しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:中山道を歩く

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 私は,南から北,つまり,京から江戸の方向に向かって車で旧中山道を走ってきたのですが,高宮宿に差しかかる前にあったのが無賃橋でした。堤は桜が満開でした。無賃橋の正式名称は高宮橋といいます。
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 琵琶湖に注ぐ犬上川には,中山道の諸宿場が整備されてからも長らく橋が架られていませんでした。
 1767年(明和4年)に高宮宿の庄屋・問屋有志が彦根藩に申請し仮設橋を架けましたが,幾度もの大雨で橋が度々流されていました。この状況を危惧した彦根藩は,1832年(天保2年)に近隣の豪商である小林吟右衛門,馬場利左衛門,藤野四郎兵衛らに命じ,石造りの橋をかけました。さらに,翌年の1833年(天保3年)には高宮宿の有志が彦根藩より高宮橋株を買取り,無料で通行ができるようになりました。
 この経緯から,橋のたもとに「無賃橋」の標石が建てられ,無賃橋とよばれるようになったそうです。
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 橋を渡ると高宮宿に入ります。
 高宮宿は旧中山道64番目の宿場で,宿内家数は835軒,うち本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠23軒で宿内人口は約3,500人でした。
 本陣は小林太左衛門家,脇本陣は塩谷家が担っていました。
 橋を越えたあたりから眺められる高宮宿は,当時の面影を残していて,なかなかの風情でした。
 高宮宿は,中山道の宿場町としては埼玉県の本庄宿に次ぐ大きな宿場として繁栄しました。また,多賀大社の参道沿いの門前町として多くの参拝者が利用しました。
 宿場の中央には多賀大社の一の鳥居がランドマークとなっていました。この高さ11メートルの大鳥居は寛永112年に着工されたものです。また,高さ6メートルの常夜燈も建立されました。
 多賀大社は式内社で,旧社格は官幣大社,現在は神社本庁の別表神社です。古くから「お多賀さん」として親しまれ,神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めました。お守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子」という慣わしがあり,「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされているそうです。

 特産品の麻織物は,高宮布として近江商人を介して日本各地に流通し,彦根藩から将軍家への献上品にもなっていました。宿場には高宮布を扱う問屋などの業者が何軒も軒を連ね,高宮神宮参道と向かい合っている加藤家住宅は,かつて「布惣」の屋号で高宮布を扱う麻布商で,高宮布を収めた5つの蔵が今も残り,往時の様子がしのばれます。
 また,街道沿いにある円照寺は古刹として知られ,大坂の陣の際には徳川家康が立ち寄り腰掛けたと伝わる「家康公腰懸石」がありました。
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 1684年(貞享元年)には松尾芭蕉が高宮宿を訪れ小林家で宿泊し,句を残しました。
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  たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子
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 小林家では芭蕉の為に紙で作った衣服を贈り,帰った後に塚を築きその衣服を納めて「紙子塚」としたと伝えられています。

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 昨日5月3日は憲法記念日でした。
 日本は,まことに法律というもの自体がなじまない国です。憲法ですら,この国ではじめて発布された大日本帝国憲法が1889年(明治22年),つまり明治になってからで,アメリカ合衆国の憲法が施行された1789年よりはるかに遅いのです。それまで,この国の最高法規は,なんとその昔757年(天平宝字元年)に施行された養老律令であって,時代の変遷によって,その中には現実にまったくそぐわないところが多々あっても,それは事実上無視し,改正もせず,都合のよいとところだけはそのまま使い続けました。
 今の日本国憲法も同じようなもので,アメリカ合衆国の憲法が実情に合わせてたびたび改正されたのとは対照的です。表向きは従うふりをしつつ,何事も自分の都合のよいように解釈する,そして,総括もせず反省もせず責任も問わず,これが日本という国です。この国では改正というものはなじみません。それは,決まりを尊重するのではなく,変えれば変えたで,またそこに抜け穴を探していいように解釈するだけだからです。

 憲法第9条がよく話題になりますが,私がこだわりたいのは,むしろ第99条です。
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第99条
天皇又は摂政及び国務大臣,国会議員,裁判官その他の公務員は,この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
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 だから,国務大臣,国会議員は,憲法改正など軽々しく言っちゃいかんわなあ。
 しかし,100歩譲って,下手に改正などしようとすれば,今度は,その手段だけでも,もめにもめることでしょう。で,いざとなれば,民主主義の手続きもへったくれもなく強硬突破を試みるわけです。これもまた,歴史が証明しています。
 そもそも,改正するにしても,極右から極左まで,今,何が問題かという認識が違い,だから,何を変えるかという思惑が人それぞれ違い過ぎるのです。だから,本質は「お上」を拝み奉る江戸時代のまま,真の民主主義すら根づいていないこの国では,民主主義的な手続きやら議論すらまともにできないわけで,それこそが,名ばかり法治国家に住む,善かれ悪しかれ,それが日本人というものです。
 たとえば,学校の校則を考えてもわかるように,法律にあろうがなかろうが,合法だろうが違法だろうが,みんな勝手に自分たちの集団で明文化した決まりや暗黙のルールをこしらえて,それで自らの首を絞めながら,かつ,他人を干渉しながら生きているのです。村の掟のようなものです。
 こうしたことが,有史以来,この国では脈々と営まれているわけですが,日本人の最も問題なのは,日本人がどういうものかを日本人自身が知らなさすぎることです。

 閑話休題。
 さて,五畿七道は古代日本の律令制,つまり,養老律令で定められた地方の行政区画です。そのうち七道とは,東海道,東山道,北陸道,山陽道,山陰道,南海道,西海道を指します。七道は,所属する国の国府を順に結ぶ駅路の名称でもあったので,同じ名称の幹線官道で結ばれていました。
 江戸時代の中山道は,七道のなかの東山道に準じて存在していたようです。そこで,私がここで巡った琵琶湖西岸の宿場は,江戸時代以前の東山道の駅家でもありました。駅家には往来する人馬の休息,宿泊施設を置き,駅鈴を持っている官人や公文書を伝達する駅使が到着すると乗り継ぎの駅馬や案内の駅子を提供しました。
 それにしても,このような広い範囲にわたって,古代から道が存在していたというのもすごいものだと思います。

 愛知川は「えちがわ」とよびます。愛知川宿は旧中山道,江戸から65番目の宿場です。宿内家数199軒で,うち本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠28軒,宿内人口は約1,000人でした。
 最初に書いたように,元は東山道の駅家で,「太平記」にも記載があります。
 愛知川宿は宿場町であると同時に近江商人の町でもありました。また,江戸期には,伊勢から多賀大社への参詣のため通行した春日局をはじめとして,多くの人が往来しました。
 象が通ったという記録もあり,これは清の商人が徳川吉宗に献上するためであったといわれていますし,幕末には,皇女和宮が14代将軍徳川家茂に嫁ぐときに行列が愛知川宿に宿泊しました。愛知川宿を通行した和宮の行列は6,750余人であったといわれています。

 現在に残る愛知川宿は,その町の両側に派手な冠木門があって「中山道愛知川宿」と記されています。それが,この冠木門をつくったこの土地の人のセンスがうかがわれて最も興味深いものでした。また,交差点向こうのポケットパークには木曽街道六十九次愛知川という歌川広重のパネルが展示されていて,宿場のプライドが感じられました。交差点を渡ったすぐ先の日本生命の営業所が当時の本陣でした。派手な冠木門で大いに期待したのですが,さにあらず,特に見るべきところもあるやなしやで,私はそのまま通り過ぎました。
 愛知川宿を越えて,さらに北に走っていくと,大きな建物があってびっくりしました。一度は通り過ぎたのですが,興味をもったので引き返してみると,そこは「旧豊郷小学校」とかかれた場所でした。1937年(昭和12年)伊藤忠兵衛商店の専務であった古川鉄次郎が寄贈した小学校校舎で,当時としては極めて珍しいコンクリート造りだったそうです。解体の危機に見舞われましたが,リニューアルされて,現在は図書館などに生まれ変わったということです。

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◇◇◇
月と水星

5月3日午後7時30分。
西の空に,月齢2.7の月と水星が見えました。
さらに,プレアデス星団とヒヤデス星団も。
美しい夕暮れでした。

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 旧中山道の間の宿である鏡の宿,そして,近江八幡に寄り道をして,その後,私は南から北に向かって走っています。
 国道8号線を離れ,枡形道から近江鉄道万葉あかね線の武佐駅の横にある踏切を越えると,そこから旧中山道の武佐宿がはじまります。 
 しばらく行くと,「愛宕山常夜灯」が街道際に立っていて,そこは昔の高札場跡でした。
 普段,車で走っていると見逃すのですが,そうした車の多く通る広い道に並行するように旧街道があって,そこは,何十年も変わらない家並みが続いていることがよくあります。
 ヨーロッパのように,もともと道というのは馬車が通るように作られたのとは違い,人が歩くように作られた日本では,人が歩くほどの幅の道を車が通るには狭く,すれ違うのがやっという広さですが,私は,日本人には,この程度の広さの道幅がもっとも落ち着くのだといつも思います。

 武佐は「むさ」と読みます。
 旧中山道の江戸から数えて66番目の宿場で,宿内家数は183軒あって,そのうち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠23軒で,人口は500人程度だったようです。
 武佐宿は近江商人の発祥の地として知られていて,今も古い商家が残り,なかなか情緒あるところでした。
 また,武佐宿は伊勢へ通じる八風街道の追分であったことから, 海産物,布,紙など物資の往来で賑わったといいます。
 歩いてみると,武佐宿設立当時から営業しているという「旧旅籠中村屋さんがあって,今も料理旅館を営んでいます。創業は慶長年間で,その歴史は400年以上というからすごものです。
 その斜め向かいの郵便局がかつて下川家本陣があった場所で,今は「本陣門」だけが残されています。また,武佐宿は本陣と脇本陣が150メートルも離れています。
 本陣跡の先にある十字路左側には「いせ みな口 ひの 八日市 道」と刻まれた「八風街道道標」が建てられています。
  ・・
 武佐は松平周防家が藩主であった武蔵国川越藩の飛び領地だったので,この地に陣屋を置き領土の管理を行っていたということで,「松平周防守陣屋跡」もありました。
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 松平周防家は川越藩最後の大名家で,本姓は松井氏で本国は三河国の徳川譜代大名でした。
 徳川家康の家臣となった松井忠次が功を得て松平姓を拝領し,松井松平家と称します。また,周防守の官名を拝領して世襲したので,松平周防守家とも称しました。
 初代松平周防守となる「松井忠次」は,徳川家康の三河平定,諏訪原城攻めなどでの功を得て「松平周防守康親」の名を拝領し,二代目の松平康重は徳川家康江戸入封時に武蔵騎西に二万石で入り大名となります。その後,常陸笠間,丹波篠山,和泉岸和田,播磨山﨑などに転封され,さらに,石見浜田で180年近く統治し,1836年十代目康爵のときに陸奥棚倉へ転封となり,1866年十三代目康英のときに武蔵川越へ転封となり幕末を迎えました。市村正親さんは家臣の子孫だそうです。
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 時間があるとき,無計画に旧街道を巡っています。
 2022年の今年はずっと寒く,天気も悪く,最悪な初春でした。4月4日の今日も午前中は雨の予報だったのですが,朝起きるとすでに天候が回復していました。
 これでやっと春が来たと思ったので,思い立って,以前から行きたかった鏡神社へ行くことにしました。
 鏡神社は,2月25日,NHKBSPで「新日本風土記・義経の旅-今も語り継がれる日本のヒーロー義経伝説をたどる旅-」という番組を見て知ったところです。

 以前,旧中山道を関ヶ原宿から鳥居本宿まで歩いたのですが,その先は琵琶湖にそってずっと国道8号線伝いに行くだけだと思って歩く気にならず,そのままになっていました。
 しかし,それは私の浅知恵であって,調べてみると,鳥居本宿の次が高宮宿,愛知川宿,武佐宿,守山宿,草津宿,大津宿とあって,中でも,高宮とか武佐などという名前はJRの駅にもあるのやらないのやら,私ははじめて聞くところでした。
 その中でテレビで紹介していたのは鏡神社や義経ゆかりの場所で,そこは武佐宿の近くのようでした。
 私はコロナ禍以降,公共交通は利用しておらず,そこで,今回も車で巡ることにして,とりあえず,鏡神社まで行って,そこから引き返しながら,宿場ごとに車を降りて歩くことにしました。

 鏡神社近くの道の駅に着きました。到着してみると,鏡神社は武佐宿からはるかに遠く,そこはその次の宿場の鏡の宿というところでした。しかし,鏡などという名前の宿場は旧中山道にはなく不思議な気がしました。さらに奇妙だったのが,鏡の宿には本陣跡も脇本陣跡もあったことでした。
 調べてみると,次のようにありました。
  ・・・・・・
 鏡の宿は東山道八十六駅・うまやのひとつで,平安時代末期から大変栄えた宿場でした。
 やがて,中山道が整備されると宿場の指定から外され,間の宿 となってしまったのですが,本陣と脇本陣は紀州藩の定宿となるなど宿場の機能をもっていました。
  ・・・・・・

 鏡神社よりさらに東に少し歩くと「源義経宿泊の館跡碑」という標示版がありました。
 1174年(承安4年)3月,金売り吉次に伴われて鞍馬寺より奥州に下向する牛若丸が,鏡の里の長であった澤弥伝の旅籠白木屋に泊まり,その夜に元服して源九郎義経と名乗ったといいます。
 また,元服した源義経は鏡神社参道の松枝に烏帽子を掛け参拝し,源氏の再興を祈願したといいます。しかし,烏帽子を掛けたという松は1873年(明治6年)に倒れてしまい,今は切り株だけが保存されていました。
 鏡神社の本殿は,義経より後の室町時代に建てられたものです。
 再び西に歩いて行くと,源義経元服の池があって「東下りの途,当 鏡の宿にて元服加冠の儀を行う。その時使いし水の池なり」と説明されていました。

 「烏帽子折」は能の源流である幸若舞曲の曲名です。作者,成立年次は不詳。題名の初出は1551年(天文20年)で,上演記録の初出は1563年(永禄6年)です。
  ・・・・・・
 鞍馬を出た牛若丸は,金売り吉次一行に加わって,東国に下りますが,その途中,金売り吉次一行を襲う熊坂長範ら群盗と出会います。
 追手を逃れる牛若丸は,鏡の宿の烏帽子屋で変装のために源氏嘉例の左折れ烏帽子を所望し,礼に一刀を与えます。烏帽子折職人の妻が父源義朝の郎等鎌田正清の妹でした。与えられた一刀が父源義朝ゆかりの守刀と知った烏帽子屋夫婦は驚き,餞別にそれを牛若に返します。牛若丸は,その守刀で熊坂長範一味の襲撃をひとりで撃退するのです。
 その夜,牛若丸は元服します。
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 鵜沼宿から加納宿まで旧街道に沿って車で走ってみることにしました。ここは歩くと約17キロメートルあるので,4時間程度かかります。しかし,ずっと平地で,現在は国道21号線,JRの高山本線,名鉄の各務原線に沿っている市街地です。そこで,江戸時代のころは田んぼのなかを単調な道がつづいているだけの楽なところだったのだろうと思っていました。しかし,実際は,観光パンフレットによると次のような場所でした。
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 鵜沼宿の西は3里,12キロメートルにわたって「かがみ野」という場所で,ほとんど人家がなく,山賊が行き来する人々を狙っていたために,旅人にとっては恐ろしく難所だったようです。
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 現代の風景しか知らない私には意外でした。平地は山賊が出没し,山は険しい峠越え,川は川止めになるというように,当時の旅は過酷なものでした。

 また,鵜沼宿から加納宿までの旧街道は現在
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 この区間はほとんどが国道21号線やその旧道と重複しているため,往時の面影を求めようとするには非常に困難なものがあります。
 かつては「かがみ野」の原野を通っていたのですが,現在は交通量も多く,商店街などの街並みに変わってしまい,中山道の面影はほとんど残されていません。
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とあるのですが,走ってみるとそんなことはなく,家々の間を車がやっとすれ違えるほどの車幅の道が続いていて,明らかに旧街道だった雰囲気がしました。

 途中,新加納に間の宿がありました。カギの手になった場所や石造りの道標が残っていました。
 こんな長い距離,途中に間の宿があるのは当然か,と思いました。
 そうこう走っていくと,以前,歩いたことがある加納宿に到着しました。そのころ,その先に伊吹山が雪を被ってとてもきれいに見えるようになってきたので,その姿を追い求めてさらに走っていくと,いつのまにか墨俣まで来てしまいました。
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 コロナ禍以降,歩くこともしばらくなかった旧街道でしたが,今回,こうして行ってみて,また,歩いてみようかな,と思いはじめました。

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 前回書いたように,鵜沼宿から東の太田宿までは登り坂で,うとう峠を越す必要があります。このあたり,以前歩こうとして地図で調べたことがあったのですが,よくわかりませんでした。そこで,今回,実際はどうなっているか,少し車で走ってみることにしました。
 うとう峠は観光案内には次のように書かれています。
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 「うとう坂」とよばれたこの峠道は難所で,(その先の)御嶽宿から細久手宿に向かう途中の「謡坂」と同じ名前ですが,こちらの「うとう」は謡うではなく「疎う」。きっと疎ましいほどの場所であったのでしょう。
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とありました。
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 現在,この急坂の途中までは団地として造成されていました。この坂の上の住宅は高級そうですが,私は,こんな坂の上に住むと老後がたいへんなのに,と思ってしまいます。車がないと出かけることもできません。
 それはさておき,団地の先は自動車が通れる道はありません。さらに奥は「日本ラインうぬまの森」とかいう公園になっていて,その先,旧中山道は木曽川まで石畳がひかれて整備されているようでした。 
 まあ,いわば,ここは各務原市の観光資源のようです。かつ,地元の人の散策コースなのでしょう。私は,またいつこの先の旧中山道を歩いてみたいものだと思ったことでしたが,今回はここまでです。

 さて,鵜沼宿に戻って,お昼をとることにしました。国道21号線と鵜沼宿の入口の交差点に小ぎれいな喫茶店があったので久しぶりに入ってみました。若いころは喫茶店もずいぶんと行ったものですが,このごろは行くこともなくなっていました。平日のお昼前なのに,けっこうなお客さんがいました。まだモーニングサービスをやっていたので,遅い朝食,といったところでしょうか。
 私も以前は新聞や雑誌を読むのが目的で喫茶店に入ったものですが,もう,私の世界では,そうしたものは存在していません。紙媒体の新聞こそ,デジタル版だけ購読するより「紙+デジタル」のほうが実は安いので,まだ家には届きますが,読むのはデジタル版だし,雑誌などは情報として価値が低いので書店に行っても全く読まなくなってしまいました。また,そうでなくとも,このご時世では,他人の読んだ新聞や雑誌など手に取るのも不気味です。しかし,店内では,さすがに20年以上前のように店内にはタバコの煙が… というものはなくなっていましたが,私が10年以上も前に目にしていた風景,つまり,モーニングサービスを頼んで,雑誌や新聞を読みふけっている…,というのがそのままありました。
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 こういうところを見ると,この国では,デジタル化,だとか,人工知能,だとかいったところで,何も変わらない世界が大半なのだということを思い知ります。喫茶店でなくとも,マクドナルドでも,座席でモバイルオーダーすればいいのに,注文カウンタの前でスマホ片手にずらりと並んでいる人がたくさんいて,私には??? 疑問が絶えません。これでは世界から遅れをとるはずです。日本はまだまだ昭和なのです。
 お店を出るとき,きっと現金しか使えないだろうと覚悟をしていたのですが,PayPayで支払えるのに,今度は逆に驚きました。レストランにある,空気の流れを妨げ汚いだけのアクリル板といい,この寒い季節に摂氏33度を示すだけで不正確で意味のない体温計といい,いつものように,やったふりばかりの摩訶不思議な日本。どうやら,私は,もはやこの国では生きていけないのかもしれません。

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 気が向いたときに旧街道をきままに歩いています。少し前に御嶽宿から西に太田宿まで歩こうと出発したのですが,途中で明智へ寄ったので,伏見宿まででした。その後,今度は加納宿から西へ美江寺宿まで歩きました。ということで,その間の加納宿から伏見宿までが未踏破となっていました。
 先日,国道21号線を走っていたときに鵜沼宿を見つけてそれ以来気になっていたので,今回,鵜沼宿あたりを散策することにしました。
 鵜沼宿からその次の加納宿までは約17キロメートルもあって,歩くと5時間ほどかかりそうです。その間は平地で,JRと名鉄が通っています。そこで,無計画に出かけて電車に乗りながら歩こうと考えていたのですが,コロナ禍でそんな気もすっかりなくなってしまい,今回は,鵜沼宿だけ行って,後は,車で旧中山道を加納宿まで走ることにしました。鵜沼宿は未踏破の加納宿から伏見宿までの間にあります。
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 なお,鵜沼宿から東の太田宿までは8キロメートルですが,ここは登り坂,うとう峠という難所があります。ここを歩く計画を立てていたのですが,これはあとまわしです。そしてまた,私は,坂は下るに限る,という信念? から,もし将来歩くときは太田宿から出発して鵜沼宿に到着するプランを立てることになるでしょう。

 さて,鵜沼宿です。
 旧街道はどこも昔のままであれば車がすれ違える程度の幅しかないので,車両が通行禁止だったりあるいは一方通行だったりするのですが,鵜沼宿はそんなこともなく,車で通行できました。そしてまた,駐車場も広く,無料でした。ということで,無料の駐車場に車を停めて,散策開始です。
 鵜沼宿に残っているのは4,5件の住宅だけなのですが,この住宅が宿場の雰囲気をよく残していました。また,脇本陣が建て直されていて,無料の博物館となっていました。
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 脇本陣の東にかつては本陣があったそうですが,持ち主が経済的な理由から売り払ってしまい,そこに分譲住宅が経ってしまっていました。宿場の保存計画がもう少し早ければそんなこともなかったのにと,博物館で説明をしていただいた係の人が言っていました。
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 鵜沼宿は日本橋から52番目の中山道の宿場です。
 江戸時代は尾張藩領で,南へ約2キロメートルの木曽川対岸に犬山城があります。 鵜沼宿には,神社や石造物,旅籠の面影を残す住宅などが残るものの,周辺の近代化が進んできたために,町屋館(旧武藤家住宅)の修復,脇本陣の復原,宇留摩庵の修復,景観重要建造物(古い家並や酒蔵)の保存改修などが行われ,せせらぎ水路の設置,電線の地中化,案内板の設置,道路の美装化や安全対策が図られ,往時を偲ばせる宿場町として再生されました。
 また,一里塚もかつては三箇所にあり,現在は,「山の前の一里塚」は岩の上に石仏が安置されているだけ,「六軒の一里塚」と「新加納の一里塚」は標識が残っているのみになっています。
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ということですが,歩いていると,なかなかいい雰囲気でした。
 私は,この国では,こうした風情がもっともこころが落ち着きます。

◇◇◇


◇◇◇
月,木星,土星,水星,
レナード彗星。

日没後の快晴の西の空。
月齢4.6の月。東方最大離角の水星。
その周りの惑星,そして,レナード彗星。
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 木曽路を訪れると,いつもは旧中山道を1宿間歩きます。今回はそうした予定はなかったのですが,宿泊先に向かう間に時間があったので,宿場間の移動は車にして,旧中山道の宿場歩きを楽しむことにしました。

 巴渕から南に行くと,宮ノ越宿になります。宮ノ越宿は中山道36番目の宿で,宿内家数137軒でした。うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠21軒で,宿内人口は600人ほどでした。
 前回来たときは,ここにあった義仲館に行きました。義仲館は源義仲の生涯を人形や絵画を使って紹介した展示がある博物館でした。
 今回は,宿場の中心あたりを少しだけ歩いてみました。前回行かなかった本陣跡が公開されていたので入ってみました。1883年(明治16年),旧中山道宮ノ越宿は大火にあい,90軒の家が燃えてしまいました。この大火で本陣の主屋部分も焼失しましたが客殿部分は焼失を免れました。木曽11宿の中でたった1宿残されたこの客殿部分は再生され,2016年(平成28年)から一般公開されているのです。
 私のほかに観光客はだれもいませんでした。本陣の中には宮ノ越宿の年代別の宮越宿割図の複製等が展示されていました。

 宮ノ越宿を出て,旧中山道を南に走ると,中山道の中間地点に着きました。ここが旧中山道六十七次のちょうど中間地点だった場所です。当時の人はこの碑をみて,「やっと半分来た…」と思いながら木曽の山々を眺めたことでしょう。
 中山道は山間部を通るため東海道に比べて歩くのが困難なようですが,実際に歩いてみると,東海道も箱根峠,鈴鹿峠に加えて,橋のない大井川などがあって,それなりに大変で,しかも,水嵩が増すと川止めになってしまい予定が立たないので,むしろ中山道のほうがその点では楽だったといいます。
 東海道と中山道は距離は中山道の方がずいぶん遠回りに思えますが,実際は40キロメートルくらい中山道が長いだけです。

 さらに南に民家のある旧中山道の狭い道路を進むと,いよいよ福島宿に到着します。
 福島宿は中山道37番目の宿場でした。福島宿の宿内家数は158軒,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠14軒で宿内人口は約1,000人でした。
 この地は,戦国時代には領主木曽氏の城下町として,江戸時代には木曽代官山村氏の陣屋町として栄えました。
 福島宿の北側の入口には箱根,新居,碓氷,福島の四大関所のひとつ福島関所が設けられていました。福島関所跡は発掘調査により番所敷地及び門,塀,棚等の配置が確認され,1979年(昭和54年)に「江戸幕府の交通政策史上における遺構として極めて重要なものとして旧中山道に接する家中屋敷部分を含め関所跡」として「福島関跡」の名称で国の史跡に指定されました。
 現在は,発掘された遺構の一角に関所が復元され,資料館として往時の姿を物語る用具類などが展示されています。前回,私はそこに訪れたので,今回はパスして,さらに進みます。

 福島宿は,宿場であった上町,下町は1927年(昭和2年)の大火で焼失してしまったので,残念ながら現在は古い建物は残されていませんが,地形や道路から往時をしのぶことができます。また,上之段地区にだけ江戸時代末期の建造物が所々残っており,往時の面影をとどめています。
 町中の観光客の駐車場に車を停めて,上之段地区に向かいました。私は,このあたりの雰囲気が好きです。まず,高札場が出迎えてくれます。その先は,件数は多くはないのですが,古い木造家屋やなまこ壁の土蔵が残っています。また,新しい建物の中には景観に配慮した外装になっているものもあります。町のあちこちに水場があり,道端の水路にもきれいな水が勢いよく流れていて木曽の水の豊かさを感じることができます。
 往時の暮らしに思いを馳せながら散策し,町の雰囲気を味わうのに最高です。
 私は,馬籠宿やら妻籠宿のような観光地化されたところよりもむしろこうした場所のほうが好きですが,多くの日本人の旅というのは,食事をし土産を買い,ということが主になってしまうので,人が少ないところは次第にさびれていってしまうのが残念です。

💛

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 源義仲(木曾義仲)と巴御前のことを知らないと,木曽路の旅はそのおもしろさが半減します。
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 巴御前は平安時代末期の女性で,「平家物語」によれば源義仲に仕える女武者とあります。また「源平闘諍録」によれば樋口兼光の娘であり,「源平盛衰記」によれば中原兼遠の娘で,源義仲の妾とあります。
 「平家物語」では「木曾最期」の章段だけに登場し,木曾四天王とともに源義仲の平氏討伐に従軍し,源平合戦で戦う大力と強弓の女武者として,次のように描かれています。
 「木曾殿は信濃より,巴・山吹とて,ふたりの便女を具せられたり。山吹はいたはりあって,都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く,容顔まことに優れたり。強弓精兵,ひとり当千の兵者なり」
 宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い,最後の7騎,5騎になっても討たれなかったといいます。
 源義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから,最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとします。巴はなおも落ちようとしなかったのですが,再三言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん」と言い,大力と評判の敵将・御田八郎師重が現れると,馬を押し並べて引き落とし首を切り,その後,巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた所で物語から姿を消すのです。
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 源義仲ゆかりの地である宮ノ越宿の少し北側,旧中山道沿いに巴淵があります。歴史漂うこの淵は、巴状にうずまいているので,巴淵と名づけられました。
 巴淵は武勇に長けた麗将として有名な巴御前にちなんだ深淵でもあり,伝説には,この淵に住む龍神が源義仲の養父中原兼遠の娘として生まれ,巴御前に化身して源義仲の愛妾として彼の生涯を守り続けたといわれています。 巴御前はここで水浴をし,泳いでは武技を練ったとか。
 巴淵のある山吹山一帯は、この時期,全山を紅葉が鮮やかに染めます。岩をかみ巴状に蒼くうずまく淵と四季折々の花木の織りなす風情は一見に値するものがあって,とてもきれいでした。以前,NHKBSPの「にっぽん横断こころ旅」で火野正平さんも訪れていた地です。

 巴淵の石碑の右側には次の許六の句が刻まれています。
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 山吹も巴もいてゝ田うへ哉
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 これは「韻塞」に収録されている句です。1693年(元禄6年)5月,許六は江戸から木曽路を通って彦根に帰ります。芭蕉は許六が帰郷の折に次の餞別の句を贈っています。
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 旅人のこゝろにも似よ椎の花
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 1891年(明治24年)5月,正岡子規は木曽路の旅をします。このときの様子を「かけはしの記」に次のように記しています。
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 日照山徳音寺に行きて木曾宣公の碑の石摺一枚を求む。この前の淵を山吹が淵巴が淵と名づくとかや。福嶋をこよひの旅枕と定む。木曾第一の繁昌なりとぞ。
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 開田高原を出て,国道19号線に入り北に向かい,木曽福島を過ぎさらに北に進み奈良井に近づくと,木祖村に入ります。この村のウリは「木曽川源流の里」です。
 私は小学校の低学年のころ,夏休みの自由研究で「木曽川を源流から河口まで」というのに取り組みました。とはいえ,実際に行くわけにも行かず,単に本で調べたことを書き写しただけのことでした。何せ,インターネットもなかった時代,調べるといっても百科事典からのパクリにすぎませんでした。
 もし,理解のある親なら,それでも,寝覚めの床などに,車がなければ電車で連れて行って,川の石の形状の違いくらいは実際に見てくることもできたのでしょうが,残念ながら私の親には,日ごろ勉強しろと言う割にはそんな興味も情熱もなかったので,完全に孤立無援でした。
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 子供のころに考えたことはいつまでも忘れないものです。車を走らせていて,木曽川源流の里という看板を見つけて,そうか,この村に木曽川の源流があったのか,と妙に感動しました。

 ところが,「木曽川源流の里」と村のウリをうたいはしてもそれだけのことで,そうした類の博物館への道案内があるわけでもなし,そこがどこなのかという目立った案内があるわけでもなしということで,私はがっかりしました。
 しかし,しばらく走っていくと,観光案内の大きな地図がありました。それを見ると,どうやら,木曽川は国道19号線を左折して西に,山を登っていったところに源流があるらしいことがわかりました。源流の近くに味噌川ダムというものがあって,そのダム湖の東側を道路が伸びていて,その先にある標高2446.6メートルの鉢盛山が木曽川の源流だということを知りました。
 そこで,味噌川ダムを目指して走っていきました。

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 味噌川ダムは木祖村の木曽川に建設された高さ140メートルのロックフィルダムです。洪水調節,不特定利水,上水道,工業用水,水力発電を目的とした水資源機構の多目的ダムで,ダム直下では利水放流水を利用して水力発電を行っています。この奥木曽発電所は最大4,800キロワットの電力を発生できる長野県企業局の発電所です。
 今は川は伊勢湾まですべてを木曽川とよぶのですが,かつては,鉢盛山から流れ出た小さな川が木祖村の小木曽というところで笹川と合流し,それを味噌川といいました。それは,古くは木曽川を「曽川」といったことから、源流地域では「未だ曽川でない」といういい方があり,それで「未曽川」といっていたらしいからですが,それがいつの間にか「味噌」の字になっていったということだそうです。
 そこで,このダムを味噌川ダムというわけです。
 ダム湖の名は奥木曽湖で,面積は1.4平方キロメートルあります。右岸にはダム管理所,左岸には「木曽川源流ふれあい館」という名前の味噌川ダム資料館があります。
 味噌川ダム建設によって水没した世帯はなかったものの,有数の木曽ヒノキの産地でもある木祖村のヒノキ林が水没することから,当時の木祖村長が補償をめぐって水資源開発公団や建設省,下流受益自治体と交渉し,愛知県,岐阜県から補助金を支出してもらうということで解決したのだそうです。
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 このダムの周囲は道路があるのですが,東側の道路は落石の危険があり,通行止めとなっていました。西側の道路のほうはダム湖に沿って先に進むことができて,奥木曽湖の先にはある奥木曽大橋までは自由に行くことができました。通行止めとなっている東側の道路のほうはそれを進むと木曽川の源流まで林道が通じているらしいのですが,許可がないと行くことができないということでした。
 「木曽川源流ふれあい館」に入ってみました。館内にはさまざなま展示があって,かつて木曽川源流にあった昔の碑の本物と木曽川源流の場所の写真もあって,興味深くそれを見ることができました。また,「木曽川源流ふれあい館」から先小高い山の上に展望台があって,そこまで車で行くことができました。展望台からは中央アルプスの峰々が見渡せ,ダムとダム湖である「奥木曽湖」を同時に一望できました。
 こうして,木曽川の源流はどこなのだろう,という子供のころの疑問が解決して,私はとてもうれしくなりました。

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 今日の写真は開田高原です。高原という言葉に弱い私ですが,日本には私のイメージする空の広い高原はほとんどありません。しかし,開田高原は私のイメージする高原に近い場所です。
 たとえば,八ヶ岳山麓とか野辺山とか軽井沢もまた,イメージとしてはよいのですが,そうした有名な観光地でなく,ちょっと地味な,落ち着いた場所であることが,さらに魅力的で,私にはこころ休まります。
 本当にいい場所です。
 こうした場所で時間を忘れてボ~ッとしていたいと思ったりするのですが,おそらく私にはそれができません。ボ~ッとしていたいという気持ちとは裏腹に,いつも何かをしていないと気が休まらないという複雑な性格だからです。
 このような場所に住んで,お昼間は音楽を聴きながら読書に勤しみ,夜は満天の星を楽しむ… そんな生活をしてみたい,という願望があるのですが,それもまた,おそらく,そのような生活が実現したら,3日で逃げ出してしまうことでしょう。
 そんな自分に手を焼くのです。
 ところで,開田高原は標高が1,100メートルから1,300メートルと高く,真夏でも平均気温が18度という爽やかな高原で,雄大で美しい御嶽山を見ることができる場所です。こんな場所なら住んでみたいと思う数少ないところなのですが,実際住んでみると,この寒さが耐え難いのだそうです。

 それはさておき,開田高原は木曽馬のふるさとです。そこで,それにちなんで,ここには約50ヘクタールを誇る「木曽馬の里」があって,数少なくなった木曽馬を守り育てながら自然の中で木曽馬と人が触れあい,忘れかけていたふるさとの景色,風,文化を肌で感じることができるという場所になっています。日本にこんな場所があるのか! というすてきなところです。
 この木曽馬の里ですが,民間なのか公営なのか,私にはいまひとつよくわかりませんでした。だれでも自由に中に入れるし,特に入園料というモノもない不思議なところです。調べてみると,運営主体は財団法人の開田高原振興公社で,施設運営の予算については木曽町の一般財源と助成金からなっていて,木曽町から年間 1,700 万円の予算が計上され1,000 万円ほどの売り上げがあるそうです。

 この施設の中にある,おみやげとお食事センターの一本木亭は私の大好きな場所です。
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 信州にそば処数あれど「開田のそばは色は黒いが味は良い」とだれかがいったとかいわないとか…。開田高原は,朝晩と日中との寒暖の差が激しく,夏場はよく霧が出ます。この霧の下で育ったそばを霧下そばといい,それはおいしいそば蕎麦の条件のひとつです。また,開田の女性はそばが打てないと嫁にも行けないとか…。
 ということで,木曽馬の里では毎年約1ヘクタールの畑にそばを栽培しています。
 ここでは,そんなそばを味わうだけでなく,そば道楽体験道場で村の名人たちに直にそば打ちを教えてもらい,自分で打ったそばを味わうこともできます。
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 前回来たときは美しい御嶽山を見ることができたのですが,今回は残念ながら曇っていて,あいにく山頂を見ることはできませんでした。しかし,前回と変わらず,おいしいおそばを食することができました。

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 今年も忘れずに秋が来ました。
 日ごろあまり世間とは関わりがないのでついつい忘れがちになるのですが,世の中はおかしな病禍がいまもだらだらと続いているようで,今もって海外旅行もできません。私も,本来ならこの時期はチェコのプラハに行くことにしていたのですが,それもかないませんでした。しかし,その反対に,Go To トラベルとやらで,安価に旅行ができることと海外に行くことができないことで,裕福層が国内の高級な宿泊施設を予約して旅行を楽しんでいるようです。
 私は豪華な温泉旅館旅館に宿泊して大浴場でゆったりしたり,食べきれないほどの食事を味わうような趣味もなく,ツアー旅行をする気もなく,また,寂しん坊でありながら人嫌いという困った性格なので,自分でも身の置き所がないのが悩みです。しかし,めっきりすずしくなったこのよい時期に家に籠っていてはもったいないという気になって,いつものように,人の少ないところを選んで,秋の紅葉を味わいに出かけることにしました。
 …ということで,10月15日木曜日から10月16日金曜日にかけて,木曽駒高原まで車で出かけて,いつもの定宿で1泊です。
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 こうしてさらに人の少ない郊外に出かけると,日本はもともと国土が狭いのに山ばかり,なのにやたらと人が多いので,どんな山奥までも,少しでも土地があれば人が住んでいるのにあきれるというか,感心します。よくもまあこんな崖っぷちに,というところまで家が建っています。そこに住み着いた必然性というか,そうしなければならなかった歴史的な経緯がいろいろあると思うのですが,ともかく,すごいものです。

 これまでは中津川まで高速道路で行ってそこから国道19号線を走ったのですが,今回はいつもと趣向を変えて,飛騨川沿いを走り,下呂を過ぎ飛騨小坂まで行って,そこから右折して木曽路に向かうことにしました。
 以前,高山には車で行ったことがあるのですが,東海北陸道経由だったので,飛騨川沿いの国道41号線は走ったことがありませんでした。結構近いところでも知らない場所が多いものです。
 ところが,飛騨小坂で右折して入った道路のどれも,少し前の豪雨災害の影響が残っていて,途中で通行止めになっている箇所がいくつかあって,行きどまりばかりでした。まるで迷路のようで,どこを進めば木曽路に行けるのかさっぱりわかりません。車のカーナビは突然この先通行止めという標示が現れるので頼りにならず,かといって,iPhone の Google Maps を頼りに走っていくと,これもまた通行止めが反映されておらず,なんど行きどまりにであって引き返したことか,…という感じで,なかなか木曽路に行くことができませんでした。それでもなんとか国道361号線に出ることができたので,どうにか開田高原までたどりついてほっとしました。ここまで山深くなると,昨年走ったオーストラリアのド田舎の山道を思いだしました。日本にもこんなところがあるんだあ,と感慨深くなりました。
 ともかく,気温は9度しかなく,もう,晩秋といった感じでした。

 幾度かの通行止めには参りましたが,途中で角の生えた大きなシカには遭遇するし,サルは駆けまわっているし,さすがにクマは見ませんでしたが,走っていてなかなか楽しい道路でした。しかしまあ,オーストラリアのド田舎と違って,日本という国は,どんな山奥に行っても,なんらかのリゾート開発をした跡があるのです。その多くはすでに廃墟と化しているし,現存していてもさびていているものばかりでした。まったくもっていただけません。
 おそらくそれらはバブル景気のころに開発したのでしょうが,都会から行くのに3時間もかかるような場所に,しかも,行って何か楽しみがあるわけでもないところにリゾートを作ったところでうまくいくわけがないことくらい,はじめっからわかりそうなものなのに,と思います。おまけにゴルフ場でもこしらえたなら,もう絶望的です。こうして,日本中,いたるところで自然が破壊され,その結果,自然災害が起き,餌場を失くした動物が集落までおりてきてしまうのでしょう。
 日本はそんななさけない国だということは,今さらここで愚痴ってもはじまらないのでそれには目をつぶり,遠くの山々を見渡すと,色づいた紅葉の美しさにこころが癒されました。
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 奥山にもみぢふみわけ鳴く鹿の
 こゑきく時ぞ秋はかなしき
   猿丸大夫
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 やがて,丸山公園に至る分岐がありました。ここでまっすぐ鳥居峠に行くか丸山公園に行くか迷いました。旧中山道の鳥居峠をめざすので,丸山公園は旧中山道とは別の道のような気がしました。
 結局どちらから行っても丸山公園に行くのでしたが,私の持っていた地図はこの辺りの道が詳しく書いてなくて,よくわかららなかったのです。せっかく来たのだから違ったらまた戻ればいいやと,私は丸山公園に行く方を選びました。
 実際は,この分岐で丸山公園と書かれた道を選ぶと丸山公園が少し遠回りになって,そのまままっすぐに行って小さな展望台の先の広い分岐点から少し戻って丸山公園に行くほうが楽だったのです。
 いずれにしても,この辺りがこの峠の見どころなのでした。
 丸山公園は鳥居峠の少し手前の高台にありました。広場になっていて,そこにはさまざまな碑がありました。また,広場からは展望がよく利いて,遠くには御嶽山も眺めることができました。
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 松尾芭蕉は,貞享元年の野ざらし紀行と元祿元年の更科紀行の2度,この鳥居峠を越え,その折に次のふたつの句を残しました。
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 木曽の栃浮き世の人の土産かな
 雲雀よりうえにさすらふ嶺かな
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 丸山公園の向こうに,さらに高台があって,そこに行くための木で作られた階段がありました。けっこう険しく登ることを躊躇しましたが,せっかくここまで来たのだからと登っていくと,そこが御嶽神社でした。神社のある場所は鳥居峠よりも標高が高い最高地点です。
 御嶽神社(御岳遙拝所)は,古来より御嶽山に登る代わりにお参りすれば御利益があると信じられてきた場所だそうです。両脇にはおびただしい数の仏像や石碑がありました。
 御嶽山は山岳信仰の山で,富士山の富士講と並び,講社として庶民の信仰を集めた霊山でした。御嶽教の信仰の対象とされていて,御嶽山の最高点の剣ヶ峰には大己貴尊とえびす様を祀った御嶽神社奥社があります。私は子供のころ親が御嶽講の話をしているのを聞いて気味悪がった思い出があります。
 鎌倉時代から,御嶽山一帯は修験者の行場でした。当時は登山道も整備されていなくて,山頂の御嶽神社奥社登拝に登るには麓で75日または100日精進潔斎の厳しい修行が必要とされ,この厳しい修行を行った者だけが年1回の登拝をすることが許されていたといいます。これもまたきわめて日本らしい話です。
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 日本という国は,山の頂上のような高いところや海に突き出た岬など,地形のとんがったところはどこも社があります。そうした日本人の精神構造は実に興味深く,研究に値します。また,田舎を散歩していると人の住んでいる場所には必ず神社があります。住民はその神社が何を祀っているのやらそういうことはほとんど知らないし習わないのに,なぜか手を合わせたり一礼したりしてありがたがったりするのですが,それは考えてみれば不思議なことだと私は常々思っています。
 これだけ自然を破壊し,山を削り,ゴミを捨てるなど,日ごろは散々神をも恐れない行動をしているのにかかわらず,です。

 話を戻します。
 江戸時代になると,御嶽山には王滝口,黒沢口および小坂口の3つの登山道が開かれたので,尾張や関東など全国で講中が結成されて御嶽教が広まり,信仰の山として大衆化されていきました。江戸時代末期から明治初期にかけては毎年何十万人の人が御岳講で登拝し賑わっていました。
 御嶽信仰では自然石に霊神の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習があるので,参道には多くの「霊神碑」があります。各講の先達の魂は霊神となるという「死後我が御霊はお山にかえる」信仰に基づく「霊神碑」が御嶽山信仰の特徴のひとつです。また,この鳥居峠にある御嶽遥拝所にも,御嶽信仰の石碑や祠が設置されています。
 さらに,濃尾平野の農民は木曽川の水源となる御嶽山を水分神の山として尊崇していました。

 さて,御嶽神社を過ぎると,登山道の周りはトチの木の群生があって,天狗のうちわのような葉っぱが広がっていました。そのなかでも「子生みの栃」として知られるものが有名です。
 トチの木の群生を過ぎたあたりがついに鳥居峠でしたが,そこには単に碑が建っていただけで,うっかりすると見逃してしまいそうでした。私は,本当にここなのかな? と思いながらさらに歩いて行くと,ずっと下り坂になっていったので,納得しました。
 こうして念願だった鳥居峠までやってきました。あとは下るだけです。下りの鳥居峠から奈良井宿までの道は藪原宿から鳥居峠までの登ってきた道とは違って,昔のままの狭い道が続いていました。やっと,私が思っていた峠の旧街道になりました。
 そこで,今回,もし,私が奈良井宿の方から鳥居峠に登ったならば,別の感想をもったことだろうと思いました。先に書いたように,藪原宿からの登りは車が通った跡があるような道で,道幅も広くけっこうなだらかだったのですが,鳥居峠から奈良井宿までの道は狭く急でした。昔の旧街道のままであるとともに,こちらの方が登るのがたいへんそうだったからです。
 下りの道は右側がずっと谷になっていました。谷底からは巨大なフジの木が伸びていて,花を咲かせていました。こうして,しばらく周辺が林となっている中を進んでいくと,やがて,林道と交差する分岐があり,道しるべに従って右側に折れて少し歩くと,鳥居峠の休憩施設と水場が見えてきました。ここは江戸時代「峠の茶屋」があって賑わったそうですが,今は辺りに木が生い茂り,眺望も望めませんでした。
 さらに下って,武田・木曾の古戦場跡に建つ「中の茶屋」の落書きだらけの古い建物を過ぎると,いよいよ奈良井宿が見えてきました。そこからは石畳の道が2度あって,とうとう一般の自動車道に出ました。自動車道に沿って近道の遊歩道の入り口があり,それをたどると奈良井宿の南の端に出ました。
 奈良井宿の南の端には鎮神社がありますが,この辺りから先は昨年秋に歩いたところです。

 こうして2時間程度で藪原宿から鳥居峠を越えて奈良井宿に到着しました。思っていたよりずっと楽でした。それよりも,到着した奈良井宿には観光客がひとりもいないのに驚きました。奈良井宿は何度も来たことがありますが,まったく観光客がいないのははじめてでした。
 人がいないのでツバメが飛び回っていました。ここに住む老人が家の軒先で忙しそうに格子を掃除していました。いいところですねと話しかけると,ツバメの糞が付くので困るという話でした。また,奈良井宿の民家の多くは無人で,観光客相手に商売をしている家だけが住んでいるか通いで来るのだという話でした。そして,今年の春は観光客がが来ないので困っているということでした。内情はどこも大変そうです。
 多くの店は閉じていましたが,開いていた土産物店も,当然客はいませんでした。開いていた食堂が2,3軒あったので,そのなかの1軒でゆっくりと昼食を楽しむことができました。客は私だけでした。お店の人がお客さん来てほしい,と言っていました。お気の毒な限りです。
 奈良井宿を抜けるとJRの奈良井駅です。
 奈良井宿まで歩く途中で,1組の外国人のカップルに会いました。やっと観光客に会ったという感じです。この時期に外国人? と話しかけると,日本在住の,男の人はナイジェリア人のプロバスケットボールの選手,女の人はクロアチア人ということでした。
 駅に着きました。当然? ICカードは使えず,電車はワンマンカーで車内で料金を払うということでしたが,駅員さんいて,駅で現金でチケットが購入できました。乗る客は私ひとりで,駅員さんは暇で,駅の階段を上ったり下りたり運動にいそしんでいました。駅舎でしばらく待って,電車の時間になったので急いでホームに行って乗り込みました。2両編成の広い車内に乗客は私を含めて3人しか乗っていなかった電車で次の藪原まで戻りました。
 次回は秋以降,すずしくなったら今度は鳥居峠より険しい和田峠を歩いてみたいと思います。

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 鳥居峠は,奈良井と藪原を結ぶ峠で標高は1,197メートル,旧中山道の難所でした。
 愛知県の名古屋あたりから長野県の松本あたりまで行くには,現在も木曽路と伊那路のふたつのルートがあります。現在は中央自動車道が恵那山トンネルを貫き,伊那路のほうがメインルートになっていますが,それ以前は,江戸時代の旧中山道も,明治以降の国道19号線も木曽谷を通るのがメインルートでした。中央自動車道の開通で中津川以北は伊那路のほうが栄え,木曽路は取り残される形となってしまったために,木曽路はむしろ昔ののどかさが残り,旅をして楽しいところとなっています。今もJRの中央本線は木曽路を通っています。

 この伊那路と木曽路の関係は古代も同じでした。
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 713年(和銅6年),美濃国と信濃国の境で東山道の神坂峠といいますから,現在恵那山トンネルの通っているところですが,そこが危険なために新たな官道として12年の歳月を掛けて開削されたのが「吉蘇路」(きそじ)でした。吉蘇路の鳥居峠は,かつては「県坂」(あがたざか)とよばれていました。それは,現在とは違って,峠の東側を北に向かって流れる奈良井川と西側を南に向かって流れる木曽川との中央分水嶺と境峠,木曽峠,清内路峠,鉢盛峠が信濃国と美濃国の国境だったからです。
 国境だったために,この場所では,中世には戦いが何度も繰り広げられました。
 平安時代後期には,以仁王の令旨を受けた木曾義仲が平家追討の旗揚げをし,県坂の御嶽遥拝所に参拝しここより出陣をしました。英泉の描いた浮世絵「木曽街道薮原宿鳥居峠」の絵には,木曽義仲の硯清水の碑と湧き水が描かれています。このとき,木曾義元が戦勝祈願のため峠に鳥居を建てたことから,県坂は鳥居峠と呼ばれるようになりました。現在は再建された鳥居があります。
 また,戦国時代には,この場所で武田氏と木曾氏の戦が何度も起きました。1549年(天文18年)には武田信玄の軍勢と木曾義康の軍が鳥居峠で衝突し武田軍は敗れました。 1555年(天文24年)には武田信玄が再び木曾軍を攻め勝利しました。武田信玄亡きあとの1582年(天正10年)には,武田勝頼が木曾を攻めますが負け,武田家は一気に崩壊し滅亡する事となりました。木曾義昌と武田勝頼の戦いで命を落とした武田方の兵士500人を埋葬したという「葬沢」が今も残っています。武田家の滅亡後,木曾義昌は織田信長に拝謁し,木曽安堵と松本と安曇を貰い,現在の松本城である深志城の城主となりました。
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 さて,今回の道行の話に戻ります。
 「飛騨街道分岐点」から旧中山道は右に進み,いよいよ鳥居峠を登りはめました。まずはじめにあったのが「御鷹匠役所跡」です。鷹狩に使う鷹をこのあたりで捕獲したということですが,この高台に立つと,そこは鷹が舞うのが一望できる場所のように思えるので,さもありなん,という感じがしました。
 それを過ぎると,鳥居峠にむけて長い登り坂になります。右に水場(水神)がありました。そこの水は今も飲めるというので所望してから,天降社という神社の大モミジを見ながら歩いていくと広い道と交差しました。道を渡った所からは両側がカラマツ林の登山道となりました。案内板があってその先は車の通行が禁止と書かれた遊歩道となって,その道は旧街道の風情が残る石畳でした。 石畳から先はつづれ折りになって標高をかせぎます。
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 この先の行程は次回書きますが,ここで,鳥居峠を歩き終えたあとの感想を書いておきます。
 藪原から歩いた鳥居峠の道は,私の期待とは異なっていて,正直言って,少しがっかりしました。それは,現在こそ車両の通行が禁止されていますが,かつては,未舗装とはいえ,旧街道は当時の状況より道幅が広げられていて,ところどころ,かつては車が通った道路に改造されていたからです。車が走ったころの轍が今も残っています。そしてまた,私が歩いたときはがけ崩れを防ぐために道路工事が行われていて,そのために工事関係の車やクレーンが旧街道に入っていて,標示も立てられていて,すっかり旅情が失われていたからです。
 そしてまた,藪原からの鳥居峠越えは,私が覚悟していたほど険しい道でもなく,おそらくそれは私がこのところもっと険しい山城にいくつか登ったからそう思ったのでしょうが,拍子抜けするくらい楽に峠を越えることができました。

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 旧中山道は,岐阜以西は平たんですが,長野県や群馬県は峠越えの街道でした。それでも,登山とは違って危険はなく,また,ほとんど人がいないので,散歩するにはとても安全で楽しいところです。
 旧中山道の峠越えでは碓井峠,和田峠,鳥居峠というのが有名なので,いつか歩いてみたいと思っていました。もう少しすると蒸し暑い季節になって街道歩きも秋までお休みになってしまうので,今が街道歩きの今春のラストチャンスということで,木曽駒高原に行ったついでに,今回は鳥居峠を歩くことにしました。
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 長野県を通る旧中山道は,そのほとんどがJR中央線と国道19号線に沿っているので,宿場間を歩いたら,JRで戻ることができます。この鳥居峠は藪原宿から奈良井宿の間ですが,藪原も奈良井もともにJRの駅があります。軟弱な私は,旧街道歩きはつねに楽な下り坂を歩くことにしているのですが,藪原から奈良井と奈良井から藪原はどちらから歩けば標高差が少しでも楽かを考えて,JRの藪原駅に車を停めて藪原宿から鳥居峠を越えて奈良井宿まで行き,奈良井からJRで1駅戻ることにしました。

 朝10時前,藪原駅に着きました。駅前は人ひとりおらず,駅前には自由に車が停められました。狭くゴミだらけで汚く人が異常に多い日本にいると,アメリカやヨーロッパ,オーストラリア,ニュージーランドなどの田舎の美しくかつのどかな風景が,今となってはとても懐かしいのですが,それでも,日本の「観光地でない」山里は人もほとんどおらず,ホッとします。
 藪原の町はJRの線路の西側にありますが,駅前は東側です。駅からから線路沿いに少し歩き,架線の下にあった歩道を越えると,藪原宿だった町並みになりました。当時の面影が残る家もあり,道幅も旧街道のままで,タイムスリップしたような感じがしました。藪原宿は宿内家数は266軒,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠10軒で。人口は1,500人ほどでした。
 長野県の国道19号線沿いの宿場はどこもそんな感じです。自働車道は江戸時代の宿場町から平行に新しく作られたところをバイパスして通っていて,旧中山道の宿場のなかの道はどこも昔のままの幅で残っています。
 この宿場の伝統は「お六櫛」です。今も特産品として,それを扱うお店がありました。「お六櫛」というのは,妻籠宿のお六という老婆が藪原宿で始めた「お六櫛屋」が物のよい櫛を売る店として評判だったというのがはじまりのようです。また,藪原宿は,旧街道に沿って,一里塚,明治天皇の記念碑,防火高塀跡,極楽寺宝蔵庫などの旧跡が点在していました。

 旧中山道は,藪原宿を過ぎたあたりでJRの線路によって分断されています。この先に行くには再び線路を越す必要があります。線路をまたぐには,歩道橋がありました。それを越えると飛騨街道と中山道の追分がありました。さあこれからいよいよ鳥居峠に入ります。

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 樽見鉄道の美江寺駅から大垣駅に出てJRに乗り替え,岐阜駅に着きました。樽見鉄道では交通系ICカードが使えず,いつもニコニコ現金払い。30年前のよき日本を思いだします。
 この日はひさしぶりに岐阜城に登ることにしていました。現在NHKの大河ドラマで明智光秀を主人公とする「麒麟がくる」を放送していて,岐阜城のふもとにある岐阜市歴史博物館では岐阜大河ドラマ館が開催されているということで,ついでに行ってみることにしました
 岐阜駅からバスに乗って,岐阜城のふもとの岐阜公園で降りました。岐阜バスも交通系ICカードが使えませんでした。樽見鉄道はともかく,市内バスがこれでは観光地として岐阜を売っているのに片手落ちです。こういうことがいまひとつメジャーになりえない岐阜を彷彿とさせているのです。
 岐阜公園で,まず,昼食をとってから,大河ドラマ館を見ました。平日というのに,けっこうな人が来ていました。先日行った明智城もそうでしたが,大河ドラマは10年に1度程度戦国時代が舞台となり,戦国時代となると必ず出てくるのが織田信長で,そうなるといつも岐阜がそれにあやかろうとするわけです。私は,それにあやかって来たきたわけではないのですが,奇しくもブームにのっかって旅をしているミーハーのひとりとなってしまいました。
 大河ドラマ館を出て,いよいよ岐阜城です。せめて一度は歩いて登ろうと思っていたのですが,旧中山道を10キロメートル以上歩いてきたばかりで大変そうだったので,帰りだけ歩くことにして,行きはロープ-ウェイを使いました。
 岐阜城は金華山の山頂にあって夜もライトアップされどこからでも見ることができて,岐阜のシンボルとなっています。しかし,江戸時代にはすでに廃城であったことから,現在の城郭は単に観光のためのパビリオンにすぎず鉄筋コンクリートで,城という形をかりた展望台の役目しかありません。
 
 この山の上に城ができたのは,1201年(建仁元年)というから鎌倉時代ですが,二階堂行政が砦を築いたのがはじまりとされます。のちに一度廃城となりますが,やがて,15世紀の戦国時代になって,斎藤道三が守護の土岐頼芸を追放し権力を握りこの場所を居城としました。現在大河ドラマでやっているのはこのあたりの時代です。斎藤道三は城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り隠居するのですが,2年後に斎藤善龍に討ち取られてしまいます。しかし,斎藤義龍は急死し,子の斎藤龍興が家督を継ぎ城主となるのですが,織田信長が稲葉山城下に進攻しこの地を手に入れます。織田信長は城と町の名を「岐阜」と改めました。
 織田信長の死後,関ヶ原の戦いで子の織田秀信は石田三成の挙兵に呼応し西軍につき,岐阜城に立てこもるのですが落城してしまいした。徳川家康は岐阜城を廃城し,奥平信昌に加納城を築城させ,その際に岐阜城山頂にあった天守,櫓,山中,山麓の石垣などは加納城に,焼け残った御殿建築は大垣市赤坂のお茶屋敷に移されたといいます。それ以降,岐阜城はかえりみられなくなったわけです。
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 1910年(明治43年)に,長良橋の廃材を活用し,木造,トタン葺きの岐阜城が再建されました。しかし,これは1943年(昭和18年)に失火のため焼失しました。やがて,1956年(昭和31年) ,鉄筋コンクリート建築で3層4階建ての復興天守が完成しました。これが現在のものです。

 岐阜城のある金華山にはいくつかの登山道があります。七曲口といわれる登山道は岐阜城の大手道として使われていたもので,信長や岐阜城を訪れたルイス・フロイスなどが登った道です。この道が岐阜城への登山道の中で最もなだらかといいますが,それでも「道があまりにも険しく大変であったので風景どころではなかった」と古文書に記されています。馬背口といわれる登山道は距離が最も短いのですが,途中四つん這いになって登らなくてはならないところがあって下りは危険ということです。
 そうした登山道の情報を観光案内所で聞いて,私が下山に選んだのは水の手口,通称「瞑想の小径」でした。名前に惹かれました。これは北西の尾根を通るルートで,大手道に対して裏側の道,つまり搦め手です。「瞑想の小径」とは名ばかりで,山頂からしばらくは岩場の急斜面が続いたので降りにくく後悔したのですが,ふもとに近づくにつれて次第になだらかになり,岐阜市の北部と長良川の景観が楽しめるようになりました。
 山頂329メートル,登山道は約2キロメートル。一度は歩いて,と思っていた金華山も,登りではなく下りでしたが,ともかくまがりなりにも歩くことができて,1時間ほどで下山しました。こうして,今回もまた,やりたかったことがまたひとつクリアできました…ということにしておきましょう。

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 河渡宿をすぎ,長良川を渡ると,急にのどかな田園地帯となりました。旧街道歩きはこういった場所が歩いていてもっとも楽しいところです。まるで江戸時代に歩いているような気がします。
 ところで,河渡(ごうど)宿は現在の岐阜市河渡ですが,さらに西に行くと岐阜県安八郡神戸(ごうど)町があります。私は,河渡宿のあった場所が現在の神戸町のあたりだとばかり思っていましたが,どうやら読みが同じだけでまったく異なる場所のようです。
 河渡は,かつては江渡,合渡,川戸,河戸,江戸とも書いたようですが,近世末期に河渡に定着しました。長良川の右岸に位置する河渡の由来は「此東なる長良川の川上岐阜の北西にてふたつにわかれて南北に流れ,当村の十町ばかり東に至りて又両川ひとつに合ひて流るゝ故,合渡と名づけし」と伝えられているようです。
 神戸は,古代,税を納める集落という意味をもつ「神戸(かんべ)」に由来し, 日吉神社に税を納める集落だったカンベがいつの間にかゴウドと呼ばれるようになった,とか,日吉神社の神官の住む里「郷戸(ゴウド)」が「神戸(ゴウド)」になったとかいわれていて,どちらにしても,戦国時代の古文書にはすでに神戸の文字が出てきているようです。

 前回歩いた御嶽宿からずっと関ヶ原宿までは平地が続いていて,少し前に歩いた旧東海道の鈴鹿峠と比べて,中山道のほうがずっと快適です。今は,JRの東海道線も新幹線も名神高速道路も旧東海道沿いではなく,旧中山道沿いを通っています。旧東海道は伊勢に行くためにあえて険しいほうを通ったのでしょうか,あるいは,直線距離が近いからでしょうか,いずれにしても,私が京都に行くなら中山道のほうを選びます。
 歩く前は河渡宿でやめるかその次の美江寺宿まで行くか迷っていたのですが,河渡宿を過ぎると美江寺宿までもわけないように思えたので,結局,美江寺宿まで歩くことになりました。
 河渡宿から4キロメートルほどで美江寺宿の入口にあたる,樽見鉄道の線路が見えてきました。

 樽見鉄道はのどかなローカル線で,一度は乗ってみたいと思っていました。1956年(昭和31年)に国鉄樽見線が大垣駅と谷汲口駅間を走りはじめ2年後には美濃神海駅までが開通しました。しかし1985年(昭和59年)に廃線となることが決まり,この路線の存続を望む応援のもと,第三セクターとして「樽見鉄道」が誕生,さらに,路線は延長工事が進められ,1990年(平成元年)には樽見駅までの全線が開通しました。
 大垣駅から樽見駅までの全長34.5キロメートルに19の駅があり,のどかな田畑,根尾川を見下ろす緑ゆたかな渓谷とさまざまな景色が眺められる鉄道です。
 
 美江寺駅は踏み切りを渡って線路沿いに北にわずかに歩いたところにある無人駅で,まず電車の時刻表を見て,電車が来るまで美江寺宿を散策することにしました。幸い? 次の電車が50分後だったので,ゆったりと宿場歩きができました。
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 美江寺(みえじ)宿は中山道55番目の宿場でした。1589年(天正17年)に豊臣秀吉の下知により問屋場が設けられたのがはじめで,江戸時代になって中山道の宿場となりました。本陣は1669年(寛文9年)に開設され,宿駅制が廃止されるまで山本家が世襲しました。美江寺という名は「美しき長江のごとくあれ」と祈念されて美江寺という寺院が建てられた事にはじまる719年(養老3年)創建の十一面観音を本尊とした寺院です。
 歌川広重の木曽海道六十九次に描かれた「みゑじ」は美江寺宿の南端から京へ1町(110メートル)ほどの場所で,描かれている川は犀川らしく,この場所から写真を撮ると,現在もその面影を感じることができます。昔から水害に悩まされた地域で,自然堤防のうえに集落が集まっていて,現在,当時の遺構は数件の家を除けば特になにもないのですが,宿場町の雰囲気は十分に残っていて,なかなか風情のあるところでした。旧街道を歩いていて幸せに感じるのは,1時間ほど旧街道を歩いたのちにこうした町に着いたときです。
 美江寺宿は大垣藩預りの幕府領で,人口582人,家数136軒,本陣1軒で脇本陣はなく,旅籠が11軒ありました。

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 きちんと保存され,道路も歩きやすいように特別に舗装され,しかも,ほとんど車が通らないので,当時の建物はなかったにせよ,昔をしのびながら旧街道の余韻に浸れた加納宿は,街道の100メートルほど北を平行に走るJR東海道線の岐阜駅を過ぎると,旧街道の北側は,金津園という,往年はソープ街としてさかえた一角が今も残っていました。今も営業をしているようですが外観はほとんど廃墟状態で,それを過ぎると宿場は終わります。
 江戸時代,宿場だった場所を出ると周りは田畑で民家はなくなり,そのなかを街道だけが通っていたのでしょう。そうした場所は,現在は道幅が広がって,何の楽しみもない片側1車線の舗装された自動車道路となっているのが常です。
 加納宿から次の河渡宿までも,そんな感じでした。今は道路に沿って,外見はさほど裕福でないような家々が続いていました。やがて,旧東海道はJR東海道線のガードをくぐって,西北西に長良川を目指します。県道やら国道は旧街道とは少し離れたところを通っているので完全な生活道路で,路線バスだけがその道を通っています。地図で見るとわかりにくいのですが,歩いていると,自然にこの道を通ることになります。
 車がなかったころにできた道というのは,地図上では最短距離でないからくねくねと通っているように思えて,実は,勾配のすくない,あるいは川のない,自然に歩きやすい場所を通っているのです。後年,自動車道が整備されたときに,自動車道は多少の勾配は考慮されず,定規で書いたように直線に作られたので,旧街道はそれにまとわりつくようにくねくねとすすむわけです。
 
 加納宿を出て6キロメートルほど歩くと,長良川の高い堤防が見えてきました。
 江戸時代,長良川には渡しがあったので,河渡宿はその渡しの手前にあったちいさな宿場であったようです。今は,当時の建物はほとんど残っておらず,面影といえば道幅くらいのものでした。
 今は当然,長良川の渡しもないので橋を越えることになりますが,橋に出るのが難儀でした。車がびゅんびゅんと行き交う堤防道路を横切って,少し遠回りをしてやっと橋の歩道にでました。そして,長良川にかかる河渡橋の歩道を歩くことになります。橋の上からは遠くに西側には伊吹山,東側には岐阜城が眺められて,雄大でした。
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 河渡宿は中山道54番目の宿場でした。加納宿から河渡宿へは長良川を渡る必要があったので,1881年(明治14年)に河渡橋が架けられるまでは「河渡の渡し」を利用していました。河渡宿は長良川右岸堤下から東町,中町,西町の三町で構成されていましたが,全長はわずか三町,つまり330メートルという短さでした。
 なお,町というのは尺貫法での長さの単位です。条里制においては6尺を1歩として60歩を1町と定めました。尺というのは手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さが由来です。1891年,度量衡法により1,200メートルを11町と定めたので,1町は約110メートルということになります。
 「本陣は水谷治兵衛,問屋は久衛門,庄屋は水谷徳兵衛が務めていた 」と徳川幕府太平の記録にあり,河渡宿は幕府領で,人口272人,家数64軒,本陣1軒,脇本陣はなく,旅籠が24軒ありました。

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 自宅から30分もあれば行くことができる岐阜市ですが,車で通りすぎたり,電車で乗り換えたりすることはよくあっても,町を歩いたことはほとんどありませんでした。また,ここは中山道の加納宿なのですが,それが岐阜市のどこを通っていたのかも知りませんでした。近すぎて関心もなかったのです。
 このごろ,中山道が岐阜県のどこを通っていたのか,ということに興味をもって,前回は御嶽宿から伏見宿まで歩きました。また,今年は大河ドラマ「麒麟がくる」のゆかりの場所として岐阜が脚光を浴びています。そこで,暖かかった2月12日,中山道の加納宿の西にある次の河渡宿もしくはその次の美江寺宿から東に歩きはじめて加納宿まで行き,そののちに岐阜市の観光をすることにして,早朝,家を出ました。
 はじめは河渡宿,もしくは美江寺宿から東に向かって歩くつもりでしたが,河渡宿のもよりの駅であるJR穂積駅から河渡宿までは結構な距離があり,その次の美江寺宿のもよりの駅である樽見鉄道の美江寺駅のほうがずっと便利であったことなどから,どちらの宿場から歩きはじめるか迷ってしまい,それなら逆にということで,岐阜駅で降りて,加納宿から出発して西へ向かい,次の河渡宿もしくはその次の美江寺宿まで歩き,どちらかたどり着いた宿場から電車でふたたび岐阜駅に戻って,そのあとで岐阜市の観光をすることにしました。

 さて,加納宿です。
 加納宿は,JR岐阜駅から少し南に行ったところにあって,旧中山道は,JR東海道線に平行にありました。岐阜駅から少し南東に行ったところが中心だった場所で,私は,例によって,加納宿の東の端まで行って,そこから西に向かって歩きはじめました。
 当時の建物はほどんど残っていなかったのですが,道幅は当時のまま,そして,歩きやすいように街道筋だけ別の舗装がしてあって,宿場としてのなごりが感じられるような整備と保存がされていました。岐阜市にこんなところが残っているのに驚きました。

 現在の岐阜市の北側は斎藤道三,そして,娘婿の織田信長の時代に栄えたのですが,その後のことを私は知りませんでした。そこで今回調べてみることにしました。

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 鎌倉時代,美濃に土着した源氏系の氏族が荘園の現地荘官となり勢力を拡大しました。これが美濃国の土岐氏です。
 土岐氏は南北朝時代には守護となり,拠点を現在の土岐市である土岐から岐阜城の南山麓の長森,そして岐阜市南部の加納のさらに南の川手に移しました。次第に守護代の斎藤氏が力をもつようになったのは「麒麟がくる」でも描かれていました。第11代土岐頼頼芸を追放したのが斎藤道三。斎藤道三は美濃国を手中にし,当時井乃口とよばれた稲葉山の山麓に城下町を形成します。斎藤道三の死後,斎藤道三の孫斎藤龍興を追いやり美濃の国を手中にした織田信長は「井乃口」を「岐阜」と改め城下町を発展させました。と,ここまでは有名な話です。
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 織田信長が本拠地を岐阜から安土に移した後,岐阜城は嫡男の織田信忠に与えられ,さらに織田信孝,池田元助,池田輝政,豊臣秀勝,信長の孫織田秀信が城主となりましたが,1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城は落城し,徳川家康の命により廃城となりました。そして,関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は岐阜を直轄地にして幕府領として支配します。その後,岐阜は幕府領から尾張藩領となります。
 一方,徳川家康は豊臣方に対しての戦略の一環として岐阜の南,加納の地に加納城の築城を命じました。これが加納藩の成立です。そして,初代の加納藩主に長女亀姫の婿である奥平信昌を入封させました。このように,現在の岐阜市は,江戸時代はJR東海道線の北側が尾張藩領,南側が加納藩だったわけです。
 1602年(慶長7年)奥平信昌は隠居して,家督を三男の奥平忠政に譲りましたが,その12年後に奥平忠政は35歳で先立ち,翌年奥平信昌も死去。家督は奥平忠政の子奥平忠隆が継いだのですが,奥平忠隆も25歳で死去してしまい,奥平氏は断絶します。代わって奥平信昌の外孫である大久保忠職が入ったのですが,明石藩へ移封となり,次に松平光重が入りました。松平光重の後は子の松平光永,そして孫の松平光煕が継ぎましたが,やがて山城淀藩へ移封,代わって備中松山藩から安藤信友が入りました。ところが,安藤信友の跡を継いだ安藤信尹は無能で,家老たちは安藤信尹を幽閉しますが,この騒動が幕府に露見するところとなり,嫡男安藤信成に家督を譲って強制隠居させられました。
 1756年(宝暦6年)陸奥磐城平藩へ移された安藤信成に代わって,武蔵岩槻藩主永井直陳が入ります。永井氏は幕末まで続き,最後の藩主永井尚服は戊辰戦争で岩倉具定に帰順して新政府側に与し,版籍奉還により加納藩知事となりました。
 加納城には廃藩置県によって加納県となり県庁が置かれましたが,1872年(明治5年)廃城令により廃城処分となり建物は破却,城門などは売却され,今は本丸跡が公園となっていて,郭の形状と石垣だけが残っています。
  ・・・・・

  江戸時代,加納藩では和傘の生産が盛んで,年間50万本も生産されていました。また,中山道の要衝として栄えました。中山道53番目の宿場だった加納宿は,本庄宿,高宮宿,熊谷宿,高崎宿に次ぐ大宿で,人口2,728人,家数805軒, 本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠が35軒ありました。

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 今年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公は明智光秀。そもそも,織田信長なんてパワハラの権化みたいな人物だし,豊臣秀吉だって成金の野党であり,信長のゴマすり。なのに,明智光秀が悪者とされていたこと自体,歴史が権力者の都合で語られていることの象徴です。もし,自分が日本の歴史上最悪の時代であった戦国時代に生きていたにとしたら,おそらく農民だっただろうし,万一武士であったのなら,あんなパワハラ上司に仕えるのは今以上に大変だっただろうに,なぜか,多くの人は権力者を称賛するのです。ということで,この先,この時代がどのように庶民の側から描かれるかが,私には興味あります。
 ところで,明智光秀という人物の生涯はわかっていないところだらけだそうで,どこで生まれたのかも諸説ある。その中のひとつの候補として,明智荘があって,ここにある天龍寺というのが明智家の菩提寺。といっても,菩提寺になったのは昭和だそうなので,そのすべては作り話なのですが,ともかく日本の旅はこころでするものだから,そうした場所を歩きながら昔を夢見るのも悪くありません。

 旧中山道の伏見宿から南に30分ほど歩いて行くと,小高い山が見えてきました。そこが明智城跡でした。そのふもとに天龍寺があって,まず,天龍寺に寄って,そのあと,明智城跡に登りました。山の上からは,かつて明智荘とよばれていた場所がよく見えました。
 大河ドラマで明智光秀が決まってから急ごしらえで整備された場所だそうですが,おそらく,もう数年もすれば,だれも来なくなってしまうことでしょう。私の出かけた日は平日とはいえ,結構多くのお人が来ていました。本当に〇〇ブームというのが好きな人が多いものです。それでも,さすがに,オーバーツーリズムとまではいかないので,のどかな田園地帯には違いがありませんでした。
 この場所は結構不便なところで,公共交通で行こうと思えば,私が出かけたように,岐阜駅から名鉄のローカル線に揺られて行って,明智駅から30分近く歩くしかありません。ということで,多くの人は車でやってくるのですが,この国では車でいわゆる観光地なんて出かけても,何も楽しいことはありません。

 私は,帰り,明智駅に着いたとき,時刻表を見ると運よくあと1分ほどで電車が来る時間だったので,幸運だと思いました。ところがいっこうに電車は来ません。もう行ってしまったのかな,とがっかりしました。次の電車は30分先。しかも,周りにはなにもありませんでした。とそのうち,5分ほど遅れて電車がやってきました。
 こうして,家からさほど遠い場所でもないのに,ずいぶんと遠くに出かけたような楽しい半日を過ごすことができました。次回は今回行くのをやめた伏見宿から西に太田宿まで歩いてみたいと思っています。

 ちなみに,今回行ったのはかつては明智荘といわれた場所ですが,明智というのは現在は地名ではありません。ところで,数年前の朝ドラ「半分,青い。」の舞台は岐阜県岩村町で,そこを通る鉄道こそ「明知」鉄道,しかも,終着駅は「明知駅」ではなく明智町の「明智駅」です。私はお恥ずかしい話,今回調べてみるまで明知と明智ふたつの漢字があるのを知らず,また,今回行った可児市と岩村町の明智を混同していて,同じだと思っていました。
 こちらの明智町は,かつて岐阜県恵那郡にあった町で,2004年の合併により恵那市となって自治体名としては消滅しましたが恵那市の町名として明智町が設定されました。恵那郡明智町は鎌倉時代の1247年(宝治元年)に「明知」遠山氏の始祖である遠山景重が「明知」城(通称白鷹城)を築城し,一族は本拠の岩村城と苗木城,明知城を中心に現在の恵那市・中津川市にかけての地域を治めていました。ここの地名はもともとは「明智」だったのですが,江戸時代に「明知」に改められ,昭和の合併で「明智」に戻りました。
 というわけで, 明智光秀の出身地は,恵那郡明智町なのか,私が今回行った可児市の明智荘のあった場所なのか,そのどちらかで議論になっているということです。

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 御嶽宿から北東,つまり,江戸に向かうと,12キロメートル宿場がなく,険しい山道の峠越えになります。ここは今でも自動車道路がありません。その先が細久手宿,そして,大湫宿です。
 大湫宿から先は歩いたことがありますが,私の感覚ではJR中央線の沿線なので,まったく別の場所のような気がします。つまり,御嶽宿と細久手宿の間がタイムトンネルのような感じで,このふたつの宿場はまったく別の場所なのです。旧中山道沿いのこの間には有名な大黒屋という今も営業している宿屋があって,外国人にも人気です。私もいつか泊まってみたいものだと思っています。

 さて,私は,今回はその反対方向,西に向かって御嶽宿から伏見宿をめざして歩きはじめました。
 御嶽宿は願興寺の門前町として栄えました。28軒の旅籠があり人口は600人ほど,東に向かう険しい山道を控えて多くの旅人が逗留しました。
 御嵩町の立派な図書館の2階にこれもまた立派な郷土館がありました。なかなか充実した展示でした。こうしたものを見ると,その町の文化水準がわかりますし,御嵩町が旧中山道の宿場町としてのプライドをもっていることを実感しました。

 さて,ここからは県道341号線が国道21号線を取り巻くようにして並走したり吸収したりしていて,その道が旧中山道となります。その南には私が乗ってきた名鉄の線路も並走しています。
 旧街道沿いには,鬼の首塚とか一里塚とか願戸城跡とかいったもの以外,ほかに特に何があるというわけでもないのですが,のどかな道路に沿って歩きます。
 ずっと平坦なので,江戸時代はまわりに田畑が広がり,さぞ気持ちのよい歩きだったことでしょう。
 そのうちにやがて町が見えてきました。そこが伏見宿でした。伏見宿というのは明智町。しかし,明智宿とはいわず伏見宿でした。伏見宿は本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠29軒。もともとは間宿だったのですが,木曽川の渡しの場が移動して土田宿が廃宿となったために1694年(元禄7年)に新設されたものだそうです。新設された宿場は大きく発展することはなく,1848年(嘉永元年)に本陣をはじめ26戸を焼失する大火が発生しましたが本陣は再建されることなく明治維新を迎えました。
 伏見宿はペルシャ産のラクダが伏見宿内の旅籠「松屋」に滞在したという記録で有名な宿場です。オランダ商人が幕府にラクダを献上しますが,幕府は受け取りを拒否。ラクダは興業師にわたり,1824年(文政7年),興業師が病気になったために3日間伏見に滞在。このとき2,000人がラクダを見に集まったとかいうお話です。
 伏見宿は特になにもなく,旧街道の面影もそれほどなく,当時の宿場の中心あたりに中山道ゆったり伏見宿という休憩所があるだけでした。休憩所の中にはいると,初老の女性が番をしていました。お菓子をいただきコーヒーをご馳走になり,しばし休憩しました。

 もともとは,中山道ゆったり伏見宿からさらに西に8キロメートルほど歩いて太田宿に向かい,太田宿のある美濃太田駅からのJRの高山線に乗って岐阜を経由して帰るつもりでしたが,今回は明智へ寄り道するために変更して,南の方向に歩くことにしました。

 

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 先日,静岡県の旧東海道蒲原宿と愛知県二川宿へ行ったばかりですが,今度は,旧中山道の御嶽宿から太田宿まで歩くことにしました。
 旧中山道といえば,長野県というイメージがあるのですが,長野県から岐阜県,そして,滋賀県を通ります。ところが,愛知県に住む私には,岐阜県を通る旧中山道が謎に包まれていて,どこを通っているのかよく知りませんでした。そこで,この辺りを探索してみることにしたわけです。こうした旧街道歩きをしている人も少なくないのですが,書かれたものを読んでいても実感がなく,やはり自分の足で歩くに限るのです。
 いつも書いているように,だからといって日本に大して美しい風景があるわけでもなく,観光地でもないのですが,そうした場所を歩きながら昔の姿を想像するのも悪くないものです。なにせ,私の嫌いな人混みがないし,お金がかかりません。

 以前,旧中山道は岐阜県の土岐のあたりから北東へ落合宿までと,大垣市の北の赤坂宿から関ヶ原宿あたりまでは歩いたので,その間も歩いてみようと思いました。最寄りの駅を調べてみると,名鉄電車の各務原線,広見線と乗り継いで御嵩駅で降りて,そこから引き返す形で西に向かって歩くとよさそうでした。しかし,岐阜から西に走る名鉄電車のローカル線なんて,学生時代に鬼岩公園とやらに行ったっきりそれ以来乗ったことがありません。
 さらに調べてみると,どうやら旧中山道というのは,JRの高山本線と今回利用しようと思った名鉄の各務原線と広見線,そして,国道21号線にそって存在していたことがわかりました。
 私は寒いのは苦手でなく,むしろ汗をかかないので,冬は旧街道歩きにはもってこいなのです。
 そうしていろいろと調べているころ,今年はじまったNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公明智光秀にちなむところということで,明智荘と明智城を紹介していました。で,どこかなと地図を見ると,なんと私が歩こうと思っていた場所の近くではないですか。
 そこで,御嶽宿から太田宿まで歩くのを変更して,御嶽宿から途中の伏見宿,そこから南に旧中山道を逸れて,明智へ行ってみることにしました。
 しかし,こうした場所はテレビで取り上げられただけで多くの人が押しかけるので,ちょっとどうかな,という気持ちがなかったわけでもないのですが,まあ,平日のことゆえ,たいしたこともあるまい,と楽観しました。

 早朝,名鉄電車に乗って岐阜駅に着きました。ここで各務原線に乗り換えるのです。乗り換えたら急にローカルムード一杯になるのがまた,日本です。というか,周りが急に昭和にタイムスリップしてしまうのです。電車は各駅停車で,かつ,数えるのがいやになるほどの駅があるので,たいした距離でもないのに,いつ着くのか不安になるほどでした。
 私は岐阜駅から御嵩駅までの直通の電車があるものだと思っていたのですがそうではなく,途中,新可児とかいう駅で乗り換える必要がありました。しかも接続がわるく30分待ちでした。それに加えて,新可児駅からはICカードが使えない…!
 待ち時間にすることもないので,一旦駅を出て,近くの可児市の市民センターのようなところへ行きました。その建物のなかに観光案内所があったので地図をもらいました。

 やがて,電車が来たので乗車しました。車内には数えるほどの私のような暇な乗客が,どうやら明智を目指して乗っていました。私も帰りに明智に行くのですが,私の目的はあくまで旧中山道歩きであって,明智がブームだからそこに行くというミーハーではありません。というのは自己弁護です。
 さて,御嵩駅に着きました。このさびれた駅舎,最高でした。遠出をしたわけでもないのに,旅情たっぷりでした。御嵩の駅前から旧中山道の御嶽宿が当時のままの雰囲気で残っていました。これもまた最高でした。安藤広重の描いた「木曽海道六拾九次」では,御嶽では宿場の中ではなくその東の細久手宿から御嶽宿に至る街道沿いの木賃宿をモチーフにしています。木賃宿というのは薪代のみを支払い食事は自炊する簡易な宿泊施設のことです。囲炉裏を囲み旅の疲れを癒しながら談笑する旅人たちの会話が今にも聴こえてきそうな様子が描かれているといいます。この図柄のモデルになったと推測される場所は御嵩町謡坂ではないかといわれています。
 宿場の様子は,ほかのブログに譲ってここで詳しくは触れません。ともかく,私はいつもの通り,御嶽宿の端まで行って,そこから西に,次の伏見宿まで歩きはじめました。

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 私がこの馬籠宿から妻籠宿までを歩いた数日後,朝日新聞にちょうどこの街道についての記事が載りました。題して「日本人そっぽの峠越え,外国人に大人気 英テレビで注目」です。
  ・・・・・・
 江戸時代の宿場町の雰囲気が残る長野県南木曽町の妻籠宿と岐阜県中津川市の馬籠宿。両宿を結ぶ旧中山道の馬籠峠を歩く外国人ハイカーが近年増加している。英国のテレビ放送などで知名度が上昇。2018年度は65の国・地域の人が訪れ,はじめて3万人を突破した。日本人より多い6割超を占めており、まだまだ増えそうな勢いだ。
 (中略)
 外国人の峠越えは09年度は約5,850人だった。それが18年度は約31,400人に増え5倍を超えた。外国人の増加は英国のBBC放送の番組で取り上げられた数年前から顕著になったという。一方,峠を歩く日本人は年々減っていて18年度は全体の4割を切った。
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 この記事は,さらに,馬籠峠に近い標高777メートルの場所に,鐘を鳴らすことでクマの被害防止とともに幸せのパワースポットにつながればとの願いを込めて「中山道ラッキーポイント」と名づけた鐘を設けたことが書かれていましたが,その鐘が今日の1番目の写真です。
 
 峠を過ぎるとずっと下り坂で,しかもきちんと整備されていて歩きやすく,何の苦労もなく立場茶屋というところに着きました。
 立場茶屋というのは,客に茶を出して休息させる茶店から発展した各種の飲食遊興店をいいます。江戸時代,旅行者を対象として道中筋の宿場を離れた山中などに休息所としてこうした立場茶店が開店しました。宿駅保護のために立場での食事や宿泊は禁じられたのですが,これもまた建前と本音を使い分けるのが得意の日本人のこと,次第に力餅などの名物とともに酒やさかなを提供するようになりました。
 馬籠宿から妻籠宿の間にも馬籠峠から妻籠方面に少し下ったところに,一石栃立場茶屋がありました。ここはふたつの宿場のほぼ中間地点に位置しています。今歩いていても休憩を取りたくなる場所です。江戸時代後期の歴史ある建物が今も残っていて,中に入って休憩できるようになっていました。中ではフランス人がお茶を飲んでいました。
 また,立場茶屋の前には八重のシダレザクラがあって,おそらく満開のころには美しい姿を見せていたのでしょうが,1週間ほど盛りが過ぎていたのが残念でした。

 下り谷という場所に,妻籠宿の白木改という木材・木工品などの出荷を取り締まる番所が設置されていましたが,のちにここ一石栃に移されて,明治2年まで「木曽五木」とよばれる,ひのき・さわら・あすなろ・こうやまき・ねずこをはじめとする伐採禁止木の出荷統制を行ってきたところでもあります。
 木曽谷を所管する尾張藩は,江戸時代初期から木曽檜などの伐木への制限に乗り出しました。この制限は江戸時代中期には木曽谷のほぼ全域に及び,「木一本首一つ,枝一本腕一つ」といわれ,伐れば死罪という徹底した森林保護となって木年貢も廃止されました。
 この施策は山林乱伐を防ぐ森林保護政策の先駆であったのですが,森林資源でくらしを立てていた木曽の領民にとっては厳しい経済統制となっていました。
 旧街道を歩くと,表向きにはのどかでさわやかな場所に思えるのですが,その歴史や昔の人の暮らし向き思うと,いつも辛くなってしまいます。この時代,こうした山の中で生きるというのは大変なことだったでしょう。
 とはいえ,私の子供のころを思い出しても,今の時代とは雲泥の差があったし,このわずか50年くらいで人の生活はすごい勢いで変化してきたのです。

 そのうち,家並みが見えてきました。途中で出会った人たちとおしゃべりをしながら歩いてたら,あっという間に妻籠宿に到着してしまったようでした。
 馬籠宿から妻籠宿まではわずか8キロメートル,しかもほとんどが下り坂ということで,旧東海道の難所といわれるところをすべて歩いた私には拍子抜けするくらいの道行でした。ここは街道歩き初心者には最適な場所なのでしょう。実際,この程度の街道歩きには大げさに思えるような格好で歩いている人がたくさんいました。
 妻籠宿の入口で,妻籠宿から馬籠宿にむかって歩きはじめたようなお年寄りが「この先まだ長いですか?」と聞いてきました。長いも何も,まだ宿場すら出ていないのに,と思いました。あの人は無事馬籠宿に到着することができたのでしょうか?

 妻籠宿は旧中山道42番目の宿場で,中山道と飯田街道の追分に位置する交通の要衝でもありました。
 家数は31軒で,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠31軒,人口は418人という小さな宿場でした。
 1960年代,深刻となった過疎問題の対策として保存事業が基本方針となり,1968年から1970年にかけて明治百年記念事業の一環として寺下地区の26戸が解体修復されたのを機に観光客が増えはじめました。
 さらに,1973年には町並み保存条例である「妻籠宿保存条例」が制定され,また,1976年国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地のひとつに選ばれたことで,現在の姿があります。
 再建されたテーマパークのような馬籠宿とは異なり,妻籠宿は昔のままの姿を残しているので,なかなか風情があります。ただし,馬籠宿とは異なり,駐車場はすべて有料だし,本陣跡や博物館なども有料で結構高価なので,見かけとは異なり商魂たくましく,しっかりお金が必要です。

 宿場の中央付近には何軒かのおそば屋さんがあり,また,甘味処もあったので,私は1件のおそば屋さんに入っておそばと五平餅の昼食をとり, さらに,別のお店でわらび餅もいただきました。
 こうして,今回の馬籠宿から妻籠宿までの旧中山道歩きは3時間ほどで終了しました。
 念願だった馬籠宿と妻籠宿の間がどうなっているかもよくわかったし,気候もよく,なかなか楽しい時間となりました。木曽谷は宿場とJRの駅が谷に沿って続ていて歩きやすいところなので,この先も気候のよい季節に歩いてみたいと思ったことでした。
 よい初夏の1日でした。

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 馬籠宿旧中山道43番目の宿場で,家は69軒,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠18軒で人口は717人でした。 1895年(明治28年)と1915年(大正4年)の火災により古い町並みは石畳と枡形以外はすべて消失していて,現在の姿は復元されたものです。
 宿場自体がかなりの急坂にあるので,登りが大変ですが,ここは昔の宿場というよりもテーマパークのようなところで,いつも観光バスで多くの観光客でにぎわっています。このブログは観光案内ではないので,馬籠宿についてはこのくらいにします。

 馬籠宿から妻籠宿までの街道歩きで実は一番しんどいのが,この馬籠宿の登り坂だったりするのですが,登りきった展望台からは恵那山を美しく見ることができました。
 今はもう,日本ではどこに行っても満足な星空など見ることができないと知ってしまった私ですが,昔は,このあたりまでくれば満天の星空が見られるのではないかとずいぶんと地図で探したことがあります。そのときの候補になったのがこの恵那山でした。結局登ったことはないのですが,恵那山は眺望を楽しむというよりは登山行程を楽しむ山で,標高2,191メートルの美嚢最高峰の山ということです。
 また,旧中山道を描いた浮世絵の「木曽街道六十九次」は「東海道五十三次」とは異なり,渓斎英泉(けいさいえいせん)と歌川広重の合作で,この馬籠宿は渓斎英泉が描いた馬籠峠です。

 恵那山を見ながら旧中山道を歩いていきます。馬籠宿から妻籠宿までの街道歩きもまた,歩く人が多い観光地で,そのためにきちんと整備されています。
 クマが出るみたいで,クマよけ大きな鐘が街道の多くの場所にかけられていて,これをゴ~ンと鳴らすようになっていました。それにしても,こんなにたくさんの人が歩ていてはクマも出てこないでしょうけれど。
 この日も多くの人が歩いていましたが,その外国人が目立ちました。どこから来たのか聞いてみるとフランス人がほとんどでした。馬籠宿も,このあと到着する妻籠宿も,宿場の中を歩いているのは中国人が多いけれど,宿場と宿場を結ぶ街道歩きを楽しんでいるのはヨーロッパ人が多いのです。
 アメリカでもそうですが,海外ではトレイルが完備されているところが多いので,それと同じつもりであるいているのでしょう。私は以前,どうして人が多く気候も蒸し暑い日本なんかに外国からわざわざやってくるのか不思議だったのですが,それは結局,西洋にない摩訶不思議なもの見たさだということがわかってきました。

 そんなこんなで,ときどき自動車道路をまたぎながら整備された旧道を歩ていくと,ほどなく馬籠峠に到着しました。馬籠峠は南木曽町と中津川市の境をなす峠で標高は790メートルです。峠の御頭の碑があり眼前に東濃の平野が広がっていました。左手には恵那山も見えます。
 さて,ここからはずっと下り坂です。

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 私は,木曽路といわれる中津川からの木曽谷は東京大学の木曽観測所があることから,星の美しいところというイメージがあって,若いころから,さまざまな場所の地名だけは知っていたのですが,あまり行ったことがありませんでした。このごろ,京都などの観光地が外国人だらけになってしまっていく気もなくなり,どこかどのかなところがないかなあと思うようになって,木曽福島へ行く機会がふえてきました。するとその往復で,そうしたさまざまな地名を思い出して,これまで訪れたことのない場所をひとつずつ訪ねてみようと思うようになりました。家からは近いし,車でも,また,JRでも行くことができるので,この先末永く楽しめそうです。
 そこでまず考えたのが,旧中山道の馬籠宿から妻籠宿までを歩くことでした。旧中山道の馬籠宿は観光地として整備されていて,何度か訪れたことがあります。また,その次の宿場である妻籠宿も,馬籠宿とならんで観光地として多くの人が訪れる宿場で,私も数回行ったことがあります。どちらかといえば,妻籠宿のほうが素朴で,私は好きです。しかし,馬籠宿から妻籠宿までを歩いたことはありませんでした。

 2019年5月10日金曜日の午後から11日土曜日にかけて,木曽福島に行きました。
 10日,木曽福島から木曽駒高原に登っていくと,桜が満開でした。今年は例年になく,ほとんど雪がかなったとのことですが,それでもその後に冷えて,桜の開花は遅くなったそうです。また,ミツバツヅジやハナモモも満開で,幻想的でした。
 天気予報では11日は雨ということだったのですが,直前になって予報が晴れに変わったので,11日の午前中に馬籠宿から妻籠宿までを歩くという計画を実行に移すことにしました。
 いつものこと,ほとんど予習をしない私は,北に行くにしたがって日本アルプスに近くなるので,なんとなく,妻籠宿から馬籠宿に向かって歩くほうが下り坂のような気がしていました。10日木曽福島に行く途中に,下見として妻籠宿から馬籠宿まで旧中山道に沿った自動車道路を走ってみました。そして,驚くことにこりゃ反対だと実感しました。馬籠宿から少し北に馬籠峠があります。そこで馬籠宿から歩くと峠までの少しの間だけが登り坂であとはずっと下り坂だったのですが,反対に妻籠宿から歩くとなると,馬籠峠まで遠くその間がずっと登り坂になるのです。今回は馬籠宿から歩くにしても妻籠宿から歩くにしても,どちらかの宿場に車を停めて復路はバスにすることにきめていたのですが,おまけに,馬籠宿には無料の駐車場があるれど妻籠宿の駐車場はすべて有料でした。そんなことはだれでも知っていることだと後で知りました。
 ということで,11日,私は,馬籠宿の無料駐車場に車を停めて,妻籠宿まで歩くことになりました。週末なので観光客で混んでいるかな,と少し心配しましたが,さすが10連休のあと,馬籠宿もそれほどの観光客はおらず,これならいい街道歩きなるなと期待が膨らみました。

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 合羽看板の先をさらに数分旧東海道を歩いていくと,右に道路があって,その先の国道8号線の向こう側に近江鉄道「鳥居本駅舎」が見えたので行ってみました。
 近江鉄道は滋賀県で最古の私鉄です。1889年(明治22年)に東海道本線が開通し,翌年には関西鉄道の草津駅から四日市駅間が全通しましたが,湖東平野内陸部は鉄道のルートから外れていたために計画されたのがはじめです。彦根・愛知川間が1898年(明治31年)に開業し,1900年(明治33年)に彦根・貴生川間が開通しました。「ガチャコン電車」と呼ばれ,若い世代は「ガチャ」とも略されているようです。
 一部の沿線住民から「貧鉄」とあだ名されたり,「上り列車は「借金々々」と走り,下り列車は「足らん足らん」と走る」と冷やかされたりしているように,設立当初から資金難に悩まされていて,現在は鉄道の存続が危うくなっているようです。
 この駅舎は1931年(昭和6年)に建てられたものが原型で,その後当時の様式をそのまま継承して建て替えられたものです。
 もともと人口が少ない場所であり,また,自動車道路が整備されているので,こういう公共交通が成り立つこと自体かなり無理がありそうです。

 駅から旧東海道に戻り宿場の端まで歩きました。その後,彦根城まで行って帰ることにしました。
 彦根城まではさほどの距離はないのですが,佐和山城の下の国道8号線に沿った歩道のトンネルをくぐる必要がありました。
 トンネルまで行く間に見たのはおサルさんの大群でした。大群,というのは大げさですが,それでも10匹を下らない数のおサルさんが田んぼの中を駆け回っていました。こんな町中にこれほどのおサルさんが我がモノ顔で住んでいるのです。
 近頃,京都市内でおサルさんに襲われる被害が続出しているということですが,この姿を見ると驚くにあたりません。
 日本人というのは,家を建てるときに地鎮祭のようなことを行って,神様にお祈りをするのですが,そうした儀式さえすれば後は何しても許されるというような感じで,やりたい放題で自然破壊をする不思議な民族だと思います。山に登っても山頂には祠があるし,日本じゅうどこにも神社があって,一見信仰深いように思えるのですが大きな間違いで,それはいつもポーズだけ,実際は,これほど神をも恐れない傍若無人な行いを平気でするのです。
 その結果,野生の動物は住み家を失くし,自然を破壊された山は常に災害が起きるのです。
 トンネルを出たところには,一部の廃墟マニアに有名な「佐和山遊園」というよくわからないテーマパークのような無残な廃墟もありました。

 実際の佐和山城はこの山の上にあります。佐和山城は石田三成の城として有名ですが,この歴史は鎌倉時代からはじまります。
 佐々木定綱の六男佐保時綱が築いた砦がはじまりで,その後六角氏が支配し,応仁の乱後はその家臣の小川氏を城主としました。
 戦国時代は浅井氏が支配し,1571年(元亀2年)に丹羽長秀が入城しました。1582年(天正10年)の本能寺の変の後に堀秀政に与えられ,1591年(天正19年)石田三成が入城しました。石田三成は荒廃していた佐和山城に大改修を行って山頂に五層の天守を築き「三成に過ぎたるものがふたつあり島の左近と佐和山の城」と言わしめました。
 関ヶ原の戦いののち井伊直政が入城しましたが,新たに彦根城の築城を計画し,1606年(慶長11年)の彦根城完成にともなって廃城となりました。

 やがて,JR西日本の彦根駅に着きました。このあたりまで来ると折しも桜満開の季節,観光客でごったがえしていて,現実に戻されました。
 考えてみれば私は彦根城も行ったことがほとんどないので行ってみることにしました。この日は月曜日だったのでさほどでなかったのですが,昨日はとんでもない人出で,天守閣に登るのにずいぶんと時間がかかったということでした。
 こうして私はJR東海の醒井駅から歩いて,JR西日本の彦根駅までやってきました。JRは別会社をまたぐと急に不便な乗り物と化します。まず,ICカードで自動改札が通れません。よって,窓口でチケットを購入する必要がありますが,列が出来ていて,時間がかかりました。自動販売機で買えるらしいのですが,駅標示がJR西日本の路線しかなく,同じ料金のチケットを購入すればJR東海にも乗れるものなのかだめなのかさっぱりわかりません。それ以上に腹立たしいのは,JR西日本では東海道線を琵琶湖線と称することです。関西に住んでいる人は東海道線ではわからない,といいますが,名古屋に住んでいる人には琵琶湖線ではわかりません。
 JRは新幹線以外の乗り物を利用して長距離の旅をすることを望んでいないといった仕打ちを旅人にしているかのようです。

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 国道8号線に出て橋を渡り,Y字路を左手に入って行くと,再び旧中山道になりました。左手には「おいでやす彦根市へ」と書かれた「モニュメント」が建っていて,すっかり観光地です。その先の若干の松並木が残っているなかを進むと,その先が鳥居本宿でした。
 鳥居本宿は旧中山道63番目の宿場でした。宿場の長さは小野村境から下矢倉村までの13町(約1.4キロメートル)で家の数は293軒,うち本陣1軒,脇本陣2軒,問屋場1軒,旅籠35軒で人口は1,448人だったといいますから,大きな宿場でした。 本陣は寺村家が,脇本陣と問屋は高橋家が務めました。この宿場は本陣や脇本陣の建物は現存していませんが,ていねいな標識が建てられていました。また,重厚な家屋が残っていて,宿場の雰囲気一杯のところでした。
 こうして旧街道のいろんな場所を歩いていていつもおもしろいと思うのは,街道自体は城下町のなかを通っていないことです。たとえば名古屋城下も旧東海道は少し南の宮宿で,城下まで距離がありますし,ここ彦根城下もまた,鳥居本宿から少し離れています。
 鳥居本宿は江戸時代以前の東山道のころは西隣りの小野集落が宿場でしたが,彦根城が完成し城下へ通じる街道が整備さていくころに宿場の機能が現在地に移ってきたということです。

 この宿場の名産品は「鳥居本の三赤」といって,赤玉神教丸,鳥居本スイカ,そして,鳥居本道中合羽です。
 宿場に入ると例のごと街道は枡形になり,その道向こうに350年以上の歴史をもつ「赤玉神教丸本舗」の有川家がありました。建物は1753年(宝暦3年)に建てられたもので,明治天皇も巡幸の折にここで小休みしたそうです。
 テレビの旅番組でこの辺りが取り上げられると必ず取り上げられるこのこの「赤玉神教丸本舗」です。
 売られているのは9種類の生薬を配合した和漢健胃薬です。現在は有川製薬という株式会社ですが,1658年(万治元年)に有川市郎兵衛が中山道鳥居本宿で薬草数種を配合した健胃薬「赤玉神教丸」を道中の旅人に売り出したのがはじまりとされ,次第に効能等が評価されて街道随一の寿老人が目印の妙薬と評判を得るようになっていったといいます。「近江名所図鑑」には十返舎一九の詠んだ歌「くれなひの花にいみじくおく露も薬にならひ赤玉といふ」が掲載されています。

 長野県の木曽に百草丸という胃腸薬があります。これは寿光行者が王滝口登山道を開くのに協力してくれた村人に対して「何も御礼するものがない。せめて「霊薬百草」の製造が今後役にたてば幸いである」と百草の製造を指導したのがはじまりとされていて,御嶽信仰と融合した百草は家伝薬として広まりました。
 また,奈良県には陀羅尼助という民間薬があります。陀羅尼助は強い苦みがあるために僧侶が陀羅尼を唱えるときにこれを口に含み眠気を防いだことからつけられたと伝えらますが,1,300年前ごろ疫病が大流行した際,役行者がこの薬を作り多くの人を助けたとされます。古くは吉野山や洞川に製造所があって,吉野山や大峯山への登山客や行者参りの人々の土産物となっていました。それを丸薬状にして飲みやすくしたものが陀羅尼助丸です。
 尾張地方では「だらすけさん」と呼ばれる胃腸薬が家庭の常備薬でしたが,これは木曽の百草丸のことでした。昔は腹が痛いと言うとこの「だらすけさん」を飲まされたものです。本来「だらすけさん」とは「陀羅尼助丸」のことで「だらにすけがん」が「だらすけさん」に変化したものです。しかし,百草のこともまた「だらすけ」ということから混同されて,百草丸を「だらすけさん」とよんでいたのです。
 日本には,こうした民間の和薬をもとにする薬がいまもなお多く存在していて,その多くは昔からの和薬を改良して現代の薬として製造しています。こうした薬を作っているのは,製薬会社とはいっても和薬専門の小さな会社だったりします。

 有川家横の路地を入ると国道8号の向こう側に「上品寺梵鐘」が見えました。この梵鐘は法海坊が江戸市中を托鉢して作ったものです。
  鳥居本宿の名産であった「道中合羽」の看板が見えました。鳥居本の道中合羽は最盛期には鳥居本に18軒もの店があったといいますが,今は軒先の看板だけが寂しく残されています。 看板の店「木綿屋」は1832年(天保3年)の創業で,戦前まで合羽を製造していたそうです。

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 奈良東大寺金堂の僧侶が書いた「東金堂万日記」に,
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スリハリ峠ヲヨコ三間,深サ三尺ニホラル。人夫二万余,岩ニ火ヲタキカケ,上下作之。濃刕よりハ三里ホトチカクナルト也。
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とあります。これは1575年(天正3年)摺針峠を越えて上洛した織田信長について書かれたものです。また,信長公記には,
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一,去年(天正2年)月迫に国々道を作るべきの旨,坂井文介・高野藤蔵・篠岡八右衛門・山口太郎兵衛四人を御奉行として仰せ付けられ,御朱印を以て御分国中御触れこれあり。程なく出来訖んぬ。
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とあります。ここに,その前年1574年(天正2年)の暮れごろから信長が道路整備を命じて工事を急がせていた様子が書かれていることから,摺針峠の拡張・整備工事はこの時期に行われたものだとわかります。こうして,このころ東山道とよばれていたのちの中山道は,番場宿から摺針峠を経由して鳥居本宿に行くのに3里(12キロ)も短縮されることになりました。

 摺針峠は標高170メートルです。
 江戸時代,この峠に望湖堂という茶屋が設けられて,峠を行き交う人達は眼前に広がる琵琶湖の絶景を楽しみながらここで休憩をしました。また,参勤交代の大名や朝鮮通信史の使節,さらに幕末の和宮降嫁の際もこの場所に立ち寄っています。
 あまりの繁盛ぶりに,番場宿と鳥居本宿から奉行所へ望湖堂の本陣まがいの営業を慎ませるよう訴えが出されたこともあるようです。嫉妬深い日本らしい話です。
 この望湖堂は1991年(平成3年)の火災で惜しくも焼失してしまい,今は望湖堂を模して再建されたものが建っています。また,ここには神明宮と明治天皇磨針峠御小休所碑がありました。
 
 峠を過ぎると,鳥居本宿方向には舗装された道を下っていくことになりました。このままこの舗装された道を歩いていくのかなと思っていると,舗装された道のわきにけもの道のような狭い道があって,そこに中山道の表示がありました。ほんとうにこの道なのかなあとそこを歩くのが少しためらわれるほどの狭い荒れた道でしたが,これが正真正銘の旧中山道でした。
 江戸時代以前の中世の山城では堀の大半が水のない空堀でした。そして,その堀を盛り上げた底は通路として利用されていましたが,これが堀底道とよばれるものです。この山道もまた,そうした堀底道のようにになっていました。
 江戸時代の五街道といっても,実際に歩いてみると,平地を通っているところは今の田んぼのあぜ道のような感じですが,ひとたび山に入ってしまうと,こうしたけもの道のような場所ばかりです。かごが通れる幅があるとも思えないし,石畳みがある場所もまれで,雨でも降ろうものなら道はぐっちゃぐちゃです。こうした道を草鞋であるいたわけです。また,参勤交代がこんな道を通ったと考えると,その行列の様を一度見てみたい気がします。

 このけもの道のような旧中山道は,一旦車道に分断されますが,道路を渡ると,ふたたびつながっていました。はじめに書いた「東金堂万日記」にあるように,この道は横三間(約5.5メートル),深さ三尺(90センチメートル)… です。脇には細い水路も設けられていました。
 道はほぼ一直線に峠を下っていくのですが,やがて麓に達するころには,毎度のこと道にはゴミが山積し,また道路の右側には工場なのか産業廃棄物の捨て場なのか,大きな塀で囲われていて次第に雰囲気が悪くなってきました。道路もまたぬかるんでいて,ドロドロでした。
 その工場なのか産業廃棄物の捨て場なのかわからない無粋な塀の横を履いていた靴がどろどろになりながらやっと抜けると,旧中山道は国道8号線脇の車道に合流するポイントに出ました。

 その先道がなくなっていたので見回すと,旧中山道は国道には合流しないで,細い路地のような民家の庭のようなところを経るようにかろうじて旧中山道の残骸が残っていました。そこを抜けると中山道と北国街道の追分の石碑が建っていて,ついに旧中山道は途切れました。
 しかたなく国道をしばらく歩いていくとY字路があって,どうやらそのY字路の左側の狭いほうの道が旧中山道のようだったので,そこに入ることにしました。

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 番場宿を過ぎると,やがて,旧中山道は名神高速道路の側道に合流していきました。
 現在の名神高速道路は三角形頂点にあたる米原を避けて,斜辺にあたるように近道をしています。古来の東山道も街道が整備され中山道となった江戸時代以前は,現在の国道21号線やJR東海道線のように米原を経由して琵琶湖の東岸を南下していました。ただし,米原は鉄道が引かれるまでは琵琶湖の内湖が山麓まであり,現在のような平地ではありませんでした。
 戦国時代,そうした遠回りを避けて,近道を整備しましたが,そのためには峠を越す必要があったのです。それが今の名神高速道路のルートとなりました。この近道を整備したのは織田信長です。尾張と京を行き来するために軍事用の目的で道を整備したのです。いわば,ショートカットです。

 この場所だけでなく,旧街道を歩ていておもしろいと感じるのは,当時の旧街道の多くの場所が自動車道路でなく鉄道の線路に沿っていることです。それは鉄道が急こう配を走ることができないために同じように遠回りをしてでも急坂をさけて昔の道がつくられていたのと同じ理屈です。
 それと対比して,迂回しても平地がなくどうしても急坂を通らなければならないときにそこが「難所」となっていましたが,そうした当時の「難所」だったところに高速道路がトンネルを貫通させたり巨大な橋を作って距離をかせいだりしています。鈴鹿峠を越える新名神高速道路などがそうです。

 名神高速道路の側道になってしまった旧東海道を歩いていくと,やがて名神高速道路よりも側道のほうが標高が高くなり,高速道路は隊道になりました。このあたり,車で名神高速道路を走った記憶がありますが,このあたりはかなり印象の深い場所です。
 やがて,旧東海道は側道から別れを告げて,右に曲がっていきますが,小さな道路標示しかないので見落とす心配があります。田んぼのあぜ道のようなところを進んでいくと昔の面影のある,時代から取り残されたような集落が見えてきて,やがて集落の間をとおる道は登り坂になります。この坂を登りきったところが摺針峠です。
 つまり,旧中山道を番場宿から鳥居本宿に向かうときに,ショートカットをするために山を越す必要があって,その坂を登りきったところが摺針峠なのです。摺針峠で江戸から京に歩いてきた旅人がはじめて琵琶湖を望むことができるのです。当時の旅人はこの景色を見て,さぞかしホッと一息ついたことでしょう。歌川広重の浮世絵中山道の鳥居本宿は摺針峠からの風景を描いたものです。

 私もこの坂を登っていきましたが,思ったほど険しくなく峠に着きました。峠からは琵琶湖が見えましたが,思ったほどの景観ではありませんでした。
 木々の間に確かに琵琶湖は見えましたが,無粋なタワーがその景観も感激をも奪っていました。どうしてこんなバカげたタワーを作るのかと腹立たしくなりました。それでも,桜の季節,峠に咲いた美しい花がこころをなぐさめてくれました。
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 その昔,ひとりの若い修行僧が修行に行き詰まっていました。そんなとき,重い足を引き摺りながら登った峠の上で老婆と知り合います。
 老婆は一生懸命に斧を石に擦りつけていました。僧は不思議そうに「何をしているのですか?」と訪ねると,「実はたった1本しかない針をなくしてしまい,孫に着物が縫えません。だからこうして斧を削って針にしようと思っています」と答えました。
 僧は「そんな大きな斧すぐには針になりませんよ」と言うと,「どうしても針が欲しいので」と老婆は答えたのです。僧はそんな老婆の姿に胸を熱くして言葉を詰まらせながら,「私はどうしても立派な僧になりたい」とこぼしました。すると老婆は,「なればよろしい」と微笑むとフッと消えたのです。
 その僧は修行に行き詰まっていた自分の考えを改め,ついに「弘法大師」とよばれる立派な僧となりました。以来,この地を「摺針峠」と呼ぶようになったのです。後年,この地を訪れた弘法大師はそこにあったお宮さまの境内に杉の木を植え,「道はなほ学ぶることの 難からむ斧を針とせし人もこそあれ」と詠みました。
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 今回歩いているのは旧中山道の醒井宿から鳥居本宿までですが,そのふたつの宿場の間に番場宿があります。
 名古屋から西の京都方面に行くには,鉄道を利用するなら新幹線かJR東海道線,車を利用するなら名神高速道路か国道21号線で米原まで行ってそこから国道8号線ということになります。国道1号線は鈴鹿峠を越えるのであまり使われません。
 その際,名神高速道路以外は米原を経由するので,米原という地名はだれでも知っているのですが,関ヶ原から彦根のあたりまでは車窓からその景色を眺めるだけで降りることもないので,どのような町があるかということはほどんど知りませんから,番場宿は無名です。また,名神高速道路は関ヶ原の先はずっと山の中を通り抜けて走って行って,突然視界が開けるとそこはすでに琵琶湖です。
 そこで,今回のコースのように歩いてみるといろんな発見があります。ただし,それらは名所・旧跡という類ではなく,また,おいしいものを食べるという目的もかなわないので,一般の人の考える「旅」ではありません。どこも観光地は混雑しているだけの日本では,そうした観光地を避けてそれ以外の場所に出かける旅はいつも書いているようにこころでするもので,その場所の歴史を知り文化を味わえないければ,単なる道歩きになってしまいます。

 旧中山道は醒井宿から先は今の名神高速道路沿いを通っていました。一般道からは離れているので,今も当時の面影を残した場所もあってのどかな道行きとなるのですが,途中の多くの部分が名神高速度道路の側道を進むことになってしまうのだけが残念です。
 醒井宿からしばらくは民家が続き,そこかしこにきれいな水をたたえた水路があってこころが和みました。ほどなくして,番場宿に着きました。醒井宿からさほどの距離もないのでびっくりしました。
 恥ずかしながら,私もまた今回歩くまで,番場という地名すら知りませんでした。番場宿は旧中山道62番目の宿場です。飛鳥時代に「東山道」と呼ばれたころからの宿場だそうです。
 江戸時代の1611年(慶長16年)に番場宿から米原までの切通しと米原港が開設され,中山道から湖上の水運に乗り換えて京都へ結ぶ近道への分岐点となったといいますから,米原というのは現在以上に琵琶湖の海上交通の要所だったのです。番場宿は家数178軒,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠10軒で人口は808人という旧中山道で最も小さな宿場でした。

 番場には立派なお寺があってびっくりしました。その名を蓮華寺といいました。蓮華寺は浄土宗本山で山号は八葉山,本尊は発遣の釈迦如来と来迎の阿弥陀如来の二尊,聖徳太子によって開かれた寺と伝えられます。
 1284年(弘安7年),鎌刃城主土肥元頼が寺を再建しましたが,この寺のすごいのは,1333年(元弘3年)足利尊氏に攻められた六波羅探題北方の北条仲時が東国へ落ち伸びる途中,行く手を佐々木道誉に塞がれ蓮華寺へ至り,本堂前で一族郎党432名と伴に自刃したという歴史があることです。こうなると「平家物語」の世界が頭の中を駆け巡ってきます。
 この由緒ある立派な寺はちょうど美しい桜の季節でした。

 また,番場というと「番場の忠太郎」と聞いてその名前だけは知っていることに気づきました。
 「番場の忠太郎」というのは長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公で番場出身の博徒のことです。
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 旅烏の忠太郎は生き別れになった母との再会を望みながら旅をつづけていましたが,助五郎一家のイカサマ博打をめぐる争いに巻き込まれ,助五郎の放った追手を殺してしまいます。
 やがて,母お浜が江戸の料亭の女将になっているらしいと聞いて,忠太郎は江戸にやってきます。しかし,社会的な地位もあり娘登世の幸せを願うお浜はお尋ね者の忠太郎に冷たくあたるのでした。
 あまりの母の仕打ちに絶望した忠太郎は生き別れになった母が路頭に迷っていてはいけないと貯めてきた100両の大金を投げつけ「俺の母親はもうどこにもいない。両の瞼を閉じれば懐かしいおっ母ぁの顔が浮かんでくる」と捨て台詞を残して立ち去っていくのでした。
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 今年は,3月に急に暖かくなったと思えばまた寒さが戻り,そのために桜の季節がずいぶんと続きました。
 私は,2月に思った以上に寒かったハワイに行ったり,3月は北半球とは季節が反対の晩夏のオーストラリアに行ったりと,おまけに帰国した日本では暖かかった季節が一転して再び寒さが戻ってしまい,季節がよくわからなくなりました。今何月かと問われると戸惑うくらいで,これから夏に向かうのかそれとも冬に向かうのかさえ混乱している状態です。 
 さて,そんな去る4月8日の月曜日,まだ桜が満開で天気もよかったので,少し遠出をして桜を楽しんでくることにしました。月曜日とはいえおそらく京都などはどこへ行っても人だらけでしょうから,ということで探し出したのが,旧中山道の醒井宿から鳥居本宿までを歩くコースでした。ここは途中にずっと気になっていた摺針峠という有名な名所もあります。

 まず,JR東海道線に乗って醒ヶ井駅で降りました。名古屋からのJR東海道線下りは在来線を利用して京都まで行く人が結構多いので混雑します。
 直接京都まで行く電車があればいいのですが,大垣駅や米原駅で乗り換える必要があって,少し面倒です。これだけ高齢者が増えて,あてもなく電車を利用して歩きに出かけることを楽しむ人が増えると,在来線にも座席指定車を作ったり,もっと運行距離の長い列車を走らせばいいのにと思います。JRは新幹線のことしか考えていません。
 しかし,それよりも問題なのは,米原からはJR西日本になるので,ICカードで自動改札が使えないということなのですが,このことはまた後で書きます。
 この日も,けっこう混雑した車内でしたが,途中の関ヶ原とか醒ヶ井の駅で降りる人は少なく,駅も閑散としていました。みな,京都まで行くのでしょう。

 滋賀県下を走る現在のJR東海道線は江戸時代は中山道でした。旧東海道の通っていたあたりは現在新名神高速道路が通っているところです。
 私もこれまでいろいろな旧街道を歩きましたが,実際歩いてみると,江戸から京に行くには,今の名古屋市にあたる宮宿からは,むしろ,東海道ではなく美濃路を経て大垣に出てその先は中山道を歩くほうが,東海道で七里の渡しや鈴鹿峠越えをするよりもずっと楽に思います。おそらく,東海道の宮宿の先は京に行くよりも伊勢に行くためのコースだったのだろうと思います。

 醒井(JRの駅だけは醒ヶ井と書きます)というところは「醒井養鱒場」で知っていました。ここは子供のころ遠足で出かけたところです。
 「醒井養鱒場」は1878年(明治11年)に固有種ビワマスの養殖を目的に設立され,全国に先がけて鱒類の完全養殖に取り組み成功した日本最古の養鱒場です。霊仙山の麓から湧き出す清流をたたえた池に大小様々なビワマス,ニジマス,アマゴ,イワナが群泳し,さらに,幻の魚であるイトウ,古代魚チョウザメ,清流のシンボル・ハリヨなども展示飼育している場所です。JRの醒ヶ井駅からは徒歩1時間のコースですが,今回の目的は養鱒場へ行くことではなかったので,私は先を急ぎました。

 醒井宿は旧中山道の61番目の宿場でした。 古代からの交通の要衝であり,「日本書紀」の日本武尊伝説に登場する「居醒泉」(いさめがい)が醒井の地名の由来であるといわれるなんて,なんとロマンに満ち溢れたところではないでしょうか。歩く前からワクワクしてきます。いたるところ豊富な湧き水と地蔵川の清らかな流れが町を潤しています。
 当時,醒井宿の宿内家数は138軒で本陣1軒,脇本陣1軒,そして旅籠が11軒で人口は539人だったということなので,小さな宿場でした。

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