しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

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 次の目的地,デッドウッドにむかう途中の町サンダンスに,1軒だけあるというアロという名前のレストランで昼食をとった。地元のレストランというのは,その地に住んでいる人の様子がよくわかるし,食べ物もおいしいし,素敵なところだ。きょうは日曜日でもあったので,お店の中は家族連れが大勢いた。

 デッドウッドは,1876年に金が発見されてゴールドラッシュが勃発,こうしてできたこの町には,当時,西部映画に名を連ねる人々が暮らしていた。現在は,歴史的なランドマークとして観光地化されていて,ワイルドウエストの雰囲気とアンティークな町並みが,西部開拓時代のアメリカを思い出されるところだ。
 有名な殺し屋ワイルド・ビル・ヒコックがポーカーの最中に殺されたサロンもそのまま残っていて,殺されたときに座っていた椅子が展示されていた。殺されたといわれる場所でカウボーイ帽子をかぶって写真を撮った。このサロンは,床も当時のままで,西部劇そのままだったし,素敵だった。子供の頃に駄菓子屋で買った絵本に載っていたアメリカの西部の風景が蘇った。
 ミッドナイトスターというサロンは,ケビン・コスナーが経営していて,主演した映画で使用された衣装などが展示されていた。

 デッドウッドには「幽霊ホテル」というのもあって,幽霊の出るという廊下で写真を撮った。ひょっとしたら,写真に幽霊が写っているかもしれない。
 きょうは,このようにして,ツアーガイドの高木さんのおかげで,ディープなサウスダコタ州やワイオミング州を味わうこともできたし,すっかり,アメリカの感覚も戻ってきた。
 もう一度来ることができるのであれば,ケビン・コスナーやいろんな西部劇の映画をたくさん見てから,このあたりに宿泊して,ゆっくりとワイルドウエストを味わいたいものだと思った。

 午後4時前,ホテルに戻った。
 少しゆっくりとして,その後,ホテルの近くを散策しようと思って,インターチェンジの橋を北に渡った。ホテルやファミリーレストラン,そして,モールがあった。
 まず,モールへ行った。広すぎて,着くまでが大変だったが,中は,閉店している店舗があったり,人があまりいない場所があったりと,これも不景気の影響なのかな? と思った。フードコートで食事をしようと考えたが,日曜日だけは午後6時に閉まってしまうので,片付けが始まっていた。
 ホテルへ帰る途中,デニーズがあったので,そこで夕食をとることにした。

 夕食後,ホテルに戻って,ベッドに寝転んで,テレビを見ていたが,こちらのテレビは,映画をやっているかコマーシャルをやっているばかりで,以前は,そんなことは感じなかったが,あまり面白くない。やたらとロムニー候補のネガティブキャンペーンのCMをやっていた。
 きょうは,日曜日なので,CBSのレイトショーもやっていないし,結局,ESPNでMLBのニュースを見るか,CNNを見るかしかない。これでは日本とかわらないなあ,と思った。
 テレビでは,イチローがヤンキースにトレードされたという話で持ちきりだった。イチローは,すでに,シアトルではする仕事がない。トレードするにもあの高い年棒には手を出す球団はないだろうと思っていた。
 MLBで,イチローがやり残した仕事はワールドシリーズだけだ。だから,彼にとってみれば,たとえ,守備位置が変わり,打順が下位になっても,歓迎すべきトレードに違いないが,8月にマリナーズ観戦ツアーを計画していた人たちには大ショックだったろうと,すでにシアトルでイチローを見た私は,余裕でそう思った。

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☆2日目 7月21日(日)
 頭痛がするような時差ぼけはない。でも,寝つかれず,そして,2時間ごとに目が覚める。朝,起きられるかということだけが心配だったが,早く目が覚めすぎて困ってしまった。
 きょうは,日本人ガイドの高木さんが,朝8時にホテルに迎えに来て,そのまま,デビルズタワー国立モニュメントとデッドウッドの町の観光をするというのが予定であった。
 到着早々,こちらの情報もよくわらないので,こうしたツアーはとても助かる。ということで,少し割高だったけれど,初日は日本語ツアーを予約してあった。

 朝,6時前に眠気覚ましに外に出て少し歩くと,ファミリーレストランがあったので,朝食を食べに中に入った。ミルクを入れたコーヒーがとてもおいしいかった。
 朝食後,インターチェンジにかかる歩道から眺めた景色が最高だった。東西にはインターステイツ90が延々とのびていて,東の空には,上ったばかりの太陽が,地面を照らしていた。北側には,雄大な大地が広がっていた。きっと,その向こうは,みんなが「何もない」という,憧れのノースダコタ州なのだ,と思った。
 アメリカには国旗が目に付くがどこも半旗だった。デンバーの銃の乱射事件を悼んでのことだという。

 時間通り高木さんが来て,さっそく車に乗りこんだ。
 車はインターステイツ90を西に,やがて,サウスダコタ州からワイオミング州に入って,サンダンスという小さな町からデビルズタワー国立モニュメントを目指して進んだ。
 久しぶりに見るアメリカの景色が,忘れかけていた感動を呼び覚ました。特に,このあたりは,モンタナ州の景色に似ていて,とても懐かしい。

 デビルズタワーというのは,地下深いところにあった巨大なマグマのかたまりが地層を貫いて地表まで上昇したものが,やがて,まわりの軟らかな地層が侵食されて削られたので,結果として,この塊だけが,タワーのように残ったものらしい。タワーは細長い柱状の柱が寄せ集まった状態でそびえていて,高さは約400メートル近くある。映画「未知との遭遇」のラストシーンでUFOが舞い降りたシーンで有名だ。
 アメリカの名所というのはどこもかも,ガイドブックや写真で見るよりも,実際のほうが,ずっとずっとすごい。
 ロッククライミングの名所ということで,この日も,数人のクライマーが登っている姿を見ることができた。1893年,初めて登頂したときに残したはしごがあって,注意深く探すとそれを眺めることができるが,こういったことは,現地を知るガイドさんがいないと見落としてしまう。

 1周するトレイルがあって,これを歩くと,タワーは,場所ごとに姿を変えて,そのどれもが壮大で,写真で見るよりもずっと感動する。
 トレイルの途中で,野生の仔鹿と遭遇した。背中に斑点があって,まさに,バンビ。とてもかわいかった。こういう姿も,そう簡単には見られるものではないらしい。
 公園の入口にはビジターセンターがあって,タワーに残っているたての溝は熊が引っかいたものだというキオワ族の伝説を表した有名な絵画が飾ってあった。
 デビルズタワー国立モニュメントの帰りに,公園のゲート近くに大平原が広がり,プレーリードッグが巣穴をつくっていた。プレーリードッグは,とてもかわいかった。

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 そのうちに雲が切れてきて,遠くにラピッドシティの夜景が見えるようになった。
 夜10時少し前,ラピッドシティに到着。こぢんまりとしたきれいな空港だったが,売店はすでに閉じられ,閑散としていた。
 入国1日目。久しぶりのアメリカ,しかも深夜なので,ちょっと緊張した。

 さて,問題なのは,空港のシャトルバスである。ラピッドシティから事前に予約済みの宿泊先のホテルまでは20キロメートル近くあって,空港シャトルバス(バン)で行くのだという。日本で調べても,それ以上のことがよくわからない。シャトルバスが空港にいつもいるのか,電話をしたらすぐに来るのか,そういったシステムがわからないので不安であった。
 しかし,案ずるより生むが易しであった。
 バゲジクレイムの隣が空港の出口で,出口の右隣にはレンタカーのカウンタが並び,反対側にシャトルバスの受付があって,そこに係員がふたりいた。
 シャトルバスの受付で話をすると,さっそく手配をしてくれたが,今外に止まってバスは,すでに,乗客が一杯だという。次のバスまで待てといわれたが,どこで待てばいいのか,どのくらい待てばいいのか,こちらから聞かなければ,なにも指示がない。
 この不親切さこそ,アメリカらしくて好きだ。日本の親切さは客にとれば便利でここちよいが,働いているほうは,ストレスだらけだろう。そして,客はますます横柄になる。

 やがて,5分もしないうちに,同乗する人たちも集まり,次のシャトルバスが来た。出口を出ると目の前にシャトルバスがいて乗り込んだ。他のお客さんたちは,モンタナ州やらサウスダコタ州やらを旅している老人の5人組だった。このシャトルバスの料金はいくらだと隣に座った老人が聞くが,私が持っているガイドブック「地球の歩き方」は日本語だ。これは日本語だけど,といって見せると,今度は,私も昔日本にいったことがあるという話になって,そして,質問ぜめになった。一番の話題は3・11の東日本の地震のこと。
 ちなみに,シャトルバスの料金は20ドル。それにチップが少々である。
 バスの中にはカントリーミュージックが流れ,老人たちと運転手の合唱が始まる。ウ~ム,アメリカだ! 車内は私のほかはアメリカ人が運転手を含めて6人。話に花が咲いている。
 雨は上がっていたが,道がぬれていた。今年の夏は,異常に暑いのだそうだ。しかし,湿気がなく過ごしやすい。サウスダコタ州の辺りは影響がないが,アメリカの穀物地帯は,ドラウト(干ばつ)で大変であるらしい。

 やがて,バスは,ラピッドシティのダウンタウンにある,老人たちが泊まるホテルに到着して,彼らと荷物が降ろされ,次に,私の泊まる郊外の「モーテル6」へと向かった。
 予約されたホテルはラピットシティのインターステイツ90とノースラクロスストリートの立体交差点(インターチェンジ)のところにあって,付近は,レストランやモール,多くのホテルが立ち並ぶ便利な場所だった。
 ホテルのフロントは深夜でもあり閉じられているという話だったが,実際には開いていた。チェックインをしようとするが,宿泊者である私の情報がないという。困っていると,あすのツアーのガイドの高木さんが現れて,もう,チェックインはしてありますと言われた。このホテルは,今日,団体客が来ていたので,この時間にフロントが開いているのだという。ホテルは,中庭にプールがある2階建ての,ごく普通のアメリカのホテルであった。バスタブはなく,シャワーだった。そして,ここにも大きな韓国製のテレビがあった。
 これで,きょうの長い長い1日は終わった。来ることができてよかった。

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 シアトルからソルトレイクシティまでは1時間30分くらいのフライトである。ソルトレイクシティに近づくにつれて,眼下にグレイトソルト湖がひろがり,その圧倒的な景色に感動する。かなり広い塩湖だ。湖畔は塩の塊だらけだと,隣の女性に話しかけられる。
 機内のアナウンスでは,当地ソルトレイクシティの気温は華氏99度(摂氏37度),天候は雨ということだった。隣の女性が「99度!」といってため息をついた。この人,ソルトレイクシティ到着後は,レンタカーで北上して,ワイオミング州からモンタナ州を越え -ソルトレイクシティはイエローストーン国立公園のアクセスポイントだ- カナダ国境を越えてサスカチュワン州を東に行きノースダコタ州の国境からからアメリカに戻ると言っていた。ひとり旅か? と思ったが,そうではないようだった。いずれにせよ,ノースダコタ州を目指すのは,自分だけではないのだな,と思った。
 急に,ノースダコタ州が身近に思えた。

 ソルトレイクシティの空港に到着した。ここには,一度,フロリダからの帰りに降りたことがあるが,ソルトレイクシティはグレイトソルト湖のほとりに広がり,モルモン教徒が作った大きな都会だ。いろいろと観光名所があるので一度は時間をとって訪ねてみたいものだと思うのだが,まだ,果たしていない。すでに雨はあがっていて,空から見た景色は雄大で,空港から眺める景色もすばらしかった。
 ソルトレイクシティからラピッドシティに向かう飛行機は40人くらいが乗る小さなもので,搭乗口も空港の一番端にあった。
 ここでは,まず,搭乗のチェックインが必要だと言われていたので,自動チェックイン機を操作して,搭乗券を入手する。
 自動チェックイン機はなかなか便利だが,アメリカ旅行は,旅なれていない人には,ESTAにせよ,自動チェックインにせよ,なにがなんだかわからないだろう。さらに,今回の旅行で感じたのは,空港やホテルのテレビはサムソンやLG,この旅行で乗ったレンタカーはヒュンダイと,どこもかしこも韓国製だということ。空港では,みんな iPad や iPhone を使い,新聞を広げる人は誰もいない。
 世界は変わった。そして,日本の影は薄い。内弁慶で威張り散らすだけの日本の老人男性も,外国に興味のなく平和ぼけの日本の若者も,意味のない教育 -教育でなくただのクイズ合戦だ- をしている日本の教育界も,あれはいったい何なんだろう。もう,日本は終わった。しみじみそう思った。

 ソルトレイクシティの空港で,サンドイッチとフルーツジュースを買って,窓から外の景色を眺めながら夕食のつもりをした。到着のたびに時差で時間が変わり,体内時計がどうなっているのかもよくわからないが,ともかく,ラピッドシティに到着すれば,深夜になるから,夕食をとらなくてはならない。
 ソルトレイクシティからのフライトは,座席がまた一番前で,今回はさらに窓際の席だったこともあり,夕方の景色がとても美しかった。カメラを片手にずっと窓から外を見ていた。客室乗務員の女性がひとりだけ乗っていて,とても忙しそうだったけれども,私がカメラを構えていると「いい写真が撮れるといいね」と話しかけ,他の客にも愛想がよく,素敵な人だった。機内のアナウンスの発音がとてもきれいだった。
 快晴だったこともあり,夕日に映えるロッキー山脈がすばらしかった。
 1時間と少し,窓からの景色が変わり,眼下は雲だらけとなり,雲の下が時々光っているように感じられた。やがて,機体が着陸態勢となり,雲の中に入ると,光っていたもの,それは稲光であった。いたるところで稲妻が走り,まるで,実験室のようだった。あのような稲光をはじめて見た。恐ろしい景色だった。まさに,地球全体が放電実験をしているかのようだった。

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 関西国際空港は広い空港だ。以前,ロサンゼルスでパスポートの盗難に遭って,命からがな台風の中を帰国しながら,台風で空港が閉鎖されてしまい家に帰れず,一夜を過ごしたときのあの「関空」だ。きょうは,そのときと同じところとは思えないほど,華やいで見える。
 まだ,出発には時間があって,デルタ航空のカウンタには係員がいなかったけれど,あと5分ほどでチェックインが始まるというので,その場で待つことにした。隣の,エコノミークラスの団体客が並んでいるカウンタを横目に,ビジネスクラスのカウンタで待っているのはすごく気分がいい。ものすごい金持ちになった気分だった。

 チェックイン後,食事券ももらったことだし,しばしの別れにと,空港のレストランでトロづくしの寿司を食べた。さらに,空港ラウンジも利用できるということだったので,早速利用することにした。どんどん気分はリッチになっていく。飛行機に乗る前から心だけは高く高く舞い上がっていく…。これだけでも,今回来た甲斐があるというものだった。
 ビジネスクラスは,以前に一度,ダブルブッキングで変更になって利用したこともあるし,アメリカで交通事故に遭って帰国したときは,ファーストクラスでミネアポリスから成田に帰ったこともあるので,はじめての利用ではなかったけれど,やはり,ビジネスクラスの座席は,広く,サービスもよく,快適だった。座席は一番前だった。出発前,まだ操縦席の扉が開いていて,コクピットがよく見えた。
 先に座っていると,横の通路を,エコノミーの乗客が通り過ぎていく。 機会があれば,また,ビジネスクラスを利用したいと思うのだが,ビジネスクラスの運賃は,エコノミーの3倍はする。 機内では,ビジネスクラス用の食事やら,専用のテレビやらがあって,あっという間にシアトルに到着した。9時間45分のフライトであった。

 シアトル・タコマ国際空港も,はじめての利用ではなかったけれど,今回,意外と狭く,古めかしいところだなあ,と感じた。
 シアトルでの手続きは簡単に終わり,無事にアメリカへの入国を果たした。次のフライトまでの時間,空港の待合をうろうろとしていると,前のフライトで通路をはさんで隣に座っていたおじさんを見つけたので,話しかけた。
 息子さんが神戸で仕事をしていて,夫婦で日本に遊びに行ったその帰りだということだった。この人も,ダブルブッキングで,エコノミーからビジネスに変更になったのだという。彼は,これから,オハイオ州の自宅まで帰るために,次はデトロイト便に乗るのだという。 この人,名前をジョンというのだが,彼のお父さんもおじいさんもジョンというので,自分はラリーと名乗っているのだそうだ。このおじさんと日本食のことやらなにやら,いろいろな話題で盛り上がっていたら,あっという間にソルトレイクシティ便の搭乗時間になったので,硬く握手をしてお互いの旅の無事を祈って別れた。

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☆1日目 7月21日(土)
 朝,自宅からバス停まで徒歩3分。バス停の手前の信号のない交差点で車に引かれかけた。一旦停車をすべき交差点を無視した小型車が,突然,自分の前を猛スピードで通り過ぎた。本当にびっくりした。あと1秒でも違ったら,今,この世にいなかっただろう。後ろを歩いていた人は,完全に私は引かれた,と思ったそうだ。あとで,バス停で,その人に,そう話しかけられた。
 しかし,自分には,不思議と動揺はなかった。ただ,旅行する前に死んでしまってはたまらんわ,とは思った。でも,こんなことから旅が始まれば,この先は,よいことしか起こらないであろう。そのときは,そう思った。そして,実際,そうなった。
 やがてバスが来て,そして,バスは名鉄の駅に到着して,座席指定特急に乗って,10時過ぎ中部国際空港に到着した。

 まだ出発には早く閑散としていたデルタ航空のカウンタで,チェックインの手続きをしようとすると,飛行機がオーバーブッキングなので,変更してくれる人を探していると言われた。別にスケジュールにこだわっている旅でもないので,ハプニングはすべて受け入れよう,と思った。だから,現地の到着時間さえ,これ以上遅くならなければいいですよ,と答えた。はじめから面白そうな旅だと思った。
 隣のカウンタに来た別の人にも同じことを言っていたようだったが,その人は冗談じゃないと断っていた。
 きっと,人生の面白い経験なんて,こういうことの積み重ねが差になってくるのだろう。
 人生なんて,死ぬまでの暇つぶしに過ぎない。どうして,地位をもとめる哀れな人たちは,みんな偉そうに権威を振りかざしたり,深刻ぶって仕事をしたりしているのだろう。5年前,一度,仕事をやめたとき,しみじみとそう思った。その気持ちは,今のほうが,もっと強い。
 自分には,やりたいことが一杯ある。だから,そんなくだらないことに時間をかけたり,中身がないからこそ地位にこだわるしかないような,そんなくだらない人たちを相手にしたりしている時間はないのだ。

 とにかく,当初予約してあったデトロイト便,名古屋-デトロイト間の時間がかかりすぎる。それに,デトロイトで次のフライトまでの待ち時間が5時間以上もあるので,変更してもらえるなら大歓迎だった。
 聞いたところによると,変更して,関西国際空港発シアトル行きになるのだそうだ。
 当初は,「名古屋-デトロイト-ミネアポリス-ラピッドシティ」。それが,「大阪-シアトル-ソルトレイクシティ-ラピッドシティ」になる。この方が距離的にもうんと近いではないか。当然,当初の予定より遅く出発しても,到着は30分以上早い。さらに,大阪-シアトルはビジネスクラスに変更になって,しかも,おまけに200ドルのクーポンと20ドルの食事券が付くということだ。こんなよい話はそうあるものではない。
 ということで,早速,変更の手続きをしてもらった。
 関西国際空港への行き方を教えてもらって,それに従って,また,中部国際空港から名鉄特急で名古屋に引き返し,新幹線で新大阪まで行き,特急はるかに乗り継いで,関西国際空港に行くことになった。
 この移動にかかる費用は,後日返金してくれるという話だ。
 それはそれとして,気安く変更を受け入れたけれど,大阪へ行くだけの日本円の持ち合わせがないのだった。こういうこともあるので,日本円を多少多めに用意しておけばよかった,と一瞬思ったが,よく考えてみると,クレジット払いでJRのチケットが購入できるので,別段何事もないのだった。名古屋駅で,一番早く関西国際空港へ行く乗車券を下さい,と言ってチケットを購入して,早々に新幹線に飛び乗った。

 名古屋を出発した新幹線の車内からは,出発して5分もしないうちに,早朝に出た自宅が車内から眺められて,自分はいったい何をやっているのやら,と,おかしくなった。家を出て3時間もたったのに,まだ,出国どころか,自宅に戻ってきてしまったみたいだ。
 やがて1時間もしないうちに新大阪駅に到着した。新大阪駅で,NHK交響楽団のコンサートマスターの堀正文さんを目撃した。そういえば,新幹線の車内にもバイオリンを持った女性が乗っていた。彼女もN響の団員かもしれない。N響は,この時期,大阪でのコンサートツアーだ。
 それやこれや,ビジネススクラスに変更になったり,意外な人に遭遇したりと,今回も強運だらけだった。はじめからいろんなことがあって,面白い旅になりそうだ。
 新大阪で,特急はるかに乗り換え,初めて見る新大阪から関西国際空港への車窓を楽しみながら,中部国際空港から2時間もしないで,関西国際空港に到着した。午後1時頃のことだった。

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 ほとんど情報のない州ノースダコタを一度訪れて見たいという気持ちは以前からあった。でも,わざわざ行くべきかどうかずいぶんと迷いもあった。
 歳をとって,今行かないともう行く機会がないのではないか,という思いが強くなって,いよいよ行く決心をした。
 ノースダコタ州だけではと思い,調べるうちに,サウスダコタ州も含めれば素敵な旅行ができるようなので ―とはいっても,計画を立て始めた頃は,ノースダコタ州はもちろんのこと,サウスダコタ州のこともほとんど知らなかったのだけれど― 今回は,このコースで旅行をすることにした。
 実際に体験したノースダコタ州は,とてもすばらしいところだった。
 何より,雄大な景色がいい。のどかさがいい。人の少なさがいい。ツアー客がいないのがいい。
 この地にあったのは,本当の大自然と,西部開拓時代から続く本当のアメリカ人の生活だった。そして,観光客がいないので,自分が,そんな姿を独り占めにできる喜びや,この地を知らないほとんどの人たちに対して自分がそれを知った優越感だった。
 いずれにしても,本当に,行ってよかった。

 こんな経験をしてしまうと,日本国内は無論のこと,他の国のどこの景色も観光地も ―グランドキャ二オンすら― 「ちんけ」に思える。この夏,信州や北海道へ行く人も,海外旅行で観光客だらけの香港だの韓国だのと出かける人たちも哀れにしか思えない。申し訳ないけれど。
 これは,喜ぶべきか悲しむべきか。
 いずれにせよ,今回の,このひとり旅は,これまでの自分の人生最大の思い出となった。
 こうして,思い出してみると,この地を,もっと多くの人に知ってほしいという気持ちと,その反面,知ってほしくない,自分だけのものにしておきたいという気持ちが入り混じり,複雑な心境になる。

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 最上川逆白波のたつまでに
  ふぶくゆふべとなりにけるかも
   「白き山」斎藤茂吉
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 山形生まれの歌人斎藤茂吉の最後の歌集「白き山」に収録されたこの歌は、終戦当時に疎開していた大石田の知人宅で,病中の孤独の中でつくられた晩年の代表作だといわれています。
 大石田あたりのゆったりと流れる最上川にさえ白波のたつ吹雪の冬。この歌は,老歌人の心がそんな厳しい情景をくっきりと描かせているといいます。
 今日の東北の寒さを感じさせるようです。東北の人たちに,どうか,幸せが訪れますように。

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 青春とは,明るい。華やかな,生気に満ちたものであろうか。
 それとも,もっとうちぶれて陰鬱な,抑圧されたものであろうか。
   「どくとるマンボウ青春記」北杜夫
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 歌人斎藤茂吉の子北杜夫は,旧制の松本高校を卒業し,医師でありながら作家として大成しました。「どくとるマンボウ青春記」で,北杜夫は,独特のユーモアを交え,自分の青春を振り返るのです。
 松本で,日本アルプスの雪景色を眺めると,北杜夫の思いとともに,いつも,この本の冒頭を思い出します。

 この本の最後は,次のように締めくくられています。
 医師国家試験を前にしても相変わらず恥じ多き怠惰な日を送っていた杜夫は,父茂吉の死の報知を受けたのでした。そして,東京へ戻る夜汽車の中で茂吉の歌集「赤光」をあてもなく開いて過ごしながら,こういう歌を作った茂吉という男は,もうこの世にいないのだな,もうどこにもいないのだなと幾遍も繰返し考えたのです。そのとき,杜夫のカバンの中には,自分の最初の長編「幽霊」のかなり分厚い原稿が入っていたのでした。
 母の死をうたった歌によって誕生した茂吉の「赤光」,その茂吉の死が語られる「どくとるマンボウ青春記」。
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 「どくとるマンボウ青春記」を書いたその北杜夫もすでに亡く,青春という言葉さえも不似合いな時代となってしまいました。今,私の手元には,「人はなぜ追憶を語るのだろうか」からはじまる「幽霊」の,歴史を重ねて黄色くなってしまった古い文庫本があります。小さな一冊の本は,そうした,歌人と作家の人生の重さを今も無言で語りかけているのです。
 旅と読書は,人生を豊かにします。季節の移り変わりが,日々の生活に彩りを与えてくれます。
 そして,いつの日か,人は追憶を語るのです。

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 秋の大和路は,独特な静寂と張りつめた空気にも何かしらの優しさがあります。奈良公園を南に向かって歩くと,新薬師寺から入江泰吉写真美術館に至る小径が旅情に彩りを添えます。
 入江泰吉は昭和時代の写真家で,主に,大和路の風景や仏像などの写真を撮り,高い評価を受けました。
 その入江泰吉の写真を間近に見ることができる美術館は,忘れていた昔の土のにおいや人の温かさとともに,心の中に何とも言えぬ幸せをもたらしてくれます。きっと,誰よりも古の大和の美しさを知り,それを愛した入江泰吉がその生涯をかけて写した写真には入江の命が宿っているのでしょう。

 古都大和には,古来,こうした多くの人々の心が,写真として,あるいは,絵画として,また,歌として,そして,文学として,残されています。
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 冬木成 春去來者 不喧有之 鳥毛来鳴奴
 不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取
 草深 執手母不見
 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曾思努布
 青乎者 置而曾歎久 曾許之恨之
 秋山吾者
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 冬ごもり 春さり來れば 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ
 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず
 草深み 取り手も見ず秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ
 青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし
 秋山そ我は
   「万葉集」巻1・16 額田王
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 この歌は,天智天皇が藤原鎌足に春と秋とどっちがすぐれているかを歌で競わせたときに額田王が歌で意見を示したものです。
 春が来ると鳥がさえずり花が咲きます。けれども,山には木が生い茂り入っていって取ることができません。秋山は紅葉した木の葉をとることができていいなあと思います。ただ,まだ青いまま落ちてしまったものもあってそれを置いて溜息をつくのが残念ですけれど。でも,私はそんな秋を選びます。といった意味です。
 この歌の最後「秋山〈そ〉我は」がなんとも素敵ではないでしょうか。「秋山そ」私はこの〈そ〉の音に,なまめかしさとともに深い味わいを感じるのです。
 秋の大和路を訪れると,そうした秋山を踏みしめることができます。秋の大和路には,ススキと柿の実をつけた樹木がよく似合います。そんな小径を歩いていると,今も,古人の息遣いが聞こえてくるような気がします。

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 2011年の夏のある晩,ヘルベルト・ブロムシュテットさんの指揮するNHK交響楽団の定期公演を聴きました。
 ヘルベルト・ブロムシュテットさんは,84歳になる,NHK交響楽団の名誉指揮者です。ここ数年,演奏に深みが増して,その演奏は常に至極の喜びを味わうことができます。その指揮は,その人柄どおり,音符の1音1音を丁寧に再現しながら音楽に魂を吹き込んでいくものですが,そこから奏でられる音楽は,巨匠という名にふさわしい感動を与えます。まさに名人芸です。
 今回の曲目は,竹澤恭子さんがヴァイオリンを弾いたシベリウスの協奏曲とドヴォルザークの新世界交響曲でした。
 音楽は,心の中に沁み渡り世界を支配します。特に,この2曲は,あるときは,人間の力の及ばない無限の世界を暗示し,また,あるときは,どこかで味わったことがあろう哀愁感を呼びさますといった貴重な時間を与えてくれたのでした。

 そのような演奏に接していると,数年前の,ある思い出が蘇ってきます。
 それは,2013年2月22日,惜しくも亡くなったNHK交響楽団桂冠名誉指揮者ウォルフガング・サヴァリッシュさんの,このマエストロの演奏にあと何回接することができるだろうかとだれもが感じはじめていたころの貴重な来日演奏会のことです。ステージにその姿が現れると,まだ,演奏前だというのに,会場内は異様な感動につつまれ,やがて,シューマンの第4番交響曲の指揮棒を静かに振り下ろしたとき,最初の1音で,観客は流れる涙を止めることができなくなってしまったのでした。目を閉じると,今も,そのタクトを振り下ろすマエストロの姿が私の脳裏で再現されて,この1音が,確かに,聴こえてくるのです。
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 音楽にその生涯を捧げたとき,ミューズは,人のこころに宿るのです。あの夏の夜も,そんな静かな,そして,何物にも替え難い感動に包まれて,こころが一杯になって,家路についたものでした。
 作曲家ロベルト・シューマンは19世紀のドイツロマン派の作曲家で,4つの交響曲をはじめ,優れた音楽をたくさん残しました。晩年は不遇で,もともとの躁鬱と精神的疲労や精神障害でライン川に投身自殺を図ったものの助けられ,その後は精神病院に収容され,回復しないまま死去しました。

 シューマンといえば,奥泉光さんの書いた「シューマンの指」という小説があります。
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 シューマンに憑かれた天才美少年ピアニスト永嶺修人と彼に焦がれる音大受験生の「わたし」。卒業式の夜,彼らが通う高校で女子生徒が殺害され,現場に居合わせた修人は,その後,ピアニストとして致命的な怪我を指に負い,事件は未解決のまま30余年の年月が流れていきます。そんなある日,「わたし」の元に修人が外国でシューマンを弾いていたという「ありえない」噂が伝わり…。
  ・・・・・・
といった内容です。作品の中で,永嶺修人は繰り返し言います。
 音楽は必ずしも「音」にならなくてもよいのだ。
 本は,音を奏でることはできません。でも,この本を読んでいるうちに,どうしてもシューマンが聴きたくなる気持ちに誘われるということは,この1冊の本の中に,確かに音楽が存在しているのだといえるのかもしれません。

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