しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:墨俣宿

DSC_6124 DSC_6111 DSC_6126 DSC_6104

 犀川の西側に広がるのどかな田舎の集落が墨俣宿でした。
 日本では,こうした集落や旧街道歩きをすることくらいしか旅の楽しみはありません。風光明媚といわれる観光地は人が満ちあふれていて,まったく楽しくもありません。
 果たして,今回の新型コロナウィルスが収まったとき,再び外国からの観光客がやってきて,また,私のきらいなオーバーツーリズムが戻ってきてしまうのでしょうか? そういった意味では,そうした状況が戻る前こそが,国内旅行の最後のチャンスでしょう。

 ところで,墨俣ですが,ここは美濃路が設定されるより古くから,すでに宿場町として栄えていました。江戸時代になって美濃路の宿場として整備されると,勅使大名朝鮮琉球使節等の休憩所として本陣などが利用されました。
 墨俣宿の本陣は,初代を沢井九市郎正賢なる人物が務め,2代目以降は代々・沢井彦四郎を名乗り,明治に至るまで13代続きました。
 本陣跡は残っていませんが,脇本陣跡が残っていました。脇本陣跡の門は,明治の末に本正寺というお寺に移築され,現在は山門となっています。脇本陣自体は1891年(明治24年)の濃尾震災の際に倒壊しました。その後に再建された建物は民家ですが,脇本陣時代の構造を色濃く残していて,当時の宿場町の面影を偲ぶことができます。

 墨俣には多くの大きな寺がありました。廣専寺は浄土真宗のお寺で美濃路から外れた寺町通りに面しています。 また,本正寺には,先に書いたようにかつての脇本陣の門が移築され,現在山門として残っています。
 堤の南側の下には1910年(明治43年)に建てられた馬頭観音と一里塚跡の石碑があります。
 また,町屋観音堂と結神社は照手姫にゆかりのあるところです。この観音堂は,1169年(嘉鷹年間)近くの結神社とともに参道東側に建立されていました。1891年(明治24年)の濃尾震災で倒壊し,1919年(大正8年)に再建されたものの老朽化が進み,1994年(平成6年)に再建されたものです。観音堂の本尊は栴檀の木で彫られた十一面観世音菩薩で,頭上に一寸八分(約6センチメートル)の黄金仏を頂きます。この黄金仏は照手姫の守本尊だったそうです。
 結神社はかっては結大明神とよばれていました。照手姫は相模の国で小栗判官と夫婦の契りをしましたが,父が反対し小栗判官を殺そうとしました。照手姫が小栗判官を助け,小栗判官は三河の国へ逃げ延びました。しかし,照手姫はその行方を知らずにいて,彼方こなたをたずねた後,結神社に小栗判官との再会を祈願したところ,満願の夢まくらに霊験があって判官の居所がわかり,再び会うことができたということです。結大明神の「願望叶へさすべし。然し守本尊は我に有縁の尊像なれば,当社に納めよ」とのお告げにより、姫は喜んで納めました。また,結大明神は村民に「この尊像は当地に有縁な尊像なれば,観音の頭上に載せ諸人に拝ませよ」とのお告げをしたことによって観音堂に祀られるようになったのだそうです。

  ・・・・・
 常陸国小栗判官小次郎助重は,相模国横山郡代の娘照手に恋し結ぶも,横山一族に殺される。地獄に落ちた小栗は閻魔大王のはからいで餓鬼阿弥の姿となるも藤沢の上人の力により助けられ,土車に乗せられ青墓へ。そこで青墓宿の宿萬屋へ売られていた照手がそれを見かねて大津の関寺まで曳き,その後も多くの人々の手で熊野本宮へ。湯の峰の薬湯に浸かると元の姿になって,京都で両親と対面し,美濃国青墓の照手ともめでたく再会。その後都へ登り,天皇より死からの帰還は希であるととたたえられ,常陸,駿河,美濃国を賜る。大垣市をはじめ各地に「小栗判官と照手姫」の伝説は語り継がれており,説経節,浄瑠璃,歌舞伎にも取り上げられている。
 小栗の死後,現人神として八幡社に祀られ,照手姫も結びの神として結神社に祀られていると伝えられている。
  ・・・・・・

 墨俣はまた,室町時代までの鎌倉街道の宿場でした。この時代の宿場町は現在の大垣市墨俣町上宿付近にあったのですが,美濃路の設定で大垣市墨俣町墨俣付近に移設されました。
  鎌倉街道というのは各地より鎌倉に至る道路の総称です。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については鎌倉往還ともよばれましたが,京と鎌倉を結んだ京鎌倉往還は,鎌倉の極楽寺坂より腰越,片瀬を通り,相模から駿河へは足柄路または箱根路を越え,遠江,三河,尾張,美濃を通り不破関跡を越えて琵琶湖畔を経て京都粟田口に達していました。

DSC_5978 (2) DSC_5948 (3) DSC_5955 DSC_6088 (2)DSC_6075 (2)

######
 ブログでは先に大垣宿のことをを書きましたが,私が行った順番は,先に墨俣宿,その次が大垣宿でした。今日は墨俣宿について書きます。
  ・・
 墨俣宿に到着したのは早朝だったので,人もほとんどみかけず,河原にある駐車場もまだ車は1台も停まっていませんでした。
 そもそも,今回の新型コロナウィルスの流行でもそうですが,以前書いたように,日本人の行動というのはすべて6:3:1で出来ています。たいした自分の主体もなく考えもせず,人に巻かれて生きているのが6,長いモノに巻かれたくないから抵抗しているのが3,確固たる信念で反抗しているのが1,で,3の人を6になびかせれば勝ちなのです。だから,6は「お願い」という強制で簡単になびき,3を何とかすればそれで収まるのが日本という国です。
 政党がまさにそうです。政権政党に属する人の多くは自分の意見などもたず長いモノにまかれていれば自分の身が安泰という人が多いのです。
 これは投資でも同じで,だから,業者は6に属する人からお金を巻き上げれば利益が生まれるということです。そして,自分の考えも持た勧められたまま投資をする6に属する人はほぼ損をします。徳をするのは1に属する少数の人だけです。
 同じように,旅というのは,6にあたる人たちの行動に従えば,渋滞に巻き込まれ,密が生じまます。
  ・・
 へそ曲がりの私は,以前は3の仲間でしたが,歳をとって,主体的に生きるには1であるべきだと悟りました。ただし,弱いのでなかなかそう成り切れません。ただし,行動に対してはつねに1なので,どこへ行っても密は生じません。
 この日もまた,人のいない時間に墨俣に到着して,だれもいない桜並木の下を歩き,人が出てきたときには去り,観光をする人もほとんどいない墨俣宿を散歩しました。

 現在存在する墨俣城というのはいわゆる「なんちゃって」城で,豊臣秀吉が作ったのはこんな城ではなく,これは観光誘致のために近年作ったものです。噂では,この城は史実でないと作るのに反対した人たちの名前をどこぞやに掲げてあるということですが,いかにも日本の田舎らしき陰険さです。こういった「村八分的集団いじめ」こそが日本人の本質です。法律上は問題がなくても「お願い」に従わずいつまでも営業していると名前を公表するぞというのもまた同じ構図です。
  ・・
 もともと墨俣の地は長良川西岸の「洲股」で,交通上・戦略上の要地だったので,戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていました。
 1561年(永禄4年)と1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって,木下藤吉郎,つまり,後の豊臣秀吉がわずかな期間でこの地に城,というより砦を築いたと伝えられていて,これがいわゆる「墨俣の一夜城」とよばれるものです。 現在,この地は一夜城跡として公園に整備されていて,大垣城の天守を模した城状の墨俣一夜城歴史資料館が建てられているわけです。
 1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで当時美濃を支配していた池田恒興の家臣・伊木忠次がここを改修したとあるのが墨俣が歴史に登場する最後で,その2年後には木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が収まり戦略上の重要性を失いました。

 墨俣の一夜城があった場所の西端と南端を流れる犀川の堤には約800本の桜並木が4キロメートル弱わたって続いていて,トンネルとなっています。この堤を歩いて,私は,墨俣宿に向かいました。例年ならば桜まつりで人があふれ,堤防道路は通行禁止となるのですが,桜まつりが行われなかったので,堤防道路は地元民が通勤でときどき車が通ることだけが残念でしたが,人のいない桜並木を十分に堪能することができました。

このページのトップヘ