暑い毎日です。こうした日本の暑い夏には,すずしく快適なアメリカの片田舎を思い出します。
アメリカを旅行すると,町もきれいだし,いろいろな施設も,比べものにならないほど,充実しています。美術館や博物館も立派で,入場料も安く,お年寄りがのんびりと人生を楽しんでいる様子を見かけます。
正直,私はうらやましいです。
子供たちも,夏休みは,宿題やら,つまらないプリント学習をするための塾通いをするのでなく,スクールバスで,こうした施設にやってきます。
私は,きっと,アメリカは日本よりも国家予算がすごく多いに違いないと思って,日本とアメリカの国家予算を比較してみました。
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2012年のデータによると,アメリカは,歳入が2兆4,650億ドルで,歳出は3兆6,490億ドル,一方,日本は,歳入が2兆250億ドルで,歳出は2兆5,700億ドルでした。
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人口は,アメリカが3億1,400万人で,日本は1億2,700万人だから,なんと,1人当たりの予算は,アメリカの方が少なかったわけです。ただし,アメリカは,州政府の力が大きいので,単純な比較はできませんけれど。
でも,これには,驚きました。
では,この歳出に占める社会保障費の割合はというと,アメリカは40.6パーセント,日本は29.2パーセントでした。その中で,アメリカでは,65歳以上の医療保険料に国家予算の13パーセントに当たる4,850億ドルが使われていました。
アメリカは,軍事大国で,軍事費の占める割合は米国23.7パーセントもあって,日本の5.2パーセントとは比較にならないから,社会保障費は低いのだろうと思っていたのですが,それにもかかわらずでした。
では,アメリカの生活費はどうでしょうか。
食料や電気料金は日本の2分の1以下です。さらに,はがきは24セント,封書は39セント,電車やバスの運賃も日本の2分の1以下で,障害者や年寄りは運賃もさらに格安になります。その上,さらに,アメリカではほどんと無料なのに,ものすごく高い高速道路料金や,車検証明書,運転免許更新手数料,電源開発促進税など,日本では,法律で義務化された様々な費用がたくさんあります。
生活保護に関しても,日本は驚くほど低レベルで,日本では,給付総額は少なく,保護されている人も少ないのです。公的扶助総額は,GDP比で,アメリカは3.7パーセント,日本は0.3パーセント,また,生活保護を与えられている人数の総人口比は,アメリカは10.0パーセントに対して,日本はたった0.7パーセントなのです。
それに加えて,アメリカでは,65歳以上の医療保険料は国家予算の10パーセントを占めていて,低所得者医療補助金が6パーセントで,合計16パーセントを国が負担しています。また,予防ワクチンの15種が全て無料なのです。日本は5種のみ無料で他は3千円から数万円かかります。
では,誰が税金を払っているかというと,直間比率といって,個人所得課税負担率÷消費課税負担率を比べると,アメリカは2.03,日本は1.10となっています。
つまり,日本では金持ちに対する税金が低いわけです。
このように,日本という国は「低福祉高負担」なのです。
実際,負担率を比較すると,国民負担率は,アメリカは34.5パーセントで日本40.1パーセントとなっています。消費税を増やすよりも,むしろ,所得税増と資産課税増が筋なのです。
また,アメリカの税制というのは,低所得者には極めて温情的です。課税最低限は日本より高いのに,課税最低限以下の勤労者全員に現金が支給されます。
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このように,日本は,国民が主権といいながらも,実は,見せかけの民主主義で,江戸時代と同じ「御上」の国なのです。だから,こういうことが平気で行われているのですが,国民は,実は,搾取される被害者なのに,物わかりがよく,多くの人はそうした政治を支持しちゃったりしています。
ちなみに,アメリカの地方議会は夜開き,また,多くのサラリーマンは残業もないので,普通のサラリーマンでも議員になれるし,傍聴者は誰でも3分間の質問が出来ます。「欧米なみ」というのなら,せめて,こういうことから欧米並みにしてもらいたいものだと,私は思います。
こんなことを考えていたら,余計に暑くなってきました。私も,そろそろ,この夏の旅の支度をはじめるとしますか…。
July 2014
2014春アメリカ旅行記-いざ,ニューメキシコ⑧
忙しそうではあったが,すぐに私の食事を作りはじめたようであった。焼きそばを頼んだのに,チャーハンもつけるかというので,そうしてくれと言ったのが間違いであった。
出てきたのは,およそ私の想像の10倍の量のあるチャーハンの上に焼きそばののった代物であった。しかも,この店はめちゃ安で,これだけの量で600円ほどであった。きっと,5人いてもこれで大丈夫であろう。
この店が人気がある理由がこれでわかった。1人分を買って家で食べれば,アメリカ人とはいえ,家族全員が満腹になるであろう。私にはとても食べきれる量ではなかった。
勇んでたべはじめたが,お腹がいっぱいになっても,まだ,はじめと量がほとんど変わらないほどであった。あとは,お持ち帰りにしたが,持って帰っても,それからどうすればよいのであろうか。
結局,私は,この持って帰った大量の食事をどうすることもできず,手をつける気にもならず,翌朝出発するときに,ホテルにそっと置き去りにした。
すでに書いたように,ロズウェルに着いたのは夜の6時だと思っていたのだが,テキサス州とニューメキシコ州には時差があって,実際はまだ,午後5時なのであった。
この店に客がいなかったのは,そうしたことも原因であったのかもしれない。
まあ,いずれにしても,全くグルメでない私には,日本であれアメリカであれ,こうしたよくわからない店で夕食をとることは,決して嫌いではない。
食事を終えても,まだ,夜が長そうであったので,ロズウェルの町を少しドライブした。
まず,UFO博物館へ行った。メインストリートに面していて,周りにも,UFOのちんけなおもちゃやらを売っている店があった。駐車場はなかったが,この町も,メインストリートの道路に沿って,ちゃんと駐車帯が設けられていた。博物館はすでに閉館していたので,入口あたりで写真を写した。
翌日,ニューメキシコ州のサンタフェを観光した帰りに再びロズウェルに戻って,この博物館に入ることになったのだが,この時は,そうなるとは思っていなかったので,せっかくロズウェルに来たのに,博物館を見ることもなかったなあ,と思いながら写真を写したのだった。
そうこうしているうちに,30年近く前に,知人の娘さんが,高校生のときにこのロズウェルに留学していたことを思い出した。きっと,この町には,高校はひとつしかないであろうから,探すのは容易なことに思えた。
調べてみると,町の南西の住宅街の一角にその高校があることがわかったので,行ってみた。
そこは,アメリカらしい広い広い高校であった。
ドラマ「Roswell」に出てきたのも,この高校なのではなかろうか…。
当然,もう夜だったので,中に入ることはできなかったが,観客席のある野球場とか陸上競技場など,アメリカの高校だなあ,と思った。学校は,広く美しく,日本の比ではなかった。もし自分が高校生だったら,こうした異国の高校に通うというのはどういったものなのだろう,と想像した。言葉の問題,文化の問題など,けっこう大変そうだなあ,と思った。
私は,日本であれ,アメリカであれ,高校生活など,もう,二度とやりたくないが,それでも,日本の受験勉強に特化したほぼ無意味な高校の勉強に比べれば,アメリの高校の方がはるかにマシに思える。
高校のまわりは,静かな住宅街であった。
本当にこんな町に一度住んでみたいと思ったものだった。
「国盗り物語」と「軍師官兵衛」-続・中国大返し
私は,日曜日は,久しぶりの快晴で,星を見に行ってしまったので,録画した大河ドラマを見たのは,明け方のことでした。ということで,1日遅れの感想です。
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「軍師官兵衛」の中国大返しは,予想以上におもしろいものでした さまざまな逸話も描かれていたし,心理描写も,それなりに納得いくものでした。
そういえば,秀吉が明日の出陣は日柄が悪いというのを逆手にとって,兵を鼓舞するという逸話は,知っていましたけれど,私は,すっかり忘れていました。
私の読んだ何だったか忘れたけど,その物語には,さらに,姫路に着いた秀吉は,素っ裸になって湯を浴びて,その場で剃髪して,自分はこれで仏になったから失うものはない,といって,姫路城にあった金銀財宝を残らず兵にわけ与えた,とあったのですが,なるほど,このシーンは,どういう風に描いても絵になります。
やはり,この国の歴史を物語にするなら,このシーンと,幕末の鳥羽伏見の戦いで錦の御旗を掲げたことで慶喜が賊軍になる,というこのふたつに尽きます。日本人は,こういうの好きです。
いずれにしても「勝てば官軍」とはよくいったもので,歴史は結果からみて,勝利者になれば,勝利者のそれまでの行動が正解になるというだけの話であって,山崎の戦いで勝利した秀吉が偉いというよりも,偶然うまくいったからこそ,こうした中国大返しの物語が生まれたと考えた方が正しいのでしょう。
きっと,敗者だって,負けようとして負けたわけではないから,もし結果が逆であれば,それなりにまた,別の物語が語りつがれたに違いないわけです。
私は,そんなことよりも,この中国大返しから山崎の戦いまでの一連の出来事で,秀吉が天下取りに乗り出したことが,この後の日本の歴史に,もっと大きくいえば,現代の日本人にとって,本当によかったことなのかな,ということを考えてしまいます。秀吉は,その後,朝鮮半島に侵略戦争を仕掛けたわけですから。
こういった,「もしも」は,歴史の転換期すべてにいえることです。
私は,きっと,最も現代社会に影響力をもった歴史の転換期というのは,徳川幕府の成立なのだと思います。この,徳川幕府というのが,現代の日本人の価値観やら,社会制度に,ものすごい影響力を与えているのだと思うからです。
以前書いたように,幕末の動乱だって,徳川幕府の体制が多分にその根底にあるのだろうし,太平洋戦争だって,明治維新という初期値を運動方程式に当てはめた結果にすぎないと私は思っています。さらに,現代の,民主主義に名を借りた「御上」国家日本のお手本は江戸幕府にあるわけです。
ところで,「軍師官兵衛」では,姫路に帰った官兵衛が妻に会わない,とかいうシーンがありました。そのことも,とても日本人らしい発想であって,その逆に,長浜に帰っておねと再会した秀吉の姿なんて,きわめて秀吉的,というように描かれていたのでしょうが,あれは,日本人的ではありません。
それにしても残念だったのは,明智光秀の妻や子の苦悩が描かれていなかったことです。
どうも,この物語には,敗者側の心というか,光秀の描き方が少し弱い気がします。どうして光秀が本能寺の変を起こしてしまったのか,そして,光秀は信長を討つことで,何をどうしたかったのか,といったことが今ひとつよくわからなかったからです。
私は,この脚本に限らず,日本の歴史ドラマは,もっと敗者の心理を語り,見ている側に,勝者よりも敗者の側に同化できるような優しさがあるものであったなら,この国の人の考え方も変わるのではないか,と思います。今や,英雄願望や勝者に肩入れする時代ではないのです。
「国盗り物語」には,それが描かれていました,光秀の妻おまき(ただし,史実ではない)を演じた中野良子さんは素敵でした… とは,国盗り物語びいきの私の意見です。
そうそう,それに比べて,足利義昭の描き方は面白いものでした。「国盗り物語」の伊丹十三さんを彷彿とさせました。歴史ドラマには,こういう皮肉こそ必要です。
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中国大返しのあと,歴史は,悪人になった秀吉が策略を巡らせて天下を取り,狂人のごとく権力を私物化し,そして,天下取り最大の功労者であった官兵衛を冷遇するようになっていくのですが,果たして,このドラマではそれがどのように描かれていくのでしょうか。
2014春アメリカ旅行記-いざ,ニューメキシコ⑦
中に入ると,だだっ広いフロントがあったのだが,けっこう古めかしいホテルであった。スタッフに部屋はあるかと聞いて,さっそく部屋を確保した。
このホテルの部屋はロの字型に配置されていて,中央に大きなプールがあった。部屋は,フロントから奥またところで,鍵を開けて中に入った。
部屋はスウィートルームで,広く,真ん中の部屋に応接があった。また,一番奥の部屋にベッドとテレビがあって,窓からはプールが見えた。
寝るだけの私には,超ぜいたくな部屋であった。
これでホテルの部屋が確保できたので,ダウンタウンに行ってみることにした。
ホテルを出て,進路を南に,メインストリートを走った。過ごしやすそうないい町であった。
まだ、空は明るかった,しかし,この町の見どころであったUFO博物館はすでに閉館したばかりであった。
他には特にすることもなかったので,夕食をとることにした。
きょうは,中華料理を食べることにして,こうした町にある小さな中華料理店を探すことにした。
しばらく走っていくと,右手にそうした中華料理店を見つけたので,早速,車を駐車した。店の名前は「ベイジング・エクスプレス」といった。駐車場には,もう1台車が停まっているだけであった。
古ぼけた建物であった。
中に入ると,テーブルが並んではいるものの,ほとんど人の気配もなく,いらっしゃいませ,でもなかった。
厨房を見ると人陰があって,中国人の夫婦らしき人が忙しそうに料理を作っているところであったし,客らしいおじさんがひとり何かを待っていた。私は,自分の描いていた店とあまりに違って,しまったと思って,店を出ようとも考えたが,まあ,いいかと,もう一度厨房を覗いて,食事ができるかと聞いたら,客らしい人が食べられるよと言った。やっと私に気づいた店員は,そこに待っていて,と言った。
日本によくある中華料理店を少し大きくしたようなところであって,絵のついたメニューが壁に貼ってあった。私は,焼きそばとソフトドリンクを注文したら,ソフトドリンクだけはすぐに出てきた。だだっ広く,しかし,ほかに客がいないので,どこに座るかも定かでなかったのだが,ともかく端っこの席に座って,ソフトドリンクを飲みながら,店内の様子をうかがった。
どうやら,この店は,店内で食事もできるのだけれど,もっぱらテイクアウトが中心のようで,電話で注文を受けて,客がそれをとりにくるというようなシステムであったらしかった。客らしいおじさんもそうしたひとりで,料理を受け取るとさっさと出て行ってしまった。
厨房では,多くの注文を忙しそうにさばいていたのだった。
私の食事はいつになったらでてくるのであろうか,と思った。
2014春アメリカ旅行記-いざ,ニューメキシコ⑥
私は,ロズウェルに着くまで全く知らなかったのだが,ニューメキシコ州はアメリカ山地標準時であって,テキサス州の中部標準時とは1時間の時差があるのだった。だから,午後6時だと思っていたが,実は,まだ,午後5時なのであった。
さらに,このことも知らなかったのだが,ニューメキシコ州は,ロズウェルを過ぎると,全くといっていいほどしばらくの間,町らしい町がなかった。2年前の夏に行った「何もない」といわれたノースダコタ州の比ではない。ノースダコタ州以上に何もないところであった。このことを,私は,明日知ることになる。
だから,結果的に,私が,今晩,ここロズウェルに泊まろうと思ったのは,大正解であった。
ロズウェルまで1日で来ることができたことが,明日から,サンタフェやカールズバッド洞穴群国立公園,さらに,ホワイトサンズ国定公園,そして,エル・パソまで,4日間で足をのばすことができた勝因になったのだった。
ロズウェルも,また,他の人口5万人規模のアメリカの町と同じように,メインストリートの周りに商店街やら役所やらホテルやらがあって,そのまわりを包むように,清楚な住宅街が広がっていた。
あまりにもUFOで有名になりすぎたのが災いしているかのようで,ちんけな宇宙人グッズやらを売っている半分寂れたような店があったが,それ以外は,素敵な落ち着いた町であった。私は,ここなら住んでもいいなあ,と思った。
町の真ん中に,UFO博物館なる小さな博物館があった。特に期待もしていなかったが,ここに来て,この博物館を見ないという選択肢はない。ただし,この日はすでに遅く,博物館は閉館していた。
この程度の規模の町は,車の通行量も少なく,しかも,町はずれには数件のホテルがあることも,他の町と同じなので,私は,ともかく,町を通り抜けるまで走って,町全体の様子を見ようと,車を北の方向に走らせた。
実際は,町は,私が思っていたよりもはるかに北まで延びていたのだったけれど,何軒かのホテルが見えてきたところで,私は,ここが町の一番北のはずれかな,と思ってしまって,どこか適当なホテルに部屋をとることにした。
きょうだけは,どこまで行けるかわからなかったので,ホテルの予約がしてなかったから,ともかく,日が暮れるまでには部屋だけは確保しようと思った。
昨日泊まったサンアントニオのベストウェスタンがとても素敵なホテルだったので,ここでも,ベストウェスタンに泊まろうと思って,ベストウェスタン・サリーポート・イン&スィーツ(BEST WESTERN Sally Port Inn & Suites)というホテルの駐車場に車を停めて,フロントで部屋があるかを聞いた。
「かなちゃん」1週間-ドリル学習なんて勉強じゃない
通信添削をやっている企業の個人情報の漏えいが問題になっているわ。
いつも書いているけど,ドリルをやるのは,勉強じゃない。学んだことの確認なら,ドリル学習は少しは意味があるけど,今や,それが目的になってしまっているじゃないの。で,その結果を,意味のない「偏差値」にして,それを,学力と勘違いして,人間を序列化している。
もう,根本的にどうかしてるわ,この国は。
巷に溢れている塾だって,結局,問題集を売るのが利益なんだから,教材販売業と同じことなのね。
勉強というのは,人間がこれまでに作り上げてきた文学や絵画や音楽などの文化を味わい,体験したり,工夫してものを作りあげたり,不思議な自然現象を解明したり,足で歩いて確かめたり,人と議論をしたりすることなのよ。
車の運転について1時間語れても,実際に運転できなきゃ意味ないじゃない。
顕微鏡で実際の微生物を見たこともないのに,ドリルでゾウリムシの下手な絵を見て問題を解いても,そんなものは勉強じゃないわ。
実際に夜空の星を観察したこともないのに,ドリルで北斗七星の動きを覚えてもそんなものは勉強じゃないわ。
英語の単語だって,その単語を会話の中で耳で聞いたことも,実際の文章の中で読んだこともないのに,単語を暗記したって仕方がないじゃない。言葉は,自分の意志を伝えたり,相手の意志が理解できなきゃ,意味がないのよ。
通信教育はドリルだけじゃなくて,教材教具がついてくるんだよって? 作られた教材は,工夫をしなくてもいいから,そんな教具はだめなのよ。親切すぎるのは勉強にならないわ。子供のころから,説明書を読めばできるようなそんな教具ばかりで遊んでいるから,マニュアル人間ばかりになっちゃうのよ。
だから,私は,通信添削自体,益より害の方が多いと思っているんだけど,そんなものを教育と勘違いして教育界を支配しちゃっていることが大問題なのね。しかし,そのことをおかしいとも思わず,そういう企業に教育をまかせっきりにして,しかも,それを「勉強」と勘違いして,学問を語ることもできないくせに,学校の授業でもドリルの答え合わせしかできない教師のほうが,むしろ問題なのよ。
模試をやって,できなければできないで,また教材が売れるし,それに,この国の人はなんでも順番をつけるのが好きだから,そこに眼をつけて,こういう仕組みを作った会社は,ビジネスとしてはすばらしい成功例ね。
でも,そもそも,お金儲けが目的の私企業なのに,それを教育という大儀のもとにやっているっていうことなのよ。それなのに,教育者が,そういう企業に頼ってしまって,こういう会社を必要以上に巨大化したことこそ一番の問題なのよ。
あの企業は,今や,老人ホームにまで進出しているそうだけれど,老人のボケ予防とかいって,老人ホームでもドリル学習をやったり,管理されたお遊戯をやるようになるのかしら。私はごめんだけどね。
2014春アメリカ旅行記-いざ,ニューメキシコ⑤
国道285,通称「ベーコスハイウェイ」はニューメキシコ州に入ってもこのままずっとこんな感じなのかな,と思ったころ,ニューメキシコ州で初めての町ラビングに入った。ラビングを過ぎると道路は片側2車線になって,国道はインターステイツと変わらない道になった。
さらに,もう少し走ると,カールズバッドという少し大きな町についた。
午後5時であった。
こうなれば,後は,行けるだけ行こうと思った。目標は,ロズウェルであった。
ロズウェルは,ニューメキシコ州の南東部チャベス郡に位置する郡庁所在地で,人口は約45,000人。ニューメキシコ州で5番目に大きい都市である。1891年に創設されたニューメキシコ軍人養成大学の本拠地でもある。
ロズウェルは「ロズウェルUFO事件」とよばれる事件に,その名前が冠せられていることによって世界中に知られることになった。
「ロズウェルUFO事件」とは,1947年7月,ロズウェル付近で墜落したUFOが米軍によって回収されたとして有名になった事件のことである。ただし,実際のUFOの墜落地点はロズウェルから約75マイルも離れていたのだが,ロズウェル陸軍飛行場(のちのウォーカー空軍基地)が深く関わったため,「ロズウェルUFO事件」とよばれている。これは世界で最も有名なUFO事件である。
この事件に関する情報はきわめて多数あり大変混乱しているし,何が信頼できるものかも判明していない。
この知名度を利用して,ロズウェルにはUFO博物館があって,多くの観光客が訪れている。
また,この事件を題材にしたテレビドラマ「ロズウェル 星の恋人たち」(Rosewell)が日本でも放映された。
カールズバッドを過ぎると,国道285は,通称「セブンリバーハイウェイ」という名に変わったのだが,相変わらず,荒涼とした大平原が続いていた。
すると,突然,たくさんの黒いツルの群れがくちばしを大地につけて運動をしているような,不思議な景色が展開された。
あたり一面,石油を掘る井戸であった。
これほどの井戸を見たのははじめてであった。ここは,すでに,ニューメキシコ州であってテキサス州ではないのだが,石油にとれば州境など何の関係もない。しかも,そうした風景は,カースズバッドから少し北に行った特定のところに限られていたことが,非常におもしろかった。そうして,もうしばらく進むと,やがて,アーテージアという町に入った。
この町で国道285は国道70と交差している。国道70を西に進むと,アラモゴードという町につながっている。
このきれいな町アーテージアをそのまま北に向かってさらに走っていった。
やがて,道路沿いに品のよくないUFOとかの看板がたくさんあるようになってきて,それに従って,家がぽつんぽつんと見えてきた。そのうちに,左手に空港が見えて,さらにそのまま走る続けると,だんだんと町の中に入っていった。
時刻は午後6時。ここが,ロズウェルであった。
2014春アメリカ旅行記-いざ,ニューメキシコ④
インターステイツ10は,荒涼としたテキサスの大平原を走っていると想像していたが,はじめのうちは,けっこう小さな山があったり,湖があったりと,変化に富んでいた。
私は,ニューメキシコ州からの帰り,ちょうど4日目の晩に泊まるホテルをどこにしようかと考えながら走っていた。5日目の朝にサンアントニオに戻ればよいのだから,4日目の晩は,少しでも遠くに泊まりたいと思った。そうすれば,ニューメキシコ州に滞在できる時間が長くなる。
そこで,サンアントニオからの所要時間を考えながら,泊まることのできる町がないかを探した。
サンアントニオから2時間,200キロメートル走ったあたりのところに,ジャンクションという町があった。
ここで,インターステイツ10は国道83と交差する。この先には,主だった町はなさそうであった。
そこで,私は,ここでインターステイツを降りて,ジャンクションという町を走ってみることにした。
国道83に沿って,スーパーマーケットやらガソリンスタンドやらモーテルが数件あった。ここなら泊まることができるなあ,と思った。ついでにガソリンを入れて,インターステイツ10に戻った。
インターステイツ10は,その後は,切通しのようになっていたり,おかしな形の山があったりして,それなりにおもしろい風景が広がっていた。次第に,周りは,本当に荒涼とした大平原になっていった。
このあたりはテキサス州といっても,石油の井戸も特にたくさん見られなかった。
それよりも,高台に風力発電の大きな風車がたくさん並んでいるのを見た。
こうして食事もしないで,私は5時間くらい走った。
その間,町らしい町もほとんどなかったので,帰りに泊まるのなら,ジャンクションしかないんだなあ,と思った。実際,この4日後,私は,ジャンクションに1泊することになる。
午後2時過ぎ,しばらくぶりにやっと出会った町がフォートストックトンであった。この町でインターステイツ10を降りた。ここから,国道285を北西に走ってニューメキシコ州をめざすことになる。
まず,ガソリンスタンドでガソリンを満タンにした。
なぜか,2年前に,ノースダコタ州に向かうとき,小さな町でガソリンを入れたときのことを思い出した。このときも,このあと,大平原のなかを果てしなくのびる道を走るのだなあ,と思って感慨深かったことを思い出した。
フォートストックトンからニューメキシコ州に続いていく国道285は,片側1車線の道路であった。
さすがにテキサス州だけのことはあって,石油を積んだコンボイが道を走っていて,私の進路をふさぎ,とは行っても,決して速度は遅くはないのだが,それでも,制限速度よりも遅い速度で走るものだから,なかなか距離が稼げなくなった。
道がまっすぐになると追い越すことは合法的に可能なのだけれど,直線道路になればなったで,コンボだって速度を増すし,追い越すためには,かなり先まで向こうから車が来ないことを確認しなくてはならないために,命がけの追い越しになってしまうのだ。また、たとえ,そうして追い越したとしても,また,しばらく走っていくと,同じように別のコンボイが道をふさいでしまう。そうした状態がしばらく続いていた。
周りには,石油を掘っている井戸がたくさん見られるようになった。
まっすぐな道を北西に50キロメートルくらい走ると,ペーコスという小さな町に入った。ここで,ダラスから西に延びるインターステイツ20を横切った。テキサス州を東西に横切るインターステイツ20は,もうすこし西へ行くと北西に走るインターステイツ10と合流するのだが,東方向は,フォートワース,そして,ダラスへと道は通じている。そして,そのまま,さらにずっと東に行くと,アトランタまでつながっている。
フォートワースとダラスの中間には,ダルビッシュ有が所属するテキサス・レンジャーズの本拠地・グローブライフパーク・イン・アーリントンがある。私は,2003年にそこへ行ったことがあるから,そのときにインターステイツ20を走ったことがあるわけだ。
国道285は,このベーコスを過ぎると,「ベーコスハイウェイ」という名前をもつようになった。さらに50キロメートルくらい走って,私は,ついに,ニューメキシコ州の州境に到達したのだった。
「ロズウェルにUFOが墜落した」-百聞は一見にしかず
以前から,「ロズウェルUFO事件」というものは知っていましたが,実際にこの事件が起きた地に行ってこの目で見てくると,関心を深めます。そのあとで,本を読んだり調べたりすると,非常に理解力が高まります。
旅をするときも,行く前にいくらガイドブックを読んでも何はひとつ納得できないことが,実際に行ってみるととてもよくわかります。「百聞は一見にしかず」とは,まさにこのことです。
念願のロズウェルに行ってきたので,これを機会に「ロズウェルにUFOが墜落した」という本を読んでみました。
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「ロズウェルUFO事件」とは,1947年アメリカ・ニューメキシコ州のロズウェル郊外の砂漠に「何か」が墜落したということを発端とする一連の出来事のことです。
1947年7月2日か4日の午後9時過ぎに,牧場の管理を任されていたマック・ブラゼルという住民が奇妙な爆発音を聞き,翌朝,牧場に向かい,牧草地の1キロメートル四方に散らばる見たこともない金属片を発見しました。
7月6日にそのことを保安官のジョージ・ウィルコックに知らせに行ったら,保安官のジョージ・ウィルコックは,ロズウェル陸軍飛行場の情報部将校であるジェシー・マーセル少佐に通報しました。その後,陸軍対敵情報部隊の一団が牧場に来て,散らばっていた金属片をすべて回収しました。なぜか,ブラゼルも1週間拘束されたのですが,釈放後は事件に関して口をつぐんでしまいました。この事件は当初,空飛ぶ円盤を回収したと発表されていたのですが,後に,単なる気象観測気球の墜落と発表されました。
・・
月日が経った1978年1月。
30年以上の沈黙を破って,マーセル少佐が「あれは気球の残骸ではない。未知の物質だった。地球外のものだと思う」と発言しました。この話から,事件には,さらに第二の墜落現場があって,そこでは,墜落した機体と乗員の死体が回収されていた,乗員とは,3人の小人の宇宙人だったといううわさ話になっていったのです。
・・・・・・
UFOに限らず,邪馬台国にしても,ヒマラヤの雪男にしても,世界にはこうした話がたくさんあって,いつも人の関心を集めています。アメリカには,ケネディ暗殺事件というミステリーもあります。
「ロズウェルUFO事件」は,日本に住んでいる人にはよく理解できないことがひとつあります。それは,ロズウェルのあるニューメキシコ州の広大さなのです。
ロズウェルから北に走っていくと,360度ただ道路だけがまっすぐに続く大地が広がっています。今日の1番目の写真の原野のはるかかなたで事件が起きたといわれています。
雷雨でも降れば,ここは,この世のものとは思われない世界になることでしょう。そういったところで,この「事件」が起こったわけです。
私は,この事件は,単なる,軍事的な機密を含んだ何らかの事故に過ぎないと思います。本を読んでも,どうして,これほど軍がそれを秘密にしなくてはいけないのか,と考えると,UFOとは考えられないのです。
しかし,こうした事件が,単なる田舎町ロズウェルを世界的な観光地にして,だから私もそこに行って,こうした憶測をして楽しめるなんて,とてもすてきなことだなあとうれしくなってしまいます。
今日起きたニュースだって,それをどこまで正しく知っているのかと考えると,さまざまな疑問にぶち当たります。報道の仕方ひとつでさまざまな解釈ができるのにもかかわらず,単に自分の得た情報をうのみにしている人があまりに多いことや,物わかりのよさに,私はいつもびっくりしています。
やはり,紙媒体やテレビなどの情報は参考程度の情報としておいて,自分の足でその地を踏みしめ,自分の眼で見て,そうした情報が正しいかどうかを判断することが最も大切だと思うのです。
ペーパーテストの勉強だけで知識を競うなんて,もうやめようよ。
2014春アメリカ旅行記-いざ,ニューメキシコ③
インターステイツ10に入れば,あとはニューメキシコ州に向かって,決してスピード違反をせず,どんどん走って行く。しばらくは,おととい友人に連れて行ってもらったフレデリックバーグへ行くのと同じ道なので,すでに見慣れた景色を眺めながら走るだけであった。
ニューメキシコ州まで遠いので,今日は,ともかく,できるだけ先に行こうと思った。
ニューメキシコ州の見どころといえば,ロズウェルとサンタフェ,それに,カールズバッド洞穴群国立公園とホワイトサンズ国定公園であった。
サンタフェまでも遙かに遠く,そこまで行けるかどうかさえもわからなかったが,ともかく,4日間あるのだから,2日間で行けるところまで行けば,同じようにして戻ってこられるはずである。だから,きょうはできるだけ遠くまで行こうと思った。
しかし,地図を見たり,距離を測ると,その遠さにはため息が出た。
ともかく,私は,インターステイツ10を西へ西へと走って行った。
まず,テキサス州とニューメキシコ州の詳しい地図を手に入れようと思った。たいていどこの州でも,無料の地図は,インターステイツ沿いに観光案内所があって,そこで手に入れることができるのだ。
しかし,いくら走っても,観光案内所が見つからなかった。
案内所という道路標示があったように思ったので,その標示に従って一度インターステイツを出たのだが,その先にあったのはウォールマートであった。
アメリカ有数のスーパーマーケットであるウォールマートを見学するのもおもしろいいと思ったので,広い駐車場に車を停めて中に入った。
日本と同じような,でも、買い物カートがやたらとでかい普通のアメリカのスーパーマーケットであった。
結局,当然のことながら,地図は手に入らなかった。
しかし,夏に行った東海岸とは違って,テキサスは大平原,結果的に日本で印刷して持って行ったおおまかな地図で十分であった。
以前,このインターステイツ10を走って,テキサス州の西の果て,メキシコ国境の町であるエルパソまでドライブをした人のブログを読んだことがある。そのブログには,延々と荒れ地に道路がまっすぐに続いているだけだったと書いてあった。しかも,そのブログには写真もなかった。
私がインターネットでさがしても,それ以外には,このインターステイツ10についてはほとんど情報が手に入らなかった。だから,私は,インターステイツ10をサンアントニオからエルパソに向かって走ることは,2年前に行ったノースダコタ州と同様に,価値があることだと思った。
はたして,この先の「荒野」とはどんなところなのであろうか???
日本を出発する前の予定では,インターステイツ10をひたすら西に,テキサス州の西の果て・エルパソまで行って,そこから北上してニューメキシコ州に行こうと思っていたのだが,日程が変更になってニューメキシコ州に費やすことのできる旅行の期間が4日間と短くなってしまったので,もっと最短経路を通ってニューメキシコ州に行くことにした。
つまり,エルパソまでは行かずに,途中のフォートストックトンという町でインターステイツ10から離れて,進路を北西に変えて,国道285を北西に行けば,ショートカットでニューメキシコ州に入ることができる。そして、そのまま国道285を進めば、ロズウェルである。ただし,国道は,インターステイツとは違って,町に入れば制限速度も遅くなるし,信号もあるだろうから,予定通りに距離を稼げるかどうかはわからなかった。
「国盗り物語」と「軍師官兵衛」-中国大返し
ついに,昨日の大河ドラマ「軍師官兵衛」は,秀吉一世一代の中国大返しが始まりました。
これ以後,秀吉は,どんどん悪人になっていくので,もし,このドラマの主人公が秀吉ならば,この中国大返しこそが,かっこいい秀吉の人生のクライマックスなのです。
私は,この物語を,小学校の時に「太閤記」という子供向けの伝記で読んで,はじめて知りました。
その物語には,和議のなった高松城から,清水宗治が船で漕ぎ出て,舞を舞ったのち,切腹して果てた,とありました。
このドラマは,そうした点では,私のイメージどおりでした。
ただし,物足りなかったのは,和議がなったのに,清水宗治の船がなかなか湖に漕ぎ出してこなかったので,秀吉がイライラしてそれを待っていた,とか,歴史の偶然で,信長を撃った明智光秀が援軍を願い出て毛利方に宛てた書状を持った使者が,雨と闇夜の中,秀吉軍に間違えて紛れ込んでしまったとかいう,わくわくする逸話がなかったことでした。
この「軍師官兵衛」では,本能寺の変以前に,明智光秀がどうして信長に謀反を働くことを決意したのか,という最も重要な心理的な動機があいまいで,よくわからなかったし,この中国大返しで,姫路城にあった金銀財宝を秀吉軍の兵士に惜しげもなくすべて分け与え,兵士のやる気を鼓動させた(これは来週のお話でしょうか)とか,また,細川藤高が光秀の援軍を断ったという知らせを聞いて,光秀が狼狽する(もっと狼狽しなきゃ)とか,そういった,きわめて大切な心理描写もとても弱いので,さりげなく見ている分には面白いのですが,人物に同化して感動するまでには至らなかったことも,物足りなかった点でした。
中国大返し200キロ,つまり,フルマラソン5倍分の距離を,重い甲冑を着て兵士が走りきる,なんていうことが,実際可能なのか,ということを実証した歴史ドキュメント番組を見たことがありますが,こうした強行軍を可能にしたのが,実際には,官兵衛の知略なのか,秀吉の知略なのかは知りませんが,凡人には伺い知ることのできないほどの戦略があったに違いないのです。しかし,このドラマでは,今のところは,それもさっぱりわかりませんでした。出ては来ましたが,もっと感動的に描かなきゃ。次週,期待ですか?
また,この中国大返しの時点では,徳川家康の伊賀越えと,おねの長浜からの脱走がもう一つの見せ場なのですが,この点もドラマの中に出てはきましたが,あまり上手に描かれていませんでした。
大河ドラマというのは,常に,史実を描くのか,その歴史の転換期における人の心を描くのか,という構想がしっかり練られていないと,中途半端な,物足りないドラマになってしまいます。
41年前の大河ドラマ「国盗り物語」には,そのことがすべて,しっかりと描ききってありました。
前回書きましたが,私は,どうしても,戦国ものは「国盗り物語」と比べてしまうのですが,そんなわけで,私は,「軍師官兵衛」を見て,今になって,この「国盗り物語」の素晴らしさを,再めて認識したのでした。
「ミッドサマー・クラシック」の想い-1995から2014へ
「ミッドサマー・クラシック」(Midsummer Classic=“真夏の祭典)ともいわれる,アメリカMLBのオールスターゲームが終わりました。今年の開催地は,私が2年前に行ったことのあるミネアポリスの美しいターゲットフィールド(=1番目の写真)でした
今年のオールスターは,カル・リプケン・ジュニア選手が引退した2001年のオールスターのように,今シーズン限りで引退を表明している絶対的人気を誇るニューヨーク・ヤンキースのディレック・ジーター選手(=2番目の写真)一色になってしまうのかな,と危惧していたのですが,そうでもなく,しかも,ジーター選手への気持ちのよいリスペクトもあり,ダルビッシュ有,上原浩治ふたりの日本人投手の快投もありと,とてもすばらしいゲームになりました。
オールスターゲームといって思い出すのは,何といっても1995年です。
場所は,テキサスレインジャーズの本拠地ザ・ボールパーク・イン・アーリントン(=3番目の写真)でした。
この年のナショナルリーグの先発投手は野茂英雄,アメリカンリーグの先発投手は,ランディ・ジョンソンでした。
ケン・グリフィー・ジュニア,サミー・ソーサ,グレッグ・マダックス,バリー・ボンズ,マイク・ピアッツァ,イバン・ロドリゲス,…
今でも記憶に残っている有名な選手がたくさん出場しました。
監督で現役を続けているバック・ショーウォルター,そして,残念ながら,今はなき名手トニー・グウィンも出場しました。
試合は,野茂投手が2イニングを1安打無失点に抑え,3-2でナショナルリーグが勝利しました。
このゲームは,YouTubeで今も見ることができます。当時放送されたテレビ番組のままなので,コマーシャルも見ることができて,あのころのアメリカの様子もわかるので,ものすごく興味深いものです。投球を終えた野茂投手のインタビューもあります。
そして,球場には現在のような過剰な広告がなく,バックネット裏の,あの,中継で目立つ醜い広告板もないので,見ていて,試合に専念できます。近ごろでは,日本で放送される映像には,日本の広告が合成されるので,ただでさえうざったいところが,さらに台なしになっています。
1995年といえば,ちょうど,ディレック・ジーター選手がニューヨーク・ヤンキースに入団した年です。あのころのアメリカは絶好調で,痛ましい9/11以降のアメリカとは違い,幸せムード満杯,そういえば,Windows95が発売されたのもこのころです。
あのころの私は,今ほど,アメリカを知らなかった,だから,きっと,当時これを見たとしたら,ものすごくいろんなことにあこがれたと思うのです。歳を経て,今は,訳知りにそれを語っています。
この20年間,世界は,変わらず富と貧困の問題を抱え,世界中に争いは絶えず,経済はいつも不安定で,何も進歩していない。進歩していないどころか,世界はより危険で不便になって,人は生きにくく不幸になっただけのような気がします。
そして,我々の生活で,劇的に変わったことといえば,インターネットの発達でしたが,このことでさらに犯罪やら課題やらが発生しているから,これを,進歩と呼べるのでしょうか?
こうしたことを思い出しながら,自分の,そして,世界の20年後に思いを馳せます。
将来を考えるときは,身近な過去を思い出すといいと,以前,ブログに書いたことがありますが,この20年間を振り返ると,20年後,私は,そして,世界はどのように変わっているのかが,なんとなく想像できます。
きっと,人間は,相変わらず,争いを繰り広げているのでしょう。そして,凝りもせず,何度かの経済危機に絶望的になったりそれを克服したりしているのでしょう。そして,その都度,大騒ぎをしていることでしょう。
人は本当に愚かなのです。
でも,この不条理な社会の中で,それでも,ささやかな幸せを見つけようとして,そうして,少しの喜びを見つけたときに,ちょっぴり幸せを感じながら,毎日を生きるのです。
私は,今年のオールスターゲームの想いをずっと大切にしようと思います。
そして,たとえ,20年後の未来も,やはり,人は愚かなままで,何も進歩がなくっても,生きることは素晴らしいのだから,その時に,また,今年のオールスターを懐かしむことができたらいいなあと思います。
「かなちゃん」1週間-「55歳からのハローライフ」は?
私も「55歳からのハローライフ」を見て,早期退職したおじいちゃんに理想的な老後について聞いてみたの。きょうは,その答えを書いてみるね。
・・
おじいちゃんも,早期退職をしたころは,自由な時間にときめいて,いろんなことをしてみたり,しようとしたんだって。
まず,よくあるのは,退職金を目の前すると,今まで夢だった何かを買いたいうと思うことだそうよ。でも,これは,一番やってはいけないことだって。
この先,時間はいっぱいあるし,退職したらお金には限りがあるから,いつでも買えることは後回しにするべきだって言っていたわ。ものを買うのは,それを買わないと困るという時点で十分だって。
でも,世の中は,それではものが売れなくなっちゃうから,売る方は,期限を限定して販売したりして購買意欲をあおるのね。だけど,考えてれば,たまたま買いたいと思ったときにそういった期間限定商品があるということは,焦らなくてもいつでもあるということじゃない。
きっと,長年の夢だったって,別荘なんか買っちゃうと,悲劇だよ。
ものを手に入れると,今度は管理費とかが馬鹿にならないっていうことを忘れないでね。
次にやりたいことは,どこか遠くへ出かける,という行為だって。
私もそうだけど,忙しくてストレスがあるときほど,人は行動的になるの。だから,働いていて平日が忙しいときはストレスだらけになるから,逆に週末になると早起きしてドライブに出かけたりするのね。
仕事を辞めたばかりの時は,まだその状態が続いているから,急に時間が手に入るとどこかへ行きたくなるのね。でも,仕事のストレスがなくなって,いつも時間が自由になると,だんだんと何も今日しなくてもいいじゃないか,と思うようになってくるんだから,そう思うようになるまでの辛抱なんだって。そうなったあとで,やっと,自分が本当に行きたいところがわかってきて,のんびりと旅をすることができるようになるんだそうよ。
こんなふうに,突然,生活環境が変わって,これまでの夢が実現できるようになると,急いでそれを成し遂げようとするんだけど,そんなことは,焦る必要はないんだって。おじいちゃんは,それよりも,とりあえずは,何も買わず,どこへも行かず,自分の住んでいる周りを探索することをお勧めするって言っているわ。
近くの図書館,レジャー施設,公園,喫茶店など,これまで気が付かなかっただけで,素敵なところがたくさんあることに気づくはずだって。のんびりと散歩しているだけでも,綺麗な花が咲いていたり,ちょっとした公共の施設に気のきいた温泉施設が安価で利用できたり,そうした場所がけっこうたくさんあって,そういう場所をよく知っている人は,上手に利用しているんだって。
そうして,ささやかに,質素に,精神的に楽しめる日常を見つけるといいんだって。
そのようにして,これまでの価値観を一掃して,落ち着いた日常を手に入れたときに,初めて,これからずっと楽しめることは何かって考えて,忙しくてできなかったころの夢を実現するといいんだって。
おじいちゃんは,いちばん醜いことは,これまでいた組織に執着したり,仕事にしがみついたり,いつまでも先輩面をして説教をしたりすることだって,いつも言っているわ。
私も,ずいぶんと勉強になったわ。
2014春アメリカ旅行記-いざ,ニューメキシコ②
ホテルに到着したのは,9時より少し前であった。
私は,1分でも早くレンタカーを借りて,出発したかったが,やはり,予想通り,当然定刻よりもはやくハーツのスタッフがいることもなく,フロントには人影もなかった。
私は,その到着を待った。そうするうちに,レンタカーを借りる他の客も現れたのであるが,午前9時になっても,やはり,予想通りスタッフは姿形もなかった。
午前9時20分になったころであろうか,先日と同じスタッフがのんびりと現れた。先日と違ったのは,今回は,握手を求めるでもなく,事務的に仕事を始めたことであった。先日の愛想のよさはなんだったのであろうか。当然,私のことなど全く覚えていなかった。
ともかく,予約をしてあったので,コンピュータを操作して印字された契約書にサインをするだけで,すぐに車を借りることができた。
ただし,カーナビをオプションで要望したのだが,カーナビはないからと,サンアントニオ近郊の地図をくれた。この地図は,レンタカーを借りるときにいつもくれる簡単なものであった。
そして,レンタカーはホテルの駐車場にあって,そこへはホテルのエレベーターを地下まで降りて,ホテルから出るときにはじめに1枚,そして,そのあとでもう1枚を料金マシーンに入れろと説明されて,カード状の駐車券をくれた。
それだけであった。
さっそく,キーを受け取って,カバンを転がして,ホテルのエレベータに向かった。エレベータの場所を見つけるのに少し手間取ったが,ホテルのフロントで聞いて,なんとか見つけることができて(このほどよい不親切さが心地いい),エレベータで階下の駐車場に降りると,駐車場に私の借りるトヨタサイアスという小型車を簡単に見つけることができた。
カバンをトランクに入れようとしたのだが,トランクを開けるのに少し戸惑った。いろいろと操作をして,なんとか開けることができたので,カバンをトランクにいれて,座席やらハンドルを調節して,そろそろと車を発進させた。
これまでは,いつも,車を借りるときはレンタカーの営業所の駐車場だったから,今回は勝手がずいぶんと違ったが,ともかく,こうして車を手に入れることができた。
駐車場には,当然のように誰にいなくて,駐車場の出口で,日本と同じように,まず,機械に駐車券を挿入した。すると,料金が表示されたので,もらったもう1枚のカードを入れたら,無事にゲートが開いたので,ホテルの駐車場から出すことができた。
さあ,いよいよこれからだ。
レンタカーを借りた当初に気をつけるのは,車に慣れることと道を間違えないことである。
この3日間で,サンアントニオの土地勘はできていたのだが,私のめざすインターステイツ10には,東方向ならホテルを出てすぐに入ることができたのだが,道路工事などで,私の走る西方向に入るところが閉鎖されていたために,迂回をしなくてはならなかった。
道路がよくわからなかったので、のろのろと車を走らせて,道路標示にしたがって迂回路を進み、なんとか無事にインターステイツ10に乗ることができた。
2014春アメリカ旅行記-いざ,ニューメキシコ①
☆4日目 3月16日(日)
いよいよ,ニューメキシコ州を目指して出発する。
今日になっても,私には,ニューメキシコ州までどのくらいかかるのか,はたして,ニューメキシコ州のどこまで行くことができるのか,全く見当がつかなかった。
与えられた日にちは4日間。5日目の朝には,サンアントニオに戻ることになっていた。天気予報では,ニューメキシコ州はずっとよい天気であるということであった。私は,自他共に認める晴れ男である。
日本を出発するとき,テキサス州はもちろんのこと,ニューメキシコ州の天気がどうであるかという予想すらつかなかった。この春,アメリカは異常気象で,雪でも降っていたらドライブどころでないなあ,とさえ,心配をしていた。
実際に到着してみると,ここは,日本のゴールデンウィークのころのようなすばらしい陽気であった。たいして着替えも持ってこなかったが,それで十分であった。
私は,4日目の夜にサンアントニオに戻ろうと思っていたが,冷静になって考えてみると,何も4日目の夜にサンアントニオに戻る必要もないなと思うようになった。4日目の夜に戻ってきても,5日目の早朝に友人が来るとは思えなかった。だから,5日目の朝10時くらいにサンアントニオに戻ってくればいいや,と思った。そうすれば,4日目の夜は,サンアントニオから車で2~3時間離れた場所に泊まることができるから,その分,ずっとたくさんニューメキシコ州の旅行ができるであろう。
それよりも,このまま友人と連絡も取らずに最終日まで好き勝手に旅行して,そのまま日本に帰ろうとさえ思った。しかし,絶対にサンアントニオに帰って来い,そして,サンアントニオでは,自分の友人や親類に会わせたいと友人が言ったので,その約束は守ろうと思った。
宿泊したホテルは,とてもきれいで,しかも,朝食を食べるレストランも広く,場所によってはトーストとコーヒー程度の朝食しかないホテルも多い中,卵料理やら,ハンバーグやら,果物やらと,かなり贅沢なところであった。
私は,これほど豪華な朝食にありついたことは,これまでにはなかった。
朝食を済ませて,フロントでチェックアウトをして,タクシーをよんでくれるように依頼した。
しばらくフロントで待っていると,ひげを生やしたナイスガイがホテルに入ってきて,タクシーをよんだのはおまえか,と私に話しかけてきた。
タクシーは,日本のものとは違って,RV車であった。
早速タクシーに乗り込み,ダウンタウンに向かった。
日曜の早朝のインターステイツは非常に空いていて,快調であった。ダウンタウンを指して,タクシーは進んでいった。眼下に,美しいサンアントニオの街並みを眺めることができた。
ドライバーと雑談をしながら,30分くらい走ったであろうか,あっという間にダウンタウンに着いて,ハーツのカウンタのあるマリアットホテルの玄関に到着した。
私は,タクシーの料金とチップを払って,タクシーから降りて,記念にドライバーの写真を撮った。
チップをはずんだせいか,頼んでもいないのに,ドライバーはポーズを取ってくれた。
きょうからのひとり旅。楽しい日々になりそうであった。
星を見るのも大変だ。-太陽系外惑星をさがせ。④
2013年,マイケル・リューさんは,彗星の発見で有名なパンスターズプロジェクトで,やぎ座の中の80光年先にPSO J318.5‐22という赤い惑星を発見しました。
この惑星は,質量は木星の6倍。ケイ素・鉄分を多く含んでいるのですが,なんと,この惑星は,中心となる恒星をもたず,宇宙区間を浮遊惑星としてさ迷い歩いているのだそうです。
どうしてこんな浮遊惑星ができてしまったかということは,恒星からはじきとばされたとか,もともと恒星になり損ねた星だとか推測されています。
・・
NGC1333星団の中の褐色矮星領域にも,質量が木星の6倍である浮遊惑星が発見されているのですが,木星よりも13倍から75倍重い惑星は,惑星でなく褐色矮星,また,さらに75倍以上のものを恒星と分類しているので,こうした浮遊惑星は,惑星というよりも,恒星のなりそこないではないかともいわれています。
こうなると,こんどは,惑星と恒星との線引きが難しい問題になってくるのです。
・・
特殊な星のまわりをまわる惑星というのもあります。
おとめ座の中,980光年先には,PSR B1257+12bという惑星があるのですが,この惑星は,なんと,パルサーのまわりをまわっています。
パルサーというのは,超新星爆発の残骸で,半径は太陽の5万分の1しかないのに,質量は太陽の1.4倍もあります。
さらに,さそり座M4球状星団の中,12,400光年の距離には「メトセラ」という惑星がありますが,この惑星は,パルサーPSR B1620-26と白色矮星の連星のまわりをまわっています。
この惑星は,木星の2.5倍で,公転周期は100年。きっとはじめは,白色矮星の周りをまわっていたのが,パルサーが白色矮星をその強力な引力で引きつけて,連星にしてしまったのではないか,ということです。
・・
前回のブログで取り上げたケプラー望遠鏡で発見された岩石惑星は,地球型の惑星なので,これらの惑星は「スーパーアース」と呼ばれています。そのひとつ,てんびん座の中,20光年先にあるグリーゼ581は,M型と呼ばれる暗くて小さい恒星のまわりをまわっています。
恒星の中でもM型の恒星は,銀河系にある恒星の7割から8割を占めているといわれています。
そして.この惑星は,地球の海のように水をもつ惑星です。
常に同じ面を恒星に向けて公転していて,表面から中心までの,なんと4分の1,つまり10万メートルの深さまで水の層からなっています。当然,水圧で水は圧縮されて100万気圧まで達するので,水は氷の固体になっています。
M型恒星は小さいので,「ハビタブルゾーン」,つまり恒星の周りの生命の存在できる地帯もわれわれの太陽系よりも恒星に近いところにあるわけですが,恒星から出る紫外線やX線が当たらないところには,生命の存在が期待できるのではといわれています。
・・
変わったところでは,かに座の先40光年にある55番星eという惑星があります。
この惑星は,酸素より炭素が多いことから,炭素を主成分とする惑星だといわれています。黄色い靄と黒いすす,炭素化合物から成る大気があって,メタン,ブタン,ベンゼンの雨が降ると推測されています。
そして,地下には,圧縮された炭素が液化したダイヤモンドとして存在し,地表にはダイヤモンドやグラファイトの山があるのではではないか,ということです。
ダイヤモンドだらけの惑星なんてすごいです。
このように,これまでに,数多くの様々な系外惑星が続々と発見されているのです。
ひょっとしたら,こうした惑星には生命がいるかもしれません。もう間もなく,そうした生命の存在するニュースが我々に伝わるかもしれません。
2014春アメリカ旅行記-ミッションズ⑨
ともかく,今日宿泊するホテルが見つかってホッとした。そして,食事をしながら,今後の日程について打ち合わせをした。
友人は,私がニューメキシコ州に行ったあと,再び,サンアントニオに戻ってこないことを恐れているようであった。
サンアントニオに着いて,はじめに友人と打ち合わせをしたときには,ニューメキシコ州には3日間行って,サンアントニオに戻ってくるということにしたのだが,その後の友人の話を聞いていると,仕事が忙しくて,4日目に戻ってきても,また,今日の二の舞になりそうであった。
また,最終日は,出発する前に事前に予約をしてあった空港近くのホテルは,こちらに来てからその打ち合わせの中で友人が別のホテルを予約するからという勧めでキャンセルしてしまった。最終日は,早朝,その別のホテルに友人が迎えに来て、空港まで送ってくれることになっていた。しかし,この2日間のことを考えると,これを期待するのもやめた方がいいと思った。友人がその日にドタキャンをしたら,私は帰国することができなくなってしまうのだ。
そこで,ニューメキシコ州には1日増やして,4日間旅行をすることと,5日目には必ずサンアントニオに戻ることを約束した。
さらに,私は,当初の予定を変更して明日の朝借りることになったレンタカーの返却日をを,再び変更して,最終日の早朝に返却することにしようと思った。そうすれば,たとえ,サンアントニオに戻ってきたときに,再び今日のような状況になっても,車さえあれば,友人を頼らず,私ひとりで自由に行動できることと,最終日の早朝,ホテルから空港に行くのに,何も心配がいらないというのが理由である。レンタカーの返却日の変更は,ニューメキシコ州へ行ったときに,最寄りのハーツの営業所へ行ってそこでしようと思った。
また,最終日は空港の近くのホテルを再び自分で予約し直した方がよいと思った。
結局,この旅に出かける前に日本で計画したとおりの日程で正解だったのだ。
メキシコ料理は,私の口には合わなかった。たいてい何でも食べられるので,食べられないということはなかったが,私には,どうもこの味は苦手だった。
食事を終えた。ここでも,友人は,チェックの際,店員に別々(separate)と言って,自分の食べた分だけさっさとクレジットカードでお金を支払ったのにびっくりした。私も慌てて,同じように料金を支払った。
そのころには,このレストランも大混雑をしていて,多くの人が入口で席が空くのを待っていた。
私は,予約したばかりの今晩のホテルまで送ってもらうことになった。
まず,車を停めてあった駐車場に行って,車を出したのだが,ダウンタウンはものすごく渋滞をしていて,まったく車が動かず,最寄りのインターステイツの入口までたどり着くのが大変であった。
ホテルは,ダウンタウンからは,思っていたよりも遠かった。
郊外までインターステイツを走った。サンアントニオにも,アメリカのどの都会にもあるように,郊外のインターステイツの環状道路の周りには新しいホテルがたくさん建ち並ぶ一角があった。
きょう予約したのは,その中でも,特に新しくすてきなホテルであった。
予約したホテル「ベストウェスタン・プラス」のことは,すでにブログに書いた。
フロントでチェックインをしようとすると,データがないと言われて,一瞬戸惑った。フロント係の女性が,こういうことはよくあるんですよと言って,調べてくれた。予約した日にちが明日になっていたということであったが,この親切な女性が問題なく部屋を調整してくれて事なきを得た。
日本と違って,社員教育があるのならないのやら,ホテルのフロントでも,レンタカーのフロントでも,人によって対応が全く違う。だけど,みんな,教育されたままロボットのように笑顔で対応しているのではないから,非常におもしろいし,暖かみがある。
チェックインをするときに,このホテルからダウンタウンまでどのくらいかかるか聞いた。ホテルの前にバス停があって,バスに乗れば1時間くらいだという話であった。タクシーを使えば,その半分以下の時間で行けるのだという。バスの便があるというのが意外であった。
・・
こうして,3日目が過ぎた。
ひとりでは行くことができなかったであろうミッションとアラモの砦を見学できたことは非常に有意義であったし,生まれて初めてメキシコ料理も食べることができたので,それなりに思い出深い1日になった。
2014春アメリカ旅行記-ミッションズ⑧
私には,もう,こういったことは想定の範囲内であったので,さほど驚きはしなかった。しかし,私にとって問題だったのは,今日の宿泊先であった。
・・
実は,今になってみても,友人は,旅に出る前に私が予約をしたホテルをあえてキャンセルさせてまで,どこのホテルに泊めたかったのか,まったくもって不明なのである。この日も,私の泊まるホテルに,特に当てがあるとは思えなかった。
確かに,アメリカでは,車さえあれば,少し郊外に出れば,泊まるところなど,どうにでもなる。空き室が全くないなどということは考えられない。しかし,この日の私は,車もなく,明日の朝は午前9時にダウンタウンでレンタカーを借りる必要もあった。しかも,この週末にダウンタウンのホテルに空きがあるとは到底思えなかった。
もっとはやくこのことがわかっていれば,私なら,もっと前に手を打っていた。
そして,友人が主張するのは,今日泊まるホテルの近くにレンタカーを借りる営業所を変えろ,ということであった。レンタカーなど,どうにでもなると言った。
実際,そのとおりどうにでもなるのだが,だからといって,どこの営業所に変えたとしても,あすの朝,友人が私をその場所まで送ってくるれることはできないのであったから,話に整合性がないのだった。
私は,営業所を変更するよりも,朝,タクシーでレンタカーの営業所に行くから,なるべくダウンタウンに近いところにホテルを探してほしいと主張した。
そういった話をしていたとき,我々はリバーウォークを歩いてたのだが,リバーウォークは,とても賑わっていていて,観光客はみんなとても楽しそうだったのに,我々は,そこで食事を楽しんだり,写真を写したする,といった雰囲気ではなくなってしまっていた。
友人は,リバーウォークにあるレストランは高いから,もっと安いところへ行って,そこで食事をしながらホテルを探そうと言った。
そんなこともあって,そそくさとリバーウォークを後にして,今度はレストランを探すことになった。
一昨日はプエルトリコ料理,昨日は日本料理だったので,きょうはメキシコ料理,ということになった。
なかなかよいお店が見つからなかったが,交差点で信号待ちをしているときに,友人は見知らぬ人にメキシコ料理店のある場所をたずねた。私には区別がつかないのであるが,メキシコ人ということが,彼女にはわかるのであろう。そんな風にしながら,見かけは大しておいしそうでないメキシコ料理店を見つけて,そこに入ることになった。
いつのように,外見とは違い,中はとても広いレストランであった。
まだ空席があったので,今晩私が泊まるホテルを探して予約する電話がかけられるように,奥まった席をリクエストして,ともかく席に座った。ウェートレスさんがやってきて,食事を注文した。
私が記憶に残っていることは,そのときのウェートレスさんがとてもすてきな女性だったことと,その女性がものすごく忙しそうに働いていたことであった。しかし,そうであったにも関わらず,友人は,水を頼んでもすぐに運んでくれないといっては怒り,食事が遅いといっては怒り,非常に機嫌が悪かった。
いくら電話をしても,どこのホテルも満室で予約ができなかった。週末の,しかも春休み。月曜日はセントパトリックデイの祝日とあって,日本のゴールデンウィークと変わらない日に、容易にホテルが予約できるとは,私には思えなかった。私も,せっかくやってきたサンアントニオでこれまでにどれだけ時間を無駄にしたかを思い出して,不機嫌になってきた。
そうこうするうちに,友人はホテルをさがすのをあきらめ,兄に電話をして,ホテルを探してくれるように頼んだのだった。友人は,わたしの兄はいいやつだから,ちゃんとホテルを探してくれるといって,私を安心させようとしたが,私は気が気ではなかった。
やがて,しばらくして電話がかかってきて,ホテルが見つかったということであった。場所はこうこうこういうところで,と言われたが,そこがどこなのかは見当がつかなかった。しかし,だからといって,たとえ,そこが結構遠いところであっても,そこに泊まる以外に,私には選択肢がなかった。
「55歳からのハローライフ」-生きるのが不器用な人たち⑤
NHKのドラマ「55歳からのハローライフ」もいよいよ最終回です。
・・・・・・
出版社をリストラされた因藤茂雄(イッセー尾形)は、ホームレスに転落するかもしれないという恐怖と隣り合わせで生きている。60歳の身体にムチをうち、水道工事の誘導員をしていたある日、中学時代の親友だった福田(火野正平)に声をかけられる。福田はこの辺りの高級住宅街で暮らしているという。だが、1か月後、因藤は瀕死の福田から呼び出される。福田は山谷のホームレスだったのだ。当惑する因藤に、福田は"最期の望み"を託すのだが…。
・・・・・・
私は,この番組を見る前に,まず,お金というものについて考えてみました。
現在,朝日新聞に夏目漱石の「こころ」が連載されていて,その関連の特集で,7月5日土曜日の紙面に「思索できる喜び『乱』の時代に」と題して,山藤章二さんが次のように書いています。
・・・・・・
「高等遊民」として明治大正あたりは,最高学府に在籍あるいは卒業した人物は明らかに特権階級に属していた。彼らは一般大衆のようになりわいに就くことが目的ではなく「考えること」を専らとした。
・・・・・・
確かに,この時代の知識人にとって,お金を稼ぐというなりわいは,現在とは違ったものだったのでしょう。しかし,知識人でなくても,誰にとっても,お金というものの意味合いは,現代人とはずいぶんと違っていたのではないでしょうか。
現代社会では,電気・ガス・水道,車のガソリン,電話代など,お金がなければほとんど何もできません。しかし,今ほど電化製品もなく,水道は井戸水に代わり,ガスは薪であった時代,車も電話もいまほど普及していなかった時代,そして,食料の多くが自給自足であった時代,生きるために必要なお金というものは,今よりもずっと少なかったはずです。
その代わり,それに変わる労働が必要でした。女性は,1日中家事に追われていました。
それに比べて,現代社会では,便利さを手に入れるために,何もかもにお金が必要になりました。
しかし,人が生きるということで一番大切なのは精神的な幸せであるという意味で考えると,お金は,本当はどれくらい必要なものなのでしょうか。一度,原点にもどって考えてみるのも悪くないかもしれません。
きょうのお話は,これまでのものに比べて,状況が深刻で,救いがありません。ちょっと現実離れしていて(いや,これこそが現実か!),私も,なさけない男たちだ,などとは書きようがありません。
福田という男もホームレスになりたくてなっちゃったわけでもないだろうし,そうなってしまった事情があるようなのです。しかし,本当は,こんなになるまでになんとかすべきだったんですが,本人のプライドがそれを許しませんでした。そういう意味では,この人も生きるのが不器用なのです。
因藤という人も,腰を痛めて仕事が辛く,はじめは気の毒な人だと思ったのですが,暮らし向きとは反対に,携帯電話を持っていたり,ミネラルウォーターを飲んでいたり(この人には「水こそお金よりも大切なものだ」という話の伏線なのですが)と,チグバグな生活をしています。それに,自分のことで精一杯なのに,福田の世話をやく。きっとこの人の「人の良さ」が,今日の状況を作ってしまったのでしょう。
だから,その人のよさが,この人の救いになればいいなあ,と思って見ていたのですが,結局,この人は,自分が友人に何かをしたということで,自分のプライドが満たされて,生きる気力をとりもどすことができた,というのがお話の結末でした。
しかし,このことで,因藤さんの腰痛が治ったわけでも,リストラの危機がおさまったわけでもないのです。ただ,彼は生きるのに一番大切な「やさしさ」を手に入れました。きっとこのやさしさがあれば,妻と息子さんがこれからも守ってくれることでしょう。
この「55歳からのハローライフ」は,人が生きるのに一番大切なのは,地位でもお金でもなく人のこころ,そして,人のこころを結びつけるのはやさしさなんだよ,というお話だったのです。
因藤さんと福田さんが乗っていたバスの中で,前回のお話に出てきた下総さんが,乗客として,やさしい男になってでてきました。かっこよかったです。
「かなちゃん」1週間-情報は安く手に入れよう。
現代は,あふれるほどの情報が誰にでも簡単に手に入る時代だから,みんな同じ条件で生きているといえるのね。だから,そこから自分の力でいかに有益な情報を検索できるか,ということが大きな能力なの。偏差値じゃないのね。
一番つまらないのは,そんな情報を高いお金をかけて手に入れることね。
特に,若い人は将来年金が減るとかいわれているのに,くらだないものにお金を使っちゃいけないわ。携帯端末に毎月数万円もかけるなんて論外ね。
日本でも2015年にSIMロックの解除が義務化されるそうだけど,やっと,なのね。でも,携帯電話会社は反対するだろうから,実現するのかなあ。オリンピックの開催に向けて,世界中で悪名名高き日本のネット事情も,やっと,東京都内はフリーwifiが普及しそうだし。
私がずっと言い続けていたことがだんだん実現しそうで嬉しいわ。
これで,ついに,単機能のガラ携(単機能なのをガラ携というかどうかしらないけれど…)とiPodだけで十分という時代が来るかもね。そうすれば,携帯代なんて月1,000円で済みそうね。
単機能のガラ携を1台手に入れて,SIMを交換すれば,海外に行っても,現地の電話回線で電話ができるから,つまらないローミングなんかで,高価な国際電話をする必要もなくなるし,高いiPhoneを買わなくても,ネットはiPodでできるようになるしね。さらに,どこでもネットが無料で繋がるようになるのなら,電話なんて「050PLUS」で十分だから,携帯電話さえ不要になるわね。
書いていることがわからないって? こういうことがわからない人たちだけが,せっせと携帯会社に高いお金を払い続けてくれればいいわ。こういうことがわかるかどうかも,能力のひとつなのよ。
…なんて,意地悪しないで,説明するわね。
SIMロックが解除されるっていうのは,携帯電話やスマホにはSIMという小さなカードが入っていて,ここに情報が書いてあるのだけど,今は,ロックがかかっていて,他社の携帯にそれを入れても使えないような意地悪をしているんだけれど,そのロックが解除されると,どんな携帯やスマホでも,SIMさえ交換すれば同じように使えるようになるっていうわけなの。
そして,wifiが街の至る所に設置されれば,ネットは,電話回線なんて使わなくても,インターネットが無料でできるようになるっていうことなのね。だから,インターネットを経由して電話ができれば,高い電話回線を使わなくてもいいということなのです。
「国盗り物語」と「軍師官兵衛」-41年ぶりの家康
私は,このところ,NHKの大河ドラマがから遠ざかっていました。
思い出してみると,2008年の「篤姫」は見ました。ホームドラマのような番組でした。2010年の「龍馬伝」も見たのですが,お龍さんを演じた真木よう子さんが素敵だったという印象しかなく,岩崎弥太郎と山内容堂が目立ちすぎ,人間の陰湿さと暗さが引き立っていて,龍馬の持つすがすがしさが吹っ飛んでしまっていました。
「江 〜姫たちの戦国〜」は子供の江が信長を説教するといったあまりの内容のばからしさに見る気をなくし,画面が汚いと話題になった「平清盛」は,教養のない私には何がおもしろいのかわからず途中でついて行けなくなりました(一説によると,マニアにはものすごくおもしろかったらしい)。そして,「八重の桜」は申し訳ないけれど私には全く興味がなく…という感じで,そのうちに大河ドラマを見るということすら忘れてしまっていました。
・・
そんなわけで,今年の「軍師官兵衛」も,興味はあったのですが,見ることを忘れていました。
日曜日,ふとテレビをつけてみると,高松城の水攻め,しかも,徳川家康役で寺尾聰さんが出演されていたのに,目を疑いました。
私は,一瞬,時間という概念をなくしました。
寺尾聰さんといえば,なんと1973年,いまから40年以上前の大河ドラマ「国盗り物語」で家康を演じていたのですから。
私は,大河ドラマの最高作品は,1977年に放送された「花神」だと思っています。
「花神」は,山口県周防の村医者から倒幕司令官になり,明治新政府では兵部大輔にまで登りつめた日本近代軍制の創始者・大村益次郎を中心に,松下村塾の吉田松蔭や奇兵隊の高杉晋作といった,維新回天の原動力となった若者たちを豪快に描いた青春群像劇でした。
原作が司馬遼太郎さんで,脚本を大野靖子さんが担当しました。
この作品は「花神」だけでなく,「世に棲む日日」(主人公:吉田松陰と高杉晋作),「十一番目の志士」(主人公:高杉晋作と天堂晋助),「峠」(主人公:河井継之助),「酔って候」(主人公:伊達宗城と前原巧山)の五つの作品と「燃えよ剣」等司馬遼太郎さんの幕末ものが惜しみなく使われていて,司馬史観満載の大傑作でした。大村益次郎を演じたのは前進座の歌舞伎役者・中村梅之助さんで,もうひとりの主人公ともいうべき高杉晋作は中村雅俊さんでした。
脚本家の三谷幸喜さんもこの作品を支持していますが,平均視聴率は19パーセントと低く人気がなかったのは,この作品の難解さにあると思います。幕末ものは,「篤姫」のような軽さがないと,なかなか大衆受けしません。
惜しくもドラマの映像は失われていますが,幸運にも5部構成の総集編が保存されていて,現在でも見ることができます。
そして,この原作・司馬遼太郎,脚本・大野靖子のコンビでのもうひとつの大河ドラマ作品が,1973年に放送された「国盗り物語」でした。
この作品は,司馬遼太郎さんの同名小説「国盗り物語」を核に,「新史太閤記」「功名が辻」「尻啖え孫市」「梟の城」などを合わせて大野靖子さんが脚色しました。
美濃一国を「盗る」ことに生涯を賭けた斎藤道三と,彼に後継者と目され共に天下統一に邁進しながらも,最期には本能寺で激突する織田信長と明智光秀の生き様を描いたのもので,若々しさとスピード,何よりも,高橋英樹さんが演じた信長が圧巻でした。
・・
この大傑作ドラマを放送していたときには生まれていなかった若い人たちは,総集編でしかこの作品を知ることができないのでとても残念だと思うのですが,私には,この「国盗り物語」の印象があまりに強いために,それ以降の大河ドラマの戦国ものは,何を見ても期待外れになってしまいました。
それは,「国盗り物語」に描かれたような,信長の正室・濃姫,秀吉の家臣・竹中半兵衛と黒田官兵衛,高松城の水攻め,本能寺の変,中国大返し… など,この作品の印象が強すぎるからなのです。
だから,私には,織田信長は当時29歳の高橋英樹さんでなくてはならなし,明智光秀は近藤正臣さんだし,豊臣秀吉は火野正平さんだし,そして濃姫は20歳だった松坂慶子さんなのです(史実では濃姫は最後まで信長と添い遂げたかどうか… ということは物語だから別として)。
さらに,竹中半兵衛は米倉斉加年さんで,黒田官兵衛は江守徹さん,足利義昭は伊丹十三さん…。
高橋英樹さんは,「国盗り物語」で演じた信長役の印象があまりに強すぎて,その後,信長のオファーを断り続けたそうです。何十年もたって,やっとそれが吹っ切れて,別のテレビドラマで信長を演じたのですが,残念ながら,もう,そのときは貫禄がありすぎて,当時の信長を期待した私はがっかりしました。
そんなこともあって,私は,徳川家康役で寺尾聰さんが出演されたことと,それに,このドラマが,「国盗り物語」を見ていた私にも波長があって期待外れでないことから,久しぶりに,私の心に大河ドラマが帰ってきたようで,とてもうれしくなりました。
せっかくだから,明智光秀役は近藤正臣さんというのではどうだったのでしょうか?
いよいよ,作品は,本能寺の変を迎えます。
2014春アメリカ旅行記-ミッションズ⑦
アラモの砦自体は無料である。列に並んでいたのは,音声ガイドを借りるためであった。
それにしてもごった返していて,30分くらい並んだだろうか,やっと中に入ることができた。
日本語の音声ガイドがあったので,私は,それを借りた。
・・
友人は,ミッション巡りをしていたときは,とても熱心だったのに,アラモの砦には,ほとんど興味はなくて,私はもっと時間をかけてゆっくりと見たかったのだが,なにかせかされているように感じた。
彼女がいうには,ここは再建されたものだから,何の歴史的な意義も魅力もない。
そりゃ,我々だって,再建された鉄筋コンクリートの天守閣を訪れる外国人に同じようなことを感じることはあるけれど。
・・・・・・
サンアントニオ市ダウンタウンの中心部にあるアラモの砦は,1836年に将軍アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ(Antonio Lopez de Santa Anna)の率いるメキシコ軍隊からテキサスの土地を守る戦いで189人のテキサス愛国者が戦死した場所で,その建物の一部がスパニッシュミッションに再建されたものだ。
この戦いの防衛者には,有名な辺境開拓者のデヴィー・クロケット(Davy Crockett),派手なテキサス製ナイフ戦士のジム・ボウイ(Jim Bowie)が含まれていた。
・・・・・・
私は音声ガイドを聞きながら場内を一周した。
砦の中には礼拝堂とかもあって,時代ごとに,その部屋の用途がちがったり,戦いの残骸があったりと,再建されたとはいえ,何か権威がある建物であった。
残念ながら,建物の中は撮影禁止であった。
礼拝堂の外に出ると,庭には、美しい花が咲き乱れていた。
ものすごく暑い日で,この庭にあった売店で,やっと,水にありついた。
友人は,展示には全く興味がなく,ここで知り合った人とおしゃべりを楽しんでいた。
私が見終わったころ、友人が,もういいか,というので,あまり待たせても悪いと思って,アラモの砦を後にした。
本当に,こんなことなら,午前中にひとりでゆっくりと見学したかったのに,と思った。
その後,リバーウォークへ行った。
ここも,友人は,まったく興味がなく,どんどんと歩いて行くだけであった。
私は,2日目の早朝にリバーウォークを歩いたので,まあ,それでもよかったのだが,せっかくサンアントニオに行ったのに,アラモの砦もリバーウォークもダウンタウンも十分に堪能できなかったことは,非常に心残りであった。
リバーウォークを歩いていると,突然,友人が不機嫌そうに,明日の朝,レンタカーの営業所まで送ると言ったが,急に都合が悪くなってそうすることができなくなった,と言い出した。
なんでも,怪我をした娘さんのリハビリの時間が変更になって,朝の7時までにリハビリに付き添わなくてはいけなくなったということであった。
星を見るのも大変だ。-太陽系外惑星をさがせ。③
今,天文学が面白い! とは,様々な観測装置や観測方法の発達で,どんどん新発見が続いているからで,そうしたニュースに接するだけでも,私はわくわくします。
太陽系外の惑星の発見もそのひとつです。2009年3月6日にアメリカが打ち上げたケプラー宇宙望遠鏡によって,はくちょう座の方角に,2,000個あまりの恒星の周りを,2,700個以上の惑星候補が回っていることがわかったのです。また,その惑星候補の中には,地球サイズの岩石惑星が300個以上も見つかったと,このブログで書きました。
NHKBSプレミアム「コズミックフロント」という番組で,この系外惑星の不思議な性質を取り上げていたので,番組から紹介しましょう。
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はじめめて系外惑星が発見されたのは1995年でした。ミッシェル・マイヨールさんが恒星が揺れていることから,その周りに惑星が存在することを証明したのです。
それは,ペガスス座にある50光年先の恒星51番星の惑星で,「ベレロフォン」と名づけられました。表面温度1,000度,質量は地球の150倍,しかし,軌道は地球の20分の1と,ずっと恒星の近くをまわっているということでした。
こうした惑星を「ホットジュピター」とよびます。
この惑星は,恒星の近くを周回しているために,高温で灼熱地獄,常に同じ面を向けてまわっているらしいので,蒸発した鉄の雲があり,なんと,鉄の雨が降ったり,オーロラが出現していると推測されているということです。
その5年後,今度は,恒星の前を横切るときの光度の変化からペガスス座の150光年に「オシリス」という惑星が発見されました。質量は地球の220倍で,公転周期はわずか3.5日です。
惑星には,蒸発した水素とヘリウムガスの大気が雲を形成し,それが宇宙空間に尾のように広がっている姿が写真に写されています。また,大気にはナトリウムや酸素,炭素があると測定されています。
・・・・・・
実は,これほど巨大な惑星が恒星近くをまわっていることは,とても不思議なことなのです。
惑星は形成領域(フィーディンング・ゾーン)が決まっていて,恒星に近いところでは岩石惑星,少し遠くには木星のような大気惑星,その外側には,海王星のような氷惑星ができるといわれています。だから,この惑星は,初めは大気惑星として誕生したものの,恒星の周りの円盤ガスの収縮で,惑星が次第に恒星に近づいていったのではないかと推測されるそうです。
恒星の周りを楕円軌道を描いて回る惑星もあります。
白鳥座の70光年にある16番星b という惑星は,質量が地球の530倍もあって,短軸は水星の距離,長軸は木星の距離といったいびつな楕円軌道をまわっています。こうした惑星を「エキセントリック・プラネット」とよんでいるそうです。
この楕円軌道は1週が26カ月で,恒星からの距離が変わることから四季があります。四季は気温が800度にまでなる夏が1か月,春と秋は3か月,そして,マイナス260度になる冬が17か月間もあるということです。
もし,この惑星の周りを岩石星の衛星が回っているなら,生命が存在可能な「ハビタブルゾーン」を通っていることから生命がいるかもしれないといわれています。
2014春アメリカ旅行記-ミッションズ⑥
最後に行った「ミッション・コンセプチオン」は少し距離があった。川に沿って,「殉教の道」にそってサンアントニオに戻っていくと,途中には,学校やら町並みやらがあって,その先にミッションがあった。
ここはミッションのなかでも一番巨大で,最も美しく良好な状態で保存されていたので,ミッションの代表的な存在のようであった。まるで城郭のようで,広い駐車場の先には,展示室があったり,案内所があっりした。
駐車場に車を停めるころに,雨が降り始めたが,たいして強くなりそうにはなかった。
・・
ちょうど,このミッションを案内をしてくれるツアーが始まったので,それに加わって,案内を聞いた。案内をしてくれたのは,初老の女性で,ボランティアの案内係のようであった。
日本にも,観光地には,こうしたボランティアガイドがいるが,ちょうど,そんなようなものであった。
案内は,非常に詳しく,ゆっくりとミッションについて説明をしてくれた。中に入ると,教会の壁と天井には,当時の絵画が今でも残っていた。また,礼拝堂以外にも,多くの部屋があって,当時の繁栄ぶりがうかがえた。礼拝堂には,キリストの像や絵画があった。
こうして,4つのミッションの見学を終えた。
観光で日本に来た外国人が京都の古寺を拝観したときに感じることがなんとなくわかったよう気がした。
車は,一路,サンアントニオのダウンタウンに戻るために北に進んだ。次第に,サンアントニオの市街地に入っていくと,来るときとは打って変わって,ものすごい人混みと車の洪水であった。
まず,サンアントニオ市内で車を駐車するのが一苦労であった。
私ひとりでは,ミッションに行くこともできなかったので,そのことはよかったのであるが,もし,ミッションに行くとしたら,私はこんな計画で観光はしないであろうと思った。
ミッションはそれほど混んでいないから,私なら,まず,早朝,はじめにアラモの砦へ行ったであろう。週末の午後のダウンタウンに車を駐車して観光をするなどということは,どの国でも無謀に近いのだ。アメリカは広いから、都会でも車を停めるのに苦労しないだろうと思われるかもしれないが,それは違うのだ。車の洪水は,日本とは比較にならない。
ともかく,やっとのことで駐車場に車を入れて,駐車場からはさほど遠くないアラモの砦へ,徒歩で行った。アラモ砦のまわりは,当然,ものすごい人混みで,静寂に包まれた四つのミッションとはえらい違いであった。
2014春アメリカ旅行記-ミッションズ⑤
そんなふうにして,出だしは遅くなったが,今日は,ミッション巡りをすることになった。
ミッションは,ちょうど京都や奈良の古寺を巡るようなもので,非常に興味深く,おもしろかった。友人に連れて行ってもらわなければ,その存在さえ知らなかったから,私ひとりでは絶対に行くことはなかったであろう。まさに,友人さまさまなであった。
ミッション巡りではじめに行ったのは「ミッション・サンホセ」であった。
外から見た感じでは,教会というより要塞のようであった。
先に書いたように,ここは,伝道所の女王とよばれていて,数あるミッションの中でも最も裕福で,最盛期には300人もの人々がそこに暮らしていたといわれている。現在は,穀物倉庫と製粉所が復元されている。
広い駐車場に車を停めた。結構多くの観光客がいた。
中に入ると,まずビジター センターがあって,ミッションについての詳しい展示や説明があった。
サンアントニオにけるミッションの歴史だとか,当時の遺物だとか,そんなものがガラス張りのケースにたくさん展示してあった。私は,ここに来るまで,ほとんど知識がなかったから,よい勉強になった。
展示室から出ると,周りに昔ここで働いていた人が暮らした家が広場の周りを囲んでいた。
石で壁ができた広い部屋があった。
中央には広場があって,学校のグランドくらいの広さがあった。
その向こうにドーム方の礼拝堂があった。
礼拝堂は白い壁で包まれて,美しかった。壁にはさまざまなフレスコ画や彫刻が飾ってあった。
ここは,今でも現役のカトリック教会区として機能しているということだった。
ちょうど,古びた教会を想像していただければいいと思う。
礼拝堂をでて,遺跡のような通路を歩いて,外に出た。
次に訪れたのが「ミッション・サンファン」だった。
ここは,先に行った「ミッション・サンホセ」の近くにあった。
「ミッション・サンホセ」に比べて,ここには廃墟のような感じであった。
中に入ると,先ほどと同じように中央に広場があった。広場には十字架の形のした木の作り物があって,周りをサボテンが囲んでいた。
また,古びた小屋があって,このミッションを管理していた人の住居跡のようであった。
その向こうには,とても小さな礼拝堂があった。
質素なものであったが,入口の扉をあけてこの礼拝堂の中に入ると,美しく,静寂に包まれていて,神々しいミサの音楽が流れていた。
とても荘厳な素晴らしい雰囲気で,じっと座って聞き入っている人がいた。
京都の古寺で,じっと庭を見入っている人がいるのと同じようであった。
その次は,「ミッション・エスパダ」に行った。
ここの礼拝堂では,何らかの行事をしているようで,多くの若者が集まっていた。礼拝堂の中は,同じような作りであったが,古い木材で構成された天井が美しかった。
また,ここは管理をしている人が花をたくさん植えていて,それらが庭を包み,とても美しかった。
また,ステンドグラスやらを作ってはミッションの中の売店で販売をしていた。日本のお寺でも商売熱心なところがあるが,ここもそんな感じであった。
中央の広場には,古い巨木があった。友人は,この巨木に子供の時の懐かしい思い出があるらしく,しきりに感動をしていた。
これら3つのミッションは近くに固まっていて,車なら数分で移動することができた。
最後に行った「ミッション・コンセプチオン」は少し距離があった。
ここはミッションのなかでも一番巨大で,最も美しく良好な状態で保存されていた。
まるで城郭のようであった。
案内をしてくれるツアーがあったので,それに加わって,案内を聞いた。
教会の壁と天井には,当時の絵画が今でも残っていた。
「55歳からのハローライフ」-生きるのが不器用な人たち④
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ベテランのトラック運転手だった下総源一(小林薫)は60歳でリストラされ、不定期のトラック便のアルバイトをしている。独り身のアパート生活を慰めるのは趣味で始めた読書。ある日、行きつけの古書店で店主(麿赤兒)と親しげに話す女性客・堀切彩子(安田成美)と知り合い一目惚れする。惰性のように送っていた生活に俄然ハリが出てきた下総。目一杯自分を着飾り、教養豊かな男に見せかけてデートを重ねるが、突然別れを告げられてしまう。あきらめきれない下総は彩子の家を探し出すのだが…。
・・・・・・
「55歳からのハローライフ」第4回,あらすじだけを読むと,前回が恋に恋する女性のお話なら,今回は,恋に恋する男性のお話かと思いました。
しかし,この男性は,昔はプレイボーイだったそうです。今は安アパートでひとり住まい。私にはうらやましいような気楽な生活に見えましたが,本人はさみしいのだそうです。そして,立ち寄った古本屋で,ある若い女性に一目惚れ,ときめいちゃったんですね。気持ちはわかるのですが,なにか,フーテンの寅さんみたいです。
でも,やっぱり,この男性は,恋に恋しています。見ていてかわいそうになります。プレイボーイっていっても,相手の女性は水商売の人ばかりだったようですし,本当の恋愛をしたことはないようです。それに対して,女性の方は,一見余裕があるように見えましたが…。
今回のお話の展開部は,女性の別れの告白から始まります。
しかし,私にわからないのは,この男性は,60歳にもなって,この女性に何を期待していたのかということなのです。
女性が訳ありなのはなんとなくわかりますから,その内側まで入り込む必要はないのです。だから,そうしないでいることが大人のやさしさなのです。何やっているのでしょうね,この男性も。やはり,この人もこれまでの物語と同じく,歳だけを重ねたしょうもない男のひとりです。
私がこれまでに仕事上でかかわった,世間的な地位のある男の多くも,同じような人たちでした。
相手の気持ちや人生観もわからず,自分の価値観を押し付けたり,相手を値踏みしたり,そんな人たちばかりでした。
人が歳を重ねる価値というのは,金持ちになることや出世をすることではなくて,様々な経験を経て,人の気持ちや立場になって考えることができるようになる,ということなのです。
・・
私は,このお話で,この男性や女性が住んでいる家や仕事や境遇で何かを描こうとしているのなら,それは間違っていると思うのです。人の価値はそんなことではないのです。
近ごろ,議会のセクハラ発言やらが問題になりましたが,セクハラにせよ,私が以前受けたパワハラにせよ,それは,相手の気持ちを考えられない,相手の立場になって考えられない,つまり,本当の歳を重ねていない愚かな人たちがすることだということであって,そういうことが考えられるかどうかが,人の価値を決めることなのだということです。
それよりも,この男性が,この経験を通してやさしくなれるのなら,そのことで歳を重ねた意義が生まれると,また,そうであってほしいと,このお話で描きたかったことは,きっと,そのことであったに違いがないと,また,そうであるべきだと,私は思ったのでした。
「かなちゃん」1週間-神殿古りて雀の巣
私の住んでいる家のポストにすずめが巣を作ろうとしていたの。
はじめはポストのなかにたくさん藁くずが入っていたので,子供のいたずらなのかと思ったんだけれど,そのうち,せっせと藁くずを運んでいるすずめと目があったわ。
そんなわけで,近所のどのポストも同じようになっちゃったんで,みんな迷惑して,いろいろと防御策を講じ始めたの。
すずめさんも,残念ながら,ポストに巣を作ろうとしても,労働がむだになっちゃうから,かわいそう。
すずめの営巣期はちょうど今ごろで,人家の屋根裏や瓦の隙間,廂裏などに作るんだって。煙突や高い木の枝の上,古木の空洞などにも作ることがあるということなんだけど,ポストの中にまで作ろうとしていたから,どこでもいいみたい。
材料は藁,枯草,小枝,草の根などで,1回に5個から8個の卵を産むんだって。
すずめがくちばしにひものような茎や根をくわえていたら巣作りをしているんだから,気をつけて見てみましょう。運ぶ巣材がだんだんと細く小さく柔らかいものになってくると,外装から内装へと巣作りが進行しているのがわかるそうよ。
そして,卵を産み落とす場所に敷き詰める羽毛や毛を運びだしたら,産卵が近いんですって。
・・・・・・
人も来ず神殿古りて雀の巣 子規
・・・・・・
すずめの巣作りを防ぐには,すずめは警戒心が強いから,目玉風船とか,CDでなくても,見慣れないものを置けば,1週間以上は近寄らなくなるんだって。でも,巣の中に巣立ち直前のヒナがいる段階で親鳥を追い払ってしまうと,ヒナは巣の中で死んでしまうから,気をつけてね。
すずめも鳥獣保護法にて守られている野鳥なので,簡単には駆除することはできないんだって。野鳥保護団体も,今の時期は子育てなので,できるだけ巣立ちまでそのままにして欲しいとよびかけているそうよ。
そんなわけで,ポストの中は迷惑だから除巣させてもらったけど,そうでなければ,すずめさんの巣作りも応援したくなるわね。うまく雛がかえると,夜明けと共に雛の餌ねだりの声が枕元で響き渡り…,と生きている目覚まし時計になっちゃうらしいですよ。
そして,巣立ってしまうと,嘘のように静かになるんだって。
巣作りを観察した人は,次のように書いているわ。
・・・・・・
声だけ聞いていると腹が立つけど,会ってみたらよい人だった… というのは人間同士でもよくありますけれど,動物でも意外とそういうところがあります。
巣の中のヒナは姿が見えないのでうるさいだけに思えてしまいますが,ヒナが巣から出てきて,こんな幼くて大丈夫なのか⁉ と思いながら見ていると,親がちゃんと餌をやりに来るんです。
親鳥が来ると,ヒナは体をまん丸に膨らませて,羽をふるわせて,甘えた声を出します。
一度見ると病みつきになりますよ,これは。
・・・・・・
つばめに巣を作られる家は,幸せが来るというのを昔どこかで聞いた事がありますけれど,すずめさんはどうなのでしょうか?
星を見るのも大変だ。-太陽系外惑星をさがせ。②
われわれの住む太陽系の惑星がどのように形成されたかということは,「京都モデル」とよばれる標準モデルで説明されています。
それは,はじめガスダストが微惑星となって,それがやがて原始惑星となり,その状態を経て現在の惑星になったというものです。
その説明を当てはめると,惑星形成の過程で,ガスがたくさんあったり恒星の周りの円盤が大きいときは灼熱巨大惑星が誕生するのですが,その巨大な惑星があまりに恒星に近い所に誕生すると,誕生後600万年くらい経つと軌道が不安定になって,それが偏心軌道惑星となるのではないかと解釈されます。
こうしてはじめに発見されたのは,特殊な惑星たちでした。
そこで,新たに地球型惑星を発見するために,「トランジット法」という方法を用いて,惑星を探すことが試みられるようになりました。
「トランジット法」は,惑星が存在して中心星のまわりを回っているとすると,惑星が中心星を横切るときの中心星の光度減少を観測すれば,惑星の直径がわかるというものでした。
そうした中心星を観測するために「ケプラー衛星望遠鏡」が打ち上げられました。「ケプラー衛星望遠鏡」は4年間で15万個の恒星を調べました。その結果,2,000個あまりの恒星のまわりを,2,700個以上の惑星候補が回っていることがわかったのです。また,その惑星候補の中には,地球サイズの岩石惑星が300個以上も見つかったのでした。
・・
今日では,こうした観測から推定すると,実際には,惑星をひとつ以上もつ恒星の割合は,地球サイズが16パーセント,スーパー地球サイズが21パーセント,小型海王星サイズが20パーセントほどあるのではないか,といわれています。
これを当てはめて,実際に計算してみると,天の川銀河には恒星が約1,000億個あるので,そのうちで太陽のような安定的な恒星が約30パーセント,そのうちで惑星を持つのは約50パーセント,また,その中で岩石惑星が約50パーセントとすると,地球サイズの惑星は,なんと天の川銀河だけで,75億個くらいあるということになります。
では,そうした地球サイズの惑星のうちで,生命環境が存在する地帯,つまり「ハビタブル・ゾーン」とよばれる地帯,それは太陽系に当てはめると金星・地球・火星の回っている軌道あたりになるのですが,そこにどれだけが存在しているのか,ということを調べることが,地球外生命が存在するかどうかにつながるので,現代の重要な研究課題となっているわけです。
そのように考えてみると,かつて火星に生命が誕生していたということがわかれば,こうした「ハビタブル・ゾーン」にある太陽系外惑星にも生命が存在する,ということにつながってくるのです。
火星に生命がいるかどうかが重要な意味をもっているのは,そうした理由によるものなのです。
・・
現在,2020年の完成をめざす30メートル望遠鏡TMTが待たれています。この望遠鏡で,太陽系外の地球型惑星に海と陸があるかどうか,そして,生命の痕跡があるかを探そうとしているのです。
星を見るのも大変だ。-太陽系外惑星をさがせ。①
近ごろの天文学の進歩は著しくて,数年前の教科書は使いモノになりません。若いころに勉強した知識から,どこがどう変わってしまったのか,とまどうことばかりです。
地球のような惑星も,太陽系以外にたくさん見つかるようになりました。ということは,地球以外にも生命がいるかもしれないということです。
惑星の誕生については,次のように説明されています。
・・・・・・
まず,超新星の爆発や赤色超巨星という恒星の終焉から,宇宙空間に分子ガスや星間ダストが放出されます。
分子ガスの成分は,暗黒星雲で発見される有機分子,直線炭素鎖分子など,すべて炭素原子を含んでいます。また,星間ダストの成分は,水の氷,砂粒,炭素ガスの氷など,こちらも有機物なのです。
これらが星の生成領域にあるということだから,宇宙空間には,惑星になる材料がすべて揃っているといえるのです。つまり,恒星の一生の活動によって,惑星のもととなる物質が作られるわけです。
・・
こうして宇宙空間に放出された星間物質が自己の重力でまとまっている系が平衡状態にある場合,それは「ビリアル定理」が成り立っていて,そのままの状態でいられるのですが,重力エネルギーが内部エネルギーより大きくなるとつぶれる,つまり,重力による収縮が起きて縮んでいき,やがては恒星になります。
これが新しい星の誕生です。
そのとき,縮んでいく過程で,乱雑な運動があるからすべての星間物質が縮まることにはならず,星の周りに原始惑星系が誕生,つまり,星間塵という固体微粒子を中心にして,原始惑星のもとが集積するのです。
こうした原始惑星系は,たとえば,オリオン星雲内の原始惑星系円盤とか,ハワイにある日本のすばる望遠鏡を使った観測で,GGTau星,SAO202462星など,惑星が生まれつつある様子が観測されています。
・・
最近は,こうした原始惑星系から進化した太陽系外惑星が発見されるようになってきたのですが,そうした太陽系外惑星はどのようにして見つけられてきたのでしょうか。
太陽系外惑星は,1995年に「ドップラー法」という方法ではじめて発見されました。
「ドップラー法」とは,次のようなものです。
中心星にあたる恒星に,もし,惑星が存在すれば,実は,その惑星が恒星の周りを回ってるのではなく,惑星と恒星の共通の重心の周りをお互いが回っているのです。しかし,惑星は恒星に比べれば非常に小さいので,地球から観測できるのは恒星(中心星)だけで,その恒星が惑星との公転によって運動するのを観測できるから,それがどのように周期的な運動をしているかを詳しく探ることで,見ることのできない方の惑星の存在を見つけようというものです。
この方法で,これまでに800個以上の木星大の惑星が見つかりました。
そうした惑星は,太陽に非常に近いところを回っていたり(灼熱巨大惑星),かなり偏心した楕軌道を回っていたり(偏心軌道惑星)と,太陽系とは異なった惑星でした。
どうして,こんな巨大で特異なものばかりが見つかったのでしょうか?
実は,これは,ドップラー法で見つけることのできる惑星の限界なのです。
私は,このニュースを知った時には,なんだ,惑星が見つかったといっても,太陽系とはずいぶん違って,生命の存在するような惑星ではないんだなあ,と失望したものでした。
・・・・・・
☆ミミミ
今日の写真は上から,火星,木星,土星です。天文台へ行って望遠鏡の接眼レンズにデジカメをくっつければだれもで写せます。
2014春アメリカ旅行記-ミッションズ④
結局,ブレーキランプを見つけることができなかったその店の近くの小さな車の部品屋で,やっとブレーキランプを見つけることができた。ブレーキランプを友人は自分では交換できないということなので,店の中からメキシコ人の店員が出てきて,工具を取り出して,やっとのことでランプを交換した。
このようにして,きょうは,出発時間が遅かったとこに加えて、ブレーキランプ1個のためにくだらない時間を延々と費やして,お昼になるころに,ようやく目的地に向かって出発することとなった。
きょうも昼食は抜きであった。
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日本なら,ブレーキランプが切れたときにはカーディーラーに行くであろう。
何事もDIY(Do it yourself)の国なんだなあと,変なところで感心をしたのだが,本当に,私は,わざわざサンアントニオに来て,何をやっているのだろうか…?
まあ,友人には悪いが,おもしろい経験をしたとは思った。しかも、アメリカの庶民の暮らす下町をドライブするという経験もできたし,どういう生活をしているかもわかった。
すでに書いたが,きょうこの友人が私を連れて行こうとしたのは,現地の人には非常に有名でしかも重要な4つのミッションであった。有名とはいっても,これらのミッションについては,日本ではなじみがなく,知っている人もまずいないし,テレビ番組に紹介されたのを私は見たことがない。
サンアントニオのミッションについて,パンフレットをもとに紹介してみよう。
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サンアントニオには,18世紀にまでさかのぼるスペイン系のミッションとよばれる伝道所が四つ現存していて,現在,「サンアントニオ・ミッション国立公園」を形成している。
この「国立公園」になっている,ということがおもしろい。たとえば,日本で,京都の清水寺とか高台寺あたりを国立公園にするようなものだ。これを書いていて,私は,そうか,京都だって,世界遺産にする前に,国立公園にすればいいんじゃないか,と思った。
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もともと,サンアントニオの街というのは,18世紀に入植したスペイン人の宣教師たちによって,ミッションの周囲を囲むように建設された。この小規模なコミュニティには農場や教会,職人の工房,そして居住スペースなどが全てそろっていた。そして,豊かな農場から採れる農産物は,当時発展しつつあったサンアントニオの街に供給されていたのだった。
19世紀に入って,それらのコミュニティは閉鎖されたのだが,「ミッション・コンセプチオン」「ミッション・サンホセ」「ミッション・サンファン」「ミッション ・エスパダ」の四つが現在も保存されている。
それらが,サンアントニオのダウンタウンの南,サンアントニオ川沿いに点在していて,国立公園となっているというわけなのである。
これら四つの各ミッションを構成している主な建造物は,荘厳なアーチとか彫刻とか色とりどりのフレスコ画,そして鐘楼である。
ミッションの中でも,「ミッション・コンセプチオン」の教会は,最も美しく良好な状態で保存されていて,教会の壁と天井には,当時の絵画が今でも残っている。
「ミッション・サンホセ」は,伝道所の女王と呼ばれていて,数あるミッションの中でも最も裕福で,最盛期には300人もの人々がそこに暮らしていたと言われていて,現在は,穀物倉庫と製粉所が復元されている。また,ここにはビジター センターもある。また,今でも現役のカトリック教会区として機能している。
「ミッション・ サンファン」にある礼拝堂および鐘楼も,今でも使用されている。
そして,「ミッション・エスパダ」の灌漑用水路は,現在も一部は水路とダムで機能している。
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これらのミッションの終着点とでも呼べる場所にあるのが,アラモの砦なのであった。
かつて,流血と惨事,勇気ある数々の行動の舞台となったこのアラモは,アメリカの自由の象徴であり,今でも,テキサスの独立の重要な旗印となっている。
1718年にサンアントニオ川の近くに建設されたこの砦は,テキサス革命中に200人のテキサス軍がサンタアナ将軍率いる5,000人のメキシコ軍と13日間にわたって攻防戦を繰り広げたことで有名になった。この攻防戦は1836年3月6日,サンタアナ将軍が教会堂を攻め取り,テキサス軍をほとんど壊滅させて終結した。
圧倒的な損失を被りはしたものの,サム・ヒューストン将軍は 兵士と補給品を集めてさらに東に進む機会を捉え,6週間後にはテキサス南東部で行軍していたサンタアナ率いメキシコ軍を阻止し,やがてはテキサス独立をもたらした。
アラモの砦なくしては,テキサスの独立のために戦い,命を捧げたデビー・クロケットやジム・ボウイのような人々の逸話がアメリカの歴史に浸透することはなかったであろう,といわれている。
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以上のようなことであった。
なお,サンアントニオには,このミッションにちなんで,サンアントニオ・ミッションズという名のマイナーリーグ2Aの野球の球団もある。
2014春アメリカ旅行記-ミッションズ③
友人がポリスに停止を命じられた理由というのは,実は,ブレーキランプの片方がついていなかなかったということであった。友人は,片方のランプが切れているということは知っていたから,これは確信犯には違いがなかった。
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私が若いころにはじめて買った車は初代の日産マーチだったが,この車は,欠陥車であった。
まず,ブレーキランプがすぐに切れた。それだけならともかく,ずいぶんと暖気をしないと,エンジンがいつも停止してしまうのだった。あげくの果てには,奈良にドライブに行ったときに,交差点で右折をしようとしたとき,オートマチックの接続ベルトが切れて,車が停止したまま動かなくなってしまった。
ずいぶんとひどい車だった。生まれてはじめ買った車がそうだったから印象が悪く,私は,それ以来,日産車を買う気がなくなった。
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そんなこともあって,ブレーキランプなどというのもはすぐに切れるものであると思っていたから,ブレーキランプの両方が灯らないというのならともかくも,片方だけが切れているからといって,その場で反則切符を切るなどというのは,言いがかりにすぎないと思った。
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確かに,これはアメリカでも言いがかりであった。
友人は,私は,これまでちゃんと税金も納めているし,50数年まじめに生きてきて,何にも悪いことなどしていない。しかも,きょうははるばる日本から来た友人を乗せているから,こんなことに関わっている暇はないなどと,ポリスに延々と話していた。
私は,そんなことよりも,ブレーキランプは今切れたところで,修理に行く途中だとでも言えばいいのに,と思った。ポリスはポリスで意地になって,文句があるなら裁判所に出頭しろ,の一点張りであった。
こちらのポリスは単独行動であった。こんなもの,個人の裁量だけであった。
私は,もし,自分が運転していて,アメリカでこんなことになったらたまらないな,と思った。
友人はプエルトリコ人である。こういうことがアメリカのポリスの人種差別なのだろう。私はそれを身をもって体験した。
結構な時間,ああでもないこうでもないを繰り返していたが,友人はさすがにあきらめて,サインをしてしまった。後で,私は友人に,ブレーキランプが片方切れているだけで反則切符など,日本でも聞いたとこがないといったら,そうでしょう!と大きな声を出した。
ポリスが去ってから,友人は,不機嫌そうに無言で再び iPhone でなにやら検索をはじめて,車を発進させた。私にはこれからどうするかというような何の話もなく,友人はサンアントニオの郊外に向かって黙々と車を進めていった。私も話しかける勇気がなくなった。どうやら,目指す先が変わってしまったらしい。
友人は何がしたかったかというと,車の部品を売っている店を探していたのであった。そして,やっとのことで店が見つかって,車をパーキングに停めて,ブレーキランプを探しにその店に入っていった。そして,しばらくして戻ってくると,その店には,この車に合うブレーキランプが見つからなかったと言った。その店の店員が,ブレーキランプが一方切れたからといって反則切符を切られたなど,聞いたとこがないと言ったということであった。
そんなこともあって,確かにテキサス州は治安はよいのかもしれないが,死刑の執行数も異常に多いし,何かしら州全体がピリピリした感じで,私は,どうも好きにはなれないところであった。
アメリカでは,どの交差点にも信号機の上に監視カメラが付いていて,たとえポリスがいなくても信号無視でもすれば捕まってしまうのであるらしいが,そんなことを知ると,私は,交差点で監視カメラ(=1番目の写真の右上端)を見るだけで,なにかしら,テキサス州の敵意に満ちたような雰囲気を感じてしまうのだった。