昨日は,ブルックリンからの夜景を堪能しました。この場所は,15年前に来たときは治安の悪いところだったのですが,今は高級住宅地です。
本当にニューヨークは,綺麗で安全になりました。東京にいるみたいです。
ここ2日泊まったブルックリンのホテルは,予想通り大変なところでした。安いだけのことがありました。
明日の帰国便が朝7時45分発と早いので,きょうは打って変わって空港に近い素晴らしいところに宿泊しています。朝,とにかく,ブルックリンのホテルからケネディ空港近くのホテルへ移動です。チェックインして,荷物を部屋におろして,観光に出かけました。過ごしやすいよい天気でした。
まずは,スペースシャトルの実物です。イントレピッド博物館にあります。予想通り大きいものでした。でも,結構,おもちゃみたいでした。
次は,9/11メモリアル。ここは,入場料でなく,募金です。崩壊したふたつのビルのあとに水が流れ落ちるモニュメントが作られていました。その横には新しいビルが建設中でした。
その次が,自由の女神。すごい人でしたが,島に上陸できました。
最後に,32年前に果たせなかったブルックリンブリッジをついに徒歩で横断しました。
これで今年の旅は,すべて終了しました。
ほとんど完璧な旅でした。
アメリカは,本当に安全になったということと大都会は車も多く物価が高いというのが実感です。景気が悪いという感じは全くなく元気元気なアメリカでした。
明日の早朝,帰国しますので,これで特別編は終了です。明日からは,昨年の旅行記の帰国編をお楽しみください。その後,今年の旅行記を詳しく,たくさんの写真と共に,お送りします。
July 2013
特別編・2013アメリカ旅行LIVE⑩
朝は,現地ツアーに参加して,ハーレムの教会でゴスペルを聞きました。そのあと,アポロシアターやグラント将軍の墓などを観光しました。イチローの住んでいるアパートも見ました。運がいいと奥さんが犬を連れて散歩しているそうです。
そして,いよいよヤンキースタジアムで松井の引退セレモニーを見に行きました。
15,000人に松井の人形がもらえたので,開場2時間前からすごい人でした。日本人も一杯いましたが,在住の人が多かったようです。
試合は素晴らしいものだったのですが,詳しくは日本で報道されたことでしょうから,省略します。
とにかく,イチローが4-4,試合はヤンキースサヨナラ勝ちでした。
試合後,ヤンキースタジアムの入り口でテレビ朝日のインタビューを受けたので,放送されたかもしれません。心配していた雨は少し降った程度でした。私の席は,屋根があったので,全く問題ありませんでした。
きょうはホテルのWifiが接続できないので,Wifiフリーのマクドナルドで入力しています。
雨が降りはじめましたが,これから夜景ツアーに参加します。
特別編・2013アメリカ旅行LIVE⑨
15年ぶりのニューヨークです。いろんなことがありましたが,とりあえず,写真をご覧ください。
タングルウッドから車で3時間,ニューヨークブルックリンのホテルに到着。荷物をおろしてケネディ空港まで行って,レンタカーを返却しました。そのあと,空港からブロンクスに直行して,日曜日は雨という予報だったので,土曜日は,ヤンキースの試合を見ました。
そのあと,ミュージカルを見る予定だったのですが,深夜にブルックリンのホテルに地下鉄で帰るのが不安だったので,一度ホテルまで帰ってみようと思い実行したのですが,乗る地下鉄が日本で調べていたのと違い,さらに,工事中で,バスの代行輸送になって,しかも,降ろされたところがとんでもないところで,ブルックリンで迷子状態になりました。
同じ駅名が別の路線にあることが問題なのです。しかも地下鉄は工事中とかで,週末は結構サービス中止となったりするので,いくら下調べをしても,十分ではありません。散々聞いて,と言っても,相手はスペイン語話すし,タクシーなんて通らないし,どこにいるかさっぱりわからないし,東京の下町みたいなところであっても,ここが安全なところかどうかもわからないし,不安だらけのなかを歩いたところ,ようやくホテルに到着できました。奇跡のようでした。
実際は別の路線で,ホテルの真ん前にあった駅からマンハッタンへは簡単に戻ることができたので,あきらめかけたミュージカルに何とか間に合って,無事に「シカゴ」を見ることができました。
もし,このことがなければ,ミュージカル終了後に深夜の町をさまよっていたことでしょう。
生きた気のしない1日でしたが,この程度は想定の範囲内です。大リーグもミュージカルも素晴らしいものでした。やはり,ニューヨークは,ニューヨークです。
特別編・2013アメリカ旅行LIVE⑧
ボストンは,きょうも雨。
ニューヨーク州は晴れているようなので,予定を変更して,大リーグファンの聖地クーパーズタウンへ行くことにしました。
400キロメートル,5時間のドライブです。
クーパーズタウンは想像以上に広くて綺麗な避暑地でした。天気は快晴,湿度も低く気持ちがよい1日になりました。
野球殿堂は興味があったので,3階まである展示室を何度もまわりました。イチローのバットの前で写真を撮りました。こちらの人たちにとってもイチローは英雄のようです。
そのあと,200キロメートルを引き返して,マサチューセッツ州境にあるタングルウッドへ行きました。ここは,ボストン交響楽団の夏の本拠地です。屋外コンサートホールがあって,といっても,屋根はあるのですが,その外側の芝生からも曲を聞くことができます。
夜8時30分開演なのですが,午後6時からセイジオザワホールでオーケストラメンバーによる室内楽を自由に聞くことができました。
ここは,ものすごく広くて全面芝生に包まれたところで,みんな椅子机持参で思い思いコンサートを楽しんでいました。満点の星空と涼しい夜風の中のモーツアルトは最高でした。音楽は自然と一体になって味わうものだと痛感しました。
今日の今日こそ,日本に生まれたことを情けなく思ったことはありませんでした。こういう素晴らしい楽しみは,日本にはありません。人がたくさん集まってはいるのですが,混み合うこともなく,車も渋滞することもないのは広いからなのでしょう。このように音楽は楽しむものなんだなあと思いました。
それにしてもこんな山奥にこれほどの人が集まるのが不思議です。小澤征爾さんは,ここで指揮をしていたんだなあと羨ましくなりました。
きょうはタングルウッド近くのモーテルに泊まります。コンサート終了後,真っ暗な夜道,戻ってくるのに苦労しました。
特別編・2013アメリカ旅行LIVE⑦
まあ,いろいろあった一日でした。
朝,ホテルを出発して,まずは,ボストンマラソンの爆発事件のあったところへ行きました。場所は,ホテルから歩いて十分くらいのところで,ボストンコモンという公園の南側,東京でいえば,日比谷公園の横で起きたようなものです。
次に,フリーダムトレイルを歩こうと思っていたのですが,昨日買った乗り放題チケットをホテルに忘れたことに気づいて戻ろうとしたのですが,道を間違えて,すっかりどこにいるのかわからなくなって,通りがかりの女性に聞いたところ,すっかり仲良くなって話が弾み,ホテルの近くまで案内してもらいました。
再び出発してアリー・マイ・ラブの舞台だったビルを見てから,フリーダムトレイルへ32年ぶりにやってきました。
次に,ボストンティーパーティへ行くととてもすばらしいアトラクションを体験できました。
お昼にはリーガルシーフードでクラムチャウダーを食べ,ボストン美術館へ行きました。「サムライ」という企画展示をやっていました。
その頃から雨が降り始め,せっかく行ったフェンウェイパークのレッドソックスの試合は,中止となってしまいました。
昨日試合を見ておいて本当に良かったと思いました。やはり強運です。
でも,ホテルに戻ったときはすっかり雨は上がっていました。
こういうのがすべて旅であり,人生なんだなあと,改めて思いました。
残念だったので,上原選手のツイッターに書き込みしたら,早速返事が来ました。ますますファンになりました。頑張れ上原選手!
特別編・2013アメリカ旅行LIVE⑥
きょうは,プリマスプランテーションというメイフラワー号が上陸した頃の街を再現したアトラクションへ行きました。面白いところでした。日本の明治村のような感じです。
ただし,中国人のグループがいて,例のごとく,大声で話し,やたらと群れて,スタッフが話しかけても言葉がわからないので無視をするといったいつもの姿がその場の空気を台無しにしていました。
そのあと,ケープコッドの先端までドライブしました。地図から想像すると渥美半島くらいの感じなのですが,実際はえらく遠いところで,100キロメートル以上ありました。
ケープコッドをあとに,いよいよ,ボストンへ向かって北上しました。
ものすごい渋滞でした。やっとのことで,到着して,何とか車を駐車場に入れて,ホテルにチェックインしました。
夜は,予定がなかったのですが,地下鉄(と言っても京都の嵐電みたいな感じですが)の試乗を兼ねて,明日のチケットがあるフェンウェイパークへ行きました。
場外チケット売り場に自然と足が向かい,気づいた時は,野球を見ていました。
想像を絶する素晴らしい野球場でした。隣に座ったおじさんが言うには,今のオーナーが良いのだそうです。古いからと言ってそのままの状態ではなく,大きなビジョンを設置したり,グリーンモンスターの上に座席を設けたり,中身は近代的なのです。
特別編・2013アメリカ旅行LIVE⑤
珍しく雨の朝です。
きょうは,バーリントンに工場がある世界的に有名なテディベアファクトリーを見学しました。
そのあと,車にトラブルが発生,と言っても,「MAINT REQD」という警告灯が表示されただけですが,空港にある営業所でレンタカーを交換することになりました。営業所が近くにあったのが幸運でした。というわけで,今度の車は,GMのインパラです。
インターステイツをどんどん南下し,4時間でボストン近郊のプリマスまで来ました。
まずは,ホテルを探して,そのあと,プリマスロックを見ました。
夕食は,ロブスターサンドにしました。
天気がだんだん良くなって,ホテルから夕景が綺麗です。波の音も最高です。風が気持ちいいです。反対の岸から月が顔を出しました。
きょうも素晴らしい1日でした。
特別編・2013アメリカ旅行LIVE④
宿泊したバーハーバーには,国立公園があります。せっかく大西洋まで来たので,早起きして日の出を見に行きました。
絶景でした。
そのあとは,メイン州を西に,そしてニューハンプシャー州を横断して,さらに,バーモント州のバーリントンまでやって来ました。
州境を超えると景色が一変するのが面白かったです。メイン州は高原,ニューハンプシャー州は山,バーモント州は,森です。
途中,ストウという町に立ち寄りました。サウンドオブミュージックの舞台だったところです。
バーリントン到着後,シャンプレイン湖の,夕景クルーズを楽しみました。船上で,小学校の校長という女性と知り合いました。
きょうは,日の出と日没を両方目撃したことになります。晴れ男健在です。
特別編・2013アメリカ旅行LIVE③
ボストンのホテルを出発して,まず,レキシントンとコンコルドにi行きました。ものすごく綺麗でした。
次に,セイラムにある魔女博物館に行きました。
その後,大西洋岸を北上,ポートランドを経由して,今晩は,バーハーバーというところに泊まります。ここは,国立公園です。
フリーウェイと言いますが,ここメイン州では,有料(1ドルくらい)の道路が多いです。トールパスをつけていたらお金は払わなくていいとゲートで言われました。なので,「EZPass」というゲートを通ることにしました。お金はどのように引き落とされるのか未だに不明です。 誰か教えてください。
暑いなんていうのはどこかへいってしまって寒いです。でも,湿度が高いです。
どこも,思っていたより広く美しいです。
こちらへ来る度に思うのですが,アメリカの豊かさは,日本人の想像をはるかに超えています。海にはヨットが浮かび,飛行場には自家用機が並び,家は広々としていて,週末でなくてもどこも観光客であふれています。高校なんてゴルフ場くらい広くてグランドは,全面芝生です。
特別編・2013アメリカ旅行LIVE②
特別編・2013アメリカ旅行LIVE①
今,アメリカにいます。2013年のアメリカ旅行です。
私は,アメリカ合衆国50州制覇をめざして旅を続けています。今年はコロラド州とユタ州の予定でした。
昨年の7月,アメリカ旅行をしていたとき,イチローがヤンキースに電撃トレードされました。私は,イチローは昨年限りでヤンキースからトレードかな,と思っていたのですが,もし,イチローが今年もヤンキースと契約できたらニューヨークへ応援に行こうと,そのとき,思い立ちました。
そういうわけで,今年は15年ぶりのニューヨークです。
ボストンで入国をして,北東へ大西洋岸に沿ってカナダ国境近くまで行って,メイン州,ニューハンプシャー州,バーモント州,マサチューセッツ州,ニューヨーク州とまわる予定です。
・・
帰国後に旅行記をまとめたいと思っています。
通信事情によって,うまくできるかどうかわかりませんが,「特別編」として,旅行中に写した写真と感想などをLIVEでお届けできたらと思っています。お楽しみに。
偉大な飛躍-アポロ11号が月に着陸した日
☆☆☆☆☆☆
44年前の1969年7月16日,アポロ11号が人類初の有人月着陸を目指して打ち上げられました。そして,7月20日,無事月着陸に成功して,アームストロング船長が,月面に第一歩を記しました。
毎年,この蒸し暑い夏になると,この当時のことを思い出します。
科学技術,アメリカ合衆国,そして英語,多感な少年の心を捕えるのにこれ以上の出来事はありませんでした。将来月旅行がしたいと思ったことは一度もなかったのですが,アメリカに行きたいなあとか,英語ができたらいいなあ,という思いはどんどん強くなっていきました。
月着陸といえば,ジョン・ホウボルト(John Cornelius Houbolt)という技術者が設計した月着陸船が重要な働きをしたことは言うまでもありませんが,その裏に,史上初のコンピュータによる誘導ソフトウェアの働きを忘れてはなりません。なにせ,44年前のことです。今の時代には考えられないほど非力なコンピュータがその着陸を担っていました。
月着陸船は,メインエンジンと姿勢制御エンジンを巧みに操らないと操縦できないというものだったらしいのですが,それを人間だけで操縦することは困難を極めたため,NASAは史上初の誘導ソフトウェアを開発することにしました。
このソフトウェアは,着陸時には月面にレーダーを反射させることで月着陸船の位置を測定し,離陸時には,月を周回している司令船にレーダーを反射させて上昇時の位置を測定し,得られたデータを処理することで姿勢制御を行う仕組みだったそうですが,そのソフトウェアを開発したのは,当時20代のマーガレット・ハミルトン(Margaret Heafield Hamilton)という女性科学者でした。
月の周回軌道で司令船から切り離された月着陸船は,順調に月面にむかって下降を続けていました。そのとき,突然「警報1202」が鳴り響きました。何が何だかわからぬまま,下降を続けたのですが,当時,それは,コンピュータの非力によって,処理能力を超えたデータの処理ができなかったと言われたものです。
実は,この警報は,月着陸船のオルドリン操縦士が,誤って,着陸時には不要な離陸時のランデブーレーダーをONにしてしまったことから起こったことだったのです。
マーガレット・ハミルトンは,事前にこの過ちを予測し,つまり,人間はミスを犯すものだということを想定の範囲内とし,こういう事態に備え,着陸データとランデブーデータの両方が処理された時にはランデブーデータをクリアするような処理プログラムを組み込んであったそうで,それで事なきを得たということです。
やがて,この処理プログラムが働き警告が収まりましたが,予定に従ってコンピュータが着陸を試みたときには,今度は,着陸想定地点にはクレーターがあって着陸ができず,急遽手動に切り替えて,やっとの思いで着陸に成功しました。そのとき,月着陸船には燃料はわずか17秒しか残っていなかったということです。
まさに,危機一髪でした。
科学技術は,こうした人間と機械の補完で成り立っているのです。
当時のテレビ中継で,「着陸まで」あと60秒,あと30秒という交信を同時通訳で伝えていたのですが,実は,それは着陸までの時間ではなく,燃料切れまでの時間だったと私が知ったのは,ずっと後のことでした。
・・・・・・
I'm going to step off the LM now.
That's one small step for a man,
one giant leap for mankind.
Neil Alden Armstrong
・・
今,着陸船から足を踏み降ろします。
これはひとりの人間にとっては小さな1歩だが
人類にとっては偉大な飛躍です。
ニール・アームストロング
・・・・・・
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス⑪
場所も場所だけに,帰りが心配だったので,7thイニングストレッチまでで,スタンドを後にしたが,バス停では,30分くらいバスを待たなくてはならなかった。
バス停は,えらく太った黒人の女性が3人,座り込んで,なにやら,どこかしこに電話をしたり,あるいはタバコをふかしたりながら,また,あるいは悪態をつきながら,同じバスを待っていた。
雨が降ってきて,彼女たちがずぶぬれになったころ,84番の満員のバスがやってきた。ところが,数分先のユニーバシテイアベニューでバスを降りるときには,雨もすっかり上がっていて,私と同じようにバスを降りた彼女たちのうちの一人が私に向かって,あの雨はなんだったの!と言って笑った。
それほど待つこともなくやってきた16番に乗りついだ。バスの中は,中国人の若く美しい女性やら,ウェストがその女性の4倍はある黒人のおばちゃんやら,大学生やら,多国籍文化で華やいでいた。
夜11時頃,無事,ホテルに帰着した。
最後の1日もとても楽しかった。ツインシティは公共交通を使えば十分に楽しめることがよくわかった。
この旅の最後の頃は,観光客というよりも,そこに住んでいるようだった。そして,東京で遊んでいるような気がした。アメリカも,公共交通が発達していれば,大都市の観光は,東京を観光するのとさして変わらない。
それにしても,この国の人は,コーヒーを一杯飲むときや,食事をするとき,音楽を聴くとき,そして,ミュージカルや野球を見ているとき。どうして,みんなあれほど幸せそうに,心から人生を楽しめるのだろうか。
いよいよあすは帰国をする日だ。荷造りをしながら,寝坊しないようにしなくては,と思った。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス⑩
極めつけは,あるイニングの合間に,セイゴ・マスブチという真っ黒に日焼けした日本人が,「リアル・ジャパニーズ・ガイ・ウィズ・カラオケ」とかいって,スタンドの上方で王冠をかぶったカップルを従えて歌を歌ったことだった。
となりの女性に,彼は有名なのかと聞いたら,ここだけで有名だと言っていた。
彼が歌を歌い終わって私の横の通路を降りてきたとき,「アイム・リアル・ジャパニーズ・ガイ・トゥー」と言って,握手を求めたら,彼は変な顔をして,握手をした。
親に内緒でいたずらをしていた子供が親に見つかったときの顔だった。
スコアボードの時計は,これもわけのわからないことに,ずっと12時だった。
レフトのスタンドの向こうには貨物列車が走り,ときおり,長い長い貨物列車をつないだ機関車が警笛を鳴らしながら近づくたびに,ゲームの邪魔をして,場内の放送が,わけもなく「トレイン」と言った。
・・
ここは,ベースボールというよりも,大衆演劇というほうがふさわしいところであった。あるいは,浅草の花やしきであった。
最高だった。
私は,この日のバカバカしいこのゲームのことを一生忘れないであろう。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス⑨
クルーズが終わり,再びミシシッピー川を越え,ダウンタウンに戻って,16番のバスを待った。
バスはちょうど出たところだったが,すぐに次のバスが来た。
早朝に予習したように,スネーリングストリートまで行って,そこで84番に乗り換えて,セントポールセインツの試合のあるミッドウェイスタジアムに向かった。
午後5時,ミッドウェイスタジアムに到着した。
朝とは違って,ものすごい人だった。野球場のまわりはバーベキューの会場で,当日まで知らなかったのだが,ここは,夕食が無料であった。つまり,入場料が12ドルだったが,これは,食事付きなのであった。
ここでも,フォークとナイフだけをもらって,好きな食べ物や飲み物を思い思いに取って,適当に座って,食事を取る。家族連れやらグループやらみんな楽しんでいた。
少し行ったとこにある駐車場では,いたるところで,バーベキューパーティをやっていた。また,駐車場の端には,新車やら他のいろいろなものの展示会もあったり,さらには,ボールすくいやら,輪投げやらもあったり。
ここは,日本でいう夏祭りの夜店ではないか。
10年くらい前に,NHKで放送した「わたしをボールパークに連れてって」という番組で,ここが取り上げられていて,どのメジャーリーグの試合よりずっと面白いといっていたので,わざわざ来てみたのだが,それはこういうことだったのだ。
ダウンタウンにあるターゲット・フィールドが水道橋の東京ドームだとしたら,ここは,北千住の夏祭りか。
夜6時開場。
野球場は,日本の田舎球場とさして変わらないが,外野のフェンスが広告の看板であるのとグランドが美しい全面芝であるのが,アメリカである。
日本のそれがコンクリートの塊なら,こちらはテーマパークである。
しかしぼろい。
予算がないのがよくわかる。でも,さして収容人数の多くない客席は,満員であった。
ここの球団から大リーグに昇格した夢をかなえた選手の銅版がいくつか野球場の壁に埋め込まれてあった。
一番面白かったのは,ファールグランドにも急ごしらえで作られたスタンドがあったことであった。グランド内でも直に野球がみられるのだ。
そして,内野の後方の座席もまた,バーベキュー会場だった。
客席には,マドンナとかいう名前のピンクのかぶりもののマスコット ―いわゆるゆるキャラ― やら,2匹の名物ブタやら,ガート・ザ・フォロートとかいう名前の,やたらと厚化粧のよくわからんおばさんやらがスタンドを闊歩し,試合は,イニングの終了ごとに,観客から数人がグランドに降りて,毎回異なるなにやらわけのわからない競争をした。そして,出場者の家族がスタンドを一番前まで降りてきて,ゲームそっちのけで応援した。
それはまさに町内会の運動会であった。
特別編・2013アメリカ旅行LIVE・番外編
今回の旅行で出発前に調べてもなかなかわからなかったアメリカのネット事情について,経験をもとに書きます。
空港は有料です。アクセスポイントはありますが,有料の接続契約サイトにつながります。
ただし,空港内のレストランに無料で接続できるところがあって,そのレストランの中に入らなくても付近の待合席でその電波が拾えます。
ニューヨークのケネディ国際空港(JFK)は,待合所に iPad が座席ごとに完備されていて,自由に使えます。街中では,マクドナルドは無料で接続できます。他にもおそらく,スターバックスなども無料で接続できると思います。
ホテルはまず,大丈夫です。ホテルによって,パスワードが必要なところや必要でないところかあります。フロントで教えてくれます。また,郊外を走っていると,フリーWifiと書かれた看板を見かけます。
もかく,iPad か iPod は必需品です。
2012アメリカ旅行記-ミネアポリス・番外編②
アメリカの国技と呼ばれるベースボールは,下部組織がしっかりしていて,日本の国技である大相撲の序ノ口,序二段,三段目,幕下,十両,幕内のように,様々なランクがある。
下はルーキー・リーグから始まり,A,AA,AAA,そして,メジャーリーグである。
アメリカを旅行して楽しいのは,メジャーリーグではなく,こうしたマイナーリーグ観戦があげられる。
日本のいわゆる2軍とは違って,独立採算性であるので,きわめてファンサービスがよく,観客動員にも力をいれている。
試合中に様々な出し物があったり,スタンドにも,床屋さんあり,プールあり,バーベキューコーナーあり,といった具合である。
案内所に出向いて,日本からわざわざ見に来たとかいうと,お土産をくれたりもする。
きわめて低コストで運営されているので,審判は2人,スタンドも,チケット売り場のおじさんがお土産屋さんになったりと大忙しである。
さらに,こうした大リーグ機構とは別に,独立リーグというものもある。
選手は,大リーグ機構でドラフトにかからなかったり,引退したりした選手が多い。
この「セントポール・セインツ」は独立リーグのひとつである「アメリカン・アソシエイツ」に属する強豪?チームである。
日本人や女性もプレイしたことがある。また,指折りの観客動員数を誇っている。
アトラクションに動物を起用した元祖として知られ,球団のマスコットは「マドンナ」である。
確かに,メジャーリーグを見に行くよりも,非常に安価であり,サービス満点であり,子供連れなら,日本でお祭りに出かけるような,あるいは,町内会の運動会のノリで見に行くことができる。
私を案内してくれたおじさんは,私が,このチームを日本のテレビ番組で知って見に来たといったら,ものすごく親切だったし,気を使ってくれた。
スタンドでは,イニングごとに行われるゲームに出場する家族を応援する人たちでごった返し,地元のFM局の放送もある。きわめて座席が少ないために,身近に選手やマスコットに接することができるし,お客さんも「隣のおばちゃん」みたいな人ばかりなので,すぐに,仲よくなれたりもする。
名所・旧跡を訪れるのもよいけれど,あるいは,大リーグを見に行くのもよいけれど,普段着のアメリカを見たければ,訪れた都市のマイナーリーグや独立リーグを観戦することを,ぜひ,お勧めしたい。
日本の野球も,2軍の試合は,子どもたちを無料で招待して,選手と触れ合う機会をたくさん作り,お祭りのように屋台やら夜店やらを加えれば,もっと,ファンが増えると思うのだけれど,2軍は修行の場とかいう,日本的な考えがあるので,受け入れられないであろう。
残念なことである。
2012アメリカ旅行記-ミネアポリス・番外編①
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ミネアポリスはとても素敵な都会だった。
日本からは直行便があるし,公共交通も完備されているから,東京を歩いているように,過ごせると思う。治安もいいし,初めて一人旅をする人にお勧めの都会だ。アメリカまで来たという感慨すらないかもしれなほど身近なところだ。でも,冬の寒さはたいへんらしい。
これまでに書いてきたいくつかの事柄について,載せることができななった写真を,今日は「番外編」として紹介することにしよう。
・・
初めに,ミネソタ州議事堂の上院と下院,そして,裁判所。
ミネソタ州の州都はツインシティとよばれるミネアポリスとセントポールのうち,セントポールにある。州議事堂は威厳のある建物で,自由に見学ができる。そして,ガイド付きの見学ツアーがある。日本語のパンフレットもある。親切な受付で「パンフレットないですか?」と言ったら,日本語もあるよ。って言われた。
こういった建物を訪れると,その美しさに目を奪われる。
日本でも,明治時代の建物には,京都府庁をはじめ,威厳を感じさせるものもあるけれど,昭和後期以降に建てられたほとんどのものは,観光で訪れるといった魅力がないのが残念である。
日本人は,生きることに思想や誇りがない。
なんの目的もないのに,我慢することだけが美徳だ。
州議事堂の建物の中には,州知事の部屋や,この写真のような上院・下院,そして,裁判所がある。
これは,ノースダコタ州議事堂も同様であった。
ミネアポリスは,スヌーピー,いや,漫画「ピーナッツ」の作者,チャールズ・モンロー・シュルツの出身地である。
チャールズ・モンロー・シュルツは貧しいドイツ系移民で理髪師だった父カールと,ノルウェー系の移民だった母ディナの一人息子として1922年11月26日,ミネアポリスに生まれ,セントポールで育った。生まれてまもなくつけられた愛称はスパーキー。漫画に出てくる馬の名前スパーク・プラグから取った名前だった。今でもスパーキーと呼ばれているシュルツは,漫画にちなんだ愛称と共に,まさに一生を漫画に捧げている。
スヌーピーは,シュルツが1950年から書き始めたもので,ミネアポリスには,写真のような,スヌーピーのモニュメントがたくさんある。
・・・・・・
私が漫画家になるべく生まれて来たことは、なかなかみんなには理解してもらえません。本当に幼い頃から、私の夢は、新聞に連載漫画を毎日描くことだったのです。
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お昼に食べたペーグルは写真のもので,「ここの店には,アイス(ド)コーヒーもあり,すしバーガーもあった。すしバーガーに挑戦しようと思ったが,アボガドの入ったすしを食べる勇気がなかった。」と書いた。
しかし,今,写真を見てみると,どうやらすしにアボガドが入ったものでもないみたいで,やはり,これは注文すべきだったようだ。そうすれば,どんなものかよくわかっただろうに。
アメリカで「アイスコーヒー」というのも興味がある。
以前,ニューヨークのハーレムのレストランで,こぶしの大きさくらいのフライドチキンと一緒にアイスコーヒーを試しに頼んでみたら,そんなものないが,作り方を教えてくれればサービスする,と言われたのを思いだした。
旅に出たら,躊躇しないで,どんどんと興味のあるものは挑戦しなくちゃいけないなあと改めて思う。
ミシシッピ川クルーズの船着き場にいた足長おじさんの写真も写した。隣のおじさんは単なる観光客のおじさんであって,腹出たおじさんではない。まあ,いずれにしても,どんな状況でも,楽しみを見つけるあたりが素敵なところだ。
ミシシッピ川は,ミネアポリスからアイオワ州,セントルイスを通り,最後にニューオリンズまで流れていくのだが,それぞれの場所で,まったく異なる印象があるのが,不思議でもあり,魅力でもある。これまでそうした景色を多く見てきたが,そのどの場所にも素敵な思い出がある。
ミネアポリスのミシシッピ川には底しれぬ明るさを感じる。行ったときの天候によるものかもしれないが…。
この川のセントアンソニー滝は,滝の勾配はあまりないが川幅が広いので,それを堰き止め,粉引き用のタービンを回すのに利用することで多くの製粉工場が作られた。そして,ミネアポリスは小麦粉の一大生産地となった。
アイオワ州で見たミシシッピ川は,何かしら,丘の上から底深く流れる大河のように感じたという印象がある。
セントルイスは,ミシシッピ川の東側がいわゆる「イーストセントルイス」といって治安のよくないといわれているところでもあり,対岸に渡ってはいけないような,そんな印象がある。ここは,南北戦争のときの奴隷開放の要所であって,そうしたことを取り扱った博物館もあり,もっとしっかりアメリカ史を研究してもう一度訪れてみたいところだ。ここでも,ミシシッピー川クルーズがあったが,時間がなく,利用できなかったのが残念だった。この川にもいろいろな歴史があるのだろう。
そして,ニューオリンズ。このアメリカらしくない魅力にあふれた都会のことについては,すでに書いた。とにかく,ミシシッピ川の似合う都会だ。
なかでも,いずれ紹介することもあると思う「ハンニバル」というトムソーヤの故郷から眺めたミシシッピー川が印象的だった。川に沿って,古びた鉄道の線路があって,それが,なにかしら子供のころのなにかの思い出と結びついていくところだった。
このように,旅をするというのは,その土地の空気を味わい,その土地の食べ物を食べ,その土地の人と接することだ。そして,そうした思い出は,月日が過ぎれは過ぎるほど,どんどんと美化され,自分の宝物になっていく。
すばらしいことだ。
・・
なにか身近かで,親しみやすい近代都市ミネアポリス…。
ミシシッピ川クルーズを堪能した後は,朝予習をしたように,セントポールからバスに乗って,独立リーグ「セントポール・セインツ」の野球観戦に出かける。
抱腹絶倒,この場末の野球チームとは?
大リーグとはまた一味違ったアメリカの「ナショナルパスタイム(国民の娯楽)」の魅力とは?
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス⑧
しかし,橋をわたってたどり着いたのは,ミシシッピ川クルーズの乗り場でななく,ショーボートの乗り場だった。
そこにいた人に,この船はクルーズするのかと聞くと,これは停泊しているだけだ,というではないか。ではクルーズはどこから乗るのかというと「それはいい質問ねえ」とかいいながら,思案げにどこだろうかと彼女の友達に聞いている。憎めない人たちだ。
結局わかったことは,ショーボートの乗り場のはるか100メートルくらい先にクルーズの乗り場があるということだった。
ちょうど時間は午後1時少し前だったので,ちょうどキリがいいところで,午後1時発の船があったとしたら間に合うかな? と思って走って乗り場に向かうと,まさに,ちょうど,船が出るところだった。
乗り場のチケット売り場で急いで聞いてみると,この船は団体専用で,次の一般用の船は午後2時発だという。そして,クルーズの所要時間は1時間30分だということだった。
クルーズをするにはちょうどいい時間だったので,チケットを購入して,船が出るまでの1時間,のんびりとミシシッピ川とその向こうに広がるセントポールのダウンタウンを眺めていた。
気温はかなり高かったが,日陰は涼しくて,とても気持ちがよかった。
時間が近づいたので乗船のために並んでいると,足長おじさんが歩いてきて,船を待つ人たちを楽しませていた。
やがて,乗船。
観光船は,ミシシッピ川を下って行く。
クルーズは,幸い屋外の先頭の座席が1席だけ空いていたので,そこに座って1時間30分のクルーズを楽しむことができた。
船は,まず,ミシシッピ川を1時間ほど南に下り,そこでターンして少し速度を早めて戻るというコースだった。
川岸には,昔の鉄道の跡だとか,いろいろな施設や昔はさぞかし栄えたところだろうと思われる様々な遺構などがあって,ミシシッピ川の歴史がしのばれた。
きっと,ものすごく多くの,それぞれの重い重い人生が,この川の流れの底に横たわっているのであろう。
クルーズは感慨深いものがあり,素敵だったが,いろいろな国籍の人が乗っていて,その中にはかなりマナーの悪い人もいたのは不快であった。いつも,クルーズというのはそういうものであるのが残念なところだ。
まあ,観光地というのは,概して,そういうものだ。
だから,お年寄りの観光客が少ししかいないノースダコタ州は,素敵なところだったなあ,と今にして思い出すのであった。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス⑦
公共交通で観光をするのは結構大変なものだが,こうした偶然もあるし,普通に暮らしている人の姿を見ることができるから面白い。
この時は,乗るバスを間違えたと思ったのに,幸運にも,セントポール大聖堂に着いてしまったわけだ。
朝9時であった。
大聖堂はちょうど結婚式の準備で,花嫁さんが写真をとっていたり,華やいだ雰囲気だった。
こちらの教会ではよく結婚式に出会う。
大聖堂をぐるりと一周して,次に歴史博物館,ミネソタ州議事堂とめぐることにした。
歴史博物館はたいしたことはなかった。ミネソタ州議会議事堂は,土曜日で閑散としていたが,案内所は開いていて,上院と下院の議事堂,そして,最高裁判所の中にも入ることもできた。
その後,セントポールのダウンタウンに向かって歩いて行った。
ダウンタウンは,ミネアポリスから接続されるトラムの工事中で道が閉鎖されたりしていて,歩きにくかった。
それに,ダウンタウンも土曜日で,閑散としていた。
ミネアポリスに比べて,セントポールは観光地というよりもビジネス街と官公庁街であった。
ダウンタウンに「ブルーガーズ・ベーグルズ」という店が開いていたので,ここで昼食をとった。
ベーグルとお好みの肉や野菜をサンドしたもの,スープ,そしてコーラの3品で,トリオという名のセットだった。
ここの店には,アイス(ド)コーヒーもやすしバーガーもあった。
すしバーガーに挑戦しようと思ったが,アボガドの入ったすしを食べる勇気がなかったのでやめた。
昼食後,これからどうしようかと考えた。
科学博物館があるということだったが,まあ,他の都市にもあるのとそう違いがないであろうと思った。そこで,ミシシッピー川クルーズに乗ることにした。
そういえば,ミシシッピー川は,これまで,セントルイスやニューオリンズへ行ったときに何度も見たけれど ―アメリカにあこがれていた若き頃に,ミシシッピ川を一度見ることが夢だった― クルーズはまだやったことがなかった。ダウンタウンの坂を下ると,偶然,そこは,ミシシッピ川の川岸であった。ワバシャストリートに橋がかかっていて,その橋をわたった向こうに船がいた。
どうやら,そこがクルーズの乗り場らしい。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス⑥
16番のバスに乗った。
外を眺めるが,はじめのうちは,どこを走っているのかさっぱりわからなかった。運転手は,次に止まるバス停を放送しているのだが,発音が聞き取りづらい。
必死に小冊子や地図とにらめっこをしていたら,距離感や今どこを走っているか,そして,運転手の発音が,だんだんと明確になってきた。
乗車して20分ぐらいすぎたころだろうか,ミネアポリスとセントポールの中間あたりになって,進行方向の右側に大きなモール街が広がった新興住宅地のような一角にたどりついたころ,スネーリングストリートという放送があったので,降りることにした。
セントポールセインツのミッドウェイスタジアムはスネーリングストリートとコモ公園のところにある。
このバス停で,84番バスに乗りかえて北に5分行けば,目的地に着くということがわかったのは,しかし,のちのこと,しかも,16番の一緒に降りた大学生らしき人物が,その時ちょうど止まっていた84番の北行きのバスに飛び乗ったとき,一緒に乗ればよかったのに,そうしなかったのは,そのときは,バスに乗らなくても,北に少し歩けばコモ公園に着くだろうという間違った認識があったからだった。
結局,スネーリングストリートを北に20分くらい歩いても,コモ公園に着かないので,ついに力尽きて,たどり着いたスネーリングストリート沿いのハムライン大学で84番のバスを待っていた学生がいたので,一緒にバスを待った。
やがてバスが来たので乗ったら,すぐに窓から,東のほうに小さな野球場が見えた。
次のバス停が目的地だった。
ちなみに,バスには自転車も乗せられる。
ここだと思って,バスをおりて,その方向だと思われる道を歩く。しかし,歩けども歩けど目的地に着かない。東西に鉄道の線路が走っていて,その南側に球場があって,歩いていた道は線路の北側なのであった。線路には踏み切りなどというものはなくて,線路を隔てた向こうの野球場に行くことができないのだ。
結局,バスを降りたところまで引き返して,今度は,線路の南側の道を10分くらい歩いていくと,ようやくセントポールセインツの野球場にたどりついた。非常にひなびた,しかも,古い,場末の野球場だった。
朝早いのにもかかわらず,すでに,野球場の外ではバーベキューの準備をしていた。
野球場の場所を確認して,バス停まで引き返し,84番でユニバーシティアベニューまで南に行って,16番のバスを待つ。そこに来たのが,セントポール行きの21番のバスだったので乗りこんだ。
しかし,一緒に待っていた人たちは他に誰も乗り込まなかった。
このバスは,やがて,ユニバーシティストリートを南に離れ,セントポールの住宅地に入っていってしまった。一瞬あせった。このバスは,セントポールへ行くのに,迂回をするようだ。まあ,ともかくセントポール行きだから最後には目的地に着くからとのんびりと構えていると,バスはやがて,セントポール大聖堂へ着いた。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス⑤
☆8日目 7月28日(土)
朝起きて,ホテルのロビーへ降りる。このホテルはロビーにフードコーナーがあって,朝食をいろいろと売っている。甘いパンを食べたくなったので,砂糖をまぶしたパンとフルーツジュースを購入して部屋にもどる。部屋でコーヒーを沸かして,いっぱしの朝食が完成する。
きょうは,セントポールへ出かけ,帰りに,独立リーグ,セントポールセインツの試合を見る。チケットはすでにインターネットで購入済みである。
大問題なのは,セントポールセインツの野球場へどうやって行くか,どうやってホテルまで帰るか,ということであった。バスの路線がよくわからない。車社会のアメリカでは,公共交通を使うときの情報を見つけるのがむずかしい。
ベッドの上にいろんな資料を広げて検討するが,どの地図も,どこかが便利だとどこかが不便で,どれを持っていけば何とかなるか -結局「Where」という地図が一番役に立った- がわからない。
セントポールセインツのボールパークへは,最寄りのバス停はスネーリングストリートとコモだとホームページにあった。バスは5番が84番だというが,このバスにどこで乗ればいいのかよくわからない。はたして,今晩,ちゃんとホテルに帰ってこられるのだろうか? それに,5番にも5Aやら5Bやら,84番にも84Aやら84F やら最終地点が変わるものがあるみたいだ。
とりあえず,なんとかなりそうなものを一式,ナップザックに詰め込んで,出発した。
調べてみると,公共交通を利用するには,6ドルで1日乗り放題券を入手するといいことがわかった。その券は,トラムの乗り場で買えるということなので,まずはメトロドームのトリムの駅まで出かけて購入した。そのとき,ホテルの部屋をちゃんと閉めてあったか不安になって,めんどうだったけれど,一度ホテルに引き返した。
部屋を確認して,再び,出発する。ホテルの前の道の一本南の道をセントポール行きのバスが通っていることは確認してあったので,そこでバスを待つ。
「地球の歩き方」によれば,95番のバスがフリーウェイ経由ではやくセントポールに着くということだったので,それを待つが,来たのは16番のバスだった。
あの本は便利だが,肝心ことがよくわからないことがある。たとえば,ダウンタウン行きといっても,ダウンタウンは広く,バスはダウンタウンのどこまで行くかなど。
そういえば,この本には,決定的に致命的な欠点がある。それは,この本がものすごく重たいということだ。旅で持つ本は,できるだけ軽いものでなければならない。改定するごとに,紙質がよくなって,どんどんと重たくなっていく。この本は,旅行をするためのものから,旅行ができない人が旅行したつもりになるために読むグラビア本に変わってしまったのか。
出版社の人は,この本を持って,旅行したことがあるのだろうか?
実際に旅行をしたときに必要な情報や本の形状や重さはどういうものかを,いくら内容が多くなろうと,もっと旅行者の気持ちになって考えるべきだと,私は,1980年版の軽い本を手元に置きながら,思うのである。
・・
まだ,朝の7時すぎだ。のんびりと景色をながめながらセントポールへ着けばいいと思って,その16番のバスに乗り込んだ。乗車券は運転手のところにある機械を通せばいいのだが,はじめは,それもどうすればわからない。まあ,こんなことは1回聞けばいいだけのことだけれども。
次第次第にわかってきたことは次のことであった。ミネアポリスとセントポールは,ユニバーシティアベニューという道でつながっているということ。現在,その道に沿って,トラムを走らせる工事をしているので,まもなくトラムでつがって,ものすごく便利になるということ。バスは,どこもおよそ昼間は15分,夜は30分くらいの間隔で走っていて,最終のバスは深夜の0時近くまであるので,とても便利だということ。
バスの中に,経路と時刻表の書かれた小冊子があった。結局,この小冊子がとても役に立った。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス④
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試合は,いつものように国歌から始まり,インディアンズを相手に,点を重ね,ファインプレイが続出して,異常な盛り上がりを見せていた。
他の球場なら,比較的どの席も自由に出入りできるのだが,ここは係員がしっかりしていてガードが固い。
試合自体にはそれほど興味もなかったので、最上段の席に登って景色を見ていた。客席から見えるミネアポリスの夜景がきれいだった。
7thイニングストレッチが終わったので,帰ることにした。
外に出て,照明の輝く美しい球場を外から眺め,少し歩いて,ダウンタウンの駅からトラムに乗り,ホテルに帰った。トラムの乗り場からは,ツインズの勝利を祝福する花火がいつまでも上がっていた。
ところで、部屋にある電話の利用案内に,市内通話「complimentary」とあった。無料ということか。「free」なら誰でもわかる。「complimentary」では,日本の高校生はなんのことかわからないだろう。
こうしてアメリカを旅行していると,知っている,あるいは使っている英語が日本の学校で学んだものとまったく違うことを痛感する。
たとえば,バスに乗ったときに運転手が発する停留所の名前,アクセント重視のこの発音はカタカナ英語ではまったく聞き取れない。
野球場で私の隣にいたアメリカ人が家族と話していた言葉は,「Beer Down Over There Left.」。こういう会話で十分通じているじゃあないか。
とにかく,だれでも目があえば,また,バスに乗れば運転手に「Hi!」と言い,そして,別れるときは「Thank you!」という。人に触れてしまえば,「Excuse me.」と言う。外に出ると他人にいつも無言の日本人は,これが自然にできないので,アメリカで,気難しく思われる。時には,おかしな状況さえ生まれかねないだろう。
むずかしい英語の単語を覚える以前に,こうしたあいさつが自然にできなければ,ストレスフリーなアメリカ旅行は決してできないと思うのである。
攻めと守りの十五尺-土俵の上の夢
大相撲は普段,朝の8時過ぎから始まりますが,このことを知らない人はたくさんいます。
ほとんどの人は,総合テレビが始まる午後4時ころ(NHKBSでは午後1時から放映しますが)から観戦に訪れます。せっかく見に行くのなら,事情が許すのなら,なるべく早くから見に行く方が楽しいのになあ,と残念に思います。
1月,5月,9月に行われる東京場所は,両国の駅を降りて,のんびりと国技館に向かうと,江戸情緒という言葉がぴったりします。お相撲さんも,国技館から部屋が近い場合は草履の音を粋に鳴らしながら歩いてきます。
3月,7月,11月の地方場所は「芝居小屋」のような雰囲気があって,それなりに情緒があります。
7月,梅雨も末期に入り,じめじめとしてうっとおしい季節に,その気持ちを吹っ飛ばすかのように鬢付け油の匂いのするお相撲さんが名古屋の街にやってきます。蒸し暑い名古屋の初夏の風物詩のひとつです。
朝8時,寄せ太鼓の音が,会場である愛知県体育館のある名古屋城に響きわたり始めます。お相撲見物は,この寄せ太鼓の音を聞きながら見に行くのが,粋というものです。
この時間,場内には,数えるほどしかお客さんがいません。取組みが始まるまで,場内には相撲甚句が流れています。
やがて,定刻。 まず「日本相撲協会錬成歌」(作詞・呼出し永男 作曲・甲斐晴文)という歌が流れます。
・・・・・・
磐石の如き 胸板に
鋼鉄の腕 火花散る
攻めと守りの 十五尺
鍛える我ら 鍛える我ら
相撲道
・・・・・・
といったものです。
相撲の厳しさとそれを錬成する心意気がつたわります。
そして,木の音が響き,一番下位の力士と行司さん,そして,勝負審判が入場して,取組みが始まるのです。
テレビで放映する上位の力士は,当然,実力者で,人気もあり立派ですが,私は,そうした上位を目指す若者たちが精いっぱい頑張っている番付下位の取組みを観戦することこそ,生で相撲見物に行く醍醐味だと思っています。そして,そういった姿をみていくと,いかに横綱が偉大なのかということがとてもよくわかります。
幕下以下の力士は1場所に7日しか取組がないので,4勝すると勝ち越しです。中日に見に行くと,4連勝の勝ち越しが生まれます。それほど人の実力には差がないので,ほとんどは勝率5割くらいで勝ったり負けたり,を繰り返すものです。だから,4連勝での勝ち越しというのは,本当にたいへんなことです。
場内から「勝ち越しおめでとう」といった声が聞こえてきたりして,見ていてもうれしくなります。負けたくて負ける力士はいません。だからこそ,勝っても負けても,彼らの姿に感動するのです。
ひとりでも多くの若者の夢がかなうといいね。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス③
結局,この日は,ワインズマン美術館に行くのを断念して,ダウンタウンに向かったが,ミネアポリス美術館も徒歩では遠く,それも断念した。
そこで,なんとかミネアポリス名物の「スプーンブリッジ・アンド・チェリー」と呼ばれる彫刻のオブジェくらいは見なくてはならないと思いつき,とにかく,それがある彫刻庭園へ行って,そのあとに,ターゲットフィールドにMLBを見に行くことにした。
アメリカの都会は,すべてが広いから,歩くとなるとかなり大変だ。車がないとこういう時に不便なのだ。
ここでもかなり歩いて,ミネアポリスのダウンタウンを越え,はるかかなたに彫刻庭園に隣接するウォーカー・アート・センターが見えたときは,足が棒状態だった。
やっと到着したのに,ウォーカー・アート・センターは午後5時までだった。私が着いたのが4時30分。チケット売り場で、あと30分しかないけれど,といわれたが,チケットを購入して,中に入った。
ウォーカー・アート・センターは,トーマス・バーロウ・ウォーカーのコレクションを展示してある美術館で,近代美術が数多くあった。
中も当然広いところで,30分しかなかったので,駆け足だった。
次に,となりの彫刻庭園に行った。ここはオープンスペースで,入場は無料だった。
念願の「スプーンブリッジ・アンド・チェリー」で写真を撮った。
そして,いよいよターゲットフィールドへ向かった。
トマフォークチョップの地-アトランタ・ブレーブス
ジョージア州アトランタは,「風と共に去りぬ」が生まれた地,コカ・コーラ発祥の地,CNNの本部がある地,そして,キング牧師生誕地として有名ですが,私にとっては,アトランタ・ブレーブスのホームタウンです。
1876年から続く最古の球団アトランタ・ブレーブスの本拠地ターナーフィールドは,私の最も好きな球場のひとつです。ただ一度メジャーリーグを見るのなら,ここをお勧めします。
かれこれ20年近く前,オリンピックがアトランタで開催されたころ,アトランタ・ブレーブスは最強の球団でした。特に,1995年は先発三本柱のフル稼働,新人チッパー・ジョーンズの活躍などで,圧倒的な強さで地区優勝,リーグ優勝,そして,クリーブランド・インディアンスを4勝2敗で破り,ワールドチャンピオンに輝きました。
そして,その翌々年には新球場のターナーフィールドが開場しました。
このチームの特徴は応援です。
チャンスになるとスコアボードの上部に取り付けられた「トマフォーク」が動き出し,観客は,これをかたどったスポンジ製の石斧を振りかざしながら「Atlanta Braves War Chant」とよばれる音楽をバックに「ウォー・ウォー・ウォー」と声援します。
このとき,場内は真っ赤な石斧とともに西部劇の舞台さながらの状況となります。
私がこの声援が最も似合っていたと思う選手は,アンドレス・ガララーガです。
「ビッグキャット」という愛称の,独特のフォームで本塁打を量産するこの大打者は,1998年,コロラド・ロッキーズから「ワールドチャンピオンになるため」アトランタ・ブレーブスへ移籍しました。
移籍1年目は大活躍しましたが,皮肉にもリーグ優勝決定シリーズは彼がブレーキとなって敗退してしまいました。翌年1999年は癌の告知を受けて休場,その翌年2000年に復帰し,2度目のカムバック賞を受賞しました。
そして,もうひとりは,当時の先発3本柱のひとりで,生涯355勝をあげた「精密機械」グレッグ・マダックスです。
彼の象徴的な持論は,投手にとって一番過大評価されている記録は奪三振であり「27個のアウトを(1球で打たせて)27球で取るのが最高だ」と公言していたことでした。
彼は,現在,テキサス・レンジャーズのGM補佐です。投手コーチを務めている実兄とともに,時折,ダルビッシュ有投手に助言を送っているのを見ることができます。
時代は流れ,アトランタ・ブレーブスの往年の名選手はすべて去り,黄金時代の一翼を担ったチッパー・ジョーンズも昨年で引退してしまいました。
すでに引退を表明していた昨年の彼は絶好調で,オールスターに出場。最後の打席では,場内総立ちの声援の中,1・2塁間にヒットを放ちました。このとき,2塁手があえて,スローモーションでボールを追いかけていたのが粋というものでした。
・・
黄金時代の「もうひとりのジョーンズ」,アンドルー・ジョーンズは,現在は日本の楽天でプレーをしています。
このような個性派ぞろいのアトランタ・ブレーブス。今年は,現在,ナショナルリーグ西部地区首位です。このまま勝ち進んで,再び黄金時代が来ることを心から願っています。
「バイオリニストは肩が凝る」-音楽への造詣とユーモア
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「バイオリニストは肩が凝る-鶴我裕子のN響日記」(鶴我 裕子著)。
著者の鶴我裕子さんは,我愛するNHK交響楽団で,2007年に定年で退団するまで,第1バイオリンを,後ろの方のプルトで,いつもお疲れのご様子で不機嫌そうに弾いておられた方です。また,文章が上手で,音楽雑誌や音楽会のパンフレットなどにエッセイを寄稿されてきたそうです。
この本は,鶴我裕子さんがNHK交響楽団の団員として,また,ひとりの女性としての日常を綴ったものですが,その軽妙な文章には長い演奏経験からくる音楽への深い理解と造詣,そして,ユーモアが滲み出ています。音楽に興味がなくても思わず,最後まで,一気に読んでしまえます。
人は見かけによらぬ,というか,私は,この本を読んで,鶴我裕子さんがどんなに音楽を愛した素晴らしき方であるかということを再発見し,自分の認識不足と無礼をひどく恥じました。鶴我裕子さん,ごめんなさい。お詫びにこの本を紹介しますからお許しください。
ぜひ,みなさんもこの本を一読されて,ひとりでも多くの人が音楽と読書のすばらしさに目覚めていただければと思っております。
音楽は,時間芸術と呼ばれます。生演奏で再現される芸術ですから,そこには,さまざまな事故(トラブル)が存在し,それがまた,感動的であったりもします。
私は,これまでに数え切れないほどNHK交響楽団の生演奏を聴きましたが,残念なことに? 一度,本番中に体重の重い団員がもたれかかった拍子に椅子の背もたれがバタンと音を立てて壊れたことと演奏中にピアノの弦が切れたくらいで,それ以外に大きな「事故」を目撃したことはありません。
漏れ聞くところによりますと,ここ数年での最大の事件は,2004年10月の演奏会です。新潟の大地震の影響で開始時間が5分遅れたあげく,1曲目の演奏中に指揮者のアシュケナージが指揮棒で自分の手を刺すという事故を起こし(指揮棒が手の中に5センチも残ったそうです),1曲目終了後に病院に搬送されて不在となり,指揮者がいても合わせるのが難しいといわれる2曲目チャイコフスキーの第4交響曲を,なんとコンサートマスターの堀正文さんが指揮者とバイオリンの両方を演じ,弾き振りをしたというものです。
ロマン派以降の大規模交響曲で指揮者なし,というのは前代未聞です。堀さんは,コンサートマスターのポジションで,座ったまま,バイオリンの弓を指揮棒代わりにして,要所要所を振りながらも自分も演奏し,NHK交響楽団の団員は,慎重に音を合わせながら,集中してひとつの音楽を作って行きました。終了した直後に,聴衆の大きな歓声がホール内に響き渡ったのはいうまでもありません。
このお話は,続編「バイオリニストに花束を」(鶴我 裕子著)に,お客さんから指揮者を募集したらと思った,とか,曲が始まる前に緊張しきったコンサートマスターの表情とか,終演後にこんなことはもう二度といやだと管楽器奏者が言ったとか,ユーモアを交えて詳しく書かれてあります。
なお,この本には,この演奏会の様子は放送されなかったとありますが,実際には,曲のクライマックスの5分間だけではありますが,珍しく鶴我裕子さんのアップ姿まで交えて,2012年に惜しまれつつ終了した「N響アワー」で,かつて,放送されたのを,私は見ました。まさにプロの実力,感動しました。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス②
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部屋を出てミネアポリスの観光をして,その後,MLBの試合を見る。それが,今日の予定だった。
ホテルの北側にミルシティ博物館がある。その北にミシシッピ川が流れ,ミネアポリス第一の観光名所,ミシシッピ川唯一の滝であるセントアンソニー滝がある。いずれも徒歩ですぐ行くことができるので,まず,ミルシティ博物館に行くことにした。
ミネアポリスはミルシティとよばれ,かつては製粉の町であった。
ミルシティ博物館は,世界最大といわれた製粉所を改築して2003年にオープンした博物館であった。劇場のようなエレベータがあって,そのエレベータの内部が20人くらいが座れる長方形の客席になっていて,それに乗ると上下して,それぞれの階で止まるとドアが開いて展示が始まるという面白いアトラクションであった。
こういったアイデアを次から次へと考えつくアメリカ人とは一体なんだろう,といつも考えさせられる。
ミルシティの歴史を知ることができるこれらの展示を見終えると,最上階に上って,エレベータから外に出て,展望台からミネアポリスの景色を眺めることができた。
ミルシティ博物館を出て,セントアンソニー滝を一望するストーンアーチ橋へ行く。ストーンアーチ橋はとても長い橋だった。橋は観光客で一杯だった。セグウェイとよばれる電動立ち乗り二輪車による市内散策ツアーの一団もいた。
ところが,この日は,このあとが大変だった。
「地球の歩き方」にはミネアポリスのダウンタウンは徒歩で回れると書いてあったが,そんなもんじゃない。とにかく歩くには広すぎたのだ。
橋を越え,ワインズマン美術館へ行こうと思ったが,それは無謀なことだった。徒歩で行くにはかなり遠い。今にして思えば,うまくバスを利用すれば,簡単に,どこにも行けたのだけど,この時点では,バスの乗り方がよくわからず,躊躇していた。今思うに,空港でトラムに乗るときに,はじめから,1日乗車券を買えばよかったのだが,このときは,バスの経路もわからず,バスの乗り場やバスが来る間隔もよくわからなかった。
もし,1日乗車券を持っていれば,ダウンタウンでは,もっと気軽に,どんなバスであれ来たバスにさえ乗れば,どうにでもなったであろうにと,残念なことをした。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス①
トラムは,空港の駅からは南のモール・オブ・アメリカへ行くものと北のダウンタウンに行くものがあるからホームを間違えないように,と,空港の案内所で言われた。
6年前にこの空港に来た時は,次の便の待ち時間が6時間もあって,となりのモール・オブ・アメリカで過ごした。そのときは,空港からモール・オブ・アメリカまでトラムがあることを知らず,長い間バスを待った。トラムを知っていれば,6時間もあれば,むしろ,モール・オブ・アメリカへは行かずに,ミネアポリスのダウンタウンで観光ができたのにと,あとで後悔したものだった。
そのさらに2年前にこの空港に来たのは,モンタナ州ビュートで交通事故に遭って足を骨折して,車椅子で日本に帰国するときだった。ここにくるたびに,そうしたいろんな思いで一杯になる。
そんなわけで,ミネアポリスのダウンタウンには,今回,はじめて訪れることができたのだった。
行きたいなあ,という思いは,それを思い続けたとき,必ず,実現するものだ。
ミネアポリスとその東側のセントポールはツインシティと呼ばれていて,治安のよい,交通の便利な,落ち着いた町なのだそうだ。ただし,冬の寒さは尋常でなく,両方の町のダウンタウンには,スカイウェイという空中回廊で,外に出なくても移動ができるようになっている。
空中回廊は,冬にたいして寒くもないシンシナティにもあった。シンシナティで空中回廊を歩いたときは,知らぬよその家を通路代わりにして勝手に歩くような,変な感覚があって,面白かった。
まず,トラムに乗って,ダウンタウンに行き,予約をしてあるホテルのチェックインをすることにする。トラムは1ドル75セント。チケットは駅の販売機で購入する。クレジットカードも利用できる。後から思うと,このとき,1日乗り放題6ドルのチケットを買えば,この日の観光に便利であった。
空港の地下の駅から,トラムはやがて地上に出て,北のダウンタウンに向かった。20分くらい乗っていると,メトロドームが見えてきた。
この2日間の宿泊を予約したホテルである「アロフト・ミネアポリス」は,メトロドームから歩いて3分くらいの便利なところにあって,トラムのメトロドーム駅から近かった。駅で降りて,カバンをごろごろと転がして,ホテルに向かう。
「アロフト・ミネアポリス」は,インターネットの予約サイト「エクスペディア」で予約をしてあった。2泊で約16,000円だった。「エクスぺディア」ははじめて使ったので心配だったが,それは杞憂だった。この便利なサイトは,これから,大流行するだろう。
ミネアポリスでは,車のない私にとって,事前にホテルを予約しておいてよかったと思った。
道を隔てた建物には「ワサビ」という名の,日本料理店があった。ノースダコタ州から比べると距離的には遠いのだが,ずっと日本に近づいた気がした。
「アロフト・ミネアポリス」は,ホテルというよりもスポーツ施設のような外観で,中に入ったら,案内所のようなブースがあった。そこがホテルの,フロントらしくないフロントだった。
1階にはバーがあり,かなりゴージャスなホテルだった。アメリカでこんなゴージャスなところに泊まったことはめったにない。本当にこの値段で泊まれるのか,何かの間違いではないか,後で,法外な料金を請求されるのでないかと,だんだんと不安になってきた。フロントでインターネットからプリントアウトした用紙を見せると,この予約は昨日だという。そんなわけはない。確かにきょうが27日金曜日だ。でなければ27日のチケットを持っているMLBが見られなくなる。
いずれにしても,宿泊は2日間なので,たとえ間違いであっても今日は泊まれるしと,なぜか楽観気味であった。確かに,長く旅行をしていると,日にち感覚も曜日感覚もなくなってしまうが,帰りの日にちを間違えたらえらいことになるなあなどと考えていたら,フロントにいたもうひとりの女性が,きょうが27日に違いないと言った。私に応対したフロントの女性が日にちを間違えていたわけだ。
アメリカらしい,いい加減な話だ。この国は,まあ,いつも,こんなふうに素敵なところだ。
そんなこんなで,フロントで話が弾み,地図ももらって,無事,チェックインを終了した。
部屋は5階で,景色もよく,新しく,絶対に,これはなにかの間違いで,あとで,高額な追加料金を取られると固く確信したが,まあ,それならそれでもいいやと思った。
2012アメリカ旅行記-さらば,ノースダコタ③
空港のカウンタにも誰もいなかった。フライトの自動チェックインをした。アメリカの国内便は,荷物を預けると1つ25ドル必要なので迷ったが,結局荷物を預けた。係員が出てきて,かばんにタグを付けた。
結果的には,機内に持ち込んだほうがずっとよかった。到着したミネアポリスの空港が,すでに知っていたこととはいえ,とにかく広く,さらに悪いことに,乗った飛行機の到着ゲートがバゲジクレイムとまったくの正反対のところだったので,移動するのに30分以上もかかってしまったからである。
ちなみに,CARRY-ON SIZEは,インチで14×9×22,センチでは36×23×56。私の持っていたカバンの大きさと全く同じである。
空港のセキュリティを通り,待合室へ入った。待合室には,売店があって,土産を売っていた。
ノースダコタ州の名物は,いまやオイルである。そこで「バッケンオイルシェール」と書かれたTシャツを買った。
ビスマルク空港は,1日に出発する便が数便しかないが,町と同じで,のどかなでこぢんまりとして,きれいな空港だった。
これが,ノースダコタ州の州都であった。
飛行機は,ミネアポリスからの乗客を乗せて,ビスマルク空港に定刻に到着した。そうして到着した飛行機は,折り返し,我々を乗せて,再び,ミネアポリスに向かった。
1時間と少しのフライトで到着したミネアポリスの空港は,とにかく広いところだった。ここは,デルタ航空最大のハブ空港で日本からの直行便もあって,日本語の表示もある。飛行機から降りて,バゲジクレイムの表示にしたがって行くが,行けども行けどもバゲジクレイムに到着しない。やっとのことで到着したら,荷物はとうに到着していて,すでにコンベアは止まり,所在投げにカバンが置き去りにされていた。
カバンを取ると,今度は,ダウンタウンに向かうトラムという市電の駅まで,ずいぶんと歩いた。やっとトラムという表示があったが,そこはトラムの乗り場ではなくて,空港の地下鉄の駅だった。トラムは地下鉄に乗って次の駅から乗るのだった。空港の地下鉄に乗って,次の駅で降りて,やっと,トラムの乗り場に着いた。結局,到着後,空港を出るまで1時間もかかってしまった。
すっかり田舎者になってしまった私は,まさに,田舎のねずみ状態だった。
明日は別の日なのだから-わが心のディープサウス⑤
シカゴ,アトランタ,マイアミと旅をした時のことです。
アトランタは公共交通機関が発達しているので車を使う予定はなく,ダウンタウンにホテルを予約したつもりでした。ところが,実際にダウンタウンに着いてみると,予約していたホテルはどこにもありません。警官に聞くと,タクシーに乗れば行くことができると言われたので従うと,タクシーは一路北へ100キロメートル,チャタヌーガという町に向かうではありませんか。
それにしても,タクシーの運転手さんの上機嫌なこと。ホテルはアトランタのダウンタウンからはるか遠い郊外でした。到着してタクシーを待たせて,同じ系列のダウンタウンのホテルに変更するようにフロントで交渉している間,運転手さんはホテルのロビーで悠々と一服していました。ホテルを変更する交渉が無事成立すると「じゃあ,戻ろうか」。こんな上客に巡り合うのは宝くじが当たったようなものだったのでしょう。
その車内で,アトランタはいつも渋滞だとぼやいていたのを今でもはっきり覚えているのですが,確かに,この地はあまりにも自動車への依存度が高いため、交通渋滞は全米最悪の水準なのだそうです。日本の交通渋滞を知っている身には,それほどとは思いませんでしたが…。
さらに,2000年代前半までアトランタは「全米の危険な都市」の常連,特に殺人の発生率が高かったという話です。確かに,マーガレット・ミッチェルの墓があるオークランド墓地へマルタレイルという鉄道で行ったとき,駅は自動改札となっているものの,若者たちは平気で改札を飛び越えるし,お金をせしめようと声をかけられるし,駅周辺のムードは最悪でした。
都会にはいろいろな面があるもので,それだけ人が生きるというのは大変なことに違いありません。そんなアトランタですが,オリンピックの開催を機に再開発が進み,現在,ダウンタウンは活気と若々しさに満ち溢れています。
そんな南部の歴史や文化から生まれた名作「風と共に去りぬ」を書いたマーガレット・ミッチェルが住んでいたアパートは,マーガレット・ミッチェルハウスとして保存・公開されています。
マーガレット・ミッチェルの生涯は「風と共に去りぬ」のスカーレットとそっくりで,実際,物語のエピソードの多くは彼女の人生と重なります。マーガレットとレッドの結婚生活も冷えていって,ついに,レッドは離婚を決意して静かに去っていくのです。
去っていくレッドの後ろ姿とともに,南北戦争・南軍の敗北によって「風と共に去った」古い価値観を捨て新しい価値観が国家をよみがえさせるのだということを,小説のラストシーンは暗示しているのでしょう。
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Tara. Home.
I'll go home,
and I'll think of some way to get him back.
After all, tomorrow is another day.
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タラ わたしのふるさと。
わたしはふるさとに帰るわ。
そして,彼を連れ戻す方法を考えてみるわ。
明日は別の日なのだから。
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タラというのは架空の地。近年,タラはジョーンズボロにあったのではないかと言われるようになりました。ジョーンズボロの観光案内所には「タラへの道」という小さな「風と共に去りぬ」博物館が併設されていて,世界中から人々が訪れる名所になっているということです。