モノを買わない,といえば,私のおじいちゃんの場合,ずっと子供のころから,天体望遠鏡とカメラには目がなかったから,いろいろと詳しいわよ。
きょうは,そんな中で,天体望遠鏡について,おじいちゃんに聞いてみたわ。
・・・・・・
天体望遠鏡は,今もそうだけど,30年前は「月刊・天文ガイド」っていう雑誌が広告灯になっていて,星を見るよりも広告を見る時間の方が多い,っていうくらいだったから,どんどんと物資欲だけが高まったんですって。昔は,スマホもなかったし,若者がお金を使うのは,オーディオとか,今も変わらぬ車とか,そんなものだけだったのね。歳をとって思うのは,いつの時代も,こうして,少年たちは使う必要もないお金をメカにささげるんだなっていってるわ。
その結果,買ったものを使いこなすのならよいのだけれど,買っただけ,っていうものがいかに多いか,っていうことなのね。言い換えると,使いこなせない,っていうことね。
特に,天体望遠鏡なんて,都会じゃあ星も見えないから,使う場所がないのね。惑星を見るなら,近くの天文台へ行って大きな望遠鏡でみせてもらえばいいんだから。星のよく見える山の中にでも出かけて写真を写したり,そうしたことをするのは結構大変だから,結局,せっかく買っても押し入れの中で眠ってしまうわけ。それが,結構大きいので,しまっておくのも大変なのね。
・・
天体望遠鏡,っていっても,ホームセンターにあるようなのは所詮おもちゃだから問題外として,マニアが使うものでも,それほど売れるものじゃないから,その性能だって,実際に使ったわけじゃあないから,本当によくわからないの。ただ,雑誌の記事だけが判断材料なのね。
今は,もう,ほとんどのメーカーはなくなってしまって,高橋製作所っていうところくらいしか満足な天体望遠鏡は作っていない。現在は,このメーカーの製品はとても優秀なものが多いらしい,っていうのは,現在の製品を実際に使ったことないからわからいんだけど,でも,30年くらい前のこと,フローライトってう蛍石を使った高性能レンズが出はじめたころのものは,どうもそうじゃなかったらしいの。
このメーカーの,その高性能レンズを使った当時の製品は,この蛍石レンズが悪かったのか,それに付随するレンズとの相性が悪かったのか,現在,そのころの製品で,満足に見ることができる製品って,残っていないらしいわけ。
・・
おじいちゃんも,そのころの蛍石レンズを使った望遠鏡を1台もっていたんだけど,もうずいぶん前に,レンズが曇ってしまって使い物にならなくなっちゃった,って言っていたわ。
このことは,いろんなブログに書かれているし,おじいちゃんの友人の持っているものもそうだっていうから,嘘じゃないわ。
だから,おじいちゃんは,そのレンズの曇った望遠鏡を処分して,それからは,今でも,30年くらい前に買ったPENTAXっていうメーカーの天体望遠鏡をずっと使っているのだけど,このメーカーのレンズは今も全く曇りもなくて,さすがだっていっているわ。すこし設計は古くなってしまったけど,趣味で使うならこれで十分だって大切に使っているの。
先日知ったんだけど,この望遠鏡,「宙のままに」とかいうアニメに出てくるんで人気らしくて,すごい高価で取引されているんだって。
・・・・・・
こんなわけで,本当にいいものの価値って,30年も使って,初めて,わかるのね。雑誌に,机上のイメージだけで「名品」とかの特集がのっていたりするけど,あんなの,名ばかりね。
でも,今は,PENTAXは,もう望遠鏡を製造していないし,望遠鏡に限らず,こうした味のある製品はどんどんなくなっていくの。
さみしいわ。もう,今は,「一生もの」なんて,手に入らない時代なのね。
☆ミミミ
この写真は,きょうのブログに書いたPENTAXの望遠鏡で昨日の午後11時頃に写したM27,通称こぎつね座あれい星雲です。
月明りもなく快晴だったのですが,黄砂と春霞で,空は灰色,人里離れたところでも都会の空と変わらないくらい星の見えない夜空でした。しかし,写真では,ちゃんときれいな星雲が写りました。この空の状態で写るのですから,冬の晴れた晩は都会でも星の写真が写せるのでは… と思いました。
そんな夜空でも,星を見るのは本当に楽しいものです。
May 2014
2014春アメリカ旅行記-私はサンアントニオを目指した。②
前回書いたように,私は,航空券の手配をした。そして,サンアントニオの友人に手配した航空便の日にちと時間を連絡した。それは,出発はまだ半年も先のころのことであった。
個人でアメリカ旅行をするのなら,航空便の手配以外には,出発までに必要なことは,ESTAの登録と国際免許証の取得,そして,旅行保険の契約くらいである。
ESTAの有効期限は2年間で,国際免許証の有効期限は1年間,ともにこの旅では,昨年の夏の旅行から1年も過ぎていないので,ともに有効期限内であった。だから,私が出発までに必要だったことは,旅行保険の契約のみであったが,これは,出発当日の空港でもできる。
したがって,特にすることもなく出発までの月日が過ぎていった。
私には,誘われて行くことを決めたとはいえ,実際に現地へ行ったときに,サンアントニオの友人がどういったもてなしをしてくれるのかが,全く見当つかなかった。
実は,私は,一般的なアメリカ人という人たちがよくわからない。彼らのほとんどは,善意の塊ではあるけれど,約束とか義理とかいうものの感覚が日本人とは全く違う。簡単にいうと,彼らはその日暮らしなのである。以前,ブログに書いたことがあるが,彼らは小学生がそのまま大人になったと考えれば最もわかりやすい。
したがって,私は,出発までにその友人と全く連絡ができなくなって,結局は私ひとりで旅をすることになる,という最悪の事態を考えて,予定を立てることにした。
旅行2か月前に再び連絡をしたときは,親切な返事が来た。
そのころ,私が聞きたかったのは,サンアントニオに到着したら,どのあたりの場所にホテルの予約をすればいいのか,ということと,私の希望は,サンアントニオよりもニューメキシコ州だから,そこへ出かけるにはどうすればいいかということであったから,そのことに対するアドバイスを依頼した。
そして,再び来た返事には,ニューメキシコ州へは同行するから,距離が遠くても代わる代わる運転をすれば大丈夫ということであった。そして,それ以外のことや滞在中の詳しい予定は,後日連絡するということであった。
ところが,その後,突然,友人から全く連絡がなくなってしまった。何度かこちらから連絡をしてみたが,返事は全く来なくなった。
私は,やっぱりと思った。
しかし,出発前になれば,突然連絡が来るのではないか,という予感もしたし,その確信みたいなものもあった。でも,それは当てにしないことにした。
そこで,私は,友人の都合は抜きで,次のように予定を立てることにした。
まず,到着した日と次の日はサンアントニオの市内の観光をすることにした。
調べてみると,サンアントニオのダウンタウンは徒歩圏内であったから,治安も心配がないようであった。また,空港からダウンタウンへはシャトルバスがあるということだった。だから,空港からダウンタウンにも容易に行けるから,ダウンタウンにホテルを予約すればこの2日は車がなくても大丈夫であった。
そして,3日目の朝にサンアントニオでレンタカーを借りで,ニューメキシコ州へ行くことにした。
サンアントニオから,一直線にニューメキシコ州へ行って,最終地点はサンタフェ。
サンタフェからの帰りは国内便でサンアントニオに戻ることにした。
しかし,サンタフェからは便利な国内線もなかったので,その隣町のアルバカーキーまで行って,そこでレンタカーを返却して,そこからサンアントニオまで国内便で戻ろうと考えた。
なにせ,再び運転してサンアントニオに戻るには距離が遠すぎるのだ。
しかし,それはもったいない,私が運転するからそんな予約は不要だという返事が,連絡が全く来なくなる前に一度はあったものだから,その時点で,国内便の予約は断念してしまっていた。
ということだったので,到着した日と次の日はサンアントニオの市内にホテルを予約して,3日目から最終日まではレンタカーを予約,この間のホテルは当日でもなんとかなるのでしない。そして,遠距離のドライブだが,ともかく,ニューメキシコ州の行けるところまで車で行って,再び車でサンアントニオに戻るという計画を立てた。
最終日は帰国便の出発が早朝なので,サンアントニオの空港の近くにホテルを予約することにした。
結果的に,私の立てたこの計画は完璧であった。現地に着いてから,友人に振り回されて予定がめちゃくちゃになってしまうまでは…。
でも、これらのことは友人が悪いわけじゃない。彼女にもいろんな事情があったのだし,それを責めているわけではないので、誤解なきよう。
「フィールド・オブ・ドリームズ」-それは実現する。②
まず,この映画に出てきたホワイトソックスのジョー・ジャクソン選手のことからはじめます。
・・・・・・
1919年,当時9試合制で行われていたワールドシリーズで,シカゴ・ホワイトソックスは,シンシナティ・レッズに3勝5敗で敗退しました。そのことがきっかけとなって,シリーズ前から噂されていた賭博がらみの八百長疑惑が真実味を帯びて,新聞の暴露記事によって事件が発覚しました。
その結果,最終的に,ホワイトソックスの主力だった8選手が賄賂を受け取ってわざと試合に負けた容疑で刑事告訴されました。
・・・・・・
この事件は,アメリカの精神的国技として野球をなかば神聖視する風潮のある米国社会全体に衝撃を与えたのです。
当時のホワイトソックスのオーナーだったチャールズ・コミスキーが極端な吝嗇家だったことがこの事件の背景にはありました。
ホワイトソックスの選手たちは低賃金でプレイさせられて,ユニフォームのクリーニング代も選手の自腹だったために,彼らのユニフォームは白ソックスまで常に黒ずんでいました。彼らは「ブラックソックス」と揶揄されるありさまだったのです。
こうした仕打ちに耐えかねていた選手たちのなかで,まず,八百長に手を染めたのは,一塁手のチック・ガンディルだったといわれています。彼に誘われた者や自ら話を聞きつけて仲間に加わった者など,“シューレス・ジョー”ことジョー・ジャクソンを含む計7人の選手が,問題のシリーズで八百長を働いたとされました。そして,他に八百長の全貌を知りながらそれを球団に報告しなかった三塁手のバック・ウィーバーを含めた8人が事件に関与したということになりました。
実際は,シリーズの途中で彼らに話を持ちかけた賭博師が破産したので,約束通りの報酬は得られないことがわかり,彼らは八百長とは手を切ろうとしていたのでしたが,事態はすでにマフィアも関与するところとなっていて,試合で全力を出せば家族に危害が及ぶと脅迫されていたということでした。
問題のシリーズから約1年後に,8人は大陪審で八百長が存在したことを認めたのです。そして,大陪審は,彼らに情状酌量の余地を認めて,無罪評決を下しました。
事件によって国民的スポーツとしての面目を失いかけていた米球界は,謹厳で知られた判事のケネソー・マウンテン・ランディスを,絶対的裁量権を有する「コミッショナー」として迎え入れました。
ケネソー・マウンテン・ランディスは,「大陪審の評決に関係なく,八百長行為に関与した選手,また八百長行為を知りながら報告を怠った選手は永久追放に処する」と判断を下しましたから,事件に関与した8人は,メジャーリーグから永久追放の処分を受けてしまったのです。
その一方で,ケネソー・マウンテン・ランディスは,同じく八百長疑惑のあった,例えばタイ・カッブのような有名選手たちを救済しているのです。また,チャールズ・コミスキーは直接には何ら処分を受けず,そのままオーナー職にとどまることができました。しかも,後に,野球殿堂入りさえ果たして,ホワイトソックスの本拠地球場に「コミスキーパーク」として長く名を残しました。
・・
こうした不公平感で,追放処分を受けた8選手は「悲運の8人」(Unlucky 8)として,むしろ悲運のヒーローとして美化されるようになりました。そして,「フィールドオブドリームズ」のような,事件をモチーフにした多くの文学作品や映画が生まれたというわけです。
2014春アメリカ旅行記-私はサンアントニオを目指した。①
昨年の夏であったか,2013年のアメリカ旅行から帰った後,サンアントニオに住む友人から,遊びに来ないか,という誘いがあった。この友人というのは,2006年,私が,モンタナ州を旅して,イエローストーン国立公園へ行ったとき,現地ツアーに参加したのだが,そのとき同じツアーにいた女性であった。
私は,それ以来,この女性は,私よりもずっと年上であると思っていた。なにせ,孫もいるおばあちゃんであった。
私は,サンアントニオという町に興味はなかった。それに,2014年の夏は,アイダホ州に行くことを,すでに決めていた。
アイダホ州の旅については,後日書くことになるであろう。
サンアントニオというのはどこにあるかすら詳しくは知らなかったけれど,テキサス州だということだけは,なんとなくわかっていたから,夏には日本よりも暑くなるだろうし,行くなら,この際,春がいいのかなあ,と思うようになった。
私には,アメリカ合衆国50州制覇,という夢があるけれど,残すはニューメキシコ州,コロラド州,そして,ネブラスカ州からずっと東にカンザス州,オクラホマ州,アーカンソー州,アラバマ州,サウスカロライナ州,ノースカロライナ州… と,もう,どうやって行くのかさえよくわからないところだけが残ってしまっている。
そこで,この際,この旅でサンアントニオからニューメキシコ州へ足をのばすことで,この行っていないうちの1州を制覇しようと考えた。
そして,その次の夏にアイダホ州からコロラド州へ行けば,そのあとは,アメリカ合衆国の中南東部とアパラチア山脈にそったいくつかの州を,一気に西から東に駆け抜ければいい。
そんなことも考えて,私は,いつものように,デルタ航空のサイトで,サンアントニオに行く便を検索し始めた。
ところが,それが,うまくいかないのだった。
行きの便は,結構乗り継ぎのよいものがあるのだけれど,帰りがいけない。
乗り継ぎがうまくいかず,デトロイトで1泊,なんていうのがざらなのであった。そこで,さらに,ニューメキシコ州へ行く方法を調べていくと,さらにいけない。
第一,ニューメキシコ州には,アルバカーキくらいしか国際空港がないではないか。
ニューメキシコ州といえは,私が知っていたのは,UFOで有名なロズウェルと宮沢りえの写真集でみんなが知ったサンタフェくらいだ。しかし,サンタフェはテレビの旅行番組でもよく出てくる結構有名なところである。なのに,そこへ行くのは容易でない。
まるで,行けるものなら行ってみろ,とでもいっているかのようであった。
要するに,ニューメキシコ州に行くには,どこかの大都市から延々と車を走らせるほかには手段がないのであった。ともかく,今回,サンアントニオに行くのなら,それが本当に可能かどうかは知らないが,そこから車を走らせて,ニューメキシコ州をめざす。そうしか,方法が浮かばなかった。
しかし,すでに書いたように,サンアントニオを往復する便すら,まともなものがない。
すっかりあきらめかけたころ,サンアントニオを早朝に出発して,その日のうちに日本への帰国便に乗り継げるものを見つけ出した。そこで,これ以上のことはよくわからなかったけれども,勢いで,その便の予約をしてしまったのであった。これを逃せば,もう,行く機会はあるまいと…。
後で知ったことだが,サンアントニオにこだわらなければ,ニューメキシコ州へ行くには,アリゾナ州からの方がずっと便利であった。しかも,3月に行くのだから,アリゾナ州なら,MLBのスプリングキャンプを見ることもできたのであった。
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まあ,ともかく,そんな次第で,私は,この春にサンアントニオに行ってきた。そして,結局,ニューメキシコ州にも行くことができた。ただし,車で3,000キロも走らなければならなかったけれども…。
旅は,どこへ行っても,それなりに意義があり,楽しいものだから,当然,この旅も,よい思い出となった。
ということで,今日から,2014アメリカ旅行記を書く。
「フィールド・オブ・ドリームズ」-それは実現する。①
NHKBSプレミアムで映画「フィールド・オブ・ドリームズ」(Field of Dreams)を放送していたので,久しぶりに楽しみました。
この映画は,1989年に公開されたアメリカ映画で,W・P・キンセラの小説「シューレス・ジョー」を原作にフィル・アルデン・ロビンソンが監督と脚色を兼任してつくられたものです。野球を題材に,1960年代を懐かしみ,夢や希望・家族というとてもアメリカ映画らしいテーマを描きました。
・・
私は,1998年8月にシカゴからアイオワ州デモインまでドライブしたとき,本当に偶然,この映画のロケをした場所となったアイオワ州北東部ダビューク西郊の小さな町ダイアーズビルに行ったことがあるので,本当に懐かしくなりました。
また,私は,ボストンのフェンウェイパークでのレイ・キンセラとテレンス・マンのシーンを思い出しては,それがどの映画で見たシーンなのかを思い出せず,ずっと気になっていました。
昨年行ったフェンウェイパークのコンコースには,この球場でロケをした多くの映画のパネルが展示してあって,そこには当然この映画のパネルもあってそれをじっくりと見たのにもかかわらず,いまひとつピンときませんでした。
そして,映画「フィールド・オブ・ドリームズ」を見て,やっと,私がずっと気になっていたのはやはりこの映画だったんだと気がついたわけです。
この映画の意見や批評を書いたブログがたくさんあるので読んでみると,なかには,当然,つまらなかった,とかいう意見もあります。そういった意見の多くは,人生経験が少ない人,とか,そうした場所に行ったことがない人,とか,そういう場合が多く,映画を見て感動できるかどうかという要因も,旅と同じように,やはり,自分の実体験やら思い出やら,そうしたものをどれだけ自分が人生の中で育んできたかがとても多くを占めているんだなあと感じます。
かくいう私だって,この映画をはじめて見たときは,それほど感動したわけでもなく,単にアイオワ州の見渡すばかりのコーン畑を見て、アメリカは広いなあと感じ,どうして八百長で球界を追放になった選手がこの映画で美化されているのかがよくわからないなあ,と思ったくらいでした。
だから,この映画を見て,つまらなかった,という人の感性もよく理解できます。そして,そう思った人には,もっと人生を経験しなさい,いろんなことを体験しなさい,そして,経験や体験を積んでからまたこの映画に出会ってくださいとアドバイスしたいものです。
私も人なりに歳をとり,それとともに大リーグの大ファンとなり,アメリカへの旅を何度か経験した今,再びこの映画を見ると,すごくいいなあと思うようになり,さらに,何とも言えない深い感動を味わえるようになったのは,そうしたさまざまな旅の思いが,それをもたらしているからなのです。
そうしたことも踏まえて,この映画の背景について書いてみます。
2013アメリカ旅行記-エピローグ
これまでに書いたようにして,私は,2013年夏のアメリカ旅行を楽しんできた。
久しぶりに行った東海岸は,アメリカののどかな中西部とはまた違った刺激があったし,これまでの自分の人生を振り返ることもできた。
この旅から帰って,
・・・・・・
また,メイン州の片田舎で,のんびりと大西洋と真っ青な空を眺めていたい。
ボストンからモントリオール・オタワまで,初秋の紅葉を眺めながら,ドライブがしたい。
今度こそ,ホワイトマウンテンズでコモ鉄道に乗ってみたい。
フェンウェイパークで上原浩治投手の勇姿を見てみたい。
年に一度は,ニューヨークに行って,世界で一番新しくて,そして,一番刺激的な大都会の空気に触れていたい。
・・・・・・
そう思うようになった。
私は,20代のころは,毎年のように北海道を旅して,まっすぐに続く道をドライブしては感動していた。海辺の小さな町で,潮風に吹かれていた。しかし,アメリカを知ってしまってからは,残念ながら,北海道の雄大さには,魅力を感じなくなってしまった。
30代のころは,毎月,京都や奈良に出かけては,四季折々の景色や,日本の深い歴史に心を打たれ,自分の未熟さを感じたものだった。
そして,40代は,東京へ出かけては,クラシック音楽のコンサートや,世界各地からやってくる美術展に足を運び,多くの名演奏に接し,名画を見た。
・・
そして,今。
私の心には,京都や奈良の文化や伝統の偉大さは,今も枯れずに大切に残っている。
これは,日本が世界に誇る財産である。しかし,大都市東京には,魅力を感じなくなった。確かに,東京には,世界中のなにもかもがあるかもしれないが,渋谷や池袋の雑踏とけたたましい騒音,そして,あまりに多すぎる,他人を押しのけて壁を登るような人の群れと,アクロバティカルな車の洪水。
それに比べれば,ニューヨークの人を引き付ける圧倒的な迫力と陽気さって,なんなんだろう。そして,ボストンの郊外,タングルウッドの夢の世界。
私は,途方もなく素晴らしい世界を知ってしまったようだ。
この後の人生は,1年でも長く健康でいて,自分の足で,何度も何度も,そんな世界に触れてみたい。どうやら,私のこころの中には,また,新しい夢が生まれてきたようだ。
2013アメリカ旅行記-夢がかなった旅の終わり⑤
やがて,搭乗する時間になった。デトロイト便は,通路を歩いて地上から乗り込むようになっていて,ニューヨークとは思えないほどであった。まるで,日本の田舎の電車の駅のようであった。
滑走路に飛行機が停まっていて,タラップがあった。通路を出て,タラップに向かうとき,夏の日差しがまぶしかった。
やがて,タラップから乗り込んだ。
私は,2004年の夏,モンタナ州で交通事故に会い,足を骨折した。その2年後完治して,私は再びモンタナ州の小さな町ビュートを訪れた。そのビュートの飛行場からシアトルに向かったときも,こんな感じだったなあと,その時思い出した。ビュートの飛行場から見たモンタナ州の大地が美しかったことを昨日のことのように覚えている。
今回もそのときと同様に,小さな飛行機だった。
ニューヨークからわざわざデトロイトに行くなんて,デトロイトがデルタのハブ空港だからなのであって,それほど利用客があるとも思えなかった。
飛行機が離陸して,空から見たニューヨークの景色は,とても美しかった。
ニューヨークは大都会だが,少し郊外に出れば,森と湖に囲まれていて,自然が一杯のところである。32年前にはじめてこの景色を空から見たときは,その緑の多さにびっくりした。日本では摩天楼と犯罪ばかりのニューヨーク,と思っていたのに,空から見たのは,そんな人間社会をあざ笑うかのような大自然の雄大さだった。
この旅では,これまで空から見ただけだった,そんな風景さえもドライブすることができんたんだなあ,としみじみと思った。
やがて,飛行機はデトロイトに到着した。
降りたのは,いつものコンコースAではなく,コンコースCだった。ここからずいぶんと長い地下通路を歩いてコンコースAに行った。通路は,虹色の照明が次々に変化して,とても美しかった。
デトロイトの空港では,日本食レストラン「空」でちらし寿司を食べた。
日本の味であった。
そうこうするうちに,デトロイトからの帰国便に乗り込む時間になった。
デトロイトから名古屋に行く帰国便は,さらに,名古屋からフィリピンのマニラまで行くことから,東京・成田へ行く便とは違い,いつものように,乗客の多くはフィリピン人で,日本人はほとんどいなかった。
今回は,めずらしく,空席が少なからずあった。
通路を隔てた中央の4席には,単身赴任の旦那さんに会って帰国するところであった女性と2人のかわいい子供が座っていた。
1年前のノースダコタ州からの帰国のとき,この帰国便に乗るときは,非常に憂鬱であった。
しかし,今回の帰国便は,座席がリニューアルされていたこともあって,また,比較的空席があったこともあって,とても新しく,気持ちがよかったので,憂鬱な気持ちは全くなかった。
それよりも,きっと,夢がかなったという満足感が強かったこともあるのだろう。
今回の旅は,こうして,無事,終わりを告げた。
32年,私の半生が,こうしてつながったのだった。
ほんとうに幸せな旅であった。
日本時間の午後6時少し前,飛行機は日本に到着した。中部国際空港のバッゲジクレイムにいた係の女性は,日本人らしくなく,心から愛想がよかった。話をしていたら,私の書いているブログの話題になった。私は,ぜひ,見てくださいね,と言った。
最後まで,気持ちのよい旅であった。
◇◇◇
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「かなちゃん」1週間-モノを買わない⑤
もっとも必要のないものは家。というか,買う必要のないのは家。
確かに,家がないと暮らせないから,必要はあるのだけれど,この国では,家は借りるもので、買うものじゃないわ。でも,人生の折々で家を売って住み替えるという文化がないから,一度家を買うっていうことは,一生ものになってしまうのね。
この国では,家に関して,こうするとちゃんと平凡で幸せな人生がおくれるっていうモデルがないのね。
実際は,結婚して,子供部屋のある家を建てても,子供部屋が必要なのは,中学校と高等学校の6年から10年くらいなのね。その時期を過ぎると,子供部屋は物置になってしまう。そうして,今度は,そのころになると家も古くなってリフォームが必要になるわけね。さらに歳をとると,今度は,年老いて手すりをつけたりしないと,住むことができなくなってしまうし,そればかりか,老夫婦2人暮らしには広すぎてしまうのね。
それだけでなくて,若いころに新興住宅地に家を建てたときには,そうしたモダンな家は,玄関からに入るために凝った階段があったり,交通の便が悪かったりするから,せっかく建てた家なのに,老人には,とても住みにくいものになってしまうわけ。
でも,だからといって,賃貸のアパートでは,子供部屋を2部屋用意するのは無理なのね。そういった間取りになっているような賃貸住宅はほどんどない。だから,結婚して,子供がふたりとなると,仕方なく家を建てる必要が出てくるわけ。でも,その実態はこんな訳なのね。だから,一旦家を買ったときから,大変な人生が始まってしまうことになるわけ。
私は,結婚したとき,子供が成長するとき,そして,子供が独立したとき、最後に,年老いたときっていうように家を住み替えていくのが一番いいと思うのだけど,この国では,中古住宅っていう市場が発達していないから,それが難しいのね。
町を歩いていても,どこかしこにも,古くなった大きな家に老人ふたりがすんでいたり,狭い賃貸住宅に,子供と若い夫婦が住んでいたりと,ちぐはぐな状態になっているから,どうにならないのかなあ,といつもかんがえてしまうわ。
土地を相続で譲り受けてもそれを手放すのも大変だし,だからといって活用する方法がないから,やたらと駐車場があったりするのも問題だと思う。ただでさえ狭い日本なのに,土地がまったく有効に活用されていないっていうのも残念なのだけれど,それ以上に,町の景観を台無しにしているってことがよくないわ。
普通の人が,美しい町で無理なく気持ちよく暮らせるようなそんな国にならないのかしらね。
☆ミミミ
先日,M51子持ち星雲に接近したパンスターズ彗星(C/2012K1 PanSTARRS)ですが,これは昨晩の写真です。現在は8等星くらいで,この夏には双眼鏡で簡単に見ることができるくらいに明るくなるといわれています。先日ブログに載せたときと比べて,ずいぶんと明るくなってきました。
2013アメリカ旅行記-夢がかなった旅の終わり④
☆11日目 7月30日(火)
ついに,帰国の日が来た。
10泊12日の旅では,実質,観光に使えるのは9日しかない。つまり,実際の日にちより3日も少ないことになる。
帰国便の出発は,朝7時45分であったから,午前5時30分にはホテルを出発しなくてはならない。
心配していた朝は,何の問題もなく起床できた。
時間が早かったが,さすがに,空港に近いホテルだったので,朝食は朝の5時からとることができた。アメリカでも,これくらいの心配りはできるみたいだ。
このホテルは,ことのほか豪華で,食堂はフロントを眼下に見渡せる2階にあった。しかも,ひろく,清潔で,素敵なことろだった。
食堂のテレビではCNNをやっていた。私が日本で毎晩見ているのと同じ番組であった。ただし,当然,時間だけは日本で見るときは夜の7時だから,11時間も違ったけれど。
それは,「NEW DAY」という番組だった。「NEW DAY」,いい言葉だ。私の大好きな言葉だ。
アメリカ人は,何か辛いことがあっても,新しい日が来ると,昨日は昨日,「NEW DAY」だというそうだ。どこの国に生まれても,それが日常の生活になるとストレスがある。
朝食を終えて,部屋に戻り,カバンをもって,ホテルのチェックアウトをした。
シャトルバスは5時過ぎにはすでに空港に行く宿泊客を待っていて,ホテルの玄関に停まっていた。
あわただしく,私を含めて数人が乗り込んだ。
私は,これからジョン・F・ケネディ国際空港へ行って,デトロイト行の便に乗り,デトロイトで乗り換えて,日本に帰国することになる。
ジョン・F・ケネディ国際空港は,さらに拡張工事をしていたので,デルタ航空のターミナルが変更になっているかもしれないから注意しろと書かれてあったが,特に変更になっているわけでもなかったので,通常のデルタ航空のターミナルで降ろしてもらった。
ターミナルは,早朝だというのに,すでに,多くの客でごった返していた。
こんなとき,閑散としたノースダコタ州のビスマルクの空港が懐かしい。
空港で,自動チェックインを済ませ,カバンを預けて,セキュリティを通り,待合室に入った。
デトロイト行の搭乗ゲートに通じる待合室は新しく,また,コンパクトであった。
ファーストフード店や土産物店も,小さなものがいくつかあるだけで,日本の空港のようであった。
待合室の座席には,iPad がたくさん並んでいて,自由に利用することができた。私は,自分のブログを見たり,ブルックリンのホテルを探してさまよった場所をグーグルアースで調べたりと,この旅のことをいろいろと思い出しながら,iPad を使って搭乗時間までの時間をつぶしていた。
もう,カバンを預けてしまったので,あとは,日本に帰国するだけになってしまったことが,さみしかった。でも,今回は,帰国する憂鬱さよりも,この夢がいっぱい詰まった旅をなし終えた充実感で一杯であった。
これを書いている今にして思うのだか,この旅は,私がアメリカという国に夢をもち,あこがれを抱き,そしてそのすべてがかなった最高の旅になった。そして,自分の人生を思い出すのに十分な旅になった。今でも,また,アメリカ旅行にはもちろん行きたいが,この旅で,私がアメリカに私が抱いていた長年の夢はほとんどすべて実現したことで,夢からは覚めてしまった。
このことだけがとても寂しい。
夢がかなった旅の終わりであった。
星を見るのも大変だ。-彗星発見プロジェクト③
私が若いころに疑問に思ったのは,雲と霧の違いでした。どういう状態を「雲」といい,どういう状態を「霧」というのだろう…。それと同じように疑問に思ったのは,小惑星と彗星の違いでした。今日は,小惑星と彗星の違いについて書いてみたいと思います。
・・
実は,こういうことが学問の対象になってきたのは,私が疑問に思っていたころよりもずっと後になってからのことだそうです。
私は単に素人の興味で,発見されたばかりのころの彗星は小惑星と見わけがつかないから,どうやって彗星と小惑星を区別するのかなと思っていただけなのですが,その昔は,小惑星は火星と木星の間にあるメインベルトとよばれる小惑星帯にあって,このメインベルトで発見される小天体は彗星でなく小惑星である,というように学問的にその区別がされていたので,専門家は,私のような素人の疑問はもたなかったというわけです。
現在は,小惑星と彗星の違いというのは,写真に写った姿で判断して,点像で見えるのが小惑星,ぼっと見えるのが彗星というだけのことなのです。そこで問題なのは,近年になって,メインベルトにある小天体にも,ぼっと見えるものが見つかったということなのです。
彗星というのは,天王星よりも遠いところにあるカイパーベルトという一帯から太陽に近づいてその水分がぼっとなって見えるようになった周期の短い彗星周期彗星と,もっと遠いオールトの雲という仮想の一帯から来た長い周期の周期彗星や放物線軌道の彗星の2種類があるのです。そのほかに,メインベルトを周る彗星があったということなのです。
近ごろでは,こうした小天体をメインベルト彗星と呼ぶそうです。それらは数個見つかっているということです。また,観測すると,そのメインベルト彗星にも,実際に水分がほっと見えるものと,そうでなく,小惑星が分裂しつつある状態がぼっと見えるものがあるらしく,それらは,未だ,研究途上なのだそうです。
「ドンキホーテ」という名の小惑星は,スピッツアー赤外線望遠鏡で写すと,左の写真のように星の周りに「コマ」と呼ばれるぼっとしたものが写るし,右の写真のように,右方向に延びる尾が写ります。さらに,メインベルトを周る小天体が太陽系創生期に持っていた水分はとうの昔に蒸発したのに,未だこの天体に水分があるということも謎なのだそうです。
・・
このように,以前,このブログに書いた超新星と,小惑星や彗星などアマチュアが発見したり観測したりできる天体現象には,現在でもたくさんの研究対象があって,それらの多くは,研究成果を出すには多くの観測が統計的に必要だということなので,星を見るという趣味は有意義であり,奥が深く,おもしろいものなのです。
2013アメリカ旅行記-夢がかなった旅の終わり③
地下鉄を降りて,ジャマイカセンターにあるカフェテリアで夕食をとってから,さらに,エア・トレインに乗り換えて,ホテルへのシャトルバスの出ているターミナルへ戻り,ホテルに電話をしてシャトルバスをよんだ。
ニューヨークの夕日がきれいであった。
シャトルバスが来るまでしばらく待ったが,やがて,シャトルバスが到着して,ホテルに帰った。
先にも書いたことであるが,こうして,空港に近いホテルを予約しても,そこからマンハッタンに出かけるのは,このように結構不便なことだから,地下鉄沿線のホテルを予約するべきなのである。
さて,最後の夜である。
明日の朝,ぜったいに寝坊をしないために、目覚ましを三つ用意した。
ひとつは,携帯電話(ガラ携)の目覚し機能である。もうひとつは,現地でネットに繋ぐために持っているiPod-touchの目覚し機能である。そして,最後に,携帯した小さな時計の目覚ましであった。
さらに、それに加えて,ホテルの部屋にあった時計もめずらしくちゃんと機能したので,目覚ましを設定した。
アメリカのホテルにはどこにもよく似た目覚まし時計がある。設定した時刻になるとラジオが起動するものである。しかし,それらは,あるときは壊れ,また,時間が合っていないなど,うまく機能しないのは,私の泊まるような安価なホテルでは,日常茶飯事なのである。
また,今回は問題はないのだが,アメリカには時差があって,旅先で現在の正しい時間がなかなかわからないこともあるので注意が必要なのだ。テレビを見ていても,四つの標準時が表示されるだけなのだから,日本のように,今いる場所の正しい時刻がわからない。もし,たとえ1時間であっても勘違いしていたら,飛行機に乗り遅れてしまう。
そんなわけだから,それに夏時間との切り替え日なども重なると,現地に住んでいる人でも大変であろう。現在,こうしたとき、もっとも役立つのは,GPSを利用して自動的に切り替わるiPod-touchの時刻表示なのである。
モーニングコールを頼んでもよいのだが,これも曲者で,頼んでおいても電話がかかってこないことすら,これまでに経験したことがある。
私は,どう考えても,朝,寝過ごすなどということは考えられないのであるけれども,人生でたった一度だけ,アリゾナ州のフェニックスで,それも,アメリカに着いたばかりで時差ぼけがひどいときならともかくも,もう帰国するという日の2日前に,ぐっすりと眠ってしまって,目覚めたらその日が半分終わってしまっていたという経験をしたことがあるものだから,それが,いつまでもトラウマになっているのだった。
さて,あすの朝の準備も終わったので,あとは,時間通りに起きるばかりになった。そして,朝が来れば,この旅も終わりである。
◇◇◇
余談だが,この春に行った別のアメリカ旅行では,サンアントニオからの帰国便の出発時刻は,早朝の午前7時10分であったから,空港には午前5時には到着しなくてはならなかった。
このときは,この旅以上に苦しかった。今回と同様に,多くの目覚ましを用意したのだけれども,それとは別に,テレビの下に目覚ましとは関係のない時計があって,その時計が2時間も時間が違っていたものだから,夜中に目覚めた私は,真っ先にその時計を見て、もう起きる時間だと勘違いをしてしまったのだった。
一旦起きてしまったら,それ以後,寝るに寝られず,大変な思いをしたのであった。実際は,まだ午前2時であったのに…。
2013アメリカ旅行記-夢がかなった旅の終わり②
そうこうしているうちに,トイレに行きたくなった。車で旅行をしていれば,ガソリンスタンドを探せばいい。アメリカでは,ガソリンスタンドにコンビニが併設されている。
しかし,徒歩の場合、どうしたらいいのであろうか。
実は、昨日の夜景ツアーで集合したグランドセントラルステーションのホテルで,宿泊者以外にトイレが利用できなくて困ったことがあった。大都会ニューヨークでは,いくら治安が良くなったからといって,トイレにさえ困ってしまうことがあるのだ。
困りながら歩いていると,公園があって、トイレがあった。しかし,あいにく使用中であった。
うんざりしつつさらに歩いていくと,どうやら、そうしてたどり着いた場所はブルックリンハイツの辺りであった。
ここは,昨晩、マンハッタンの夜景ツアーで来た場所であった。この一角に公衆トイレがあったのを思い出した。
夜景ツアーも,昔は,このブルックリンハイツのあたりは治安の悪いところで,ツアーでなければ,この有名な摩天楼の夜景を見ることは困難だったのだけれど,今や,ブルックリンハイツ自体高級住宅地だし,こうしてブルックリンブリッジを歩いてくれば,ツアーに参加しなくても夜景を見ることもできるのだということを,このとき知った。
私は,ブルックリンハイツをさらに少し歩いて,やっと地下鉄を見つけた。
というよりも,実際は,乗りたいと思っていた地下鉄,それが何ラインなのかは覚えていないけれど,その地下鉄が走っている線路を見つけたのだ。しかし,そのラインの乗り場を見つけることができなかった。そこで,さらにしばらく歩いて,やっと別のラインの駅の入口を見つけたのだった。
そうして,そのラインの地下鉄に乗って,途中で乗り換えて,どうにかジャマイカセンターまで帰ることができたのであった。
今,そのときに写した写真を見ると,このあたりを高架で走るNラインの地下鉄が写っているが,私が乗った地下鉄は絶対にこれではない。Nラインではジャマイカセンターには帰れないのだ。
こうして地下鉄の駅を探している途中に消防署があったり,公園があったりと,さまよいながら歩いていたことは,それはそれでおもしろかった。思い出してみると,こうしたことのほうが,とてもなつかしく記憶に残っているのは不思議なことである。
このようにして,今回の夢のような旅の実質的な最終日は,無事に終わりを迎えたのだった。
ニューヨークといっても,これまではマンハッタンしか知らなかった。わずか数日の滞在であったけれど,こうして,ニューヨーカーのような気分になって,マンハッタンだけではなくて,ブルックリンも歩きまわることができたことは,本当に楽しかった。
江戸っ子が東京の浅草や三軒茶屋のようなところを気ままに歩くような,そんな気持ちになることができた。今これを書きながら,そのことを思い出すと胸が一杯になってくる。若いころにあこがれたアメリカがやっと手に入ったような気がするのだ。
さあ,これで,この旅も終わりである。
あとは,明日早朝の帰国便に,絶対に乗り遅れないようにしなくてばならない。実は,これが今回の旅の最大の懸念事項なのだった。
星を見るのも大変だ-彗星発見プロジェクト②
「実は,今もまた,別物の「リニア彗星(C/2012X1 LINEAR)が明け方の東の空に見えています」と書きましたが,この彗星の写真が今日のものです(=1番目の写真)。
今日は,世界中の天文台で行われている彗星発見捜索プロジェクトを紹介しましょう。
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●「近地球小惑星観測プログラム(ニート)」
ニート彗星の名が付いた「ニート・プロジェクト」というのは,アメリカ・パロマー山天文台の口径1.2メートルシュミット望遠鏡による近地球小惑星観測プログラム(NEAT=Near-Earth Asteroids Tracking programme)です。
この望遠鏡のことは,このブログにも,冥王星が準惑星に降格になったときのお話で取り上げました。
この期待はずれになったニート彗星も,発見されたときは太陽からの距離が約15億キロメートルで,新彗星が発見された距離としては最高記録記録だったために,これだけ遠い距離で発見されたことは彗星が大型であるためだと考えられたので,大騒ぎになったわけです。これも,昨年のアイソン彗星とよく似ています。
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●「地球近傍小惑星サーベイ(リニア)・プロジェクト」
リニア彗星のほうは,アメリカ空軍とアメリカ航空宇宙局(NASA) がマサチューセッツ工科大学 (MIT) に設立したリンカーン研究所による「地球近傍小惑星サーベイプロジェクト」(LINEAR=Lincoln-Laboratory Near Earth Asterid)で発見されたものです。こちらも発見された時の太陽からの距離は約10億キロメートルでした。
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●「パンスターズ・プロジェクト」
他にも,「パンスターズプロジェクト」という,アメリカハワイ大学天文学研究所が主体となって,太陽系小天体の探索等を目的として進められているプロジェクト(PanSTARRS = Panoramic Survey Telescope And Rapid Response System)があります。マウイ島ハレアカラ山頂に設置した口径1.8メートルのPanSTARRS1望遠鏡を利用しています。
ウィキペディアで「パンスターズ彗星」を調べてみると,「パンスターズ彗星 (Comet PanSTARRS)とは,パンスターズによって発見された彗星である。発見が単独では無い場合には,パンスターズ以外の名前もつけられる」という間違った情報が載っています。パンスターズというのは人の名ではなくて,このプロジェクトが発見したものです。
その「パンスターズ彗星」も,昨年明るくなるといわれ,しかし,それほど明るくならず期待はずれに終わった彗星なのですが,実は,別物のパンスターズ彗星(C/2012K1 PanSTARRS)が今年の夏,地球に接近して明るくなるといわれています(=2番目の写真)。
現在は,9等星くらいで見えていて,M51子持ち星雲と接近したときに私が写した写真はすでにこのブログに載せました。
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●「国際科学光学ネットワーク(アイソン)」
昨年太陽に接近してあっけなく消えてしまったアイソン彗星(=3番目の写真)は,2012年9月21日にキスロヴォツク天文台 (Kislovodsk Observatory) で「国際科学光学ネットワーク」(ISON = International Scientific Optical Network)に所属していたヴィタリー・ネフスキー(Vitaly Nevsky)さん とアルチョム・ノヴィチョノク (Artem Novichonok) さんによって発見されたものです。
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●「カタリナ・スカイサーベイ」
また,「カタリナ・スカイサーベイ」(Catalina Sky Survey)というものもあります。これは,アリゾナ大学の月惑星研究所(LPL)が組織的に行っている全天サーベイで,地球近傍天体(NEO)の捜索を主目的としています。
このサーベイは,口径69センチ,F1.9のシュミット望遠鏡とCCDイメージセンサを用いてかなり低空まで捜索しているのが特徴です。オーストラリアのサイディング・スプリングサーベイやレモン山サーベイと提携して捜索範囲をほぼ全天に拡げたこともあって,2006年に発見された彗星の大部分をこの三つのサーベイが占めるに至りました。
このカタリナ・スカイサーベイで発見された彗星はカタリナ彗星とかレモン彗星のようにサーベイの名称が付いているものと,ハーゲンローザー・スパール彗星,クリステンセン彗星のように個人名がついているものが混在しています。
・・・・・・
このように,現在では,個人名のついた彗星よりもプロジェクト名の付いたものの方が多いのが現状なのです。しかし,そうした彗星捜索プロジェクトにもめげず,今でも,個人で彗星捜索をしている人もいます。
この冬に明るくなったラブジョイ彗星(C/2013R1 Lavejoy)は,オーストラリアのアマチュア天文ファンのテリー・ラヴジョイさんによって,シュミットカセグレン式望遠鏡とCCDカメラを用いて2013年に発見された4番目の彗星でした(=4番目の写真)。そして,3番目の2011年に発見されたほうのラヴジョイ彗星(C/2011W3 Lovejoy)は,アイソン彗星のように太陽に接近したにもかかわらず消滅せず,きわめて明るくなって,南半球で最大級の彗星となって観測されたのでした(=5番目の写真)。
2013アメリカ旅行記-夢がかなった旅の終わり①
人生には意外性がある。
思えば,私が生まれてはじめてニューヨークにひとり旅をした32年前の若さを,今の自分が嫉妬する。
今よりも英語もできず,しかも,治安の悪いニューヨークだったのに,どうしてあのように多くの思い出を残して旅ができたのか,今考えても不思議なことであった。
そして,それから,あっという間の32年が過ぎた。
その間,仕事で楽しかった思い出など,ほとんどない。おまけに,私には「悪夢の2007年」があった。この年,一生分の不幸が自分の身に降りかかった。
結果的に,私は,そのときに仕事を辞め,「社会的な通念である人生」からは落伍した。ある人には見捨てられ,そして,別のある人には救われ,なんとか生き延びることができた。そして,その結果,価値観も変わり,「社会的な通念である人生」というのもには,なんの未練も価値観も持たなくなった。
だからこそ,こうして,旅をすることもできたし,その結果,夢が実現したともいえる。
いったい,人は何のために生きているのだろうか。何を目指して生きているのだろうか。
「社会的な通念である人生」を精一杯生きている人を見ると,私はそんな気持ちになってくる。気の毒な限りだ。
私に不幸が襲ったとき,私を見捨てたある人たちは,彼らの人生の中で,その後に私の得た体験のうちのどれだけのものを手に入れることができたのであろうか。
彼らの人生に比べたら,私のほうが,ずっと幸せである。これだけは断言できる。
ともかく,私は,夢がかなって,ブルックリンブリッジを渡りはじめた。32年間のはるかな時間を渡るかのように。こうなれば,渡り切るしかない。渡り終わったその先がどうなっているのかは知らない。だけれども,引き返すことだけはしまいと誓った。
ブルックリンブリッジは,思ったよりも長く,結局1時間近く橋を渡っていたであろうか,それでも多くの人が私と同じように橋を渡っていた。
遠くには自由の女神も見えて,そうして,やがて,マンハッタンの摩天楼がだんだんと小さくなってくるころ,ようやく橋の終わりになった。
橋を渡り終わって,私は途方にくれた。
橋を渡り終えると,そこまでは徒歩で渡っていた人が大勢いたのに,どこへ行ってしまったのか,急に人が少なくなった。いったいこの後,私はどうしたらいいのであろうか。
MLBを見終わったときも同じことを思うのだが,あれだけの人はいったいどこへ行ってしまうのであろうか。
しかし,私には,もう一度ブルックリンブリッジを逆に歩いてマンハッタンに戻るような元気は,もう残っていなかった。
今晩宿泊するホテルは,ジョン・F・ケネディ国際空港の近くだ。ここブルックリンでも,どこか近くには地下鉄の駅があるだろう。そして,そこまで行くことさえできれば,ホテルに帰ることができるだろうと思った。そこで,ここから一番近い地下鉄の駅を探した。持っていた地図によれば,それほど遠くないところに地下鉄の駅がありそうだった。
「かなちゃん」1週間-モノを買わない④
私は,この国で高級車を見ると,動物園の狭い檻に閉じ込められたライオンを想像しちゃうわ。
車は,なければ不便だけど,移動ができて,ちょっとしたものが運べる機能さえあれば,それで十分だわね。
それにしても思うのは,男の子って,何かに凝ってしまうと,手がつけられない。それが,カメラだったり,車だったり…。
カメラなんて,新製品情報が載っているブログの書き込みを見ると,本当に,好きな人は大変だなあ,って思うわ。どんどん買い換えていって,お小遣いがなくなっちゃう! 買う前に,実際に1週間くらい使ってみると,別に買い直さなくてもよかったなあ,って一番よくわかるんだけど,それができないから大変なのね。
カメラでさえそうだから,車に凝ってしまうと,そりゃ大変だわ。値段が1桁違うしね。でも,いくら高い車でも,空が飛べるわけじゃないし。一番の問題は,この国では,その車が走れる道がない,っていうことね。
走りがどうのっていったって,どこも混んでいるし,満足に気持ちよく走れるところなって,皆無じゃないの。それに,運転マナーも悪くて,制限速度だって,守って走っているとどんどんと追い越されるし,やたらと違法駐車してるし,渋滞だらけだしね。
だいたい,渋滞でのろのろと走っていて自転車に追い越されるのって,さまにならないわ。
高速道路は高いし,ガソリンの値段も半端じゃない。それに,定期点検だとか,任意保険だとか,子供一人養うのと同じくらいの費用がかかるのよ。
まして,モノにお金をかけて,持ち物で自分を立派に見せようとかいうのって,全く意味ないしね。
アメリカのインターステイツをスカッと走るとか,カントリーロードをのんびりと走るとか,結局,車っていうのは,そういう乗り物なのね。この国には向かないわ。
だから,私は,この国で車に乗るなら,中古の小型車で十分。洗車したり,傷を恐れたり,そんな心配も不要だしね。かっこいい高級車は,アメリカで乗るに限るわ。
日本で高級車を買うようなお金があるんなら,アメリカに旅行して,レンタカー借りてどこまでも続くまっすくな道を飽きるほどドライブしたほうがずっと安上がりで楽しいのよ。
さあ,車好きのみなさんも,アメリカの大平原を思う存分走ってみましょう!
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び⑨
ニューヨーク観光も,いよいよクライマックスであった。
暑さでずいぶんと疲れていたが,そのまま私は,ウォール街まで歩いて行った。
実は,この旅で最大の失敗は,履いて行ったスニーカーがほほ新品であったにものかかわらず,すでにボストンで中敷きがダメになってしまったことであった。私は,それ以来,サンダルを履いていたのだが,足に合わず痛くて,しかも,ずいぶんと歩いたおかげで,サンダルも底がすり減って,崩壊間近であった。
家に帰ってから気がついたのだが,私の両足の中指のツメが内出血をしていて,爪が真っ黒になっていた。
帰国後,これが治るのに5か月も要したほどであった。
そんなこともあって,ニューヨーク観光など,もうどうでもよくなってきていたのだけれど,ウォール街まで来てみると,目の前にブルックリンブリッジがあるのを見て,最後の闘志がわいてきた。
昨日,夜景ツアーでこの橋を車で渡ったときに,橋の外側が工事の塀で覆われていたので,また今回も渡ることができないんだなあ,と残念に思ったことだった。しかし,それは私の早合点であった。
このことも,すでに,このブログに書いたが,32年前に来たときは,八神純子さんがJALPAKのコマーシャルで,「パープルタウン」の流れる中,ブルックリンブリッジを自転車で駆け抜けるシーンにあこがれてニューヨークに来たようなものであった。そして,その時は,なんという不運か,前日ブルックリンブリッジのワイヤが1本切れたとかで,通行禁止になってしまっていたのであった。
私は,そのときの旅で,ブルックリンブリッジまで歩いてきて,橋を目の前にして,雨が降りはじめたことを昨日のことのように思い出す…。
多くの観光客がブルックリンブリッジを目指して歩いて行くところであった。
ブルックリンブリッジの徒歩での上り口までの距離は,私のいるところからはずいぶんと遠く思われたが,きっとこの機会を逃したら,一生,もうブルックリンブリッジを徒歩で渡る機会など訪れないだろうと思った。いくらブルックリンブリッジがここから遠いからといって,日本までの距離とは比べ物にならないであろう。当たり前の話だけれど。
そんなわけで,私は疲れた体に鞭を打ち,崩壊寸前のサンダルを励ましながら,ブルックリンブリッジをめざずことになったのだった。
ブルックリンブリッジに登ってみると,思ったよりも多くの観光客が対岸のブルックリンを目指して歩いていた。ある人は写真を撮り,また,ある人は自転車で駆け抜けていた。私は,歩きながら時折マンハッタンの方向を振り返るのだが,マンハッタンは摩天楼がまもなく夕方を迎える太陽で美しく輝いていた。
私は,このようにして,ほとんどめげてはいたけれども,どうにか,やっと,ブルックリンブリッジを歩いて渡る,という,ここに来るまでほとんど忘れかけていた32年前の青春の夢が,きょうやっとかなったことに,涙が出てきて止まらなくなった。
本当に,今回の旅では,多くの,これまでやりたくてやりたくてしかたがなかった夢がほとんどかなったのであった。
星を見るのも大変だ。-彗星発見プロジェクト①
新彗星を発見すると,一般に,発見した順に先着3人までの名前がつきます。たとえは,池谷・関彗星というのは,池谷薫さんと関勉さんがそれぞれ別の場所でお互いの発見を知らず発見したもので,池谷さんのほうが少し早く発見したので,発見順にこの名前がつきました。
例外は,ハレー彗星が有名で,これは,昔から約76年の周期でやってきた彗星が同じものであることをハレーが見つけたことからつけられたものです。
このように,新しい彗星を発見すると自分の名前がつくことと,何年も探し続ければ,運がよければ発見できるかもしれないことで,30年くらい前にはアマチュアの天文マニアには,彗星探しがブームになりました。
いまでも,昔ながらの方法で彗星を探している人もいますが,残念ながら,現在は,大規模な天文台による捜索で,ほとんどの彗星が発見されてしまいます。
それらは,目的は単なる彗星探しでなくて,地球に接近,あるいは衝突する天体を監視する目的で大規模な捜索が行われているので,アマチュアの手が届かない暗いものまで見つけてしまいます。そうして発見した彗星は,発見した人(天文学者)の名前がつくこともありますが,多くはそのプロジェクトの名前がつけられます。
暗いうちに発見された彗星の中には地球に接近して明るくなって,アマチュアの望遠鏡,あるいは肉眼でも見られるようになるものがあります。そうした彗星に,同じ名前のものがたくさんあるのに気づくと思いますが,それは,こうした理由からです。
昔の本を探していたら,「5月の夕空に2つの大彗星が現る!」という雑誌を見つけました。この本は2004年4月1日という日付があるので,おそらくは2004年の3月に発行されたものなのでしょう。
私は,今では,この本のこともほとんど記憶にないし,この本にある大彗星というのを見たという記憶すらほとんどなかったのですが,本を読み直していくうちに,思い出したことがたくさんありました。
このふたつの大彗星というのは,ニート彗星(C/2001Q4 NEAT)(=1番目の写真)とリニア彗星(C/2002T7 LINEAR)(=2番目の写真)でした。
結論を先に言うと,このふたつの彗星は,ともに,昨年のパンスターズ彗星とアイソン彗星のように期待はずれに終わったのでした。私は,昨年とは違って,このときは,期待はずれにしらけてしまって,ほとんとこの2つの彗星を見なかったわけなのでした。
さらに,昨年,アイソン彗星が消滅した背後に,ラブジョイ彗星という思わぬ伏兵が現れたのと同じように,このときもブラッドフィールド彗星(C/2004F4 Bradfield)(=3番目の写真)という彗星が長い尾を引いて夜空を駆け抜けていったのでした。
私のアルバムをみても,このブラッドフィールド彗星の写真は一杯あるので,きっと,このときも,この伏兵を追っかけていたのに違いないのです。
この期待はずれに終わったニート彗星とリニア彗星は,彗星界の鈴木さんと佐藤さんといわれるほど同じ名前の彗星がたくさんあるのです。
実は,今もまた,別物のリニア彗星(C/2012X1 LINEAR)が明け方の東の空に見えています。
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び⑧
バッテリーパークまで歩いて行くと「STATUE OF LIBERTY IS OPEN」と書かれた横断幕があった。
そういえば,自由の女神は,しばらく補修で観覧ができなかったが,近ごろオープンしたということを思い出した。私は,生まれてはじめてアメリカをひとり旅したときにGRAYLINEのニューヨーク市内観光ツアーに参加した。それは,今となっては懐かしい思い出で,当時の情熱を,とてもうらやましく思うが,そのとき,バッテリーパークでバスを降りて,ある一定の時間が与えられて,ツアー客のそれぞれが勝手にリバティ島までフェリーで渡り,自由の女神に昇り,そしてバスに戻った。どうして,そんなことができたのか,今となっては不思議な気がする。
現在のように,これほど混雑してしまっては,それは到底無理なスケジュールであろう。しかも,そのとき,私は,自由の女神の王冠のところにある展望台まで登ることも容易にできたのだった。
今から32年も前のアメリカは,今よりも行くのが大変だったけれども,今ほど観光地も混雑しておらず,よい思い出が一杯できた。確かに,今よりも都市の治安ははるかに悪かったけれども,テロのような別の心配はほとんどなかった。
そんなわけで,私は,自由の女神もエンパイアステートビルも,今回の旅行でぜひ行ってみようというほどの気持ちはなかったが,ふと「STATUE OF LIBERTY IS OPEN」の横断幕を目にしたことから,リバティ島まで渡る気持ちになった。
チケット売り場は,思ったほど混雑しておらず,フェリーも多くの人が並んではいたが,少し待てば容易に乗ることができそうだったので,リバティ島に上陸するだけのチケットを購入した。
ただし,このチケットでは,自由の女神には昇れない。
多くの人でごったがえす桟橋に並んで,船に乗り込んだ。船から眺めたマンハッタンは,絶品であったし,32年前の記憶が昨日のように蘇ってきた。やがて,目の前に自由の女神が見えてきた。
リバティ島の外周を歩いて行くと,どんどんと自由の女神が近づいてきた。
一番近くまで来ると,道は,外周コースト自由の女神見学コースに分かれていた。私は,外周コースを1周して,再び,マンハッタンに戻る桟橋に出た。行きよりもずいぶんと多い人でごった返していてうんざりしたが,ずいぶんと並んで,どうにか船に乗ることができたのだった。
星を見るのも大変だ。-彗星は謎に包まれている。②
オールトの雲からやってきた彗星のひとつアイソン彗星(C/2012S1 ISON)が昨年11月に消滅したことは,まだ,記憶に新しい出来事です。この事件は,天文学者にたくさんの謎を残しました。
アイソン彗星が消滅したのは,彗星の核が,はじめ考えられていたよりもずっと小さくて,1.1キロメートル以下しかなかったことが原因だといわれています。
しかし,2011年に接近し,太陽を無事通過して大彗星となって,南半球の人々を歓喜させたラブジョイ彗星(C/2011W3 Lovejoy)の核はわずか直径200メートルしかありませんでした。しかも,太陽に13万キロメートルまで近づいたのにもかかわらず,無事に生き延びました。
アイソン彗星はそれよりも核は大きく,しかも,太陽には120万キロメートルまでしか近づきませんでした。
アイソン彗星崩壊の原因は,アイソン彗星の核が,他の彗星のように岩石成分と氷の成分が1:1ではなくて,氷がほとんどを占めていたのではないか,といわれています。このことは,アイソン彗星のもととなる小天体が作られた場所が,他の彗星とは違っていて,別の場所で生まれたからなのではないかと予想されています。つまり,岩石成分が豊富にある原始惑星の近くではなくて,より外側で作られたのでないか,ということです。
そこで,彗星のもととなる氷の小天体は,これまで考えられていたよりももっと広い範囲で作られたと考えられるようになりました。
アイソン彗星の消滅は,太陽系誕生の謎ときに一役かったのでした。このように,彗星は,不思議な,また,魅力ある天体です。
今年期待の彗星の中で,ダークホースは,ホームズ彗星(17P Holmes)(=写真,尾が透き通ってうしろに見えるのはこと座の環状星雲)です。この彗星は,1892年に発見されたとき増光(アウトバースト)を起こしていたのですが,前回地球に接近した2007年10月24日から25日にかけても,2日足らずの間に17等星から2等星台にまで,約40万倍も明るくなって,肉眼でも容易に見ることができるようになりました。その,ホームズ彗星が,今年,また,地球に近づくのです。
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び⑦
グランドセロは,新たなビルを建設しているところの向こう側に,「National September 11 Memorial」という広場があって,そこの中が公園になっていた。現地でもらった日本語のパンフレットには「9/11記念碑」と記されていた。
記念碑に入るには,かなり厳しいセキュリテイチェックがあった。入場料とでもいったものはなかったが,募金箱があって,それぞれが,自分の気持ちでお金を入れていた。私もお金を入れたと思うのだけれど,いくらいれたのかは覚えていない。
この中の様子は,すでに,昨年の9月11日にこのブログで書いたが,以前貿易センタービルが建っていた場所には,ふたつのプールが作られていた。「深さ30フィート」とパンフレットに書いてあった。そのプールの中央の深さ22フィートの滝に流れ落ちるようになっていた。また,そのプールの外壁には,同時多発テロで犠牲になった人たちの名前が刻まれていて,ところどころに,白いバラが挿してあった。
敷地内には,多くのスワンプ・ホワイトオークの木が植えられていた。すべてが完成すると400本以上が植えられることになるということだった。
これもすでに書いたことだが,その中に,1本だけ9/11で生き残った「サイバーツリー(生還の木)」というものがあって,それだけはマメナシの木だということであった。こうして,生き残った木は,人々の心の支えになることであろう。
この記念碑を出た所には,9/11博物館があった。
この博物館は,9/11当日の出来事や,背景,事件後の国内外の反応が記憶されていて,追悼展示が設けられているということであった。また,博物館のアトリウムには2本の鋼鉄製のトライデントが立っているのだという。その鋼鉄は今は亡きノースタワーの外観に使われていたものだそうだ。
この博物館は,入口の前に列ができていたことと,この日とても暑くてへばっていたこと,さらに,そんな疲れからこうした惨事までも見世物のように扱っていること,また,金儲けにしていること(けっこうな入場料であった)に腹を立てて中に入らなかったのであるが,今は,中に入らなかったことが悔やまれる。
新たな貿易センタービルは,このときすでに,ほぼ外観は完成していて,下の部分の完成を急いでいた。遠くからでもずっとそのビルを見ることができていた。完成すれば,新たなニューヨークの名所になることであろう。口の悪いアメリカ人は,「ANOTHER TARGET」だと言っているという物騒な話を聞いたことがある。
この日,ぜひ行きたかったところは,これで終わりだったが,それでもまだ,お昼前であったので,私は,そのまま,マンハッタン島の先端バッテリーパークまで歩いていくことにした。はじめてニューヨークに来た24歳のころを振り返っているかのようであった。
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び⑥
グラウンド・ゼロ(ground zero)とは,英語で「爆心地」を意味する語である。強大な爆弾,特に核兵器である原子爆弾や水素爆弾の爆心地を指す例が多い。
従来は広島と長崎への原爆投下爆心地や,ネバダ砂漠での世界初の核兵器実験場跡地,また核保有国で行われた地上核実験での爆心地を「グラウンド・ゼロ」とよぶのが一般的であった。しかし,アメリカ同時多発テロ事件の報道の過程で,テロの標的となったニューヨークのワールドトレードセンター(WTC)が倒壊した跡地が,広島の原爆爆心地を連想させるとして,WTCの跡地を「グラウンド・ゼロ」とアメリカのマスコミでよばれ,これが定着した。
・・・・・・
ワールドトレードセンター(世界貿易センター)は,ニューヨーク市マンハッタン区のローワー・マンハッタン(マンハッタンの南端)に位置していた商業センターであった。建設および経営にはニューヨーク・ニュージャージー港湾公社があたった。ここは「ワールドトレードセンター・コンプレックス」という5万人の勤務者と1日20万人の来館者のあるニューヨーク最大のオフィス兼商業センターであった。
コンプレックスは7つのビルによって構成されていたが,特にその中心であったツインタワーは,完成時には世界一の高さを誇り,2棟の巨大な直方体が並び立つ姿は,ニューヨーク市やマンハッタンのシンボルとなっていた。
・・・・・・
私は,これまで,2度,ここに来たことがあって,1度目は1981年,2度目は2000年であった。
1981年の時は,エレベーターで展望台まで上った。そして,2000年の時は混雑していて上るのをあきらめたが,まさか,その翌年に惨事が起こるなどとは想像もできなかった。
そして,2001年9月11日。9/11テロ(アメリカ同時多発テロ事件)によって崩壊した。
それ以降,この地は,「グラウンド・ゼロ」又は「ワールドトレードセンターサイト(跡地)」という呼び名が定着している。
私は,42ストリート駅から地下鉄Eラインに乗って,終点のワールドトレードセンター駅まで行った。そのときは,ワールドトレードセンターは倒壊したのに,どうして駅名だけ同じなのか,と不思議な気がした。考えてみれば,駅名を変える必要はないわけだから,別に不思議でもないのだけれど。
この日はすごく暑い日で,駅を出たときの日差しがきつかった。地上に出れば,すぐに目的地がわかるものだと思っていたが,例のごとく,アメリカは広すぎてどこがどうなのかよくわからなかった。ともかく,歩いていた人にグラウンド・ゼロはどちらかと聞いたら,ココがそうじゃないかという怪訝な顔をして,こっちだと方向を教えてくれた。八重洲ブックセンターあたりで東京駅はどっちだと聞いたようなものであった。
ところが,たしかに,その場所は,新しいビルを建設している場所ではあったけれど,逆方法を歩いたようで,目的地からはどんどん遠ざかってしまった。なにせ,建設現場なので,道が遮断されていたりして,思う方向に行けなかったのだった。しかたなく再び元の場所に戻って,どうにか,目指す方向を見つけた。
実際に行くまで,この場所がそのときどうなっているのか,私は知らなかった。
「かなちゃん」1週間 -モノを買わない③
買う必要のないものっていえば,スマホもそうじゃないかしら。
私は,電車とかに乗ると,みんななにやらスマホを見ているから,何してるかっていう興味があって観察しているんだけど,音楽を聴いているか,ゲームをしているか,ツイッターを見ているか,っていう人が多いわね。
そういう楽しみをするのに,高い携帯通話契約料を払ってスマホを買うっていうのが,私にはわからないわ。
いまどき,街中なら,たいてい少し探せば,フリーの wifiがあるの。たとえば,スターバックスとかね。だから,メールをチェックするとかいうのなら,スマホなんていらないわ。iPod-touch とか iPad をもっていれば十分なのよ。
もし,wifiの接続がいつも必要というのなら,wifiモデムを契約すれば,2年割引で月々2,000円も出せば,複数台接続できるわ。
携帯電話が必要なら,ガラ携を最安値で契約すれば十分なのね。
それを,スマホにして,必要もないのに,携帯回線を使ってネットなんてするから,月に1万円とか必要になるのね。でも,携帯会社はそうしてくれないと儲からないから,必要もないのに,スマホを買わせようとするわけね。
社会人ならともかくも,学生さんが月に1万円近くも毎月携帯料金に使うって,どうかしていると思うわね。
歳をとって,年金をもらうようになったとき,月に1万円っていうのが,どれだけ貴重なお金かっていうことに気づくと思うわよ。
ところで,みなさん,パケットって何か知っていますか?
パケットが何かも知らずに携帯電話を契約するって,すごいことだわ。
パケットっていうのは,128バイトの情報量のことで,128バイトっていうのは,半角文字だと128文字,全角文字だと64文字,つまり,日本語で文字だけのメールを送るとすると,メールが64文字だと1パケットっていうことになるわけね。その1パケットが税込で0.324円らしいんだけど,それって安いって思いますか?
確かに,文字データなら大したことないけれど,画像やら音楽やら,まして,動画になるとデータ量は膨大なものになるのね。メールで絵文字なんて付けて送れば,絵文字1つの方が長い長い文章よりもずっとデータ量は多くなるってみんなわかっていないみたいだし。
実際計算してみると,5分くらいの音楽をダウンロードすると6,000円,動画をダウンロードすると1,700,000円かかるのよ! もし,パケ放題っていうのがなければ,その値段は車1台分なのよ。
星を見るのも大変だ。-彗星は謎に包まれている。①
今年は,残念ながら,いまのところ,特に主だった大彗星の予報はありません。
それでも,今年の3月13日に,ブラジルのSONEAR天文台で発見されたジャック彗星(C/2014E2 Jacques)が7月に太陽に接近中で,8等星まで明るくなるといわれています(=1番目の写真)。
また,先日,ブログに書きましたように,明るくなった昨年のものとは別物のパンスターズ彗星(C/2012K1 PanSTARRS)が8月末には5等星くらいになって,双眼鏡で見ることができるかもしれません(=2番目の写真)。
池谷・関彗星,百武彗星,ヘールボップ彗星,マックノート彗星,ラブジョイ彗星,アイソン彗星など,太陽系の果てに球形に存在しているといわれている「オールトの雲」からきた彗星は,これまでに3,000個ほど確認されていますが,彗星の中に高温で生成されるカンラン石が存在していることが,これまで謎でした。
このことは,現在では,次のように説明されています。
・・・・・・
太陽系の誕生した46億年前には,チリやガスが太陽の周りをまわっていました。そのころ,地球などの惑星ができたのですが,惑星に取り込まれなかったチリには,太陽の近くで高温のカンラン石ができました。それらに,外向きの流れが起こり,やがて,外へ外へと押し出されて,太陽から離れ,冷えて,その周りに氷ができました。それらが,現在の彗星のもととなる小天体なのです。
・・・・・・
では,どのようにして,それらがオールトの雲となったのでしょうか。
・・・・・・
太陽系の誕生したその5億年後,木星と土星が同じタイミングで接近を繰り返すようになりました。そして,共鳴が起きたのです。その結果,質量の小さい土星が外側に押し出されるようになりました。
そのために,さらに,その外側を回っていた海王星と天王星が押し出されて,より強く影響を受けた海王星は天王星の軌道を飛び越え,さらに外側に移動しました。
移動する三つの惑星は,無数の彗星のもととなった小天体の中に突っ込んでいきました。彗星のもととなった小天体は,近づきすぎたものは惑星に飲み込まれまれてしまいましたが,たまたま程よい距離にあったものは,惑星の重力の力で遠くに飛ばされたのです。それが,現在のオールトの雲となったというわけなのです。
・・・・・・
つまり,太陽系誕生初期に起きた惑星大移動で太陽系の果てへと弾き飛ばされたのが,現在の彗星のもととなる小天体,だから,そこから太陽に接近してくる彗星の核の中に高温のカンラン石があるというわけです。
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び⑤
イントレピッド海上航空宇宙博物館をあとにして,次は,グランドゼロである。
特に急ぐこともないので,私は,ブロードウェイまで歩いて行った。
途中には,日本料理店やらベトナム料理店やらがあって,ランチ$11.99といった看板が出ていた。
ブロードウェイまではさほど遠くなく,まもなくミュージカル街が見えてきた。お昼間のブロードウェイのミュージカルホール街は閑散としていたが,私は,有名なミュージカルをやっているいろんな劇場を外から見て回ることにした。
なんといっても,この年の話題は,「マチルダ」と「キンキーブーツ」であったので,ぜひ,それを上演している劇場を見ようと思った。昨日見た「シカゴ」とか「オペラ座の怪人」とかを上演している劇場はすぐにみつかるのに,「キンキーブーツ」をやっている劇場が見つからない。ブロードウェイのミュージカルに関するグッズを売っているショップを見つけたので,中に入って,その劇場の場所を聞いた。こんなことを聞く人がいるのかしら,と思ったが,気持ちよく教えてくれたので,念願かなって,その劇場を見ることができた。
それにしても,ミュージカル大好き人間がニューヨークに来たら大変なことになると思った。これだけのミュージカルを毎晩上演しているのだ。それも,チケットは半端な金額ではない。
景気が悪いだとか,アメリカには往年の勢いがないだとか,世間はいろいろいうけれども,MLBにせよ,クラシック音楽にせよ,ミュージカルにせよ,これだけのものを毎晩楽しめる国が他にあるだろうか。
それに,一歩外に出れば,大平原や,奇想天外な風景やらが延々と続いている。
やはり,すごい国だ。ただし,よく考えてみると,アメリカに生まれたからといって,それほど国内の旅行ができるわけでもなく,ミュージカルが見られるわけでもないから,旅人の特権なのであろう。
しかし,私のまわりにも,ほとんど行ったことがないのに,アメリカへ行かず嫌いが少なからずいる。これだけのエンターテイメントとワイドビューを味わえる国は他にはない。私は,ヨーロッパにもオーストラリアにもロシアにも行ったことがあるけれど,アメリカのこのダイナミックな魅力を知らずしてアメリカ嫌いを自認する人を哀れに思ってしまう。
どうか,団体ツアーでの観光旅行でなく,一度,その足で,アメリカを味わってみてください!
九州で日本人について考えた-鹿児島から④
では,このことを別の面から考えてみると,その地に何の縁もゆかりもない大名が,国替えによって配属されているわけだから,そこに配置された大名を,もし,自分がその大名であったという立場で考えてみると,それはそれでまたたいへんなことです。そこで,その大名の能力が如実に明らかになります。
たとえば,土佐の山内家は,こうした土着の武民を統制できなかったために徹底的に冷遇しました。
このことは,現代でも,突然,その組織に,これまで縁もゆかりもない上司が現れるという状況と同様な話です。それは,お互いに迷惑で不幸なことなのです。
しかし,これが合理的でないということすらわからない人がほとんどであるのも,やはり,この国のおかしなところなのです。
そして,そういった不合理さを棚に上げて,「そこを何とか頑張ることが大切だ」と,そう強いるわけで。
このことは,バイオリニストがとつぜんフルートを演奏しろと言われてもできないのと同様なのですが,それを精神論でなんとかせよ,というようなものなのです。
そもそも,この国では,大臣というのが,その道の専門家でない。素人が地位だけ手に入れて,上司づらをするのだから,そこで働く人は大変です。
この国は,根本的に,専門家というものをリスペクトしていない,だから,医者以外の仕事は,どんな大学のどんな学部を出ていようと関係がない,すべてが素人集団なのです。つまり,この国は,素人が専門家を支配しているということなのです。そして,有識者とかいうよくわからない人たちを集めてそれにお墨付きを与える…。
いったい,有識者ってなんなんでしょうか?
民主主義だと言いながら,国民が首相を選んでいるわけでもないのに,ところが,首相は何を勘違いしたのか,国民が自分を選んだと勘違いをして,国民が望んでもいないことを独断で専攻する…。
役人はそれなりのプロなのに,その上に立つ大臣が素人だから,その地位として言うことに従っていても,だれも,その地位にある人を尊敬していない。それは,江戸時代も今も全く変わりがない。
将軍は家柄さえあれば4歳でもなれるわけなのです。
ひょっとしたら,この国で,一見,封建制度のように見えて,もっとも実力社会なのが相撲界なのかもしれません。頂点(横綱)には,実力があれば,誰でもなれるから。
鹿児島について書こうとはじめたのに,どんどんと話が変わってしまいました。
鹿児島は,とてもよいところです。住んでみたいなあ,とも思いました。
でも,この幕末と,そして,太平洋戦争の,たとえば特攻機地になってしまった知覧ような地の抱えた過去の歴史を思い出してしまうので,私には,荷の思いところでした。
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び④
夏休みということもあって,そろいのTシャツを着た小学生やら,観光客やらで,ゲート付近は結構な賑わいであった。しかし,チケット売り場の列が掃けるにはそれほど時間がかからず,館内に入ることができた。
まず,イントレピッドの最上階のフライトデッキまでエレベーターで上がった。
フライトデッキの一番奥に,7月10日にオープンしたばかりのスペースシャトルパビリオンという体育館を巨大にした建物があって,その中に,スペースシャトルが鎮座していた。私はもっと混雑を予想していたが,拍子抜けであった。それでも,機体に書かれたさまざまな表示やら,緊急脱出用の機器やらが妙に生々しかった。
スペースシャトル(Space Shuttle)は,当初は通常のロケットより1回あたりの飛行コストを安くできるという見込みでこの計画がスタートし製造されたのだが,実際の運用でチャレンジャーが爆発事故を起こしたり,コロンビアが帰還途中で空中崩壊したりと,発生した事故に対する安全対策が必要になって,当初の予想より保守費用が大きくなっていって,使い捨てロケットよりもかえって高くつくものになっってしまったので,2011年7月の飛行をもって退役した。
私は,第1回目の飛行のとき,ほんとうに宇宙船がグライダーのように着陸することが信じられず,深夜にテレビで着陸の中継を見て感動したことを覚えている。
一度は打ち上げを自分の目で見たかったが,それはかなわなかった。
スペースシャトルは確かにでかかったが,この国のスケールでは,何の驚きもなかった。なにか,おもちゃのようであった。確かに,このニューヨークに展示されているスペースシャトルも実際のスペースシャトルには違いがないのだが,地球を周回したものではないので,その分,リアルさに欠けた。
私は,できれば,将来,ワシントンかフロリダで,実際に地球を周回した本物を見たいと思った。特に,フロリダにあるアトランティスは,テレビのある番組で見たところ,飛んでいるような状態で展示がされているようで,ぜひ一度は見てみたいと思っている。
空いていたこともあって,このパビリオンで,スペースシャトルを前から後ろから横から,と,思う存分眺めることができた。小さそうではあるが,写真を写すと,広角のレンズで画角が一杯であった。私は,スペースシャトルと「セルフィー」しようと,スタッフに写真を撮ってくれるように頼んで,シャトルの前に立っていたら,ちょうど子供が通りかかったので,私は,その子供も招き入れて,一緒に写真を写した。
このパビリオンには,そのほかにも,ソユーズ宇宙船やら,スペースシャトルの説明やらといった展示品があって,このままもってくれば,なにかの国際博覧会の展示そのものにできそうであった。
そんなふうにして,のんびりとスペースシャトルを堪能して,パビリオンから外に出た。
フライトデッキからはナビゲーションブリッジにも狭い階段で上がることができた。そこは,イントレピッドの操縦室であった。これまでいろいろと見た船の操縦室と同じようなものであった。
それ以外にも,フライトデッキには,いろいろな戦闘機が展示してあった。私は,さほど,飛行機には興味がないのでよくわからないけれど,マニアにはたまらない展示に違いないであろう。
そのあと,階下のギャラリーデッキ,ハンガーデッキ,そして,一番下のサードデッキと見学した。ハンガーデッキにも,数多くの飛行機や,マーキュリー宇宙船(これはレプリカ)などが展示してあった。
それにしても,この国の博物館というのは,どこもスケールが違うし,展示してあるものの量が違う。これで,私は,ますます,日本の博物館にはいかなくなってしまうのであろう。
九州で日本人について考えた-鹿児島から③
ところで話は変わりますが,1月2日に「1914幻の東京~よみがえるモダン都市~」という番組を見ました。その番組の中で,明治時代に作られた旧国鉄の東京駅には八重洲口がなかったということをいっていました。この駅は,皇居に面した丸の内だけが入口で,その中央は天皇のための入口であったということでした。
前にも書いたように,ずっと今も昔も,大衆など人とも思っていないというのがこの国の本質です。そして,実際は,その人とも思われていない大衆が,なぜか,権力者に対して非常に物わかりがいい,それだけならともかくも,人々は人とも思われていない大衆であるにもかかわらず,権力者に声援を送り,意を唱えれれば,非国民扱いをする,という本質は,今も昔も,何ら変わっていないわけです。
私には,難しくてそれ以上のことは書く能力がありませんが,ただ,言えるのは,こうした意識の根底こそ,いつの時代も,この国からある種の明るさを奪っている原因だということです。
この,人を人と思わぬ,つまり,人権という概念の欠如がなしているということが,この国の特質なのです。それは,民主主義のふりをして,国民の意見を聞かぬ政治家しかり,仕事上の上下関係はあくまでビジネス上のものであるのに,その認識のない上司しかり,教師は学問を教えることに対して教師であって,教師なら生徒に体罰をしたり,ぞんざいな言葉を使ってもいいということとは違うということさえ理解していない教育者しかり,です。
そのことを,この国の歴史のあり方から考えるなら,徳川政権が大名をどのように配置したかということについて徹底的に考えてみると面白いと思います。
そもそも,「国替え」といって,将棋の駒のように,大名を再配置することは,あくまで,徳川政権を守るということがすべてという前提で行われたことであって,国のことはもちろん,そこに住む人(=大衆)のことなど全く考えていないということなのです。そんな制度では,幕末の国難時に,諸外国に対抗できようもないわけです。
つまり,国替えという徳川家を守るというだけのための施政で,この国は作られていたわけです。
みずからの政権を守るためだけに国民を統制しているというのは,現代のどこかの国と変わりはありません。
江戸時代の日本は,本質的に国として成り立っていないわけだから,幕末の動乱のそものそもの原因は,江戸幕府の成立にさかのぼる必要があることになります。だから,明治維新に,諸外国と対抗できうる国を作るために,あれだけの犠牲が必要になってしまったのだといえなくもありません。
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び③
地下鉄に乗って,マンハッタンに向かった。
この日,特に見たいところは,スペースシャトルとグランドゼロであった。それ以外は,特に決めていなかった。
・・・・・・
スペースシャトル(Space Shuttle)は,アメリカ航空宇宙局(NASA)が1981年から2011年にかけて135回打ち上げた再使用をコンセプトに含んだ有人宇宙船である。飛行可能な機体は最終的には6機製造された。
初号機の「エンタープライズ」は,宇宙に行けるようには作られてはおらず,もっぱら滑空試験のためのみに使用されたので,実用化されたのは,「コロンビア」「チャレンジャー」「ディスカバリー」「アトランティス」「エンデバー」の5機である。
当初は,「エンタープライズ」も進入着陸試験が終了した後に実用機として改造される予定だったが,構造試験のために製造されたSTA-099を「チャレンジャー」に改造したほうが安上がりだと判断された。その「チャレンジャー」は1986年,発射から73秒後に爆発事故を起こして機体が失われてしまったために,機体構造の予備品として残っていたものを集めて,新たに「エンデバー」が製作された。また,「コロンビア」も,2003年に空中分解事故を起こして消滅してしまった。
退役後は,現在,「ディスカバリー」はワシントンのスミソニアン博物館の国立航空宇宙博物館別館,「アトランティス」はフロリダ州のケネディ宇宙センターの見学者用施設,「エンデバー」はロサンゼルスのカリフォルニア科学センターに展示されている。
「エンタープライズ」は,長年ワシントンの国立航空宇宙博物館別館に展示されていたが,すべてのスペースシャトルが退役したことで,「ディスカバリー」がこれに変わって展示されたために,現在,ここニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に展示されたというわけである。
・・・・・・
1982年に開館したイントレピッド海上航空宇宙博物館(Intrepid Sea-Air-Space Museum)は,アメリカ海軍で使用されていた航空母艦「イントレピッド」を利用したもので,ここでは,艦船や航空機の展示を行っている。
ニューヨークのマンハッタン西岸・86番桟橋にあって,イントレピッド財団が運営を行っている。
空母「イントレピッド」は博物館の本館で,飛行甲板上には各種航空機が展示されている。
・・・・・・
退役後の空母「イントレピッド」を博物館として再利用されることが1982年8月に決定されると,船体はニューヨーク市マンハッタン中心部西46番通りの西端でハドソン川に張り出している86番桟橋に係留されて,イントレピッド海上航空宇宙博物館として生まれ変わり,多くの観光客を集めるマンハッタンの名所のひとつとなった。
しかし,築80年以上になるこの桟橋は老朽化が著しくて,構造強度の劣化から崩壊の可能性が指摘されると,2006年に,この桟橋を近代的なものに改築するのと同時に,イントレピッドにも補修改修工事を施すために,ハドソン川を約8キロメートル下ったニュージャージー州ベイヨンのドライドックへ一時移動させることになった。
ところが,24年間に堆積していた土砂にスクリューがとられて,離岸直後に座礁してしまった。
詳細な調査を行ったところ,もう少し堆積土砂を撤去すれば次の大潮満潮時に離礁させることが可能という結論に至って,ともかく,12月5日に離礁に成功した。
こうして,「イントレピッド」は,飛行甲板の修理,未公開エリアの整備,外装の再塗装などの補修改修工事が施されて,2008年秋に,新築成った86番桟橋に無事戻されて,博物館として再オープンした。
そして,2012年,スペースシャトル1号機「エンタープライズ」がイントレピッド海上航空宇宙博物館で展示された。
・・・・・・
イントレピッド海上航空宇宙博物館は最寄の地下鉄の駅がない。私は,50ストリート駅で降りて,そこから,のんびりと西に4ブロック歩いていった。
マンハッタンも,この辺りは観光地でないので,東京の錦糸町を歩いているようなものであった。
考えてみれば,この辺りは,あの,かの有名な「WEST SIDE」である。ここも,昔は,決して治安の良いところではなかった。それがなんという変わり方であろうか。
やがて,イントレピッド海上航空宇宙博物館が見えてきた。
☆ミミミ
日本はゴールデンウィーク。私も,若い頃はいろいろな所へ出かけたものですが,どこも混んでいて,結局,行く所はない,という結論になりました。あえて言うなら,海外,それも,日本人の行かない所なら。
というわけで,私の休日は天体写真撮影三昧です。満天の星を見て,夜明けのドライブ。自宅に帰ってコーヒーを味わうのは,最高の贅沢です。でも,今の季節は,午前4時にはもう東の空は明るくなります。
現在,北西の空,北斗七星のあたりに,パンスターズ彗星(C/2012K1 PanSTARRS)が見えています。これは,昨年明るくなったパンスターズ彗星とは別物で,この夏に5等星くらいに明るくなるといわれています。現在は9等星くらいですが,今日の朝は,M51・子持ち星雲に接近しました。写真を写しましたので,ご覧ください。左上がM51,右下がパンスターズ彗星です。
「かなちゃん」1週間-モノを買わない②
おじいちゃんは、このところ、もっているものを片づけようと一生懸命なんだけど、いくら片づけても減らないのが本だってぼやいているわ。
本って、辞書とかは別として、2度、3度って読むものって、ほとんどないよね。だけど、買ってしまうと捨てられない。そんなものの典型じゃないかしら。それでも、今は、ブックオフみたいなお店があるから、簡単に売ることもできるけれど、でも、どんどんとたまっていってしまうのね。そして、いざ、売ってしまうと、ある日、それを後悔したり、なかなか難しいものね。
日本のように狭いおうちに住んでいると、本の占める場所も馬鹿にはならないし。
辞書だって,近頃は,インターネット上の情報で事足りるわ。
私は、小説なら、人より早く買ってすぐに読み終えて、値がつくうちにブックオフに売ってしまうか、図書館に予約を入れて、のんびり待つのがいいと思うわ。どうせ、2回読まないだろうし。
全集みたいなものを個人が買うっていうのも、後々大変ね。これは、全巻集めないと意味がないから、そのうちに、買うことが義務みたいになってきて、で、最後に、その処分に困ることになるのね。だから、ぜったい買ってはいけないわ。
雑誌の類は、読んだらすぐに処分した方がいいわね。とっておくと後が大変よ。
今は、アメリカで出版されている雑誌はほとんどが電子書籍になっているから、私はそれで読んでいるわ。購読してるのは,TIMEとSKY&TELESCOPEなの。iPad で読んでいるんだけど,便利よ。でも、まだ、日本の雑誌はそうなっていないものも多いから、私は、日本の雑誌は読まないと決めているの。
そうそう,雑誌といえば,近頃の雑誌って,読むに堪えないわね。週刊ポストとか週刊現代は言うに及ばず,週刊新潮も週刊文春も,新聞の広告を見るだけで,立ち読みする気すら起きないわ。
どうして,こう,日本のジャーナリズムって,どうしようもないのかしら。たとえば,STAP細胞の記事だって,それを書いている記者の何人が論文を読んでいるんだろう,って思ってしまう。こうした雑誌を書いている人は,自分の子供にお父さん・お母さんはこうした記事を書く仕事をしてるよ,って胸を張って言えるかしら。
本は,電子書籍や,図書館を有効に利用するに限るわね。
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び②
こんな朝早く,ホテルのシャトルバスに乗ったのは,私しかいなかった。すぐにホテルに到着した。すぐに,といっても,歩いていけるような距離ではない。ホテルのフロントで,予約をしてあることを告げた。予約してあったホテル,ベスト・ウェスタン・ケネディ・エアポートは,普通の全国チェーンのホテルで,別に高級ホテルでもないのだが,ブルックリンのひなびたホテルにいた私には,天国に思えた。フロントには,過剰警戒のガラスの覆いなどないし,高級感が満ち溢れていた。むしろ,マンハッタンの中心にあるペンシルベニアホテルのほうが,ずっとおんぼろに見えた。
ホテルでは,別段,チェックインはまだだとか言われず,フロントの係は首をかしげながらコンピュータの画面とにらめっとをしていたが,なんとか部屋が確保できて,私は,カバンの置き場所と今晩の寝場所を確保するのに成功した。フロントの係は,日本から来たのか? おれも居たことがある,と言った。私は「アーミーか」と聞いたら,彼は,「ネイビー」だと答えた。
部屋は広く,デラックスであった。心置きなくネットも使えそうであった。専用のパスワードがあって,チェックインのときにそれを教えてくれた。部屋に荷物を置き,いよいよきょうのニューヨーク観光である。特に,細かな予定は立てていなかったが,ぜひ行きたかったのは,スペースシャトルの本物を見ることであった。そのあとで,グランドゼロへ行こうと思った。
再び,ホテルからシャトルバスに乗り込んだ。朝早かったので,ホテルをチェックアウトしてそのまま空港に向かう人で,そこそこにバスは混んでいた。私は,このバスで空港のターミナルまで行って,そこからエアトレインでジャマイカ・センターまで行って,地下鉄に乗り換える必要があった。ここはアメリカだ。私は,地下鉄に乗るのだが,と言ってバスに乗り込んだが,バスの運転手は,このバスはターミナルまでしか行かないがそれでいいか,と聞いた。もちろん私は承知で乗り込んだが,おそらく日本でこういう状況であれば,シャトルバスはジャマイカ・センターまでのサービスがあることだろう。
すでに書いたように,このように,空港に近いホテルというのは,便利なようで便利でない。
バスは,それぞれの客の乗る航空会社のターミナルをめぐっていった。
アメリカでは,航空会社によってターミナルが違うし,それぞれがものすごく離れているので,こうしたときに,どの会社の飛行機に乗るかと聞かれるから,アメリカを個人旅行する人は戸惑わないようにしてください。
私は,シャトルバスに乗った私以外のすべての客を降ろした最後になった。
やがて,私の降りる一番ジャマイカセンターに近いエアトレインのターミナルに着いた。なんだか,私のために余分に走ってもらったような悪い気になったので,降りるときに運転手にチップをあげた。本当はあげる必要はない。シャトルバスの運転手にチップをあげるのは,重い荷物を運んでもらったときである。だから,運転手は,ちょっとびっくりしていた。
ともあれ,このターミナルでエア・トレインに乗って,地下鉄の乗換駅であるジャマイカ・センターに着いた。
この駅にカフェテリアがあるのは知っていたので,そこで朝食をとった。
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び①
☆10日目 7月29日(月)
ついに,最終日になった。
実際は,あと2日あるのだが,あすは,早朝,帰国便に乗るだけである。そして,機内で日付変更線を越えるので,あっという間に1日が過ぎてしまう…。
ということで,あすの早朝に空港に到着するために,今晩は,空港の近くのホテルに泊まることにした。
今回の旅行で行ったボストンやニューヨークは,ホテルの宿泊代が異常に高い。私は,ずっとアメリカの田舎を旅行していたものだから,アメリカのホテルの宿泊代がこれほど高価だとは思っていなかった。それで,ニューヨークでも,ブルックリンにホテルを予約したのだけれども,その結果,これまでに書いたように,かなりスリルのある事件が起きた。しかし,慣れてみると,この方がずっとおもしろかった。
ともあれ,少し高価であったが,最終日は,ホテルを変わることになった。ここで少し不安だったのが,早朝,今晩泊るホテルに行っても,そんなに早くチェックインできるかということであった。チェックインできなければ,カバンを預けなければ,きょう一日身動きができない。そういえは,日本の観光地で,アジア人と思しき観光客が,大きなトランクを引きながら観光をしているに出会う。トランクなど預ければいいのに,と思うのだが,きっと,朝,ホテルをチェックアウトして,その日の夕刻帰途に着くのであろう。そして,その間の荷物の処遇に困っているのであろう。
まあ,どうにでもなるわい,と思い,早朝,異常に早い時間に,ブルックリンのホテルをチェックアウトした。時間は覚えていないが,おそらく,6時前であったろう。何度も書くが,東京で,ホテルに泊まって早朝にチェックアウトをして地下鉄やJRに乗るのと,ほとんど違いはない。昨晩,夜景ツアーに参加した時に,他の参加者に,ニューヨークをひとりで旅しているのにかなり驚かれたが,別段,それほどのことでもない。
地下鉄Lラインのホージー・ストリート駅から早朝のほとんど人がいない地下鉄に乗り込んで3駅。地下鉄は地上に出て,ブロードウェイ・ジャンクションという駅に着いた。ここで,JラインかZラインに乗り換えるのである。写真でわかるように,品川あたりの京阪急行のような駅である。
ニューヨークに着いた初めの日にわけがわからなくなった因縁のラインである。ホームからの夜明けが美しかった。時刻は朝の6時19分であった。Jラインの電車が来たので乗り込んで,ブルックリンの景色を眺めながら9駅くらいであろうか,ジャマイカ・センターの駅に到着した。ここから,エア・トレインに乗り換えて,とりあえず,ジョン・F・ケネディ国際空港へ行く。そして,ホテルのシャトルバスの停まるターミナルまで行かなくてはならなかった。
以前書いたように,これは,非常にばかげたことだったのである。ジャマイカ・センターの駅近くの徒歩圏内にもいくつかホテルがあって,そこに予約してあれば,ホテルのシャトルバスなど使わなくともエア・トレインで空港にも行けるし,地下鉄でマンハッタンにも行けたのである。それを,わざわざ,エア・トレインに乗り,空港に行って,そこからホテルのシャトルバスに乗り,ホテルに行って,チェックインをして,ふたたび,ホテルのシャトルバスでエア・トレインの駅まで行って,さらに,エア・トレインでジャマイカ・センターの駅まで行かなければ,地下鉄に乗れないのであった。
このときは,すでに,ホテルの予約をしてあったので,やむをえず,このような不便なアクセスをとるしかなかった。
これから旅行をする人は,ぜひ,このことを参考にして,ジャマイカセンターにホテルを予約してください。
ともかく,空港のシャトルバスのターミナル駅についた。案内に,ホテルの名前を行って,場所を尋ねたら,エスカレータを降りろと言われた。そこは,ホテルのシャトルバスをよぶ電話のある場所であった。
ホテルに電話をして,シャトルバスをよんだ。ターミナルで待っていると,バスが来たので乗り込んだ。運転席の横には,もらったチップであろう小銭が山と積まれていて,こうしたシャトルバスは,降りるときにチップがいるのかしらん,と,私はわけがわからなくなったのだった。