しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:要衝かつ難所の鳥居峠を越す

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 やがて,丸山公園に至る分岐がありました。ここでまっすぐ鳥居峠に行くか丸山公園に行くか迷いました。旧中山道の鳥居峠をめざすので,丸山公園は旧中山道とは別の道のような気がしました。
 結局どちらから行っても丸山公園に行くのでしたが,私の持っていた地図はこの辺りの道が詳しく書いてなくて,よくわかららなかったのです。せっかく来たのだから違ったらまた戻ればいいやと,私は丸山公園に行く方を選びました。
 実際は,この分岐で丸山公園と書かれた道を選ぶと丸山公園が少し遠回りになって,そのまままっすぐに行って小さな展望台の先の広い分岐点から少し戻って丸山公園に行くほうが楽だったのです。
 いずれにしても,この辺りがこの峠の見どころなのでした。
 丸山公園は鳥居峠の少し手前の高台にありました。広場になっていて,そこにはさまざまな碑がありました。また,広場からは展望がよく利いて,遠くには御嶽山も眺めることができました。
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 松尾芭蕉は,貞享元年の野ざらし紀行と元祿元年の更科紀行の2度,この鳥居峠を越え,その折に次のふたつの句を残しました。
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 木曽の栃浮き世の人の土産かな
 雲雀よりうえにさすらふ嶺かな
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 丸山公園の向こうに,さらに高台があって,そこに行くための木で作られた階段がありました。けっこう険しく登ることを躊躇しましたが,せっかくここまで来たのだからと登っていくと,そこが御嶽神社でした。神社のある場所は鳥居峠よりも標高が高い最高地点です。
 御嶽神社(御岳遙拝所)は,古来より御嶽山に登る代わりにお参りすれば御利益があると信じられてきた場所だそうです。両脇にはおびただしい数の仏像や石碑がありました。
 御嶽山は山岳信仰の山で,富士山の富士講と並び,講社として庶民の信仰を集めた霊山でした。御嶽教の信仰の対象とされていて,御嶽山の最高点の剣ヶ峰には大己貴尊とえびす様を祀った御嶽神社奥社があります。私は子供のころ親が御嶽講の話をしているのを聞いて気味悪がった思い出があります。
 鎌倉時代から,御嶽山一帯は修験者の行場でした。当時は登山道も整備されていなくて,山頂の御嶽神社奥社登拝に登るには麓で75日または100日精進潔斎の厳しい修行が必要とされ,この厳しい修行を行った者だけが年1回の登拝をすることが許されていたといいます。これもまたきわめて日本らしい話です。
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 日本という国は,山の頂上のような高いところや海に突き出た岬など,地形のとんがったところはどこも社があります。そうした日本人の精神構造は実に興味深く,研究に値します。また,田舎を散歩していると人の住んでいる場所には必ず神社があります。住民はその神社が何を祀っているのやらそういうことはほとんど知らないし習わないのに,なぜか手を合わせたり一礼したりしてありがたがったりするのですが,それは考えてみれば不思議なことだと私は常々思っています。
 これだけ自然を破壊し,山を削り,ゴミを捨てるなど,日ごろは散々神をも恐れない行動をしているのにかかわらず,です。

 話を戻します。
 江戸時代になると,御嶽山には王滝口,黒沢口および小坂口の3つの登山道が開かれたので,尾張や関東など全国で講中が結成されて御嶽教が広まり,信仰の山として大衆化されていきました。江戸時代末期から明治初期にかけては毎年何十万人の人が御岳講で登拝し賑わっていました。
 御嶽信仰では自然石に霊神の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習があるので,参道には多くの「霊神碑」があります。各講の先達の魂は霊神となるという「死後我が御霊はお山にかえる」信仰に基づく「霊神碑」が御嶽山信仰の特徴のひとつです。また,この鳥居峠にある御嶽遥拝所にも,御嶽信仰の石碑や祠が設置されています。
 さらに,濃尾平野の農民は木曽川の水源となる御嶽山を水分神の山として尊崇していました。

 さて,御嶽神社を過ぎると,登山道の周りはトチの木の群生があって,天狗のうちわのような葉っぱが広がっていました。そのなかでも「子生みの栃」として知られるものが有名です。
 トチの木の群生を過ぎたあたりがついに鳥居峠でしたが,そこには単に碑が建っていただけで,うっかりすると見逃してしまいそうでした。私は,本当にここなのかな? と思いながらさらに歩いて行くと,ずっと下り坂になっていったので,納得しました。
 こうして念願だった鳥居峠までやってきました。あとは下るだけです。下りの鳥居峠から奈良井宿までの道は藪原宿から鳥居峠までの登ってきた道とは違って,昔のままの狭い道が続いていました。やっと,私が思っていた峠の旧街道になりました。
 そこで,今回,もし,私が奈良井宿の方から鳥居峠に登ったならば,別の感想をもったことだろうと思いました。先に書いたように,藪原宿からの登りは車が通った跡があるような道で,道幅も広くけっこうなだらかだったのですが,鳥居峠から奈良井宿までの道は狭く急でした。昔の旧街道のままであるとともに,こちらの方が登るのがたいへんそうだったからです。
 下りの道は右側がずっと谷になっていました。谷底からは巨大なフジの木が伸びていて,花を咲かせていました。こうして,しばらく周辺が林となっている中を進んでいくと,やがて,林道と交差する分岐があり,道しるべに従って右側に折れて少し歩くと,鳥居峠の休憩施設と水場が見えてきました。ここは江戸時代「峠の茶屋」があって賑わったそうですが,今は辺りに木が生い茂り,眺望も望めませんでした。
 さらに下って,武田・木曾の古戦場跡に建つ「中の茶屋」の落書きだらけの古い建物を過ぎると,いよいよ奈良井宿が見えてきました。そこからは石畳の道が2度あって,とうとう一般の自動車道に出ました。自動車道に沿って近道の遊歩道の入り口があり,それをたどると奈良井宿の南の端に出ました。
 奈良井宿の南の端には鎮神社がありますが,この辺りから先は昨年秋に歩いたところです。

 こうして2時間程度で藪原宿から鳥居峠を越えて奈良井宿に到着しました。思っていたよりずっと楽でした。それよりも,到着した奈良井宿には観光客がひとりもいないのに驚きました。奈良井宿は何度も来たことがありますが,まったく観光客がいないのははじめてでした。
 人がいないのでツバメが飛び回っていました。ここに住む老人が家の軒先で忙しそうに格子を掃除していました。いいところですねと話しかけると,ツバメの糞が付くので困るという話でした。また,奈良井宿の民家の多くは無人で,観光客相手に商売をしている家だけが住んでいるか通いで来るのだという話でした。そして,今年の春は観光客がが来ないので困っているということでした。内情はどこも大変そうです。
 多くの店は閉じていましたが,開いていた土産物店も,当然客はいませんでした。開いていた食堂が2,3軒あったので,そのなかの1軒でゆっくりと昼食を楽しむことができました。客は私だけでした。お店の人がお客さん来てほしい,と言っていました。お気の毒な限りです。
 奈良井宿を抜けるとJRの奈良井駅です。
 奈良井宿まで歩く途中で,1組の外国人のカップルに会いました。やっと観光客に会ったという感じです。この時期に外国人? と話しかけると,日本在住の,男の人はナイジェリア人のプロバスケットボールの選手,女の人はクロアチア人ということでした。
 駅に着きました。当然? ICカードは使えず,電車はワンマンカーで車内で料金を払うということでしたが,駅員さんいて,駅で現金でチケットが購入できました。乗る客は私ひとりで,駅員さんは暇で,駅の階段を上ったり下りたり運動にいそしんでいました。駅舎でしばらく待って,電車の時間になったので急いでホームに行って乗り込みました。2両編成の広い車内に乗客は私を含めて3人しか乗っていなかった電車で次の藪原まで戻りました。
 次回は秋以降,すずしくなったら今度は鳥居峠より険しい和田峠を歩いてみたいと思います。

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 鳥居峠は,奈良井と藪原を結ぶ峠で標高は1,197メートル,旧中山道の難所でした。
 愛知県の名古屋あたりから長野県の松本あたりまで行くには,現在も木曽路と伊那路のふたつのルートがあります。現在は中央自動車道が恵那山トンネルを貫き,伊那路のほうがメインルートになっていますが,それ以前は,江戸時代の旧中山道も,明治以降の国道19号線も木曽谷を通るのがメインルートでした。中央自動車道の開通で中津川以北は伊那路のほうが栄え,木曽路は取り残される形となってしまったために,木曽路はむしろ昔ののどかさが残り,旅をして楽しいところとなっています。今もJRの中央本線は木曽路を通っています。

 この伊那路と木曽路の関係は古代も同じでした。
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 713年(和銅6年),美濃国と信濃国の境で東山道の神坂峠といいますから,現在恵那山トンネルの通っているところですが,そこが危険なために新たな官道として12年の歳月を掛けて開削されたのが「吉蘇路」(きそじ)でした。吉蘇路の鳥居峠は,かつては「県坂」(あがたざか)とよばれていました。それは,現在とは違って,峠の東側を北に向かって流れる奈良井川と西側を南に向かって流れる木曽川との中央分水嶺と境峠,木曽峠,清内路峠,鉢盛峠が信濃国と美濃国の国境だったからです。
 国境だったために,この場所では,中世には戦いが何度も繰り広げられました。
 平安時代後期には,以仁王の令旨を受けた木曾義仲が平家追討の旗揚げをし,県坂の御嶽遥拝所に参拝しここより出陣をしました。英泉の描いた浮世絵「木曽街道薮原宿鳥居峠」の絵には,木曽義仲の硯清水の碑と湧き水が描かれています。このとき,木曾義元が戦勝祈願のため峠に鳥居を建てたことから,県坂は鳥居峠と呼ばれるようになりました。現在は再建された鳥居があります。
 また,戦国時代には,この場所で武田氏と木曾氏の戦が何度も起きました。1549年(天文18年)には武田信玄の軍勢と木曾義康の軍が鳥居峠で衝突し武田軍は敗れました。 1555年(天文24年)には武田信玄が再び木曾軍を攻め勝利しました。武田信玄亡きあとの1582年(天正10年)には,武田勝頼が木曾を攻めますが負け,武田家は一気に崩壊し滅亡する事となりました。木曾義昌と武田勝頼の戦いで命を落とした武田方の兵士500人を埋葬したという「葬沢」が今も残っています。武田家の滅亡後,木曾義昌は織田信長に拝謁し,木曽安堵と松本と安曇を貰い,現在の松本城である深志城の城主となりました。
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 さて,今回の道行の話に戻ります。
 「飛騨街道分岐点」から旧中山道は右に進み,いよいよ鳥居峠を登りはめました。まずはじめにあったのが「御鷹匠役所跡」です。鷹狩に使う鷹をこのあたりで捕獲したということですが,この高台に立つと,そこは鷹が舞うのが一望できる場所のように思えるので,さもありなん,という感じがしました。
 それを過ぎると,鳥居峠にむけて長い登り坂になります。右に水場(水神)がありました。そこの水は今も飲めるというので所望してから,天降社という神社の大モミジを見ながら歩いていくと広い道と交差しました。道を渡った所からは両側がカラマツ林の登山道となりました。案内板があってその先は車の通行が禁止と書かれた遊歩道となって,その道は旧街道の風情が残る石畳でした。 石畳から先はつづれ折りになって標高をかせぎます。
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 この先の行程は次回書きますが,ここで,鳥居峠を歩き終えたあとの感想を書いておきます。
 藪原から歩いた鳥居峠の道は,私の期待とは異なっていて,正直言って,少しがっかりしました。それは,現在こそ車両の通行が禁止されていますが,かつては,未舗装とはいえ,旧街道は当時の状況より道幅が広げられていて,ところどころ,かつては車が通った道路に改造されていたからです。車が走ったころの轍が今も残っています。そしてまた,私が歩いたときはがけ崩れを防ぐために道路工事が行われていて,そのために工事関係の車やクレーンが旧街道に入っていて,標示も立てられていて,すっかり旅情が失われていたからです。
 そしてまた,藪原からの鳥居峠越えは,私が覚悟していたほど険しい道でもなく,おそらくそれは私がこのところもっと険しい山城にいくつか登ったからそう思ったのでしょうが,拍子抜けするくらい楽に峠を越えることができました。

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 旧中山道は,岐阜以西は平たんですが,長野県や群馬県は峠越えの街道でした。それでも,登山とは違って危険はなく,また,ほとんど人がいないので,散歩するにはとても安全で楽しいところです。
 旧中山道の峠越えでは碓井峠,和田峠,鳥居峠というのが有名なので,いつか歩いてみたいと思っていました。もう少しすると蒸し暑い季節になって街道歩きも秋までお休みになってしまうので,今が街道歩きの今春のラストチャンスということで,木曽駒高原に行ったついでに,今回は鳥居峠を歩くことにしました。
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 長野県を通る旧中山道は,そのほとんどがJR中央線と国道19号線に沿っているので,宿場間を歩いたら,JRで戻ることができます。この鳥居峠は藪原宿から奈良井宿の間ですが,藪原も奈良井もともにJRの駅があります。軟弱な私は,旧街道歩きはつねに楽な下り坂を歩くことにしているのですが,藪原から奈良井と奈良井から藪原はどちらから歩けば標高差が少しでも楽かを考えて,JRの藪原駅に車を停めて藪原宿から鳥居峠を越えて奈良井宿まで行き,奈良井からJRで1駅戻ることにしました。

 朝10時前,藪原駅に着きました。駅前は人ひとりおらず,駅前には自由に車が停められました。狭くゴミだらけで汚く人が異常に多い日本にいると,アメリカやヨーロッパ,オーストラリア,ニュージーランドなどの田舎の美しくかつのどかな風景が,今となってはとても懐かしいのですが,それでも,日本の「観光地でない」山里は人もほとんどおらず,ホッとします。
 藪原の町はJRの線路の西側にありますが,駅前は東側です。駅からから線路沿いに少し歩き,架線の下にあった歩道を越えると,藪原宿だった町並みになりました。当時の面影が残る家もあり,道幅も旧街道のままで,タイムスリップしたような感じがしました。藪原宿は宿内家数は266軒,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠10軒で。人口は1,500人ほどでした。
 長野県の国道19号線沿いの宿場はどこもそんな感じです。自働車道は江戸時代の宿場町から平行に新しく作られたところをバイパスして通っていて,旧中山道の宿場のなかの道はどこも昔のままの幅で残っています。
 この宿場の伝統は「お六櫛」です。今も特産品として,それを扱うお店がありました。「お六櫛」というのは,妻籠宿のお六という老婆が藪原宿で始めた「お六櫛屋」が物のよい櫛を売る店として評判だったというのがはじまりのようです。また,藪原宿は,旧街道に沿って,一里塚,明治天皇の記念碑,防火高塀跡,極楽寺宝蔵庫などの旧跡が点在していました。

 旧中山道は,藪原宿を過ぎたあたりでJRの線路によって分断されています。この先に行くには再び線路を越す必要があります。線路をまたぐには,歩道橋がありました。それを越えると飛騨街道と中山道の追分がありました。さあこれからいよいよ鳥居峠に入ります。

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