しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

January 2014

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 荻原浩さんの「月の上の観覧車」という本を読みました。1年半くらい前に出版された本です。
 いろんな感想文を見ると,この本を読むと気分が暗くなる,といったものが多いのですが,人生を描くということについて,この本は,芥川賞受賞作品「ホテルローヤル」と底に流れているものは同じように感じました。
 人が,その人なりに,世間の常識にとらわれて,あるいは,反抗して生きてきた結末が描かれているので,こういう本は,夢ある若い人が読めば,確かに暗くなります。

 私がいつも書いているように,世の中は救いはないのだから,人は,世の常識を越えてというか,そんなことにこだわらずに,自分なりのしっかりとした価値観で生きていかなくてはいけないのだ,ということに早く気づいた人が読めば,それなりに,この作品で描かれている「生きるのが下手な人たち」に対して,ある種の優越感を感じるだろうから,そういった意味では,この作品は痛快に読めます。
 たとえば,結婚して,子供がふたりいて,2世帯住宅を建てて,世間体を気にして,子供をお受験させて,出世のためには多少なりとも家庭を犠牲にして… と,いってみれば常識的なふつうの生き方をしていくと,結局,こんな救いのない人生が待っているんだよ,なんて言われれば,確かに暗くもなろうというわけです。

 この作家さんは,そういった,常識的な人の生き方の中に潜む危うさ,とか,もろさいうものを知ってしまっているのです。だから,彼は,こういった作品を通して,その警鐘をならそうとしているのか,それとも,それを書くことによって,そういう生き方をしてしまっている人を慰めようというのか,はたまた,自分は違うぞ,そんなことはお見通しだ,と優越感に浸ろうとしているのか,それは定かでありませんけれども,私は,こういうある種の重い空気感のある,でも,人生を悟っちゃった小説は,好きです。

 そう,どのようにたとえればよいでしょうか…?
 少し山里の,舗装されていない1本の田舎の道の夕暮れを,次第に輝きを増してくる星たちを眺めながら,少し孤独を感じながら歩いていると,古びた民家の窓から薄い光がこぼれて見えて,その民家の中に夕食を作っている人の姿がシルエットに浮かんでいる…。そして,そこに暖かさと幸せを感じる,そんなところです。
 都会の,一見華やかな,でも,そこにいる人たちは,本当は孤独で,人を押しのけながら,あるいは我先に崖をのぼっていくような,そんな見せかけだらけの虚栄に満ちた生活よりも,薄暗い里山の星空の下で語らいながら,あるいは酒を飲みながら,心のなかに暖かな空気を少しだけ感じるような,そんな人生に本当の人間らしさがあるのであって。人が生きるって,本当は,そんなものなのではないでしょうか。
 人はだれでも山があれば上りたくもなるけれども,幸せに生きるって,本当は,山の上には何もないんだよ,っていうことを早く気づくかどうか,なんでしょう。

◇◇◇
アメリカ・ジョージア州アトランタでフリーウェイが凍結,多くの車が置き去りにされていて,大混乱に陥っています。
今年のアメリカの寒波は,本当に異常です。

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 3階には,三つのコーナーがあった。
 まず,「神聖なグランド」。
 ここは,過去から現在までのボールパークについての展示である。
 私は,以前より,メジャーリーグというよりも,この,アメリカのボールパークに興味があったので,ここの展示は非常におもしろかった。
 まず,迎えてくれたのは,フィラデルフィア・フィリーズのマスコット「フィリー・パナティック」であった。このマスコットが選ばれていた理由はわからない。日替わりなのかもしれない。そして,様々なボールパークについての写真や当時使われていた様々な道具などが展示されていた。

 古いボールパークにはそれぞれ味がある。特に,エベッツ・フィールドやポロ・グラウンドは,アメリカ人にとっても大切な思い出である。
 エベッツ・フィールドは,1913年から1957年,ニューヨークのブルックリン区にあったブルックリン・ドジャースの本拠地であった。そして,ポロ・グラウンドは1891年から1957年,ニューヨークのマンハッタン区セントラルパークの北にあったニューヨーク・ジャイアンツの本拠地であった。やがて,ブルックリン・ドジャースはロスアンゼルスに移転し,ニューヨーク・ジャイアンツはサンフランシスコに移転し,このニューヨーク市民に愛されたふたつの球場はなくなった。
 エベッツ・フィールドの様子は,映画「42」でリアルに描かれている。  
 そうした古きよき時代のボールパークの後,1958年代から1991年に作られたボールパークは,残念ながら,「ボールパークの暗黒時代」といわれている。それらは,「クッキー・カッターズ」とよばれ,同じような丸い形で全く個性がなく,多目的で,アメリカンフットボール向けなので,必要以上の客席があり,その多くが人工芝といったものであった。現代の日本の球場の多くは,その時代のボールパークを模倣した。
 その後,次第に,開閉式のボールパークが誕生したりして,徐々に個性のあるボールパークが誕生しはじめた。
 そして,1992年がやってきた。この年,ボルチモア・オリオールズの本拠地に「オリオール・パーク・アット・カムンデニャーズ」という古きよき伝統のよさと現代の意匠が調和された最新式ボールパークが出現した。ボールパークの新時代が到来したのだった。このボールパークの人気とアメリカの好景気に支えられて,「クッキー・カッターズ」は次々と再建され,現在の最新式ポールパークの花が咲いたのであった。
 それら新しい時代のボールパークに共通する特徴は,ボールパークごとに異なる左右非対称のデザイン,観客数を減らし,町の景色と一体となったスタンド,天然芝などである。まさに,パークという名にふさわしいものである。
 そうした中で,ボストン・レッドソックスの「フェンウェイパーク」とシカゴ・カブスの「リグレー・フィールド」という1910年代に作られた最古のボールパークが,逆に人気を保っているのもまた,興味深いものである。
 私は,これまで20以上のアメリカとカナダのボールパークへ行ったことがあるが,また行きたい所はと問われれば,文句なく「フェンウェイパーク」と「リグレー・フィールド」と答える。
 残念ながら,先ほど書いたように,日本の球場は,近年,やっと,少しずつ変わりつつはあるが,その多くは,開閉しない屋根,人工芝,左右対象,多目的といった,アメリカのボールパーク暗黒時代のデザインを模倣したものでなのである。

 3階のフロアの次にあったのが,「ハンク・アーロンの記録ギャラリー」であった。
 ハンク・アーロンは,1954年から1976年までアトランタ・ブレーブスとミルウォーキー・ブリュワーズで活躍した外野手・一塁手である。通算ホームラン755本を放ち,ベーブ・ルースを超え,2007年にバリー・ボンズに抜かれるまで1位であった。また,世界少年野球大会を提唱して,野球の普及と発展に努めた。そして,2006年のワールド・ベースボール・クラシックの決勝では始球式を務めた。
 この階にあったもうひとつのコーナーは「オータム・ギャラリー」であった。
 現在,メジャーリーグは,ナショナル・リーグ,アメリカン・リーグのふたつのリーグに,それぞれ15球団あって,それらは,5球団ずつ,東地区,中地区,西地区に分かれている。対戦は,地区をまたがって,時には,リーグをまたがって行われるが,順位だけは,それぞれの地区で争われる。シーズンは4月から9月までに162試合が行われ,それぞれの地区の優勝チームとそれ以外から勝率の高い2チームが10月に行われるディビジョンシリーズを行う。
 だから,メジャーリーグにとっては,10月,つまり,「オクトーバー」というのは,特別な意味を持つのである。ニューヨーク市のヤンキースのオフィシャルショップには,「Yankees know October.」というTシャツが売られていたりするのは,そうした理由なのである。というわけで,このコーナーは,そうしたオクトーバーに行われた試合の記録を展示したものであった。
 現在のシステムでは,ディビジョンシリーズには合計10球団も出場できるのだから,3分の1の確率もある。だから,ほとんどの球団は,わずかであっても最後まで優勝の可能性があるので,大リーグは最後まで盛り上がる。

 私は,日本でも,セ・パ両リーグとも試合数と対戦相手は今のままでいいから,セ・リーグとパ・リーグの両方とも西地区と東地区3球団に分けてそれぞれで順位を決めて,それぞれの地区の1位同士で決定5試合をやって,その勝者をセ・リーグとパ・リーグの優勝として,その2チームで日本シリーズをすれば,もっと盛り上がるのではないかと思っている。
 でも,この国の人たちは,こういったシステムでは,どうして,リーグで優勝していないのに日本一になるのか納得がいかないとか言い出すから,この案は絶対に日本では受け入れられないであろう。それが日本人というものなのである。
 でもね,大相撲を考えてみてください。
 大相撲を見に行くと,相撲を見に来た外国の人たちから,「取組はどうやって決めるのか」と聞かれる。大相撲は,幕内力士全員のリーグ戦でもなければ,取組は平等でもない。であるのに,たとえそれで横綱との対戦がない平幕下位の力士が優勝しても,誰も不公平だなんて言わないであろう。

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 野球殿堂博物館の入口を入ると,まず,迎えてくれるのは,ルー・ゲーリック,ジャッキー・ロビンソン,ロベルト・クレメントの像であった。
 ルー・ゲーリックは,1925年から1939年まで14年にわたり2,130試合連続出場を果たしたニューヨーク・ヤンキースの一塁手である。
 彼は,1936年6月19日,36歳の誕生日に,筋萎縮性側索硬化症の告知を受けて,7月4日引退。1941年6月2日に死去した。そして,背番号4は,史上初の永久欠番となった。
 ジャッキー・ロビンソンは,ブルックリン・ドジャースの二塁手で,1956年まで活躍した。1890年以降,有色人種排除の方針が確立されていたメジャーリーグでアフリカ系アメリカ人としてデビューして活躍し,有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた。
 1997円4月15日に,ジャッキー・ロビンソンの背番号42は,全球団共通の永久欠番となった。なお,今年引退したニューヨーク・ヤンキースのマリアノ・リベラはこの永久欠番の制定以前から42をつけていたので,その背番号を継続使用することが許されていた。この42番も永久欠番となった。
 ジャッキー・ロビンソンの生涯を称える映画「42」が上映されたことは,記憶に新しい。
 ロベルト・クレメントは,1955年から1972年に不慮の事故死を遂げるまでピッツバーグ・パイレーツ一筋の外野手であった。彼は,メジャーリーグにおけるヒスパニック系選手の先駆け的存在であった。
 1972年12月23日にニカラグアで地震が発生,その救援活動に向かう途中で乗っていた飛行機が墜落し,事故死した。現在,慈善活動に貢献したメジャーリーガーに「ロベルト・クレメント賞」が贈られている。

 この3体の像の先に,チケット売り場があった。
 夢にまで見たこの博物館に来て,私は,夢見心地であった。さすがに夏休みで,子供連れが多く,中は大変にぎわっていた。
 日本にも,国技館に相撲博物館が併設されているけれど,それほど広くない。同じ「国技」であっても,アメリカには,こうした立派な博物館があって,これまでに活躍した選手や,それ以外にもさまざまな形で貢献した人たちを称えているのは,本当に大したものだと思う。
 この建物は3階建てになっていた。
 私は,チケットを購入して,中に入った。一番奥に階段があった(もちろん,エレベータもある)ので,それを3階まで上った。
 後から見たパンフレットには,2階から見学をスタートしよう,と書かれていたのだが,私はその時パンフレットを見てなかったので,とりあえず,3階に上がってしまったのだった。
 まあ,結局どっちでもよかったのだが,ここでは,私が見学したように,3階から案内してみよう。

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 だれでも知っているハレー彗星(1P Halley)の思い出です。1986年のもう一回前の1910年の接近は,1986年とは違って,地球にもっと接近したということです。しかし,本当は,その頃に偶然現れたハレー彗星よりも明るかった彗星があって,その彗星の記録や記憶とハレー彗星の記録や記憶がごちゃごちゃになっていたらしいのです。
  ・・
 次の回帰は2062年。1986年の前回よりは条件がよいらしいのですが,実は,ハレー彗星は,1986年の回帰のあと,何らかの「事件」が起きていて,今も本当に無事なのかすらわかっていないらしいのです。消滅してはいないらしいのですが…。
 1986年の接近のとき,人類はこの彗星をさまざなま衛星で観測して,その結果,ハレー彗星はひょうたんのような形をした8キロ×8キロ×16キロくらいの大きさの汚れた雪だるまの核だということがわかりました。その核は,果たしていまでも無事なのでしょうか?
  ・・
 彗星の核といえば,結局期待されながら消滅してしまったアイソン彗星の核の大きさは4キロくらいだと予想されていたのですが,結局は1キロ以下だったそうです。だれもが史上最高だというヘールポップ彗星の核はなんと40~80キロもあったということです。

 1986年のハレー彗星は,肉眼で見えるほど明るくならなかったというのが現実でした。しかし,多くの人はそんなことを知らず,望遠鏡が売れに売れました。
 私は明るくならないことは知っていましたが,毎日のようにハレー彗星を追っかけました。まず,これから地球に接近するという7等星くらいのころに,はじめてその姿を写真を撮りました。小さな尾を伸ばして,星屑に埋没していたハレー彗星はとても綺麗でした(上の写真)。
 やがて,だんだんと地球に近づいても,一向に明るくならないので,きっと,安価な双眼鏡やら望遠鏡を手にいれてハレー彗星をみようとした多く人は,おそらく何も見えなかったことだろうと思います。私は,望遠鏡や双眼鏡で何度も見ることができました。連日,頼まれては彗星観測に出かけていました。
 やがて,地球に最も接近するときが来ました。しかし,一番明るかった頃には太陽に近くて夜明けの薄空に埋没してしまって,その勇姿は双眼鏡を通してさえもほとんど見えなくなっていたのです。
  ・・
 今でも神がかりだったなあと思うのは,その頃に,私は,双眼鏡や望遠鏡を覗いても彗星が見つけられなくて,どこにあるかもわからないまま望遠鏡を適当に振り回して写真を写したら,なんと,そのフィルムの真ん中にちゃんと立派な尾をひいた彗星が写っていたということなのです(中央の写真)。これが私にとっては宝物の写真です。
 無事に太陽を通り過ぎたその後は,長い尾を引く姿を期待して,ずいぶん写真を写したのですが,もう,ハレー彗星は,綿菓子のような姿しか写真にとどめなくなっていました(下の写真)。
 1986年のハレー彗星の接近は,実は,そんな有様でした。

 結局,このハレー彗星が残したのは,深刻な天文不況でした。
 見えもしないのに,望遠鏡やら双眼鏡を作りまくり売りまくったので,「結果的に」サギ商法のような状況になってしまいました。小さな会社はその会社の能力を超えて設備投資をした結果,経営不振になりました。この不況はかなりの重症で,それまで,天文少年をワクワクさせてきたた多くの望遠鏡製作会社やら,カタログを賑わせていた望遠鏡は,ほとんど姿を消してしまいました。それは,まるで,彗星が地球と衝突して恐竜が滅んだのと同じようなものでした。
  ・・
 こういう状況を見て,この時,私は,特需というものは景気をよくするのではなく,その反動のほうが怖いんだなあ,ということを知りました。何かの要因で自分の実力以上のことが起こったときに,安易にその時流にのっかると,梯子をはずされてしまうのだということを学びました。
 「ブーム」というのは,実は,もっとも危険な状態なのです。
 今,天文少年という位置づけを歴史的に考えてみると,1986年のハレー彗星以前とハレー彗星以降にわけられると思います。そして,私のように,今もなお,望遠鏡を車に載せて,この寒い冬にも山道を星を追いかけているのは,1986年以前の絶滅危惧種少数民族ばかりなのです。

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 子供のころ,太陽系について書かれていた本で誰もが気になったのは,ハレー彗星と冥王星の変な軌道でした。
 冥王星は,その後,惑星の座を追われたのは,有名な話ですが,このことが話題になったころ,アメリカの博物館でスタッフが「I love Pluto」というバッチを付けていたことを思い出しました。
 私の子供のころの天文書には,冥王星は15等星くらいなのでアマチュアの望遠鏡では見えない,と書かれていて,私を含め,そのころの天文少年はこのことをよく覚えているので,アマチュアの手が届く望遠鏡の口径が大きくなったことや,写真のデジタル化で,近頃は,冥王星もアマチュアの手が届くものになったことなど,わたしの友人は最近まで知らず,驚いていました。子供のころの知識というのは,かくも定着してしまうものなのです。

 そうそう,私がここで書きたかったのは,冥王星ではなくて,ハレー彗星(1P Halley)のことです。
 ハレー彗星が1986年に地球に近づくということで,1970年ごろの天文少年には,そのときが来ることを今か今かと待ち臨みました。
 子供の頃に読んだ図鑑には,昔,ハレー彗星が地球に接近したときには,お昼間も尾が見られた,とか,ジャコピニ流星群といって,満天に星降る流星群があった,とか,日本では2009年まで皆既日食が見られない,とかそういった夢のようなことが書かれてあって,宇宙の大きさに比べれば人間の一生なんてほんとうに小さなものだなあ,とか,いつかそういった天体現象をみてみたいなあ,とか,そんな夢を抱いたものでした。そして,子供の頃のわれわれには,それらは,すべて夢物語だったのでした。
 だから,ハレー彗星が本当に来るんだ,というのは,それはそれは憧れでした。
 それにしても,歳をとった今になってつくづく思うことは,長く生きていると,一生無理だろうと思っていたそうした天体現象も,一度くらいは見られるもだということです。私はこれまで,世紀の大彗星というのもいくつか見ました。皆既日食も見ました。金環日食も見ました。残念ながら,私は見損ねましたけれども,2001年にはしし流星群もありました。

 話をハレー彗星に戻さなくてはいけません。
 1980年代になって,待ちに待ったハレー彗星が回帰する1986年が近づいてきました。私も望遠鏡を整備したりカメラを手入れしたりして,準備を整えました。しかし,実際は,このときの地球への接近は条件が最悪で,南半球へ行かないとうまく見られないといわれました。しかも,南半球に行っても,地球の軌道にハレー彗星が到着したときには,地球は,その正反対のところにいて,要するに3億キロメートルも離れていて,結果としては,ほとんどの人には,肉眼では何も見えませんでした。
  ・・
 私は今でも思うのですが,もし,このハレー彗星が過去の記録のように,本当に地球の軌道に最接近したときに近くに地球があったとしたら,どのくらい明るく見えるのでしょうか? はたしてマイナス何等かでお昼間も輝いて見えるのでしょうか? ハレー彗星は,これからも76年ごとに地球に接近して,私の子孫は,もっとよい条件でその姿を目の当たりにすることができるのでしょうか?

☆ミミミ
今日の写真は,私がハレー彗星の接近を今か今かと待ち望んでいた若いころに写したもので,上から,いて座のM8星雲と干潟星雲,アンドロメダ座M31・M32・M110星雲,オリオン座M42・M43星雲,ペルセウス座二重星団です。

☆ミミミ
NHKBSプレミアムで放映されたドラマ「木曽オリオン」で取り上げられた「超新星のショックブレイクアウト」は,実際に,東京大学木曽観測所の超新星探査プロジェクト(Kiso Supernova Survey =KISSプロジェクト)として研究されているものを題材としています。

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 アメリカ野球殿堂博物館は,アメリカのメジャーリーグベースボールなどで顕著な活躍をした選手や監督,コーチ,審判に加え,野球の発展に寄与した人物に対してその功績を称える野球殿堂と,さまざまな記録的意義をもつ資料を収集・展示している。
  ・・・・・・
 Preserving History, Honoring Excellence, Connecting Generations
  ・・
 歴史を伝え,偉業を称え,世代を繋ぐ
  ・・・・・・
をスローガンとする。

 アメリカ野球殿堂博物館は,1939年6月11日,クーパーズタウンにあった私設のクラーク財団によって,観光客を集める目的で創設された。野球殿堂博物館の創設を知ったメジャーリーグはすぐに協力を申し出て,博物館の規模拡大や資料の寄贈をはじめた。
 ここ,クーパーズタウンには,野球殿堂博物館の近くで,南北戦争のヒーローであるアブナー・ダブルディが野球を考案した,という伝説があった。そこで,その伝説の球場「ダブルディ・フィールド」では,2009年以降,野球殿堂入りの表彰式の日に,野球殿堂入り選手を含めたメジャーリーグのOBによる試合「The Hall of Fame Clssic」が行われている。

 クーパーズタウンへ到着すると,コンコードへ行ったときと同じように,ダウンタウンはいたるところに観光客があふれ,道路の駐車ゾーンは車で一杯であった。やはり,ここでも,野球殿堂博物館はここ,といった道路標示がなかなか見つからず,私はいつものことであるが,目的地を目の前にして,戸惑うこととなった。
 ダウンタウンを走っていくと,町の中心部に着いた。その交差点を多くの人が歩いていく左の方向に曲がったら,そこが,野球殿堂博物館であった。
 野球殿堂の前には,車を停めるスペースはなかった。そこで,そこを通り過ぎると,すぐに市街地は終わり,しずかな住宅地になった。そこには広い道路があって,どこにでも駐車することができたので,幸いにも,問題なく車を停めることができた。

 車を停めると男の人が通りかかったので,野球殿堂博物館について尋ねてみた。
 その人は,偶然,野球殿堂博物館の職員であった。
 車を停めた場所は,ちょうど,野球殿堂博物館の広い敷地の裏口に近かったので,この門をくぐっていけば正面に行くことができると言われた。クーパーズタウンは湖に面した美しい町で,このところずっとよい天気なので,気持ちがいいと言っていた。私がボストンンで雨に降られていたときも,こちらはとてもよい天気であったという。町の向こうには,美しい湖が眺められた。
 言われたとおり門をくぐって,建物に沿って歩いていくと,やがて,野球殿堂博物館の正面に出た。
 夢にまで見た場所に来ることができて,私は感慨無量であった。
 今回の旅では,おもしろいくらい私の長年の夢がひとつずつかなっていく。 

 月曜日,尊敬していた指揮者,クラウディオ・アバドさんがお亡くなりになったので,今週は,アバドさんのご冥福をお祈りして,いつもとは趣向を変えて,クラシック音楽のお話をすることにします。
  ・・
 私は,先週の土曜日,NHK交響楽団の演奏したブルックナー第9交響曲を聴いてきました。それは久しぶりのブルックナーだったわ。この演奏会は,水曜にN響定期でもやったんだけれど,チケットの取りにくい東京のサントリーホールを避けて,名古屋の芸術劇場コンサートホールに行ってきたの。きょうは,そのときのコンサートから,ブルックナーの音楽とコンサートで感じたことを書いてみるわね。
 まず,ブルックナーについて。
 ブルックナーには救いがあります。
 私にとって,ブラームスの音楽は,思考を邪魔しないので,本を読むときのバックミュージックで聞いたり,何か考え事をするときに聞くことができるのね。それに対して,ブルックナーっていうのは,精神を沈めたり,心を自然に回避してくれるのね。
 すてきなおじさまだった尊敬する吉田秀和さんは,奥さんを亡くしたとき,音楽評論家でありながらどんな音楽も聞くことができなくなったのに,バッハだけは聞くことができたというようなことを書いていたのだけれど,私にとっては,ブラームスとブルックナーが,どんなときも受け入れることができる音楽なのね。
 特に,ブルックナーの第4番とか第7番の交響曲は,聞きながら眠りにつくことができるし,そんな時は,もうこのまま起きて来なかったら,それはそれでどんなにすてきなことなのかしらって,私は,何度もそう思ったことがあるわ。特に,私は,第4番が大好きで,この曲を聞いていると,雄大な大自然の中を夢見心地でさまよう自分に出会えるわ。
 でも,第8番とか第9番の交響曲になると,ちょっと,そういう表現をするには神々しすぎて恐れ多いかな。
 第8番はブルックナーの完成した最後の交響曲で,最高傑作だと思うのだけど,今回聞いた第9番の方は,私が言うまでもなくブルックナーの書いた最後の交響曲で,未完なんだけど,第8番とは違って,未完であるがゆえに,この曲の,というかブルックナーのすべての交響曲の最期にあたる,第3楽章の消え「逝く」最終部分は,涙なくして聞くことはできません。
 だから,この曲を実際に聞く機会があったときは,その貴重な時間が一生の宝物になるわけね。

 ここで,今回聴いたコンサートの話に戻って。
 この曲を実際にコンサートで聞くとなると,さまざなな問題が起こるのね。
 そのひとつは,この最終部分のホルンの演奏なの。
 ブルックナーの交響曲といえば,絶え間なくずっと続く弦楽器のトレモロとホルンの澄み切った音色なの。だから,特に,ホルンがうまく響かないと,せっかくの名演奏も,台無しになってしまうわけね。第9番っていうのは,曲の最後の部分がそうであることが問題なの。言いかえれば,ホルンが最高の響きを奏でたときは,この曲は永遠の命を持つというわけね。
 そして,もうひとつの問題は,この最期の音が消え去る部分で,お客さんが拍手のフライングをしてしまうっていうことなの。
 私は,日本でのコンサートのように,禅修行のようなクラシック音楽の聴き方は,必ずしもふさわしいとは思っていないし,音楽が魂に響くのなら,そこに風の音やら虫の音やら鳥のさえずりが聞こえても全く問題はないと思っているわけ。でも,,指揮者がまだ指揮棒を降ろしていないのに,つまり,曲が終わっていないのに,拍手を始めたりブラボーと叫ぶなんていう権利は,お客さんには決してないと思うのね。
 まして,この曲を心から聴きこんでいる人なら,この曲が終了した時点で,即座に,拍手などをする気持ちになれるわけはないの。ほんのしばらくの静寂を受け入れないと,現実には戻れないはずなんだけど…。

 先日,お亡くなりになったマエストロ クラウディオ・アバドさんが2011年8月のルツェルン音楽祭でマーラーの第9交響曲を演奏したときのこと,その終了後に完璧な無音を作り出した聴衆というのが,語り草になっているのね。
 私はこの演奏をテレビで見たんだけど,このときの演奏終了後の,無限に続くと思われるほどの完全なる静寂っていうのは,あらゆる意味で本当に感動的で,この日の演奏会は、この演奏後の「静寂を聞く」ためにあったのかもしれないとまで言われているの。そして,その静寂のあとに起こった割れんばかりの拍手に,私は本当に感動したわ。
  ・・
 先週私が聴いたブルックナーに話を戻すと,このコンサートでは,第3楽章は本当にきれいで,最後のホルンもとっても素晴らしかったわ。心から澄み切った気持ちになりかかった。なのに…。
 FM放送で聞いた同じプログラムの東京のコンサートのほうは,わずかの時間ではあったけれども完全な静寂があって,それは本当に素敵だったのだけれど,それに比べたら…。
 以前,ブルックナーの第番4交響曲を名古屋で聴いたときも同様だったわ。
 私は,もう,名古屋でブルックナーを聴くことはあきらめたほうがいいな,と思ったの。残念だけど。
 本当の感動っていうのは,その曲の終了後の完全な静寂のあとに湧き上がるものだもの。


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 オールバニーからクーパーズタウンまでは,州道20を1時間くらい西に走っていく。これしか方法はない。
 メイン州からバーモント州まで走った州道2と同じようなカントリーロードであるが,こちらの方が平坦でのどかな景色が広がっていた。
 天気はすっかり回復して,というよりも,あとで知ったことであるが,このあたりはボストンが雨のときもとてもよい天気だったそうで,そんな青空も気持ちよく,ドライブが楽しかった。
 
 では,きょうは,クーパーズタウンまでの州道20沿いの町を写真とともに紹介するので,一緒にクーパーズタウンまでのドライブを楽しんでください。
 このように,大リーグファンのメッカである「クーパーズタウン」へ行くには,インターステイツから降りて,こうした道を走っていかなくてはならない。私の知人が,行くのに苦労したと言っていたが,わかるような気がした。
 逆に,車さえあれば,のんびりとこうした道をドライブできるので,それはそれで楽しい旅になることであろう。
 今,これを書きながら,クーパーズタウンの野球殿堂博物館の思い出よりも,むしろ,真っ青な青空のもと,美しい田園風景がひろがるのどかなこの景色の方を懐かしく感じる。

 はじめの写真は,エスぺランス(Esperance)という町である。人口は約350人。町の名前は,フランス語の「希望」を意味するという。ショハリー渓谷(Schoharie Creek)という川に面した町で,町の入口に橋がかかっていて,正面に教会が見える。
 この町は,橋を渡って,教会の前の道を左に進むと,ダウンタウンがあるといった,典型的なアメリカの小さな町という感じであった。右に進むと,この小さな町のわずか数百件の住宅が点在しているらしい。
 2番目は,スローンヴィル(Sloansville)という町である。この町には国道162と30Aの交差点がある。そして,交差点沿いに,住宅が点在している。
 不思議なことに,いろいろ調べてもこの町の情報がほとんどない。確かに,町の名は地図に存在するし,写真のように,たくさんの住宅が道路に面してあるけれど,この町はウェブページすら見つからない。
 3番めの写真は,カーライル(Carlisle),人口2,007人の町である。交差点を左折すると国道145に入る。
 4番めは,シャロンスプリング(Sharon Springs)で人口519人。写真でもわかるように,美しく落ち着いた,国道10との交差点にある町である。
 この町のウェブページは充実していて,読んでいて興味深い。見どころは,古い豪邸とか,インディアンとの戦場跡とか,教会,博物館などが紹介されているが,おそらくそのすべてを見ても1時間で十分だと思われる。このあたりは,都会からもさほど遠くなく,住みやすい町だろう。
 そして,5番めの写真は,イーストスプリングフィールド(East Springfield),その下はスプリングフィールドセンター(Springfield Center)という町である。スプリングフィールド全体で人口わずか1,374人。

 州道20をこの町まで走って,そこで左折して,湖沿いにクーパーズタウンに向かう,というのが地図上で示された道順であった。私はGPSの誘導で走っていたが,やはり,この町で左折の指示が出た。その指示どおり左折すると,その後はオテゴ湖の東側の道路を南に走っていくことになるのだが,現実は,あいにく道路工事中で,この日は左折ができなかった。
 しかたがないので,次の交差点までさらに走って,やっと見つけた交差点で左折した。その道もまた,オテゴ湖の西側を湖畔に沿って走っていた。これが一番下の写真である。
 その道に沿って走っていくと,問題なくクーパーズタウンへ向かうことができた。このあたりは,田園地帯というよりも,高原のリゾートといったほうが適切で,湖が美しいところであった。しかし,私が走っている前を,うざったいバイクが2台並走していて,せっかくのドライブが台なしになったのは残念だった。
 やがて,クーパーズタウンに近づくと,左手に大きな駐車場があって,この場所に車を停めると,町を散策できるような感じであった。しかし,私は,リゾート地であるクーパーズタウンを散策するのが目的でなく,野球殿堂博物館へ行くことができればよかったので,駐車場を通り過ぎて,ダウンタウンへ行ってみることにした。
 ここでも,日本のように,客引きやら駐車場に誘導するおじさんやお兄さんがいるわけでなく,アメリカでは,どこでもそうなのだが,こちらから聞くまで,なにもしてくれない。何かを知りたければ,こちらから行動を起こさないと,いつまでもどうしていいのかよくわからない。

  ・・・・・・
 クーパーズタウンのあるニューヨーク州は,面積約14万平方キロメートル,人口2千万人。東西に500キロ,南北が450キロメートルで,高さ数百メートルの小山や丘が点在する。中央にハドソン川が流れ,大西洋に注ぐ。ニューヨーク州という地名は,イギリスの貴族ヨーク公爵の領土だったことに由来する。ニューヨーク州の州都は,ニューヨーク市ではなく,私が行ったオールバニーである。
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 日本人は,「ニューヨーク」といえば,ニューヨーク市のことを思い浮かべる。そして,歌ではないけれど,住所は「ニューヨーク,ニューヨーク=NY,NY」と書くが,これは,ニューヨーク州ニューヨーク市ということである。
 実際,ニューヨーク市は広いニューヨーク州のその端っこに位置している。ニューヨーク州は北海道の2倍以上の広さがあって,車で横断すると8時間はかかる。私がこのドライブで走っているニューヨーク州の中央部は,ニューヨーク市から2,3時間かかるけれど,そこは,このようなのどかで美しい風景が広がった場所であった。
 私は,ずいぶんと前,カナダのトロントから空路ニューヨークへ行ったとき,緑生い茂り,美しく大きな住居が点在するニューヨーク州を空から眺めた。そうして,ずいぶんとそういった景色が続いた後,その向こうに霞んで,マンハッタンの高層ビル群が眺められた。
 その時,ニューヨーク州とはいったいどんなところなのだろうか,と思った。そんなことを,このときのドライブで思い出していた。
 そう,そこはこういうところだったんだよ,っと昔の自分に答えた。

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私が以前ブログに書いたように,楽天イーグルスの田中将大投手は,ヤンキースと契約をしました。ヤンキースの投手不足は誰が見ても明らかだったので,当然の結果でしょう。しかし,これまでにヤンキースと契約をした多くの日本人選手の最後を思い返すと,よほどの活躍をしないとたいへんだろうなあと思います。
私は,数多くの大リーグの野球を現地で観戦してきましたが,ニューヨークは,圧倒的にその注目度と結果に対する貪欲さが違いますから,その重圧の中でいかに活躍できるか,それに,他の有力野手のほとんどが晩年で,これまでのような破壊力がないので,援護をしてくれるのか,そして,押さえのリベラ投手のあとがどうなるか,がポイントになるでしょう。
いずれにしても,日本のテレビで見る機会はこれまで以上に増えるので,注目したいと思います。

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 昨日,東京大学木曽観測所を舞台にした「木曽オリオン」という素敵なドラマが,NHKBSプレミアムで放映されました。
 学問は,すぐに役立つとか役立たないとかではない,というところがすばらしかったです。そして,ずっとずっと将来,役立つかもしれない,なんて,ものすごく素敵ではないですか。
 効率重視,業績重視の風潮にさりげなく警鐘をならしています。役者さんもよかったし,感動しました。
 私は望遠鏡が好きで,機会があれば,その姿を見にいきます。星ではなく機材がみたいのです。そして,いつも,子供の頃の夢を思い出します。今日は,そういった日本の大きな望遠鏡について書いてみます。
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 まず,飛騨天文台の口径65センチの屈折望遠鏡です。
 私は,三鷹にある国立天文台の口径65センチメートルの屈折望遠鏡に次いで,同じ口径で同じドイツのメーカーの作った京都大学飛騨天文台の65センチメートルの屈折望遠鏡も見学する機会がありました。こちらは,現在も現役です。
 しかし,いったい,今の時代に,この屈折望遠鏡の活躍の場がどれほどあるのかなあと思っていましたが,実際は,CCDカメラを利用して,火星の観測に利用しているということです。この望遠鏡は,いわば,飛騨天文台のシンボル的な存在です。
 私は,この飛騨天文台の見学をして,この観測所が口径65センチメートルの屈折望遠鏡だけでなく,太陽望遠鏡を使った世界第一線の活躍をしているところであることを知りました。飛騨は眺めのよいとてもすてきなところです。でも,冬はすごく寒そうです。

 ドラマ「木曽オリオン」で出てきた木曽観測所の口径105センチメートルのシュミット望遠鏡を見学したときも,興味のある話を聞きました。
 この私が愛してやまないかっこいいシュミット望遠鏡は,主鏡の周りに車のバンパーならぬ,何かにぶつけた時のためのカバーとしてパイプがめぐらせてあるのですが,なんとそのパイプの一箇所が凹んでいるのです。実際,何かにぶつけたのだそうです。私は,これを見て,意外と人間臭い話だとおかしくなりました。
 このシュミット望遠鏡ができたころは,フィルム代わりのガラス板の大きな甲板を高いところに設置するのが大変だったそうですが,現在は,当然,デジタル化されていて,ニコンの望遠鏡にキヤノンのCCDが装備されているという話です。
 本当のところは知りませんが,いろいろと詳しい調査をして場所を決めたのだけれど,実際は,あと数メートル高いところに設置するべきだったそうです。それは,今ある位置は,ちょうど,雲の出る高さになってしまっているからだそうです。
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 私が趣味で星を見に行く内緒の場所もまたおもしろいところで,周りが曇ったり霧が出ていても,そこだけはいつも晴れるのです。一概に天気といっても,地理的な要因は複雑です。一度天文台は作ってしまえばあとで移動することもできないのだから大変です。
 また,この望遠鏡は当時の日本光学(現ニコン)が苦労して作ったのですが,厳密には理論上の性能までは達成できていないらしいです。素人の私には,そういったところはよくわかりませんが,現地の職員さんがそう言っていました。
 私の使うおもちゃのような望遠鏡やカメラも,実際に使ってみると,私の技術が劣るのか,実際にその性能がそれだけのものか,といった判断がつきません。もっとよく見えるのじゃないかな,とか,これで精一杯なのかなとか,そういうことがよくわかりません。
 雑誌などには機材の情報やらテストやらいろんな記事があるのですけれども,そういった情報を読んでもやはりよくわからないのです。こういった装置は,実際に使ってみないとわかないことが多く,また,数値では計れないことばかりで難しいものです。単なる趣味で楽しんでいる私はいい加減だからそれで十分に満足していますが,仕事としてああいったものを製作する職人さんや,学問としてあのような世界に1台しかないものを使いこなす学者さんというのは,本当に大変だろうなあと思います。

 造られたときは日本で一番大きかった国立天文台岡山観測所のの口径188センチメートルの反射望遠鏡は,見学コースがあって,ガラス越しにその姿を見ることができます。こうした子供のころからの憧れの望遠鏡を実際に見ると,私は感動します。
 今度,ハワイに口径が30メートルもある反射望遠鏡が作られるということですが,ここまで大きくなってしまうと,もう,私が子供のころに憧れた望遠鏡というイメージとはかけ離れてしまって,単なる巨大建築物で,学問的には有益でも,ワクワク感を飛び越えてしまいます。それにしても,子供のころは,口径が188センチメートルの望遠鏡が国内最大だったのに,それが今はその15倍もある口径30メートル,つまり,3,000センチメートルというわけです。科学技術の進歩というのもすごいものです。

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 今年の大学入試センター試験が終わりました。私は暇つぶしに,今年も国語の問題を読んでみました。
 昨年の1番の問題は小林秀雄で,当時,小林秀雄が出題されたことが話題になったそうです。私は,丸谷才一さんの影響で,小林秀雄は読まず嫌いだったのですけれど,あんな年寄りの好みそうな内容の文章は,私には読んでいてとてもおもしろかったけれども,若い人受けはしないだろうなと思いました。
 それに比べれば,今年のものは若い人が読んでも本当におもしろいだろうと思いました。実際,あの文章の出展である「漢文脈と近代日本」というNHKブックスは評判がよく,その内容の一部分だけを読んでその本についての感想を書いてはいけないので,私は,家の近くの図書館にその本を見つけたので,さっそく借りることにしました。
 図書館に予約を入れました。私は,センターテストが終わったばかりだから,この本は予約で埋まっているだろうと思ったのですが,誰もこの本を貸りていないということを知ってがっかりしました。本当に,この国のドリル学習というのは救いがありません。多くの先生たちは,みなさん,こういう本は当然自分でお持ちなのでしょうか,さもなければ,入試に出題された直後にもかかわらず,この本を奪い合うでもなく,だれも貸りて行っていないということが信じられません。そういう人たちは,全体を読まずして,来年,この問題を「過去問」として,つまりドリルとして教えるのでしょうか?
 それはそうと,私は,とりあえず,問題に出題されたこの「漢文脈と近代日本」という文章の一部分を読んでみました。

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 ふむふむ,この国で「漢籍を訓読すること」は,学問の基本だったんだ。だから,いまでも,国語の授業で漢文を学ぶんだ。なるほどなるほど。
 そして,漢文は,日本の文章ではないから,訓読を同じにしないと,同じ解釈ができなくなる。ということは,中国で漢籍を読むということとは,本質的に違うことなのだなあ。この国の学問というのは,呪文を唱えるように同じ解釈をみんなが共有することということなのか。では,そこには,個性や独創というのは,はじめから排除されているわけか。なるほどなるほど。
 学問は,中国では士が役人として生きていくためのものであって,庶民の教養ではないわけか。なるほどなるほど。
 しかし,中国の士大夫とは違って,日本では,武士が役人となって学問を修めるようになったので,その結果「武」をどうするか,ということが問題になったわけか。そして,その結果「武」は「心」に変化したって? なるほどなるほど。
 だから,武士道という名の元に,「武」を通して,忍耐を学び,我慢を学び,辛抱を学び…。う~ん,日本らしい。この国では,意味もなく我慢することが美徳だからなあ。その根底はこれだったわけか。なるほどなるほど。
 そうか,だから,近代国家になって,広く庶民にまで学問が浸透するようになっても,その根本はやはり「文武両道」で,これを読むと,「文武両道」とは,「文=画一的な学問」であり,「武=意味もなく耐えることを美徳とする」ということになるのか。
 なるほど,これでわかったぞ。
 この国の,没個性で意味もなく耐えるという国民性のその根本はここにあったのか。
 では,この文章の最後に書いてある「漢文で読み書きすることは,道理と天下を背負ってしまうことでもあった」ってなんだろう?
 そうか,君たちが大学に入って学問をするということは,「この国に根ざす個性と独創を排除した画一的な思想を身につけて意味なく我慢することを美徳とする世界に埋没することなんだよ」って書いてあるのか。
 そうか,すごいじゃないか。大学入試センター試験の国語のはじめの問題に,こんな意味深な文章を載せるなんて。日本史の試験で特別出場した手塚治虫さんも,びっくりしてるだろうな。
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NFL(プロアメリカンフットボールリーグ)の第48回スーパーボールの組み合せは,AFC(アメリカン・フットボール・カンファレンス)からデンバー・ブロンコス,NFC(ナショナル・フットボール・カンファレンス)からシアトル・シーホークスに決まりました。試合は,2月2日現地時間18時30分。ニュージャージー州のネットライフスタジアムで行われます。予想では,シアトル・シーホークス有利です。
また,「OMAHA!」が聞かれますよ。

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 天文少年たちは,きっと,誰しも一度は,天文学者にあこがれました。そして,天文学を勉強できる大学がほとんどなく,どこも入学するのにむずかしいところばかりだったので,あきらめることになるのでした。
 今にして思うと,どんな学問であっても,学者さんは大変です。きっと,大きな望遠鏡でいつもお星さまを眺めるといった姿を想像して学者さんになってしまっていたら,その違いにびっくりしたことでしょう。
 そうそう,1月22日にNHKBSプレミアムで「木曽オリオン」という天文学者さんを主人公にしたドラマをやるそうですよ。
 そんなこともあって,そうした現実がわかってくると,夢は夢で終わってよかったと思ったりもするのですけれど,いまでも,当時,図鑑などで見てあこがれた天文台を一般公開するときには,私はわくわくして見学に行きます。
 今は,ハワイとか南米のチリに日本の観測所があります。そうした海外の天文台には遠くてなかなか行くこともできませんが,その設立に尽力した人たちの書いたものを読むと,はじめて国外にそうしたものを建設するのは,役所のさまざなま規則やら前例やらが障害となって,大変だったようです。人間社会というのはたいへんなところです。

 私の子供のころは,天文台といったら,三鷹の東京天文台,埼玉県の堂平と岡山でした。その後,木曽にシュミットカメラが設置され,長野の野辺山に電波望遠鏡ができました。また,京都大学が飛騨に天文台を作りました。
 現在は,三鷹の天文台にある望遠鏡は,歴史的遺産として公開されていて,往年の雄姿をみることができます。堂平は,閉鎖されそうになったところを救われて,一般に公開されていると聞きます。
 岡山や木曽,野辺山,飛騨はいまも現役です。そうした施設を見学して,お話を伺うと,いろいろな驚きを覚えます。
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 1929年にドイツから輸入された三鷹の口径65センチメートルの屈折赤道儀は,子供のころの図鑑に載っていた憧れの望遠鏡でした。子供用の望遠鏡をそのまま大きくしたような,というか,その逆なのでしょうが,この望遠鏡は,すでに使われなくなっていて,ドームに入って往年の姿を見ることができます。
 私は,この憧れの望遠鏡を目の前にして,こんな大きな望遠鏡,焦点距離もとても長いのだからどうやってピントを合わせたのですか(当然,現代のカメラのようにオートフォーカスでないので,正確にピントを決めるのがむずかしいということ)? と説明していた人に聞いたら,そんなこと思ったこともありませんでした,と驚かれました。
 でも,実際,当時,これを使いこなすのは,本当にものすごくたいへんなことだと思います。ドイツから輸入して,当然,マニュアルもドイツ語でしょうから,それを読みながら使い方を習得して,実際に観測に活用するなんて,もし,自分がやれといわれたら,えらいことです。
 私は,この望遠鏡を見学したときに,しみじみとそう思いました。先人偉大なりです。
 また,当時の技術で作られたこの望遠鏡は,今の技術で考えるとどれほどの性能だったのかということも気になりました。当然,EDレンズとか蛍石レンズとかもない時代です。この望遠鏡を,空の真っ暗なところに持っていって,一度眺めてみたいものだと思いました。

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 インターステイツ90を西に進んで,南北に走るインターステイツ91と交差するマサチューセッツ州スプリングフィールドまで来た。インターステイツ91を北からボストンに向かって走ってきたのは3日前のことだ。
 次第に雨が上がって,よい天気になってきた。
 このままずっと西に走っていくと,やがて,ニューヨーク州との州境が近づいてきた。「タングルウッド」という道路標示が見えた。さらにそのまま走っていくと「ニューヨーク州」という標示があった。いよいよニューヨーク州だなあ,と感慨無量になった。
 インターステイツ90は有料道路になった。1件だけホテルの標示があってどうやら,そこが今晩宿泊するホテルであるらしかった。まだ,午前10時であった。このまま走ってクーパーズタウンまで往復しても4時頃には戻ってこられるであろう。

 GPSでクーパーズタウンを検索してあったので,安心してその案内に任せて走っていく。
 ニューヨーク州クーパーズタウンは,人口約2,000人の小さな町で,町の北のオテゴ湖に面したとても美しい避暑地である。野球殿堂博物館があって,大リーグファンにとっては知らぬ人はいないあこがれの地であるが,場所がわかりにくく,その場所を知っている人は意外と少ない。
 インターステイツ90をニューヨーク州に入ってから,さらに西に50キロメートルくらい行くと,ニューヨーク市マンハッタン区の西側を流れるあまりに有名なハドソン川の上流にさしかかり,巨大な橋を渡ることになる。怖いくらい標高のある橋で,はるかかなたに川の流れを見ることができる。その威厳のある姿に,ニューヨークという名前の偉大さが身を引き締めさせる。

 川を渡り終わると,オールバニーという都会になって,なにやら伝統的な風格のダウンタウンを見下ろすことができた。クーパーズタウンは,この町を過ぎて,さらに30キロメートルくらいインターステイツ90を走って,そこでインターステイツ89に入り,10キロメートルくらいすぎたところで州道20というのどかな片側1車線の道路に降りて,さらに100キロメートルくらい行くのであるが,このオールバニーのジャンクションに,「野球殿堂」という道路標示があって,私は何が何だかわからなくなった。私は,このとき,オールバニーにもまた,別の野球殿堂があるのかと思った。だから,GPSの案内に逆らって,私はこの道路標示を見て,ここでインターステイツ90を降りてしまった。
 後で調べてみると,この道路標示は,クーパーズタウンに行くにはここでインターステイツ90を降りてそのまま州道20に入るということを示しているのであって,確かにそうすれば目的地に行くことができたのだ。しかし,この道路標示の困ったことは,降りた後に,ちゃんと次の道路標示がなかったことで,その結果,,私はオールバニーのダウンタウンで訳がわからなくなってしまった。
 結局,どうにもならず,もと来たインターステイツ90に舞い戻って,今度はGPSに従って,さらに90を北西に進むことになった。このあたりは道路建設が盛んで,いたるところが工事中であったので,渋滞を心配したが,問題なくジャンクションでインターステイツ89に入ることができた。
 しばらく走ると,こんどこそ,「クーパーズタウン」という道路標示があって,やっと州道20に降りることができた。

 そんなこんなで,私は,今でもまだ,オールバニーには,クーパーズタウンにあるものとは違う「野球殿堂」があるのではないかと疑っている。でなければ,あの道路標示は納得がいかない!

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NFL(プロアメリカンフットボールリーグ)は,いよいよスーパーボールの激突をかけて,残り4チームです。
今日の早朝,AFC(アメリカン・フットボール・カンファレンス)のカンファレンス・チャンピオンシップは,両チームのクウォーター・バック,ペイトン・マニング選手率いるデンバー・ブロンコス対トム・ブレイディ選手率いるニューイングランド・ペイトリオッツの注目の対戦がありました。
ブロンコスでは,プレーの掛け声で「OMAHA!」というのですが,これがどういう意味なのかが話題になっています。この掛け声にひっかかって,相手方がフライングしてニュートラルゾーンに侵入してしまうという反則を犯してしまうのだそうです。なお,ネブラスカ州にあるオマハ市はこの掛け声に喜んでいるということです。
NFC(ナショナル・フットボール・カンファレンス)は,シアトル・シーホークス対サンフランシスコ・49ersの対決です。

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12月15日のブログに書いたボストンで出会った巨大マウスの人形(Scabby the Rat)の意味が分かりました。これは,全米の労働組合が使う「スト決行中」の目印なのだそうです。
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Inflatable rats, or union rats, are commonly used in the United States of America by protesting or striking trade unions against their employers or against nonunion contractors, serving as a sign of opposition and to call public attention to companies employing nonunion labor.
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☆7日目 7月26日(金)
 きょうは,ボストンから別れを告げて,マサチューセッツ州を西に,タングルウッドをめざす。
 朝,きのうと同じようにホテルで朝食をとって,ホテルをチェックアウトした。フロントでタクシーを呼ぶかと言われたが,車があるので,と断った。このホテルは,アメリカらしくない狭い部屋であったけれど,とても居心地のよいホテルであった。今度来るときもここに泊まろう,と思った。
 レンタカーを駐車した場所はホテルからほとんど車の通らない道を隔てたところなので,カバンを転がして駐車場のビルにむかった。
 2日ぶりであったが,車はなんの問題もなく駐車してあった。
 取り外してあったGPSとトールパスを再び設置して,車を発進した。駐車料金は機械にクレジットカードを読み込ませるだけであった。結局,駐車料金は6,000円くらいであった。

 いよいよ,この旅行も後半戦である。この後は,前半と打って変わって,スケジュールが目白押しである。
 この後の予定を書いておこう。
 今日7月26日(金)の夜は,タングルウッドでボストン交響楽団のコンサートを聴く。宿泊は,タングルウッドから車で30分くらいのところにある「バークシャー・トラベルロッジ」というホテル。
 7月27日(土)は夕方までにニューヨークに到着して,ブルックリンのホテル「レッドカーペット・イン・ブルックリン」にチェックインしてからケネディ国際空港にあるレンタカーの営業所に車を返却してから,ブロードウェイへ行き,ミュージカル「シカゴ」を見る。
 7月28日(日)がこの旅行のクライマクスで,午前はニューヨークのハーレムでゴスペルに参加して,午後はヤンキースタジアムで野球観戦,そして,夜はマンハッタンの夜景を見る。宿泊先は,前日と同じ。
 そして,最終日7月29日(月)は,マンハッタン市内観光。特に場所は決めていないが,ぜひ行きたいのは,イントレピッド博物館のスペースシャトルの本物であった。
 7月30日(月)早朝の飛行機で帰国するので,29日の宿泊先は空港の近くの「ベストウェスタン・ケネディエアポート」である。
 そして,27日の午前中,ニューヨークに向かう途中で,クーパーズタウンという避暑地にある野球殿堂に行くつもりであった。

 昨晩一度やんだ雨は再び降りはじめたようで,朝からずっと雨天であった。そして,7月28日(日)のニューヨークの天気予報も雨であった。一番雨が降ってほしくない日の天気予報が雨であった。
 ホテルを出てすぐにインターステイツ90に乗ることができた。この道をまっすぐ西に2時間も走ればきょうの目的地に到着する。
 これを書いていて思ったのだが,私は,インターステイツ90によほど縁がある。この道は,西はシアトルから東はボストンまでアメリカ大陸を横断しているわけだ。そして,これまでにその半分以上を走ったことになる。
 モンタナ州で交通事故に会ったこともあるし,昨年ラピッドシティからバッドランド国立公園に行ったのもこの道だった。クリーブランドからナイヤガラの滝までエリー湖畔を走ったのもインターステイツ90だった。こうなったらインターステイツ90を走破してみようか…。夢ばかりが大きくなっていく。

 雨の中,インターステイツ90を快調に走っていく。途中で,ガソリンスタンドがあるサービスエリアで休憩し,ガソリンを入れ,その後は,マサチューセッツ州の森林の中,気持ちのよい道が続いていた。
 マサチューセッツ州の西側はリゾート地域である。
 湖やら森やら,山岳道路やら,すばらしい場所がたくさんある。
 はじめの予定では,これらのいくつかを気の向くままに訪れて,夜にタングルウッドに到着すればよいと考えていた。
 ニューハンプシャー州を通ったときも同じことを考えていたが,結局広すぎで,どこへも行くことができなかったことと,日曜日が雨らしきことで,予定を早めて27日(土)の午前中にニューヨークに行くことにした。そこで,今日は思ったよりも早くタングルウッドに到着できそうだったので,そこを通り過ぎて,まず,クーパーズタウンまで行くことにした。タングルウッドからはさらに2時間くらい西へ行くことになるはずでった。

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この旅行記では,いよいよアメリカの野球殿堂へ向かいますが,日本では,ついに,野茂英雄さんが日本の野球殿堂入りをしました。日本人大リーガーのパイオニアですが,そのいきさつもあって,彼は,殿堂入りを素直には喜べないかもしれません。わたしは,殿堂入りに限らず,もっともっと評価してもいいと思います。

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先日のブログに書いた大西順子トリオ+小澤征爾+サイトウ・キネン・オーケストラの「ラプソディ・イン・ブルー」全曲が,昨日,BS朝日で放送されました。私は,これほどの感動を味わったことはありませんでした。素晴らしい,の一言。それ以外に言葉がでません。
ああ,ニューヨーク!


 きょうは成人の日なのね。天気がいいと助かるけど,全国の天気はどうなのかしら。私の住んでいるところは快晴で何よりね。
 七五三から始まって,小学校の入学式,卒業式,大学の入学式,成人式,卒業式,結婚式・・・。その時だけに必要な衣装っていうのがあるみたいで,みんないろいろと大変ね。それにしても,そんなことうまく考えた人がいるわね。
 今は,人生がパック旅行みたいなものだから,そのとおり生きていけば楽なんだけど,少し個性を出そうとすると,大変なのね。でも,歳を経た人を見ていると,人のまねばかりしてる人や流行ばかり追っかけてる人よりちょっとした個性のある人のほうがずっと魅力あるわ。私もそうなりたいものね。


 4月から消費税が8パーセントになるとかで,便乗値上げが続いているわ。だれも値上げをしないときは我慢しているくせに,どこかが値上げをすると右に倣って何もかも値上げっていうのがとても日本らしいわね。でも,値上げをしたら,売れなくなるわよ。だって,本当に欲しいものなんてほとんどないもの。
 自動販売機の飲料だって,もともと100円だったのに,消費税が5パーセントになったときに105円にできなかったんで,110円にしたのよ。みんな忘れちゃってるけど,そう,おじいちゃんが言ってたわ。だから8パーセントになったって,値上げする理由なんてないのよ。みんな騙されちゃいけなわよ。私は自販機の飲み物なんて,めったに買わないけど,ますます買う気がなくなるわ。


 図書館で1年前の雑誌を読んでいたら,面白いことが一杯わかったわ。1年前に発売されてその時には評判になった製品が,一年後にはもう存在していなかったり,景気の予想だって,1年経ったらぜんぜん違っていたり…。こういうのを読むと,きょうの新聞や,雑誌の最新号に書かれていることも,きっとほとんどが外れね。
 みんな,現在,っていう一瞬で未来のことを考えていたり,その日のニュースで将来を不安になったりしているけど,本当は,1年くらいの期間で様子を見た方がいいんだなあ,って思ったわ。
 歴史から学ぶって,別に大昔のことでなくて,1週間前,1か月前,1年前… のことを振り返るだけでいいのよ。きっと,それが一番大切なのよ。


 きょうは,満月。お月様は地球の周りを楕円の軌道で回っているから,近くなったり遠くなったりするの。
 一番近くなったときを「スーパームーン」っていうんだけど,そのときの距離が,約35万6,700キロ。最近では2011年の3月19日に一番近づいたんだけど,知ってた? それが一番遠くなると,40万6,500キロになっちゃうのね。こんなに違うのよ。だから,太陽の前をお月様が同じように通過しても皆既日食や金環日食になっちゃうんだけど。
 実はきょうのお昼間,日本からは見られなかったけど,その時が最遠の満月だったんだって。そういわれれば,今晩のお月様は,なんとなく小さいと思わない?!


 あすからセンターテストなんだって。学生さんは大変ね。
 おじいちゃんが,40年くらい前に共通一次テストっていうのがはじまったんだって言っていたわ。そのときは,これで受験戦争が激化するっていう反対意見があったんだけど,このテストは学校で普段学ぶ程度の問題だから特別な準備は必要ありません,っていう約束ではじまったんだって。でも,今は,そんなこと誰も覚えていなくて,高等学校の勉強ったら,センターテストの練習ばかりだっていう話じゃない。
 私は,生きていくのに必要な能力って,ペーパーテストだけでは測れないって思うんだけど,テストで順位ばかりを気にする人が多すぎるのよ。生まれてから死ぬまで,ずっと人と比べるだけの人生って,何なのかしら。

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 ここで,話が変わります。
 2013年の後半のN響の定期公演は,10月がノリントンさんの指揮,11月はブロムシュテットさんの指揮と,まったく個性の異なるふたりの指揮者の演奏会で,聴いていてとてもおもしろいものでした。私は,11月のほうは聴きにいったのですが,10月は,テレビの放送で見ました。
 素人の私がおもしろいと思ったのは,団員さんの態度の違いでした。
 ブロムシュテットさんに対しては,こころから尊敬しているという感じがにじみ出ているのに対して,ノリントンさんには,演奏後,本人はとても楽しそうなのですが,団員さんは,だれも笑っていない,というか,もうたくさん,みたいに感じるたのは,私だけなのでしょうか。
 解説者によれば,ノリントンさんの演奏はピュアトーンといって,弦はノンビブラートだし,ティンパニも音が違うベートーヴェンで,聴いているほうはとても面白くて,楽しいのですが,弾くほうは大変なのか,同意していないのか,そこのところはよくわからないのですけれども,団員さんの本音はどういうものなのでしょうか。

 こういったことに対しても,表面的な話ではなくて,それは是か非かということでなくて,本音の話を解説してもらえるようなものがあれば,もっと楽しめるのになあ,と感じます。
 演奏会の感想に限らず,新製品の話題でもそうですが,よかったとか悪かったとか,その製品が期待はずれだったとか売れるとか,買いだとか,そういった,いわば,売るほうの目線で購買欲を煽るようなものはとても多いのですが,そういったことではではなくて,そういったものが作られたエンジニアの志というか,本音が吐露されてあるといいなあと思うのです。
 この本の中にも,「自分が何をどういう風ににやりたいのかということを,はっきり心に定める必要がありますね」という村上春樹さんの言葉があります。まさに,私も,そのことを言いたいわけです。

 今は,何事も,初心者を対象としたテレビ番組とか啓蒙書ばかりです,それは,売れること,人気があることがその価値観の基準になっていて,それを満たさないと批判されるというか,経営が成り立たないからなのでしょうが,私は,そんな傾向には反対で,それは,民衆を馬鹿にしているのだと思います。君たちにはわからないよ,といわれているようなものです。
 初心者を対象にすることは大切ですけれども,それには,内容を簡単にしてしまうよりも,難しくても,なにか凄い,と思わせるような本物にたくさん接するようにして,それに対して興味深く造詣のある人が解説する方がいいと思っています。当然,受け手はそれを理解する必要はありますけれども。でも,人間の知性を甘く見てはいけません。
 英語のテキストでも,新聞とか映画とか,実際に使われている英語を題材にすればいいのであって,単語を簡単なものに直したり,文章を書き換えたり,絶対に言わないようなスキットにするから,どれだけ勉強しても,実際には使えない,ということになるわけです。私も,ずいぶんとそれで苦労をしました。
 そういった意味でも,この本は,簡単ではないけれども,素晴らしい。だから,この本を読んで,私は,もう一度,きちんと,音楽を聴いてみたくなったし,人間が魂を込めて作り出した芸術を尊敬する気持ちがより高まったというわけです。

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 ヨーキー・ウェイでは,足長~~いおじさんが愛嬌を振りまいていた。私は,公認ギフトショップでなにかいいものがないか物色した。上原浩治投手の直筆サインボールが2個あった。1個35ドルであった。他にも,いろんな選手のサインボールがあった。選手によって値段が違って面白かった。
 よほど,このサインボールを買おうかと思ったが,買って帰ってもそのあとどうするのか考えると,写真を撮って我慢することにした。しかし,これは,買うべきだった。今では,決して手に入らない。
 私がこのフェンウェイパークに行ったときは,まだ,上原投手はほとんど無名であった。松坂投手と区別がつかない人もたくさんいた。私は,この年のオールスターのファン投票で上原投手に投票したが,アメリカのファンには見る目がなかったのが非常に残念であった。それにしても,このわずか3か月後にあのような劇的な出来事が起こるとは,私はもちろん,当人も思いもしなかったことであろう。
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 この年,ボストンはワールドシリーズで優勝し,キャロライン・ケネディさんは駐日大使になった。私にとってもこの2013年は,本当にすごい1年になった。

 球場のコンコースを歩くと,いろいろおもしろいものがあって,時間をつぶすには不自由しなかったが,いっこうに雨は止まず,そうしていても,どんどんと観客は増えてきた。
 やがて,試合開始時刻の午後7時30分になった。突然,この試合は,29日に延期になりました。今日のチケットで入場できます。という放送がかかった。
 放送が終わるやいなや,どんどんと観客は帰りはじめた。なんのわだかまりもないようであった。
 私は,せっかく購入したチケットがどうなるのだろうかと,訳がわからなくなった。29日といったって,旅人である私は来ることができない。次の日から3日間は,レッドソックスは遠征に出るので試合ができず,本来は休養日であった29日に試合が組まれたのであった。
 球場を出ると,チケット買うよというおじさんがいた。一律10ドルだということだった。
 めんどうだったので,その場で10ドルでチケットを売リ払った。
 私はこの時まで知らなかったが,大リーグではチケットの払い戻しはしないということだ。
 結局,昨日のように,事前にチケットを購入しなくても,現地で手に入るのだ。だから,このように雨で中止になる可能性を考えると,日本で事前にチケットを買わなくても,当日,こちらに来てからチケットを買う方がいいというのが,私のこの時の結論である。しかし,昨年最下位であった2013年はともかくも,これを読んだ人が,ワールドシリーズで優勝して人気沸騰の2014年に,同じようにチケットを入手できる保障はないが…。
 ともあれ,昨日,突然,フェンウェイパークで試合を見ることができたのが,本当に幸いであった。もし,昨日試合を見ていなかったら,きっと一生の痛恨になったに違いない。やはり,私はツイている。

 中止となると,みんな帰るのも早い。混雑した地下鉄で,私もホテルに戻ることにした。
 地下鉄の車内では,みんな,お前は延期になった日に来られるか,とか,チケットを都合のよい人に売ろうとか,とか,そういった商談をしていた。ボストンに住んでいる人が本当にうらやましかった。アメリカは,住むならボストンである。ただし,冬の寒さのことは,私は知らない。
 ホテルに着いたときは,雨が上がっていた。その時は,もう30分まてば試合ができたのに… と残念に思った。ホテルのフロントには,きのうチェックインしたときの素敵な女性のスタッフがいた。彼女のシフトは午後から深夜までなのであろう。
 試合が雨で延期になってしまった,と話しかけたら,すごく気の毒そうな顔になって,でも,そういえば,昨晩見ることができて,本当によかったですね,と言ってくれた。
 本当に,「愛しきボストン」である。
 あすはタングルウッドに行くのですよ,と言ったら,彼女はタングルウッドを知らなかった。結局,私が説明することになった。
 一度部屋に戻ったが,思い出に彼女と写真を撮りたいと思ったので,カメラを持って,再びフロントに行った。接客中であったので,終わるまで待って,「もしよければ写真を撮りませんか。一生の思い出に」といったら,もちろん,という返事であった。でも,シャッターを押す人が… と言ったら,大声で,別のスタッフを呼んできた。というわけで,この時に写した写真は,現在は,私のiPadの壁紙となっている。

 部屋に戻って,ツイッターを見ていたら,上原選手が「明日から遠征,やるかやらないか早くきめてー」みたいな書き込みをしていたので,「上原さんを見に日本から来たのに中止になってしまいました。これからもがんばってください」と書きこんだら,すぐに返事がきた。
 上原選手が投げるのを見ることはできなかったけれど,これには感激した。この年,彼は,世界一の投手になった。このツイッターの返事は私の宝物である。

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 その後,この本を読み進めていくと,偶然にも,小澤征爾さんがルドルフ・ゼルキンさんと競演したときのこととか,ピーター・ゼルキンさんのことがたくさん出てきました。また,さらに読み進めていくと,私が昨年行ったアメリカ・マサチューセッツ州のタングルウッドの素敵な景色も思い出されて,どんどん幸せな気持ちになっていきました。
 ブラームスの協奏曲の次に書かれてあったのは,ベートーヴェンのピアノ協奏曲の第3番でした。
 この中では,内田光子さんの話題が秀逸でした。
 残念ながら,小澤さんとの共演はできなかったそうですが,先日テレビで放映されていた内田光子さんのこの曲のコンサートを思い出して,そのコンサートを見る前にこの本に出会っていたらどんなによかったことかと思いました。

 そして,話題は,ブラームスの第1番交響曲の第4楽章になって,ここに書かれてあった,ホルンとフルートの演奏方法についての話はすごいと思いました。
 やはり,実際にその場にいて演奏している人の生の声は,ものすごく重たいものです。こんなことは,素人にはまったく見えません。そういった話を引き出している村上春樹さんも,また,すごいと思いました。
 これ以上書くと,限がありませんから,内容についてはこれくらいにして,後は,読んでみてください。
 ただし,最後の315ページあたりから後の若者のレッスンの話は,私には,それまでの,小澤さんの薀蓄のある思い出話に比べれば,いまひとつ面白くなかったので,この本は,314ページまでで終わったほうがよかったと思いました。それだけでもずいぶんと読み終えるの時間もかかり,非常に濃度の濃い本だからです。


 私は,随分と前のことになりますが,小澤さんとボストン交響楽団の演奏を直で聴いたことがあります。その時の曲目のひとつが,バルトークの「管弦楽のための協奏曲」で,この本にも書いてありましたけれど,それが小澤さんの得意とする曲のひとつだったことは,幸いでした。あの演奏のピンと張りつめたよい意味での緊張感は,今でも忘れられません。
 小澤さんは,また,マーラーも得意としているということなのですが,ボストンの常任指揮者を辞めるときの最後の演奏会の曲目はマーラーの9番交響曲でした。その演奏の最終楽章は,アダージョの消え入るような音楽が延々と続くのですが,観客のひとりがその間,たえまなく咳をしていて,台なしになってしまったのは,本当に残念でした。
 この演奏会のことも,この本に書かれてありました。発売されたDVDには,咳はカットされていたのでしょうか。

 小澤さんは,病気をされたこともあり,巨匠たる雰囲気になりえなかった,ということが,私にはずっと残念でした。そのころ私の思っていた巨匠というのは,晩年の朝比奈隆さんとか,ギュンター・ヴァントさんのようなブルックナー指揮者の姿だったのですが,今の私は,その考えは間違っていたと思うようになりました。このことは,現在,N響の名誉指揮者として,絶対の存在感を誇るブロムシュテッドさんにもいえるのですが,自らそれを望んでおられないのだと思います。
 音楽は,権威ではないのです。
 この本は,そんな偉大なマエストロが人生をかけて我々に伝えたかった本当の気持ちが一杯,数えられないほど一杯詰まった素敵な本です。

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 「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(小澤征爾×村上春樹)という本を,やっと,読みおえました。
 この本が出版されたのは,1年以上前で,その当時,たいへん話題になりました。私は,どうも,音楽の専門家でない人がそういった類のものを語るというものが苦手で,たとえば,Eテレの「らららクラシック」の石田衣良さんとか,もうそれだけで見る気がしないというか,だから,この本も食わず嫌いで,今まで手に取ることこともありませんでした。
 年末に,Eテレで「クラシック・ハイライト2013」という番組をやっていて,その番組で,私が最も感動した小澤征爾さんの指揮するサイトウ・キネン・オーケストラと大西順子さんの共演を紹介したときに,小澤征爾さんと大西順子さんを引き合わせたのが村上春樹さんだという話をしていて,その話の中で,この本のことが紹介されていました。
 それがきっかけで,ようやくにして手にしたというわけです。
 それにしても,年末の総合テレビの,恒例となっている学芸会のような番組(朝日新聞には,この番組のことを「日本の文化」と書いてありましたが,所詮,日本の文化というのはその程度のものだといいたかったのでしょうか…)の裏で,これほどすばらしい番組をやっていても,どれだけの人が見ていたのかしら,と残念に思っています。

 この本は,読み始めたら,止まらないというか,これが,ものすごくおもしろいのです。
 私は,2013年にマサチューセッツ州ボストン郊外のタングルウッドに行って感動したこともあって,そして,大西順子さんとの共演でもまた感動したこともあって,その感動の渦の中にこの本を投げ込んだから,化学反応を起こしてしまったのです。
 内容は,ブラームスのピアノ協奏曲第1番について対談をするというところからはじまりますが,この曲のテンポについての話題になって,たとえば,グレン・グールドの弾くテンポが異常に遅かった,というようなことが述べられていました。
 ここまで読んで,私は,ここで,随分と前のことになるけれど,準・メリクルさんが指揮するN響の定期公演で,ピーター・ゼルキンという,大ピアニストであったルドルフ・ゼルキンを父に持つピアニストが,このブラームスの協奏曲を弾いたのを前から5列目で聴いたのを思い出しました。
 このピアノ協奏曲を生で聴いたことのない人は,ぜひ,ステージの近くで,一度ライブで聴いてみるとよいと思いますが,CDとかで聴くのとは違って,生の演奏を聴くと,異常な緊迫感というか,この曲は,オーケストラとピアニストの間に,お相撲の立会いのような日本的な間があるのです。そして,その丁々発止の掛け合いがすごくおもしろいというか,私は,この協奏曲を聴いて,協奏曲というのは,オーケストラは演奏することよりも待つこと,すなわち,ピアノに合わせて出ることが最も大切なのだということをはじめて知りました。同じようなことは,ベートーヴェンのバイオリン協奏曲にも言えます。

 その時の,ピーター・ゼルキンさんのテンポが異常に遅い,というか,まさに,止まってしまうような感じで,聴いていて,私は,本当に疲れました。この演奏に対して評論家さんも同じようなことを書いていました。素人の私は,このピアニストは,本当はものすごく下手なんじゃないか,とさえ,思いました。指揮者の準・メリクルさんも,指揮台の上で,非常に苦労して合わせている,というのが,間近で聴いていて切実に伝わってくるのでした。
 第一,ピアノという楽器は,弦楽器のようなメロディアスなものではなくて(音がなめらかでないということです),つまり,アナログでなくてデジタル,音が断片的に出てくる打楽器なのだから,これほど遅いテンポで弾かれると,音がつながらないわけで,だから,一歩一歩大地を踏みしめていくというか,そんな感じになっちゃうのです。
 ところが,この演奏が,聴衆の心に残ったというか,それを聞いていた観客にものすごく評判がよかったのでした。 私自身も,未だに,その時の音が残っているし,そうしたことを考えても,果たして,音楽とはなんなのだろう,と本当に思ってしまうのです。
 そんなことを思い出したこともあって,私は,この本で,はじめにブラームスの協奏曲が取り上げられていたことが,本当におもしろかったわけです。

◇◇◇
「春樹さんは『小澤征爾さんと、音楽について話をする』」について書くブログには,私が昨年撮っていたタングルウッドの写真を載せます。


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 フェンウェイパークに着いた。雨はやむ気配もなかったが,だれしも野球は予定通りはじまるかのような雰囲気だった。私は,アメリカのことだがら,何時間遅れてもたとえ雨がやまなくても試合はやるものだと確信していた。
 ともあれ,雨が降っていては,試合前の練習もないし,昨日は入場した時にはすでに試合がはじまっていたので見過ごしてしまった様々な名所を巡ることにした。
 そこで,後から知ってこんなところがあったのかと悔しい思いをしないように,これからここを訪れる人にフェンウェイパークの名所を紹介しよう。

 まず,「ヨーキー・ウェイ」。
 フェンウェイパークの中ではなく,外の通りの名前である。この通りはトム・ヨーキー元オーナーにちなんで命名された。さまざまな飲食店や土産物屋が建ち並んでいて,天気がよければ,まさに,遊歩道になる。
 普通の通りなのだが,この通りは試合の日は車は通行止めで,すでに,通り自体が野球場のテリトリーとなっている。球場が狭いのでこういうことになるのであろう。
 次に,「チームメイト」の銅像。
 フェンウェイパークの外周をあるいていると,ゲートBのわきにこの銅像をみることができる。
 この銅像は,2010年,彫刻家のアントニオ・トービアス・メンデズが製作したもので,テッド・ウィリアムズ,ボビー・ドゥアー,ドム・ディマッジオ,ジョニー・ぺスキー4人が肩を並べてバットを持っている姿の銅像である。これは1946年当時の姿を再現したもので,当時のユニフォーム,スパイク,キャップをまとっている。
 従来からあった「テッド・ウィリアムズとガンと闘う少年の銅像」も有名だが,このチームメイトの銅像が設置されたために,現在はヨーキー・ウェイ寄りに移された。
  ・・・・・・
 テッド・ウィリアムズは「最後の4割打者」として有名である。
 1941年に打率.406を達成,それ以降には4割打者が誕生していない。
 彼は,第2次世界大戦と朝鮮戦争の2度,5年にわたって従軍し,朝鮮戦争では飛行機が不時着するなどの九死に一生を得て帰還した。また人種差別が顕著な時代にあっても,積極的に黒人選手へのサポートを惜しまないなど,たいへんな愛国者かつ人格者である一方で,とてつもない大声と癇癪の持ち主だったという。さらには,ネクタイが大嫌いだったという。
 テッド・ウィリアムズ,ボビー・ドゥアー,ドム・ディマッジオ,ジョニー・ぺスキーの数十年に及ぶ友情は,デイヴィッド・ハルバースタムの「ザ・チームメイト:友情の情景」(The Teammate: A Portrait of a Friendship)に取り上げられ,不朽のものとなった。
  ・・・・・・

 外野席にある「ザ・レッドシート」は,1946年6月9日に,そのデッド・ウィリアムスが放った502フィート(153メートル)の最長距離本塁打の落下地点で,赤いシートになっている。セクション42・37列・21席のチケットを購入すれば座れる。
 この座席はライト側の外野席の結構高いところにある。興味深そうに写真をとっていたら,親子連れが来て,どういうシートだと聞いてきた。私は日本からの旅行者である。君たちのほうが詳しくなくちゃいかんだろう…。
 そのいわれを話すと,そんなことよりも,この席だけ赤色なので,こんな席になってしまったらいやだという思いがけない反応が返ってきた。まさに豚に真珠であった。
 最後に,「べスキー・ポール」というものについて。
 これは,1塁側のファールポールである。本塁からわずか302フィート(92メートル)にある。
 フェンウェイパークでは,レフト側の狭さを補うグリーンモンスターだけでなく,ライト側もスタンド際の狭さは特筆すべきものがある。テレビ中継で球場が出てきたらよく見てみよう。
 1塁側は,ほとんどファールグランドがなく,こんなに距離の短いところにファールポールがあるのだ。だからこの場所にライナーがスーッと飛べばホームランになってしまう。ピッチャーはやっていられない…。
 だからこのポールは,1塁側の内野席から触ることができる。
 ポールには,小兵選手だったジョニー・べスキーにちなんだ名がついている。

 このように,フェンウェイパークは,歴史的遺産であり,球場を見るだけでも,博物館のようなものなので,雨が降っていても時間をもてあますようなことはないのだが,それでもやはり空模様が気になった。
 私は,コンコースにテーブルを確保して,ホットドッグを食べながら時間をつぶしていたが,隣に座った人がおいしそうなものを食べていたので,それはなにかと聞いたら,イタリアンバーガーだと言った。暇だったので,いろいろおしゃべりをしていたが,そのうち,球場が明るくなったので,てっきり雨が上がったのかと思った。隣に座った人たちも雨が上がったなあ,と言っていた。
 実際はナイターのライトが点灯しただけで,雨は降りやむ気配がなかった。
 この時,試合開始が遅れますという放送があった。レッドソックスはまだまだ試合を行う気満々であった。

◇◇◇
アメリカの寒波は一段落したようです。
寒波をニューヨーカーがどう乗り切っているかという番組をやっていたのですが,日本製の下着を着ける,だの,味噌汁で温まる,だの,レモンを絞ったくず湯を飲む,という話でした。ニューヨーカーにも日本文化が根づいているようです。

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 ボストンの市内観光は楽しかったですか?
 ボストンは,地下鉄を使えば,たいていのところへ行くことができるのとても便利な都会です。さらに,事前にアメリカの独立同時のことを勉強して出かけると,より楽しさが増すと思います。
 このブログの旅行記にも紹介していますが,美術館あり,博物館あり,コンサートホールあり,歴史あり,MLBあり,と,この町は,魅力がいっぱいです。
 ぜひ,一度は行ってみてください!

 では,帰国です。
 帰国は,簡単にいえば,まあ,どうにでもなります。帰りのチケットさえあれば,後は,空港へ行くだけのことです。
 セキュリティの検査がありますから,2時間前には空港へ行きましょう。アメリカの空港の航空券の発券は機械でできます。日本語も表示されますから,心配はいりません。パスポートをかざして,予約した時のクレジットカードを通せば搭乗券がプリントされます。そのあとでカバンを預ければ終了です。乗り換えがあっても,最終到着地までピックアップをする必要もありません。
 帰国も,税関申告書を書く必要があります。昔はこんなものなかったと思うのですが,近頃は,日本でも必要になりました。日本語なので,これも,どうにでもなります。
 もし,ここで乗り換えが必要で,はじめに乗るのがアメリカの国内線であれば,まだ,旅行気分一杯ですが,日本への帰国便の出発ゲートであれば,大勢の日本人がいて,あっという間に,現実に引き戻されます。私は,この時間が嫌いです。それでも,ビジネスマンや,個人旅行客ならまだしも,団体客や学生さんがたくさんいると,正直,うんざりします。よって,帰国便は,たいてい,気持ち的にふて寝して過ごします。
 私は,これまでの旅行でためたマイレッジがたくさんあるので,片道はエコノミーをビジネスに変更して旅行ができるのですが,これを書きながら考えてみるに,行きよりも帰りの方をビジネスにしたほうがいいのかなあ,と思うようになりました。
 よく,私は,海外旅行に連れて行ってと言われるのですが,一緒に行ってもいいけれど,かえりは独力でね,と言って人を煙に巻きます。実際は,帰りは,どうにでもなるのです。いざとなれば,市内からタクシーで空港まで行けばよいだけですから。帰国便のカウンタには,たいてい日本語のわかるスタッフがいますし。

 ということで,別段これ以上書くこともないので,ここでは,私の,これまでのさまざまな帰国の思い出を書いてみたいと思います。
  ・・

 2001年の同時多発テロ以前のアメリカは,帰国は,本当に簡単でした。出るもの追わず,みたいな感じで,航空会社のカウンタで,誰かから委託された荷物はありませんか? などと日本語で書かれたプレートを見せられて,ありませんと言えば,そのまま飛行機に乗れました。
 出発便の搭乗時間ぎりぎりに空港に着いて,ビジネスしか空きがありません,と言われて,エコノミーから無償でビジネスに変更になったこともありました。
 現地は問題なく出発できるのですが,日本が台風なので,出発時間を遅らせますと言われて,3時間ほど足止めされたこともありました。
 テロの後は,手荷物検査とかが本当に大変になりました。だから,できれば,地方の小空港から国内便を経由して帰国した方が,搭乗検査が空いているのでストレスがないのです。

 また,帰りは,時差ボケは,ほとんどありません。
 簡単に言えば,地球の半径は約6,400キロメートルなので,周の長さは36,000キロです。日本とアメリカは中心角が約120度なので,周の1/3だから,距離にして,12,000キロメートル,飛行機は時速約1,000キロなので,12時間かかります。地球は1日で1周するので,時速で1,500キロメートル。どういうことかというと,実際は,日本に向かって飛んでいるのですが,地球の自転速度よりも飛行機の速度の方が遅いので,遠くから見れば,飛びながら後ろにさがっていくのです。だから,午後5時に出発しても,到着した時は午後2時くらい,ただし,日付変更線があるので,日にちだけは1日すぎるのですが,そんなわけで,夕方出発して,10時間以上過ぎてもまだ太陽はその日の夕方の同じ位置になります。
 これが,行きは,実際は日本は深夜なのに,アメリカではもうお昼,という感じで,1日夜がなくなってしまうので,どうしても時差ぼけになるわけです。

 それにしても,アメリカ国内を移動するMLBの選手は大変です。1日が27時間あったり,21時間しかなかったり…。
 ちなみに,アメリカを横断旅行するなら,東から西へ行くことをお勧めします。時差があるので,1日が25時間になります。逆に西から東へ向かうと,1日が23時間しかなかったりします。実際に体験するとわかりますが,1日の時間が1時間長いと,本当に1日が長く感じますし,その逆はあわただしいです。
 アメリカに住んでいる人は,夏時間が切り替わるときに,同じような経験をするわけです。


 日曜日から新しい大河ドラマが始まったわ。歴史ドラマも結局は民衆を犠牲にした権力者のドラマじゃない。織田信長さんも豊臣秀吉さんも,尾張地方を平定するのは自分の領地にいる民衆の治安を維持するために必要だったのでしょうけれど,全国統一なんていったって,結局は中国地方への侵略でしょう。
 毛利さんにとれば,ずいぶんと迷惑な話よね。その陰で,どれだけ民衆が犠牲になったかを考えてみれば,別に黒田勘兵衛さんが軍略を巡らせようと,結局は男の人の戦争ごっこなのよ。
 もう,そんなドラマはやめて,民衆の側から日本の人間の歴史を考えてみたほうがいいと私は思うわ。


 お休みに,リゾートホテルっていうところに泊ったんだけれど,今は,旅行なんてするより,家にいた方が快適だと思ったわね。家ならネットだって繋がっているし,テレビだって,BSもCSも契約してあれば好きなものを見ることができるんだし。
 特に,日本は,アメリカと違って,ホテルでも,未だに無線でネットができないところも多いし,本当に遅れているわね。
 見せかけのおもてなしで浮かれている場合じゃないわ。インフラの整備に関しては,先進国じゃあないわね。日本に来た外国の人たちも,ネットが繋がらないって困っているっていうじゃない。
 もう今は,旅行なんてしなくても,近くに大きな温泉だってあるし,どこでもおいしいもの食べられるし。特に,この国はJRだって,飛行機だって,高速道路だって,国内旅行は高すぎると思うわ。


 本当に今年の冬は寒いわね。アメリカなんて,大寒波だそうよ。気温がマイナス20度で体感温度がマイナス40度なんて,想像がつかないわね。
 夏は猛暑だし,寒暖の差が大きすぎるのよ。
 温暖化っていうけど,地球の歴史を考えると,もっと暑かったことももっと寒かったこともあるし,本当にこの温暖化って,人類のせいだけなのかしら。
 大自然の営みって,人間の力の及ばないものじゃないかな,って思うことがあるんだけど,どっちにしても,人間はもっと謙虚になるべきなのよ。


 アメリカでCESっていう家電見本市が始まったんだって。日本でもいろんな製品が報道されているけれど,4Kというテレビが話題なんだって。それで,日本の製品が世界で売れるためには,何か付加価値がいるんだってニュースでいっていたけれど,まだ,ガラパゴスに懲りていないのかしら。
 高画質っていうけれど,テレビで,それほど見たい番組ってあるかしら? 一番テレビを見るお年寄りは,難しすぎてテレビひとつ満足に使えないっていうじゃない。おじいちゃんもいつもそう言ってるわ。
 CNNを見てたら,日本の報道と違って,話題になっていたのは,韓国のサムソン電気の液晶が曲がるテレビだったし,一度,日本の人は,世界でどのように見られているか,違った観点で考え直した方がいいと思うけど。


 リニア新幹線が話題になってるけど,これ以上速い電車を走らせても,遊びで旅行するには魅力があると思えないわね。
 ビジネスの出張だって,実際に行かなくても,テレビ会議で済むことが多いのよ。本当は。
 それに,ずっとトンネルだっていうじゃない。そんな地下鉄みたいな電車で旅行しようと思わないわね。
 きっと,国民のことよりも,工事をしてお金儲けをすることの方がずっと大切なのよ。でも,壊れかけた橋がたくさんあるっていうし,何かを作れば,それを維持しなくちゃいけないのよ。
 この国の人口はこれからどんどんと減っていくのよ。現状維持だけでも大変よ。このことを忘れているわ。
 そんなことより,今は乗り換えばかりでめんどうな在来線に,乗り換えなしで東海道をちょっと豪華な列車でも走らせた方が,お年寄りの旅行には楽しいと,私は思うのだけど。

◇◇◇
木曜日の朝日新聞のオピニオン欄で,作家の山田太一さんが「ぼくは,各駅停車の駅にいる人が,豊かでかっこよく見える」と書いていると,金曜日の天声人語は紹介しています。このコラムはこう続きます。「そうやって,時間の遅さをあえて拾っていくべきではないかと。」

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 ボストン美術館の案内所で,日本庭園はどこにあるのかと聞いたら,外に出て… と説明をしてくれた。
 2時間ほどいたので,このあたりで,ボストン美術館を後にすることにして,その日本庭園を見に行くことにした。
 日本庭園は岡倉天心にちなんで,「天心園」と名付けられている。

 岡倉天心は1863年2月14日生まれの思想家である。東京美術学校の設立に貢献し,1903年,ボストン美術館からの招聘をうけ,渡米した。
 中公新書「英語達人列伝―あっぱれ,日本人の英語」に次の記述がある。
  ・・・・・・
 アメリカでひとりの若者に声をかけられた。
 "What sort of ’nese’ are you people? Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?"
 彼は,流ちょうな英語で言い返した。
 "We are Japanese gentleman. But what kind of ’key’ are you? Are you  a Yankee, or a donkey, or a monkey?"
  ・・・・・・
 この庭園は,アメリカによくあるいいかげんな「日本庭園」とはちがって,落ち着いた正真正銘の日本庭園であった。管理がたいへんだろうと思った。
 この日は雨が降っていたので,また,趣があったが,他に見学をしている人はいなかった。

 ボストン美術館から北に2キロメートルほど行くと,フェンウェイパークへ行くことができる。その途中に,ボストン交響楽団の本拠地「シンフォニーホール」があるので,そこを経由して歩いて行くことにした。
 32年前に来たとき,このシンフォニーホールの前を通った。そのとき,入口に小澤征爾の大きなポスターがあったのに感動したことを覚えている。
 ボストン交響楽団は,夏は,明日訪れるタングルウッドを本拠地にしているので,今は「主のいない家」であるが,建物を見るだけでも価値があるといいうものだ。
  ・・・・・・
 ボストン交響楽団は1881年,ヘンリー・リー・ヒギンスンによって創立された。
 セルゲイ・クーセヴィツキーを首席指揮者に迎えて世界的なオーケストラとなり,その後,シャルル・ミュンシュが世界的名声を不動のものとし,1973年から2002年まで小澤征爾が音楽監督を務めた。
  ・・・・・・

 シンフォニーホールは,1900年10月15日に完成した世界で初めて科学的な根拠に基づいて音響が設計されたホールである。19世紀からの姿をそのまま残すジュークボックス形式のコンサートホールとして貴重な建物となっている。
 建物や周りは32年前とほとんど同じで,ここの場所だけは時間が停まったかのようであった。ものすごく懐かしかった。もちろん,小澤征爾のポスターはなかったが。
 32年というのは,人生を振り返るのには,微妙な年月である。あのころには帰れない。それが辛い。せめて,この後の32年は時間を無駄にしないようにしようと思った。
 ただ,この建物の入口あたりに,何やら怪しげな新興宗教のような一団がいて,しつこくまとわりついてくるのには閉口した。こういうのは,思い出を台なしにしてしまう。
  ・・
 その後,フェンウェイパークに歩いて行ったのだが,道を1ブロック間違えてしまったことと,雨がどんどんと激しく降りはじめたことで,気分は沈んでしまった。
 フェンウェイパークよりも地下鉄の1駅東の交差点にたどりついた。
 私は,結局,そこから地下鉄に乗ってフェンウェイパークに向かった。今日の試合は中止だろうと思ったが,そんなことは全く気にかけない野球見物の多くの乗客で,地下鉄はごった返していた。
 アメリカでは,こんな雨でも野球は中止にならないんだ,と,妙な自信が出てきた。

◇◇◇
残念ながら,われらが野茂英雄投手のアメリカの野球殿堂入りはなりませんでした。わずか6票,得票率1.1パーセントだったそうです。得票率が5パーセントに満たなかったために,来年の候補からも外れました。
結果に問わず,野茂さんが偉大だったことは事実です。

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 特別展「サムライ」を見てから,昨日書いた日本のセクションを探しながら,ほかの様々なセクションを見て歩いた。
 ボストン美術館には,非常に多くの収蔵品があって,展示されている。まず,はじめに見たのは,楽器であった。
 古代から20世紀後半にいたる様々な国の楽器1,100点以上が所蔵されているといういことだ。そして,最近は,17,18世紀のギターが新たに加わったという。
 展示されている中に,以前,日本のクラシック音楽番組で紹介された変わった形のホルンをみることができて,非常に興味深かった。また,ストラディバリウスも展示されていた。楽器を見るだけでも,その展示されている作品の量は,半端なものではなかった。

 次に,古代世界の美術を見た。
 エジプトをはじめとする地中海周辺域に展開した古代文明の作品約7万点が所蔵されていて,そのうちのいくつかが展示されていた。この美術館に展示されている古代美術は,特に,陶器類の質の高さは世界的に有名であるということだが,私には「見る目がない」ので,そのよさがよくわからなかったのが残念なことであった。
 そして,やはり,いちばんなじみがあったのは,ヨーロッパ美術であった。このセクションには,両側の壁に,数多くの名画が展示してあった。
 ボストン美術館は,2万2千点以上の7世紀から20世紀までの広範なコレクションを誇っているということである。エル・グレコ,べレスケス,レンブラントをはじめ,ミレー,そして,モネ,ルノワールなどの印象派のコレクションが充実していた。
 このフロアは,なにかの催しがあるようで,テーブルを並べたりと,準備に余念がなかった。

 もうひとつ下のプロアには,多くのピカソの作品があった。特に,初期と晩年の作品が非常に興味深かった。
 日本人の観光客がガイドを連れて見ていた。きっと,本当は,このように,きちんとした説明を聞きながら,のんびりと1日かけて巡ってみることが大切なのであろう。

 アメリカを旅行したときには,行く先々で時間が許せば美術館へ行くようにしているが,アメリカの大都市のどこの美術館にも,教科書などで見たことがある有名な作品のいくつかが展示されている。
 どうしてかその由来はよくわからないけれども,建国わずか200年余りの新しい国に世界中からこれだけのものが集められたということがすごいことだといつも思う。きっと,大金持ちが世界中から集めてきたのだろうが,このようにして,その多くは死蔵されることもなく,人混みもないところでのんびりとみることができるのは,とても優雅なものであると思う。
 そのほかにも,アメリカ美術やら,写真やら,衣装やら現代美術やらの展示が,広い館内に数多く展示されていた。さらに進むと,アジア・オセアニア・アフリカ美術セクションの一角に,日本美術のコーナーがあった。非常に奥まったところだったが,落ち着いた雰囲気で,日本にもどったかのようであった。日本美術以上の広さで中国美術などの展示があった。 
 広い美術館の階下には図書館もあって,多くの人が,休憩をしたり本を読んだりしていた。このように,図書館やレストランも充実していて,本当にすばらしい美術館であった。ボストンに住んでいる人は,その気になれば,いつでも,これらの美術に接したり,この図書館で,1日を過ごすことができるのである。

◇◇◇
昨日の新聞のスピードランニングの全面広告に「"A happy new year!" という外国人はいません」と書いてありましたが,そんなのはあたりまえで,これは書き言葉です。「「謹賀新年」という日本人はいません」と言い換えてみればわかることでしょう。
カウントダウンのCNN放送で,"Happy new year!" って普通に言っていましたから,現地の普通の番組を見ていれば,あえて話題にするようなことでもありません。
他にも,いろんな表現が取り上げられていて,興味深かったのですが,こんなことを問題にしなくちゃいけない,でも,多くの人はこんなことも知らないというのは,やはり,この国のドリル学習に問題があるのだと思います。
前にも書きましたけれど,通学の電車の中で英単語の練習帳を勉強?している学生さんはたくさんいますけれど,英語の小説や雑誌を楽しんでいる学生さんなんて見たことありません。

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 今から,40年も前には,たくさんの小さな会社が望遠鏡を作っていて「月刊天文ガイド」に広告を出していたので,当時の少年たちには憧れでした。子供のころの憧れというのは,人生を支配するものであるらしく,歳をとった当時の少年たちは,あのころの望遠鏡をオークションなどで集めることがひそかなブームになっているようです。また,そういった情報をのせているホームページも人気です。また,そういった望遠鏡を集めた博物館が作られたそうです。

 今にして思うと,それらは,大会社やかなりいかがわしい会社や新興の会社が入り乱れて,かなりの玉石混交だったのですが,少年の夢というのは,そんなことは大して意味を持たなかったのです。言ってみれば,望遠鏡は星を見るためのものではなくて,その姿に見とれるためのものであったようで,いわば,プラモデルと同じなのでした。だから,雑誌の広告を見ては萌え,カタログを集めては飽きずに眺めているだけでした。
 それら市販されていた望遠鏡の多くは,実際にははどれほど生産されていたのかは不明です。現代の情報社会にあっても,その姿を見たという話はほとんどないのですから。
 男の趣味といえば,車やカメラにも同じようなことが言えるのですが,おそらく車よりも救いがあるのは,車に比べれば単価が安いということでしょうか。それでも,当時のカタログに記載されていた大きな望遠鏡は,いわば鉄の塊であって,そんなものを購入してしまったとしたら,きっと,置き場に困っていたことでしょう。私は,百貨店のメガネ売り場に日本光学(ニコン)から1968年に発売されたばかりの口径8センチメートルの屈折望遠鏡の本物を見て,そのでかさにびっくりしたものです。

 そうしたことを考えると,現在,大きなカメラ店やホームセンターなどで売られている学習用の望遠鏡は,きっと,当時のものよりもちゃんと星が見られるのでしょうが,プラスチックの塊で,当時の天文少年としてはメカ的にそそられるものがまったくないのが残念です。あれでは理系少年少女の夢は育ちません。あれこれ自分で想像できるのがいいのです。私も,やっと買ってもらった望遠鏡は,それで星を見たなどという思い出はほとんどなくて,組み立てては壊し,そのうち,部品がなくなったり,ネジ山がつぶれたりして,単なる屑鉄になりました。しかし,そこで,覚えた望遠鏡の構造とか,赤道儀の複雑な動きとか,そういったことが,その後,どれだけ役に立ったか,これは,ドリル学習で身につくことではないのです。

 本当のことをいってしまえば,星の見えない都会に住んでいる人が,年に数回,車で郊外に出かけたり,キャンプに行って星を見るような趣味として,星を楽しむ道具であるなら,しっかりした架台に載った口径が10センチメートルくらいのきちんとしたメーカーの大きな双眼鏡(オプトミヤウチの10センチ双眼鏡がお薦め)が一番いいのです。惑星とか二重星を見るのなら,いろんなところにある公開天文台に行って見せてもらえば十分なのです。
 時折来る彗星の写真を写したいくらいの趣味なら,精度のよい小型の赤道儀に写真用の望遠レンズを持っていれば十分(タカハシのPM-1赤道儀にキヤノンEOSKissX7と200ミリf2.8か300ミリf4.0の望遠レンズ)でしょう。これ以上のものを買うと,持ち出すのに面倒で結局使わないで押し入れに眠ります。ただし,実際に写すには,ピントを合わせたり,露出時間を工夫したりといった苦労がいるので,それを楽しいと思えるのなら,これほどおもしろいものはありません。ただし,だんだんと大きな機材が欲しくなってしまうのは,戒めなくてはなりません…。ここから地獄が始まってしまいますが,このことはどんな趣味にもいえることです。
 私は,何事も,身の丈に合ったことをすればいいと思っております。
 でも,そうした本当のことをいっちゃあおしまいで,ただでさえ零細企業で数少ない業界は成り立たなくなってしまうでしょう。人の物欲を刺激して,必要以上のものを売ってこそ,経済というのは成り立っていて,天文雑誌の広告がそれを助長させているわけですから…。

 公開天文台ですけれども,私も随分といろんなところに行きました。
 多くは,バブルのころに作られたということですが,せっかく作ってもそれを運営するのに苦労しているところが多いのは,残念なことです。バブルのころは,お金が有り余っていて,それで,大型の望遠鏡の注文が相次いだそうです。中には,形が望遠鏡ならたいした性能がなくてもいいといって注文されたものすらあるという話を聞いたこともありますが,公営のものなら,さもありなんだと思います。第一,天文台なのに,その職員の勤務時間は朝の8時から夕方の5時とかいったばかげたことがあり得るのが,お役所ですから。
 私は,公開天文台は,たくさんの子供たちに月や惑星や星団を見せてあげることと,カッコいい望遠鏡の前で記念撮影でもしてあげれば,十分にその目的は達すると思うのですけれど,実際は,観望会をやっても,天気次第だし,一台の望遠鏡に列を作って2,3秒ずつ見ても,見る時間よりも並んでいる時間ばかりだし,なかなか運営は難しいものだと思います。

☆ミミミ
今日の写真は,日本中で見ることができた2012年5月21日の金環日食と6月6日金星の太陽面通過です。ともに,晴天も恵まれて,すばらしい景色を見ることができました。
思えば,2012年は太陽イヤーでした。2013年は彗星イヤー。さて,2014年はいかに?

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 彗星イヤーといわれた昨年でしたが,前評判とはちがって,3月のパンスターズ彗星(C/2011L4 PanSTARRS),12月のアイソン彗星(C/2012S1 ISON)とも大した彗星にはなりませんでした。そのかわり,ラブジョイ彗星(C/2013R1 Lovejoy)がよい方に予想が外れて,明るく輝いているのが救いというか,結果として,彗星の予想はあてにならないということが実証されたのでした。
 だから面白いのですが,これを商売にしている人にとっては,さぞかし痛手だったことでしょう。先月の天文雑誌なんて,家の近くの本屋さんでは,1冊も売れませんでした。

 あえなく消滅してしまったアイソン彗星でしたが,私にとっては,いろんな意味で素晴らしい彗星でした。
 実は,この彗星を通して,この年齢になって,生まれてはじめて,星を見るという趣味の本当の楽しさがわかったのです。
 2013年のはじめ,2大彗星が地球に接近するといわれていたころのことです。ある雑誌にも書いてあったのですが,われわれの世代で,昔は星に夢中になっていたのに,今はそれほど趣味に打ち込んでいない,まあ,要するに私のような人たちも,その大彗星接近のニュースに,久しぶりに血が騒ぎました。
 思い浮かべたのは,百武彗星やヘールポップ彗星の雄姿なのです。
 だから,あのときのように,また,写真を撮りたくなりました。
 しかし,時代は変わり,フィルムカメラからデジタルカメラになって,当時の知識も全く役に立たず,写真を撮るにはどうしていいのやら,わけがわからなかったのです。

 当然,私もそのひとりでした。
 どうしたらデジタルカメラで写真が写せるのか。そのときから格闘が始まったのでした。
 聞き及ぶところでは,今や,コンパクトカメラでも星の写真なんて写せる… らしい。何十分も露出しなくても,大丈夫… らしい。写したあとで,パソコンで画像処理をすればいい… らしい。星を写すには,画素数よりも,それなりに高感度で写してもノイズが発生しないようなカメラがいい… らしい。
 といったいろんなうわさは聞こえてきました。
 昔は,藤井旭さんの書いた「天体写真の写し方」というバイブルがあって,その本に書いてあるままに写せば,まあ,下手なりになんとかなったのに,そうした教科書のような定番の本もなく,それは,情報がありすぎるということなのですが,雑誌やらネットには断片的な記事がたくさんあって,というか,ありすぎて,どれを信じていいのかなにがなんだかわからない状況でした。
 また,こうしたことに未だに興味を持っているのは昔の天文少年ばかりで,いまの若い人は,我々のころのように星を見ることにはあまり興味がないのです。空は明るく,天の川なんて見たこともないのだから,仕方がありません。それに,昔のように,自分のお小遣いでいろいろと工夫をするといった夢もないですから。

 私は,買ったものはいつまでも愛着を持って使うので,20年も前の望遠鏡やら,10年くらい前のデジカメやら,もっと前のレンズを持っていて,新しいものは極力買わない方針なのですが,それらをどのように使ったらいいのか,頭を悩ませていました。
 とりあえずは,彗星の写真をなんとか1枚でも写すことに目標を決めました。
 まず,自宅から車で1時間と少し走れば自分では満足できる星空を見ることができる場所をいくつか見つけました。場所を探していると,昔に比べて,道が広く多くのトンネルができて,遠出をするのに安全で快適になったこととがわかりました。だから,昔のように,決死の覚悟で星を見に行く必要がなくなりました。
 天気も,行ってみなければわからない,から,予報の精度がよくなって,雲が出るかどうかはほぼ予測できるようになりました。

 次に,これまでに買い揃えた機材で,自分なりに星と付き合う方法を考えました。
 自分の持っていたフィルム用のカメラレンズは,デジタルカメラでは収差が大きすぎることもわかりました。星が収差で丸く写らないのです。そこで,やむを得ず,私は,いくつかのレンズを売って,そのお金で,デジタルカメラ用のレンズを1本買いました。
 フィルムカメラでは,写真を写しても,後で現像しないと実際に写っているのかわからなかったのですが,その場でそれを確かめることができることに加えて,コンピュータによる画像解析技術が進歩して,自宅に帰ってからもいろいろな楽しさがあることもわかりました。
 写真を写すにも,星の運動に合わせて10分も露出しなくても,デジタルなら30秒も露出すればいいので,追尾も簡易ですむこともわかりました。
 星を見た帰路,夜明けの美しさを眺めながらドライブすることもまた,楽しいものだと思いました。
 こうしたことが,昨年,アイソン彗星が私に残してくれた贈り物だったのです。アイソン死して私に生涯の楽しみをもたらしました。

☆ミミミ
今日の3枚の彗星の写真は,上から,パンスターズ彗星,アイソン彗星,ラブジョイ彗星。昨年2013年の3大彗星そろい踏みでした。

☆ミミミ
深夜,星を見に少し郊外を走っていると,よく遭遇するのは,なんと,鹿なのです。私が走っているのは山の中の未舗装の林道ではなく舗装された片側1車線道路なのですが,それでも,道の端を歩いていたり,山から出てきたりします。立派なツノが生えています。車を見つけると,すっと森の中に隠れて,襲ってくることはないのですが,なにか怖いです。
他にも,ウサギとかタヌキとか,いろいろいます。星を見ていて,隣にクマがいたらどうしようかと,心配しています。冬は冬眠しているから大丈夫だとは思いますけれど…。

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 1870年に設立され,1876年に開館したボストン美術館は世界有数の規模を誇る。
 以前からある建物に2010年に増設された近代的な建物がつながっていて,美術館の内部は古代,ヨーロッパ,アジア・オセアニア・アフリカ,アメリカ,現代,版画・素描・写真,染織・衣装,楽器の6つのセクションからなっている。また,美術館の外には,岡倉天心の名をとった天心園という日本庭園がある。

 まず,入口を入ると左手の新しくできた建物の1階に広いカフェテリアがあって,その角にエレベータがあり,地下1階に降りる。そこでは,特別展「サムライ」をやっていた。
 大きく赤い字で「SAMURAI!」と書かれた入口を入ると,武具やら兜がたくさん展示してあった。
 いままさに動き出さんとする武士やら馬やらのモニュメント,絶対に日本ではこういう展示方法はしない,と思われるような,展示の方法であった。
 私には取り立てて珍しいものでもないが,来ていた人たちは非常に興味深そうに見ていた。また,ミュージアムショップにも,いろいろな日本にちなんだ品物が売られていた。こういうところで売られている日本にちなんだものはいいかげんなまがいものが多かったりするので興味深く見てみたけれど,それらはちゃんとしたもので,この美術館のまじめさがよくわかった。
 アメリカでは日本はメジャーリーガー以外には非常に影が薄いので,久しぶりに日本のものに出会った気がした。

 私の勉強不足で,ここボストン美術館には,日本の芸術が数多く保管されているということは聞いていたが,それがどこに展示されているのか知らなかった。32年前に来た時も同じで,それが原因で,私は完全に見逃した。
 今回も,日本の芸術が展示されているセクションを探したが,なかなか見つからなかった。やっと探し出したのは,アジア・オセアニア・アフリカセクションの中でも2階の奥まったところであった。
 やっと日本のコーナーを見つけた。思ったほど広くなく,むしろ,中国のコーナーのほうが広かった。
 フェノロサなどが明治維新でタダ同然で日本の骨董屋で眠っていたものを発掘してアメリカに送ったものだということだが,こうした芸術の海外流出は,日本人の恥ずべき出来事なのだろう。でも,このときフェノロサがそのよさを知らずにいたら,これらの芸術品は日の目を見ないで破棄されてしまっていたに違いない。
 ただし,ほとんどのものは公開されていなかったのが残念であった。

 アーネスト・フランシスコ・フェノロサは,1846年にマサチューセッツ州セーラム(魔女博物館のあったところ)に生まれ,1908年に死んだ東洋美術史家である。ハーバード大学を卒業後,就職先を求めて日本にやってきた。東京大学の教授,つまり,お雇い外国人として,月収は当時のお金で300円,今の金額で1千万円ほどであったという。
 自分が東洋美術に造詣があることをアメリカ社会で認めてもらうために,日本美術を勉強し,それらを購入したのだという。その功績で,彼は,1890年の帰国後,ボストン美術館の東洋部長となったのだか,女性問題で失脚,晩年は不遇であった。
 なお,墓は,大津市の園城寺(三井寺)塔頭の法明院にある。

 この時まで気づかなかったが,考えてみれば、名古屋にボストン美術館があるではないか。
 一度は行って見ないといけないなあ,と反省した。灯台もと暗しであった。
 ということで,帰国後に行ってみた。
 入場料がこの本場のボストン美術館の約2分の1もするわりに,規模はもっともっともっともっともっと小さかったし,「館内は静かに」といたるところに表示してあるにもかかわらず,行った日も大きな声で品のない会話をし続けていた若者たちがいて,館内の雰囲気は台なしであった。
 おそらく興味もないのに会社か何かで無料の入場券でももらって時間つぶしをしていたのであろう。
 東京の美術展はやたらと混雑し,絵を見るというよりも人の頭を見るようなものであるし,地方都市には,それなりに立派な美術館があったりするが,非常に規模が小さい。文化を軽視する日本には,本当にこうした立派な施設がない。

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 食事をとったあとは,ボストン美術館へいくことにした。
 これも32年前のトラウマになるのだが,ボストン美術館を満足に見ていないことがずっと気になっていた。
 手元に残るアルバムには,ボストン美術館を訪れたときの写真もパンフットも残っているのに,ほとんど見た記憶がない。これも不思議なことである。しかも,すでに書いたことであるが,頭の中に,ボストン美術館のある場所を誤解して記憶しているのだ。
 ボストン美術館はボストンの西にあって,地下鉄グリーンラインに乗って,ミュージーアム・オブ・ファイン・アーツ駅で降りればよい。ところが,私の頭の中には,ボストン美術館はボストンの東側にあって,古びた地下鉄に乗って,どうしてなのか,怖い思いをして行ったような,そんな思い出につながっているのだった。しかも,この美術館は,日本美術がたくさんあることで有名だということであったが,それを見た記憶がない。
 ということで,今回は,時間をたっぷりとって,美術館を見ることにしたわけだった。

 ボイルストン駅からグリーンラインに乗った。乗りなれたグリーンラインの西方向行きは,昨日降りたケンモア駅からは3つの路線に分かれて,一番北側がボストン大学,真ん中がクリーブランドサークル,そして,南がリバーサイド行きになる。
 美術館はリバーサイド行きに乗る必要があるのだが,来たのはボストン大学行であった。時間がたっぷりあったことと,32年間に宿泊したホテルの方向がボストン大学の方であったことから,好奇心が手伝って,一度それに乗ってみることにした。
 地下鉄は,ケンモア駅を過ぎたあとは地上に出て,市電のようになった。
 32年前に泊まったホテルはチャールズリバーの川畔にあったのだが,この地下鉄は,それほど川沿いを走るものではなく,道路の北側にあるボストン大学のキャンパスを見ながら,コモンウェルスアベニューを走って行った。このまま乗っていても仕方がないので,ボストン大学を過ぎたあたりで降りて,引き返すことにした。
 このあたりは,東京の本郷やら京都の百万遍のような,学生街の風景であった。

 そういえば,ボストン大学といえば,ボストンバッグ発祥の地である。
 ボストンバッグは,ボストン大学が学生のために指定した大きなカバンがその由来である。ボストン大学では,マーチン・ルーサー・キング牧師,南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領もこの大学で学んだということだ。

 降りてはみたけれど,雨が降っていて,のんびりとこのあたりを散策するような気持にもなれなかったので,再び逆方向から来たグリーンラインに乗って,ケンモア駅で乗り換えて,ミュージーアム・オブ・ファイン・アーツ駅で降りて,美術館にむかった。
 こちらの路線も地上を走っていたが,美術館前に駅があるのではなく,美術館を通り過ぎた1ブロック先に駅があった。車窓から美術館が見えているのに,なかなか駅に到着しないのにはがっかりした。美術館前だというのに美術館をはるかすぎてやっと駅があって,そこから降りてから結構歩いて戻らなければならなかった。
 本当に広い国だ。
 
 駅で降りた頃には,傘がなくては歩けないほどの雨が降り出していた。今晩の野球には絶望的な天気になってきた。それでも,私は,これまでの経験で楽観的であった。
 美術館の入口で,コンピュータのディスプレイを操作して,クレジットカードを挿入して,チケットを購入した。
 美術館では,特別展「サムライ」をやっていた。

◇◇◇
新年を迎えたアメリカの東海岸は,寒波の到来で,交通がマヒして,ニューヨークのケネディ国際空港が一時閉鎖されたり,学校が休校になったりと,大変なことになっているそうです。
私がこの旅で行ったケープコッド岬からCNNが中継をしていましたが,前も見えないほどの吹雪,雪はサラサラでまるで粉のようでした。
摂氏マイナス20度とかいう気温に想像がつきませんが,それでも,NFLのグリーンベイ・パッカーズは試合をしていて,チェアリーダーはビキニを着て応援をしています。


 ボストン・レッドソックスの上原投手がテレビに出ていたわ。昨年は上原投手には最高の1年だったわね。何回見ても感動するわ。
 「過去でなくてあしたのことを考える」って言っていたけど,素敵な言葉ね。
 アメリカ人はいつも「NEW DAY」っていっているそうよ。新しい日が来たら,昨日までのことは忘れて,また,これからに期待するの。
 わたしも,過ぎ去った過去は忘れて,はじまったばかりの2014年に夢を持つことにするわ。



 新聞に2013年は「上げ相場」とあったけど,本当は,リーマンショック以前の水準に戻っただけじゃないの。
 都合のいい期間の過去のデータだけを表にするって,よくあるわよね。騙されちゃいけないわ。
 歴史に学ぶっていうけど,人間の歴史って,学べるほど長いものじゃないから,過去に学ぶって,本当はむずかしいのね。ひとついえるのは,人間の歴史って,争いの歴史っていうことじゃないかしら。それは,今も少しも変わっていないのね。自分の生きてるほんの数十年に何が起こるかっていうのは,本当に運だけだから,いたたまれないわ。自然の脅威だけでも大変なのだから,人間同士で争うような余裕はないのにね。だから,おじいちゃんは,いつも,人に救いはないといっているわ。



 あたらしい年。時差があるんで,ニューヨークの年越しは日本の午後2時。私は,テレビのCNNの中継を見ていたわ。タイムズスクエアのカウントダウンをやっていたんだけど,すごく感動したわ。寒そうだったけど…。アメリカじゃあ,カウントダウンが終わって新しい年になると花火が上がって,それから,「ホタルの光」が歌われるのね。新しい年になってからなのよ。で,そのあと,「ニューヨーク・ニューヨーク」がはじまったのね。やっぱり,この街にはこの歌がよく似合うし,何をやっても,アメリカはかっこいいねえ。明るいしねえ。
 日本の年越しもそれなりに素敵だけど,みんなが見ているテレビ番組も学芸会レベルだしね。私が大みそかのテレビ番組で一番感動したのは,「クラシック・ハイライト2013」でやっていた小澤征爾さんが指揮するサイトウ・キネン・オーケストラがジャズ・ピアニストの大西順子さんと共演した「ラプソディ・イン・ブルー」だったわ。やっぱり,本物は違うわね。生で聞きたかったなあ。



 「よろしかったですか」っていう言葉は間違いだって。でも,みんな使ってるし,本当はどういうのだろう。「よろしゅうございますか」なんていうのかしら。調べてみたら,「よろしいでしょうか」っていえばいいらしいんだけど。「よろしいですか」っていうのも間違いだってう人がいるそうだけど,それは別にかまわないんじゃないかしら。
 実際はその場の状況で「いかがでございましょう?」とか「ご承諾頂けますか?」っていうらしいけど,本当に日本語は難しいわね。私は,細かいことより実際に心がこもっているかだと思うのだけど,こういうことにこだわる人が身近にいるとたいへんよね。おじいちゃんは,お役所の起案には「よろしいか」って書くよっていっていたけど,その言葉でよろしいんでしょうか?



 1月4日早朝4時は,しぶんぎ座流星群の極大期。みなんさんお祈りしましたか? でも,流れ星が消えないうちに3回願い事をするなんて無理よね。
 しぶんぎ座ってどこにあるのかなあ,って調べたけれど,本当はしぶんぎ座ってどこにもないのよね。昔あった星座なんですって。はちぶんぎ座とかろくぶんぎ座っていうのは今でもあるけどね。
 流れ星は,空が暗くて月の明かりがないときじゃないとなかなか見られないの。今年の流星群は,5月6日のみずがめ座流星群と10月22日のオリオン座流星群が条件がいいらしいから,期待しましょうね。流れ星を見るには望遠鏡もいらないから,たまには,空の暗いところでのんびりと星でも見ると,いやなことも忘れるわよ。

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 念願の「ボストン・ティー・パーティ」を見て,32年前のトラウマを克服したら,お腹がへってきた。
 そうそう,ボストンでは,クラムチャウダーを食べなければならない。クラムチャウダーといえば,「リーガル・シーフード」,ということで,宿泊しているホテルの近くに,そのレストランがあることを思い出して,そこへ行くことにした。
 ボストン茶会事件の船と博物館へは,行くときは苦労したが,帰りは,容易く,地下鉄レッドラインのサウスステーションが少し歩いたところにあったので,それに乗ってわずか1駅,ダウンタウンステーションで降りたところがチャイナタウンで,レストラン「リーガル・シーフード」はそこからすぐのところであった。
 残念ながら天気予報通り,このころから,ついに,少しずつ雨が降ってきた。

 ボストンのチャイナタウンは,それほど大きなものではないが,食事時はそれなりにおいしいお店があるようで,さまざまなブログに紹介されている。また,少し治安の悪いところだとも書かれているので,旅行者は夜間は近づかない方が無難であろう。
 私の行く,「リーガル・シーフード」は,チャイナタウンを過ぎたあたりのビルの1階にあった。
 店に入ると,待っている人が少しいたので,入口のカウンタで聞いてみると,少し待てば案内できるというので,名前を言って待つことにした。
 5分ぐらいして名前を呼ばれ,席に案内された。

 こういうレストランでは,変に知ったかぶりをしない方がいいので,席に着くなり,旅行で日本から来たのだが,このお店がクラムチャウダーがおいしいと聞いたので来た,でも,何を頼んだらいいのかわからない,とスタッフに話した。
 女性のスタッフは,クラムチャウダーだけ頼むのですか? みたいなことをいうので,では,お勧めの料理は? などと,難しいことをきいて,あなたなら何を食べますか? とさらにわけのわからないことを付け加えたら,チキンと野菜のコンボみたいなものを薦めたので,別に何でもよかったから,クラムチャウダーとその薦められた料理とコーラを注文した。

 料理が来て,食べていると,その女性のスタッフが心配そうに,気に入ったか? と聞くので,実際おいしかったので,満足そうにおいしいと言ったら,うれしそうに笑った。
 これはいいお土産(話)になると言ったら,うまく伝わらなかったらしく,何かお土産? それならこれをあげるといって,メニューの書かれた紙をくれた。
 やはり,「愛しのボストン」であった。

 チェックの時,料金の5パーセント,10パーセント,15パーセント,20パーセントの数字が書かれた請求書をくれた。それがチップを計算するときに便利なように書かれているということはわかった。しかし,いままで,そんなものをレストランでもらったことはない。
 私が日本からの旅行者なのでチップが必要だということを知らないといけないからそういうことが書かれていたわけではないが(日本人団体旅行者ご用達のロサンゼルスあたりのレストランであると日本語で「チップが必要です」と書かれてあったりする),どうしてこのお店ではこういうものをくれるのかは定かでなかった。その後,ニューヨークのレストランでも同じようにパーセントの一覧が書かれていたので,都会ではそんなものが書いてあるんだと,と思っている。

 思えば,若いころ,アメリカで,普通のアメリカ人の行くレストランで食事をする,という,今考えれば滑稽だけれども,そんなちょっとしたことさえも夢だった。日本の団体旅行客が行くようなレストランとか,大きなホテルであると,日本人相手の商売なので,支払いも日本風だったりした。だから,実際に,普通のアメリカのレストランではどういうマナーなのかなあ,と思ったこともあった。
 昔のガイドブックには,チップは20パーセントくらいをテーブルに置いておく,と書いてあったが,今は,テーブルでチェックを要求して,スタッフがレシートを持ってきたときにクレジットカードを渡し,クレジットカードで精算したときに改めてもってきたレシートに自分でチップの金額を記入して,合計金額を書き入れ,それをテーブルに置いて店を出る,という様にするので,チップ用の小銭がいるわけではない。
 チップがいくらくらいなのかも,知人のアメリカ人に聞いたら,10パーセントくらいだといわれたことがある。日本のガイドブックには20パーセントと書かれていたというと,そんなに払うのか? とビックリされた。
 そのアメリカ人がケチだったのか,それが相場なのかはわからない。いずれにしても,私は,一元さんだし,まあ,いつも適当なので,ひょっとしたら,とんでもなく失礼なことをしているかもしれない。
 ともかく,チップの必要なレストランに入ることもそれほどないし,カバンを部屋にまで運んでくれるようなホテルにも泊まらないし,タクシーにも乗らないので,これだけ旅行をしていても,本当のところ,チップについてはよく知らない。

 食事をしながら,窓から空模様を見ていたが,雨が降っているのか降っていないのかよくわからない感じであった。まあ,どおせ雨は止むだろう,という根拠のない確信もあった。なにせ,私は,自他ともに認める晴れ男である。レストランを出たとき,すでに,雨は本降りになっていた。一番降ってほしくない日の雨。こんなことは生まれてはじめてであった。
 私とボストンに雨は似合わない。ここは長崎ではない。

日食3日食2s

 私は,何かひとつのことを一筋に打ち込むことをしないので,それ以来,ずっと,雑誌を読むだけの典型的な落ちこぼれでした。私の辞書には,努力という言葉が欠落し,お財布にはお金が不足しているのですから。それに,星の見えるところに住んでいるわけでもないので,たまに,明るい彗星が現れたときだけ元気になって,夜中に起きだして,遠くへ出かけて写真を写すといった,そんなことをしていました。
 それでも,長く生きていると,それなりにいろんな経験ができるもので,これまで見てきた彗星は数知れず,真っ暗な山の中でペルセウス座流星群を一晩中見たこともあったし,口径15センチの双眼鏡を東の空に向けて,登っていくる星雲や星団をあきるほど眺めたこともありました。
 遠く,ハンガリーまで皆既日食を見に行って,ちゃんと晴れて感動したこともありました。幸運にも,ヨーロッパ旅行に出かけた飛行機の中からは北極上空のオーロラも見ました。オーストラリアでは南十字星も見ました。
 「3大天文病」というのがあって,それは,オーロラ・日食・南半球の星空なのですが,なんとなく,それも完治してしまったわけわけです。

 実は,星を見るという趣味は,思う以上にたいへんなのです。こんなものを趣味にしてはいけません。
 まず,星を見たり写したりする機材を手に入れるには,結構なお金が要ります。どんな立派な機材を手に入れても絶対にもっと立派なものが欲しくなります。最終的には,人生をかけて,別荘まで買ってしまうことになりかねません。天文雑誌には,多くの観測機材の広告が載っています。若いころは,そうしたものをひとつでも手に入れると一端の天文学者になったような気がしたものです。それくらい,特に,スマホもパソコンもなかったころの男の子には,物質欲をそそられたものなのでしょう。
 歳をとっていろいろと世の中の仕組みがそれなりにわかった今にして考えてみると,こういう趣味を対象としてどのくらい商売になるのかな,と考えてしまいます。それぼど市場は小さいのです。そして,星を見ることができるのは天気次第,1年でほんのわずかしかないのです。そこが夜釣りと違うのです。さらに,空の明るい日本で星を見ようとすればかなり遠出をしなくてはいけません。だから,こんなバカげた趣味はないのです。しかも,そこまでする目的がよくわからなかったのです。

 先ほど書いたように,私はいい加減なので,この性格が幸いし,望遠鏡を次から次へと買い替えたりすることに散在したこともなく,昔買ったささやかな望遠鏡やら双眼鏡やらカメラやらを使い続けて,大したこともしないで満足しています。だから,ベランダで小さな望遠鏡で月を見てはきれいだなあ,と思い,たまに現れるほうき星を双眼鏡で見てはぞくぞくしているのですが,それで十分なわけです。
 それよりも,私が,今,懐かしく思い出すいろんなことは,星を見に出かけた帰りの夜明けの美しさであり,アメリカ・ノースダコタ州の大平原で見た星たちであり,肉眼でみた全天に延びた百武彗星の尾であり,それに,どういうわけかチューリップの「虹とスニーカの頃」なのです。

◇◇◇
「虹とスニーカの頃」…大学生を卒業したころ,星を見ながら,若者は青春を謳歌しているのに,自分はどうしてこんなばかげた趣味を持ってしまったのかと思っていた夏のある日,ラジオから聞こえてきた曲でした。
  ・・・・・・
 若かった何もかもが
 あのスニーカーは もう捨てたかい
  ・・・・・・
と歌われます。

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Be a peaceful world! 2014
◇◇◇

 2014年になりました。手元にある「天文年鑑」は創刊66年だそうです。家には1968年から47冊揃っています。誠文堂新光社には,1965年7月に創刊された「月刊天文ガイド」という雑誌があって,私は,たしか1968年3月から20年くらいずっと購読していました。
 ということで,新しい年に,昔話からはじめたいと思います。
  ・・

 私は,小学校の5年生の頃からの天文ファンです。実際は,天文ファンといっても,都会育ちで星も見えず,買った望遠鏡は星を見る代わりに組み立てては壊し,いつのまにか押入れの中。単に雑誌を読むだけのいい加減な趣味に終わったのですが,きっと,同年代にはこういう人もたくさんいたのではないでしょうか。
 パソコンもインターネットもなかった時代,しかも,国中が貧しくて,でも,1冊150円の雑誌の中には夢だけは一杯ありました。「月刊天文ガイド」という雑誌が創刊されたちょうどその頃に,池谷・関彗星が現れました。昨年のアイソン彗星と同じく太陽に大接近する「クロイツ群」と呼ばれる彗星のひとつでしたが,こちらは消滅することもなく,長い尾を引いて,夜空に美しく見えたそうです。というのも,私は,残念ながら生まれるのが2年遅すぎました。池谷・関彗星は見ていないのです。

 そんなこともあった時代,お金のない,ただ夢だけがたくさんあった当時の多くの少年たちはそういったことに感化されて育ったのでした。そして,出来もしないのに,コメットハンターの池谷薫さんにあこがれて彗星探しの真似事をするか,天体写真家の藤井旭さんを目指して天体写真を写すかが,夢でした。
 今にして思えば,当然,池谷薫さんや藤井旭さんのように,自分の力でそういったことを開拓した天才とは違って,すべて,人まねなので。当然,うまくいくわけもなく,夢は夢で終わっていくのでした。
 それでも,中には,お金をどんどんとつぎ込んで,巨大な望遠鏡を手にいれた人,コンピュータを活用しようとメカに凝った人,仲間と私設天文台を建てた人などもいて,そういった人をうらやましいと思いつつもそういうことにも踏み切れないまま,ほとんどの人の青春は終わりを告げるのでした。そして,社会人になって,趣味に熱中する時間もなくなりました。
 恵まれた,あるいは努力した少数の人たちだけがこれを仕事にし,あるいはそれを人生の豊かな趣味にしました。そして,その中には,念願の彗星を見つけた人や,新星を見つけることが生きがいになった人もありました。

☆ミミミ
1月4日の早朝,しぶんぎ座流星群が見られます。月が沈み,最良の条件です。
実は,「しぶんぎ座」という星座はありません。1928年まであった星座の名前が今も残っています。うしかい座とりゅう座の境界付近を放射点とします。4で割って2余る年は盛んな出現が見られるということなので,期待大です。近くにはラブジョイ彗星もみられます。
私は,12月30日の早朝に,ラブジョイ彗星や,りゅう座のとなりのヘルクレス座M13という球状星団の写真を写したのですが,すでに,たくさんの流星が目撃できて,とてもきれいでした。
また,ラブジョイ彗星は,まだ6等星くらいで,きれいに見ることができます。
ところで,先日行った九州にはたくさんの私設天文台がありましたが,私が思っていたほど九州は星を見るには適していないことを知って,がっかりしました。中国のPM2.5の影響がかなりあるということ。この時期でそうなのですから,きっと春先は黄砂で駄目でしょうね。アメリカなら,少し郊外に出かければ,満天星だらけの大地が広がっています。星を見るにも,日本はどうしようもないところです。

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