しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:日本国内 > 奈良

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 十津川温泉に泊まる以外は何の計画もなく,天気予報も雨だったし,何となくあらぎ島と瀞峡へ行けたらいいなあ,と思っていたのに,2日ともよい天気になって,瀞峡での川舟観光までできてしまうという望外な結果に大満足して,これで帰ることにしました。
 はじめは新宮に出て,そこから国道42号線を北上するつもりでしたが,お土産代としてもらった金券3,000円が奈良県内でしか使えないことで,今回は国道168号線を北に,奈良から東名阪道で帰ることにしました。その途中で十津川村観光協会の2階にあるレストランで昼食をとりました。このことはまた次回。

 国道168号線をずっと北上していくと,大塔町あたりが峠となって,天文台もありました。それを過ぎると次第に民家も多くなってきました。そして,五條市に入るあたりから車が増えて交差点は信号機ばかりとなり,渋滞気味になりました。
 やはり私は都会は嫌いです。
 そのまま天理市まで行って東名阪道に入ろうと思っていたのですが,大和三山が見えるようになったころ,昔夢中だった奈良時代以前の日本史への好奇心がよみがえってきました。そこで,せっかく来たのだからどこかに寄ってみようと少し考えて,箸墓古墳と纒向遺跡に寄ることに決めました。
 というわけで,今日は,紀伊半島の旅とはうって変わって,古代史のお話になります。

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 邪馬台国の女王・卑弥呼の墓という説もあり,私がそれを信じている箸墓古墳は,最初の巨大古墳として知られ,第7代孝霊天皇と妃の意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)との間に生まれた皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の大市墓として管理されています。
 箸墓古墳は3世紀はじめごろに出現した当時国内最大の集落跡である纒向遺跡にある全長約276メートルの巨大な前方後円墳です。
  ・・ 
 巻向遺跡の巻向という名前は発掘調査で旧纒向村の多くの大字にそって遺構が確認されたので命名されたものです。本来,巻向というのは,このあたりに宮があったとされる第11代垂仁天皇の「纒向珠城宮」,第12代景行天皇の「纒向日代宮」にちなんで名づけられたものです。纏向遺跡は纒向川の扇状地に広がる東西約2キロメートル,南北約1.5キロメートルの広大な遺跡です。
 纒向遺跡は3世紀はじめに突如として大集落が形成されました。
 農業を営まない集落であることや他地域から運び込まれた土器が多いこと,特殊な掘立柱建物が存在し高床式住居や平地式住居で居住域が構成された可能性があることなどから,日本最初の「都市」の機能を持つ初期ヤマト政権の中心地であった可能性が考えられていましたが,2010年に卑弥呼の宮殿跡との説もある大型建物跡のそばで見つかった祭祀に使ったとされる桃の種が西暦135年から230年の間の卑弥呼の時代であることが判明し,桃は卑弥呼が行った祭祀に使われたものではないかという指摘がされ,そのため,邪馬台国の遺構ではないか,といわれるようになりました。
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 「魏志倭人伝」という魏の国の歴史書に記述されているだけの卑弥呼や邪馬台国。もし,魏志倭人伝がなかったとしたら,これらの古墳や遺跡はどんな解釈がされていたのでしょう。そもそも,その時代に書かれた,しかも他国の様子の記述だけでこれだけの議論がなされているのは,単に学問的な話だけではなくロマンがあるからでしょう。
 歴史学者でもない私は,真実であろうとなかろうとそんなことはどっちでもいいわけで,それよりも,箸墓古墳が卑弥呼の墓で巻向遺跡が邪馬台国だと思ったほうが楽しいので,自分勝手にそうだと固く信じて,想像を膨らませています。
 ということで,この場所に寄ってみたのですが,そんなことを考えているうちに,若いころの興味がもどってきました。涼しい季節になったら,この地を目的に,また,来てみたいなあと思いました。

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 大阪市美術館で開催されている「ドレスデン国立古典絵画館所蔵フェルメールと17世紀オランダ絵画展」を見にいくついでに,2022年7月21日から7月22日,1泊2日で大阪と奈良へ旅行しました。
 まず,自宅から車で直接大阪に行って,天王寺の適当なところに車を停めて大阪市美術館に行き,せっかくだから,帰りはどこか適当なところに1泊して帰ってこようという計画でした。

 現在,県民割とかブロック割とかで結構な補助が出るので,ずいぶんと安価に宿泊ができます。先月行った木曽駒高原でもその恩恵にあやかりました。
 そこで,もともと都会や人混みは大嫌いな私は,今回もまた,どこかのどかなところはないかと探しました。はじめは和歌山県のどこかと思ったのですが,残念ながら,和歌山県は,愛知県に住む人はブロック割の対象外でした。次に探したのは滋賀県や京都府だったのですが,いずれも対象外でした。
 あきらめかけていたのですが,なんと奈良県はブロックなどというケチなことはいわず,割引は全国対象でした。そこで奈良県に1泊することにしました。さすがわが愛する奈良県です。奈良県は,全国の旅行者を対象に,宿泊代から5,000円,さらにお土産代として3,000円分の補助が出るのです。
 次に,奈良県のどこにするか,だったのですが,昨年の冬に今回と同様大阪市美術館に行ったとき,帰りに紀伊半島を半周した,そのときに立ち寄った十津川温泉を思い出して,そこへ行くことにしました。
 私がイメージしたのは,数年前に行った岩手県花巻の台温泉で宿泊した家族経営の小さな温泉宿。そういところに平日に行くなら,ほかに宿泊客もほとんどいないだろうから,温泉は独占できるし,豪華な食事は部屋で食べることができるだろうと思いました。そして楽天トラベルで見つけたのは平谷荘というところでした。

 さて,準備ができたのでいよいよ出発です。途中どこに寄るかは行きながら決めることにしました。5月に山形に行ったときもそうだったのですが,事前に決めておいてもうまくいけるかどうかわからないし,そもそも,いろいろ調べるのが面倒だったからです。
 しかし,行ってみてわかったのは,もともと観光客が少ないところなので,事前の予約がないと利用できない施設などがあったということでした。しかし,それは止むを得ません。まあ,またいつか行くこともできるだろうから,そういうところはその次の機会でいいや,と思いました。ところが,これがまた,望外な結果を生んだのです。このことはまた後日。

 「ドレスデン国立古典絵画館所蔵フェルメールと17世紀オランダ絵画展」のことはすでに書いたので,今日は,その前に時間つぶしに寄ってみた四天王寺と竹本義太夫の写真を紹介します。
 私は,東京や京都はほとんどのところに行ったことがあるのですが,大阪は意外なほど知りません。四天王寺も行ったことがないので,寄ってみたわけです。
 入口で石鳥居が迎えてくれました。これは,鎌倉時代の1294年(永仁2年)に四天王寺の別当となった忍性が再建したもので,現存する最古の石造鳥居だそうです。
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 四天王寺は「和宗」の総本山の寺院で,山号は荒陵山,本尊は救世観音です。「和宗」というのは,聖徳太子の「十七条の憲法」の第1条「和をもって貴しとなす」からとったもので,特定の宗派に分かれる以前の仏教の伝統を今も守り続けているというものだそうです。
 「日本書紀」によれば,四天王寺は,聖徳太子によって,593年(推古天皇元年)に造立が開始されたといいます。蘇我馬子の法興寺と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものです。
  587年(用明天皇2年),崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生しました。厩戸皇子は蘇我氏の軍の後方にいましたが,白膠木という木を伐って四天王の像を作り,「もしこの戦に勝利したなら必ずや四天王を安置する寺塔を建てる」という誓願をしました。
 その甲斐あって,味方の矢が敵の物部守屋に命中し,蘇我氏の勝利に終わりました。その6年後,聖徳太子は摂津難波の荒陵で四天王寺の建立に取りかかりました。寺の基盤は物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたといいます。
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  聖徳太子の草創を伝える寺は四天王寺と法隆寺のみです。とはいえ,法隆寺が飛鳥時代・奈良時代にさかのぼる建築や美術工芸品を多数残すのに対して,四天王寺は,早くも平安時代の836年(承和3年)には落雷で五重塔が破損し,960年(天徳4年)には火災によって全山焼失してしまうなど,度重なる災害のために古い建物はことごとく失われてしまいました。現存の中心伽藍は1957年(昭和32年)から再建にかかり,1963年(昭和38年)に完成したもので,五重塔はこれで8代目となり,鉄筋コンクリート造りです。
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 四天王寺から大阪市美術館に戻る途中で見つけたのが超願寺にあった竹本義太夫の墓でした。
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 竹本義太夫は1651年(慶安4年)に生まれ1714年(正徳4年)に亡くなった義太夫節浄瑠璃の創始者です。近松門左衛門の「出世景清」「曽根崎心中」を独特の節回しで語って大当たりをとったことで,以降,浄瑠璃を義太夫節というようになりました。
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 私は竹本義太夫の名前を知っているだけで,浄瑠璃はまったくわかりません。


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 「源氏物語絵巻」「鳥獣人物戯画」「伴大納言絵詞」と並ぶ4大絵巻物のひとつとされる国宝・信貴山縁起絵巻は,平安時代末期の絵巻物です。私は,日本史の教科書に載っていてその名を知っていたので,一度は見たいものだと思っていました。しかし,奈良に何度訪れても,なかなか信貴山まで行く機会がありませんでした。それは,数年前についに行くことができた京都と大阪の中間にある岩清水八幡宮や生駒山の宝山寺もまた同様でした。こんなことをしていては,ずっと見る機会がないと思って,今回,訪れることにしました。
 しかし,いつものように,いい加減な私は,この絵巻は,信貴山に行けばいつでも見れらるものだと思っていたのだから,お気楽なことです。確かに信貴山縁起絵巻は信貴山朝護孫子寺が所蔵しているのですが,ホンモノは奈良国立博物館に寄託されていて,朝護孫子寺の霊宝館では複製が展示されているのです。
 なのですが…
 いつも強運の私は,今回もまた,現在朝護孫子寺の霊宝館では特別展が行われていて,ホンモノの信貴山縁起絵巻から「尼公の巻」を見ることができたのです。
 こうして期せずしてホンモノに出会った私は,すっかりこの絵巻に魅せられてしまったのです。絵巻に書かれている人物はとても上手で,その姿から当時の人々の暮らし向きがよくわかり,時間を忘れて見入ってしまいました。私は今回見るまで,信貴山縁起絵巻という名前を知っていただけだったのですが,これを機会として,絵巻物にとても興味がわきました。

 信貴山縁起絵巻は平安時代後期の12世紀頃にかかれたとされます。信貴山の中興である命蓮法師を主人公とした霊験譚で,絵巻は「山崎長者の巻」「延喜加持の巻」「尼公の巻」の3巻からなっています。
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 「山崎長者の巻」は,命蓮法師が神通力を行使して山崎の長者のもとに托鉢に使用する鉢を飛ばしたところ,その鉢に校倉造りの倉が乗って倉ごと信貴山にいる命蓮法師の所まで飛んできたという奇跡譚です。
 今は昔,信濃国に命蓮法師がいました。奈良の東大寺で受戒をしたのち,「故郷へ帰るよりもこのあたりで仏道に励みながらゆったりと暮らせる場所はないものだろうか」とあたりを見回すと,未申の方角にはるかに霞んで見える信貴山があったので,その山に毘沙門天を祀る堂を建て修行に励みました。
 命蓮法師は法力で鉢を麓の長者の家へ飛ばしその鉢に食べ物などを乗せてもらっていました。ある日,鉢をいつものように長者の家へ飛ばしたところ,長者は「いまいましい鉢よ」と言って鉢に食べ物を入れることもなく倉の隅に放っておきました。長者は鉢のことを忘れて倉の鍵をかけてしまいましたが,やがて,倉がゆさゆさと揺れ始めたかと思うと地面から一尺ほども浮き上がり,倉の扉がひとりでに開き,鉢は浮き上がった倉を上に乗せると山のかなたへ飛び去って,命蓮法師の住房の脇に落ちました。
 長者は命蓮法師に面会し,「鉢を倉の中に置き忘れたまま鍵をしてしまったところ倉がこちらへ飛んできてしまったのです。なんとかこの倉を返していただけませんか」と相談したところ,命蓮法師は「飛んで来た倉はお返しできかねるが,倉の中味はそっくりお返ししましょう」とこたえました。長者が「一千石もある米をどうやって運べばよいのでしょう」と問うと,命蓮法師は「まず米一俵を鉢の上に置きなさい」と言いました。すると一俵を載せた鉢が飛び立ち,残った米俵も続いて次々と舞い上がり長者の家に落ちたのでした。
 空飛ぶ倉を人呼んで「飛倉」といいます。
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 「延喜加持の巻」では,命蓮法師の加持祈祷の力で病いが平癒した醍醐天皇の使者が命蓮法師に対面し,僧位や荘園を与えようと言いますが,命蓮法師はそれを固辞します。
 都では醍醐天皇が重い病に苦しんでいましたが,さまざまの祈祷や修法,読経をしても全く効き目がありません。ある者が「信貴山に住む命蓮法師を召して祈祷させれば帝の病も癒えることでありましょう。」と言うので,ならばということで,帝の使者の蔵人が信貴山へ行き命蓮法師に面会しましたが,命蓮法師は山を下りず,信貴山に居ながらにして祈祷するとこたえました。「それでは帝の病が癒えたとて,それが貴僧の祈りの効き目であるとどうやってわかるのか」と蔵人が問うと「帝の病が癒えた時には「剣の護法」という童子を遣わしましょう。剣を編み綴って衣のようにまとった童子です」とこたえました。
 それから3日ほど経て,帝が夢うつつでまどろんでいると,きらりと光るものがやってきました。これが法師の言っていた「剣の護法」でした。帝の病はすっかり癒え,帝は「感謝のために僧都,僧正の位を与え,荘園を寄進したい」との帝の意向を伝えるために信貴山へ使いを走らせたのですが,命蓮法師は「僧都,僧正の位などは拙僧には無用です。また,荘園などを得ると管理人を置かねばならず仏罰にあたりかねない」と言って,それを固辞しました。
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 「尼公の巻」では,信濃国から姉の尼公が信貴山まで命蓮法師を訪ねてやって来ます。
 信濃国に命蓮法師の姉の尼公がいました。東大寺で受戒すると言って出て行ったきり戻ってこない命蓮法師に一目会いたいものよと思った尼公は,奈良をめざして旅に出ました。道行く人に命蓮法師の消息を尋ねるのですが,知っている人もいないので,東大寺大仏の前で「なんとかして弟の命蓮法師の居所がわからないものか」と一夜祈り続けました。すると,夢に「未申の方に紫の雲のたなびく山がある。そこを訪ねてみよ。」という声が聞こえました。目覚めて未申の方をみると,紫の雲のたなびく山がはるかに霞んで見えるではありませんか。
 尼公は信貴山に着き「ここに命蓮はおるか」と声をかけると,堂から命蓮法師が顔を出します。「どうしてここを尋ねあてたのか」と問う命蓮法師に,尼公はみやげに持ってきた衲という衣料を渡します。今まで紙衣一枚で寒い思いをしていた命蓮法師は喜んでこの衲を着ました。その後,姉の尼公も信濃へは帰らず,命蓮法師とともに仏に仕える生活を送りました。
 衲は命蓮法師がずっと着ていたためにぼろぼろになって,倉に納められていました。人々はその衲の切れ端を争って求め,お守りにしたのでした。飛倉も時が経って朽ちてしまいましたが,朽ちた倉の木片をお守りにしたり,毘沙門天の像を刻んで念持仏にした人は皆金持ちになったといいます。朝夕参詣者でにぎわう信貴山の毘沙門天はこの命蓮法師が修行して感得した仏です。
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 こうして調べていくと,さらにこの絵巻のおもしろさがわかって,また,ゆっくりとホンモノをすべて見てみたいと思うようになってきました。こうして,私は,いつも,ますますやりたいことしたいことが増えてきてしまうのです。

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 私が奈良でもっとも好きな散歩道は,唐招提寺から薬師寺にかけての界隈と,新薬師寺界隈です。唐招提寺から薬師寺にかけての界隈は,発展? しすぎて,以前のような素朴さがなくなってしまいました。しかし,新薬師寺界隈は,今もなお,以前と同じ静けさと上品さを残しています。
 私は,学生のころから,新薬師寺という名前を不思議に思っていました。
 同じことを思っている人が多いらしく,薬師寺と新薬師寺の違いといったブログも探せばたくさん出てきます。新薬師寺の「新」というのは「新しい」ということでなく,「あらたか」という意味で,新薬師寺が薬師寺のVer.2ということではありません。「薬師寺」は,飛鳥にあった「元薬師寺」のVer.2ですが,「新薬師寺」とはつながりがありません。

 新薬師寺の創建は747年の天平時代で,聖武天皇の眼病平癒を祈願して建てられたといわれています。
 創建当時の新薬師寺は南都十大寺の一つとして繁栄し,その伽藍は壮大であったといわれています。ふたつの塔や金堂などが存在しました。奈良時代以降は次第に衰退し,災害などで多くの建造物が失われました。現在の本堂は奈良時代のものですが,もともとの本堂でなく,残った建物を本堂としている状態です。そこで,今は寺としては規模も小さく,伽藍としてはほかになにもないのですが,その小さなお寺は美しい境内が心休まります。なかでも,その圧倒的な存在が,本堂内部にある本尊薬師如来坐像とそれを取り囲み守護する十二神将像です。暗がりの中にみせるその圧倒的威容に見とれると,時間を忘れてしまいます。この十二神将像は,現在の高円山周辺にあったとされる岩淵寺にその由来を持つともいわれているそうです。
 私がこれまでに見て感動した仏像がふたつ。それは京都広隆寺の弥勒菩薩像とかつて京都勝持寺にあって現在は勝持寺のとなりの願徳寺にある如意輪観音像ですが,ここの薬師如来坐像と十二神将像もまた,それと同じくするものでした。

 この大好きな界隈は東大寺から南に歩いて行くとあります。
 人だらけでごった返す奈良公園を過ぎると,急に静寂が訪れます。数年前,この雰囲気を味わおうと行ってみたのですが,あいにく,新薬師寺は改修工事で入ることができませんでした。今回は,それも終わり,昔の面影が戻っていました。
 この辺りでいいことは,しゃれたカフェがあることです。
 特に平日の午後,時間を忘れて,このあたりを散策し,カフェでゆったりと時間を過ごすのは格別です。そんな場所がいつまでもそのままであってほしいと願うばかりです。
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 春日山から飛火野辺り
 ゆらゆらと影ばかり泥む夕暮れ
 馬酔木の森の馬酔木に
 たずねたずねた帰り道
    さだまさし「まほろば」

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Thank you for coming 280,000+ blog visitors.

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 興福寺の広い境内は,ここの駐車場に停めた観光バスから降りてきた団体客でにぎわっています。しかし,その多くは東大寺の方向に向かって歩いて行くので,思ったほどの混雑ではありません。
 興福寺には五重塔と三重の塔のふたつの塔があります。知らない人も多いのですが,塔というのは本来は仏舎利をおさめるためのものですが,実際は,それに倣った別のものがそのの代わりをしています。

 興福寺の五重塔の初代は730年(天平2年)に興福寺の創建者である藤原不比等の娘光明皇后が建てたもので,その後5回の被災・再建を経て,現在建っているのは1426年(応永33年)というから室町時代に再建されたものです。高さは約50メートルで,初層の四方に創建当初の伝統を受け継ぐ薬師三尊像,釈迦三尊像,阿弥陀三尊像,弥勒三尊像が安置されています。

 一方,三重塔は1143年(康治2年)に崇徳天皇の中宮が創建したのですが,1180年(治承4年)に被災,その後間もなく再建されたもので,北円堂とともに興福寺最古の建物です。高さは約20メートルあって,初層内部の四天柱をX状に結ぶ板の東に薬師如来像,南に釈迦如来像,西に阿弥陀如来像,北に弥勒如来像が各千体,さらに四天柱や長押,外陣の柱や扉,板壁にも,宝相華文や楼閣,仏や菩薩など浄土の景色,あるいは人物などが描かれているのですが,通常は閉じられて見ることができません。ところが,この日,なんとその扉が開かれていて,私はそれを見ることができました。扉が開いていたのはどういう理由なのかはわかりませんが,とても幸運なことでした。
 しかし,そんなことはお構いなくオーストラリアから来たという夫婦と地元に住むという女性がいただけで,ほとんど見にきている人はいなかったので,それを承知の人もいないように思われました。地元に住んでいるという女性も,いつも閉じられているのに珍しいですね,どうして開いているのでしょう,と言っていました。夕刻に再び行ってみたときには閉じられていたので,やはり,かなり運がよかったのかもしれません。

 元来,日本における塔は,法起寺のそれのように,屋根が大きく,そして傾斜が緩やかだったのですが,それでは雨が掃けないということで,再建されるたびに屋根が小さく傾斜がきつくされていったようです。興福寺の五重塔も三重塔も新しいので,法起寺とはまったく異なる形をしています。
 そのことがよくわかるのが薬師寺の東塔と西塔です。興味深いのは,古いほうの東塔が屋根の傾斜がきつい再建されたものであるのに対して,近年再建された新しい西塔のほうが,初代のものを模したためにむしろ古い形に作られていることです。薬師寺に行って比べてみるのも一興ですが,現在,東塔は改修工事中で見られないと思います。

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 法輪寺は三井寺ともよばれる聖徳宗の寺で,法隆寺東院の北方に位置します。
 創建は,「聖徳太子伝私記」では,聖徳太子の子である山背大兄王が太子の病気平癒を祈るため,622年(推古天皇30年)に建てたとし,「上宮聖徳太子伝補闕記」および「聖徳太子伝暦」では,創建法隆寺の焼失後に百済の開法師,円明法師,下氷新物の3人が建てたとする,ふたつの説があります。いずれにせよ,発掘調査で,焼失後再建された現在の法隆寺の伽藍に近い瓦と,それよ古い瓦とが出土していることから,創建は飛鳥時代末期の7世紀中頃までさかのぼると考えられています。
 1367年(貞治6年)に炎上,また,1645年(正保2年)には台風に罹災し,三重塔を除く建造物が倒壊しました。その後,伽藍の復興が行われ,さらに,1760年(宝暦10年)には,三重塔が修復されました。しかし,1944年(昭和19年)に三重塔は落雷により焼失してしまいました。焼失した塔は,法隆寺,法起寺の塔とともに「斑鳩三塔」とよばれた貴重な建造物でした。
 現在の三重塔は,幸田文の尽力で寄金を集め,1975年(昭和50年)に西岡常一棟梁により再建されたものです。「五重塔」の作者である幸田露伴の娘幸田文は,1904年(明治37年)に生まれ1990年(平成2年)に亡くなった随筆家ですが,1965年(昭和40年)の夏,法輪寺井上慶覚住職から焼失した三重塔の再建について話を聞いたことをきっかけに,自らも奈良に移り住み,三重塔の再建に尽力しました。

 奈良の古寺を歩くと,私は和辻哲郎が20代の1918年(大正7年)に書いた「古寺巡礼」を思い出します。和辻哲郎は,1889年(明治22年)に生まれ1960年(昭和35年)に亡くなった哲学者です。法輪寺に関する記述は,この「古寺巡礼」とともに,「四十年前のエキスカージョン」にも見つけることができます。
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「古寺巡礼」
 中宮寺を出てから法輪寺へまわった。途中ののどかな農村の様子や,蓴菜の花の咲いた池や,小山の多いやさしい景色など,非常によかった。法輪寺の古塔,眼の大きい仏像なども美しかった。荒廃した境内の風情もおもしろかった。鐘楼には納屋がわりに藁が積んであり,本堂のうしろの木陰にはむしろを敷いて機はたが出してあった。
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「四十年前のエキスカージョン」
 幸いにそのあとわたくしたちは,法隆寺の裏山の麓を北へ歩き出したのである。いかにも古そうな池や,古墳らしい丘などの間を北へ七八町行くと,法輪寺がある。法輪寺の観音は奈良の博物館に古くから出ているが,それとよく似た本尊のある寺である。その法輪寺から東へ七八町,細い道をたどって行くと,法起寺がある。古い三重の塔がある。
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 法輪寺の荒廃ぶりを愛でていた和辻哲郎は焼失前の三重塔を見ていたわけです。

 法輪寺と法起寺はほんの500メートルほどしか離れていないので,法起寺から法輪寺の三重塔が見えるかのように思えますが,林などの陰に入ってしまって歩いている道から見ることはできません。しかし,稲刈りの終わった田園風景はとてものどかで,さらに,この夏の酷暑で咲くのが遅れたコスモスがまだ満開で,それがこの日の快晴の空に映えてとても美しく,私は,忘れていた奈良への想いがまたよみがえってきました。

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 私が今回奈良に行って,とてもうれしかったのは,私が思い続けていた奈良が今もあったことでした。オーバーツーリズムで日本もまたどこも観光客であふれ,そこには,ただ有名だから来たといった無知な人がそれまでの情緒を踏みにじってしまっている場所も少なくありません。私が,京都や奈良,高山といった場所から遠ざかってしまったのは,それが原因でした。しかし,実際に行ってみると,奈良にはまだ多くのそうしたオーバーツーリズムに毒されていない場所が残っていたのです。
 そうしたなかでも,私がずっとイメージしていたのは,秋の法起寺あたりの風景。昔はじめて出かけて以来,虜になっていました。幸い,この日は天気もよく,しかも11月というのに暖かく,周りにはコスモスが咲き乱れていて,私が思い続けていたその姿を見ることができました。

 「斑鳩三塔」といって,奈良斑鳩の地には飛鳥時代から奈良時代以前に建立された法隆寺の五重塔,法起寺と法輪寺の三重塔があります。最も古く,かつ,規模が大きい法隆寺の五重塔はあまりに有名ですが,私はそれよりも,法起寺と法輪寺の三重塔がすきです。しかし,法輪寺の三重塔は落雷のために焼け落ち,1975年(昭和50年)に再建したものです。
 法起寺の三重塔は706年(慶雲3年)頃に完成したもので,高さ24メートル,三重塔としては日本最古のものです。この塔は江戸時代の延宝年間(1673年から1681年)の修理で大きく改造されていまっていましたが,1970年から1975年の解体修理の際に,部材に残る痕跡を元に創建当時の形に復元したものです。

 斑鳩の地に行くと思い出すのが,深代惇郎さんのことです。深代惇郎さんは1929年(昭和4年)に生まれ1975年(昭和50年)に46歳で急性骨髄性白血病で急逝した朝日新聞の記者です。1973年から1975年に入院するまで「天声人語」の執筆を担当していました。深代惇郎さんが書いた最後の天声人語は,「かぜで寝床にふせりながら,上原和著「斑鳩の白い道のうえに」という本を読んだ。・・・いつかもう一度、法隆寺を訪ねてみたい」と結ばれていて,これが絶筆となりました。
 「斑鳩の白い道のうえに-聖徳太子論-」というのは,美術史家で成玉虫厨子研究をライフワークとした上原和さんの著作です。斑鳩の白い道のうえを黒駒を駆って戦さに赴く聖徳太子の姿から,若き日の多感な太子の「血塗られし手」の経験こそ彼の人生の原点とみて,同時に法隆寺創建や勝鬘経講経など深く仏教に帰依した姿を玉虫厨子に描かれてある「捨身飼虎」図と重ね合わせ,そこにまぎれもない捨身の思想を見出すという,歴史の転換期を生きた一人の古代知識人・聖徳太子の華麗にして哀切な運命を描いた本です。
 日本を旅するというのは,今の姿からこうした歴史を思い浮かべることなのです。

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 毎年出かけていたように思っていたのですが,3年ぶりの正倉院展だったようです。
 正倉院展,混雑しすぎです。人の頭を見にいくようなものなので,私はあまり気乗りがしません。毎年同じように展示がしてあるのですが,もっと展示法を工夫して,ゆっくりと見ることができるように改良すればいいのにといつも思います。
 しかし,ついでに奈良のさまざまなところにいくことができることと,秋というもっとさわやかな時期だということが後押しします。
 奈良というのは混雑するのが奈良公園周辺だけだということを考えてみても,この地を訪れる人の多くは,さほど歴史など興味がないのでしょう。おそらくは,正倉院展もまた,それほど興味もない人が,やれ〇〇ブームだとかいうとワーッとそれに群がる人たちが支えているのでしょう。
 地元の人に聞いてみると,平日の夕方に行くと比較的空いているということだったので,今年は11月5日,連休後の平日の午後3時くらいに行ってみました。待ち時間はほとんどなく,これならいいか,と思いました。展示品に対する説明会も聞くことができました。

 正倉院に保存されているもので,有名なものというのは,それほど多いものではありません。有名なものというのは,学校の歴史の教科書で見たことがあるものとか,さまざまな形でどこかで聞いたことがあるもののことです。毎年,そのうちのひとつかふたつをその年の目玉商品? として小出しにして展示しているわけです。おそらく,10年も通えば,そのほとんどは見ることができることでしょう。
 ここで,そうした有名なものを書いておくことにします。
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●「瑠璃の坏」
 22個のガラスの輪の装飾が施されたペルシャ・ササン朝からもたらされた宝物。
●「白瑠璃碗」
 円形の文様が約80個あり,隙間なく敷き詰められたデザインをしているガラス細工。
●「漆胡瓶」
 水瓶。
●「螺鈿紫檀五絃琵琶」
 制作された中国にも現存していない正倉院だけに現存している琵琶。
●「金銀平脱背八角鏡」
 中国の工芸技術が惜しみなく注ぎ込まれた鏡。
●「平螺鈿背円鏡」
●「金銀花盤」
 東大寺の重要な法要で使用されていた皿。
●「紫檀木画槽琵琶」
 正倉院を代表する琵琶。
●「桑木木画碁局」
 碁盤。
●「蘭奢待」
 香木。
  ・・・・・・
 このように並べてみると,そのほとんどを私は正倉院展ですでに見たことがあります。このなかで今年展示されているのは「金銀花盤」です。

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 2019年もやっと秋の気配が感じられるようになった11月4日と5日,1泊で奈良に行ってきました。奈良に行くのは3年ぶりのことでした。
 私はこのところの「オーバーツーリズム」とやらで観光客が多すぎてすっかり嫌気がさし,京都や奈良に出かけるのは敬遠していたのですが,奈良は奈良公園から外れるとそれほどでもないよ,という周囲の言葉を信じて,出かけることにしました。いざ,出かけるときになって,すっかり忘れていたのですが,ちょうど正倉院展をやっている時期だと思い出して,合わせて,それも予定に加えることにしました。
 結果として,やはり奈良は奈良公園から少し外れると,ほとんど観光客がいなくなって,昔の奈良のままでした。これなら毎年この時期に来てもいいかなと思い直しました。私は昔から秋の奈良が好きでしたが,行くときはほぼ毎回日帰りで,しかも,いつも車でした。しかし,私は,車でなく近鉄を使って,しかも,1泊するのがずっと夢でした。ということで,今回はその夢を実現するために,往復近鉄を利用し1泊することにしました。幸い,天気にも恵まれて,最高の奈良の旅となりました。
 そこで,今回から,思いつくまま,この旅をふりかえってみることにします。

 私が今回行きたかったのは,信貴山や斑鳩の里です。斑鳩もまた,法隆寺ではなく,法起寺や法華寺でした。さらに,新薬師寺やささやきの小径といった,私の大好きな場所でした。そして,それ以外には,奈良県庁の最上階から奈良を一望したいと思いました。何度出かけても,そうすることを忘れてしまっていたからです。
 奈良というのは京都と違って,どこも行くのも,結構離れていて不便なのです。それもあって人が少ないともいえます。私は歩くのは苦でないし,むしろ好ましいのです。 
 今日はまず,奈良県庁最上階から見た奈良の姿をご覧ください。
 私の好きな歌に,
  ・・・・・・
 やまとはくにのまほろば たたなづく青がき山ごもれる やまとしうるはし
  ・・
 大和の国は国々の中で最も優れた国だ。重なり合って青々とした垣のように国を囲む山々…。その山々に囲まれた大和はほんとうに美しい。
 Yamato(=Nara) is the best place in Japan. Yamato surrounded the mountains like the blue fences overlapped with green trees is really really beautiful.
  ・・・・・・
があります。この歌は「古事記」には倭建命の歌として,そしてまた,「日本書紀」には大足彦忍代別天皇(景行天皇)の歌として,
  ・・・・・・
 夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
 夜麻苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜麻許莽例屡 夜麻苔之于屡破試
  ・・・・・・
として記されているものです。
 快晴の空の下,奈良の昔の姿を思い浮かべると,古人にとって,やまとはほんとうにうつくしかったんだろうなあ,と思いました。

 奈良のよいところは,観光化されていなくて自然が残っている,貸自転車で古墳や遺跡をまわれるのがよい,といったことが書かれてありました。反対に至らないところは,回るのに時間がかかる,店が閉まるのが早い,ということだそうです。どちらにせよ,ここに書かれているのは端的にいうと「奈良は京都に比べれば田舎」ということに尽きるわけで,それを長所ととるか短所ととるか,という話でしょう。つまり,何の目的で観光するのか,というひとそれぞれの問題なわけです。
 ただし,奈良といっても様々で,奈良市を奈良と思っている人もいるし,昔私の好きだった西大寺の駅から南に唐招提寺と薬師寺に行くあたりを奈良と思うのなら,まったく別の感想になりそうです。また,甘樫丘のあたりは奈良としては格別なところですが,そこはもう観光地というよりも歴史好きの散策コースです。いずれにしても,奈良の魅力もまた「旅はこころでするもの」という感じで,歴史を知らねばただの小川やらため池としか思えない場所がそれを知っていると燦然と輝いていたりするのです。

 つまり,日本であれ海外であれ,「旅=グルメ,ショッピング」と考える人は奈良に行こうと京都に行こうと,あるいはハワイに行こうと,結局のところ食べ物がおいしいお店や「か~わいい~」~を連発する女性が好きそうな土産物さんがあるかどうかというのが判断の基準だし,それは私の考える旅とは別の人種です。
 したがって,観光地としての奈良をこの先,どのように開発するか,あるいは保存するか,というのが難しい問題でしょう。私個人としてはあまり観光地化してほしくないのですが,何でもお金を儲けれればいい,というせこい日本人は保全などど~でもよくて人が来てお金を落としてくれればそれでいいわけす。

 ところで,奈良と京都と比べたとき,「奈良は仏像,京都は庭園」とか,「奈良の寺は地,京都の寺は畳」とか,「奈良は心のふるさと,京都は憧れの街」という印象だそうです。
 いずれにせよ,奈良があって京都がある,平城京が平安京に遷都されたおかげで,奈良時代以前の日本の姿が残ったと考えると,平安京に遷都した桓武天皇に感謝しなくてはならないのかもしれません。

◇◇◇
奈良か京都か?①-日本の旅はこころでするもの
奈良か京都か?②-京都の好きなことと嫌いなこととは?

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 12月16日の朝日新聞のBe版に「奈良と京都,訪れたいのはどっち?」という記事があって,結果は奈良が39%で京都が61%でした。奈良も京都もガイドブックに載っている見どころはすべて行ったことがある私としてもこれには書きたいことが山ほどあるので,思いつくままに書いてみたいと思います。

 私は,どちらといわれると文句なく奈良と答えます。しかし,名古屋近郊に住む私としては,奈良は非常に遠いのが最大の難点です。距離的には遠くないのですが,交通がとても不便なのです。ずっと以前,名古屋からはJRの急行が奈良駅まであって,これは便利で,日帰り旅行ができました。今,鉄道で行くとなると,新幹線を使って京都を経由していくか,あるいは,近鉄で行くかということになるのですが,近鉄は奈良市まで行くにはぐるりと遠回りする必要があるのです。
 車は名阪国道というのがあるのですが,この道路は高速道路でもなく,一般国道でもない,という非常に中途半端な道で,おそらく,もっと後で作られていたのなら,いまよりもずっと走りやすいように建設できたと思うのですが,いまさらどうにかなるものでもなく,しかも,この道路,制限速度などあってないようなもので,無法地帯なのです。特にトラックが危険です。というわけで,鉄道にしても車にしても,行くのが楽しくないのです。

 新聞の記事には,さらに「訪れたい観光名所は?」というのがあって,有名なお寺が羅列されていました。確かに奈良や京都に出かける観光客のお目当てはそうした場所なのでしょうが,私としては,もちろん,そうした場所も見どころにはちがいないのですが,それよりも,その土地の町を歩いたり,地元の人が行くような食事処などで時間を費やすことのほうに魅力を感じます。そうしたとき,記事にもあったように,このごろの京都はあまりに観光客が多すぎて,これではまったく旅情がなくなってしまいました。
 日本の旅はこころでするもの,とは,私がいつも書いていることですが,そう考えると,「万葉集」や「日本書紀」をこころに描いて奈良の普通の町を散策することこそ,最も落ち着く旅になると,これは私がずっと思っていることなのです。

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 唐招提寺から平城京跡まではバスで3区。寺の前のバス停にちょうどバスが来たので,歩く計画を変更してバスに乗りました。

 子供のころ学校で習った日本の歴史で出てきた史跡,弥生時代の登呂遺跡,聖徳太子の法隆寺,平城京,平安京… は,それを知って以来,そのどこへも一度は行ってみたと思っていたのですが,その後何十年も経つと,様々な研究がすすみ,発掘も行われて,ずいぶんと変化しました。
 私は,平城京とか,織田信長の作った安土城とか,そういう巨大な建築物が,わずか数年~数十年の間に完成したとはとても思えません。もし,その時代に行けたとすれば,現在のわれわれが復元したようなものは,作りかけだったり不完全なものだったりしたに違いがないと思うのです。しかしそれにしても,その時代の遺構がさまざなま形で現在もなお存在することに,不思議な気がします。

 今は京都の市街地となってしまった平安京とは違い,平城京の中心地はその後も市街地とならなかったために,発掘調査をしたり,復元したりして,再び姿を見せようとしています。
 ただし,現在の京都御所を平安京の時代の大極殿と思っている人もいるかもしれませんが,それは大間違いです。その時代の中心は現在の千本通りです。
 私は大学生のときに平城京跡をはじめて見て,敷地のまんなかを近鉄が横切っていることも驚きだったし,広大な平城京跡が,今もその時代の面影を残していることにも驚きました。

 その後,整備がすすみ,朱雀門や大極殿が復元されたということで,私はそれらを見たときは感動しました。
 以前,九州の吉野ケ里遺跡に行ったときにも同じことを思いましたが,国の予算が入ると,これほど大規模な整備ができるのですね。しかし,こうした国の歴史の根幹をなすものにはもっと多額の予算を講じてもいいのに,と私は思います。
 平城京は奈良時代の日本の首都だったのですが,中央の朱雀大路を軸として右京と左京に分かれていたのですが,さらに左京の傾斜地に外京が設けられていたのが平安京と違うところで,そのため左右対称でなく,子どものころはそれがずっと奇妙でした。しかし,外京にある東大寺へ行って平城京という地をその高台から見下ろす形で見たときに,その場所に外京を作る必要があった理由がわかったような気がしました。
 平城京は東西は一条から十条の大路,南北には朱雀大路と左京一坊から四坊,右京一坊から四坊の大通りが設置されていてそれぞれの大通りの間隔はなんと500メートル以上,大通りで囲まれた坊とよばれる場所は堀と築地によって区画され,さらにその中を東西・南北に3つの道で区切って町としていました。その区域は東西が約4.3キロメートル,外京を含めると6.3キロメートル,南北が約4.7キロメートルにも及ぶものでした。
 その大路を,役人が中国語を話しながら歩いていたと,大学の日本史で習いました。

 内裏は朱雀大路の北端に位置し,そこに朱雀門が設置されていました。朱雀門の北には大極殿があって,このふたつの建物が復元されているのですが,その広さは歩いてみると実感します。
 仮想敵国中国に対抗するには,これくらいの「見栄」が必要だったのでしょう。
 平城宮の東の張り出し部分には奈良時代の東院庭園が発見されましたが,それは東西70メートル,南北100メートルにもわたるもので,そこには池を掘り橋をかけ建物を建てていたということです。
 また,唐招提寺の講堂は平城宮朝堂院にあった建物のひとつである東朝集殿を移築したものであり,平城宮唯一の建築遺構としても貴重なものとされています。

 現在,文化庁による「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想」に基づいて遺跡の整備と建造物の復元が進めています。そこで,この地を広く知らせる意味で,毎年平城京天平祭が開催されています。
 2006年にはそれまで朱雀門の南側だけを会場としていたものを「平城宮跡院地区」に移すことになりました。
 私が行ったときは,ちょうどこの年の平城京平安祭の時期であり,会場では,衛士隊の再現やらオリジナル劇「阿倍仲麻呂伝 ・天空の月」をやっていました。天平衣装体験という企画もやっていて,その企画で衣装を来た人たちがこの劇を見ていたのが,面白い風景となっていました。
 劇は,阿倍仲麻呂や吉備真備らが遣唐使に任命され日本国の代表として唐の国にわたり異国文化を学び日本国の発展に役立つ人生模様を描くいたものだったのですが,私は若いころと違って,人間が生きるというのは今も昔も不自由で大変で苦労ばかりだったんだなあと,歴史にロマンを感じるよりもむしろ生きることの不条理と苦痛を感じてしまうのです。

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 薬師寺を訪れたあと,歩いて唐招提寺へ向かいました。
 その道すがら,私のこの日の関心事は正倉院展以上にMLBワールドシリーズの最終戦でした。スマホで始終ゲームの進行をチェックしては興奮していたので,今いる場所が古都奈良なのかはたまたイリノイ州シカゴなのか,といった状況だったのですが,カブスの優勝が決まったちょうど同じころ,唐招提寺に到着しました。

 唐招提寺といえは鑑真,鑑真といえば戒壇ですが,高等学校の日本史の教科書には次のように書いてあります。
  ・・・・・・
 日本への渡航にたびたび失敗しながら,ついに日本に「戒律を伝えた」唐の鑑真らの活動も,日本の仏教の発展に寄与した。
 当時,正式な僧侶となるには,得度して修行し,さらに「戒を受けること」(受戒)が必要とされたが,受戒の際の正式な戒律のあり方を鑑真が伝えた。鑑真はのちに唐招提寺をつくり,そこで死去した。
  ・・・・・・

 私は,高校生のころに,この文章を読んでもさっぱりわかりませんでした。第一,「戒律を伝えた」ってどういうことなのでしょう?
 私は今ではすっかり考え方が変わったので,読んでもわかりもしないような難解な教科書を作って,しかも一社がシェアのほとんどを占めて,それを生徒に与えるのは学校教育が間違っていると思うようになったのですが,以前は,この小難しい日本史の教科書こそ日本人のバイブルだと信じて疑いませんでした。
 しかし,高校生の私はさっぱりわからないにも関わらず,妙に「鑑真」「唐招提寺」「戒律」という言葉がずっと気になっていました。また,当時の私は今と違ってものすごく日本史が好きだったので,大学生になったとき,さっそく憧れの唐招提寺に行きました。

 「戒律を受ける」とは仏教の戒を受ける儀式のことだそうです。といわれてもさらにさっぱりわかりません。
 そこでさらに調べてみました。
 自分がそれまでに行った悪を懺悔して心をきよめ,沐浴して身をきよめ,清潔な衣服を着けて,高徳の戒師の面前で仏法僧の三宝に帰依する,つまり,不殺生,不盗,不妄語といった「戒の規則」を終身守ることを誓う儀式をすることで受戒が成立し戒体が身に備わる,のだそうです。
 結婚式やら卒業式みたいなものですね。ただし,そこには高徳の戒師さんの立ち合いが必要であるというわけです。
 そして,その受戒を行う場所を戒壇というのです。

 鑑真が来日する以前の日本には戒律を授ける資格をもった高僧,つまり高徳の戒師さんがいなかったので,僧がいくら戒律を守っていたとしても正式には戒律を授かっていないということになりました。
 その当時,多くの日本の僧が朝鮮半島や中国大陸に留学したのですが,正式な戒律を受けていなかったために,留学先では正式な僧とは認められず半人前扱いだったわけです。そこで戒律を授ける資格をもった高僧に来日してもらいたいというのが日本仏教界の悲願だった,というわけです。
 こうした理由で多くの苦難のに来日した高僧の鑑真は,東大寺で5年を過ごした後,この唐招提寺の地に宅地を下賜されて,759年に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。
 当初は講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵,宝蔵などがあるだけでしたが,鑑真和上の弟子のひとりであった如宝の尽力によって現在のお寺が完成したといわれます。
 現在,唐招提寺は南都六宗のひとつである律宗の総本山です。

 この寺にある金堂は,井上靖の小説「天平の甍」でも有名です。
 第9次の遣唐使派遣が決まったのは天平四年(732年)のことでしたが,このときの遣唐使に留学僧として選ばれたのが普照,栄叡でした。戒律が備わっていなかった日本に伝戒の師を連れてくることが二人に課せられた仕事でした。
 栄叡は戒師として名高い鑑真の弟子を何人か連れ帰りたいと考えていました。そのことを鑑真にお願いに行くと,あらんことか鑑真本人が日本へ行くというではありませんか。栄叡は感激し,鑑真を日本へ連れて行くための準備に入り,普照も手伝うことになったのです。
 しかし,日本への渡航は困難を極めました。最初は出航することすらできずに失敗,そして次は船が難破して…。
 これが「天平の甍」のあらすじですが,こうした知識があればこそ,そして,鑑真の情熱と苦労を知ればこそ,この寺の金堂を見上げたときに,その甍を見るだけで先人の苦労が偲ばれて胸がいっぱいになるのです。
  ・・・・・・
 若葉して御目の雫拭はばや  芭蕉
  ・・
 ときは初夏。みずみずしい若葉でもって鑑真の盲いたお目の涙をそっと拭ってさしあげたい。
  ・・・・・・

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 私は今から40年ほどまえ,はじめて薬師寺と唐招提寺に行きました。
 そのとき,近鉄の西大寺を降りてそのまま歩いたのか,あるいは,今回と同じように西ノ京駅で降りたのか,今となってはまったく記憶がないのですが,高等学校で習った,というより授業中はほとんど寝ていたから,自分で教科書を読んで覚えた,ほんものの薬師寺東塔と唐招提寺が隣どうしにあったのが,ものすごく衝撃的でした。

 当時の薬師寺は,今とは違って東塔しかなく,教科書にのっていたこれもほんものの薬師三尊像の安置された金堂は再建されたばかりで,すごく素朴なお寺でした。
 当時の管主であった高田好胤さんが修学旅行生あいてにお話をされていました。
 また,唐招提寺は,何もない薬師寺とは打って変わって,すべてがそろっていて,その気品のある美しさと「伽藍の交響楽」といわれる堂々とした風格で,私は,一瞬にして魅了されました。

 高田好胤さんがやり手で,金堂,西塔から始まって,中門,回廊の一部,大講堂などが次々と再建されていきました。
 そこで,現在まで,この寺は,どこかしかがずっと工事中で,薬師寺は私がはじめて行ったときの素朴な雰囲気が全くなくなってしまいました。
 20年ほど前の暑い夏の日に,再び薬師寺と唐招提寺を訪れたときに,今度は,唐招提寺が解体修理に入ると聞かされて,薬師寺だけでなく,私の好きだった唐招提寺もこれでその素朴な姿をしばらく見ることができなくなるのだなあとものすごくがっかりしたのを思い出しました。

 そして今回。
 唐招提寺金堂の解体修理は終了していて,再び,以前の様子を取り戻していました。
 一方,薬師寺は,今度は東塔を修復工事するということで,すっかり覆いにかけられていました。その美しい姿を再び見られるのは4年先のことだそうです。
 私は,40年前に行っておいて本当によかったと思ったことでした。
 こういう寺の保存・維持は本当に難しいものだと思います。しかし,薬師寺のように,どんどんと新しくなっていくのも,また,考えものでなにかとても残念な気がします。
 唐招提寺に行ったとき,寺の方が,うちは薬師寺のようにはいたしません,と言っておられました。
 話がずれますが,もし,京都の鹿苑寺金閣が燃えていなかったとしたら,現在の金ぴかの建物はなかったわけだし,それでは観光という意味から考えると魅力がありません。だから,そのほうがよかったのかどうかは,私にはよくわかりません。

 今回も,まず,薬師寺に行きました。
 薬師寺は法相宗の大本山です。天武天皇により680年に発願され,持統天皇によって697年に本尊開眼し,更に文武天皇の代に飛鳥の地で堂宇の完成を見ました。その後,平城遷都に伴って718年に現在地に移されたものです。
 20世紀半ばまでの薬師寺は江戸時代後期に仮再建された金堂,講堂が建ち,創建当時の伽藍をしのばせるものとしては焼け残った東塔だけだったのですが,1960年代になると「白鳳伽藍復興事業」が進められ,先に書いたように,1976年に金堂が再建されたのをはじめとして,西塔,中門,回廊の一部,大講堂などが次々と再建されていきました。
 現在の金堂の内陣は鉄筋コンクリートであり,西塔は鉄の使用を極力少なくし木材の乾燥収縮を考慮して東塔より約30センチ高くして再建されています。また,入母屋造だった旧金堂は現在興福寺の仮中金堂として移築されました。
 また,薬師寺の北には玄奘三蔵院伽藍と大唐西域壁画殿が作られて,その内部には平山郁夫画伯が描いた壁画があります。
 このように,今回見られなかった東塔以外には,日々新しくなっていって,創建されたころの面影をしのぶ壮大な寺院となりました。
 ここでの一番の見ものは,やはり,金堂にあった薬師三尊像なのですが,その昔初めてきたときに,金堂の薬師三尊像とならび大講堂にもおなじような弥勒三尊像があって,混乱したのを思い出しました。

 この寺の西側,近鉄の線路の向うに大池があります。この池から薬師寺を写した写真があまりにも有名です。特に明け方は日の出の太陽と東塔が幻想的に池の水に光り,また満月のころは月と塔が同じように浮かび上がります。以前は東塔だけが寂しく,しかし美しい構図で多くの写真が写されました。その後,西塔が作られて,東塔と西塔が並ぶ姿になったのですが,西塔のできた当初はあまりにそれが新しくて,ふたつの塔の違いに違和感さえあったのですが,西塔もまた年月を重ねて,次第によい意味でくすんできました。
 私は残念ながらその写真を撮ったことがないので,ぜひ,4年先,東塔が再び姿を見せたときに,今度は夜明けの大池からの写真をうつしたいものだと思いました。またひとつ楽しみができました。
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 ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲 佐々木信綱
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 今年もまた,正倉院展の季節が来ました。私は11月3日に行ってきました。
 昨年の秋は過ごしやすく天気のよい日が続きましたが,正倉院展に出かけた11月8日だけはめずらしく雨が降りました。しかし,雨が幸いして,日曜日だというのに観光客は少なく,しかも,雨に濡れて色づいた木々がとても美しい1日でした。正倉院展のあとは京都に行って,泉涌寺別院・雲龍院と,京都国立博物館で「琳派・京を彩る」展を見ました。
 あれからもう1年がすぎたのですね。
 今年は正倉院展のあとは,久しぶりに薬師寺と唐招提寺,そして,平城京跡に行くことにしていました。

 昨年も書きましたが,奈良市というのは,名古屋からはアクセスが不便なところです。
 以前はJRで急行「かすが」に乗れば奈良駅まで直行だったのですがそれもなくなりました。現在は,京都から行くか,近鉄で西大寺まで行って戻らなくてはいけません。車は,東名阪自動車道が新名神とつながったせいで四日市付近で慢性的に渋滞するようになってしまいましたが,幸運にもこの日は行きだけは渋滞もなく,スムーズに到着することができました。
 正倉院展の待ち時間が45分とありましたが,それほど待つこともなく,入ることができました。

 今年の見ものは「漆胡瓶(しっこへい)」です。
 丸く張った胴部に鳥の頭を思わせる注口をのせ,裾広がりの台脚と湾曲する把手を備えたペルシャ風の水瓶です。テープ状にした木の薄板を巻き上げる「巻胎技法」によって素地を成形し,全体に黒漆を塗った上に文様の形に切り透かした銀板を貼る平脱技法で山岳や鹿,オシドリなどを施し,広々とした草原に禽獣が遊ぶ様子を表しています。
 西方に由来する器形と,東アジアで編み出された巻胎技法・漆芸技法とが融合した,まさに当時の国際的な交流の産物といえる品ということです。
 高等学校の日本史の教科書に載っているのでおなじみです。

 しかし,それよりも私が興味をもったのは「続々修正倉院古文書第四十六帙 第八巻」でした。
 これは経典の貸し借りや写経所に関係する文書を貼り継いで成巻したもので,その一部に著名な「写経司解司内穏便事」という文書があります。「解」とは上級の役所に提出する上申書のことです。
 書かれていた内容は,写経を行う写経生の待遇改善を具体的に箇条書きにしたもので,紙が少なく書き手が多いので,紙が供給されるまで経師(書写係)の招集を停止すること,装潢(装丁係)と校生(校正係)の食事を改善すること,など全6箇条の要求です。
 写経生の労働環境とそれに対する不満が垣間見える興味深い文書ということなのですが,奈良時代でも,働くというのは今と同じで大変だったのだなあ,と気が重くなりました。日本の「ブラック」企業の源流ここにあり,ということでしょうか。でも,要求できるだけ今よりましかも。
  ・・
 さて,私はそんなことは忘れて,正倉院展を見終わってから,中華料理の桃谷樓製の正倉院展記念特別薬膳弁当を所望することにしました。
 昔も今もかわらず,食べることは人生の一番の楽しみであり,喜びのようです。

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 今年の秋は過ごしやすい毎日が続きました。しかも,晴れることが多く,冷房も暖房も必要のない時期がすでに2か月以上続いています。それでも,季節は確実に冬に向かっています。
 そんな秋の1日,暦の上では立冬である11月8日に,奈良と京都へ行きました。
 自他ともに認める晴れ男の私にはめずらしくこの日は雨。しかし,雨が幸いして,日曜日だというのに観光客は少なく,しかも,雨に濡れて色づいた木々がとても美しく,すばらしい1日になりました。さらに,車に乗っているときは雨が結構強く降っていたのですが,車を降りるといつも雨が上がりました。
 出かけた先は,奈良国立博物館で9日まで開催していた恒例の正倉院展,京都非公開文化財特別公開の泉涌寺別院・雲龍院さん,そして,京都国立博物館で11月23日まで開催されている「琳派・京を彩る」展でした。
  ・・
 きょうは,正倉院展について書きます。

 奈良市というのは,名古屋からは本当にアクセスが不便なところです。
 電車だと,京都から行くか,近鉄でくるりと西大寺まで行って戻らなくてはいけません。車だと,東名阪自動車道が四日市付近で慢性的に渋滞するようになったので,早朝に出発する必要があります。今回ははじめて,名神高速道路から,京滋バイパス,京奈自動車道と経由して行くことにしました。
 いつも書いていることですが,本当に,日本の道路は無計画に作られていて,今回も,これで事故が起こらないのが不思議だと思いました。
 ともかく,これもまた雨が幸いして,道路は空いていて,名古屋から2時間,9時に奈良市に到着しました。

 毎年,正倉院展に行っているのですが,車で行くときは,9時までに到着して,奈良県庁の駐車場に停めるのが楽です。今回もそうしたのですが,駐車場に停める車も少なく,いつもとは違った状況に,まず,びっくりしました。そして,車を降りて,博物館に行く途中,いつもなら,ものすごい人の行列ですが,それもなく,このことにもびっくりしました。もうひとつのびっくりは,この時期なのに,すっかり木々が紅葉していたことでした。
 今年は,残暑がなかったので,色づくのが早いとは思ったのですが,ひとつ心配だったのは,急に寒くなるという状況でなかったので,紅葉がきれいでない,ということだったのですが,思ったよりも鮮やかでした。

 正倉院展は前売り券を手に入れておくのがスムーズに入るコツです。待ち時間は30分と書いてありましたが,それほど待つこともなく,中に入ることができました。
 今年の「目玉」は,紫檀木画槽琵琶(したんもくがそうのびわ),七条褐色紬袈裟(しちじょうかっしょくのつむぎのけさ),彫石横笛(ちょうせきのおうてき),彫石尺八(ちょうせきのしゃくはち)などでしたが,特にビッグなものはなかったので,見るまでに長蛇の列,といったものがなかったのが幸い?でした。展示品の詳しいお話は,正倉院展のホームページをご覧ください。
 私は,この正倉院展の展示が,これだけ多くの人が訪れるのに,そのことを考慮していないことが不満です。古文書のように平らに置かなくてはいけないものは仕方がありませんが,つるすようなものは,もっと高く展示できないものでしょうか?そうすれば,人の頭で見られないということもなくなります。
 それよりも,NHKEテレの「日曜日美術館」11月1日の番組で正倉院展が特集された最後に,正倉院展が誤って11月6日までと紹介されたのにはびっくりしました。私は8日に行くことにしていたので,一瞬凍りました。

 正倉院展は2時間もあれば十分に見学できるので,その後は,天気がよけれは,東大寺から散策するか,私の大好きな馬酔木の森から志賀直哉旧宅へ向かうか,あるいは,入江泰吉・写真美術館へ行くか,というコースが定番なのですが,今回は,このあと京都へ行くことにしていたので,後ろ髪をひかれる思いで,奈良を後にしました。
 雨の奈良も,また,よきものです。また,こころの中に幸せがひとつ増えました。
 次回は,お馴染みNHKBSプレミアム「京都人の密かな愉しみ」で放送された泉涌寺別院・雲龍院さんのお話です。

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 みなさん,ゴールデンウィークはいかがお過ごしですか。私のゴールデンウィークは,前回書いたように,長谷寺から室生寺のすてきな旅でした。そして,今回はそのときの室生の里の味めぐりです。といっても,贅沢なものは食べていませんが…。
  ・・
 長いドライブでやっと長谷寺に着いたので,お腹が空きました。参道には多くのお店があって,気分も盛り上がります。まだ,お昼には少し時間があったので,お茶を飲みながら草もちを食べることにしました。
 駐車場から歩いて行くと,おいしそうな草もちを売っていましたので,さっそく試食となりました。しかし,残念なことに,草もちは,売っていてもそれをのんびりと食べるお店がありません。
 喫茶店はあるのですが,そこでは,草もちというメニューがないのです。草もちとお茶で500円,なんていうメニュー出せば,儲かると思うのですが…。
 ということで,草もちはあきらめて,ぜんざいを食べることにしました。
 入ったのは,田中屋さんという名前のお店でした。空腹にぜんざい,お餅がお腹に染みました。

 お昼ご飯は,室生寺に行ってからにしました。
 以前室生寺に行ったときもお昼時で,その時は結構な人混みで,どこかのお店の2階でお昼を食べた思い出があるのですが,今回は,歩いていても,その時のお店がどこだったのか,全く思い出せませんでした。
 そこで,門前の橋のたもとに,橋本屋さんというお店があったので,中に入りました。
 前回書いたように,この日は,予想ほどの観光客がいなくて,お店も落ち着いた雰囲気でとても素敵でした。食事をしながら外を眺めると,時々,観光バスが到着して大勢の観光客がどっと押し寄せ,静寂が破られます。
 読売観光とか毎日とか朝日とか,まるで新聞社のような感じでした。
 長谷寺と室生寺でほどよい1日コースであること,ちょうどボタンとシャクナゲが見ごろであることに加え,観光バスでないと結構不便なことなどで,こうしたツアーが人気なのでしょう。
 注文したのは,山菜定食1,800円でした。とろろ芋やらワラビやら,とても健康的なお昼となりました。

 帰りに,亀山PAで夕食をとることにしました。以前,もっと渋滞したときのこと,多くの観光客が御在所SAで食事をすることはわかっていたので,裏をかいて,亀山PAで食事をすることにしました。セルフサービスの食堂なので,まったく期待もしていなかったのですが,その時に食べた松坂肉の牛丼のおいしかったこと。そのあとしばらく吉野家さんの牛丼など食べる気がなくなってしまったのですが(値段が決定的にちがいますから),それを思い出して,今回もそれを食べることにしました。
 私にとって,この牛丼は幻で,その味が忘れられず,そのあとで記憶だけを頼りにわざわざ食べに行ったときは,どこで食べたのか思い出せずあきらめて帰りました。その後いろいろと調べてみると,どうやら,それは今は「亀山PA下り」限定らしいのです。以前私が食べたときは確かに上りだったのですが…。この日も上りを走っているので,「亀山PA下り」には,わざわざ一度高速道を降りて下りに行く必要があるのです。でもそうまでして食べようと思っていたので,ともかく,上りのPAで下りに入る経路を聞こうと案内所に向かったのですが,なんと上りのPAにも,私にとって幻だった牛丼がありました。そんなわけで,わざわざ下りに行かなくとも賞味することができたのでした。
 今回のプチ旅行は,なにからなにまで,すてきな思い出となりました。

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 今年の春,4月のはじめは雨ばかりでしたが,4月の終わりは毎日とてもよい天気が続いています。
 若いころ,ゴールデンウィークにふと奈良に行こうと,早朝名古屋駅に着いたのですが,近鉄の特急券が買えず仕方なく乗った普通列車で,多くの乗客が長谷寺で降りました。そのときはじめて,私は,この時期の長谷寺はボタンの見ごろなのだということを知りました。それ以来,私には「ゴールデンウィーク=長谷寺」というイメージが出来上がりました。
 それ以来,一度行ってみようと思っていたので,4月29日,長谷寺へ行ってきました。

 近ごろは,東名阪自動車道路が伊勢湾岸道路や新名神高速道路と接続してしまったために,それまで快適にドライブできた東名阪自動車道路が四日市付近でいつも渋滞するようになってしまい,名古屋から奈良に車で行くのがものすごく不便になりました。
 ふたつの高速道路を接続させるのに,車線を増やすここもなくそのまま,などという無謀な行政がその原因です。その後無理やり3車線にしましたが,4車線は必要です。
 この日も渋滞覚悟でしたが,予想通りの渋滞です。念のために事前に調べておいた一般道を使ってともかく亀山まで行きました。その先の国道25号は空いていて,快調に針インターまで行って,そこから南下,2時間半くらいで長谷寺に着きました。

 山門を越え,参道を進んだ先の駐車場には空きがありました。きっと,ゴールデンウィーク後半の連休前だったので,思ったほど混んでいなかったのでしょう。今年は例年よりも暖かく,ボタンの満開時期が早くて,幸運なことにこの日がベストでした。ゴールデンウィーク後半はもう遅いということでした。
 長谷寺では,高さ10メートルの巨大な本尊大観音尊像の特別拝観もできました。ここは,堂々として,素晴らしいお寺です。
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 次に向かったのが,室生寺でした。
 長谷寺のボタンと並んで,室生寺はシャクナゲで有名なのですが,不勉強な私は,シャクナゲもこの時期が見ごろだということを行くまで知りませんでした。
 しかし,残念ながら,シャクナゲは昨年があたり年で,今年は裏作で花は少なめでした。また,次回行くときの夢ができたというものです。
 今回は,初めて奥の院まで行くことができました。これまで何度室生寺に行ったかわかりませんが,奥の院までは行ったこともなく,そういうところがあることすらも知らなかったのは,情けない話でした。 
 奥の院に行く途中,戻ってくる人に「どのくらいかかるのですか? 1時間くらいですか?」と聞くと,「そんなにかかりませんよ。でも,気持ちは1時間」と言われた意味が,行ってみてとてもよくわかりました。行ったことのない方は,行けばこの言葉の意味がとてもよくわかることと思います。
 奥の院へ行ってみて,以前,NHKテレビでこの奥の院の社務所まで毎日通っているお寺の人を取り上げた番組を見たことを思い出しました。
 奥の院には社務所があって,ココ限定のお守りがあれば買うのになあ,と思ったら,ありました! 奥の院限定が。そこで,健脚お守りというのを買いました。私は,本当に冗談でなく,歩けなくなる恐怖を感じはじめたこの頃なのです。
 ふもとの金堂には,十二神将がすべて揃っていました。いつもは,そのいくつかがどこかの博物館に出張しているということで,この日はいろいろものすごくラッキーでした。

 こんなわけで,何から何まで素晴らしい奈良の旅になりました。
 帰りに,「花の郷滝谷」というところにはじめて寄りました。素朴な植物園という感じのところで,満開の芝桜がとてもきれいでした。桜味のソフトクリームのちょっぴり効いた塩味もまた格別でした。

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 秋の大和路は,独特な静寂と張りつめた空気にも何かしらの優しさがあります。奈良公園を南に向かって歩くと,新薬師寺から入江泰吉写真美術館に至る小径が旅情に彩りを添えます。
 入江泰吉は昭和時代の写真家で,主に,大和路の風景や仏像などの写真を撮り,高い評価を受けました。
 その入江泰吉の写真を間近に見ることができる美術館は,忘れていた昔の土のにおいや人の温かさとともに,心の中に何とも言えぬ幸せをもたらしてくれます。きっと,誰よりも古の大和の美しさを知り,それを愛した入江泰吉がその生涯をかけて写した写真には入江の命が宿っているのでしょう。

 古都大和には,古来,こうした多くの人々の心が,写真として,あるいは,絵画として,また,歌として,そして,文学として,残されています。
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 冬木成 春去來者 不喧有之 鳥毛来鳴奴
 不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取
 草深 執手母不見
 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曾思努布
 青乎者 置而曾歎久 曾許之恨之
 秋山吾者
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 冬ごもり 春さり來れば 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ
 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず
 草深み 取り手も見ず秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ
 青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし
 秋山そ我は
   「万葉集」巻1・16 額田王
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 この歌は,天智天皇が藤原鎌足に春と秋とどっちがすぐれているかを歌で競わせたときに額田王が歌で意見を示したものです。
 春が来ると鳥がさえずり花が咲きます。けれども,山には木が生い茂り入っていって取ることができません。秋山は紅葉した木の葉をとることができていいなあと思います。ただ,まだ青いまま落ちてしまったものもあってそれを置いて溜息をつくのが残念ですけれど。でも,私はそんな秋を選びます。といった意味です。
 この歌の最後「秋山〈そ〉我は」がなんとも素敵ではないでしょうか。「秋山そ」私はこの〈そ〉の音に,なまめかしさとともに深い味わいを感じるのです。
 秋の大和路を訪れると,そうした秋山を踏みしめることができます。秋の大和路には,ススキと柿の実をつけた樹木がよく似合います。そんな小径を歩いていると,今も,古人の息遣いが聞こえてくるような気がします。

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