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 山県市は大桑城だけでなく,中洞地区には明智光秀の墓というものもあって,私はびっくりしましたが,ともかく行ってみました。
 明智光秀の墓は桔梗塚といい,白山神社のなかにありました。また,ここは明知光秀の墓だけでなく,生誕地ともされていて,神社の境内には,明智光秀の母が産湯の水を汲んだという井戸が残され,神社近くの武儀川には,光秀を身ごもった際に母が「たとえ三日でも天下を取る男子を」と祈ったという行徳岩がありました。
 
 明智光秀は山崎の合戦で死んだのではなく,そのとき死んだのは影武者であり,ひそかに郷里山県市中洞に落ち延びて荒深小五郎の名ですんでいた,ということだそうです。
 神社に次のような説明書きがありました。
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 この地区の伝承によると,明智光秀は土岐元頼と中洞の豪族である中洞源左衛 門の娘との間に長男として生まれたといいます。7歳の時に父が亡くなったことか ら,現在の岐阜県可児市にある明智城主明智光綱のもとで軍学兵法を学び,やがて養子となりました。
 明智城は1556年(弘治2年),斎藤道 三の息子斎藤義龍に攻められ落城,美濃を脱出した光秀はやがて天下統一を目指す織田信長に見いだされ,織田信長の家臣となりました。
 1582年(天正10年),明智光秀は本能寺の変を起こし天下人となりましたが,約10日後に豊臣秀吉の軍と山崎で激突し命を落とした…というのは通説で,実は,合戦で死んだのは影武者であって明智光秀本人は生きていたのです。
 光秀は郷里の中洞に落ち延びた後,身代わりとなった影武者 荒木行信の忠誠に深く感銘して「荒」と「深」を取って自ら荒深小五郎 と名乗り、中洞の 地で暮らしまし た。
 そして,1600年(慶長5年),徳 川家康の要請で関 ケ原の合戦に向かう途中,増水した根尾川で馬共に押し流されて亡くなったと伝えられています。
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 そこで,この地に明智光秀の墓があるというわけです。桔梗塚の名称は明智家の家紋が桔梗であることに由来していて,今も地域の住民によって毎年2回供養祭が行われているそうです。

 明智光秀についてはさまざまことが伝わっておらす,そのために,今では言ったもん勝ちみたいなところがあって,各地にいろいろなものが残っている,というか,こじつけているのが,まあ,おもしろいというか愉快というか,そのおかげで,私は退屈することがありません。それも家から近いところばかりです。それにしても,こんなに身近な場所にそんな曰く因縁ががあったというのが驚きでした。

☆ミミミ
昨日の月と金星です。ずいぶんと離れてしまいました。
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