しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

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【Summary】
After returning a rental car, I changed to an earlier train and happened to ride an older E2 Series Shinkansen, known for its large windows. The trip, though unplanned, fulfilled long-held dreams and brought unexpected discoveries, quiet hot springs, and peaceful meals, showing that Japan still offers endless unique travel experiences.

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午後5時にレンタカーを返却,新白河駅午後5時50分発の「なすの」280号に乗って,東京駅午後7時16分着,午後7時30分発の「ひかり」661号に乗り換えて,名古屋駅9時14分着で帰宅する予定でしたが,午後4時ごろに新白河駅に着いたので,レンタカーを返却して,新白河駅午後4時50分発の「やまびこ」216号で,東京駅午後6時16分着,午後6時33発の「ひかり」657号に乗り換えて,名古屋駅午後8時19分着に変更しました。
やってきた「やまびこ」216号は,行きに乗ったE5系とは違い,E2系という古いものでした。現在の新幹線車両は飛行機のように窓が小さいのですが,E2系のみ,大きな窓になっているのが特徴です。
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現在,数両のみ残るE2系ですが,定期運用がされているのは東北新幹線だけで,主に,東京駅から仙台駅・郡山駅・那須塩原駅を結ぶ「やまびこ」と「なすの」として,朝や夕方以降の通勤・通学時間帯や,日中の比較的利用者が落ち着く時間帯に運用されています。
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ということで,引退が間近に迫るE2系にわざわざ乗ってみたいという鉄道ファンがいるようですが,私は,期せずして,こういう,鉄道ファンには乗りたくてもなかなか乗れないという列車に巡り会うのです。

東北新幹線の車内からは夕日がきれいに見えました。夕日が沈んでも,まだ空は明るく,大宮駅を過ぎると,遠くに富士山が見えるようになってきました。どうして東北新幹線の車窓から富士山が? と思ったのですが,富士山は東京駅からでも見えるから,大宮駅からでも見えて当然ですが,何か不思議な気がしました。
東京駅で東海道新幹線に乗り換えるとき,勝手知る東京駅の東海道新幹線のホームの売店で駅弁を買いました。
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こうして,今回の旅は終わりました。
2泊3日,行き当たりばったりでしたが,長年の夢が実現したり,奇しくも思いがけないところを知ったりと,楽しい旅になりました。また,何といっても,インバウンドとは無縁,そして,おいしい食事に他に誰もいない温泉というように,私の理想の旅が実現できました。
また,このごろは,どこへ行っても同じような気持ちになれます。日本国内を旅していて,そういえば,同じような気持ちを海外でも感じたことがあるなあ,と思うことも少なくありません。ならば,わざわざ遠い海外に出かける必要もないわけです。
旅というのはこうしたもので,ガイドブックを眺めながら,有名どころに出かけるような「愚」さえしなければ,日本でも,まだまだ,無限におもしろい経験ができるのです。

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【Summary】
At Komine Castle, I visited Ninonmaru Teahouse and enjoyed a rich cream anmitsu. I then saw the former Taiko Turret, a rare surviving structure relocated and restored multiple times. Although its interior was closed that day, its historical significance and exterior appearance were satisfying.

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白河市で最後に行こうと思ったのが旧小峰城太鼓櫓でした。
その前に,二の丸茶屋に寄ってみました。
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二の丸茶屋は,白河小峰城が望める城山公園内にある小峰城をイメージしたお休み処です。昨年2025年4月1日にリニューアルオープンしました。
小峰城オリジナルグッズや地元銘菓を取り揃えるほか,白河産の米粉を使用したふっくら・もちもち食感の白河だるまバーガーやクリームあんみつも提供しています。
その他、甲冑の着付け体験も行っています。
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私はおやつとして,「当店自家製寒天と市内の和菓子屋さんのつぶあんを使用し,白玉・ぎゅうひ・赤えんどう豆・バニラアイスがのりボリューム満点」のクリームあんみつをいただきました。

さて,最後に旧小峰城太鼓櫓へ行きました。
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もとは小峰城二之丸の南側入り口にあたる太鼓門西側に所在したとされ,一部の小峰城絵図に描かれています。1874年(明治7年)から行われた小峰城内の土地・建物の民間への払い下げに際して,白河の城下で商家(山城屋)を営んでいた荒井家が譲り受け,当初は,現在は消失した三之丸の紅葉土手に移築されました。その後,1930年(昭和5年)に現敷地北側に移築され,茶室に改装後利用されました。2015年(平成27年),荒井家より市へ寄贈され,その後,老朽化や東日本大震災による影響により倒壊の恐れがあったことから建物を解体し,2022年(令和4年)に敷地の南側へ移築修復工事を行いました。これまでの移築で,建物そのものは原型と変わっていますが,大正年間の写真や骨組みなどから,建物の原型は重層で,四方に転び(柱などの材を傾ける作り方)をもつ2間四方の寄棟造りであったと推定できます。小峰城に関わる建造物が江戸時代末から明治初期に全て焼失・破却等により失われた中で,唯一現存する貴重な建造物です。
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ところが,内部の公開は,日にちが限られていて,この日はだめでした。外観だけを見て満足することにしました。

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【Summary】
I visit daimyo graves to understand local respect for history. At the former Enmeiji site near Shirakawa, I found poorly maintained graves of early lords like Niwa Nagashige and Matsudaira rulers. Other lords, including reformer Matsudaira Sadanobu, are buried in Reiganji Temple in Tokyo.

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私は,全国を旅すると,江戸時代にその地を治めた藩主のことを知りたいということで,城とともに,藩主の墓所を訪ねることを楽しみにしています。それは,藩主の墓所を見ると,藩主がリスペクトされていたかどうかがよくわかるからです。そして,そうした歴史を今も大切にしているところは,概して,文化が栄えていているのです。
白河藩主の墓所は,白河藩大名家墓所として,白河駅より南へ約1.5キロメートルのところに位置する「小南湖」とよばれる場所にあるというので,行ってみました。

広い駐車場があったのですが,車はまったく停まっていませんでした。こじんまりとした庭園があって,その向こうの小高い山に墓所が点在していました。そこは,円明寺という,江戸時代に白河藩歴代藩主の菩提寺であった場所でした。
ところが,整備されているとは言い難く,墓所に至る道は,折れた木の枝で塞がれていて,行く手を阻みました。仕方がないので,道なき道を登っていくことにしました。
そこには,初代藩主・丹羽長重の宝篋印塔や,松平清照,松平直矩,松平基知といった藩主の五輪塔が点在していました。
丹羽長重は,織田信長の重臣丹羽長秀の嫡子で,関ヶ原合戦の際に徳川方の前田家と争ったために改易されましたが,のちに大名として再興し,1627年(寛永4年)に白河藩10万石余を与えられ初代白河藩主となり,白河小峰城の改築・城下町の整備を行い,1637年(寛永14年)に江戸の屋敷で67歳で死去しました。墓は白河石で造られた宝篋印塔でした。
松平清照は,藩主松平忠弘の嫡子でしたが,病弱のため廃嫡され,1686年(貞享3年)に35歳で死去。子の松平忠雅が家督を相続しました。墓は白河石で作られた五輪塔です。
松平直矩は,徳川家康の次男結城秀康の孫で,7歳で姫路藩主となりましたが,幼少のため越後村上藩に移され,その後,姫路藩,豊後日田藩,山形藩と転封を重ねたのち,1692年(元禄5年)に山形藩から白河藩に移り,1695年(元禄8年)54歳で江戸で没しました。遺骸は荼毘に付されて白河に送られ,現在地に葬られました。墓は白河石で作られた五輪塔です。
松平基知は,父・松平直矩の後を継いで1695年(元禄8年)に藩主となり,1729年(享保14年)に51歳で江戸で没しました。遺骸は備前の大甕に納められて白河に運ばれ,現在地に葬られました。墓は白河石で作られた五輪塔です。

それ以外の藩主の墓所は,東京都江東区深川江戸資料館の隣にある霊巌寺にあるということでした。特に,寛政の改革で知られる3代藩主・松平定信の墓は,国指定史跡として霊巌寺に保存されているそうです。私は,深川江戸資料館には行ったことがあるのですが,霊巌寺に行ったかどうか,記憶にありません。

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【Summary】
On March 8, 2026, I visited Bandai-Atami Onsen and Lake Inawashiro before going to Koriyama. The weather suddenly worsened with hail and strong winds, ruining my plan to relax by the lake. Disappointed, I returned to Koriyama, bought sweets, and went back, forgetting even where I had lunch.

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2026年3月8日,この旅の最終日です。
この日は,郡山市に行くことしか予定がなかったので,それ以外に何をしようかと考えました。そして決めたのが,磐梯熱海温泉がどういうところか見てみたい,ということでした。
2024年の,何と1月15日に私は只見線に乗りました。今思えば,雪深い只見線,こんな真冬に行こうというのが無謀なことなのですが,知らぬが仏でした。そのときは,東北新幹線で郡山駅で降りて,すぐに磐越西線に乗り換えて,会津若松駅に行ったので,郡山市は駅しか知りません。磐越西線は猪苗代湖畔を通ったので,その時点で,位置関係が把握できました。今から40年ほど前に,私は,車でこの辺りを通ったことがあるのです。懐かしい気持ちがしました。
その後,この付近に磐梯熱海温泉があるということを知って,今回,磐梯熱海温泉に宿泊しようとも考えたのですが,適当な旅館が見つからず断念したのでした。そんなわけで,磐梯熱海温泉を通り,猪苗代湖畔を途中までドライブして,そのあとで郡山市に行くことにしました。

朝食後,「式部のやかた井筒屋」をチェックアウトして,北に進みました。白河市から郡山市まで国道4号線を走って,郡山市から西に国道49号線で猪苗代湖まで来ました。磐梯熱海温泉はその途中にあります。おもったよりさびれたところでした。旅館が数件の小さな温泉街ならそれはそれでよし,また,私には縁がないけれど,大きな旅館がたくさんある温泉街ならそれはそれで名が知られているのでしょうが,磐梯熱海温泉はそのどちらでもない中途半端な感じでした。
それを過ぎ,やがて,猪苗代湖に着いたころ,気候が一転しました。霰(あられ)が横殴りに車に降り,とんでもない状況になりました。
ちなみに,雹(ひょう)と霰(あられ)の違いは,氷の粒の直径で,直径5ミリメートル以上を雹,5ミリメートル未満を霰とよぶのだそうです。どちらも積乱雲の中で発生し,激しい上昇気流によって成長します。

猪苗代湖畔で優雅に食事でも,という夢は潰えました。猪苗代湖畔,どこが観光の拠点なのかもさっぱりわかりませんでした。どうやら,北側の猪苗代町あたりのようでしたが,こんな天候ではテンション下がりっぱなしで,そこまで行って引き返すことにしました。猪苗代湖畔は,一面真っ白で,雹が止まず,強風で,最果て感満載でした。これはこれで,こんな天候に出会うのもまた,旅の醍醐味なのでしょう。
郡山市まで戻るとよい天気でした。当初は猪苗代湖あたりをのんびりと観光しようというあてもはずれ,また,何もない,という郡山市は,はやり何もなく,すでに書いたように,駅前の駐車場に車を停めて,「柏屋」さんで念願の薄皮饅頭を買っただけで白河市に戻ることになりました。
なお,どこかで昼食を,と思いながら国道4号線を走っていたことは記憶にあって,その途中で昼食をとったように思うのですが,いったい,どこで何を食べたのか,まったく覚えていません。また,写真もありません。私は,テンションが下がると,時折,こういうことがあります。と書いているうちに,コンビニに入ってパンをいくつか買ったことを思い出しました。


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【Summary】
After visiting Shirakawa Komine Castle, Nanko, and Shirakawa Barrier, I drove toward Nasu Highlands. The place I had imagined since childhood felt less mysterious in reality. Later, I stayed at a quiet hot spring inn, rich in Izumi Shikibu legends, and enjoyed peaceful bathing at night.

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白河小峰城,南湖,白河の関と観光をしたので,そのあとは今日の宿泊先である「式部のやかた井筒屋」へ行くばかりでしたが,まだ時間が早かったので,那須高原のあたりまでドライブすることにしました。
何度も書いているように,この辺りの場所は,私には,子供のころから藤井旭さんが「月刊天文ガイド」のさまざま記事に書かれていた場所ということで,謎に包まれていました。だからこそ,ずっと憧れのところでしたが,今回行ってみて,その謎が解けました。
那須高原,那須連峰というところは,私には,ヒマラヤのようなところでした。遠くに雪を被った山並みが見えて,そこに銀色のドームが輝いている… ,そして,夜になると満天の星。いったいどういうところなのだろうと思っていました。
歳をとって,いろんなことを知ると,そうしたときめきは虚像だということもわかりましたが,それはそれで残念な気持ちがしました。

さて,白河の関あたりは,まだ,雪が残っていましたが,那須高原に近づくにつれて,軽井沢や木曽駒高原のような別荘地になりました。おそらく,東京で仕事をしていて,一戸建てに憧れるような裕福な若い人にとって,那須高原は理想の住処なのかもしれません。数年前,東京でJRに乗ると,那須塩原と書かれた分譲住宅のポスターをずいぶんと目にしました。
とはいえ,遊びに行くのならともかく,実際に住むとなると,ずいぶんと不便なところだろうと,今は思いました。私は,夢が覚めたような気持ちになりました。
引き返して,「式部のやかた井筒屋」を目指しました。その途中で,和泉式部の庵跡地にある化粧井を訪れたことはすでに書きました。

やがて,「式部のやかた井筒屋」に到着しました。おもったより大きな旅館でしたが,老朽化否めず,古びていました。ここは猫啼温泉(ねこなきおんせん)というところでした。
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猫啼温泉は,福島県石川郡石川町にある歴史ある温泉地で,私の泊まった「式部のやかた井筒屋」と小さな「西田屋」という2軒の旅館があります。
平安時代の歌人・和泉式部にまつわる伝説が残る,静かな湯治場として知られています。日本でも珍しい放射能泉(ラジウム温泉・ラドン温泉)で,微量の放射線が免疫力を高める「ホルミシス効果」が期待できるとされています。
猫啼温泉がある石川町は和泉式部の生誕地と伝えられていて,周辺には彼女が髪を整えたとされる「櫛上げの石」などの史跡が点在します。また,京へ上った和泉式部を慕って鳴き続けた愛猫が,この地の霊泉に浸かって病を治したという伝説から猫啼と名づけられました。
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昨年行った山口県の湯野温泉,先日行った九十九里浜の白子温泉など,規模が小さく,2,3軒ほどの旅館しかないところがけっこうある,ということを旅をしていて知りました。規模が大きく巨大な旅館が何軒もあって,しかも,その多くが廃墟と化している温泉郷が話題となりますが,こうした規模が小さな温泉はどこも魅力的です。私は,こうした小さな温泉のほうを好みますが,探し出すのに苦労をします。
猫啼温泉は,私には「西田屋」さんのほうが私の趣向にあうように思うのですが,今回は「式部のやかた井筒屋」さんに宿泊したからこそ,和泉式部ゆかりの場所だということを知ったわけです。
食事も温泉も申し分なく,温泉は一晩中入ることができるということだったので,だれもいない深夜にのんびりと味わうことができました。

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【Summary】
Near Shirakawa-no-Seki, celebrated in Oku no Hosomichi by Matsuo Basho, this ancient barrier marked the frontier to Mutsu. Once a strategic military checkpoint against the Emishi, it later became a poetic symbol. Its site was identified by Matsudaira Sadanobu and confirmed archaeologically in the 20th century.

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白河市といえば,白河小峰城,南湖,そして,白河の関。ということで,最後に白河の関に行ってみました。
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心許(こころもと)なき日かず重(かさな)るまゝに,白川(しらかは)の關(せき)にかゝりて旅心定りぬ。「いかで都へと便(たより)求しも斷(ことわり)也。中にも此關(このせき)は三關の一にして,風騒(ふうさう)の人心をとゞむ。秋風を耳に殘し,紅葉を俤(おもかげ)にして,青葉の梢猶(なほ)あはれ也。卯の花の白妙(しろたへ)に,茨(いばら)の花の咲そひて,雪にもこゆる心地ぞする。古人(こじん)冠を正し衣裝を改し事など,清輔(きよすけ)の筆にもとゞめ置れしとぞ。
 卯の花をかざしに關の晴着かな  曾良
  「奥の細道」
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東北地方を旅すると,どこに行っても松尾芭蕉の遺構に出会います。ここまで私を追っかけてくるの! とある意味わずらわしさを感じるのですが,それは反対で,私が松尾芭蕉さんを追っかけているようなものです。

白河の関は,設置された時期は不明ですが,古代の日本における関所のひとつで,奈良時代から平安時代にかけて都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門でした。こういうことは,実際に行ってみると実感できます。おそらくは,奈良時代,この地方には,別の人々(蝦夷)が支配していて,それを奥州征伐,蝦夷征討として,東北地方の支配権を確立するために軍事行動を起こしたその衝突地点だったのでしょう。724年(神亀元年)には現在の宮城県多賀城市に多賀城が築かれ,これを奥州支配の最前線拠点として大軍を派遣,蝦夷側も団結して抵抗し一進一退の攻防ののち,坂上田村麻呂が蝦夷征討を最終的な終焉に向かわせることになりました。
白河の関より北に位置するのが東北地方とされ,山形県鶴岡市の鼠ヶ関(ねずがせき),福島県いわき市の勿来関(なこそのせき)とともに奥州3関のひとつに数えられます。

平安時代以降は,律令制度の衰退とともに軍事的要衝としての白河関の機能は解消し,「みちのくの象徴」として和歌の歌枕に起用され文学的感傷をもたらす存在となりました。
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 たよりあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと
  「拾遺和歌集」平兼盛
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白河の関は,下野国と陸奥国(現在の栃木県と福島県)の国境で,長く,場所が特定されていませんでしたが,1800年(寛政12年),白河藩主・松平定信は文献による考証を行い,白河神社の建つ場所をもって白河の関跡であると論じました。さらに,1960年代の発掘調査の結果,土塁や空堀を設け,それに柵木(さくぼく)をめぐらせた古代の防禦施設を検出し,1966年(昭和41年)に「白河関跡」(しらかわのせきあと)として国の史跡に指定されました。
なお,藤井旭さんとその仲間の人たちが建設した白河天文台は,白河の関ほど近くの西側の山の中にあったようです。

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【Summary】
Nanko, created in 1801 by Matsudaira Sadanobu, is considered Japan’s earliest public park, open to all classes. Its scenic landscape blends beauty and practical use. Nearby, Suirakuen offers a quiet Japanese garden experience. I enjoyed matcha and “Nanko dango,” a simple, nostalgic local specialty.

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白河小峰城から4キロメートルほど南に行くと,名勝・南湖(なんこ)があるというので,行ってみました。
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南湖は,1801年(享和元年)に白河藩主・松平定信が築いた日本最古の公園思想をもつ湖です。
もともと大沼とよばれた湿地帯に堤を築いて水を貯め,庭園的な景観を整えたのが南湖のはじまりです。南湖の面積は約18ヘクタール(約5ヘクタールがプロ野球のグランド程度),周囲は約2キロメートルで,那須連峰を借景に,松・桜・楓が四季を彩ります。
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南湖は 「武士も庶民も身分を超えて楽しめる場所にする」 という思想で造られました。当時の大名庭園は,藩主や武士階級だけの空間でしたが,南湖にはその垣根がなく,誰でも自由に出入りできました。また,南湖は単なる景勝地ではなく,灌漑用水,水練・操船訓練の場,領民救済のための土木事業といった実用的な目的も兼ねていたそうです。
名称の由来は,唐の詩人・李白の詩「南湖秋水夜無煙」と小峰城の南に位置することから名づけられたと伝わります。そして,南湖の周囲には,17の景勝地を選び,公家・大名・儒者に和歌や漢詩を依頼して石碑に刻ませました。
南湖は思った以上に広く,美しいところでした。

南湖の東側のほとりには,茶店と有料の庭園がありました。
庭園は「翠楽苑」(すいらくえん)といいました。「翠楽苑」は江戸時代のものではなく,松平定信が築いた南湖の精神を現代に受け継ぐために整備された本格的な日本庭園ということです。南湖が公園の原点なら,翠楽苑はその思想を日本庭園として可視化した場所,だそうです。園内は池泉回遊式で,池・滝・茶室・四季の植栽が配置され,歩くたびに景色が変わるように作られていて,南湖の広々とした風景とは対照的に,静かで繊細な和の空間が広がります。驚くことに,観光客どころか,ほとんど人もおらず,すばらしいところでした。南湖を歩いたあとに翠楽苑へ入ると,まるで外界の喧騒から一段深い静けさへ降りていくような感覚がありました。
庭園内には茶室「翠楽亭」があって,抹茶と和菓子をいただけるというので,入ってみました。落ち着いた室内で庭園を眺めながら一服するのは最高のぜいたくでした。

「翠楽亭」を出て,近くあった茶店に入って,昼食をとることにしました。山菜そばを注文しましたが,どの店にも「南湖だんご」とありました。そこで,「南湖だんご」も併せて注文しました。
南湖といえば「南湖だんご」,これは南湖のほとりで長く親しまれてきた食べ物で,誰でも気軽に楽しめるという松平定信の思想と響き合う名物だそうです。「南湖だんご」は,醤油を塗って炙った香ばしい味で,もちもちしすぎず,軽く食べられる食感があり,甘さ控えめでどこか懐かしい風味がしました。

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【Summary】
Shirakawa Domain, centered at Komine Castle, was a strategic gateway to northern Japan. Ruled by several daimyo families, it prospered under Matsudaira Sadanobu, who managed famine and reformed finances. Later governed by the Abe clan, it was destroyed during the Boshin War.

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白河小峰城の一角に小峰城歴史館があったので入ってみました。さまざまな土地を旅していると,その土地の歴史がきちんとわかる資料館があるところとないところがあって,その土地に住む人が歴史を大切にしているかどうかがよくわかります。
今回は,白河藩の歴史について書くことにします。

白河藩は,江戸時代に現在の福島県白河市にあたる陸奥国白河郡白河周辺を知行した藩で,藩庁は白河城に置かれました。
白河の地は,古代においては白河の関が設けられ,奥羽地方への出入り口として要衝の地となっていました。江戸時代には,奥羽地方の外様大名の抑えという位置づけで,初代の丹羽氏を除いては有力な親藩・譜代大名が頻繁に入れ替わり治めました。その地で江戸時代を治めた多くの外様大名がのに対して,親藩・譜代大名の治めた地の多くは,頻繁に国替えがありました。縁もゆかりない地を突然押しつけられるわけで,これでは領民がリスペクトするわけもありません。今の公務員のお偉いさまの人事異動のような感じです。
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●丹羽家/榊原家の時代
まず,江戸時代初頭の1627年(寛永4年)に丹羽長秀の長男丹羽長重が10万石余で入り白河藩が成立しました。1643年(寛永20年)に2代藩主・丹羽光重が陸奥国二本松藩に転封となり,上野国館林藩より母が徳川家康の姪にあたる榊原忠次が14万石で入部しましたが,1649年(慶安2年)に播磨国姫路藩に転封となりました。
●本多家/奥平松平家の時代
替わって本多忠義が12万石で入部しました。2代藩主・本多忠平が,1681年(天和元年)に下野国宇都宮藩へ転封となり,松平忠弘が15万石で入部しましたが,松平忠弘は家老・奥平金弥と黒屋数馬の対立を治めきれず,1692年(元禄5年)にお家騒動のため藩主閉門の上出羽国山形藩に転封となりました。山形藩は左遷藩と揶揄されるように,何事かで不祥事を起こすと送られた大名が多いのです。
●結城松平家/久松松平家の時代
入れ替わりに,映画「引っ越し大名」のモデルにもなった松平直矩が15万石で入部,財政改革を断行しましたが,増税が大規模な農民一揆を引き起こしました。3代藩主・松平義知は藩政改革に努めましたが,1741年(寛保元年)に姫路藩へ転封となり,替わって松平定賢が入部,2代藩主・松平定邦の養子として跡に入ったのが,御三卿のひとつ田安徳川家初代・徳川宗武の7男・松平定信です。このあたりのことは,昨年2025年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」に詳しいです。
1783年(天明3年)1787年(天明7年)にかけて天明の大飢饉で,東北地方は甚大な被害に襲われましたが,松平定信は被害を最小限に食い止めるように分領の越後から白河へ米を輸送させ,同時に会津藩に米を売ってもらうように談判,この裁量により,白河藩の被害は拡大せずに済みました。この功績や藩主就任後の白河藩の財政建て直しの実績が認められ,松平定信は11代将軍・徳川家斉の元で老中に任ぜられました。松平定信の行った寛政の改革は結局6年ほどでとん挫し,松平定信は72歳で亡くなりました。
●阿部家の時代
1823年(文政6年)4代藩主・松平定永は伊勢国桑名藩に転封となり, 替わって阿部正権が入部,以降,幕末まで阿部家が8代44年間在封しました。
7代藩主・阿部正外は勝海舟とも面会し,幕府へ勝海舟の政治思想の危険性を報告,罷免されたきっかけを作ったといわれる人物です。その一方で,京都の攘夷派公家・浪士らの牽制や朝廷との交渉役も務めるというように,一貫して徳川家茂のサポート役を勤め,奥羽越列藩同盟軍を結成し,戊辰戦争では新政府軍と戦いましたが大敗。白河小峰城が焼失しました。
1866年(慶応2年)8代藩主・阿部正静のとき棚倉藩に転封され,白河藩領は二本松藩の預かりとなり戊辰戦争時は藩主不在で係争の地となりました。その後,さまざまな経緯を経て,以後天領となり,明治維新を迎えることになりました。
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【Summary】
Shirakawa Komine Castle, largely destroyed in the Boshin War, was authentically reconstructed in wood in 1991. Its stone walls collapsed in the 2011 earthquake but were restored by 2015. Ongoing projects include rebuilding Shimizu Gate. Unlike earlier concrete reconstructions, it represents Japan’s modern movement toward historically accurate wooden castle restoration.

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私は城マニアではないのですが,日本各地を旅するとどこも代表的な見どころが城,ということもあって,ほとんどの城郭は訪れています。
多くの城は,1873年(明治6年)の廃城令によって,廃城となってしまい,また,あるいは,第2次世界大戦で焼失してしまい,現在,江戸時代のままの姿で現存しているのは,現存12天守というようにわずか12。うち,特に歴史的価値が高いとして国宝指定されたのが,姫路城,彦根城,松本城,松江城,犬山城の5つ,また,重要文化財であるのは,弘前城,丸岡城,備中松山城,松山城,宇和島城,高知城,丸亀城の残りの7つで,私は,そのすべてに行ったことがあります。
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戦後,廃城,あるいは,焼失してしまった天守を再建する動きがあって,それに伴って,多くの城が姿を現しました。それらのうち,比較的早く再建したものは,鉄筋コンクリート造りで,単なる展望台と化しています。また,戦国時代の城など,当時の姿とは全く異なる,単なる観光施設であるまがいものの天守もあります。これらは,城の姿をしただけの客寄せパンダです。
それとは一線を画して,1990年以降,木造で当時の姿で復元される城が現れました。江戸時代以前の文献や古写真を基に,当時の工法や木材を用いて忠実に再現されたもので,白石城,白河小峰城,新発田城,掛川城,大洲城の5つあります。それらは,コンクリート製とは異なる本物の質感や木の香りが特徴です。私は,期せずして,掛川城,大洲城に行きましたが,今回,それらに加えて,白河小峰城に来ることができました。
また,本格復元志向に伴い,木造復元へ転換しようと計画されているのが,名古屋城や広島城ですが,さまざまな困難があって,なかなか実現に至りません。

白河小峰城は,戊辰戦争でほとんどの建物が焼失し,城址には石垣が残るのみとなっていましたが,1991年に本丸御三階櫓が木造により復元されました。また,2011年3月11日に発生した東日本大震災により石垣等が崩壊しましたが,2015年に復興されました。また,現在も引き続き復元が進んでいて,本丸正面にあった清水門を復元工事中でした。

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Pink Moon 2026.

2026年4月2日の月の出です。
ちょうど飛行機が月の表面を通りました。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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【Summary】
I often ride the Tohoku Shinkansen, but the area between Utsunomiya and Koriyama long felt unfamiliar yet fascinating. This trip, I rented a car in Shirakawa, discovered its spacious skies and views of the Nasu Mountains, walked from Shirakawa Station to Komine Castle, and enjoyed stunning scenery from the castle tower.

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東北新幹線は,近ごろ,利用することが少なくないのですが,宇都宮駅から郡山駅あたりまでが,私には未知の世界であり,あこがれれの地でもありました。尾瀬ケ原へ行ったり,奥日光へ行ったり,只見線に乗ったり,大内宿へ行ったりしましたが,どれもが点であって,結びつかないでいたのです。しかし,調べてみると,どこもつながっている,これが不思議なことでした。
また,那須連峰,那須塩原,という言葉になぜか惹かれました。新幹線の窓から那須連峰が美しく見られ,そのふもとには,優雅な住宅が広がっています。とはいえ,それらを巡るにはどうしていいのか皆目見当がつきませんでした。
私は,今回,もともとは郡山市に行くというのが目的だったのですが,ならば,白河市でレンタカーを借りればいいじゃないか,と思い立ちました。白河市というところも,藤井旭さんの白河天文台という言葉に酔っていただけで,何があるのか知りませんでした。ところが,昨年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で登場した松平定信の治めた地ということで,関心をもちました。

最終の東北新幹線を新白河駅で降りて,夜遅く,予約してあった駅前の「東横イン」にチェックインしました。
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翌日2026年3月7日の朝,ホテルで朝食を済ませ,チェックアウトをして,レンタカーを借りました。「東横イン」は壁が薄く,隣の人のうるさいびきで眠れないというデメリットに加え,朝食が激混みなのが嫌いなのですが,今回はそんなこともなく助かりました。
東北新幹線は新白河駅ですが,白河小峰城のあるのは,白河駅の近くということで,まず,白河駅を目指しました。新白河駅と白河駅は在来線で1駅区間です。
少し走っただけで,白河市というところは,何とすてきな街なのか,と実感しました。何といっても,空が広い。そして,遠くに見える那須連峰が美しい。ほどなくして到着した白河駅前は,以前行ったことがある会津若松駅前を思い出しました。ロータリーが広く,また,無料の広い駐車場ありました。
車を停めて,白河小峰城まで歩きました。車を停めたのは,駅の南側で,さらに,その南に市街地が広がっているのですが,白河小峰城のある城山公園は駅の北側でした。駅の東側には「こみねふれあい通り」という連絡通路があったので,線路を越すのに遠回りをすることもありませんでした。連絡通路を出たところに,立派な白河小峰城の天守が見えました。
まず,天守台に登りました。そこから見えた那須連峰と白河市の街並み,そして,山形新幹線や秋田新幹線を接続した東北新幹線,とてもすばらしい景色でした。

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