しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

February 2014

DSCN3836DSCN3834DSCN3833DSCN3516

 「レッド・カーペット・イン・ブルックリン」に到着した。ホテルの敷地は塀に囲まれていて,塀の中の建物の隣の駐車スペースに車を停めた。ゲートがあって,この時はゲートは開いていたが,夜になるとこのゲートが閉められるかどうかはわからなかった。
 ホテルからは,北に,ウィッコフ・アベニュー,西にホージー・ストリートという片側1車線の日本の道路のような狭い道があって,道路の北にはレストランやら,商店やらがあった。また,道路の西には,ガソリンスタンドがあった。
 写真でおわかりのように,町は閑散としていた。近ごろは,インターネットやグーグルマップで,家にいても世界中の町の風景は見ることができる。しかし,その町のにおいとか雰囲気は絶対にわからない。ただし,実際にそこへ行ったことがある人には,記憶が明確によみがえって,とても懐かしい。
 このホテルのあったところも,帰ってから見直してみると,また,行ってみたいなあ,と懐かしくなってくる。

 ホテルの玄関を入ると,右手にフロント,中央に階段,左手にエレベータがあった。また,フロントの手前には簡単なキッチンがあって,コーヒーを飲むことができた。
 フロントは,全面ガラス張りになっていて,スタッフはなまった英語を話した。
 フロントがガラス張りというのが,これまでにない,「やばい」雰囲気であった。階段のところには,おばさんがたむろっていた。おそらく従業員であるらしい。ともかく,このホテルに私は連泊するのである。 
 チェックインをして,部屋に行った。古びたエレベータは,動くのか途中で壊れるのか,と心配になるような代物であった。
 このフロントは半2階のような場所で,階段を使うと,0.5階分階段で上ると,2階に行くことができた。

 くすんだ部屋に入ると,クーラーが音を立てていた。
 アメリカのホテルのクーラーというのは,そうして,どこも,こうした日本では絶対手に入らないような旧式のものなのであろうか。うなるような轟音を立てる。昔のテレビのようなダイヤルがあって,強風やら弱風を切り替える。しかも,たいていの場合,部屋に入ったときに,クーラーのスイッチが入っていて,凍えるほど部屋は冷えている。
 どうやら,この国には,節電とか節約とかいう概念がないらしい。ゴミも出し放題である。しかし,この国の広さが,そんな細かいことをどうでもよくしてしまう。 奥さんが5円,10円と節約して家計をやりくりしていても,旦那さんが毎晩5,000円,10,000円と飲み歩いているようなものである。
 部屋には大きなテレビがあった。液晶ではなく,ブラウン管のものであった。
 今こうして写真で見ると,けっこう立派なホテルに見えるかもしれない。きっと,できたときにはそれなりのホテルであったには違いない。

 とにかく,荷物を置いて,小さなカバンにカメラやら必要なものを詰め直して,さっそくレンタカーを返すために部屋を出た。この荷物,部屋に置いておいても大丈夫かいな? と不安になったが,特に貴重品が入っているわけでもないから大丈夫であろう。ただし,ヤンキースタジアムのセキュリティが厳しいと聞いていたので,いつもより小さなカバンに詰め込んだ。
 これから,また,ジョン・F・ケネディ国際空港へ行って,そこにある営業所にレンタカーを返して,今度は地下鉄でヤンキースタジアムへ急がなくてはならなかった。
 午前11時すぎのことであった。野球の開始にはあと2時間であった。
 そして,次にこのホテルに戻ってくるのは,深夜になるはずであった。
 夏の暑い日のこと,私は,ボストンのフェン・ウェイ・パークで買ったレッドソックス特製の大きなカップを持っていった。これが失敗であった。このあと,ヤンキースタジアムに入るとき,レッドソックのカップが邪魔になって,結局捨てることになってしまったのがいまでも悔やまれる。

◇◇◇
Thank you 20,000+ visitors.

DSCN3505DSCN3509DSCN3511DSCN3512

 インターステイツ678を北から南に,つまり,クイーンズ区のラガーディア国際空港から,ブルックリン区のジョン・F・ケネディ国際空港へ走っていく途中,ちょうど中間あたりにジャンクションがあって,ここでインターステイツ678を降りて,ジャッキー・ロビンソン・パークウェイという名前の道なのか,ユニオン・ターンパイクなのかは覚えていないけれど,とにかくそこを5キロくらい西へ進んだ。
 道路の両側は,公園があったり,墓地があったり,民家があったりと,およそ,アメリカののどかなな町とは全く違う,東京の下町やら大阪のミナミのようなところであった。
 私には,そこが,治安のよいところなのか,怪しげなんところなのかさえ,よくわからなかった。
 私は車だったから問題ないのだが,ここを歩け,といわれたら,おそらく躊躇してしまったであろうと思われた。土地勘がないので,この場所の状況がよくわからなかった。
 およそ,ほとんどの旅行者が行くニューヨークとは,マンハッタンのことであろう。私には,ブルックリンってどういうことろだろうかという興味もあって,しかも,宿泊代が安かったこともあってこの地のホテルを予約したのだが,そこは,ほんとうに日本の下町のようなところであった。
 きょう宿泊するホテルは,そうしたブルックリン区のど真ん中にある「レッド・カーペット・イン・ブルックリン」であった。

 私は,食べる場所と泊まる場所にはこだわりがない。ホテルは寝るだけなので,安全であるのならどこでもかまわない。
 ボストンもそうであったが,ニューヨークも,ホテルの宿泊代が高いので,どこに泊まるか,事前に探すのに苦労した。それでも,ボストンに比べれば,ニューヨークの方が,安価なホテルがブッキングコムにもエクスぺディアにもリストアップされていた。ただし,その場所が問題であった。
 安価なホテルは,ハーレムか,ブルックリンにあった。マンハッタンの中心街にもあったが,バス・トイレ共有とか,なんらかの特殊な条件があった。それに,まず,駐車場がなかった。
 今回は,ニューヨークではレンタカーを返却するので,特に駐車場の問題はなかったが,とにかく,公共交通の便が悪い場所は,野球やらミュージカルで帰りが遅くなる旅行者には致命的であった。
 そうした条件で探した結果,ブッキングコムで見つけたのがこのホテルであった。
 決め手は,ホテルの隣が地下鉄の駅,という立地であった。
 ところが,これが,のちに,とんでもない事件を起こす… のである。

 ともかく,狭い道で,しかも生まれてはじめて通る道。注意しながら運転して「レッド・カーペット・イン・ブルックリン」に到着した。ここのホテルは,なんと,となりの空き地に駐車場が完備されていた。ただし,ホテルの周りは何と表現していいか,殺伐した怪しげなところであった。日本に帰ってグーグルマップなどで改めて調べているから,今はよくわかるが,車で走っているときは,いったいそこがどこなのか,さっぱりわからなかった。
 こうした場所に宿泊するときは,事前に細かい地図でしっかりと調べておくことをお薦めしたい。しかし,それがけっこう難しいのである。

DSCN0127DSCN0130DSCN0136

 菅原道真は,学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮し,異例の出世をしました。
 899年(昌泰2年)には右大臣の要職に任命されて,左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括しました。ところが,醍醐天皇のとき,左大臣藤原時平の讒言と謀略にあって,失脚させられ,901年(昌泰4年)大宰府に左遷されました。
 大鏡にはこのときの有様が次のように書かれています。
  ・・・・・・
 左大臣時平,このおとどは,基経のおとどの太郎なり。
 菅原のおとどは右大臣の位にておはします。
 左大臣は,御年もわかく,才もことのほかにおとり給へるにより,右大臣の御おぼえことのほかにおはしましたるに,左大臣やすからずおぼしたるほどに,さるべきにやおはしけん,右大臣の御ためによからぬ事いできて,昌泰四年正月廾五日,太宰権帥になしたてまつりて流され給ふ。
  ・・・・・・
 そして,そのわずか2年後,菅原道真は波乱の生涯を閉じました。菅原道真の没後,皇太子の急逝・宮中への落雷・天候不順などが続き,道真の祟りによるものと怖れられて,朝廷より,最終的に最高位の正一位太政大臣を追贈されて,しかも火雷天神を号として祀られることになります。
  ・・・・・・
 こちふかば
 にほひおこせよ梅の花
 あるじなしとて
 春を忘るな
  ・・・・・・
 これは,九州の大宰府に大宰権帥として左遷されたときに詠んだ和歌とされています。

 「飛梅」は,このとき,一夜にして京都から道真のもとに飛んできた梅とされ,大宰府天満宮では,本殿の向かって右前に,今でも,早春に他の梅に先がけていちばん開花する白梅です。
 この飛梅を,若き日のさだまさしは歌にしました。
  ・・・・・・
 心字池にかかる三つの赤い橋は
 ひとつ目が過去で ふたつ目が現在
  ・・・・・・
と歌いだします
 そして,三つ目の橋でふれあったふたりのその後は? あの日と同じ様に,東風が吹いたとき,君はこの日のことを想い出してくれるのでしょうか。
 天神様は学問の神様ですが,決して縁結びの神様ではないのです。北野の天神様の梅苑に梅の花が咲き誇ったころ,少しだけ暖かくなった春の日差しの中をのんびりと散策すると,心から春の訪れを実感することができます。そうして,梅の季節が過ぎると,平野神社の桜が満開になるのもそう遠いことでありません。
 私は,そんなころの京都が大好きです。

DSCN0118DSCN0119DSCN0120DSCN0121

 かつて平安京の中心は,現在の千本通りだということをはじめて知ったとき,私はびっくりしました。
 今の御所が平安京の大内裏だと思っている人もいるかもしれませんが,違います。平安京の範囲は現在の京都市街よりずっと小さくて,一番北の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通,一番南の九条大路は現在のJR京都駅の南にある東寺の南側を通る九条通,東は現在の寺町通にあたります。そして西はJR嵯峨野線の花園駅と阪急京都線の西京極駅を南北に結んだ線になります。つまり,今の京都市は,平安京のころよりずっと東に中心がありました。
 また,平安京の道幅は今よりもずっと広くて,小路でも約12メートル,大路では24メートル以上もありました。大内裏から南に走る朱雀大路に至っては約84メートルもの幅があって,今の名古屋の100メートル道路も顔負けの広さでした。
 その当時朱雀大路だったのは現在の千本通りです。千本通りを北に行って,今出川通りと交わるところを西に曲がると,上七軒という京情緒あふれる花街があって,そこを過ぎると北野天満宮が見えてきます。

 北野天満宮は,学問の神といわれる菅原道真をまつる神社の総本社です。
 平安時代中頃の天暦元年(947年)に,京都に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種,北野朝日寺の僧最珍らが,当所に神殿を建てたのがはじまりとされます。その後,藤原氏により大規模な社殿の造営があり,987年(永延元年)に一條天皇の勅使が派遣されて,国家の平安が祈念されました。このときから「北野天満宮天神」の神号が認められました。
 ちょうど今は受験のシーズンで,合格祈願の学生さんで,境内はにぎわっています。参道西側の一帯には梅苑があって,約2,000本の梅が2月下旬から咲き誇り,それはそれは美しいものです。

 私は,この場所へ行くと,ずっと昔の高校生の頃を思い出します。
  ・・・・・・
 高校の担任は国語の教師でした。
 毎週月曜日に「徒然草」からいくつかの段を抜粋してまとめた参考書から,古語の小テストがあったので,週末は地獄の苦しみでした。こういうのは,ひとつ間違うと不登校になります。でも,当時の私は,そのおかげで随分と「徒然草」は読んだ気になっていたのですが,今にして思うとそれは大いなる誤解でした。
 実際は,単に,古文を読んで,懸命にその訳を暗記しただけだったのです。しかし,それで「徒然草」がわかった気になってしまったのだから,むしろ,悪影響でした。それに,せっかくそんな勉強をしていたのであれば,「徒然草」で書きたかった吉田兼好の生き方や考え方を深く知るべきだったし,また,それを動機にして「徒然草」のすべての段を読むべきだったのです。意味のない時間を費やしたものです。
 なにせ,吉田神社と吉田兼好さんにつながりがある,なんていう初歩的なことすら最近まで知らなかったのですからどうしようもありません。
  ・・・・・・

 それはそうと,「徒然草」の小テストがやっと終わると,その次に読まされたのが,「大鏡」でした。また,同じ苦しみの週末が再現されるかと憂鬱な気持ちで読みはじめたのですが,「大鏡」は当時大好きだった日本史の物語でした。古典でこんな歴史の内容を勉強できるということが逆に新鮮でした。
 今の私は,「徒然草」を読んでいてもすごくおもしろいのですが,高校生のころは「大鏡」のほうがずっと興味がありました。昔のことですから,参考書はハードカバーでした。当時の参考書はハードカバーであってもたいした製本でなかったので,購入したときから本の装丁が壊れていました。当時は,そんな本がたくさんありました。今思い出に残っているのはそんなたわいもないことばかりです。
  ・・・・・・
 「大鏡」は,平安時代の後期に成立した紀伝体の歴史物語で,849年(嘉祥2年)の文徳天皇即位から後一条天皇の1025年(万寿2年)に至る176年間の宮廷の歴史を,藤原北家,ことに道長の栄華を軸にして,なんと190歳になるという大宅世継と180歳の夏山繁樹という長命なふたりの老人が雲林院の菩提講で語り合い,それを若侍が批評するという対話形式で書かれているお話す。
  ・・・・・・
 解説を読んだだけで,私はうきうきしました。その中で印象に残っているのは,なんといっても,菅原道真に関するところでした。

DSCN3483DSCN3487DSCN3492DSCN3494DSCN3499DSCN3502

 そして,GPSの指示に従って,再び,インターステイツ287,インターステイツ95と道を変えながら走っていって,しだいに周りに景色は,ニューヨーク市のものになった。
 このように書くと,どんどんと違うインターステイツを走っているように感じるかもしれないが,GPSの指示に従って,ジャンクションで別のインターステイツに乗り換えているだけなので,ほとんど1本の高速道路を走っているのと同じである。

 インターステイツ95に入ったとき,左手に鉄道の線路が見えてきた。例えれば,中央高速道を,東京方面に走って行って,八王子から府中に入っていくような感じである。
 どんどんと住宅が増えてきた。もう,ここは,ニューヨークのベッドタウン,通勤圏であった。橋をわたると,ニューヨーク市の北,ブロンクス区に入った。
 帰国して,改めて走った道路を地図で眺めてみると,せっかくこの場所へ行ったのだから,もっと寄り道をしてもよかったように思う。
 ブロンクス動物園とか,おもしろそうな場所が一杯あった。しかし,走っていたときは,1分でもはやく目的地に着いて,ヤンキースの試合に間に合えばいい,としか考えていなかった。

 ニューヨーク市は,北にブロンクス区,東にブルックリン区,その北東にクイーンズ区,その東にロードアイランド区,そして,西にあるのがマンハッタン区の5つの区からなっている。
 ブロンクス区には,ほとんど日本人が住んでいないということである。以前は治安が悪いとか,そういう話を聞いたことがある。
 私は,そのブロンクス区の東の端を走るインターステイツ95を快調に走っていった。周りは緑がおおく,閑静な住宅街であった。インターステイツ95はブロンクス区を北から南に走っていたが,やがて,リトル・ネック湾にさしかかった。
 このリトル・ネック湾はそのままマンハッタン区の東を流れるイースト川になる。インターステイツ95は西向きに方向を変えた。そのまま西に走っていくと,マンハッタン区の北側ハーレムの179丁目を横切ることになる。
 私は,インターステイツ95が西に方向を変えてすぐ,南向きのインターステイツ678に入った。この道は,湾にかかるかなり長い橋「ブロンクス・ホワイトストーン・ブリッジ」を越えて,クイーンズ区に入っていった。
 この巨大な橋から,遠くに,マンハッタンの摩天楼を見ることができた。
 この景色は,何度見ても感動する。この世界最大の大都会をみると,すごい国だという思いがますます強くなる。

 インターステイツ678を走っていくと,突然,目の前に,巨大なボールパークが見えてきた。私は,どこを走っているのか,おおよそのことしか理解できず,GPSの指示に従って走っていたのだが,走っていたところは,どうやらクイーンズ区のラガーディア国際空港の付近であった。
 飛行機でジョン・F・ケネディ国際空港へ到着するとき,そこからマンハッタンに向かうには,北西向きにインターステイツ678を走り,目の前にラガーディア国際空港をみて西に進路を変えることになるが,私は,その反対車線を走っていたことになる。この付近は,ニューヨーク・メッツの本拠地であるシティフィールドと全米オープンテニスの会場であるナショナルテニスコートがある。

  ・・・・・・
 ニューヨークには,アメリカン・リーグのヤンキースとナショナル・リーグのメッツ,ふたつのMLBの球団がある。ヤンキースの本拠地ヤンキースタジアムは,ブロンクス区にある。そして,メッツの本拠地がこのクイーンズ区にある。このふたつのボールパークは,地下鉄を乗り継いで行くことができるために,インターリーグ(アメリカン・リーグとナショナル・リーグの交流戦)があるとき,このふたつのチームの対戦を「サブウェイ・シリーズ」という。 
 シティフィールドは,2012年,ニューヨーク州がオリンピックの会場として陸上競技場の建設を計画していたが,開催都市として落選したために,その代わりに,約6億ドルをかけて,2009年に,老朽化したそれまでの本拠地シェイスタジアムの隣に建設されたものである。1958年までニューヨーク・ドジャースの本拠地だったエベッツ・フィールドを彷彿させる外観が,観戦に訪れる人たちを古き良き時代にダイムスリップさせる。 
 メッツがホームランを打った時に,センター後方で高さ5メートルの巨大なリンゴがせり上がるのは,シェイスタジアムから続く伝統である。
  ・・・・・・
 私は,この旅行で,ヤンキースタジアムとこのシティフィールドの両方で野球が見たかったのだが,私の滞在する間にはメッツの試合がなく,残念ながらあきらめざるを得なかった。

DSCN3451DSCN3455DSCN3457DSCN3465DSCN3474DSCN3479

 「タコニック・ステイツ・パークウェイ」は,写真でおわかりのように,非常に快適な道路であった。
 もう数時間走ればニューヨーク市だという所なのに,美しい山々と木々の緑に囲まれていて,ほとんど車も通らず,大都会が近いとは思われなかった。
 天気もよく,すばらしいドライブであった。しかし,それとともに,いよいよニューヨークだ,という気持ちも高ぶってきた。

 数年前に,デトロイトからナイヤガラの滝を見るためにインターステイツ90を東にエリー湖畔をドライブしたときのことであった。
 雄大なエリー湖を左手に,ほとんど車が通らない道を,美しい景色を眺めながら3時間走った。時折,湖畔に原子力発電所が眺められた。
 やがて,ナイヤガラの滝のふもとのバッファローの町に到着した。そのときの私は,ナイヤガラの滝のことしか頭になかったので,この地で「ニューヨーク」という道路標示を見て,ああそうか,ここはすでにニューヨーク州でここからニューヨーク市へ簡単に行けるんだ! と驚いたことがあった。そして,そのとき,いっそこのままデトロイトへ戻らずニューヨーク市へ行きたいと思ったことだった。
 いつものように,今回も,ずっとそうしたいと思っていたことはいつかは必ず実現するのであった。ニューヨーク市へは何回か行ったが,自分の運転する車でニューヨーク市へ着いたことは,これまでになかった。

 今回の旅行記は,車で走っているときは,あいも変わらない風景が多くて,たいへん申し訳ありません。ただ,車でアメリカを旅行したことがない人にとっては,こういった風景もめずらしいものであろうと思うし,そう,これが,アメリカをドライブするときのありのままの景色なのです。
 このような,ある意味では単調なインターステイツを何時間も走って,やっと別の町に到着して,そこで,新しい出会いを見つけるのです。

 インターステイツは全米に完備されて,どこも,こうした景色が広がっている。建国わずか二百数十年で,これだけの道路が建設されているということが,私には驚きである。
 走っていると,時折,橋の架け替えや道路の建設現場に遭遇することもある。橋の架け替えや舗装をしているときには,インターステイツでは予備の道路が作られていて,日本のように,車線が減ったりすることもないので,そこで渋滞に巻き込まれるということはほとんどない。
 また,道路の建設は,巨大な作業車が一挙に道路を開拓!(建設というよりも森林を切り崩し一挙に土砂を埋め,まさに「開拓」している感じ)し,道路ができると,白線も,巨大な車が自動的に引いていく…。
 まあ,それは,すごいものだ。
 また,一般道で,片側交互通行で工事をしていることもあるが,その際の片側交互通行の距離の長さが,また,すごいものだ。そして場合は,誘導のくるまを先頭にして,通行することになる。
 
 さあ,この旅で,このようにインターステイツを走るのもあとわずかである。都会に近づくにつれて,どんどんと車は増えてきて,やがて,マンハッタンの摩天楼が霧の中に見えてくるでろう…。期待でわくわくしてきた。
 きょうの私の行き先は,ニューヨーク市のマンハッタン区ではなく,それよりも東のブルックリン区であった。これまで,GPSでホテルを検索して,GPSの指示通り走っていたので,あとは,流れのまま走るのみであった。写真にあるように,私の車のフロントガラスに吸盤で接着されたGPSは,延々と単調な道路を表示し,走る方向を紫色で示している。そして,時折,思い出したかのように,あと〇〇マイル先右へ,とか誘導をする。
 このようにして,私の車は,ほとんど車の走っていない「タコニック・ステイツ・パークウェイ」を,ニューヨーク州の東の州境に沿ってどんどんと走っていった。
 やがて,2時間ほど南に走っていくと,インターステイツ84に差しかかった。そして,GPSはこのインターステイツに合流するように表示した。

 表示に従って,インターステイツ84の東向きに進路を変更した。インターステイツ84の東向きは,実際は,南東方向に走っていく。私は,インターステイツ84をニューヨーク州の州境の手前で,数キロメートル走って,今度は,インターステイツ684に進路を変え,南に走っていった。
 もし,インターステイツ84をこのまま走っていくと,この道はニューヨーク州を越え,やがては,コネチカット州に到達するのである。インターステイツ84,インターステイツ684を走って,どんどんとニューヨーク市に近づいていくにつれて,車は増え,次第に大都市に近づいて来たことを実感した。
 しかし,ボストン市に近づいて行ったときのような大渋滞という感じではなかった。中央分離帯と側道が幾分狭くなって車がひっきりなしに走ってはいるが,きわめて順調に流れていた。


 マクドナルドの2013年12月期決算が2期続けての減収減益になったそうよ。
 「ヒット商品が生まれず,コンビニエンスストアの総菜や弁当などに客を奪われた」と書かれていたけれど,私は,朝日新聞に書いてあった「徐々に進めてきた値上げがマック離れにつながったという指摘もある」のほうが,正しいと思うわ。
 ふつうのランチを食べるよりも高いお金を出して,マクドナルドでハンバーガーとポテトとコーラを飲もうとは思わないんじゃないかしら。まして,店内がのんびりできるところならともかく,公園のベンチや,モールのフードコートと変わらないんじゃあね。それに,メニューが頻繁に変わるんで,何を食べられるか,いまはよくわからなくなっちゃっているし。
 マクドナルドで飲み物とハンバーガーって,300円っていうのが限界かもね。モス・バーガーが値段が高くても増収だっていうけれど,店内の雰囲気がまったく違うしね。これ以上値上げしたら完全に終わりね。
 この調子だと,残念ながら,この国には,マクドナルドって,なくなっちゃうかもしれないわ。


 国内カメラメーカーのレンズ交換式ディジタルカメラの2013年の世界出荷台数は,前年より15%小ない1,713万台で,はじめて前年を下回ったそうよ。海外の不振の落ち込みが大きく,消費伸び悩みやスマートフォンの普及が影響しているようだって。
 液晶テレビに続いて,日本の根幹産業が危機に直面してしまうのかしら。
 確かに,ただ写真を写したり,動画を撮るなら,スマホで十分よね。簡単だしね。業界はなんとかスマホではできないところを重点に商品を開発して,高級品志向にして現状を打開しようとしているけれど,そうしたニーズがどれだけあるか,っていうのが問題かもね。
 もともと写真に趣味がなかった人がカメラを買っても,結局は使わないのよ。
 インターネットやディジカメがなかったころは,写真というのは一部の人の趣味で,写真を写しても,現像してプリントしなければ画像がわからなかった。しかも,写真を撮っても,それを人にあげたり見せたりすることくらいしかすることはなかったわけね。それが,だれでも気軽に写すことができて,それを発表する場も格段に増したわけね。そこで,飛躍的にカメラが売れたんだけど,もともと,そんなに買い換えるものでもないし,ちょっと生産が過剰になっていたわけね。スマホだって,みんなが買うから買ったという人がたくさんいるけれど,本当は必要ない,っていう人がそろそろ出てきたから,もう,これが限界かもね。
 4Kテレビもきっと売れないだろうけど,1日の長さが変わらず,人の大きさも変わらないわけだから,どんどんとものが売れるわけがないのよ。これで消費税があがれば致命的よ。無理して景気を上向きにしたんだから,その反動は大きいわよ。
 ネット社会も成熟すると,この先が大変ね。


 「全聾(ろう)の作曲家」と呼ばれてきた佐村河内(さむらごうち)守さんの主要な作品は,別の作曲家の手になるものだった,という報道が話題になったわ。
 朝日新聞の投書欄に,「誰が作ったものであれ,作品に本当に人を感動させる力が備わっているなら,演奏され聴き継がれていくでしょうし,単に話題性だけでもてはやされたものなら,いずれ消えていくでしょう。」っていう的確な意見が載っていたわ。
 ベートーヴェンの作品は,耳が聴こえなかったから傑作だ,っていうことではないでしょ。
 事の善悪は別にして,ついこないだの食品の偽装事件のときもそうだけど,ものの本当の価値もわからないのに,ブランド力だけで騒ぎ立てるっていうのは,騒ぐほうにも責任があるのよ。
 雑誌においしいと書いてあるから行列をつくる,売れ筋と書いてあるからそれを買う,ブランド品だから手に入れる…,そういったことの根はみんな同じよね。
 懲りずに,うちの雑誌は見抜いていたとかいう記事もあるけれど,たまたまそうなっちゃったんで,そんなことを記事にしているんだから,これだって根は同じなのよ。
 民放のテレビ番組に「芸能人格付けチェック」っていうのがあるけど,あの番組がまさにその核心を突いているわ。でも,なかなか本物を見極めることって難しいのよ。だから,それを見極めるための手段としてブランドっていうものの存在があるのは否定しないのだけれど。近ごろは,そのブランドさえも怪しいわね。

DSCN1252DSCN1251

DSCN3429DSCN3432DSCN3433DSCN3434DSCN3438DSCN3444

☆8日目 7月27日(土)
 この旅行も,早くも8日目になった。12日間の旅といっても,最後の2日は帰宅するだけだから,実質あと3日間である。
  ・・
 きょうの予定は,クーパーズタウンの野球殿堂博物館を見学して,その後,夕方までにニューヨークへ行って,ブルックリンに予約したホテルにチェックインする。その後,ジョン・F・ケネディ国際空港へ行ってレンタカーを返却して,そのままマンハッタンへ行って,ブロードウェイでミュージカル「シカゴ」を見てから,深夜ホテルに帰る,というものであった。
 そして,その翌日は,午前中,ハーレムでゴスペルを聴き,午後は,ヤンキースタジアムで松井の引退セレモニーがある試合を見て,夜は,マンハッタンの夜景ツアー。最終日は,自由気ままな市内観光といったタイトなスケジュールを組んであった。

 しかし,先に書いたように,一番晴れてほしい明日の天気が,なんと雨という予報だったので,予定を変更して,すでに昨日,クーパーズタウンの野球殿堂博物館へ行った。
 そこで,予定を変更して,今日は,できるだけ早くニューヨークへ到着して,とにもかくにも,午後1時から始まるニューヨーク・ヤンキースの試合を見ようと思った。
 あす晴れればいいが,もし,雨で中止になってしまったら後悔する,と思った。そこで,ボストンで当日試合を見たことを思い出して,ニューヨークでも同じようにしようと考えた。
 今日の試合のチケットは持っていなかったが,まあ,きっとなんとかなるであろう。
 これまでは自他ともに認める晴れ男なので,雨が降るなんていう心配をしたことがなかったが,今回の旅行でレッドソックスの試合が雨で中止になって,自信がなくなった。
 どうやら,その日次第の気分で気ままに旅をするつもりなのが,いつのまにか,よくばりな日本人の旅行になってしまっているようだ。困ったものである。

 泊まったホテルには朝食が付いていた。
 このホテルは,特に何という特徴もなかったが,たいへん居心地がよかった。朝食も,ドーナッツがあったり,バナナやリンゴがあったりした。ホテルによっては,朝食といっても名ばかりのところもあるから,大満足であった。
 朝,午前5時半起床。外は朝霧で幻想的な景色であった。部屋を出て,フロントのとなりにある食堂で景色を眺めながら食事を取った。まだ,朝早く,きっと,朝食を食べたのは,宿泊者の中で,私が一番早かったであろう。

 食事の後,さっそくチェックアウトをした。ここを出発してから3時間くらいでニューヨーク市に到着できそうであったが,ニューヨークについてからが大変で,ブルックリンホテルにチェックインをしたり,レンタカーを返却する必要があるから,午後1時の試合開始に間に合うかは微妙なところであった。
 郊外のフリーウェイは快調に走ることができるのだが,都会に入ると交通渋滞などにかかる恐れもあり,ホテルの場所を探すのに戸惑う恐れもあるので,時間が読めないのだ。
 フロントでは,昨日チェックインした時のナイスガイが応接のソファで寝ていた。チェックアウトだというと,起きてきて,キーを受け取った。このアメリカらしいけだるさといい加減さも,また,小気味いい。日本で,こんな風にして,車に乗って,思いっきり渋滞のない高速道路をドライブして,好きなときに好きな場所で安価で泊まって,…なんていう旅行をすることなんでできないであろう。
 
 地図を見ると,ホテルを出発して,ホテルの前のインターステイツ90を西に5キロメートルくらい走ると,そのまま南へ行くインターステイツ87があって,その道をひたすら走ればニューヨーク市へ行くことができるようであった。
 そこで,ホテルを出て,インターステイツ90を西に走ると,すぐに料金所のゲートがあるので,それを越えて走っていったのだが,インターステイツ87まで行かなくても,途中でニューヨークという道路標示があるフリーウェイがあった。
 その道は片側2車線のできたばかりのような快適な道路であった。不思議だったのは,行きかう車がほとんどなかったことで,この道は僕のもの,世界は私だけのもの… みたいな,快適すぎるドライブであった。この道の名前は,「タコニック・ステイツ・パークウェイ」と書いてあった。

DSC_1998DSC_2003DSC_2014

 「逆説の日本史」。この本を私は第1巻からすべて読んでいます。
 ずいぶんと昔のことになるでしょうか,この本の第1巻を読んだときは衝撃的でした。現在は,出雲大社は高さが何メートルもある柱の上に乗っかった社殿であった,ということは,いろいろなものに書かれていますが,それをはじめて知った,あるいは,紹介したのはこの本でした。
 でも,その後,順に何巻か読み進んでいくと,時々,この著者の考えは私とは違うなあ,と思うところが増えてきて,もう読むのを辞めようと思うようになりました。そんなこともあって,この本には興味を失いつつあったのです。しかし,この第20巻は非常に面白い内容でした。そしてまた,非常に難解で,読むのにたいへん苦労しました。それは,この本が難しいとうことではなく,日本の歴史の中で,幕末という時代が難しいということがその原因です。
 その中でも,特におもしろかったのは,海軍は薩摩が作り,陸軍は長州が作ったと書いてあったことでした。そう考えれば,ひとりよがりの? 平和を振りかざす現在の首相のその思考の根底に流れる思想がわかるような気がします。

 物理学で学んだ力学の,物を投げたときに描く運動のように,初期値でその後の運動のすべてが決まるという考え方をすれば,私は,明治維新という初期値の結末が必然的に太平洋戦争だと思っているので,素直に明治維新そのものを肯定する気になれないのですが,それとともに,こういう歴史を今読んでみると,やはり,日本人というのは,救いがないなあ,ということを改めて感じてしまうのです。
 幕末には,何とかほんの一握りの秀才によって,この国は生き延びることができたのですが,それ以外のほとんどの人物は相も変わらぬ,私の嫌いな日本人の本質である精神論やらを振りかざすだけです。それは,現在も変わりはありません。
 太平洋戦争でも,ゼロ戦は,燃料ダンクに被弾すればひとたまりもないという欠陥戦闘機で,それを知っていた技術者が軍に改良を申し出ても,それは大和魂でなんとかしろといって受け入れなかったということを聞いたことがありますが,そうした精神論を,現代も振りかざしている人は大勢います。

DSC_2117DSC_2005

 私は,昨年鹿児島に行きました。鹿児島というところを訪れて,九州の南から日本を考えると,本州に住んでいる私には,これまで感じたことのない不思議な気持ちになって,とても新鮮なところでした。それは,たとえば,いつもテレビでお相撲を見ていて,正面からのテレビ中継に慣れた人が,実際に見に行って東側から眺めたときのような,そういう感じに似ていました。
 また,鹿児島は,想像していた以上にとてもきれいな街でした。市電のレールは芝で覆われていました。まるでニューオリンズみたいでした。
 やはり,その地に行ってみないと,わからないことがたくさんあるんだなあ,と改めて思いました。

 特に印象に残っているのは,次のふたつのことでした。
 そのひとつは気候でした。私は,熊本に宿泊していたので,鹿児島の有料道路のゲートで,これから熊本へ車で帰ると話したら,熊本はいいところだけれど,寒いからね,と言われてびっくりしました。確かに,鹿児島と熊本は霧島連山にさえぎられていて,九州自動車道を走ると30近いトンネルと超える必要があります。そうして,山を越えてみると,気候が全く違っていて,鹿児島は熊本に比べると確かに温暖でした。
 同じ九州でも,陸路であれば,鹿児島から北へ行くには,山を越える必要がある,このことは,昔の人にとれば,同じ九州であっても,鹿児島が独立国のようなそんな感じを抱いたのではないでしょうか。 
 ふたつ目は,鹿児島の殿様・島津家は,戦国大名でないということです。博物館でその系図を見たとき,私が知っている時代区分のどこにどの殿様が該当するのかがわかりませんでした。どこから江戸時代なんだ,とか,そういうことがよくわからないのです。そうです。島津家は戦国大名でないということに,私はこのとき気がつきました。私のなじみのある織田家やら,まして,その家臣であった豊臣,山内,… みんな,所詮は戦国の成り上がりです。それに比べて,島津のお殿様は,はるかに格上です。

 そうしたこともあって,鹿児島というところは,私が思っていたよりもずっとおもしろいところでした。だから,私は,鹿児島について書こうと思いました。そうしたころに,偶然「逆説の日本史」の第20巻を読みました。
 ところが,読み進んでいくうちに,,簡単に鹿児島については書けないな,という気持ちがどんどんと強くなってきたのです。鹿児島の持つ歴史,そう,これだけの歴史の重みを背負ってしまった地について,よそ者には語る資格などないのです。

 コンサートが終了した。もう,夜も遅くなって,何度もアンコールをするという感じでもなく,観客は足早に帰宅を急ぐような感じになった。
 午後10時30分過ぎ,外は寒く,満天の星であった。私も,満ちたりたこころで,タングルウッドの敷地を後に,駐車場に急いだ。車は,一番手前の駐車場に停めてあったので,容易に見つかったが,それからが大変だった。
 私は,かなりうかつだった。帰りの経路のことを全く考えていなかった。GPSでホテルの検索もしていなかった。車の洪水の中,別の方向に曲がるなどということもできず,多くの車の進むまま,車を走らせた。外は真っ暗で,どこにいるのかもさっぱりわからなかった。
 手がかりは,GPSの地図の表示と方角だけだった。南の方向に行けば,どう走ってもインターステイツ90に到達するはずであった。そして,インターステイツ90に乗れば,マサチューセッツ州とニューヨーク州の州境にあるきょう泊まるホテルが見つかるのだから,どうにでもなると思っていたのだった。
 何度も書いていることだが,アメリカで車に乗るときは,駐車場のどこに車を停車したか,帰りはどのように帰ればよいかということをしっかりと調べておくのは,鉄則である。私はそれを知っていて,それをしなかった。

 GPSに表示された方角に従って,南に車を走らせた。交差点に差し掛かると,ともかく,南へ曲がった。だんだんと車が少なくなってきて,これで大丈夫かと少し心配になってきたころ,川があった。その川にかかった橋を渡ったら,明るい町の中の通りに出た。その町は,コンコードのような,片側1車線のメインストリートの両側に,さまざまな店のある,アメリカによくある田舎町であった。町の名はリーといった。町の名前から,少しだけ遠回りをしたが,ともかく,このまま南に走って行けば,インターステイツ90に行けるはずであることがこのときわかった。無事にインターステイツ90に乗って,そのまま西に走っていって,マサチューセッツ州を過ぎ,どうにかホテルに戻ることができた。
 あとから思い出すと,この旅では,どこも泊ったホテルのことは記憶に残っていても,夜,ホテルに戻ってからのことが記憶にない。
 この夜も,ホテルに戻ったまでは記憶にあるが,そのあとのことは,思い出せない。
  ・・
 翌朝。ホテルの窓からは,霧に覆われた,幻想的な景色が広がっていた。

DSCN3426 DSCN3427

DSCN3375DSCN3403DSCN3404DSCN3411DSCN3424

 プレリュードコンサートでは,ボストン交響楽団のふたりのバイオリンとビオラ,チェロ,オーボエ,そして,ふたりのホルンのメンバーが演奏した。曲目は,ストラビンスキーの弦楽四重奏曲,ブリテンの「ファンタジー」,そして,モーツアルトのディベルティメントであった。
 私は,これを聴いただけでも十分に満足であった。客席と一体となった,温かいコンサートだった。 
 セイジ・オザワ・ホールの中は,木のイスであったが,それぞれのイスが独立していた。そこで,少しだけ位置を変えることもできるので,観客は,思い思いの姿勢で演奏に興じていた。1時間ほどして,プレリュードコンサートが終了した。

 私は,だんだんとここでの楽しみ方がわかってきた。タングルウッドのコンサートは,午後5時30分に開場して,まずセイジ・オザワ・ホールへ行って,プレリュードコンサートを聴き,そのあとで,ゆっくりと食事を楽んで,食後に,タングルウッドの広い敷地内をのんびりと散歩する。そして,午後8時30分にメインコンサートを聴く,という段取りなのである。
 食事は,売店で購入してもいいし,お弁当を持参すれば,ピクニック気分で楽しむこともできる。また,レストランや喫茶店もある。
 メインコンサートは,天気がよければ,ホールの外に思い思いイスを並べて,星空の下で楽しむこともできる。ただし,コンサートが終了するのは午後10時過ぎになるから,かなり寒くなるので,防寒具が必要,というわけであった。

 私は,そうとも知らず,あわてて食事をとってしまったので,プレリュードコンサートのあとの時間を持て余すことになった。
 そこで,タングルウッドの敷地内を散策したのだが,タングルウッドは,遠くには山々の緑と湖,そして,木々に囲まれ,散策するだけでも美しく,充実した時間を過ごすことができた。入口を入ったところには,ギフトショップがあって,様々な土産物を売っていた。また,ここではイスやシートクッションをレンタルで借りることも可能であった。
 チェンバー・ミュージックホールという古い建物では,団員が練習をしていた。入口の扉が空いていて,音楽をそっと聴くことができた。
 また,ビジターセンターヒストリールームには,タングルウッドの歴史が展示してあった。若き日の小澤征爾の写真もあった。

 午後7時15分から,シェッドで「ディス・ウィーク・アット・タングルウッド」というパネルディスカッションがはじまった。マーチンブックスパンという人がモデレーターをやって,ゲストが来て話をしていたが,私には,モデレーターもゲストも,どういう人が今ひとつわからなかった。
 やがて,午後8時30分になって,メインコンサートがはじまった。
 当初の予定では,クリストフ・エッシェンバッハが指揮とピアノを弾き,モーツアルトのピアノ協奏曲第12番と交響曲第41番を演奏するはずであった。しかし,もらった分厚いプログラムに小冊子が挟み込んであったので読んでみると,クリストフ・エッシェンバッハは耳の病気とかでキャンセルになって,ピアノ協奏曲の曲目が変更になり,エド・デ・ワールトが指揮をして,ギャリック・オールソンがピアノを演奏するモーツアルトの協奏曲第27番になった。
 エド・デ・ワールトは,東京のN響定期公演で聴いたことがあった。昨年の12月には,東京で,N響の第九を指揮したので記憶にある人もおられるだろう。タングルウッドでは,8月には,N響の名誉音楽監督シャルル・デュトワの指揮するコンサートもある。
 タングルウッドは,これまでに,「タングルウッドの奇跡」を起こしたヴァイオリニスト五嶋みどりや,先日,ベルリンフィルハーモニーを客演指揮した佐渡裕がデビュー演奏(タングルウッド音楽祭オーディションへの参加)をしたところでもあり,日本人にもなじみがある場所,まさに夢の場所である。

 コンサートは,お年寄りが暇つぶしに楽しんでいる人も多く,曲がはじまるまでは結構騒がしい。曲がはじまっても,となりの老人はこそこそ話をしていて,その前に座った女性がそれをにらんでいたりした。
 私は,曲に専念する,という気持でもなかったので,なんとなくいい雰囲気の中で,夜風に吹かれながら音楽を聴くことはこんなにもすてきなことなのかと感じ入っていた。シェッドの屋根には,大きなスクリーンが四方に取り付けられていて,演奏の様子が放映されていて,屋外でもよくわかるようになっていた。
 クラシックのコンサートといっても,かしこまって,物音ひとつ立てず,禅修行のように聴くものではないのだなあと改めて思った。
 素晴らしい時間であった。まさに,ここはおとぎの国であった。

◇◇◇
ニューヨーク・ヤンキースのデレック・ジーター遊撃手が今年限りで引退することを表明しました。そこで,すでに,今シーズンのヤンキースタジアムの最終戦のチケットがプラチナペーパー化して,ずいぶんと高騰しているのだそうです。
ヤンキースは,アレックス・ロドリゲス三塁手が1年間出場停止だし,非力なイチローは,活躍の場がありそうになく,昨年唯一頼りになったロビンソン・カノー二塁手もシアトル・マリナースへ行ってしまったので,田中,黒田両投手にどれだけ援護があるのか,はなはだ心配なシーズンになりそうです。

 ホセ・ルイス・オルティス・モレーノ (Jose Luis Ortiz Moreno) は,スペインの天文学者です。
 1994年にグラナダ大学にて物理学の博士号を取得。NASAジェット推進研究所等を経て2000年よりスペインのアンダルシア天体物理学研究所太陽系部門の恒久スタッフに就任。同研究所が運営するグラナダのシエラ・ネバダ天文台技術次長として,研究グループを率いているということです。
 私の卒業した大学の研究室も,昔の話ですが,教授たちの派閥争いや悪口は日常茶飯事でしたし,純粋に学問をするといっても,その裏には,そうしたありがちな人間の醜さがあるということを,この話を読んで思い出しました。
 天文学というきわめてロマンに満ちた世界にも,こうした人間の姿があるのですね。
 そういえば,これもずいぶんと昔のことではありますが,野辺山の電波天文台の研究室には,セクハラまがいのことがあって,女性研究者がその対応に苦慮していたことが書かれてあったのを思い出しました。確か「あこがれのあの大先生が…」みたいなことでした。
  ・・
 この本は,マーク・ブラウンさんによって書かれたので,どうしても,彼に分があるように書かれていますけれども,マーク・ブラウンさんだって,発見したことをもっと早く公表していれば,このようなことににはならなかったわけで,やはり,本を読んだ限りにおいては,そこには非があるのではないかなあ,と私は思いました。
 新彗星の発見にも,このような話はたくさんあります。
 偶然写した写真の中に新彗星を見つけて,右往左往した人の話を聞いたことがあります。もし,実際にそういった状況におかれたとしたら,どうすればいいかというのは,いろいろと本には書いてあっても,実際は簡単で単純なものではありません。なにせ,新彗星を発見すれば,発見順に3人の名前がつくので,いつ発見したかということは大問題なのです。その発見をだれかに漏らしたら,その人がその功績を横取りして自分のものにしてしまうことだってありえます。逆に,天文台に通報しても,誤報で迷惑をかけるかもしれません。
 だから,新天体の発見といっても,そう簡単な話ではないのです。
 話を戻しまして…。 
 その後,マーク・ブラウンさんのチームは,冥王星よりも大きな「エリス」という天体を発見しました。そのことが,冥王星が惑星の座から追われる要因となりました。そこで,改めて惑星の定義がなされて,冥王星は準惑星に降格しました。
 現在では,これまでに発見されていた冥王星とケレスに加えて,エリス,マケマケ,ハウメアの合計5個が準惑星とされています。この本には,こうした発見にまつわる人間臭いドラマに加えて,著者の結婚や長女の誕生なども書かれているのですが,私は,この本の内容は,単に,新天体発見に絞ったほうがよかったように思います。

 この本には,それ以外にも面白いことがたくさん書かれてありました。
 そのひとつは,パロマ天文台のシュミットカメラの操作の様子です。
 木曽観測所のシュミットカメラよりも一回り大きいこの望遠鏡も,マーク・ブラウンさんが使いはじめたときは,乾板という時代遅れの装置を持て余していたこと,そして,その後,デジタル化によってよみがえったことなどが書かれてありました。
 木曽観測所のシュミットカメラもデジタル化がされているのは,ドラマ「木曽オリオン」でも取り上げられていたので,ご存知でしょう。かつて,口径の大きな望遠鏡は視野が狭いので,広い視野を求めて,さまざまな工夫が行われていました。そして,シュミットカメラというものが発明されたのでした。そうした意味で,シュミットカメラは,30年くらい前には,まさに,憧れの望遠鏡でした。そのころには,アマチュア用のシュミットカメラも発売されていました。しかし,取り扱いが大変なことで,あまり普及しませんでした。当時それを購入して,現在も使いこなしている人がどれくらいいるのかなあと思います。それから時代も変わり,アマチュアにもディジカメが普及したので,苦労してシュミットカメラを使ったり,フィルムを水素増感したり,CCDを冷却したりしなくても,簡単に写真が写せるようになりました。
 パロマ天文台のシュミットカメラに取り付けられた広視野カメラで撮影された写真から新天体を見つけるために,1年以上も費やしてプログラムを作成して実用化しているという話題も,また,大変興味深いものでした。ちなみに,このパロマ天文台のシュミットカメラは,現在,ニート・プロジェクトといって,地球に接近する天体を発見したり監視するためのNASAのプロジェクトに利用されていて,数多くの新彗星を発見していますが,このことは,また後日,書きたいと思います。
 もうひとつは,1700年後半から1800年前半にかけて発見された惑星や小惑星の名前が,その発見の数年度に発見された元素と同じ名前が付けられたということで,これも私は知らないことでした。それらは,天王星(ウラノス)とウラニウム,小惑星ケレスとセリウム,パラスとパラジウム,海王星(ネプチューン)とネプチウム,そして,冥王星(プルート)とプルトニウムです。

☆ミミミ
私は冥王星やハウメアの写真は写したことがないので,今日は火星の写真をお目にかけましょう。

IMGP0318s

 今年の大学入試センター試験で,国語は古文で出題された「源氏物語」が難しく平均点が下がったことで,いろいろと話題をよんでいるのだけれど,朝日新聞に「いつも疑問に感じるのは,古文や漢文が出題の半分を占めることだ。古典に関する学習は,その後の大学教育や社会人生活にどれだけ重要で役立つのだろうか」っていう投書があったのを読んだの。
 この投書について,まず,話をふたつにわけて考えてみるわ。

 ひとつめは,国語に限らず,高等学校では,「学習指導要領」っていうのが決められていて,学校で教える内容はこれに基づいているっていうことね。
 だから,入試で出題される内容も,「学習指導要領」に基づいているということが一番大切なのね。
 というわけで,本当は,センター試験の出題がこの「学習指導要領」基づいているかどうかをしっかりと総括すべきなんだと私は思うのだけど,そんなこと誰もしないわけ。でも,そのことすら誰も気がついていないし,そういった指摘もしないっていうのが,そもそもの問題なのよ。つまらないことにはごちゃごちゃうるさいくせに,こういう一番大切なことにいいかげんなのってとても日本的な話よね。
 ふたつめに,今度は国語という教科に関してのことなのだけど,国語という教科で何を教えるかっていうのも,当然,「学習指導要領」に書いてあるわけだから,この投書に書いてあった「その後の大学教育や社会人生活にどれだけ重要で役立つのだろうか」っていうことは,センター試験が「学習指導要領」に基づいて出題されているという前提で話をすすめるならば,むしろ,教科としての国語の「学習指導要領」が現代の社会のニーズに沿っているか,そして,この教科を勉強することが「その後の大学教育や社会人生活にどれだけ重要で役立つのだろうか」っていう話になるわね。

 この投書をした人は大学の先生なんだけど,「国語力は読解力以外にも,文章作成や会話術,表現方法など総合学力の根幹だ」と書いてあったの。わたしもそれに同感だわ。
 でも,どうやら,世の中で一般で求められている「国語力」というものと国語という教科で教えようとしているものは,違うようなのよ。そこが問題なのね。私はそう思っているわ。このことが何を意味するかは,皮肉にも,今年のセンターテストの1番に出題された「漢文脈と近代日本」っていう本をすべてよく読めばわかるわよ。
 国語という教科は,実は,どうやら,この国の言語の成り立ちっていうものを理解することが目的なの。そして,その目標を達成するために,その時代ごとに異なった言語に基づいて作られた作品をそれぞれ鑑賞するの。そして,鑑賞するためにその時代の国文法を学ぶわけね。
 漢文も同じよね。漢文というのは明治以前の日本の公式な学問の基本だったんだから。というか,学問=漢文を読むということだったのね。漢文というのは,その時代には社会で上に立つ人の大切な素養とされていたからこそ学んだの。だから,今は,その余韻が残っているだけなのね。でも,だれもやめようと言わないから,いまでもそのまま勉強しているっていうこともあるわけね。そして,明治以降の国語は,現代文っていう科目で,それ以後に書かれた作品として森鴎外やら夏目漱石やらを習うわけね。だから,国語という教科をセンター試験で出題すれば,「古文や漢文が出題の半分を占める」のは,当たり前なのね。だって,それが,高校の国語という教科なんだもの。

 でも,私は思うのだけれど,国語という教科で何を教え,何を学んでいるかっていうことは,一般の人はあまり考えたことなんてないんじゃないかな。英語を勉強しても受験英語じゃあ役に立たないとか,数学なんて社会に出ても使わないとか,そういうことはみんな言うのに,それが不思議なことね。
 その理由は,みんな日本語は一応読み書きできると思っているし,それができることが必要だって思っているからじゃないのかなあ。でも,それも誤解なのよ。考えてみれば,今,私たちが読み書きで使っている日本語っていうのは,第2次世界大戦後のもので,それ以前に書かれた日本語すら,一般には満足に読めないわけね。
 日本語って,そう考えると,不思議な言葉よね。でも,学校で国語を勉強しても,そうした昔の日本語を読めるようになることを,一般の人は期待していないわけ。学校の先生も本音はそんなことできないと思っているんじゃないかな。だから,古典文法とかを学習しても,それは,あくまでテストで点をとるための知識になっちゃうのね。数学の因数分解と同じね。
 一番問題なのは,一般の人が思っている「国語力」と学校で学ぶ教科・国語の学力は違うっていうことを一般の人が理解していないっていうことなの。

 学問はもちろん実用的な部分もあるけれど,ほんとうは文化なのよ。そして,文化の継承っていうのは非常に大切なことなの。人は今すぐに死ぬわけにいかないでしょ。生まれた以上は,その生を全うしたいわけね。その生きている間を充実させるためには,生物として,食べたり飲んだりすることはもちろん大切なのだけれども,それと同じだけ精神的に充実することが必要なの。
 だから,文化っていうのは,無駄じゃなくて,人間が人間らしく生きるための基本なのね。儲からないから,おなかがふくれないから,無駄だからって,文化を軽視しちゃいけないのよ。だから,私は,学校の教科・国語は文化として大切なものなので,決して意味がないなんていっていないから誤解しないでね。
 そのことを承知でいうのだけれど,一般の人が求めている実用的な国語力というものは,高校の国語という教科では身につかないのね。それを身につける教科じゃないもの。だけれど,みんなそのことを勘違いしているから,国語力を身につけさせるために,国語の授業は大切だ,っていっているの。だから,教科・国語は,その教科が必要かどうかなんていう議論は生まれないし,ほとんどの大学でも入試の必須教科だし,授業時間数もたくさん確保してあるっていうわけ。
 これが,誤解のすべてなの。だから,「古典に関する学習は,その後の大学教育や社会人生活にどれだけ重要で役立つのだろうか」という意見になるわけね。音楽は文化として,とても大切なものだけど,センター試験に出題されないでしょ。だから,「音楽に関する学習は,その後の大学教育や社会人生活にどれだけ重要で役立つのだろうか」とはならないわけね。「古文や漢文が出題の半分を占めることだ」というのなら,社会が日本史や世界史,数学が数学Ⅰとか数学Ⅱ,理科が物理とか化学とかの科目に分かれていて,センターテストの受験科目が選択できるように,国語も現代文のみを必須にして,古典は選択にするとか,そういう議論が必要なのね。
 この誤解を解かないと,この類の議論は結論が出ないわ。

 さらに,この人の投書に,「大学入試は,大学の授業を理解できる基礎学力があるかを問うのが基本理念であってほしい」って書いてあったけど,本当にそうなのかしら。私は,それには異存があるわ。
 大学入試は,高等学校で学んだことを,たとえそれが大学の専門で必要があろうとなかろうと,そんなことにかかわらず,ちゃんと理解しているかどうかを問うものじゃないのかしら。そのことが,大学生としてふさわしい人間に成長しているかどうかを問うことになるのじゃないのかな。「基礎学力」っていうのは,基礎人間力なのよ。高校で学ぶ程度のことは,理系や文系に限らず,数学も歴史も程度の差こそあれ,人としての最低限の教養なのね。大学の授業でやらない教科は入試で必要ないっていうのとは違うのね。
 この投書のようなことを大学の先生が思っているから,高校の勉強が,単に受験術を身につけるトレーニングになっちゃってるんだし,大学で必要ないといって入試の受験科目をどんどんと減らしてしまうので,高校生は,受験にいらないって,受験に必要のない教科をどんどん勉強しなくなっちゃってるんじゃないかしら。それに勉強っていっても,問題集を解いているだけだしね。あんなもの学問じゃないわ。
 まあ,実際には,今や,多くの「大学」は,本当の意味の大学じゃなくて,職業訓練校にすぎないから,そういう意見も無理ないわね。

DSC_1648

DSCN3330DSCN3345DSCN3348DSCN3358DSCN3360

 ゲートをくぐると,そのまま,タングルウッドの広い全面芝生貼りの敷地の中に入った。次から次へと人が入ってきて,それぞれが,イスやらクーラーボックスやらを持参して歩いてきた。
 私は,そうした人たちがどこへ行くのだろうと思ってついていった。しばらく歩くと,「クセビツスキー・ミュージック・シェッド」へ着いた。
 私は屋根のない野外劇場だと思っていたが,着いたのは,屋根があるホールだった。しかし,壁がなく,外からでも音楽を聴くことができるようになっていた。床は土のままだった。今晩のコンサートはここで行われるのだった。チケットに書かれた私の安価な席を探すと,そこは想像以上によい場所でびっくりした。
 すでに席に座っている夫婦がいたので,午後8時30分からのコンサートなのに,どうして,みんなこんなに早くから来るのか,と聞いたら,ここにははじめて来たのですか,と聞き返された。
 彼らが言うには,ここで,コンサートが始まる前に,「ディス・ウィーク・アット・タングルウッド」というパフォーマンスがあるということだった。

 ほとんどの人は,このシェッドではなく,別のところに歩いて行く。私は,まだ,何がなんだかよくわからず,ともかく,せっかく来たのだから「セイジ・オザワ・ホール」を外観だけでも見ておこうと,どんどんと奥に歩いていった。
 タングルウッドの奥まったところに,レンガ色の大きなホールがあった。どうやら,そこが,セイジ・オザワ・ホールのようだった。
 すばらしい建物であった。このホールでは,今から何やらのコンサートがはじまろうとしていた。私は,ここで,私がチケット持っていない別のコンサートがあるのかなと思った。
 
 とりあえず夕食をとろうと思って,売店か食堂がないかを探した。広い屋外の食堂があったのだが,まだ準備中だった。奥まったところに売店があった。そこでは,サンドウィッチを売っていたので,サンドウィッチとコーラを購入した。
 芝生広場には木で作られたイスや机が点在していて,そのいくつは,すでに,場所取りがしてあった。
 私は,まだ,だれも場所取りをしていなかったひとつの長椅子に腰かけて,先に買ったサンドウィッチをほおばりはじめた。すると,なにやら音楽が聞こえてきた。となりの長椅子を陣取っていた老夫婦が,クールボックスだけをそこにおいて,音楽の聞こえるセイジ・オザワ・ホールに,急いで歩いていくのが見えた。
 私も,食事をそこそこに,彼らの真似をして,そちらに歩いて行った。

 セイジ・オザワ・ホールは,その一番後ろの壁が取り払われていて,外からもステージが見られるようになっていた。そこには,すでにパイプイスを並べて,多くの人が陣取っていた。
 ホールの中は木で作られたイスが並んでいて,まだ,若干の空席があった。
 ホールの入り口に年配のスタッフがいたので,このコンサートは自由に聴くことができるのかと聞いたら,プログラムに書いてある通りです,と説明された。プログラムには,プレリュード・コンサート6:00PMからと書かれてあった。どうやら,きょうのコンサートを聴きに来た人たちは,だれもが,このコンサートを自由に聴くことができるようであった。
 私も,ホールの中に入って,適当な場所を見つけて,座席に着いた。
 ステージでは,ボストン交響楽団のメンバーが数人ずつ,交代で,室内楽を演奏していた。
 東北の大地震以来中止になっているが,N響の定期公演でも,NHKホールでは,開演前の室内楽というのがあって,N響のメンバーが交代で演奏会をやっている。それと同じようなものだった。
 これを聴くだけでも,満ち足りた気持ちになった。ここは,なんと贅沢なところだろうと思った。本当におとぎの国であった。

◇◇◇
Happy Valentine's Day.

IMG_0147IMG_0148IMG_0149

 お恥ずかしい話だが,今でこそ,訳知りに書いてはいるが,ここ,タングルウッドに来るまで,タングルウッドというところがどういうところか知らなかったし,調べもしなかった。
 ボストン交響楽団が夏の音楽祭を行う野外コンサートホールがあるということと,セイジ・オザワホールがあるということは知っていたけれど,ここは,私が2012年に行ったノースダコタ州のメドナの野外ミュージカルのようなものかな,と思っていた。インターネットでチケットを購入したときも,値段がやたらと安かったこともあって,どの席でも,聴けるのならそれでいいや,ぐらいに考えていた。

 実際は,タングルウッドという名前の広い敷地が,レノックスという町の西南のはずれにあった。タングルウッドは塀で囲まれていて,入口のゲートがあり,その前に駐車場(無料)が広がっていた。
 とりあえず,入口のゲートに一番近いところに車を駐車した。まだ開場までは時間が早くて,ほとんど車はいなかった。
 車から降りで,チケット売り場を探した。先に書いたように,チケットはインターネットで予約したが,予約してあったチケットをどのように入手するのかわからなかったので,何が何でもチケット売り場で事情を話して,チケットを入手しなければならないと意気込んでいた。
 入口の左隣りにチケット売り場があった。インターネットで予約したときにプリントした用紙を見せると,何の問題もなくチケットが発券された。取り越し苦労であった。

 そんなわけで,チケットは簡単に手に入れることができたのだが,タングルウッドの開場は午後5時30分であるということであった。コンサートは,午後8時30分からである。どうして午後8時30分からのコンサートの開場が午後5時なのかということもよくわからなかった。
 それでもまだ,午後4時過ぎで,開場よりも1時間も早かった。私は,はじめて来た地で珍しかったこともあって,付近を散策していたら,やがて,ほとんど車のいなかった駐車場に次第に車が増えてきた。ここに来るのは,どうやら,比較的歳をとった夫婦連れの人たちが多かった。彼らはみな,座るイスやらテーブルやら,クーラーボックスやら,まるでキャンプにでも行くように結構な荷物を抱え,カーディガンを持参していた。
 夫婦連れやらグループの人たちは,それそれの集団でなにやら話に花が咲いていて,私が話しかけるような余地がなかったので,ここがどういうところかも,よくわからなかった。
 私はあせった。こんなところだとは思わななった。
 私には,イスもなければ,カーディガンもない。クーラーボックスなんて論外であった。
 いったい,ここは,どんなところなのだろうかと思った。クラシックのコンサートなのか,はたまた,ピクニックエリアなのか?
  ・・
 やがて,開場の時間が近づき,ゲートに列ができ始めた。
 時間になって,ゲートに係員が現れて,タングルウッドの敷地に入ることができた。

51qNsMGh8oL

 惑星といえは,数年前に冥王星が惑星の座を追われたことが話題になりました。
 「冥王星を殺したのは私です」(「How I Killed Pluto and Why It Had It Coming」マイク・ブラウン著)という本は,そのときの顛末について書かれたものです。 
 私は,この本の題名を初めて見たとき,それほど真面目な内容とは思わなかったのですが,読んでみて,よい意味で期待を裏切りました。
 この本は題名で損をしていると思います。この題名では,よくある天文に関した興味半分の読み物みたいです。たとえば,アポロの月着陸はなかった,みたいな…。原題はもう少しマシですが,大差ないです。

 著者のマイク・ブラウンさんはアメリカの天文学者で,彼のチームは,今世紀になって太陽系を回る惑星級の天体を三つ発見しました。そして,後に「エリス」と名づけられたそのうちのひとつの天体が冥王星よりも大きかったことがきっかけとなって,惑星の定義が再検討されました。
 その結果,惑星とは,①太陽の周りを公転し②ほぼ球形で③衛星を除いてその軌道周囲に他天体がいないものと改めて定義され直されたことから,③を満たさないものとして,冥王星が準惑星と降格にされてしまったのです。
 このことについて,少し詳しく書いてみましょう。
 まず,2002年と2004年に,マーク・ブラウンさんのチームは,後に「マケマケ」と「ハウメア」とよばれるようになった,冥王星の発見以後もう惑星は発見できないといわれていた当時,太陽系を回る惑星級の天体をふたつ発見しました。しかし,これらは冥王星よりも小さかったので,まだ,冥王星の地位を脅かすほどのものではありませんでした。

 このうち,「ハウメア」と呼ばれるようになった天体は,別の意味で注目を浴びました。この天体は,発見したのが2004年のクリスマス直後だったので、彼らはそれにちなんで「サンタ」とよんでいたのですが、チームの一員でイェール大学のデイビッド・ラビノウィッツさんが「ハウメア」と名づけることを提案して、ブラウンさんもそれに同意したことで,その名がついたということです。
 ハウメアとはハワイの神話で石を象徴する女神です。細長く、およそ冥王星の3分の1の大きさを持つハウメアは、大部分が岩でできていると考えられています。天文学者たちは、この天体が,過去に他の天体と衝突して衛星が分離したと考えていて、その点からも,ハウメアという名に適しています。
 ブラウンさんはブログの中で,「ハワイの神話では,女神ハウメアはさまざまな神々の母であり,その体の各部位から神々が分離して誕生したと言われている。カイパーベルト天体のハウメアの場合も,ハウメアを中心としてその破片が周囲に散らばってカイパーベルト天体の一群を形成している」と説明しています。

 では,「カイバー・ベルト天体」とは何でしょうか。実は,海王星の外側には周回軌道を持つ岩や氷でできた天体が集まる円盤状の領域があるのです。この領域のことを「カイパー・ベルト」とよんでいるのです。カイパーベルトには冥王星の仲間が数多く存在していることが判明しています。このことが,後に,冥王星は惑星の条件③衛星を除いてその軌道周囲に他天体がいないものという条件を満たさない根拠となったわけです。
 ところが,マイク・ブラウンさんのチームが発見したハウメアは,今では,発見したのは、スペインのホセ・ルイス・オルティスという天文学者ということになっているのです。
 この本によると,どうやら,ホセ・ルイス・オルティスは,ブラウンさんの発見を盗んだということなのです。そして,その「盗んだ」手口を明かしたくだりが,この本の読みどころのひとつになっているのです。
 ホセ・ルイス・オルティスは,とあるデータベースを検索してマイク・ブラウンさんの狙いを知り,とりあえず最低限の情報だけを発表して「発見者」の栄誉をかっさらったというわけです。
 星空のロマンに中にも,このような俗世間のお話が存在しているのです。

☆ミミミ
2014年1月21日に,イギリス・ロンドン大学天文台のSteve J. Fosseyさんが,当日,学生にCCDカメラの使い方の簡単なデモをしようとおおぐま座の銀河M82に望遠鏡を向けたところ、偶然11等の超新星を発見しました。今後どれだけ明るくなるか注目されています。
この超新星(スーパーノバ)を2月11日に写しましたので,ご覧ください。写真の中央下に写っている渦巻き星雲がM81で,その右側の少し小さい星雲がM82です。この星雲M82の中の中央下あたりに明るい星がありますが,これが超新星です。
この写真には,左上にも小さな星雲NGC3077も写っています。
写真に写っているたくさんの星は,みな,銀河系内の恒星(遠くて3万光年)ですが,この超新星だけは,それらよりはるかに遠い(1,400万光年!)M82という別の銀河の中にある恒星が爆発した姿なのです。

DSC_2533z2

20121212 月齢27

  ・・・・・・
 今こむと
 言ひしばかりに 長月の
 有明の月を
 待ちいでつるかな
    素性法師
  ・・・・・・
 冬の夜明け前は,凍てつくような寒さに身も引き締まりますが,ことしのこの時期には,素敵な贈り物があります。それは,2月26日から28日にかけて,東の空に,月と金星と水星が並んで見られることです。
 昨年も見ることができましたが,朝焼けの中,幻想的な三つの天体の姿をご覧になってはいかがでしょうか。

 おすすめは,2月27日です。早朝5時30分頃,地平線すれすれに水星,そして,少し高く金星,その真ん中に月齢27の月が見られます。その前後は,月の位置と姿が少しずつ変わって見られます。28日になると,見えるか見えないかのうすい月が地平線すれすれに水星のとなりに見られるかもしれません。
 いつでも簡単に見られる金星はともかく,なかなか見られない水星,そして,うすっぺらな月の姿を見ることのできる絶好の機会です。

  ・・・・・・
 水星は太陽系のいちばん内側を回る惑星で,太陽からの平均距離はわずが5,791万キロメートル。地球から太陽までの距離の0.14倍です。直径は4,880キロメートルと月より少し大きく,地球のおよそ0.4倍の非常に小さな惑星です。重さは地球の0.06倍しかありません。また,自転周期は58.65日,公転周期は87.969日です。
 地球から見た水星は,太陽のそばをへばりつくように動いているので,太陽の光が邪魔になってなかなかその姿を見ることができません。地動説で有名なコペルニクスでさえ,死の床で「私は生涯,水星という天体を見ることがなかった」と嘆いたそうです。
  ・・・・・・
 このように,なかなか見ることのできない水星ですが,太陽から最も離れたときだけ,日の入り後の西の空,または日の出前の東の空低くに見るチャンスがあります。しかし,日の入りと日の出ごろの水星の高度は20度程度しかないので,西または東の方角が開けていて街明かりが少なく,スモッグなどの影響を受けにくい場所でしか見ることができません。
 だから,日の入りまたは日の出時刻の前後40分から1時間くらいの間が勝負になります。そのころの明るさは,一番明るいときでだいたい0等星くらいなので,肉眼で十分見える明るさかと思われるでしょうが,空は薄明状態,意外と苦労します。

 水星を天体望遠鏡で見てみると,地球の軌道の内側を回る内惑星なので,やはり大きさを変えながら満ち欠けをします。日を追って観測すれば水星の満ち欠けを観測できるはずです。しかし,高度が低い水星は大気の影響を受けやすく,その映像をハッキリととらえるのはなかなか難しいかもしれません。
 私は,子供のころ,水星を見るのは大変だと聞いて,条件のよかった日の夕方に,わざわざ家の屋根に上って見たことがありますが,実は,そんなに苦労しなくても,特に,冬は夜明けが遅いので,夕方よりも街灯がないだけ空が暗い明け方には,けっこうきれいに見ることができます。
 昨年の11月下旬には,アイソン彗星の隣に輝いていて,水星ってこんなに高いところに見えるんだ,と私は驚きました。実際は,アイソン彗星の高度がかなり低かっただけなのですが。

  ・・・・・・
 金星も地球の軌道の内側を回る惑星で,太陽と金星の距離は地球と太陽の距離の0.72倍。金星の半径は6,052キロメートルで地球の0.9倍,重さも地球の0.94倍と,大きさは地球によく似た惑星です。
 自転周期は243日と非常に長く,公転周期の225日よりも長くなっていて,しかも地球の自転とは逆向きなので,金星では太陽は西から昇って東へ沈むことになります。
  ・・・・・・
 望遠鏡で金星を見ると,まばゆく輝く以外にこれといった特徴はつかめません。金星は暑い雲に覆われているため,表面の様子はまるでわからないからなのです。現在では,雲の主成分は二酸化炭素であることがわかっています。雲の内部では濃硫酸の雲が形成され,濃硫酸の雨が降っているのです。ただし,この雨は途中で蒸発してしまうので,地表に到達することはありません。また,雲の厚さがあまりにも厚いため,地表での気圧は90気圧と地球の90倍にも達します。このすごい気圧のため,初めて金星を訪れた探査機は圧力に耐え切れずに押しつぶされてしまったそうです。
 このように,金星の大気の主成分は二酸化炭素であるため,温室効果によって金星の地表の温度は470度にも達しています。濃硫酸の雨に90気圧の大気。そして鉛も溶けるほどの高温。金星は地獄のような惑星なのです。

 金星はこのように表面模様は見えないので,その形を観測することになります。三日月のような形から満月のような形まで大きく変化し,形の変化(満ち欠け)にあわせてその大きさも変化します。
 地球から見た金星は非常に明るくて,その明るさは最大でマイナス4.7等にも達します。金星は夕方か明け方に見えるので,夕方に見える場合は宵の明星,明け方に見える場合は明けの明星とよばれて親しまれています。一番星として見つけることができるのは,たいていはこの金星です。
 知らないと,あまりにも明るいので,「謎の飛行物体では?」と勘違いすることもあります。また,真夜中に南中することはありませんが,太陽から最も離れたときには47度にもなるので,けっこう夜遅くなっても,あるいは,明け方早くから見ることができて,驚くこともあります。

DSCN3307DSCN3313DSCN3316DSCN3319DSCN3321

 インターステイツ90沿いのニューヨーク州とマサチューセッツ州の州境,南側の小高い丘の上に1件だけあったホテルが「バークシャー・トラベルロッジ」であった。
 ここからタングルウッドには車で高原道路を10分くらい北に行けばよい。
 わかりやすくいえば,軽井沢のリゾートホテルは宿泊料が高いので,上信越自動車道の碓井軽井沢インター近くの安価なビジネスホテル(実際はビジネスホテルなんてないと思うけど,たとえ話です)に泊まって,軽井沢の大賀ホールへ行くといったようなものである。
 日本との決定的な違いは,タングルウッドには広大な敷地があるので,駐車場に困らないことと,避暑地といっても芋を洗うように観光客がいないことである。

 私の宿泊した「バークシャー・トラベルロッジ」は,普通の全国チェーンのモーテルであったが,高台にあったので,非常に景色がよかった。眼下にはインターステイツが見えて,その向こうは,きれいな山並みが続いていた。
 部屋は,ここもバスタブはなくシャワーではあったが,清潔で快適であった。
 車社会のアメリカでは,都会ではなく,郊外のこうしたモーテルに泊まって旅をするのが,安価でありストレスがなく,旅をしている実感もあり,楽しいのである。
 フロントのスタッフはナイスガイであった。
 チェックインをしたときに,ボストンから来たが,昨日からずっと雨だったと言ったら,この地では,天気はボストンとは違って,ずっと快晴で湿度も低く,過ごしやすかったと言っていた。
 私は,朝,雨のボストンを出発してきたので,ここに来るまで,今晩の野外コンサートの天気が心配だったのだ。

 タングルウッドは,ボストンからインターステイツ90で2時間と少しのところである。週末に東京から中央高速道を走って八ヶ岳へ行くようなもので,まさにここは,日本でいえば上高地や八ヶ岳のようなところであった。ただし,渋滞がないということが大きな違いであった。
 週末の,東京から信州へ向かう中央高速道の渋滞は逆の車線(信州から東京)を走っていると滑稽なほどである。
  ・・
 チェックインを終えて,バッグを部屋に運び,再び,フロントへ行って付近の地図をもらい,タングルウッドへ行くことにした。
 何度も書くが,ここは本当にすばらしいところだったので,結果論ではあるが,ここに連泊して,のんびりとすごすのもよかったと思った。今度マサチューセッツ州に来るときは,この地に数日間滞在して,ボストンで野球をみたり,タングルウッドで音楽を聴いたり,満天の星を見ようと思っている。

 フロントでもらった地図というのがくせものだった。イラストで書かれたもので,裏表に地図があって,合計2枚。しかし,その地図の場所がどこなのかさっぱりわからない代物であった。
 日本に帰って,改めて見てみるに,1枚はマサチューセッツ州の西の端が表わされていて,もう1枚はニューヨーク州の西の端が表わされているので,この2枚で,ホテルの付近のおよそ200キロ四方くらいの場所が表示されているようなのであるが,イラストに表示されている場所は,観光地というよりも,その場所にあるホテルの名前ばかりなのだった。
 たとえば,レノックスという地名と,レノックスの道や建物はイラストで描かれているのに,タングルウッドは野外劇場(「シェッド」という)のイラストがあるのみで,タングルウッドという表示すらない。だから,私には,この地図を見ても,ダングルウッドがどこにるのかすらわからないのであった。
 実際は、タングルウッドというのは地名ではなく,レノックスという町の一角にあるボストン交響楽団の夏のコンサートホールのある敷地の名である。私はそれすら知らなかった。

 朝,ボストンからこちらに来るとき,走っていたインターステイツ90から「タングルウッド」という道路標示を見かけたので,このホテルからタングルウッドへ行くことは容易に思えた。
 ホテルを出発するときに,車のGPSでタングルウッドを検索したらすぐに表示されたので,GPSの指示に従って走って行った。ホテルから出てインターステイツの側道を走り,インターステイツをくぐり,高原の道路を左に行ったり右に行ったり,またインターステイツ90の側道を走ったりまたくぐったりと,アメリカらしくなく結構くねくねと,GPSが命じるまま10分から15分くらい走っっただろうか,そうしたらやがて,広大なタングルウッドの敷地が見えてきた。
 そこには,タングルウッドと書かれたゲートがあって,その前には,芝生張りの駐車場がいくつも広がっていた。

DSCN4310DSCN3320DSCN3326DSCN3346

 お待たせしました。いよいよ,おとぎの国タングルウッドです。タングルウッドについては,すでにブログに書いたので,参考にしてください。
  ・・

 私は,今回の旅行で,憧れだったクーバーズタウンの野球殿堂博物館とボストン交響楽団夏の本拠地タングルウッドへ行った。これまで,クーパーズタウンもタングルウッドも,一度は行ってみたいなあ,という漠然としたあこがれを抱いていた。しかし,ボストンとニューヨークの近郊にあるということは知っていたけれど,それがどこにあるのか詳しくは知らなかった。
 今回,せっかくボストンとニューヨークへ行くのだから,クーパーズタウンとタングルウッドへも足をのばそうと思った。実際に調べてみると,この2つは,そんなに離れたところでないのが驚きだった。だから,この旅行のように,1日でこの2か所に行くことができたのだった。
 ずっと行きたかったところだったので,こうして,その夢がかなったのが嬉しかった。

 旅の計画を立てていたとき,タングルウッドのコンサートのチケットがネットで購入できるかを調べてみた。
 かなり充実したホームページがあって,タングルウッドへ行こうと予定していた日のコンサートは,オールモーツアルトプログラムだった。
 日本では,夏に行われるサイトウ・キネン・フェスティバル松本のように,チケットが高価でしかも入手することすら困難だというイメージがあるから,タングルウッドも同様にチケットが入手できないか非常に高価だと思っていたのだが,,非常に安価(2,000円程度)で,しかも,容易にチケットが入手できることが驚きだった。
 現地のことはよくわからなかったが,もし行くことができなくてもこの値段ならと思い,とにかくネットでチケットを予約してきた。

 インターネットでMLBのチケットを購入する場合,年々システムが完成してきて,近ごろは,日にちと座席を指定して,クレジットカードで決済すると,そのままバーコードの入ったチケットを家庭のプリンタで印刷できるか,あるいは,決済をしたクレジットカードを球場のWillCall(チケット売り場)の窓口で渡せばそのまま発券してもらえる(東京のスカイツリーの予約した入場券と同じ方式)ようになった。
 日本の「ぴあ」のように,インターネットで予約したのち,コンビニでチケットを発券するのに手数料が必要などというのは論外で,私は,日本でも,ネットで決済したクレジットカードを入れればそのままチケットが発券できる発券機をコンサート会場に置くか,家庭のプリンタで印刷できればよいと思う。
 このように,特に,文化や娯楽に関しては,日本は発展途上国以下である。
 美術館はせまく,人の頭を見に行くようなものだし,コンサートはチケットを入手することも難しく,しかも高価なので,行く気をなくしてしまう。しかも,会場は狭く,建物を見るだけでも価値があるというものでもなく,コンサート前にゆっくり食事を楽しむといった雰囲気もない。
 一度でもアメリカのボールパークに行けば,日本で野球を見る気が全くなくなるであろう。
 本当に,都合のよいことだけは欧米並みといい,遅れていることはなにもしないこの国は情けない。
 
 インターネットで,タングルウッドのチケットを購入するとき,私は,MLBのチケットを購入するのと同じだと思っていた。しかし,さすがにクラシックのコンサートというべきか(コンピュータ化が遅れているという意味で),チケットを予約してクレジットカードで決済をしたのに,チケットをどのように入手するのか肝心なことがさっぱりわからないのに困惑した。
 ネットには,チケット購入者には別に電子メールを送ると書いてあったが,電子メールがいつまでたっても送られてこない。しばらく待ったが,なんの連絡もない。心配になって,こちらから電子メールを送ったのだが,返事も来なかった。無邪気に,ダイレクトメールだけは来るようになったが…。
 まあ,アメリカのことだから,当日窓口に行って話せはどうにかなるとは思ったし,ネットには,パスワードを入力すると表示されるマイページには確かにチケットは購入したことになっているので問題はないと思っていたが,どうもすっきりしなかった。結局,当日,タングルウッドの入口にあるチケット売り場で,何の問題もなくチケットは入手できたので,日本のみなさん,安心して,ネットでチケットを購入してください。
 そんなわけで,私は,タングルウッドの詳しい場所も,このコンサートがどんなものかもわからないまま,ともかく,日本でチケットを入手してきたのだった。

 はじめに「ネイチャー」に論文を投稿したときには,「何百年にもわたる細胞生物学の歴史を愚弄している」とさえ言われた,STAP細胞の画期的な製作方法の発見で,理化学研究所の小保方博士がメディアで取り上げられているわ。
 このことについて,海外と日本の報道の違いが,別の意味で話題になっているの。
 アメリカ,イギリスなど海外の報道では,この発見がどのようなもので,どう貢献するのかということに記事の主体が割かれていて,博士の年齢,性別,服装などに関する記事はないし,さらに,倫理問題に触れた記事が載っているって書いてあったわ。それに対して,日本の報道では,「割烹着姿」の小保方博士の写真を載せて,「30歳の若き女性研究者」と紹介したり,博士なのにも関わらず「小保方さん」と呼んだり,実験室の壁はピンク色に塗り替えたとか,机にキャラクターが並び女性らしさをのぞかせているとか,また,「リケジョ」という差別? 用語を使っていて,発見そのものに関する説明はほとんどなくて,業績には関係のない情報ばかりが報道されているとか…,っていうわけよ。

 この記事を読んで,私も,多くの記事を読み比べてみたんだけど,実際,そのとおりだったわ。
 でも,こういうことは,別に,今回の報道に限ったことではないし。たとえば,雑誌「TIME」と「AERA」を比べてみれば明らかなんだけど,このような記事の書き方は,日本の報道のいつものことなので,私は,驚きを感じなかったんだけれども。
 こうした報道の方法の違いについては,日本人っていうのは「何々はこうあるべきだ」,「女はこうだ」,「大衆はこうだ」という偏見と固定化された人物像で満杯なのだからこうした報道がされるんだ,と書かれてあったわ。
 だけど,私は,今回の発見に対しては,たとえ海外で日本でなされたような報道をしても その国では,日本の女性についてそれほど関心があるとも思えないし,日本人が発見したからこそこのような報道になったんだと思うの。だから,この批判自体も,同じように偏見なのよ。
 逆に考えると,もし,海外の女性がこのような発見をしたときに,日本のメディアが,今回のように報道をするかしら。だって,今回でも,共同で研究をしているアメリカ人に対しては,何の報道もされてないでしょ。

 私は,日本では,「偏見と固定化された人物像で満杯だから人物のことばかりが興味の対象になって,学問的な内容が記事になっていない」んじゃなくて,もっとその原因は深いところにあるんだと思うの。
 それは,日本という国では,「学問は生活と遊離していて,同じ次元で考えられていない」ということだと思うわ。
 学校での勉強は,テストでいい点を取るためだけのものだし。だから,中学校から古典の勉強をしても,古典を読めるようにならないし,数学を勉強しても,単に,入試の問題が解けるようになるだけでしょ。
 大学で何かを専攻したといっても,お医者さん以外は,大学でどんな学部を卒業しても,就職するときにはほとんど関係ないんだし。就職試験で,あなたは大学でどんな学問を専攻して,それは,この会社にどのように役立つのですか? なんていう面接しないでしょ。
 専門性っていうものに敬意を払っていないのよ。
 だから,こういった発見を聞いても,みんなそのことに学問的な関心なんてなくて,すごいなあ,そんなすごい発見をしたのはどんな人だろう。単に,そういった興味を示すだけじゃないから。
 でも,本当はそうじゃないかもね。ちゃんと発見したことの意味や内容を知りたい人も一杯いると思うよ。受験勉強だけじゃない学問をしたいと思っている若者もたくさんいると思うよ。だけど,報道関係者はそうは思っていないのよ。そんな難しいことを書いても売れないって。民放はいうに及ばず,Eテレの番組も,どんどんと幼稚になってきてるでしょ。
DSC_0004

DSC_2243DSC_2247DSC_2252DSC_2256DSC_2258

 吉野ケ里歴史公園は,東口と西口があって,西口エリアには,弥生の大野とよばれる広大な芝生広場があるそうなのですが,こういったレジャー施設と東口の遺構を混在させた公園を作ってしまったことが,いかにも日本的というか,他のどの施設にも共通した哲学のなさが露呈されていると私は思いました。それはともかく,私は西口には興味がないので,東口エリアの歴史的遺構を見学しました。
 これだけの規模の弥生時代をすべて網羅するような遺跡が,やがて顧みられなくなってしまって,その結果,工業団地を造ろうとした現代,そのまま姿を見せたことも不思議ですが,この地に立ってみると,中国から朝鮮半島を経て,多くの人が渡ってきたことを実感します。そして,私のような,本州に住む人間がどうしても奈良というところが大和朝廷のはじまりであったように感じるのとは別の感覚が生まれてきたのが不思議なことでした。

 今から約2,000年も前に,人はこの地に確かに生きていたのです。しかも,序列化され,今よりも身分制度厳しく,社会保障もない時代に,何を感じ,何に夢を持ち,日々の生活をおくっていたのかと考えると,複雑な気持ちにもなりました。
 本当に人というのは不思議な生き物です。仏教では,生きるのではなく生かされているという考えがありますが,まさに,何かをしたくて生きているというよりも,生きるために何かをせざるをえないということだったのでしょうか。そう考えると,復元した様々なものに,時折,現代人の価値観を感じ,???と思うことがあるのが興味深いところでもありました。

 私がもっともおもしろかったのは,北墳丘墓でした。ここは,博物館になっていて,さまざまな展示がありました。この博物館の係の方とお話をしました。吉野ケ里では「巨大環壕集落」というのですが,その「壕」は「濠」ではないということです。それは,堀は水で満たされていたわけではないということを意味します。しかし,文献のみに頼っている学者さんの中には「濠」という字を使う人がいて,その人は,実際に吉野ケ里を見ていないのではないか,と言っていました。
 このように,文献に頼る学問,そして,プリント学習ばかりをしている現代の教育は,こういう遺跡を訪れて,実際に体で感じることが不足しているわけです。
 私は,もし,こういった遺跡を見ずして歴史を教えている教師がいたら,その人は信用できないな,と思いました。

 先に書きましたけれど,ここの復元は,どれほど信頼性があるのでしょうか?
 私は,これまで様々に学んできたものの多くが,その後,別の学説になってしまったり誤りだったり,書き換えられたりしてきたことを知っています。特に,若いころに学んだことは,強く印象に残っていることもあり,その後,その学説が変わったことを知らないで,びっくりすることが少なくありません。だからこそ,学問はおもしろいのですが,それを,何もかも正解・不正解で仕分けする現代の受験教育はやはり間違っていると思います。いずれにしても,吉野ケ里で,私は,邪馬台国とか大和政権とか,そうした,日本が中央集権の国家を作っていったなどという簡単なことではないよなあ,と強く思いました。
 高校の歴史の教科書には,たった5ページの記述があって,何もかもわかったように書いてある弥生時代ですが,私にはどんどんと謎が深まってきました。もう一度,古代史を学んでみたいなあと,強く思いました。このように吉野ケ里は興味深いところでした。

DSC_2261DSC_2229DSC_2232DSC_2239

 九州旅行の最後に吉野ケ里歴史公園へ行きました。
 吉野ケ里は,平成元年に全国に報道され,非常に有名になりましたが,私は,高校で歴史を学んだころから今までずっと邪馬台国は大和にあると思っていて,特に,箸墓は卑弥呼の墓だと信じているので,たいして興味はありませんでした。
  ・・
 小学校のころは,弥生時代の遺跡といえば,静岡県の登呂遺跡で,高床式倉庫や,竪穴式住居の模型を作ったりもしたので,その記憶が今も鮮明です。子供のころの,物を作ったり星を観察したり,そうしたテストでない教育は非常に大切だと,今にして思います。
 きっと吉野ケ里は登呂遺跡を少し大きくしたくらいのものだろうと想像していました。しかし,この機会を逃したら行くことはないだろうと思ったので,少し足をのばしました。

 私は,国道442号線を大分県の竹田市から西に走って行ったのですが,九州自動車道の八女インターチェンジに近づいていくころに,様子が一変しました。
 それまでほとんど車の通っていなかった国道に,久留米ナンバーの車が多くなってきたのですが,なぜか,この久留米ナンバーの車は,運転マナーがちょっと違うのです。それは,やたらと速度が遅いことでした。たとえば制限速度50キロメートルの道だと,40キロメートルくらいでのろのろと走るのです。それも1台や2台ならたまたまその車がそうであるといことなのでしょうが,どの車も似たようなものなのです。宅急便の車やら貨物を積んだトラックもまた,似たようなものなのです。吉野ケ里に近づいて,あたりは田んぼの中の見通しのよい道になってもそれは同じなのでした。
 私は,これは,久留米の自動車学校の教育が違うのか,それとも,弥生時代から,この地はそうした民族の住むところなのかと今でも不思議に思っています。

 閑話休題。
 ともかくも,私には珍しく旅先での雨の中(アメリカでも雨に降られました。ついに晴れ男はその神通力を失いつつあるようです),吉野ケ里歴史公園に着きました。
 そこは,想像を絶する広さでした。まるで1970年の大阪万博の会場のようでしたし,私には,サウスダコタ州のマウントラシュモアの国定記念物を訪れたときのような感じでもありました。聞いたところでは,平成4年にこの場所が国営になってから,整備されるお金の額が激増されて整備されたということで,その点で,マウントラシュモアと同じ匂いを感じたのかもしれません。地方公園の田舎臭さや,さもお金がないのでいつまでも整備中といった愛知県の愛・地球博記念公園のような感じがなく,ここは威厳のある公園でした。

 入口で入場料を払って,傘を借りて中に入りました。雨でほとんど観光客はなく,それでも,帰るころには団体がバスで到着しました。
 私は,室内にも大きな博物館があるのかなあ,と思っていたのですが,その期待は裏切られました。しかし,屋外に復元された展示には圧倒されました。それとともに,この復元はどれほど歴史に基づいたものなのかが,非常に気になるところでした。
 園内を歩き始めましたが,その広さに眩暈がしました。私が登呂遺跡を少し大きくしたものだという認識は完全に誤りであったことを認識しました。そして,日本の観光施設で,はじめて,よい意味で期待が裏切られました。

DSCN3255 DSCN3259DSCN3281DSCN3289DSCN3307

 野球殿堂博物館を出て,次に,有名なダフルディ・フィールドへ行くことにした。
  ・・・・・・
 ダブルディ・フィールドは,クーパーズタウンにある野球場である。
 クーパーズタウンが「ベースボール発祥の地」とよばれるのは,1839年にアメリカ陸軍のアブナー・ダフルディ将軍が,草むらでボールを打って走る遊びを,この場所にベースを埋め込むことでひとつの競技として確立させた,という説が元となっている。
 ただし,これは作り話である。
  ・・
 1917年,この地に病院が建設させることが決まったのだが,「野球誕生の地」から野球場が消えることを危惧した地元市民が土地を買い取り,1920年9月6日に完成させた。これが,このダフルディ・フィールドである。
 普段は少年野球などに利用されている。
 1939年から毎年大リーグの2球団による奉納試合が殿堂入りの表彰式と同じ週末に行われるのが恒例行事であったが,この奉納試合はメジャーリーグ球団のスケジュール調整の問題から,2008年を最後に取りやめとなってしまった。
  ・・
 ヴィンテージベースボールというものがある。
 ヴィンテージベースボールは,全国的に同一の野球ルールで試合が行われるようになった19世紀後半のルール・服装・用具などを使って行われる,懐古的な野球のことである。
 アメリカ合衆国でプロ野球組織が設立・活動をはじめて100年が経った1970年代後半から,野球のはじまった当時のルールと服装を再現した野球ゲームを行う動きが起き,1980年代に入りこの懐古的な野球を楽しむクラブの活動が徐々に活発になっていった。
 ニューヨークのオールド・ベスページという場所で,野球史愛好家らの手によって1860年当時のルールで試合が行われた。その後1995年に「ヴィンテージ・ベース・ボール協会」が設立されて,加盟クラブ間での交流試合を手助けをするようになった。この組織では1860年代のルールをもとにゲームが行われている。
 また,元ニューヨーク・ヤンキース等で投手として活躍したジム・バウトンを理事長とする「ヴィンテージ・ベース・ボール連盟」は1880年代のルールをもとに,住民参加の町おこしも兼ねて各地でゲームを行っている。
 ここ,ダブルディ・フィールドでも試合が行われている。
  ・・・・・・

 野球殿堂博物館から少し行ったところに,この球場があった。周りは静かな住宅地であった。球場に隣接して空地があって,どうやらここが球場の駐車場であるらしかったので車を停め,球場に行った。空地には,バッティングセンターがあった。
 球場では何かの催しものの準備をしていたが,自由に中に入ることができた。作業をしていた人にあいさつをしたら,何やら,誇らしげな表情をした。たとえ,眉唾物であっても,野球発祥の地というのが,町の誇りなのであろう。
 日本の小さな都市にあるスタンドを備えた野球場とおなじようなものであった。スタンドは,アメリカのマイナーリーグの球場のようであったが,鉄筋コンクリート製の内野席や木製の外野席もある立派な球場だった。
 こういう場所に出会うのがアメリカの田舎町を旅行して楽しいと感じる瞬間である。

 ダフルディ・フィールドを後に,朝来た道を今晩泊るホテルまで戻った。
 まず,クーパーズタウンを北向きにオテゴ湖に沿って走った。適当に走っていたが,その道は,来るときに道路工事中と書かれていたオテゴ湖の東側の道路であった。別に道路工事ということもなく,そのまま州道20に出た。
 途中の町で,ガソリンを入れ,おそい昼食を買って,さらに,州道20を進み,オールバニーからインターステイツ90に入り,インターステイツ90がターンパイクとなってEZPassのゲートをくぐりしばらく進むと右手にホテルの道路標示があった。インターステイツ90を出て,道なりにすすむと,小高い丘の上にホテル「バークシャー・トラベルロッジ」があった。
 このホテルは,この旅行の少し前に,タングルウッドの近くで料金の安価なホテルをブッキング・コムで探して予約をしておいたところであったが,とても,よい選択であった。天気はすっかりよくなって,というよりも,このホテルのある場所はずっと晴天だったそうだが,今晩のボストン交響楽団の野外コンサートがとても楽しみになってきた。

DSCN3221DSCN3241DSCN3230DSCN3245DSCN3248

 そして1階は,シアターとショップ,そして,野球殿堂ホールがあった。
 野球殿堂ホールには,壁一面に野球殿堂入りを果たした選手のレリーフがあった。特に有名な選手のレリーフの前には,レリーフと一緒に記念写真をとる観光客が引きも切らななった。
 そのなかでも,最も中央に5枚のレリーフがあって「1936 ザ・ファースト・クラス」とされていた。
 それらは,クリスティ・マシューソン,ベーブ・ルース,タイ・カップ,ホーナス・ワブナ,ウェルター・ジョンソンのレリーフである。

  ・・・・・・
 クリスティー・マシューソンは1880年生まれ,1900年から1910年代に活躍した投手である。
 ペンシルベニア州ファクトリーヴィル出身で,Big Sixというニックネームをもつ。歴代3位となる通算373勝を上げた20世紀初頭の著名な投手であり,変化球のひとつである「スクリューボール」をルーブ・フォスターから教わり,はじめて実戦投入した投手といわれている。
 彼は「クリスチャンの紳士」とよばれる。1908年には投手三冠王とセーブ王を同時に獲得するというチャールズ・ラドボーン以来の快挙を達成している。
 従軍し,軍の訓練で兵士たちを気密室に送り込み,ほとんど警戒なしに毒ガスを放出するという危険な訓練に参加したが,訓練中に使われたマスタードガスにより肺を患ってしまう。終戦後は療養生活を送ることとなったが,療養の甲斐なく1925年に結核のためニューヨーク州サラナク湖畔の療養所にて45歳で死去した。
  ・・
 タイラス・レイモンド・カッブは1886年12月18日アメリカ合衆国のジョージア州ナロウズ出身の外野手である。1920年以前の本塁打が少なかった頃の代表的な選手で,「ザ・ジョージア・ピーチ」のニックネームで呼ばれた。
 1909年には史上唯一の打撃全タイトル制覇を達成。ピート・ローズに破られるまでメジャーリーグ歴代1位の4191本の安打を打った。通算打率.366で首位打者に12度も輝くなど数々の記録を保持しており,選手の権利というものを最初に訴えた選手でもある一方,悪評も有名な人物であり,「最高の技術と最低の人格」とも評された。
 引退後はジョー・ディマジオがヤンキースと契約するときに一役買ったエピソードや,困窮した元メジャーリーガーのために自分の財産の一部を寄付し続けた話もあるなど,若手選手を積極的にバックアップした。しかしその一方で私生活は荒んだもので,護身用に拳銃を携帯し,体の痛みを紛らすためにバーボンを1日に1瓶空ける有様だったという。結婚生活も全て最後は破局し,子供や肉親のために莫大な財産を残し,故郷に豪華な墓を建てたが,全員から縁を切られ,墓に入ることも拒否されたといわれている。
  ・・
 ホーナス・ワグナーは1874年生まれ。1890年代後半から1910年代まで遊撃手として活躍した。アメリカ合衆国ペンシルベニア州出身。
 「ザ・フライング・ダッチマン」の愛称をもち、史上最高の遊撃手との声も高い。
 首位打者を8回,打点王を5回,盗塁王にも5回輝く。歴代8位の通算3,415安打を記録し,1917年に引退した。
 引退後は荒んだ生活を送っていたといい,アルコール依存症に陥っていたとされる。これを見かねたパイレーツがワグナーを打撃コーチとして現場復帰させたエピソードがある。当時ワグナーから指導を受けていたパイレーツの看板選手ラルフ・カイナーが自伝で「(ワグナーは)ひとつの店で飲んだら,次はまた別の店と渡り鳥のように酒を飲んでいたが,見ていて何とも悲しかった」と記している。
  ・・
 ウォルター・ジョンソンは、1887年生まれ。主に1910年から1920年代に活躍したアメリカメジャーリーグの投手である。カンサス州フンボルト生まれ。ニックネームは「人間機関車」。通算417勝を挙げた剛速球投手。
 毎年のようにリーグの投手タイトルをとってきたが,ボールの規格が変わった1920年の成績は8勝10敗と落ち込んだ。翌1921年にジョンソンを相次いで不幸が襲う。7月に父親が脳卒中で亡くなり,シーズンオフには長女がインフルエンザで亡くなった。相次ぐ悲劇にジョンソンは引退を考えていたが,ファンの懇願もあり,それまで一度もなしえていなかったセネタースのリーグ優勝を目標に現役続行を決意する。
 悲願となったセネタースのリーグ優勝はついに1924年に成し遂げられ,既に36歳になっていたジョンソンも23勝7敗と大活躍,同年は自身3度目となる投手三冠を獲得し,二度目のリーグ最優秀選手に選ばれた。
  ・・・・・・

 このように,大リーグファンには,たまらない博物館であった。
 イチローは,いつか,野球殿堂入りするだろうから,そのときに再び訪れて,イチローのレリーフを見てみたいと思った。

◇◇◇
Seahawks Pour It On
SUPER BOWL XLVIII : Seahawks 43, Broncos 8
予想通り,シアトルの勝利でした。
ペイトン・マニング選手の活躍を見ることができなかったのが,残念でした。

画像 146
シアトル・シーホークスの本拠地センチュリーリンク・フィールドです。

画像 086画像 091画像 028画像 034

 今日は2月3日,節分です。
  ・・・・・・
 節分とは「季節を分ける」ということで,もともとは立春・立夏・立秋・立冬,各季節の始まりの日の前日のことです。江戸時代以降は特に立春の前日を指す場合が多く,平年,2月3日ごろになります。
 一般的には「福は内,鬼は外」と叫んで鬼を退治し,招運来復を祈る豆をまき,年齢の数だけ豆を食べる厄除けを行います。また,邪気除けの柊鰯などを飾る地方もあります。また,全国の多くの社寺でもその神事が行われますが,京都の節分会の行事はそれはそれは盛んで,この日に京都へ行くと,あちらこちらで様々な行事を見ることができます。
  ・・・・・・

 私も,これまで,2月3日に京都に足を運んで,さまざまな節分の行事を見てきました。寒さの中,こうした行事を味わうと,体がきりりと引き締まる思いがして,実によいものです。
 もっともすごいと思ったのは,吉田神社の節分祭です。ここの節分祭は,信仰と伝統を誇る京洛の一大行事で,例年約50万人の参拝者が訪れ,境内は多くの露店と厄除祈願やくちなし色の御神札を求める参拝者の人波で埋め尽されます。
 このことについては,すでに書きました。

 京都御所近くの廬山寺は,京都市上京区にある天台系の単立仏教寺院で,圓浄宗の本山です。このお寺は紫式部の邸宅跡として知られています。
 このお寺に伝わる節分の「追儺式鬼法楽」は通称「鬼おどり」とよばれていて,これに登場する鬼は人間のもつ三毒,つまり貪欲・怒り・愚痴を表現しています。この三毒を運勢の変わり目といわれる節分の日に追い払い,開運をはかり新しい節を迎えるという法会行事なのです。
 元三大師が鬼を退治したといわれる独鈷,三鈷,また大師が宮中で使用したと伝わる降魔面なども,当日に限り特別開帳されます。
 京都の節分会の代表行事のひとつに数えられています。
 新聞社やテレビ局も報道していて,とてもユニークなものです。多くの観光客や参拝客でごった返していますが,一度は見に行かれるとよいと思います。

 この日,京都市内だけでなく,洛北貴船でも,興味のある節分行事が行われます。出町柳から叡山電車に乗って,終点・鞍馬のひとつ手前・鞍馬口で降りて,貴船川に沿って歩くこと30分,貴船神社に着きます。雪が積もっていることも多く,道路は凍結して,歩道もなく,滑らないように注意が必要ですが,冬の洛北の静寂は,それはそれはすばらしいものです。
 朝早く出かけて,この貴船神社の節分行事を見学するのは,観光客も少なく,素朴なもので,大変に素敵です。
 実は,この節分の日に豆をまくことは,貴船神社が発祥だという興味深くおもしろい話があるそうです。
  ・・・・・・
 室町後期のお伽草子「貴船の物語」は,鞍馬の山奥に住む鬼の大王の娘と都の中将殿が恋に落ちて,波瀾万丈,鬼に責められながらも,結末は鬼の娘が人間に生まれ変わってめでたく結ばれる…という恋物語です。
 この物語のラストシーンで,結ばれた二人を憎んで節分の夜に都に攻め寄せる鬼どもを侵入させない方法として,「再び鬼を都に侵入させないために目つぶしとして豆をまき,鬼をあざむくために鰯を焼いて家の門口に刺し…」等々と記されているのです。
  ・・・・・・

DSCN3200DSCN3204DSCN3206DSCN3213

 2階には,七つのコーナーがあった。 
 「ザ・クーパータウンルーム」では,この博物館の起源やら,ベースボール黎明期の展示があった。「ベースボール・エクスペリアンス」では,13分間のベースボールに関する映画を見ることができた。また,「19世紀の野球」では初期のベースボールのチームやプレーヤーに関する展示があった。
 そして,「アフリカンアメリカンの時代」,「女子野球の時代」,「ラテンアメリカの時代」には,それぞれの時代に代表されるアフリカンアメリカンの選手,女子プロ野球があったころの代表的な選手,ラテンアメリカの選手に関する展示があった。
 「今日のゲーム」のコーナーには今日のベースボールに関するチームやプレイヤーのロッカールームやらユニフォームやらの展示があった。
 中でも興味深かったのは,ベーブ・ルースとルー・ゲーリックの展示であった。私の好きだったアトランタ・ブレーブスのグレッグ・マダックスの展示もあった。

 アメリカでは,1943年から1954年まで12年間全米女子プロ野球リーグが運営されていた。
 創設者は,シカゴのフィリップ・リグレーであった。彼は,シカゴ・カブスのオーナーでもあった。
 当時は,第二次世界大戦下で,多くのメジャーリーガーが兵役についていて,選手不足のためにマイナーリーグのいくつかは破たんに追い込まれていた。そこで,野球への関心が薄れないようにするために発案されたのが女子プロ野球であった。
 やがて,終戦。
 メジャーリーガーたちの復帰が一段落し,女子プロ野球は,観客数が減少しはじめたり選手不足などの問題が生じて,1954年を最後に解散することになった。
 1992年,映画「プリティ・リーグが公開されて,その頃の活動が広く知られることとなった。今日でも,かつての選手たちによる親睦活動が続けられている。

 ベーブ・ルース,つまり,ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニアは,1895年2月6日の生まれで,メリーランド州ボルチモア出身のプロ野球選手である。野球の神様と言われ、米国の国民的なヒーローでもある。
  ・・・・・・
 べーブ・ルースは,本塁打50本以上のシーズン記録をはじめて達成した選手で,1927年に記録したシーズン60本塁打は,ロジャー・マリスによって破られるまでの34年間にわたって最多記録であった。また、生涯通算本塁打数714本もハンク・アーロンに破られるまでの39年間MLB最多であった。
 ベーブ・ルースは,また,ブラックソックス事件による当時の球界への不信感を,豪快な本塁打の連発により払拭するにとどまらず,さらに野球人気を高めることに成功した。
 ブラックソックス事件は,1919年のワールドシリーズで優勢を予想されていたシカゴ・ホワイトソックスがシンシナティ・レッズに3勝5敗と敗退したとき,シリーズ前から噂されていた賭博がらみの八百長疑惑が真実味を帯びて,地方新聞の暴露記事がきっかけとなって事件が発覚した。ホワイトソックスの主力8選手が賄賂を受け取ってわざと試合に負けた容疑で刑事告訴されたものである。
 ホワイトソックスは,これ以降1959年まで優勝から遠ざかり,長らく「ブラックソックスの呪い」がささやかれた。
 ベーブ・ルースは,アメリカ国内において,数多いプロスポーツの一つに過ぎなくなっていたベースボールを,最大の人気スポーツにした事で「アメリカ球界最大の巨人」と評されている。
  ・・・・・・

 そして,この階は,日本から来た人たちには,特別な見ものがたくさんあった。
 この野球殿堂博物館を訪れたいろいろな人のブログを見てみると,その時々に違った展示がされているようであるが,私が行ったときには,特に,イチローの展示がたくさんあった。
 それだけ,イチローはたくさん記録を持っているのだということを,私は再認識した。そして,多くの人が興味を持ってそれらを見ていた。
 私は,このイチローの祖国から来たんだよ,と自慢したくなった。

☆ミミミ
ラブジョイ彗星(C/2013R1 Lovejoy)(写真上)は,どんどんと地球から遠ざかっていますが,条件がよく,まだまだ夜明けの空に見ることができます。現在は8等星です。
リニア彗星(C/2012X1 LINEAR)(写真中)も予報よりも6等級も明るく,これも現在8等星です。こちらは,これからもっと尾が伸びた姿をみることができそうです。
このふたつの彗星は,双眼鏡を使うと,同じ視野に見えるほと近づいています(写真下,左上ラブジョイ彗星・右下リニア彗星)。明け方の東の空へびつかい座にいます。
アイソン彗星は消えてしまいましたが,この冬は,多くの彗星を長い期間見ることができました。それにしても,前評判の高かったパンスターズ彗星とアイソン彗星が明るくならず,その代わりに,ラブジョイ彗星もリニア彗星も予報よりもかなり明るく見ることができたように,彗星の予報は難しいものです。

ラブジョイ20140201 リニア20140201 ラブジョイとリニア


 日曜日のNHKBS1「エルムンド」にアメリカ合衆国の理論物理学者リサ・ランドール(Lisa Randall)さんが出ていたのですが,ご覧になりましたか?
 人類永遠の謎,宇宙。その宇宙はどこまで解明され,どんなことが解明されていないのか? この番組のホームページには,「その深遠なる宇宙の謎に迫る」なんて書いてあったんだけど,果たして迫れたのかな? 番組の最後にある恒例の「ランドール博士が見つめる“エルムンド”とは」に,博士は「好奇心」と答えました。私も,いつまでも好奇心を忘れないようにしないとね。そう,世界は好奇心を抱くものに満ちているんだ。
 宇宙論を「わかりやすく」説明しますって出版されている本には,いろんなたとえや図解が載っているんで,それを読むと「へ~え,宇宙ってこういう形なんだ。」って誤解しちゃうけれども,理論物理学で解明しようとしているのは,あくまで数式で矛盾なく説明できる理論を作ることなんで,図解化しても,それは本当の宇宙の姿じゃないよ,みなさん。誤解しないでね!


 アメリカ合衆国の伝説のフォーク歌手ピート・シーガー(Pete Seeger)さんって知っていますか。残念ながら,火曜日にお亡くなりになってしまいました。
 おじいちゃんによると,ピート・シーガーさんは,20世紀のフォーク・リバイバル運動の中心人物で,有名な「花はどこへ行った」(Where Have All the Flowers Gone?)っていう代表作を作ったんだって。この曲は,世界で一番有名な反戦歌とも言われていて,「戦争がいつまでも繰り返され,いつになったらその愚かさに気づくのか?」というメッセージソングなの。
 人間の歴史は戦争の歴史。それは今も変わらない。それが私には悲しい。 


 今日の早朝,夜明け前の南東の空に,月齢27の細い細い月と明けの明星・金星が接近してたんだけれど,ご覧になりましたか? 朝の光にとけていくふたつの天体が本当にきれいで,見ていると地上のつまらないことを一瞬でも忘れることができたわ。見逃した人は2月26日にまた見られるから忘れないでね。
 その右上にはさそり座の赤いアンタレス,左の北東方向にはベガ,アルタイル,デネブの夏の大三角が輝いていて,たくさんの1等星がそろい踏みをしていたのよ。
 冬の早朝は寒いけど,こんな素敵なことがあるのよ。早起きは三文の得なのね。


 NHKの海外ドラマ「グッド・ワイフ」(The Good Wife)のシーズン4が,4月からはじまるわ。
 「グッド・ワイフ」は,アメリカのCBSで2009年9月から放送されている法律&政治ドラマのシリーズで,今,アメリカではシーズン5を放送中なの。
 主演女優のジュリアナ・マルグリーズは,ゴールデングローブ賞でテレビドラマ部門主演女優賞を受賞したり,プライムタイム・エミー賞ドラマシリーズ部門作品賞および主演女優賞にノミネートされた素敵な女優さん。
 このドラマ,少しむずかしいけれど,NHKの海外ドラマのブログがあって,放送が終わると,番組のスタッフがその内容を解説した詳しい書きこみをするので,それを読みながら番組を見るとものすごくおもしろいよ。
 今話題のビッドコインだって,もう1年以上前に,この番組で取り上げられていて,ブログにもちゃんと解説してあったの。そのとき,ビットコインを買っておいたら,今ごろ私は大金持ちだったわ。本当に残念なことをしちゃったなあ。


 いよいよ,アメリカは国を挙げてのスーパーボールね。
 スーパーボールは出場チームと関係なく開催地が決まっていて,今年は,ニュージャージー州メットライフスタジアムでやるのだけれど,雪が心配なんだって。特に今年は,アメリカには例年にない寒波が襲っているから,それが入場券の値段に影響が出ていて,屋根つきのスイートは50万ドルが相場だそうよ。
 天候が悪いと延期っていう可能性もあるみたいだし,天気になるといいね。日本でも中継があるから見てね。

DSC_2451sDSC_2454s

このページのトップヘ