しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

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【Summary】
After visiting the Narcissus Festival at Tsumekizaki, I stopped by Gyokusenji Temple, which served as the first U.S. consulate in Japan. Townsend Harris and his secretary, Heusken, negotiated treaties here. The temple also houses memorials for foreign sailors. Nearby, Benten Island and Mishima Shrine feature statues of Yoshida Shōin, who attempted to stow away on a black ship.

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 爪木崎の水仙まつりを見たあと,玉泉寺(ぎょくせんじ)に寄りました。
 玉泉寺は曹洞宗の寺院で,山号は瑞龍山。幕末期にアメリカの総領事館として使用された寺として知られます。
 整備された駐車場があったので,そこに車を停めました。
 アメリカの初代の総領事はハリス(Townsend Harris)でした。玉泉寺の境内には,渋沢栄一が建立した「ハリス顕彰記念碑」や,ハリス記念館が建てられていたので,見学することができました。
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 ハリスは,1804年に生まれ1878年に亡くなりました。
 通訳兼書記官として,オランダ語に通じたヒュースケン(Henry Conrad Joannes Heusken)を雇い,1856年,ヨーロッパからインド経由で日本へ到着し,伊豆の下田へ入港し,玉泉寺に領事館を構えました。そして,和親条約改訂のための交渉が行われ,1857年(安政4年)に下田協定が調印されました。  ハリスは江戸出府を要請し許可され,1857年12月に登城し,13代将軍・徳川家定に謁見し,親書を読み上げました。
 1858年(安政5年)には日米修好通商条約が締結され,これによりハリスは初代駐日公使となり,下田の領事館を閉鎖して,江戸の元麻布善福寺に公使館を置きました。  1862年(文久2年)に病気を理由に辞任の意向を示し,5年9か月の滞在を終えて帰国しました。  
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 玉泉寺には,1854年の黒船来航時に病死したアメリカ人乗組員の埋葬をきっかけに,1850年代に計4人のアメリカ人の墓が造られました。また、ロシアのプチャーチン提督率いるディアナ号(1854年)、アスコルド号(1858年)の水兵計4人も埋葬されていました。

 玉泉寺の駐車場の近くにあったのが弁天島でした。弁天島は,黒船来航時,海外渡航を企てた吉田松陰と金子重輔が隠れていた島で,ここに「踏海の朝」と題したふたりの銅像がありました。また,玉泉寺の北側には三島神社があって,ここにも吉田松陰の像がありました。

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【Summary】
On January 20, 2025, I visited Tsumekizaki in Shimoda for the Narcissus Festival. The cape is home to a lighthouse and wild narcissus, but I was surprised to see vibrant aloe flowers as well. The weather was perfect, with stunning ocean views. Though I wanted to visit Tsumekizaki Lighthouse, I had to move on to my next destination.

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 2025年1月20日。
 民宿をチェックアウトして,今日は,午前中下田の観光をします。
 まず,昨日,観光案内所で勧められた爪木崎の水仙まつりを見にいくことにしました。
 爪木崎(つめきざき)は下田市の東側にある岬で,須崎半島ともよばれます。岬には爪木崎灯台が置かれ,水仙の群生地があり,12月下旬から2月上旬にかけて水仙まつりが催されます。また,爪木崎のある須崎地区には,1971年(昭和46年)から須崎御用邸が置かれています。
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 須崎御用邸は,沼津御用邸が沼津市に譲渡されたのち,宮内庁によって取得されました。この御用邸には,昭和天皇が管理する海洋生物学研究所が併設されていました。昭和天皇は,春,夏,冬にそれぞれ約10日間滞在し,併せて研究を行い,数多くの学術論文が発表されました。
 1971年(昭和46年)に建設された御用邸の建物は西洋建築様式の平屋建てで,隣接するプライベートビーチは「天皇ビーチ」または「エンペラービーチ」ともよばれる。
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 御用邸の横の道路を走っていくと,駐車場に着きました。ここに,水仙の群生地があり,今がピーク時,ということで期待しました。
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 爪木崎は野水仙の群生地としても有名で,最盛期の1月に咲く水仙の数は300万本! 公園全体が甘い花の香りに包まれます。
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…だったのですが,まず目に入ったのが紅色の奇妙な花の群れ。まさかこれが水仙ではないだろう,と思ったのですが,腑に落ちません。さらに歩いていくと,その向こうに,かわいらしい,まさに水仙の花が広がっていました。
 紅色の奇妙な花はアロエの花でした。帰ってから調べると
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 キダチアロエは,朱色の円錐のような形をしたエキゾチックな花を咲かせます。キダチアロエは本来寒さは苦手で,温暖な環境でないとなかなか花を咲かせてくれないため,花を見たことがない人もいるかもしれません。また,開花する目安として,高さが50センチメートル,茎の太さが2.5センチメートル以上にまで生長することが挙げられます。
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ということなので,アロエの花自体も珍しいものだったのでしょう。ただし,この場所では,水仙よりもアロエのほうが生命力が強いらしく,セイタカアワダチソウとススキのような関係になってしまっているのかもしれません。

 朝早かったので,来ている人もほとんどなく,天気もよく,遠くまで続く吸い込まれそうなほどの青い海に空の青のグラデーショという癒される風景が展開されていました。
 下田は伊豆でも特に水質がよいのだそうですが, 爪木崎は海水浴場ではなく自然公園です。
 私の今日の目的地はほかに多くあるので,この地に長居はできませんでした。そこで,ビーチを後にして遊歩道を歩いていくと,日本有数の美しい灯台である爪木崎灯台まで行くことができるのですが,断念しました。
 爪木崎灯台は,高さ17メートル,灯りの高さ38メートルで,1937年に建立された洋式石造り灯台ということで,灯台周辺は絶景を楽しめる場所だそうです。また,爪木崎灯から南10キロのところには,開国間もない明治3年に英国人によって建設された日本最古の灯台である神子元島灯台があるということです。

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【Summary】
I stayed at a guesthouse in Minamiizu Town, located in a hillside villa area. The cozy inn provided private hot springs, delicious meals, and a peaceful atmosphere, meeting my preference for small, quiet accommodations over large hotels or resorts. Japan's inns vary widely, adding to the charm of travel.

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 この日宿泊するのは,南伊豆町の民宿でした。
 下田市街地から近いところだと思っていたのですが,意外と距離がありました。場所は,高台で,周りは別荘地でした。おそらく,温泉つき別荘地の類だと思われました。
 今回とは違って温泉ではなかったのですが,私は,2019年の春,ハワイのオアフ島で,こんなようなところに泊まったことがあります。いわゆる民泊,というようなものでしたが,そこは高台にある一軒家貸し切りでした。オーナーが朝食だけ作りにきてくれました。それ以外は,どこもご自由にお使いください,ということでした。それを思い出しました。
 ここは,一軒家貸し切りではありませんでしたが,宿泊客は私ひとりでした。食べきれないほどの夕食と朝食がついていて,しかも,温泉が室内とさらに露天風呂までありましたが,残念ながら,あまりに寒くて,露天風呂には入ることはできませんでした。それに,宿泊代がものすごく安かった…。

 私は,いくら豪華でも,団体ツアー客御用達のような大きなホテルや旅館には泊まりたくないと思っています。また,大人数での食事も嫌です。できれば,朝食もバイキングは避けたいです。理想は,小さな宿で2食つき。ほかに宿泊客がいなければ最高です。ということで,豪華で有名な大旅館やリゾートホテルははじめから選択肢にありません。
 ここは,その条件すべてが当てはまりました。
 以前,「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」という番組で,蛭子能収さんが日本の旅館は当たり外れが大きい,と言っていましたが,まさにそのとおりで,日本国内を旅すると,そう感じます。
 アメリカでは,豪華なホテルは別として,全国チェーンのモーテルなら,新しいか古いかくらいの違いだけで,どこも同じ,寝るだけの用途しかありませんが,日本は本当に千差万別です。
 とはいえ,どこに泊まったときも,不快になったという経験はありません。それよりも,行ってみるまでわからない,どんな意外なサービスがあるか,ということのほうが旅の醍醐味です。
 いずれにしても,私のような客ばかりだと経営が成り立つのかしらん,と考えてしまいますけれど…。

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【Summary】
In 1854, the Treaty of Shimoda between Japan and Russia was signed at Chorakuji, and the following year, the ratification documents of the Japan-U.S. Treaty of Peace and Amity were exchanged. Negotiations with Perry took place at Ryosenji, leading to the signing of the Treaty of Shimoda. At the museum, I learned that the Japan-U.S. Treaty of Peace and Amity was finalized in Shimoda, securing a favorable exchange rate for Japan.

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 下田に到着したのが午後3時30分過ぎでした。予約した宿泊地の連絡してあったチェックイン時間が午後5時で,下田から15分くらいかかるということだったので,この日の下田の観光は1時間ほどで,行くことができないところは明日の午前中ということにしました。
 まず,観光案内所に行って,町の地図をもらい,おもな観光地を聞きました。
 下田で私が行きたかったのは,ペリー来港からはじまる歴史上の舞台でしたが,それらは,下田の西側と東側にありました。そこで,この日は,西側の場所だけに絞っていくことにして,翌日,東側にいくことにしました。

 西側にあるのは,長楽寺と了仙寺ということだったので,まず,長楽寺に行きましたが,車を停めるのに苦労しました。
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 1854年(安政元年),長楽寺で,日本の交渉全権代表となった筒井政憲(つついまさのり)・川路聖謨(かわじとしあきら)とロシア使節・プチャーチン海軍中将(Jevfimij Vasil'jevich Putjatin)との交渉の結果,日露和親条約(日露通好条約)が締結され,択捉島と得撫島の間に境界を置き,択捉,国後,歯舞,色丹は日本領に,得撫島以北の千鳥列鳥はロシアに属することが決まりました。
 また,1855年(安政2年)1月,米国使節・アダムズ中佐と日本側応接掛・井戸覚弘(いどさとひろ)対島守などの間で,すでに締結されていた日米和親条約の批准書が交換されました。
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 次に向かったのがでした。ここで知ったのが,長楽寺に行くのにも,了仙寺の駐車場に車を停めるほうが楽だった,ということでした。そのため,この日は,ペリーロードへ行くことができませんでした。
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 1854年3月31日(嘉永7年),横浜で日米和親条約が締結され,下田と函館の開港が決まりました。開港された下田に,ペリー艦隊の船が続々と入港してきました。
 日米下田条約と異民族交流横浜で締結した日米和親条約では細かい点がほとんど決められていなかったため、下田に上陸したペリーは早速日本側と交渉に入りました。その場所となったのが了仙寺です。 10日間にわたる協議の結果、1854年6月17日(嘉永7年5月22日)、日米下田条約(日米和親条約付則13ヶ条)が結ばれ,アメリカ人が下田の街中を自由に歩く権利「遊歩権」が与えられました。
 黒船のアメリカ人と下田の町民たちはそこここで異文化の交流を体験しました。
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  了仙寺の敷地は広く,ここには博物館もありました。博物館は,かなり興味のあるものでした。そこで知ったのは,次のことでした。
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 「日米和親条約」は横浜で成立したことになっていますが、実は最終的に下田で成立しています。横浜では、日本語・英語・漢文で条約文がつくられましたが、日本側が英語の条約文に署名を拒否しました。そこで、下田で再度交渉し、日本語・英語・オランダ語の条約文がつくられ、そこで初めて日本側も署名しています。
 下田では、条約の本文の他に細かいことを決めています。例えば、銀を使った日米の為替レートは、圧倒的に日本側に有利でした。よく日米和親条約は「不平等条約」と言われますが、これは明治政府が徳川幕府の交渉を否定するために作られたイメージで、ペリーとの交渉で日本は一歩もアメリカに譲っていませんでした。このような下田での日米交渉の場所が了仙寺です。
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 これで時間になったので,あとは,翌日にして,宿泊先に向かいました。

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【Summary】
On February 5, 2025, I visited the "Paul Klee Exhibition" at the Aichi Prefectural Art Museum and was particularly impressed by the work "Elevation," created in 1925. Paul Klee was known for his unique sense of color and played an important role as a teacher at the Bauhaus school. He faced persecution under the Nazi regime and fled to Switzerland but later gained recognition in the United States. His later works reflect his emotions and struggles, with "Insula dulcamara" being especially striking. Klee's art is something that warms my heart, and it resonates with the changes in his era.

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 2025年2月5日,愛知県美術館で開催されている「パウル・クレー展」を見てきました。
 このごろの美術展は平日であってもけっこう混雑していて,人の頭を見にいくようなものとなっているので気が進まないことが多く,コロナ禍のころの人数制限が懐かしく思えるのですが,「パウル・クレー展」は空いていて,落ちついて鑑賞することができました。
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 パウル・クレー(Paul Klee)は,19世紀末に生まれたドイツ人画家で,ヨーロッパ近現代美術の歴史のなかで重要な役割を果たしました。40歳を迎えるころに注目を浴び,前衛美術の騎手と目されるようになり,ドイツに設立された総合工芸学校「バウハウス」Bauhausの教員に迎えられました。
 パウル・クレーの独特の色彩感覚と作画は現在でも色褪せることなく後世に大きな影響を及ぼしています。
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とあります。

 さまざまな解説にあるほとんどの作品が集められていて,興味深く見ることができましたが,その中で,私が気に入ったのが,そうした解説には取り上げられていない,1925年に描かれた「上昇」という作品でした。
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 衝動にかられた挙動が地上から立ち昇ってゆくのは,遠心力に絶対的な命令による。遠心力は重力に打ち勝つのだ。
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とパウル・クレー自身が語ったという作品です。
 もし,この作品が部屋に飾ってあったら,そのさりげない描写と色彩がわたしのこころを落ち着けるような,そんな気がしました。

 私はミロの作品が好きですが,どこか共通するところがあるなあ,と思いました。
 私は,歳をとるにつけて,現実を描いた作品には興味がなくなって,見ていると自分のこころが温かくなる,そんな絵画が気に入るようになってきました。 
 パウル・クレーが,金銭的にも落ち着き,ドイツで作品を量産していた順風満帆のころ,ヒトラーが現れ,「画家に対するジェラシーのために」前衛的表現をしていた画家を迫害し,作品を「退廃芸術」とよんで燃やし,パウル・クレーも,また,退廃芸術生産工場だとみなされ,スイスに家族で逃げることになってしまいました。1933年末、ナチ政権の迫害を受けてベルンに移住。以後、アメリカでの評価を確立するも1940年に没する,そんな時期の作品,特に,1938年の作「ドゥルカマウラ島」(Insula dulcamara)は,痛々しいほど醜いと感じました。
 1940年,パウル・クレーは60歳で亡くなりました。墓碑にはこうあります。
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  I cannot be grasped in the here and now, for my dwelling place is as much among the dead as the yet unborn. Slightly closer to the heart of creation than usual, but still not close enough.
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 この世では,私を理解することなど決してできない。なぜなら,私は死者たちだけでなく,未だ生まれざる者たちとも一緒に住んでいるのだから。
    パウル・クレー
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【Summary】
Commodore Matthew Perry, born in 1794 in Newport, Rhode Island, led the U.S. East India Squadron to Japan in 1853, initiating negotiations with the Tokugawa Shogunate. This resulted in the 1854 Treaty of Kanagawa, opening Shimoda and Hakodate to U.S. ships, marking the start of U.S.-Japan relations.

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 城ケ崎に行ってから国道135号線を戻り,下田市をめざしました。
 熱川の手前,向山高架橋で「サフィール踊り子」が下田駅に向かって走るのを見ました。伊東駅と伊豆急下田駅の45.7キロメートルは私鉄伊豆急行の路線ですが,JR東日本が乗り入れています。特急「サフィール踊り子」(Safir Odoriko)は東京駅と伊豆急下田駅を結ぶ全車グリーン車のデラックス列車です。私が見たのは,「サフィール踊り子」3号のようでした。

 午後3時30分ごろ,下田市街に着きました。思ったより大きな町でした。
 私が,この伊豆半島の旅で,ぜひ行ってみたかったのが,天城峠とともに下田でした。
 下田といえば,黒船です。黒船といえば,ペリーです。
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 ペリー(Commodore Matthew Calbraith Perry)は,1794年にロードアイランド州ニューポートで生まれました。14歳で士官候補生として海軍に入り,英米戦争での活躍などで頭角を現したペリーは,アメリカではじめての蒸気推進艦建造に携わりました。
 1846年からはじまった米墨戦争(ぼく=メキシコ)での勝利に貢献し,1852年に東インド艦隊司令官に任ぜられ,13代フィルモア(Millard Fillmore)大統領から日本遠征の命が下されました。
 ペリーは,1852年ミシシッピー号単独でバージニア州ノフォーク港からアフリカ最南端のケープタウン経由で日本を目指して出航し,旗艦の蒸気外輪フリゲート・サスケハナ(USS Susquehanna=インディアンの言葉で「広く深い川」の意味),ミシ シッピ,帆船のサラトガ (USS Saratoga=アメリカ独立戦争のサラトガの戦いにちなむ),プリマス(USS Plymouth=地名)の4隻からなるいわゆる「黒船」の艦隊を編成して,1853年(嘉永6年)年7月8日,浦賀沖に姿を現しました。  
 幕府は,外国との交渉地である長崎への回航を求めましたが,拒否されます。老中首座・阿部伊勢守の決断で,7月14日,浦賀近くの久里浜で親書等書簡類を受理。7月17日,艦隊は浦賀沖を退去しました。
 翌年1854年(嘉永7年)年2月13日,艦隊は,旗艦の蒸気推外輪フリゲート・ポーハタン(USS Powhatan=アメリカ・インディアンのポウハタン酋長に由来),サスケハナ,ミシシッピ,帆船のマセドニアン(USS Macedonian=フランス語で「さいの目切り」の意味),ヴァンデーリア (USS Vandalia=地名) ,レキシントン(USS Lexington=地名) ,サザンプトン(USS Southampton=地名)の7隻で再び来航 し,浦賀を経て武蔵小柴沖に投錨。さらに,帆船サプライ(USS Supply)とサラトガ合流しました。
 江戸を交渉場所に主張するペリーと鎌倉・浦賀付近を提案する幕府との折衝で,応接所を横浜と決定し,3月31日に下田,函館の2港の開港を含む日米和親条約(神奈川条約)を締結,さらに,下田で日米和親条約付則13か条(下田条約)を締結しました。
 帰国後の1858年,ペリーは心臓発作のため63歳で死去しました。
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 1858年(安政5年),初代アメリカ合衆国総領事となったハリス(Townsend Harris)が幕府と交渉し,日米通商条約が締結されました。そして,1860年(万延元年)には,咸臨丸を随伴艦とする新見豊前守ら日米通商条約批准のための遣米使節団がポーハタン号で訪米し,15代ブキャ ナン(James Buchanan)大統領やアメリカ国民から大歓迎を受けました。

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【Summary】
I visited Jogasaki Coast after Omuroyama. I parked at "Shiki no Hana Park," unaware that a closer parking lot existed. This led me to take a steep trail, but the unexpected views made it worthwhile. The coast, formed by Omuroyama’s lava, features dramatic cliffs, sea caves, and the 48-meter-long Kadowaki Suspension Bridge. Though beautiful, I found it less striking compared to Iceland’s rugged coasts and scarier bridges I've crossed before.

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 このあたりの見どころは,大室山とともに,城ケ崎海岸ということだったので,大室山へ行った後,城ケ崎海岸に行ってみました。
 城ケ崎海岸の標識にそって,海岸方面に進み,道なりに行くと「四季の花公園」の駐車場があったので,車を停めて,そこから歩きはじめました。いつもの通り,適当な私はここに車を停めたのですが,後で知ったのは,この駐車場を通過してもっと先へ進むと,つり橋駐車場があるのでした。
 ということで,城ケ崎海岸のめあてのつり橋まで,結構険しい山道を歩くことになってしまいました。だたし,ここを歩いたことでしか見られない景色を見ることができたので,それはそれで,塞翁が馬でした。

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 約4000年前,大室山が噴火したときに流れ出した溶岩によってできたのが城ヶ崎海岸です。全長48メートル,高さ約23メートルの「門脇つり橋」が絶景スポットです。また,360度のパノラマ風景が楽しめる「門脇埼灯台」の展望台からは伊豆七島や天城連山を望むことができます。
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 「四季の花公園」から「門脇つり橋」までは,複雑な地形を活かした1,200メートル,所要時間約20分の散策コースと比較的平坦で歩きやすい800メートル,所要時間10分の林間コースがありました。せっかく来たからと,散策コースをとりましたが,けっこう険しく,上り下りも多く,思ったよりも大変でした。
 しかし,林の中の小径を抜けると絶景が広がっていました。これは,大室山の溶岩流が海まで到達し, 波の浸食作用によって入り江と岬が入り組んだ壮大な断崖の海岸線を作りだしたものです。また,その先には,荒波に削られた海蝕洞の間にかけられた「門脇つり橋」が架かっていたので,渡ってみました。これまで,数々のサスペンスドラマや特撮ヒーローの撮影地にもなったそうです。
 高台には白亜の「門脇灯台」があったので,上ってみました。「門脇灯台」は,1960年に作られ,地上17メートルの地点に第1展望台,地上4メートルの地点に第2展望台があって,天城連山の峰々を望むことができました。

 確かに美しくすばらしいところだったのですが,私は,これまでに,もっと恐ろしげなつり橋を渡ったこともあるし,こうした断崖絶壁の続く海岸線は,アイスランドでたくさん見てきたので,まあ,こういうところか,と思っただけでした。
 気の毒な私です。

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【Summary】
Ōmuroyama, a 580-meter-high scoria cone volcano formed about 4,000 years ago, features a crater with a 250-meter diameter and a 40-meter depth. Visitors can enjoy a crater rim walk, archery range, and sights like the Ōmuroyama Sengen Shrine and historical Jizō statues. Its grassland is maintained by an annual controlled burn held every February.

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 今回,伊豆半島に来るまで,大室山(おおむろやま)を知りませんでした。
 大室山を知ったとき,何だこりゃ,と思いました。写真で見ると,まるでクレーター。この現実離れした姿の実態をぜひ見たいものだと思いました。
 国道135号線を北東に走っていくと,伊豆高原という別荘地がありました。別荘地に向かって左折して走っていくと,やがて,大室山の駐車場に到着しました。そこにあったのがリフトだったので,乗りこみました。
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 標高580メートルの大室山は伊豆東部火山群の活動のひとつとして約4,000年前に噴火した単成火山のスコリア丘ということです。
 スコリア丘(scoria cone)というのは,玄武岩質から安山岩質のマグマによる噴火活動により地表面にスコリア(岩滓=マグマが吹き上げられて飛散冷却してできる岩塊で多孔質で黒っぽいもの)が放出され,火口の周りに積もって崖錐斜面をつくり,円錐台形の山を成した小規模な火山の1種で,大室山は,底径1キロメートルで,その中心に直径250メートル,深さ40メートルのスリバチ状の火口を持っています。
 噴火したとき,西の麓から最初の溶岩流が湧き出して2方向へ流れ出し,南に流れたものは深い峡谷をせき止め,湖をつくり出しました。この湖は明治時代に排水トンネルを掘り,水田へと変わりました。また,南東へ流れた溶岩は相模灘を埋め立て,城ヶ崎海岸をつくり出しました。
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 リフトで6分ほどで山頂に着きました。
 火口縁には遊歩道が整備されいて,お鉢周りすることができたので,歩いてみました。お鉢には,何とアーチェリー場がありました。
 私は,2019年に行った,アメリカ・テキサス州のバリンジャー隕石孔みたいだなあ,と思いました。
 また,大室山浅間神社が火口内の東側中腹にありました。この神社は磐長姫命(いわながひめのみこと)を唯一の祭神とし,安産と縁結びの神として信仰されているそうです。
 浅間神社は,浅間大神(あさまのおおかみ)と木花之佐久夜毘売(このはなさくやびめ)を主祭神としていて,磐長姫命を祀るのは稀ということです。姉の磐長姫命と妹の木花之佐久夜毘売は、瓊々杵(ににぎ)に同時に嫁いだが、醜い姉神は送り返されたといいます。
 また,五智如来地蔵尊がありました。これは,火口縁西側にある江戸時代に建てられた5体の仏像で,1663年(寛文3年)に相模国岩村の網元・朝倉清兵衛が大室山浅間神社に9歳の娘の安産を祈願し,無事出産のお礼として建てたものとされます。
 ,火口縁南側には,8体の八ケ岳地蔵尊がありました。これは,大室山を目印としていた漁師たちが海上安全と豊漁を祈願して建てたもので,新旧あり,手前の新しいものは,1984年(昭和59年)に池区民の寄付によりつくられたものです。
 歩いていると,かわいい鳥がいました。調べてみると,おそらくハギマシコという鳥だと思いました。
 大室山に背の低い草しかないのは,山焼きによるものです。もともとは,700年以上継承されてきた良質のカヤを育てるための行事でしたが,現在は,毎年2月第2日曜日行われる観光用のものです。

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大室山


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【Summary】
While traveling around the Izu Peninsula on January 19, 2025, I stopped at Kawazu Town, where I discovered the birthplace of Kawazu-zakura, a cherry blossom variety. Originating in 1955, it’s a natural hybrid of Oshima and Kanhi-zakura, blooming from February to March. Some flowers had already started to bloom.

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 今回,伊豆半島を旅しようと思ったとき困ったのは,どのくらいの時間がかかるか,ということと,どこを走るか,ということでした。半島の周りを1周,ならば簡単ですが,中央部を縦断する必要もあり,そうすると,半島の周りを1周できるかどうかわかりませんでした。
 ともかく,これまでに書いたように,2025年1月19日の午前8時に三島駅から伊豆半島の中央部,国道414号線を南に走り,天城峠では旧道に迂回し,さらに,河津七滝を巡ったのですが,伊豆半島の南側に着いたのがまだ午前11時過ぎと,お昼前で,予想より時間がかかりませんでした。そこで,下田市まで行く前に,伊豆半島の東海岸を北上して,行ってみたかった大室山と城ケ崎海岸まで行って,戻ってくることにして,下田市へ続く国道414号線と別れを告げ左折して南東へ進み,河津町をめざしました。

 海岸に出たので左折して,国道135号線を海岸線に沿って走っていくと,「伊豆オレンジセンター」という道の駅があったので,ここで昼食をとることにして車を停めました。
 道の駅にはレストランがあったのですが,けっこう人がいたので嫌になって,道の駅に着く前に気になった「伊豆さくら亭」というそば屋に行くことにしました。中に入ったときは他に客がおらず,私には好都合でした。そこで,天丼を注文しました。
 店内に大きなカワヅザクラのポスターがありました。こここそがカワヅザクラ発祥の場所でした。
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 カワヅザクラ(河津桜)は、1955年に河津町田中の飯田勝美さんが河津川沿いの雑草の中で1メートルほどの原木を偶然発見し,庭先に植えたことが由来です。
 日本固有種のオオシマザクラとカンヒザクラの自然交雑から生まれた日本原産の栽培品種のサクラで,一重咲きで4センチメートルから5センチメートルの大輪の花を咲かせ,花弁の色は紫紅です。花期は通常は2月から3月上旬で,12月に開花することもあります。
 原木のある静岡県河津町での花期は2月ごろで,花期は1か月あります。
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 すでに,少しだけ,花が咲いていました。

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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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【Summary】
I crossed Amagi Pass via the old road and returned to National Route 414. My next destination was Kawazu Nanadaru, known for its seven waterfalls. I was surprised to see a large loop bridge, the Nanadaru Viaduct, built after a 1978 earthquake. The area was quiet with few tourists. Due to distance, I visited only four waterfalls: Shokei-daru, Kani-daru, Deai-daru, and Odaru. At Shokei-daru, I saw the Izu no Odoriko statue.

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 天城峠の旧道を走り,再び,国道414号線に戻りました。
 この旅で最も行きたかった天城峠を越えました。次の目的地は河津七滝(かわづななだる)でした。
 GoogoMaps を見ると道路が円を描いています。そして,その麓に河津七滝とありましたが,一体どういうことか,と思いました。実際に走っていくと,国道414号線は巨大なループ橋となっていました。
 ループ橋の正式名称は,七滝高架橋(ななだるこうかきょう)で,全長1,064メートル,高低差45メートル,直径80メートルの二重ループ橋です。6基の橋脚によりループ橋を支えていて,ループ橋部分は3径間連続曲線箱桁4連で構成されているということです。下田市方面からは反時計回りの上り坂,伊豆市面からは時計回りの下り坂で,片側1車線の対面通行です。
 かつては山に沿って静岡県道13号線がつづら折れになっていましたが,1978年の伊豆大島近海の地震で崩落し,山腹の道路が寸断したことで,1981年(昭和56年)にループ橋が生まれ,1982年に国道414号に昇格したということです。

 河津には数々の滝が存在していて,その中でも特に有名な次の7つの滝を「河津七滝」(かわづななだる)といいます。河津では滝のことを「水が垂れる」 という意味で垂水(たるみ)とよんでいたため,「ななたき」ではなく「ななだる」となるそうです。
 「河津七滝」は
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  釜滝(落差22メートル,幅2メートル)
  エビ滝 蛇滝(落差3メートル,幅2メートル)
  蛇滝(落差3メートル,幅2メートル)
  初景滝(落差10メートル,幅7メートル)
  カニ滝(落差2メートル,,幅1メートル)
  出合滝(落差2メートル,幅2メートル)
  大滝(落差30メートル,幅7メートル)
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です。

 私は,「河津七滝」という観光名所がある,ということでやってきただけで,それがどういうものか知りませんでした。狭い道路を戸惑いながら走って行って,何とか町営駐車場を見つけて,車を停めました。観光客はほどんどおらずさびれていて,店もほとんど開いていませんでしたが,シーズンオフだからだったのでしょうか。
 7つの滝は思ったより離れていました。特に,釜滝,エビ滝,蛇滝は離れていたので行くのをあきらめ,それ以外の初景滝,カニ滝,出合滝,大滝を巡りました。初景滝には,伊豆の踊り子像がありました。

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