しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:「奥の細道」

DSC_6137DSC_6139DSC_6149DSC_6153

 この日,水門川沿いのに咲く桜がきれいでした。水門川のほとりに大垣市奥野の細道むすびの地記念館があって,そこの広い駐車場に車を停めて,ここからしばらく美濃路を歩こうと思いました。
 水門川のあたりは結構な人が訪れていましたが,私の目的は美濃路でした。水都公園から東に旧美濃路は続いていました。水門川のあたりとは違ってほとんど人のいない旧街道はいつもの静かな散歩コースとなって,落ち着きます。
 
 旧美濃路は旧中山道の垂井宿からはじまります。以前,垂井宿を歩いたときに見つけたのが旧中山道から旧美濃路がわかれる追分でした。追分で旧中山道は東に進み,赤坂宿に向かいますが,旧美濃路は東南東に曲がり大垣宿に向かうわけです。
 現在は赤坂宿だったところがさびれてしまっているのに比べて,大垣宿は大垣市の中心部となってずいぶんと発展しました。
  ・・
 旧美濃路は大垣宿を過ぎると,さらに東に,次の墨俣宿をめざし,その後は南東に方向を変え,現在の名古屋市熱田区である旧東海道の宮宿にある熱田神宮で旧東海道との追分に至るわけですが,この旧美濃路の通っていた場所が,現在の東海道新幹線の通っているところとほとんど一致していることからもわかるように,極めて合理的な街道なのです。 
 江戸時代の事情はわかりませんが,現在の名古屋あたりから京に行くには,七里の渡し,そして,鈴鹿峠を越えなければならない不便な東海道よりも,美濃路を経由して中山道に入り,中山道を歩くほうがずいずんと楽な気が私はします。
 
 たびたび大垣市には行くのですが,こうして旧美濃路だった路地を歩いたのははじめてでした。
 当時の建物は残っていませんでしたが,本陣跡には新しく本陣を模した建物ができ,また,高札場跡には案内板があって,当時を思い起こすことができました。
 どこへ行ってもそうですが,車で走ると決してわからないその町の昔の雰囲気が感じられるので,旧街道歩きは楽しい限りです。テーマパークやら観光地化された神社仏閣やらを訪れるより,スポーツジムで汗をながすより,このような人のいない旧街道歩きをするほうが,ずっと健康的に思えます。
 ただ,人がいないということはさびれているということだから,旧街道の宿場にあった昔からの個人商店の多くがシャッターがしまっているのが残念です。この先,さらに超高齢化するこの国は,こうした昔からの商店街を,昔の宿場町をほうふつとさせるような魅力的な通りに変える工夫ができればいいのになあと思ったりもしますが,そうすれば,そんな場所は観光地化してしまい,私のきらいな人混みになるのではと思うと,複雑な気持ちになります。

DSC_6164 (2)DSC_6170DSC_6132DSC_6180

 去る4月3日のこと。
 桜が満開になったので,近場で桜のきれいなところはどこだろうかと考えていて,墨俣を思い出しました。そこで,人のいない早朝,墨俣までのドライブを楽しみました。
 後日詳しく書きますが,墨俣といえば「豊臣秀吉の一夜城」として有名です。しかし,それよりも「美濃路の墨俣宿」だったということを知って,ならばと,今度は美濃路について調べてみることにしました。ここから私の興味は美濃路に移ったのです。
 美濃路なんて,家の近くなのでこれまで特に意識もしていませんでした。どこを通っているのか詳しいことはまったく知りませんでした。そこで,これを機会に美濃路の宿場を順に訪ねてみることにしました。多くは徒歩圏内,あるいは自転を使えば簡単に行くことができる散歩コースです。

 とりあえず,このときはせっかく墨俣まで行ったので,もう少し足を延ばして,美濃路の宿場であった大垣市まで行ってみました。
 …ということで,今回は大垣についてですが,まずは余談からはじめます。
  ・・
 大垣市は岐阜県の濃尾平野北西部にあって,日本列島の「ど真ん中」にある都市といわれていますが,上石津地域と墨俣地域という飛地をもっていて,しかも飛び地の面積のほうが広いというめずらしい町なのです。
 そこで,今回行くことになる墨俣も現在は大垣市なのですが,もうひとつの飛び地である上石津地区には大きなダム湖があって,私もこれまでたびたび訪れたことがありました。で,なんと,この上石津地区にはかつて多羅城という城があって,そこが明智光秀の誕生の地だった,というではありませんか。
 そんな次第で,私は特に「麒麟がくる」を意識しているわけでもないのに,今回もまた,明智光秀が登場してしまいました。このごろ私が行くところ行くところ,どこもかしこも明智光秀の生誕地を名乗っているのです。こうなると,笑うしかありません。
 明智光秀は40歳を過ぎて織田信長の家来となってからはじめて歴史の表舞台にその名を残し,しかも裏切り者扱いを受けたので,前半生の姿が全くといっていいほど解明されていません。謎だらけです。そこで,どこで生まれ誰の子なのかも定まっていません。一応は美濃の守護・土岐氏一族の出身とするのが通説となっているようですが,生誕地についても諸説あり,大垣市上石津町多良地区にかつて存在したとされる多羅城も生誕地のひとつに考えられているのだそうです。曰く,
  ・・・・・・
 明智光秀は1528年(大永8年)に石津郡多羅で進士信周の次男として生まれました。母は明智家当主・明智光綱の妹でした。明智光綱に子供がなかったので,明智光秀は養子となり明智家を継いだということです。
  ・・・・・・
 もう勝手にしろという感じです。

 では,話を大垣市に戻します。大垣市で有名なのは大垣城と松尾芭蕉です。
 大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により,1535年(天文4年)に創建されたと伝えられています。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりました。江戸時代の初期には藩主が入れ変わりましたが,その後は戸田氏が十万石の城主となり安定政権,明治まで太平の世が続きました。
 戸田氏初代の藩士は戸田氏鉄です。戸田氏鉄は徳川氏の家臣で,近江膳所藩主,摂津尼崎藩主を経て大垣藩の藩主となりました。多くの藩では藩主がめまぐるしく変わったり取り潰しになるなか,大垣藩は明治維新まで安定して戸田氏が藩主を勤め上げたわけです。
 のち,1936年(昭和11年)に大垣城は国宝に指定されましたが,1945年(昭和20年)の戦災で焼失していまいました。1959年(昭和34年)に4層4階の天守を再建し,大垣市のシンボルとなりました。
  ・・
 江戸時代の大垣宿は,東西交通の要所として,また,東西文化の接点として,経済・文化が発展した地でした。いまでも大垣市は文化の香り高く,落ち着いた住みやすそうな町です。
 松尾芭蕉は1689年(元禄2年)の秋,水門川の船町港から桑名へ舟で下り,約5か月間の「奥の細道」の旅を終えています。このように,松尾芭蕉は「奥の細道」の旅を大垣で結びましたが,はじめて大垣を訪れたのは「野ざらし紀行」の旅の途中,1684年(貞享元年)に以前から親交があった船問屋の谷木因を訪ねるためでした。
 谷木因宅に1か月ほど滞在し,大垣の俳人たちが新たな門人になりました。松尾芭蕉が門人に宛てた手紙によれば「奥の細道」は旅立つ前から大垣を旅の結びと決めていたことが伺えます。それは,大垣に早くから自分の俳風を受け入れた親しい友人や門人たちの存在があったからといわれます。

  ・・・・・・
 路通も此みなとまで出むかひて,みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば,曾良も伊勢より来り合,越人も馬をとばせて,如行が家に入集る
 前川子荊口父子,其外したしき人々日夜とぶらひて,蘇生のものにあふがごとく,且悦び,且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに,長月六日になれば,伊勢の遷宮おがまんと,又舟にのりて
  蛤のふたみにわかれ行秋ぞ  「奥の細道」
  ・・・・・・

このページのトップヘ