中央道が伊那谷を通るようになってから,国道19号は,岐阜県と長野県の県境を越えたあたりから,めっきり地方道になってしまって,逆に,旅情を感じさせます。 そうした国道19号線を北上すると,やがて,奈良井の宿にたどり着きます。
奈良井宿は、中山道34番目の宿場です。 ここの宿場町は,江戸時代の雰囲気が今も大切に保存されているので,時折,ドラマのロケやテレビのCMで見かけるのですが,そこが奈良井であるということが結構控えめにされているようで,なんだか,それを知っている人は,ホッとしたりもします。
そんな奈良井宿の木曽大橋の近くに,「カフェ深山」という古民家カフェテラスがあります。
大正時代の製材工場の事務所を移築復元した太い柱や梁が特徴の古民家で,「100年前のライスカレー」が看板メニューです。これは「家庭之友」1903年(明治36年)1巻5号に掲載されたレシピを再現したものなのだそうです。
鳥のさえずりを聞きながら,そして,木立のさわやかな風を感じながら,ここでのんびりと過ごすのは,考えてみれば,ものすごい贅沢なのかもしれません。
奈良井宿といえば,NHKの朝ドラ「おひさま」のロケ地でもありました。
岡田惠和さんが脚本を書いた朝ドラは「ちゅらさん」「おひさま」。ともに見ている人を元気にするドラマでした。「女性たちよ,よき人生を」というのがテーマであったように思います。
・・
長野県安曇野でそば店を営んでいる主人公の須藤陽子。彼女が,様々な喜びや悲しみと,そして人の心の温かさに支えられた自分の人生を語ります。
いつも彼女を支えたのは、若くして亡くなった陽子の母が残した
「つらいときも,笑うのを忘れないで。女の子は太陽なのよ」
という言葉でした。
「おひさまはね、誰の力も借りないで自分の力で輝いているでしょ?だからね,陽子,どんな辛いことがあっても笑うの。笑うのを忘れないで」
・・
最終回,自分とかかわりのあった人たちについて,陽子は次のように語ります。
「みんなそれぞれに幸せだったんじゃないかしら」
人の幸せは,自分らしく生きぬいた人のそれぞれの心の中に,平等に宿るのです。
May 2013
2012アメリカ旅行記-すばらしきノースダコタ③
道路はまだ延々と工事中ではあったけれど,それでも,相変わらず雄大なことに変わりはない景色を眺めながらさらに進んでいくと,州道22は,やがて行き止まりとなり,東西を通る州道23とぶつかった。
この道を左折して西へ行かなくてはならないのだが,まだ,時間に余裕があったので,ひとまず反対側に右折して,ニュータウンという名前の町まで行ってみることにした。
右折すると,すぐに大きな湖が現れて,長い橋がかかっていた。
これがサカカウェア湖だった。
湖畔には,野生動物保護区や公園やリゾート施設があった。橋の手前にはインディアンに関する役所があったり,湖畔にまで降りられる道があったりした。
私は,ここにあったガソリンスタンドで車を止めて小休止した。飲み物を買ってから再び出発して,橋を渡ってさらにしばらく走ると,ニュータウンという小さな町の賑わいに出た。
道路の両端に駐車帯のあるこの場所が,ニュータウンのダウンタウンなのだろう。
銀行やら,スーパーマーケットやら,ガソリンスタンドやらがあった。でも,ここもどうやらそれだけの町だった。
ここで引き返し,州道23を西に進むことになった。
改めて逆の車線から外を見ると標高が高いところから見下ろす形になって,橋が湖に溶け込んでいて,すばらしい景色だった。
そのような州道23を進んでいくと,この道は,その後,一旦南下をして,ふたたび西に逆L字型にもどった。そのまましばらくしたら,ワットフォードシティという町に着いた。
もう少し先まで行けば,今,シェール石油開発で人が押し寄せ,泊まるところもないと日本のNHKBSの番組で放送していたウィリストンという町にたどり着くはずだ。
ワットフォードシティにも大きな石油会社があって,州道23は石油を運ぶトレーラーで一杯だった。
このワットフォードシティで,さらにウィリストンをめさして西に進む州道23を離れ,左折して,進路を南に取り,今度は国道85を走る。
そうして,しばらく行くと,右手西側に,延々と,バッドランド国立公園で見たのと同じような風景が広がり始めた。
これがテオドア・ルーズベルト国立公園だった。
吉田秀和の贈り物-永遠に生き続ける音楽
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NHKFMの「名曲のたのしみ」は,1971年の4月から始まり,吉田秀和の死によって2012年12月で終了しました。今回,放送した内容が「名曲の楽しみ,吉田秀和」として,5巻にまとめられて出版されることになりました。その第1巻は「ピアニストききくらべ」。
本にはCDが付属していますが,音楽は録音されていません。でも,生前にマイクの前で,朴訥と,しかし知性と愛情のある語り口で話された内容を改めて活字として読んでみると,心の中に,確実に,音楽が聞こえてきます。
私は,この本に書かれたピアニストの幾人かの演奏を生で聞いたことがあります。
アルゲリッチ,ムストネン,小菅優,河村尚子,ユンディ・リ,ユジャ・ワン。何事でもそうですが,その道に優れた人は,その個性が引き立っています。それぞれの人たちは確かにその人でしかありえない抜群の存在感があります。それぞれのピアニストの,その人にしか奏でられない音楽が,どうして,吉田秀和の手にかかると,その文章から,音としてよみがえってくるのでしょうか。
たとえば,ムストネンのところには,
・・・・・・
僕が特におもしろいと思うのは,音楽の解釈に自分の考えっていうものがはっきり出てるんですね。それでいてちっとも独断的にきこえなくて,歯切れのいいピアノをひいている。
・・・・・・
と書いてあります。
それだけです。それだけであるのに,そのことばだけで,それを読んでいる頭の中に,ムストネンの,ピアノに向かう姿やら,そのときの音楽やらが,頭の中で,はっきりと姿を見せ始めるのです。
この本を読んでいると,ああ,そうなんだ。人が生きているということは,こういうことなんだなあ,としみじみと感じます。また,ひとつ,大切な宝物を手に入れました。
ふかきたのみは色にみゆらむ-茜さす紫に染まる大田ノ沢
5月30日の天声人語に
・・・・・・
五月雨に花橘のかをる夜は
月すむ秋もさもあらばあれ
・・・・・・
という崇徳院が読んだ歌が紹介されています。
この歌は「千載和歌集」に収められているもので,梅雨どきの橘の花が香る夜は,月が輝く秋でさえもさえどうでもよいほど趣があるようだ。といった意味です。
千載和歌集には
・・・・・・
五月雨に浅沢沼の花かつみ
かつ見るままにかくれゆくかな
・・・・・・
という藤原顕仲朝臣の歌も収められていますが,この歌の中の「花かつみ」というのは,花ショウブのことだそうです。
この季節は,空気がやさしくて,のんびりと散歩をしていると,心から幸せを感じます。
そうした散歩道のなかでも,とりわけ,京都の上賀茂神社から東に少し歩いていく小道は,明神川に沿って賀茂の社家が並び,京都ならでは気品を感じさせてくれます。その先には大田ノ沢があって,カキツバタ約25,000株が自生しています。花橘の香るこの時期には,カキツバタは濃淡さまざまな紫色の花をつけます。ここは平安時代からの名所とされていて,尾形光琳の「燕子花(かきつばた)図」のモチーフになったとの言い伝えもあるそうです。
先に紹介した千載和歌集の編者もある藤原俊成は
・・・・・・
神山(こうやま)や大田の沢のかきつばた
ふかきたのみは色にみゆらむ
・・・・・・
と詠んでいます。
こうして詠われているように,花ショウブやカキツバタは,決して派手ではなく,自分を主張していないけれど,人々の心を温かくしてくれます。そして,紫のしっかりした色彩が,芯の強さを感じさせて,勇気を与えてくれるのです。
もう少し季節がすすむと,梅雨空が,乾いた空気を湿らせます。そうして,今度は,アジサイが鮮やかな色どりを添えて私たちを和ませてくれるようになるのです。
2012アメリカ旅行記-すばらしきノースダコタ②
早朝,ここにホテルを確保したことは,結果的に大正解 -メドナに泊まればもっとよかったのだか- であった。
・・
きょう1日でノースダコタ州のどこまで行くことが出来るかを地図を見ながら考えてみると,まだ朝早いので,ここディキンソンから州道22をそのまま北上して行けば,ノースダコタ州の中央部にあるサカカウェア湖畔にまで足を伸ばせそうだった。
そうして,そのあたりまで行ったら進路を西にとってワットフォードシティという町まで行って,今度は南に進路を変更して,コの字型にルートをとり,州道85を下れば,ちょうど,テオドア・ルーズベルト国立公園のノースユニットのゲートに到着し,さらに南下して,インターステイツ94のベルフィールドまで戻ってくれば,その西にあるメドラに着く。
メドラには公園のサウスユニットのゲートがある。
…そうしたコースが作れることがわかった。
そこで,ディキンソンからインターステイツ94を横切って,州道22をひたすら北上することにして,車に乗り込んだ。
きょうは平日。ディキンソンはちょっとした通勤ラッシュの真最中だった。町の北側に大きな会社があるようで,車線を広げている工事中の州道22はただでさえ走りにくいのに,やたら会社の駐車場に入れるために右折する車があるようで,渋滞気味だった。
それでも,その地点を過ぎると,あっという間に市街地は終わって,また,一面に牧草地が広がるようになった。遠くに見える黒い点の集まりは牛の群れだ。
サウスダコタ州との大きな違いは,石油だった。
一面の牧草地に時折見えるのは,石油を採掘する旧式の井戸。そして,ひときわ目立つのが,シェール層から石油を発掘する新型の掘削タワーと採掘した石油をストックするのであろう石油タンク群。
ノースダコタ州の西部からモンタナ州,そしてカナダに広がるバッケン油田は,シェール層という岩盤に大量の石油が眠っているということだったが,石油の高騰と技術の革新で,不可能であるとされてきたシェール層からの石油の採掘が採算的にも可能になって,現在,オイルラッシュの真只中。
労働者が全米から押し寄せ,ノースダコタ州は好景気に沸いている。失業率は1パーセント以下である。
アメリカは石油の輸出国に転換するということだ。
うわさには聞いていたけれど,本当に目の当たりにすると,なぜかものすごく感動する。
そんなわけで,道路も拡張工事中ばかり。道路工事用のトレーラーと石油を積んだトレーラーが頻繁に通過する。とはいっても土地は広く,道も広いので,雄大な景色に変わりはない。
さらに,なお,延々と平坦な景色が続いて,それでも,日本ではこんな景色は見たことがないので,いつまでもいつまでもずっと感動しながら走っていくと,やがて,本当にしばらくして,州道22がリトルミッスーリ州立公園に近づいたころ,急に景色が変わり,地層の連なりが脈々と見えるビュート,そして,奇妙な形の山並みが続く,まったく別の風景になった。この景色であれば,日本なら超一流の国立公園だ。
道も,これまではまっすぐだったのが,谷をぬうように曲がりはじめた。
確か1年ほど前,このあたりは水禍に見舞われたところである。このあたりの道路工事は拡張工事か,はたまたその復旧か。
その先も,延々と,そうした景色が続いていたが,やがて,しばらくして,ようやく,大きな川の見えるところまで来た。
2012アメリカ旅行記-すばらしきノースダコタ①
☆5日目 7月25日(水)
朝5時起床。ホテルに朝食コーナーがあったので,とりあえず,シリアルとコーヒーをとる。他のお客さんが来て,雑談をする。彼女は,私を,時間をつぶしているホテルのフロントマンと勘違いしていたようだった。
朝食を終えて,部屋に戻って,バッグを車に入れ,チェックアウトをする。とはいえ,フロントには誰もおらず,フロントの机の上には部屋のキーが一杯ちらばっていたので,同じようにキーを置いて,勝手にチェックアウトをした。
まだ,午前6時だというのに,どの客もチェックアウトが早い。観光施設もほとんどない町でのんびりしていても,どうしようもないから,みんな先を急ぐ。給油地のような町だ。
国道85に沿って進む。町の北のはずれに,博物館という小さな建物があったが,何が展示されていたのかは,行かなかったのでわからない。
きょうは1日,ノースダコタ州をまわれるだけまわろう。そして,最終の目的地はノースダコタ州の一番の観光地だというメドラであるが,どういうところか想像がつかない。
まず,ノースダコタを東西に走る主要道路インターステイツ94を目指すことにして,ともかくこの国道85をインターステイツ94の走るベルフィールドという町まで北上した。
はじめは晴れていたが,しばらくして,あたり一面霧になった。車の窓からは何も見えなくなった。
朝霧は晴れという。きょうも天気に恵まれそうだ。
あたり一面真っ白な中を,道の黄色線だけを頼りに慎重に走る。
時折,すれ違う車のライトと,前を走る車のバックライトだけが妖しく光る。
本当に,ずっと真っ白いだけの不思議な世界が続く。時折,霧のはれたところにきて,一瞬,きのう見た大平原と牧草の緑色があざやかになるが,また,すぐに,真っ白な世界に舞い戻る。
そんな,真っ白な世界が永遠に続いている。
本当に本当にしばらく走っていくと,やっとのことで,霧が晴れわたる。すると,夢から覚めたように,緑色の色彩に目を奪われた。そして,牧草地に道だけがまっすぐに伸びる,そんな,これまでの風景に舞いもどった。
この道を,また,しばらく走ったら,やがて,遠くにベルフィールドの町が見えてきて,右手前方にモーテルがあった。そして,そのはるか向こうに,ノースダコタ州を東西にまっすぐ横断するインターステイツ94が走っているのが見えてきた。
インターステイツ94に沿った町で,きょうの宿泊先を探そうと思った。といっても,ホテルのありそうな町は,この国道85とインターステイツ94が交差するベルフィールド,その東のディキンソンくらいだった。その次は,もう,ビスマルクになってしまうので,きょうの目的地のメドナからは遠すぎる。
確かにベルフィールドにはモーテルが存在したが,なぜか宿泊する気が進まず,次の大きな町であるディキンソンを目指し,インターステイツ94を東に走ることにした。
午前8時ごろ,ディキンソンに到着した。この町も,例によって,インターの近くに数件のホテルやガソリンスタンド,そして教会や学校,住宅地がある町だった。町の中の道路はどこも工事で,車線の規制があって走りにくかったが,ともかく,一番手前にあった「スーパー8」に入る道を見つけてなんとか右折して,ホテルの駐車場に車を止めて,フロントへ行った。
ノンスモーキングのシングルという条件の部屋が空いていないかと聞いたが,部屋がないということを言われた。親切なフロントのおばちゃんは,隣のホテルに聞いてみるといって電話をかけてくれた。
道の向こう側に,「セレクトイン」というホテルがあって,そこには希望の部屋があるということだったので,そこまで道を横断して歩いて行って,ホテルに入ると,すでに連絡を受けていますといった顔をしたフロントの男性がチェックインの手続きをした。結構値段が高かったが,仕方がない。
石油ブームでノースダコタ州はホテルが取れないという話は,まんざらうそでもないようだった。
もう,部屋に入っていいということだったので,とりあえず,部屋にカバンだけ入れて,改めて出発だ。
2012アメリカ旅行記-これまでの経路を振り返って
ノースダコタ州に到着したところで,この旅の経路を説明してみよう。
すでに書いたように,行きは関西国際空港からシアトル,ソルトレイクシティを経由して,サウスダコタ州ラピッドシティに到着した。
日本からアメリカに入国するには,直行便ならば,現在,成田国際空港,羽田国際空港,中部国際空港,関西国際空港からの便がある。
成田国際空港からは,シアトル,ポートランド,サンフランシスコ,サンノゼ,ロサンゼルス,サンディエゴ,デトロイト,ダラス,ヒューストン,デンバー,アトランタ,シカゴ,ボストン,ニューヨーク,ワシントンDCへの直行便がある。
羽田からは,シアトル,サンフランシスコ,ロサンゼルス,ニューヨークへの直行便があるが,日本の出発は深夜になる。
また,関西国際空港からは,シアトル,サンフランシスコ,そして,中部国際空港からは,デトロイトへの直行便がある。
とりあえず,アメリカにたどり着きたいのなら,関西方面であれば,関西空港からのシアトル便が絶対おすすめである。なにせ,近い。中部国際空港からのデトロイトは,時間がかかることが最大の欠点だ。
上記の直行便のある大都市へ旅行する以外の都市に行くのなら,到着した空港から乗り換える必要がある。乗り換え時間は結構かかり,6時間待ちくらいは普通のことだと思ったほうがよい。
また,アメリカの国内便は,日本語が通じることは決してないと思ったほうがよいので,旅慣れていない人には,ものすごい勇気が必要であろう。また,アメリカの空港はやたら広いので,乗り換え方法をしらないとえらいことになる。
写真はソルトレイクの空港であるが,空港内を歩いて移動すると1時間くらいかかることもある。そして,たいていは,乗り換えをすると,目的地への到着は夜遅くになってしまう。
ネット上にも,シカゴへ深夜に到着して,ダウンタウンに安全に行く方法はないか,といった書き込みを見かける。私も,シカゴに深夜に到着して,電車でダウンタウンに向かったことがあるが,気持ちのよいものではなかった。そのときの車内は,お互いがお互いを「怪しげに」思っていた乗客ふたりが,結局,話しかけて,お互いほっとして,ダウンタウンに到着した思い出がある。
一番楽な方法は,どこであれ,到着した空港でレンタカーを借りることなのだが,ロサンゼルスのような都会では,空港にはレンタカーのオフィスがなく,外に出て,無料のレンタカーのシャトルバスでレンタカーの営業所に行くことになって,それがわからず,心配になることもある。
今回のように,ラピッドシティとか,この後に旅行記に登場するノースダコタ州都のビスマルクのような小さな都市の空港に降り立てば,人も少なく,レンタカーも空港に直接カウンターがあって,とても便利なものである。
今回は,サウスダコタ州のラピッドシティという小さなとても美しい街を拠点に,サウスダコタ州の観光を行い,その後,レンタカーを借りて,北上して,ノースダコタ州に入った。
直接,日本からノースダコタ州に行くには,おそらく,ミネアポリスでビスマルク便に乗り換えることになるであろう。そうすれば,結構容易にノースダコタ州へ行くことができるのだが,それ以後は,レンタカーを借りる以外どこかへ出かける方法はない。
この旅行記にもあったように,サウスダコタ州であれば,日本語のできるツアーコンダクターさんもいるし,現地のグレイラインツアーなどもある。しかし,ノースダコタ州の観光旅行を取り扱っている日本の旅行社なんて,絶対に存在しない。日本のどの旅行社にも,ノースダコタ州の情報などないであろう。
さて,いよいよ,次回から,ノースダコタ州の旅がはじまる。
はたして,ノースダコタ州は,どんなところだったのだろうか?
2012アメリカ旅行記ーついに北上開始④
「ウェルカム・ノースダコタ州」の看板の前が広場になっていて,そこで写真を撮る。
ノースダコタ州ではじめて見た風景は,これまでみたことがない地の果てまで続く一面のひまわり畑だった。そして,遠くには,石油を採掘する井戸がいくつも見えた。
車にもどって,さらにしばらく走ると,また,これまでと同じ景色になって,やがて,そして,また,それからかなりたって,やっと,民家やらサイロやらが目に付くようになったころ,ボーマンに到着した。午後6時を過ぎていた。
ここでホテルを探すことにした。
ボーマンという町は交通の要所で,東西を横切る国道12と南北を横切る国道85の交差するところ。半端な長さでないトレーラーが何台も轟音とともに走り抜ける。町は西に観客席のあるスタジアムが唯一のレジャー施設か。それ以外は,国道沿いにガソリンスタンドと売店,いくつかのモーテル,そして,民家・病院・教会・学校があるだけの小さな町だった。
国道85はこの町で少しだけ国道12と同じになって東にずれて,再び進路を戻し,住宅地の中を不似合いに通りぬけて北上を開始する。
町の広さを把握しようと,国道85に沿ってゆっくりと進んでいくと,すぐに町を過ぎてしまい,再びまっすぐな道が続くだけになった。
町に引き返すと,国道12と国道85の交差するところに,よく見ないとわからないほど小さな観光案内所があったので,車を止めて中に入ると,年取ったおじさんが出迎えてくれた。
ノースダコタ州の地図 ―詳しい地図すら持っていなかった― をやっと手に入れて,ボーマンにあるホテルの情報を聞く。
この案内所の南にある「ノースウインズロッジ」というのが一押しだというので,案内所を出てから行ってみたが,すでに空室なしのネオンサインが光っていた。
仕方がないので,少し先の「スーパー8」というホテルへ行ってみる。あまり,きれいでないが,どこでもいい,きょうの宿泊先を確保するのが第一だ。
フロントで部屋があるかと聞くと,あるというので,泊まることにする。フロントのお兄さんの話では,今はシーズンなので,このあたりのホテルはどこも空き部屋なんてないよ。ここで部屋があったのはラッキーだ,ということだった。「このあたり」がどこまでの範囲を言っているのか皆目見当がつかないが,あすからのことを考えると,かなり心配になる。
こんなことは,これまでではじめてだった。シーズンのフロリダでも部屋はあった。
ともかく,チェックインをして,荷物だけを置き,ホテルを出て,徒歩でボーマンの小さな町を歩く。
この町もホームレスは皆無で,民家は,どれも大きくきれいで,車が3台も入るくらいのガレージと清潔な平屋の住居,庭は緑の芝生にしめつくされ,深い木々の緑に覆われた,どこにもあるアメリカの平和な住宅地だった。そして,ここの町にも,町はずれの一角にトレーラーハウスの集落があった。
そんな住宅地が終わる頃,この町でたった1軒であろうと思われるファミリーレストランを見つけたので,夕食をとることにした。他の客は,ド田舎のおじさんやおばさん風ばかりだった。店員さんの英語のなまりがかなりつよい。えらいところに来たように感じた。
食事をとって,再び住宅街を散策するが,少し雨が降ってきたので,早々にホテルに引き上げた。
きょうも,エキサイティングな1日だった。とにもかくにも,ここはノースダコタ州である。
明日は,早朝にホテルを出発して,まず,泊まるホテルを確保しよう,と思った。
2012アメリカ旅行記-ついに北上開始③
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ルートは,インターステイツ90を西に引き返し,ラピッドシティを越え,ホワイトウッドまで行って,州道34に入り,ベル・フォーシェイという町で国道85に乗ってどんどんと北上して,そのままノースダコタ州に入るというものだ。
だが,これ以上の情報がない。サウスダコタ州の公式ガイドブックにも何も書いていない。事前に調べたところでは,どうやら泊まる施設がありそうな町は,途中の,スピアフィッシュとベル・フォーシェイ。この町を過ぎたら,サウスダコタ州にはもう町はないので,覚悟を決めてノースダコタ州まで走らなければならず,ノースダコタ州に入ってからも,しばらくしてボーマンという町に達したときにホテルが数件あるくらいらしい。
地図を見ても,南北に,定規で引かれたかのような,ひたすらまっすぐに伸びる道があるだけだ。
インターステイツ90を西にスピアフィッシュまで行って,その町で北に進路を変えて国道85に入るのではなく,予定通りにスピアフィッシュの手前のホワイトウッドという町で北西に走る州道34に入って,ショートカット,つまり近道をしてベル・フォーシェイという町まで来たので,スピアフィッシュという町は通らなかった。
したがって,宿泊先の第一候補はベル・フォーシェイだ。この町には確かにモーテルは存在した。予想よりも広い町だった。まず,そこではじめてガソリンを入れた。7.18ガロンで26ドル(約1リットル96円)だった。
まだ午後4時。ラピッドシティを過ぎたあたりで一度雨になった天気はすっかり回復しているし,早いので,ここで宿泊する気にはならず,ノースダコタ州までひたすら走って,ノースダコタ州のボーマンまで行くことにする。
こういう決断が,ときに墓穴を掘ることになるかもしれない。以前,カナディアンロッキーを走ったとき,夜遅くまでホテルが見つからなかったことを思い出して,きょうは大丈夫かな? と思った。
ところが,このあとに走った国道85が,とにかくすごかった。というか,すばらしかった。
とにかく,想像を絶していた。
目に入る景色は,まっすぐにつながる道と遠くに見えるビュート(小高い山)。それ以外は牧草地帯。他に何もないというものだったのだ。すれ違う車もほとんどないのだ。ときおりすれ違うのは,巨大なトレーラーや農作業用の車だけだった。これが1時間以上にわたって続いていたのだ。
まだ,サウスダコタ州である。この先にノースダコタ州があると考えるだけでも,これはいったいなんだという気持ちになった。
遠くに地平線が延々と横たわる。道は,少し起伏があって坂を上ることがあると,上りきったあとで再び下り坂になったとき,眼下に,先ほどのような風景が,延々と果てしなく続いて見える。
この景色を見ただけでも,本当に,「何もない」ということがどういうことか実感できる。
「何もない」というのは,とても神秘的な,そして,感動的な風景だった。
そして,やがて,果てしなく続く,こうした道を,いつまでもいつまでも進んでいくと,やっと,ノースダコタの州境になった。
ついに,念願のノースダコタ州に到達した。
2012アメリカ旅行記-ついに北上開始②
ドアトレイルの次は,はしごを登るトレイルを行くといいと高木さんから聞いていた。
途中にはしごのあるのはノッチトレイルという名のトレイルだということがわかったので,そのトレイルを行く。少し進むと,考えが甘かったことに気がついた。ノッチトレイルはえらく大変だった。
はしごがあるとのことだったが,そこまでの道のりも簡単なものではなかった。第一,ドアトレイルの華やかさに比べて,歩いている人がほとんどいない。次第に,トレイルは,道なき道になる。初めてすれ違った若者に,この先どのくらいあるのかと聞くと,1.5マイルくらいかな,この先クライミングもあるし,エキサイティングだ,でも,楽しいトレイルだ,と言ったので,本当にどうしようかとも思ったけれど,ここまで来て引き返しても後悔するだろうし,そのまま道があるようなないような,時折,行き先の表示だけがある断崖絶壁のような道を,慎重に進む。やたらと暑いし,足場は悪いし,たいへんだった。
やっとあったはしごを延々と登って,でも,登った後も結構長かった。
すると,山の迫った平原のような異様な景色が広がった。
不思議な気持ちがした。
ここの景色は,いつか見たことあるぞ。それは,映画にでてきた火星の1シーンだったか? あるいは,いつか見た夢の中の景色か?
デジャブー,妙な気持ちだ。
ともかく,これは地球の景色じゃない。すごい。この景色に比べたらグランドキャニオンなんて,ほんとにたしたことないぞ,と思った。
そうして,30分も歩いただろうか。やっと終点についたら,眼下には,延々とサウスダコタ州の大地が広がっていた。絶景だった。
来た道を引き返して,やっとのことで車に戻って,汗まみれの体を冷やして,先を急ぐ。
途中のビジネスセンターのあるシーダーパスからは屏風状の岩山がそそり立っているのが見えた。その次は,フォッスルトレイル,つまり,化石の道を歩いた。
イエローマウンズのあたりから,道路が工事中となり,片側一車線の交互通行で,展望台も閉鎖されてしまっていたのは残念だったけれども,最後のピナクルズでは,どうにか展望台で車を駐車することができて,360度広がる地球創世期のような景観を味わうことができた。
公園はこれでおしまい。西側のゲートを出て北上する。やがて,ウォールに着き,ウォールドラッグをめざした。昼時ということもあり,ウォールドラッグは車を止めるのもたいへんなくらいの混雑だった。
このドラッグストアは,ウォールという小さな町のメインストリートの片側全てをこの店が占めていて,ウェスタンブーツからカーボーイハット,先住民アート,書籍,アウトドア用品と何もかもを扱っている。また,裏手には子供用の遊戯施設やら喫茶店やらがあって,昔の写真を集めた展覧会もやっていて,非常に興味深かった。
この店のことは,「語るに足る,ささやかな人生」という本に取り上げられていて,以前,読んだことがあるが,まさか,そこに本当に来るとは,そのときは思ってもみなかった。
有名なバッファローハンバーガーの食べられる食堂は満員だった。バッファローバーガーを注文するところは列ができていて ―なぜか,アーミッシュもいた― やっと自分の番になって,注文したら,中国から留学中の学生だという店員が親しげに話しかけてきた。ひとりでここのバーガーを食べにわざわざ日本から来たといったら,本当にびっくりしていた。
気のせいか少し臭みがあるような感じがしたバッファローバーガーを食べてから,ドラッグの中や周りを少し散策して,車に戻った。
さあ,いよいよノースダコタ州を目指すことにする。
2012アメリカ旅行記-ついに北上開始①
☆4日目 7月24日(火)
朝8時に,予約してあった空港に向かうシャトルバスがホテルに来るので,それまで,近くを散歩することした。
ホテルから南に500メートルくらい歩いたところにファミリーレストランがあって,朝食のセットメニューが表示されてあったので,中に入ることにした。ウエイトレスのおばちゃんも見かけは怖そうだが,話しかけるとやさしいおばちゃんだった。
朝食はオムレツとトースト。コーヒーがよい眠気覚ましになる。飲むたびに思うのだが,こちらのミルクは日本にはない独特な香りがしてコーヒーにほどよく合ってとてもおいしい。
ホテルに戻って,チェックアウトをして,フロント前で待っていたが,ほぼ定刻にシャトルバスが到着した。シャトルバスのドライバーは気さくなおじさんで,雑談をしていたら,10分くらいで空港に到着した。無線を聞きながら運転したりして,たいへんそうだった。20ドルとチップを2ドル払って,握手をして別れた。
いよいよきょうから2日間,レンタカーを借りて,ここラピッドシティからノースダコタ州の州都ビスマルクまで移動する計画であった。
ラピッドシティの空港は小さく,レンタカーのカウンタものんびりしたムードだった。すぐに手続きが終わり,キーをもらって,屋外の駐車場に止めてあった白い車へ向かった。車は,韓国製だった。数年前までは日本製品で溢れかえっていたのに,本当にどこもかしこも韓国製だらけだった。
大都市の空港と違って,レンタカーは係員のいるゲートもなく,そのまま空港から外に出ることができた。車を借りたばかりのころは,いつものことだが,イスの位置,ハンドルの位置,バックミラーの位置などが,自分の運転しやすい状態になじまず,手間どってしまうことがあるので,慎重に運転する。
今日の予定は,まず,ラピッドシティからインターステイツ90を東に1時間あまりのところにあるバッドランド国立公園へ行き,東西にのびるバットランド国立公園を東側から西側に観光して,再びインターステイツ90を西にラピッドシティまで引き返して,さらにラピッドシティを越えてしばらく西に進み,やがてインターステイツ90を離れてサウスダコタ州の西の端を沿うように北上して,ノースダコタ州をめざし,行けるところまで行くというものだ。
最も不安な材料は,今晩の宿泊先だった。とにかく,夜6時をめやすに走って,そこで宿泊先を探そうと思っていた。
空港から出て,インターステイツ90はこちらという標識に従って走ってきたが,途中で,「インターステイツ90BUSINESS」という表示にわけがわからなくなる。そうして,だんだんと,自分のいる地図上の位置もよくわからなくなってきた。なかなかインターステイツ90にたどり着かない。
今回は「BUSINESS」と表示された道路にだまされた。つまり,インターステイツ90とインターステイツ90BUSINESSは全く別の道路なのだ。ともあれ,方向的に間違っていないので,そのうち郊外に出てしまえば,道も少なくなり,なんとかなるだろうと,気にせず走っていくと,やがて,どうにかインターステイツ90にたどり着いた。
インターステイツ90は75マイル(120キロメートル)制限だった。インターステイツ90に乗ってしまえば,あとは,快調に,バッドランド国立公園をめざして東に進む。今走っているインターステイツ90が,7年前の,因縁の,事故に遭った,あのモンタナ州ビュートからつながっているということを思うと,懐かしくなった。
やがて,インターステイツ90の姿は,あたりを見回しても牧草地帯だけでほかに何もない大平原を縫うように描いていく。そうした状況が1時間も続くと,やがて,ウォールという町に近づいて,周りに住宅やら倉庫やらの建物が見られるようになった。インターステイツ90の道路際には,有名なウォールドラッグの巨大な古びた看板がいたるところで目に付くようになった。
バッドランド国立公園の帰りに,ここに立ち寄って,有名なバッファローバーガーを食べることとしよう。
ラピッドシティから約1時間,ウォールを過ぎると,南側のはるかかなたに国立公園の雄大な山々が連なっているのが見えてくる。
バッドランズ国立公園は東側から西側に抜けるコースをとることにしたので,とりあえず,国立公園の西側のアクセスポイントであるウォールから,東側のアクセスポイントであるカクタスフラットという町までさらに進む。それにしても,遠く南側にその影がみえるバッドランド国立公園は雄大だ。
やがて,カクタスフラットに着き,フリーウェイを降りて,南へ少し。国立公園はこちらという道路標示をみて右折したらまもなく国立公園の東側のゲートに到着した。
バットランズループに沿って,ところどころにあるみどころで駐車し,トレイルを散策しながら,公園をめぐることにした。
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公園に入って早々,広い駐車場があったので,そこに車を止めて,まず,ドアトレイルという,一番手前のトレイルを歩く。すぐにトレイルの端に出たが,そこから見る景色は絶品だった。展望できるポイントからは,延々と,この世のものとは思えない景色が続く。これだけでも,グランドキャニオン以上だ。
2012アメリカ旅行記-サウスダコタ州の夜が明けて④
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ツアーに参加しなければ,きっと,この汽車には乗らなかったと思うので,参加して本当によかった。ヒルシティーでトレインを下車して,再びバスに乗り,クレイジーホースモニュメントに行った。
クレイジーホースモニュメントは,かつて白人と戦ったインディアンのスー族の英雄クイジーホースの彫像で,完成時には世界最大の彫像となるとのことだけれども,現在完成しているのは頭の部分のみ,いつ完成するかもわからず,正直言って,なんだこりゃ,という感じだった。
遠くの展望台と売店のある場所から眺めるだけで,近くに行くには,さらに,お金を出して乗り物に乗る必要があるけれど,それほどの価値があるとも思えない。ちょっと興ざめであった。 さらに輪をかけたのが中国人観光客の団体だった。彼らがただひとつしかないカフェテリアに押しかけたために,昼食を食べることすらままならない。ほとほといやになった。
クレイジーホースは,いかにも,マウントラッシュモア観光の団体客を目当てにした観光施設であった。アメリカ合衆国の歴史上の微妙なことはよくわからないが,そうしたいろんな問題があるので,ツアーはここを避けないように配慮しているだけのような気がした。
きょうのツアーの最後は,カスター州立公園で,この公園を車窓から眺めてから帰路についた。カスター州立公園では,野生のバッファローの群れを見ることができた。
このツアー,6年前,イエローストーン国立公園へ行ったときに参加したような小型のバスによる少人数のツアーであれば,いろいろな出会いもあったり,小回りのきく観光ができたりしたのになあ,という点は残念だったけれど,マウントラッシュモア国立モニュメントは素敵だったし,1880トレインにも乗れたし,とても楽しかった。
観光シーズンを避けて,ゆっくりと過ごすことができるのなら,キーストンという町も素敵なところだし,もっともっと楽しめるのではないかと思った。
いずれにしても,2日間にわたって,サウスダコタ州ラピッドシティ近郊のおもな観光名所を訪れることができて,ここにはたくさんの見所があるのだなあ,と再認識した。
マウントラッシュモア国立モニュメントにしても,日本では,有名ではあっても,どこにあるか知らない人が多い。ノースダコタ州ほどではないにしても,サウスダコタ州というのは,あまり馴染みがない。遠いということが最大のデメリットなのだろうが,次の日に訪れたバッドランズ国立公園も加えれば,このあたりは,ラスベガスとグランドキャニオンに行くよりも,ずっとずっと魅力があるところだなあと思った。
午後5時ごろ,ホテルにもどった。きょうの夕食は,昨日行ったモールへ再び出かけて,フードコートで中華料理を食べることにしようと,外に出た。
2012アメリカ旅行記-サウスダコタ州の夜が明けて③
☆3日目 7月23日(月)
きょうは,朝7時30分のグレイラインのバスがホテルに来て,そのまま,マウントラッシュア国立モニュメント,クレイジーホースメモリアル,カスター州立公園の観光に出かける現地ツアーに参加した。
朝食はツアーに付いているということだったので,ホテルのフロントにあるコーヒーを飲みながら,バスの到着を待った。しかし,午前7時30分になってもバスが来ない。少し心配になってきたころ,大型バスが,ホテルを目指してのろのろと走ってくるのが見えた。
私を乗せた後,バスは,さらに数件のホテルを巡り,そのつど,観光客を乗せて,やがて,はじめの目的地であるマウントラッシュア国立モニュメントを目指して進んだ。
マウントラッシュモア国立モニュメントは,朝食を含めて1時間30分くらいの時間が与えられて,のんびりとトレイルを散策したり,朝食をとったりすることができた。
まず,全米50州の州旗が並ぶアベニュー・オブ・フラッグスをまっすぐ抜けるとグランド・ビュー・テラスと呼ばれる展望台に出た。そこで写真を撮って,展望台の左手からはじまるプレジデンシャルトレイルを散策した。
1周1キロあまりの周回路からは,角度を変えてワシントン,ジェファーソン,テオドア・ルーズベルト,リンカーンの4人の大統領の彫像姿を見上げることができた。
展望台の下には博物館やみやげ物店もあって,映画も上映され,予想以上に豪華できれいなところだ。さすがに,政府の施設だなあ,と思った。
そのあと,食堂で朝食をとった。売店では,昔,このモニュメントを削ったという人のサイン会をやっていた。
出口を通るとき,入り口では車があふれかえっていていた。この施設は,早朝に訪れるのが正解なのだと思った。
次に目指したのが,クレイジーホースモニュメントだった。
その途中に通るキーストンという町は,やはり,ゴールドラッシュで栄えた町で「大草原の小さな家」を書いたローラ・インゲルスの住んだところ。この町には,サウスダコタ州で唯一の蒸気機関車「1880トレイン」の始発駅がある。しかし,蒸気機関車ではなく,ディーゼル機関車に引かれた列車に乗り込んだ。
この列車は,ブラックヒルズの森の中を走るもので,1880年代のゴールドラッシュ時代にキーストンとヒルシティー間を走っていた蒸気機関車をそのまま再現した観光用のトレインで,約1時間,車窓からは,ハーニーピークというブラックヒルズで一番高い山をはじめとして,壮大な山々,曲がりくねった路線,急な勾配を見ることができる。愉快な車掌さんもいて,ゆっくりと景色を眺めながらの観光ができた。
2012アメリカ旅行記-サウスダコタ州の夜が明けて②
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次の目的地,デッドウッドにむかう途中の町サンダンスに,1軒だけあるというアロという名前のレストランで昼食をとった。地元のレストランというのは,その地に住んでいる人の様子がよくわかるし,食べ物もおいしいし,素敵なところだ。きょうは日曜日でもあったので,お店の中は家族連れが大勢いた。
デッドウッドは,1876年に金が発見されてゴールドラッシュが勃発,こうしてできたこの町には,当時,西部映画に名を連ねる人々が暮らしていた。現在は,歴史的なランドマークとして観光地化されていて,ワイルドウエストの雰囲気とアンティークな町並みが,西部開拓時代のアメリカを思い出されるところだ。
有名な殺し屋ワイルド・ビル・ヒコックがポーカーの最中に殺されたサロンもそのまま残っていて,殺されたときに座っていた椅子が展示されていた。殺されたといわれる場所でカウボーイ帽子をかぶって写真を撮った。このサロンは,床も当時のままで,西部劇そのままだったし,素敵だった。子供の頃に駄菓子屋で買った絵本に載っていたアメリカの西部の風景が蘇った。
ミッドナイトスターというサロンは,ケビン・コスナーが経営していて,主演した映画で使用された衣装などが展示されていた。
デッドウッドには「幽霊ホテル」というのもあって,幽霊の出るという廊下で写真を撮った。ひょっとしたら,写真に幽霊が写っているかもしれない。
きょうは,このようにして,ツアーガイドの高木さんのおかげで,ディープなサウスダコタ州やワイオミング州を味わうこともできたし,すっかり,アメリカの感覚も戻ってきた。
もう一度来ることができるのであれば,ケビン・コスナーやいろんな西部劇の映画をたくさん見てから,このあたりに宿泊して,ゆっくりとワイルドウエストを味わいたいものだと思った。
午後4時前,ホテルに戻った。
少しゆっくりとして,その後,ホテルの近くを散策しようと思って,インターチェンジの橋を北に渡った。ホテルやファミリーレストラン,そして,モールがあった。
まず,モールへ行った。広すぎて,着くまでが大変だったが,中は,閉店している店舗があったり,人があまりいない場所があったりと,これも不景気の影響なのかな? と思った。フードコートで食事をしようと考えたが,日曜日だけは午後6時に閉まってしまうので,片付けが始まっていた。
ホテルへ帰る途中,デニーズがあったので,そこで夕食をとることにした。
夕食後,ホテルに戻って,ベッドに寝転んで,テレビを見ていたが,こちらのテレビは,映画をやっているかコマーシャルをやっているばかりで,以前は,そんなことは感じなかったが,あまり面白くない。やたらとロムニー候補のネガティブキャンペーンのCMをやっていた。
きょうは,日曜日なので,CBSのレイトショーもやっていないし,結局,ESPNでMLBのニュースを見るか,CNNを見るかしかない。これでは日本とかわらないなあ,と思った。
テレビでは,イチローがヤンキースにトレードされたという話で持ちきりだった。イチローは,すでに,シアトルではする仕事がない。トレードするにもあの高い年棒には手を出す球団はないだろうと思っていた。
MLBで,イチローがやり残した仕事はワールドシリーズだけだ。だから,彼にとってみれば,たとえ,守備位置が変わり,打順が下位になっても,歓迎すべきトレードに違いないが,8月にマリナーズ観戦ツアーを計画していた人たちには大ショックだったろうと,すでにシアトルでイチローを見た私は,余裕でそう思った。
2012アメリカ旅行記-サウスダコタ州の夜が明けて①
☆2日目 7月21日(日)
頭痛がするような時差ぼけはない。でも,寝つかれず,そして,2時間ごとに目が覚める。朝,起きられるかということだけが心配だったが,早く目が覚めすぎて困ってしまった。
きょうは,日本人ガイドの高木さんが,朝8時にホテルに迎えに来て,そのまま,デビルズタワー国立モニュメントとデッドウッドの町の観光をするというのが予定であった。
到着早々,こちらの情報もよくわらないので,こうしたツアーはとても助かる。ということで,少し割高だったけれど,初日は日本語ツアーを予約してあった。
朝,6時前に眠気覚ましに外に出て少し歩くと,ファミリーレストランがあったので,朝食を食べに中に入った。ミルクを入れたコーヒーがとてもおいしいかった。
朝食後,インターチェンジにかかる歩道から眺めた景色が最高だった。東西にはインターステイツ90が延々とのびていて,東の空には,上ったばかりの太陽が,地面を照らしていた。北側には,雄大な大地が広がっていた。きっと,その向こうは,みんなが「何もない」という,憧れのノースダコタ州なのだ,と思った。
アメリカには国旗が目に付くがどこも半旗だった。デンバーの銃の乱射事件を悼んでのことだという。
時間通り高木さんが来て,さっそく車に乗りこんだ。
車はインターステイツ90を西に,やがて,サウスダコタ州からワイオミング州に入って,サンダンスという小さな町からデビルズタワー国立モニュメントを目指して進んだ。
久しぶりに見るアメリカの景色が,忘れかけていた感動を呼び覚ました。特に,このあたりは,モンタナ州の景色に似ていて,とても懐かしい。
デビルズタワーというのは,地下深いところにあった巨大なマグマのかたまりが地層を貫いて地表まで上昇したものが,やがて,まわりの軟らかな地層が侵食されて削られたので,結果として,この塊だけが,タワーのように残ったものらしい。タワーは細長い柱状の柱が寄せ集まった状態でそびえていて,高さは約400メートル近くある。映画「未知との遭遇」のラストシーンでUFOが舞い降りたシーンで有名だ。
アメリカの名所というのはどこもかも,ガイドブックや写真で見るよりも,実際のほうが,ずっとずっとすごい。
ロッククライミングの名所ということで,この日も,数人のクライマーが登っている姿を見ることができた。1893年,初めて登頂したときに残したはしごがあって,注意深く探すとそれを眺めることができるが,こういったことは,現地を知るガイドさんがいないと見落としてしまう。
1周するトレイルがあって,これを歩くと,タワーは,場所ごとに姿を変えて,そのどれもが壮大で,写真で見るよりもずっと感動する。
トレイルの途中で,野生の仔鹿と遭遇した。背中に斑点があって,まさに,バンビ。とてもかわいかった。こういう姿も,そう簡単には見られるものではないらしい。
公園の入口にはビジターセンターがあって,タワーに残っているたての溝は熊が引っかいたものだというキオワ族の伝説を表した有名な絵画が飾ってあった。
デビルズタワー国立モニュメントの帰りに,公園のゲート近くに大平原が広がり,プレーリードッグが巣穴をつくっていた。プレーリードッグは,とてもかわいかった。
2012アメリカ旅行記-ノースダコタ州を目指して⑤
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そのうちに雲が切れてきて,遠くにラピッドシティの夜景が見えるようになった。
夜10時少し前,ラピッドシティに到着。こぢんまりとしたきれいな空港だったが,売店はすでに閉じられ,閑散としていた。
入国1日目。久しぶりのアメリカ,しかも深夜なので,ちょっと緊張した。
さて,問題なのは,空港のシャトルバスである。ラピッドシティから事前に予約済みの宿泊先のホテルまでは20キロメートル近くあって,空港シャトルバス(バン)で行くのだという。日本で調べても,それ以上のことがよくわからない。シャトルバスが空港にいつもいるのか,電話をしたらすぐに来るのか,そういったシステムがわからないので不安であった。
しかし,案ずるより生むが易しであった。
バゲジクレイムの隣が空港の出口で,出口の右隣にはレンタカーのカウンタが並び,反対側にシャトルバスの受付があって,そこに係員がふたりいた。
シャトルバスの受付で話をすると,さっそく手配をしてくれたが,今外に止まってバスは,すでに,乗客が一杯だという。次のバスまで待てといわれたが,どこで待てばいいのか,どのくらい待てばいいのか,こちらから聞かなければ,なにも指示がない。
この不親切さこそ,アメリカらしくて好きだ。日本の親切さは客にとれば便利でここちよいが,働いているほうは,ストレスだらけだろう。そして,客はますます横柄になる。
やがて,5分もしないうちに,同乗する人たちも集まり,次のシャトルバスが来た。出口を出ると目の前にシャトルバスがいて乗り込んだ。他のお客さんたちは,モンタナ州やらサウスダコタ州やらを旅している老人の5人組だった。このシャトルバスの料金はいくらだと隣に座った老人が聞くが,私が持っているガイドブック「地球の歩き方」は日本語だ。これは日本語だけど,といって見せると,今度は,私も昔日本にいったことがあるという話になって,そして,質問ぜめになった。一番の話題は3・11の東日本の地震のこと。
ちなみに,シャトルバスの料金は20ドル。それにチップが少々である。
バスの中にはカントリーミュージックが流れ,老人たちと運転手の合唱が始まる。ウ~ム,アメリカだ! 車内は私のほかはアメリカ人が運転手を含めて6人。話に花が咲いている。
雨は上がっていたが,道がぬれていた。今年の夏は,異常に暑いのだそうだ。しかし,湿気がなく過ごしやすい。サウスダコタ州の辺りは影響がないが,アメリカの穀物地帯は,ドラウト(干ばつ)で大変であるらしい。
やがて,バスは,ラピッドシティのダウンタウンにある,老人たちが泊まるホテルに到着して,彼らと荷物が降ろされ,次に,私の泊まる郊外の「モーテル6」へと向かった。
予約されたホテルはラピットシティのインターステイツ90とノースラクロスストリートの立体交差点(インターチェンジ)のところにあって,付近は,レストランやモール,多くのホテルが立ち並ぶ便利な場所だった。
ホテルのフロントは深夜でもあり閉じられているという話だったが,実際には開いていた。チェックインをしようとするが,宿泊者である私の情報がないという。困っていると,あすのツアーのガイドの高木さんが現れて,もう,チェックインはしてありますと言われた。このホテルは,今日,団体客が来ていたので,この時間にフロントが開いているのだという。ホテルは,中庭にプールがある2階建ての,ごく普通のアメリカのホテルであった。バスタブはなく,シャワーだった。そして,ここにも大きな韓国製のテレビがあった。
これで,きょうの長い長い1日は終わった。来ることができてよかった。
2012アメリカ旅行記-ノースダコタ州を目指して④
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シアトルからソルトレイクシティまでは1時間30分くらいのフライトである。ソルトレイクシティに近づくにつれて,眼下にグレイトソルト湖がひろがり,その圧倒的な景色に感動する。かなり広い塩湖だ。湖畔は塩の塊だらけだと,隣の女性に話しかけられる。
機内のアナウンスでは,当地ソルトレイクシティの気温は華氏99度(摂氏37度),天候は雨ということだった。隣の女性が「99度!」といってため息をついた。この人,ソルトレイクシティ到着後は,レンタカーで北上して,ワイオミング州からモンタナ州を越え -ソルトレイクシティはイエローストーン国立公園のアクセスポイントだ- カナダ国境を越えてサスカチュワン州を東に行きノースダコタ州の国境からからアメリカに戻ると言っていた。ひとり旅か? と思ったが,そうではないようだった。いずれにせよ,ノースダコタ州を目指すのは,自分だけではないのだな,と思った。
急に,ノースダコタ州が身近に思えた。
ソルトレイクシティの空港に到着した。ここには,一度,フロリダからの帰りに降りたことがあるが,ソルトレイクシティはグレイトソルト湖のほとりに広がり,モルモン教徒が作った大きな都会だ。いろいろと観光名所があるので一度は時間をとって訪ねてみたいものだと思うのだが,まだ,果たしていない。すでに雨はあがっていて,空から見た景色は雄大で,空港から眺める景色もすばらしかった。
ソルトレイクシティからラピッドシティに向かう飛行機は40人くらいが乗る小さなもので,搭乗口も空港の一番端にあった。
ここでは,まず,搭乗のチェックインが必要だと言われていたので,自動チェックイン機を操作して,搭乗券を入手する。
自動チェックイン機はなかなか便利だが,アメリカ旅行は,旅なれていない人には,ESTAにせよ,自動チェックインにせよ,なにがなんだかわからないだろう。さらに,今回の旅行で感じたのは,空港やホテルのテレビはサムソンやLG,この旅行で乗ったレンタカーはヒュンダイと,どこもかしこも韓国製だということ。空港では,みんな iPad や iPhone を使い,新聞を広げる人は誰もいない。
世界は変わった。そして,日本の影は薄い。内弁慶で威張り散らすだけの日本の老人男性も,外国に興味のなく平和ぼけの日本の若者も,意味のない教育 -教育でなくただのクイズ合戦だ- をしている日本の教育界も,あれはいったい何なんだろう。もう,日本は終わった。しみじみそう思った。
ソルトレイクシティの空港で,サンドイッチとフルーツジュースを買って,窓から外の景色を眺めながら夕食のつもりをした。到着のたびに時差で時間が変わり,体内時計がどうなっているのかもよくわからないが,ともかく,ラピッドシティに到着すれば,深夜になるから,夕食をとらなくてはならない。
ソルトレイクシティからのフライトは,座席がまた一番前で,今回はさらに窓際の席だったこともあり,夕方の景色がとても美しかった。カメラを片手にずっと窓から外を見ていた。客室乗務員の女性がひとりだけ乗っていて,とても忙しそうだったけれども,私がカメラを構えていると「いい写真が撮れるといいね」と話しかけ,他の客にも愛想がよく,素敵な人だった。機内のアナウンスの発音がとてもきれいだった。
快晴だったこともあり,夕日に映えるロッキー山脈がすばらしかった。
1時間と少し,窓からの景色が変わり,眼下は雲だらけとなり,雲の下が時々光っているように感じられた。やがて,機体が着陸態勢となり,雲の中に入ると,光っていたもの,それは稲光であった。いたるところで稲妻が走り,まるで,実験室のようだった。あのような稲光をはじめて見た。恐ろしい景色だった。まさに,地球全体が放電実験をしているかのようだった。
2012アメリカ旅行記-ノースダコタ州を目指して③
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関西国際空港は広い空港だ。以前,ロサンゼルスでパスポートの盗難に遭って,命からがな台風の中を帰国しながら,台風で空港が閉鎖されてしまい家に帰れず,一夜を過ごしたときのあの「関空」だ。きょうは,そのときと同じところとは思えないほど,華やいで見える。
まだ,出発には時間があって,デルタ航空のカウンタには係員がいなかったけれど,あと5分ほどでチェックインが始まるというので,その場で待つことにした。隣の,エコノミークラスの団体客が並んでいるカウンタを横目に,ビジネスクラスのカウンタで待っているのはすごく気分がいい。ものすごい金持ちになった気分だった。
チェックイン後,食事券ももらったことだし,しばしの別れにと,空港のレストランでトロづくしの寿司を食べた。さらに,空港ラウンジも利用できるということだったので,早速利用することにした。どんどん気分はリッチになっていく。飛行機に乗る前から心だけは高く高く舞い上がっていく…。これだけでも,今回来た甲斐があるというものだった。
ビジネスクラスは,以前に一度,ダブルブッキングで変更になって利用したこともあるし,アメリカで交通事故に遭って帰国したときは,ファーストクラスでミネアポリスから成田に帰ったこともあるので,はじめての利用ではなかったけれど,やはり,ビジネスクラスの座席は,広く,サービスもよく,快適だった。座席は一番前だった。出発前,まだ操縦席の扉が開いていて,コクピットがよく見えた。
先に座っていると,横の通路を,エコノミーの乗客が通り過ぎていく。 機会があれば,また,ビジネスクラスを利用したいと思うのだが,ビジネスクラスの運賃は,エコノミーの3倍はする。 機内では,ビジネスクラス用の食事やら,専用のテレビやらがあって,あっという間にシアトルに到着した。9時間45分のフライトであった。
シアトル・タコマ国際空港も,はじめての利用ではなかったけれど,今回,意外と狭く,古めかしいところだなあ,と感じた。
シアトルでの手続きは簡単に終わり,無事にアメリカへの入国を果たした。次のフライトまでの時間,空港の待合をうろうろとしていると,前のフライトで通路をはさんで隣に座っていたおじさんを見つけたので,話しかけた。
息子さんが神戸で仕事をしていて,夫婦で日本に遊びに行ったその帰りだということだった。この人も,ダブルブッキングで,エコノミーからビジネスに変更になったのだという。彼は,これから,オハイオ州の自宅まで帰るために,次はデトロイト便に乗るのだという。 この人,名前をジョンというのだが,彼のお父さんもおじいさんもジョンというので,自分はラリーと名乗っているのだそうだ。このおじさんと日本食のことやらなにやら,いろいろな話題で盛り上がっていたら,あっという間にソルトレイクシティ便の搭乗時間になったので,硬く握手をしてお互いの旅の無事を祈って別れた。
2012アメリカ旅行記-ノースダコタ州を目指して②
☆1日目 7月21日(土)
朝,自宅からバス停まで徒歩3分。バス停の手前の信号のない交差点で車に引かれかけた。一旦停車をすべき交差点を無視した小型車が,突然,自分の前を猛スピードで通り過ぎた。本当にびっくりした。あと1秒でも違ったら,今,この世にいなかっただろう。後ろを歩いていた人は,完全に私は引かれた,と思ったそうだ。あとで,バス停で,その人に,そう話しかけられた。
しかし,自分には,不思議と動揺はなかった。ただ,旅行する前に死んでしまってはたまらんわ,とは思った。でも,こんなことから旅が始まれば,この先は,よいことしか起こらないであろう。そのときは,そう思った。そして,実際,そうなった。
やがてバスが来て,そして,バスは名鉄の駅に到着して,座席指定特急に乗って,10時過ぎ中部国際空港に到着した。
まだ出発には早く閑散としていたデルタ航空のカウンタで,チェックインの手続きをしようとすると,飛行機がオーバーブッキングなので,変更してくれる人を探していると言われた。別にスケジュールにこだわっている旅でもないので,ハプニングはすべて受け入れよう,と思った。だから,現地の到着時間さえ,これ以上遅くならなければいいですよ,と答えた。はじめから面白そうな旅だと思った。
隣のカウンタに来た別の人にも同じことを言っていたようだったが,その人は冗談じゃないと断っていた。
きっと,人生の面白い経験なんて,こういうことの積み重ねが差になってくるのだろう。
人生なんて,死ぬまでの暇つぶしに過ぎない。どうして,地位をもとめる哀れな人たちは,みんな偉そうに権威を振りかざしたり,深刻ぶって仕事をしたりしているのだろう。5年前,一度,仕事をやめたとき,しみじみとそう思った。その気持ちは,今のほうが,もっと強い。
自分には,やりたいことが一杯ある。だから,そんなくだらないことに時間をかけたり,中身がないからこそ地位にこだわるしかないような,そんなくだらない人たちを相手にしたりしている時間はないのだ。
とにかく,当初予約してあったデトロイト便,名古屋-デトロイト間の時間がかかりすぎる。それに,デトロイトで次のフライトまでの待ち時間が5時間以上もあるので,変更してもらえるなら大歓迎だった。
聞いたところによると,変更して,関西国際空港発シアトル行きになるのだそうだ。
当初は,「名古屋-デトロイト-ミネアポリス-ラピッドシティ」。それが,「大阪-シアトル-ソルトレイクシティ-ラピッドシティ」になる。この方が距離的にもうんと近いではないか。当然,当初の予定より遅く出発しても,到着は30分以上早い。さらに,大阪-シアトルはビジネスクラスに変更になって,しかも,おまけに200ドルのクーポンと20ドルの食事券が付くということだ。こんなよい話はそうあるものではない。
ということで,早速,変更の手続きをしてもらった。
関西国際空港への行き方を教えてもらって,それに従って,また,中部国際空港から名鉄特急で名古屋に引き返し,新幹線で新大阪まで行き,特急はるかに乗り継いで,関西国際空港に行くことになった。
この移動にかかる費用は,後日返金してくれるという話だ。
それはそれとして,気安く変更を受け入れたけれど,大阪へ行くだけの日本円の持ち合わせがないのだった。こういうこともあるので,日本円を多少多めに用意しておけばよかった,と一瞬思ったが,よく考えてみると,クレジット払いでJRのチケットが購入できるので,別段何事もないのだった。名古屋駅で,一番早く関西国際空港へ行く乗車券を下さい,と言ってチケットを購入して,早々に新幹線に飛び乗った。
名古屋を出発した新幹線の車内からは,出発して5分もしないうちに,早朝に出た自宅が車内から眺められて,自分はいったい何をやっているのやら,と,おかしくなった。家を出て3時間もたったのに,まだ,出国どころか,自宅に戻ってきてしまったみたいだ。
やがて1時間もしないうちに新大阪駅に到着した。新大阪駅で,NHK交響楽団のコンサートマスターの堀正文さんを目撃した。そういえば,新幹線の車内にもバイオリンを持った女性が乗っていた。彼女もN響の団員かもしれない。N響は,この時期,大阪でのコンサートツアーだ。
それやこれや,ビジネススクラスに変更になったり,意外な人に遭遇したりと,今回も強運だらけだった。はじめからいろんなことがあって,面白い旅になりそうだ。
新大阪で,特急はるかに乗り換え,初めて見る新大阪から関西国際空港への車窓を楽しみながら,中部国際空港から2時間もしないで,関西国際空港に到着した。午後1時頃のことだった。
2012アメリカ旅行記-ノースダコタ州を目指して①
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ほとんど情報のない州ノースダコタを一度訪れて見たいという気持ちは以前からあった。でも,わざわざ行くべきかどうかずいぶんと迷いもあった。
歳をとって,今行かないともう行く機会がないのではないか,という思いが強くなって,いよいよ行く決心をした。
ノースダコタ州だけではと思い,調べるうちに,サウスダコタ州も含めれば素敵な旅行ができるようなので ―とはいっても,計画を立て始めた頃は,ノースダコタ州はもちろんのこと,サウスダコタ州のこともほとんど知らなかったのだけれど― 今回は,このコースで旅行をすることにした。
実際に体験したノースダコタ州は,とてもすばらしいところだった。
何より,雄大な景色がいい。のどかさがいい。人の少なさがいい。ツアー客がいないのがいい。
この地にあったのは,本当の大自然と,西部開拓時代から続く本当のアメリカ人の生活だった。そして,観光客がいないので,自分が,そんな姿を独り占めにできる喜びや,この地を知らないほとんどの人たちに対して自分がそれを知った優越感だった。
いずれにしても,本当に,行ってよかった。
こんな経験をしてしまうと,日本国内は無論のこと,他の国のどこの景色も観光地も ―グランドキャ二オンすら― 「ちんけ」に思える。この夏,信州や北海道へ行く人も,海外旅行で観光客だらけの香港だの韓国だのと出かける人たちも哀れにしか思えない。申し訳ないけれど。
これは,喜ぶべきか悲しむべきか。
いずれにせよ,今回の,このひとり旅は,これまでの自分の人生最大の思い出となった。
こうして,思い出してみると,この地を,もっと多くの人に知ってほしいという気持ちと,その反面,知ってほしくない,自分だけのものにしておきたいという気持ちが入り混じり,複雑な心境になる。
東北の吹雪の冬と日本アルプスの雪景色-茂吉と杜夫の人生
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最上川逆白波のたつまでに
ふぶくゆふべとなりにけるかも
「白き山」斎藤茂吉
・・・・・・
山形生まれの歌人斎藤茂吉の最後の歌集「白き山」に収録されたこの歌は、終戦当時に疎開していた大石田の知人宅で,病中の孤独の中でつくられた晩年の代表作だといわれています。
大石田あたりのゆったりと流れる最上川にさえ白波のたつ吹雪の冬。この歌は,老歌人の心がそんな厳しい情景をくっきりと描かせているといいます。
今日の東北の寒さを感じさせるようです。東北の人たちに,どうか,幸せが訪れますように。
・・・・・・
青春とは,明るい。華やかな,生気に満ちたものであろうか。
それとも,もっとうちぶれて陰鬱な,抑圧されたものであろうか。
「どくとるマンボウ青春記」北杜夫
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歌人斎藤茂吉の子北杜夫は,旧制の松本高校を卒業し,医師でありながら作家として大成しました。「どくとるマンボウ青春記」で,北杜夫は,独特のユーモアを交え,自分の青春を振り返るのです。
松本で,日本アルプスの雪景色を眺めると,北杜夫の思いとともに,いつも,この本の冒頭を思い出します。
この本の最後は,次のように締めくくられています。
医師国家試験を前にしても相変わらず恥じ多き怠惰な日を送っていた杜夫は,父茂吉の死の報知を受けたのでした。そして,東京へ戻る夜汽車の中で茂吉の歌集「赤光」をあてもなく開いて過ごしながら,こういう歌を作った茂吉という男は,もうこの世にいないのだな,もうどこにもいないのだなと幾遍も繰返し考えたのです。そのとき,杜夫のカバンの中には,自分の最初の長編「幽霊」のかなり分厚い原稿が入っていたのでした。
母の死をうたった歌によって誕生した茂吉の「赤光」,その茂吉の死が語られる「どくとるマンボウ青春記」。
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「どくとるマンボウ青春記」を書いたその北杜夫もすでに亡く,青春という言葉さえも不似合いな時代となってしまいました。今,私の手元には,「人はなぜ追憶を語るのだろうか」からはじまる「幽霊」の,歴史を重ねて黄色くなってしまった古い文庫本があります。小さな一冊の本は,そうした,歌人と作家の人生の重さを今も無言で語りかけているのです。
旅と読書は,人生を豊かにします。季節の移り変わりが,日々の生活に彩りを与えてくれます。
そして,いつの日か,人は追憶を語るのです。
秋山吾者-石上古人の息遣いと入江泰吉が生涯をかけた写真
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秋の大和路は,独特な静寂と張りつめた空気にも何かしらの優しさがあります。奈良公園を南に向かって歩くと,新薬師寺から入江泰吉写真美術館に至る小径が旅情に彩りを添えます。
入江泰吉は昭和時代の写真家で,主に,大和路の風景や仏像などの写真を撮り,高い評価を受けました。
その入江泰吉の写真を間近に見ることができる美術館は,忘れていた昔の土のにおいや人の温かさとともに,心の中に何とも言えぬ幸せをもたらしてくれます。きっと,誰よりも古の大和の美しさを知り,それを愛した入江泰吉がその生涯をかけて写した写真には入江の命が宿っているのでしょう。
古都大和には,古来,こうした多くの人々の心が,写真として,あるいは,絵画として,また,歌として,そして,文学として,残されています。
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冬木成 春去來者 不喧有之 鳥毛来鳴奴
不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取
草深 執手母不見
秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曾思努布
青乎者 置而曾歎久 曾許之恨之
秋山吾者
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冬ごもり 春さり來れば 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ
咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず
草深み 取り手も見ず秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ
青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし
秋山そ我は
「万葉集」巻1・16 額田王
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この歌は,天智天皇が藤原鎌足に春と秋とどっちがすぐれているかを歌で競わせたときに額田王が歌で意見を示したものです。
春が来ると鳥がさえずり花が咲きます。けれども,山には木が生い茂り入っていって取ることができません。秋山は紅葉した木の葉をとることができていいなあと思います。ただ,まだ青いまま落ちてしまったものもあってそれを置いて溜息をつくのが残念ですけれど。でも,私はそんな秋を選びます。といった意味です。
この歌の最後「秋山〈そ〉我は」がなんとも素敵ではないでしょうか。「秋山そ」私はこの〈そ〉の音に,なまめかしさとともに深い味わいを感じるのです。
秋の大和路を訪れると,そうした秋山を踏みしめることができます。秋の大和路には,ススキと柿の実をつけた樹木がよく似合います。そんな小径を歩いていると,今も,古人の息遣いが聞こえてくるような気がします。