しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

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 一乗谷朝倉館跡を出て,私は北陸自動車道を通って帰路につくつもりでした。ところが,途中で小谷城スマートインターチェンジを見つけました。
 私は,小谷城やこの近くにある姉川,長浜城を知らないわけではなく,というかむしろ詳しいほうだと自負しているのですが,歳のせいか,あるいは,日本史に以前ほど興味を失くしてしまっているせいか,ここに小谷城跡があるの? と驚きました。
 あとで冷静に考えるに,あのときの私は,小谷城と佐和山城がごっちゃになっていたのでした。
 思えば,昨年の4月8日 -それはわずか1年と少し前のことだというのに今とは違ってなんと平和だったのでしょう!- 桜満開の彦根城に行ったとき,サルが田畑を闊歩する佐和山城の近くを通りました。そして,それ以来,そのときは登らなかった佐和山城にいつか登ってみたいと思っていたのです。
 そこで,小谷城と佐和山城を混乱していた私がどうしてこんなところに小谷城があるのかなあと思いながらも,今日こそ登ってみようと思ったわけでした。そんなわけで,私は今もって佐和山城には登っていません…。

 小谷城もまた,戦国時代の山城です。
 七尾城,小谷城,観音寺城,月山富田城,春日山城を 日本の五大山城というそうで,そのひとつです。こんなことを知ってしまうと,今度はそのすべてを制覇したくなるのが私の悪いところです。
 小谷城が築城されたのは,おそらく,1523年(大永3年)から1524年(大永4年)ということすが,小谷城といえば,浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として有名な城です。

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 1560年代,織田信長は浅井長政に同盟を提案します。同盟に際して,1567年(永禄10年)浅井長政は織田信長の妹の市を妻としました。織田・浅井の同盟により,織田信長は上洛経路ともなる近江口を確保しました。
 1570年(元亀元年)織田信長は浅井長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り,徳川家康とともに琵琶湖西岸を通過して越前の朝倉を攻めはじめます。浅井長政は朝倉義景との同盟関係を重視し織田・徳川連合軍を背後から急襲,織田信長は豊臣秀吉の働きにより,命からがな近江国を脱出しました。これが有名な「金ケ崎崩れ」です。
 こうして,織田信長と浅井長政の同盟は決裂し,1570年(元亀元年)の姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突し,織田軍が勝利しますが,このときは小谷城の堅固さを考慮して城攻めを断念,織田信長が小谷城を落城させたのは,その3年後のことでした。
 小谷城は,その後、廃城となりました。
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 小谷城スマートインターチェンジを降りて,道路標示に従って小谷城のふもとまでやってきました。そこにあったのは古びた小谷城戦国歴史資料館と広い駐車場でした。いまでこそ,自粛とやらでこうした資料館や博物館のほとんどは閉館していますが,このときは確かまだこの資料館は休館の処置はとられていなかったと思います。ただし,この日はもともとの閉館日である火曜日だったので,入ることができませんでした。しかし,私は資料館を見にきたのではなく小谷城の登りにきたので,資料館の駐車場に車を停めて,城を目指すことにしました。
 駐車場には私の車のほかは1台の車もなく,また,小谷城への登山道の入口は獣除けで金網で囲われて,錠がしてありました。それは決して登ってはいけないということでなく,錠を開けて戸を開き中に入るようになっていました。
 中に入るとその先はけもの道のようになっていて,だれも登っている様子もなかったので,少し躊躇しましたが,様子見で少し登ってみることにしました。
 しばらく歩いていっても,一向に人に会いません。そのうちに,はるか先に大きな獣が歩いているのが見えました。クマか? 怖くなって遠くからしばらく様子を見ていると,それは大きな猫でした。それでも飛びかかられたらいやなので,もう帰ろうかと思っていると,後ろから,私と同じ年代の夫婦連れが登ってきました。一緒に登りましょうということになって,気が大きくなり迷いもなくなり,登りはじめました。
 そんな次第で,今回もまた懲りずに山登りとなってしまいました。小谷城もまた標高が495メートルほどなので,これまでに登る気もなく登ってしまったいくつかの山城とほぼ同じでした。
 ただし,私は,大きな間違いをしていました。
 小谷城は,中腹まで林道が通っていて,こんな大変なことをしなくても難なく車でずいぶん上まで登れるのでした。ただし,その林道は私が車を停めた資料館のある場所に行く道とは違った場所からつながっていたのでその道の存在を私が知らなかったのでした。道路標示が悪いのです。
 ともかく,今回も懲りずに死ぬ思いで,どうにか私は,登山道を麓から本丸跡まで登ることができたのでした。登る途中で見た伊吹山と琵琶湖がきれいでした。

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 今回出かけた丸岡城も,当然戦国時代の遺構ですが,「麒麟がくる」とは直接の関わりはなく,私が福知山城と丸岡城がごっちゃになっていたので,単に丸岡城が見たかっただけでした。
 しかし,丸岡城に行ってみて,せっかく福井県まで来たのならば,一乗谷朝倉氏遺跡が近いのではないかと気づきました。実際調べてみると,やはり丸岡城からはかなり近いところにあることがわかりました。そこで,帰りに寄ってみることにしました。
 一乗谷朝倉遺跡はもちろん「麒麟がくる」に大いに関わりのある場所ですが,私がこの場所を知ったのは,「麒麟がくる」ではなく,今から40年以上前に放送された大河ドラマ「国盗り物語」でです。それ以来,わざわざ行ってみることはなかったのですが,気になっていました。そこで,今回,せっかく近くに行ったのだから寄ってみることにしました。
 一乗谷朝倉遺跡に関してほ,将棋の駒が出土したという程度の知識しかありませんでした。

 Google Maps の道路案内に従って走っていくと,福井市の市街地をはなれ,山間の谷間に入って行きました。その奥が一乗谷でした。1本道をさらに進んでいくと,昔の屋敷が再現された場所があって,その奥に広い駐車場がありました。ここもまた,ほとんど車は停まっていませんでした。
 さっそく入館料を払って中にはりました。
 一乗谷朝倉氏遺跡は福井市城戸ノ内町にあって,戦国時代に一乗谷城を中心に越前とよばれたこの地方をを支配した戦国大名朝倉氏の遺跡で,谷に広がる城下町と周りの山に作られた城からなっています。
 現在の福井市街から東南に約10キロメートルもはなれている一乗谷川沿いの谷あいにあります。朝倉氏が勢力をもっていたときはずいぶんと栄えた場所ですが,のち忘れ去られました。それが辺境であったために幸いにして遺構が残り,今になって発掘され整備されたというわけです。

 日本各地のほかの城下町とは違い,こうした谷に町をつくったというのが私にはおもしろく,これで防御ができるのだろうかと思ったのですが,それは将棋でいえば穴熊のようなもので,谷に攻め込んだ敵方を袋のネズミにしてしまうような感じだったのでしょう。
 いずれにしても,こうして日本の様々な場所に行ってみると,この国は今も戦国時代の遺構がいたるところに残っています。400メートルくらいの小高い山のほとんどには砦が築かれているし,国中が勢力争いをしていたのだなあということを実感します。まるで,高いところに城を作る競争をしていたみたいです。そのために,おそらく庶民は年中駆り出されて,土木工事ばかりをしていたのでしょう。
 今の政治家もハコモノ作って名を遺すのが生きがいだと思っているから,同じようなものでしょう。
 一乗谷は東西約500メートル,南北約3キロメートルという狭い場所で,北陸道や美濃街道,朝倉街道などが交わる交通の要衝にありました。谷の周辺の山峰に城砦や見張台が築けばすべてが見渡せる広大な要塞となっていました。

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 朝倉氏はすでに南北朝時代に一乗谷を本拠にしていました。足利将軍家の分家である鞍谷公方なども住んでいたことから,応仁の乱により荒廃した京から多くの公家や高僧,文人,学者たちが避難してきたために一乗谷は飛躍的に発展し,華やかな京文化が開花しました。以前行った高知県の中村(四万十市)も応仁の乱を避けて避難した有力者が作った町だったのですが,一乗谷も同じだったのでしょう。
 4代朝倉孝景のころに全盛期を迎え,人口は1万人を超え,越前の中心地として栄えていました。
 明智光秀の計らいで,1567年(永禄10年)に5代朝倉義景が足利義昭を安養寺に迎えたことから,戦国時代に大きな関りをもつことになり,それが原因として,朝倉氏が滅ぶことになったのは皮肉です。
 1573年(天正元年)に織田信長の軍勢によって火を放たれ,一夜にして一乗谷は灰燼に帰してしまいました。織田信長が越前一向一揆を平定したあと,この地を与えられた柴田勝家は本拠地を水運・陸運に便利な北ノ庄に移したために,一乗谷は田畑の下に埋もれていったのです。
   もろともに月も忘るな糸桜 年の緒長き契と思はゞ  足利義昭
  君が代の時にあひあふ糸桜 いともかしこきけふのことの葉  朝倉義景
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 朝倉館跡正面の堀に幅2.3メートルの唐破風造り屋根の門・向唐門が当時のまま残っていました。これは朝倉氏の遺構ではなく,のちに建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わり,江戸時代中期頃に再建されたものですが,これはこれでこの遺跡のシンボル的な存在となっています。
 朝倉館は幅約8メートル,深さ約3メートルの堀で囲まれていて,三方の土塁にはそれぞれ隅櫓や門がありました。館内は常御殿を中心として,主殿や会所,庭園などがありました。
 また,朝倉義景の墓は,1663年(寛文3年)に福井藩主松平光通が建立したものです。
 庭池と石組の豪壮な林泉庭園から砂礫と立石,伏石の枯淡な枯山水庭園まで多くの庭園が遺存していました。これらの庭園は室町時代の様式をよく伝えていて,朝倉義景時代の作庭と考えられています。 
 朝倉屋敷と道を隔てて,町並が再現されていました。100尺(約30メートル)を基準に計画的に町割がなされ,京都のように整然とした町並み作られていて,1995年(平成7年)に,発掘結果や史料等を参考に200メートルにわたって当時の町並みが復元されました。また,小規模な建物が細く並んでいた町屋も10軒ほどが復元され,裏庭、井戸、厠なども再現されていました。
 戦国時代に舞いもどったようで,不思議な気がしました。帰りに博物館に寄って,一乗谷を後にしました。

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 私が丸岡城に行ったのは3月の半ばのことなので,わずか2か月ほど前のことなのですが,ずいぶんと昔に思えます。この時期あたりまでは新型コロナウィルスによる事態はさほど深刻でなかったのですが,偶然なのか故意なのか,3月24日に東京オリンピックの延期が決まった日から急に感染者が激増してしまいました。
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 さて,東尋坊から再び丸岡城に戻ってきました。早朝に来た時と同じ場所に車を停めて,丸岡城に行きました。
 駐車場からは城郭はみえず,城までは坂道を少し登る必要がありました。すぐに美しい天守が見えてきました。城はそれほど高い場所にあるのではなく,丘の上にある少し大きな家のようで,ちょっとイメージとは違うなあと思いました。
 このときはまだ城は公開していました。城の外にあった受付のような場所で入館料を払う必要があったので,そこでお金を払ってお城に向かいました。私のほかに来ていたのは一組の夫婦連れだけで,静かな時間を過ごすことができましたが,これもまた,今では遠い昔のことのように思えます。

 1階には若干の展示と昔の城下町のジオラマがありました。城内は昔のままで,上の層に登るためのあまりにも急な階段におどろきました。この階段にはロープがつけてありましたが,もしそれがなければ険しすぎて登れないか,あるいは足をふみはずしてしまうか,といった感じでした。
 もともと,天守はシンボル的存在であって,そこで城主が暮らしていたわけでもなく,おそらくは倉庫のようなもので,頻繁に登る必要もなかったのでしょう。
 最上層に登ると,そこからはちいさな丸岡の町がよく見えました。
 降りるときも階段がまるで崖のようで苦労しました。天守の外に出ると,私が行ったときはまだ桜が咲く季節ではなかったのですが,それでも早咲きの桜が少しだけ咲いていたので,桜と天守が一緒に収まる場所を探して写真を撮りました。

 天守の下に博物館があって,そこで丸岡藩と丸岡城について詳しく知ることができました。
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 丸岡城は丸岡藩の居城でした。
 丸岡藩は,戦国時代,織田信長の配下柴田勝家の養子であった柴田勝豊が治めていました。柴田勝豊が賤ヶ岳の戦いののち病死すると,豊臣秀吉の家臣であった青山宗勝・青山忠元父子が丸岡藩に入りましたが,関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易され,代わって入ったのは結城秀康の重臣・今村盛次でした。しかし,今村盛次は福井藩重臣による内紛に巻き込まれて流罪とされ,その次に徳川家康に仕えた本多重次の子・本多成重が入りました。
 本多成重と子の本多重能,そして孫の本多重昭の3代は藩政の確立に尽力しましたが,本多重昭の子の本多重益は無能の上,酒色に溺れ,それがもとで家臣の本多織部と太田又八の間で内紛が起こり,幕命により改易されてしまいました。
 このように,丸岡藩の藩主は災難続きでしたが,戦国時代,キリシタン大名で有名な有馬晴信の曾孫・有馬清純が越後糸魚川藩から入部し,やっと落ち着きました。その次の藩主である有馬一準の時代には外様から譜代へ格上げされ,第5代藩主の有馬誉純は若年寄,第8代藩主の有馬道純は老中という幕府の要職に就任しました。
 明治維新ののち,有馬道純は版籍奉還により丸岡藩知事となり,さらに廃藩置県によって丸岡藩は廃藩となりました。
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 丸岡城は,日本に現存する12の天守のひとつです。合戦時に大蛇が現れて霞を吹き城を隠したという伝説により,別名を「霞ケ城」といいます。
 城はもともとは安土桃山時代に建造されたと推定されることから現存最古の天守とよばれ,犬山城の天守との論争がありました。それは,1576年(天正4年)に柴田勝豊が建造したものであるという説と,建築史の観点で慶長期の特徴を多く見ることができるから本多成重が入城した1596年(慶長元年)以降の築造もしくは改修という説なのですが,調査の結果,使われている部材に伐採年代が1620年代以降と推定されるものが多いことがわかって,現在では,天守は1624年の寛永期に藩主本多成重によって整備されたと考えられています。
 丸岡城は天守のみ残っていて,櫓はありません。また,聞いてみると,城下町の風情の残る場所も残念ながらありませんでした。それは,1948年(昭和23年)の福井地震でこの町自体がほとんど壊滅的な被害を受けたためだそうです。そして,この地震で天守も倒壊してしまい,現在の天守は,1955年(昭和30年)に部材を70%以上再利用して組み直して修復再建されたものだそうです。
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 風情のある天守でしたが,思いのほか小さなお城でした。見学をしたあと,駐車場の場所にあったレストラン「一筆啓上茶屋」で地元産の越前おろしそばを食べました。客は私ひとりでした。
 私はグルメではないのですが,その土地に行けばその土地の名物を食べるようにしています。福井県の嶺北地方では,冷たいそばにたっぷりの大根おろしと削り節,刻みネギをのせて食べる越前おろしそばが有名だそうです。
 越前おろしそばは,今から400年以上前の1601年(慶長6年),府中(現在の越前市)の領主としてやってきた本田富正が京都の伏見からそば職人の金子権左衛門を連れてきたことがはじまりです。城下の人々に戦や災害に備える救荒食としてそばの栽培を奨励し,健康面でもプラスになるように大根おろしと一緒に食べるそばを考案したのが越前おろしそばの由来だといわれているとのことです。
 おいしくおそばをいただいて,わずかな時間の滞在でしたが,丸岡城を後に帰宅することにしました。

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 東尋坊はずいぶん昔に行ったことがあるという記憶だけですが,どういうところだったかはまったく覚えがありませんでした。知っているのは,そこが自殺の名所,あるいは「サスペンスドラマの聖地」とかいう噂だけです。しかし,もちろん私はそういうものではなく,単に時間つぶし,そして,東尋坊がどういうところかを確認することだけが目的でした。

 世界的にも珍しい断崖絶壁の絶景が臨めるという東尋坊は,その荒々しさや迫力からサスペンスドラマのラストシーンで多く使用されていて,ドラマでは,ここで犯人が自供するシーンがたびたび現れます。
 東尋坊は「輝石安山岩の柱状節理」という珍しい奇岩で構成されている海食崖です。こうした奇岩が大規模に広がっているのは朝鮮半島の金剛山とスカンジナビア半島のノルウェーの西海岸,そして東尋坊しかないそうです。
 崖は1キロメートルにわたり,最も高い場所で25メートルもの垂直の崖です。東尋坊は今から約1,200万年前から1,300万年前の新生代第三紀中新世に起こった火山活動でマグマが堆積岩層中に貫入して冷え固まってできた火山岩が日本海の波による侵食を受け地上に現れたものとされています。

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 昔,福井県東部の山間「奥越」に「平泉寺」という大きな寺に,東尋坊という極悪非道の僧侶がいました。東尋坊は暴れ出すと手がつけられないほどの怪力の持ち主で,悪事を重ね近隣の民を苦しめていました。東尋坊にはあや姫という思い人がいて,恋敵である真柄覚念という僧侶といがみ合っていました。
 平泉寺の僧侶たちが東尋坊を海辺見物に誘い出し,崖の上で酒盛りをしていたとき,真柄覚念が泥酔した東尋坊を絶壁から突き落としてしまいました。すると,東尋坊が海に沈むやいなや,それまで晴天だった空に俄かに暗雲が立ち込め,豪雨と雷が地上を襲い,ついに東尋坊を突き落とした真柄覚念も絶壁の底へと落ちていき,それ以降49日間にわたって東尋坊の無念により海は大荒れとなりました。
 それ以降,崖が広がる一帯が東尋坊と呼ばれるようになったということです。
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 公共の駐車場は有料らしかったのですが,東尋坊に続く道の一番手間にあるお店が無料駐車場の看板をかかげていました。商売上手で,駐車してもらって,帰りにその店で食事をしたり土産を買ってもらおうということのようでした。私もそこに車を停めると,さっそくどこからか店員さんが出てきて,お店の中を通ると東尋坊まで近道だと案内してくれました。
 私はずうずうしいので何も買わずに店を通りぬけ,東尋坊に向かいました。お寺の参道のようにまわりに多くのお店が並んでいて,いかにも昔からある日本の観光地でした。しかし,なにせ,朝早すぎてまだほとんどのお店は準備中でした。そうした参道のような道を過ぎると,海岸に出ました。そこが東尋坊でした。
 もっと雄大なのかと思っていたので拍子抜けをしたのですが,それは,私が海外でとんでもない風景を見慣れているからでした。私以外に観光客もおらず,写真を撮ってもらうにも頼む人がいませんでしたが,かろうじて若者がひとりやってきたので,写真を撮ってもらいました。
 太平洋岸は晴れていたのに,この日の日本海側は天気が悪く,それがまた日本海らしいというか…。
 短い時間でしたが,東尋坊がどういうところなのかわかったので納得して,丸岡城に戻ることにしました。
 帰りも親切なお店の中を何も買わずに通り抜け,車に乗ってそのまま丸岡に戻りました。

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 3月6日,余部鉄橋を見にいった帰りに福知山城と黒井城に寄ったことはすでに書きました。福知山城は明智光秀の居城だったところで,その美しい姿に一度は見たいものだと思っていたのですが,実際行ってみると,そこは鉄筋コンクリートのお城であることを知って,がっかりしました。そして,どうやら,私は,福知山城と丸岡城をごっちゃにしていることに気づきました。私は城マニアでないので,知識はその程度のものです。
 そこで,「一度は行きたかったでもわざわざ行かなくては行かれない場所に行ってみよう」という計画の続きでいろんなところに日帰りドライブ旅行をしている一環として,丸岡城に行ってみることにしました。丸岡城もまた,どこにあるか,まったく知りませんでした。調べてみると,福井市の北にあるようでした。福井市は以前,仕事で行ったことがあります。そのとき,交通費を節約して高速バスを利用したのですが,福井市が名古屋からずいぶん近いことに驚きました。そして,大都市が近くにない福井市の人は用事があると気軽に名古屋に来るということを知りました。

 よい天気でした。今回もまた,早朝6時に自宅を出て,名神高速道と北陸自動車道を乗り継いで日帰りでドライブすることにしました。これまで行った余部や親不知に比べたら,比較にならないほど近いところで,わずか2時間,あっという間に福井インターチェンジに着いてしまいました。福井インターチェンジを過ぎると,やがて左前方に町が広がり,その中心付近に小さなお城が見えました。丸岡城は山城ではなく,町の真ん中にあって,家々と馴染んでいました。
 ただ,誤算は天気でした。自宅を出たときは晴れていたのですが,日本海はまったくそうではなく,曇天,しかも,とても寒い日でした。
 丸岡インターチェンジで降りて,Google Maps のナビゲーションに従って走っていくと,ほどなくお城の駐車場の着きました。丸岡城は坂井市にありました。坂井市は思った以上に小さな町でした。そしてまた,小さな城郭でした。広い駐車場がありましたが,1台も車は停まっていませんでした。時間はまだ午前8時前。ちょっと早すぎるなあ,と思って,どこか近くに寄る場所でもないかなあと地図を見ると,東尋坊まで25分でした。そこで,まず,東尋坊まで足を延ばすことにしました。
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 というわけで,3月17日の朝8時すぎ,出かけるときに行くとも思わなかった,そして,私以外に誰もいない寒さ震える東尋坊で,私は日本海を眺めていたのでした。

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 駐車場を出て国道8号線を東に進んでいくと,やがて道の駅に着きました。このあたりが子不知だそうです。
 ここで難所も終わり,先には平地が見えてきました。昔の旅人はほっとしたことでしょう。さらに行くと姫川があって,橋を越えると糸魚川市です。糸魚川市といえば,東北日本と西南日本の境目となる中央地溝帯・フォッサマグナです。小学校で習いました。
 本来なら,私は列車に乗ってこの糸魚川市に着いて,ここから西に親不知海岸に列車で目指す1泊2日の旅をするはずでした。
 車で走っていると,乗るはずだった1両編成の列車が走っているのが見えました。しかし,こうして車であっという間に来てみると,これでは旅情もへったくれももなく,ただ来たというだけのことでした。
 目的は親不知海岸を見てみたいということだけだったので,ここらあたりで引き返すことにしました。目的を達成できて,これはこれで満足しました。
 帰りの途中,市振の集落に差し掛かったので,一旦国道8号線を降りて集落の細い道に入りました。

 松尾芭蕉は「奥の細道」で,次のように書いています。
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 今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て,つかれ侍れば,枕引よせて寐たるに,一間隔て面の方に,若き女の声二人計ときこゆ。
 年老たるおのこの声も交て物語するをきけば,越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて,此関までおのこの送りて,あすは古郷にかへす文したゝめて,はかなき言伝などしやる也。
 白浪のよする汀に身をはふらかし,あまのこの世をあさましう下りて,定めなき契,日々の業因,いかにつたなしと,物云をきくきく寐入て,あした旅立に,我々にむかひて,「行衛しらぬ旅路のうさ,あまり覚束なう悲しく侍れば,見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。
 衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と,泪を落す。不便の事には侍れども,「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護,かならず恙なかるべし」と,云捨て出つゝ,哀さしばらくやまざりけらし 。
  一家に遊女もねたり萩と月
 曾良にかたれば,書とヾめ侍る。
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 このときに松尾芭蕉が泊ったという宿の跡が残されていました。
 ここはまた,市振の関所があった場所です。市振の関所は1614年(慶長19年)に設けられたものといわれ,加賀藩最大の関所でした。越後に通じる親不知の難所を控え,交通の要所を押さえるように国境に設置されたものです。
 加賀藩はこの地を直轄地とし国境警備に重点をおいたので,ここは全国でも最大級の規模をもつ関所でした。関所には,海辺や海上渡航改めをする浜関所,街道通行改めの関所,海上や山中を不法越境するものを見張る御亭,藩主が宿泊した御旅屋,射撃場,牢屋,役人の長屋などがありました。
 現在は,静かな漁港となっています。

 さて,これで帰宅です。
 せっかく来たので,立山やら黒部やらまで足を延ばしてもいいのですが,特に行くための準備もしていなかったので,立山の姿だけを遠くから見て,行きと同じ東海北陸自動車道で引き返すことにしました。
 立山は雪を被った姿がよく見えました。若いころは,妙高,赤倉,栂池,白馬,八方尾根など,数多くのスキー場に通ったものです。改めて地図を見ると,今回私が来たところは,そうしたスキー場からとても近い場所であることに驚きました。しかし,当時は,こんなことにはまったく興味もなく,朝から晩までスキーをしていただけでした。思えばもったいないことをしたものです。

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 駐車場に戻ってきました。駐車場から海岸に降りることができる階段がありました。帰りにこの階段を登ることを心配しながら急な階段をずいぶん降りると,海岸まで行くことができました。
 私はこのところ,年甲斐もなく,思いのほか高い山に登ったりこうした階段を降りたりしています。この日も懲りずに登ったり降りたりでした。
 この海岸は「芭蕉も歩いた道」という触れ込みでした。海岸には崖が迫っているので,この先を歩こうとすれば,潮が引いて浅瀬になったときに海の上を歩くほかはありませんでした。冬の日本海は過酷で波も高いので,多くの犠牲者が出たそうです。
 この階段を降りる途中に,不気味なトンネルがありました。しかも,このトンネルはどうやら歩けるようでした。このトンネルを抜けた先が,先に歩いた道路の行きつく先であるようでした。冬場は向こう側のトンネルの先にある展望台が閉鎖されているために,道路の先からトンネルに降りることはできなかったのですが,こちらの階段の途中からはトンネルの向こうまでは行けるのでした。

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 このトンネルは親不知レンガトンネルといいます。1905年(明治38年)帝国会議で敷設が決定され,1906年(明治39年)に富山・直江津間 の実測が始まり,1907年(明治40年)に両端から工事がはじまりました。神戸市の稲葉組が現在の金額換算で約120億円で請け負ったそうです。地質が非常に硬い安山岩であったため,手掘りでは1日平均約58センチメートルしか掘り進められなかったとされています。全長は667.82メートル,幅員4,572メートル,高さ4,700ミリメートルのトンネルは黒姫山の石灰石が北陸一帯に輸送され地域の近代化に貢献しました。
 1965年(昭和40年)の複線化に伴い廃線となり,1974年(昭和49年)に日本国有鉄道から現在の糸魚川市に無償で譲渡され,地域の近代化に貢献した貴重な鉄道遺産として,2014年(平成26年)に土木学会選奨の「土木遺産」に認定されました。このトンネルが歩けるようになったのは2016年(平成28年)ということなので,私は長年来たいと思っていてそれがかなわず,今来ることができたのは幸運だったように思いました。
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 こわごわ中に入りました。ところどころに灯りがあったのですが,暗く,入口に懐中電灯が置いてありました。しかし,今はスマホがあれば懐中電灯は不要です。
 トンネル内の足元はぬれておらず,何の問題もなく歩くことができました。それにしても,ほぼ無人の状態でこんなトンネルが開放されているのが驚きでした。興味本位でやってきて,なかでわいわい騒ぐような不届きモノがいても大丈夫なのでしょうか? もしアメリカでこうした施設があるのなら,おそらく,入口にビジターセンターがあって,結構なお金を取って,時間を決めてガイドツアーが実施されたりするのでしょうが,日本でそうしたツアーをやっても,人が集まらないでしょう。多くのブログに,行って来たぞのようなものがたくさんあるので,興味ある人は探してみてください。 
 暗いトンネルの中にときどき灯りがともされていて,そこにレンガの積み方の解説などがかかれた展示があって,私にはけっこう興味深いものでした。
 トンネルを抜けた先に展望台があるようでしたが,先に書いたように,展望台は冬の間閉鎖されていて景色もたいしたことはなく,結局,トンネルを歩いて抜けたというだけのことでした。
 私は再びトンネルを歩き駐車場に戻り,さらに先に向かいました。

 

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 ヒスイ海岸あたりはまだ海岸線はずっと平地で,この先に本当に断崖絶壁があるのだろうか,という雰囲気でした。
 日本海の海岸にそって地元道をくねくねと富山県から新潟県に入ると,急に山が迫ってきます。アメリカの州境も日本の県境も同様ですが,あとで地図で線を引いたような場所はともかく,歴史的に自然に境ができたところは,やはりそれなりに理由があるものだなあというのを実感します。

 新潟県に入るころには一般道は国道8号線に吸収されました。県境を越えたところに市振という集落がありました。この集落はその先の難所を控えた宿場だった場所ですが,いつものとおり私はともかく目的地に到達するのが第一なので,この場所で停車することもなく先を急ぎました。この集落は帰りに寄ってみたので,そのときにまた書きたいと思います。
 市振を過ぎると,突然,海岸線は崖になりました。高台には高速道路が走っていますが,私は,高速道路を走る予定はなく,ずっと一般道の国道8号線を走ることにしていました。
 海岸にそって走る国道8号線は海の迫ったこの場所では日本海の荒波が直に打ち付ける場所で,塩害が強く,走っていると,道路は絶えず補修をしたり,作り直されたりしていることがよくわかりました。断崖絶壁である数十メートルの区間は切り立った断崖をトラバースします。国道8号線は総延614キロメートルにも及ぶ日本海側の大動脈で,多くの車が行き交っていました。覆道あるいはトンネルは多くのトラックが走っていてカーブになるとオーバーハングしてくるので,油断のならない道路でした。
 この場所が断崖絶壁なのは,日本列島の大地溝帯フォッサマグナが南端である静岡県焼津市大崩海岸から続く北端にあたる部分で,北アルプスの山塊が日本海に潜り込む場所だからです。
 車中から眺められる豪快な海岸線はまさに絶景なのですが,よそ見をする余裕はなく,景色を見るのは展望台までお預けでした。
 
 やがて,ようやく待ち望んだ展望台に到着したので,駐車場の車を停めて外に出ました。
 海岸線に続く,車の通行禁止の道路があったので,まず,そこを歩きました。いつものように,私はほとんど下調べをしないで来たので,この場所がどうなっているのかは到着してのお楽しみでした。このときわかったのは,今のような国道8号線ができる前,この展望台のはるか下の海岸線近くに鉄道のトンネルが掘られたということで,今は廃線となったそのトンネルは歩いて抜けることができるのでした。
 ただし,私が今歩いている道路は,トンネルの西の端の入口に続いているのですが,冬場は徒歩でもトンネルの入口へは通行できないということで,途中で引き返すしかありませんでした。
 それにしても,想像以上にすごい風景でした。
  

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 東海北陸自動車道で終点の富山まで行って,北陸自動車道に入りました。
 私はこれまで富山県というところに行ったことがありませんでした。おそらく,石川県に行ったときに県境は越えたことがあるかもしれませんし,あるいは,若いころスキーをするために北アルプスには行っているので,そのときも県境は越えたかもしれませんが,わざわざ富山県を目的地として旅行をしたことはありません。
 私の思う富山県の印象は,冬寒く夏暑いというところです。しかし,大学を卒業して就職をするときに,結局は行きませんでしたが富山県のある会社に内定をもらっていたので,世が世なら富山県に住んでいたかもしれないのです。
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 富山県というのは有数の観光地で,黒部渓谷や立山,そして,蜃気楼,ホタルイカなどが有名なのですが,私は,それを目的にわざわざ行くこともこれまでありませんでした。どうしてなのでしょう? しかし,近い将来,富山県に夢中になる可能性もあるかもしれません。というのも,今回行ってみて,いいところだと思ったからです。

 北陸自動車道を目的地の親不知まで走っていってもおもしろくないので,早々に一般道に降りて,日本海に沿って走ろうと,魚津インターチェンジで降りました。こここから海岸線に沿って,目的地である親不知子不知に向かうのです。
 おそらく,この日の天気が悪かったらまったく別の印象をもったかもしれませんが,私は晴れているからこそ今日来たので,日本海がそれはそれは美しく眺められました。
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 蜃気楼の見えるところという看板が至る所にありました。
 蜃気楼というのは上暖下冷の空気層の間で光が屈折して観察者の目に届き風景が伸びたり反転した虚像が見える現象だそうです。これまでは,富山湾に流れ込む冷たい雪解け水が大気の下部を冷やして上暖下冷の空気層を作ると考えられてきましたが,最近の調査では,下層が冷やされるのではなく,蜃気楼発生時にはむしろ上層に陸地から暖気が流れ込んでくる現象ということです。
 富山湾で蜃気楼が見られるということは知っていたのですが,どのくらいの確率で見られるのかは全く知りませんでした。これを機会に調べてみると,蜃気楼が見られるのは春から初夏の3月下旬から6月上旬にかけてで,2,3日晴天が続き気温が高く海岸で穏やかな北北東の風が吹く日に発生しやすいとされていて,短いもので数分,長ければ数時間にもわたって幻想的な姿を見せるのだそうです。
 オーロラ同様,蜃気楼予報などというものがあるので,これを頼りに出かければひょっとして見ることができるかもしれません。富山など車ではしればすぐそこです。いやいや,また,余分な? ものに興味をもってしまいそうなのでこれ以上興味を深めるのはやめておきましょう。オーロラ,皆既日食などと同様,こういうものは見ようと思って見れらないとトラウマになってしまいます。
 海岸線を走っていると,確かにいかにも蜃気楼が見られそうな海岸でした。

 さらに進むと,今度はヒスイ海岸というところにたどり着きました。
 ヒスイ海岸という通称は,このあたりの海岸線でヒスイの原石を拾うことができることに由来します。ヒスイ海岸ではヒスイ以外にもルビーやサファイアなども見つかるらしいです。ヒスイは,山から姫川や青海川などの流れによって海まで運ばれてきたという説やフォッサマグナでのヒスイを含んだ蛇紋岩層が糸魚川市から富山県朝日町にかけての海底にも分布していて波の撹拌作用によってヒスイが海岸に打ち上げられるという説が存在するそうですが,実際のところはよくわかっていません。昔はたくさんみつかったそうですが,今は,河川の上流から流れ下ってくるヒスイは川に設置されたたくさんの砂防堰堤に遮られて海岸に到達しにくくなり,海岸に置かれた無数のテトラポッドがヒスイ探しの障害となっていて,海岸で1日かけて探しても数個のヒスイを拾うことができるくらいのものだそうです。
 それにしても,美しい海岸でした。私は,オーストラリアのゴールドコーストを思い出しました。

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 新型コロナウィルス騒動でもなければ,私は,ここにもJRで行こうと考えていました。考えていたルートは次のものでした。
 まず,名古屋から中央本で塩尻まで行きます。そこで大糸線に乗り替えて糸魚川まで行くのです。この行程だと6時間くらいで行ける感じでした。そして,糸魚川の確か2,3駅手前に,ひなびた温泉宿を見つけました。そこは雪を見ながら温泉に入れるという触れ込みでした。ならば,雪の深い季節のほうよさそうだなあ,いつ行こうかなあと考えていました。そこで1泊して,翌日,糸魚川からは日本海に沿って「あいの風とやま鉄道」とかいう第3セクターの列車で親不知駅で降り,親不知海岸を散策して,再び親不知駅から列車に乗って富山まで行き,富山からは高速バスで帰ってくるのです。
 今年の冬まで待って,このコースを実現してもよかったのですが,去る3月6日に車で片道4時間以上かけて日帰りで余部鉄橋を見にいった結果,親不知子不知のほうが余部よりずっと近いではないかと思うようになり,ならばついでに行っちゃえということで,すぐに行動に移したのです。
 今回のドライブコースは,東海北陸自動車道を一直線北に終点の富山まで行って,富山からは北陸自動車道でどこから適当なところまで行ってそこで一般道に降りて,日本海沿いを走るというものでした。これまで東海北陸自動車道は郡上八幡のあたりまでは使ったことがあるのですが,その先を走ったことがなかったので,一度利用してみたかったということもありました。そしてまた,富山という町にも行ったこともなかったので,けっこうこの計画は魅力的に思えました。

 ところで,今,この文章を書いていて気づいたのですが,東海北陸自動車道と北陸自動車道って,名前のつけ方がかなり紛らわしいです。知らない人にはわかりません。混乱します。道路に限らず,日本では名前のつけ方に全体を見渡す配慮がなさすぎます。
 話は脱線しますが,政党の名前も同類です。自由民主党と国民民主党,立憲民主党,さらには,前にあった民主党っていう名前も,考えてみれば意味不明です。みんな民主党のあたまに2文字つけただけではないですか。なのに,どうして自由民主党だけ略称が自民党となるのでしょう? ならば,国民民主党は国民党だし,立憲民主党は立民党です。選挙で民主党と書いたら票数は3等分するのでしょうか? 自由民主党だって,そもそも,もともとは自由党と民主党が合併してできた政党です。
 同じように,東海北陸自動車道だって,北陸自動車道と名前が被っています。
 少し話はずれますが,これまで何度も書いたことがあるように,京都に行って名古屋や東京方面のJRに乗ろうとしても,東海道線というものがありません。京都の人は東海道線を「琵琶湖線」とよぶのですが,こんなもの,名古屋や東京の人にはわかりません。それなのに,東海道新幹線はそのままです。京都の人でも琵琶湖新幹線とはいいません。

 話を戻します。
 早朝自宅を出て,東海北陸自動車道に乗りました。あとはずっと北上するだけでした。ずっと以前に走ったときはほとんどの範囲が片側1車線でしたが,今回走ってみて,おおよそすべての区間が2車線に拡張されていたのにおどろきました。
 このごろ日本国内を車で走ってみたら,私が知らないうちにやたらと道路ができていたのに驚きました。確かに早くて便利です。どこへもすぐに行くことができます。こうして車で走ってみると,私はここ10年以上だだっ広いアメリカばかりをドライブしていたので,それに比べて日本の狭さが身に染みます。車を使えばすぐに日本横断なんてできてしまいそうです。
 これまで,列車を使ってちんたらちんたら旅をしていたのでけっこう広い国だと思っていたのですが,列車で旅をすることがすごく非効率なことだと感じます。これでは,私のような,時間つぶしで旅をする人以外にはローカル線もローカルバスも乗らなくなるはずです。
 しかし,こんなにたくさん道路を作ってしまって,そうした道路の維持がこれからもできるのでしょうか? 日本はこの先急激に人口が減ります。そして,しばらくは年寄りだらけになります。福祉の予算もかかるし,労働者が激減します。現状を保つことすら困難になってくるのです。しかし,依然として,国土を壊し,高速道路を作り需要もなさそうな新幹線を建設しています。そんなことをして,この先維持できるわけないじゃないかと心配になってしまいます。

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 今日からは「一度は行きたかったでもわざわざ行かなくては行かれない場所に行ってみよう」という計画の続編で,3月9日に日帰りで日本海の「親不知子不知」に行ったときのお話です。
 行ってからすでにひと月あまりの時間が過ぎました。その間,世界の情勢はさらに悪化し,いつ終わるともわからない不安が増幅してしまいました。わずか数か月前の人が行き交っていた世界が夢のようです。
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 3月6日の金曜日に余部鉄橋の行ったことはすでに書きました。人混みがきらいで週末はあまり出歩きたくないので自宅で過ごし,週明けの3月9日の月曜日,今度は新潟県の「親不知子不知」海岸に車で行くことにしました。雪が心配だったのですが,ぽかぽか陽気で,その心配もなさそうでした。

 私は,長年,ずっと「親不知子不知」海岸に行ってみたいと思っていました。
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 誰もいない(中略)聞えるものは波音だけ。泌み入るようなさみしさである」
  深田久弥「親不知・子不知」より
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というように,北アルプスが日本海に鋭く落ち込み作り出した断崖絶壁に面したわずかな渚である高尾の場所は,明治のはじめまで,そこは越後と越中を結ぶ最短路であり,かつ,旅人が命がけで歩いた道でした。

 また,この場所は,参勤交代をする加賀藩にとっても,最大の難所でした。
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 金沢から江戸に参勤交代するコースは,金沢から北陸道の越後高田を通り,北国街道の信濃追分から中山道を通り江戸へというコースでした。 このコースでは,江戸までの距離は百十九里(約480キロメートル),所要日数は12泊13日なので,1日あたり十里(40キロメートル)を歩いたわけです。旧街道歩きを楽しむ私には実感がわきます。加賀藩の参勤交代行列の人数は最大で4,000人程度,通常は2,500人から3,500人で,日本一大規模なものでした。かかった費用は現在のお金に換算すると5億円とも7億円ともいわれます。
  日本海の荒波が断崖下の道に迫っている親不知は参勤交代道中の中で最大の難所でした。500人から700人の「波除け人足」が麻縄を持ち,人垣を造って藩主を護り,馬は荷物を付けたまま通ることができないので人間が馬に代わって荷を担ぎ,馬は空荷で通しました。そして, 渡り終えると江戸と加賀に注進の特使を飛ばし,難所を無事に通過したことを知らせたそうです。
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 私が「親不知子不知」海岸のことを知ったのは,こうしたものからですが,古より,これだけの困難を強いた場所があれば,そこがどんなところかと一度は見ておきたいと思っていたのでした。

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