私は,30分以上,ホージーストリートを北,だと思っていたが,実際は北東に向かって歩いただろうか,やがて,ホージーストリートは突き当りになって,そこで終わりになった。すると,右手に,見慣れたホテルがあった。
ずっと不安ではあったが,ホテルのある地名と同じ名前のストリートを歩いているのだから,何とかなるとは思っていたが,それにしても遠かった。そして,ホテルに隣接して,見覚えある地下鉄の駅の入口がちゃんとあった。
なんだか,キツネにつままれたようであった。
何と,地下鉄はJラインではなくて,Lラインではないか! まさか,同じ名前の別の駅があるなどという,日本ではありえないことになっているなんて夢にも思わなかった。
ここで事態は好転した。
この時点で,ミュージカルの開始まであと1時間もなかったが,これならなんとか間に合いそうな気がした。
そして,ミュージカルが終わっても,こういうことなら何の問題もなく戻ってこられることもわかった。このホテルに2泊しても何ら問題がないこともわかった。
私は,ホテルの場所さえ確認できればそれでよいわけだから,すぐにここから地下鉄に乗ってブロードウェイに引き返すことにした。
私の気ままな旅は,いつもこんな感じになる。
ホテルに隣接した「ホージーストリート」駅の入口を降りると,そこは,マンハッタンとは反対側行きのホームにしか行くことができなかった。マンハッタン方向は,一度地上に出て,道を横断した向こうの入口から降りなければならないのであった。
ボストンでもそうであったが,日本とは違って,地下鉄の上りと下りに地下での連絡通路がない。
一旦地上に出て,道路を横断して,道の向こうの入口を探した。
反対側の入口は,商業店舗の横に隠れるようにあったので,その場所を見つけるのに少し苦労したが,ちょうど道を横断するときに一緒になった若者が地下鉄を利用するようで,地下鉄の入口に向かって歩いていくので入口を見つけることができた。
階段を降りていくと,まるで30年前にもどったような鉄格子に囲まれた改札口に出た。
改札を入ると,「ホージーストリート」という表示がくすんだ壁に書かれた,広告もない暗いホームに出た。
ホームで待っていると,これまでの人の苦労も知らず,何事もなかったかのように,地下鉄がホームに入ってきた。
これなら何の問題もなく深夜に戻ってこられると,ほっとしたと同時に,どっと力が抜けた。
何か,これまでに起こったことがすべて夢のようだった。とともに,今回もまた,何とかなったのだった。
ケネディ空港からマンハッタンに行く地下鉄Eラインは最新式のきれいなものであったが,この地下鉄Lラインは外見は変わらないが,古びていた。でも,間違えて乗ったJラインはもっと古びていた。
けれど,古きよきニューヨークの香りがした。
わずかこれだけの経験であったけれど,ブルックリンというところがどういったところか少しずつわかってきた。それは,はじめて東京に来て,渋谷駅から地下鉄銀座線に乗って,浅草駅で降りるような感じ,とでもいえばわかっていただけようか。
これも後で知ったことだが,私は地下鉄Jラインが「マートレストリート」駅で迂回してMラインの路線に曲がってしまったので,あわてて次の駅で降りて引き返したのだったが,次の駅で降りずに,そのままあと2駅乗っていれば,Lラインの「マートレストリート」駅(ここも同じ名前だ)に到着して,そこでLラインに乗り換えることができて,ホテル横の「ホージーストリート」駅は,その次の駅だったのだった。
こんなわけで,私は,道に迷ったことで,ブルックリンについて,非常に詳しくなった。
こういうことは,行く前にどれだけ調べてもわからない。まさに百聞は一見にしかずなのである。
・・
結局,私は,このようなことがあって,ブルックリンがマンハッタンよりも好きになった。
くすんだニューヨーク。ビリージョエルの「ピアノマン」の歌がきこえるような,そんなニューヨークはいいなあ。
March 2014
2013アメリカ旅行記-ブロードウェイへ④
セントラルアベニュー駅で少し待ったら逆向きの電車が来たので,とにかくそれに乗って,マートルアベニュー駅まで戻った。
ホームをから階段で地上に降りると,そこは,東京のどこかの下町のようなところであった。もう,私には,何が何だかわからなかったけれども,ともかく,ホージーストリート駅まで行けばいいわけだから,何とかなると言い聞かせた。
駅を出ると,地下鉄の係員がいて,あわただしく代替バスの案内をしていた。
なにか日本みたいだ,と妙におかしかった。
だんだんとミュージカルの開演時間が迫ってきたことだし,別に,今ここで代替バスに乗ってホテルに戻らなくても,ブロードウェイに引き返してミュージカルを見ればいいとも思ったが,あのものすごく無愛想なおばさんがバスにのんな,とにらんでいるし,気の小さい私は,もうどうにでもなれと,バスに乗ることにした。
それにしても,このあとミュージカルを見てから,深夜にここに戻って,今のように代替バスでホテルに戻るなどという恐ろしいことは不可能に思えた。第一,深夜に代替バスなんであるんかいな? だから,このあとミュージカルを見に行くにしてもここで一度予行演習をしなくてはいけないと思った。
それに,予約したホテルには2泊するので,その翌日もマンハッタンの夜景ツアーのあとで,この代替バスでホテルに戻って来なくてはならないのだ。私は,安価なだけの理由で,こんなところにホテルを予約したことをつくづく後悔した。
ホテルが地下鉄の駅の隣だから便利だと思って決めたのに,地下鉄が走っていないなんて,これでは詐欺ではないか。
私はこの時点で,今晩ミュージカルを見ることはあきらめた。
いくらこれまでアメリカでいろんなことを経験したといっても,今回のトラブルは,絶望的だった。
バスの運転手に,「ハーセル行くか」と聞いたが,発音が悪いみたいで,なかなか通じなかった。わたしはずっと「ハーセル」だと思っていたが,「ハーセル」でなくて,「ホージー」と発音するのであった。
命まではとられないだろう,最悪の場合はここからタクシーに乗ればいいではないか,ともうどうにでもなれと腹をくくり,バスに乗り込んで,座っていたが,バスは次の電車が来るのを待っているようで,なかなか発車しなかった。時間はどんどん過ぎていくし,3時間も余裕があると思っていたが,もう,すでに1時間以上過ぎてしまっていた。
やがて,次の電車の乗客も乗りこんでバスが出発したのだが,今度は,道が大渋滞で,バスがなかなか前に進めなかった。もう,いい加減にしてくれ,と思った。
そのうち,どうにかバスが動き出したのだが,はじめは地下鉄の高架下を走っていたので,わからないなりにも,ホージーストリートの駅は見つかると思っていたのに,バスは渋滞する高架下の道から進路を変えて,訳のわからないところを走りはじめた。
必死に運転手の言うことを聞いていたら,しばらくして,どうやら,「ホージーストリート」と言ったらしい。
私は,戸惑いながらもそこでバスを降りた。降りるときに,無愛想な女性が,向こう向こうと言って,指を指した。それは,「ホージーストリート」は降りた場所から1ブロック後ろの道だということを言っていたということを後で知ったのだった。
バスを降りた途端に,私は頭が白くなった。周りを見回しても,ホテルらしきものはどこにもなかったし,警官もいないし,タクシーもなかった。ここがどこなのか,全くわからなかった。道の名前すらわからなかったし,たとえわかったとしても,その道がどこへつながっているか見当もつかなかった。
後で知ったことだが,実は,私が代替バスを降りた地下鉄Jラインの「ホージーストリート」駅はホテルに隣接する「ホージーストリート」駅とは違うものだった。この時は,そんなこととは全く知らなかった。だから,もし,代替バスでなく,そのまま地下鉄が走っていて「ホージーストリート」駅で降りることができたとしても,降りた時点で,同じようにパニックになったのである。
これから書くこともまた,帰国後にわかったことだが,地下鉄のJラインの高架が通っている道は「ブロードウェイ」という名前の道で,代替バスの走っていた道はその一本北を平行に走るブッシュウィックストリートであった。私の降りたところがエルダートストリートとブッシュウィックストリートの角で,1ブロック後ろへブッシュウィックストリートを戻ると,そこがホージーストリートであった。
私は,この時点では,地下鉄の駅に行けばホテルがあると思っていたのだが,そこへ行くにはどの方向を目指せばいいかがわからなかった。まわりを見回したら,美容院があったので,道を聞こうと店の中に入って,ホテル場所の地名を書いた紙を見せて,道を尋ねた。
店員どうしがスペイン語で何やら話して,まず,ホージーストリートは1ブロックこの店の後ろだと言った。そして,目指すホテルにはバスで行くといい,と言った。
しかし,私は,ここでまたバスに乗ることにしても,バスがいつ来るかもわからず,だから何時に着くかもわからないなあと思った。それに,ホテルはそこからそれほど遠いところだとも思っていなかったので,歩いていく,と言ったら,ホージーストリートを北の方へ向かって行けと言われた。
私は,代替バスが地下鉄の線路から北のほうに進路を変えたので,ホテルはてっきり南の方にあると思っていたので,間違ったことを教えてくれたのではないかととまどったが,素直に指示に従って北に行くことにした。
・・
言われたとおり歩いていくと,どんどんと,下町の住宅街に入っていった。道を通行止めにしてお祭りをやっていたりした。そのあたり,セサミストリートにでてくるような,ニューヨークの下町だった。英語以外の言葉が飛び交っていた。
ここは怖い所なのか,そうでもないのかさえ,さっぱりわからなかった。そして,ゆけどもゆけども,ホテルの場所がどこかなど,皆目見当がつかなかった。
今にして思えば,パトカーの1台も見かけなかったわけだから,案外と治安のよいところだったのかもしれない。が,そのときは,足が震えていた。まだ,明るかったので,なんとかなるわい,と思ってはいたものの,そして,確かに歩いていた道はホージーストリートだったので方向はともかくこの道を歩いている限り何とかなるとは思っていたものの,英語が通じそうにない場所でもあり,自分が自分でないような,でも,いつもこういう事態になっても最後には何とかなっているし,みたいな不思議な楽観気分でいた。
・・
帰国してからグーグルのストレートビューで見てみると,その場所は,たしかに素敵なところじゃあないか。映画やらテレビドラマに出てくるニューヨークの下町これぞブルックリン! そのものじゃあないか,と思った。だから,この場所がどこなのかとてもよくわかった今となっては,今度ニューヨークへ行ったときは,ぜひ,またここを訪れてのんびりと歩いて見たいなあと思っているのだった。
だから旅はやめられない。
◇◇◇
土曜日の朝7時からNHKBS1で「ワールドWAVEモーニング」という番組をやっています。というか,3月29日がその番組の最終回でした。その番組の中に「@NYC」というコーナーがあったのですが,これがすばらしいコーナーでした。土曜日の早朝,コーヒーを飲みながら気分はニューヨーク,なんて素敵でしょう。ということで,このコーナーで昨日取り上げられた内容について紹介しましょう。
6月はトニー賞。それに関連して,ブロードウェイの新作の話題でした。
今年の新作は「アラジン」(Araddin)。作曲は「美女と野獣」のアラン・メンケンさん。「マジソン郡の橋」(The bridges of Madison County)。これは素晴らしい! 私の大好きな小説&映画のミュージカル化です。そして,「ロッキー」(Rocky)。シルベスター・スタローンが自らプロデュースです。リバイバル作品の中では「ラ・ミゼラブル」(Les Miserable)。6年ぶりの復活です。
今年もトニー賞が楽しみです。
このブログで書いているように,ニューヨークは距離の違いだけで,東京へ行くのと変わりません。レンタカーを借りる必要もありません。また,ふらっと行ってみたいなあ,と思ったことでした。
なお,この「ワールドWAVEモーニング」の後番組「キャッチ!世界の視点」でも「@NYC」は継続するそうなので楽しみです。やっぱ,アメリカはいいわ。
「かなちゃん」1週間-冷静に考えましょう。
もう3月も終わり。新聞には,新年度に向けて,いろんな広告が載っているわ。
その中に,銀行の「退職金特別プラン」とかいって,金利の優遇があるといったものがあるんだけど,たとえば,ある銀行だと3ヵ月定期で年1.7パーセントなんだって。
これはどういうことかというと,1年で1.7パーセントだから,実際はその4分の1で,わずか0.425パーセントなのね。そのあとは自動継続になって,金利はたった0.025%くらいのものだから,そのまま3年間貯金すると,年約0.16パーセントになるわけね。3年で0.25パーセントっていう定期預金があるから,ぜんぜん得じゃないわけよ。これも,やっぱり数字のからくりにすぎないわけね。
それにね,実際は,0.1パーセントっていっても,1,000円でわずか1円なのよ。4月からの消費税は1,000円で80円よ。なんだかねえ~。
また,花粉症のいやな季節ね。私は花粉症でないんだけど,突然発症するらしいわね。
それで,マスクの広告が載っていたんだけれど,そこに,ウィルス0.1ミクロン,細菌1ミクロン,PM2.5は2.5ミクロン,黄砂4ミクロン,花粉30ミクロンって書いてあったわ。で,その広告には,そのマスクは0.1ミクロンまで通さないって書いてあったわ。私は,普通のマスクは0.1ミクロンは通してしまうって聞いていたんで,技術の進歩はすごいと思ったわ。
よく,風邪の季節にマスクをしている人がいて,マスクをしているからって,平気で咳をしているのを見ると不快になるわ。だって,普通のマスクって,ウィルスはけ平気で通過するのよ。これだって,数字のからくりなのね。ウィルスは花粉の300分の1の大きさなのよ。
よく,西洋の人が日本に来るとマスクをしている人が多くて変な感じがするってきいたけど,今はどうなのかしら。マスクって,風邪だけじゃなくて,今や,PM2.5に黄砂に花粉でしょ。普通に外出もできなくなってしまったのかしら。
いよいよMLBもはじまって球春がきたわね。
今年の話題は,ヤンキースに入団した田中投手ばかりだけれど,今年のBSの放送はヤンキース一色になってしまうのかしら。田中投手は活躍すると思うけど,なにせ,今年のヤンキースって,戦力不足だし,リベラ投手の抜けた穴が埋まるかしら。
イチロー選手もトレードされなかったけど,活躍の場はありそうにないわね。年俸の高さがネックだったんだろうけど,長打力もないし,今年は期待薄ね。そんな予想は外れるといいんだけど。
MLBは,毎年,予想が外れるから,きっとまた9月になると,思わぬチームが活躍しているわよ。そこがまた,おもしろいんだけど。
OEMって知っていますか? ウィキペディアには,「OEM=original equipment manufacturer は他社ブランドの製品を製造すること,またはその企業である」って書いてあるのだけれど,その会社の製品だと思って買っても,実際は他社が作っているっていうわけなのね。
確かに,委託した会社の規格にあうように検査されるから,悪いわけじゃないんだけれど,どこが作っているか,っていうことは,普通,公表されていないわ。カメラとか車でもよく行われていることね。
近頃,レストランの食品の偽装とか,話題になっているけれど,このこととOEMって,共通点がある気がするんだけど…。確かに,伊勢エビって書いてあって伊勢エビじゃなきゃ問題だけど,○○会社の車っていうブランドで売っていて,実は別の会社の製造っていうのは,やっぱりそのブランドの偽装に違いないんじゃないかな,って,私は思ってしまうんだけど。
前にも書いたことがあるだけど,何事も少し前のことを調べると,今の状況がよくわかることが多いわよ。
たとえは,天気予報でも,1週間前にどのように予報されていたか,って調べてみると,1週間後の予報がどのくらい当たるか見当がつくわよ。だれかが,当たる確率が50パーセントってうのは,当たらないということ同じだ,っていっていたけれど,本当にそうね。だって,当たる確率が0パーセントなら,逆に当たらないっていうことでしょ。50パーセントっていうのは,わからない,っていうのと同じなのね。
経済の指標でも,ちょっとの値上がりや値下がりで毎日大騒ぎしているけれど,1ヵ月前,3ヵ月前,1年前… に,どのように報道されていたかを調べてみるとおもしろいわよ。いつもいい加減な報道をしているか,ちゃんと分析しているかの見わけがつくわよ。
だれも,未来のことなんてわからないのよ。だから,不安になって,想定以上の出来事が起こるのね。そういうときって,ちょっと前のことを思い出すと,意外に冷静になれるものなのよ。
なのにあなたは京都へ行くの-東風吹かば④
春,梅の季節がすぎて,桜が咲くまでのわずかな間,一瞬,観光客の少なくなるときがあって,私は,その頃を大切にしています。
京都ではないのですが,その時期,大津の石山寺を訪れると,やがてくる華やかな桜の季節を前にした静けさとその予告が,とても幸せな気持ちにしてくれます。
・・・・・・
石山寺は,749年(天平勝宝1年)に聖武天皇の発願で,良弁僧正によって開かれました。西国三十三所第十三番札所で,清水寺と並ぶ双璧です。
本堂は木造建築の中で県下では最古のものです。本堂内には紫式部が「源氏物語」を執筆したという源氏の間があります。紫式部はじめ清少納言や和泉式部なども石山寺のことを日記や随筆に記していて、女流文学の開花の舞台ともなっているということが,このお寺の華やかさの源となっています。
その後も松尾芭蕉や自然主義文学者の島崎藤村が石山寺を慕っていて,随所に文学の背景が散りばめられています。
・・・・・・
石山寺の入口にあたる山門東大門を正面にのぼる石段はかなり険しくて,私は,そこを登るたびに,あとどのくらいしたらこの石段が登れなくなる日が来るのか,といつもさびしくなります。
本堂を過ぎると庭園があります。ここを散策すると,いたるところに様々なな花が見られて、何とも初春らしい景色が広がっています。ミツバツツジにオトメサザンカ、モクレンにユキヤナギ、コブシにヒラドツツジ,特に,花をつける前のツツジが,私は好きです。鶯の鳴く声がまた,山里の香りをいっそう引き立たせます。
ある年,私は,そんな石山寺を2週間連続で訪れました。ずっと晴天に恵まれて,また,今のように,黄砂で霞むこともない,平和な春でした。
たった1週間しか過ぎていないのに,春の草木はせっかちで,確実にその花のつぼみはふくらみを増しているのでした。
なのにあなたは京都へ行くの-東風吹かば③
作詞家としての北山修さんの作った詩がどれだけあるかは知りませんが,私が知っているのは,
「あの素晴らしい愛をもう一度」「風」「さすらい人の子守歌」「さらば恋人」「白い花は恋人の色」「戦争を知らない子供たち」「初恋の人に似ている」「花嫁,帰って来たヨッパライ」
くらいでしょうか。
「悲しくてやりきれない」もそうかな,と思っていたのですが,これは,サトウハチローさんの詩です。
この中でも,私は,特に「風」と「花嫁」が大好きなのですが,これらを聞くと,いつも思い浮かぶのが,ポプラ並み木の続く天文台に続く道と,京都の学生街なのです。
ポプラ並み木の続く天文台に続く道というのは,どうも,子供のころに読んだ図鑑にあった三鷹の天文台の口径65センチメートル屈折望遠鏡のドームであるらしく,また,京都の学生街というのは,「帰って来たヨッパライ」がはやったころに,北山修さんのいたフォーククルセダースが京都の学生のグループで,また,なぜか,北山修さんが京都大学の学生だという話(間違いですが)を聞いたことがずっと残っているからなのでしょう。
そして,私には,この,天文台と京都というのが,私の原点,あるいは,トラウマになっているらしく,だから,いまでも,この曲を聞くと,懐かしさがこみあげてくるというわけです。しかも,いまでも,私はこのことにこだわっているらしく,日夜,晴れていれば星を追いかけ,春夏秋冬,花が咲けば,祭りがあれば,かえでが色づけば,雪が降れば京都へ出かけるわけです。
・・
先日,BS朝日の「熱中世代」という番組にその,北山修さんが出演していました。ずいぶんと歳を召されてしまったというのが第一印象でした。それにしても,医師としても一流で,作詞家でもありと,どうして,神様は,平等に人間に才能を与えないのかと嫉妬しました。しかし,お話を聞いていると,いまだ,人間らしい煩悩が話の端々に現れるので,これだけは,私は優越感を持ちました。
もし,私が,北山修さんであれば,さっさと仕事をやめて,シベリウスのように,山の中に小屋でも立てて,ラジオから流れてくる自分の作った歌を聴きながら,質素に隠遁生活を送ることでしょう。すでに,神が与え給えた才能は十分に社会に還元したはずですから。
ところで,その番組の中で,聞き手のアナウンサーが「相手のことばを話す精神科医と器となってみんなの言葉を代弁する作詞家」と言っていました。まさに,そんな使命を授かった北山修さんの歌は,こうして,歌い継がれていくことでしょう。
2013アメリカ旅行記-ブロードウェイへ③
地下鉄の路線図を見ると,6番街の下を南に走りセカンドアベニューあたりで東にまわってブルックリンに至る地下鉄のB,D,F,Mラインに乗って,イーストリバーの直前の駅エセックスストリート駅でJラインに乗り換えれは,容易にホージーストリート駅へ行くことができるようであった。
私は,このときまで,まさか,ニューヨークの地下鉄が,時間によって,乗り場が変わったり,あるいは,電車が運休停止になるなどということが日常茶飯事であるとは,夢にも思わなかった。また,同じ路線でも,駅によっては停まる電車と停まらない電車があることも知らなかった。さらに運が悪かったのは,今日が週末だということだった。ウィークデイなら,ほぼ通常に運行されているが,運休になるのは週末が多い。
そういえば,地下鉄のホームには,やたらとたくさんサービス変更の掲示があった。でも,まさかねえ,こんなことだとは知らなかったので,その掲示を読みもしなかった。
残念ながら,私は,これから起きたことを,正確に記することができない。
これを書きながら,そして,写してきた写真を探しながら,思い出そうとしているのだが,どうしても,記憶がひとつの線にならない。それに,ほとんど写真もない。きっと,かなり動揺していたらしい。そこで,なんとか思い出しながら書いていくことにする。
まず起きた事は,それがどこの駅であったのかは明確でない(おそらくは42ストリートブライアントパーク駅だろう)のだが,乗り換えようとした地下鉄のホームに行く途中で,ホームから駅員らしき男が,このホームには,もう電車は来ない,と言いながら,手を振って我々に向かって歩いてきたことだった。
私を含む乗客は,何が起きたか一瞬わからなかったのだが,そのホームに行っても仕方がないということだけはなんとか理解して,同じ方向に向かう別の地下鉄のラインのホームへ向かった。
それまでは走っていたのだから,この時間以降は,運休になったということであった。
私がはじめに乗ろうとした地下鉄が何であったのかは思い出せないが,私の写してきた写真に地下鉄Fラインの車内のものがあるので,私はここで予定を変更してFラインに乗ったらしいのである。
そして,Jラインに乗り換えるために,イーストリバー駅で下車した。イーストリバー駅でホームを移動して,少し待って,Jラインが来たので,これに乗り込んだ。
あとは,Jラインのホージーストリート駅で降りるだけであった。
Jラインは,イーストリバーを越える前に,地上に出た。地下鉄は高架になった。鉄骨がむき出しの,古い路線であった。
それはそれでいいのだが,私の向かうホテルに隣接したホージーストリート駅は,地上の駅ではない。ホテルに隣接した駅は,おぼろげな記憶によると,確かに地下にあった。一瞬,何かがおかしいなあとは思った。だが,私はこの地下鉄だと確信していたので,それほど疑問には思わなかった。ただし,イーストリバー駅からは,J,Z,Mラインが同じ方向に向かい,Mラインだけが途中で方向を変えるから,Mラインに乗り間違えなければいいと思っていた。実際は,ZラインはJラインと同じ路線を走るのだが,ホージーストリート駅は通過するから乗ってはいけない。私はそのことも知らなかった。
イーストリバー駅を過ぎて,ウィリアムズバーグブリッジでイーストリバーを越え,そのあとも地下鉄は高架のままさらに4つの駅を過ぎた。
その次のマートルアベニュー駅に着く前に,何やらの車内放送があって,サービスがなんとか言っていたが聞き逃した。ほかの乗客もなにやら戸惑っていた。やがて駅に着くと,多くの乗客が,やむを得ないという感じで下車していった。
私の目的地ホージーストリート駅まであと3駅であったので,私は,何か様子がおかしいとは感じたが,そのままその電車に乗っていた。
電車が駅を出ると,なんと,電車は大きく左にカーブして,間違えて乗ってはいけないと注意していたMラインの路線に向きを変えてしまった。私には,何が何だかわからなかった。そして,パニックになった。
やがて,電車はJラインではなくMラインの次の駅セントラルアベニューに到着した。このまま乗っていたらどこに行ってしまうか不安になったので,その駅で下車した。同じようにパニックになった乗客数人が同じように電車から降りた。私と同じ扉から降りた中国系らしきおばさんにどうなっているのか聞いたら,どうやら,Jラインはセントラルアベニュー駅から先が運行休止なので,地下鉄は別のMラインの路線を走って迂回をするので,Jラインの駅に行きたければ,1駅前の,多くの乗客が降りたマートルアベニュー駅から出る代替輸送のバスに乗り替える必要がある。だから,ここから1駅戻るのだと言った。
私は,ブルックリンなんてはじめて来たんだし,ホテルは駅の隣にあるから地図なんていらないと思っていたので,調べる手段もなく,わけがわならなくなった。それに,ニューヨークで,代替輸送のバスに乗るなんて,夢にも思っていなかった。おばさんはものすごく無愛想で,なにか怒っているような雰囲気だったので,怖くてちょっと離れていたけど,ものすごく無愛想な顔で「私についてきな」と言った。私がお礼をいうと「お礼などがらじゃない」と言って,さらにこわい顔で遠慮した。でも,こわいのは見かけだけで,実はとても親切なおばさんだった。
2013アメリカ旅行記-ブロードウェイへ②
ずっと心配だったのは,ミュージカルが終わった後のことであった。
今晩泊まるブルックリンにあるホテル「レッドカーペットイン」にはレンタカーで到着して,ひとまずチェックインこそしたものの,チェックイン後,ホテルからレンタカーでジョン・F・ケネディ国際空港に行って,そこでレンタカーを返却してしまった。車という手段を失った私のこのあとの計画では,そのまま,空港からヤンキースタジアムのあるブロンクスへ地下鉄で行き,その次に地下鉄でブロードワイへ行ってミュージカルを見て,ミュージカルが終わった深夜に,ブロードウェイから地下鉄でホテルまで戻るというものであった。
しかし,深夜に地下鉄で戻ることにいまひとつ自信がなかった。
何せ,安価なことと地下鉄の駅の隣にあるということだけを理由に,高価なマンハッタンをさけて予約した不案内なブルックリンのホテルであった。帰国した今でこそ,ホテルがどこにあってどのように行けばいいのかよくわかるが,旅行中は,ホテルがブルックリンのどこにあるかさえ明確でなかったし,そこが治安のよいところかどうかも知らなかった。
一応,出発する前に,インターネットから地図を印刷し,地下鉄の最寄の駅も調べてあったが,やはり土地勘がないので不安であった。しかも,ホテルのあったところは,想像とは違って,けっこうやばそうなところであった。
値段が高くても、マンハッタンのホテルを予約しておけばよかったのにと後悔した。
もしも深夜に道に迷ってしまったら「大変なこと」だけでは済まないのであった。
車は車で別の心配があるが、車という移動手段を持たないというのは、別の慎重さが必要なのだった。そこで,MLBを見たあと,ミュージカルの開演には,まだ3時間もあったので,ホテルへ行っても1時間くらいで往復できるだろうから,バカらしい気もしたが,深夜に帰る練習として,一度,ホテルに行って経路を確認してみようと思った。そして,再び戻ってきて食事をすれば,ミュージカルの開演にちょうどよい時間になるように思えた。
この決断が,大変な事態に遭遇することになってしまったのだったが,また,深夜に無事にホテルに戻ることにもつながった。
・・
事前に調べてあったことは,私の予約したホテルは,地下鉄の「ホージーストリート」(Halsay St.)駅の隣ということであった。
今では,グーグルアースで,およそ世界中の街並みを写真で見ることができるし,ストリートビューを使えば,特にアメリカの都会は,まるで,そこを歩いているかのように,ものすごく鮮明な写真でみることができるようになったので,レッドカーペットインの建物も,その横にある地下鉄の入口もどうなっているかは知っていた。しかし,それだけではわからない「何か」があるのだった。
だから、旅をするのがおもしろい,ということも言えるのだけれど…。
地下鉄の「ホージーストリート」駅は,私が調べた限り,地下鉄「Jライン」の駅であった。マンハッタンからイーストリバーを地上の橋で越えて,ブルックリンを東に7駅である。この,「Halsey St」も,地図に書いてあっても,読み方がわからなかった。
外国の地名は読み方がわからない。だから,道を聞くのも大変なのである。
イーストリバーを越える地下鉄の路線はいろいろあるが,川底をトンネルで走るものと地上の橋で越えるものがある。きっと,それは建設された時代によるのであろう。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE⑪
いよいよ帰国します。
今回,はじめて春にアメリカに来ましたが,ここテキサス州は夏は暑すぎるので,よい選択だったかもしれません。
アメリカは本当に貧富の差が大きくて,金持ちはものすごい家に住んでいるし,平日だろうと,どこも混んでいるし,道路の広さやら車の多さやらスピードの速さやら桁違いです。
日本で走れもしないのに高い車を買ったりウサギ小屋のような小さな家を買ったりするために遅くまで働いているのとは全く異なる世界です。
アメリカ人は我先に人をかき分けて生きている感じでもないし,他人のことに気を使っている感じでもないし,でも,譲り合いというのは日常だし,だけど,明らかに価値観の根本はお金だし,本当にどんどんわからなくなってきました。
しかしまあ,こうしてこの国のことを知ってくると,それはそれで生きてゆくのに大変なところです。
日本の若い女の子が将来は英語を使った仕事がしたいと言いますが,そう簡単なことかいな,と思ってしまいます。でも,ひとりの旅行者としてこの国に存在していれば,人は親切だし,とてもよいところなのです。それに楽しいことがたくさんあります。
アメリカは来るたびにどんどん変わっています。今は,みんな iPhone を持っていて,ほとんどのことをこれひとつでやっています。知り合った途端に facebook に登録します。ホテルはエクスペディアで簡単に予約できるし,飛行機のチェックインもネットでできます。wifi もいろんな場所で繋がります。
今の日本人に不足しているのは,こうした時代を突き進む革新性と既成の概念を超える想像性なのでしょう。昔から同じですが。
飛行機の中では,「ゼログラビティ」も「42」も「ネブラスカ」も見ることができたので,こちらに来る前に映画館に行く必要もなかったなあと思いました。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE⑩
明日は帰国するだけだけなので,実質,観光には最後の1日になりました。
この2日泊まっているのは,目の前がサンアントニオ空港のスーパー8というホテルです。値段の割りにかなり立派です。
今回の旅では,タコベルというファーストフード店とソニックというテイクアウト専門店を初体験しました。日本に進出しても流行りそうでありません。文化の違いはおもしろいものです。考えてみれば,マクドナルドが日本で成功したほうが奇跡のように思われます。
サンアントニオという街へ行きたかったわけでなく,以前イエローストーンナショナルパークに行ったときに偶然知り合ったひとりの女性がここに住んでいて,遊びに来ないかというので,本当は行きたかったニューメキシコ州へ行くついでにとやって来たのが今回の旅でした。このブログで友人と書いているのは,この女性のことです。
これは国民性なのか個人の問題なのか,その女性の時間のルーズさには参りました。しかし,私だけの旅行では行くことができなかったことや,できなかったことを経験できたのは収穫でした。
今日は,サンアントニオ郊外のリンドンジョンソンステイツパークへ行きました。ここは,ジョンソン大統領の生誕の地であり,終焉の地であり,お墓のある地です。広大な敷地に多くの歴史的な見所があって,非常に満足しました。
夜は,友人の家族のファミリーパーティに,モンゴリアンレストランへ連れて行ってもらいました。なんだか日本にいるみたいでした。
これで今回の旅のスケジュールは終了です。明日の早朝,帰国の飛行機に乗ります。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE⑨
長いドライブ,結局,3,000キロメートル以上走って,サンアントニオまで戻ってきました。とてもよい天気です。
昨日は,エルパソからの途中で検問にあって,ちょっと緊張しました。こういうときに,ジャパニーズという人畜無害な国民は得です。地球の歩き方にも書いてあったので,心の準備はできていたのですが,ここはメキシコ国境の近くなのでこういう検問が行われているのだそうです。
今日は昨晩泊まったジャンクションという町を出て,途中でカーボーイが今も住んでいるというバンデラという街に立ち寄って,サンアントニオに着きました
。
行ったのは,ジャパニーズガーデンと植物園。そして最後に,ザ・グリルというゴージャスなレストランでテキサスステーキの夕食。すばらしい1日になりました。
テキサス州というところも極めて治安のよいところなのですが,なぜか私には,とげとげしさを感じるところです。何か街全体がストリクトリーなんですね。
実は,ニューメキシコ州に行く前にこの街を案内してもらった友人の車に乗せてもらっていたとき,友人がポリスに停止を命じられました(私が捕まったわけではないのですが)。その理由というのが、ブレーキランプの片側一方が切れているということだったのです。ちょっと日本ではあり得ない話です。そして,文句があるなら裁判所に出頭しろとかいうやりとりをしていました。
すごいんですよ,ポリスが降りて来るまで車の中でじっとしていなくてはいけないんです。本で読んで知ってはいましたが,他人事ながらいい経験をしました。
これを書きながらテレビを見ていたら、今,ザ・トゥナイトショーにビリージョエルが出てきました。かと思えば,チェルシークリントンが次のゲストじゃないですか。別の番組にはビルゲイツも出ているし,ここは本当にアメリカなんだなと実感しました。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE⑧
今日はサンアントニオに戻る移動日です。
毎日,明日の予定を立ててホテルを予約しながら旅をしてきましたが,ついにニューメキシコ州の端まで来てしまったので,後はひたすら東に向かって走って戻らなければなりません。
それにしても,どこでも wifi が繋がるので便利になりました。
ニューメキシコ州は想像以上のところでした。ただし,来るのがすごく大変です。日本からの航空便は乗り換えをしてもよい便がないし,私のようにサンアントニオから旅をすると,すごい距離を走らなければなりません。すでに2,600キロメートル走破しました。
ということで,ここからサンアントニオまではあと800キロメートル。テキサスのインターステイツは制限速度80マイル,つまり,128キロメートルなので,1日で戻れるのですが,それもつまらないので,エルパソで国境を見学してから,サンアントニオまであと2時間ほどの途中のジャンクションという小さな町に泊まることにしました。
エルパソでは高台の展望台から国境とメキシコが見渡せるのですが,ガスっていて,メキシコ国内にはためく巨大な国旗しかわかりませんでした。しかし,リオグランデ川に沿った道路に出てみると川にかかった橋を歩いて渡ってくるメキシコ人の姿が見られてそれは生々しいものでした。日本人も歩いて渡ることができるのだそうですが,メキシコ側は極めて治安の悪いところなのだそうです。
ジャンクションで泊まったインド人の経営するモーテルは一泊3,000円,チープなんだけど,テレビのチャンネルもしっかりあっているし,朝食もちゃんとしているし,よく眠れたし,はじめに泊まったサンアントニオのダウンタウンのホテルの4分の1の値段の割にこのモーテルの方がずっとマシでした。この小さな町は,メインストリートが1本あるだけ。町には学校からスーパーマーケット,教会,ガンショップ,そして葬儀場までひと通りなんでもひとつずつあるという極めて興味深いところでした。せっかくなので,地元の人が行くレストランで夕食を取りました。
町には公園があったので行って見たのですが,それがまたバカっぴろいというか,想像を絶しました。
私はアメリカで暮したことがないので,こういうことが観光以上に楽しいのでした。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE⑦
今日は,自然を満喫した1日でした。
まずは,カールズバッドの町から20分ほどのところにあるカールズバッド洞穴群国立公園へ行きました。ここは要するに鍾乳洞です。長さは180キロメートル,深さは489メートルで,日本の秋吉洞が,長さ10キロメートルであることを考えるととんでもない大きさであることがわかるでしょう。夏になるとここから無数のコウモリが飛び立つのだそうです。
次に行ったのがホワイトサンズ国定公園でした。カールズバッドから車で4時間かかりました。ここは琵琶湖よりも広い区域が全面純白の砂に覆われているところで,夕景はまさに絶品でした。行ったことはないのですが,きっと,サハラ砂漠も色だけは違いますがこういう感じなんだろうと思いました。
それにしても両方ともスケールが違いすぎます。しかも,行くのが大変すぎます。本当に来てよかったと思いました。
ここは地球上なのかしらとしみじみ思いました。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE⑥
今日は,ロズウェルから片道3時間のドライブでサンタフェまで往復してきました。 今晩は,ロズウェルをさらに100キロメートル南下して,カールズバッドという街のモーテルにいます。 ロズウェルからサンタフェへの道がすごいのなんのって,360度地平線の見える何もないところに道路だけがまっすぐに伸びていて圧巻でした。昨日,ロズウェルに来るまでの道もすごかったけれどそれをはるかに凌いでいました。それも3時間ずっとです。町もボーンというのともうひとつ小さな町(ほとんどゴーストタウンだった)があっただけでそれ以外は家の1軒もありませんでした。 しかも,行きは早朝で,左手には沈む月,右手には昇る太陽,前と後ろはまっすぐな道だけというとんでもない風景でした。こんな景色は絶対に日本では見られません。 石油採掘の井戸が,まるで大平原に生息するツルの群れのように見えました。 そのうちに,風景は高原の原野に変わると,忽然と,アドビ建築の住居が現れました。 サンタフェは,宮沢りえさんの写真集で有名なところですね。彼女はこのサンタフェのどこで撮影したのでしょうか? 想像と違って,ここは日本の高山みたいな観光地でした。 今晩のモーテルは古くてはじめネットに繋がらなくて,近くの別のホテルに行って,次の日のホテルの予約やらブロクを書いていたのですが,戻ってみるとやたら快調に繋がるようになっていました。 今日はものすごく風の強い日で,車が飛ばされそうになりました。翼をつければ,本当に飛びそうでした。今日は,ロズウェルから片道3時間のドライブでサンタフェまで往復してきました。 今晩は,ロズウェルをさらに100キロメートル南下して,カールズバッドという街のモーテルにいます。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE⑤
それにしても,なんと広いのでしょう。
友人と離れ,車で,ニューメキシコ州のロズウェルまで,やっと,たどり着きました。900キロメートルくらい走りました。
サンタフェまではあと350キロメートルです。
テキサス州の大平原は一面荒野が広がって,いたるところで石油を掘っていました。
ここロズウェルはテレビドラマにもなったUFO で有名なところです。また,私には今から18年前に知人の娘さんがここの高校に留学していたことでも印象が深いところです。
まさか,私がロズウェルに来るとは,不思議な気持ちがします。
ロズウェルに来て,町を歩いていたら,なんとも言えない清々しさとワクワク感が蘇って来ました。そうそう,私がはじめてアメリカに来たころに感じた気持ちです。胸がいっぱいになって,幸せな気もちになりました。
やはり,この国の良さは都会ではなくこうした広々としたところにあります。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE④
昨日行ったジャーマンタウンには,日本の100円ショップのようなお店もあったのですが,売っているものは日本と全く同じなのに値段が3倍もしました。それをこちらの人は,安いといっているのが不思議でした。
郊外の広いところなのにアパートに住んでいる人もいて,家賃が30万円もするらしいのですが,その理由は,バーやらトレーニングジムやらが併設されていて,リゾートホテルと同じなのだからだそうです。
この国は,日本と全く違っていて,来れば来るほどわからなくなってきました。
サンアントニオはアラモ砦で有名ですが,近郊に,四つのカトリックのミッションがあって,それぞれすばららしいところです。
今日は,こうしたミッション巡りをしました。日本のガイドブックには載っていないので,このすばらしさが味わえたのはよかったです。ただ,テキサス州の歴史を知らないのが残念でした。
そして最後にアラモの砦に行ったのですが,アラモの砦だけはものすごい人混みでした。
リバーウォークといって,サンアントニオには,ダウンタウンに小川が流れていてその川に沿ってショッピング街やらレストランがあります。京都の高瀬川沿いみたいなものです。週末でもあって,しかも来週の月曜日はセントパトリックデイの休日とか,ダウンタウンはものすごい人でした。車なんか渋滞で動きませんでした。
まあ,アメリカは本当にどんな都会もすごい人混みです。
私には,田舎がいいなあ。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE③
今日はサンアントニオから80マイルほど北西に行ったフレデリックスバーグというジャーマンタウンへ連れて行ってもらいました。
街全体がアウトレットモールのようなところで,多くの人が楽しんでいました。どうしてこんなに都会から離れたところにこれだけの人が集まるのか不思議です。
昨年の夏に行ったボストンの近郊もそうですが,アメリカには,こうしたショッピングを目的としただけの郊外の街があります。ただ,男の私にはさほど興味がわかないのですが,多くのカップルや家族連れで賑わっていました。やはり,この国では誰も働いていないのかもしてません。
この街にはなぜか,太平洋戦争に関する博物館があって,広い館内の様々な展示には考えさせられるものがたくさんありました。日本では学校で紙の上での知識ばかりですが,こうした生々しい展示が実際に見られて,しかも,多くの人が訪れているのがこの国の真面目さとそれとやはり戦勝国の誇りかな? を感じました。
その後で,ジャムの食べ比べをして,帰りはワイナリーでワインの飲み比べもしました。
食べたり飲んだり,これでは太るはずです。それでも,夕食は,お寿司を食べました。日本のお寿司と同じでしたがわさびは別だてでした。味噌汁付きだったのですが,白味噌,スプーンがついていたのが不思議でした。
明日は,ダウンタウンを散策することにしています。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE②
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE①
今日から23日まで9泊11日,アメリカを旅行します。そこで,今回も今日から帰国するまで2014アメリカ旅行記をLIVEで書きます。現地の wifi 状況によっては,更新できないことがあるかもしれませんができる限りその日にあったことを書いていきたいと思っています。
出発するまでいろいろありましたが,いきさつはまた後で書くことにして,ともかく,日本を出国してデトロイトに着きました。これから乗り換えて,テキサス州のサンアントニオに向かいます。
今年の冬,アメリカは異常気象で極端に寒い冬でした。デトロイトの空港から一面の銀世界が見えます。気温は未だマイナス10度だそうです。空港内にいるときは影響ないのですが,飛行機に乗るときに搭乗口から一瞬外気に触れるので,そのときに,この寒さを感じました。
ところで,デトロイトの待合室でもフリーの wifi がつながるようになっていました。
2013アメリカ旅行記-ブロードウェイへ①
はじめてこの地を訪れた若き日,このあたりを何度も往復したことを思い出していた。
そのときは,マンハッタンの南半分を何度も何度も南北に行き来した。歩いていると,旅行者の人に道を聞かれたりもした。そんなときは,ここに住んでいるような,いい気分になったものだ。
月日の流れるのはなんと早いことなのであろう。再びこの地を歩くと,そんな大昔のことが,まるで,昨日のことのように蘇ってきた。
もっと年齢を重ねて,また来ることがあったとしたら,人生とはたかがこれだけのものだったのかと思うのであろうか。
今もこの地にあこがれて,日本から来て住んでいる若い人もいるし,何度も足を運んでいる人もいる。私も若いころは,そうしたあこがれを抱いたひとりであった。
残念ながら,私は,この地に住むことはできなかった。というよりも,住むだけの努力をしなかったというほうが正しいのだろう。
人生は,やりたいということがあって,そうしたいという真剣な情熱さえあれば,結果がどうなるがは別として,どうにでもできるのだ。だから,できないのは言い訳に過ぎない。私には,それだけの情熱がなかったのだ。
しかし,齢を重ね,多くの地を訪れたり,それなりの経験をした今は,そこがどんなにあこがれた地であっても,暮らすという日常になってしまえば,どこで暮らしても,それはそれで同じような悩みやら怠惰やら不満やらが生まれてくることを知ってしまった。
旅は,非日常であるからこそ,旅なのだ。
その点,現在のニューヨークは,確かにすばらしいところではあるけれど,私には,非日常として語るには,あまりにも身近なところになってしまった。
若いころ,ニューヨークはものすごく遠いところだと思っていたのに,今や,新幹線に乗ることを飛行機に乗ることに置きかえた以外には,東京に行くのとさして変わらない。それは,交通手段の進歩によって物理的な距離が近くなったことに加えて,歳を重ねて様々な経験を積んだことで,ある意味,夢をなくしてしまうことと同じなのかもしれない。今は,そのことが残念である。
私は,マンハッタンの5番街を59ストリートから南に歩いていた。遠くにはエンパイアステートビルが見えた。
やがて,57ストリートを過ぎたところに,ティファニーを見つけた。ティファニーの外観は,32年前から全く変わっていなかった。あのときは,この店に入っても宝石を買えなかったので,ティファニーのブランドがデザインされたトランプを買ったことを思い出したが,そんなトランプは今も売っているだろうか。
次に見えたのが,53ストリートのセントマーチン教会であった。このあたりは,大勢の観光客が写真を撮ったりしていた。さらに進むと,52ストリートにユニクロがあった。ここは,東京でいえば,銀座である。
一度アメリカへの進出を失敗したユニクロは,今度は,高級店としてマンハッタンの一等地に再び進出した。外から,ビルの中のエスカレーターがあってお客さんが中に入っていくのが見えた。流行っているのかどうかはよくわからなかった。
もう1ブロック南に行って,51ストリートを西へ6番街まで歩くと,そこは,トニー賞の受賞式を行うラジオシティーミュージックホールがあった。
ブロードウェイは観光客で一杯であった。ここにはどれだけの国籍の人がいるのだろうかと思った。さまざまな国の言葉が飛び交っていた。きっと,この人たちも,あこがれを胸に,人生一度の思い出としてこの地に来た人のであろうか。
確かに,人と車であふれていたのであるが,東京の渋谷の交差点のような異常な人口密度ではなかった。また,以前は,このあたりはポルノショップだらけであったが,いまや,ディズニーランドと変わらないところになってしまっていた。
日本食の食べられるレストランもあったので,久しぶりに日本食でも食べようかと思った。聞くところによると,ニューヨークは,いま,ラーメンが大流行中であるのだという。それにしても,あまりに,日本にいるような感じだったので,旅をしているワクワク感はあったけれども,海外に来たというゾクゾク感はまったくなかった。
2013アメリカ旅行記-ヤンキースタジアム④
試合が終了して,いつのもように,スタジアムに「ニューヨーク・ニューヨーク」が流れはじめた。
ヤンキースタジアムでは,試合終了と同時に,この「ニューヨーク・ニューヨーク」が流れる。ほとんどはフランク・シナトラの歌うものであるが,時として,ライザ・ミネリのことがある。
ライザ・ミネリのものがかかるときは何か,特別理由があるのかもしれないが,私は知らない。
試合が終了したときに決まった曲が流れるスタジアムは,他に,サンフランシスコ・ジャイアンツのAT&Tパークがある。そこでは,トニー・ベネットの歌う「霧のサンフランシスコ」が流されている。
このような演出は,ご存知ボストン・レッドソックスのフェンウェイ・パーク8回表終了時の「スウィート・キャロライン」同様,すばらしいものだ。私は,この曲聴きたさに,ヤンキースタジアムに憧れたころもあった。
この「ニューヨーク・ニューヨーク」は試合に勝ったときだけ流れると書いてあったものがあるが,それは間違いである。
私は,この曲を背に,ヤンキースタジアムを後にした。
ヤンキースタジアムを出たところに,地上に駅がある地下鉄4番ラインの161ストリート駅がそびえていて,鉄でできた階段を上ると駅の改札に出た。試合終了時なので,さすがに混雑していたが,日本のような身動きできないような状況ではなかった。
地下鉄4番ラインの161ストリート駅のホームから眺めたヤンキースタジアムは壮観であった。
スタジアムの南は広い公園となっていた。昔のヤンキースタジアムのあった場所だということであった。
さらに南はハーレムリバーで,その向こうに,マンハッタンのビル群が見えた。
今にして思えば,まだ,時間も早かったので,そんなに帰りを急がなくても,ブロンクスを少し散策すればよかった。
32年前にこの地に来たときは,このあたりは薄暗く,スタジアムの外で営業をしていた民間の駐車場すらやばい雰囲気がありありで,管理をしていた男は,駐車代金のおつりを請求しても,帰りに払うと言ったし(絶対に帰りに彼はいない),駐車場からスタジアムにつながるわずかな距離を歩くだけでも,ずいぶんと気を使う必要があった。
そのころは,ヤンキースタジアムのあるサウスブロンクスは,かなり,とんでもないところのようであった。
それが,なんという変化であろうか。ここは,まったくお台場と変わらないではないか。
現在,ブロンクスがどのようなところかは,知らない。現地に住んでいる日本人に聞いても,あまりよく知らないという。日本人はほとんど住んでいないようなのだ。ただし,まだ日が暮れる前なので,少しだけなら付近を散策してもどおってことはないような感じであった。
しかし,このときは,私も家路を急ぐ満員の乗客とともに地下鉄4番ラインに乗って,ともかく,マンハッタンの59ストリートまで戻った。
これからの今日の予定は,午後8時30分からアンバサダー劇場でミュージカル「シカゴ」を見ることだったので,それまで,まだ3時間くらいあった。
ゆっくり食事をするか,それとも,どこかへ行こうかと考えていた。
59ストリートは,マンハッタンの中央に位置する広いセントラルパークの南に面した道路である。私は,地下鉄4番ラインの通るレキシントンアベニューの59ストリートを地上に出た。昔来た時のように,観光馬車やら,街頭の物売りやらがいて,昔と変わらぬ景色が広がっていた。
2013アメリカ旅行記-ヤンキースタジアム③
試合はすでに4回の裏であった。私が新しいヤンキースタジアムに来て,はじめて打席で見たのがイチロー選手であったのが,また,偶然とはいえ,信じられない驚きであった。イチロー選手は,3塁内野安打を放った。と,そう思っていたが,帰国後,これを書きながら調べてみると,3塁のエラーであった。
私の隣の席に座っていたのは,シンシナチから所用あってニューヨークに来たついでに野球見物のヤングガイであった。
結果を書くと,この試合は貧打戦であった。対戦相手は,タンパベイ・レイズであったが,ヤンキースは0-1で完封負けをした。この試合に限ったことではないが,この年のヤンキース打線は,全く迫力がなかった。
この日,イチローは2番であったが,ヤンキースには,ロビンソン・カノーとアルフォンソ・ソリアーノ以外,期待できそうな打者がいない。とにかく,高いお金を出して各球団から獲得した選手はみんな年齢が高くなって,故障だらけであった。2006年までの強いヤンキースのときと選手が変わらず,歳だけ重ねていった感じであった。
このころのヤンキースは,下部組織もダメだし,フロントも無策だし,このジョー・ジラーディという元ヤンキースの捕手だった監督は,毎日,猫の目のように打順を変えるので,もし,私が選手だったら調子を保つのも大変だと思った。
イチロー選手の打順も毎日変わるし,出場しないこともあった。
私は,イチロー選手のファンであるからこういう書き方はしたくないが,冷静に見て,彼がチームに入るとチームが斜陽になるのか,たまたまそういう時期に加入するのか,そのどちらなのかは知らないが,今年のヤンキースの雰囲気はイチロー選手が入団してから順位を急降下させた10年前のシアトル・マリナーズと同じように感じる。
隣のヤングガイは予定があるのか,「アメリカで楽しんで」と言って,7回くらいで帰っていった。
私の今日の目的は,チケットを持っている明日の試合が雨天で中止になったときの保険を兼ねて,ヤンキースタジアムに来ることだったから,試合を見るのはほどほどにして,ヤンキースタジアムを歩き回った。
ボストンのフェンウェイパークに比べれば,とてもつなく豪華で広い球場であった。しかし,正直にいって,私は,ヤンキースタジアムはすごいとは思ったが,もう一度行くとなれば,ぜったいフェンウェイパークのほうがいい。
ヤンキースタジアムは,バックネット裏の席は,革張りであった。聞くところによると,席の裏にレストランがあるそうで,注文すると座席まで持ってきてくれるのだそうだ。そして,このレストランは,この金持ちシートの客しか利用できない。いわば,この球場は,格差社会のミニチュア模型のようなところであった。
ともかく,このヤンキースタジアムは,きっと,アメリカのMLBの球場の中で,一番日本人になじみがあって一番多くの人が訪れるところだと思うので,あえてここで写真を載せる必要もないかもしれないが,私もたくさん写真を写したので,この球場の様子を写真でご覧ください。
センター下にあるのが「モニュメントパーク」とよばれる一角である。この球場の名物のひとつで,球団史に足跡を残した貢献者たちのレリーフが所狭しと並んでいる。試合開始前なら,ここに入ることができるのだが,だれしも,この球場に行けば一度は見たいと思うので,この狭い所に入るにはかなりの時間並ぶ必要がある。ぜひ,ここに行きたいのであれば,開門と同時に,このモニュメントパークに最も近いゲートから入って並ぶ必要があろう。
また,アメリカの球場を訪れた人にはおわかりだと思うが,このヤンキースタジアムも客席の奥はずっとコンコースになっていて,売店が並んでいる。あるいは,この写真のように,試合を見ながら飲み物を飲んだりすることができる場所がある。
・・
ボールパークに限らず,こうした施設を訪れたときに,私は日本と全く違う価値観を感じる。
アメリカでは楽しむためのさまざまな工夫が,いたるところにある。
日本では,たとえば,名古屋ドームでは,食堂からはグランドが見えない。国技館の食堂からも土俵が見えない。そして,会場全体も狭く,個人の楽しみで見にいくのに,応援を強要される。
アメリカの野球にはテレビ中継で試合の内容をみることだけでは決してわからないおもしろさがやまほどある。
しかし,それでも,ヤンキースタジアムには,他の球場ほどは,観客楽しませる工夫がないように感じた。やはり,ここは殿様商売なのである。いや,野球そのものに自信があるからこれで十分だということなのかもしれないし,事実,そうなのである。
2013アメリカ旅行記-ヤンキースタジアム②
地上に駅がある地下鉄4番ラインの161ストリート駅を降りて,チケットを手に入れて,地下鉄の駅の階段を降りた。目の前は,ヤンキースタジアムの6番ゲートであった。
セキュリティで荷物をチェックして,先ほど買ったチケットを係に見せた。バーコードを機械に当てると何の問題もなく,中に入ることができて,ほっとした。
事前にネットでしらべたところ,ここヤンキースタジアムは,セキュリティが厳しく,大きなカメラなどを持っていると中に入れないとか書かれてあった。もし,そういう事態になっても,カメラを預けるところもないということであった。
私が持っていたのは,ニコン1J3というミラーレスの一眼レフと10から100ミリのズームレンズであった。35ミリカメラに換算すると,27ミリの広角から270ミリの望遠までのズームで,この日のために購入したものであった。このカメラなら小さいので問題はないと思っていた。しかし,私の予想に反して,結構大きなバッグを持った観客でも何の問題もなくゲートをくぐっていた。私の心配は取り越し苦労であった。
こういう情報は,結構いい加減なものが多く,ヤンキースタジアムのセキュリティも他のボールパークより厳しいというものでもなく,同じであった。
2009年4月,総工費15億ドルを投じて,旧ヤンキースタジアムの隣にオープンしたこの新球場は,とてつもなく豪華なものであった。同じころに作られた他の球場の3倍の費用をかけただけのことはある。
「グレートホール」と呼ばれる巨大なコンコースが迎えてくれた。私は何度足を運んでも,アメリカのボールパークの客席の仕組みがどうもよくわからない。というか知る気もなかった。持っていたチケットには,「テラスセクション313・ROW3・SEAT16」とあったが,これで1塁側の4階席だとはわからないであろう。とにかく,この球場は,チケットが異常に高価なのである。
MLBは1990年代から新球場が続々と誕生して,チケットがどんどんと高くなった。それ以前は,1,000円も出せば,上席で見ることができた。今はその10倍はするようになった。係員がいたので,チケットを見せて,席はどこかと聞いたら,横のエスカレータに乗れと言った。「グレートホール」にあったエスカレータに乗る。3階まで上がって,また,係に聞いたら,もう1階上だと言った。70ドルもするチケットが,こんなにスタジアムの上の方の席なのである。
やっとのことで,席を見つけた。席につくと,眼下にはテレビでよく見るヤンキースタジアムのフィールドがあった。
この球場は,外野も客席に囲まれて,外の景色が見られない。
他の多くの球場のように,外野の後方に摩天楼が見えたり,ナイトゲームターのときには夜景が見られたりするようにデザインされていれば,ここはニューヨークなのだから,どんなにすてきであろうか,と思っていたので,私は,このスタジアムは今ひとつ好きになれなかった。しかし,こうして実際に来てみると,これはこれですごい威厳なのであった。
さすがに興奮した。
試合はすでに4回裏がはじまっていた。すごい盛り上がりであった。
打席には,何と,イチローが立っていた。
2013アメリカ旅行記-ヤンキースタジアム①
地下鉄Eラインは,すばらしい電車であった。車内の表示も電光掲示であった。地下鉄の案内標示は,英語,スペイン語,中国語,そして,ハングル。しかし,日本語はなかった。
30年も前のニューヨークの地下鉄は,そりゃひどいもので,落書きだらけ,乗るにも命がけであった。車内には警官が乗り込んでいた。日本製の,落書きのできない車両が導入されてから,落書きがおさまったそうであるが,窓ガラスに傷をつけてまで落書きがしてあるのを,いまだに見かける。
また,ラインによって,雰囲気が全く違う。JラインとかZラインとかは,今だ,やばい時代の空気が感じられたが,このEラインは,最新式であった。
ジャマイカ・センターからマンハッタンまで,このEラインは特急電車で停車する駅は少なかったが,思ったよりも時間がかかった。
およそ30分以上乗っていただろうか,列車は,5番街&53ストリートに到着した。私はここから4番ラインに乗り換えるものと思っていたが,経路図をよく見ると,ここには4番ラインは通っていなかった。
ということで,一度,地上に出た。
警官がいたので聞いてみると,レキシントン・アベニューへ行け,と言った。レキシントン・アベニューは5番街から2ブロック東であった。そこまで少し歩いた51ストリートで乗り換えることができるらしい。
私には久しぶりのマンハッタンであった。
レキシントン・アベニューは,マンハッタンのセントラルパークの東側を南北に通る5番街のその東のマジソン・アベニューのその東の道であることを思い出した。
マンハッタンのビル街を歩いてレキシントン・アベニューに着いたが,地下鉄の入口がない。実は,私は,51ストリートではなく,53ストリートを歩いていたのだが,地下鉄の駅は51スリートであった。私は,ちょっととまどった。そこからレキシントン・アベニューを南に2ブロック行けばよかったのに,北に歩いて行ってしまった。それでも,59ストリートから地下鉄4番ラインに乗ることができた。
4番ラインの車内はけっこう混雑していた。車両もEラインのような新しいものではなかったが,昔のような暗い感じはなかった。
86ストリートで大勢の乗客が下車していったので,そのあとは,座席がほぼ埋まるくらいの状況になった。
どうして,この駅でこんなにたくさん降りるのかと思ったが,そこは,メトロポリタン美術館の最寄駅であった。銀座線に乗って上野に着いたようなものであった。
私は座っていたが,この駅で降りなかった乗客を見渡すと,私以外は,全員アフリカンアメリカンであった。ちょっとびっくりした。久しぶりのニューヨークでおのぼりさん状態から我に返って考えると,この先は,イーストハーレムなのであった。
イーストハーレムなんて,昔は「怖いところ」であった。その当時は,観光客がマンハッタンの北行きの地下鉄に乗るなんて,考えられなかった。今,私がひとりでその地下鉄に乗っているという事実が,なにか,とても不思議な気がした。今や,すっかり安全になったニューヨークは,ハーレムも問題なく歩くことができるようになった。だから,ハーレムに住むアフリカンアメリカンも昔とは違うようであった。この地下鉄に乗っているアフリカンアメリカンの人たちも,ファッショナブルで,男の人たちは体が大きくてかっこいいし,女の人たちもものすごくきれいだった。
すてきだなあ,と思った。
ヤンキースタジアムにつながるこの地下鉄4番ラインは,野球見物に出かけるらしい,NYマークのついた帽子をかぶったり,ユニフォームを着た乗客も若干は乗ってはいたが,すでに,試合開始時間を過ぎていたので,スタジアムに向かう観客で混雑しているということはなくて,通常の状態のようであった。やがて,地下鉄がハーレム川を越え,地上に出て149ストリートを過ぎると,車窓からは,南には摩天楼,北には巨大なヤンキースタジアムが眺められるようになった。これには,大いに感動した。
地下鉄は161ストリート駅に着いた。ここは,すでにブロンクスである。
私はホームに降りた。
目の前に,豪華なヤンキースタジアムがそびえていた。
とうとうヤンキースタジアムに着いたが,すでに試合開始時間を20分ほど過ぎていた。
・・
私は,この日のチケットは持っていなかったが,まあ,なんとかなるだろうと思ってここに来た。地下鉄を降りたとき,ホームに,チケット買わないか,という黒人のおじさんがいたが,この駅で下車した人たちは,みんな無視してスタジアムに急いでいた。私は,ここで躊躇していても野球が見られないので,意を決して声をかけた。おじさんは「いい席だよ」と言った。おじさんに,私の後ろから来たカップルも声をかけて,値段の交渉を始めた。
私は,そのカップルとの値段交渉が忙しいおじさんから,ともかく1枚のチケット受け取り,値段を見た。70ドルだった。財布に20ドル札が4枚あったので,それを渡してお釣りをくれと言おうとしたが,考えてみれば,この国で,こういう状況で,お釣りをくれるわけがない。思い直して,10ドル札をさがして,70ドルちょうどにして,「これでいいか?」といって,チケットを受け取った。試合がすでにはじまっていたが,チケットは正規の値段で手に入れた。
このチケットがフェイクでないことだけを祈ってスタジアムのゲートを目指した。おじさんは,まだ,そのカップルと値段の交渉を続けていた。
「かなちゃん」1週間-数字のトリックに気をつけませう。
ものにはスケールの違いというのがあって,このことがよくわかっていないことが多いわね。
たとえば,お金を100円しか持っていない人にとっての10円というのと,1兆円持っている人の10円というのは違うわね。だから,駐車違反の反則金でも,一律いくらといっても,お金がたくさんある人とそうじゃない人には同じ罰則にならないっていうわけ。
こないだ発見された超新星は地球から1,400万光年の距離にあるんだけれど,普通空に見える銀河系の恒星は一番遠くても10万光年だから,これらのお星様が同じように夜空に見えていても,実際の違いはなかなか実感できないわけね。
私が言いたいことは,こうした大きさの違いをちゃんと理解することが大切だっていうことね。
特に,経済のニュースなどで,こないだのリーマンショックのとき,明日にでも世界が崩壊しちゃうようなことになっていたけれど,これは,実際には,どのくらいの規模だったんだろうか。原発のときの放射能って,どのくらいの規模だったんだろうか。などなど。
買い物に行くと,キャベツ1個の値段が100円だったり110円だだったり,そんな10円くらいの値段の違いが大問題で,奥さんはこうしたことを工夫してやり繰りしているのに,旦那さんは300万円もする車を平気で買い替えたりしているのを見ると,本当に考えちゃうわ。
先日,老人の交通事故が増えているっていうニュースがあったんだけど,そのニュースで,ここ数年で交通事故死の数がすごく減ったのにもかかわらず,事故死における老人の割合が増えたっていう話をしていたわ。けれど,これを実数に直せは,実際は減っているのね。そして,人口における老人の増加数を考えると,実際は,老人の交通事故は増えていないのね。
お役所で予算を請求するときに,こうした統計のからくりってよく使うわけね。新聞の広告にもこういうのってたくさんあるわよ。
先日も,今,国債を1千万円国債を買うと5万円キャッシュバックっていう某証券会社の全面広告があったのだけど,3年満期の国債を買ったとき,キャッシュバックと国債の利息を加えた利率がいくらになるか計算してみてね。そんな利率よりももっと利率のいい3年満期の定期預金って一杯あるんだよ。
それが一例なんだけど,世の中って,数字に賢くないと一杯損するわね。
生きるって,やっぱり大変なのね。
もうすぐ消費税が上がるけど,これを機会にした便乗値上げが相次いでいるわ。こういうことを平気でしている会社って,結局は損するわよ。世の中をなめてはいけないわ。
2013アメリカ旅行記-ついにニューヨーク⑧
エア・トレインは,快適であったが,一方向に各駅停車でターミナルを回るので,私が乗り込んだ一番奥のターミナルからはなかなかジャマイカ・センターに到着しなかった。
15分くらいして,やっと,ジョン・F・ケネディ国際空港のターミナルを離れて,エア・トレインは北に向かった。窓から,ブルックリンの市街地がよく見えた。はじめて日本に来て成田,中部,関西の国際空港からそれぞれの都会に向かう電車に乗った外国人もこういう気持ちを味わうのであろうか。
だたし,空港から都心に向かう電車の中では,日本の電車よりもこのエア・トレインが一番快適だし,都会の地下鉄の駅までの距離が近い。
ジャマイカ・センターに到着した。この駅は,エア・トレインと,地下鉄と,ロングアイランド鉄道のターミナルで,新しくきれいな駅であった。日本のように,人人人… でないことが,さらに,快適であった。コンコースには,カフェテリアもあった。
通路の途中でロングアイランド鉄道のプラットホームが見えた。
日本に帰ってから知ったのだが,このロングアイランド鉄道でもマンハッタンに行くことができた。今度ニューヨークに行ったときは,マンハッタンンに行くにはこの電車に乗ってみようと思っている。
突き当りのエレベータを降りたところにあった地下鉄の路線図を見た。
Eラインに乗ってマンハッタンに向かって,レキシントンアベニューで地下鉄4番に乗り換えれば,ヤンキースタジアムに行くことができることがわかった。
地下鉄の改札口を通ろうとした。
ところが,さきほど購入したメトロカードで改札が開かない。
日本とは違って,こちらでは,クレジットカードとかメトロカードとかは,スリットにカードを通して,手早く手元に引くという方式なので,私のやり方が悪いのかと思った。
しかし,何度やってもだめなので,カードがいかれていると思った。なにせ時間がないので,もう一度,カードを購入することにした。
発券機のある場所に戻って,今度は,メトロカードを自力で購入する。
表示にしたがって操作をしてクレジットカードを入れたら,ZIPコードを入力しろ,と表示された。ZIPコードとは郵便番号のことであるが,そこに5ケタの数字を入れるようになっていた。しかし,アメリカではZIPコードは5ケタかもしれないが,日本では7ケタである。適当に12345などと入力しても,当然,先に進まない。訳が分からなくなって,隣にいたヤングガイに聞いても,わからないと言うし,仕方がないので,クレジットカードでの購入をあきらめて,20ドル紙幣を入れてカードを購入した。
この時点で不思議だったのは,先に空港のターミナル駅では,どうしてクレジットカードでメトロカードが購入できたのか,ということであった。さらに,後で知ったことは,このメトロカードは7日間乗り放題(アンリミテッド・ライド)27ドルというのがあったことだ。そして,さきほど改札が開かなかったのは,私の持っていたメトロカードは,1回分の料金しか購入していなかったので,料金不足だったということであった。
ついでに書いておくと,ZIPコードは自分のクレジットカードに登録してある日本の郵便番号の上から5ケタを入力すればよいということを,帰国後に調べて知った。
という感じで,おのぼりさんの私は,戸惑いながらも,なんとか地下鉄Eラインに乗り込むことができたのだった。
2013アメリカ旅行記-ついにニューヨーク⑦
アラモの営業所では,私が車を旅の途中のバーリントンで交換したことも知っていたのであった。さらには,日本で店員がやたらと慇懃に客に対応するのと同じように,男性のスタッフが出てきて,「御無事でお帰りなさいませ。お車の調子はいかがでしたでしょうか?」というような内容の英語を話したのには,超・びっくりした。
アメリカでこんな経験ははじめてであった。私は,車を返して,再び,シャトルバスに乗り込んで,ジョン・F・ケネディ国際空港まで送ってもらうことになった。私を誘導してきたおばさんが運転手として乗っているシャトルバスに乗り込んだ。
おばさんは,「ちょっと待っててね」と言って,ペットボトルを1本買ってきて,「飲んでね」と言って,私に手渡した。
この親切さは何であろうか? ここは,本当にアメリカなのであろうか?
こんなふうにして,この旅の予定のルートを,無事にドライブしおえて,契約の返却時間よりずいぶん早く,レンタカーを返却することができた。
途中で車を交換してしまったので,トータルの走行距離がわからないのだが,約2,000キロメートルくらいだっただと思う。
それにしても,ずいぶんと走ったものだ。そして,これで車がなくなって,あとは公共交通機関頼りであることに,ちょっとほっとした。
やがて,シャトルバスが,ジョン・F・ケネディ国際空港に着いた。ここでバスを降りて,この後は,エア・トレインでジャマイカ・センターという駅まで行って,地下鉄に乗り換え,ヤンキースタジアムへ行くことになる。レンタカーを返すのにずいぶんと無駄な時間を使ってしまったので,間に合うかどうか,といった時間であった。
恥ずかしい話だが,この時点で,私は,ジョン・F・ケネディ国際空港からどのようにヤンキースタジアムに行くのか知らなかった。空港から電車でマンハッタンに行けることは当然知っていた。また,ヤンキースタジアムには,地下鉄4番に乗ることも知っていた。しかし,知っていたのはそれだけだった。
東京へはじめて行ったが羽田空港から東京ドームに行くようなもので,要するに,大都会の交通網を信ずれば,何の問題もないように思えた。なにせ,ここは,世界一の大都会,ニューヨークなのである。
とりあえず,ジョン・F・ケネディ国際空港のターミナルに入って,「電車」の表示がされた方向へ歩いて行った。
お恥ずかしいのは,この空港を周回する鉄道は,無料だと思っていたことだった。だって,これまで行った様々な空港で,ターミナル間を移動する交通手段は無料でしょう。実際は,ターミナル間だけの移動は無料で,この電車でジャマイカ・センターという地下鉄の駅に行くときには有料。これは後で知ったことだった。
そのくらい無知な私は,とにかく,電車の乗り場に着いた。そこにチケット売り場があった。
まだ,無料だと信じていたので,このチケットは,この先の地下鉄の料金を先払いするのだと思ったのであった。
地下鉄のチケットは,日本の「スイカ」のように,プレイペイドカードが便利だということは知っていた。地球の歩き方にそのように書いてあったのは,以前読んだことがあった。そこで,そのプレイベイドカード(メトロカード)を買うことにした。
発券機の前に,案内のおばさんがいたので,どうやって買うのかを聞いた。
メトロカードは,クレジットカードで購入できる。そのおばさんは,私からクレジットカードを受け取り,発券機に通したが,ガソリンスタンドの給油機同様,カードを読みとれない。
「いつもこうなのよ。隣の機械で再トライしてみましょう」といって,隣の機械で同様に発券を試みた。今度は何の問題もなく,メトロカードは私のものとなった。そのようにして,その,やたらと親切なおばさんは,何から何まで丁寧に説明して,メトロカードを購入してくれた。本当に,きょうは,日本にいるようであった。
ただし,その,すべて人任せ,が後に災いをよぶのであった。
改札を通って(この時点でも,まだ,私は,この電車は無料だと信じていた),今度は,近くを歩いていたナイスレディに,どこで電車に乗るのか聞いた。この先のエスカレータを上がったホームで,ジャマイカセンター行が来るから,それに乗ると教えてくれた。違う行先の電車があるからまちがえないようにね,とも言った。
この電車は,ターミナルを周回するもの,ターミナルを周回したのち,地下鉄のジャマイカ・センター駅へ行くもの,地下鉄のハワード・ビーチ駅へ行くものがあった。私は,その女性のあまりの美しさに年甲斐もなく興奮して(冗談です),下りのエスカレータに危うく乗ろうとして,その女性に,ちがうわよ,と助けられた。本当は,車の通行方向と同等,日本とは上りと下りのエスカレーターの位置が反対なので,まちがえかけたのだった。
このように,きょうは,親切な人ばかりに出会った。
ニューヨークは,本当に,東京と変わらない所だと思った。毎年,刺激を求めて,ニューヨークへ行く,という友人を知っているが,その意味がよくわかった。今回ニューヨークへ行ってみて,こりゃ,東京へ行くよりいいや,と思った。新幹線で東京へいくのと変わらないなあ,とも思った。
私も,これからは毎年ニューヨークに行こう。シーズンオフなら航空券だってすごく安い。
そのナイスレディは,実はこの電車の駅員であった。彼女は,ホームに到着すると電車を待つ乗客に放送をはじめた。この,エアターミナルを周回して地下鉄の駅まで行く電車を「エア・トレイン」という。こちらの人は「Aトレイン」とよぶので,はじめは,「Aトレイン」が何を意味しているのかも分からなかったし,この電車がどのくらいの間隔で運転しているのかもわからなかった。
ヤンキースタジアムの試合開始に間にあうのか,だんだんと心配になってきた。
やがて来たのは,ジャマイカセンター行きでなかった。先ほどのナイスレディが放送で,この電車の行き先に注意するように放送していた。そうしてその電車を見送ったら,そのあとすぐに,ジャマイカセンター行きが来たので,私はそれに乗り込んだ。
星を見るのも大変だ。-超新星を探せ②
超新星は,古くは2世紀に中国で記録されていて,ティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラーも観測記録を残していますが,実態が知られるようになったのは19世紀後半になってからです。
・・・・・・
「超新星」という名称は「新星」(nova)に由来します。新星とは,夜空に明るい星が突如輝き出しまるで星が新しく生まれたように見えるものです。ルネサンス期には既に認識されていたのですが,1885年にアンドロメダ銀河の中にそれまで知られていた新星よりはるかに明るく輝く星が現れ,これが新星を超える天体の存在が確認されたために「超新星」(supernova)の語が生まれました。
爆発で発する光は明るく輝き,この明るさは新星を格段に凌駕します。爆発によって星の本体は四散しますが,爆発後に中心部に中性子星やブラックホールが残る場合もあります。
・・
初期の宇宙はほとんどが水素とヘリウムの同位体でした。次に,ホウ素,炭素,窒素,酸素,ケイ素や鉄などの元素が恒星内部での核融合反応で生成され,超新星爆発により恒星間空間にばらまかれました。さらに,鉄よりも重い元素も超新星爆発時に生成したと考えられています。
また,炭素の同位体比から超新星爆発時に合成されたと考えられるダイヤモンドなどの粒子も隕石の中から発見されています。
・・・・・・
ひとつの銀河に超新星が発生する頻度は数十年に1回と考えられています。
我々の銀河系では,185年のケンタウルス座に現れたのが最古の観測記録で,その後,393年のさそり座に,1006年のおおかみ座に,1054年のおうし座「かに星雲」(=1番目の写真),その後は1181年のカシオペヤ座に,1572年のカシオペヤ座「チコの星」(=2番目の写真),1604年のへびつかい座「ケプラーの星」(=3番目の写真)で現れ,それ以降は発見されていません。
また,われわれの銀河系以外の銀河(かつては「系外星雲」といいました)に出現するものは遠すぎて通常は肉眼では見えないのですが,1987年に大マゼラン銀河に出現した超新星は肉眼でも見える明るさになりました。
「超新星」は,Ⅰ型とⅡ型とに分類されます。
・・・・・・
●Ⅰ型超新星
そのスペクトルに水素の吸収線が見られないものをⅠ型といいますが,Ⅰ型には「Ⅰa」型と「.Ⅰa」(ドットいちエー)型があります。
ケイ素の吸収線が見られるものが「Ⅰa」型で,これはあらゆる型の銀河に出現します。「Ⅰa」型は,連星系を作る一方の白色矮星が,もう一方の恒星から来たガスが降り積もることで質量を増加させて,ついには自らの重力による収縮を支えきれなくなって核融合反応が暴走し,大爆発を起こしたものです。2014年1月21日に発見された,おおぐま座の銀河M82 の超新星は,極大1,2週間前の「Ⅰa」型とみられています。「Ⅰa」型の超新星はピーク時の絶対等級がほぼ一定となるので,見かけ上の明るさを測定することで超新星爆発の起こった銀河までの距離を求めることができます。つまり,天体までの距離がわかるのです。
爆発時の明るさとその持続時間が「Ⅰa」型の数値とくらべて小数点以下くらいしかないものを「.Ⅰa」型と呼びます。「.Ⅰa」型の超新星は,連星系を作っているのが質量の異なったふたつの白色矮星のときに起こります。ふたつの白色矮星はお互いに相手の周りを回る軌道を描いていて,質量の大きい主星のほうが炭素および酸素で,質量の小さい伴星のほうがヘリウムを主な物質として組成されているとき,主星の重力の影響で伴星から組成主成分であるヘリウムが主星側へ少しずつ引き寄せられていき,やがて,主星の周囲に蓄積し主星を包み込むようになって,蓄積されたヘリウムが一定質量を超えると,非常に明るく短時間で終息する爆発が起きます。爆発後,2個の白色矮星はそのまま軌道を維持し,再び同じ爆発サイクルを繰り返します。
また,Ⅰ型の中でヘリウムの吸収線が見られるものを「Ⅰb」型、水素とヘリウムのどちらの吸収線も見られないものを「Ⅰc」型とよびますが,これらについては機構がよく分かっていません。
・・
●Ⅱ型超新星
水素の吸収線が見られるものをⅡ型と分類します。Ⅱ型の超新星は少なくとも太陽の8倍より重い星の場合に起こります。Ⅱ型には,「ⅡP」型と「ⅡL」型があって,光度の変化によって,光度がほとんど一定になる時期があるものを「ⅡP」型,最大光度の後単調に光度が減少するものを「ⅡL」型と呼びます。
太陽の8倍より重い星の場合,中心核が縮退しながら核融合が進み,核融合反応を繰り返すことによって赤色超巨星に進化した段階ではネオンやマグネシウムからなる中心核が作られて,その周囲の殻状の領域で炭素の核融合が進むようになります。やがて,中心核の質量が増えると陽子の電子捕獲反応が起きて中心核内部に中性子過剰核が増え,これによって電子の縮退圧が弱まるため,重力収縮が打ち勝って一気に崩壊します。
さらに,太陽の10倍程度よりも重い星では,中心核が縮退せず中心核の核融合が進み,最後に鉄の中心核ができます。鉄の中心核は重力収縮しながら温度を上げていき,華氏1,010度に達すると,高エネルギーのガンマ線を吸収してヘリウムと中性子に分解し,これによって一気に重力崩壊を起こします。この爆縮的崩壊の反動による衝撃波で外層部は猛烈な核融合反応を起こし,Ⅱ型の超新星となります。
・・・・・・
星を見るのも大変だ。-超新星を探せ①
2014年1月21日に,距離にして約1,400万光年にある,おおぐま座の銀河M82の中に10.5等級の明るい超新星が出現しました。
当日,学生を指導していたイギリス・ロンドン大学天文台のスティーブ・ホッシー(Steve J. Fossey)さんは,天気が悪くなってきていたので予定していた実習を変更して,CCDカメラの使い方のデモをしようと思いたちました。そして,学生が対象に選んだ銀河M82に望遠鏡を向けたところ,これまでなかったはずの明るい光が見えました。雲が近づく中,大慌てで超新星であることを確認しました。
この超新星は,超新星の中でもかなり明るくて,アマチュアでも簡単に写真に写すことができます。公開天文台の観測会でも,頼めば見せてもらえます。今は発見当時よりは暗くなりましたが,まだまだ大丈夫です。
私は,写真でも写しました(赤丸で囲んだところにある明るく白い星です)し,公開天文台の望遠鏡を通して肉眼でも見ることができました。写真と違って,肉眼で見ると,M82は薄くぼんやりとしか見られませんが,超新星のほうははっきりと確認することができます。1,400万年もの昔の星の爆発をこうして今見ることができることを,とても不思議に思いました。
・・・・・・
「超新星」というのは,星(恒星)の爆発した状態が地球から見られるものです。
もし,我々が住む銀外系に属する星が爆発すれば,非常に明るく輝きます。別の銀河(かつて「系外星雲」といいました)の中の星であれば,今回の超新星のように,距離が遠いので星の集まりが雲状に見られるだけの銀河の中に,超新星が恒星のように輝きます。とはいっても,こうした超新星は遠くにあるから非常に暗くしか見られないわけです。
・・・・・・
今回の超新星のように偶然発見されるものもありますが,超新星の発見を仕事として,あるいは趣味としている人もいます。超新星を探すには,大きな望遠鏡を使って,日にちを分けて同じ場所の写真を写して,それを比べて新しい星を探すわけです。
超新星探しを趣味としている人として,日本には第一人者のアマチュア天文家・板垣公一さんがいます。株式会社・豆の板垣の代表取締役社長でありながら新天体ハンターとして知られていて,超新星発見数の国内最多記録をもっています。
・・・・・・
板垣公一さんは,池谷薫さんの彗星発見に刺激を受けて彗星捜索をはじめ,1968年に多胡・本田・山本彗星を発見しましたが,残念ながら,発見したのが遅かったので,名前がつきませんでした。しかし,その後は成果が上がらず,2000年からは捜索対象を超新星に切り替えました。
超新星の観測に重点を移してからの活躍は驚異的なもので,2013年現在での個人での発見数は,世界歴代4位です。また,これまで日本人が発見した超新星の半数近くは板垣公一さんによるものです。
・・・・・・
仕事として探しているものには,先日,テレビドラマ「木曽オリオン」でやっていたような,超新星探査プロジェクトがあります。
2013アメリカ旅行記-ついにニューヨーク⑥
車に乗って,GPSでアラモの営業所を検索した。
このレンタカーを借りたときに,ジョン・F・ケネディ国際空港の営業所に今日の午後6時30分までに返却する契約であった。
ところが,GPSに,ジョン・F・ケネディ国際空港にあるハーツとかエイビスとかの営業所は表示されるのに,アラモが出てこない。どうしてかな,と思ったが,空港に行くことは間違いがないので,とにかく,ハーツの営業所を目指して進むことにした。
帰国してから調べてみると,アラモのウェブページに,ジョン・F・ケネディ国際空港の営業所は「Jfk Intl Arpt Off Site」と書いてある。
ウェブサイトに,「アラモのレンタカーを借りたが,JFK(ジョン・F・ケネディ国際空港)のフェデラルサークルにアラモのレンタカー営業所がない。どうしたらいいか?」という旅行者の書き込みを見つけた(原文:英語)。
その答えが,また,わけのわからないものであった。
曰く,旅行者がマンハッタンに行くのにレンタカーはベストの選択でない,だの,アラモの営業所はマンハッタンの方が便利だの… 云々。
この旅行者が聞きたかったのはそういうことではなく,私のように,ジョン・F・ケネディ国際空港の様々なレンタカーの営業所が並んでいる一角に,アラモがないということなのだ。だから,アラモを予約したのだが,どこへ行けばいいのかわからない,ということでなのである。
空港に降りて,レンタカーの標示に従ってターミナルを出ても,他のレンタカー会社のカウンタやらオフィスは見つかってもアラモだけがない,というのは非常に戸惑う事態であろう。
話はそれるが,日本でも,「ペットボトルの飲料水がすぐにぬるくなってしまうが,冷えたままに保つ方法はないか?」という書き込みがあって,その回答の中に,「冷えた飲み物は体に悪いから飲んではいけない」というばかげたものが多数あった。それでは,質問の答えになっていない。
「地下鉄の切符はどのように買えばいいか」という質問に,「地下鉄など乗ってはいけない」と答えるようなものである。
ネットの質問には,こうした不真面目な回答を数多く見つけることができる。
実際は,アラモは,2012年にジョン・F・ケネディ国際空港の北,州道27に面したところの空港の公営駐車場の隣に営業所を開所した。だから,他のレンタカー会社のカウンタとは別のところに営業所があって,レンタカーを返すには,その営業所に行けばよいし,借りるときは,ジョン・F・ケネディ国際空港のロータリーに営業所行の無料シャトルバスが巡回しているからそれに乗ればよいのである。
問題なのは,私のように,その営業所がGPSで検索できないことと,アラモの公式サイトにその営業所の地図がないことなのである。
そのときの私は,そんなことも知らず,ともかく,ジョン・F・ケネディ国際空港に到着して,他の空港と同じように,「レンタカー・リターン」の道路標示に従って走っていった。そして,各レンタカー会社が表示された一覧表からアラモを探して走っていったが,アラモだけが見つからなかった。
そうこうするうちに,レンタカー・リターンの駐車スペースが終わってしまって,気づいたときには,ジョン・F・ケネディ国際空港の近郊のホテルの送迎用シャトルバスの行き来するロータリー(フェデラルサークルに)に到着してしまった。
私は困り果てて,そのロータリーにともかく車を停めて,客待ちをしていたシャトルバスの運転手に聞いた。すると,運転手は,アラモのシャトルバスがここに来るので,ちょっと待っていればいい,と言った。事情がよくわからなかったが,ともかくしばらく待っていたら,青色のアラモのシャトルバスがやってきた。私が聞いたそのシャトルバスの運転手が,親切にも,アラモのシャトルバスの運転手のおばちゃんに事情を話してくれていて,おばちゃんが降りてきて,「私についてきて」といった。
私は,そういう展開になるとは知らなかったので,車をロータリーに頭から突っ込んで停車てしまっていた。そこで,車を発進させるにはバックする必要があった。が,ロータリーはホテルに行くためにバスを待っている人たちでごった返していて,うまくバックができなくて,あやうく人を轢きそうになったりした。客待ちをしているシャトルバスの運転手たちは,そのたびに「オウ」とか叫ぶのであるが,だれも,こちらから頼まなければ交通整理を買って出るようなことはしない。これもアメリカらしいことである。
私も,乗り慣れた車でないので,車の後方がうまく見られず,危ないったらあしゃしない。
左ハンドルというのは,実は,バックが一番むずかしいのかもしれない。なにせ,アメリカでは駐車するときも,日本のようにバックで入れるなんていうことはしないから,アメリカではバックなんてしたことないし…。
「私についてきて」と言ったアラモのシャトルバスのおばちゃんは,ロータリーに車を停車して,私の車が発進できるのを辛抱強く待っているし,ほとほと困った。それでも,人を轢かずなんとか車をバックするのに成功して,おばちゃんのシャトルバスの後ろにつけることができた。やっと,おばちゃんのシャトルバスが発車して,その後ろをついて行った。
空港の周回道路をくねくねと走って,ついに,私はアラモの営業所に到着したのだった。
☆ミミミ
2月26日から2月28日は,金星,水星,月が明け方の東の空に並ぶのを楽しみにしていたのですが,残念ながら27日と28日は天気が悪く,見ることができませんでした。26日は見ることができたのですが,PM2.5の影響で空はけむり,月の周りがにじんでいました。
やっと待ち焦がれていた春が来ましたが,春になると,花粉症,春霞,黄砂,それにPM2.5と,気が重い毎日になります。昨年は秋がなく,急に冬が来ましたし,この春も,すぐに蒸し暑い夏になってしまうような気がします。
日本の美しい四季,特に過ごしやすい春と秋は,もう,来ないのでしょうか?
「ネブラスカ」-人生に当たりくじなど必要ない。
公開されたばかりの映画「ネブラスカ -ふたつの心をつなぐ旅-」(Nebraska)を見ました。
かつて,「ストレイト・ストーリー」という,老いをテーマにしたロード・ムービーがありましたが,この映画もそれに勝るとも劣らない素敵な映画でした。
私は,アメリカ合衆国50州制覇の夢があるのですが,まだ,ネブラスカ州には行ったことがありません。この映画を見た理由は,アメリカ映画の中で一番魅力的だと思っている「ロード・ムービー」だということと,そして,ネブラスカ州をテーマにしているということ,そうしたきわめて単純ものでしたが,見終わった後の満足感は,予想をはるかに超えるものでした。
映画の冒頭は,年老いた主人公が住んでいるモンタナ州ビリングスです。そして,私にとって因縁のインターステイツ90,そして,ワイオミング州を通って,サウスダコタ州マウントラッシュモア,そこから,大平原続くネブラスカ州… と映像が続くとあっては,これ以上のわくわく感はありませんでした。この映画は,そうしてはじまりました。
ネブラスカ州には行ったことはないけれども,2012年に行ったノースダコタ州よりもさらに田舎(に見えた)ということにも驚きました。確かに,ネブラスカ州のもっとも有名なものはトーネードです。
なお,この映画で出てきたネブラスカ州ホーソーンは実在せず,ノーフォークのプレインビュー(Plainview, Norfolk)で撮影されました。
年老いた主人公ウディ・グラントは,100万ドルの賞金が当たったいう古典的なインチキを信じて,その賞金を受け取りにネブラスカ州の州都リンカーンまで歩いて行こうとします。それを留められず,仕方なく付き合うことになった息子との,その道中で起こるきわめて人間的な様々な出会いと醜さ,そして,やさしさが,この映画の内容です。
実は,ウディは,かつて戦争に傷つき、その結果酒びたりになった過去があるのです。そうした過去を持つ男たちが、今日の社会を支えてきたことは日本も同じです。それは,単に,老人の頑固と醜さでは片付けられない一面なのです。
主人公ウディとたえず憎まれ口をたたく口うるさい妻ケイト・グラントは,私の両親に瓜二つでした。そして,また,私にも,ロス・グラントのような弟(映画では兄ですが)がいます。だから,私は,その息子のデイビッド・グラントに同化して,この映画を見ました。
-物語の最後に待つ、人生最高の当たりくじをあなたにも- とは,この映画の宣伝文句ですけれども,私は,人生に当たりくじなどない,だけど,当たりくじなど必要ないと気づきました。
沢木耕太郎さんは,朝日新聞の「銀の街から」で,「老いるとは,たぶん,自由に『移動』する手段と方法を徐々に失っていくことに他ならないのだ」と書いていますが,私は,老いに抵抗するのではなく,素直に受け入れて生きていこうと改めて決意することができたのでした。
この映画も,また,「人生には救いがない」ということを,再確認するものではあったけれども,なぜか,見終わった時に,心が温かくなりました。きっと,この老人のささやかな誇りを成就させてあげることができた息子さんの心に触れることができたからなのでしょう。
見る前は,この映画がどういった結末を迎えるのだろうかと心配しましたが,いい意味で予想を裏切りました。ただし,ネブラスカ州のもつ色彩自体がモノクロだから,あえて,この映画を全編モノクロにする必要などなかったのになあ,と残念に思いました。蛇足ですが。
◇◇◇
ネブラスカ州にはまだ行ったことがないので,写真がありません。きょうの写真は,マウントラシュモアとサウスダコタ州のインターステイツ90とノースダコタ州のカントリーロードです。
「かなちゃん」1週間-「問題」が問題なのよ。
試験の「問題」っていのもの自体の考え方が,教科によって違うことって知っていますか。
私は,このことを最近認識してびっくりしたわ。もっとはやく気づいていたら,大天才だったのに,と思うわね。きっと,テストでいい点を取る人って,頭がいい悪いじゃなくて,こういうことをはじめから知っている人なのよ。
どういうことがというと,たとえばね,算数や数学の場合は,問題っていうのは,たとえば,「2×3=」っていうようなもので,答えの選択肢として,「ア.4,イ.5,ウ.6」とあれば。正解はもちろん「ウ」になるわけね。
それが,国語の場合だと,「次の文章を読んで,正しいものを答えよ。」と書いてあって,文章が「きょう花子さんが1+1の答えは2だと言った。」であったとき,答えの選択肢として,「ア.1+1の答えは2,イ.1+1の答えは3,ウ.2+3の答えは5」と書いてあれば,正解は「ア」ということになるわけね。「イ」は計算として正しくないというよりも書いていないから間違っていて,「ウ」は計算としては正しいけれど,そんなことは書いていないから間違っている,というわけなの。だから,もし,文章が,「きょう太郎君が1+1の答えは3だと言った。」だったなら,正解は「イ」ということになるわけなのよ。
何が言いたいかというと,国語という教科で問題というのは,「次の文章を読んで」というところが大切なのね。これは,本当は「文章を読んで」じゃなくて,「文章に従って」なの。だから,そこに自分の感情やら意見やら考えを含めてはいけないのね。だから,国語が苦手っていうのは,本当に読解力がない場合もあるけれど,そうじゃなくて,国語っていう教科の問題とその答え方のルールがわかっていない,ということもあるのね。
国語の試験では,文章を読んで,そこから,何かを感じたりして自分で考えたり解釈しちゃいけないわけなの。
小説を読んで,自分が主人公の気持ちになったり同化して,こういうときには悲しいわね,と自分が思っても,その作品に主人公は「笑った」とか「笑顔を見せた」と書いてあったら,それがすべてなの。主人公は楽しかったとか面白かったということになるわけ。
こういうことがわかっている子は国語の試験で点数が取れるのだけど,それがわかっていないと,国語力がない,って言われちゃうの。
でも,算数や数学だと,例題をを元にどれだけ自分でその考えが応用ができるか,っていうのが一番大切な力なの。だから,「1+1=2」っていう仕組みを習えば,「1+2=3」だって,「2×3=6」だって,自分で応用してできるようになるか,っていうことが大切だから,そういう力がある人を優れているというわけ。
これが教科による問題というものの認識の根本的な違いなんだけど,非常に重大で,見過ごされていることなのね。
でも,本当は,文章を読むという行為だけでも,国語の問題のように,書いてあることに従えばいいということではないわけね。
私は,文章の解読というのは,書いてあることをありのまま理解できる力と,その内容を解釈して応用できる力と,そこから自分が感情を輸入して同化することができる力があって,その三つを分けて考えないといけないと思っているわけ。
そして,この三つの力はすべて大切だと思うのだけれども,小説を読んで楽しむためには,この三つの力の中で三つ目の力が一番必要で,これは,解読力というよりも,むしろ芸術の鑑賞力に近いから,一般の人が求めている「国語を正確に解読する能力」とは全く別物なのね。
よく,国語の受験問題に出題された小説の実際の作者がその問題が解けなかったということが書いてあるけれど,それは,こういうことが理由なのね。
小説を国語という教科の中で勉強するっていうこと自体が,問題なのかもね。