夜のマンハッタンをツアーのバンで移動しながら,そうした昔のことをたくさん聞くことができた。そうするうちに,バンは,ブルックリンビレッジを通り過ぎて,イーストリバーを渡り,対岸のブルックリンハイツについた。この夜景ツアーは,ブルックリンハイツからとエンパイヤ・ファルトン・フェリー・ステイツ・パークからのマンハッタンの夜景を眺めるものであった。
以前来たときには,けっこう治安の悪いところだったようで,夜景を眺めて,すぐに促されてその場所を後にしたけれど,今は,たいへん治安がよく,多くの観光客が夜景を見にきていた。
ブルックリンハイツは,エンパイヤ・ファルトン・フェリー・ステイツ・パークの東側の高台で,高級住宅地である。また,エンパイヤ・ファルトン・フェリー・ステイツ・パークからのブルックリンビレッジとマンハッタンの夜景は,映画「マンハッタン」で有名な場所である。
私は,ここに来る途中で,自分にはブルックリンビレッジを歩いて渡るという夢が残っていたことを思い出した。果たして,今回もこの夢が実現できるかしら,とこのときは思った。
話が飛ぶが,次の日,つまり,この旅の実質上の最終日,私は,ついに,念願のブルックリンブリッジを歩いて渡ることができた。そして,再び,このブルックリンハイツからエンパイヤ・ファルトン・フェリー・ステイツ・パークへ歩いてみた。このとき,ここの夜景は,今や,ツアーでなくとも,ひとりで橋を渡って見にくることができるのだと,そう思った。
この日のマンハッタンは,雨上がりで少し霧がかかっていた。それが,また,幻想的であった。
貿易センタービルの建物は,悲惨な9・11で崩壊してしまったので,前回来たときとは違う。また,それ以外にも数多くの高層ビルが建ち,景観も変わった。この町は生きている,と思った。
多くの観光客がそれぞれが思い思いに写真を撮っていた。
私の参加したツアーは,この夜景を見るだけのものであった。私は,今回の旅でニューヨークのほとんどの夢は実現したのだが,ひとつだけやり残してしまたことがある。それは,ヘリコブターで,空からマンハッタンの夜景をみることだ。この夢はいつか実現できるのだろうか…。
ツアーが終わり,私は,地下鉄Lラインに乗ることができる駅まで送ってもらった。ブルックリンで道に迷ったのは昨日のことだが,もう,ずいぶんと昔のように感じた。
Lラインの車内は込み合っていて,私は,カメラを肩にかけて座席の前に立っていた。座っている男が「そのカメラは,レンズ交換の出来るやつだろう」と言って,私のニコン1J3を見て話しかけてきた。そして,その男は隣にいた女性(きっと奥さん)にカメラのことを話しているようであった。望遠ズームを付けていたので,私は,きょうヤンキースを見てきた帰りだと答えた。そうしたら,彼は「そういえば今日は日本人のなんとかいうボーイが4-4を打ったんだろう」と言った。イチローも,ニューヨークでは,ボーイなんだと,なにかおかしくなった。
そして,なぜか,ずっと,この町に住んでいるような気がした。
この日は,昨日のように地下鉄の中は大道芸人もなく,静かなものであった。
ホテルに戻った。この旅で,もっとも楽しみにしていて,もっとも多忙だと思っていた1日が楽しく終わった。すべてが順調な1日であった。この日のことは生涯忘れないであろう。
いよいよ明日は,実質上の最終日である。ホテルの移動をどのようにするかということだけが,少し心配であった。
April 2014
星を見るのも大変だ。-超新星を探せ④
仮に,地球から8.6光年離れたシリウスA(通常シリウスとよばれる連星シリウスの主星),あるいは25.3光年離れたベガがⅡ型超新星爆発を起こしたとすると,地球に住む生命はほぼ確実に絶滅するか壊滅的な打撃を受けることになります。
しかし,超新星爆発を起こすには太陽の8倍以上の質量が必要で,シリウスAの質量は太陽の2倍強,また,ベガの質量は太陽の3倍程度であるために,幸いなことに超新星爆発は起こさず,いずれも赤色巨星となって膨張した外層部により惑星状星雲を形成し,残った中心核が白色矮星となる可能性が濃厚です。
惑星状星雲の名は,望遠鏡で観測したときに緑がかった惑星のように見えるところから,ウィリアム・ハーシェルによって名付けられました。 惑星状星雲は,超新星にならずに一生を終える恒星が赤色巨星となった際に放出したガスが,中心の白色矮星の放出する紫外線に照らされて輝いているものです。
惑星状星雲の中心にある白色矮星はその恒星が一生を終えた姿です。質量が太陽の0.5倍以上8倍以下の恒星が白色矮星になるといわれています。
恒星は,一生の末期になると外層が膨張して赤色巨星となり,外層のガスは徐々に恒星の重力を振り切って周囲に放出されていき,原始惑星状星雲となります。一方,中心核は自分自身の重力で収縮し高温高密度の白色矮星となるため紫外線を放射し,この紫外線が赤色巨星であった時に放出したガスに吸収されると,ガスはそのエネルギーによって電離して光を放って輝くようになります。これが惑星状星雲です。
惑星状星雲のスペクトルは,主に電離ガスから放たれる輝線スペクトルです。惑星状星雲のガスは極めて希薄で原子間の衝突がめったに起こらないために輝線が観測できるのです。
☆ミミミ
今日の写真は,M97ふくろう星雲とM57環状星雲です。ともに,代表的な惑星状星雲で,写真を撮るとかわいいその姿を簡単に手に入れることができます。
星を見るのも大変だ。-超新星を探せ③
「かに星雲」という名前で知られるM1はおうし座にある超新星残骸で,地球からの距離は約7,000光年(銀河系の直径は約10万光年)です。現在も膨張を続けていて,中心部には「かにパルサー」と呼ばれるパルサーの存在が確認されています。
この星雲の元となった超新星は1054年に出現したことが中国や日本の記録に残されています。
中国の記録「宋史」の「天文志」には客星(突然現れた明るい星)として,1054年7月4日に現れて1056年4月5日に見えなくなったとあります。また,日本でも藤原定家が自身の日記「明月記」に記録を残しています。超新星の出現当時は金星ぐらいの明るさになって23日間にわたり昼間でも肉眼で見えたということです。
1731年,イギリスの開業医でありアマチュア天文家のジョン・ベヴィスによってこの星雲が発見され,ウィリアム・パーソンズの観測で微細なフィラメント構造がカニの足を思わせることからカニ星雲と命名されました。
彗星を観察していたシャルル・メシエは,1758年9月12日にかに星雲を彗星の追跡中に発見し,彗星と紛らわしい天体としてまとめたメシエカタログの1番目に収録しました。メシエは「牝牛の南の角の上にある,星雲状のもので星を含まない。白っぽくローソクの炎のように長く伸びている。1758年の彗星を追跡中に発見した。また,ベヴィス博士が1731年発見したとする私信がある」と記しました。
ルンドマークは,この星雲が900年ばかり前に爆発した残骸であることを示唆し,写真観測から年ごとに膨張しつつあることを明らかにしました。また,エドウィン・ハッブルやダンカンは1054年に出現した超新星の残骸であることを確認しました。
「かに星雲」は,双眼鏡では微かな光斑に見えます。見え方は空の状態に依存する天体でもあって,口径20センチの望遠鏡では佐渡島のような形に見え,内部の模様も見えはじめます。
現在,銀河系内で近いうちにⅡ型超新星爆発を起こすと予測されている星は,約600光年離れたアンタレスと約640光年の距離にあるベテルギウスです。これらの星が超新星爆発を起こした際には地球にも若干の影響が出ると言われていますが,地球から距離が離れすぎているためにガンマ線の威力は弱まり,オゾン層が多少傷つく程度で惑星および生命体への影響はほとんどないと予測されています。またガンマ線は自転軸の2度の範囲に放出されることが判明しており,その後の観測から地球はベテルギウスの自転軸から20度の位置にあることもわかっていることから,ベテルギウスからのガンマ線は地球に影響を及ぼさないと考えられています。
ベテルギウスの質量は太陽の約20倍もあり,かつ,脈動変光するほど赤色超巨星として不安定であることから,2009年の観測では,15年前の測定時と比べて15%も小さくなっており,しかも加速的に収縮しているらしいことがわかりました。また2010年1月のNASAの観測で,ベテルギウスが変形している事が示されたのですが,これは,ガスが恒星表面から流出し表面温度が不均一になるなど,星自体が不安定な状態にあることを意味していて,さらに近年の観測や研究により,その形状は球形ではなく,大きな瘤状のものをもった形状であるとされています。
しかしながら,これらの観測結果がベテルギウスの超新星爆発の前兆現象を捉えているのかどうかは定かではありません。近い将来の爆発は予測されているものの,それがいつか(明日なのか100万年後なのか)を示したとする観測データや解析結果は発表されていません。
☆ミミミ
テレビドラマ「木曽オリオン」でもやっていた長野県木曽観測所の超新星探査プロジェクトで,2月下旬に次の3つの超新星が相次いで発見されました。同プロジェクトによる超新星発見はこれで通算12個です。
●超新星2014Sは、2月21日におおぐま座方向の銀河に18.8等で発見されました。爆発約20日後のⅡ型超新星とみられます。
●超新星2014tは、2月22日におとめ座方向の銀河に18.7等で発見されました。爆発約2週間後のⅡ型超新星とみられます。
●超新星2014Uは、2月23日にしし座方向の銀河NGC3859に18.9等で発見されました。爆発約2週間後のⅡ型超新星とみられます。
2013アメリカ旅行記-ニューヨークの夜景・再び②
日本のラーメン屋のような店であった。私は,カウンタに座ってカツ定食なるものを注文した。どんなものが出てくるのか興味があった。
昔,パリに行ったときに,シャンゼリゼ通りで「どさん子」というラーメンチェーンを見つけて,塩バターラーメンを食べたのを思い出した。そのときの店員の「シオバタらーメン」と言った発音が忘れられない。
難しいものを注文したせいか,なかなか出てこなかったが,のんびりと店内を観察することができた。非常ににぎわっていた。あとで知ったことには,このところ,ニューヨークでは,非常にラーメンが人気であるらしい。ニューヨーカーは食事にかける時間が長く,日本人の2倍,3倍も麺を救い上げたままおしゃべりに夢中になっていたりするので,麺がのびないように通常よりも水分を多くしたりと,企業努力をしている店が人気なのだそうだ。
これを書きながら思い出したが,いくらラーメンブームとはいっても,ニューヨーカーにはやはりピザだそうだ。
けっこう大きめのピザを4分の1切って買い,これを弧の真ん中と中心を折り目にして二つ折りにして,手ですくうようにして口に入れるのだそうだ。フォークで食べるなどは論外で,ピザをフォークで食する写真が掲載されたことで,ニューヨーク市長はスキャンダルにまで発展した。
・・
やがて,私の前に食事が運ばれた。日本とまったく同じ,というか,日本よりも美味なカツ定食が出てきた。しっかりと赤味噌の味噌汁まで付いていた。何度も書くが,ここは東京と変わらない。東京よりも店内は広く,食事もおいしいことが違うくらいだ。
食事が終了して,私は,そのまま5番街を南に歩いて,朝と同じ集合場所に向かった。まだ時間が早かったので,これも朝と同じマクドナルドに行って,ブログを書いた。朝と同じ店とは思えない賑わいであった。
時間になったので,集合場所に行った。少し雨が降ったので,ガスっぽくなっていたが,夜景は見られそうであった。10人くらいの参加者がいて,朝とは違った男性のツアコンが,これも朝とは違って,自分でバンを運転して現れた。
今回参加したツアーは,大都市ニューヨークで日本人観光客を相手にしているだけあって,そつがないというか,ビジネスライクというか,質問してもちゃんと答えてくれるし,案内もしてくれるので問題はないのだけれども,まったく無理が利かないというか,個人的に親しくなれるという感じがなかった。
アメリカを旅行すると,そうした人にこれまでもたくさん出会ってきたが,それにしても,日本人として生まれて,アメリカに憧れてこの地に来て生きていくということは,それなりに大変なことであり,また,ここでしか味わえない楽しいこともたくさんあるだろう。私も含めて,日本からの旅行者を相手に毎日仕事をするというのは,たとえそれが仕事とはいえ,当然,わけのわからぬ人もいるだろうし,そこに,さらに,異文化という要素が加わるから,苦労も多いことであろう。
ツアコンは,私とさほど年が違わない人で,ニューヨークにずっと住んでいるということで,ニューヨークの変遷を聞くことができた。私が感じていたように,この街は,近年,ものすごく治安がよくなって,それは,ジュリアーニ前市長の功績であるということだった。以前は,本当に,死体が川に浮いていたり,投げ捨てられていたり,麻薬の売買をやっていたりしたそうだ。
私にとってのニューヨークは,ビリージョエルの口笛の音,マンハッタンの暗闇に浮かぶ足音,そして,遠く南に霞む摩天楼を見上げて生きる荒んだハーレム,そして,エンパイアステイトビルの展望台からゴーッという風の音とともに見下ろす碁盤状の町並み…,である。
しかし,時代は変わり,ニューヨークは,今や,東京と同じになっ(てしまっ)た。
「かなちゃん」1週間-モノを買わない①
消費税が上がったわ。物わかりのよい日本人は仕方がないと思っているようだけれども,実は,単に,ばらまきが増えただけだっていうことに気づいていないのね。歴史を勉強するといいわ。国の財政が増税で改善したことなんてないんだから…。
だから,これからは,おじいちゃんの言っていることを参考にして,「モノはなるべく買わない方がいい」っていう話をしていくわね。モノなんて必要なときに必要な分だけ買うか,あるいは,できるだけ借りればいいと思うわ。
確かに,誰でも,何か欲しくなっちゃうっていうことはあるし,それは否定しないけれど,実際,身の回りには手に入れても使っていないものってけっこうあるんじゃないかしら? おじいちゃんのように,人間を長くやっていると,そんなこともずいぶんたくさんあっただろうから,話にも説得力があるわね。それを紹介していくわね。
きょうは,カメラとレンズの話。
きっと,カメラのレンズって,一度買ったら壊れないでずっと使えるって思っているでしょ。一眼レフカメラのレンズなんて結構値段が高いから,一生使おうって思うよね。でも,あまり書かれていないけれど,このレンズって,ピントリングとかズーミングリング,つまり,レンズの周りについている回転するリングがラバーでできているんだけれども,そのラバーっていうのが曲者で,年月が経つと,っていってもたった10年くらいでも,劣化してべとべとになっちゃうことってが結構あるのよ。知ってた?
これって,すごいショックなのよ。
ネットにも,そうなったらアルコールで拭くとか書いてあるけれども,そうしても改善しないことが多いのよ。おじいちゃんの持っていたニッコールレンズなんて,そのリングがボディーと一体化した構造だったんで,ラバーを張り替えるだけっていうことができなかったんですって。おじいちゃんはサービスセンターに持っていったんだけれど,アルコールで拭いてもらっても治らなくって,リングごと取り換えるって言われたそうよ。それがずいぶんと高いんだって。私は,これを聞いて,なんだかレンズ交換式の一眼レフって買う気持ちがなくなっちゃったわ。
カタログを見ると,何百万円もするのもあるけど,これじゃあ,たまらないわ。そんなことなら,私は,多少の使い勝手が悪くても,ラバーなんて使わなければいいって思うんだけど…。メーカーはどう思っているのかしら。
それにね,カメラメーカーって,これまでも,売れなくなるとさっさと撤退しちゃうところもあるから,凝っていろいろ買い揃えても裏切られるわよ。
たとえば,京セラのコンタックスっていうカメラなんて,高級品がウリだったのに,すぱっと辞めちゃった。きっと買った人は後悔しているわ。オリンパスだって,今は売れてるけど,昔のOMシリーズなんて,売れなくなったときにはムヤムヤになって,今のものとはあまり互換性も考えられていないから,昔のものを持っていてもどうにもならないの。会社の性格って変わらないから,また,歴史は繰り返すかもね。
自分がその会社を贔屓にしても,売れなくなったら会社ってあなたには冷たいわよ。
だから,カメラなんて仕事でなきゃ,欲しければちょっとした中古品を必要なものだけ買うに限るわ。使い捨てだって思った方がいいわよ。
2013アメリカ旅行記-ニューヨークの夜景・再び①
試合終了後の地下鉄乗り場は,昨日同様,多くの人でごった返していた。地上2階の乗り場まで鉄の階段を上って,改札口に到着した。
私の前の人がメトロカードを自動改札に通したが,改札が開かなかった。私は,にわか知識で料金が不足しているんだ,と言った。すでに,私のこころはニューヨーカーであった。ところが,次に私が自動改札を通したときに,同じことが起こった。そういえば,今日来るときに帰りの料金が不足していると思ったことを思い出した。人に言っておきながら自分も同じとはバカげたことだ。これも,アメリカ人のようだった。
自動改札の横には,係員のいるブースがあって,ここでお金を払えばチャージしてくれる。機械化しても,結局は,人間のほうが要領がよいのである。私は。20ドル紙幣を出して,メトロカードにチャージをしてもらい,今度は何なく自動改札を通ってホームに出た。
ホームには地下鉄が停まっていて,ほどほどの混雑であったが,その列車に乗り込んだ。列車の中には,1組の日本人家族がいた。私は,未だ,興奮さめやらなかったので,その家族に「すばらしい試合でしたね」と話しかけた。
聞くところによれば,観光でニューヨークに来て,こちらで松井選手の引退セレモニーがあると知って試合を見にきたのだそうだ。彼らは,松井とイチローは知っていても,それ以外のことは皆無であった。だから,ジーター選手もリベラ選手も知らなかった。
見たくて仕方がないのに見る機会がない人もたくさんいるのに,それほどの想い入れがなくても,偶然こういう試合を見てしまう人がいる…。世の中はそんなもんだ。
出発調整でしばらくホームに停車していたが,列車は出発して,一路,マンハッタンを南下していった。その家族は途中で下車した。
今日のこのあとの予定は,ニューヨークの夜景をブルックリンハイツから眺めることであった。
私は,前回に来たときにも夜景ツアーというのに参加して,そのときは,ブルックッリンビレッジの対岸からのマンハッタンの夜景も見たし,エンパイヤステートビルの最上段から深夜のマンハッタンの夜景も見たので,別に,今回見られても見られなくてもよかったのだけれど,この日は試合後の予定がなかったので,現地の日本人観光客相手のツアーに参加したのであった。偶然,朝,ゴスペルツアーに参加した若者も私と同じ日程であった。
試合終了後,夜景ツアーには,まだずいぶんと時間があったので,ブロードウェイを散歩して,日本料理を食べることにした。
思えば,わずか1日前,ブルックリンでさまよっていたのがずいぶんと前のことのように感じた。この日の私は,東京ドームでプロ野球をみて,渋谷で夕食を食べようと道玄坂を歩いているのとさほどの違いはなかった。違いといえば,人の多さ(なんたって,東京のほうが人は圧倒的に多い)と風紀の悪さ(東京のほうが不気味である),そして,観光客相手のパフォーマンス(ニューヨークのほうがはるかに楽しい)であった。
5番街は,いつ来ても華やかである。観光名所の周りは,観光客でごった返している。セントラルパークには観光用の馬車が人待ちをしている。路上の物売りがいろんなものを売っている。何年も前から変わらぬ風景であったが,来るたびに,この街はきれいになっていく。
ただし,ティファニーの前は,ずっと昔から同じであった。
かつて,好景気のころは,5番街は,星条旗が自信満々にあらゆるビルにはためいていた。
そして,今回,アメリカはリーマンショックの不況から脱して,再び加速をはじめたように見えた。
目についたのは,ユニクロの店舗であった。
私は,52丁目を通り過ぎ,ブロードウェイまで南下して,そのまま,日本食が食べられる店を探した。ブロードウェイに,日本食の食べられる店を見つけた。ラーメンやらカツ定食やらの懐かしいにおいがした。客の多くはコリアンとチャイニーズとそれに白人で,ほとんど日本人はいなかった。店に入ると,なまりのあるアクセントで「いらっしゃいませ~」と言われた。厨房には,多くの日本人が働いていた。
2013アメリカ旅行記-ヤンキースタジアム・再び④
試合は,だらだらと後半戦に入った。依然として,この日6番を打っているイチローだけが,好き勝手にヒットを打っていた。
今年は,こんな試合ばかりなのだろう。私は,マリアノ・リベラ投手の姿を見たかったが,それも期待できなかった。隣の男性も,リベラ? きょうは出てこないでしょう,と言った。
日本からわざわざMLBを見に行っても,なかなかお目当ての選手を見ることは難しいのである。それでも,先発投手なら,連続して5試合くらい見れば,その夢はかなうし,往年のイチローなら,ほぼ毎日出場していた。しかし,押さえの投手を見るのは,運だけなのだ。私は,これを書きながら,なんとか上原投手を見たいものだと思っているのだが,はたしてこの夢はかなうのだろうか。
そして,8回に,彼らは帰っていった。彼らは,松井の引退セレモニーが見られれば,それで,この日の目的は達成できたのであろう。
ところが,この日の試合は,このままでは終わらなかったのだった。
なんと,5対5の同点にもかかわらず,9回の表に,マリアノ・リベラ投手が出てきた。私は,興奮した。
以前,クリーブランドでヤンキースの試合を見たとき,彼は結局登板したのだが,私は,あまりに一方的な試合で,途中で帰ってしまい,見損ねた。それ以来のトラウマであった。しかも,彼は,今年で引退を表明していたので,このころは,出る試合出る試合,さよなら興行化していた。観客の熱狂は最高潮に達した。この国に住んでいたって,ほとんどの観客は私と同じで,そうそう,リベラ投手を見る機会などないのであろう。
このMLB史上最後の背番号42を背にしたリベラ投手は,いつものテーマで現れ,いつものようにカッターを投げ,三者凡退でマウンドを後にした。そして,9回裏,7月26日にトレードでヤンキースに復帰したばかりのかつて日本の広島カープに所属していたアルフォンソ・ソリアーニ選手がサヨナラ・ホームランを打って,ヤンキースは劇的な勝利を得た。
ヤンキースタジアムでは,試合が終わった瞬間から,球場全体に,フランク・シナトラが歌う「ニューヨーク・ニューヨーク」がかかる。私は,小説に書いても出来過ぎなこの試合の余韻に浸りながら,ずっと,スタンドからグランドを見ていた。
大型のビジョンには,松井選手のセレモニーからこの試合のハイライトが放映されていたが,やがて,アルフォンソ・ソリアーニ選手のヒーローインタビューが始まった。そして,恒例の,スポーツ飲料の入った大きなバケツがソリアーニ選手めがけてぶっかけられて,ずぶぬれになったところで,インタビューは終了した。
名残惜しくスタジアムを後に,外に出ると,日本のテレビ朝日がインタビューをしていたのに遭遇した。インタビュアーが私にマイクを向けた。このインタビューは,松井選手が,ここニューヨークでどのように見られているかということを聞きたかったのであるが,私は,この劇的な試合を見たあとで興奮しきっていて,試合のコメントを大声で話していた。
ヤンキースタジアムの周辺は,昔のくすんだ状態とはまったく違って,きれいに整備されていて,旧のヤンキースタジアムのあった場所は,広いグランドに整備されていた。その向こうには,フェリーの乗り場があるので,多くの人がそちらに向かって歩いていった。私は,地下鉄で帰るので,それとは反対側の地下鉄の乗り場に向かって歩いて行った。
2013アメリカ旅行記-ヤンキースタジアム・再び③
やがて試合がはじまった。
はじめは,ニューヨークの新しいヤンキースタジアムで試合が見られればそれでいいと思っていた。それが,偶然,松井選手の引退セレモニーと重なった。うれしさ半分,これで多くの日本人が押しかけるだろうという懸念が半分であった。しかし,私が思っていたほどの日本人はいなかった。特に,旅行者はほとんどいなくて,その多くは,現地在住の日本人であった。
ところが,この試合は,この年のヤンキースの試合の中でも,十指に入る好ゲームとなった。これほどの試合を見ることは今後もできないであろう。
まず,イチロー選手が4打数4安打であった。そして,昨日まで故障者リストに入っていたジーター選手がこの試合から復帰した。それだけでなく,いきなり最初の打席でホームランを打った。
これで,もし,黒田投手が投げていれば,申し分なかったが,これは,次の機会にとっておこう。
・・
私は,この年の旅行で,ほとんど思い残すことはなくなったが,しいてあげれば,上原投手を見損ねたことと,黒田投手が見られなかったことであろうか。
将来,私は,ダルビッシュ投手と青木選手は,ぜひ,アメリカで見てみたいと思っている。
さて,試合は,せっかくジーター選手がホームランを打って,ムードを引き寄せ,初回に3点を取ったのに,フィル・フューズという先発投手がだらしなく,5回の表に1点を取られて同点になってしまった。
言い忘れていたが,相手は,昨日と同じタンパベイ・レイズであった。ボストンで試合を見たときもレッドソックスの相手はタンパベイ・レイズであった。私は,この旅で,レイズとともに行動をしているようだった。
試合は,中だるみになって,この年の,弱いヤンキースそのものになった。見ていて,ヤンキースは,これほど打てないのかと思った。なにせ,ジーター選手とこの日絶好調のイチロー選手,それ以外には,カノー選手くらいしか,期待の持てる選手が打線にはいない。これでは勝てない。
隣に座った日本人の男性と話が弾んだ。
アメリカ人は,子供のまま大きくなったようなものだ,と彼は言った。この表現は当たっていると私は思った。そう考えると,アメリカ人のすべての行動が理解できる。
アメリカ人は,人を仕切りたがり,腹が立てば顔に出し,欲しいものは,我慢できずに手に入れる。ようするに単純なのだ。わかりやすい。だから,前にも書いたが,野球場に集まった5万人近い観衆は,小学生そのものなのである。しかし,先生が引率していないだけたちが悪い。売り子が来て,たいしたものでなくても,彼らは買う。売店にある,しょうもない品物でも喜んで買う。それも,かれらの収入に比べれば途方もなく高い。私は,この,ヤンキースタジアムなんて,特に,何物もやたらと高いのに,どうして,彼らがこうも散在できるのか不思議であった。
アメリカには想像つかない大金持ちがたくさんいるが,彼らは,このスタジアムでも年間予約席の革張りのシートに陣取って,彼らしか使えないレストランで食事をし,野球を楽しんでいるから,一般席をうろついているアメリカ人は,標準的な日本人よりも収入が低いはずだ。
どうやら,彼らは明日のことなんて考えていないらしい。
私は,こんなことで,彼らの老後とか医療はどうなるのであろうか,と心配になったが,そのあたりのことは,よくわからない。とにかく言える事は,ジャンクフードをよく食べ,よく飲み,騒ぐ。この国には,やたらと楽しいことがあるから,よほどの自己管理ができなければ,仕事をする時間などないし,体だけは,どんどんと太っていく。しかも,ここは東海岸だからまだマシで,西海岸に住んでいたら,時差の関係で,夕方の4時から夜中までどこかでずっと野球をやっているから,こんなものを好きになると,毎日が大変なことになる。
・・
この国とつき合うということは,たとえれば,アメリカがドラえもんのジャイアみたいなもので日本はのびたくんみたいなものだと思えばよい。違うのは,ドラえもんがいないということである。ところが,日本人は,アメリカをドラえもんだと思っているから,話がややこしくなるのである。
2013アメリカ旅行記-ヤンキースタジアム・再び②
この日の試合は,事前にチケットを予約しておいたので,昨日よりも1階下の見やすい席であった。日本の球場にたとえれば,1塁側の外野近くの3階席である。それでも,ここでは10,000円位する。これ以上の席は年間予約席で,正規の入手は困難であろう。
隣の席は,私より少し若い日本人であった。奥さんと息子さんが2人の家族4人連れであった。話をしてみると,アメリカ在住の日本の人であった。いろんな話を聞くことができてとても楽しかった。
彼は,アメリカから見ると日本は存在感が薄れ,元気がないと言っていた。日本製品は品質がいいのだからもっと自信を持つといい,と言っていた。息子さんたちは,日本で就職するかどうかという時期であるらしく,それなりに大変そうであった。
私も若いころは海外に住むことに憧れたけれども,好むと好まざるとにかかわらず,日本人として生まれてしまえば,他国に住むということは,それなりに大変なこともあるし,歳をとった私は,これだけ便利になってしまうと,別に,アメリカに住まなくても,ときどき旅行すればそれで十分だと安易に思うようになってきた。ニューヨークなど,行こうと思えば,毎週でも行ける。
まだ,試合開始にはずいぶんと時間があったので,モニュメントパークと博物館に行ってきたら,と言われて,そこへ行くことにした。モニュメントパークのほうは,長蛇の列ができていて,とても試合開始に間にあいそうになかった。なにせ,きょうは,松井選手のスペシャルデーで,なんらかのセレモニーがあるから,それを見逃す手はない。モニュメントパークは,次回来たときにも行くことができる。このモニュメントパークは,試合がはじまってしまえば閉鎖されるので,もし,行きたければ,開門と同時にそこを目指すべきである。
博物館のほうは,問題なく入ることができた。私は,すでに,クーパーズタウンの野球殿堂と博物館に行った後だったので,大して広くもなこの博物館は,期待以下であった。天下のヤンキースタジアムなのだから,もっとすごいのを作ってもいいではないかと思った。
やがて,試合開始前のセレモニーがはじまった。
大きなビジョンに現役時代の松井選手のビデオが放映されはじめた。ホームプレート付近には,松井選手のご両親が姿を見せていた。やがて,本物の松井選手が,手を振りながら,オープンカーで登場した。ホームプレート付近で,なになら表彰がはじまった。私が思っていたよりも,観客席は沸きあがって,松井という選手がヤンキースで非常に愛されていたということがわかった。
このチームは,勝利優先で,活躍ができなくなると,ベーブルースであってもトレードされてしまう。松井選手も,ワールドシリーズでMVPを取った翌年にトレードされてしまったので,これほどの声援があるというのは,私には驚きであった。
伊良部投手もそうであったが,今年メジャーリーグに挑戦する田中投手は,以前にも書いたが,ヤンキースにだけは行かないほうがいいと,私は思っていた。彼は,ドジャースに行くべきであった。
シアトルで長くプレイをして,晩年にトレードされたイチロー選手は,引退後,このチームでどういった待遇をされるのかが気になる。なんとなく,どっちつかずのよう感じであるし,シアトルは,ケングリフィーJr.の引退や,ダイヤモンドバックスにトレードされたランディージョンソンのように,引退後にそのチームに貢献した選手を冷遇するようなところがあるので,ひょっとしたら,51を永久欠番することすら期待できないかもしれない。イチローはヤンキースでは松井のように活躍したわけでもないし,シアトルで優勝に貢献したわけでもない。
セレモニーは,あっという間に終わったが,多くのヤンキースの有名選手に囲まれて,松井選手はベンチに姿を消した。その中には,イチロー選手はいなかった。その気持ちはわかる。だって,松井選手が活躍したときにはイチロー選手はいなかったわけだし…。しかし,無邪気に出てきて祝福しても悪くはない,と私は思うのだが,彼の矜持では,そういうことは絶対にできない。
やがて,試合がはじまり,始球式(ファーストピッチ)で,再び,松井選手が姿を現した。
このファーストピッチをやるだろうとは思っていたが,現地で見ていたときには,情報がなく,実際に姿を見せるまで私は半信半疑であった。
・・
ところで,このメジャーリーグのファーストピッチをマウンドで行うようになったのは,近年のことである。もともと,こういった始球式は,日本で行われていた。アメリカでは,ベンチの上からフィールドにボールを投げ入れる形であった。きっと,若い人は知らないと思うが,この現在の形の始球式は,日本から逆輸入したものなのである。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE・番外編⑨
結局のところ,友人は,私がそのホテルに着いたという連絡があってから,家を出て,ホテルに来ました。サンアントニオは,漢字の「井」の字のようにインターステイツが走るその真ん中がダダウンタウンで,さらに,その外側に環状にインターステイツが走っています。そして,郊外に向かって,北西にインターステイツ10,北に国道281,北東にインターステイツ35が伸びていて,人口も,そうした道路の並びも,きわめて名古屋に似ています。違いは,道路の車線が多く,車の数も比べ物にならないこと,そして,町自体が広いということです。
私は,インターステイツ10をサンアントニオに向かって戻ってきて,途中で環状道であるインターステイツ410に乗り換えて少しだけ東に走り,国道281と交わったところの北東に空港があるので,その辺りで,インターチェンジを降りて,ホテルに行きました。簡単にホテルは見つかりました。
ところが,友人は,住んでいるにも関わらず,GPS(カーナビ)任せなものだから,迷ってしまい,なかなかホテルに来ることができませんでした。
このホテル,スーパー8・アントニオエアポート(SUPER8 Antonio Airport)は,きわめてきれいなホテルで,部屋も豪華でしたけれど,なぜかエレベータがなくて,私の部屋が2階だったものだから,カバンを持って階段を2階に上がらなければならなかったのが,何かチグハグデした。
フロントの隣には朝食を食べることができるようになっていました。
私は,このホテルに2泊しました。
最終日,一番心配していた早朝の出発便には,朝早く起きすぎてしまったために,逆に大変でしたが,レンタカーを返却するために,ハーツまで行き,そこで,シャトルバスに乗って,無事に空港に行くことができました。
早朝だというのに,けっこう混み合っていて,自動チェックインののち,バッグを預ける長い列ができていました。
・・
こうして,今回の旅も,さまざまなホテルに泊まって,旅をすることができました。
旅の初日と最終日は,やはり,空港の近くの比較的高級なホテルに宿泊するのがいいと思いますが,あとは,流れに任せて,小さな町のモーテルに泊まって,人との出会いやその町の空気に触れて旅をすることが,アメリカを旅する醍醐味だと,今回も改めて思いました。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE・番外編⑧
ジャンクションから早朝のインターステイツ10を走って,10時ころにサンアントニオに戻りました。
ここでも,サンアントニオの友人に振りまわされました。私は、帰国便の出発時間が朝7時10分ととんでもなく早い,つまり,空港にはその2時間前に到着する必要があったので,出発前に最終日のホテルを空港の近くに予約しておいたのですが,現地に着いたときに,私が朝空港まで送るから,私の家の近くのホテルに泊まるといいから,予約したホテルをキャンセルするといい,と言いました。予約してあったホテルはキャンセル自由だったので,それを聞いて早速ホテルの予約をキャンセルしてしまったのですが,その後の行動や時間のルーズさを考えても,任せておいて,帰国の朝,無事に私を時間に送れずに空港まで送ってくれるとは思えませんでした。
そこで,朝早くで送るのは大変だろうからという話をして,もう一度,空港の近くに,はじめに予約したホテルとは別のホテルをエクスペディアで予約したのでした。
それ以降,さらにいろいろとあって,結局,もう1日,そのホテルの予約をして,結局,最後に2泊を同じホテルですごすことになりました。エクスペディアでは,すでに予約したホテルの宿泊日数だけを増やすといった操作が出来ず(私ができなかっただけかも),連泊であるにもかかわらず,別の予約を入れるということにはなったのですが,まったく同じ料金(約9,000円)でこのホテルを予約したのでした。
ホテルは,本当に空港の目の前で,空港に接したレンタカー会社ハーツの営業所までは車でわずか数分のところの,スーパー8・アントニオエアポート(SUPER8 Antonio Airport)でした。
私は,この日,朝10時にこのホテルに着くからそこで待っていて,というメールをその友人に送って,了解の返事ももらってました。私は,ジャンクションの町から,インターステイツ10をそのまま戻らず,途中,バンデラという素敵な町を経由して午前10時ぎりぎりにホテルに到着しました。借りた車にはカーナビがなくて,レンタカー会社でもらった小さな地図だけを頼りに走ってきたのですが,土地勘がさえて,ホテルを見つけることができました。
ホテルは,新しくきれいなところでした。ところが,時間に間に合うように急いで戻ったのに,やはり,友人は,この日も時間通りに来ませんでした。
フロントに行って,今晩予約をしてあるのだけれど,チェックインできるかと聞くと,余分に料金が必要だということでした。これも,ホテルによって違っていて,何の問題もなくチェックインできることもあります。
そこで,フロントで wifi が繋がるかと聞くと,パスワードを教えてくれたのですが,パスワードはホテルの電話番号,それをホテルのスタッフが「フォーンナンバー」と早口で言ったので聞き取れず,困っていたら,ちょうど降りてきた宿泊客が小声で「テレフォーンナンバー」と教えてくれました。
そこで,友人と連絡を取ることができたというわけでした。
「かなちゃん」1週間-本当の大きさを実感すると
地球の歴史と宇宙の距離を比べた表って,探してもなかなかないのね。
どういうことかというと,1月に超新星が発見されたM82までの距離がおよそ1,200万光年なんだけど,1,200万年前っていうのは,地球の歴史から考えるとどういう時代かって,すぐにはわからないでしょ。
地球はおよそ46億年前にできたらしいんだけれど,宇宙の歴史が137億年って考えると,けっこう地球って宇宙ができて間もない頃にできなんだなあ,って思ってしまうのね。
で,1,400万年前っていうのは,地球上に初めて類人猿が現れた頃なんだって。マンモスっていうのは40万年前で,類人猿よりも新しいわけね。
子供って,恐竜とか宇宙とか,本当な大好きなのね。
私も,子供の頃は,宇宙の果てってどうなってるのかなあ,とか,地球って,どうやってできたのかなあ,って,すごく興味があったのだけど,よく考えると,こういうことを勉強したことってほとんどないわね。
今は,高校でも,地学なんて,ほとんど勉強しないし,日本史とか世界史とか,人間が文化を持ってからの歴史はやたらと細かく勉強するのに,おおまかな宇宙の歴史とか地球の歴史すら勉強したことがないんじゃないかしら。
これは,どこかへんよ。
だから,地球の磁場は10万年から100万年ぐらいの不規則な周期で何度も逆転しているとか,約78万年前の逆転が直近のものであるとか,約13万年前から12万年前が 温暖期のピークで,現在よりも温暖であったと考えられている。この後、急速に寒冷化し、約11万年前頃から緩やかに上下を繰り返しながら徐々に氷期へと向かった。なんて,あまり知らないんじゃないかしら。だから,地球温暖化とか,このままでは北極や南極の氷がなくなるとか大騒ぎしているけれど,その原因のどれだけが人的なもので,どれだけが人間の手に及ばないことなのか,なんていうことすら,誰も考えていない。
なにせ,この47億年の歴史の中で,たった2,000年くらいの人類の歴史を取り上げて大問題だというわけだから,もっと,人類は謙虚になるべきなのよ。きっと,近い将来に恐竜が滅んだように人類も滅亡して,でも,人類のいた時期なんて,地球の歴史のうちの微々たる一瞬だったっていうことになるわけよね。
恐竜も,2億3,000万年前に現れて,6,500万円前の忽然と滅亡したわけよ。その間1億6,500万年。
地球の歴史が47,000,000,000年で,恐竜が165,000,000年ね,そして,最古の人類が現れてから1,400,0000年。そして,紀元わずか2,000年なのね。
時には,こうしたスケールを実感しながら勉強したほうがいいと思うんだけど。
2013アメリカ旅行記-ヤンキースタジアム・再び①
さあ,ゴスペルも予定通り終了して,次は,ヤンキースタジアムである。
なにせ,松井秀喜選手のバブルヘッドは先着15,000人である。ヤンキースはケチである。このあとロサンゼルス・ドジャースが野茂のバブルヘッドを配ったが,それは50,000人であった。
私はヤンキースに移籍したイチロー選手に何とかしてワールドチャンピオンになってほしいので,にわかヤンキースファンになっていたが,やはり,ヤンキースは,好かない。球場の入場料は高く,金持ちと一般人の待遇が目に見えて違う。
私は,この夏の旅行で,ボストンのフェンウェイパークとニューヨークのヤンキースタジアムに行ったけれども,やはり,庶民にはレッドソックスである。
・・
とはいえ,そんなことを言っていても,今はバブルヘッドを手に入れるために,急いで並ばなくてはならない。
私は,参加していたゴスペルのツアーのコンダクタにお願いして,地下鉄4番ラインの86ストリート近くで降ろしてもらった。メトロポリタン美術館を横目に,私は,急いで地下鉄に乗った。
地下鉄は,ヤンキースタジアムを目指す人たちで満員であった。
昨日,きょう雨だといけないので急遽ヤンキースタジアムで試合を見たのだが,幸い今のところ雨の気配はなかった。天気予報では,次第に雨模様ということであったが,この調子なら試合はできる。昨日の車内とは雰囲気が全く違っていた。
私は,昨日にヤンキースタジアムに来る予習が済んでいるので,余裕で地下鉄に乗っていた。
思ったほど,というか,ほとんど日本人は見当たらなかった。きっと,ツアーでは,地下鉄なんて利用しないのであろう。こうして,旅行者が個人で来ることも,あまりないのであろうと思った。
161ストリート駅を降りた。すでに,どのゲートも長蛇の列であった。
私も,すぐにその列に並びたかったのだが,まず,WillCallでチケットを引き換えなくてはならなかった。
ボストン・レッドソックスは,インターネットでチケットを購入すると,家庭のプリンタで印刷してそれで入場できる。しかし,ヤンキースタジアムでは,現地のWillCallでチケットに引き換えなくてはならないので,そのままでは入場ゲートに並ぶことができなかった。
だから,昨日,野球を見た帰りに,明日のチケットをWillCallで手に入れようと思って,昨日の試合の終了時に聞いたのだが,試合がはじまると,WillCallは店じまいなのだという。これもアメリカらしいじゃあないか! しかも,WillCallが開くのは開門の時間だという。
すでにWillCallにも長陀の列ができていた。もしこれでチケットを引き換えている間に15,000人が過ぎてしまったら,困ったことではないか。本当に,ヤンキースが嫌いになった。これがわざわざ日本から来た客に対する態度か,と感じた。くたばれヤンキースだ,とそのとき思った。
そうこうしているうちに,予定よりも早くWillCallが開いた。どんどんと列がさばけていって,すぐに私の番になった。WillCallの窓口は,チケットを予約したときに登録したクレジットカードを出すだけで,機械がそれを読み取って,あっけなくチケットを発券した。それはそれですごい話だった。
そんなふうにして,予想よりも早くチケットを手に入れた私は,ヤンキースタジアムの4番ゲートに並んだ。
4番ゲートはヤンキースタジアムの正面ゲートである。通称,ルーゲーリック・ゲートという。ここから入場するのがツウというものである。
ここも当然長い列ができていたが,私は前にいた夫婦づれに,このあたりで15,000人は大丈夫なのかと聞いた。正面玄関に並んでいて手に入らないはずはないではないか,という答えが返ってきた。さすがにアメリカ人,楽観的であった。
そのあともどんどんと客は増えてきて,日本人らきし人々もちらほら見えるようにはなったが,予想したほどの数ではなかった。
私の後ろに日本人の若い女性がいた。
彼女はこちらに住む留学生だと言った。以前書いた「私,人とは違うわよ」といったタイプの女性であった。いわゆるプライドが服を着た生意気女だ。私が日本人だと知っていながら英語で話しかけてくる。どうして,私が日本人相手に英語を話さなくてはならないのだと,少しムッとした。今日の私はなぜか機嫌が悪い…。いまどき,英語が話せるくらいでは自慢にもならない。あの女がどんな身分なのかは知らないが,生意気なやつであることは疑いのないことであった。本当に能力の高い人物はもっと謙虚である。
しばらく並んでいたら,列が動き出し,やがて,球場の入口に来た。セキュリティチェックで,彼女が持っていたソフトドリンクのペットボトルが没収された。いい気味だ,と思った。
・・
入口で,簡単なセキュリティチェックを通って,難なくバブルヘッド人形をもらって,中に入ることができた。スタジアムのコンコースを通って,別の入口にまわって,もらい忘れたと言ってもう一個手に入れようと画策したが,失敗した。アメリカも,思ったほどいい加減ではない。今日の私は,なぜか悪人である…。
続々と入場して,やがて,15,000人に迫ろうとしたときには,バブルヘッド人形を取り合っていたというかいう話を,後で聞いた。
私は,無事に人形もゲットして,自分の座席に着くことができた。
2013アメリカ旅行記-ゴスペルツアー④
次に,グラント将軍の墓で下車した。このあたりは,非常に交通量の多いところで,交通整理のおじさんも忙しそうであった。われわれは時間を決めて一時駐車をして見学した。
グラント将軍は,アメリカ真の英雄である。
南北戦争では北軍の将軍として勝利し,その後は大統領を2期つとめた。その後,奥さんと2年あまりの世界周遊の旅に出て長崎に訪日し,参内して天皇にも挨拶した。ニューヨークに戻るとウォール街の金融業で財を成した。
多くの州から墓地の勧誘を受けたそうだが,奥さんと一緒のお墓に入ることを約束したニューヨークからの墓を貰うことに決めたという愛妻家であった。ふたつ棺が並んでいる。
その後,コロンビア大学やその近くにあるセント・ジョン・デバイン大聖堂,イチロー選手の住んでいるというマンションをバスで見てツアーは終了した。
コロンビア大学は,あまりにも有名なマンハッタンにある私立総合大学。アメリカで5番目に古い大学で,アイビー・リーグの一校である。
実務大学としては経済,法科,医学は世界トップクラス。また,研究大学としても有名で,海外から多くの研究者や留学生が集まっている。
セント・ジョン・デバイン大聖堂は世界最大級のゴシック建築で有名な教会。
ゴシック建築とは,中世ヨーロッパの建築様式のことで尖った屋根とアーチ状が特徴。この教会はとても大きく,自由の女神もすぽっと入るほどである。
この教会は、1892年に建設がはじまって,すでに100年以上が経つのだが,1941年に建設が中断し,再び建設をはじめたのが1978年であり,未だに未完成である。
観光客が少なく,穴場的観光地である。
イチロー選手の住むマンション「THE LAUREL」(400 East 67th Street New York, NY 10065)(1番下の写真)は,家賃が月320万円で,引っ越したときには,ニューヨークで話題になったそうである。イチロー選手の住んでいるマンションの近くでは,イチロー選手の奥さんが犬を連れて散歩しているのを見かけることがあるという話であった。
このツアーでゴスペルの後に見学した場所は,以前来た時と同じコースで,とても懐かしかった。というか,ハーレムの見学コースというのはこれくらいのものなのであろう。
ハーレムは,本当に安全なところになったなあ,というのが実感であった。
案内の女性は,イーストハーレムに住んでいるという。イーストハーレムなんて,昔は立ち入るなと言われたところだが,このツアーを案内した女性は,このイーストハーレムに住んでいるのだ。
・・
今回は,時間もなかったので,このツアーは有意義であった。
私の読んだ別のブログに「ハーレムの移動は交通の便があまりよくはなく,また,この地域の情報は情報誌などでも非常に乏しいことから,危険を避けるという意味合いにおいても,ツアー参加がお勧めだと思う」と書いてあったが,私はそうは思わなかった。
私には,昔のぶっそうなハーレムを思い出して,ここまで安全な観光地に変貌したことが驚きであった。ハーレムは地下鉄を使えばどこへも徒歩で行けるくらいの広さなのだから,ゴスペルも,観光も,別にツアーでなくても個人で気軽に来るくることができるようになったんだなあと思った。それに,自分で歩いて見なければ,結局は,ガイドブックを読んでいるのとさほど変わらない。今度来るときは,1日のんびりとハーレムを散策してみよう。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE・番外編⑦
「サンバレー・モーテル」のあったジャンクションという町は,インターステイツ10のインターチェンジを南に下りて国道377を走っていくとその道沿いに町があって,公園があったり,小さな飛行場もある,すごしやすそうな町でした。インターチェンジを降りたところには,広場があって,キャンピングカーがキャンプをしていました。
サンアントニオまで,車で2時間程度のところなので,便利なところなのでしょう。
道路沿いに数件のモーテルがありました。泊まっている車の数を見ても,どこもさほど混雑した様子もなくて,閑散としていました。私が泊まったモーテルも,典型的な田舎のモーテルで,コの字型に部屋が並んでいて,それぞれの部屋の前に車を停めて,それぞれの部屋は外から入ります。アメリカをのんびりと旅するには,こうしたモーテルに宿泊するのがいいと思います。
全国チェーンのホテルにも、田舎に行くとモーテルとさほど違いがないところも多いのですが,やはり,こうした個人経営のモーテルのほうがなにか旅情があります。
外から見たときには,なかなか飛び込みで入るのには抵抗があったり,部屋の様子がわからなかったりと不安もあるのですが,実際に経験してみると,どこもさほどの違いはありません。たいてい,夜になるとフロントは空になって,朝になると,フロントにスタッフが来るというようなところが多いです。
この「サンバレー・モーテル」も、朝食を取ろうと早朝,フロントに行ってみたのですが,まだ,施錠がしてありました。6時過ぎになると,フロントに明かりがともったので,中に入ってみると,朝食の用意ができていました。トーストにコーヒー,ジュースといったどこも同じな朝食でしたが,このモーテルは,そういったものも手抜きがなくて,非常に気持ちが良いところでした。
朝食を取っていると、私よりも少し歳をとった2人のガイが現れました。大きなオートバイに乗って旅をしているライダーでした。
「お前,昨日,町のレストランにいただろう」と話しかけられて,それを糸口に話が弾みました。こうしたことも,こういうモーテルに泊まって旅をする楽しみです。
食事を済ませて,早々にジャンクションを出発して、サンアントニオに戻りました。
途中.日の出がきれいでした。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE・番外編⑥
結局,4日のドライブで,この旅に出発する前に行きたかったニューメキシコ州の主だったところに行くことができました。残念だったのは,アルバカーキーに行かれなかったことだけでした。当初は,ホワイトサンズ国定公園やカールスバッド洞穴群国立公園に行って,その後,ロズウェル,サンタフェとまわり,アルバカーキーでレンタカーを乗り捨てて国内線でサンアントニオに戻ろうと思っていました。これだけの距離を往復するのはむちゃくちゃだと思っていたからでした。
だから,出発前に,そういったことを連絡したのだけれど,それはもったいない,私が運転するから帰りも車で,とサンアントニオの友人が言ったので,そうすることをやめたのでした。何か月も前に予約すれば,国内線の料金もそれほど高くなかったように記憶しています。ところが,その友人は,都合が悪くなったので,ニューメキシコ州には行けなくなったと突然言い出だしたのです。日本では,これをドタキャンと言います。アメリカ人は一般にその日暮らしなので,そのことを悪かったとも思わないし,実際,悪気もないし,でも,結果的に梯子を外された私は,自力でこの長距離を戻るしかなくなったわけです。
一応,現地でアルバカーキーからサンアントニオの国内線を調べてみたのですが,片道の航空券が10万円もするのでした。また,アルバカーキーからの航空便は,アルバカーキーとダラス間がほとんどでした。それでは,ダラスからサンアントニオまでがまた大変な移動になります。
それならそれで,と,エルパソまで遠回りをしてサンアントニオに帰ることにしました。
そして,エルパソからサンアントニオに帰るときは,サンアントニオからニューメキシコ州に向かったときに考えたように,直接サンアントニオには帰らず,サンアントニオまで車で2時間ほどのところにあるジャンクションという小さな町のモーテルに泊まることにしました。
以前,このブログに書いたように,私は,アメリカの小さな町に滞在して,のんびりと旅をするのが夢でした。今回,このようにして,のんびりとはいかなかったけれど,小さな町に滞在するという夢は実現しました。
そんなわけで,前日,エクスペディアで探したのが,宿泊代わずか3,000円足らずのサンバレー・モーテル(SUNVALLEY MOTEL)でした。
結果的に,そのモーテルに宿泊したことが,今回の旅で最も印象に残っていることなのでした。
モーテルは,インド人が経営していました。ここは,ほんとうに,個人経営のモーテルでした。2年前にノースダコタ州へ行ったときにその日に宿を探して泊まった州都ビスマルクの隣町マンダンのモーテルと同様でした。
小さく,けっして新しくもなく,きっと,こういう旅をしたことのない人なら戸惑う様なところでしたが,よく見るときめ細かく補修されていて,私には,好感が持てました。
2013アメリカ旅行記-ゴスペルツアー③
ゴスペルをやっていた教会を出て,バスに乗って,さらに北の125丁目のアポロ・シアターへ行った。
ハーレムの125丁目は一番の繁華街である。アポロ・シアターは,1913年に設立されたアメリカで最も著名な,アフリカ系アメリカ人のミュージシャンと深いかかわりのある劇場である。毎年130万人が訪れるニューヨークの観光名所となっている。
ここの劇場からマイケル・ジャクソン,ジャクソン5がデビューし,デューク・エリントン,ビリー・ホリデー,ジェームス・ブラウンなどが活躍した。
毎週水曜日には「アマチュアナイト」というものが行われていて,観客の拍手で優勝者が決まり,勝ち抜いていくと全米に放映されるテレビに出演できるのだそうだ。反対にブーイングを浴びると箒で舞台からスィープされ,強制退場させられるということである。
アポロ・シアターも,以前来た時に行ったことがあって,その時は,中に入ってアポロ・シアターの支配人と話をする機会があった。今回も,アポロ・シアターの前で写真を撮った。再びここにいるということが,なんだかとても不思議であった。
その向かい側の建物には,ハーレムのピカソといわれるフランコさんという人が店舗のシャッターに描いた絵がたくさんあった。
フランコさんは,ハーレムが退廃していたときに,こうして絵を描くことで,ハーレムの再興に一役買った有名な人物である。日曜日には,ここでフランコさんに会うこともあるということだが,残念ながら,私は会うことができなかった。
そのあとは,バスの中からアレクサンダー・ハミルトン邸,ニューヨーク州立大学を通り,モリス・ジュメール邸で下車した。
アレクサンダー・ハミルトンは,アメリカ独立時の英雄で,独立戦争時にはワシントン下の総司令官の副官を務め,独立後は,合衆国憲法の基準となるザ・フェデラリストを執筆した。
ニューヨークのウォール街は世界金融の中心だが,それは,アメリカ独立後にウォール街が金融街に変貌したのがきっかけである。初代の財務長官に就任したのはこのアレグザンダー・ハミルトンで,彼は現在の連邦準備銀行の基礎を作った。また,ハミルトンは,ニューヨーク銀行も設立し成功を収めた。こうして,ウォール街はアメリカ金融の中心地となった。
ハミルトンは,アーロン・バーと決闘して撃たれて死去,という豪快な人生だった。
ニューヨーク州立大学の創設者は初代駐日公使として日米修好通商条約を締結したアメリカ外交官タウンゼント・ハリスである。歴史ある大学で,昼間にウォール街などで働いていて資格をとり,夜間のクラスを取る就労者が多いため,夜間のハーバードともいわれる。
建物は、地下鉄を掘った際に採掘された石灰岩など作られた大変重層な建造物である。
モリス・ジュメール邸は,1765年,英国陸軍中佐ロジャー・モリスの別荘としてワシントン・ハイツの高台に建てられた,ジョージア様式の建築物である。
当時の面影を色濃く残す市のランドマークとして知られていて,独立戦争中にはワシントン陸軍大将の司令部として機能していた。その後,フランス移民のステファン・ジュメルが買い上げ,現在は,非営利団体によって博物館として運営されている。
この建物のある高台からは,マンハッタンの景色が眺められ,昔は,ハーレムが高級住宅地であったことがしのばれた。この付近には,古い集合住宅があった。
そういえば,前回来たときも,ここで写真を撮ったことを思い出した。
しかしまあ,ここに来たのは2度目のことであるが,いずれもツアーで連れてきてもらったので,その場所がよくわからない。またここに行け,といわれても自分ひとりでは無理である。やはり,旅は,自分の力で歩きまわらなければいけないと強く思う。
2013アメリカ旅行記-ゴスペルツアー②
マクドナルドの店内も,早朝で,私以外にお客さんがいなかったので,のんびりと朝食を楽しんだ。やがて,集合時間が近くなったので,集合場所に向かった。
ツアーの参加者は,若い男の子ひとりと年配の女性がひとり,他に中年の夫婦が2組ほどであった。
案内の女性と一緒に小型バスでペンシルベニアホテルを出発して,マンハッタンを北上し,セントラルパークを抜けて,116丁目の「First Corinthian Baptist Church」という教会に到着した。
ここは,オペラハウスを改装したという教会で、内部はブロードウェイの劇場よりもひとまわり広い劇場のようであった。入口で教会の人の出迎えを受け,階段を上って2階の席へ行く。
そこは,観光客用の席であるらしく,他にもいろんな国から来た観光客が続々やってきた。内部では,写真は禁止であるということだった。
すでに,ゴスペルははじまっていた。
・・・・・・
ゴスペルとは,英語で福音書のことである。元来はキリスト教プロテスタント系の宗教音楽を意味した。
アメリカ大陸に連行されたアフリカ人が苦しい状況下で,救いを与えるゴスペルと出会ったことで彼ら独自の賛美をささげるようになった。これらとヨーロッパの讃美歌などが融合して黒人霊歌が生まれた。
現在は、されにジャズやロックと結びついて,進化を続けている。
・・・・・・
ステージ上には30人くらいの聖歌隊がいて,黒を基調にした衣装をまとっていた。ピアノやギターをはじめ,数人のバンドがステージにいた。
聖歌隊のひとりがリードをとって,他の聖歌隊がそれに続く。観客も立ち上がって一緒にリズムをとらなくてはならないような雰囲気で、座席があっても、ずっと立ちっぱなしであった。
今日は観客が多いからと,特別に1曲,そして、われわれのために挨拶があった。案内の女性によると,そういったことは珍しいことだそうだ。途中で,隣同士でハグするように促された。われわれは、見知らぬ周りの人と、思い思いにハグ(するマネを)したり,握手をしたりした。こういう時に,日本人はノリが悪くていかん。
私は、ゴスペルはもっとノリのよいものかと思ったし、もっとおごそかなものかと思っていたが、ママさんコーラスのようなものであった。
やがてゴスペルは1時間ほどで終了して,牧師さんの話が始まったようだった。
牧師さんというよりも,何か近所のおじさんがしゃべりはじめたみたいで、これでゴスペルが終了というけじめがわかるものではなかった。事前に知らされていたように,このツアーでは,ここで退出するということだったので,案内の女性に軽く合図されて,まわりの迷惑にならないように退出した。
他の観光客は、まだ、そのまま牧師さんの話を聞いていたので、退出したのは、私の参加した日本人数人のツアー客だけであった。
このツアーに参加した人が書いたブログがあって,それには非常に感動したということが書いてあったが,私は,念願がかなって堪能したが、感動するほどのことはなかった。
こうした観光用のゴスペルでなく,もっと,この地の人向けのものを期待していた。
いつものように,私はいろんな経験をしすぎているのかもしれない…。経験は感動する心をを奪っていくものだ。
「かなちゃん」1週間-出発の春
日本では,4月は,出発の春ね。新入学に就職。
私も職場が変わったの。それにしても,新しい環境というのはストレスがたまるものね。
どうしてなのかなあ,って考えたんだけど,それは,案配がわからないからなのね。たとえば,きちんと揃えといてね,っていわれても,そのきちんと,という程度が,所属する組織によって違うっていうのが問題なんじゃないかしら。それが,自分の思っているきちんとよりも程度がきつければ,かなりのプレッシャーになるし,その逆だと,なんだ,その程度なのか,って思うでしょ。そして,これじゃあいかん,と考えるか,それでいいか,って考えるかで,その組織に対する取り組み方が違ってくるわけね。
それにしても,この国は,よくも悪くも「遊び」っていうものがどんどんなくなって,窮屈になってきているわね。で,なにかよくなったか,っていうと,それがよくわからないの。
将棋の観戦記者に東公平っていう人がいたの。この人は,素晴らしい名文をたくさん残したのだけれど,引退していたのを,これが最後に,というわけで引っ張り出されて,ある年の将棋名人戦の観戦記を書くことになったわけ。
そこで,その記念にと,対局中に,軽い気持ちで,対局者に向かって,扇子にサインをお願いしたのね。
こんなことは,ずっと昔の対局なら日常茶飯事で,特に,勝負がはじまったばかりの序盤戦では,雑談なんて当たり前だったのね。今は違って,はじまった早々から真剣勝負,っていう感じだから,そんな,対局者にサインを頼むなんていうことは考えられなくなっていたわけね。さらに悪かったのは,今は,テレビ中継をしているので,それが,全国に中継されちゃったわけなの。で,顰蹙をかって,最後の観戦記は没になったちゃったということなのね。
でも,だからといって,昔の将棋のほうがいいかげんか,っていえば,そんなことはなくて,今のような緻密でマニアックな将棋と違って,人間味があふれていて,おもしろかったって私は思うのね。
たとえば,アメリカでレンタカー会社のカウンタが午前9時から,って書いてあったとするでしょ。スタッフは15分くらいはあたりまえのように遅刻してくるわよ。でも,全く悪びれていないわけ。
日本人も,日本の企業に所属していると,あたりまえのように5分前登校じゃないけれど,時間に厳格に仕事をするけれど,それが,アメリカの企業に所属すると,だらだらと遅れて仕事をはじめて当然,っていう顔をするのね。空港のカウンタを見てみるとそんな違いがわかっておもしろいわよ。
そんなわけで,この国は,どんどんと厳格化されてきていて,みんなピリピリとしているけれど,実際見てると,そのほとんどは指示待ちで,言われたことはやるけれど,自分で主体的に行動してる人って,どんどんと減っているのね。
私は,何をし遂げるか,っていうことが一番大切だと思っているのだけれど,どうも,今の日本は私とは価値観が違うみたいなのね。
2013アメリカ旅行記-ゴスペルツアー①
☆9日目 7月28日(日)
今日は,この旅で最も楽しみにしていた1日であった。今日のイベントこそ,この旅を企画したもともとの理由であった。
・・
すでに書いたように,私は,この年,イチロー選手がニューヨーク・ヤンキースと再契約を交わしたときはヤンキースの試合を見に行こうと思っていた。そして,イチロー選手はヤンキースと2年契約をした。そこで,私は,3月に,インターネットでヤンキースのチケットを手に入れた。その試合が今日というわけであった。
ナイトゲームで帰りに苦労するよりもデーゲームの方がいろいろな意味で便利だと思ってこの試合に決めたのだが,実際に来てみると,何度も書いているように,ニューヨークはきわめて安全な大都会に変貌を遂げていて,ナイトゲームであっても何も問題はないようだった。
ただし,幸運なことに,この試合は,2003年から2009年までヤンキースで活躍した松井秀喜選手の引退セレモニーを行う,ということになった。それは,私がチケットを入手したのちに決定したことであった。私は,友人からそのことを聞くまで全く知らなかった。そのことを聞いて,うれしかった半面,これは困ったと思った。
松井選手のバブルヘッド人形が先着15,000人にプレゼントされる,とのことであったが,それであれば,試合開始前は当然,大混乱になるし,早く到着しなくてはならない。そして,これを目当てに,日本人が大挙して詰めかけるであろう。私は,日本人の団体ツアー客が嫌いである。
旅の計画を立てたときは,当然そんなことは知らなかった。このデーゲームは午後1時からなので,午前と夜に何をしようか考えた。
この日が日曜日なので,午前中はゴスペルを聴こうと思った。
調べてみると,ゴスペルを聴くには,観光客に公開しているところや,ツアーで参加できるところがあることがわかった。ただし,観光客に公開しているところでもツアー客が優先であるらしく,あてもなく個人で行ってもうまくいくとは限らないので,ツアーに参加することにした。
しかし,ツアーで参加したとときに,ヤンキースの試合の開門時間に間に合うようにツアーが終わるものがほとんどなかった。その中にただひとつ「あっとニューヨーク&ツアーズ」という現地の旅行社が「ハーレムとゴスペルツアー」というものを実施しているのが見つかった。このツアーだと,朝7時に集合ということであったが,ゴスペルを見て,しかもハーレム観光をしても,午前10時30分に解散ということだった。
夜は,「ニューヨーク夜景スポットめぐり」というのが同じ旅行社のツアーにあった。これは,午後8時30分から2時間30分ほどのツアーであった。
そこで,このふたつのツアーを申し込むことにした。
ハーレムは以前ニューヨークに来た時に,ハーレムコンプリメンションツアーというのに参加した。そのツアーにはそのとき一緒にニューヨークに行った友人と参加したのだが,参加者は,なんと我々ふたりだけで,大型バスでガイドさんとハーレムを歩いた。夜景も,その旅で,別のツアーに参加して,堪能したことがある。
だから,今回は,私にとって,前回来たときにやっていなかったゴスペルが一番の期待であった。ところが,申し込んだのが5月と早すぎて,直前になるまで私以外の申し込みがなく,一度はツアーは中止という連絡が来てしまった。結局,他の参加者が現れて,なんとかこのふたつのツアーは実現したのだった。
ということで,昨日はミュージカルをみて,深夜にホテルに戻った私は,うきうきしながら,早朝5時に起床して,再び,地下鉄に乗って,マンハッタンに向かった。日曜日早朝の地下鉄は,日本のそれと同じように閑散としたものであった。
「ハーレムとゴスペルツアー」の集合場所は,ペンシルベニアホテルの正面玄関であった。ペンシルベニアホテルは33ストリート7番街である。私の乗った地下鉄Lラインはマンハッタンの14ストリートを西に走る。7番街は停まらないので,6番街で降りた。まだ時間があったので,そこからペンシルベニアホテルまで北に歩くことにした。
早朝のマンハッタンも,日曜日の早朝の東京と同じようにほとんど人がいなかった。ペンシルベニアホテルの近くにマクドナルドがあったので,そこで朝食をとることにした。私は日本ではめったにマクドナルドへは行かないが,アメリカでは朝食を食べるときにはマクドナルドへ行くことが多い。そして,注文するのは,ホットケーキである。今回もそうしたが,アメリカのマクドナルドは量が異常に多い。ブルックリンのホテルでは wifi がつながらなかったが,マクドナルドで無料でつながるので,朝食を食べながら,メールをチェックして,ブログを書いた。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE・番外編⑤
カールスバッド洞穴群国立公園でどのくらい滞在できるか,そして,そのあと,ホワイトサンズ国定公園までどのくらいの時間で移動できるかわからなかったので,1日で両方の公園に行くことができる場合とホワイトサンズ国定公園には翌日に行く場合を想定して,次の日は,ホワイトサンズ国定公園の近くのアラモゴードという町に泊まることにしました。
アラモゴードで泊まったのはデイズイン・アラモゴード(Days Inn Alamogordo)でした。値段は約7,000円。昨日泊まったカールスバッドのコンチネンタルインに比べれは,値段も安く,遥かにきれいでよいホテルでした。ただし,私は,このホテルに関しては,ほとんど記憶がないのです。
というのは,結局,カールスバッド洞穴群国立公園は午前中に見学を終えて,そのあと,カールスバッドとロズウェルの途中のアテージアという町まで延々と来た道国道285を引き返して,やっとそこを左折して国道82を西へ,さらに3時間くらいひたすらまっすぐな道を走って,やがて,民家が見えてきて,リンゴ畑,スキー場と通り過ぎて,峠のトンネルを抜けると,眼下にアラモゴードの町が見えてきて… というように,この間の移動距離が半端なものではなかったわけです。
しかし,ロズウェルからサンタフェまでの何もない道,というのものではなくて,先ほど書いたように,やがて,民家が見えてきてからというものは,一大リゾート地帯で,なにか,昨年の秋に行った九州の久住連峰のような感じで,日本を走っているような気がしました。
アラモゴールドという町は,やたらとだだっ広く,道もだだっ広くて,ダウンタウンはバイパス化した国道70の1本東の国道54に沿って存在していました。そこには多くのホテルやら,レストランがありました。
結局,私は,国道70を走っていたものだからダウンタウンを通り過ぎてしまい,その広い広いだだっ広い国道70を走り続けてそのまま走ると,ホワイトサンズ国定公園に着いてしまうのだけど,とりあえず,アラモゴールドに予約したホテルの場所だけは明るいうちに知っておこうと引き返して,ちょうどダウンタウンの中央あたりに簡単にホテルを見つけることができたので安心して,そのままチックインをしないで,ホワイトサンズ国定公園に行ったのでした。
そして,ホワイトサンズ国定公園ではサンセット・ストールとよばれる夕暮れのホワイトサンズを歩くツアーに参加してしまったものだから,帰りは夜の8時過ぎに,真っ暗な国道70をアラモゴールドのダウンタウン目指して戻る羽目になりました。
ホテルに着いたのは,夜の9時頃,フロントにいたのは,たしか,インド人のようなおじさんで,早速チェックインして,そのまま近くのデニーズに行って食事をして,戻って寝て,そして,次の日は,朝早くチェックアウトをしてしまったというわけなのです。
だから,このホテルには,ただ,寝たという記憶しか存在しないわけです。
・・
ところで,アラモゴードって,どういう町か知っていますか? 原子爆弾の最初の試験場だったところです。いまでも,ミサイルの発射試験場があって,実際に発射実験をするときは,ホワイトサンズの公開が中止になります。
2013アメリカ旅行記-ブロードウェイへ⑨
来た時と同じ経路で,帰りの地下鉄に乗った。
つまり,タイムズスクエア42ストリート駅から1,2,3番ラインに乗って,14ストリート駅で降りて,6番街14ストリートまで地下の通路を歩いて,Lラインに乗った。
深夜であったが,頻繁に地下鉄は走っていて,多くの乗客がいた。日本と同じであった。
Lラインに乗って座っていたら,イーストリバーを越えたあたりの駅で,あまりガラのよくない若者が3,4人乗り込んできた。彼らは,ドル札(ほとんどが1ドル札)の一杯入ったカバンと,音楽デッキを持っていた。
まず,彼らは,電車の中で札を数えはじめた。
私は状況が呑み込めなかった。ほかの乗客も見て見ぬふりをしていた。次第にわかってきたことは,彼らは大道芸人だということだった。そして,この札は,今日の儲けというわけであった。それにしても,これほど儲かるとは,と思った。しかし,今考えてみると,1ドル札を束にしてもそうたいした額でもあるまい。
しばらく札束を数えていた彼らは,それを山分けにした。それぞれの今日の儲けということなのだろう。駅に停まるごとに乗客が降りて,次第に,立っている乗客がいないほどになった。
この後,予想もしないことが起こった。彼らは,車内で大道芸をはじめ,音楽デッキからけたたましいリズムが流れて,車内で踊りだしたのだった。巧みにつり革や止まり棒を使って,曲芸まがいの踊りに興じた。
やがて,乗客に帽子を回して,おひねりをせびりだした。乗客はだれもお金を入れようとはしなかったが,それでも,彼らは踊り続けた。近くの乗客は,別に無視するでもなく,話しかけたりする人もいた。別に,車内が険悪な状況になったわけでもなかったし,危害が及ぶような状況ではなかった。
私は,これもニューヨークなんだなあ,と思ってみていたが,夜遅くでもあり,きょう1日いろんなことがあって少し疲れていたこともあって,すごい音量の音楽だけは,いい加減にしてくれ,と思った。
写真を写してやろうと思ったが,何事かが起きそうでそれを躊躇した。
今にして思うには,5ドル札1枚でも恵んでやって写真を写せはよかったと思った。こういうことができないから,私は,トラベルライターには程遠い。
そういえば,ニューオリンズのプリザベーションホールの時も同じであった。ジャズマンにいくらかのチップを渡せばツーショットで写真が写せたのに,ただカメラを向けたので拒否されたのであった。
しかし,私の気持ちとしては,数ドルのチップを渡して写真を写すなんていうのは,相手を見下げているというか,まるでその人を物乞いとして扱っているようではないのか? しかし,もともと,チップという行為そのものの本質がそういうものなのではなかろうか。であれば,これは文化の違いとして理解するしかない。やはり,私には,西洋の文化は謎である。
大道芸人のかれらのボス的存在の体のおおきいアフリカンアメリカンが音楽デッキの操作をしていたが,電車が駅に停車すると,彼はスイッチを切るのである。そして,再び電車が走り始めると,スイッチを入れる,この繰り返しであった。その様子をみると,かれらの行為は違法なのであろう。
電車に乗っている30分くらの時間がずいぶんと長く感じられたが,やっと,ホージーストリート駅に到着した。
駅を降りて改札を出て,階段を上がって,無事,ホテルに戻ることができた。
もし,夕方ブルックリンで道に迷っていなかったら,おそらく,このときに間違った地下鉄に乗って,右往左往していたことだろう。その場合,私はどうなっていたのだろうと考えると,ぞっとした。
やはり,幸運であったと考えたほうがよいのだろう。
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ホテルに戻って,部屋に入った。
見た目にはましな部屋に見えるだろうが,この部屋は wifi が通じなかった。
シャワールームは,お湯は出たが,レバーを切り替えても,シャワーは使えなかった。
一昔前の,退廃したニューヨークを思い出したが,疲れていたので,フロントに行って文句を言う気も失せ,寝ることにした。
良くも悪くも,ここは,ニューヨークであった。
2013アメリカ旅行記-ブロードウェイへ⑧
ミュージカル「シカゴ」(Chicago)は,ジョン・カンダー作曲,フレッド・エッブ作詞,フレッド・エッブおよびボブ・フォッシー脚本により1975年に初演されたアメリカのミュージカルである。すでに,ハリウッドで映画化もされている。
2年3か月のロングラン公演の後,1977年8月27日に一度は終演したが,その後再演され,現在もそれが続いている。
・・・・・・
舞台は1920年代・禁酒法時代のシカゴ。
スターを夢見るロキシー・ハートは,愛人フレッドを撃殺し逮捕され監獄へ,一方,悪徳敏腕弁護士ビリー・フリンの力で,監獄の中にいながらもスターとなっていたヴェルマ・ケリーは,ビリーの力で無実になる日も近いのだった。
監獄で,ロキシーは,憧れのヴェルマに近づこうとするが,相手にもされなかった。
そこで,ロキシーもビリー・フリンを雇い,ビリーによるでっちあげによって,悲劇のヒロインとして一世を風靡するようになっていった。
嫉妬する側になってしまったヴェルマは,ロキシーに手を組もうと持ちかけるが,今度は,自分が相手にされないのだった。
そんな中,新たな女性殺人犯令嬢キティが登場し,マスコミの関心はそっちに移ってしまう。
誰にも見向きもされなくなったロキシーとヴェルマ。ふたりはタッグを組み「殺人犯のふたり」と掲げて,憧れのスターへとのし上がっていくだった…。
・・・・・・
このように,「シカゴ」は,二人の女殺人犯ロキシーとヴェルマが,敏腕弁護士の手を借りて,一躍マスコミの寵児となっていくさまを,ダンス満載でシニカルかつユーモラスに描いた作品である。
米倉涼子さんが2012年に7月10日から7月15日に主役ロキシー役で出演したことで,日本でも話題になった。
私がもらったプレイ・ビル(PLAYBILL)によると,ヴェルマ役は,米倉涼子がロキシー役をやったときと同じく,有名なアムラ-フェイ・ライト(Amra-Faye Wright),ロキシー役は,エイミー・スペインジャー(Amy Spanger)という女優さんであった。
久しぶりのブロードウェイのミュージカルであったけれど,これを見て,私は,すっかり夢中になってしまった。この分では,これからはニューヨークに来るたびに,ブロードウェイに足を運ぶことになってしまうかもれない。ついに,またひとつ,禁断の木の実を食べてしまったようだ。
ミュージカルが終わり,あわただしかったきょうも結果的に充実した1日になった。
いろんなことがあって,結局,夕食を食べ損ねてしまったので,終演後,ブロードウェイにあったマクドナルドに入った。
2階が広いコートになっていて,そこで食事をとった。
隣には,プエルトリコ人であろう父と息子が食事をしていた。こういう姿を見ていると,どこの国でもほほえましいものである。そして,みんな,精一杯生きているんだなあ,と実感した。
さて,食事も終えたので,ホテルに戻ることにした。
ミュージカルも終わって,深夜のブロードウェイは,人で一杯であった。
昔は,馬に乗った警官がたくさんいたのだが,それは,はるかかなたの歴史上のことであった。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE・番外編④
ということで,4日目は,ロズウェルに泊まりました。
ロズウェルの町は,こじんまりとしていて,とてもよい所でした。町については,また,旅行記で書きたいと思います。ここでは,ホテルの続きです。
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次の日は,サンタフェに行ったのですが,4日という猶予しかなかったことと,せっかく来たのだから,無理を承知で,なんとかカールスバッド洞穴群国立公園とホワイトサンズ国定公園へ行こうと思いました。そこで,サンタフェへ午前中に行って,折り返して,ロズウェルを過ぎて,さらに南下して,翌日の朝カールスバッド洞穴群国立公園を見学するために,5日目はなるべくその近くに宿泊することにしました。
カールスバッド洞穴群国立公園の入口にホワイツシティという小さな町があって,そこに数件のホテルがあると「地球の歩き方」の「アメリカの国立公園」に書いてありました。また,そこから車で10分ほどのところにあるカールスバッドという町にもホテルがあるとありました。エクスペディアで調べてみると,ホワイツシティのホテルは登録されておらず,カールスバッドにも数件のホテルが登録されているのみでしたので,気は進まなかったけれどカールスバッドのコンチネンタル・イン&スウィーツ(Continental Inn&Suites)というホテルを予約しました。
ホテルは,思ったよりも広いカールスバッドの町はずれの古くてあまりきれいでないところでした。2階の角の部屋で,出入りは外からでした。フロントが道路際にあって,朝は,コーヒーと袋に入った菓子パンがいくつか用意されていました。
はじめ,部屋に入って,wifi がつながるという話でパスワードを入れても接続せず,がっかりして,そのまま夕食を食べるために,カールスバッドの広い2車線道路をダウンタウンの方へ車を走らせていくと,ベストウェスタン・スティーブンスイン(BEST WESTERN STEVENS INN )という立派なホテルがあって,そのホテルにレストランがあった(ホテルにレストランが併設されているのはめずらしい)ので,レスランで wifi 使えるかと聞くとパスワードを教えれくれたので,そのレストランで夕食を取りながら,その次の日のホテルの予約やブログの更新をしました。日本に帰って改めて調べてみると,「地球の歩き方」には,このホテルの宿泊代は8,000円程度と書いてあったので,びっくりしました。
泊まっているホテルに帰ってみると,部屋の中で,快適に wifi がつながったので,また,びっくりしました。
この町には,エクスペディアの検索で見つからなかったホテルがたくさんあって,それらがすべて満室だったかどうかは定かではなかったのですが,私の泊まったホテルが,値段(9,000円程度)の割に大したところでなかったので,ちょっと後悔しました。
まあ,寝るだけだし,結局,wifiもつなかったので,問題はなかったのですけれども。
ともかく,朝,カールスバッド洞穴群国立公園のビジターセンターが開く午前8時に間に合うように,そうそうにチェックアウトをしました。
カールスバッド洞穴群国立公園の入口には,これが町かいな,と思われるほど小さなホワイツシティという一角があって,たしかに,ホテルが2,3軒ありました。立派なホテルでした。カールスバッドとホワイツシティのホテルについては,もっとしっかり調べてみると,安価で快適なホテルがあると思います。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE・番外編③
4泊目は予約もしないままホテルを探すことになりました。
3泊目に泊まったホテルを早朝に出発して,タクシーでダウンタウンに戻り,ダウンタウンのマリアットホテルのフロントにあったハーツの営業所でレンタカーを借りました。
そして,レンタカーでニューメキシコ州を目指して走り出したのですが,何せ,どこまで行くことができるかさえ,定かでありませんでした。
出発前の予定では,7日間でニューメキシコ州を観光することにしていたのですが,アントニオ在住の友人が,もう一度サンアントニオに戻ってこいと言うし,それも,話が毎回異なって,ふりまわされる始末で,本当に困りました。このことは,また,後日,書くことになると思います。
私としては,サンアントニオよりもニューメキシコ州に行きたくて出かけた旅であり,1日でも多くニューメキシコ州の旅がしたかったのが正直な気持ちでした。
ともかく,4日間,ニューメキシコ州を周遊することにしましたが,どこまで行けるか,また,ニューメキシコ州がどういったところか,全くわかりませんでした。まあ,わからないからこその旅です。
そこで,この日は走れるだけ走って,午後6時に着いたところに宿泊することにしました。
800キロメートル以上は走ったでしょうか,サンアントニオからインターステイツ10をどんどん西北西に向かい,フォートストックトン(Fort Stockton)で国道285に下りて,さらに北北西に進んで,ロズウェル(Roswell)に着いたころに午後6時になりました。朝10時から8時間走ったことになります。
国道285は,フォートストックトンからしばらくは片側1車線だったのですが,やがて,片側2車線になって,インターステイツと変わらない道路になったので,助かりました。ただし,インターステイツと違って,道が市街地に入ると速度が落ちます。
ロズウェルは人口約45,000人,メインストリート沿いにダウンタウンがあって,きわめてわかりやすい町でした。アメリカでは,このくらいの町が一番快適です。町の出入り口あたりにホテル街があることは経験上わかるので,しばらくロズウェルの市街地を走って,町の中心を過ぎ,さらにしばらくすると,何軒かのホテルがあったので,適当に,ベストウェスタン・サリーポート・イン&スィーツ(BEST WESTERN Sally Port Inn & Suites)というホテルの駐車場に車を停めて,フロントで部屋があるかを聞いて,宿泊することにしました。
部屋は,スウィートルームで,広く,でも,結構古いホテルでした。できた当初はかなり立派なホテルであったことがうかがわれました。
ホテルの部屋はロの字型に配置されていて,中央に大きなプールがありました。フロントの前には広いロビーがあって,反対側は朝食が食べられる食堂でした。
1泊約9,000円でしたが,この広い部屋は寝るだけの私には少しもったいない気がしました。
ホテルに到着して,夕食を食べにダウンタウンに行ったのですが,実は,テキサス州からニューメキシコ州入ると時差が変わって,まだ,午後5時だったことは,この時は知りませんでした。
だから,この先まで行くことは可能だったのですが,これは,次の日にわかったことなのですが,ロズウェルからサンタフェを目指してニューメキシコ州を北上して行くと,全く町が存在せず,200キロ先に,人口500人ばかりのボーン(Vaughn),その先には,人口90人のエンシノ(Encino)という町が存在するだけでした。確かにボーンという町にはモーテルが存在しましたが,エンシノはガソリンスタンドさえなくて,まさにゴーストタウンでした。
このように,アメリカを旅行するときは,次の町が近くにあるかどうかを知っていないととんでもないことになります。
「かなちゃん」1週間-消費税が上がったわ
日本では,4月1日に消費税が上がって8パーセントになったわね。日本の場合,定価に税金が含まれて表示されていたりするので,これを機に便乗値上げをしたり,なんだか,複雑で,とても日本らしいなあ,と私は思うわ。
消費税なんて,すべて外税にすれば,それだけのことなのに,でも,そういうのも,この国ではなかなか受け入れられないのね。
でも,実際に消費税が上がるとそのことを実感するから,思ったよりも景気は冷え込むと思うわ。
アメリカには,日本の消費税のようなセールス・タックスというのがあるのね。
詳しく言うと,物を購入するときにかかるのがセールスタックス(Sales Tax),ホテルに宿泊するときにかかるのがホテルタックス(Hotel Tax),レストランで食事をした場合にかかるのが外食税(Dining Tax)なのね。
これは地域によって違っていて,オレゴン州のポートランドやモンタナ州などではセールスタックスはなくて,ルイジアナ州やテキサス州では海外からの観光客に対しては税金の払戻制度があったりもするの。
また,外食税はかかる州のほうが少なくて、かかる場合はだいたい10パーセント前後,外食税がないところは、セールスタックスが飲食代に付加されるということなのね。
セールスタックスとホテルタックスはおもな地域では次のようになっているの。
ニューヨーク 8.875パーセント,18.25パーセント
ロスアンゼルス 9.5パーセント 14.5パーセントから17パーセント
シカゴ 9.5パーセント 16.4パーセント
ボストン 6.25パーセント 14.45パーセント
セールスタックスは医薬品や衣料品,食品にはかからないの。でも,たとえば,ベーグルそのものを買うときはかからないのだけれど,それに,バターやクリームチーズが塗ってあると外食と判断されて,税がかかったりするから,複雑なのね。
アメリカで外食をすると,さらに,チップを払う必要があるから,外食をすると思ったより高くついてしまって,日本円にして1,000円くらいの食事をしても,実際は1,300円くらい払わなければいけないわけ。それに,ホテルタックスっていうのはとても高額だから,旅行をすると,ガソリンは日本より安いし,高速道路もほとんどは無料だけど,宿泊したり食事をすると,税金をたくさん払うことになるわけね。
実際に旅行をすると,そんなに長く滞在するわけでもないので,あまり気にしないけれど,よく考えると,たくさん税金を払っていることに驚くわ。
公的機関というのは,税金で運営されているわけだから,税金そのものは必要なのだけれど,それがどう使われているかというのは,かなかな難しい問題なのね。
日本は,都合のよいことは欧米並みといい,そうでないことは知らぬ存ぜぬを決め込むからたちが悪いのだけれど,今回の消費税の値上げも,キチンと事実を報道して,国が無駄遣いをしないようにみんなで気を付ける必要があるわね。
2013アメリカ旅行記-ブロードウェイへ⑦
私は,アンバサダーシアターに到着した。時間は午後7時55分であった。奇跡的に間に合った。
一時はすっかりあきらめていたので,本当にうれしかった。
劇場の入口は,開場を待つ観客で列ができていた。
私は,予約をしていたチケットを受け取るために窓口に行った。私のように,窓口でチケットを受け取る人が少ないのか,予約をしたときにプリントアウトした用紙を見せると,チケットがチケット入れにいれたままキャビネットに保管されていて,すぐに受け取ることができた。なかなか気持ちのよい対応であった。
列に並んで,劇場に入った。
ブロードウェイの劇場は,それほどひろくなく,昔の日本の田舎の映画館のようなものであった。
席は,一番後ろの真ん中であった。なにせ,ブロードウェイはチケットが異常に高くて,見るだけなら,ということで入手した一番安価な席なのであったが,実際,座ってみると,その席で十分であった。
もし,ミュージカルを見に行きたいなあ,と考えている人があれば,私のように,事前に日本で,ブロードウェイの公式ページ「ブロードウェイ・コム」でチケット入手するとよいと思われる。そして,見るだけなら,体験するだけなら,わたしのように,一番後ろの席で十分である。
左隣には,オーストラリアから来たという老夫婦が座っていた。
この旅行に来る少し前に,名古屋で大相撲を見たとき,やはり,オーストラリアから来たという青年がいて,「夏休みか?」と聞いたら,「冬休みだ」と言われたのをこの時思い出して,ここでは,私は,「よい冬休みの思い出ですね」と問いかけたら,親しく話が弾んだ。ヨーロッパを旅して,その帰りであった。
右隣りには,若い日本人の女性がいた。その向こうに年配の女性がいて,そのふたりは親子であった。
母親の方は,昔,こちらにすんでいたということで,それを訪ねて観光旅行をしているということであった。
客席には,若干の日本人がいた。
1列前に,初老の日本人の夫婦がいた。旦那さんのほうは,まったくミュージカルに興味がなさそうであった。しかも,英語も全くわからないようであった。開演中は写真撮影禁止であるのに,写真を写していて,私の左隣のオーストラリア人に注意されていた。日本人の夫婦は,1幕目が終了したら帰っていった。
特に,年配の人にとって,それまでの人生が趣味もなく仕事一筋であったときには,退職したら一生の思い出に海外旅行,といっても,結局はその面白さの半分以上はわからないであろう。
人生とはかくも過酷なものである。
わたしのように若いころから遊び歩いていても,いろいろと楽しさを覚えるにつれて,何事もどんどんと深みにはまっていって,行きたいことやらやりたいことがますます増えてくる。そして,次第に,歳をとって,今度は人生の残り時間との勝負になってくるのだ。
人生とは,かくも短い。
50歳を過ぎて,役職について仕事に費やす時間が多ければ多くなるほど,退職後に何か別の世界を知ってしまったときに,結局,それがいかに時間の浪費であったかということに気づくことであろう。
人生は1度きりなのだ。
やがて,ミュージカルがはじまった。
聞きなれた「シカゴ」の音楽とともに,俳優がステージに現れた。
やはり,生バンドで,本場のミュージカル,というのは,最高であった。
はじまってからも,遅れて入ってくる観客がいるし,いつまでも少しざわついていて落ち着かなかったが,まあ,ブロードウェイのミュージカルとはこんなものである。
2013アメリカ旅行記-ブロードウェイへ⑥
ミュージカルがはじまる午後8時まで,あと1時間を切っていた。まあ,これなら間に合うなあ,ときわめて楽観的になっていた。
これまでもそうだったが,旅をしていると,こうした予期しないアクシデントがよくあるし,きっと,今回の旅行でいちばん忘れられない思い出というのは,こういう出来事だったりするのである,と今だからいえる。
予定では,ミュージカルが終わって深夜にホテルに戻るのが心配であったので,予行演習のつもりで一旦ホテルに戻ってみようとしたことが,これだけの大事になってしまったのであった。
しかし,もし,この予行演習をしなかったら,その時はどうなっていたのであろうか?
そう考えただけでもぞっとする。
だから,結果的に,このトラブルは,非常に幸運だったのだ。
人生とはおもしろい。でなければならぬ,とか,このほうがいい,とかいった価値観は,実は,どうでもいいことの方が多い。いったい人は何を目指して生きているのであろうか。
雑誌に載っている店を探し,ガイドブックに書いてある通り旅行をし,人と比べ,周りを気にして,ブランド品に身を飾って生きている人は,人生で何をしようとしているのだろうか…。
いろいろあったが,私は,ともかくも地下鉄Lラインの乗客となった。
そして,ミュージカルをみる49ストリートのアンバサダーシアターを目指していた。
ブロードウェイにはたくさんの劇場があるが,49ストリートへ行けば何とかなるであろう。アンバサダーシアターの場所は確認してあった。
Lトレインはマンハッタンの14ストリートを西に進む。ブロードウェイの劇場街は42ストリートから50ストリート,そして,先ほど書いたようにアンバサダーシアターは49ストリートなので,どこかで乗り換えて北に行かなくてはならなかった。
私は,Lラインを6番街駅で降りて,地下通路を1ブロック7番街駅まで歩き,そこで南北に走る1,2,3番ラインに乗り換えて42ストリート駅で降りたということが,あとで写真で確認できた。
どうして6番街から7番街まで歩いたかといえば,Lラインには7番街駅がないということであった。また,もうひとつ前の14ストリートユニオンスクエア駅で降りて,N,Q,Rラインに乗れば,このラインがブロードウェイの下を通っているのに,どうしてそうしなかったかといえば,この日,このラインは運休だったからであった。そんなわけで,なかなかめざす劇場までは,まだまだ遠かった。42ストリートの次の50ストリートのほうが近いのであるが,50ストリート駅は,1番ライン以外は通過するのであった。
私は,42ストリート駅から外に出て,観光客で込み合ったブロードウェイをかきわけかきわけ北上して,なんとか開演前に,無事,アンバサダーシアターに到着したのだった。着いたときは汗だくであった。
ブロードウェイが思った以上に混雑していて,人をかきわけかきわけ,なんとか開演に間に合ったというのが,奇跡というか,またしても幸運というべきであった。
人だらけでごった返す渋谷駅界隈を土曜の夜にNHKホールに行くようなものであった。
ここまでお読みになって,ニューヨークの地下鉄を利用することは,結構たいへんだとお思いになったことであろう。はじめて行く人に参考になるだろうから,これ以外の,ガイドブックにかいていないニューヨークの地下鉄の乗り方の注意点について,書いてみよう。
・・・・・・
まず,地下鉄の路線図を手に入れること。私は,ホテルのフロントでもらった。
路線図をもらったら注意深く見てみよう。
駅は,その複数の路線が通っているときは,停まる路線と通過するものがあって,そうした駅は黒丸で印がある。すべてが停車する駅は白丸で印がある。これは日本の電車の急行と各駅停車があるようなものだ。
駅に停まるか通過するかは,路線図の駅の名前のあとに記号で書いてある。たとえば,「23St. F・M」とあれば,23ストリート駅は,B,D,F,Mトレインが通っているが,停車するのはFとMだけ,というわけである。
また,すでに書いたことだが,私が間違えたように,同じ名前の駅がいくつかあることがあるので,ラインを間違えないように! そして,特に週末は,サービスを停止していたり,ホームがことなっていたりするので,必ず,駅の掲示を確認すること。
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特別編・2014春アメリカ旅行LIVE・番外編②
3日目は,行く前にホテルが予約してありませんでした。行く前は,この日からレンタカーを借りる予定だったからです。
また,後日,旅行記に書こうと思っていますが,今回の旅は,いろいろと予定が変わることが多くて,こんなことなら,3日目ももう1日,同じホテルに泊まることが一番よかったというのが結論でした。
しかし,アメリカは,春休み,しかも,月曜日がセントパトリックデーの休日ということで,もう1泊できるかと尋ねても満室で,ダウンタウン内に予約のできるホテルは皆無でした。日本で,この連泊したホテルの予約をしたときに,通常はキャンセルができるのにこのホテルではキャンセル不可だったというのももっともなことです。
ここは強気で商売ができるわけです。
資本主義国アメリカでは,商売ができれば,極端な強気の価格設定になります。以前にも書いたように,たとえば,飲み物食べ物持ち込み禁止の野球場内では,ペットボトルの水さえ,250円という値段になります。
1,2日目に宿泊したホテルから歩いて2分ほどのホテルにロビーにハーツの営業所がありました。当初の予定を変更して翌日の朝9時にその営業所でレンタカーを借りることになっていたので,ぜひ,ダウンタウンのホテルにもう1泊したかったのですが,それができないので,なるべくダウンタウンの近くにホテルを探して,次の日の朝,タクシーでダウンタウンに戻ることが得策だと思い,予定を変更する原因となった友人にホテルを探してもらいました。
そうして見つけてもらったのが,ベストウェスタンプラス・ポサダアナイン・メディカルセンター(BEST WESTERN PLUS Posada Ana Inn Medical Center)でした。
場所は,サンアントニオからインターステイツ10に乗って車で20分。車で20分というのは,アメリカだと40キロ弱ということになります。
このホテルの横にバス停があって,ダウンタウンまで1時間で行くことができるということでした。こういうのは珍しい例で,普通は車がないとどうにもならないのですが,アメリカでは,このように,都会からは30分程度離れた郊外にホテルが林立したところがあって(それを見つけるのがコツ),そうしたところには,きれいで快適で安価なホテルが利用できます。
このホテルも,ダウンタウンなら30,000円はするのでしょうが,宿泊代は9,000円程度で朝食付き,しかも,朝食はきわめて豪華でした。
もちろん wifi も完備していて,パスワードで保護されていて,しかも,テレビもチャンネルがしっかりと設定されていてチャンネルの一覧表もありました。
ホテルのフロントの女性が若くすてきだったのがさらに高感度アップでした(これは余計な話かな)。
チェックインの際,予約の日にちを1日違えていて,予約リストになかったので少しびっくりしましたが,ちゃんと空き部屋があって,この日に宿泊することができました。
ということで,3泊目はこの安価なデラックスなホテルに宿泊しました。翌日の朝,フロントでタクシーを呼んでもらって,ダウンタウンに戻り,レンタカーを借りましたが,タクシー代は約2,000円。宿泊代と合わせても,ダウンタウンに泊まるよりも得かもしれません。
特別編・2014春アメリカ旅行LIVE・番外編①
2014年春のアメリカ旅行から帰って,1週間以上が過ぎました。旅慣れた人ならともかく,アメリカを個人旅行した経験のない人には知りたい話題だと思うので,ここで,「2014アメリカ旅行LIVE・番外編」として,今回の旅で宿泊したホテルについて書いてみます。
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アメリカには,「DAYS INN」とか「BEST WESTERN」とか「SUPER8」とか,そういう名の全国チェーンのホテルがたくさんあります。それらのチェーンも少しずつランクに差があったり,都会と郊外ではずいぶんと設備に差があったりするのですが,ともかく,車なら,そういったホテルのたくさんある場所を見つけて,その日の夕方にそのうちのどこかのホテルで「フロントで部屋はありますか」といって入れば,まず,宿泊することができます。したがって,日本から出かけて,レンタカーを借りていろんなところを周るのなら,ホテルの予約をする必要はまずありません。
また,特に,田舎町では,全国チェーンのホテルでなく,個人経営のモーテルがあって,そういったところでは,看板の下に空きありなしが表示されているので,空きがあるモーテルに行けば,宿泊することができます。
私も以前はそのようにしてホテルを見つけては旅をしていました。
問題は,ホテルのたくさんある場所が見つからないとき,そして,その町に夜遅く着いてしまったときに不安なことです。
少し前は,マクドナルドなどの店内にホテルの情報がいっぱい掲載されたパンフレットが置いてあって,そこには割引券がついていて,それを頼りにホテルを探したものですが,今は,インターネットにとってかわりました。
そこで,この頃は,私は,インターネットの「エクスペディア」か「ブッキングコム」というサイトで翌日のホテルを検索して,予約をするようにしています。
今回泊まった9泊のうちの6泊はそのようにして予約をしました。はじめの2泊は,出発する前に「エクスペディア」で予約をしました。ロズウェルでの1泊だけは,当日の夕刻,その場で探しました。
ホテルを探すコツは,とにかく,まず,場所です。
とくに,比較的大きな都会だと,場所を間違えると,どうにも不便です。特に,車がないときは,そこへ行く方法があるかということが大問題になります。また,車があれば,郊外のほうが,ずっと宿泊代は安価です。
そうして,念入りに場所を決めたら,私は,とにかく,値段の安い順に検索して,そのホテルに特に問題がなければ,一番安いホテルを予約します。それで,困ったことも,失敗したこともありません。
とにかく,寝るだけなのですから。
しかし,現地に住んでいる人に聞いても,女性はそういう旅行はしない,といいますから,これは,男の特権なのでしょうね。
では,今回宿泊したホテルについて,順に書いていきます。
まず,1日目と2日目はサンアントニオのダウンタウンにあったリバーウォーク・デイズイン・サンアントニオ(Alamo Riverwalk Days Inn, San Antonio)に連泊しました。このホテルは,全く期待していませんでした。値段は日本円で一泊12,000くらいで,割高でしたが,場所だけで選びました。サンアントニオの名所アラモの砦から徒歩2分なので,ここなら,空港から公共交通機関で行くことができること,そして,3日目の朝レンタカーを借りるハーツの営業所までも歩いて行けるという点が決め手になりました。
各部屋の入口は外に面していて,駐車は宿泊者のみ可,部屋はベッドとバストイレという普通のもの,そして,フロントで朝食がとれました。郊外なら4,000円程度のホテルです。
私は,グーグルアースなどで見た感じは,このホテルのある場所はもっと殺伐としたところに思えたのですが,完全に都会の真ん中でした。
車がなく,サンアントニオに行くときは,ぜひどうぞ。近くには,マリアットホテルなど,高級ホテルもたくさんあります。また,歩いて1分で,デニーズもあるし,リバーウォークもすぐ近くです。