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 ブログでは美濃路の大垣宿,墨俣宿の順に書きましたが,この日私は,早朝に墨俣宿へ行き,そのあとで大垣宿に行きました。それでもまだ午前中だったので,帰るまえに,桜満開の谷汲山華厳寺に足を延ばしました。ということで,今日は美濃路ではありませんが,谷汲山華厳寺について書きます。
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 この春は,まだ深刻でなかったにせよ新型コロナウィルスの流行がはじまって外国からの観光客がいなくなったために,今後はこんなことはありえないというほど,人が少ない静かな花見ができました。
 また,私の嫌いな桜の花の下で宴会騒動,ということもなく,暖かな春の日,満開の桜の咲く下を心置きなく散歩するには最高でしたし,満開になってから寒くなったので,桜が散らず,2週間も楽しめました。こんな春はもう二度と訪れないでしょう。
 桜の季節なのに,華厳寺もまた人が少なく,したがって車も少なく,駐車場は無料で開放されていました。車を停めて参道を歩きました。
 華厳寺は天台宗の寺院で,山号は谷汲山,本尊は十一面観世音菩薩,脇侍として不動明王と毘沙門天を安置する西国三十三所第33番札所,つまり満願結願の寺院です。

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 華厳寺は,798年(延暦17年)に会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって創建されたといいます。
 大口大領は都の仏師に依頼して自らの信仰する十一面観世音菩薩の像(観音像)を造立しました。観音像とともに会津に帰ろうとしていたところ,途中の美濃国赤坂(現在の大垣市)で観音像が動かなくなってしまいました。
 そこで,798年(延暦17年)赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受けて草庵を建立し,僧・豊然上人の協力を得て華厳寺を建立しました。その後,801年(延暦20年)に桓武天皇の勅願寺となり,917年(延喜17年)には醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜し,944年(天慶7年)に朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め,仏具・福田として一万五千石を与えたというから,かなりの歴史と格式があります。
 1334年(建武元年)に足利氏と新田氏の戦乱で幾度となく諸堂伽藍を焼失しますが,1479年(文明11年),観音菩薩の夢告を受けた薩摩国鹿児島慈眼寺住職道破拾穀により再興されました。
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 1キロメートルにわたる参道は桜が満開でした。私は参道の満開の桜さえ見ることができればそれでよかったので,ここで昼食をとり,帰ることにしました。選んだ食堂は「萬屋(よろずや)」というところでした。
 お店の外にこの店のいわれが書かれていました。それによると,948年(天暦元年)に羽林の姓を賜り,1320年(元応2年)には後醍醐天皇より播磨の国と赤松の姓を賜り,赤松円長と名乗りました。その孫にあたる赤松三郎円心の嫡子赤松則次は1351年(観応2年)に足利尊氏の幕臣となり今村姓をなのることになります。1358年(正平13年)足利尊氏の死去に伴い,諸国行脚の末,夢枕に観音様が現れ,谷汲山に導かれました。それ以降,名主としてこの治を収め,1860年(萬延元年),萬屋与衛門のときに現在の家業となり,以来,百数十年になる,ということです。

 帰り道,いつも通る道路の脇の樽見鉄道の木知原(こちぼら)駅付近がまた桜満開でした。私はこれを狙ってきたわけでもなかったのですが,見ごろだったこともあって,付近に車を停めて写真を撮ることにしました。ここは有名な撮影スポットで,この風景を狙ってわざわざやってきているアマチュアカメラマンが群れていて迷惑でした。どうして何事もひとりでできないのだろう,と私は不快でした。
 それはともかく,私は駅と桜さえ写すことができればそれで満足だったのですが,偶然,電車が通りました。電車が通るのは1時間に1本程度だったので,とても幸運でした。少し以前に行った山陰本線の餘部駅のときもそうだったのですが,何も調べず,その気もないのにいつもツキに恵まれています。
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 樽見鉄道は桜の名所が沿線にあることで鉄道ファンに知られれています。
 大垣駅から本巣市の樽見駅を結ぶ営業距離34.5キロメートルのローカル線は,1984年(昭和59年)国鉄樽見線の廃止で第三セクター鉄道として大垣と神海(こうみ)間が開業し,1989年(平成元年)には樽見駅まで延伸しました。樽見駅から徒歩約15分のところには淡墨公園があり,国の天然記念物「淡墨桜」が咲きます。私は数年前に行ったことがありますが,この桜はかなりのお歳で枝の支えが痛々しく,私はあまり感動しませんでした。
 また,今回私が写真を写した木知原駅は2018年(平成30年)の台風21号で被害を受けて駅の北側の桜が伐採されてしまったので,残念ながら往年の姿は消してしまったのだそうです。