しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

November 2013


 きょうはすごく寒い日だったわ。本当に秋はどこへ行ってしまったんでしょう? 
 こういう日は鍋に限るわね。鍋といえば,しゃぶしゃぶ,しゃぶしゃぶといえば,お肉なんだけど,そのお肉も食品偽装で騒がれちゃって,牛さんもかわいそう。でも,食べてもわからないということなら,いったい何が悪いのかなあ,なんて私は思ってしまうけど。
 「だますあなたが悪いのかだまされる私が悪いのか…」と昔の人が言っていたっておじいちゃんから聞いたわ。でもね,だましちゃいけないわよね。
 私の周りにも,やたらとブランド品を身につけている人や,初対面の人をみると出身大学が気になる人がいるんだけど,そういう人は,きっと食品偽装ニュースって,とても気になるんだと思うわ。
 私は,そんなことよりも,中身がわかる人になりたいなあ,なんて思っているのだけれど,生意気なのかなあ…。
 そうそう,そういえば,テレビ番組に,「芸能人格付けチェック」というのがあったわね。
 ああいう番組見ると,本物がわからない人って,ある意味幸せだと思うわ。だって,10,000円のお肉と1,000円のお肉を食べて区別がつかなければ1,000円で満足できるわけでしょ…。


 クリスマスまであと1か月。
 クリスマスセールといえば,町を歩いていても,なんだかかうきうきしちゃうんだけれど,私はひとつだけいらいらすることがあるのよね。それはね,「X'mas」。「X'mas」なんて間違いで,正しくは「Xmas」なんですよ。
 それもね,とってもおしゃれで素敵なお店のポスターがこんなふうになっているのを見ると,本当にがっかりするわ。
 きのう書いたブランド品もそうなんだけど,本当の本物は肩書とかブランドじゃないわよね。その見分けがつかない人ってかわいそう。
 よく,高級マンションのポスターなんかに英字新聞がさりげなく居間においてあったりするじゃない。その英字新聞の内容が3流ゴシップ誌だったりすると,ああ,このマンションは見かけだけのイメージなんだ,ってがっかりしちゃうわ。
 中身もないのに着飾っても所詮はメッキなんだって。



 きょうは,ミスド(ミスタードーナッツってこう呼ぶでしょ)でスヌーピードーナッツを食べたわ。
 秋には「マロンドーナッツ」っていうのがあって,私は,はまってしまったのだけれど,今度はクリスマスが近づいて,スヌーピードーナッツなんですって。
 あまりに可愛くって,なんか食べちゃいけないような,かわいそうなそんな気がしてしまうのだけれども,でも,食欲に負けて食べてみると,これがまたおいしいのよね。
 あなたなら,どこから食べますか? 私はもちろんお鼻から。お鼻のチョコがおいしいし,お耳の部分にはクリームも入っているよ。
 そうだ,週末に,六本木ヒルズのスヌーピー展に行ってこようっと!
 CNNでやっていたニューヨークのメイシーデパートのサンクスギビングのパレードで,大きなスヌーピーとかキティちゃんのバルーンを見たんだけど,キティちゃんってアメリカでも人気なのね。でも,アメリカにはスヌーピードーナッツなんてあるのかしら。



 ことし注目の言葉は,「セルフィー」だったって先週書いたけど,「トワーク(Twerk)」という言葉も話題になったんだって,TIMEっていう雑誌に書いてあったわ。
 ラチェット(Ratchet)なんていう言葉も聞くけど,ラチェットって,クラブに来てる自分をかなりイケテルと思い込んでるおバカで下品な太ってるおねぇちゃんたちのことなのよね。でもね,わざとこんな言葉を書いた帽子やらTシャツを着たかわいい子がいたりするのは,嫌味かもね。
 それでね,そのラチェットたちがクラブで踊るのがトワークっていうお尻フリフリするダンスなの。昔からあるんだけど,最近そのダンスをトワークっていうようになったの。
 で,セルフィーもそうだけど,トワークも今年のオックスフォードに載ったんだって。
 辞書を作るのが大変なのは,新解さん(三省堂の新明解国語辞典)だけじゃないんだね。



 もう11月も終わりよね。
 来年のお正月は,1月4日,5日が土,日なので,お休みが多くてうれしいなあ。
 そういえは,山の日といかいう祝日を作るとかいう話を聞いたんだけど,これ以上休みが増えても困るんで,8月11日にするそうよ。その日はもともとお盆休みじゃないの。なんだかやることがとっても日本的よね。
 どおせ山の日なんて作るんなら,川の日も湖の日も作っちゃえはいいのよね。8月12日と13日にすればいいじゃない。どっちみちお休みだし。
 天皇誕生日だって,そもそも明治天皇のお誕生日は11月3日で,昔は天長節って言ったんだっておじいちゃんが言っていたけれど,今も文化の日とかでお休みでしょ。昭和天皇のお誕生日だって4月29日で今はみどりの日でやっぱりお休みだし。どうして大正天皇のお誕生日(8月31日)はお休みでないの?なんてよくネット上に書いてあるんだけど,いっそ,こうなったら歴代天皇のお誕生日は全部お休みにしたらどうかしら・・・。
 冗談はともかく,私は,祝日増やすよりも,土曜日が祝日のときも振り替え休日にしてもらいたいなあ,ってずっと思っているけど,皆さんはどう?
 そうそう、アイソン彗星消滅しちゃったんだって?! じぇじぇじぇじぇじぇ…。
 じゃあ,また来週ね。

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 私は,フェンウェイパークにいる。
 念願だったボストンレッドソックスの試合を,今,見ている。
 きょうの試合のチケットを持っているわけもなく,ただ,明日の試合を見に来るための予行演習のつもりで地下鉄に乗って最寄りの駅で降りただけだったのに,我に帰ったら,スタンドでベースボールを見ている…。
 スタンドで周りを見渡しながら,ああ,これが,あこがれの「グリーンモンスター」なんだ,これがよくテレビに映るバックネット裏の中継席なんだ,ああ,これが投球練習場なんだ,と実感すればするほど感激で胸が一杯になる。何度それを繰り返しても,その度ごとに胸が一杯になる…。

 ケンモア駅で地下鉄を降り改札を出て他の乗客の流れについて地上に出た。そこはコモンウェルスストリートという広い通りに面していて,歩道にはスポーツパブやらダンキンドーナッツやらメキシコ料理店があって,多くの野球観戦にきた人たちでごった返していた。なかには,今日の試合のチケットあるよ,みたいなおじさんたちもいた。いつもの試合前のボールパークの雰囲気であった。
 このままフェンウェイパークの周辺まで行ってみようとコモンウェルスストリートを西に歩いて行くと,広い交差点に差し掛かって,ここを左折してブルックリンアベニューに入った左手に「チケット」というのぼりが立てられたビルがあった。綺麗なビルの一階が,ショールームのような感じの作りになっていた。売り切れであると日本では言われているチケットがあるのかなあと思って中に入ってみた。その時は正規の球団のチケット売り場だと思った。
 カウンタ越しにいた店員の女性にきょうの試合のチケットあるのですか? と半信半疑で聞いてみたら,もちろん,みたいな感じで,コンピュータで調べて,いい席がありますよ,と言ったので,いくらかと尋ねると,90ドルの席が65ドルだといった。そこで,思い切ってそのチケットを購入することにしたのだった。
 そんなわけで,思いがけずベースボールを見ることになったというわけであった。

 日本から来たのだが,日本では,ここの球場はいつも満員札止めでチケットが買えないという情報なのだけど,と聞いてみると,確かにネット上ではすべて売り切れているが,年間指定席などでその日に行くことができない席がこのように売りに出されるのでチケットはあるのですよ。という話であった。
 そんなわけで,私は,何と三塁側一階席という素晴らしい席のチケットを持って憧れのフェンウェイパークにやってきたのであった。

 日本に帰ってから調べてみたら,そこは,ACE TICKET という日本でいう金券ショップだったのだが,その時は,なんか変だけど正規の球団のチケット売り場だと思っていた。確かにネットで検索すると,合法的にこういったチケットを安価で買って転売するサイトがたくさんあった。この売り場もそういったもののひとつであったわけだ。
 大リーグのチケットは正規では払い戻しができない。雨で順延になっても,日程が変更になるだけなので,旅行者にとっては困ってしまう。
 チケットはよほどの人気カード以外はこのようにして入手するとこができるんだと知った次第であった。

 人の流れに従って,ブルックリンアベニューを南に進んでいくと,インターステイツ90(通称「マサチューセッツターンパイク」)をまたぐ陸橋になっていて,その橋から左手に憧れにフェンウェイパークが見えてきた。ドキドキしてきた。球場というより,遺跡のような感じであった。ものすごく賑わっていて,まわりの道路にも店が出たり,遊園地のようであった。
 もう,開始時間が間近に迫っていたので,球場の周りをまわってみたかったけれど,さっそく中に入ることにした。どのゲートも長い列ができていた。
 きょうは,野球を観る予定ではなかったので,せっかく持ってきた望遠レンズを付けたカメラをもっていなかったけれど,逆に,バッグを持っていなかったのでセキュリティチェックもなく,チケットを機械に通すだけで,中に入ることができた。
 フェンウエイパークは,1912年に作られた最古の球場で,1ブロックの広さしかない変形五角形の土地ぎりぎりに作られているので,スタンドもグランドも変形であって,そのユニークさがたまらない魅力になっている。駐車場もほとんどなく,関係者の車が,かなりせまい場所にほとんどすきまがないくらいに駐車してあったのが面白かった。これらの車を出すにはまるでパズルのように頭を働かせねばならないであろう。
  ・・
 もっと,古くて汚い球場を予想していた。ところが,それなりに古びてはいたが,ちゃんと売店がならぶコンコースもあり,最新設備もあって,しっかりと補修されているのにびっくりした。これなら,新球場建設の話が出るたびに反対運動が起こるのも理解できるなあ,と思った。これで,なんの問題もない,というより,新しいどの球場よりも魅力的なのである。
 以前行ったことがある,これも古いシカゴのリグレーフィールドも,また,魅力的な球場であったが,それと双璧をなすものであった。


◇◇◇
きょうは「ブラック・フライデー」です。
「ブラック・フライデー」とは, アメリカ合衆国で,感謝祭(11月の第4木曜日)翌日の金曜日のことです。1961年ごろからフィラデルフィアで始まり,1975年にはかなり広まった比較的新しい言葉です。
この日からクリスマス・セールが始まり,小売店が黒字になることからこう呼ばれています。また、ブラック・フライデー当日は感謝祭プレゼントの売れ残り一掃セール日でもああります。この売り上げによって,アメリカの景気の動向が占えます。近頃は,不況のために,この日を待たずにバーゲンセールを開始するデパートが現れたそうです。

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11月27日,オバマ米大統領は,娘のマリアさんとサーシャさんらが見守る中,「ポップコーン」と「キャラメル」と名付けられた2羽の七面鳥に手をかざして,毎年恒例となっている恩赦を言い渡しました。
これらの七面鳥は,ワシントン近郊にある初代大統領ジョージ・ワシントン邸宅,マウントバーノンで公開されたのち,悠々自適の余生をおくります。

Happy Thanksgiving.
◇◇◇

アメリカは,大寒波の中,Thanksgiving Day の休日になりました。このブログにも書きましたように,この日は,1621年,プリマスに移住したピルグリム・ファーザーズが,近隣に居住していたインディアン・ワンパノワグ族からトウモロコシなどの栽培知識を教授されて生き延びることができたそのお礼に,彼らを招待して,神の恵みに感謝して共にご馳走を頂いたことが始まりだと言われています。この日は,アメリカでは祝日で,家族や親戚が集って大規模な食事会が行われます。前日は,交通機関が大渋滞・大混乱となるのですが,今年は,大寒波で,各地で大変な状況が生まれています。

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 ナイアガラの滝の手前には小さな町がありました。その町を抜けてしばらくすると,左手に白い蒸気が立ち上っているのが見えるようになりました。
 ナイアガラの滝に到着したのです。
 走ってきた道は,アメリカとカナダの国境のゲートにつながっていました。
 すでにカナダ側には行ったことがあるし,国境を越えるという経験は,ワシントン州でカナディアンロッキーへ行ったときに経験しているので,ここで国境を越えると,再入国するにに時間がかかるということだったので,アメリカ側のナイアガラの滝を観光することにしました。
 以前,カナダ側からナイアガラの滝を見たとき,国を隔てた橋の向こうに星条旗がたなびいているのをみて,「あの向こうがアメリカで…」と言われたのを思い出しました。まさか,その数年後に,そのアメリカ側にいるとは!

 直進すると国境に向かう道を橋の手前で左に折れて,しばらく走ったところに無料の駐車場があったので,そこに車を停めました。車を離れ,少し行ったところのお土産屋さんへ行って,また,車に戻って,駐車した位置を確認しました。
 ゴート島という島からの観光がベストらしいので,その島へ歩いて行こうとも思ったのですが,どうやらその島まで車で行けるというので,再び車を走らせて島に向かいました。
 島に渡る橋を越えて,道なりに進みました。
 ガイドブックに書いてある地図には,道は島を一周しているようなのですが,道は一方通行,しかも,路上駐車禁止となっていて,観光をするには車をどうしていいのかよくわかりませんでした。しばらく進んでいくと,前を走っていた車もよくわからないらしく,うろうろと走っていました。
 すると,無料の駐車場がありました。一旦はそこに車を停めたのですが,まだ滝には遠そうだったので,ふたたび車を走らせることにしました。
 後でわかったことですが,その駐車場は,ゴート島の名所・三姉妹島に行くための駐車場でした。だから,そこに停めて観光をすべきでした。
 私は,そのまま進んでいくと,広い有料駐車場に出ました。迷った結果,そこには車を停めず,さらに進むと,島の出口の標示が…。
 結局,島をもう1周する羽目になってしまいました。私の前を走っていた車も同じようなことをしていました。表示が親切でないんですね。日本の過剰な看板よりも私は好気ですが…。
 さらに1周して,結局,先ほどの有料駐車場に停めることにしました。

 私の前の車も,結局,同じことを考えていて,その車が駐車場のゲートに入りました。
 その車は,私以上に優柔不断で,今度は,ゲートの係員に,いろいろと質問をしていました。
 これはきわめてアメリカらしいことなのですけれど,時間のない私は,だんだんと腹が立ってきました。
 この国では,後ろに人が待っていようといまいと,そんなことはお構いなしで,納得いくまで質問をするのです。これは,どこでもそうです。レンタカーを借りるときも,美術館でチケットを買うときも,ホテルで部屋を探すときも・・・。よくもこうも聞くことがあると私はあきれます。
 やっと,その車が納得して駐車場に入っていって,私の番になったので,お金(5ドルくらいだったか?)を払って車を停めました。
 実際,そこは,この島を観光するためのメイン駐車場でした。

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 カナダ側からのナイアガラの滝観光は多くの人が行っているでしょうから,アメリカ側からのナイアガラの滝観光を紹介しましょう。
 私はどちらからも行ったことがあるのですが,カナダ側はお土産屋さんも多く,日本の観光地のような感じです。それに比べて,アメリカ側は素朴です。
 多くの人は,カナダ側の方がいいと言いますが,私は,アメリカ側の方が好きです。

 クリーブランドはとてもいいところだったのですが,1日も滞在すると,見るべきところはすべて見尽くしてしまったのでした。観光地としてはそんな感じですが,住むにはとても良いところだと思います。観光で来た私は,クリープランドが気に入って3泊することにしたので,いろいろと考えたあげく,日帰りでナイアガラの滝へ行くことにしました。
 ガイドブックによると,ナイアガラの滝までは片道4時間くらいらしいので,朝6時に出発すれば,時ころには到着するから,夜に戻ってくるのなら,十分に往復できそうでした。そんなわけで,いつものように,早朝,ホテルを出発しました。

 クリーブランドで宿泊したホテルの隣にガソリンスタンドがあったのでガソリンを入れて,ホテルの手前の道がインターステイツ90,それに乗って一路東に向かいました。
 ナイアガラの滝に一番近い町バッファローまで行けば,道路標示があるだろうといった,毎度のいい加減な目論見でした。ナイアガラの滝ほどの観光地なら,それで十分に目的地に到着できるでしょう。
 車はインターステイツ90を快調に走っていきます。左手には,海のようなエリー湖が広がり,さほど交通量も多くないので,雄大な景色を眺めながら快適なドライブです。
 幸い天気もよくて,素晴らしさに追い打ちをかけます。
 オハイオ州からペンシルベニア州を抜け,ニューヨーク州に入ります。やがて,インターステイツ90はターンバイクに変わり,日本と同じようにゲートで通行券を受け取ります。それにしても,ニューヨーク州は有料道路の多いところです。

 途中にサービスエリアがありました。アメリカの高速道路のサービスエリアにはめずらしくレストランがありました。ここは上りと下りが共用になっていて,道路に長い歩道橋がかかっていました。
 安価な有料道路なので,通行券を交換するようなそんな悪いことをする人もいないのでしょう。
 サービスエリアには,マクドナルドやデニーズ,売店,観光案内所がありました。駐車場の近くには屋台のホットドック屋さんもありました。こうした日本のようなサービスエリアはアメリカではほとんど見かけません。というか,ここでしか見たことがありません。私は,マクドナルドで朝食をとりました。
 この旅行は2002年のことでしたが,アメリカは「テロとの戦い」の真最中でした。ターンパイクに電光表示があって,「アメリカ人であることに誇りを! 神はアメリカを祝福する」という掲示が流れていました。でも,私はアメリカ人ではないし,プライドを持てと言ってもねえ… なんて思っていたのですが,それとともに,アメリカは戦争の真っ最中なんだなあということを改めて実感しました。こういう生々しいことは,日本にいてはわかりません。

 やがて,車はニューヨーク州バッファローに到着しました。インターチェンジが次々とあって,どこで降りようかと迷いましたが,「ナイアガラの滝へ行くための最後の無料インター」と書かれた表示のあったインターチェンジを降りることにしました。しばらく別のハイウェイを走りましたが,料金所がなくて,結局,通行料を払う必要はありませんでした。
 その後,ナイアガラの滝に向かう一般道に入りました。一般道は信号がたくさんあって,なかなか目的地に着きません。クリーブランドからバッファローまでは思ったよりも早く3時間くらいで到着したのですが,結局,ナイアガラの滝に到着したのは,予定通り4時間後のことでした。

◇◇◇
Happy Caroline Kennedy 56th Birthday. 

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 まだ午後6時を過ぎた頃だったので,特に予定もなかったが,食事を兼ねて,ダウンタウンを散策しようと,部屋を出た。
 フロントで,地下鉄の乗り場とチケットの購入方法を聞いた。とりあえず,一度地下鉄に乗ってみようと思った。そして,きょうのチケットは持っていないけれど,明日のチケットを持っているボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイパークを見に行こうと思った。

 地下鉄の乗り場は,ホテルから北に1ブロック,東に1ブロック,ちょうど商業ビルがある一角を回り込んだところがボストンコモンの南東端角で,そこにボイルストン駅の入口があるということだった。歩いて2,3分といったところか。
 明日の夜,ボストン・レッドソックスの野球観戦をしたあと,夜遅くホテルへ戻らなくてはならないので,フェンウェイパークから乗り換えなしの地下鉄で帰ることができる場所にホテルを予約したのであった。

 ホテルのフロントであの,素敵な女性のスタッフに聞くと,フェンウェイパークへ行くには,地下鉄でグリーンラインの西行きに乗って,四つ目の駅ケンモアで降りればいい,ということであった。また,地下鉄のチケットは,日本のスイカとかと同じプレイペイドカードと1週間乗り放題カードがあるが,滞在するのはわずか2日だから,プリペイドのほうがお得です,と言われた。カードはどこの駅でも買うことができるということだった。
 着いたばかりで,この町がよくわからなかったことと,昨年行ったミネアポリスの公共交通機関の乗り放題カードがとても便利だったことが忘れられず,忠告に従わず,滞在わずか2日間だけど,1週間の乗り放題のカードを購入してしまったが,結果的には損をした。

 カードは,駅にある発券機で,クレジットカードでも買うことができた。乗るときにカードを機械に通す(日本と違ってタッチするのではなく,スリットに通す)だけで,出るときはフリーである。
 いつものことだけれど,慣れてしまえは何ということもないことが,はじめは難しいのだ。
 ボイルストン駅の入口に着いたので,階段を降りて,改札口の手前にあった機械でカードを購入した。
 さっそく改札を通ろうとしたが,この駅は,上りと下りの改札口が違っていて,改札を入ってしまうと反対側に行けないのだった。駅に係員はいなかったので,改札口の手前にいた地元の人に聞いたのに,その人が間違ったことを教えたので,私はそのまま改札を通って反対方向へ行くホームに出てしまった。ホームに着いて,来た電車の行き先を見て間違えたことに気付いた。
 そのまま電車には乗らず出口を出て,先ほど降りた階段を上り一旦地上に出た。
 目的の方向へ行く地下鉄の入口は,さらに10メートルくらい北のところにあった。
 アメリカでは,日本とは違って,改札を入ってから逆方向のホームへ行く連絡通路がないということはふつうである。

 再びその入口の階段を降りて,改札を通ろうとしたが,今度は,買ったばかりのカードが受け付けない。何度やっても,別の改札口に変えても,だめであった。高いお金を払ってカードを買ったのに,と,パニックになってしまった。
 どうやら,カードが主張することには,同じ駅で2度使うことを拒否をしているようであった。でも,どうしてそれがわかるのであろうか…。出口ではカードを通通す必要がない。これは不思議なことであった。
 とにかく,次のアーリントンという駅まで500メートルくらい散歩を兼ねて歩いて行くことにした。私の理解が正しければ,次の駅なら改札口を通れるであろう。
 やはり,次の駅の改札でカードを入れたら何の問題もなく,無事改札口が通れた。
 不思議なことであった。
 買ったカードが無駄にならず,本当によかった。

 ちょうど,野球の始まる時間(午後7時30分)に近かったので,地下鉄は満員で,多くの人がレッドソックスのユニフォームを着ていた。なんだか,見に行くわけでもないに,うきうきしてきた。
 ボストンの地下鉄は,とても古いということだったが,確かに,地下鉄というよりは,市電がそのまま地下に潜ったような感じであった。カープの曲線は地下鉄にあるまじき曲率であって,当然スピードが出ない。さらに,駅でもないのにやたらと停まる。噂では,よく脱線するのだそうだ。これは地下鉄というよりも,京都の嵐電を地下に潜らせたような感じであった。
 ともかく,私の乗った電車も,やたら停車を繰り返しながらも,だらだらと進み,やがてケンモア駅に着いた。

 大勢のお客さんが降りたので,私も一緒に降りた。
 地下鉄の駅からフェンウェイパークは2ブロックほどであった。結構な距離を歩くのであるが,ほぼみんな目的地は同じなので,これから野球見物の人たちについて行った。
 これは,水道橋で降りて東京ドームへ行くか,あるいは信濃町で降りて神宮球場へ行くっていう感じに近かった。
 このあとニューヨークへ行って,地下鉄にも乗ったしヤンキースタジアムにも行くことになるのであるが,ボストンとニューヨークは,なにもかもが全く異なっていた。

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 ついに,再び,愛しのボストンに到着した。
 「ブッキングコム」で予約しておいた「ミルナーホテル・ボストンコモン」は,事前に調べたところでは,ボストンコモンのちょうど中央を南北に横切る道「チャールズストリート」沿いのボストンコモンの南に位置するということであった。
 ボストンは,ホテルの宿泊料金の相場が異常に高かった。私は,ホテルでは寝られればいいので,その中でも安価なこのホテルを,地下鉄の駅に近いことで選んだ。
 「ミルナーホテル・ボストンコモン」はインターネットの写真で見るともっと小さな民宿のようなホテルを想像していたが,実際に来てみると立派なビルであった。

 車でチャイナタウンにさしかかった私は,非常に交通量の多い,土地勘のまだないボストンの交差点を,とっさの判断で左折した。道路標識で確かめると,今走っているのは,「スチュアートストリート」であった。スチュアートストリートならこのまま2ブロック走ればチャールズストリートに出るということは知っていた。もっと戸惑うかと思っていたが,思った以上に簡単にホテルまで来てしまったことが嬉しい誤算であった。
 出発前,ボストンで爆破事件があった。このホテルは,その事件現場の近くだったので,そのことも含めて着くまで心配であったが,治安にも問題がなく便利な場所にあったよいホテルであった。
 やがて,チャールズストリートへ出ると,左手南にホテルが見えてきた。このホテルの前の通りは,南から北に走る一方通行なので,都心であってもあまり車が通らない道であった。一方通行なので左折ができなかったので,そのままこの道を通り過ぎて,次の通りを左折して,回り込む形でチャールズストリートになんとか入り込むことができた。

 ホテルまで来ることができたが,このホテルには駐車場がない。ホテルのウェブページには,近くに公営の駐車場がたくさんあると書いてあったので,ともかく近くの公営駐車場を探して駐車をしなくてはならなかった。
 私が日本で想像していたのは,以前に行ったセントルイスのダウンタウンのように,地上の空地の駐車場だったのだが,ボストンにはそういった駐車場を作るような空きスペースなど皆無であった。
 南から北へ進む一方通行のチャールズストリートを,右手方向にあるホテルを通り過ぎながら進むと,その向かい側左手に映画館があって,その映画館のあるビルの入口にパーキングのサインがあった。
 ここで躊躇をしていると,いつものようにわけのわからないパターンに入り込むので,ともかく,そのパーキングに車を入れることにした。
 このパーキングは,日本の都会にもあるような,入口で駐車カードを取って,出口でお金を支払うものだった。

 駐車場は何階かあって,とりあえず,空いているところを探しながら駐車場のビルを上って行って,空きスペースを見つけて車を停めた。しかし,車から降りてあたりを見回すと,どうやらそこは一般の駐車場ではなくて,月ぎめ契約者用の駐車スペースであった。
 周りを探してみると,一般の駐車スペースは,もっと手前のところにあって,そこを通り過ぎてしまっていたのだった。しかも一方通行で,このままいくと駐車場の出口であった。そこにもどるには,すこし逆走する必要があったが,車が来なくなるのを確認して,あわてて10メートルくらい逆走して,どうにか車を駐車することができた。

 こういうところにある表示を理解するのは,よそ者の私にとっては本当にむずかしい。当たり前のことは,当たり前でない人にとれば,非常に不案内なことになるのだ。それは,日本でも同じことだ。
 アメリカの駐車場は,たいてい場合,長時間の駐車には料金の上限があって,それほど高価ではないのだけれど,ここの駐車場にはそういう制度がないらしく,24時間停めると40ドルもするのであった。これにはびっくりした。これでは人がホテルに1泊するのとさして変わらないではないか…。
 ともかく,少しの時間だけでもここに停めて,改めてもっと安価な駐車場をホテルで聞くことにして,荷物を車のトランクに入れたまま,ホテルへ行ってチェックインをすることにした。
 GPSとトールパスは,どう考えてもそのままでは危険そうなので,吸盤を外して車のダッシュボードに隠した。後で知ったことには,やはり,こちらでは,だれでもこのようにするらしい。

 ホテルは駐車場とは道を隔てたところなので,すぐにホテルに着いた。
 玄関の階段を上がって中に入るとフロントだった。とても感じの良いかわいい女性スタッフがいた。
 さっそくチェックインの手続きをした。
 日本から来たけれど,ボストンに来たのは32年ぶりで,といった話をしたら,興味深そうだった。
 そのとき彼女は生まれていない! そして,これがきっと人生最後のボストンだと言ったら,悲しそうな顔をした。 また,日本はむちゃくちゃ暑いので人の住むところじゃないと言ったら笑っていた。
 私の,ボストンに対する好印象の多くは,このホテルの女性スタッフの功績である。そして,すっかりボストンが好きになってしまった私にとって,この旅は人生最後のボストンにはならないことであろう。

 駐車場の場所を聞いたら,私が停めたところが一番近いのでその駐車場がベストだということであった。もう少し離れたところに1日24ドルというのもある,という話であった。特にホテル指定の駐車場とか割引とかいうものはないらしい。まあ,少し高いがそのままでいいや,と思った。
 部屋のキーを受け取り,まず,狭い廊下を通り,部屋に入って,部屋の様子を見てから,もう一度車に戻り,カバンを部屋に運び込むことにした。
 部屋は,日本のホテルみたいな本当に小さなものだったのでびっくりした。
 ふかふかのベッドが狭い部屋で存在感を示していた。屋根裏部屋のような感じであった。
 でも,この部屋は居心地よかった。

 今回の旅行でとても不思議なのは,日本に帰って写真を見ると,どこのホテルも確かに泊まった部屋だということは明確に覚えているのだけれど,そのベッドで寝たとか,部屋で何かをしたという記憶がほどんどないことだ。どこのホテルの部屋も,寝るときだけ滞在しただけのようであった。

☆ミミミ
明け方の東の空には水星と土星が輝いていますが,アイソン彗星は太陽に接近して,それよりも低い高度になってしまったので,ついに明け方の夜空には見えなくなりました。いよいよ29日,太陽に大接近します。そして,12月,長い尾をたなびかせて,再び明け方の東の空に輝くことを期待したいと思います。
写真は,昨日の早朝撮影したラブジョイ彗星です。こちらは,北斗七星の近くに,今も4等星で明るく輝いています。肉眼でも見えます。
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 ケープコッド岬から映像を逆回転するようにどんどんと戻って,プリマスを過ぎ,ボストンまで北上する。大都市にむかうことはとても簡単である。ただし,到着してからが大変なのは言うまでもない。
 GPSには「ボストンコモン」と入力して検索をかけた。
 今日,ボストンで予約をしてあるホテルはボストンコモンの南にあって,チャイナタウンの西にあたる。ただし,32年間,ボストンに行ったことがないことと,ホテルには駐車場がないこと,近くの公営駐車場に停めることができること,チャイナタウン周辺は治安が悪いこと,これくらいの情報しかなかった。
 現在はネットで調べれば,その場所の写真も見ることができるので,おおよその様子はわかるのだが,どうしても実感がわかないのは広さや距離感なのである。だからこそ,行く価値はある。
 
 ここまで来た道インターステイツ6を走る。ひたすら走って,ケープコッド運河まで戻ってきた。ここで,サガモアブリッジを渡ると,ジャンクションに出て,道は一旦一般道になる。
 ここで,きょうは,ロータリーの写真をお目にかけよう。
 写真のようにロータリーという標示があって,道が大きく反時計まわりに回る。前にも書いたように,ここで方向がわからなくなる。ロータリーの長所は信号がいらないことだが,交通量が多いと大渋滞になるのではないかと思われる。
 注意深くいく方向を見定めて,その道に右折する。
 道は,州道3となって,ひたすら北上し,ボストンのダウンタウンまでおよそ50キロ,わずか40分くらいのものであった。
 ボストンにさしかかって,ボストンを周回するインターステーツ93のジャンクションに入った。
 西へ行くとボストンを周回してインターステイツ95に入って北へ向かう。そのまま93を走ると,ボストンのダウンタウンへ向かう。
 私はそのままインターステイツ93を道なりに右にカーブして(写真),ボストンを目指して,さらに北上した。
 次第に目の前にボストンのビル群と港が広がってきた。時間は午後5時少し前であった。
 いよいよ,この旅ではじめに到着したボストンに戻ってきた。愛しのボストン,である。

 まだ,ダウンタウンまで10キロメートルくらいあるというのに,道路はどんどんと渋滞してきた。車線もどんどんと多くなってきたが車がほとんど動かなくなってきた。多くの道路標示があって,インターステイツの出口があって,次第にいつものようなわけのわからない状況になってきた。
 今回は,GPSがあるので,その指示に従って,まだ,インターステイツを出ないで,どんどんとダウンタウンに向かって進んだ。もし,GPSがなければ,きっとこのあたりで出口を出て,一般道で路頭に迷ったことであろう。
 このあたり,東京都の新宿とあまり変わらない。

 下からふたつ目の写真の道路標示の上の黄色い板に書かれた「CLEARANCE」がどういう意味かおわかりだろうか? これは,この道路がこのあとトンネルに入るので,そのトンネルの高さ制限が書いてあるのだ。こういう英語の単語は,日本で英語を何年勉強してもわからない。
 やがて,ダウンタウンの中心,東西にインターステイツ90が通り,私が通ってきたインターステイツ93はここで終わって一般道に流入する巨大なジャンクションにさしかかった。ここで,訳が分からなくなった。
 GPSは右折しろという。右には,できたばかりの道があった。少し先には自然と一般道に降りると思われる出口があった。GPSが右折しろというので右折した。ほかの車は一台とも右折しない。なんか変だなあと思ったが,この先Uターンもできず,できたばかりの道を道なりに進むしか方法がなくなった。
 この道は,自然と駐車場のあるビルにつながっていた。やがて,高層ビルの屋上の駐車場の入口に来て,駐車券のあるゲートに着いた。引き返すこともできず,やむを得ず,駐車券をとって駐車場に入った。そして,広い駐車場内を走って,出口に出た。
 馬鹿みたいな話だった。
 出口の係官に駐車券を見せてお金を払おうとしたら,「ゼロドラー」と言って笑われた。時間が短いとお金いらないんだ… と妙に感心した。まあ,そんな風にして,ともかくも駐車場を出て,やっと一般道に出ることができた。

 一般道はタクシーやらバスやら信号やら道路工事やら,すごい車の量でごった返し,車線を変更するのもままならない状況だった。
 GPSはさきほどの駐車場に着いてしまったときに,ナビを終わらせたので,道路が表示されているだけだった。
 ちょっと風紀の悪そうな場所だった。よく見ると,ここはチャイナタウンであった。道路の名前から,このまま左折して少し行くと,予約したホテルのある場所だということが分かった。

◇◇◇
CNNによると,ジャックリーン・ケネディ夫人がダラスの暗殺事件の時に着ていたピンクのスーツは,ココシャネルのコピーでアメリカ製のものでした。
彼女は,ケネディ大統領暗殺後もリンドン・ジョンソンの大統領就任の宣誓までこのスーツを汚れたまま着続けました。その後,ホワイトハウスでメイドがバッグにしまったということです。そのスーツは,1964年ジャクリーンの母親によって国立公文書館に収められました。2003年,母親が亡くなった時に,キャロライン・ケネディさんは,アメリカにこのスーツを贈りました。現在は非公開で,一緒に贈られたバッグや靴,ストッキングとともに厳重に管理・保管されています。そして,100年後の2103年にケネディ家に相談の上公開されるということです。なお,帽子は行方不明なのだそうです。


 先週の「すずらん本屋堂」で「イニシエーション・ラブ」(乾くるみ著)が取り上げられていたんで,気になって,私のiPadにダウンロードして読んだわ。
 読破するのに3時間もかからない恋愛小説。映画化されて話題の「陽だまりの彼女」(越谷オサム著)のときもそうだったんだけど,恋愛小説は,胸がきゅ~ん,となるよりも,あまりに幸せな展開だと,きっとなにかが起こっちゃって,最後が悲劇だとどうしようなんて気になってしまうから途中でやめられなくなってしまう。
 「イニシエーションラブ」は,途中から急に話が飛んじゃって,あれ,なんか変,と思っていたら,・・・ああ,この後は読んでのお楽しみね。でも,わたしにはよくわからなかった。なにが面白いんだろう,って。期待してソンしたなあ,って思ったわ。はじめはね。
 でも,それは,わたしの誤解だったのね。実は,この小説はトンでもない罠が仕掛けてあったのね。だから,もう一回読まないと。
 おじいちゃんにもお勧めしよう。もう,恋愛小説っていう歳でもないけど,で後から感想聞いてみよう。わかった?って。でも,この小説は映画化は無理ね。


 テレビでお相撲をやっているんだけど,内容は相変わらずね。面白いのは,北の富士っていう素敵なオジサマの解説くらいかしら。
 白鵬っていう人が強すぎて,今場所も優勝確実みたい。稀勢の里っていう人をみんなが応援しているんだけど,いつも結果は同じね。いつも結末が同じドラマなんて,だれも見たいと思わないでしょ?
 わたし,白鵬っていう人は尊敬しているけど,なんかかわいそう。
 こんなこと言うと恐れ多いんで,誰も言わないけど,今の大相撲って,実は,白鵬さんがいなければ,もっともっと面白いと思うわ。
 だって,そうだったら,誰が優勝するか,皆目見当つかないでしょ。だから,毎場所,ものすごく盛り上がると思うけど。
 入門間もない遠藤さんに期待しなきゃいけないほどの人材難だから,日本人横綱なんて,当分先の話ね。おじいちゃんは,あれだけ好きだったお相撲を見なくなっちゃったし。何とかしないとねえ。


 CNN見てたら,イギリスのオックスフォード辞典の2013年を代表する単語にセルフィー(Selfie)が選ばれたんだって。じぇじぇじぇ。
 今年を代表する流行語とか漢字とか,そんな些細事を話題にするのは日本くらいだと思っていたんで,プライド高き大英帝国も同じことするんだ,って驚いたわ。イギリス人もそれほどでもないわね。それも,オックスフォード辞典なのよ。
 セルフィーって,写真の自分撮りのことだって。
 そういえば,今年売り出されたデジカメも自分撮りをウリにしていたわ。でも,若者の嗜好に合わせて新しいのを出さなきゃいけない会社のおじさんたちも大変ね。若者への人気どりのために下手な洒落を言って顰蹙をかっている私の周りのおじさんと同じだわ。
 だけど,自分撮りなんて,日本では随分と前からプリクラでやっているじゃない。そんなことが今年話題になるなんて,世界は随分と遅れているわね。


 きょうの新聞に,ソユーズ宇宙船の解説が載っていたわ。枯れた技術なんだって。だから安全なんだって。
 そういえば,うちのおじいちゃんもいつも言っているわ。人間の能力で制御できる科学技術は,ソユーズ宇宙船と火力発電が限界だって。だから,スペースシャトルとか原子力発電なんて,恐れ多いって。
 人間は,それほど賢くないのに傲慢なのよ。
 そうそう,最近気づいたわ。原子力発電所の再起動の是非が話題になっているけど,みんな発電所の仕組み知っているのかなあって。そういうことも知らないで,原発の賛否を問うても仕方ないんじゃないの。中には,火力よりも原子力の方がなんとなく強力そうだからたくさん電気が作れるんじゃないか,なんて思っている人も多いかもね。
 一度,政治家の人たちに,発電所の仕組みを聞いてみたらいいわ。そんなことも答えられない人たちが安全だと言ったって信用できないことがすぐにわかると思うけど。


 今週も,今日でおしまい。金曜日であることを神様に感謝しなくちゃいけない(Thank God It's Friday)から,わたしもきょうは飲みに行くわ。
 今週はとっても寒くて,今年の秋はどこへ行ったのかしら… って,みんな言っている。けれど,週末は少しは暖かくなるみたいだから,紅葉狩で観光地は一杯ね。きっと,京都はすごい人混みで,車で行ったらきっと到着しないで日が暮れちゃうって思うわ。
 名神高速は京都東ICの手前のトンネルが問題ね。側道がせまいのに,トンネルを出たとたんにインターチェンジがあるんだもの,渋滞するのが当たり前だよね。それで,事故が多発するものだから,どうにもならない。新しい高速道路作るよりもこういうのを改良するほうが先だと私は思うけど。
 きっと急に寒くなったから今年の紅葉もきれいだろうとみんな言っているけど,私は,人混みは苦手だから,おじいちゃんの写した写真でも見ながらのんびりと過ごすことにするわ。
 みなさんもおじいちゃんの写した写真を見てね。
 去年京都へ行って写したんだって。ここ数年は紅葉が遅くて12月だったんで,そのころ行ったのに,昨年は早くて,嵐山の天竜寺の入り口に「おなごり」って書いてあったって。また,それが粋なんだなあ,っておじいちゃんは言っていたよ。
 じゃあ,また来週ね

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 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(John Fitzgerald Kennedy)第35代アメリカ合衆国大統領は、今から50年前の今日1963年11月22日金曜日の現地時間12時30分にテキサス州ダラスで暗殺されました。

 ケネディ大統領のダラス遊説は,再選の準備と選挙戦資金の寄付を募ること,そして,テキサスの民主党有力メンバーとの関係回復のため決定されました。遊説では,「ダラス・トレードセンター」でスピーチを行うために、ダラス・ラブフィールド空港からディーリー・プラザを含むダウンタウンを通過する自動車パレードが計画されました。
 パレードにおけるケネディ大統領の同乗者は妻のジャクリーン・ケネディ、テキサス州知事ジョン・コナリーとその妻ネリー、ホワイトハウスのシークレット・サービスとドライバーでした。

 パレードは12時少し前に空港を出発し,ダラス市内を 時速10マイル前後のスピードでゆっくりと進みました。
 運命の12時30分,ケネディ大統領の乗ったリムジンがテキサス教科書倉庫の正面に接近しゆっくりと120度方向を変えて教科書倉庫を通過したときの6~9秒の間に,ケネディ大統領は狙撃されました。
 3発の銃弾の内の1発は車列を外れ,1発がケネディ大統領に命中貫通しコナリーを傷つけ,最後の1発がケネディ大統領の頭部に致命傷を与えたといわれています。
 ケネディ大統領が致命傷を負った後,リムジンは速度を上げディーリー・プラザを出てパークランド・メモリアル病院へ向かいました。

 私は,2003年の8月から9月にかけてテキサス州とルイジアナ州を旅行したときに,ダラスに立ち寄りました。
 子供のころに知ったケネディ大統領の暗殺事件で,ダラスという都会は怖いところというイメージがありましたが,実際は,とても美しい近代的な都会でした。
 1番の見どころは,もちろんケネディ大統領に関する博物館「シックスフロア」でした。
 建物の一角に入口があって,エレベータで6階まで行きます。当時,教科書倉庫として使われていた建物の6階のフロアが現在は博物館になっていて,館内にはケネディ大統領に関する様々な展示がありました。特に,狙撃現場といわれるところは当時のままに復元されていました。そして,その窓からはまさに狙撃現場を真下に見ることができました。

 私は,この博物館の展示に釘づけになりました。この建物のこの階が狙撃現場なのかどうかはともかくとして,まさに狙撃された場所を眼下にして,そこが歴史として学んだ出来事のその現場であるということが,なかなか実感として湧いてきませんでした。
 博物館を出て地上に降りました。狙撃された現場であるシックスフロアの南側の3つの道路が合流するデルタ地帯は,ディーリープラザと呼ばれていますが,その現場にも足を運ぶことができましたが,何か,とても不思議な気持ちがしました。そして,ここから1ブロック東へ行ったところにはJFKメモリアルがあって,屋根がなく白いコンクリートで空間を囲んだ記念碑になっていました。
 巨大なコンクリートの壁に囲まれた空間に立って,私は,かつてワシントンDCのアーリントン国立墓地で見たケネディ大統領の墓に灯る永遠の炎を思い出していました。

 去る11月19日,ケネディ大統領の長女であるキャロライン・ブーヴィア・ケネディ(Caroline Bouvier Kennedy)さんが第29代駐日アメリカ合衆国大使として,日本に着任しました。50年という月日の流れはケネディ暗殺事件をすでに歴史上の出来事として記憶していますが,今年,ケネディ大統領ゆかりのボストンに本拠地を構えるレッドソックスが優勝しました。そしてまた,キャロラインさんが日本に着任しました。
 歴史は,ひとつの流れとして続いていることをまさに実感します。日本のテレビの衛星放送がケネディ大統領の暗殺を知られるニュースで始まったように,日本とケネディ家とは,いまでも多くのつながりがあるのです。

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 結局,私は観光客でごった返すプロビンスタウンのダウンタウンをなんとかそのまま通り過ぎた。狭い町であった。人を轢いたら大事であった。
 町はずれまでくると,目の前に海岸線が広がった。北海道のひなびた漁港のような景色であった。これならこの先は期待が持てそうだ,と,このときはそう思った。
 ところが,一見広いのだけれども,車を停めるところがない。車道は片側だけは駐車可だったのだけれども,そこは,どこも車で一杯だった。少し先にホテルがあったけれど,そこの駐車場も一杯であった。
 この先も延々とこうした風景がひろがっているようであったので,きっと雄大な景色が続くように思えた。そこで,このまま,ケープコッド岬の先端を目指して車を走らせることにした。

 実際,先端の国定海浜公園はビーチの自然が保護されていて,空港や軍の施設があり,トレイルが整備されていた。
 空港とかビジターセンターとかの道路標示があったが,どちらへ行けばいいのかわからなかった。交差点に差しかかっても,どちらへいけばいいのかよくわからなかったので,とりあえず,左折して海の見えるほうへ行くことにした。
 その先は,どこにもある国立公園のゲートのようになっていて,ゲートの向こうは駐車場であった。1日いくらという表示が書いてあった。Uターンができるような場所もなかったので,とりあえずそこに駐車することにした。
 駐車場の中も車が一杯であった。どんどんと駐車場の端のほうまで行って,やっと車を停めることができた。外に出てみると,そこは広大な砂浜が広がっていて,海水浴場になっていた。
 多くの海水浴客がのんびりと日光浴を楽しんでいた。
 その場所から,ケープコッド岬を一周するトレイルがあった。
 そのトレイルを歩いて行こうと思ったが,そのトレイルは一面の砂であった。サンダルを履いていたが,砂が入り込んでしまって,裸足以外に歩くことは不可能であった。
 せっかく車を停めたのに,これでは行くところもすることもないので,早々に引き上げることにした。
 やっと停めた駐車場から出て,仕方がないので,ビジターセンターを目指した。
 ビジターセンターにも有料の駐車場があった。今度こそケープコッド岬の駐車場のようであった。駐車場の入り口で,さきほど間違えて車を停めてしまったが,ここにその時のお金で停められないかと領収書を示して訪ねた。そして,ケープコッド灯台に行きたいと言った。
 係官に,ケープコッドの灯台にはここに駐車しても行くことはできない。先に停めた場所からトレイルで行くことになる,と言われた。
 そんなわけで,結局,私は灯台にさえ行くことをあきらめて,ケープコッド半島から引き返すことにした。
 いったい,私は,ケープコッド半島に何をするために来たのであろうか?

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 ケープコッド半島も,残るはあと30マイル(48キロメートル)北上すると最先端に到着する。
 道も1車線ずつの対面通行になって,雄大な海が見えてきた。
 しかし,この先に岬があって,どこまでも続く青い海と灯台を眺めて… というイメージが甘かったことに,やがて気づかされるのだった。
 私の持っていたそのイメージは,愛知県の渥美半島なのであった。しかし,ここには,メロンもナツメヤシもない。
 少し考えてみればこれは当たり前のことなのである。フリーウェイをあれだけたくさんの車が走ってきて,行き止まりまでくればどういうことになるか…。

 そういうこととは知らず,周囲はだんだんと海水浴場の雰囲気が漂い始めて,海水浴グッズを売っている売店があったり,遠くにリゾートタウンがあったり,湖が見えたりと,いい感じになってきた。
 ケープコッド半島の先端90度折れ曲がった30マイルくらいの長さのところは,ケープコッド国定海浜公園となっている。松林があって,広い砂浜がある。ガイドブックによると,先端には灯台もある。
 そして,その入口に,プロビンスタウンという町がある。
 適当にケープコッドと入力して検索したGPSは,このプロビンスタウンで目的地に到達してしまったらしい。

 私は,ここに来る前に,GPSにケープコッドと入力して検索した。しかし,ケープコッドが広すぎるので,GPSはケープコッドのどこか? と聞いてきた。つまり,ケープコッドに関する地名がずらっーと並んで出てきたのである。その中で,自分の目ざす場所を探して確定ボタンを押せばいいのだけれど,私は,自分の目指す場所自体よくわからないので,シティホールだとかミュージアムだとか,なんとなく決めて確定ボタンを押してしまったわけだ。
 そのようにして,ケープコッドの先端まで大過なくやってきた。そして,GPSは,このプロビンスタウンで自主的に役目を終えてしまったというわけだった。

 GPSが示したのは,プロビンスタウンの狭いダウンタウンのど真ん中で,ものすごい人ごみの中であった。その誘導に従って走ってきた私の車は,歩行者で一杯の原宿の竹下通りに車で迷い込んだようなものだった。交通整理のお兄さんがいる。観光客が車道まではみ出して歩いている。この道路には駐車場があるようなないような…。しかも,私はこの場所で何をしたいのか自分でもわからない…,まあ,そんな状況であった。ああ。


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 プリマスプランテーションの駐車場を出て,朝,ケープコッドから戻った道を逆にたどれば,今度こそは,ケープコッドの先端まで行くことができるかもしれない。
 わざわざここまで来て,目と鼻のさきにあるケープコッドに行かないのも後悔すると思い,このままボストンに向かわず,ケープコッド岬を経由してボストンに行くことにした。

 ケープコッド半島は,きょうの写真にあるような形をしている。
 先に述べたように,プリマスプランテーションの裏手の州道3を南に走る。州道3はインターステイツ6と名を変え,そのままケープコッド運河をサガモアブリッジで越え,ケープコッド半島の北側から中央部をどんどんと快調に,東へ東へと進む。
 さすがにインターステイツであって,車の数は思っていたほど多くなく,時間もかからない。
 このインターステイツ6は,片側2車線ではあるが,中央分離帯と側道が狭く,日本の高速道路のような道であった。
 途中で,ビジターセンターがあったので立ち寄った。そこで詳細な地図を入手することができた。

 ケープコッド半島は,東京の人が湘南海岸に向かうようにというか,千葉県に向かうようにというか(どっちのたとえが分かりやすいだろう…?),いずれにしても,ボストンに住む人が気軽に出かける夏のレジャー基地のようなところであった。
 この半島は,氷河が削って作りだしたものなので,北海道の根付半島と同じである。
 ただし,根付半島とは比べようもないくらいに巨大である。
 本来は,ドライブしながら,長く続くビーチ,松林,湖,アートギャラリーのある小さな町を訪ね歩いたり,島々に出かけてのんびりと過ごすところなのだそうだ。

 それでは,私もこの半島をドライブしながら,ここで見どころを紹介しよう。
 まず,ケープコッド運河を渡ったところに,サンドイッチという名の町がある。
 ここは,1639年にプリマス植民地の入植地のひとつとして生まれた古い町で,のんびりとした素朴で安らぎのある地ということだ。
 そのまま,東へ15マイル(24キロメートル)くらい進んだケープコットのちょうど中心部の南岸には,ハイアニスという町がある。
 ここが,ケープコッドの中心地で,バスターミナルやフェリーの停泊する港などがある大きな町である。ジョン・F・ケネディの別荘があったことで知られていて,博物館がある。
 それを過ぎてさらに20マイル(32キロメートル)くらい東に行くと,ちょうど半島が90度カープするその手前にチャタムという町がある。ここは,海水浴場である。
 そして,これらの町をすぎると,ケープコッド半島は北に折れ曲がったようになる。
 このあたりから片側2車線だった道路は1車線の対面通行となり,車の量も減ってきて,いよいよ半島横断も最終章に到達したような雰囲気になってくる。
 いよいよ,ケープコッド半島の先端が目の前に近づいてきた… らしい。

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 クリーブランドには,ダウンタウンの北にあるエリー湖畔とともに,ダウンタウンを東に行ったところに,ユニバーシティ・サークルと呼ばれる地区があって,そこにも,さまざまな博物館や美術館があります。
 今回は,それらを紹介しましょう。

 クリーブランドに着いたときに迷い込んだ東地区をさらに越えていくと,広い公園があって,そのあたりは文教地区でした。周りには,大学やら美術館やら科学館が立ち並んでいました。
 おそらく,エリー湖畔が再開発される前から,このあたりが文化地区だったのだと思われます。
 広い駐車場に車を停めて,まず,自然史博物館に行きました。
 ここは,ルーシーという人類の祖先の骨格の標本が一番の見ものだということで,館内をぐるぐるとまわって探したのですが,なかなか見つかりませんでした。
 恐竜の骨が展示してある広い部屋では,何かのテレビ番組の収録をしていて,いかにも学者という風貌の人が解説をしていました。そして,その横に聞き手の人が座っていて,その周りをテレビカメラ,スタッフが取り巻いていました。収録が終了する毎に拍手が起きていました。
 しばらくそれを眺めて,そのあとも,ものすごく広い館内をさがして,やっと,ルーシーの骨格標本を見つけました。ルーシーの骨格標本は白いもので,本物には見えませんでした。
 ここには,アポロ12号が持ち帰った月の石もありました。決して新しい博物館ではなかったのですが,落ち着いた,よい博物館でした。
 エリー湖畔にあった科学センターよりも,私にはずっと興味深いものでした。

 次に,ウェスタンリザーブ歴史協会/クロフォード自動車・航空機博物館へ行きました。
 行く途中に,無料の植物園がありましたので,立ち寄りました。
 そこには日本庭園があって,枯山水の庭ができていたのですが,芝生があったり,お寺の庭なのに鳥居があったり,また,その鳥居が中国風だったりと,こちらの人が考える日本というものがどういうものかよくわかりました。
 ウェスタンリザーブ歴史協会/クロフォード自動車・航空機博物館では,道に迷って,図書館に入ってしまったりしたのですが,幸運にも,そのことで,こちらの大きな図書館の中を見ることができました。そのあとで,隣接する大邸宅をツアーでまわることもできて,ここも,広くて,見どころ満載でした。
 
 最後に,美術館に行きました。
 水曜日は,美術館は遅くまで開館しているということで,のんびりと見学することができました。しばらく鑑賞して,美術館のレストランで夕食をとりました。テラスでは野外音楽会もやっていて,アメリカの美術館の素晴らしさがとてもよくわかりました。
 夕方になって,年老いた夫婦が大勢,食事をとりながらコンサートを聴くために美術館にやってきました。
 いつも思うのですが,こちらの人たちは,本当に人生を心から楽しんでいます。平日の夜なんですよ!
 こういうことに接すると,生きることや文化を大切していることがとてもよくわかります。
 アメリカに来てよかったと思うのは,こうした時です。

 このように,クリーブランドは,ほんとうに素晴らしい都会でした。クリーブランドは,人が幸福に生きることを知っている都会でした。まさに,ここは「湖畔の失敗」転じて「湖畔の奇跡」なのでした。

◇◇◇
It's the End of the Season and We Know It.
今年は,本当に面白いシーズンでした。

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 今世紀最大級の彗星が近づいているということで,話題になっています。
 今年は彗星の当たり年だというので楽しみにしていたのですが,春のパンスターズ彗星(C/2011L4 PanSTARRS),冬のアイソン彗星(C/2012S1 ISON),残念ながら,ともに,期待外れに終わりそうです。

 彗星は,大きな氷や塵の塊で,太陽に近づくと太陽から放出される熱によって表面が蒸発し始めて,綿菓子のようなぼっとした姿になります。また,太陽からの放射圧と太陽風で彗星のダストやガスが尾となってその独特な姿を見せるようになります。
 流れ星とはちがうので,見ている間にスーッと流れるわけでなく,ゆっくりと星々の間を動いていきます。地球に近い場所を通ると日に日に位置を変えていくこともありますが,通常は,数か月かけてゆっくりと移動していきます。
 太陽系の遠いところに「オールトの雲」と呼ばれる彗星のもととなる物質がいっぱい回っているところがあって,そこから何かのきっかけで太陽に近づいて,一度太陽の周りを回ると二度と戻ってこないものと,有名な「ハレー彗星」のように太陽の周りを周期的に回っているもの(周期彗星)があります。

 現在,アイソン彗星(C/2012S1 ISON=4番目の写真)は5等星くらいで,明け方の東の空になんとか肉眼で見えています。

 それでもこの1週間ほどでかなり明るくなって,双眼鏡では綺麗に尾が見えるまでになりましたので,ひょっとすれば,12月5日ごろから東の空に肉眼ではっきりと尾を引いた姿を見ることができるかもしれません。
 このブログでも以前に書きましたが,私は,1967年以降の話題になった彗星は,ほぼすべて見ています。肉眼で見ることができたものは数えるほどしかありませんが,多くは,大きな双眼鏡を使うと,たくさんの星たちの中に,ぼっと,時には尾を引いて,とても美しく彗星を見ることができました。そうした姿を見ると,時がたつもの忘れてしまいます。

 彗星は,口径8センチ以上,できれば10センチくらいの大きな双眼鏡をしっかりとした三脚で固定して見るのが一番きれいです。
 今回も,いろいろな雑誌が出版されたり,様々な機材の広告が載っていますが,これまで天体観望をしたことがない人が小さな双眼鏡を買っても思ったほどには見えないし,あるいは,探せないので,無駄な出費をしないで,公開している天文台に出かけて,専門の人に見せてもらった方がいいと私は思います。

 私がこれまでに見た彗星で,一番明るかったのは,やはりヘール・ボップ彗星(C/1995O1 Hale-Bopp=1番目の写真)なのですが,このことは,すでに,書きました。
 一番印象に残っているのは,百武彗星(C/1996B2 Hyakutake=2番目の写真)です。この彗星のすごかったのは,肉眼ではっきり見えたのはもちろんですが,空の暗いところだと60度以上の尾が,まるで,天を裂くように輝いていて,気味が悪いほどだったことです。昔の人がほうき星について様々な文献に書いていたというのを読んで,それまでは,双眼鏡もない時代にそんな尾を引いた明るいほうき星を肉眼で見ることができたのかなあ,と思っていたのですが,本当にそのような姿を見ることができたのだと,その意味がよくわかりました。
 しかし,私が最も思い出に残っているのは,池谷・張彗星(153P Ikeya-Zhang=3番目の写真)です。
 この彗星は,3等星くらいだったので,それほど明るくはなかったのですが,気品があるというか,その堂々とした姿は,さすがに我々あこがれの,コメットハンターの先駆者・池谷薫さんの発見した彗星だと感動したものです。
 池谷薫さんは,1943年生まれのアマチュア天文家で,楽器工場で働く傍ら,自作の望遠鏡で彗星探しをして,1963年から5年連続して新彗星を発見しました。中でも,1965年に発見した「池谷・関彗星」はあまりに有名で,同じころ創刊された雑誌「天文ガイド」をバイブルに,当時の少年たちは,彗星探しに夢中になったものです。現在の天文ファンの中・高年は,その時の感動を今でも持ち続けている人たちです。
 そして,その池谷薫さんが,2002年,なんと35年ぶりに発見した6個目の彗星が池谷・張彗星だったというわけです。
 なお,池谷薫さんはその8年後にも7個目の池谷・村上彗星(332P Ikeya-Murakami)を発見されています。

 池谷薫さんが5年連続彗星を発見した当時と違って,彗星の発見は大金をかけ大型の望遠鏡でしらみつぶしに写真を撮って見つけるとか,天文台が別の観測中に見つけてしまうとか,そういった時代になってしまっていて,アマチュアが自作の望遠鏡で楽しみながら彗星探しをするといったロマンはほとんどなくなってしまったのですが,そんな時代にもかかわらず,依然として,自作の望遠鏡で自分の眼で彗星を探して,しかも,見つけてしまった池谷薫さんは,ほんとうに素敵だと思いました。そして,人生の楽しみは,お金で買えるものではないんだな,と改めて実感したのでした。
 明るい彗星が地球に近づくたびに,このようないろいろなことを思い出します。今回のアイソン彗星も,太陽の刺激を受けて,予想どおり12月の初めの東の空に長く尾をたなびかせた美しい姿を我々の前に見せてくれるのを祈っています。

☆ミミミ
 現在,明け方の空には,アイソン彗星(C/2012S1 ISON)のほかに,ラブジョイ彗星(C/2013R1 Lovejoy),リニア彗星(C/2012X1 LINEAR),エンケ彗星(2P Encke)の合計4個もの彗星を双眼鏡を使うと見ることができます。これほどたくさんの彗星を一晩に見ることができるのは珍しいことです。

 特に,ラブジョイ彗星(C/2013R1 Lovejoy=写真一番下)は,8等星だと予想されたのに,5等星くらいまで明るくなりました。天頂付近にあるこじし座にいるので,空が暗ければ,はっきりと肉眼でも見ることができます。

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 ロックン・ロール・オブ・フェイムと博物館の隣には,グレートレイク科学センターがありました。
 入口を入ると,長いエスカレーターがあって,新しく素晴らしい建物でした。
 アメリカには,たいていの都会に科学館があって,そこにはIMAXが併設されています。
 科学館というのは,日本もアメリカも,その展示されている内容を見ると,見学対象の設定がむずかしいんだなあ,と感じます。
 科学にあまり興味のない人たちに面白さがわかるように,といった展示をするのか,あるいは,かなり高度な内容をわかりやすく展示するのか,いわば,誰を対象にするか,ということが難しいのだと思います。
 私は,そのふたつの部門に分けて,小学生などにはいろいろと遊べるようにして,体験から学ぶような工夫をして,一般の人には,高度な内容をわかりやすく展示する,というようにするのがよいように思うのですが,その点,多くの科学館では物足りなく感じます。そうした展示をする学芸員の人材に負う部分も多くあるのでしょう。
 東京の上野にある国立科学博物館は新しくなって見どころも多く十分に楽しめます。名古屋市立科学館も新しくなったのですが,上野に比べると内容的にかなり見劣りします。
 先日行ったスカイツリータウンにあったプラネタリウム「天空」は,私が見たプログラムがたまたまそうであったのでしょうか,あまりに内容がひどく,せっかくのプラネタリウムの性能が泣いていて,もう二度と行くまいと思いました。しかし,私のような要求は少ないのでしょうね。
 そんなわけで,私は,近頃は,科学館にはあまり興味を感じないので,アメリカに行っても中に入ることがほとんどなくなってしまいました。このグレートレイク科学センターも,私には物足りないものだったので,レストランで昼食をとって,早々に外に出ました。

 次に行ったのが,ウィリアムマザーシップ博物館でした。
 はじめは,エリー湖にもクルーズ船があるのだろうと乗り場を探したのですが,出発までの時間がかなりあったのであきらめて,その乗り場の横に停泊していた貨物船が博物館になっていて中に入れたので,それを見ることにしました。
 船の中は広い展示室になっていて,床に線が引かれていて,その線に沿って歩いていくと,客室やキャビン,デッキなどを見て回ることができました。
 それぞれの部屋には案内する人がいて,いろんな話をすることができました。
 ある部屋では,まるで人形のようにおじさんがソファに座っていて,突然動き出すものだからほんとうにびっくりしました。
 このように,以前にも書いたことですが,こちらの博物館は,ただ見るのではなくて,わからないことはすぐに聞くこともできるし,様々な志向を凝らして,見学者を楽しませる工夫をしていて,本当に楽しく見学することができます。
 この日は,ものすごく風の強い日で,いつもこんなものなのかなあ,と思って案内の人に聞いたのですが,今日が特別だと言っていました。

 エリー湖畔は,再開発で,様々な博物館やらスポーツ施設が作られて,それぞれが有機的に機能して,治安のよい,気持ちの良い観光地として生まれ変わっていました。交通の便もよく,ダウンタウンから歩いていくこともできるので,こうした工夫が,この町の奇跡を生んだのだなあ,と実感しました。
 アメリカは,日本が「失われた10年」と呼ばれたバブル経済崩壊以降の1990年代が,インターネットなどの普及が始まった時期で,マイクロソフトなどといったさまざまなIT関連の新興産業が生まれた絶頂期にあたり,このころに再開発に成功した都会は,このような未来的な町として復興を遂げているというわけです。
 私は,1990年代,雑誌「TIME」を読むと,あまりに日本と違って,IT関連の話題で盛り上がっていることにショックを受けた経験があります。

 日本の「失われた10年」はついに「失われた20年」になりました。
 現在は,安倍政権が1980年代の古い手法で経済を再興させようとしています。これは,民主党政権で経済ブレインだった人たちが円高容認で,(自分の国の通貨が高くていいなどと公言する国はないのに)そういった素人政策をとったために,リーマンショック後の金融緩和が,アメリカや中国とはあまりにその量が違ったので通貨の流通量が決定的に異なって,それが円高要因になっていたのを,単に,安倍政権がアメリカや中国並みの金融緩和政策に変更したために,通貨量が同じになって,円高が緩和され,通常の相場に戻ったことで,輸出企業の業績が戻ったことを,景気が回復したと誤解しているだけだと,私は思います。

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 ビジターセンターには様々な展示があった。
 メイフラワー号の模型や,プリマスプランテーションの図解,感謝祭のいわれ,入植時の困難をどのように克服したか…
 メイフラワー2世号が修理中でなければ,このプリマスプランテーションから見学ツアーがあるように書かれてあった。

 ピルグリム・ファーザーズ(この旅行記では「ピルグリム」と書いている)は,アメリカに渡ったイギリスのピューリタン(清教徒)のことをいう。
 16世紀にイギリスのエリザベス1世がイングランド国教会を確立したが,それから1世紀,教会の改革を主張する勢力「ピューリタン」が現れて,その中でも国教会からの分離を求めるグループは分離派と呼ばれ,弾圧を受けていた。
 いつの世にもある「急進派」というものであろう。
 このため,信仰の自由を求めたピューリタンたち102人(ピルグリム)は,メイフラワー号に乗ってアメリカに渡った。
 1620年にプリマスに到着した彼らは,キリスト教徒にとって理想的な社会を建設することを目指したのであった。

 メイフラワー号は,1620年9月16日にイギリスの「プリマス」から新天地アメリカの「プリマス」に渡航したのだが,病気に苦しめられた66日間の厳しい航海であった。
 メイフラワー号は,180トン,全長は90から110フィート(約28から33メートル),全幅約24フィート(7.6メートル)といわれている。
 初めに到着したのは,ケープコッド岬の先端プロビンスタウン港であった。
 本来は,ハドソン川の河口(現在のニューヨーク)を目指していたのだが,このコースを外れてしまった。そして,冬が来たので,この地で越冬をすることになったのだった。
 冬の間に船内で生き延びた乗客は,わずか53人であった。
 彼らはプリマスまで移動し,1621年3月21日に入植者を降ろした。
 メイフラワー号は,1621年4月15日,本国に向かって戻っていった。

 1629年,2代目のメイフラワー号がロンドンからプリマス入植地に35人の乗客を送り届けた。
 その後も4回にわたって大西洋を航海したのちに,1642年,2代目のメイフラワー号は行方不明になった。

 第2次世界大戦後,メイフラワー号の航海を再現しようという動きが生まれた。そこで1956年にイギリスで作られたのがメイフラワー2世号であった。

 人は,現状に満足していれば,このように困難を承知で大海を渡り,新大陸に行こうとは思わないはずだから,よほど,その時代に,ヨーロッパ大陸での生活が大変だったに違いない。それにしても,そこから新しい文化が根付き,さらに発展をしていくということが,すごいと思う。
 本当に,人間って,なんなのだろう…。

 展示を見たりして,ビジターセンター内を歩き回っていたら,広いレストランと売店を見つけた。
 まだ昼食には少し時間があったが,ここで食事をとることにした。
 きょうは,クラブサンドといつものようにコカコーラ・ダイエットである。
 写真で見ると小さいように見えるかも知れないが,これだけでかなりの量があるので,十分なのである。
 このレストランには私しかいなかったが,親子連れがやってきた。彼らは,ここのスタッフのような気がした。もしそうなら,当時の生活を再現しているスタッフがこういう近代的なところでハンバーガーをかじっている様というのも興味深いものであった?!

 お昼過ぎまで見学して,プリマスプランテーションを後にした。
 帰る頃には,プリマスプランテーションの駐車場には多くの車や観光バスが駐車してあった。

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 やがて,ピルグリムの作った村を再現したところに着いた。
 ここにも,先ほどの中国人団体の先客がいて,大声で話をしながら飛び跳ねていた。うんざりしたが,彼らがいなくなるのをしばらく待った。

 この写真にあるピルグリムの人たちは,人形ではない。
 実際に,この衣装を着て,ある人は手芸をし,ある人は畑を耕し,また,別のある人は家畜を飼っていた。
 そして,話しかけると,いろいろと答えてくれる。
 ひげを生やした農夫姿の男の人が,どこから来たのか,と言うので,日本だと答えたら,ついこの前,日本には,「ヤン・ヨーステン」と「ウィリアム・アダムス」が上陸して,「トクガワ・イエヤス」に謁見したらしい。彼らは日本名で「ヤヨウス」と「ミウラアンジン」というのだが,おまえは知っているか? と,クイーンズイングリッシュで言い出したのでびっくりした。
 なるほど,史実では,1600年にオランダ船リーフデ号が豊後に漂着して,リーフデ号の航海士ヤン・ヨーステンと水先案内人のイギリス人ウィリアム・アダムスを江戸に招き,外交・貿易の顧問にした,とある。
 そして,オレは,数学が好きだが,おまえは好きか? と聞くので,数学など役に立つのか? と言うと,数学を勉強しなくちゃいかんよ,などと言った。

 この村の中は広く,ピルグリムの上陸したころのままの姿に作られていたが,実際にこの村を歩いてみると,これくらいの規模と人口で,寒い冬を生き延びるのは並大抵のことではなかったであろう,と思った。

 広いアメリカ大陸を旅していると,どこに行っても高速道路が整備され,郊外には広い農場が広がり,都会には,高層ビルが立ち並び,美術館や博物館などの大きな建物があるが,こういったものが,わずか数100年間にすべて作られたということを考えると,驚きを禁じえない。しかも,現在のアメリカ人たちも,少数の先住民以外は,すべて移民の子孫であるということが,なかなか実感としてわいてこない。しかも,毎年毎年,新しい技術が積極的に導入されて,テロや戦争,科学技術の失敗や経済問題などに全くへこたれずに,どんどんと進化していく様をみると,本当にそのアグレッシブな姿勢はすごいなあ,と思う。
 それらの原点がここにあるのだ。

 ここのスタッフたちは,どこまでが演技でどこまでが真実なのかがよくわからないのだが,こういった博物館は,アメリカ各地にはけっこうあって,訪れてみると,どこもたいへん興味深いものがある。
 日本でも,江戸時代や明治時代を再現したところはあるが,その時代の人に扮して,しかも,生活までしているような,そんな凝ったところはない。
 この日はとても蒸し暑い日だったけれど,ここは,期待どおりのすばらしいところだった。やがて,野外のアトラクションを後にして,冷房の入ったビジターセンターに戻った。

◇◇◇
新ポスティングシステムが合意する見込みで,来年は,楽天イーグルスの田中将大投手がメジャーリーグへ行くことになる可能性が高いと思うのですが,これまでにメジャーリーグに挑戦した日本人投手は,先発の場合,好投をしても,セットアップ(中継ぎ)とクローザー(抑え)次第で,勝利投手になれないことが度重なって,結局,活躍できなかった例が非常に多いと私は思います。たとえば,川上憲伸投手がその典型ですし,今年ヤンキースでそこそこの成績を残した黒田博樹投手もこれまでそうでした。ダルビッシュ有投手ももっと勝ち星を残せたのです。
ということで,私は,田中投手が活躍できるかどうかは,監督の起用法以上にそのチームの中継ぎと抑えの投手陣次第だと思います。
田中将大投手は,結局,ヤンキースに行くのでしょうが,私は,ジョー・ジラーディ監督の日替わりの選手起用法が嫌いだし,若手がいないことなど,懸念材料が多いことが気がかりです。 FAでヤンキースを離れるはずの黒田博樹投手とともに,ドジャースに行くのが一番いいと思います。

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 泊ったホテルからクリーブランドのダウンタウンまではインターステイツ90を東に20分くらい行くだけだったので,ここに3泊することにしました。
 早朝,ダウンタウンに向かいました。ダウンタウンの中心にボールパークがあって,そのとなりに大きなパーキングがあったので,そこに車を停めました。1日停めても7ドルでした。そこで,きょうは,ここに車を停めて,市内観光をすることにしました。
 車から降りて,ほとんど人のいない早朝のダウンタウンをのんびりと歩いていると,レストランがあったので,卵とソーセージ,トーストとコーヒーといった朝食をとりました。この国の朝食メニューは「アーリーバード・スペシャル」という名がついていることが多くて,そうか,早起き鳥なんだ,こんな時間に朝食を食べるのは働き者なんだ,なんて思ってしまいます。

 ダウンタウンには観光名所がたくさんあります。
 私は,まず,「ロックン・ロール・オブ・フェイムと博物館」へ行きました。今年行ったクーパーズタウンの「野球殿堂と博物館」のように,この国には,こうした博物館がたくさんありますが,どこも,半端な大きさではありません。
 日本でも,国技館に小さな相撲博物館があるのですが,国技という割には規模が小さすぎます。他にも、野球とかサッカーとか,人気のあるスポーツに関した博物館や,これまでそのスポーツで活躍した人の業績をたたえる施設が,日本では,あまりにも貧弱すぎます。要は,何がしかのことをしたという業績や偉業のある人を尊敬する気持ちが足りないのだと思います。嫉みだけは世界一ですけれど。

 ダウンタウンから東12番街を北に向かって歩いていくと,グレイハウンド(長距離バス)のバスターミナル(この街では珍しくダウンタウンど真ん中にバスターミナルがあった)を右手に見て,ギャレリアというショッピングモールのところで東9番街へ道を変えて,さらに北に歩き,インターステイツとアムトラック(長距離列車)とRTAと呼ばれる電車が半地下を通っている橋を渡ると,エリー湖のほとりにある近代的な建物にたどりつきました。
 この日はとても風が強かったけれど,涼しくていい天気だったので,ここから見るダウンタウンはものすごく美しかったです。
 ある旅行記のブログで,クリーブランドが蒸し暑かった,というのを読んだことがありますが,その場所に行ったときの気候次第で、町の印象がずいぶんと違うんだなあ,といつも思います。
 私にとっては,クリーブランドは,風が強く夏でも寒いところなのです。

 「ロックン・ロール・オブ・フェイムと博物館」は,マイケル・ジャックソンやエルビス・プレスリーからブリットニー・スピアーズまで,衣装やらなにやらがそろった,とても見どころが多い場所でした。
 チケットを購入して,まず,エスカレーターで地下の入口へ行きました。
 「スターは展示品を写真に写されるのを嫌っています。カメラを持っていたら預けてください」という粋な表示があったので,残念ながら,写真がありません。
 5階建てで,5階にはジョン・レノンとオノ・ヨーコのレコードのジャケットで有名なベッドなるもの(本物)が展示されていました。また,ジョン・レノンの通知表というものもありました。
 このように,ここも見どころ満載の,とてもすばらしい博物館でした。
 アメリカには,他の都会にもロックンロールに関する博物館が数多くあって,そういったところを訪れることもあるのですが,この博物館に勝るところを,私は知りません。
 この博物館の西には,クリーブランド・インディアンズの,かつての本拠地,ばかでかいだけが取り柄だったミニュシパル・スタジアムがあったのですが,現在は,アメリカンフットボールのクリーブランド・ブラウンズの本拠地ブラウンズ・スタジアムに改造されていました。

◇◇◇
メジャーリーグもボストン・レッドソックスの優勝で幕を閉じましたが,タンパベイ・レイズに新球場の話が浮上しました。レイズは,タンパベイといいながら,実際は,その隣のセントピーターズバーグに本拠地トロピカーナ・フィールドを構えているのですが,開閉しないドームに人工芝という,いささか日本の球場みたいな,古臭くまったく魅力のないところです。新球場は,タンパベイに作られるそうです。
そんな話を読んでいたら,今度は,なんと,アトランタ・ブレーブスが新球場を作って2017年に移転する話が決まりました。ブレーブスの本拠地ターナーフィールドは,アトランタオリンピックの競技場を改装したもので,まだ,16年しか使っていないし,立派な球場なのですが,2016年に使用契約が切れることと,周りに駐車場が少ないなど,様々な問題があって,移転に踏み切ったのだそうです。
私は,メジャーリーグ30球団の球場で魅力のない所といえば,タンパベイ・レイズのトロピカーナ・フィールドとオークランド・アスレチックスのオー・ドットコー・スタジアムの2つだと思っているので,レイズが新球場に移転すれば,あとはアスレチックスだけです。それにしても,この2球団とも強豪だというのも,面白い話ですが。babd7f90-s

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 2002年7月9日午後3時,私は,インターステイツ279を北に,ピッツバーグからクリーブランドに向かって走っていました。やがて,タ―ンパイク79(オハイオターンパイク)に入りました。
 有料道路と言っても,通行料金はたかが数ドルなのですが,道が広くなるわけでもなく,設備がいいわけでもなく,フリーウェイと何も変わるものではありません。むしろ,ここは,中央分離帯も広いグリーンベルトではなく,コンクリートの壁で仕切られただけだったし,やたらと車も多く,日本の高速道路のような道でした。
 だんだんとクリーブランドに近づき,ターンパイクに接続したインターステイツ76に乗り換えました。インターステイツをさらに80,480,77とジャンクションごとに乗り換えて北西に走って行くと,クリーブランドのダウンタウンが見えてきました。インターステイツ77は今度はインターステイツ90と一緒になって,クリーブランドインディアンズの本拠地ジェイコブズ・フィールド(現プログレッシブ・フィールド)の南を通っていきます。

 高架上のインターステイツから見たクリーブランドの美しい街並みにボールパークがよく調和していて,ものすごく感動しました。ボールパークの横のインターチェンジを降りて,ダウンタウンに向かいました。
 ダウンタウンの一般道路は自然にカーブしていて,やがてダウンタウンを通り過ぎてしまい,自分ではクリーブランドの北に広がるエリー湖に向かっているはずだったのに,なかなか湖が見えてきません。
 まあ,いつものことですが…。
 次第に,道は,アフリカンアメリカンのたくさん住む雑踏のなかに入っていきました。別段,治安が悪い感じはなかったのですが,土地勘がないので,少し怖くなってきました。
 このあたりの道路標示はイースト何番地という名前で,とても分かりやすかったのですが,その番地の番号が次第に大きくなっていくので,私は,北に向かっているのではなく,東に向かっていることに,このとき気がつきました。方向がわかったので,気を取り直し,そこから北上して,やがて,エリー湖畔を走るインターステイツ90のインターチェンジを見つけて,西に向かって走りました。

 ともかく,北にさえ向かえば,湖があるわけなので,この町は走りやすいのです。

 クリーブランドは,西に高級住宅地が広がり,東に低所得者層の街並みがあり,北にエリー湖と,旅行者にとってとても分かりやすいところでした。そして,ダウンタウンは,美しく,とてもいい街でした。
 ジョークで,1等賞クリーブランド1日間の旅,2等賞クリーブランド2日間の旅…(つまり,何もないところなので,長くいるほど退屈するということ),というものがあったそうで,出発するまえに,クリーブランドに行くと言ったら友人から脅かされていたのですが,実際に来てみると,それは過去のこと,とにかく,この町の第一印象は,素晴らしくきれいな大都会,でした。
 インターステイツ90を西に,クリーブランドの郊外まで走ると,他の町のように,雄大なアメリカ大陸の景色が広がるようになってきました。郊外のそんな一角に,マクドナルドで仕入れたクーポン券を持っていた「ホリデーイン」を見つけたので,今日は,ここに泊まることにしました。
 ホリデーインは,すごく広く立派なホテルでした。クーポン券記載されていた料金があまりにも安かった(60ドル程度)ので,こんな安価な料金で泊まれるの? と驚いたほどでしたが,こうしたこともあって,クリーブランドは,いまでも,素敵な町だったなあ,という思い出だけが強く残っているのです。

 この都会も,観光地としては,日本の人たちにはなじみが薄いでしょうから,「湖畔のの町の失敗」から立ち直り,こんなに素敵な都会に変身したクリーブランドについて,しばらく紹介していきましょう。
 このように,アメリカは,農村はどこも広く雄大で,同じような豊かな景色が広がっているけれど,都会は,それぞれが抱えている問題も産業構造も違い,日本のような横並びの意識もないので,町ごとの個性が違っていて,行ってみなければ,その姿はわからないのです。

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 森の中を歩いて行く。
 やがて,ワンパノワグ族の集落に着いた。
 木々で囲まれた一箇所が入口になっていて,中に入ると,ワンパノワグ族の衣装をまとったスタッフがいて,説明をしたり,カヌーを作る実演をしたりしていた。
 その当時のままの家も再現されていた。集落の中では,トウモロコシやマメを作る畑もあった。
 スタッフは,ワンパノワグ族の末えいらしかった。なかなか興味深いものであった。

 ところが,中国人の10人ぐらいの団体が到着すると,すべての雰囲気は台なしになった。
 彼らは英語がわからないだけでなく,若い女性たちは,わけのわからぬサングラスをし,奇抜な格好をし,所構わず数人で集まっては変なポーズをして写真を取りあっている。
 男たちは,ところ構わず大きな声を張り上げ、何やら話をしている。興味があるようには思えないのに,いろんなところに出入りしたり触れたりしている。
 そして,そういうグループを束ねるツアーコンダクターが,彼らと同じように,おれは何でも知っているというような鷹揚な態度で仕切っている。
 昨年行ったサウスダコタ州のクレイジーホースメモリアルも同様であった。大挙して現れ,1軒しかないレストランに突然全員が向かい,列を作った。
 不愉快なので,今回も,彼らの写った写真は1枚もない。

 私が若い頃に行ったアメリカでの日本人の団体旅行客も,同様であった。
 大型のバスで大挙して現れ,普段日本ではしないような奇抜な格好をした若者や,あるいは,生まれて初めて東京へ出てきたみたいな背広にスニーカーといった出で立ちのおじさんやら,いかにも高級そうなブランドのバッグを異常に警戒して抱きかかえたおばさんやらが,自分たちだけの世界を作り,写真を撮り大声で話し,現地の人が話しかけると,へんてこな英語で返事をする…。まあ,自分も含め,そんなものだった。
 近頃は,日本人の団体旅行客を全く見ない。本当に,全く見ない。
 数人の留学生らしき学生や,私くらいの歳の夫婦連れをたまに観光地で見かける程度である。あるいは,たまに,「私,人とは違うわよ」という鼻につく若い女性がひとりで旅をしているのを見るくらいである。そういえば,そういう女性も,絶滅危惧種になってきた。
 近頃の日本の若者は,およそ,アメリカには興味がないので来ないか,あるいは,こちらに来ている数少ない若者は品もあり優秀である。逆に言うと,おとなしい。そして,観光地を離れると,まず,日本人を見ない。見たことがない。ガイドブックに書いていないところには行かない。

 ワンパノワグ族の集落を出て,中国人の団体客が嫌だったので,通常のルートから離れ,池沿いの道を歩く。
 広い場所だなあと思って歩いていると,遠くに建物が見えた。それは,昨日泊まったホテルだった。
 プリマスプランテーションは,プリマスのダウンタウンから少し離れているのでどこにあるのかなあ,と昨日思っていたが,実は泊まったホテルの正面だったわけだ。

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 1989年に公開されたアメリカ映画「メジャーリーグ」(Major League)は,メジャーリーグベースボールに実在する球団,クリーブランド・インディアンズを舞台にしたコメディー映画です。
 映画のあらすじは次の通りです。

  ・・・・・・
 インディアンズは34年も優勝から遠ざかっている弱小球団。亡き夫の跡を継いだ新オーナー・レイチェルは1年の観客動員数が80万人を下回れば本拠地の移転が認められることを利用して,マイアミへの移転をもくろみます。そのために集められた選手は奇妙な選手たちばかりでした。
 当然,チームはシーズンが始まっても低空飛行を続けていたのですが,ある日,ムショ上がりの若いピッチャー,リッキーの活躍で快勝してからチームに勢いがつき始めます。やがて,チームはレイチェルの企みを知り,これに発奮した彼らは怒涛の快進撃を見せて,ついに同率で強豪ヤンキースとのプレーオフに臨むのです…。
  ・・・・・・

 本物のクリーブランド・インディアンズは,1901年に創設された伝統のある球団で,1920年と1948年にはワールドシリーズ制覇を果たしたこともあります。しかし,その後は長い低迷を続けて,1954年のリーグ優勝を最後にワールドシリーズからは遠ざかってしまいました。そのために,この映画「メジャーリーグ」のモデル球団になってしまい,弱小チームの代名詞として知れわたることとなったのです。
 1990年代後半になると,スター選手の台頭で,映画と同じように強豪チームとして快進撃を開始し,1995年から1999年まで5年連続で地区優勝を果たすなど,黄金期を築きました。
 当時,オールスターの人気投票でも,インディアンズの選手ばかりが選出されました。
 2000年以降は,緊縮財政のため主力選手の流失で一時低迷しましたが,有望新人を育てあげ,2004年以降は成績も上昇し,2007年には地区1位になりました。2013年も,ディビジョンシリーズに進出しました。

 映画「メジャーリーグ」の大ヒットで知名度が高くなったことに加え,1994年にオープンした新球場が人気を呼び,1995年6月12日から2001年4月4日まで,ホームゲームで455試合連続満員御礼という記録を作りました。これを記念して,455番はチームの永久欠番となっています。
 映画にも登場するかつての本拠地ミニュシパル・スタジアムはまことにひどい球場で,74,484人収容という,とにかくでかいだけのものだったのですが,新球場はボストン・レッドソックスのグリーンモンスターをまねた高さ5.8メートルフェンスが左翼のみにそびえ立ち,その奥には,シカゴのリグレー・フィールドのような昔の球場のような外野席があるなど,古き伝統を考慮した最新式のデザインで誕生しました。新球場・プログレッシブ・フィールドは,2007年まではジェイコブス・フィールドと呼ばれていました。
 この球場はクリーブランドの市街地にあってダウンタウンから徒歩圏内の便利なところにあります。

 私は,この球場が見たくて仕方がなかったのですが,2002年7月11日,ついに,念願が叶いました。
 クリーブランドは,かつては,鉄鋼業の衰退で「湖畔の町の失敗」と呼ばれていたのですが,再開発に成功して,近代的で美しい街に生まれ変わりました。かたや再興に失敗したデトロイトからそれほど離れていないこの場所に,再開発に成功した魅力的な町が誕生したわけです。
 インターステイツでクリーブランドに近づくと,ダウンタウンの真ん中に真っ白い球場が見えてきて,球場がこの街の再開発のシンボルであることを印象づけられます。
 実際に行ってみると,この球団と球場が人気がある理由がよくわかりました。
 まず,食べ物の種類が多く,おいしいのです。
 今は知りませんが,私の行ったときには,お寿司屋さんもありました。このお店のことは,行く前に日本で紹介されていて,そのことを売り子の女性に言うと,中から日本人らしき店員が出てきて微笑みました。
 私は,シーサラダという海藻を海苔と米で巻いたカリフォルニアロール風の巻きずしを注文しました。お店の前のベンチで食べたのですが,箸でつまんでいると,通りがかりのアメリカ人には,私の箸の使い方が魔法のように見えるらしく,みんな興味深げに眺めていきました。
 そうです。ここでは,私は,英雄だったのです。
 さらにハンバーガーも食べてみたのですが,大きくて,おいしかったという印象があります。
 試合中は,インディアンズのチャンスになると,巨大なスコアボードの前の席に陣取ったジョン・アダムスさんがクリーブランド名物の大太鼓を鳴り響かせます。
 私が行ったときは,インディアンズは残念ながら,黄金期が過ぎ去ったばかりで,有名選手はすべて放出されてしまったあと,連続満員御礼もとだえてしまったあとでした。車で聴いたラジオからは,いかにインディアンズを再生するか激論がかわされていました。
 この街の魅力については,次の機会に書きたいと思いますが,この素敵なチームが再びアメリカンリーグ中地区の常勝球団として君臨し,ワールドシリーズで優勝する日を,私は楽しみにしています。

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 とにもかくにも,プリマスプランテーションに到着した。
 プリマスプランテーションは,1947年に誕生した野外博物館である。例えれば,愛知県の明治村とリトルワールドを足して2で割ったようなところだった。
 アメリカ発祥の地プリマスに入植した人々の,当時の生活や文化を再現して,そういった情報を後世に伝えようとしていて,実際,17世紀のニューイングランド地方に共存した移民と先住民の生活様式をそのまま体験できるようになっていた。
 この時代のままに生活を営んでいるトレーニングされたスタッフがいて,当時の衣装を身にまとい,自分で畑を耕したり家畜を飼ったり,そのころの言語を話したりしているのに接することができた。
 広い敷地内は大きく2か所に分かれていて,ひとつは先住民ワンパノワグ族の集落で,もうひとつはピルグリム・ファーザーズの作った村であった。

 まず,広い駐車場に車を停めた。その一角に入口があって,そこからなかに入ると,ビジターセンターの立派な建物があった。まだ,開館時間が過ぎてそれほど時間がたっていなかったこともあり,混み合ってはいなかったが,そこそこに観光客がいた。そこでチケットを購入した。
 このビジターセンターには,フィルムシアターと博物館,土産物店,レストランがあった。
 私は,まず,フィルムシアターで,15分間のオリエンテーションフィルムを見た。1627年のピルグリムビレッジとワンバノワグ族に関する概略や人々の交流などが紹介されていた。

 こういうところで聞く英語は,学校で習ったようなわかりやすい英語なので,なにげなく聞いていると,なにか日本語を聞いているように簡単に入ってくるので,なんだここは日本じゃないか,と思わず勘違いしてしまうほどである。それに比べれば,アメリカを旅行していて,普段,この国に暮らす人たちが聞いたり話したりしている英語は,全くの別物であるように思う。

 先日,テレビ番組で話していたネイティブの会話の一例を紹介すると,
  ・・・・・・
 Hi! Good at that.
 You've got a dish me how to do that.
 I don't know how to it.
 Such a beautiful day, isn't it?
 Do you come here often?
  ・・・・・・ 
 このような感じです。

 私は,こちらに来る前に,アメリカの歴史とかボストンの観光とかを題材とする日本で放送されたテレビ番組をずいぶんと見てきたので,プリマス・プランテーションで展示されていたものはとてもよくわかったし,大変興味深かった。
 ここ,プリマスに上陸したピルグリムは,1620年の冬に飢え,多くの死者を出したが,先住民ワンバノワグ族から新大陸での栽培知識を受けて,なんとか生き延びることができたのだった。そして,次の年は,収穫が多かったので,ピルグリムはワンバノワグ族を招待して,神の恵みに感謝して互いにごちそうをいただいた。
 それが,今日の感謝祭の始まりだった。オリエンテーションフィルムの内容は,このようなものであった。
 ビジターセンターの中の博物館や土産物店は帰りに見ることにして,ビジターセンターから外に出て,はじめに屋外の展示をみることにした。
 結構暑い日だった。それでも,私が着いたときは少なかった観光客は,やがて,観光バスや団体客,グループ,家族連れなどがやってきて,だんだんと多くの人が入って来た。

☆ミミミ

今年は,彗星の当たり年で,春先にもパンスターズ彗星を見ることができましたが,現在,明け方の空に,ラブジョイ彗星,アイソン彗星,エンケ彗星を見ることができます。
昨晩,ラブジョイ彗星,アイソン彗星の写真を撮りました。レンズの収差で星が丸くなっていないのが残念です。エンケ彗星は高度が低いので,あきらめました。
写真上のラブジョイ彗星は,空の暗い所なら肉眼ではっきりと見ることができます。深夜の午前3時頃なら天頂付近のかに座というところにいます。写真の,星が密集しているのは「プレセぺ星団」とよばれる散開星団で,その下にぼっとしたのが彗星です。昨晩は,双眼鏡の視野に同時に見ることができたので,とても美しかったです。
前評判の高いアイソン彗星は,これからどんどんと明るくなって,月末には金星の明るさほどになると言われています。もともとは,もっと明るくなると予想されていましたが,彗星そのものの大きさが予想ほどではなかったために,それほどは明るくならないようです。現在は,大きな双眼鏡でやっとわかる程度です。深夜の3時頃に地平線東の空から昇ってきます。現在はしし座にいます。写真下のように,すでに,長い尾を双眼鏡を通して見ることができます。今後は,どんどんと昇ってくる時間が遅くなって,つまり,太陽に近づいて,そして,明るくなってくるという予報ですが,この小さく幼い感じでは,大彗星にはならないかもれないなあ,と心配になりました。予想通りであれば,1か月後の明け方には,長く尾をたなびかせながら,彗星が地平線から昇ってくる姿を肉眼ではっきりと見ることができるかもしれません。
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 実際のケープコッド岬は,能登半島くらいとたとえればわかってもらえるであろうか。
 場所は,ボストンを東京とたとえれば,プリマスが横須賀で,ケープコッドが三浦半島,みたいな位置関係である。ケープコッドは三浦半島よりずっと大きいけれど。
 昔行ったことがあるフロリダ半島なんて,房総半島くらいなものに思うけれど,実際には日本列島くらいの広さがあったのを思い出した。
 実際は,ケープコッドも半島の中にインターステイツが通っているし,車も多いし,とても2時間で往復できるようなところではなかった。
 
 私は,プリマスに沿って東西に走り,宿泊したホテルの前を通る片側1車線の州道3Aを,ケープコッドがある東の方向に進んだ。持っていた小さな地図にはそのままこの道を進むと,東西に長く伸びて先っぽがひじを曲げたような形のケープコッド半島の北側の海岸線を進み,先端の岬にまで行けるように書かれてあった。そして,先に書いたように,このあたりはインターステイツ(高速道路)はないものだと思っていた。
 ところが,州道3Aは,ケープコッド半島にさしかかった時に,プリマスの海岸線を通る州道3Aに並行して山側を走っているバイパス線である州道3と交わるようになっていた。この州道3は一般道ではなく,インターステイツ形式の道路であった。
 そこで,突如現れたインターステイツが目の前に現れたとき,私は訳が分からなくなった。
 GPSも道路を表示しているが,画面が狭く,広い道が表示されていても全体像がわからなくて,この道がどこへ通じているのか判断がつかなかった。
 実際はそのままジャンクションに入って州道3を東に走っていけば,その道はインターステイツ6に名を変えてケープコッド半島の先端まで通じていたのだった。
 ケープコッド半島は,大陸とはつながっていなくて,ケープコッド運河で寸断されている。そして,北側にサガモアブリッジ,南側にボーンブリッジというほとんど同じ形状の橋が架かっていて,北側の橋がインターステイツ6,南側が州道25である。

 ジャンクションで自然にインターステイツに入ってしまったのだが,進む方向を間違えてしまった。
 こういうことばかり書いているので,停車して道を確認すればいいに,とお思いの方もあろうが,停車する場所もなく,ジャンクッションでは知らない地名標示を見てとっさに行く方向を決めなくてはならないので,運転をしていると大変なのである。
 インターステイツ6を東へ行けばよいのに,南西に進んでしまった。
 そこで,ケープコッドに入るサガモブリッジを渡ることができす,運河に沿って南西に進むことになってしまったのだった。そうして,8キロメートルくらい進むと,やっと道路標示に「ケープコッド」とあったので,ジャンクションで方向を変えた。
 この標示にしたがって進むと道は州道28に入り,やがて,州道28はボーンブリッジを渡って,ようやく,無事に,ケープコッド半島に入ることができた。

 肘を曲げたような形のケープコッド半島は,二の腕のように膨らんでいる。
 はじめ,ケープコッドの北側の海岸線に沿って東に進む予定だったのが,南側の海岸線に沿って進むことになってしまった。
 南側は30キロメートルくらい膨らんでいるので,州道28をどんどんと南に進んでいくことになった。
 島の南西端まで着いた。
 そこには,ファウルマスという町があって,ファウルマスは史跡やら銀行やらレストランがある,こじんまりしたリゾート地であった。この町を過ぎて,やっと,ケープコッド半島の南の海岸線を東のほうに進むようになったが,次第に,道が狭くなってきた。
 そのまましばらく進んだが,もう8時も過ぎ,出発してから1時間も経っても,島の10分の1も行くことができないのであった。これでは,9時に間に合いそうにない。
 仕方なくケープコッドを周回することはやめて,引き返すことにした。

 帰りは,「プリマス」と書かれた道路標示があるので,迷わずに引き返すことができた。
 来た道ではなく,州道130という半島の二の腕を南北に縦断する道を北上し,北側の海岸線まで行って,そのままインターステイツ6に入った。そして,来るときに渡り損ねた北側の橋サガモブリッジを渡った。
 インターステイツは州道3と名を変えたが,道としては高速道路形式のままであった。
 やがて,「プリマスプランテーション」と書かれたジャンクションがあったので,そこの出口を降りて,大きく道なりに曲がっていくと,プリマスプランテーションの入口に出た。
 着いたときには,もう,10時を過ぎていた。

◇◇◇
どうしてこういうことになってしまっているかというと,こちらに来る前には,ケープコッド半島へ行こうとは全く思っていなかったことに原因があるのです。横浜へ遊びに来て,翌日に鎌倉に行く予定だったのが,朝の2時間空白の時間ができたので,突然,三浦半島へ行こうとしたようなものです。

◇◇◇
ミルウォーキー・ブリュワーズといえば,青木宣親選手ですが,以前,我らが野茂英雄投手も在籍したことがあります。6回裏終了後に「ソーセージ・レース」というのがあります。きょうは,その模様をごらんください。野茂投手が参加したこともあります。

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 これまでに取り上げたほかに,デトロイトには,モータウン博物館と歴史博物館があります。
 翌日の朝,私は,まず,モータウン博物館へ行きました。モータウン博物館は,家が一軒あるだけの小さな博物館でした。あたりは,うらぶれた下町でした。

 モータウン(Motown)とは,デトロイトの通称「モーター・タウン」の略で,デトロイト発祥のレコードレーベルのことです。
 1950年,ベリー・ゴーディ・ジュニアがジャズのレコード店を開いたのが始まりで,自分で書いた曲を売り込んで回るうちに認められ,「黒人向けのR&Bではなく,白人層にも自分たちの音楽の良さを理解して欲しい」という思いから,1959年,借金をして,モータウンレコードを設立しました。
 ゴーディは物件を1959年に購入して,小さな録音スタジオに改装し,2階を住居用としました。この物件はデトロイトウェスト・グランド通り2648に位置し,1968年までモータウンの本社でした。
 モータウンレコードには,スティーヴィー・ワンダー,スプリームス,ダイアナ・ロス,テンプテーションズ,ジャクソン5,マイケル・ジャクソン,プリンス,ライオネル・リッチーなど,有名なアーティストが所属していました。次第にヒット曲を重ねて,大型レーベルへと成長していったのです。
 1970年,モータウン・レコードはロスアンゼルスに移転し,この場所は1985年にモータウン歴史博物館となりました。
 なお,1990年に,ゴーディはロックの殿堂入りを果たし,1994年には,自伝「モータウン,わが愛と夢」(To Be Loved)を出版しました。

 モータウン歴史博物館に着いたとき,まだ,開館には10分ほど時間があったので,路上駐車をして,周りを散策しました。この博物館のとなりが葬儀屋だということがわかりました。
 少しすると,ノースカロライナ州からやってきたというアフリカン・アメリカンの団体客がバスで現れました。その団体の添乗員らしきおばちゃんが,まだ開館していない入口でインターフォンを鳴らしましました。しばらくすると係員が出てきたので,まだちょっと早かったけれど,一緒に中に入れてもらいました。
 お金を払うと,団体客が来るから先に2階を見るようにと言われたので,2階を見ました。
 2階には,モータウンの歴史をはじめ,ゴールドディスクやプラチナディスク,テンプテーションズの衣装,マイケル・ジャクソンの帽子と白い手袋などがありました。本物だよ! そのあとその団体客と一緒に1階でビデオを見て,説明を聞きました。
 結構有名なところで,きっと,大好きな人には,たまらない場所だろうと思われました。
 帰りにお土産にステッカーを買いました。
 
 モータウン博物館を後に,次に向かったのは,デトロイト歴史博物館でした。
 近くの道路は,パーキングメーターのあるところはすでに車が一杯で,やっと見つけて停めたところはパーキングメーターが壊れていて,お金を入れたのだけど動作せず,という感じでした。この町は,パーキングメーターさえ満足に整備されていなかったのです。なんとかメーターの動くところを見つけて車を停めて,博物館へ行きました。
 チケット売り場では,前のお客さんが,予約してあったにもかかわらずコンピュータが作動せず,係のおばちゃんは,何度もおなじことを繰り返すばかりで,後ろに並んでいた私はさんざん待たされたのだけれど,結局,おばちゃんはそのお客さんにチケットを売るのをあきらめ,次の私にチケットを売り始めました。
 この博物館も古ぼけていて,デトロイトの昔を再現した模型などがありましたが,それぼど大したところではありませんでした。
  ・・
 それにしても,デトロイトは想像以上にすごいところでした。たった数日滞在しただけで,この町の抱える問題が実感できました。
 ヘンリー・フォードがT型フォードを量産した町,世界で初めて舗装道路と高速道路ができた町,デトロイト。1967年のアフリカ系アメリカ人のによる大規模な暴動と,1970年代以後の日本車の台頭によるアメリカ自動車産業の深刻な打撃がもたらした荒廃の結果,30年以上も,ここまで荒れ果て退廃するのをほっておけば,復興するのも並大抵なことではないんだなあ,あの町に暮らす人はもっとたいへんだろうなあ,としみじみ感じたことでした。
 ルネサンスタワーをシンボルに都市の再生を目指しているのですが,この手法は周囲の荒廃した地域への波及効果が薄く,ダウンタウンの空洞化は,今なお,改善がみられません。ダウンタウンのビル街は全くテナントがなく,ゴミだらけの空き地や荒れた家屋が数多く見られます。
 2012年現在もデトロイトの人口は減少をたどっていて,約70万人。失業率,貧困率が高く,犯罪都市としても有名です。2013年7月18日,ついに,デトロイト市は財政破綻を表明し,ミシガン州の連邦地方裁判所に連邦倒産法第9章適用を申請しました。負債総額は,180億ドルを超えるとみられています。

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☆5日目 7月24日(水)
 きょうで5日目である。だんだんと,何日目なのか何曜日なのかわからなくなってきた。これほど旅に打ち込めるのは幸せなことである。
 朝は,ホテルでのんびりと起き,といっても朝の6時,そして,のんびりと食事をした。
 きょうの予定は,来る前から楽しみにしていたプリマスプランテ―ション,その後,周辺をドライブしながらボストンへ向かう,というものだった。
 この時は,まさか,今晩,ボストンのフェンウェイパークでメジャーリーグベースボールを見るなんていうことは,本人も予想もしていなかった。

 今回の旅は,はじめの4日間の長距離ドライブが第1部,そして,このあとのボストンとニューヨークの大都会が第2部となる二本立てだった。
 私はボストンとニューヨークは32年前に一度行ったことがあるし,それ以後もニューヨークには行っているので,それ以外のところへも行きたかったということと,全米50州をまわりたいという目標があったことで,メイン州,ニューハンプシャー州,バーモント州も巡ることにしたが,初めてこの場所へ行く人は,ボストンとニューヨークという魅力的な大都市があるので,短い期間の旅行では,なかなかこれらの州まで足をのばして訪れる機会はないのかもしれない。
 アメリカに住んでいる人にはたいへん魅力的なところであっても,これらの州を旅行していたとき,外国人の観光客を見ることはほとんどなかった。当然,日本人なんて皆無であった。
 それに比べれば,これから行くボストンとニューヨークでは,日本人にもたくさん会うことだろうと思った。
 
 いずれにしても,これまでの旅が,雨の日が多かったり,予想していたより広かったりと,予定通りいかないことが多く,せっかくそこまで行きながら,実現できなかったことがたくさんあった。しかし,それなりに面白かったし,有意義だったので,やっとボストンに戻ってきたなあと,ほっとした気持ちだった。
 今度ここに来るときには,9月の早秋にボストンから北上して,ニューハンプシャー州からバーモント州を通り,カナダのモントリオールまで行ってみたいと思っている。きっと,絶品の紅葉が見られるに違いない。

 朝食を終えたのが朝の7時,プリマスプランテーションは朝9時の開園なので,まだ,少し時間があった。そこで,プリマスから東に延びる,海岸線が美しい景勝地ケープコッド岬へは2時間もあれば往復できるようだったので,プリマスプランテーションへ行く前に,ケープコッドの先端までドライブしようと考えた。
 私の持っていた大まかな地図によると,ケープコッドは,このホテルの前の道,州道3Aをそのまま走っていけば容易に行くことができるようだった。
 そこで,さっそくホテルをチェックアウトして出発した。

◇◇◇
今日は,アメリカの自動販売機をお目にかけましょう。
こちらでは,街頭にはまず自動販売機はありません。自動販売機があるのはホテルくらいですが,お釣りの出るものはなくて,1ドル札やクォーター(25セント)を入れます。自動販売機がよれよれのドル札をちゃんと識別できることが,私にはちょっと信じられません。
アメリカの通貨は,コインは,1セント(ペニー),5セント(ニッケル),10セント(ダイム),25セント(クォーター)が流通しています。それ以上のものもあるですが,ほとんど目にしません。最近は,1セントすらあまり見かけなくなりました。紙幣は1ドル,2ドル,5ドル,10ドル,20ドル,50ドル,100ドルとあるのですが,50ドル,100ドルは持っていかないほうがいいです。受け取ってもらえません。
もっとも,ほとんどの場合,クレジットカードでOKなので,お金を使うのは自動販売機かコンビニかマクドナルドくらいのものです(実際はコンビニやマクドナルドもクレジットカードが使えます)。写真の自動販売機のコーラは,場所によって2ドルだったり,2ドル25セントだったりします。
都会は物価が高くて,1ドルは80円くらいが相当なのかな,と思うのですが,田舎へ行くと,1ドル100円くらいが相当のように思います。昨年の異常な円高のときに,「アメリカの相場を考えるとこれで普通」とか言っていた経済学者がいましたが,その人たちの言うアメリカの物価とはニューヨークのことなのです。

◇◇◇
2013 Red Sox Championship Parade
 

President Obama noted the great job that Farrell did in his first year managing the team, remarked on the incredible pitching performance by closer Koji Uehara and extended his congratulations to David Ortiz on being named the World Series MVP, according to a team press release.

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 デトロイトのダウンタウンから南西約35キロメートル行ったところに,デトロイト・メトロポリタン国際空港(DTW)があって,空港とダウンタウンの間に,前回紹介したヘンリーフォード博物館があります。
 それとは直角に北西へはウッドワードアべニューという広い道がまっすぐに延びていて,2キロメートルくらい行くと,右手に,MLBのデトロイト・タイガースの本拠地コメリカ・パークと,その東に,NFLのデトロイト・ライオンズのフォードフィールドがあるのですが,私が行った2002年には,フォードフィールドは,まだ,建設中でした。
 このように,ダウンタウンはスポーツ施設を建設して再開発をしよういう意志はあるのです。

 さらに進むとインターステイツ75に出会い,これを通過して5キロメートルくらい行くと,インターステイツ94に至ります。この手前に,昔はさぞかしにぎわったであろうと思われる古臭い劇場街などがあって,それを過ぎると,アフリカ系アメリカ人歴史博物館,デトロイト美術館,デトロイト歴史博物館があります。
 インターステイツ94を越えて,もう2キロメートル,グランドブルバードへ,左(南西)に折れて3キロメートル行くと,モータウン博物館があります。

 このように,見どころはたくさんありますが,すでに書いたように,これらをまわるには,車しか方法はありません。
 インターネットに,昔のデトロイトのイメージを描いてあこがれていたのでしょうか,老後にデトロイト観光を計画しているが,という書き込みを見かけるのですが,残念ながら,レンタカーを利用できないのであれば,やめておいた方がいいでしょう。日本語ツアーもないでしょう。
 私は,アメリカを車なしで観光できるのは,ニューヨーク,ボストン,ワシントン,サンフランシスコ,シカゴ,くらいのものだと思います。そうそう,忘れていました。ミネアポリス&セントポールも大丈夫です。だから,車を使ってアメリカを個人旅行している人のアメリカに抱いている印象と,そうでない人とはまるで違います。
 車で観光をしたことのない人の多くがアメリカにあまり良いイメージを持っていないのは残念なことですが,それは,このブログでも書いているような,アメリカの本当の姿を知ることができないからなのだと思います。
 確かに,病んでいるところもたくさんあるのですが,それはどの国でも同じです。
 あの自然の雄大さは,他には体験できません。

 私は,ダウンタウンからウッドワードアべニューを走って,まず,アフリカ系アメリカ人歴史博物館へ行きました。
 ダウンタウンを抜けると,少しはマシな町並みになって,新しい建物が目立つようになりました。
 博物館の前の道路のコインパーキングにコインを入れて,博物館に入りました。
 この博物館は,この種の博物館としては最大規模で,公民権運動の起きた1965年に創立されました。強制的にアフリカから連れてこられて迫害を受けた歴史をたどり,今日の状況までが時系列に解説されていて,キング牧師の偉大さが大変印象的でした。博物館の中は,アフリカ系アメリカ人ばかりでしたが。
 その隣には,デトロイト科学センターがあったのですが,そこはパスして,美術館にいきました。
 ここは,1885年創立の,6万点の作品を誇る全米でも指折りの美術館でした。私の行ったのは金曜日でしたが,金曜日だけは夜10時まで開館していました。
 建物はモダンな新館と旧館に分かれていて,ものすごく広かったのですが,なんとなく活気がないというか,殺風景でした。
 最近の報道では,破産したデトロイトでは,この美術館にある作品を売りに出して予算を捻出する計画があるとか。さもありなんです。

 この町が,なんとかして活気を取り戻して,こうした貴重な文化遺産に一人でも多くの人が接することができるようになるのを祈りたいと思います。

◇◇◇
きょうは,我らが英雄・野茂英雄さんの登場曲をお送ります。「スキヤキ」(上を向いて歩こう)が聞こえますでしょうか? 1995年,野茂さんはロスアンゼルス・ドジャースで劇的なデビューをしました。彼の現役時代のマウンドでの姿を思い出すと泣けてきますね。野茂なくして,イチローなく松井なく上原なしです。彼も,偉大な先駆者です。
私は,そのころから,インターネットで中継を聞いていました。ロスアンゼルスからインターネットの日本での視聴者向けに日本語の中継放送がありました。 懐かしい日々です。

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 ニューヨーク・ヤンキースで大活躍し,652セーブを挙げた史上最高の偉大なクローザーだったマリアノ・リベラ投手の決め球はカッターでした。
 カッターは,直球が打者の手元で横やらななめやら縦やらに鋭く変化するボールです。リベラ投手のカッターは球速153キロで20センチ変化するといわれました。
 マリアノ・リベラ投手は惜しまれながら今年で引退して,ついに,背番号42は姿を消しました。
 なお,42はジャッキー・ロビンソン選手の栄誉を称え,全球団で永久欠番となっていましたが,リベラ選手は例外としてこの番号をつけ続けていました。

 ジャッキー・ロビンソン選手は,1900年以降のアフリカンアメリカン史上初のメジャーリーガーとして活躍し,有色人種のメジャーリーガーへの道を開きました。彼が初めてブルックリン・ドジャース(現ロスアンゼルス・ドジャース)の本拠地エベッツ・フィールドに立った1947年4月15日を記念し,毎年4月15日は,ジャッキー・ロビンソン・デーとして,全選手が背番号42をつけてプレーをします。
 ジャッキー・ロビンソン選手を描いた映画「42 世界を変えた男」(42 The Jackie Robinson Story)が現在上映中です。
 私も見ました。
 この映画の中に「全員が42番をつければだれがだれか見分けがつかないだろう」というセリフがあります。この映画は,ジャッキー・ロビンソン選手の人間的な素晴らしさはもちろん,当時のボールパークも忠実に再現されているので,メジャーリーグファンには見逃せません。
 なお,エベッツ・フィールドは現存しませんが,その場所は,ニューヨークの地下鉄Bトレインのプロスペクト・パーク駅の近くにありました。また,地下鉄F,Gトレインの走っている道が,映画で出てくるジャッキー・ロビンソン選手の住んでいた家があるブルックリン区のマクドナルドアべニューです。
 せっかくですから,映画「42 世界を変えた男」に出てきたボールパークのロケ地をご紹介します。
 私も機会があれば行ってみたいと思っています。
 ●リックウッド・フィールド アラバマ州バーミンガム(Rickwood Field, Birmingham, AL)
 ●エンジェル・スタジアム テネシー州チャタヌーガ(Engel Stadium, Chattanooga, TN)

 ジャッキー・ロビンソン選手から始まった新しいメジャーリーグの歴史は,こうして,マリアノ・リベラ選手に受け継がれました。
 そしてまた,現在では,多くの国の多くの人種の若者が,メジャーリーグで活躍しているのです。
 先駆者は偉大です。

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 デトロイトは,ダウンタウンはけっこう荒れ果ててはいますが,博物館や美術館が数多くあります。場所が散らばっていて,さらに,公共交通が発達していないので,行くことが大変ですが。
 1964年の夏季オリンピックの開催を東京と争ったときには,外国の選手の派遣費用をすべて出すと言ったくらい,昔は,デトロイトはお金持ちだったのです。
 日本から直行便のあるデトロイトですが,ほとんどの人はここで国内線に乗り換えるだけで,そのまま市内観光に行った人も少ないようですから,ここではデトロイトについて書いてみたいと思います。

 デトロイト・メトロポリタン国際空港からは車以外でこの町に行くことを,私は,お勧めしませんが,というより,車以外でこの町にどうやっていくのだろう,と思います。シャトルバスもありません。一応,公共のバスがあるという話ではありますが,ダウンタウンのバス停の治安に保障がありません…。

 すでに書いたように,2002年7月に,私は,クリーブランドからエリー湖畔を西に走って,トレドという町へ着きました。トレドはエリー湖が終わる南西の角のところにあります。その町で北向きに走るインターステイツ75に乗ってデトロイトにむかいました。
 正直,このとき,行く前には,デトロイトがこれほど破滅的なところだとは知りませんでした。だから行ったわけですが…。
 トレドからは,インターステイツ75をわずか70キロメートルくらい北上すれば問題なくデトロイトのダウンタウンに到着するのですが,途中で,なぜか,大型車以外は通行禁止という表示があって直進できませんでした。迂回するために道を左に折れ,インターステイツ75の西を並走する州道24へ入ったのですが,そこもいたるところで道路工事をしていて,他の都市とは違った雰囲気が渦巻いていました。
 それでもほかに道がないので,しかたなくそのまま北に向かい,州道12に出たところを右折しました。そして,そのまま東へ進めばダウンタウンに着くはずでした。

 ダウンタウンに着く前に,ヘンリーフォード博物館へ行くことにしました。
 ところが,まず,この博物館ある場所がよくわからなかったのです。
 結局通り過ぎてしまい,フォードの会社のあったところの一角に映画館やら巨大モールがあったので,博物館なのかな,と思ってそこへ入ったのですが,違っていました。それでも,このように,荒れたデトロイトでも,郊外には,最新式のフォードの工場もあるし,新興住宅地があるということはわかりました。
 結局,そこは博物館ではなかったので,仕方なくそこを出て,いろいろと迷いながら走っていたら,いつものように,どうにか,博物館へ行く標識が見つかって,なんとか,博物館の駐車場に着くことができました。

 そこには,ヘンリーフォード博物館とグリーンフィールドビレッジという名のテーマパークがあって,一大レジャーセンターになっていました。チケット売り場が混み合っていてなかなか入れなかったのですが,どうにか,このふたつがセットになったチケットを購入することができました。
 まず,ヘンリーフォード博物館に入りました。
 ヘンリーフォード博物館は,ケネディが暗殺されたときに乗っていたリンカーンやレーガン大統領の乗ったリンカーン,公民権運動のきっかけとなったモントゴメリー・バス・ポイコット事件のバスをはじめ,多くの車や鉄道,大型機械が展示されていました。展示されていたT型フォードの座席に座ることもできました。
 アメリカの博物館らしく,非常に大きく,すべてをしっかり見れば,1日では足りないと思いました。車好きにはたまらないところでしょう。

 私は,午前中をこの博物館で過ごして,昼食をとって,午後は,グリーンフィールドビレッジに行きました。
 ここは,札幌の開拓村のようなところで,非常に面白いところでした。
 外周を蒸気機関車が走り,古き良きアメリカをテーマにした様々な建物がありました。従業員は当時の服装をしていました。
 私は,まず,蒸気機関車に乗り込みました。
 私の後から乗り込んだ女性が巨大すぎて汽車の入口に入れなくて苦労してやっと客席に座りました。また。別の車両では,車いすの人が,車いす用のリフトを使って客席に乗り込んでいました。
 このように,なんやらかやらとアメリカらしいところでもありました。
 蒸気機関車で公園内を1周,そのあとは,中をのんびりと見て回りました。ここも,時間があれば,1日ゆっくり遊べるところでした。そのあとは,同じ敷地内にあった自動車の殿堂へ行きましたが,館内はガイドがいて,親切に案内をしてくれました。
 また,私はヘンリー・フォード邸にも行きましたが,ここは,現在,残念ながら全面改修中で休館をしているそうです。

 このように,デトロイトの郊外にも,他の都会と変わらない多くの見どころがあって,一度は行く価値があります。
 特に,紹介したヘンリーフォード博物館とグリーンフィールドビレッジは,非常に素晴らしい所ですが,先ほど書いたように,レンタカーを借りないと行くことが難しいのが難点です。
 アメリカへ行ったときに,デトロイトでの乗り換え時間がとても長いときや,もし,デトロイト近郊に行く機会があれば,ぜひ,立ち寄ってみてください。

◇◇◇
きょうは,ボストン・レッドソックスで大活躍した田澤純一投手の登場曲をお送ります。
  ・・・・・・
 泣いても笑っても人生は一度きり
  ・・・・・・
人生の応援歌ですね。何の実績もない男がひとり海を渡って生きるというのは,ものすごいことです。田澤選手の想いが伝わります。田澤選手,本当に本当におめでとうございます。

 筆舌に尽くしがたい,という言葉があるが,まさに,この風景は,そうだった。
 なんという静けさだろう。なんという満ち足りた気持ちだろう。
 遠くに,波の音が聞こえる。そよ風が気持ちいい。
 目の前に広がるのは,遠くの陸地と小島,そして,雄大な海と空。やがて沈んでいく太陽の余韻を惜しむような夕焼け。
 目の前に広がるのはこれだけだった。
 私は,時間も忘れて,いつまでも海を見ていた。こんな経験は初めてだった。

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BOSTON STRONGEST
 
Boston common : 21th century Sox win 3 times.
This is our city!

2013 MLB World Series Game 6 : Red Sox 6, Cardinals 1

 95年ぶりの本拠地での優勝をかけた第6戦は,ボストンのパンクロックバンドであるドロップキック・マーフィーズ(Dropkick Murphys)の国歌斉唱,付け髭をつけたレッドソックスの元投手ルイス・ティアント(Luis Tiant)と元捕手カールトン・フィスク(Carlton Fisk)バッテリーがともに投球する始球式で始まりました。
 「Good times never seemed NOT so good, NOT so good, NOT so good, …」 と現地のアナウンサーが「スウィート・キャロライン」の終わった8回裏の開始の前に歌の歌詞を替えて絶叫していました。
 結果は,ボストン・レッドソックスの快勝で,8度目のワールドシリーズ優勝を飾りました。
 上原浩治投手の息子さんが,また,今回もインタビューされて,「きょうのお父さんはどうだった?」と聞かれて「Good!」,次に「今晩はどうやって祝うの?」と聞かれて「Crazy!」 と答えて,観客から大喝采を受けていました。
 MVPは,予想通り,ワールドシリーズ打率.688(16-11)のデービッド・オルティーズ選手が選ばれました。

 かつて,「バンビ―ノの呪い」が解けなかったころのレッドソックスは,「敗れること,それは時に美しい」と言われていました。
 1918年のワールドシリーズ優勝を最後に,その後のワールドシリーズ4回の登場は,すべて第7戦までもつれながらもことごとく優勝を逃しましていました。
 当時,「ベースボールの詩人」と言われたロジャー・エンジェルは次のように言いました。

  ・・・・・・
 バンビ―ノの呪いか。バンビーノというのは,ベーブ・ルースのことだ。レッドソックスは彼をトレードしてから優勝していない。何でトレードに出したかというと,当時のオーナーが興行師でもあったからなんだ。レッドソックス以上にブロードウェイに入れ込んでいて,「ノー,ノー,ナチット」という公演をバックアップするために,ルースをヤンキースに売った。世紀のトレードだ。それから呪いがずっとかけられているわけ。
 負けることは勝つことより何倍も面白いんだよ。
  ・・・・・・

 かけられた呪いが解けたのは,2004年のことでした。
 その時は,翌年,ヤンキースタジアムに「呪いが解けたのではなく,86年に一度しか優勝できなくなるものだ。」といったプラカードが掲げられたりもしました。
 しかし,2007年,再び優勝して,呪いは,完全に解けたのです。
  ・・
 2013年。
 私は,生まれてはじめて,あこがれのフェンウェイパークを訪れることができました。
 かつて,MLBで2度のノーヒットノーランを記録した野茂英雄が奮闘し,そして,今年,上原浩治投手の奇跡的な活躍を生んだフェンウェイパークは,夜の姿が美しいボールパークでした。レフト側の「グリーンモンスター」は,背景が闇に閉ざされて照明が当たると,一層その高さが増して,怪物性を表すようになります。球場全体の声援は内にこもって,いびつな球場は照明でさらに翳を深くし,わなの匂いを濃くするのです。
 当然,その中で繰り広げられる試合は,常識では測れない何が起こり,観客は熱中し,狂喜するのです。だから,一度でもこのボールパークを訪れた人は,この夜の女王の誘惑から解き放たれることは,決してないのです。
 上原投手の雑草のような野球人生を考えると,この大活躍は,人生苦労したんだから,自分の想像以上のすばらしいことが起きたっていいじゃない,と強く勇気づけられるものでした。
 ボストン・レッドソックス優勝,おめでとうございます。
 「敗れること,それは時に美しい」けれど,はやり,「勝つことは,美しい」のです。
 でも,これで,ますますチケットが手に入らなくなりました。

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