しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:美濃路を歩く

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 旧美濃路は名古屋市内を南北に縦断して濃尾平野に出て,大垣まで行く街道です。
 旧東海道が現在の名古屋市熱田区の宮宿から西に行くには次の桑名宿までは渡し船に乗らなければならず,その先も鈴鹿の峠越えが待っているので,旧美濃路を通って宮宿から旧中山道の大垣宿へ行き,そこから旧中山道の琵琶湖沿岸を通って京へ向かうほうがずっと便利です。
 ということなのですが,旧美濃路が現在の名古屋市内をどのように通っていたのか,私は住んでいたのにまったく知りませんでした。調べるまでもなく,考えてみれば,堀川沿いに北に行くわけで,今回歩いた四間道こそが,その旧美濃路でした。というか,厳密には,四間道は美濃路の1路西を平行に通る道でした。

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  1700年(元禄13年)の大火の後,尾張藩4代藩主徳川吉通が,堀川沿いにある商家の焼失を避けるために,中橋から五条橋までの道幅を4間,約7メートルに拡張しました。このことから,この道を四間道といいます。
 延焼を防ぐ防火壁の機能を持たせるために尾張藩が通りの東側に石垣の上に土蔵を建てることを奨励したことから土蔵造りの並ぶ街並みが形成されました。
 現在は,白壁の土蔵が連なり,2階には屋根神様が祀られているという,この地方の特徴のある古い町屋が多く残っています。
  ・・・・・・
というように紹介されています。  

 私は子供のころから日常通っていたところなので,ここがそんな歴史的にみて意義のある場所とはまったく認識していませんでした。それでも,今から50年も前は,いまほど整備されておらず,気の利いたカフェやらレストランもありませんでした。それでも,この近くにある円頓寺の商店街はいまよりずっと活気があって,七夕のときは,仙台の七夕祭りのような飾りつけがあって,多くの人でにぎわったものです。
 今になって,多くの場所と同じように,この界隈が見直されて,江戸の面影を残すような街並みに過ごしずつ戻されているので,歩いていて楽しいです。
 私は,このような,車がすれ違えるかどうかほど,つまり,その幅が四間ということなのでしょうが,そうした幅の道に面して家々が並んでいる姿こそが日本のもっとも落ち着く町並みだと思います。これからも,その落ち着いた街並みが人々のこころを癒すことができればいいなあ。

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 現在のようなコロナ禍でも訪れなかったら振り向きもしない地元を知る機会ができて,皮肉というかなんというか…。
 ともかく,子供のころから育った場所がどんなところだったのかがわかったのは,うれしいことでした。
 何せ,歩くから健康にいいし,遠くに行かなからお金がかからない,しかも,昔を思い出して落ち着く,という利点ばかりなので,こうした街道歩きをしている人は多く,私が何を書いたところでもっと詳しいブログが山ほどあるので,観光案内はここでは書きません。
 
 美濃路は前回の清須宿から南に庄内川を渡り名古屋市内に入るわけですが,この場所はなんだかんだと今まで通る機会も多かったところなので,ここが美濃路だったのか,という気持ちでした。
 写真にあるような「屋根神様」も私には見慣れた景色で,特に珍しくもなかったし,美濃路に限らず,古い家並みも,もともと私が子供のころに住んでいた家とさして変わらないので,こんなもののどこがいいのかとずっと思っていました。

 そもそも,実際に住んでみればわかるように,太陽の光が入らないので暗いし,2階など屋根が低いから狭く暑く,使いモノになりません。
 日本人はこうした「忖度」と「やせ我慢」の蓄積された国なのです。
 冷房は7月からとか,28度以上とか,ちょっと無理したきまりを作るわけです。そして,6月の暑い日ともなると「試運転」とかなんとか適当な理由をつけて,実質きまりなんか無視して運用したり,せっかく冷房をつけているのに暑くてたまらないというような,私には,いったい何のために何を守っているのか,さっぱり意味不明なことがまかり通っています。つい数年前までは,暑い夏の日にもネクタイをつけて上着を着るのが強制されたりしていました。
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 ということで,こうした旧街道を歩いていると,懐かしさとともに,この国に住んでいる人のある種の狂気のそのもとがとてもよく実感できます。

 それにしても残念なのは,明治維新以降,急激にもたらされた西洋文明とか車社会によって,こうした町並みが何のリスペクトもなく壊されていき,ところどころに残るこのような風景もまた,それを保存しようとする人たちと便利さを求める人たちとの葛藤で,次第にぐっちゃぐちゃになっていく様です。
 日本人は「根回し」は得意ですが,「話し合い」は苦手です。本来「話し合い」をすべき会議ははじめから結論が決まっていて,単なるガス抜きの場となり,参加者が知恵を出し合って案を作っていくなんていうことはできません。
 このごろ顕著になったこの国のさまざまな問題もまた極めてこの国らしい出来事だなあと,もはや現役でない「世捨て人」の不良老人である私は,冷めて傍観を決め込んでいます。


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DSC_5336sIMG_1004IMG_1001IMG_1023 気が向いたとき,美濃路を順に歩いています。今日は現在の稲沢市である稲葉宿から南に進みます。
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 愛知県稲沢市から清須市へは,現在,家並みが続いているので,どこが街道だったのかわかりにくいのですが,探して見ると,現在の自動車道から少し入りこんだ形で,街道の雰囲気が残る狭い道路が続いています。
 清須はもともと織田家の居城があったところで,織田信長はこの地で生まれました。
 現在,立派な天守があるのですが,これは1989年(平成元年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して清州城跡に隣接する場所に建設された鉄筋コンクリート造の模擬天守にすぎません。もともとの城跡の大部分は消失し,東海道本線と東海道新幹線に分断されていて,本丸の土塁の一部が残っているだけですが,城跡の一部は清洲公園となっていて,織田信長の銅像があります。
 なお,以前は清州町でしたが,合併によって,清須市となりました。また,昔から,清州,清須のどちらも使われていて,ともに正しいとされています。

 江戸時代まで,尾張の中心は清洲城とその城下町でした。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い以降,大阪の豊臣氏の勢力に対抗しなければならない政治情勢にあり,徳川家康は清洲城を豊臣家対抗の拠点と考えていたのですが,清洲は庄内川水系の下流域にあたり水害が多発することと,水攻めされると兵糧に欠くこと,さらに,清洲城が天正地震で液状化したこと,城郭が小規模で大量の兵を駐屯させられないなどの弱点があったために,1609年(慶長14年),現在の名古屋城のある地に新たに城を築き,新しい都市を開発することとなりました。
 そこで,1612年(慶長17年)ごろから1616年(元和2年)にかけて「清洲越し」が行われ,名古屋城の築城に伴って清洲から名古屋へ都市の移転が行われ,これによって名古屋が誕生しました。清洲越しにより,清洲城下の町屋,神社仏閣などのほとんどが移転しました。さらに,清須城の小天守も名古屋に移されました。

 清須宿は、美濃路の宿場でした。もともと清洲城の城下町であった地が「清洲越し」によって町ごと名古屋城下に移転したために,一旦はさびれたのですが,美濃路の宿駅となって町は宿場町として再生しました。
 旧・美濃路を歩いていると,清洲宿本陣跡の正門があります。清須宿には本陣,脇本陣,旅籠屋が置かれていましたが,1891年(明治24年)の濃尾地震で焼失し,唯一残った本陣正門のみが現存しています。また,近くには洪福山清凉寺が構えています。曹洞宗のお寺でこの辺りが清須宿の中心地であり,山門上層の鐘つき堂から清須宿に時を告げていたということです。
 また,少し離れたところには清洲山王宮日吉神社があります。ここは清洲三社のひとつで,771年(宝亀2年)疫病を鎮めるために建立されたという古い神社です。ここには豊臣秀吉の生母(大政所)が子授けを祈願し秀吉を授かったといわれる子産石があります。
 あまりに身近な場所なので,逆に,今までこんなふうにして歩いたことがありませんでしたが,実際にたどってみると,子供のころに織田信長や豊臣秀吉の伝記を読んでいたときに頭の中に想像したような風景がよみがえってきて,童心に帰ることができる,といった不思議な気持ちになります。


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 萩原という名前は以前から知っていたのですが,県道を自動車で走り抜けるか,名鉄電車の尾西線に萩原駅があることくらいしか認識がありませんでした。
 調べてみるとここが旧美濃路の萩原宿だったところということなので,それがどのあたりなのか調べることからはじめました。
 萩原宿は名鉄電車の萩原駅から北西に少し行った場所にありました。意識すれば車でも行くことができるのですが,県道を車で走っている限り,見落としてしまうのが不思議な場所です。なんだか時空のゆがみに入りこむような感じなのです。そして,その場所に行くと,50年ほど昔にタイムトラベルするような,懐かしさがあります。しかし,現在の萩原宿は,商店街ではあってもそのほとんどはシャッター街となってしまっています。

 当時,萩原宿は本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠屋17軒,家数は約200軒,人口は約1,000人で,美濃路の中では最も規模の小さい宿場でした。 東から順に下町,中町,上町となっていて,中央で曲尺手となっていましたが,それは今もそのまま残っています。
 最も南に高木の一里塚があって,現在は碑が立っています。また,萩原商店街に入る手前の串作庄屋・問屋場佐藤家の跡には,徳川家茂が長州征伐で上洛の折に休憩をとったという名残の憐松軒枝風墳の碑があります。
 萩原宿の本陣は森権左衛門家,脇本陣は庄屋を兼ねた森半兵衛家,問屋場は鵜飼家と木全家が交代で勤めたといいます。いずれも碑だけが残っています。
 本陣跡の西には萩原城があって,豊臣秀吉の姉婿長尾武蔵守吉房の居城でしたがのち廃城となり,江戸時代になると尾張藩祖徳川義直の御茶屋御殿が建てられていました。
 天保年間(1830年代),明石藩松平斉宣の参勤交代の折,暴れ馬を取り押さえようと行列を横切った佐吾平が無礼討打ちにされたという事件が起きました。尾張藩はこの事件を重く見て抗議し,以後,明石藩が尾張藩領内を通行するときは葬式の装いをして 通行したといわれます。

 そんな萩原宿ですが,ここは歌手の舟木一夫さんの生まれ故郷でもあります。
 舟木一夫さんは,1960年代,橋幸夫さん,西郷輝彦さんとともに「御三家」とよばれていた当時のアイドル歌手で,学生服を着て,学園ソングとよばれる高校生活をテーマにした歌で一世を風靡しました。低迷期を乗り越え,現在も活躍を続けています。
 名鉄電車の萩原駅近くにあった生家は残っていませんが,建て直されたアパートの塀には案内板があります。
 私が子供のころ,舟木一夫さんの全盛期に大ファンだった祖母に連れられてリサイタルを見にいったことがあります。子供のころのこうした経験は強烈で,今も強くその記憶が残っています。

  また,萩原町は市川房枝さんの生まれ故郷でもあります。市川房江さんは1893年(明治26年)に生まれ,1981年(昭和56年)に亡くなった婦人運動家であり政治家でした。第二次世界大戦の前後にわたり日本の婦人参政権運動を主導しました。日本史の教科書にも次のように載っています。
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 社会的に差別されていた女性の解放をめざす運動は,1911年(明治44年)に平塚らいてうによって結成された文学者団体の青鞜者にはじまり,平塚らいてうと市川房枝らが1920年(大正9年)に設立した新婦人協会の要求など女性の地位を高める運動を進めた。
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 私は若いころ,市川房枝さんが母校・名古屋市立女子短期大学の大学祭に訪れたとき,ちょうど大学祭に遊びに行っていてお会いしたことがあります。


☆ミミミ
17日の夕方,月齢2.6の月がかねてから接近中の木星と土星に近づきました。連日の雪で,この日もまた雪雲が漂ってあきらめていたのですが,幸いなことに雲が切れました。

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 地図を見ると,定規でひかれたような自動車道路を縫うようにして,くにゃくにゃの道があることに気づきます。そうした道の多くは旧街道です。
 地図ではわかりにくいのですが,実際に歩いてみると,とてもわかりやすい道で,人のぬくもりを感じます。ただし,その多くは車がやっとすれ違える程度の幅しかないので,車で走るには適しません。
 残念なのは,そうした道の多くは新しく作られた幅の広い自動車道に吸収されてしまったり,あるいは,橋がない川や新たに無造作に作られた工場などで遮断されてしまったりしていることです。しかし,現存する旧街道のほとんどは観光地ではないので歩いている人もすくなく,とてもこころが落ち着きます。

 美濃路は,起宿を過ぎると木曽川の渡しになります。朝,通勤の車の逃げ道として渋滞するこの道も,通勤時間が過ぎるとめったに車の通らない生活道路に雰囲気を一変します。そうした時間に気の向くまま歩いて行くと,なかなかいい雰囲気です。
 起宿からの渡しは3か所あったということです。その中の一番北の渡しは,現在は神社となっていて,そこには定渡船場跡石碑と,そのとなりに人柱観音があります。この観音は1957年(昭和32年)に作られたもので,慶長年間(1600年ごろ)に木曽川の分流小信川の築止の難工事に人柱として濁流に身を投じたと伝えられる与三と濃尾大橋の架橋工事で亡くなった3人をまつるものです。
 ここから,木曽川の堤防に出る路地があります。現在,木曽川には長い濃尾大橋がかかっていますが,橋がなかった時代,木曽川の川幅約1キロメートルを人力で越えるのは容易でなかったように思えます。旧東海道の大井川は水量が増すと川止めになることで有名でしたが,水量のないときには歩いて渡ることができるほど浅くなります。しかし,木曽川はいつも水量が豊富なので,ここを歩いて渡ることは不可能なので,渡し船が必須でした。

 旧美濃路に沿って南に歩いて行くと,宮河戸跡と船場跡の石碑があります。ここは,起宿の商家が商う物質を対岸に運ぶ船が利用したところでした。旧街道の東側には旧湊屋主屋があります。これは幕末に建てられた商家で,濃尾地震にも倒壊せず残っていて,今は,中で食事ができるようになっています。
 さらに南に行くと,本陣跡と脇本陣跡があります。本陣跡は石碑だけが残りますが,脇本陣は1720年(享保5年)以降世襲した林家の建物で,惜しくも1891年(明治24年)の濃尾地震で倒壊しましたが,大正のはじめに建て直されて,現在は資料館となっています。

 こうした旧街道歩きの楽しみを知らなかった若いころ,日本の古い民家の密集地帯を車で走ると,どこも区画整理もままならず,古い町に落書きをするかのように新しい建物が調和もなく作られていたり,あるいは,入り組んだ道路が縦横無尽に走っていて,なんと計画性のないところだろうと思いました。しかしそれは歴史のなせる業で,第二次世界大戦で空襲を受けて壊滅的な被害を受けた場所以外,日本はどこもそんな感じだということがわかってきました。
 この起宿跡は,現在は商店がほとんどなく民家が多いので,それでも落ち着きがあるのですが,この次の萩原宿は旧街道沿いが明治以降商店街に変わって,今はそのほとんどがシャッターを閉じているので,悲壮感が漂います。日本の町は大都市の中心街を除けばどこもそんなところばかりです。


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 すでに書いたように,2020年4月3日,旧美濃路の墨俣宿と大垣宿を歩きました。
 歩き終えて帰宅して地図を見ると,旧東海道の宮宿のあった名古屋市熱田区から旧中山道の追分のある垂井宿まで,旧美濃路はほぼまっすぐ最短距離で結ばれていたことを改めて確認できました。
 これは現在新幹線が走ってところとおおむね一致しています。しかし,そうなると,新幹線同様,美濃路もまた,現在の岐阜市である加納宿を通らないということになります。確かに岐阜市を経由してしまうと,かなりの遠回りとなります。
 現在建設中のリニア新幹線も,大阪,京都から最短で東京までいくのに,岐阜のどこを通るかでいろいろ議論があるようです。いつものこと,時代が変われど,また同じ議論をしています。人のこころは変わりません。

 ここで余談です。
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 現在走っている新幹線は,最短距離を通るために,江戸時代の美濃路にほぼ沿って走っているので,岐阜市を経由しませんでした。そのための妥協策として,岐阜県で唯一の駅として岐阜羽島駅が作られました。
 作られたころ,岐阜羽島駅は田んぼの真ん中で,周囲には何もなく,かつ,そこまで行く公共交通すらなく,代議士だった大野伴睦夫妻の銅像だけが目立ちました。
 その当時,新幹線でここを通るたびに,私の今は亡き父親が,この駅は政治駅だと口癖のように言っていたのを思い出します。
 それからずいぶん経って,現在は,岐阜羽島駅と名神高速道路の岐阜羽島インターチェンジは,愛知県の北西部に住む人にとって重宝すべきものとなりました。
 新幹線の岐阜羽島駅の周囲には多くの安価な駐車場があり,しかも駅自体は規模が小さいので人も少なく,とても便利なのです。さらに,新幹線を利用して大阪方面に行くときは,混雑して車を停めることさえ苦労する名古屋駅から利用するよりもずっと楽だし,東京方面へ行くにも,岐阜羽島駅で乗れば名古屋駅で多くの乗客が降りるので自由席であっても十分に席が確保できます。
 また,自動車を使って高速道路を利用するときは,岐阜羽島インターチェンジで降りればその先の名古屋周辺の渋滞を回避できるよいうように,これほど便利なところはないのです。
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 1964年に開通した東海道新幹線ですが,建設時,名古屋以西は,もともとは旧東海道を通る鈴鹿越えのルートが有力であったそうです。しかし,鈴鹿山脈を越えるための工事が,当時の技術的障害や建設コスト面の問題,さらに,北陸方面への連絡などで不可能であり,その結果,樽見までが旧中山道ルート,その先が美濃路ルートになったといわれます。これは名神高速道路も同様で,新たに作られた第二名神道路で,やっと距離的に近い旧東海道ルートを通すことができました。
 先に書いたように,新幹線が岐阜市がを経由しないことで地元自治体に猛反発が起き,当時の知事であった松野幸泰と代議士の大野伴睦が国鉄と交渉した結果,羽島市に駅を設置することにより妥協案が成立したかに見えるように裏々で手配したという経緯によって,岐阜羽島駅が政治駅であるとの批判が起きたとされるそうです。
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 さて,距離的に便利な美濃路ですが,それでも,江戸時代,揖斐川,長良川,木曽川と大きな三つの川を渡る必要があって,そこには渡しが多くありました。川を渡って愛知県に入ったところからは私の地元なので,あえて行かずとも,いつも通っている場所になります。
 そこで,今日からは,墨俣宿からの続きとして,起宿から稲葉宿までを紹介しましょう。
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 墨俣宿から起宿に至る場所には現在は渡しのあった場所の跡に碑だけが残っています。その場所から川を眺めると,当時のようすが想像できます。現在は多くの場所に橋が架かっていますが,今でも木曽川には西中野渡に渡し船が運行しています。この渡しは無料ですが,今となっては渡し船は珍しいので,たびたびテレビの旅番組で紹介されています。これからの高齢者社会では,リニア新幹線で速さを競うよりも,こうした昔の交通手段を復活させた方が年を取った人には幸せなのかもしれません。
 そもそも急いでどこかに行く理由がないからです。
 墨俣宿から歩いて岐阜羽島を越え,木曽川を渡り終えると起宿になります。

 起宿のあたりは当時の面影が十分に残っていて,歩いているとなかなかおもしろい場所です。起宿跡には本陣のあったところには碑が建っているだけですが,脇本陣は尾西歴史民俗資料館となっています。また,船着場の跡や渡船場跡などの碑が古い町並みに溶け込んでいます。ただし,街道だった道路は車がすれ違えないほどの道幅にもかかわらず,朝の通勤ラッシュ時だけは車がこの道に殺到して大変な渋滞を起こします。それは,渋滞する一般道を避けるための近道だからです。
 旧美濃路からは1本離れていますが,斎藤道三と織田信長が会見したという聖徳寺跡,そして,起宿から次の萩原宿の間には富田一里塚が残っています。これらは,先日,NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」で紹介されたところです。


☆ミミミ
13日の早朝,月が金星に接近しました。この日もまた雲に覆われていてあきらめていたのですが,幸いなことに一瞬雲が切れました。

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 稲沢市は中央を南北に名鉄が走り,そのはるか東2キロメートルほどのところを南北にJR東海道線が走っているので,名鉄の国府宮駅とJR東海道線の稲沢駅間の乗り換えは不便です。また,名鉄もJR東海道線も高架でないので,踏切で絶えず道路が混み合います。
 一方,美濃路は稲葉宿を過ぎると南西に進み,まず,現在の名鉄を越え,さらに,JR東海道線をも越えたところでJR東海道線に沿って名古屋に向かいます。稲葉宿の次が清須宿になります。

 JR東海道線の踏切を越えてすぐに旧街道があるのですが,その西側に平行に現在の県道が走っているので,わざわざ通らない限り,旧街道は見過ごされるので,稲沢市に住んでいる人にも,このあたりの住民でなければ縁の浅いところです。
 どこも同じですが,旧街道が現在の自動車道にならず,その近くに今も存在している限り,それに気づくことは少なく,わざわざ徒歩で行ってみて,こんな道があったのかと驚くことが多いものです。
 その反対に,自働車道がないか,あっても旧街道の方が最短距離である場合,狭い道路が朝のラッシュ時には車で大渋滞を起こしているところもすくなくありません。しかし,ラッシュ時以外の時間なら,そこに代々住んでいる人以外はほとんど人が通らないことが多いので,旧街道歩きを楽しむことは可能です。こうした旧街道に気の利いたおそば屋さんとか喫茶店でもあればさらによいのですが,そもそも人が通らないので,そうした店があることのほうがまれなのが残念です。

 先に書いたように,稲沢市に住んでいる人の多くも,ここに旧街道があるという認識をもつ人は少なく,いくつか由緒ある寺があることも,当然知りません。
 亀翁寺は鎌倉時代に創建された古刹です。国の重要文化財に指定されている亀翁寺の木造虚空蔵菩薩坐像は南北朝時代の寄木造で,25年に一度だけ開帳されるそうです。
 亀翁寺から450メートルほど北に行くと左手に長光寺の山門が現れます。門前の街道沿いには 「左京都道大垣道,右ぎふ並浅井道」と刻まれた四ッ家追分の道標が立っていて,ここが岐阜街道(旧鎌倉街道)と美濃路との追分となります。長光寺の入口には仁王門があります。長光寺は平忠盛の五男であり平清盛の弟であった平頼盛の寄進で創建され,足利尊氏が祈願所とし,織田,徳川の保護を受けた古刹なのです。長光寺の境内の地蔵堂は室町時代の1510年(永正7年)建立の六角円堂形です。六角堂に祀られる本尊鉄造地蔵菩薩は文暦2年(1235年)の銘を持ち,足利尊氏は勝軍地蔵と崇め,また,国家に変事があると全身に汗をかくというので、汗かき地蔵ともいわれるそうです。また,堂の正面にかかる大鰐口には永和2年(1376年)の銘があります。寺の奥にある臥松水は織田信長のお気に入りの井戸だったといわれています。
  美濃路と岐阜街道の分岐点の四ッ家追分には「下津,一宮,黒田を経て岐阜へ向かう鎌倉街道。 後の岐阜街道と稲葉・萩原・起を過ぎて垂井へ向かう美濃街道との分岐点である」と書かれていますが, かつて,ここには茶屋が数軒あり,うどんが名物であったということです。

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十三夜の月

十三夜の月は後の月,栗名月ともいいます。隣には大接近中の火星が見えました。
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💛

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 コロナ禍で遠出をすることがままならなくなったころから,私は街道歩きを兼ねて,地元に残る史跡を求めて散策しました。
 そこで,これからしばらく,私の住む町を通る美濃路について書いていくことにします。
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 私は近年まで旧美濃路が稲沢市のどこを通っていたのか知りませんでした。それは,稲沢市は旧美濃路の稲葉宿だったという基本的な知識に欠けていたからです。
 この歴史ある町は,もっと地元の歴史的史跡を大切に保存していたら,ずいぶんと魅力のある町であることができたと思うのですが,愛知県人というのはそうしたことにお金をかける精神的な豊かさがありません。

 旧美濃路から少し離れたところですが,そこに,大江匡衡,赤染衛門の歌碑があります。その歌碑は,稲沢市にゆかりが深く,百人一首の
  ・・・・・・
 やすらはで寝なましものを
 小夜更けて
 傾くまでの月を見しかな
  ・・・・・・
で有名な平安の女流歌人「赤染衛門」とその夫で大江川の開削に力を注いだ 「大江匡衡」のふたりを顕彰するために,市制三十年を記念し,建てられたものだそうですが,単に碑があるだけなので,市民もほとんど関心がありません。
 大江匡衡は,1001年(長保3年)と1009年(寛弘6年)に尾張守に任命されて赴任しました。この歌碑に刻まれた二首
  ・・・・・・
 はつ雪とおもほえぬかな
 このたびは
 猶ふる里をおもひでつつ
   大江匡衡
 めずらしきことはふりすそ
 思ほゆる
 行きかへりみるところなれども
   赤染衛門
  ・・・・・・
は,大江匡衡が尾張国に再び赴任した住み慣れたこの地を思い出し詠んだものと,その「返し」に赤染衛門が詠んだものです。

 稲葉宿を出たところには,小沢一里塚跡の標識が道端に立っています。
  ・・・・・・
 稲葉宿は,稲葉・小沢両村で宿駅業務を行う合宿でした。町並みは8町21間,約900メートルあって,本陣1軒,脇本陣1軒,問屋場3軒,旅籠8軒,家数336軒,人口は約1,500人でした。本陣は小沢村の原所次右衛門が代々世襲していました。
  ・・・・・・
 宿場跡は,鍵型に左手に曲がる角の正面に本陣の碑が立っていただけでしたが,近年,というか今年,本陣跡地が整備されて,休憩所ができました。また,本陣から西に100メートルほど 行った場所に脇本陣がありました。
 さらに150メートル余り行った北側には西町の 問屋場跡の碑が民家の軒先に立っていて,すぐ先の宝光寺の門前には「右つしま道三里」と刻まれた津島道の道標があります。
 宝光寺の北の西寄りにある禅源寺は大きな寺ですが,そこは,1869年(明治2年)西尾張地域一帯で 起こった大規模な農民一揆「稲葉騒動発端」の地だったということです。禅源寺の鐘を合図に農民の不満が爆発し暴動へと発展した一揆は4日間に及び,30,000人を越える人々が加わったと伝えられているそうですが,今,そのことを知る人がどのくらいいることでしょうか。

💛

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 ブログでは美濃路の大垣宿,墨俣宿の順に書きましたが,この日私は,早朝に墨俣宿へ行き,そのあとで大垣宿に行きました。それでもまだ午前中だったので,帰るまえに,桜満開の谷汲山華厳寺に足を延ばしました。ということで,今日は美濃路ではありませんが,谷汲山華厳寺について書きます。
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 この春は,まだ深刻でなかったにせよ新型コロナウィルスの流行がはじまって外国からの観光客がいなくなったために,今後はこんなことはありえないというほど,人が少ない静かな花見ができました。
 また,私の嫌いな桜の花の下で宴会騒動,ということもなく,暖かな春の日,満開の桜の咲く下を心置きなく散歩するには最高でしたし,満開になってから寒くなったので,桜が散らず,2週間も楽しめました。こんな春はもう二度と訪れないでしょう。
 桜の季節なのに,華厳寺もまた人が少なく,したがって車も少なく,駐車場は無料で開放されていました。車を停めて参道を歩きました。
 華厳寺は天台宗の寺院で,山号は谷汲山,本尊は十一面観世音菩薩,脇侍として不動明王と毘沙門天を安置する西国三十三所第33番札所,つまり満願結願の寺院です。

  ・・・・・・
 華厳寺は,798年(延暦17年)に会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって創建されたといいます。
 大口大領は都の仏師に依頼して自らの信仰する十一面観世音菩薩の像(観音像)を造立しました。観音像とともに会津に帰ろうとしていたところ,途中の美濃国赤坂(現在の大垣市)で観音像が動かなくなってしまいました。
 そこで,798年(延暦17年)赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受けて草庵を建立し,僧・豊然上人の協力を得て華厳寺を建立しました。その後,801年(延暦20年)に桓武天皇の勅願寺となり,917年(延喜17年)には醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜し,944年(天慶7年)に朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め,仏具・福田として一万五千石を与えたというから,かなりの歴史と格式があります。
 1334年(建武元年)に足利氏と新田氏の戦乱で幾度となく諸堂伽藍を焼失しますが,1479年(文明11年),観音菩薩の夢告を受けた薩摩国鹿児島慈眼寺住職道破拾穀により再興されました。
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 1キロメートルにわたる参道は桜が満開でした。私は参道の満開の桜さえ見ることができればそれでよかったので,ここで昼食をとり,帰ることにしました。選んだ食堂は「萬屋(よろずや)」というところでした。
 お店の外にこの店のいわれが書かれていました。それによると,948年(天暦元年)に羽林の姓を賜り,1320年(元応2年)には後醍醐天皇より播磨の国と赤松の姓を賜り,赤松円長と名乗りました。その孫にあたる赤松三郎円心の嫡子赤松則次は1351年(観応2年)に足利尊氏の幕臣となり今村姓をなのることになります。1358年(正平13年)足利尊氏の死去に伴い,諸国行脚の末,夢枕に観音様が現れ,谷汲山に導かれました。それ以降,名主としてこの治を収め,1860年(萬延元年),萬屋与衛門のときに現在の家業となり,以来,百数十年になる,ということです。

 帰り道,いつも通る道路の脇の樽見鉄道の木知原(こちぼら)駅付近がまた桜満開でした。私はこれを狙ってきたわけでもなかったのですが,見ごろだったこともあって,付近に車を停めて写真を撮ることにしました。ここは有名な撮影スポットで,この風景を狙ってわざわざやってきているアマチュアカメラマンが群れていて迷惑でした。どうして何事もひとりでできないのだろう,と私は不快でした。
 それはともかく,私は駅と桜さえ写すことができればそれで満足だったのですが,偶然,電車が通りました。電車が通るのは1時間に1本程度だったので,とても幸運でした。少し以前に行った山陰本線の餘部駅のときもそうだったのですが,何も調べず,その気もないのにいつもツキに恵まれています。
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 樽見鉄道は桜の名所が沿線にあることで鉄道ファンに知られれています。
 大垣駅から本巣市の樽見駅を結ぶ営業距離34.5キロメートルのローカル線は,1984年(昭和59年)国鉄樽見線の廃止で第三セクター鉄道として大垣と神海(こうみ)間が開業し,1989年(平成元年)には樽見駅まで延伸しました。樽見駅から徒歩約15分のところには淡墨公園があり,国の天然記念物「淡墨桜」が咲きます。私は数年前に行ったことがありますが,この桜はかなりのお歳で枝の支えが痛々しく,私はあまり感動しませんでした。
 また,今回私が写真を写した木知原駅は2018年(平成30年)の台風21号で被害を受けて駅の北側の桜が伐採されてしまったので,残念ながら往年の姿は消してしまったのだそうです。

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 犀川の西側に広がるのどかな田舎の集落が墨俣宿でした。
 日本では,こうした集落や旧街道歩きをすることくらいしか旅の楽しみはありません。風光明媚といわれる観光地は人が満ちあふれていて,まったく楽しくもありません。
 果たして,今回の新型コロナウィルスが収まったとき,再び外国からの観光客がやってきて,また,私のきらいなオーバーツーリズムが戻ってきてしまうのでしょうか? そういった意味では,そうした状況が戻る前こそが,国内旅行の最後のチャンスでしょう。

 ところで,墨俣ですが,ここは美濃路が設定されるより古くから,すでに宿場町として栄えていました。江戸時代になって美濃路の宿場として整備されると,勅使大名朝鮮琉球使節等の休憩所として本陣などが利用されました。
 墨俣宿の本陣は,初代を沢井九市郎正賢なる人物が務め,2代目以降は代々・沢井彦四郎を名乗り,明治に至るまで13代続きました。
 本陣跡は残っていませんが,脇本陣跡が残っていました。脇本陣跡の門は,明治の末に本正寺というお寺に移築され,現在は山門となっています。脇本陣自体は1891年(明治24年)の濃尾震災の際に倒壊しました。その後に再建された建物は民家ですが,脇本陣時代の構造を色濃く残していて,当時の宿場町の面影を偲ぶことができます。

 墨俣には多くの大きな寺がありました。廣専寺は浄土真宗のお寺で美濃路から外れた寺町通りに面しています。 また,本正寺には,先に書いたようにかつての脇本陣の門が移築され,現在山門として残っています。
 堤の南側の下には1910年(明治43年)に建てられた馬頭観音と一里塚跡の石碑があります。
 また,町屋観音堂と結神社は照手姫にゆかりのあるところです。この観音堂は,1169年(嘉鷹年間)近くの結神社とともに参道東側に建立されていました。1891年(明治24年)の濃尾震災で倒壊し,1919年(大正8年)に再建されたものの老朽化が進み,1994年(平成6年)に再建されたものです。観音堂の本尊は栴檀の木で彫られた十一面観世音菩薩で,頭上に一寸八分(約6センチメートル)の黄金仏を頂きます。この黄金仏は照手姫の守本尊だったそうです。
 結神社はかっては結大明神とよばれていました。照手姫は相模の国で小栗判官と夫婦の契りをしましたが,父が反対し小栗判官を殺そうとしました。照手姫が小栗判官を助け,小栗判官は三河の国へ逃げ延びました。しかし,照手姫はその行方を知らずにいて,彼方こなたをたずねた後,結神社に小栗判官との再会を祈願したところ,満願の夢まくらに霊験があって判官の居所がわかり,再び会うことができたということです。結大明神の「願望叶へさすべし。然し守本尊は我に有縁の尊像なれば,当社に納めよ」とのお告げにより、姫は喜んで納めました。また,結大明神は村民に「この尊像は当地に有縁な尊像なれば,観音の頭上に載せ諸人に拝ませよ」とのお告げをしたことによって観音堂に祀られるようになったのだそうです。

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 常陸国小栗判官小次郎助重は,相模国横山郡代の娘照手に恋し結ぶも,横山一族に殺される。地獄に落ちた小栗は閻魔大王のはからいで餓鬼阿弥の姿となるも藤沢の上人の力により助けられ,土車に乗せられ青墓へ。そこで青墓宿の宿萬屋へ売られていた照手がそれを見かねて大津の関寺まで曳き,その後も多くの人々の手で熊野本宮へ。湯の峰の薬湯に浸かると元の姿になって,京都で両親と対面し,美濃国青墓の照手ともめでたく再会。その後都へ登り,天皇より死からの帰還は希であるととたたえられ,常陸,駿河,美濃国を賜る。大垣市をはじめ各地に「小栗判官と照手姫」の伝説は語り継がれており,説経節,浄瑠璃,歌舞伎にも取り上げられている。
 小栗の死後,現人神として八幡社に祀られ,照手姫も結びの神として結神社に祀られていると伝えられている。
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 墨俣はまた,室町時代までの鎌倉街道の宿場でした。この時代の宿場町は現在の大垣市墨俣町上宿付近にあったのですが,美濃路の設定で大垣市墨俣町墨俣付近に移設されました。
  鎌倉街道というのは各地より鎌倉に至る道路の総称です。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については鎌倉往還ともよばれましたが,京と鎌倉を結んだ京鎌倉往還は,鎌倉の極楽寺坂より腰越,片瀬を通り,相模から駿河へは足柄路または箱根路を越え,遠江,三河,尾張,美濃を通り不破関跡を越えて琵琶湖畔を経て京都粟田口に達していました。

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 ブログでは先に大垣宿のことをを書きましたが,私が行った順番は,先に墨俣宿,その次が大垣宿でした。今日は墨俣宿について書きます。
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 墨俣宿に到着したのは早朝だったので,人もほとんどみかけず,河原にある駐車場もまだ車は1台も停まっていませんでした。
 そもそも,今回の新型コロナウィルスの流行でもそうですが,以前書いたように,日本人の行動というのはすべて6:3:1で出来ています。たいした自分の主体もなく考えもせず,人に巻かれて生きているのが6,長いモノに巻かれたくないから抵抗しているのが3,確固たる信念で反抗しているのが1,で,3の人を6になびかせれば勝ちなのです。だから,6は「お願い」という強制で簡単になびき,3を何とかすればそれで収まるのが日本という国です。
 政党がまさにそうです。政権政党に属する人の多くは自分の意見などもたず長いモノにまかれていれば自分の身が安泰という人が多いのです。
 これは投資でも同じで,だから,業者は6に属する人からお金を巻き上げれば利益が生まれるということです。そして,自分の考えも持た勧められたまま投資をする6に属する人はほぼ損をします。徳をするのは1に属する少数の人だけです。
 同じように,旅というのは,6にあたる人たちの行動に従えば,渋滞に巻き込まれ,密が生じまます。
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 へそ曲がりの私は,以前は3の仲間でしたが,歳をとって,主体的に生きるには1であるべきだと悟りました。ただし,弱いのでなかなかそう成り切れません。ただし,行動に対してはつねに1なので,どこへ行っても密は生じません。
 この日もまた,人のいない時間に墨俣に到着して,だれもいない桜並木の下を歩き,人が出てきたときには去り,観光をする人もほとんどいない墨俣宿を散歩しました。

 現在存在する墨俣城というのはいわゆる「なんちゃって」城で,豊臣秀吉が作ったのはこんな城ではなく,これは観光誘致のために近年作ったものです。噂では,この城は史実でないと作るのに反対した人たちの名前をどこぞやに掲げてあるということですが,いかにも日本の田舎らしき陰険さです。こういった「村八分的集団いじめ」こそが日本人の本質です。法律上は問題がなくても「お願い」に従わずいつまでも営業していると名前を公表するぞというのもまた同じ構図です。
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 もともと墨俣の地は長良川西岸の「洲股」で,交通上・戦略上の要地だったので,戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていました。
 1561年(永禄4年)と1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって,木下藤吉郎,つまり,後の豊臣秀吉がわずかな期間でこの地に城,というより砦を築いたと伝えられていて,これがいわゆる「墨俣の一夜城」とよばれるものです。 現在,この地は一夜城跡として公園に整備されていて,大垣城の天守を模した城状の墨俣一夜城歴史資料館が建てられているわけです。
 1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで当時美濃を支配していた池田恒興の家臣・伊木忠次がここを改修したとあるのが墨俣が歴史に登場する最後で,その2年後には木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が収まり戦略上の重要性を失いました。

 墨俣の一夜城があった場所の西端と南端を流れる犀川の堤には約800本の桜並木が4キロメートル弱わたって続いていて,トンネルとなっています。この堤を歩いて,私は,墨俣宿に向かいました。例年ならば桜まつりで人があふれ,堤防道路は通行禁止となるのですが,桜まつりが行われなかったので,堤防道路は地元民が通勤でときどき車が通ることだけが残念でしたが,人のいない桜並木を十分に堪能することができました。

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 この日,水門川沿いのに咲く桜がきれいでした。水門川のほとりに大垣市奥野の細道むすびの地記念館があって,そこの広い駐車場に車を停めて,ここからしばらく美濃路を歩こうと思いました。
 水門川のあたりは結構な人が訪れていましたが,私の目的は美濃路でした。水都公園から東に旧美濃路は続いていました。水門川のあたりとは違ってほとんど人のいない旧街道はいつもの静かな散歩コースとなって,落ち着きます。
 
 旧美濃路は旧中山道の垂井宿からはじまります。以前,垂井宿を歩いたときに見つけたのが旧中山道から旧美濃路がわかれる追分でした。追分で旧中山道は東に進み,赤坂宿に向かいますが,旧美濃路は東南東に曲がり大垣宿に向かうわけです。
 現在は赤坂宿だったところがさびれてしまっているのに比べて,大垣宿は大垣市の中心部となってずいぶんと発展しました。
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 旧美濃路は大垣宿を過ぎると,さらに東に,次の墨俣宿をめざし,その後は南東に方向を変え,現在の名古屋市熱田区である旧東海道の宮宿にある熱田神宮で旧東海道との追分に至るわけですが,この旧美濃路の通っていた場所が,現在の東海道新幹線の通っているところとほとんど一致していることからもわかるように,極めて合理的な街道なのです。 
 江戸時代の事情はわかりませんが,現在の名古屋あたりから京に行くには,七里の渡し,そして,鈴鹿峠を越えなければならない不便な東海道よりも,美濃路を経由して中山道に入り,中山道を歩くほうがずいずんと楽な気が私はします。
 
 たびたび大垣市には行くのですが,こうして旧美濃路だった路地を歩いたのははじめてでした。
 当時の建物は残っていませんでしたが,本陣跡には新しく本陣を模した建物ができ,また,高札場跡には案内板があって,当時を思い起こすことができました。
 どこへ行ってもそうですが,車で走ると決してわからないその町の昔の雰囲気が感じられるので,旧街道歩きは楽しい限りです。テーマパークやら観光地化された神社仏閣やらを訪れるより,スポーツジムで汗をながすより,このような人のいない旧街道歩きをするほうが,ずっと健康的に思えます。
 ただ,人がいないということはさびれているということだから,旧街道の宿場にあった昔からの個人商店の多くがシャッターがしまっているのが残念です。この先,さらに超高齢化するこの国は,こうした昔からの商店街を,昔の宿場町をほうふつとさせるような魅力的な通りに変える工夫ができればいいのになあと思ったりもしますが,そうすれば,そんな場所は観光地化してしまい,私のきらいな人混みになるのではと思うと,複雑な気持ちになります。

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 去る4月3日のこと。
 桜が満開になったので,近場で桜のきれいなところはどこだろうかと考えていて,墨俣を思い出しました。そこで,人のいない早朝,墨俣までのドライブを楽しみました。
 後日詳しく書きますが,墨俣といえば「豊臣秀吉の一夜城」として有名です。しかし,それよりも「美濃路の墨俣宿」だったということを知って,ならばと,今度は美濃路について調べてみることにしました。ここから私の興味は美濃路に移ったのです。
 美濃路なんて,家の近くなのでこれまで特に意識もしていませんでした。どこを通っているのか詳しいことはまったく知りませんでした。そこで,これを機会に美濃路の宿場を順に訪ねてみることにしました。多くは徒歩圏内,あるいは自転を使えば簡単に行くことができる散歩コースです。

 とりあえず,このときはせっかく墨俣まで行ったので,もう少し足を延ばして,美濃路の宿場であった大垣市まで行ってみました。
 …ということで,今回は大垣についてですが,まずは余談からはじめます。
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 大垣市は岐阜県の濃尾平野北西部にあって,日本列島の「ど真ん中」にある都市といわれていますが,上石津地域と墨俣地域という飛地をもっていて,しかも飛び地の面積のほうが広いというめずらしい町なのです。
 そこで,今回行くことになる墨俣も現在は大垣市なのですが,もうひとつの飛び地である上石津地区には大きなダム湖があって,私もこれまでたびたび訪れたことがありました。で,なんと,この上石津地区にはかつて多羅城という城があって,そこが明智光秀の誕生の地だった,というではありませんか。
 そんな次第で,私は特に「麒麟がくる」を意識しているわけでもないのに,今回もまた,明智光秀が登場してしまいました。このごろ私が行くところ行くところ,どこもかしこも明智光秀の生誕地を名乗っているのです。こうなると,笑うしかありません。
 明智光秀は40歳を過ぎて織田信長の家来となってからはじめて歴史の表舞台にその名を残し,しかも裏切り者扱いを受けたので,前半生の姿が全くといっていいほど解明されていません。謎だらけです。そこで,どこで生まれ誰の子なのかも定まっていません。一応は美濃の守護・土岐氏一族の出身とするのが通説となっているようですが,生誕地についても諸説あり,大垣市上石津町多良地区にかつて存在したとされる多羅城も生誕地のひとつに考えられているのだそうです。曰く,
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 明智光秀は1528年(大永8年)に石津郡多羅で進士信周の次男として生まれました。母は明智家当主・明智光綱の妹でした。明智光綱に子供がなかったので,明智光秀は養子となり明智家を継いだということです。
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 もう勝手にしろという感じです。

 では,話を大垣市に戻します。大垣市で有名なのは大垣城と松尾芭蕉です。
 大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により,1535年(天文4年)に創建されたと伝えられています。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりました。江戸時代の初期には藩主が入れ変わりましたが,その後は戸田氏が十万石の城主となり安定政権,明治まで太平の世が続きました。
 戸田氏初代の藩士は戸田氏鉄です。戸田氏鉄は徳川氏の家臣で,近江膳所藩主,摂津尼崎藩主を経て大垣藩の藩主となりました。多くの藩では藩主がめまぐるしく変わったり取り潰しになるなか,大垣藩は明治維新まで安定して戸田氏が藩主を勤め上げたわけです。
 のち,1936年(昭和11年)に大垣城は国宝に指定されましたが,1945年(昭和20年)の戦災で焼失していまいました。1959年(昭和34年)に4層4階の天守を再建し,大垣市のシンボルとなりました。
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 江戸時代の大垣宿は,東西交通の要所として,また,東西文化の接点として,経済・文化が発展した地でした。いまでも大垣市は文化の香り高く,落ち着いた住みやすそうな町です。
 松尾芭蕉は1689年(元禄2年)の秋,水門川の船町港から桑名へ舟で下り,約5か月間の「奥の細道」の旅を終えています。このように,松尾芭蕉は「奥の細道」の旅を大垣で結びましたが,はじめて大垣を訪れたのは「野ざらし紀行」の旅の途中,1684年(貞享元年)に以前から親交があった船問屋の谷木因を訪ねるためでした。
 谷木因宅に1か月ほど滞在し,大垣の俳人たちが新たな門人になりました。松尾芭蕉が門人に宛てた手紙によれば「奥の細道」は旅立つ前から大垣を旅の結びと決めていたことが伺えます。それは,大垣に早くから自分の俳風を受け入れた親しい友人や門人たちの存在があったからといわれます。

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 路通も此みなとまで出むかひて,みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば,曾良も伊勢より来り合,越人も馬をとばせて,如行が家に入集る
 前川子荊口父子,其外したしき人々日夜とぶらひて,蘇生のものにあふがごとく,且悦び,且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに,長月六日になれば,伊勢の遷宮おがまんと,又舟にのりて
  蛤のふたみにわかれ行秋ぞ  「奥の細道」
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