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 尾張国分寺跡を見つけた私は,これまで関心もなかったのに,奈良時代のこの地方について興味をもち,調べてみました。
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 前回,日本の憲法はずっと養老律令だったと書きました。この律令に基づいて設置された日本の地方行政区分を律令国といい,なんと,飛鳥時代から明治時代初期にわたって日本の地理的区分の基本単位でした。 令制国の行政機関を国衙といい,国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府といいました。つまり,今の県庁所在地です。県庁にあたるのが国衙で,国衙やそのまわりにはさまざまな役所がおかれていて,土塀などによって区画されていました。そして,国府には,国衙のほかに,国分寺,国分尼寺,総社が置かれました。
 律令制の衰退にともなって,廃れたり所在不明になった国府もあり,また,現在も都市として発展した国府もあります。 

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 尾張国の国府は現在の稲沢市にあったのですが,国衙の置かれていた場所は定かではなく,地名を手がかりにして,数度の発掘調査が行われたものの今も特定されていないそうですが,名鉄電車の国府宮駅の西側の住宅街にある松下公民館のとなりに「尾張国衙址」碑が建てられています。
 また,総社は国府宮駅の東側にある,はだか祭りで有名な尾張大国霊神社(国府宮神社)で,今も存在しています。
 国分寺跡については前回紹介しましたが,今日はその補足を書きます。
 「日本紀略」の884年(元慶8年)の条によると,尾張の本金光明寺に火災があったため,願興寺を国分寺としたと書かれています。この願興寺も10世紀には衰退して廃寺に至り,その後,国分尼寺が僧寺(国分寺)に転用されたといいます。このように転々として, 現在は,創建時の遺構から北へ900メートルほど行った場所にある「円興寺」から改称した「鈴置山国分寺」が明治時代に法燈を伝承し,これが現在ある国分寺です。
 国分尼寺もまた,詳しいことはわかっていないのですが,法花寺町にある法華寺と推定されています。また,奈良時代,国分寺の東西南北には「四楽寺」とよばれる末寺があったといわれます。現在の安楽寺(北方),平楽寺(東方),長楽寺(南方),正楽寺(西方)がこれらにあたるとされます。
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 ということだったので,どこもそれほど自宅から遠くないので,歩いて順に巡ることにしました。
 「尾張国衙址」碑は,街中にあって,日ごろ通るところでなかったので,見つけるのに戸惑いました。普段車で通る道路の端に案内標識があったのですが,なかなかたどり着けませんでした。とはいえ,単に碑があっただけです。
 そのあと,国分尼寺と四楽寺に順に行ってきました。
 法華寺は立派な寺でした。また,安楽寺は,春になると桜が咲き誇る寺でよく行くのですが,その寺が由緒あるところとは知りませんでした。長楽寺もまた,立派な寺でした。しかし,平楽寺は神社の敷地のなかに表札だけがありました。正楽寺にいたっては,何もなく,田んぼの一角に墓地だけが存在していました。
 このあたり,濃尾平野の真ん中で,空が広く,おそらく,住居がなけれは,今でも地平線まで見通せます。昔の姿を想像してみました。1300年以上も経つのに,当時の地名は残っているし,人の歴史というのは不思議なものだと思いました。