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 桑名宿の街並みの雰囲気の残る旧東海道を四日市宿の方向へ向かって少し歩きました。今回は桑名宿から四日市宿まで歩く予定はありませんでしたが,以前,四日市宿から先は歩いたことがあります。
 左手に桑名城の石垣を見ながら旧東海道を歩いていくと,桑名宗社の鳥居があったので,寄ってみました。まだ桜の季節のは少し早かったのですが,社殿ではちらほらと咲いていました。
 桑名宗社は,もともとは桑名神社(三崎大明神)一社があったところに,中臣神社(春日大明神)が遷座して二社合社となったそうです。桑名神社は景行天皇40年から45年にかけて遷座し,天武天皇が壬申の乱で当地から尾張美濃に渡海するときに「此地の地主にして沙羯羅龍王の女妙吉祥」が現れ「本地は十一面観音,垂迹は三種の神宝」であることから「三崎明神」と称して虚空に飛び去ったという伝承があります。また,中臣神社は769年(神護景雲3年)」に創祀されたといいます。

 桑名は中世より商人の港町と交易の中心地として発展しました。戦国期,織田信長の支配下として滝川一益が入り長島城を居城とし,桑名城は家臣が守備しました。織田信長の死後,滝川一益は没落し,織田信長の次男・織田信雄の支配下に入りましたが,のち改易され,豊臣秀吉の家臣・一柳直盛が入封,その後,氏家行広と続きますが,関ヶ原の戦いで敗北し,1601年(慶長6年)に本多忠勝が入り,桑名藩として立藩します。本多忠勝は「慶長の町割り」とよばれる大規模な町割りや城郭の増改築などを積極的に行って現在の桑名市街の基礎となり,東海道宿場の整備も行いました。九華公園(きゅうかこうえん)には大きな像があります。
 本多忠勝の隠居後,本多忠政が藩主となり,大坂の陣ののち,千姫と本多忠政の嫡男・本多忠刻が婚姻したこともあって,姫路藩に加増移封され,家康の異父弟である松平定勝が入りました。それ以降は,譜代大名として松平家が後を継いでいきますがが,桑名は川に近い低地のためにたびたび水害に悩まされることになります。
 桑名藩の悲劇は幕末の激動期に訪れます。
 藩主・松平定敬は長州征討や天狗党の乱で京都の守備を務め,徳川慶喜と協調することで成立した会津藩との政治体制は、会桑政権とよばれたように,長州藩や薩摩藩から打倒目標とみなされるようになってしまいました。第二次長州征伐への対応をめぐり徳川慶喜と会津・桑名両藩が対立して京都政界での足掛かりを失い,さらに,桑名藩は朝敵となってしまうのです。
 家から近いところなのに,こうした歴史を私はまったく知りませんでした。

 桑名城は別名を扇城,旭城といいます。
 1186年(文治2年)に桑名行綱が築城したのがはじまりとされます。 1595年頃までに本丸の北東隅に伊勢・神戸城から4重6階の天守が移築されるなど,63の城門と95の櫓が整備されました。のち, 本多忠勝が本格的な近世城郭へと桑名城の大改修し,天守は隅櫓として残されますが,新たな天守は建造に時間がかかり,約30年かけて1635年(寛永12年)藩主松平定綱のときに完成しました。しかし,1701年(元禄14年)に焼失したあとは天守台のみが残されることになりました。
 幕末,新政府軍が迫ると桑名城は開城しましたが,桑名城は焼き払われてしまいました。
 現在,桑名城跡は九華公園となっています。