに想いを馳せることに意義があるのでしょう。

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◇◇◇
月齢27.6の月。

日の出前20分。東の空に月がきれいでした。
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ソメイヨシノ開花。

暖かな日差しに桜の花も誘われました。
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山形への旅から帰って,すっかり「奥の細道」にはまってしまった私は,久しぶりに大垣市にある「奥の細道」むすびの地を訪ねました。
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露通も此みなとまで出むかひて,みのゝ国へと伴ふ。
駒にたすけられて大垣の庄に入ば,曾良も伊勢より来り合,越人も馬をとばせて,如行が家に入集る。
前川子・荊口父子,其外したしき人々日夜とぶらひて,蘇生のものにあふがごとく,且悦び,且いたはる。
旅の物うさもいまだやまざるに,長月六日になれば,伊勢の遷宮おがまんと,又舟にのりて,
   蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
   「奥の細道」松尾芭蕉
  ・・
露通が敦賀の港まで出迎えに来てくれて,美濃の国へと同行する。
馬の背に乗せられて大垣の庄に入れば,曾良は伊勢より来,越人も馬を飛ばせて,如行の家に集まっている。
前川・荊口父子,その他親しい人々が日夜見舞ってくれて,まるで生き返った人に再会するかのように,喜んだり,労わってくれたり。
旅の疲れはまだ残っているものの,9月6日,伊勢神宮遷宮に参ろうと,ふたたび舟に乗る。
  ・・・・・・
これは「奥の細道」のむすびのところです。
芭蕉は,敦賀まで出迎えに来た路通を同道して大垣に入ります。
敦賀から大垣までは結構な距離があり,琵琶湖の西岸を通ったのか,東岸を通ったのか…。おそらく,東岸を通ったのでしょう。
最後の句の「ふたみ」はハマグリの「双身」と「二見ヶ浦」をかけたものです。また,「奥の細道」の旅立ちの歌「行く春や鳥なき魚の目は泪」と対をなしています。

大垣市の「奥の細道」むすびの地は大垣船町川湊というところにあります。松尾芭蕉は,1689年(元禄2年)の秋,ここで「奥の細道」の旅を終えました。
とてもいいところで,私のお気に入りの場所です。春には桜が満開となりますが,今は静かで落ち着いています。歌碑があって,赤く塗られた住吉橋からの景色がすばらしいです。
たもとに奥の細道むすびの地記念館があります。
この建物に中に,芭蕉舘という常設展示室があって,「奥の細道」を旅路ごとに区切って関連する資料と映像で詳しく紹介されています。この展示室もまた,とてもすばらしいものです。

ところで,大垣市の名物といえば,水まんじゅうです。
JR 大垣駅前にある老舗金蝶園総本家のホームページには次のように紹介されています。
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古くから大垣は良質な地下水が豊富な事から,水の都と言われています。この名水によって明治時代のはじめに生まれたのが,大垣名物「水まんじゅう」です。
冷たい地下水に漬けて冷やすよう,葛に水に強いわらび粉を混ぜ,柔らかく炊き上げた生地を陶器のお猪口に流して固めたものです。
あっさりとした餡の甘さとつるりとした食感が特長で,店頭の水槽の中,お猪口に入った水まんじゅうが冷やされる姿は水の都大垣の夏の風物詩となっています。
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私も土産に買って帰りました。

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 生まれたときからずっと名古屋市に住み,名古屋城を見慣れていた私は,地元の尾張徳川家は,あまりに身近で,その歴史的遺構を訪ねる気もありませんでした。
 それでも,もし,名古屋城が第2次世界大戦で戦火に遭っていなかったら違ったかもしれませんが,鉄筋コンクリートの天守閣をみたところで,感動もありませんでした。
 そしてまた,尾張徳川家の菩提寺である建中寺も,普段から目にしているので,わざわざ境内に入ったこともなく,郊外にある定光寺もJR中央線で通っても,行くこともありませんでした。
 そこで,一度は,ということで訪ねてみました。
 
 徳川家康の9男徳川義直は1607年(慶長12年),父徳川家康の命で尾張国の大名となり,名古屋城を居城としました。61万9500石の石高を領し徳川将軍家に連なる御三家の筆頭で,最高の格式を誇っていました。
 徳川義直は学問を好み,儒教に傾倒して文治政策を推し進めたそうです。
 徳川義直は,1650年(慶安3年)に江戸で没しますが,生前,とても鷹狩りが好きで,特に定光寺の裏山が好きだったので,その場所に墓を作ることを遺言し,定光寺東北の山上に造営されました。
 廟域は周囲に瓦葺土塀を巡らせ,正面中央に正門である竜の門を開き,石敷の参道正面に焼香殿を,焼香殿の東に宝蔵を配し,宝蔵の東には殉死者の墓所を設けてあります。
 定光寺は名前だけは有名ですが,訪れる人も少ないようで,ひっそりとしていますし,それほど管理が行き届いているとも思えませんでした。

 定光寺は臨済宗のお寺で,徳川家の宗派浄土宗ではありません。
 徳川義直の葬儀が行われたのは相応寺で,徳川義直の母である相応院(お亀の方)の菩提寺でした。しかし,尾張徳川家の菩提寺とすることは出来ないので,尾張藩第2代藩主徳川光友が,1651年(慶安4年)に建中寺を創建しました。
 建中寺は,尾張徳川家先祖代々の菩提寺として,また尾張藩すべての人々のこころのよりどころとするために,境内地約五万坪,約165,000平方メートルの敷地に建立し,弘経寺の成譽廓呑上人を招請して開山しまた。
  江戸時代は別格本山として,塔頭寺院と末寺を有していましたが,大政奉還によって1872年(明治5年)に別格本山から知恩院の末寺へと降格させて今日に至っています。
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 善光寺が7年に1度の御開帳をしているということなので,どういうものなのか好奇心が湧いて,5月14日の早朝に行ってきました。
 善光寺というと,長野市元善町にある無宗派の単立仏教寺院が有名ですが,私が行ってきたのはそこではなく,善光寺東海別院。稲沢市祖父江町にある正式名称双蓮山善光寺,通称尾張善光寺です。
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 長野市の善光寺にはこれまで何度か行ったことがありますが,御開帳のときではありませんでした。
 長野市の善光寺の本尊は日本最古と伝わる「善光寺式阿弥陀三尊」で,伝わった654年(白雉5年)より絶対秘仏ということです。天竺の月蓋長者が鋳写したものとされ,百済の聖王を経て献呈されたか,難波の津に漂着されたものとされるそうです。日本に来るも廃仏派の物部氏によって捨てられ,本田善光に拾われて小山善光寺から信濃の元善光寺に,次いで現在地に遷座したと伝えられているといいます。
 絶対秘仏でだれも見ることはできないために,7年に1度の御開帳には,金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開されます。
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 ところで,本尊は絶対秘仏で今までに誰も見たことがなければこれからも誰も見ることはないということは,過去も未来も誰も見ることができないもの,ということなので,ならば,「本尊は実は存在しない」という説もあるそうです。
 三種の神器もそうですが,日本という国に住む人はこういう権威主義好きですなあ。

 さて,私の行った善光寺東海別院は
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 1582年(天正10年),織田信長,織田信雄によって善光寺本尊の如来が岐阜より尾張甚目寺へ御遷座の途中に祖父江付近に立ち寄られたと記録にあり,その場所に,1909年(明治42年),蓮田であった境内地に1本の茎からふたつの花が咲くという奇瑞を縁として, 開基旭住上人が信州善光寺本坊大勧進より善光寺如来さまを勧請して善光寺東海別院を創立したもの
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だそうです。本堂は善光寺特有の撞木造りで総欅造りの大伽藍,信州善光寺の本堂の約3分の2の大きさということです。
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 もともと御開帳は同時に行われていなかったようですが,2003年(平成15年)の春に,長野市の善光寺,飯田市の元善光寺,甲府市の甲斐善光寺,稲沢市の善光寺東海別院で同時に四善光寺御開帳が行われ,2009年(平成21年)の春には,加えて岐阜善光寺と関善光寺が加わり,六善光寺御開帳となったものです。そして,その次の御開帳が2015年(平成27年)の春でした。
 今回の御開帳は,昨年2021年(令和3年)の春に行われるはずでしたが,コロナ禍の影響で1年延期され,2022年(令和4年)の4月3日から6月29日の88日間開催されています。
 御開帳では善光寺東海別院の本尊は日ごろは見ることができないほんものを拝観することができます。
 ということで,だれが考えたか,商売上手で,長野市の善光寺といういわばお墨つきを得て,しかも,六善光寺御開帳という一大イベントとなっているので,こんな田舎の,普段は人影まばらな善光寺東海別院にも,どこから来るのやら,連日大型バスが列を連ね,いつもなら車のほとんど停まっていない無料の広い駐車場に活気がもどるわけです。この時期だけ有料にする,というアメリカ流の毒されたこころをもっていないことが救いです。

 私が行ったのは,雨上がりの早朝,午前9時前で,この時間ならまだだれもいないだろうと思ったのですが,さにあらず,すでに観光バスが1台停まっていて,多くの人が本堂にひしめいていました。
 それにしても,ほとんどの人は,御開帳で見ることができる本尊を鑑賞するでもなく,それよりも,通常は初詣と毎月8日の縁日のみに授けられるというご印文を授かろうとお年寄りたちが列を作っていました。これもまた,まあ,日本らしい姿でした。

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 春が来て,多くの人が外に出るようになりました。それは,気の緩みでもなければ,人間の自然な,当たり前な行為です。気が引き締まっている人は家にじっとしていて,気が緩んだ人が外に出るわけではないでしょう。
 ところで,私には,地元であるだけにほとんど興味のない名古屋城ですが,というか,むしろ,見慣れてしまって何の感動もないダサいお城だと思っているのですが,先日,用事があって近くを歩いていると,2番目の写真のように,天守閣の屋根の上に足場が組んでありました。そして,いつも光輝いている名古屋名物の金鯱がないことに気づきました。
 調べてみると,3月8日,金鯱はヘリコプターを使って地上におろされたということです。
 疫病退散と復興への道に導くシンボルとして,2021年3月20日から4月2日まで「名古屋城金鯱展」を開き,名古屋城二之丸広場で,その次に,4月10日から7月11日まで「名古屋城金シャチ特別展覧」を開き,栄のミツコシマエヒロバスで展示するのが目的だそうです。さらに,「名古屋城金シャチ特別展覧」では,金鯱に直に触れることができるという話です。

 現在の名古屋城から金鯱が降ろされるのは今回で3度目ということです,1度目は37年前の1984年で,このときは,名古屋城再建25周年を記念してのことでした。そして2度目は16年前の2005年で,この年に行われた「愛・地球博」と名づけられた万国博覧会の開会式に参加するためにおろされ,名古屋市内をパレードし,その後,名古屋城内で展示されました。私は,「愛・地球博」の開催は反対でしたが,開会式前に招待され,冷凍マンモスも見ましたし,オーストラリア政府主催のグループワークにも参加しました。また,名古屋城に出かけて,金鯱も見ました。それが今日の3番目から5番目の写真です。
 そして,今回が3度目ということです。

 金鯱にはある「特命」が課せられていて,それは,「コロナ禍の早期収束を願って,市民に感謝とエールを伝えて,少しでも早く元気になっていただきたいと思います」という話だそうです。
 天守に鎮座するしゃちほこは,たとえば,2017年,犬山城のしゃちほこに雷が落ちてしゃちほこは壊れてしまったのですが,それ以上の被害がなかった,というような,もともと,城を火災から守る厄除けの意味がこめられていたと伝えられています。
 京都の祇園祭は,869年(貞観11年), 当時,疫病が流行し大勢の死者が出る悲惨な状況であった京の町でしたが,それを神仏に祈願することで収めようとして祈った「祇園御霊会」が起源ということだし,それ以外にも,この国で行われている祭や,天守に置かれるしゃちほこなど,それらのもととなるのは,疫病退散。古来より,こうした天災に見舞われて,それを祈ることで何とかしようとしてきたわけです。科学技術が進んだと普段は自慢しているのに,いざとなれば,やっていることは昔と変わりません。

 その気持ちはわからぬでもありませんが,密をさけよ,といっておきながら,こうした催しものをわざわざこの時期に行って,あえて密を作り出そうというお役人のやっている意味がわかりません。未だ,疫病を加持祈祷で沈めることができるとでも思っているのでしょうか。オリンピックもそうだし,Go To 何某もそうだし,えらそうに,気の緩みとかいっておきながら,もっとも気が緩んでいるのは,お役人だと私は思います。 
 春が来て,多くの人が外に出るようになるのは,人間の自然な,当たり前の行為です。しかし,私は以前から,美しい桜は静かに見ればよいのに,どうして桜「祭」にしたいのかずっと謎でした。それどころか,いくら「人生暇つぶし」であるとはいえ,あえてこの時期に,天守の上で輝き人々を見守る金鯱をわざわざ下ろしてこうした催しを行いたいのか,私にはさっぱり理解できないことでした。


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 私が岐阜市をよく知らなかったという理由は,愛知県から岐阜県に向かうとき,木曽川を越すと,どの道もなんとなく岐阜市に着くのですが,どの橋を通ればどこに着くのかがよくわからなかったということにあります。たとえば,岐阜市に行くには,名古屋市と岐阜市を結ぶ国道22号線,通称名岐バイパスという最も車線の多い道路を通るのが一般的ですが,この道路で岐阜市に行っても,岐阜市の中心街を通りません。しかしまあ,それ以外のどの道を通っても,木曽川を渡れば,なんとなく岐阜市のどこかには着くのです。
 そんなわけで,私は,岐阜市がどのように位置しているのか,考えたこともないし,計画的に走ったこともないので,土地勘がなくよくわからなかったのです。

 そこではじめた岐阜市探訪,金華山に登り,美濃路を歩き,加納城跡に行き,さらに鷺山城に登って(というほど鷺山は高くもなかったのですが),そして今回がその最終回で,川原町(かわらまち)というところに行ってみました。
 私は,川原町というところを知りませんでした。川原町は岐阜の鵜飼の出発地点ということなので,鵜飼を見たことがある人にとっては有名なところでしょうが,そもそも私は岐阜の鵜飼を見たことがないのです。鵜飼は,大昔,京都の宇治川では見たことがあります。というか,見た記憶があります。しかし,宇治川の鵜飼は,職場の職員旅行とやらで出かけて,宴会のあと,へべれけになって乗ったので,何も覚えていませんけれど…。
 かつて一度,川原町のあたりを偶然車で通りかかって,岐阜にもこんなところがあるんだ,と驚いたことあるのです。そこで,人のいない早朝に訪ねてみました。

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 川原町は岐阜市の長良橋南の通りの地域一帯の通称です。
 長良橋のたもとにある鵜飼観覧船事務所から南へ延びるこの通りは湊町,玉井町,元浜町地域を横断し材木町へと続きます。江戸時代より長良川の重要な港町として,奥美濃からの木材や美濃和紙の陸揚げが多くそれを扱う問屋町として栄えました。なかでも美濃和紙は,岐阜提灯,岐阜和傘,岐阜うちわなどの伝統工芸に欠くことのできないものでした。
 奇跡的に第2次戦世界大戦の岐阜空襲を逃れることができたので,現在も格子戸のある家屋や狭い間口に長い奥行きという昔ながらの日本家屋が軒を連ねています。空家や倉庫として使われる建物が多くさびれていたのですが,近年整備が進み,賑わいがもどっています。
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 私が生まれ育った名古屋の下町は,家の前の道路が車がやっとすれ違えるほどの幅で,古い民家が軒を並べていたところだったので,子供のころは古臭くて大嫌いでした。しかし,今になってみると,日本の家並みというのは,こういった姿がもっとも落ち着きます。その多くは,明治維新以後,中途半端に破壊されてしまっていたのですが,近年,整備が進んでいる場所も少なくありません。本当は,車が行き交うバイパスは,どこもこのような家並みを避けて作られ,昔の町並みはそのまま残っていれば,ずっと日本も住みやすく美しい国だったのに,と思います。
 このごろ,こうしてさまざまな近場を訪れると,この地方でも,岐阜市の川原町や美濃市のうだつの上がる町並み,愛知県の犬山市の城下町など,のんびりと歩くことができる場所が残っている,また,整備されているのを知りました。こうした,人のぬくもりが感じられる町に数時間滞在するのが,最も楽しい町歩きだなあ,と思うこのごろです。

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 家から岐阜市は近く,また,よく車で通るのですが,これまで,通り過ぎるだけで岐阜市自体に行ったことはほとんどありませんでした。50年近く前の大河ドラマ「国盗り物語」でも,主人公が斎藤道三と織田信長だったことで,たびたび岐阜が取り上げらえていたのですが,当時はそれだからといって岐阜市を観光したこともありませんでした。
 岐阜市は今年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の舞台でもあるので,時間があるときに,少しずつ岐阜市をめぐることにしました。たびたび私がブログで書いているように,先日は金華山に登り,また,その後に加納城跡に行き,旧中山道の加納宿あたりを歩きました。そして,やっと,岐阜市のことが少しずつわかってきました。
 
 今回9月6日に行ってみたのは,前々から気になっていた鷺山城跡でした。
 鷺山城跡は,加納城跡とともに,名前は知っていても,そこがどこにあるのかをまったく知りませんでした。調べてみると,私がよく走る岐阜市の環状線の西北のカーブに当たる場所に近く,こんな場所にあったのかとびっくりしました。そんな場所に小高い山というか丘があるとは思えなかったからです。そこが鷺山で,かつて,その頂上に鷺山城がありました。
 鷺山は標高が68メートルといいますから,この春,登る気もなく標高が400メートルほどの山城にたびたび登った私は,大したことはないと思いました。

 Google Maps の指示に従って走っていくと,市街地の中に,突然森が現れました。それが鷺山でした。近づいてみたものの,あたりの道路は非常に狭く,どこに車を停めていいのかさっぱりわかりません。案内標識もまったくありません。観光地にしたいのなら,それなりに何とかすべきだと思いました。ふもとの北側に白山神社があって,神社の駐車場があったので,そこに車を停めました。
 なんとなく付近を歩いていたら,鷺山公園と書かれた古びた小さな標示があって,そこから登れるようだったので,歩いていきました。
 わずか標高が68メートルなので10分もすると山頂に着いたのですが,蒸し暑く,結構汗をかいたのは想定外でした。
 山頂には鷺山城跡の碑がありました。また,山頂から少し南に行ったところに展望台があって,そこから岐阜城が見えました。
 南側にも道があったので,帰りはそこから降りました。
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 南側のふもとには鷺山公園と北野神社がありました。また,北野神社には斎藤道三公を弔う碑がありました。結構立派で,今年の大河ドラマの影響でしょうか,旗が建てられれいて,それなりに,観光客を意識しているようでした。しかし,この神社は駐車場が整備されているでもなく,鷺山公園も駐車場らしき土地はあれどどこから入ればいいのかわからず,これでは,訪れる人が困ります。
 家に帰ってから調べてみると,やはり,出かけた人はみな,私同様に,どこに車を停めていいのかがわからず,付近をうろうろして困ったようでした。

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 鷺山城は,平安時代末期または鎌倉時代から戦国時代にかけて機能した鷺山の山頂に作られた城です。1548年(天文17年),斎藤道三が家督を息子の斎藤義龍に譲ったのち,隠居した城ということで有名です。「麒麟がくる」で出てくる帰蝶は,1549年(天文18年)にこの鷺山城から尾張の織田信長に嫁いだといわれてます。
 1555年(弘治元年),斎藤義龍は,父の斎藤道三が斎藤義龍の弟である斎藤龍定に名門一色姓を名乗らせたことから弟に家督に譲るつもりだと思って,斎藤道三を鷺山城から追放してしまいます。「国盗り物語」や「麒麟がくる」などの大河ドラマでは,斎藤義龍は斎藤道三を実の父でないと思ったというのが理由になっています。そして,翌年1556年(弘治2年)に,斎藤義龍は斎藤道三を長良川の戦いで攻め滅ぼしてしまうのです。
 この戦いの後,鷺山城は廃城となりました。
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☆ミミミ
鷺山城跡からの帰り,長良川畔を東に走ってみました。岐阜公園を過ぎてしばらく走っていくと,富田学園がありました。富田学園といえば,以前,このブログにカルバー望遠鏡のことを書いたときに出てきた学校です。また,「月刊天文ガイド別冊・日本の天文台」にも紹介されていたところです。
今は,学校にはその望遠鏡はありませんが,学校の名前を見て驚きました。富田学園はここにあったのか,という感じでした。
こうして近場を気ままにドライブをしていると,これまでの謎がいろいろと解けてきて,なにかとても楽しいのです。

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 妻木城からの帰り道,右手にとても立派な寺がありました。臨済宗妙心寺派の崇禅寺でした。
 崇禅寺は山号は「光雲山」。土岐明智氏の初代明智頼重が1354年(文和3年)に菩提寺として創建したもので,妻木城主代々の位牌や墓所があります。また,釈迦如来立像,夢窓国師筆果山条幅,紙本墨書此山妙在筆跡,崇禅寺唐門,絹本着色十六善神像などの文化財を多数所蔵している由緒ある寺で,元禄時代にはじまった土岐郡三十三所巡礼の第十八番札所でもあります。
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  水をくみひろう妻木の崇禅寺
  知るも知らぬも後の世のため
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 妻木城上屋敷から移築されたという山門が寺の入口になります。 山門から振り返えると、妻木川の流れをはさんで城山が正面に望めました。城山のふもとに広がる田畑は家来たちの住んだ屋敷跡ということでした。崇禅寺には多いときには清閑院,長寿院など十ほどの塔頭があったのですが,明治を迎えると塔頭はなくなり現在の規模になりました。
 山門を過ぎて石段を登ると鐘楼門がありました。 鐘楼門をくぐると立派な本堂などの建物が並んでいました。
 右手にあるのは樹齢130年というイチョウの大木で,その落ち着いたたたずまいには,この地方を代表する禅宗の寺としての雰囲気がありました。

 本堂と開山堂にはさまれた建物が観音堂です。江戸時代まで八幡神社の境内には八幡院という寺がありましたが,明治政府の神仏分離令によって八幡院はなくなり,1876年(明治9年)に八幡院の本堂を移したものです。観音堂の正面には、八幡院のころからの額がかけてあります。そのうちのひとつに
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  第十七番
  円光山大鏡寺八幡院
  勇ましきこや武士の八幡寺
  法の道にしいると思えば
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とあり,八幡院はなくなってもかつて存在した証拠が今も崇禅寺に残されています。

 崇禅寺からさらに北に行くと,八幡神社がありました。
 八幡神社は,妻木城主の氏神として手厚く保護されてきました。1319年(元応元年)に美濃国守護土岐頼貞が創建したとも,土岐頼貞の孫土岐明智頼重が妻木城築城後に建立したともいわれています。
 流鏑馬が行われる広い参道や64段の石段の上に建つ社殿は妻木城主の栄華が偲ばれます。
 八幡神社の流鏑馬は,1623年(元和9年)に妻木城主が馬1頭を寄進したことにはじまると伝えれています。妻木町内から選ばれた6人の少年が、馬にまたがり参道を駆ける勇壮華麗な神事だそうです。
 神社の奥まった一角に流鏑馬で使う木曽馬が飼われていました。この木曽馬は,以前の馬が亡くなったので,新しく新一という馬がやってきたのだそうです。ひとり(一頭)ぼっちで,しかも,この先大役を担うのかと思うと,なんだかかわいそうでした。
 この神社に残され,今は公民館の資料室に展示してある文化財が一対の面ですが,残念がなら公民館の資料室はこのご時世で閉館していたので,私は見ることができませんでした。資料によると,一対の面は,2本の角,ぎょろりとした大きな目玉まさしく鬼の形相をした「赤鬼,青鬼」の面ということですが,実際は「火の王」「水の王」とよばれていました。妻木の陶祖・加藤太郎左衛門景重による1648年(正保5年)の寄進です。
 明治以前,流鏑馬神事の2日前にあたる旧暦の8月13日の夜,境内に大きなお釜を設置し湯を沸かし神事が行われました。これが「湯立神楽」です。昔から水と火は天地の根源だと考えられてきたのです。そこで,水と火で生まれた湯を神にお供えするとともに人々が湯を浴びることによって,再び生き生きした命を取り戻すと考えられているわけです。「火の王」と「水の王」の面はこの湯立神楽に使われたものです。
 この面を着けて乱舞したであろうかつての光景を想像すると、今一度湯立神楽を再現してみたいという思いがふくらむというものです。いつかまた妻木に来て,そのときはこの面を見たいものだと思いました。
 妻木,こんな静かな文化香る歴史のある山里の町があることをこの日はじめて知りました。

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 妻木に行こうとインターネットで調べても,妻木の町がどういうところかなかなか把握できませんでした。妻木城もまた,私が死ぬ思いで登らなければならないのかなあと思って情報を検索してみると,車でずいぶんと高いところまで行くことができるともあり,それでは肝心な遺構を見逃すから麓から歩いて登らなければならないともあり,はっきりしません。
 妻木に関する詳しい資料は公民館でもらえると書かれていたものが複数ありましたが,その公民館とやらがどこかもわかりませんでした。
 情報発信が下手な町だと思いました。ともかく論より証拠,行った方が早いと思って出発しました。

 妻木の町を走っていると,運よく公民館の前を通りました。というより,町を貫く道路はこれ1本だけなので,どう走ろうと公民館の前を通るのでした。ほかに1台も車が停まっていない広い駐車場に入ると,ちょうど案内所から係の人が出てきたので,車から降りて話をすると,詳しい地図や資料をくれました。
 地図に基づいて,まず,城を目指します。町の南のはずれにある城まではそのまま南に走っていきますが,途中でふたまたにわかれ,左側の狭いほうの道路を通っていきました。そのうちに右手に山の南側から城に登る道路がありました。そこはどうもゴルフ場の私有地のようでしたが,好意で中まで入ることができるとのことでした。
 その道に入ると未舗装道路になったのですが,さらにそこを登っていくと急ごしらえの広い駐車場がありました。ほかに停まっていた車はありませんでした。
 車を降りて山道を進むと,山頂はそこから間もなくでした。400メートル級の山にいつもは苦労して登るのに,山頂付近まで車で来ることができるのに驚きました。

 山頂からは妻木の雄大な景色が眺められるというので期待していたのですが,まさにその通りでした。山頂から北に妻木の町,そして,その向こうの山並みがきれいに見えました。山頂付近には曲輪や堀切,土塁,石垣などが残っていました。ここの石垣は運んだもののほかに,自然に積みあがったものが多く,その不思議な姿がみごとでした。
 この城の石垣で有名なのが,十字の模様のある石です。それが明智光秀の娘でキリシタンだった細川ガラシャと関連づけられて語られるものと,都市伝説ではなるわけですが,どう見ても,単に石を4つに割ろうと刻みをつけてそのまま放置したものとしか,私には見えませんでした。

 城跡には私ひとりしかいませんでしたが,途中で子供をつれた若い父親が登ってきました。なんでも今日が小学校の入学式なのだけれど,新型コロナウィルスの影響で入学式が午後からになったので父子でハイキングをしているということでした。私はしばらく景色を眺め,城跡の周りを散策して,駐車場に戻りました。彼らもまた車で登ってきたのかなと思ったのですが,私が先に駐車場に戻ったとき,彼らの車はありませんでした。
 私は南側から自動車道を登ったのですが,北側の麓には御殿跡や士屋敷などの区画が石垣とともに残されているということでした。近世初頭の城郭遺構が居館や家臣団の屋敷が城下町を含めて残されている例は全国的にも極めてまれだそうです。そこに行くには先ほどふたまたにわかれた道を今度は反対側に走って行くことになりました。
 到着すると,舗装された広い駐車場があって駐車場の端から妻木城に登る山道がありました。車を降りてそこまで歩いて行ってみると,ちょうど先ほど山頂で出会った父子が降りてきました。どうやら彼らはこうして北側の麓から歩いて登ったようでした。
 小学1年生でも登るのに,車で山頂まで行った軟弱なわが身を恥じました。

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 山県市にある大桑城に登ったことはすでに書きました。
 その後の4月5日,大河ドラマ「麒麟がくる」を見ていたら,妻木という地名が出てきて気になりました。どこにあるのだろうと調べてみると,妻木は土岐市の近くということだったので,翌日の朝,車で出かけてみました。
 東名高速道路を土岐インターチェンジで降りて南に13キロメートル一般道を走ると,妻木に着きました。実際は東海環状自動車道の土岐南多治見インターチェンジで降りるほうがずっと近かったのですが,調べた資料が古く,東海環状自動車道のできる以前のものだったので知りませんでした。帰りは東海環状自動車道を使って帰りました。

 行くまで,私は妻木というところを全く知りませんでしたが,行ってみて,こんなのどかな町が近くにあることに驚きました。日本の各地にはずっと時間が止まったようなところがいたるところにあります。
 妻木町は土岐市の中程に位置する古い城下町です。妻木城が町の南の外れの小高い山にあります。廃城になってすでに350年ほどが過ぎていますが,城下はずっと健在で,今なお当時の面影があります。標高409メートルの山にあった妻木城は,山頂に石垣などが残り山麓には御殿跡や士屋敷跡だったといわれる遺構が残されています。
 妻木城は,室町時代には土岐明智氏が,戦国時代以降は妻木氏の居城として,この地方の中心地になっていました。「麒麟がくる」では,明智光秀の正室・煕子が妻木氏の娘という設定であることで,ドラマで妻木という場所が登場したわけです。
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 明智光秀亡きあと,1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで戦功を挙げた妻木頼忠は,1601年(慶長6年)に徳川家康から改めてこの地域を与えられ,妻木城の北麓に屋敷群を建てて,妻木城からこの屋敷に拠点を移しました。妻木の領主は,妻木頼忠から妻木頼利,その次に妻木頼次が跡を継ぎましたが,妻木頼次に跡継ぎのないまま1658年(万治元年)に死去したため断絶してしまいました。しかし,妻木頼次の弟の妻木幸広が土岐郡大富村から妻木の北側・上郷地区へ領地替されたことによって,上郷地区にに新たに陣屋を築いて上郷妻木家として存続し,明治維新に至りました。

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 稲沢市の国衙,国分寺,国分尼寺の遺構を順に紹介しました。最後に,総社について紹介します。
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 総社というのは,特定地域内の神社の祭神を集めて祀った神社のことをいいます。律令制において国司が着任した最初の仕事は,赴任した国府の定められた神社を順に巡って参拝することでした。しかし,いつの時代も人の考えることは同じで,次第に,そんな面倒なことはやめて国衙の近くに総社を設けてそこを詣でることで巡回を省くことが制度化されていきました。
 総社の多くは中世になって廃れていきましたが,後に再興されたものも少なくありません。
 
 尾張国の総社は現在の尾張大国霊神社です。近くに尾張国国府の国衙があったことから,一般には国府宮神社,国府宮とよばれています。現在,稲沢市といえばこの国府宮神社で有名ですが,それは,毎年旧暦1月13日に執り行われる儺追神事,通称「国府宮はだか祭り」が行われるからです。
 しかし,有名な割にはその歴史やらいわれやらが語られているものは少なく,不思議な行事だと思いますが,ともかく,日本各地にある役逃れのさまざまな行事と同じようなものでしょう。 
 そしてまた,名鉄の国府宮駅で降りても,神社までの間に多くの食堂やら土産物店があるわけでもないので,ここは観光で来るには不向きなところです。なので,儺追神事のころ以外はほとんど人がいません。
 本社は本殿,渡殿,祭文殿,廻廊,拝殿,楼門と並ぶ建築様式で「尾張式・尾張造」と称されます。
 入口の楼門は550年も前に建てられたもので,1646年(明正23年)に改修された当時のままの姿を残しています。楼門をくぐると350年前に建てられた拝殿があります。その奥に本殿があり,そしてそれに接する形で鎮座している盤境(いわくら)は,自然石を5個円形に並べたもので,社殿建立以前の原始的な祭祀様式を物語るものとして神聖視されているそうです。

 祭神である尾張大国霊神は,この地方の祖先が当地を開拓する中で自分達を養う土地の霊力を神と崇めたものとされ,開拓の神ということで大国主命とする説もあります。
 国府宮神社には別宮として2つの神社があります。
 ひとつは大御霊神社で,尾張大国霊神社の南に鎮座しています。大御霊神社には大御霊神が祀られています。大御霊神というのは大歳神(オオトシ)の子ども=大国御魂神(オオクニタマ)とされていて、穀物の神様です。神話では,大歳神は須佐之男命(スサノオ)と大山津見(オオヤマツミ)の娘である神大市比売命(カムオオイチヒメ)の子として生まれ,出雲国の建国に際して大国主神に力を貸した豊年・豊作の神とされます。大歳神は,伊怒比売神(イノヒメ)をめとり,大国御魂神(オオクニタマ),韓神(カラ),曾富理神(ソホリ),白日神(シラヒ),聖神(ヒジリ)という五柱の神をもうけます。
 もうひとつは尾張大国霊神社の東にある宗形神社で、こちらには田心姫命(タゴリヒメ)が祀られています。天照大御神(アマテラス)と須佐之男命(スサノオ)との誓約の場面で誕生した宗像三女神を古事記では多紀理毘売命(タキリビメ),田寸津比売命(タキツヒメ),市寸島比売命(イチキシマヒメ),日本書紀では田心姫(タゴリヒメ),湍津姫(タギツヒメ),市杵嶋姫(イチキシマヒメ)を指します。海の神様転じて水の神様とされます。
 尾張大国霊神と大御霊神、田心姫命で,国,穀物,水となり,尾張国の人々の生活と密接した神様で,合わせて国府宮の三社と呼ばれています。
 大御霊神社,宗形神社とも小さく,目立たない神社です。尾張大国霊神社に訪れたとしても,大御霊神社や宗形神社は訪れる人もさらにほとんどなく,閑散としています。

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 尾張国分寺跡を見つけた私は,これまで関心もなかったのに,奈良時代のこの地方について興味をもち,調べてみました。
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 前回,日本の憲法はずっと養老律令だったと書きました。この律令に基づいて設置された日本の地方行政区分を律令国といい,なんと,飛鳥時代から明治時代初期にわたって日本の地理的区分の基本単位でした。 令制国の行政機関を国衙といい,国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府といいました。つまり,今の県庁所在地です。県庁にあたるのが国衙で,国衙やそのまわりにはさまざまな役所がおかれていて,土塀などによって区画されていました。そして,国府には,国衙のほかに,国分寺,国分尼寺,総社が置かれました。
 律令制の衰退にともなって,廃れたり所在不明になった国府もあり,また,現在も都市として発展した国府もあります。 

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 尾張国の国府は現在の稲沢市にあったのですが,国衙の置かれていた場所は定かではなく,地名を手がかりにして,数度の発掘調査が行われたものの今も特定されていないそうですが,名鉄電車の国府宮駅の西側の住宅街にある松下公民館のとなりに「尾張国衙址」碑が建てられています。
 また,総社は国府宮駅の東側にある,はだか祭りで有名な尾張大国霊神社(国府宮神社)で,今も存在しています。
 国分寺跡については前回紹介しましたが,今日はその補足を書きます。
 「日本紀略」の884年(元慶8年)の条によると,尾張の本金光明寺に火災があったため,願興寺を国分寺としたと書かれています。この願興寺も10世紀には衰退して廃寺に至り,その後,国分尼寺が僧寺(国分寺)に転用されたといいます。このように転々として, 現在は,創建時の遺構から北へ900メートルほど行った場所にある「円興寺」から改称した「鈴置山国分寺」が明治時代に法燈を伝承し,これが現在ある国分寺です。
 国分尼寺もまた,詳しいことはわかっていないのですが,法花寺町にある法華寺と推定されています。また,奈良時代,国分寺の東西南北には「四楽寺」とよばれる末寺があったといわれます。現在の安楽寺(北方),平楽寺(東方),長楽寺(南方),正楽寺(西方)がこれらにあたるとされます。
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 ということだったので,どこもそれほど自宅から遠くないので,歩いて順に巡ることにしました。
 「尾張国衙址」碑は,街中にあって,日ごろ通るところでなかったので,見つけるのに戸惑いました。普段車で通る道路の端に案内標識があったのですが,なかなかたどり着けませんでした。とはいえ,単に碑があっただけです。
 そのあと,国分尼寺と四楽寺に順に行ってきました。
 法華寺は立派な寺でした。また,安楽寺は,春になると桜が咲き誇る寺でよく行くのですが,その寺が由緒あるところとは知りませんでした。長楽寺もまた,立派な寺でした。しかし,平楽寺は神社の敷地のなかに表札だけがありました。正楽寺にいたっては,何もなく,田んぼの一角に墓地だけが存在していました。
 このあたり,濃尾平野の真ん中で,空が広く,おそらく,住居がなけれは,今でも地平線まで見通せます。昔の姿を想像してみました。1300年以上も経つのに,当時の地名は残っているし,人の歴史というのは不思議なものだと思いました。

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 大日本帝国憲法が制定される前まで,この国の憲法に代わる国の決まりは,なんと,718年(養老2年)にまとめられ757年(天平宝字元年)に施行された養老律令だったのです。養老律令は,時代に合わなくなった部分は無視されていったのにもかかわらず,明治時代まで1200年近くにわたって,なあなあで世襲されていきました。養老律令をもとに,日本では全国を機内・七道に行政区分して,国・郡・里が置かれて,国司・郡司・里長が任じられました。そして,国司には中央から貴族が派遣され,役所である国衙を拠点として,国内が統治されました。そして,国衙の近くには総社,国分寺・国分尼寺が置かれました。
 明治維新で,これを定めた養老律令は無視され,法的根拠もないまま廃藩置県が行われました。こうしたことがいかに日本らしく,その点からも,この国は本質的には,「お願い」という名目の強制国家であり,法治国家とはいえないのでしょう。それは,昔も今も変わりません。
 さて,私の住む愛知県は尾張国と三河国に分かれていましたが,そのうち,尾張国の国衙があった場所は,現在の稲沢市です。しかし,稲沢市のどこに国衙や国分寺・国分尼寺があったかとわれても,住んでいながら知っている人もそうはいないことでしょう。私もそうでした。
 そこで,遠出禁止が「お願い」されている今,近場の散歩ついでに,実際に,その場所を探すことにしました。人がだれもいない田舎,訪れる人もいないこうした遺構巡りは,安全かつ楽しいものです。

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 聖武天皇は,仏教による国家鎮護のために,当時の日本の各国に国分僧寺(いわゆる国分寺)と国分尼寺の建立を命じました。正式の名称は,国分僧寺が「金光明四天王護国之寺」,国分尼寺が「法華滅罪之寺」といいます。
 まず,聖武天皇は,737年(天平9年)に国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と「大般若経」を写す詔,740年(天平12年)に「法華経」10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出しました。そして,741年(天平13年)には,各国に七重塔を建て,「金光明最勝王経(金光明経)」「妙法蓮華経(法華経)」を写経すること,金字の「金光明最勝王経」を写し塔ごとに納めること,国ごとに国分僧寺と国分尼寺を設置し,僧寺の名は金光明四天王護国之寺,尼寺の名は法華滅罪之寺とすることといった「国分寺建立の詔」が出されました。
 寺を作る財源として,僧寺には封戸(ふこ=家:その家の収める税を全額とれる)50戸と水田10町(1町=9,900平方メートル),尼寺には水田10町を施すこと,僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められました。
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 しかし, 国司の怠慢で多くの国分寺の造営が滞ったので,747年(天平19年)の「国分寺造営督促の詔」によって,造営体制を国司から郡司層に移行させるとともに,完成させたら郡司の世襲を認めるなどの恩典を示したといいます。
 これもまた,マイナンバーカードやキャッシュレスの普及ができない今と同じ話です。日本は変わりません。
 「国分寺造営督促の詔」によって,やっと,ほとんどの国分寺の本格的造営がはじまりました。国分寺の多くは国衙の近くに置かれ,国衙とともに最大の建築物でした。やがて,律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると,国分寺の多くは廃れていきました。
 これまた,今と同じです。日本は変わりません。
 ただし,中世以後も,多くの国分寺が,当初とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続け,国分尼寺もまた,その多くは復興されませんでしたが,後世になって,法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している場合もありました。

 さて,稲沢市の話に戻ります。
 稲沢市には国分寺という寺があります。私は,国分寺が奈良時代の国分寺の跡だとずっと思っていました。先日,なんとなく散歩していたら,国分寺から離れたところの道路の脇に「尾張国分寺跡」という大きな案内板を見つけて,びっくりしました。つまり,私が国分寺だと思っていたところは後世に移ってきた場所であって,奈良時代の国分寺ではありませんでした。
 尾張国の国分寺は,尾張国分寺跡という遺構として,現在の国分寺から南に約900メートルのところにありました。説明書きがあったので読んでみると,調査では,国分寺の寺域は,東西約200メートル,南北約300メートル以上もあり,金堂・講堂・塔の遺構が見つかっていて,金堂,講堂,南大門は南北一直線に並び,金堂の左右には回廊が取りついていて,その回廊外の東方に塔を配していたということでした。
 遺構は今は民有地となっていますが,あぜ道をあるいていくと「塔跡」と書かれた案内板があって,そこを入っていくと,塔の遺構がありました。遺構には礎石が4個が残り,「尾張國分寺舊址」碑が建てられていました。

 今から,1200年以上も前の遺構がこれだと思うと,なにか不思議な気がしました。それとともに,おそらく,その時代にはきわめて神聖な場所だったところが,今はただの空き地となっているのに,複雑な気持ちもしました。それで興味をもった私は,これを機会に,散歩を兼ねて,さらに,稲沢市の国衙の跡や国分尼寺がどこにあったかを探してみることにしました。
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 ところで,今から100年ほど前の1918年,スペイン風邪(スペインインフルエンザ)が流行して世界中の5億人あまりが感染し,死者の数は第一次世界大戦の犠牲者を越えたといいます。その時代にはおそらく,スペイン風邪というのは,最も切実な大問題だったことでしょう。
 しかし,今,高等学校の世界史の教科書を隅から隅まで読んでみても,スペイン風邪のことなど一言も書かれてありません。我々が学校教育で学ぶ歴史というものは,まったく役立たない知識は一杯詰め込むけど,こうした,その時代でもっとも人の生活に関わる大切なことは教えてもらえないものなのでしょうか。これもまた,日本らしい話です。

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 去る3月12日木曜日。大桑城,明智光秀の墓,モネの池と行って,最後に美濃市のうだつの町並みを歩きました。この,特に何にもなさそうに思えるところに,十分楽しめる場所を見つけた自分を「ほめてあげたい」気分です。
 ちなみに,「ほめてあげたい」とは,女子マラソンのアトランタオリンピックで銅メダルを取った有森裕子さんで有名になったことばです。しかし,有森裕子さんの「自分をほめてあげたい」発言は都市伝説で,実際は「メダルの色は銅かもしれませんけれども…,終わってからなんでもっと頑張れなかったのかと思うレースはしたくなかったし,今回はそう思っていないし…,はじめて自分で自分をほめたいと思います」というのが真実です。

 さて,このうだつの町並みですが,以前美濃市を車で通ったときに見かけて,えっ,こんなところがあるんだと思って,それ以来ずっと気になっていた場所です。
 うだつの町並みの近くに公営の駐車場があったのでそこに車を停めて歩いて町並みに行きました。ここもまた,平日ということもあってかまったく観光客もおらず,私は江戸時代にまいもどったかのような気持ちで,ゆったりと街歩きを楽しみました。
 帰りがけに,ほかにだれもお客さんのいなかった1軒のカフェに寄って,コーヒーとお饅頭を食しました。

 うだつの上がる町並みとは,かつて,上有知(こうづち)とよばれた城下町のことです。
 この城下町は,1605年(慶長10年),飛騨高山藩主であった金森長近が養子の金森可重に高山城を譲り,この場所の高台に小倉山城を築いて隠居したのがはじまりです。やがて,金森可重より金森長近の実子金森長光に2万石が分知され上有知藩となりますが,金森長光には嗣子がなく改易され1代で廃藩,小倉山城も廃城となってしまいました。
 1615年(元和元年),上有知は尾張藩の所領となり、城跡には代官所が置かれました。現在,城跡には石垣と土塁が現存し,本丸跡に模擬櫓,山頂に三階建ての展望台と忠魂碑が建造されています。しかし,城下町は廃藩後も商業の中心地として大いに繁栄しました。現在は,約1キロメートルにわたってうだつの上がる町並みが残り,重要伝統的建造物群保存地区となっています。

 廃藩後も城下町が繁栄したのは,長良川流域で漉かれた美濃和紙のおかげです。
 しかし,丘の上に造られた上有知の町は水の便が悪いため火災に弱いという一面を持っていました。 そこで,防火対策の一環として屋根にうだつを上げるようになりました。うだつとは、隣家との間の防火壁に小屋根をつけたものです。やがて,はじめの用途から離れ,うだつは,次第に富の象徴として豪華なものが競って上げられるようになっていきました。現在も,町内には18棟ものうだつを上げている家が残されています。
 町から西に少し歩いて坂を下ると長良川にたどり着きます。川べりには船着場と灯台の跡が残っています。おそらく,観光でうだつの町並みには来ても,長良川の川べりまで歩く人はまれだと思いますが,こうしたところに足を延ばすことこそが散歩のコツです。このようにして町のすみずみまで歩くと,その土地のことがとてもよく実感できるのです。
 またひとつ,これまでずっと行きたかった場所を探ることができました。いい日になりました。

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 せっかく大桑城に行ったので,帰るついでにどこに行こうかと考えて思いついたのは「モネの池」でした。
 特に興味もなかったのですが,あれだけ騒がれたのだから一度みてみようという好奇心と,今なら空いているだろう,というのが理由でした。
 「モネの池」は関市板取の根津神社の貯水池で,大桑城から北に,途中で明智光秀の墓という伝説のあった桔梗塚を経由して,県道を20分ほど車で行ったところにありました。
 訪れた人ががっかりしたとかいううわさもありますが,日本の観光地なんてどこもそんなようなものです。いつも書いているように,日本の景色はこころで感じるものです。それにしても,こんな場所にわざわざ観光バスが訪れるのは,話題性とともに,その県道をさらに走るとそのまま郡上八幡に行くことができるという立地のよさです。
 私は,このたいしたことのない池の写真を撮って,あとでうまく画像処理をしてモネの絵に似せるのを楽しみにしていましたが,その目的は十分に果たせたので自己満足しました。それが今日の1番目の写真です。

 「モネの池」というのはもちろん通称で,正式な池の名称ではなく,「名もなき池」と看板に書かれていました。
 1999年,雑草が生い茂っていた池を近くで花苗の生産販売をする「フラワーパーク板取」の経営者である小林佐富朗さんが除草を行い,スイレンやコウホネを植えました。また、コイを地元住民が自宅で飼えなくなって持ち込みました。そうした偶然が積み重なって,クロード・モネの後期の睡蓮連作群と似た池となったものです。
 池はテニスコートよりも少し大きい程度で,思った以上に小さいものです。池には常に湧き水が流れ込み,このため年間水温がおよそ摂氏14度と一定で,冬に咲いたコウホネは枯れず,黄色からオレンジ色,そして,赤色と変化します。また,池には近くの山が流紋岩類で構成されているために湧き水に養分が含まれず微生物が育たないことから透明度が高く,太陽の位置や水量によって池の色が変化します。
  2015年ごろからSNSでこの池が話題に上りはじめ,マスコミに取り上げられたことで観光客が激増したのだそうです。
 なんでも, 2016年に板取錦鯉振興会が稚魚から育てたニシキゴイを提供した中に頭にハートマークがついている鯉がいたことから「見たら恋が成就する」とかいった話題も生まれて,さらに人気が沸騰したそうで,私が行った日もそのコイを探している人がいました。

 それはそうと,私は「モネの池」がどういうところなのかということがわかり,また,後でモネの絵のように加工できそうな写真さえ写せればそれだけで十分でした。ここもまた,人がおおぜいいたらそのまま帰るつもりでしたが いつも -といってもいつものことなんて知りませんが- と違ってほとんど人もおらず,とても幸運でした。人混みの嫌いな私が,こんな場所,混雑していたら決して来ることなとありますまい。
 それよりも,池の近くに,何度か潰れそうになって廃業を決意するたびになにがしかの幸運で商売が上向いた喫茶店があるとかいう話を聞いていたので,そこがその店なのかどうかは知らねど,池に最も近い「風土や。」という店があったのでそこに入って,昼食をとることにしました。この店も,普段なら結構な賑わいを見せるらしいのですが,この日の客は私だけでした。
 店の主はおもしろい人で,話に花が咲きました。
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 それにしても,モネの池も「風土や。」もネットで調べると,いろんなクチコミが書かれています。
 こうした書き込みを読むと,書いた人の教養やら知性がわかっておもしろいものです。モネの池にはがっかりしただとか,「風土や。」の主の客扱いがよくないだとか,よくもまあ,こうもしゃあしゃあといろんなことが書ける人がいるものです。
 世の中なんてそんなもの。いろいろあっていいのです。

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 山県市は大桑城だけでなく,中洞地区には明智光秀の墓というものもあって,私はびっくりしましたが,ともかく行ってみました。
 明智光秀の墓は桔梗塚といい,白山神社のなかにありました。また,ここは明知光秀の墓だけでなく,生誕地ともされていて,神社の境内には,明智光秀の母が産湯の水を汲んだという井戸が残され,神社近くの武儀川には,光秀を身ごもった際に母が「たとえ三日でも天下を取る男子を」と祈ったという行徳岩がありました。
 
 明智光秀は山崎の合戦で死んだのではなく,そのとき死んだのは影武者であり,ひそかに郷里山県市中洞に落ち延びて荒深小五郎の名ですんでいた,ということだそうです。
 神社に次のような説明書きがありました。
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 この地区の伝承によると,明智光秀は土岐元頼と中洞の豪族である中洞源左衛 門の娘との間に長男として生まれたといいます。7歳の時に父が亡くなったことか ら,現在の岐阜県可児市にある明智城主明智光綱のもとで軍学兵法を学び,やがて養子となりました。
 明智城は1556年(弘治2年),斎藤道 三の息子斎藤義龍に攻められ落城,美濃を脱出した光秀はやがて天下統一を目指す織田信長に見いだされ,織田信長の家臣となりました。
 1582年(天正10年),明智光秀は本能寺の変を起こし天下人となりましたが,約10日後に豊臣秀吉の軍と山崎で激突し命を落とした…というのは通説で,実は,合戦で死んだのは影武者であって明智光秀本人は生きていたのです。
 光秀は郷里の中洞に落ち延びた後,身代わりとなった影武者 荒木行信の忠誠に深く感銘して「荒」と「深」を取って自ら荒深小五郎 と名乗り、中洞の 地で暮らしまし た。
 そして,1600年(慶長5年),徳 川家康の要請で関 ケ原の合戦に向かう途中,増水した根尾川で馬共に押し流されて亡くなったと伝えられています。
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 そこで,この地に明智光秀の墓があるというわけです。桔梗塚の名称は明智家の家紋が桔梗であることに由来していて,今も地域の住民によって毎年2回供養祭が行われているそうです。

 明智光秀についてはさまざまことが伝わっておらす,そのために,今では言ったもん勝ちみたいなところがあって,各地にいろいろなものが残っている,というか,こじつけているのが,まあ,おもしろいというか愉快というか,そのおかげで,私は退屈することがありません。それも家から近いところばかりです。それにしても,こんなに身近な場所にそんな曰く因縁ががあったというのが驚きでした。

☆ミミミ
昨日の月と金星です。ずいぶんと離れてしまいました。
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 このところ,その気もなかったのに,偶然にも行った先行った先がNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」にちなんだ場所で,そのときに岐阜県山県市に大桑城(おおがじょう)というものがあるのを知りました。
 山県市は私がときどき星を見に行く秘密の場所に近く,これまで星を見るのに適当な場所がないかとそのあたりはずいぶんと車で走り回ったことがあるのにも関わらず,そんな場所が存在したことも知らず,びっくりしました。
 しかし,わざわざ行かずとも今度星を見に行く機会があればついでに大桑城に寄ればいいやと思っていたのですが,暇だったので,3月21日の早朝,車でふらっと出かけてみました。

 Google Maps を頼りに,自宅から車でカントリーロードを1時間,到着してみると,へえー,こんなところがあったのかと思いました。
 大桑城への登り口には立派な駐車場がありました。たった1台,先客が停まっていました。駐車場からは南方向に展望が開けていて街灯もなさそうなので,夜になればここから満天の星空が見えるように思えるのですが,私は,この場所がいくら山奥のように思えても,実は南の空は名古屋の灯りの影響で満天の星空など望むべくもないということを経験上知っています。

 駐車場の北側に小高いと思われた丘があって,そこに大桑城の登山口が開いていました。そこからほんの数分も行けば山頂の城に着くだろうと軽い気持ちで登りはじめたのですが,その考えが甘かったことにすぐに気づきました。
 登山道は「麒麟がくる」の観光客目当てらしく急ごしらえで整備されていて,真新しい白いロープがずっと枝に張ってありました。ロープをささえにすれば登るのに苦労はありませんでしたが,山頂まではずっと急坂が続いていて,黒井城に登ったときとまさに同じように,大変な思いをしました。
 30分以上かけてやっと到着した山頂には張りぼてのようなミニチュアのお城がつくられていて,大変がっかりしました。日本人というのは,どこに行っても,どうしてこういうくだらないことをするのでしょう。意味ないです。あと数十年もすれば,こんなものは朽ち果てて廃墟となることなどだれでも容易に想像がつきます。それを維持管理するような予算はないのです。
 日本人がやることの90パーセントはそんなムダなことばかりで,こうして,この国はどこもかしこも汚くなっていくのです。
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 山頂にはおじさんがひとり登っていて,おいしそうにカップヌードルを食べていました。おそらく,彼が駐車場にあった車の主でしょう。話しかけると,この人はこうして近隣のこの程度の山登りを楽しんでいるようで,ここは人気の山だよと言っていました。
 毎晩盛り場で酒を飲む人もあれば,パチンコが生きがいの人もあり,スポーツジムで汗を流す人もあれば,このように孤独を楽しんで自然の中を散策している人もいます。ハイキングや山登りすら群れないとできない人も少なくありませんが,このご時世,こうした孤独な山歩きのような楽しみのほうがずっと健康的です。
 外出をするなとか言っていますが,それは群れるのが好きな人の発想です。彼らの基準で,盛り場で酒を飲むな,群れるなと言っている話であって,ひとりで渓谷で魚釣りをしたり野山をハイキングをするような人の楽しみなど毛頭知らないのです。そもそも,一番群れるのが好きなのは政治家であり,出世願望の強い人たちです。

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 大桑城は,鎌倉時代から戦国時代にかけて,標高408メートルの古城山(金鶏山)の山頂付近にあった山城でした。古城山の山頂付近から400メートルにわたって本丸から曲輪が連なっていたと推定され,現在も曲輪や土塁などの遺構が残っています。また,南麓には越前朝倉氏の一乗谷を参考にした城下町がありました。
 もともとは鎌倉時代の1250年(建長2年)ごろに逸見義重が承久の乱の功績によって大桑郷を領地とし,その子の大桑又三郎が城を築いたのがはじまりとされます。1496年(明応5年)には守護であった土岐成頼の3男土岐定頼が改築し,その後,土岐頼純・頼芸の居城となりました。
 1509年(永正6年)守護代の斎藤氏の台頭によって,土岐氏は拠点を転々と移し,1535年(天文4年)には,大桑城を拠点とし城下町を開きました。1542年(天文11年)に大桑城は斎藤道三に攻められ土岐頼芸は城を出ますが,織田信秀の仲介で和睦します。しかし,5年後の1547年(天文16年)に斎藤道三が再び侵攻すると落城して土岐頼純は討死,土岐頼芸も本巣に逃れ,大桑城は道三によって焼かれました。
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 時は流れ,1988年(昭和63年)に大桑城本丸跡地にミニチュアの大桑城が造られたということですが,それが私が見たチンケな城の模型です。現在,古城山は登山やハイキングを手軽に楽しめるコースとして親しまれているということです。
 帰りは駐車場から来た道と反対側に降りましたが,降りたところにあったのは,私が一度,星見の場所探しで行ったことがある大桑の集落でした。この集落こそが,かつて一乗谷を模した城下町だったところだったのかと,このとき知りました。

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 私はこれまで山登りとはまったく無縁でした。マラソンで長距離を走るのも当然苦手です。近年旧街道歩きをしていたのは単に運動不足の解消のためでしかなく,もっぱら下り専門,旧東海道を江戸から京にすべて歩くなどというストイックなことはしませんでした。
 当然,流行りの富士登山など考えたこともないのですが,その理由は,登山をしたくないということに加えて,人混みが大嫌いということもあります。NHKBSプレミアムでしばしば放送されている日本百名山のような番組を見ていると,苦労して登頂しても,山頂にいるおじさんおばさんたちの人だかりを見て,私はぜったいしたくないという思いがさらに深くなってしまいます。どうして人は群れたがるのでしょう。
 でありながら,若いころは,誘われて穂高を縦走もしてしまいましたし,利尻富士もなりゆきで登ってしまいたし,伯耆大山も登頂しました。今考えても,そうして山に登ったのは自分ではないような気がします。おまけに昨年は,これもまた誘われて,オーストラリアのエアーズロックにも登ったのですが,死ぬ思いをしました。でも,登って本当によかったと思うこのごろです。

 今年は2月下旬ころからの新型コロナウィルスの流行で,海外からの渡航が困難となり,その結果,ここ数年,インバウンド(これは和製英語です)とかであれだけ多くの外国人が押し寄せていたのがまったくいなくなりました。そこで,私が「インバウンドによるオーバーツーリズム」で混雑して行く気を失くしていた日本のさまざまな場所に人影がなくなったので,そのころの私はこれがチャンスだとばばかりに,車でその場所に出かけては,人のほとんどいない自然を楽しんでいました。公共交通機関も使わないし,ガソリン代と高速道路の通行料と,それに,ほとんどお客さんのいないレストランでささやかなものを食べるだけなので,お金も使いませんでした。
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 そんなこんなで,まず,2月下旬に岐阜の金華山に歩いて登ることを考えました。しかし,登るのは大変といわれ,軟弱な私はそれに従ってロープウェイで登り,帰りだけ歩いて下山しました。一度は金華山に歩いて登りたいものだという好奇心は,妥協して下りを選んだだけのことでしたが,それで満たされました。そのとき,山というのは標高が300メートルから500メートルだと登山道は2,000メートルほどあって,歩くと1時間くらいかかるということを学びました。それで山歩きは卒業のつもりでした。 
 ところが,3月のはじめに余部鉄橋を見にいった帰りに,行く予定もなかった黒井城に行き,駐車場から予想以上に遠かった本丸跡まで登ってしまい,私にとっては険しくて死ぬ思い(オーバーな)をしました。このことはすでにブログに書きましたが,もう,こんなことは二度とするまいと決意を新たにしました。しかし,なぜか,それから1週間とたたない3月12日,今度は,昨日放送された「麒麟がくる」で名前が出てきた大桑城(おおがじょう)に登城というか登頂することになってしまいました。
 今日からはそのときのことを書きます。
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 新型コロナウィルスの蔓延で,今や,ここで書くような近くの山に登ることさえしばらくできなくなってしまったのが残念です。

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 愛知県稲沢市祖父江町の名産品は「ぎんなん」です。
 銀杏の樹はご存知イチョウ。
 冬になると,この地域には日本海からの北風が伊吹山を越えて吹いてきます。これを「伊吹おろし」とよんでいます。この伊吹おろしが吹きつけるために,防風林を兼ねて,古くから神社・仏閣・屋敷のまわりにイチョウが植えられてきたのだそうです。現在,イチョウの樹は10,000本以上あって,中には樹齢100年を越えるものも約100本あります。
 そこで,晩秋になると黄金色に染まったイチョウの立ち並んだ素晴らしい風景が一望できるというわけです。

 この時期,「そぶえイチョウ黄葉まつり」が開催されます。
 近年の町おこしブームも手伝って,年々規模が大きくなってきたこのおまつり,村の狭い道路には車が行き交い,無料のシャトルバスが運行されたりして,このときだけは,人があふれます。特に,今年は,11月下旬の3連休天候に恵まれたので,大変な賑わいでした。
 稲沢市祖父江町山崎にある祐専寺(ゆうせんじ)という古寺には,樹齢推定250年のイチョウがあって,山崎地区に植えられる品種の原木とされています。このお寺の周りには,たくさんの屋台が出て,お祭りムードを盛り上げるのも,また,日本の秋らしき風景です。
 私は,地元の日本料理店「とき」で,ぎんなんづくし御膳を味わうのです。

 イチョウは生きている化石ともいわれて,その起源は今から2億5,000万年前の古生代末2畳紀から中生代3畳紀にまでさかのぼり,中生代のジュラ紀から白亜紀にかけて最も繁栄した植物の一種でした。
 新生代に入り,氷河期を迎えて多くの植物とともにイチョウ属の多くもこの時代に絶滅しましたが,比較的暖かかった中国中部地域の物だけが絶滅を免れて,現代に生き残ったと考えられています。現在,イチョウは1科1属1種です。イチョウが日本に渡来した時期ははっきりしないのですが,中国から仏教の伝来とともに導入されたという事が定説となっています。

 ぎんなんの生産を目的とした栽培は祖父江町が最も古いとされていて,次第に大粒種の穂木が広まって,集落全体に普及していきました。
 イチョウの樹には,雄と雌があって,4月中下旬に雄花と雌花が別々の樹に咲き,風で花粉が運ばれて受粉しています。食用を目的に品種の選抜や淘汰が行われ,祖父江町内で栽培されている品種には金兵衛,久寿(きゅうじゅ),栄神(えいしん),藤九郎(とうくろう)などがあります。
 金兵衛は,粒は中粒でやや縦長の果形。貯蔵性が最も優れています。
 久寿は,粒は大粒で丸みのある果形。貯蔵性がやや劣ります。
 栄神は,粒は中粒でやや縦長の果形。貯蔵性に優れています。

 ぎんなんは,「ぎんなん割り器」というペンチのような道具があって,殻にヒビを入れてから紙の封筒に塩適量とともに入れ,封筒の口を折り畳んで電子レンジでチンします。ギンナンの殻がパンパンと弾ける音がしたらレンジを止めて,封筒をシャカシャカ振って塩と馴染ませれば出来上がりです。
 酒の肴として,おいしく頂けます。

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